2021年度メッセージ

 

2022年3月27日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第22篇2節~12節、新約 マタイによる福音書 第27章45節~49節
説教題:「わたしの神よ、わたしの神よ」
讃美歌:546、12、138、495、544     
 2021年度、最後の主の日を迎えました。暖かくなり、かわいらしい花も一斉に咲いてきましたが、今朝も、わたしたちの心を覆っているのは、ウクライナでの嘆きであり、悲しみの叫びです。いったい いつまで続くのか。いったい どれだけの人の命が奪われるのか。考えれば考えるほど、神さまの み心がわからないことへの不安がつのります。こんな非道がいつまで許されるのか、と神さまの み心を疑い始め、見失い、絶望を促す悪魔の声に誘われそうになります。
主イエスは、十字架の上で、大声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。主イエスも、悪魔の誘惑に負けておしまいになったのでしょうか?しかし、わたしたちは、主イエスが祈りのひとであられることを知っています。主イエスはいつも、おひとり山に登り、祈られました。捕らえられる直前には、ゲツセマネで祈られました。「父よ、できることなら、この杯を わたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」自分の思いではなく、神さまの み心がなりますようにと、まことの人として この世を生きられた主イエスが、神さまの み心を最後まで生き切るために、祈りによって闘われたことを、わたしたちは知っているのです。そして、主イエスは、沈黙を貫かれました。群衆が「十字架につけろ」と叫び続けているときも、総督の兵士たちから「ユダヤ人の王、万歳」と侮辱されていたときも、十字架に架けられ、「神の子なら、自分を救ってみろ」と侮辱されたときも、沈黙を貫かれた。そして「昼の十二時に、全地は暗くなり」、それが三時まで続き、三時ごろ、突然、大声で叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜ わたしをお見捨てになったのですか」。その間、主イエスが肉体の苦しみに耐え、闘っておられたことは確かです。そして、その苦闘の末に、この言葉を発せられたのです。「わが神、わが神、なぜわたしを お見捨てになったのですか」。これは祈りの言葉です。おそらく、主イエスは3時間に及ぶ苦闘の中で、「わが神、わが神」と父なる神さまを呼び、祈り続けておられたに違いありません。主イエスは、総督、群衆、兵士たち、祭司長、律法学者、長老の前では、沈黙を貫かれながら、心の中では、ずっと、ただひたすら、「わたしの神よ、わたしの神よ」と呼び続け、祈り続けておられた。そして最後に、苦しみが果てようとするときに、心の中の祈りが言葉となって、叫びとなって、出てきた。そのように想像することは、間違いではないと思うのです。
今朝は、旧約聖書 詩編 第22篇を朗読して頂きました。2節にはこう書いてあります。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜ わたしを お見捨てになるのか。なぜ わたしを遠く離れ、救おうとせず 呻(うめ)きも 言葉も聞いてくださらないのか。」また、8節以下にはこう書いてあります。「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇(くちびる)を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。』」この詩編 第22篇は、ダビデの詩です。もしかすると、主イエスは、十字架の上で嘲笑を浴び続けられながら、沈黙に沈黙を重ねながら、詩編 第22篇を心の中で歌い続けておられたのかもしれません。特に、12節の「わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。」と、父なる神さまに繰り返し、ただひたすら、神さまの み心が成ることを、祈り続けておられたと思うのです。
主イエスは、罪のない お方です。一つのシミもない。それは言いかえれば、神さまと等しいということです。それなのに、十字架の上で わたしたちの身代わりとして、わたしたちの罪の重さを痛切に感じ、わたしたち一人一人が受けるはずの、父なる神さまから見捨てられる悲しみ、痛み、苦しみを全身で受け、大声で叫んでおられる。罪のない神ご自身が、ひとの罪を被って、苦しんで、苦しみと闘って、叫んでおられるのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
主イエスが、「エリ、エリ」と叫ばれたのを聞いた人々は、「預言者エリヤ」を呼んでいる、と勘違いしました。そして、十字架に走り寄り、海綿を取って、痛みを和らげるための酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、主イエスに飲ませようとした者もおりましたが、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」とそれを止める者もいました。ここにも、わたしたちの罪の姿が見え隠れします。わたしたちは、自分の罪を、痛みを散らして誤魔化すことができるようなものであると思っている。けれども、わたしたちの罪は、その程度で和らぐような軽いものではないのです。また、神さまの義しさを思わず、自分の正しさで神さまの義しさを判定しようとする。本当に正しいならエリヤが助けに来るだろうと馬鹿にしている。「そこに居合わせた人々」の姿は、わたしたちの罪のどうしようもなさをあぶり出しています。わたしたちの罪は、その罪を丸ごと被った主イエスに、大声で叫ばせたほど、どこまでも重い罪なのです。
今、この瞬間もウクライナへの攻撃が続いています。主が、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたのは、2000年も前ですが、わたしたちは今も、主イエスを叫ばせ続けているのではないでしょうか。主イエスの「わが神、わが神」との叫びを、祈りを、聞いたわたしたちは、どうすればよいのでしょうか。そこに、わたしたちの命がかかっています。わたしたち自身が、神さまに対して、主イエスの み声に合わせて、同じ祈りをしないのであれば、主イエスの み苦しみは、わたしたちとは関係ないものになってしまうのです。ぶどう酒を含ませた海綿を主イエスに差し出した者のように、苦しみながら祈りによって闘われた主イエスの十字架をただ見上げているだけでは、しようがないのです。戦争という過ちを犯してしまう心は、わたしたちの中にもあります。そこにあるのは、「わたしは正しい。相手が間違っている」という裁く心です。
 父なる神さまは、わたしたち人間のどうしようもない罪のために、全く罪のない み子を十字架につけられました。神さまは、それほど深く、ひとの罪の惨めさを、腸(はらわた)が ちぎれるような思いでご自分の苦しみとして下さいました。自らを神とし、正義とし、ひとを殺すことさえ、正当化してしまう。そのような罪を今日も繰り返す愚かな存在である わたしたちの罪を赦すためには、罪のない み子を十字架で見捨てるしか道は残されていない。わたしたちを見捨てず、わたしたちを呪うことなく、罪から救い出すためには、ただただ主イエスを見捨てることしかなかったのです。それが、神さまの救いの ご計画であったのです。
父なる神さまにとって、み子を十字架で見捨てることは、どれだけ厳しいことであったか。そして、み子が、神さまの救いの計画を成就するために、どれほど厳しい闘いをして下さったか。どれほど激しい祈りをもって闘って下さったか。ただ、わたしたちの罪を赦すために。わたしたちの救い主は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、わたしたちに代わって、わたしたちのために、祈って下さったのです。わたしたちが み子と共に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈ることができるようになるために。わたしたちが、自分の罪を、重荷を、神さまの み前に下ろして、全部さらけ出して叫ぶことができるようになるために。そのとき、み子が神さまから見捨てられたのではなかったように、わたしたちも「捨ててはいない」との 神さまの み声を聞くことができる。どんなに絶望的なところにあっても、「あなたを捨ててはいない」との み声が、わたしたちを立ち上がらせて下さるのです。詩編 第22篇の最後は、「わたしの魂は必ず命を得/子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう」と希望の言葉で結ばれてます。望みを持って、「わたしの神よ、わたしの神よ」と主イエスと一緒に祈りつつ、み心を行うための闘いを続けることができるのです。
<祈祷>
わたしたちの神さま、「我らに罪を犯す者を 我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」との祈りを、まことに わたしたちの祈りとすることができますように。争い続ける わたしたちを憐れみ、見捨てないで下さい。主よ、わたしたちの罪を お赦し下さい。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。ウクライナでの戦争が始まり、1ヶ月が過ぎております。わたしたちの罪を み子の十字架のゆえに お赦し下さい。主よ、ウクライナの地、すべての地に、平和をもたらして下さい。今年度の歩みが終わります。この一年も、礼拝を守り、祈りをささげることが許されました。深く感謝いたします。新年度も、十字架と甦り、再臨の主イエスにおいて、望みをもって、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する日々でありますよう導いて下さい。今、望みを失っている者、不安を抱えている者、痛みに苦しむ者があれば、どんなときもあなたが共におられることを思い起こすことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年3月20日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第43章1節~7節、新約 マタイによる福音書 第27章32節~44節
説教題:「十字架を負わされた者」
讃美歌:546、71、139、Ⅱ-185、543     

 かつて主イエスは、弟子たちに言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイによる福音書16:24)」自分の十字架。神さまから、「あなたが背負うもの」として与えて頂いた十字架。自分の十字架を放り出さずに、主イエスの背中をみつめて、主について行く道では、自分を捨てることを求められます。それは、自分の命を軽んじることではありません。自分中心の思いを捨て、神さま中心に生きることです。どんなに厳しい試練が襲うときも、たとえ理不尽なことがあっても、神さまに全てを委ね、一日一日を、神さまが共におられることに感謝して生きる。どこまでも神さまの み心を大切に、神さまが、望んでおられる生き方を忠実に生きる。神さまが望んでおられる生き方について、伝道者パウロは、このように手紙に書いています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケの信徒への手紙一5:16~18)」
神さまから与えられた十字架。軽やかに背負える日があるかと思えば、とてつもなく重く感じる日もある。前に進めない日、十字架を放り出してしまう日もある。それでも、わたしたちは、主イエスがご自分を捨て、十字架に架かって下さったことを知っており、信じているのです。だから、わたしたちは立ち上がることができる。何度でも。
 今朝の み言葉に登場するキレネ人シモンは、主イエスの十字架を無理に担がされた男です。おそらく、北アフリカへ移住したユダヤの家系の出身でありましょう。ユダヤ人にとって、大切な過越祭に合わせて、巡礼でエルサレムに来ていたのかもしれません。北アフリカの人ですから、ガリラヤを中心に活動しておられた主イエスのことは、知らなかったのではないかと思います。たまたま巡礼に来ていて、たまたま刑場に引いて行かれるところに遭遇した。そして、主イエスを連行する兵士たちの目に留まってしまった。体格が良かったのかもしれません。そして、「お前、この十字架を担げ!」と命じられたのです。シモンは、何が何だかわからないうちに、主イエスの十字架を無理矢理 担がされたのです。
このシモンについて、マタイはこれ以上のことを書いていませんが、マルコによる福音書には、「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人(15:21)」と書かれています。これは、マルコが福音書を書いた当時、シモンの子どもであるアレクサンドロとルフォスが、読み手である人々によく知られていた、と考えて間違いないと思われます。つまり、キリスト者だったと想像できる。そして、彼らがキリスト者であったとするならば、彼らの歩みは、父シモンが十字架を無理に背負わされたことと決して無関係ではないでしょう。シモン自身が、この出来事をきっかけにして、後にキリスト者となり、その息子たちも洗礼を受けたと考える方が、マルコとマタイがわざわざこのエピソードを挿入した理由として、自然ではないかと思います。
 マタイは、「キリスト者の歩みは、十字架を否応なしに背負わされるところから始まるのだ」と、わたしたちに伝えているのではないでしょうか?シモンは、十字架を背負わされたときは訳がわからなかったに違いありません。知らないうちに主イエスの手助けをして、主の十字架の重みを味わうことになり、知らないうちにゴルゴタへの道を歩まれる主イエスと一緒に歩くことになり、知らないうちに主イエスという お方を知り、主の恵みを知ることになったのです。主の恵みを知るということは、シモンがそうだったように、まず、神さまから否応なしに十字架を背負わされることから始まる。わたしたちは、このことをいつも、よくよく心に刻んでおきたいと思います。シモンは神さまから呼ばれたのです。「こっちを向き、わたしの方を見なさい。」シモンは、自分が背負って歩いてきた十字架に、主イエスが架けられる様子を、十字架のもとで、嫌でも見ることになったと思われます。兵士たちは、主イエスを十字架に磔にしました。そして、くじを引いて主の服を分け合い、そこに座って見張りをしたのです。
磔にされた主イエス。頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きが掲げられました。主イエスの両隣りには、強盗たちが磔にされています。そこを通りかかった人々は、頭を振りながら主イエスをののしり、言いました。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、侮辱して言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」左右で、十字架に磔にされた強盗たちも、同じようにののしりました。
「他人は救ったのに、自分は救えない。」人々は、主イエスが他人を救ったことは認めていた。その上で、ののしるのです。「お前は、他人の病を癒し、慰めた。それなのになぜ、自分を救うことができないのか。自分を救えないなら、何にもならないではないか。」正論に思えてしまうのが、わたしたちの罪ではないでしょうか。どこまでも自分中心が当然と思っている。ところが、わたしたちを真実に救える主イエスは、自分を救うことより、他人を救うことに命をささげて下さる。どんなに侮辱されても、どんなにののしられても、全ての人の罪を赦すためには、十字架の死を成し遂げるしかない。他人を救うために、ご自分を お捨てになったのです。
 主イエスだけが、わたしたちを救い、わたしたちの罪を赦すことがおできになります。自分を救うことには無力であり続け、そのことのゆえの嘲りを、ののしりを一身にお受けになられた。主は、それほどまでにわたしたちを救い、赦すことしか考えておられない。ただただ、他人のためだけに、主は、十字架に架けられて下さったのです。
 わたしたちは皆、主イエスの愛と赦しによって生かされています。十字架で処刑される主イエスを、これでもかとののしり、信じる気もないのに、「信じてやろう」と言う。そのような主イエスを試す罪は、わたしたちの誰もが、抱えている罪です。「ああしてくれたら、こうしてくれたら、信じてやってもいい。」そのような思いは、苦難の中で神さまの存在を疑う心と表裏一体であるからです。その罪を赦すために、主イエスは十字架の死を受け入れて下さいました。ゴルゴタまで十字架を担いで歩かされ、一部始終を十字架のもとで見ることになったシモンの その後の人生を、福音書は語っていません。それは、「神さまから十字架を背負うべく呼び出されたシモンが、その後どうしたのかを考えなさい」という わたしたちへの呼びかけでは ないでしょうか。わたしたちも、主イエスから呼び出された者です。「あなたはどうするのか?」と、わたしたちは問われているのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」そのようにおっしゃった主イエスは、こうもおっしゃいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイによる福音書(11:28)」わたしたちは主の日ごとに、ここから立ち上がらせて頂き、出発させて頂くのです。それぞれの十字架を背負う歩みに。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して隣人と共に、主イエスに従う歩みに。たとえ倒れても、くじけても。何度でも。
この後、讃美歌 第2編185番を賛美いたします。1節のみの賛美ですので、歌詞だけは全ての節をご一緒に味わいましょう。「カルバリ山の 十字架につき、イェスは とうとき 血しおを流し、すくいの みちを ひらきたまえり、主イェスの十字架 わがためなり。かくも たえなる 愛を知りては、身もたましいも ことごとささげ、ただ みめぐみに すがるほかなし、主イェスの十字架 わがためなり。イェスよ、血しおを われにそそぎて、いまよりわれを きよき宮とし、とこしえまでも 住まわせたまえ、主イェスの十字架 わがためなり。十字架、十字架、主イェスの十字架、わがためなり。」アーメン。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたち一人一人に十字架を お与え下さり感謝いたします。時に重たく感じる日があります。それでも、あなたは愛を注ぎ、力をお与え下さいますから感謝いたします。主よ、これからも日々「主イエスの十字架 わがためなり」と、賛美し続ける者として下さい。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。ウクライナからの報道に胸が痛みます。それでも、「主の平和が実現しますように」と祈り続けますから、わたしたちの祈りを受け入れ、一日も早く争いを終結させることができますよう導いて下さい。主よ、東北地方を大きな地震が繰り返し襲っています。被災された方々が望みを失うことのないよう、聖霊を注ぎ続けて下さい。年度末を迎えております。東村山教会の今年度の歩みを守り、導いて下さり感謝いたします。様々な理由で礼拝に出席することができず、今もそれぞれの場所で祈りをささげている者が多くおります。主よ、どこにあっても、あなたの子どもであることを忘れることなく、それぞれの十字架を背負って歩むことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年3月13日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章1節~12節、新約 マタイによる福音書 第27章27節~31節
説教題:「わたしたちの王」
讃美歌:546、62、136、269、542、427     

 今朝、わたしたちに与えられた み言葉は、できれば読み飛ばしてしまいたい、辛く、苦しい言葉かもしれません。けれども、今朝の み言葉は、マタイによる福音書のみならず、マルコによる福音書、またヨハネによる福音書にも記されています。読み飛ばすどころか、それぞれの福音書記者が、大切な出来事として記しているのです。神さまは、ここにいやというほど描き出されている人間の汚れを清くするために、ただ お一人の清い方であられる み子を お遣わし下さったからです。
四つの福音書の中で最初に書かれたのはマルコによる福音書です。マルコによる福音書 第15章17節以下には、こう書かれています。「イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。」次に、ヨハネによる福音書 第19章2節以下にはこう書かれています。「紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、平手で打った。」そして今朝のマタイによる福音書には、こう書かれています。「着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した。」
 どの福音書も、人々が口々に「ユダヤ人の王、万歳」と言って、主イエスを侮辱したことを、わたしたちに伝えます。「ユダヤ人の王」と聞いて、まず思い起こすのは、クリスマス物語です。三人の占星術の学者たちが、東の方からエルサレムにやって来て、ヘロデ王に尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方で その方の星を見たので、拝みに来たのです。」マタイは、福音書の始めに、東方の学者たちが ぜひ拝みたい!と慕った「ユダヤ人の王」としての、主イエスの誕生を記しました。そして終盤に、まことのユダヤ人の王であるが故に、無力であること、沈黙することを貫かれた主イエスが、人々からこれでもかと言うほど侮辱され、殺されていく お姿を記したのです。
兵士たちは、これ以上ないほどの皮肉を込めて「ユダヤ人の王」と馬鹿にしました。そのありさまは、神に選ばれた民ユダヤ人ではない遠い国の学者たちが、ユダヤ人の王が生まれたことを、しかしそれは、我々にとっても王でもあるはず、と信じて、礼拝するためにはるばる訪ねて来たのとは対照的です。神に選ばれた民、ユダヤの人々は、自分たちをローマの圧政から力づくで解放し、ユダヤ人の国をつくり、君臨する強い王を求めたのです。何も言わず、無力に殺されていく王など、我々の王ではない、と侮辱した。28節に「赤い外套を着せ」とあります。「赤い外套」は、おそらく兵士たちがいつも用いていた、安物の外套のことでしょう。当時、王位にある者は、赤紫の深い色のガウンを着ました。それが王位のしるしの色。それになぞらえ、同じような赤い色の兵士の安物の外套を着せた。王冠に代えて茨のトゲだらけの冠を頭に載せ、右手には王の権威の象徴である王笏に見たてた葦の棒を持たせて、兵士たちは、ひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」とあざわらった。そして、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭を叩き続けた。これ以上の侮辱が考えられるでしょうか。あざわらう者の心の中に、神はいません。「神などいない。神など必要ない」と拒否しているからです。けれども主イエスは、あざけられながら、「これほどまでに神に逆らう者など、わたしの民ではない、滅びてしまえ」とは決して、おっしゃらなかった。あざける者のためにも王であり続けるために、沈黙を貫かれたのです。当時の習慣では、死刑に処せられる者をからかうことが当然であったようです。そうであったにしても、ここまで人は残酷になれるのか、と胸が痛くなります。その上で、もしもわたしが兵士の一人であったなら、同じようにからかったかもしれない。兵士の残酷さを一方的に非難できるだろうか、と思う。そのように逆らい続ける神の民を赦すため、わたしたち皆の王となるために、主イエスは沈黙され、あざけりを受けて下さったのです。それなのに、わたしたちは今、どこへ行こうとしているのか。わたしたちのつくる世界は、神をあがめるのではなく、あざける世界に向かっていないか。
連日、ニュースで報じられるウクライナからの映像は悲惨を極めている。また「3・11」から11年を迎えても、なお傷は癒えない。疫病の蔓延も収まらない。何も特別なことを望んでいるのではない。愛する家族と食事を楽しみ、平和に生活する。それだけなのに、爆撃に怯え、家族と離され、生活に困窮しなければならない。ふるさとに住めない人がいる。家族を守ることができなかった苦しみは消えない。そのような日々の中で、ささやきが聞こえてくるかもしれません。この世を支配している王だと言うならば、なぜ このような悲劇が、なぜ このような争いが、今、この瞬間も繰り返されているのか?と。何もしてくれない無力な王がお前の王なのか?と。わたしたちは今、まことの王の民として生きるのか、兵士たちのように神の愛を拒否して生きるのか、その分かれ道に立っていると言えるかもしれません。「あなたにとって、まことの王は誰なのか?」今朝、わたしたちはそう問われているのです。
 先週、説教塾の読書会では、加藤常昭先生の発案で、ウクライナの平和を祈る祈祷会が持たれました。先生が旧約聖書 哀歌 第3章を朗読して下さいました。「わたしの目は滝のように涙を流す。わたしの目は休むことなく涙を流し続ける。主が天から見下ろし/目を留めてくださるときまで。(48節~50節)」主イエスは、哀歌の み言葉を成就するために、世に降って下さいました。沈黙している王。無力であるように見える王が、神さまから遣わされた まことの王であられたのです。まことの王 主イエスは、神さまの み心を行うために、黙って、あざけりを受けられたのです。
しかし、それだけで終わりはしませんでした。まことの王キリストは、無力であるどころか、死者の中から神さまによって復活させられ、勝利の王となって下さった方であることを、わたしたちは すでに知っています。復活の勝利を遂げられた王が、わたしたちの王なのです。
イザヤは預言しました。第53章11節以下。「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」主イエスは、「多くの人が正しい者とされるために」わたしたちの罪を自ら背負って下さり、背き続ける人間を神さまのもとに連れ戻して下さいました。わたしたちは皆、まことの王の民として、罪赦された者として、まことの王を仰ぎつつ歩む者として頂いたのです。死に勝利され、甦られた まことの王 主イエスは、わたしたちの先頭に立って、進んでいて下さいますから、深い悲しみの中にある方々に、主イエスの勝利を伝えたい。主イエスの十字架によって、わたしたちの罪は赦され、神の民にして頂きましたから、主に従って、共に喜んで歩んでいきたい。主イエスがそうされたように、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、赦し合い、ただ父なる神さまの助けを祈り求めて、平和のために何ができるか、一所懸命考え、行動したい。そのように願います。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、十字架と復活によって、罪と死に勝利された み子に信頼し、主の平和を祈り続ける者として、わたしたちを用いて下さい。どうか、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く者として下さい。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。ウクライナでの争いが激しさを増しております。涙を流すこともできず、深い悲しみの中にある者を憐れんで下さい。すべての者が武器を捨て、共に愛し、赦し合う日がおとずれるよう祈ります。卒業の季節を迎えました。わたしたちが不安の中にあるよう、子どもたち、若い者たちも不安の中で今を生きております。主よ、これからの時代を担う者たちが望みを持って、歩むことができますよう、力をお与え下さい。被災地で今も深い悲しみの中にある方々、愛する家族を失い、嘆きの中にある者、病を患い望みを失いかけている者、生活に困窮している者を励まし、慰めを注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年3月6日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章6節~8節、新約 マタイによる福音書 第27章11節~26節
説教題:「『正義』の罪」
讃美歌:546、26、257、Ⅱ-1、262、541     

 教会の暦では、3月2日からレント(受難節)に入りました。そして、わたしたちのマタイによる福音書を読む歩みも、主のご受難の場面を迎えています。み言葉を読み、主イエスの み苦しみを思うとき、目をそらしたくなるような わたしたちの罪の姿が突き付けられます。しかし、わたしたちには 主の十字架がある!十字架によって、救いの恵みを喜んで生きることが許されている!この恵みを味わいつつ、また、恵みに生かされている者の責任を問いつつ、このときを大切に過ごしてまいりたいと思います。
 主イエスは、総督ピラトの前に立たれました。総督は、主イエスに尋ねました。「お前がユダヤ人の王なのか」。主イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われました。あなたの言う通りだ、とおっしゃりながら、しかし、あなたが思っているような王ではない。ということです。では、「どのような王なのか」ということは、一切おっしゃいませんでした。主イエスは、「祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、『あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか』と言った。」のです。沈黙を貫かれる主イエス。総督は、なぜ、この男は黙っているのか、なぜ反論しないのか、と「非常に不思議に思った」のです。主イエスは、ご自分がどのような王であるか、ということを、ただ沈黙をもって示されました。神さまの権威によって、総督も、祭司長や長老たちも、騒ぎ立てる群衆をも裁くことがおできになる方が、ただ、黙っておられたのです。沈黙することが、神さまの み心であったからです。み子の沈黙がなければ、神さまの愛が、救いの恵みが、わたしたちに与えられることはなかったからです。
ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放していました。「そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人が」いました。祭司長や長老たちから訴えられても何も弁明しようとせず、ただ黙って死刑の判決を待っているように見えるイエスという男に、罪を見出せなかった総督ピラトは、集まって来た群衆に尋ねました。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」総督は、「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」とあります。明らかに、ピラトは、主イエスは無罪だと知っていたのです。ちょうどそのとき、ピラトの妻から伝言が届きました。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」ピラトの妻は、「あの人は正しい人。その人を裁き、死刑にするなら、毎晩、わたしは夢でうなされることになる。わたしだけでなく、あなたも夢でうなされることになるに違いない」と訴えた。けれども、群衆は、「バラバを」と叫びました。ピラトは続けます。「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」。祭司長たちや長老たちに説得された人々は「皆」、「十字架につけろ」と叫びました。「皆」です。たとえ、何人かが心に疑問を抱いていたとしても、言葉をのみこんでしまった。うねりにのみこまれてしまった。「皆」という言葉に、人間の罪を強く感じます。総督は最後にもう一度、群衆に尋ねました。「いったいどんな悪事を働いたというのか」。「わたしは、弁護したのだ」という言い訳にも聞こえます。けれども、群衆はますます激しく叫び続けたのです。「十字架につけろ」。そこでピラトは、「それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。」のです。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
「総督」と訳された言葉には、「支配者」という意味があります。「支配者」。支配する権力を持ち、思うままに法をつくることができる者です。正しいか正しくないかを決める権限がある。正しくないと判断した人間を死刑にする権限さえある。これは見方を変えれば、「正義」を行う責任を要求されている者、ということです。けれどもピラトは言ったのです。「わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」正義を行う責任を持ち、その権限をも持っている総督が、群衆たちの前では無力。総督の権限が、群衆に奪われている。総督は、正義を行う立場にありながら、その責任を群衆に転嫁しようとしたのです。「お前たち」と名指しされた群衆は、こぞって答えました。「その血の責任は、我々と子孫にある。」別な言い方をするなら、「我々の選択は、正しい。もしも間違っているなら、煮るなり、焼くなり、好きにしたらよい。どんな罰でも受けようじゃないか!」ということです。神さまの前で開き直っている。その声に押されて、結局、ピラトは、「バラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために」兵士たちに引き渡しました。
「無罪」と分かっていながら、また正しい判決を下す権限と責任を持っていながら、保身のために、主イエスを罪に定め、十字架につけるために引き渡した総督。ねたみから、主イエスを殺そうと策を練り、群衆を扇動した祭司長や長老たち。そして、「その血の責任は、我々と子孫にある。」と開き直り、沈黙しておられる主イエスを「正義」の名の元に裁いて叫ぶ群衆。群衆は一人一人ではない。かたまりです。顔も名前も隠れてしまう。隠れてしまうのをよいことに、無責任に、責任を語る。これほど、人間の罪の根深さを突き付けるものがあるでしょうか。彼らは、紛れもなくわたしたちです。わたしたちの誰もが総督です。祭司長や長老たちです。かたまりとなって叫ぶ群衆であり、その大きなうねりに逆らえない者たちです。
ウクライナで戦争が始まりました。権力者が声高に「正義」を唱え、己の考えの正しさを主張しています。そうして「正義」の名によって、自国の兵士たちに破壊と殺戮を命じています。それが、まことの正義でないことは確かです。まことの正義は、声高に主張し、殺したりしません。ウクライナだけではありません。世界各地で紛争があります。その原因の一つには、携帯電話等に使う「レアメタル」の奪い合いがあると知り、やり切れない気持ちになりました。わたしたちの、便利を追及する欲のために、苦しむ人々がいる現実に愕然とします。何が正義かを知っていながら、正義を行わない。自分のために神の正義に従わず、自分で決めた正義に従い、無責任に開き直る。そのすべてにおいて、わたしたちは今も、主イエスを殺し続けている。おそろしいことです。途方もない罪の大きさになすすべがありません。
しかし、ご自分を十字架につけるそのような者のために、主イエスは神さまから呪われ、十字架で死なれた、と聖書は言うのです。今朝、マタイによる福音書と共に読みました旧約聖書イザヤ書 第53章は、「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。」との み言葉から始まります。そんなことがあるものか。信じられない。しかし、本当なのです。主イエスは、わたしたちを生かし、わたしたちに平和をもたらすために、沈黙を貫き、十字架で死なれたのです。イザヤの預言は続きます。「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」
何ということでしょう。わたしたちは、信じ難い恵みに生かされているのです。この後、み子が十字架で裂かれた肉と、流された血潮に与ります。み子に十字架の死を強いるほどに、わたしたち皆を愛し、赦して下さる神さまの平和は、今、わたしたちに委ねられています。本気で、真剣に、主の平和の実現のために、与えられている責任を、主の正義を問い続けたい。家庭でも。学校でも。職場でも。いつでも、どこにいても、誰といても、主の平和を築くために、わたしたちは皆、赦されたのですから。とても難しいことです。難しくて、責任を投げ出したくなる。どうせ無理、と開き直りたくなる。今日もダメだった、と挫折を重ねるかもしれない。それでも一日一日、聖霊の働きを信じ、この難しい責任に勇気を出し、誠実に当たっていきたい。そのような者を、神さまは存分に用いて下さり、必ず、助けて下さるのですから。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、本気で、真剣に、主の平和の実現のために祈り続ける者として下さい。あなたの正義に生きる勇気を お与え下さい。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、ウクライナの地で、悲しみの中にある者、嘆きの中にある者、不安を抱えている者を憐れんで下さい。ロシアでも、戦地に愛する者を派遣され、命を奪われた者がおります。主よ、あなたの平和が一日も早く実現しますように。今週の金曜日、3・11を迎えます。あれから11年、今も嘆きの中にある者を慰めて下さい。原発事故により、故郷を奪われ、困難な生活を強いられている者を強め、励まして下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年2月27日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第3章8節~10節、新約 マタイによる福音書 第27章1節~10節
説教題:「あなたは どこにいるのか」
讃美歌:546、86、251、265、540     

夜が明け、とうとう主イエスが十字架に架けられる金曜日になりました。その日、主が十字架で息を引き取られる前に、もう一つの死がありました。主イエスの弟子ユダが、自ら命を絶ったのです。
ユダの裏切りによって逮捕され、最高法院で死刑判決を受けた主イエスは、祭司長たちと民の長老たちによって、総督ピラトのもとに引いて行かれ、引き渡されました。主イエスはご自分の死を覚悟しておられたに違いありません。同時に、ペトロが三度も、主イエスとの関わりを否定することをご存知であったように、ユダが、自らの罪の責任を自らの命で償おうとしたことも、主は、悲しみつつ、ご存知であられたと思うのです。つい思ってしまいます。なぜ、主イエスは、ユダの死を回避されなかったのか?と。主は、ユダの死を嘆きつつ、自らの死が神さまの み心であるように、ユダの死も、神さまの み心として、受け入れておられたのかもしれません。神さまは、ユダの死を通して、わたしたちに、犯した罪の責任を、自分の命で償うことはできないのだ、と教えておられるように感じます。
 主イエスの有罪判決を知ったユダは、罪を深く悔いました。まさか、殺されるとまでは思っていなかったのかもしれません。ユダの心を支配していた悪魔が、用は済んだとユダの心から出て行ったのかもしれません。深く後悔したユダは、主イエスを売り渡した代価である「銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。」のです。
けれども、ユダが「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と罪の告白をした相手は、祭司長たちや長老たちでした。彼らは、ユダの真剣な罪の告白を受け入れません。「『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。」それはお前の罪で、我々とは関係ない、自分で解決しろ、と言ったのです。彼らにとって、ユダと共に悔い改める、最後のチャンスであったのに。もともと、銀貨三十枚は、彼らがユダに与えたものです。そして、絶望したユダが捨てた銀貨三十枚を拾った彼らは言うのです。「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」。彼らは、それが血の代金であることを、けがれた金であることを知っている。自分たちの罪を知っている。にもかかわらず、彼らは引き返すことなく、神の み子を、十字架につけるのです。
 祭司長たちや長老たちから「お前の問題だ」と言われたユダ。もう取り返しがつかない。死んでお詫びをするほかない。絶望したユダは、銀貨三十枚を神殿に投げ込み、自ら命を絶ったのです。
今朝の み言葉を読むたびに、必ず思い出す出来事があります。母教会で共に育った友人の死です。彼は膨大な量の本を読む男でしたが、社会人になった頃、心の病に苦しむようになりました。青年会で、一緒に活動していたのですが、その日わたしは、彼から相談を受けるのではないかという気配を感じていました。しかし、翌日からの仕事のことで頭が一杯だったわたしは、彼に気付かれないように、そっと帰宅してしまったのです。その週に連絡が入り、彼が自ら命を絶ったことを知りました。わたしは彼に対して、心の病は、「お前の問題だ」と言葉を発したわけではありません。でも、心の中で、「お前に付き合っている暇はない。お前のことはお前で何とかしろ」と友人を突き放したことにおいて、祭司長たちや長老たちと自分が重なるのです。そんなわたしが罪赦され、あろうことか牧師として用いられている。罪を深く後悔したユダよりも、遥かに罪が重いであろう祭司長たちや長老たちと同じような者にさえ、開かれている天の国の門が、ユダの前でだけ閉じられてしまった、ということなのでしょうか?
 主イエスの十字架の力は、決して、そんな弱々しいものではありません!主は、ユダの死を誰よりも深く嘆かれた。ユダのため、ペトロのため、弟子たちのため、祭司長たちや長老たちのため、わたしたちのために、十字架の死を受け入れて下さったのです。ペトロの裏切りを誰にも責めることができないように、誰にもユダを責めることはできません。わたしたちも、ユダに成り得る。「まさかこんなことになるなんて」と後悔すること、罪を犯してしまうことが、わたしたちにもあります。自分を責め、底なしの沼にはまって抜け出せなくなってしまうことがあるのです。けれども、十字架の主イエスは、み手を伸ばしていて下さる。「望みを失ってはいけない。死んではいけない。わたしがあなたの罪を全部背負って死ぬのだから」と。
今朝は、旧約聖書 創世記 第3章8節から10節を朗読して頂きました。最初のひとアダムは、神さまが、決して食べてはいけない、と言われた、園の中央に生えている木の果実を、食べてしまいました。神はアダムを呼ばれました。「どこにいるのか。」アダムは答えました。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
 わたしたちは旧約の時代に生きているのではありません。わたしたちは皆、主イエスの十字架によって生かされている。使徒パウロが、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。(ローマの信徒への手紙8:35)」と記したように、「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマの信徒への手紙8:39)」
わたしたちは皆、たとえ どのような罪を犯したとしても、神さまから「どこにいるのか。」と呼ばれて、身を隠す必要はないのです。罪を犯し、「どこにいるのか。」と呼ばれたら、主イエスの十字架の元に駆け出して行って、自分を投げ出せばよい。「赦して下さい」と、信仰を告白すればよい。主イエスの十字架は、ペトロは良い、ユダはダメ、などというケチなものではない。十字架で死に、陰府(よみ)にまで下り、天に昇られた主イエスは、今、神の右に座り、全ての者を執り成して下さる お方なのです。
もう自分で自分を裁くのはやめましょう。罪を犯しても、神さまは「どこにいるのか。」と呼んでいて下さるのです。そして、主イエスは言われるのです。「喜んで、わたしの十字架の元に来なさい。あなたがたを罪の呪縛から解放するために、わたしは十字架で死んだのだから。」

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、み子の十字架による罪の赦しを信じているにもかかわらず、犯した罪に縛られているわたしたちがおります。主よ、あなたによる罪の赦しを信じ続ける者として下さい。主よ、互いに裁き合う者ではなく、愛し合い、赦し合い、祈り合う者として導いて下さい。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、ウクライナで戦争が始まってしまいました。すでに子どもも含め 多数の犠牲者が発生しております。誰よりもあなたが深く悲しみ、涙を流しておられると信じます。主よ、一日も早く主の平和をもたらして下さい。先週の水曜日、西東京教区 社会部主催の集会がオンラインでもたれました。4人の発題者によって、教育現場、被差別の現場、沖縄の現場、入国管理センターの現場からの声に耳を傾け、祈りを合わせました。それぞれの現場で苦しみ、差別を受けている方々を憐れんで下さい。わたしたちも様々な問題に関心を持ち、主の平和を祈り続けることができますよう導いて下さい。主よ、疫病に感染し不安の中にある者、困難の中にある者、体調を崩している者、孤独を感じている者を憐れんで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年2月20日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第44章21節~22節、新約 マタイによる福音書 第26章69節~75節
説教題:「それでも、わたしはあなたと共にいる。」
讃美歌:546、14、248、290、539    

「しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」真の神にして、真の人であられる主イエスの、力強い恵みの み言葉は、大祭司カイアファを逆上させました。神の座に座り、神を裁いてしまったカイアファ。また、人々は、神に対して、唾を吐きかけ、こぶしで殴り、平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と ののしってしまいました。先週、この箇所を語りながら、思わず、声が詰まりました。何だか、無性に悲しくなり、情けなくなり、涙が込み上げてきてしまったのです。わたしたち人間は どこまで愚かで、罪深いのでしょうか。イエスさまはいったい、どんなお気持ちだったことでしょうか。でも、主イエスは、最後の最後まで沈黙を貫かれました。神を神とせず、あろうことか裁きの座に引き出し、罪に定める、どこまでも愚かな わたしたちのために。
一方、その頃、主イエスの弟子のペトロは、この裁判の間中、こっそりと、大祭司の屋敷の中庭に入り込み、様子をうかがっていました。主イエスの愛弟子ペトロは、心の底から主イエスを愛していました。その始まりは、それほど遠い昔のことではありません。漁師のペトロは、いつものようにガリラヤ湖で網を打っていた。そのとき、ほとりを歩いておられた主イエスから、突然、声をかけられた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。ペトロは、すぐに網を捨て、主に従いました。その日からペトロは、主イエスの み言葉と、聖霊の働きに導かれ、どんなときも主イエスと共に行動し、共に祈り続ける弟子となりました。
 主イエスが、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と語られたときも、ペトロは、「御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。本気で、そう信じていたと思います。主を愛する気持ちに、偽りはなかったと思うのです。けれども、ユダの接吻を合図に主イエスが捕らえられてしまった。そのとき、急に怖くなったのです。ペトロと弟子たちは皆、主イエスを見捨てて その場から逃げてしまいました。ペトロの姿は、悲しくてやり切れないくらいに、わたしたちの姿と重なります。周囲の人たちから気づかれないように、遠くからついて行った姿も。大祭司カイアファの屋敷の中庭に、大勢の人に紛れ込んで、どうしたらよいのかも分からないまま、ただ、おろおろ、びくびくと、様子をうかがう姿も。何にも増して、自分の命を惜しむ姿も。
 さて、カイアファの屋敷の中庭に座っていたペトロに、一人の女中が近寄って来て言いました。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」。大勢の人々が一斉にペトロを見つめます。ペトロは咄嗟に、女中の言葉を打ち消しました。「何のことを言っているのか、わたしには分からない」。ペトロは中庭に座っていられなくなりました。フラフラと立ち上がり、平静を装い、大祭司の屋敷の門の方に行ったのです。すると今度は、別の女中がペトロに目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と証言したのです。ペトロは怖くてたまりません。ますます慌てて打ち消し、誓いました。「そんな人は知らない」。そう言いながら やっとの思いで その場にとどまっていたペトロを、わたしたちの内の誰が非難できるでしょうか。けれども とうとう、女中の証言を聞いて様子をうかがっていた人々が、ペトロに近寄って来て言いました。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」最後の「言葉遣いでそれが分かる。」は、ペトロにとって決定的なものでした。「お前、ナザレのイエスと同じなまりではないか。やっぱりお前は、いつもイエスのそばにいた男だな。」ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めました。するとすぐ、鶏が鳴いたのです。ペトロはそのとき、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主イエスの み言葉を思い出し、外に出て、激しく泣きました。後悔の涙。罪の赦しを乞う涙。しかし、ペトロが激しく泣いた一番の理由は、この主イエスの み言葉だったのです。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」この み言葉に、ペトロは主の愛を聞き取ったのです。「あなたは、今夜のうちに、夜が明けきらぬ前に、わたしを三度知らないと言う。それがあなたの弱さだ。でも、それでよい。だからわたしは行く。十字架に架けられるために。」
ペトロは、この日のことを、生涯忘れることはなかったでしょう。朝を迎え、鶏の声を聞くたびに、この日の涙を思い出したに違いない。そして、復活された主イエスに出会ったのちは、「裏切り者の わたしが、今朝も罪を赦され、こうして生かされている。それだけではない。今朝も甦りの主が、わたしを愛し、赦し、導いて下さる。甦りの主は、今日もわたしと共に生き、働いていて下さる。そして、わたしに語るべき言葉を授けて下さる。わたしは裏切り者だから、罪深い者だから、自分を最優先にしてしまう者だから、主の愛、主の赦しを語ることができるのだ」と、朝ごとに思いを新たにしたに違いありません。
ペトロはそののち、主の十字架と甦りを通し、神さまの愛と赦しを心から感謝し、語り続ける者となりました。もちろん、あの日の三度の否定を忘れたのではありません。日々、あの日の罪を思い起こす。しかし、それでもなお愛し、赦し、支え続けて下さる神さまに感謝し、主イエスの十字架と甦りに、その後の生涯を委ね、一人でも多くの人に福音を宣べ伝える者として、歩み続けたのです。
神さまは、み子を三度も「そんな人は知らない」と否定したペトロを諦めませんでした。諦めるどころか、益々ペトロを深く愛し、存分に用いて下さいました。わたしたちも皆、ペトロです。それぞれに。いかに弱く、口だけの者であるか。しかし、だからこそ今朝も教会へ招かれており、ここから、「一週間 勇気を出して父なる神の み心に生きよ」と背中を押して頂くのです。
今朝、わたしたちは旧約聖書イザヤ書を味わいました。イザヤは、神さまの み言葉を取り次ぎました。「思い起こせ、ヤコブよ/イスラエルよ、あなたはわたしの僕。わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。わたしは あなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」
み言葉に、ぜひ皆さんの名前を入れてみて下さい。「思い起こせ、○○よ、あなたはわたしの僕。わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。○○よ、わたしを忘れてはならない。わたしは あなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」以前住んでいた釧路は霧の街でしたが、霧が吹き払われるときの輝きは美しいものです。朝は霧に覆われ、どんよりした天気。それがパーッと霧が晴れていくに従って、キラキラとした日差しが街を包むのです。「ああ、霧が晴れると、こんなにも美しい空だったのか」と毎回、驚いたものです。罪深いわたしたち。しかし主は、十字架の死によってわたしたちの罪を贖って下さいました。死を恐れ、ビクビクするわたしたち。けれども主は、甦りと再臨の約束により、わたしたちに永遠の命、甦りの朝を約束して下さったのです。日々、主に立ち帰りたい。そして、み心のままに、神さまの栄光のために用いて頂けることを喜びたい。どんなときも、わたしたちと共におられる神さまに感謝して。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、呪いの言葉さえ口にしたペトロを赦して下さったように、わたしたちをも赦して下さり、感謝致します。主よ、罪を赦された者として、互いに裁き合うのではなく、赦し合う者として下さい。主の み名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、ウクライナ情勢が緊迫しております。避難し、不安におびえている者がおります。どうか、各国の為政者に戦争を避ける知恵と勇気を お与え下さい。今朝も体調を崩しているため、コロナ禍のため、仕事のため、あなたから心が離れているため、礼拝を欠席している者がおります。主よ、これからも日々、「あなたはわたしの僕。わたしに立ち帰れ」と語り続けて下さい。孤独を抱えている者、生きる気力を失っている者を深く憐れんで下さい。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年2月13日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第12章1節~6節、新約 マタイによる福音書 第26章57節~68節
説教題:「キリストの沈黙」
讃美歌:546、85、140、258、545B、Ⅱ-167    
今朝も わたしたちは、この礼拝堂に帰って来ることが許されました。神さまの み前に集められた。裁かれるために引き出されているのではありません。罪赦され、この場に立てることを共に喜び、感謝の礼拝を献げることができる。先週一週間の歩みを切り取っただけでも、他人(ひと)の痛みに鈍感であり、祈りよりも不平を口にすることの多かった者であるにもかかわらず。そして、生きるための み言葉が与えられているのです。
今朝の み言葉は、大祭司カイアファによって主イエスが裁かれる場面です。裁判が行われたのは過越の祭りの最中。真夜中のことです。闇の中で、大祭司カイアファ、祭司長たちと「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤ人議会である最高法院の議員たち、律法学者たちや長老たちが束になって、罪のない神の み子を死刑にするべく裁判にかけている。偽証人が何人も登場し、嘘の証言を並べ立てる。けれども、かくたる証拠は得られませんでした。そのとき、「最後に二人の者が来て」告げました。「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」。最後のこの証言は、嘘ではありませんでした。確かに、主イエスは、神殿の崩壊を預言されました。第24章の冒頭で、主は言われたのです。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他(た)の石の上に残ることはない。」と。また、マタイによる福音書ではありませんが、ヨハネによる福音書 第2章19節以下で主イエスは、ユダヤ人たちに対し、言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」ユダヤ人たちは、反論しました。「『この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。」
福音書記者ヨハネは、主イエスの お言葉を丁寧に解説してくれています。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」
 福音書記者ヨハネが記したように、大祭司の前で証言した二人は、どこかで、主イエスの証言を耳にしたのでしょう。大祭司は、立ち上がり、主イエスに尋ねました。「何も答えないのか、この者たちが お前に不利な証言をしているが、どうなのか。」主イエスは、沈黙しておられます。大祭司は、重ねて尋ねました。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
 そのとき、それまで黙り続けておられた主イエスが、ついに沈黙を破り、証言されました。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」
「それは、あなたが言ったことです。」とは、少し不思議にも思える訳ですが、かつて用いていた口語訳では、「あなたの言うとおりである。」と訳しています。「しかし」と主イエスはおっしゃいました。この「しかし」という言葉は、ただの逆説の言葉ではありません。もっと強い、激しい言葉です。「それどころか」「それをさらに超えて」という意味なのです。大祭司にとって、また、当時のユダヤの人々にとって、「神の子メシア」とは単なる「聖なる民族であるユダヤの民の解放者」でしかありませんでした。けれども主イエスは、「確かに、あなたの言ったとおり、わたしは神の子メシアである。しかし、あなたが考えているようなメシアではない。それをはるかに超える者なのだ。」と言われるのです。そして、主イエスはご自分のことを詩の形で示されました。「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」
はじめの2行は詩編 第110篇、3行目はダニエル書の引用です。主イエスはおっしゃるのです。「確かにわたしは神の子であり、救い主メシアである。しかし、あなたが考えているような『民族の解放者』という意味のメシアではない。わたしは主なる神の右に座って治める者。終わりの日の審判者であり、人の生き死には、わたしに全信頼をおけるか否かにかかっているのだ。」これは大祭司カイアファにとっては、赦せない証言でした。あろうことか、「神に等しい者」として自身を語るとは!と激しく怒り、そして、自らの服を引き裂き、叫んだのです。「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか。」人々も、口を揃えて「死刑にすべきだ」と答えました。そして、主イエスの み顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と嘲笑いました。
 主イエスは、再び沈黙されました。唾を吐きかけられても、こぶしで殴られても、平手打ちされても、「メシアなら」と馬鹿にされても。神さまに一言お願いさえすれば、十二軍団以上の天使を今すぐ送って頂ける方 主イエスが、沈黙を貫かれたのです。沈黙こそが、神さまの み心を行う道であったからです。神の み子 主イエスは、神と同質な お方です。神さまの思いが痛いほどわかっておられます。だからこそ、神の宿られる神殿、即ちご自身が、十字架に架けられて死に、そして三日目に、神殿が立て直されるがごとく、父なる神さまによって復活させられること、さらには、天に昇り、全能の神の右に座り、救いが完成する日には、天の雲に乗っていらっしゃることを宣言して下さり、あとは沈黙を貫かれたのです。神さまも、沈黙を貫かれました。愛する独り子が愚弄されている様子を、沈黙して見届けられた。神さまが、「もうこれ以上、耐えられない」と十二軍団以上の天使を送られたら、十字架の死も、復活も、昇天も、救いの完成の時である再臨の朝、甦りの朝も永遠に訪れなかったのです。そして、わたしたちは救われることなく裁きの日をただ恐れ、滅んでいくしかありませんでした。
神さまからの賜物、神さまからの救い主を裁き、死刑とした大祭司カイアファ。沈黙を貫かれる主イエスを殴り、馬鹿にした人々。その姿に、わたしたちは何を見るでしょうか?それは、わたしたちと無縁な姿でしょうか?「思い通りに動いてくれない神など、神ではない。必要ない。」と、自分の勝手な神さま像から はみ出る神さまを裁く。また、祈っても祈っても何も返ってこない。神さまの沈黙に対して、神は、いないものとしてふるまう。その姿は紛れもなく、わたしたちの姿ではないでしょうか。けれども、そのようなわたしたちの弱さ、罪がどうしようもないからこそ、主イエスは、十字架への道を黙って進まれたのです。「わたしの十字架の死によって、あなたがたの罪は赦された。だから、安心してついてきなさい。わたしに全てを委ねなさい。」そのようにおっしゃって下さる主イエスに信頼し、悔い改め、「主よ、あなたによる罪の赦しを信じます。」と信仰を告白し続ければよいのです。
わたしたちの救いのために、過越の いけにえとなって、神さまにその み体を献げて下さった主イエス。その主イエスが、甦りの朝を約束して下さいました。「しかし、わたしは言っておく。あなたたちは やがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」この約束に信頼し、共に赦されていることを喜び、礼拝から礼拝へ、そして日々、主イエスの み足の跡をたどりつつ、主イエスの再臨を待ち望んで歩み続ける者でありたい。そのことだけを、祈り求めてまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、み子は沈黙を貫き、十字架への道を進まれ、わたしたちの罪を赦して下さいましたから、深く感謝いたします。主よ、どんなに不安な夜も、甦りの朝を信じ、み子の み足の跡をたどりつつ、再臨の希望を持って歩む者として下さい。主の み名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、ウクライナのみならず、世界の至る所で争いがあります。これ以上、人的被害が拡大しないよう、主の平和を祈ります。主よ、心身に痛みを抱えている者、生活に困窮している者、あなたの愛と赦しを信じることが難しくなっている者を憐れみ、再臨の希望、甦りの朝を待ち続ける者として導いて下さい。先週、東京神学大学において2月入試が執り行われました。み心ならば一人でも多くの者を合格へと導いて下さい。わたしたちの教会にも神学生を遣わして下さり感謝いたします。学部4年生となる新年度への備えの日々を聖霊によって導いて下さい。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年2月6日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第51章12節~16節、新約 マタイによる福音書 第26章47節~56節
説教題:「剣を さやに納めなさい」
讃美歌:546、54、281、Ⅱ-1、358、545A    

主イエスが、ゲツセマネでの祈りを終えられたとき、十二弟子の一人であるユダがやって来ました。ユダを先頭に、祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持ってぞろぞろと従っていました。ユダは、彼らと逮捕の合図を決めていました。「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」。ユダはまっすぐに主に近寄って行き、「先生、こんばんは」と言って口づけしました。
 「こんばんは」と訳されたギリシア語は、ごきげんよう、おはよう、こんにちは、いずれにも訳すことのできる挨拶の言葉ですが、本来の意味は、「喜べ」です。ユダにとっては、いつも通りの挨拶だったことでしょう。しかし今、親愛の口づけと「喜べ」という祝福の挨拶が、主イエスを死の闇へと招き入れる挨拶となってしまっている。そして主イエスは、その闇の中へ、自ら進んで行くかのごとく、ユダに言われました。「友よ、しようとしていることをするがよい」。主イエスは、ユダのしていることを本人以上にお分かりになった上で、限りない愛をもって「友よ」とユダを呼び、言葉をかけられたのです。「しようとしていることをするがよい」。
できることなら、主イエスとユダのやりとりを、皆で代わる代わる演じてみたい思いがいたします。皆さんなら、主イエスを、ユダを、どう演じるでしょうか?ユダの心の中は?主イエスの思いは?演じる人によって色々の解釈が生まれるかもしれません。それを象徴するかのように、実は、この「しようとしていることをするがよい」と訳されている言葉は、無理矢理訳している言葉で、元のギリシア語は、なぜか不完全な形のままなのです。口語訳では「なんのためにきたのか」となっていました。どちらの訳も、足りない言葉を補って訳している。しかし、いずれにしても明らかなことは、主イエスは、ユダが今 何をしているのかを、当のユダ以上に、ご存知であったということです。十字架の死がなければ、人の世の罪は赦されないことも、十字架の死が神さまの み心であるということも、わかっておられました。だから、主イエスはユダにおっしゃったのです。『しようとしていることをするがよい』。それは、とりもなおさず父なる神さまに、「しようとしておられることをなさって下さい。」と、ご自身を委ねる言葉でもあったのではないかと思います。
ユダの合図を受けて、人々は進み寄り、主イエスに手をかけて捕らえました。そのとき、主イエスと一緒にいた者の一人が、剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落としました。勝算があったわけではないでしょう。おそらく彼は、恐怖のあまり、闇雲に剣を振り回した。主は言われました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」
「十二軍団以上の天使」です。主イエスにとって、天使の大軍団を呼び寄せ、群衆を制圧することなど簡単。けれども、主イエスは天使たちを お呼びにはならなかったのです。ご自分の進まれる道を全うするために、神さまの み心が成し遂げられるために、剣を捨てられた。そして言われるのです。「剣をさやに納めなさい。あなたがたが生きるために、わたしは剣を捨てる。だから、大丈夫。怖がる必要はないのだ。」
そして主イエスは、群衆に向かって言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。」
 群衆もまた、剣や棒を持たずにはいられなかった。なぜか?やはり怖かったのです。主イエスは、彼らにもおっしゃるのです。「怖がる必要はない。わたしは、あなたがたが生きるために、剣を捨てるのだから。」
わたしたちはさすがに、剣や棒そのものは持っていません。しかし、相手を刺す剣や叩く棒のような言葉を発してしまうときがあります。そして、感情のままに発した言葉が相手の片耳を切り落とし、命をも奪うことさえあります。そのときの わたしたちの心の中を覗くと、そこには、自分の存在を脅かす者に対する恐怖が潜んでいることに気づきます。国と国、民族と民族、個人と個人の対立。それらはみな、自分と考え方が違う者の勢いが増すことへの怖れから始まるのです。自分の立場が危うくなることを怖れる。けれども、主イエスはまさにそこで、剣を捨てられたのです。天の軍団の加勢を願われなかった。黙々と、十字架への道を進まれた。すべてが、神さまの み心、愛の みわざであると信じて。
 主イエスは繰り返して言われました。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」主イエスはおっしゃるのです。「裏切りの挨拶も、接吻も、剣や棒による逮捕も、あなたがたが しようとしていることを、しなさい。わたしは、それを受け入れる。あなたがたのすることは、わたしがさせること。いや、父なる神がさせることなのだ。」主イエスは、ユダの裏切りも、群衆の襲来も、神さまの愛の中に引きずり込んでおしまいになるのです。ユダの裏切りの挨拶を、「しようとしていることをするがよい」と受け入れられた主イエスは、父なる神さまの み心をすべて受け入れ、十字架へと進まれました。剣で抗うことなく、おひとりで、十字架の死を受け入れて下さった。逮捕される前、あれほど勇ましく豪語していた弟子たちは皆、主を見捨てて逃げてしまいました。死の闇の中に、一緒について行こうとする者はひとりもいなかったのです。
けれども主イエスは、十字架の死の三日目の朝、お甦りになられました。甦られた主が、墓を見に行った婦人たちに最初に かけられた言葉が「おはよう」でした。ユダが、主イエスを裏切るために近寄り言った、「こんばんは」と、同じ言葉です。「喜べ!」です。ユダが、死の闇の言葉にしてしまった喜びの挨拶に、真の意味を取り戻して下さった。わたしたちが互いに祝福の挨拶を交わすとき、真に喜びを交わすことができるようにして下さったのです。「喜びなさい!主はお甦りになられました!」と。
今朝も主イエスは、大きな み手を広げ、わたしたちを招いておられます。主イエスは、わたしたちに心を込めて語りかけておられます。「剣をさやに納めなさい。何も怖れることはない。わたしが、あなたに代わって神の罰を受けたのだから。父なる神は、皆が滅びることを求めておられない。だから、あなたがたの代表として、このわたしを滅ぼされた。片方の耳どころではない。わたしの命を切り落とされた。そして、三日目の朝、わたしは甦った。だから、喜びなさい!相手を威嚇し、死に追いつめる剣は二度と持つな。滅びを免れた者として、愛を語り続けて欲しい。剣を持っていた手を組み、平和を祈り続けて欲しい。たとえ愛する者に裏切られても、怖れることはない。わたしが、あなたと共にいるのだから。」
わたしたちはもう剣を持つ必要はありません。喜んで剣をさやに納める。剣を手放せる。剣を捨てた手には、聖餐のパンと杯が置かれます。主イエスの赦しを共に味わう そのとき、剣を持っていた手は、平和を祈るために組む手とされるのです。
 コロナ禍のため、愛餐会が行えない日々が続いています。愛餐会の最後には、毎回、アッシジの聖フランシスコによる『平和の祈り』に高田三郎氏が曲をつけた讃美歌を賛美していました。今日はその「平和の祈り」を、最後に味わいたいと思います。「神よ あなたの平和のために/わたしのすべてを用いてください/憎しみのあるところに愛を/争いのあるところに 赦しを/わかれているところはひとつに/疑いのあるところに信仰を/あやまりのあるところに真理を/絶望のあるところに希望を/悲しみのあるところに喜びを/闇には光をもたらすために/神よ、わたしに望ませてください/慰められるよりも 慰めることを/理解されるよりも 理解することを/愛されるよりも 愛することを/自分を与えて 与えられ/すすんで赦して 赦され/人のために死んでこそ/とわに生きるのだから/アーメン。」

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの平和のために、わたしたちのすべてを用いて下さい。剣を捨て、平和を祈り続ける者として下さい。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。み子は言われました。「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」しかし、今も剣を取る者がおります。国と国、民族と民族、人と人が剣を抜き、争っています。結果、傷つき、倒れている者がおります。主よ、傷つき、倒れた者を慰め、癒して下さい。わたしたちも、言葉で人を傷つけ、傷つけられます。どうかこれ以上、傷が深くならないように。聖霊の働きにより傷が修復され、いつの日か和解することができますように。体調を崩している者、入院している者、手術を控えている者、痛みを抱えている者を癒して下さい。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年1月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第30章11節~14節、新約 マタイによる福音書 第26章36節~46節
説教題:「わたしと共に目を覚ましていなさい」
讃美歌:546、72、246、259、544    

わたしたちは、人から祈って頂くと、力が湧いてきます。同様に、人のために祈るときも力が湧いてくることがあります。説教塾の 学びの中で、塾生の質問に加藤常昭先生が答えて下さる時間があるのですが、先週、こういう質問がありました。年齢を重ねられた方 への牧会についての質問です。「『早くお迎えが来て欲しい』とおっしゃる方がおられ、咄嗟に『神さまが お決めになるのですから』と  答えました。しかし、そのように答えて良かったのでしょうか?」
加藤先生は、相手の方の背景や状況に応じた牧会的配慮が必要になるけれども、と前置きをしながら、ご自分の経験を話して下さいました。長く病に苦しまれた ご高齢の婦人の、「わたしは何もできなくなってしまった。もう生きていても、つらいばかりだ」という訴えに、先生は、こう答えられたそうです。「苦しみの中にある教会員のために、祈って欲しい。」ただ祈って欲しいではなく、数名の教会員の  名前と苦しみを伝え、○○さんのために、祈って欲しいと。すると、死にたいと繰り返していた婦人の表情が変わったのだそうです。 学びの後、先生がメーリングリストに改めて投稿して下さいました。「わたしは、牧師の祈りの片棒を担いでほしいと言ったのです。あなたには祈る力が与えられていると言ったのです。祈られるだけではなく、他者のために祈りができる。そこで具体的に、祈りの仕事を 頼んだのです。それが思いもかけない力を発揮し、その方の顔つきが 変わるほどでした。」
今朝、わたしたちに与えられた み言葉は、主イエスの数々の祈りの中でも、たいへん心揺さぶられる祈りの場面です。死を翌日に控え、主は、弟子たちと一緒にオリーブの木が生い茂るゲツセマネと呼ばれる場所に移動されました。祈るために。主イエスは、多くの場合、祈るときには お一人で祈られました。しかしこの日は、弟子たちを同伴されたのです。
聖書には「イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』」と短く書かれているだけですが、そこには、「祈るわたしを見ていて欲しい。祈りの言葉を心に刻み、わたしの祈りを、あなたがたの祈りとして欲しい。」という主イエスの み心を読みとることは許されるのではないかと思います。
主イエスは、ペトロおよびゼベダイの子二人、ヤコブとヨハネとを伴って行かれましたが、そのとき、主イエスは、「悲しみ もだえ始められ」ました。そして言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」主イエスは、今度は はっきりと、「わたしと一緒にいて欲しい。目を覚ましていて欲しい」とおっしゃったのです。そして、「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われ」ました。「父よ、できることなら、この杯を わたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
わたしたちには、「だから、こう祈りなさい」と主イエスが、日々の祈りとして教えて下さった「主の祈り」があります。その中で「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈る。この祈りを、ゲツセマネの園で、主イエスも祈っておられる。
 わたしたちの日々の歩みを支え、導いているのは、主イエスの祈り、「御心のままに。」です。主イエスが、わたしたちが祈る前から、  わたしたちために父なる神さまの み心が行われることを祈って おられる。その祈りを、主イエスと共に祈るから、わたしたちも安心できるのです。
 しかし、わたしたちは弱い。「御心」が示されないと焦る。いっこうに事態が改善されない現実に不安になる。祈りの力を疑い始める。そして、悪魔の誘惑に陥る。落っこちる。「お前、まだ神さまなんか信じているのか?どんなに祈っても無駄だよ。」と悪魔の声が聞こえてくる。だから主イエスは、「主の祈り」の最後に、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」と祈りなさいと求めて下さった
のです。それほどまでに、主イエスは、わたしたちの弱さを知って いて下さる。「わたしと共に目を覚ましていなさい。」という、主イエスの最後の渾身の願いにすら、応えることができず眠ってしまった弟子たちを憐れみ、「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と、もう一度、わたしと共に目を覚ましていて欲しい、いつでもわたしと共にいて欲しい、とおっしゃられたのです。
「心は燃えても」とありますが、「心」と訳されている元の言葉は、通常は、「霊」と訳される言葉です。また、「燃えても」と訳されている言葉は、「前に向いている」、「前進する」という意味の言葉です。「霊が進む」のです。「霊」とは何でしょう?「神の霊」です。神の霊は前進する。神の霊は、神さまが定めた事、「御心」をやり抜こうとして、前へ前へと進まれる。けれども、「肉体は弱い」のです。
「肉体」とは、人間そのものです。人間が、神さまに逆らい、神さまを忘れ、自分の思いだけに走る姿を、「肉体」と呼ぶのです。神さまの霊は前進し、「御心」を果たそうとされる。しかし、わたしたちは弱い。「御心」を忘れ、思いのまま、心のままに、生きようとする。「御心」に逆らってしまう。誘惑に負けてしまう。そして、眠り込むのです。では、「わたしたち人間は弱いから、眠り込んでしまうのは仕方のないことだ」と諦めてしまうより仕方ないのでしょうか? それは違います。主イエスは、そのようなわたしたちのために、地面に その身を投げ出すように うつ伏せになり、夜(よ)を徹して、 祈り続けて下さったのです。弟子たちだけではない、すべての者の ために、主は「御心のままに。」と、み心が行われることを、霊が   前進することを、祈って下さった。「わたしの祈りを知っているのに、何を恐れ、何を迷い、留まるというのか。なぜ、父なる神、子なる神、聖霊なる神に本気で信頼し、本気で祈らないのか。祈りは必ず届いている。祈りは必ず実現する。実現することが神さまの み心なのだ。」
 主イエスは、祈りを重ねられました。「父よ、わたしが飲まない  かぎり この杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われ ますように。」二度目の祈りを終えられた主が、弟子たちのところに再び戻られると、弟子たちは眠っていました。眠っている弟子たちの姿、わたしたちの姿そのものです。祈りを諦める。祈りを無駄だと 思ってしまう。けれども、主はおっしゃるのです。「わたしはあなたがたのために『御心のままに。』と祈る。二度、三度と繰り返し祈る。『父よ、あなたの御心が行われますように。』これほど大切な祈りはない。あなたがたも わたしと共に祈って欲しい。わたしと共に目を覚ましていて欲しい。わたしの祈りに押し出されるように、神の霊に押し出されるように、目を開き、共に祈り続けよう。『御心が行われますように。』」。
 主イエスの、「この杯を わたしから過ぎ去らせてください。」との祈りには、神さまは沈黙をもって応えられました。そして、主イエスは時が来たことを悟って、言われました。「あなたがたは まだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
主イエスは、わたしと共に目を覚ましていて欲しい、とおっしゃいました。わたしたちにそれぞれ一人で目を覚ましていなさい、とおっしゃったのではありません。「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」とおっしゃったのです。いつでも、わたしから離れてはいけない。わたしと一緒に目を覚ましているのだ、と。そして 祈られました。「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と主イエスはおっしゃいました。もちろん、弟子たちにおっしゃったに違いない。けれども同時に、主イエスは、ご自分にもおっしゃったのではないでしょうか?神さまの み心が前進することよりも、自分の願い、もうこんな役目から解放されたいという思いに陥らないように、と。何と、主イエスが、弱々しい姿をさらしておられる。「主イエスは、真の神であられながら、真の人であった。」後の教会はそう告白し、わたしたちも告白し続けます。真の神であり、真の人間であられるが故に、主イエスが、ご自分の弱さに苦しんでおられる。そして、霊が燃え、み心が前進することを、わたしと共に祈って欲しい、とおっしゃっている。わたしの片棒を担いて欲しい、とおっしゃっているのです。 「あなたは、死を待つだけの者などではない。神の み心の前進の ために、わたしと共に祈り続ける者なのだ」と。
父なる神さまは、日々の祈りを求めておられます。たとえ、年齢を重ねても、祈ることができる。わたしたちは、一人ではありません。主イエスが共におられ、わたしたちと共に祈っておられるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、み子の祈りを繰り返し お示し下さり、深く感謝いたします。「あなたの御心が行われますように。」と日々、祈り続ける者として下さい。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。先週も痛ましい事件がありました。「主よ、なぜですか」と問わざるを得ない出来事が続いております。今、深い悲しみの中にある者を慰め、癒して下さい。受験シーズンが到来しております。今まで準備したことを発揮することができますように。信仰告白、受洗の喜びを求め、祈り続けている者がおります。主よ、あなたの御心が行われますように。入院している者、手術を控えている者、生きる力が萎えている者に、聖霊を注ぎ、御子と共に執り成しの祈りをささげられる喜びを お与え下さい。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年1月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第55章3節、新約 マタイによる福音書 第26章26節~35節
説教題:「いのちの約束」
讃美歌:546、62、204、332、543   

 先週も、強い北風が吹き、寒い日が続きました。それでも、牧師館から教会へ向かう途中にある中央公園の河津桜のつぼみは膨らみ、花が咲いている枝を見つけました。そして、「ああ、春は近づいている」と嬉しくなりました。
 今朝、わたしたちに与えられた み言葉は、主イエスが十字架の死を控え、弟子たちと共に最後の食卓を囲んでおられる場面です。また、一番弟子ペトロの離反を予告されました。まさに、冷たい北風が音を立てて吹いているような場面に思われます。けれども、心を静めて、み言葉を丁寧に読むと、闇に支配されてしまったかのような食卓に、甦りの主の光が、まるで春の光のように輝いていることに気がつかされるのです。
主イエスは、おっしゃいました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」世界でいちばんはじめの、聖餐式です。そして、わたしたちが聖餐に与る時、いつも心に刻む み言葉です。日本基督教団 口語 式文には、分餐の時、パンに与る時は、「これは、わたしたちのために裂かれた主イエス・キリストの体です。あなたのために主がいのちを捨てられたことを憶え、感謝をもってこれを受け、信仰をもって心の中にキリストを味わうべきであります。」杯に与る時は、「これは、わたしたちのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを憶え、感謝をもってこれを受け、信仰をもって心のうちにキリストを味わうべきであります。」と書かれており、この恵みの言葉を、わたしたちは聖餐のたびに、パンと杯と共に、味わいます。
ところで、改めて主イエスの語られた み言葉と、式文の文言を照らし合わせてみますと、式文では、割愛されている み言葉があることに気がつきます。それは、29節の「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」です。
主イエスは十字架の前夜、まさに「いのちの望み」が絶たれたような夜に、闇を照らす光として、「いのちの約束」を語って下さいました。「この食卓は、最後の食卓ではない。望みの食卓だ。わたしの父の国で、いっしょに、ぶどうの汁を飲む日が必ず来るのだ」と。式文にはありませんが、わたしたちは、この約束の み言葉を、また、主イエスのおっしゃった「わたしの父の国」は「わたしたちの父の国」でもあるのだということを、聖餐のたびに、心に刻むことが許されているのです。
皆さんも、初めて聖餐に与った日の喜びは、忘れることがないと思います。わたしも、今から36年前に洗礼を授けられ、初めて聖餐に与りました。高校3年の秋。「ああ、これで罪が赦された」と、安心しました。礼拝後の写真を見ると、目に涙の痕があります。主イエスが「取って食べなさい。これはわたしの体である。」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される わたしの血、契約の血である。」とおっしゃって下さり、十字架の死を成し遂げて下さらなければ、今このように望みをもって生かされていることも、み言葉を取り次ぐことなど あり得ませんでした。
主イエスはおっしゃいました。27節、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される わたしの血、契約の血である。」主イエスは、「皆」とおっしゃったのです。「ユダは飲んではいけない。ペトロも飲んではいけない。あなたがた誰一人、聖餐に与る資格などない。」ではありません。「皆、飲みなさい」なのです。皆が優等生だから聖餐に与ることができるのではありません。皆が罪人、裏切り者、ペトロのように強がりを言ってしまう者だからこそ、聖餐に与らなければならないのです。
食事を終えた主イエスと弟子たちは、賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけました。そのとき、主イエスは弟子たちに言われました。「今夜、あなたがたは皆 わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後(のち)、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決して つまずきません」と言いました。しかし、主イエスは言われました。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、重ねて宣言しました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」そして、弟子たちも皆、同じように言いました。けれども、事実、主イエスがおっしゃったとおりになってしまいました。
31節で主イエスは、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」と、ゼカリヤの預言を用いて、十字架の死と、弟子たちの群れが散ってしまうことを語られました。しかし、主イエスは宣言して下さいました。「十字架の死で終わりではない。あなたがたも、散って終わりではない。その先に、甦りの望みがある。さらにその先に、父の国での食卓が待っているのだ。」だからこそ、主イエスは、聖餐の食卓を用意して下さり、パンを食べ、杯から飲むよう促された。いや、促すというより、「わたしの体と、わたしの血によらなければ、あなたがたのための『救いの契約』は成就しない。だから、わたしは十字架で打たれる。この食卓は、あなたがたの罪を赦し、あなたがたに甦りの いのちを約束する食卓なのだ。」と、皆を、望みの食卓へと招いておられるのです。 
主イエスがお語りになられた「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」の み言葉どおり、真の羊飼いなる主イエスが十字架に架けられ、打たれた時、羊の群れである弟子たちは、散らされてしまいました。同じように、教会にも散らされてしまうような困難に直面する時があります。だからこそ、主イエスは十字架の死を前に、聖餐の食卓を備えて下さいました。「わたしにつまずくあなたがたのために、わたしは肉を裂かれ、血を流すのだ。わたしの体と血による新しい契約を結ぼう。十字架で裂かれた わたしの肉と流れる血潮を受けるならば、一人の例外もなく、皆、罪 赦され、清くなり、永遠のいのちが約束されるのだ。わたしは、あなたがたの『罪が赦されるように』死ぬ。さらに、あなたがたが生きるように、死に勝利し、復活するのだ。」
聖餐は、「いのちの約束」です。聖餐に与るとき、わたしたちには望みがある。自分の業による望みではありません。ただただ、主イエスの甦りと再臨による望みです。主は言われました。「しかし、わたしは復活した後(のち)、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」事実、主イエスが先廻りして行かれたガリラヤで、弟子たちは、甦りの主と再会することができました。主は、心に疑いを抱いている弟子たちに近寄り、こう言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」その後ペトロは、甦りの主の み言葉に押し出され、伝道に生涯を献げました。主イエスとの関係を三度否定したペトロが、主の十字架と復活により、変えられたのです。ペトロの罪が赦されたように、わたしたちの罪も赦されました。わたしたちを清くして下さった主が、世の終わりまで、いつもわたしたちと共にいて下さいます。その恵みを喜びつつ、互いに仕え合い、父の国の完成に向かって歩んでまいりましょう。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたがすべての者に光を注ぎ、甦りの いのちを約束して下さったことを信じ、み名をあがめます。主よ、聖餐の喜びを ご存知ない方々が、いつの日か信仰を告白し、洗礼を受け、「いのちの約束」に生きることができますよう、わたしたちを用いて下さい。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。世界でも、日本でも災害が続いております。困難な生活を強いられている者を憐れんで下さい。望みを失うことのないよう導いて下さい。疫病の感染者も急拡大し、大人も子どもも不安を抱えております。主よ、疫病を収束へと導いて下さい。わたしたちの中にも入院している者、手術を控えている者、痛みを抱えている者がおります。不安の中にあっても、あなたが共におられことを忘れることのないよう導いて下さい。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年1月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第11章8節~11節、新約 マタイによる福音書 第26章14節~25節
説教題:「裏切りをも飲み込む愛」
讃美歌:546、10、244、250、542 

主イエスが、ご自分の十字架の死が、二日後に迫っていることを 預言された その日、シモンの家は、香油の香りに満ちていました。
一人の女性が高価な香油を惜しげもなく主イエスに注いだからです。主イエスは、女性が思いを尽くし、力を尽くして主のためにしたことを、ご自分の十字架の死が迫っていることを見据えつつ、「この人は
わたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」と 喜ばれました。しかし、そのとき、十二人の弟子の一人イスカリオテのユダが、シモンの家から飛び出しました。ユダの心を聖書は詳しく説明しません。けれども、ユダにはどう考えても無駄遣いとしか思えない女性の行動を、死の備えをしてくれたと喜んでいる主イエスの姿に、「もうこれ以上、ついていけない」と、ユダの心の堰(せき)が切れたのだと考えて、間違いはないと思います。主イエスによる数々の奇跡を目の当たりにしてきた。けれども、それほどの驚くべき力を持っていながら、ユダヤの民を苦しめているローマの圧政や ローマにへつらう指導者たちに対して、力で立ち向かうどころか、 自分は彼らの手にかかって死ぬのだ、とまで宣言している。「こんな男は救い主じゃない!」
ユダが向かったのは、「計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと」タイミングを探っていた祭司長たちのもとでした。ユダは言いました。「あの男を あなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」。
福音書記者マタイは、14節で、ユダについて、「十二人の一人」と紹介しています。20節にも「十二人と一緒に食事の席に着かれた」とあります。「十二人」とは、主イエスが徹夜の祈りを経てお選びになられた弟子たちです。その中の一人、イスカリオテのユダが、  主イエスを「あの男」と呼び、奴隷を売り渡すかのように、「幾ら  くれますか」と交渉しているのです。
マタイは、なぜ「十二人」と繰り返すのか?イスカリオテのユダが、裏切りの一番手であり、主イエスが捕らえられるきっかけをつくったのは確かですが、ほかの十一人と区別していません。十二人の中に数えている。そこには、大きな理由があると思います。一つは、イスカリオテのユダだけでなく、そこにいた全ての弟子が主イエスを 裏切ったからです。だから、「十二人」であって、ユダとほかの十一人ではないのです。そして、もっと大切な もう一つの理由は、主イエスは そのような「十二人」を、どんなことがあっても、裏切られても、愛し、救いへと招くために十字架への道を歩み続けられたと いうことです。だからこそ、「十二人」なのです。
わたしたちも、主イエスの弟子です。もちろん、わたしたちは十二人と同じように、主イエスを目で見、生活を共にしたわけではありません。けれども、今朝も主イエスの愛、招きを信じ、共に礼拝に集っている。つまり、わたしたちも十二人と同じ者です。イスカリオテのユダであり、主を三度否定したペトロである。威勢のよいことを誓っても、いざと言うときに、主イエスを裏切ってしまう。そのような弱い者であることを心に刻んだ上で、今朝の み言葉を読み進めていくことが求められているのだと思うのです。
ユダは、十二人の代表であり、わたしたちの代表でもあります。 ユダは、自分が抱くキリスト像に主イエスをはめこもうとし、そこに納まってくれない主イエスに、勝手に腹を立てました。わたしたちはどうでしょうか?キリストを信じてみたけれど、自分を取り巻く 状況は一向に改善されない。信じても、何も変わらないじゃないか、その思いは、主イエスのもとから去ってしまったユダの思いです。
祭司長たちはイスカリオテのユダに、銀貨三十枚を支払うことを約束し、そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、チャンスを ねらうようになりました。
「過越祭」については、先週、丁寧に お話ししましたので今日は割愛させて頂きますが、「過越祭」と合わせて祝われるのが、酵母を入れないパンを食べる「除酵祭」でした。どちらも、神さまによる、エジプトの奴隷状態からの解放、救いの恵みを記念する大切な祭 です。弟子たちは、主イエスに尋ねました。「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」。
主イエスは言われました。「都の あの人のところに行ってこう 言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと 一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、主イエスに命じられたとおり、過越の食事を準備しました。
夕方になりました。主イエスは、十二人と一緒に席に着かれました。そして言われました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは動揺し、「主よ、 まさか わたしのことでは」と代わる代わる言い始めました。
わたしたち、心に何らやましいことがなければ、わざわざ確認することはありません。もしもわたしが、過越の食卓に座っていたら、 おそらく動揺し、「イエスさま、わたしのことではないですよね」とお墨付きを頂こうとしたに違いありません。わたしも殺されることは耐えられない。いざとなると、主を裏切り、逃げ出してしまうかもしれないと認めざるを得ない者だからです。十二人も、思わず、  「主よ、まさかわたしのことでは」と確認せずにはおれなかったの です。
すると主イエスは、お答えになられました。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
主イエスが語られた数々のお言葉の中で、「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」ほど、衝撃的なお言葉はないと思います。愛なるキリストが、まさか、「生まれなかった方が、その者のためによかった。」などと言われるとは。人間の「いのち」を否定しておられるなんて、と思ってしまいます。そして、はたと気づきます。自分の中の、ユダの心に。自分がいかに、自分を中心にしか物事を見ることができず、み言葉をさえ 裁こうとする者であるということに。その根源にあるのは、自分の 描くキリスト像に主イエスをも はめ込もうとしたユダの心です。
 そのとき、主イエスと一緒に手で鉢に食べ物を浸していたユダが、慌てて口をはさんで訴えました。「先生、まさかわたしのことでは」。すると、主イエスは言われました。「それはあなたの言ったことだ。」
「それはあなたの言ったことだ」という 主イエスの答えは、少し 不思議に聞こえるかもしれません。けれども、よく注意して読んで みますと、ほかの弟子たちが「主よ、まさかわたしのことでは」と  言っているのに対して、ユダは、「先生」と呼びかけていることに  気づきます。ユダはもう、このとき、「主」、「わたしの主」と呼ぶ   ことをやめてしまっているのです。それは、裏切り者であることを 自ら示している。「それはあなたが言ったことだ」と主イエスは言われました。そして、ご自分を「主」と呼ぶことをやめてしまったユダの行く末を思い、深い悲しみを抱きつつ、呟かれたのです。「生まれなかった方が、その者のためによかった。」 主イエスの お言葉
どおり、ユダは 自分のしたことを悔やみ、一度は手にした銀貨30枚を神殿に投げ込んで、自ら命を絶ちました。
 主イエスは、どこまでも十二人を愛し、憐れみ、赦そうとしておられます。父なる神さまは、ユダの裏切りまでをも用いて、独り子  主イエスに、ユダの罪、十二人の罪、わたしたちの罪を全部背負わせ、十字架につけて、ご自分の怒りを、呪いを、御子おひとりにぶつけ られたのです。父なる神さまの愛は、主イエスの愛は、裏切りをも 飲み込むのです。主の愛によって、わたしたちは今、こうして赦され、生かされ、招かれているのです。わたしたちは皆、「わたしの心に  裏切りという文字はない」と胸を張れる者ではありません。「まさかわたしのことでは」と動揺し、自分の正しさを確かめたくなる者です。自分を中心に考え、主イエスをさえ、自分の勝手なキリスト像に押し込もうとする者なのです。
主イエスは言われます。「あなたは弱い。わたしを裏切る。わたしから逃げる。だからこそ、わたしはあなたのために、十字架で死ぬ。あなたのために、甦る。だから、明日のことを思い煩うな。わたしの十字架のゆえに。たとえ、わたしから離れても、安心して戻ってきなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたと共にいる。」
 それほどの主イエスの愛を知ったわたしたち、何も恐れる必要はありません。裏切りをも飲み込む愛に、ただ身を任せればよい。主イエスから離れず、「わたしの主」と呼び続ければよい。自分の愚かさを嘆き、命を絶つのではなく、赦された者として、日々、主イエスに従って、愛と赦しに生きる。そのとき、主は言われるのです。「あなたは生まれてよかった。どんなときもわたしはあなたを見捨てない。たとえ、あなたが、独りぼっちになっても、誰からも愛されていないと思っても、わたしは、あなたと共にいる。」

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、み言葉を通して、み子の嘆きと愛を感じることができましたから感謝いたします。わたしたちは、自分の思いであなたをも裁く日があります。それでも、いや、それだからこそ、あなたは大切な み子を十字架の死へと向かわせられました。それほどの愛と赦しによって生かされているわたしたちも、互いに裁き合うのではなく、愛と赦しに生きることができますよう導いて下さい。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。み子は、おっしゃいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」主よ、今、疲れている者、重荷を負う者に、祝福と休息を お与え下さい。特に、津波の襲来に不安をおぼえている者、受験にのぞんでいる者、生活に困窮している者、心身に痛みを抱えている者を励まし、溢れるほどの愛を注いで下さい。疫病の感染者が急拡大しております。そのため、今朝も礼拝に出席することを控え、それぞれの場所で礼拝をささげている者がおります。どこにあってもあなたが共におられることを信じつつ、いつの日か すべての者が教会に集まり、主をほめたたえることができますようお導き下さい。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年1月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第103篇1節~5節、新約 マタイによる福音書 第26章1節~13節
説教題:「主の愛に応える すべを求めて」
讃美歌:546、7、266、321、541、427   

少しずつ読み進めてまいりましたマタイによる福音書。本日から、いよいよ御子の十字架の死が記されている第26章に入ります。「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。『あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。』」
「語り終える」と訳された言葉の原語には、「完成する」という意味があります。つまり、主イエスが地上で語るべき言葉は完成した。主イエスに残された地上のわざは、十字架につけられ、息を引き取ること。それだけが残されている。そして、主イエスは、十字架につけられる日は、イスラエルの民にとって最も大切な過越祭であると、弟子たちに予告なさいました。
過越祭は、旧約聖書 出エジプト記 第12章に記されているように、奴隷であったイスラエルの民が、エジプトを脱出する前夜の出来事に由来します。頑なだったエジプト王が、イスラエルの民をエジプトから去らせる決意をするに至ったのは、10の禍の最後の禍である「初子の死」があったためですが、エジプトに住んでいるイスラエルの民に、その禍が及ばないよう、神はモーセを通して命じられました。それは、家族ごとに1匹の小羊を屠り、その血を鉢に受け、一束のヒソプでその血を、鴨居と入り口の2本の柱に塗り、外に出ないこと。そのとおりにすることによって、主がエジプトの民を撃つために巡られるとき、塗られた血を御覧になって、入り口を過ぎ越され、イスラエルの民は救われた。この屠られた小羊が過越の小羊であり、その犠牲の血によって、イスラエルの民はエジプトから解放されたのです。
その出来事を記念する過越祭の最中に、主イエスは十字架に向かって突き進まれました。冒頭にはっきり書かれていたように、イエスを捕らえ、殺そうと企んでいた祭司長たちは、過越祭の間に捕らえるのはやめておこうと相談していました。大勢の人がエルサレムに集まる祭りの最中に、騒ぎを起こして暴動にでも発展すれば、どんな罰を受けるかわからないからです。けれども、人の思いや計画とは関係なく、神さまの み業は行われるのです。神さまは、過越祭で屠られた小羊と、御子主イエスを重ねるように、過越祭の間に、御子を十字架で屠られたのです。小羊の血によって、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたように、主イエスの血によって、イスラエルの民だけでなく全ての民を、罪から解放して下さった。その出来事が、これから始まるのです。
この週の水曜日には、二つの出来事があったとマタイは記します。一つは、ベタニアで主イエスが香油を注がれたこと、もう一つは、この出来事が引き金となり、イスカリオテのユダが主イエスへの裏切りを企てたことです。この二つの出来事により、主イエスの十字架の死への歩みが具体的に動き出しました。
主イエスは、その日、地上での最後の説教を終え、エルサレムから退き、ベタニアに赴かれました。シモンの家は、エルサレムでの活動拠点として用いられていたと考えられています。重い皮膚病を患っているシモンの家には誰も近づきません。しかし、主イエスは、シモンを愛し、「わたしにはあなたが必要なのだ」とその家を伝道の拠点とされたのです。シモンも主イエスを深く愛し、主イエスとの交わりを大いに喜んだに違いありません。お互いの交わりも今日で最後。主イエスは、色々な思いを抱きつつ、シモンと弟子たちとの食事を楽しんでいたことでしょう。
 そのとき、一人の女性が、主イエスに近寄りました。7節。「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」わたしたちは、この女性の行為を知っています。ともすれば、何の驚きもなく読んでしまうかもしれません。しかし、よく考えると、この女性の行為は、なりふり構わぬ異様なものです。もしも、その場に居合わせたなら、おそらく誰もが、弟子たちのように女性をなじるはずです。当時はTwitterなどありませんが、これが現代ならば、大炎上間違いなし。誹謗中傷のコメントで一杯になることでしょう。「この女は、自分のことしか考えていない。」「空気の読めない女。」「この女の行為を喜ぶイエスは、大丈夫か?」いくらでもコメントを想像できます。
弟子たちも、憤慨しました。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」もしかすると、弟子たちの女性への怒りは、この直前の主イエスの説教が心に深く刻まれていたためかもしれません。主イエスは言われました。「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ね」ることは、主イエスへの行為となると。弟子たちは、高価な香油を惜しげもなく主イエスの頭に注ぎかけた女性に怒りをぶつけました。「お前はイエスさまのお言葉を踏みにじるのか。そんなことをして、主が喜ばれると思うのか!」と叱りつけたのです。
もしかすると弟子たちは、女性を叱る以上に、主イエスに対し複雑な思いを抱いたのかもしれません。「主よ、なぜお怒りにならないのですか?飢えている人、渇いている人、病気の人に親切にしなさい、とおっしゃられたはずです。それなのに、この女の無駄遣いには沈黙しておられるのですか?」そのような主イエスへの非難も含まれているように思えます。
この女性について、マタイは名前も背景も記していません。しかし、主イエスに深く感謝していたことは間違いないでしょう。主に救われた。主に感謝をあらわしたい。わたしに出来得る全てをささげたい。そして、考えに考えて、これが一番、と思った最高のものを主にささげたのです。食事の席で香油を頭に注いだりしたら、主イエスがどのように思われるか、弟子たちからどう思われるか、シモンにどう思われるか、そんなことは考えもせず、主イエスにわたしの全てをささげたい。そのようなまっすぐな思いで、高価な香油を全て注いだのです。それは異様な行為ではありましたが、主イエスは、女性のしたことを喜ばれました。そして女性に憤慨した弟子たちにおっしゃいました。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
主イエスが手放しで、ここまで褒められたのは後にも先にもないのではないでしょうか。主イエスは、この後、その席に座っていたであろう、イスカリオテのユダによって、銀貨30枚と引き換えに祭司長に引き渡されます。女性が主イエスに注ぎかけた香油の およそ三分の一に過ぎない額です。奴隷を取引する値段の相場とも言われています。主イエスには、いくらでも逃れる道はあったことでしょう。しかし主イエスは、神さまの み旨に従い、過越祭の十字架の死へと、進まれたのです。
香油を注いだ女性の行為も異様ですが、イエスを殺そうと狙っている人たちでさえ、「今はまだ時ではない」と実行をためらっている十字架の死に向かって、突き進んで行かれた主の行為こそ、異様ではないでしょうか。一日も長く、地上の命を生きたいと願うのがわたしたちです。しかし、主イエスは、誰に何と言われようと、何と思われようと、神さまの御心に従い、自らの愛、赦しを、成し遂げるために、弟子の裏切りをも用いて、死に向かって、ずんずん進んで行かれたのです。この異様な、強烈な主イエスの愛に打たれて、女性はひとからどんなに異様に思われても、気が違ったと思われても、何とかして主イエスの愛に応えたかったのです。
主イエスはおっしゃいました。「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」福音が語られるときには、この女性のしたことを誰もが思い起こし、語らずにはおれなくなるのです。福音とは、喜びの知らせです。そして、主イエスが何を指して「福音」とおっしゃっているかというと、それは、主イエスの死です。ご自分の死が、喜びの知らせとして人々の間で語り伝えられるとき、この女性のしたことも、もれなく必ずついてくる。それは、この女性が「良いことをしてくれた」から、と主イエスはおっしゃるのです。良いこと。それは、主イエスの葬りの準備をしたことでした。この女性に そのつもりがあったのか、それはわかりません。主イエスは何度もご自分の死を予告しておられましたから、あるいは主イエスの言動に、死が迫っていることを感じ取ったのかもしれません。いずれにしても、たとえ人から浪費だとか、愚かな行為だとか言われても、「主のため」と自分の心に決めて行うことを、主は「わたしに良いことをしてくれたのだ。」と喜んで下さるのです。考えてみれば、主イエスの死を「喜びの知らせ」とすることも、洗礼を受けることも、毎週の礼拝も、献金も、福音を知らない人からすれば愚かな行為であり、とんでもない浪費かもしれません。けれども、主イエスが十字架で死んで下さらなければ、わたしたちは今も犯した罪に苦しみ、自分を赦せないままの罪の奴隷であったのです。主イエスが十字架で死んで下さらなければ、絶望の内に死を待つ身であったのです。わたしたちはもはや罪の奴隷ではない。主イエスの血によって解放され、自由の身となったのです。わたしたちも、香油を注いだ女性と共に、主イエスの愛に、福音に、なりふり構わぬ思いをもって応え、この喜びを まだ知らない多くの人に、伝え続ける者でありたいと願います。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの愛に なりふり構わぬ愛をもって応えることのできないわたしたちです。そのような者を愛し、御子の十字架の死によって赦して下さった恵みを感謝いたします。主よ、なりふり構わぬ愛をもってあなたの愛に応える者として下さい。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、新型コロナウイルスの蔓延が続いております。皆、不安を抱えながらの日々を過ごしております。特に医療、介護に従事している者、受験生の疲労は相当なものであると思います。どうか、不安の中にある者に寄り添い続けて下さい。入院している者、退院し、自宅で療養している者、痛みを抱えている者に勇気と慰めを お与え下さい。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年1月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第33章10節~16節、新約 マタイによる福音書 第25章31節~46節
説教題:「小さなわざの重さ」
讃美歌:546、28、411、Ⅱ-1、393、540  

新年最初の礼拝で、主イエスによる地上での最後の説教に皆さんと共に耳を傾ける幸いを、主に感謝いたします。わたしたちは新しい年に、「今年は、このように生きたい」と思うものです。我が家でも、子どもたちが小さい頃の大晦日の夕食では、子どもたちが一人一人、新年の目標を語り、その後、「目標に向かって頑張って」とお年玉をもらう、というのが恒例でした。けれども、年を重ねていくに従い、新年だからといって、「今年は、このように生きたい」と改めて目標を立てるということも次第になくなっていくものかもしれません。そのようなわたしたちに、今朝の主イエスの み言葉は、「新年の目標」どころではありません。「生涯の生き方」をわたしたちのために掲げて下さる。わたしたちに「心を高く上げよ」と、天の国を指し示し、与えられている いのちの用い方を、人生の歩み方を、指し示して下さるのです。 
しかし、読み進めていきますと、主イエスの お言葉は、誰もが
うなだれるしかない厳しいメッセージに思えてきます。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔と その手下のために用意してある永遠の火に入れ。」「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。」そしておっしゃるのです。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」
わたしたちは皆、神さまがいのちを与えて下さり、裸で母の胎から生まれ出た者です。神さまの まもりなしに成長した者は一人もいません。しかし、その受けた恵みを、いつの間にか、はじめから自分のものであったと勘違いし、隣り人が困っている姿に鈍感になり、力を出し惜しみ、助けを求めている隣人の前を素通りしてしまう。自分こそが小さな者であることを忘れてしまう。そして裁きの日に言うのです。44節、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」それが、わたしたちの罪の姿です。
けれども、主イエスは、わたしたちを落胆させるために、お生まれになったのでしょうか?わたしたちを永遠の火に投げ入れるために、十字架で死なれたのでしょうか?
主イエスは、こうも言われました。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにして くれたことなのである。」主イエスは、「はっきり言っておく」と言われました。これは、ギリシア語の「アーメン」を翻訳した言葉です。「今から伝えることは、決して大袈裟でも、脅しでもない。本当のこと。アーメンなことなのだ。」と語られるのです。「最も小さい者として、支え合い、赦し合い、祈り合って生きて行くことが、わたしとあなたを繋ぐのだ。大きなわざではない、今、あなたの目の前の人を大切にするのだ。」と。それは、「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見て お宿を貸し、裸でおられるのを見て お着せしたでしょうか。 いつ、 病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」と、言わずにはおれないほど、本来、当たり前のこと。主イエスは、当然のこと、気づかないほど小さなわざに、目を留めて下さるのです。
牧師室の本棚に、マザー・テレサの本があります。女子パウロ会が1976年に出版した「マザー・テレサのことば」という本です。当時の定価で350円。それこそ、本当に小さな書物です。マザーは、インドの貧しい人々と共に働き、「神の愛の宣教者会」を設立、その活動は全世界に及びました。マザーは語ります。「シスターたちは小さな仕事をしています。子どもたちの世話をし、孤独な人や病床にある人、かえりみられない人を訪ねて。だれからも必要とされていないと感じること、これこそが最大の病なのです。このニューヨークで見いだす貧困は、それです。シスターたちが訪ねた家の一軒では、ひとり住まいの婦人が死後何日もたってから発見されました。それも体が腐り、臭い始めたので発見されたのです。周りの住人はその人の名まえも知りませんでした。シスターたちは何も大きな仕事を始めたのではなく、小さなことを静かにしていただけだ、と言う人にはこう申しました。『ただひとりの人を助けたにすぎなくても、それでいいのです。イエスはひとりの人のためにも、ひとりの罪人のためにも、死なれたでしょう。』
ただひとりの人を助ける。その助けが、主イエスを助け、葬ることになる。なぜなら主イエスこそ、孤独死をした婦人のためにも、最も小さな者となって死なれたから。この世の どんなに小さな者よりも小さくなって死なれたから。マザーのことばに、主イエスの、神さまの思いが、響いているように感じます。一方で、わたしたちは たじろぎます。「今までわたしは、一度でも、飢えている人に食べさせてきただろうか?のどが渇いている者に飲ませただろうか?住む家を失っている人に、『どうぞ、我が家にお泊り下さい』と言えるだろうか?裸の人に服を着せることができるだろうか?病気の者の世話もできるだけのことはしたつもりだけれど、心のどこかで、呟きながらではなかったか?牢にいる者の面会に行くこともない。これでは右側、羊の側に分けられることはない。永遠の火に入るしかないではないか。」
しかし、その現実の前にうなだれるとき、わたしたちは、主イエスによって右側、羊の側へと招かれていることを知るのです。主イエスが、全ての者のなかで最も小さい者になられたから。誰にも耐えることのできない、神さまからの呪いを受けられたから。十字架で苦しみつつ、侮辱する者のために執り成しの祈りを献げて下さったから。十字架の上で流された贖いの血潮、裂かれた肉、献げられた祈りによって、わたしたちを右側へと、羊の側へと、正しい者として招いておられる。わたしたちは、驚くべき恵みを与えられているのです。
主イエスは、わたしたちの弱さをご存知であられます。わたしたちがいかに、神さまの恵みを忘れ、自分の本当の姿を忘れ、困っている人を助けるために手を差し出すことより、自分を大きく立派にすることに熱心な者であるか。だからこそ、主イエスは、足を止めることなく、十字架への道を突き進んで行かれたのです。その結果、わたしたちは今、生かされている。今、新しい年を迎えている。主イエスがわたしたちの身代わりとなり十字架で血を流し、肉を裂かれたからです。わたしたちは、主イエスの いのちを代償として、罪を赦され、生かされているのです。だから、赦された者として当たり前の小さなわざ、隣りで困っている人に手を差し出すことにこそ、あなたの力を用いてほしい、あなたの力が必要だ、と主イエスは わたしたちを、わたしたちの あるべき生き方へと招いていて下さるのです。
主イエスが、地上での最後の説教で語られた、「天の国への招き」の徴が聖餐の祝いです。わたしたちは皆、最も小さい者であり、最も惨めな者です。けれども、真の神さまであられる主イエスが、わたしたちよりもさらに小さく、さらに惨めな者となって下さいました。そして、「あなたのためにこそ、十字架で死に、あなたのためにこそ、甦り、あなたのためにこそ、再び世にやって来る!」と約束して下さったのです。誰よりも小さくなって下さった主イエスの愛、赦し、祈りを、心に刻んで、わたしたちに与えられている恵みを互いに分かち合いたい。「あなたと出会えてよかった」と喜び合いたい。主イエスが、どんなに小さなわざをも、ご自分への わざとして喜び、重んじて下さることに感謝したい。心から願います。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、愛する兄弟姉妹と共に新年礼拝を献げられる幸いを感謝いたします。同時に、今朝の み言葉を通して、小さなわざの重さを教えて下さり感謝いたします。主よ、あなたに、また隣人に小さなわざを喜んで献げる者として下さい。み子イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。病の中にある者を慰めて下さい。生活に困窮している者、「わたしは誰からも必要とされていない」と深い嘆きの中にある者に愛と慰めを注いで下さい。全世界の諸教会を、特に、悩み多き闘いを続けている教会を み心に留めて下さい。様々な理由により、教会から離れている者を憐れみ、いつの日か再び、共に主を賛美し、聖餐の祝いに与ることができますよう、聖霊を注いで下さい。キュリエ・エレイゾン主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年12月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第63章7節~10節、新約 マタイによる福音書 第25章14節~30節
説教題:「恵みを頂いて生きよう」
讃美歌:546、24、120、324、539   

クリスマスを感謝の内に迎え、今年最後の主日となりました。この朝 与えられた御言葉は、「タラントン」の譬え話です。この譬え話を お語りになった後、いよいよ、主イエスは捕らえられ、十字架で殺されてしまいます。激しい渇き、呻きのときが迫っています。もう時間がないのです。主イエスは、「何としても、天の国の望みに生きて欲しい!父なる神は、わたしに十字架の死を強いるほど、あなたがたを愛し、天の国へ招いておられる。それほどの愛に応えて、神と隣人に仕えて欲しい!」と「タラントン」の譬え話を語り、わたしたちを、救いの中へと導き入れて下さるのです。
主イエスは語り始められました。「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」
譬え話に登場するのは主人、そして三人の僕。主イエスは、この僕に弟子たち、さらには主イエスを信じて生きるわたしたちキリスト者を、重ねておられることは間違いないでしょう。
譬え話は続きます。「早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、 ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけ ました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。 ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」
五タラントンを預かった者が、五タラントンを、二タラントンを預かった者が、二タラントンを儲けたことを、主人は、「忠実な良い僕だ。」と褒め、喜びました。この「忠実」という言葉は、「信頼するに足る」忠実さを意味します。「僕」と訳されております言葉は、「奴隷」とも訳せます。「奴隷」という言葉に、ネガティブなイメージを抱く方は多いことでしょう。けれども、聖書において「僕」、奴隷は、積極的な意味があります。主人は、神さまだからです。主イエスは、「あなたのいのちは、あなたのものではない。主人である神のもの。あなたのいのち、あなたの暮らし、あなたの死すらも、神の御手の中で守られている。それは窮屈なことでも、強いられることでもない。強い信頼によって結ばれている平安なのだ」と譬え話を通して教えて下さるのです。主人である神が、僕である主人に従う者を信頼し、ご自分の働きを委ねている。僕の働いている間、主人は安心して旅に出かけたのです。主人の不在の間、僕は、主人の代わりを務めるのです。それだけの力があると信頼されているのです。これは、驚くべき信頼です。それほどまでに主人と僕は太い絆、強い信頼で結ばれているのです。
ところで、「タラントン」ですが、普通の労働者の二年分の収入と考えられています。もちろん、働きによって多い、少ないはあります。それでも二年分ですから、一タラントンと言っても、それなりの額であることは間違いありません。僅かではないのです。現代であれば、何百万という金額です。それほどの財産が、三人の僕の「それぞれの力に応じて」委ねられた。
さて、一タラントンの僕は、預かったタラントンをどうしたでしょうか?譬え話は進みます。「一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』」
皆さんは、どうお考えになるでしょう?なぜ一タラントン預かった者は、地の中に隠してしまったのか?本人が理由を語っています。「商売に失敗し、預かった財産を失ったら、主人から厳しい罰を受けるに違いない。だから隠した」と。あるいは、このように想像することも許されるのではないかと思います。一タラントンの僕は、五タラントンの僕、二タラントンの僕と比較して、「なぜ、わたしは一タラントンなのか。なぜ、五タラントン、二タラントンではないのか」と、ひがんだのかもしれません。わたしたちの誰もが、「なぜ、あの人が選ばれ、わたしではないのか」と、ねたみ、いじけた経験を、大なり小なり持っているのではないでしょうか?
釧路時代、クリスマスの聖誕劇でマリア役を選ぶのは大変でした。園長であるわたしは、先生たちが決めた配役を確認するだけですが、先生たちは、本当に大変です。オーディションを行い、総合的に判断するのですが、ある年は、一人の保護者から問い合わせがありました。「なぜ、わたしの娘ではなく、あの子がマリアなのか?理由を教えて欲しい」と。わたしたちは、自分がひとと比べて、どのように評価されているのかが気になるのです。一タラントンの僕も、「彼は五タラントン。彼は二タラントン。それなのに、なぜわたしは一タラントンなのか。」と、自分とひとのタラントンの違いをねたみ、主人の計らいに応えることを放棄してしまったのです。
ここで、もう一度考えたいのは、「タラントン」が意味するものは何か、ということです。日本語にもなっている「タレント」という言葉は、今朝の「タラントン」の譬えが元となって、才能や能力を意味する言葉となり、転じて、その才能を発揮して、テレビなどに出演する人を指す言葉となったようです。
けれども、譬え話の中では、それぞれの力、能力、才能に応じて、「タラントン」が預けられています。才能そのものがタラントンではないのです。才能に応じて父なる神さまが与えて下さった使命、課題、ミッションが「タラントン」なのです。
みんな、才能を持っているのです。三人の僕にも、それぞれ才能がある。そしてその才能に応じて、神さまの財産管理を委ねられている。任されている。神さまの手伝いが、あなたにもできるよ、と託されている。人の目で見れば、大きな働き、小さな働きがあるかもしれない。けれども神さまにとっては、どれも優劣のない大切な働きなのです。マリア役も、天使役も、羊飼い役も、博士役も、星の役だって、どれひとつ欠けても、クリスマスものがたりは成立しないのです。
主人は、そのような「タラントン」を、僕を信頼し、預けて、旅に出かけました。その後、時が流れ、主人は、僕たちがそれぞれ喜びの成果を上げていると信じ、大いに期待して帰って来たのです。この 旅から帰って来た主人と同じように、主イエスは帰って来られます。再び世に来て下さる。わたしたちと共に、大いに喜ぶために。「喜びを分かち合いたい。一緒に神の国の完成を喜んでほしい。」と、再び来て下さるのです。
先週の金曜日のクリスマス讃美夕礼拝、十字架を仰ぎ、キャンドルの灯を見つめながら、御子の御降誕を喜びました。最後の讃美歌だけでしたが、奏楽者の伴奏によって、クリスマスの讃美歌を賛美でき、本当に嬉しかったです。中でも、印象的だったのが、ローソクへの点火の役目を担った小学6年生の教会学校の子どもの表情でした。神さまから託された「タラントン」を一所懸命果たそう!という決意に満ちていました。
本当に、一人一人に神さまは「タラントン」を与えておられます。礼拝が終わると、礼拝委員の皆さんが、ペンライトの電池を手際よく抜き出し、来年の讃美夕礼拝に備えておられる。伝道委員の兄弟が、チラシを剥がしている。出席された皆さんが感染防止のため、椅子の一脚、一脚を拭いておられる。奏楽の姉妹も、一週間、仕事を終えてから練習を重ねておられました。動画配信、受付、鐘。あげればきりのない、それら一つ一つの奉仕も、大切な「タラントン」に違いありません。しかし、神さまの「タラントン」はそうした教会の奉仕だけでもありません。いちばん大切な「タラントン」は、「父なる神さまを愛し、隣人を愛すること、敵のためにも祈ることだ」と、主イエスは、教えて下さいました。与えられた役目を果たそうと、真剣な眼差しでローソクに火を灯した子どものようでありたいと思います。
今朝の譬え話は、間もなく十字架につこうとしておられる御子 主イエスから、わたしたちへの御言葉です。そして、今まさに来ようとしておられる主イエスから、わたしたちへの御言葉でもあるのです。ヨハネの黙示録は記します。「然り、わたしはすぐに来る。(22:20)」ときは迫っています。自分の働きをひとと比較してひがんだり、かつての自分と比較して、「あの頃は、あれもできたし、これもできた。でも、今は何もできない。」などと嘆いている場合ではないのです。それぞれに、与えられている「タラントン」、使命があります。「タラントン」のために、それぞれが与えられている賜物、才能、能力の限りを尽くしましょう。頂いている賜物を、賜物として、恵みを、恵みとして、ローソクの灯(あか)りのように輝かせながら、共に「天の国」の完成に向かって前進してまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしたちの力に応じて、タラントンを お与えて下さり感謝いたします。どうか、あなたから与えられたタラントンに喜んで応える者として下さい。どうか、天の国の完成に向かって歩む者として下さい。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。この一年、あなたのお支えと憐れみによって教会の歩みをおまもり下さり、深く感謝いたします。けれども、世界ではコロナのために、自然災害のために、事件、事故のために、今も深い悲しみ、試練の中にある者が大勢おられます。教会員の中でも愛する家族を亡くした者、病を抱えている者、痛みを抱えている者がおられます。主よ、それらの方々が、希望を失うことなく、どんなときもあなたが共におられることを信じ、あなたと共に歩む喜びに包まれますよう、お導き下さい。主よ、新しい年を希望を持って迎えることができますように。キュリエ・エレイゾン主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年12月24日(木)日本基督教団 東村山教会 クリスマス讃美夕礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 第2章8節~14節
説教題:「大きな喜び」    
讃美歌:103、111、119、112

今夕の礼拝は、小さい頃に東村山教会で小児洗礼を受け、熊本の錦ヶ丘教会で信仰告白し、現在、神学生として奉仕している姉妹が司式を担っています。すでに約束の み言葉としてイザヤ書、預言としてミカ書、告知、成就としてルカによる福音書が朗読されました。また、説教の後、希望を宣言する み言葉としてヨハネの黙示録が朗読されます。主イエスは言われました。「わたしの言葉は決して滅びない。(ルカによる福音書21:33)」今夕、決して滅びることのないクリスマスの物語に、静かに耳を傾ける幸いを主に感謝いたします。
世界で最初のクリスマスは、常識では考えられない天使の宣言によって始まりました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」
そのときマリアは、まだ少女と言って良い年齢でした。マリアの驚きはどれほどであったかと思います。心臓が高鳴った。いったいどうしたらよいのかと不安に襲われた。そして怖くなったことでしょう。マリアは、おそらく震える声で、天使に尋ねました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えます。「神にできないことは何一つない。」この力強いメッセージは、不安で押し潰されそうになっていたマリアを、グイッ!と、神さまの み許に引き戻したのではないでしょうか。「神にできないことは何一つない。」たとえ、何があっても、大きな試練が待っていても、神さまの み心なら、怖いことは何もない。「できないことは何一つない」神さまが、必ず助けて下さるのだから。マリアは、天使の言葉を素直に受け入れ、祈ったのです。「お言葉どおり、この身に成りますように。」
そして、クリスマスの夜になりました。ところが、その日、マリアとヨセフには居場所がありませんでした。宿屋の扉は、ぴたりと閉ざされ、誰も、神の み子を受け入れようとしなかったのです。ようやく見つけた居場所は、馬小屋でした。マリアは馬小屋で、み子イエスさまを産んだのです。ベビーベッドは、馬の餌を入れるための飼葉桶でした。神の み子の誕生を受け入れる者は、誰一人いなかったのです。
けれども、草原で野宿をしていた羊飼いたちには、天使が告げる喜びのメッセージが届きました。羊飼いは、家を持っていませんでした。羊の食べる草を求めて、草原を移動して暮らしていたからです。家を持ちませんから、住民登録のしようもありません。言ってみれば、人として数えられていなかった。居場所を持たない、人々から無視されていた者たちでした。その羊飼いたちだけが、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」という、天使のメッセージを聞くことができたのです。そして、馬小屋を探しあて、主キリストと出会うことができました。主イエスがお生まれになった大きな喜びは、ある特定の人だけのものではありません。天使が告げたように、「民全体に与えられる大きな喜び」です。
本来なら、みながこぞって扉を開け、「イエスさま、ようこそ、お生まれ下さいました。どうぞお入り下さい」と喜んでよいはずなのです。「民全体」です。わたしたちも、その一人です。わたしたちはみな、このクリスマス物語の登場人物です。
マリアは、「神にできないことは何一つない」という天使の言葉によって不安に打ち勝ち、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と神さまに全てを委ねて、祈りました。羊飼いたちは、キリストの誕生のニュースを聞いて、すぐに出かけて行き、キリストに出会うことができました。けれども、ベツレヘムの町の人々は扉をかたく閉ざし、主キリストを受け入れることができませんでした。神さまの愛を拒んでしまいました。そして そのかたくなな心が、主イエスを十字架につけ、殺してしまったのです。
新約聖書 ヨハネの手紙一 第4章10節に、このような み言葉があります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神が わたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
み子 主イエスは、神さまの愛です。神さまは、わたしたちに おっしゃっているのです。「わたしの愛を受け入れて欲しい。わたしの愛を、閉め出さないで欲しい」と。
クリスマスは、わたしたちの毎日が どんなに辛くても、どんなに怖くても、「なぜ、こんなに苦しいの?」と涙が溢れても、「わたしはいつもあなたと一緒にいるよ」という、神さまからの愛のメッセージなのです。主イエスは日々、わたしたちに語りかけて下さっているのです。「暗く、淋しい草原で野宿をしていた羊飼いのように、周りから取り残されているように感じている あなたのためにこそ、わたしは生まれた。あなたのためにこそ、十字架で死んだ。あなたのためにこそ、三日目に甦った。あなたのためにこそ、再び、世に来るのだ」と。
わたしたちは、一人ではありません。神さまが一緒にいて下さいます。「できないことは何一つない」神さまが。主イエスの誕生は、そのような神さまの愛の証なのです。
天使は何度も告げるのです。「恐れるな」と。どうしても わたしたちは、心の闇、世界の闇に心を奪われ、恐れてしまいます。でも、何も恐れなくてよい。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」この事実をしっかり見て、心に刻めばよいのです。皆さん、クリスマスおめでとうございます。イエスさまは、これまでも、きょうも、これからもわたしたちと共に歩んで下さいます。「どうぞ お入り下さい」と、主イエスを お迎えして、「できないことは何一つない」神さまの、愛を迎えて、新しい年も、主イエスと一緒に歩んでまいりましょう。

<祈祷>
天の父なる神さま、今年もクリスマス讃美夕礼拝をささげることがゆるされ、感謝いたします。この一年、色々なことがありました。恐れる日、不安な日がありました。それでも あなたは、「恐れるな」と励まし続けて下さいますから感謝いたします。主よ、これからもわたしたちに愛を注ぎ、聖霊を注ぎ続けて下さい。恐れる日、不安な日、イエスさまがいつもわたしたちと共におられることを信じ、安心して歩むことができますよう導いて下さい。光なる主イエス・キリストの み名によって、祈ります。アーメン。

2021年12月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第60章1節~2節、新約 ヨハネの手紙一 第3章1節~5節
説教題:「見よ、神の恵みの豊かさを」
讃美歌:546、102、108、Ⅱ-1、121、545B   

説教を始めるにあたり、クリスマス礼拝に招かれた皆さん、ライブ配信を通して礼拝をささげている皆さん、そして、それぞれの場所で祈りをささげている皆さんに、上よりの祝福と平安を心よりお祈りいたします。
今朝、わたしたちに与えられておりますヨハネの手紙一 第3章の御言葉は、このように始まります。「御父(おんちち)がどれほど  わたしたちを愛してくださるか、考えなさい。」
わたしたちは今朝、「考えなさい」と呼びかけられています。ちなみに、ギリシア語の原典では、「考えなさい」という言葉が、最初にきます。ιδετε(イデテ)というギリシア語で、元々は、「見よ」という意味の言葉です。その通りに訳すと、「見よ!御父がどれほど、わたしたちを愛して下さっているかを」となります。「見よ!」と、わたしたちは呼びかけられている。わたしたちが、わたしたち自身の目でよく見るべきものとは何なのか?ご一緒に考えたいと思います。
御言葉は、このように続きます。「それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」昨日は、いづみ愛児園の「クリスマスかい」が、この場所で行われました。4歳、5歳児による聖誕劇が礼拝堂で行われたのです。子どもたちの歌声を聴くと元気になります。正に「神の子」という表現と重なる思いがいたします。けれども聖書は言うのです。幼い子どもたちだけでない、大人のあなたも、足が衰え、杖を手放せなくなったあなたも、教会に通うことが困難になったあなたも、「神の子」なのだと。しかも、「あなたは善良だから、『神の子』として受け入れよう」というのではないのです。神さまは、自分の弱さ、繰り返し犯してしまう罪に目を向け、絶望するわたしたちに、愛を注ぎ、まことの、ただお独りの神の御子 主イエスと同じように、「神の子」として受け入れ、「わが子よ」と呼んで下さるのです。
皆さんにとって、2021年は、どのような年だったでしょうか?喜びの日もあったことでしょう。悲しみの日もあったことでしょう。父なる神さまを見失い、この世界の闇や、自分自身の心の闇を覗き込む日々だったかもしれません。しかし神さまは、「こんな世は、すぐに滅びるがよい」とか、「お前のような罪人は、わたしの子ではない」と見捨てられることはないのです。聖書は、はっきりと告げます。「見よ!あなたも、あなたも、神さまの子ども。ひとりの例外もないのだ。」この驚くべき恵みは、神の御子が、この世に、人として お生まれになられたことにより、与えられました。父なる神さまは、世の中や自分の中の闇ばかりを見つめ、「自分は駄目だ」、「何をやっても無駄」と望みを失っている者に、「わたしの愛を見よ!あなたは、わたしの子ども。わたしの愛を忘れるな!」と、主イエスを お与え下さったのです。
ところが、クリスマスの夜、わたしたちの世は主イエスを受け入れませんでした。天使のお告げを受け、神の御子を身ごもったマリアと夫ヨセフは、宿屋を訪ね歩きました。しかし見るからに貧しい夫婦。住民登録で大忙しの日に「さあ、どうぞ」と迎える者は誰もおらず、御子は、馬小屋で お生まれになりました。そして、馬の餌を入れる飼い葉桶に寝かされた。もっとも低く、もっとも貧しく、お生まれになられたのです。そして、その ご生涯も、ひたすら十字架の死へと向かっていくものでありました。弟子たちに裏切られ、群衆からも「十字架につけろ」と叫ばれ、殺された。神の御子が、十字架の死を受け入れられた。なぜか?御子の死が、神の御心であったからです。神さまは、わたしたちを「神の子」とする、ただそのことのために、御子イエスをクリスマスの夜、世に遣わされたのです。
今年も、暗いニュースの連続でした。アドヴェントの期間だけでも、悲しい出来事が次々起こり、言葉を失う。しかし、それでも、父なる神さまは、わたしたちをお見捨てにはならない。わたしたちを愛して、その確かな愛のしるしとして、御子をお与え下さったのです。互いに愛し合うことのできない、自分すらも愛することのできないわたしたちの罪を償ういけにえとして。
続けて御言葉を読んでいきますと、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」とあります。「御子が現れるとき」とは、主イエスの御降誕のときではありません。主イエスが再びいらして下さるときです。毎週、少しずつ読み進めておりますマタイによる福音書で、先週、ご一緒に心に刻んだのは「10人のおとめ」の譬え話でした。御子に望みをかけ、聖霊の働きを祈り求め、主イエスが再び世にいらしてくださる日を信じ、信仰の目を覚ましているなら、再臨の日、わたしたちはキリストのように清くして頂けるのです。「10人のおとめ」の譬え話とヨハネの手紙一の御言葉が重なり、響き合うようです。「清い生活を自らに課す」というのではありません。主イエスの再臨を信じ、日々、聖霊の働きを祈り求める。主に依り頼み、父なる神さまが『子よ』と呼んでいて下さることを信じるのです。 
改めて心に刻みたい。わたしたちは、「御子が現れるとき、御子に似た者となる」ことを。わたしたちは皆、どんなに苦しいときでも、どんなに自分がいやになるときでも、「父なる神さま」と祈ることが許されているのです。そして、御子イエスが再び世に現れて下さる その日、わたしたちは、主イエスのように聖なる者とされる。その希望の内に、今ここにおいても、聖霊に導かれるままに御子を心の中に喜んで迎え入れ、御言葉に聞き従い、互いに仕え合う者として立てられているのです。
5節には、「御子には罪がありません」とあります。これは、次のように訳すこともできる御言葉です。「罪は、御子においては無です。」
御子 主イエスは、世の全ての罪を無きものにしてしまわれたのです。わたしたちが、信仰深いからではありません。疑い深く、「どうせ、わたしなんか」、「所詮この世から悪が無くなることはない」と諦めるわたしたちを、神さまは愛し、御子の十字架により、罪から解放して下さった。「あなたの罪は赦された!」、「あなたは わたしの子!」と宣言して下さったのです。
 今朝、わたしたちは呼びかけられました。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」、「見よ、父なる神さまがどれほど わたしたちを愛して下さっているかを!」わたしたちは皆、もはや、自分では取り返しようのない罪や、人々のどうしようもない罪を見て絶望しなくてよい。そのようなわたしたちを、神さまは深く憐れみ、大切な独り子を世に遣わして下さったのです。そして今朝、わたしたちは、「キリストのご降誕、キリストの十字架に、示されている神さまの愛を見よ!」と呼びかけられている。確かな望みを抱き、神さまの愛を見るのです。目を上げて見るとき、絶望的に思える世にあっても、立ち直れないと思える日にも、希望がある。光がある。父なる神が、「あなたはわたしの愛する子!」と呼んで下さっているのです。それは、わたしたちの常識では、いくら考えても、汲み尽くすことのできない恵みの泉です。信じられないような奇跡的な愛です。それでも、幼い子どものように信じて良いのです。信じて欲しいと、呼びかけられているのです。
聖書が伝える一番大切なことは、「わたしたちが神の子と呼ばれることは事実であり、本当のことなのだ」、と言っても良いと思います。できれば礼拝のあと、隣りの方と「あなたも神さまの子ども。それは本当のことです。アーメン。」と祈り合いたい。少し恥ずかしければ、心の中でしっかりとお互いのことをそう思い、「クリスマス おめでとう!」と挨拶を交わしたい。「アーメン、主よ、わたしたちは皆、神さまの子どもです。クリスマス、おめでとうございます!」

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしたちを「神の子」として下さり、心より感謝いたします。どんなときも、「神の子」としての喜びと希望を持って歩む者として下さい。御子 主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。御子の御降誕を喜び祝うクリスマス礼拝を深く感謝いたします。クリスマス礼拝にもかかわらず、様々な理由で礼拝を休んでいる者が大勢おります。特に緊急手術を受けた姉妹、心と体に厳しい痛みを抱えている者たちを慰め、癒しの御手を差し伸べて下さい。主よ、孤独を感じている者がいるなら、「あなたも神の子。どんなときもわたしはあなたと共にいる」と語り続けて下さい。キュリエ・エレイゾン主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年12月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第32章15節~20節、新約 マタイによる福音書 第25章1節~13節
説教題:「あかりを ともして 待つ心」
讃美歌:546、97、172、174、545A、Ⅱ-167   

今朝、わたしたちに与えられた御言葉は、婚宴の日の譬え話です。今朝の御言葉は有名で、皆さんもよくご存知だと思いますが、それにしては、なぜ真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」となるのか、今ひとつイメージが湧いてきません。調べたところ、パレスチナの婚宴は、多くの人が参加できるように、夕方に始まるのが通例であったようです。婚宴に先立ち、花婿は花嫁の家に向かう。その時、ともし火を手にした友人たちが花婿に付き添うのです。一行が花嫁の家に到着すると、今度は花嫁と、その関係者も加わり、花婿の家へ向かいます。大勢を引き連れての行列には時間がかかります。しかし、遅れる理由は他にもありました。花嫁の親族との会見が予想以上に長引くこともあったからです。この会見では、もし離婚という事態になった際、花嫁に支払われる金額が交渉されました。花嫁の親族は、花嫁がどれほど大事な娘であるかを示すためにも、金額をできるかぎり高くしようと努力する。その交渉に手間取り、到着が夜半にずれ込むことも珍しくはなかったのです。
主イエスは、語られました。「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。」
主イエスが、この譬え話をお語り下さったとき、それは、まもなく、十字架で殺されてしまうときでした。主イエスはすでにそのことをご存知であられます。そのような緊迫したときに、なぜ、主イエスは婚宴の日の出来事を語られたのか?そのことを、ご一緒に考えながら、主がお語り下さった物語の中に入っていきたいと思います。
第24章から、世界の終わりのとき、すなわち、「主イエスの再臨」、「天の国の完成」が大きなテーマとして語られてきました。そして今、主イエスは、最後に念を押すように「天の国の完成」のときについて語られるのです。ここに登場する花婿は主イエスです。そして、おとめたちは、弟子たちであり、教会であり、教会に連なるわたしたちであると言えましょう。教会は、教会に連なるわたしたちは、いつでも目を覚ましているか?そのことを今朝、主から問われているのです。いったい、目を覚まして何をするのでしょうか?花婿である主イエスを待つのです。主は、十字架の死を前に、譬え話を通して、愛する弟子たちに、また、今朝こうして礼拝に招かれたわたしたちに、語って下さいます。「あなたがたは、間違っても愚かなおとめのグループに入ってはいけない。賢いおとめとして婚宴に連なり、天の国に入って欲しい。そのために、油を切らすことがないように。」
油が大切なのです。では、油とはいったい何を指すのでしょうか?主イエスは、解説しておられません。ですから、前後の文脈から色々と想像するしかないのです。註解書を読むと、油は「聖霊」を指すと理解します。確かに、使徒言行録において聖霊は、炎として描かれています。聖霊降臨の日、祈っていた弟子たちに「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。油を絶やさずにいることは、主の再臨を信じ、日々、聖霊の助けを祈り求めることに通じるのではないでしょうか?また、このように言うこともできるでしょう。神さまから一人一人に与えられた十字架を、聖霊の助けを祈り求めながら、しっかり背負って、主イエスの背中を見つめながら、従っていくことが、油を絶やさないことであると。一人一人の十字架は異なります。だから、ひとに分けることができない。主イエスは、問うておられます。「あなたは、神さまが与えて下さるあなたの隣人を愛するために、聖霊の助けを求めているか?神さまがあなたに与えておられる敵のために、祈ることを諦めていないか?そのために聖霊の助けを求めることを放棄していないか?油を絶やしてはいないか?わたしは、戸口に近づいているのだ。」
ところで、主イエスは譬え話の最後にこのように言われました。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」わたしは、毎週の木曜日に授業のために学校にまいります。朝7時には高輪の学校に到着します。その時間から生徒たちも学校に集まり出します。礼拝は8時に始まり、授業は8時15分からスタートします。遠くから通っている生徒は早い時間に起床していることでしょう。昼食後の5時間目になると、多くの生徒が、こっくりこっくり始める。辛くもなりますが、そう言うわたしこそ、神学生時代、昼食後の授業は居眠りをしてしまったことが思い起こされます。意気込みだけは十分に、教室の最前列に座りながら、途中から睡魔に襲われ、居眠りをしてしまった。今、「ああ、あのとき、先生方はこんな気持ちだったのだな」と自分自身を恥ずかしく思います。そこで、今朝の譬え話に登場する賢いおとめと愚かなおとめはどうだったのか?と聖書を読んでみますと、賢いおとめは真夜中も居眠りをしなかった、とは書かれていない。「目を覚ましていなさい」との御言葉は、「あなたがたは絶対に寝てはならない」という拷問のような指示ではないのです。賢いおとめたちも「皆 眠気がさして眠り込んでしまった。」それでも、賢いおとめたちは、壺に油を入れて持っていました。いつも、油に気を配っていた。眠り込んでしまったけれども、「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がしたら、「皆起きて、それぞれのともし火を整え」ることができたのです。
反対に、「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。」愚かなおとめたちは、慌てました。そして、賢いおとめたちに「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」と懇願したのです。しかし、賢いおとめたちも分けるほどには油がなかった。そこで、「店に行って、自分の分を買って来なさい。」と勧めました。けれども、愚かなおとめたちが、店に油を買いに行っているうちに、花婿が到着してしまいました。戸は閉じられてしまって、婚宴の席に入ることができなかったのです。愚かなおとめたちは叫びました。「御主人様、御主人様、開けてください」。しかし、主人は答えました。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」。
天の国の主人である、父なる神さまの厳しさに面食らってしまいます。神さまは、愛なる お方ではないのか?御子の十字架を通して、わたしたちの罪を赦して下さる神さまなら、「あなたがたは、なぜ油を満たしておかなかったのか?今回のことでよくわかっただろう。もうこのようなことのないようにしなさい。今回は赦してあげよう。どうぞお入り」と言って下されば良いのに。そう思ってしまいます。
けれども主イエスは、父なる神さまの思いを、天の国の譬え話として語られたのです。「油の用意を怠ると、取り返しのつかないことになる。どんなときも、油を切らさないように。どんなときも、主の再臨を喜んで迎えることができるように。どんなときも、聖霊の助けを求めつつ、自分自身に与えられている十字架を背負い、わたしについてきなさい」と、主イエスは願っておられるのです。
それでも、「わたしはお前たちを知らない」は、あまりにも冷たく感じます。しかし、思い起こしたい。この後、主イエスこそが、一番弟子であったペトロから、同じ言葉によって裏切られることを。主イエスがついに捕まってしまったそのとき、ペトロは一人の女中から告発されました。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」。ペトロは、誓って打ち消しました。「そんな人は知らない」。さらに人々が近寄って来てペトロに言いました。「『確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。』そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。」主イエスは、今朝の譬え話を語られたとき、弟子たちの裏切り、ペトロの「そんな人は知らない」を、知っておられたに違いありません。だからこそ、主イエスは、祈るような思いで語られたのではないでしょうか?
「あなたがたこそ、わたしのことを知らないと言うのだ。それが、あなたがたの弱さである。再臨の望みを忘れて、油の用意を怠るなら、聖霊の助けを求めずに、自分の思いを優先するなら、父なる神さまは、天の国の戸を閉ざしてしまわれるに違いない。だからこそ、わたしがあなたがたに代わって、十字架で死ぬのだ。けれども、わたしは再び、あなたがたのところに帰って来る。どうか、再臨を信じ、待ち続けて欲しい。日々、聖霊の助けを求め、わたしの道を歩み続けて欲しい。」主は、愛する弟子たち、またわたしたちに、終わりの日は近いことを忘れずに、その日まで油を切らさないように、聖霊の助けを頂いて、ご自身に従うことを求めておられるのです。
アドヴェント第3の主日を迎えました。来週は、クリスマス礼拝となります。わたしたちは、御子の御降誕を記念する日を待ちながら、心から主の再臨に備えることができている、と言えるでしょうか?「『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声」に、喜んで火を灯すことができるでしょうか?この一年も心が塞いでしまう事件、事故が多くありました。世界の情勢も混沌としています。そのような終末の徴に心を奪われ、聖霊に助けを求める信仰が、主の再臨を信じる信仰が、挫けそうになっていないでしょうか?隣人を愛し、敵のために祈ることなどできるわけがない、と諦めてしまっていないでしょうか?諦めてしまうことは、主イエスのことを、「そんな人は知らない」と言うことと同じです。主は、そのようなわたしたちのために十字架で殺され、「婚宴の席に、あなたも座って欲しい」と招いて下さったのです。最後に、カトリックの司祭であり、聖書学者の雨宮 慧先生の言葉を紹介して終わります。「イエスの決定的な再臨は最後の日、一度だけであろう。だが、小さな再臨なら毎日繰り返される。霊を受けたわれわれはたいまつを手に毎日イエスを迎え、さらに霊を受ける。」

<祈祷>

主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちの目を開いて下さい。日々、聖霊の助けを求め、御子の再臨の望みに生きる者として下さい。主イエス・キリストの み名によって 祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。

主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。今、体調を崩し、入院している者がおります。心身に痛みを抱えております。主よ、どうかそれらの者に癒しの み手を触れて下さい。どうか希望を失うことなく、あなたから与えられる一日一日を感謝し、御子の御降誕の喜び、御子の再臨の望みに生きることができますように。混沌としている世界を憐れみ、日々、聖霊を注いで下さい。東京神学大学から「緊急アピール」が届きました。主よ、伝道献身者を一人でも多く起こして下さい。東村山教会に託された神学生の学びをこれからもお支え下さい。今朝も礼拝を休んでいる者を支え、導いて下さい。キュリエ・エレイゾン主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年12月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第45章20節~24節a、新約 マタイによる福音書 第24章32節~51節
説教題:「滅びない言葉のもとに」
讃美歌:546、94、240、Ⅱ-1、284、544   

マタイによる福音書 第24章を読んでいます。今朝は欲張って、32節から最後まで読みました。新共同訳聖書には小見出しがありますが、「いちじくの木の教え」、「目を覚ましていなさい」、「忠実な僕と悪い僕」と三つのエピソードがあります。それでも、続けて読んだのには理由がある。それは、三つに共通するテーマがあるからです。それは、「滅びへの警告」です。
主イエスは、35節で「天地は滅びる」と予告されました。そして、その日がどのようにおとずれるか、38節以下で、このように言われました。「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。」
「ノアの物語」は教会学校の子どもたちも知っています。ノアは、人びとの前でとんでもない大きさの舟を造った。しかも、オールも、帆もありません。自力では前にも後ろにも進めない巨大な箱舟。かんかん照りの太陽の下(もと)で、一心不乱に箱舟を建造しているノアは人々の笑いの種でした。神の言葉を信じ、黙々と箱舟を造り続けたノア。しかし、人びとはノアを嘲笑った。洪水によって自分たちの命が奪われることなど、考えもしなかったのです。
主イエスは、ご自分がこれから十字架で処刑されてしまう、父なる神さまから見捨てられ、滅ぼされる姿を見据えながら、弟子たちに、「ノアの物語」を語られました。「あなたがたはノアを笑った人々のようであってはならない、滅んではならない、神の裁きの日に備えて、信仰の目を覚ましていなさい」と語って下さったのです。なぜ、目を覚ましていなければならないのか?主はおっしゃいます。36節、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」その日、その時は、神さまだけがご存知だからです。だれにも、主イエスにすら、その日、その時がいつ来るのかはわからないからです。
ところで、今朝の御言葉で繰り返される場面があります。食べたり、飲んだりする場面です。38節で、「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。」と言い、49節でも、「仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしている」と言われる。けれども、主イエスも食べたり、飲んだりなさることはお好きでした。徴税人との食事も楽しまれた。つまり主は、わたしたちの、食事を楽しんだり、結婚をしたり、という生活が、「駄目だ」とおっしゃっているのではないのです。
主イエスは、「ノアの物語」に先立って言われました。35節。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」驚くべき御言葉です。主イエスは、決して滅びない御言葉を知ったわたしたちに、何を期待しておられるのでしょうか?目を覚ましているとは、どのような生活なのでしょうか?
主イエスが、32節から語り始められた御言葉はこうです。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」
「これらすべてのこと」とは、31節までに、主が語ってこられた、大きな苦難の数々と、それに続く「人の子の徴」を指していると思われます。次から次へ、人類を滅亡に追い込むような滅びの徴が起こる。今の世でも起こり続けています。しかしそれらは、いちじくの木の枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かるように、人の子、再臨の主が戸口に近づいている徴だと言われるのです。主は言われるのです。戸口を開けてごらん、そこに、「わたし」が立っている。「わたし」が戸口に立ち続けている。だから、「わたし」が入りたい、と言った時に、いつでも戸を開け、「どうぞお入り下さい」と迎えることのできる生活をして欲しい、と言われるのです。
1932年にオランダに生まれ、ノートルダム大学、エール大学、ハーバード大学で20年近く教鞭を執った後、カナダのトロントにあるラルシュ共同体の牧者として、知的ハンディーを負った人と生活をともにしたヘンリ・ナウエンは、「キリストが来られるのを待つ」と題し、主の再臨を根気よく待ち続けることの大切さを説きました。「神が栄光の内に来られるのを根気よく待ち望まないならば、私たちはふらふらとさまよい始め、ちょっとした刺激を次から次に求めて動き回ることになります。私たちの生活は、新聞記事やテレビ番組、ゴシップでいっぱいになってゆきます。その結果、私たちの知性は、私たちをより神に近づけるものとそうでないものとを見分ける感覚が鈍くなり、心は霊的な感受性を失ってしまうでしょう。キリストが再び来られるのを待つのでなければ、私たちは活力を失い、その場限りの満足を与えてくれるものであれば何にでものめりこむ誘惑にさらされます。パウロは私たちに目を醒ますようにと言っています。『日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません』(ローマ13:13~14)。私たちが主を待ち望んでいる時、待ちながら主をすでに経験しているのです。」
ナウエンは、パウロの言葉と共に、今朝の主イエスの御言葉を意識していたに違いありません。42節、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」主イエスが、再び来られる日は分からない。しかし、主イエスが、いつでもわたしたちのところに来ようとしておられる。
そのような日々の中で、わたしたちは何を大切にするのか?主は、45節からの「忠実な僕と悪い僕」の譬えにより、教えて下さいます。45節、「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。」この御言葉に、主イエスから、わたしたちへの強い期待が込められているように思われます。留守番をしている使用人たちの中に、主人からリーダーを任されている僕がいる。使用人たちに時間どおり食事を与えることのできる「忠実で賢い僕」です。主イエスは弟子たちに、そしてわたしたちキリスト者に、人々に御言葉を伝え、励まし、力づける「忠実で賢い僕」になって欲しい、いや、なれる、と期待しておられるのではないでしょうか。
それに対し、「悪い僕」が、48節以下に示されています。「しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。」
わたしたちは、第23章で「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」との主イエスの嘆きを知りました。「偽善者」とは、神さまを熱心に信じているような顔をして、神さまに本気で向き合わない者です。その姿は、主イエスの眼差しから見ると、神さまに全てを委ねていないし、畏れてもいない。48節以下に登場する「悪い僕」も同じ。主人の帰りは遅いと思い込み、仲間を殴り、「酒宴と酩酊」に明け暮れる。その醜態を突然に帰宅した主人にさらすなら、主人はその僕を罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせるのです。「偽善者たちと同じ目」とは、第23章33節で、主が言われたことです。「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」悪い僕も、地獄の罰を免れることができない。だから、「そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」と警告しておられるのです。主イエスは、「誰も、このような罰に陥って欲しくない。」と願っておられます。
クリスマス。ベツレヘムの宿には、ヨセフと身重のマリアを泊める場所がありませんでした。神さまの愛を受け入れる場所がなかった。ところが、神さまの愛を締め出した者のためにも、主イエスは十字架で死なれたのです。
主は、「わたしの言葉は決して滅びない。」と宣言して下さいました。
わたしたちは今朝も、この決して滅びない主の言葉のもとに、礼拝へ招かれています。「目を覚ましていなさい」、「忠実で賢い僕は誰か」と、呼ばれています。目を覚ましている生活とは、「わたしの十字架のゆえにあなたの罪は赦された」との主の滅びることのない お言葉に、安心して全てを委ねて生きる生活です。飲んだり、食べたりしている中でも、主イエスが戸口の前に立っておられることを悟り、いつでも神さまの愛を喜んでお迎えできる生活です。そして、主にお入り頂いたとき、全財産を任されるほど信用して頂ける者として生きる生活です。神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する生活です。わたしたちは、その生活の中で、主を待ちながらすでに主イエスを見ているのです。すでに主イエスの御言葉を耳で聞き、口ずさんでいるのです。滅びない御言葉に生かされているのです。ナウエンが言うところの、主を待ち望みながら、主を経験しているのです。何と愛に溢れた喜ばしい生活でしょうか。何と恵みに溢れた生活でしょうか。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちがいつも滅びの危険にさらされていることを、しかし、その滅びは、あなたがもたらすものであるがゆえに、わたしたちにとっては救いになることを、主が戸口に立っていて下さることを、悟ることができますように。滅びに直面する不安から、滅びない御言葉を聞き続けて生きる望みへと、いつもわたしたちを導いて下さい。主イエス・キリストの み名によって 祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。アドベント第2の主日を聖餐の祝いと共に迎えることができ、感謝いたします。しかし、病のため、仕事のため、心が塞いでいるため、礼拝を休んでいる者がおります。入院している姉妹もおります。主よ、どこにあっても、インマヌエルの主が共におられることを忘れることのないよう聖霊を注いで下さい。政情不安の国があります。疫病が収束せず、困難な国があります。どうか、主にある平和を世にもたらせて下さい。滅びることのない御言葉によって世の人びとが望みを持って生きることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年11月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ゼカリヤ書 第8章14節~23節、新約 マタイによる福音書 第24章15節~31節
説教題:「神が共にいて下さるから」
讃美歌:546、Ⅱ-112、173、267、543  

本日よりアドベントに入りました。今から3年前、2018年12月16日の東村山教会の特別礼拝は、加藤常昭先生が説教して下さいました。説教の中で加藤先生は、アドベントという言葉には、待降という意味はなく、もとは「到来する」、「こっちに来る」、そのようにして「現れてくる」という意味のラテン語であること、それゆえに主イエス・キリストの再臨、「わたしたちの世の歴史の仕上げは、主イエスがしてくださる。」という再臨を待望する信仰を、新たにするときでもあることを教えて下さいました。そして今朝、アドベント第一主日に与えられた御言葉は、主イエスご自身が、再び世に来られる再臨の望みを語って下さった箇所となりました。
主イエスはおっしゃいます。15節、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」旧約聖書ダニエル書には、憎むべき者によって神殿が破壊されてしまう、ということがはっきり語られています。実際、主イエスが これをお語りになってから30数年後、ローマ帝国によって聖なる場所、エルサレム神殿は破壊されてしまうのです。主イエスは弟子たちに、「そのとき、山に逃げなさい」と言われました。17節。「屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。」主イエスは、かつて「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(16:24)」と言われました。ところが、ここでは、着のみ着のまま、脇目もふらずにとにかく逃げ出せ、逃げてよいのだ、とおっしゃる。それほど、「憎むべき破壊者は、あなたがたに不幸をもたらす」と告げておられるのです。
特に19節では、「身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。」と嘆いておられます。実際に、エルサレム陥落のときの町の飢餓状態は想像を絶するものであったようです。産んだばかりの赤子を殺し、焼いて食べたという記録が残っているほどです。言葉を失います。それほどの悲惨がある。主イエスは、この世の悲惨に心を痛め、言葉を続けられました。20節、「逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。 神が その期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。」
 しっかりと心に刻みたいのは、「神が その期間を縮めてくださらなければ」との御言葉です。「大きな苦難」の期間を縮めるのは、人ではない。神さまなのです。たとえ、どのような悲惨があろうとも、その悲惨のただ中で神さまのご支配が見えなくても、それでも、この世を支配しておられるのは神であると、主イエスは告げておられる。だからこそ、大いなる慰めの言葉を続けて下さるのです。「しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。」迫害の中にあった後の教会の人たちは、破壊されてしまう「聖なる場所」は、エルサレム神殿だけにとどまらず、キリストの教会をも意味すると考え、主イエスの御言葉に希望を持ち、主イエスの再臨を待ち望みました。わたしたちもまた、今朝も、神さまから名前を呼ばれ、礼拝へ招かれている、神さまから選ばれた者です。ですから、主イエスの「神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。」との約束は、わたしたちにとっても、希望です。わたしたちも、たとえどんな苦しみが襲ってくるときも主イエスを信じて、逃げてよいのです。何を頼りに逃げるのか。主はおっしゃいます。23節、「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。」
皆が、漠然とした不安を抱えている現代にも、色々な情報が溢れています。本屋にはオカルトじみたスピリチュアル本が山積みにされている。テレビでも占い番組は人気です。わたしたちも、不安なとき、主イエス以外の何かに頼りそうになりはしないでしょうか。真剣に祈っても、真面目に頑張っても不安は消えない。それなら、あの人の教え、この人の言葉の方が力となり、役に立つのではないか?しかし、主イエスは警告なさるのです。「それらの言葉に耳を傾けるな、そっちへ行くな。全て偽物、そこにわたしはいない、ただ、わたしの約束を携えて逃げ、わたしを待ちなさい。」
では、その日はどのように来るのでしょうか?主は続けられます。27節、「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。」稲妻のひらめき、誰の目にもわかります。同じように、「誰の目にも明らかな事実、誰の目にも明らかな救い主として、わたしが姿を現す時が来る。『それまで待ちなさい』と主イエスは言われるのです。
 さらに主は続けられる。29節、「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」
29節以下の御言葉を、キリスト者は、このように理解してまいりました。文字通り、苦難の日々の後、天を仰いでいると、人の子の徴が天に現れる。人の子の徴とは何か?「天の十字架が現れる」と言うのです。天に十字架が現れる。あるいは十字架につけられたままの主イエスが現れると言うのです。まさにアドベント本来の意味、「到来する」、「こっちに来る」、「現れてくる」のです。それもエルサレムの片隅のゴルゴタの丘の小さな十字架ではなく、天を覆う十字架が現れるのです。そして、その圧倒的な大きさの十字架の徴が現れた時、「地上のすべての民族は悲し」む。なぜか。主イエスを十字架につけてしまった罪が、どれほど恐ろしく、悲しいものであったか、改めて思い知らされるからです。けれども、その嘆き、悲しみを打ち破るように、大きなラッパの音が鳴り響きます。
 31節、「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」ついにその日がやって来た。主イエスが再び世にいらして下さる日がやって来た。苦難の日々が終わり、救いの完成の日がやって来た。その喜びを告げるファンファーレが鳴り響くのです。 
今朝は、マタイによる福音書と共に、旧約聖書ゼカリヤ書 第8章の御言葉を朗読して頂きました。預言者ゼカリヤは、第8章において、苦難の日の到来を告げつつ、「恐れてはならない。苦難の日は、神に選ばれた民にとって、恵みの日になる」と預言しています。その日、何が起こるのか?「万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。』(8:23)」ここに登場する「一人のユダの人」とは、神に選ばれた人、御言葉に生かされる人です。後の教会の人たちも、自分たちへの御言葉として読んだことでしょう。ゼカリヤの預言が成就し、ラッパの響きを聞く人たちの中から、神に選ばれた民が呼び出される。その呼び出される民の裾をつかみ、今まで御言葉に耳を貸さず馬鹿にしていた人たちが「あなたたちと共に行かせてほしい。」と懇願するのです。現代人にとっては、奇想天外な話かもしれません。それこそ人に馬鹿にされそうな、「お前、正気か?」と疑われそうな話でしょう。けれども、約束されているのです。他の誰でもない、わたしたちのために十字架に架かり、甦って下さった神の御子 主イエスによって。このヴィジョンを心に描きながら、子どものように信じて歩むことほど、愉快な、ワクワクすることが、あるでしょうか。
待降節に入りました。この季節によく演奏される「メサイア」は、ハレルヤコーラスが有名ですが、わたしは、第3部 48曲、バスの独唱「ラッパ鳴らん 世の死せるは 朽ちぬものと かわらん」のトランペットの音色が大好きです。タッタターン、とトランペットの音色が響くと、ワクワクします。そして独唱が始まる。「ラッパならん、世の死せるものは 朽ちざる者と かわらん」。この歌詞は、パウロが記したコリントの信徒への手紙一第15章52、53節からの引用です。「最後のラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」主イエスが約束して下さったヴィジョンを、パウロもその目に映しながら、喜んで伝えたのです。
わたしたちは、世の終わりについて、主イエスの言葉を信じるより他ありません。しかし、それで良いのです。幼子のように信じ、喜びつつ、同時に、まず何よりも選ばれた民として、世界中の破壊者から逃げまどっている人々のために、神が苦難の期間を一日でも縮めて下さるよう祈る者でありたい。その日、天から来られ、十字架で息を引き取り、三日目に甦って下さった主イエスが、ラッパの音を合図に、天から再びいらして下さる。その日、死者は甦り、朽ちない者となる。死の滅びの壁が突き破られる。たとえ、わたしたちの地上の命が、主イエスが来られるまでに、終わることになっても、甦りの朝を迎える望みをもって、地上の命を神さまに返すことができるのです。わたしたちは、この真実の望みの中で、クリスマスを迎えることが許されているのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御子は「恐ろしければ逃げればよい」とおっしゃって下さいますから感謝いたします。また、ご自分の死と甦りのいのちをもって、わたしたちをまもって下さいますから重ねて感謝いたします。わたしたちの信仰の目に、ラッパの響きと共に再び来られる御子の お姿、人の子の幻を見させて下さいますように。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、アドベント第1主日を愛する兄弟姉妹と共に迎えることが許され感謝いたします。同時に、今日の礼拝をおぼえつつ、様々な事情のために礼拝に出席することの難しい方々をおぼえます。病を抱えているため、痛みを抱えているため、仕事のため、それぞれの場で祈りをささげておられます。主よ、それらの者にも聖霊を注ぎ続けて下さい。どうか、どこにあっても、インマヌエルの御子が共におられることを感謝し、喜ぶことができますよう導いて下さい。信じられない事件、事故が毎日、起きています。特に、深く傷ついた若き魂をあなたが慰め、癒し続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年11月21日 日本基督教団 東村山教会 逝去者記念主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第16篇1節~11節、新約 ルカによる福音書 第7章11節~17節
説教題:「もう泣かなくともよい」
讃美歌:546、12、287、298、542  

 昨年の逝去者記念主日礼拝から今日まで、6名の方の葬儀の司式をいたしました。葬儀のたびに、最も辛くなるのは火葬の直前です。火葬前式が終わり、棺を炉に入れる。本当に辛く、悲しい瞬間です。そして控室での時間が終わり、再び、炉の前に集まると、遺骨が引き出されてくる。そのたびに痛感します。全ての葬りの業は、十字架と復活、そして再臨の主イエスが共におられ、慈しんでいて下さるとの信仰がなければ、わたしにはとても務めることはできないと。ご遺族の悲しみは、いくら心を寄せたところで 他人(ひと)にはわかりません。けれども、わたしたちが「この悲しみ、わたし以外には誰にもわからない」と嘆くときにも、イエスさまは、わたしたちの悲しみを放ってはおかれません。そのことを、確かなこととして信じなさいと、今朝の み言葉は、わたしたちを慰め、平安の中へと招き入れます。「もう泣かなくともよい」のだと。
わたしたち、悲しみの底にあるとき、誰かが傍にいて、寄り添ってくれるなら、安心するのではないでしょうか。ナインのやもめの一人息子の棺(ひつぎ)が担ぎ出されるときにも、大勢の町の人が 付き添いました。当時の慣習で、「泣き女」と呼ばれる雇われた女性たちも、オイオイと、少しオーバーに泣きながら葬列に加わっていました。しかし、それらの人々は、埋葬が終われば、それぞれの生活の場へと戻っていく。いつまでも、ご遺族の悲しみに 寄り添い続けることはできない。わたしたちもまた、そのような者であることを認めざるを得ません。けれども主イエスは、そのようなわたしたちとは全く違うお方として、いて下さるのです。
主イエスが、ナインという町に向かって歩いておられたところに、墓場へと向かう葬列が、悲しみの声を上げながら 町から出てきました。すると、主イエスは、棺に寄り添い、嘆き悲しんでいる母親に目をとめられました。夫を亡くし、女手一つで育てた大切な一人息子に先立たれ、なすすべなく、泣いている。神さまが用意して下さったとしか思えない出会いです。聖書には、このような出会いがある。自分からイエスさまに「癒して下さい」と救いを求める人も大勢います。けれども、諦めきっている人が、神さまのご計画によって、主イエスとの出会いを与えられることがあるのです。このやもめの母親が、正にそうでした。死という圧倒的な力の前にあって、祈る気力もなくして泣き崩れていた。本当に偶然のような出会い。けれども、偶然ではないのです。神さまが備えて下さった救いの「時」でありました。
主イエスはまず、この母親を見て下さいました。ただ「視界に入った」というのではない。じっと見つめて下さる。そして、「憐れに」思って下さった。「憐れに思い」という言葉は、「はらわた」、「内臓」という言葉に由来します。はらわたがちぎれるように痛む。それほどの苦しみをもって、心を動かして下さった。そして、静かに、母親に話しかけられたのです。「もう泣かなくともよい」と。さらに、主イエスは、息子の棺に触れられました。棺、厳密に言えば、聖書には棺(かん)と振り仮名が振られて訳されておりますが、今で言う担架のような簡素なものであったようです。遺体はその上にそのまま寝かされている。ですから主イエスは、おそらく、遺体に、直接手を触れられたのです。これは当時のユダヤの人々にとっては あり得ないこと、驚くべきこと、思わず我を忘れて立ち止まってしまうような出来事でした。当時のユダヤの人にとって、死体は穢れたものであり、触れれば、触れた人も穢れてしまうと信じられていたからです。葬列に加わり、ぞろぞろと歩いていた大勢の町の人も、泣き女たちも驚いた。そして立ち止まってしまった。涙も引っ込んだかもしれません。そのとき、主イエスは、決定的な一言を発せられました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。すると、息子は、起き上がって話し始めました。主イエスは、息子をやもめの母親にお返しになられたのです。これを見た人々は皆恐れを抱きました。そして口々に、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、「神はその民を心にかけてくださった」と叫んだのです。
しかし、一度は甦らせて頂いたこの息子も、永遠に生き続けたわけではありません。月日が経ち、おそらく母を看取り、やがて死んだに違いありません。それでも、この出来事は聖書に記されました。後の世のわたしたちのための言葉として、残されたのです。
また、もしかすると皆さんの中には、このような感情を抱かれた方はいないでしょうか?なぜイエスさまはわたしの愛する人には「起きなさい」と言ってくれなかったのか?不公平ではないか。なぜこのやもめの母親だけ優遇されたのか?何か特別な人だったのだろうか?なぜこの一人息子は生き返ったのか?何か特別な良いことをしていた息子なのだろうか?この母親について、聖書は多くを語っていません。やもめであった。一人息子が死んだ。それだけです。特別に信仰深い母親であったとか、一人息子は、神さまを信じて生きていたなどとは、どこにも書かれていません。ただただ、主イエスが見つめて下さり、はらわたがちぎれるような痛みをもって、憐れんで下さり、近づいて下さり、触れて下さり、「もう泣かなくともよい」と宣言して下さり、さらに「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と起こして下さった。神さまの恵みは、どこまでも一方的です。そして、この一方的な恵みは決してわたしたちと無関係なのではありません。今を生きるわたしたちにも、主イエスは語りかけておられるのです。「もう泣かなくともよい」と。なぜ泣かなくともよいのか。いつも主イエスが共におられるからです。いつも主イエスが目をとめて下さるからです。いつも主イエスがはらわたを痛めていて下さるからです。どうしてそんなことが言えるのか?「イエス・キリスト」と言うけれども、なぜ2000年も昔に十字架で死んだ人がこのわたしの悲しみに何の関係があるのか?
キリストは、人として生まれて下さった神の御子であり、甦られたからです。十字架で死んだままではなかった。甦って下さり、そして、今も、生きて、働いていて下さる。わたしたちが愛する者の死により、悲しみの中にうずくまることのないように、どうせ死んだらおしまい、という思いに支配されないように、生きているうちにもっと優しい言葉をかけてあげればよかった、生きているうちに和解しておくべきだった、と自分を責める心に支配されないように、主イエスは、十字架の死と、甦りによって、死に完全に勝利して下さったのです。
これを信じなさい。ただ、受け入れなさい。と主は言われます。わたしたちはただ、主イエスのまなざしを、「もう泣かなくともよい」、「起きなさい」との み言葉を、触れて下さる み手を、信じればよい。「信じます」と信仰を告白し、洗礼を受ける全ての者に、生きて働いていて下さる神さま、主イエスは、甦りの朝を約束して下さいました。わたしたちは皆、主イエスによって、「あなたに言う。起きなさい」と、死の中から起き上がらせて頂けるのです。だから、わたしたちは「もう泣かなくともよい」のです。
 すでに召されたわたしたちの大切な仲間たちも、長い、短いはありますが、それぞれ歩み、そして、神さまがお決めになられた「時」に、神さまのもとへと帰りました。だからわたしたちは、たとえ涙が溢れても、たとえ、もう少しおしゃべりしたかった、せめて、ありがとうと一言、伝えたかったと後悔が残っていたとしても、安心して愛する人を神さまに帰してよいのです。
すでに召された人と会話を交わすことはかないません。けれども、信じる者の耳にはいつも主イエスの「もう泣かなくともよい」との 声が響く。主イエスはやもめの母親の一人息子に手を触れて下さり、「起きなさい」と命じて下さいました。このことは、わたしたちの喜びであり、希望です。やもめの息子がそうであったように、わたしたちの大切なひとたちがそうであったように、わたしたちもまた、地上から天に移される日が来ます。しかし、それで終わりではない。共に、甦りの朝を迎えることができる。主イエスが起こして下さる。この一方的な恵みは、主イエスの愛は、今朝ここに招かれた全ての皆さんに向けられています。「もう泣かなくともよい」。主イエスの み言葉が、皆さんの胸に届きますように。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、あなたの救いの みわざを、深く感謝いたします。主が共におられ、主が先立ち、死の壁をも突き抜けさせて下さることを何にもまさる喜びとすることができますように。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。逝去者記念の礼拝をおぼえつつ、様々な理由で礼拝を休まれた兄弟姉妹が多くおられます。どうか、それぞれの場所でささげている祈りを受け入れ、わたしたちと等しい祝福をお与え下さい。特に、体調を崩している者、痛みを抱えている者、心が塞いでいる者に、み手を差し伸べてください。来週の主日から、アドベントに入ります。永遠に変わることのない み子の救い、甦りの朝を信じ、クリスマスに備えることができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年11月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第60章19節~22節、新約 マタイによる福音書 第24章1節~14節
説教題:「福音が世界を包む その日まで」
讃美歌:546、15、172、Ⅱ-1、Ⅱ-59、540  

 皆さんにも、辛いとき、不安になるとき、心を支える御言葉があると思います。先週の金曜日は、母校のチャペルで、後輩たちに御言葉をとりつぐ機会を与えられました。箴言 第19章21節。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」この御言葉が後輩たちを支えるものとして、心に根づくことを祈りつつ、伝えました。たとえ今、思うようにいかなくても、たとえ今、自分の計画が崩れることがあっても、最後には、主の御旨のみが実現する。主の御旨なら、わたしにとっていちばんよいこと。主の愛の中にいる限り、与えられている課題に誠実に取り組むことができる。希望を持って。御言葉には、そのような力があると思うのです。
 マタイによる福音書 第24章も、箴言の御言葉に通じる響きを感じます。「これから、辛いこと、不安なことが起こる。でも、慌てるな。最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」主イエスは、今朝の御言葉を通して、愛する弟子たち、そして現代を生かされているわたしたちを励まして下さるのです。
 主イエスは、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」と繰り返されました。そして最後、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」と予告されたのです。主イエスの近くにはいつも弟子たちがおります。弟子たちも、「お前たちの家」とは、「エルサレム神殿」であることに気がついたのかもしれません。そこで、主イエスが神殿の境内を出て行かれると、主イエスに近寄り、神殿の建物を指さしました。「イエスさま、お言葉を返すようですが御覧下さい。この頑丈な石造りの神殿が、荒れ果てるのでしょうか?わたしたちには想像することができません。」という気持ちだったのだと思います。けれども主は、繰り返し言われました。2節、「はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他(た)の石の上に残ることはない。」
弟子たちの心は混乱しました。なぜ、神さまが住んでおられる神殿に、そのようなことが起きるのか?弟子たちは、オリーブ山で座っておられる主イエスに、ひそかに尋ねました。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴(しるし)があるのですか。」わたしたちも同じです。たとえば、巨大地震が発生する確率が発表されると、いつ頃、地震が発生するのか気になる。今から10年後、あるいは20年後か、そして自分の年齢を重ね、「これならわたしは関係ない」と思ったり、「子どもや孫たちは大変な目にあうかもしれない」と心配になるのです。それでなくとも弟子たちは、主イエスが繰り返し、「わたしは十字架で殺される」と予告されたことに不安を覚えていた。そのうえ、神殿まで崩れるとは。弟子たちは、すがるような思いで尋ねたに違いありません。
弟子たちは、「世の終わるとき」と尋ねています。「世の終わり」というと、わたしたちは、「地球が滅亡するとき」のようなイメージを抱くかもしれません。私も小学生の頃、友人から「1999年に人類が滅びる、と本に書いてある」と言われ、不安になりました。しかし、ここで「世の終わるとき」とは、元の原語では、「完成」という意味です。神さまが創造して下さった世が完成する。神さまによる創造の御業、救いの御業が完成するとき。全ての者が一人の例外もなく完全に救われる日。喜びの日、恵みの日です。弟子たちは、不安の中で、不安を振り払いたい、その一心で、神殿が崩れる日を知っておきたい。また、主イエスが来られて世の救いが完成するときには、どんな徴があるのか、具体的に知っておきたい、そうすれば少しは安心できるに違いないと質問したのです。
 主イエスは、弟子たちの不安を分かっておられました。そして不安は、たとえ神殿が崩れる日や、救いの完成の徴候を知ったところで、払拭されないこともご存知でした。不安なとき、惑わされてしまう。だから言われたのです。4節、「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」
 肝に銘じたい御言葉です。日本でも大きな地震が発生しています。全世界に疫病が蔓延。温暖化により豪雨災害に襲われる。差別があり、弾圧、拷問がある。自爆テロやクーデターもある。そういうニュースに触れるたびに、やはり慌ててしまいます。「世の終わりが近い」と思ってしまいます。だからこそ、主イエスは弟子たちに、また、今を生きるわたしたちにも、言われるのです。「人に惑わされないように」。「慌てないように」。「まだ世の終わりではない」と。さらに主は続けられます。7節、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」
血の気が引きます。「あなたがたは」と呼びかけておられますから、10節の「多くの人」というのは、「教会に連なる者」と考えてよいと思います。「教会だけは例外」ではない。教会にも混乱が起こる。不安がつのるとき、神さまが信じられなくなる。神さまの愛を疑い、離れてしまう者たちが出てくる。互いに裏切り、憎み合うようになる。神さま以外の何かにすがりたくなる。
わたしは今、高校の聖書科講師の任を与えられております。先週の授業では、十戒の心を伝えました。イスラエルの民は、モーセの姿が見えなくなると不安になり、金の子牛を造り、「これこそ、わたしの神である」と拝み始めた。激怒したモーセは、神から頂いた2枚の石板を投げ捨てたのです。モーセの時代も、主イエスの時代も、現代も、人間の不安は変わらない。主イエスが与えて下さった救いは頼りなく感じ、確かな救いを目で確かめたくなるのが わたしたちの弱さです。だからこそ、主は、はっきり言われるのです。「まだ世の終わりではない。」苦難、試練、痛み、「すべて産みの苦しみの始まりである。」救いが完成するためには、苦難がある。主は、言われるのです。「わたしも十字架で苦しむ。あなたがたの救いを産むために。どうか、あなたがたも耐え忍んで欲しい。わたしと共に。最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」甦りの主は、約束して下さいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(28:20)」「不安にさいなまれて絶望し、主を愛すること、自分を愛するように隣人を愛することを止めてしまうな。愛の中にとどまっていれば救われるのだ」と、主は約束して下さったのです。たとえ絶望的な状況にあっても、主の愛の中で、主を愛し、自分を愛し、隣人を愛することこそ、福音を証しすることなのです。
主は続けられる。「御国の この福音は あらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」「福音」とは、「喜びの知らせ」。福音は、福音の力で、全世界に届けられるのです。わたしたちは、その証人です。なぜなら、暗闇のような世にあって、主の愛に生きる者は、輝きを放つからです。その姿こそが、百の言葉に勝るとも劣らない証しとなるのです。主の約束通り、わたしたちに福音は届きました。しかし、聖餐の祝い、救いの約束、甦りの朝をご存知ない方がおられる。だから、まだ主イエスは待って下さっているのです。福音はまだまだ前進する。主の御旨のみが実現するのです。福音が、世界をくまなく包む日まで、わたしたちは、主から頂いた愛を分かち合い、明るく、喜んで、愛の火を灯し続ける証し人として、主から給わる愛の火を周りの人に配り続けたい。主の愛に守られて。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、聖霊を注いで下さい。御言葉を心に植えつけて下さい。わたしたちの心に巣くう、愛が冷える思いや、滅びに震える思いを、あなたの愛で消して下さい。福音の証人としてわたしたちを用いて下さい。主の御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。11月となりました。来週の主日は、「秋の特別伝道礼拝」が行われます。説教を担って下さる森島 豊先生を祝福して下さい。礼拝後、バザーも予定しております。どうぞ導いて下さい。21日の主日は逝去者記念主日礼拝が行われます。一人でも多くの皆さんと主の慰めを祈りつつ礼拝をささげることができますように。今朝の御言葉のように、世界では民族の対立、飢饉、災害があります。愛が冷め、憎しみの心に支配されている者がおります。主よ、愛に飢えている方々に、喜びの福音が届きますように。今朝も礼拝をおぼえつつ、様々な理由で欠席している方がおられます。どうかその場にあって、あなたの愛で満たして下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年10月31日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第118篇26節~29節、新約 マタイによる福音書 第23章25節~39節
説教題:「十字架のもとで祝福を祈れ」
讃美歌:546、70、250、274、539 

今日は、宗教改革記念日です。1517年10月31日、ドイツの改革者ルターが、ヴィッテンベルクの城教会の扉に「95箇状の提題」を張り出し、教会の慣行となっていた、いわゆる「免罪符」販売に対する抗議をした日です。これをきっかけに、ヨーロッパを揺り動かす宗教改革運動に発展、プロテスタント教会が生まれました。その記念の日にぴったりの御言葉が与えられました。25節、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」
主イエスは、内側を見ておられます。「杯や皿」を祭儀で用いる際、「杯や皿」がきれいになるよう、非常に気を配っていました。しかし主は言われます。「杯や皿」の「内側は強欲と放縦で満ちている」。「杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」「きれい」と訳された元の言葉は、「清い」という言葉です。では、どうすれば清くなれるのか?どうすれば主イエスから、「あなたは内側も清い」と言って頂けるのでしょうか?
改革を行ったルターは、「清め」について、使徒言行録 第15章のペトロの言葉、「(人の心を お見通しになる神は)彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。(15:9)」を好んで引用しました。信仰とは、御言葉を心に受け入れることです。ルターは、主の御言葉が心に入るとき、御言葉が わたしたちを清めて下さる。そう、固く信じて、闘ったのです。主イエスの御言葉が、わたしたちを清くする。御言葉がわたしたちの中に入って来て、「清くなれ。あなたが信じたとおりになるように。」そのように、わたしたちが清いことを宣言して下さるのです。いくら杯や皿の外側を磨き上げても、清くなることはできないのです。
主は続けられます。27節、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨や あらゆる汚(けが)れで満ちている。このように あなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」当時のユダヤの人々は、墓は汚れていると思っていました。むやみに お墓に近づくことは、よくないと思っていた。それで、ここに墓がある、ということが遠くから見てもよくわかるように白く塗ったのです。もしかすると、白く塗ることで汚れを清めようとしたのかもしれません。しかし主イエスは、「その白は、偽りの清さだ」と言われます。また、こうもおっしゃいました。29節、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。」「記念碑」は、「信仰の心」を表しています。「昔の人は、預言者を殺した。しかし、わたしたちは、もう殺さない。」そのような「信仰の心」を表すべく「記念碑」を飾るのです。しかし主イエスは、彼らが神の言葉を決して受け入れようとしないことを見抜いておられます。
34節に、「わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わす」とあります。これは教会の伝道者たちのことです。主イエスは嘆いておられる。「あなたがたに伝道者を遣わしても、あなたがたは殺す」。続く35節に、「正しい人アベルの血」とあります。カインとアベルの物語は、旧約聖書 創世記に登場する最初の殺人として知られています。「弟アベルを殺した兄カインの血が、あなたがたに流れている。」さらに主は、「バラキアの子ゼカルヤの血」と言われます。これは、旧約聖書 歴代誌下 第24章20節以下に登場する、祭司ゼカルヤを指します。
歴代誌下は、わたしたちが用いている旧約聖書の、ちょうど真ん中あたりですが、当時 ユダヤ人が用いていたヘブライ語の聖書では、歴代誌が一番あとに来るため、これが聖書に記録される中で、最後に殺された人の名前となるのです。「最初に殺されたアベルから始まり、ゼカルヤに至るまで、神の民の歴史は、人殺しの歴史であった。またそれは、その人たちが語る神の言葉を殺すことであった」と主は呻きつつ言われるのです。「たとえ外側は美しく、清いようでも、あなたがたの内側は清くない。なぜなら、あなたがたは神を殺しているから。外側で神に仕え、内側で神を殺すなら、偽善の仮面を被っている。」
主は続けられます。37節。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしは お前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」神の都エルサレムに生きる信仰者たちが預言者たちを殺す、神の声を殺す。神の声を殺すことは、神を殺すことと同じです。神の声に耳を塞ぎ、神を殺しながら、外側では敬虔な神の民を演じている。美しい神殿を造り、その神殿で「神を拝む」と言い続けている。そんなおかしなことがあるのか、神はあなたがたの家である神殿を見捨てられる。神殿は崩れ、荒れ果てる。そのことがわかっているから、わたしは最後まであなたがたに語りかけるのだ。「あなたたち偽善者は不幸だ。」それなのに、あなたがたはわたしの声を無視し、応じようとしなかった。そして、わたしをも十字架で殺す。これほど悲しいことはない。こんなに辛いことはない、と主イエスは深く嘆いておられるのです。
わたしたちは、自分自身の力で自分を清くすることはできません。「これだけの良いことをしたから救われる」と自分を誇ったり、反対に、「わたしはどうしようもない罪人だ」と諦めたり、それは違うのです。わたしたちは信仰によって清くされ、信仰によって義とされ、信仰によって救われるのです。めん鳥の羽の下に入っていなければ生きていけない無力な「ひよこ」のように、主イエスに救いを求めることだけが、わたしたちが清くされるたったひとつの道なのです。
神さまに頼ろうとせず、神さまの言葉を殺すわたしたち人間の罪が行きついたのは、主イエスの十字架でした。御言葉に耳を塞ぐ心、神さまが遣わして下さった方を受け入れない心が、御子を殺したのです。それなのに、主イエスは約束して下さいました。再びまみえる日の来ることを。
39節。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後(のち)、決してわたしを見ることがない。」主イエスはおっしゃるのです。「お前たちはわたしを殺す。だから お前たちがわたしを見ることはなくなる。しかし、再び会うときが来る。それは、お前たちが、わたしを歓迎し、祝福を祈ってくれる日だ」。そのように主イエスは、別れを告げながら約束して下さいました。わたしたちが心の中に、「主よ、あなたは神の御子です。イエスさま、どうぞお入り下さい」と主イエスを歓迎し、祝福を祈るとき、わたしたちの目には、すでに主イエスが、めん鳥が羽を大きくひろげて「ひよこ」を集めるように、わたしたちを招いて下さっている お姿が目に映るのです。主の御声が聞こえます。「あなたも美しくなれる。清くなれる。安心して、わたしの羽の下で休みなさい。わたしの言葉を『ひよこ』のように素直に受け入れなさい。わたしは、あなたを休ませたい。心から あなたに幸いになって欲しいのだ。そのためにわたしは十字架で血を流したのだから。」

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、あなたの愛の大きさ、深さ、広さに感謝いたします。どのようなときも、あなたがわたしたちを羽の下に集めて下さることを信じ、喜んで、あなたを賛美し続ける者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主の み名を証しするために立てられている全国、全世界の諸教会のために祈ります。今日は、宗教改革記念日。プロテスタント教会にとって記念の日です。主よ、プロテスタント教会とカトリック教会が、お互いの違いを認めつつ、共に協力し、これからもあなたの生きておられることを証し続けることができますようお導き下さい。特に迫害を受け、厳しい試練の中にある教会を強め、励まして下さい。今朝も礼拝をおぼえつつ、様々な事情により欠席している者がおります。病を抱えている者、痛みを抱えている者、仕事をしている者、心が塞いでいる者を慰めて下さい。今日の午後、収穫を感謝し、教会学校の子どもたちが芋ほりにまいります。み心なら予定通り、収穫を感謝し、楽しむことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年10月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第145篇15節、新約 マタイによる福音書 第23章13節~24節
説教題:「見える目を求めよう」
讃美歌:546、18、Ⅱ-83、239、545B 

主イエスはおっしゃいました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」「偽善者」と聞くと、腹の中では悪いことを考えていながら、人前では それを隠して、善人のように振舞う。そのようなイメージではないでしょうか。しかし、主イエスがおっしゃる「偽善者」は、ある意味もっと深刻です。自分も周りの人たちも偽善に全く気がついていないからです。では、いったい誰が「偽善者」だと判断できるのか。神さま、主イエスだけが、「偽善者」と見抜いておられる。主イエスは、「あなたがたはそういう、深刻な状態に陥ってしまっている、それはとても不幸なことだ」と、誠実に気付かせようとしておられます。
 律法学者たちとファリサイ派の人々、皆が認める模範的な指導者でした。きちんと掟を守る。10分の1献金を重んじる。手に入ったものなら何でも、「薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)」といった香辛料や薬に至るまで、その10分の1を神殿にささげるのです。礼拝を厳守し、律法の専門家として人々の相談にも対応しています。だから、まさか自分たちが「偽善者」とは思ってもいません。当然、自分たちは天の国に真っ先に迎えて頂けると思い込んでいるのです。また人々も、彼らのようになりたい、彼らに少しでも近づきたい、と願っていたのかもしれません。ところが、神さま、主イエスの目からご覧になると、「今のままでは、誰も天の国の住民にはなれない。さらに心が痛むのは、あなたがたのようになりたい、と思っている改宗者までをも、あなたがたより「倍も悪い地獄の子にしてしまう」。これほど悲しいことはない」と、主イエスは嘆いておられるのです。わたしたちは、主イエスの目に、どう映っているでしょうか?主イエスの お言葉を、わたしたちは、どのように受け止めたらよいのでしょうか?
主イエスは繰り返し「不幸だ」と言われます。この言葉は、もとは「ウーアイ」という うめき声です。身体に痛みがあるときにうめく。主が痛みをこらえて うめいておられる。「ウーアイ」、「ウーアイ」と繰り返される主イエスの うめきなのです。
かつて、主イエスは、第5章3節以下の「山上の説教」において、繰り返し「幸いだ」と言われました。貧しい人々に、悲しむ人々に、柔和な人々に、義に飢え渇く人々に、憐れみ深い人々に、心の清い人々に、平和を実現する人々に、義のために迫害される人々に、「おめでとう!天の国が あなたたちのところに来たのだよ」と祝福を告げて下さったのです。ところが今は、この祝福の言葉と対になるように、「不幸だ」と うめいておられる。主イエスには、十字架の死が迫っています。ご自分の働きが全て無駄だったのか?いや、そんなことはない。息を引き取るまで、父なる神さまの み心を伝えたい!そのような、血の汗を滴らせるほどの お言葉なのです。それなのに、もしも、「いや、わたしは偽善者ではないから関係ない」と思って、聞き流してしまうなら、それこそ、自分が罪人であることが見えていない「偽善者」になってしまうのです。
「偽善者」と訳された元の原語には、「役者」という意味があります。映画やドラマを見ても、その人が演じている、というより、役がその人に乗り移ったかのように思える名優がおります。しかし主は、律法学者たちとファリサイ派の人々に「あなたたち偽善者は不幸だ。」と言われるのです。その心は、「偽善の仮面を被っていることが自分でもわからないほどに あなたがたの姿は惨めだ。改宗し、天の国に入ろうとしている人をも地獄へと道連れにしてしまうほどの過ちを犯している」と具体的な事例を挙げて教えておられるのです。
 第23章の冒頭に、小見出しとして「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」とあります。確かに非難ですが、非難で終わらない。そこには、主イエスの慈悲がある。愛、悲しみ、うめきが聞こえます。「ウーアイ、なぜ わからないのか。なぜ こんなことになったのか。なぜ 偽善に気がつかないのか。あなたがたにも幸いになって欲しい。不幸になって欲しくない。」
 主イエスは続けて、「ものの見えない案内人」、「ものの見えない者たち」は不幸だ、と うめかれます。「あなたがたが善と思って行っていることは、全て偽善だ。あなたがたは自分では『神の み心を実践している』と思い込んでいるが、全くの見当はずれ。己の姿が見えていない。あなたがたが誓うのはどなたに対して誓うのか?父なる神ではないのか。それなのに、珍妙な掟をつくり、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効。しかし、神殿の黄金にかけて誓えば、その誓いは有効』とあなたがたは言う。」
 さらに、主イエスは続けられる。「薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実は ないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。」教会にも、会社にも、学校にも様々な規則があります。規則は大切です。組織を円滑に運営していくためには必要です。しかし、他者と平和に暮らすこと、愛すること、互いを大切にし合うことを忘れてしまった規則に何の意味があるのか、と主イエスは愛をもって問うておられるのです。ルールから はみ出てしまった人を裁き、組織から切り捨てるなら、それは主イエスが「律法の中で最も重要」と言われた「正義、慈悲、誠実」をないがしろにすることです。主イエスは言われるのです。「これこそ行うべきことである。」主は、律法学者たちとファリサイ派の人々に「これこそ行うべきことである」と具体的に教えて下さったのです。もしも、主イエスが律法学者たちとファリサイ派の人々が憎いだけなら、見捨てればよいのです。しかし、そうではない。主イエスは、律法学者たちとファリサイ派の人々に、「あなたがたは、自分が仮面を被っていることに気づいていない。自分自身の姿が見えていない。己の罪に気がついて欲しい。今からでも遅くない。偽善という仮面を捨てて欲しい。『主よ、罪人のわたしを憐れんでください』と祈って欲しい。そうすれば、あなたがたも地獄の子ではなく、神の子、天の国の住民になれる」と、正義と慈悲と誠実をもって、彼らに語りかけておられるのです。
 わたし自身の弱いところでもありますが、どうしてもわたしたちはこの世で生きていくとき、人の目を気にします。神さまの眼差し、主イエスの眼差しよりもです。「いえ、そんなことありません。わたしは人の目は全く気になりません。いつも神さま、主イエスの眼差しを感じております。」と胸を張って言えるなら、素晴らしいことです。しかし、そのような思いにも、もしかするとすっと偽善が入り込むのかもしれません。胸を張る前に、自分の罪、目も心も塞がってしまう罪を見つめる。そのとき、わたしたちに祝福を告げて下さる主の み声が聞こえ、主の眼差しが わたしたちを包み込むのです。
主は言われます。「あなたがたは幸いだ。不幸になってはならない。あなたがたは弱い。あなたがたが自分だけの力で正義、慈悲、誠実に生きることはできない。でも、そのことに気がつかない人は不幸だ。いかに自分が惨めな者であるか。いかに人の目を気にする者であるか。いかに自分の罪、弱さすら隠そうとしているか。いかにこの世の掟に縛られているか。目の前で苦しんでいる人を裁き、愛を欲する人、回心しようとしている人を排除しているか。信仰の目を開き、あなた自身をよく見てほしい。あなたの罪をよく知って欲しい。そして『主よ、罪人のわたしを憐れんでください』と祈って欲しい。そのとき、あなたは幸いなのだ。わたしは、あなたの祈りに応える。わたしは、あなたのために十字架を背負う。あなたを天の国に入らせるために。もう人の顔色をうかがうはやめなさい。人から減点されるのを恐れることはない。あなたの罪も弱さも惨めな姿も全てわたしは知っている。だからあなたを今朝も礼拝へと招いた。あなたの罪をわたしは赦した。赦された者として、正義、慈悲、誠実を大切に歩んで欲しい。大丈夫。あなたが正義、慈悲、誠実に生きるために、わたしはどんなときもあなたを支える。」
 主イエスの十字架を見つめると、主の正義、慈悲、誠実が届きます。そのとき、わたしたちも仮面を捨てることができる。人の目、言葉で一喜一憂するのではなく、主の眼差し、主の愛、主の赦しに包まれるのです。主イエスは、全ての人を天の国へ招いておられます。誰をも天の国から排除なさらない。主イエスは、そのために十字架で死なれ、わたしたちを地獄の子から、神の子として下さったのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、どんな時も、あなたの愛と赦しに信頼し、正義、慈悲、誠実なあなたの僕として歩む者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。わたしたちの教会に、あなたの愛と赦しを求め、こつこつと礼拝をささげている求道者がおります。どうか、それらの方々の祈りを聞き、いつの日か、信仰を告白し、洗礼の恵み、聖餐の祝いに与ることができますようお導き下さい。今、この時も医療、介護の現場で働いている者がおります。緊張を強いられる現場で心身とも疲れていると思います。どうか、それらの方々の疲れを癒して下さい。季節が秋から冬へと変化しております。職を奪われ、住むところも奪われ、寒い中、今日の糧に悩む者がおります。どうかそれらの方々に生きる希望をお与え下さい。今朝も様々な事情により礼拝を欠席している者がおります。特に病を抱えている者、痛みを抱えている者を憐れみ、それぞれの場にあって聖霊を注いで下さい。主にあって、正義、慈悲、誠実を行うことができますよう導いて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年10月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第3章9節、新約 マタイによる福音書 第23章1節~12節
説教題:「わたしたちは どこに立っているか」
讃美歌:546、24、Ⅱ-173、262、545A 

主イエスは、エルサレム神殿の境内におられます。主イエスには、十字架の死が迫っています。だからこそ、愛する弟子たち、群衆に、そして後の世のわたしたちにも、このことは伝えておきたいと、心を砕き、言葉を尽くして、教えて下さいました。それは、誰もが、いつ足をとられてもおかしくない危険な落とし穴があるからです。主はおっしゃいます。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座(じょうざ)、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」
わたしたちは、律法学者たちやファリサイ派の人々は大変な悪人のように思ってしまっているところがあるかもしれません。聖書を読んでいると、主イエスは常に律法学者やファリサイ派を非難しているように思われるからです。しかし、主イエスは律法学者、ファリサイ派が教えている掟を否定してはおられません。彼らが教えている掟に従うことを命じておられます。彼らも、元を正せば、純粋に神さまの み旨に従って歩みたい!と願っていた人々です。真面目に、自分たちの生活を整えようと神さまの掟を大切にしたのです。けれども、自分たちの生活を清く、正しく保とうとする心が、いつの間にか、同じようにできない人々との間に線を引き、溝を掘り、区別するようになってしまいました。そのありさまを、「あなたはこれもできていない。あれもできていない。なぜできないのか、それではだめじゃないか」と責めるだけで、人々のために祈ることも、できるようになるために助けることもしないと、主イエスはおっしゃるのです。
これは果たして他人事でしょうか?わたしたちのうちの誰が、同じ過ちに陥らないと言い切れるでしょうか?「先生」と呼ばれる立場にいなかったとしても、「あの人は、わたしたちの教会にふさわしくない」と呟くなら、同じことです。だからこそ、主は言われるのです。「彼らの行いは、見倣ってはならない。」
5節に「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」とあります。当時、神さまの戒めを常に忘れずにいるために、掟を記した巻物を小箱に入れて、紐で額に巻いたり、衣服に房をつけたりする風習があったと言われています。それを、律法学者やファリサイ派の人たちは、ことさら目立つように大きくしたり、長くしたりしたのでしょう。本来の、「神の戒めを常に身につけて自分を律する」という目的はどこかへ行ってしまい、ひと目見て教師であることがわかるようにし、人々から「先生」、「先生」と敬われることが目的になってしまったのです。
 今朝の み言葉を表面的に読むと、下手をすれば、教会では「先生」という言い方は廃止にしましょう、となりかねない。わたしたちは、敬意を込めて「先生」と呼びます。主イエスは、そのような「呼び方」を廃止しなさいと命じておられるのでしょうか?礼拝が終わったら、「田村先生」でなく、「田村さん」と言えばそれですむのでしょうか?そうではないでしょう。あえて言うなら、呼び方は何でもよいのです。「先生」でも、「さん」でも。大切なのことは、「わたしたちの先生はキリストただお一人。」ということを忘れないことです。また、「先生」と呼ばれ、己に酔ってしまう危険がある一方、「先生」と親しく呼び、「わたしは、この先生に救われた」となってしまう危険もあります。牧師の交代によって、淋しい思い、あるいは裏切られたような思いになり、いつしか教会から足が遠のいてしまう、ということが、現実にあるのです。そのように、すぐ間違えてしまうわたしたちに、み言葉が与えられているのです。「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」この主イエスの お言葉に、日毎に、何度でも、立ち帰りたい。立ち続けたい。
「わたしたちの教師はキリスト一人だけ」との真理を見失うと、「わたしたちは皆 兄弟」という真理も見えなくなるのです。また、そのとき、「父は天の父おひとり」という真理をも、見失っているのです。
わたしが幼少から通い続けた教会では、あえて「兄弟姉妹」という表現を用いていませんでした。しかし、伝道者として遣わされた釧路の教会では「兄弟姉妹」という表現を用いていました。率直に「ああ、これもまたいいものだな」と思いました。東村山教会でも「兄弟姉妹」という表現を用い、週報にも記載しています。ただ、この「兄弟姉妹」も形式的になる恐れがあることをわたしたちは忘れてはなりません。「兄弟姉妹」と互いに呼び合うことで生まれる安心感に浸っているだけで、共に仕え合う心がないなら、ただおひとりの天の父が見えていないのです。
主イエスはおっしゃいます。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」これこそ、神さまを、ただ おひとりの天の父と呼ぶ「兄弟」の生き方です。わたしたちのただ おひとりの教師キリストは、まことの神さまであられるのに、十字架の死に至るまで低くなられ、わたしたちに「仕える者」になって下さった。わたしたちは、そのキリストをただ おひとりの教師と呼び、神をただ おひとりの父と呼ぶことが許されているのです。そうであるなら、助けを必要とする人に、「あれもやれ、これもやれ」と背負いきれない重荷を肩に載せることがどうしてできるでしょう。その人のために何ができるのかを祈り求め、力を尽くす。それが「指一本貸」すことだと思うのです。目の中のおがくずを指摘するのではなく、隣人の痛み、苦しみに祈りをもって、指一本でも貸せたらどんなに幸いなことでしょう。
 先週の木曜日、嬉しいことがありました。頌栄女子学院での働きのお昼休みのことです。まだ聖書に慣れていない中学1年生が朝の礼拝の時間に指定された み言葉への感想を語るのですが、希望する生徒に聖書科の教師が相談に乗るのです。わたしも一人の生徒から質問を受けました。詩編 第119篇9節「どうすれば若者は自分の道を清く保てるでしょうか。あなたの言葉どおりにそれを守ることによってです。(聖書協会 共同訳)」の み言葉をどのように語ればよいでしょうか?との質問です。短い時間でしたが、何とか伝わるようにと言葉を尽くし、最後に一緒に祈りました。そのとき、何とも言えない喜びに包まれたのです。「ああ、そうか!先生も生徒もない。元気と慰めを頂いたのはわたしだ。わたしたちの父は、神さまただおひとり。わたしたちの教師はキリストただおひとり。こんなに嬉しいことはない」と教会に戻ってまいりました。
キリストが、どこまでも低く、どこまでも深く、仕える者となって下さった。そうであるなら、「先生」と呼ばれて高ぶるのではなく、人に見せびらかすのでもなく、キリストのように、膝を屈め、仕える者となりたい。困っている人がいれば、み霊の働きを祈りつつ、勇気を出して指一本でも差し出したい。そのとき、わたしたちは苦しむ者の隣人となることができるのです。今年のバザーは、コロナ禍により、職を失い、今日の生活もままならない方への支援も計画しています。指一本にも満たないささやかなわざかもしれません。それでも、ただおひとりの天の父であられる神の力が働くなら、愛のわざとなるでしょう。ご一緒に、キリストだけを師と仰ぎ、父なる神さまを信じ、共に祈り、共に仕える者として歩みたい。心より願います。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたを父と呼べる幸いを感謝いたします。また主キリストを教師と呼べる幸いを感謝いたします。ただ お一人の教師を仰ぐ者として、主キリストのように低く、へりくだる者として下さい。どうか、互いの痛みを肌で感じ、共に祈り、共に慰め、共に仕える者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。疫病の感染者数も減り、様々な経済活動も再開されつつあります。それでもなお、職を奪われ、今日の生活もままならない方々がおります。どうか、それらの方々をあなたが慰め、日毎の糧をお与え下さい。わたしたちを、指一本でも差し出す者として導いて下さい。伝道の秋を迎えました。11月14日には、森島 豊先生による秋の特別伝道礼拝を計画しております。「絶望したあなたを支える愛」と題して説教を頂きます。祈りつつ準備しておられる森島先生を強め、励まして下さい。大学で森島先生から学んでいる学生の方々、生きる希望を失っている方々が あなたの愛によって支えられますように。先週の水曜日、文部科学省より、2020年度の子どもの自殺が調査を開始した1974年以降で最多の415人であったと発表されました。疫病が子どもたちの心をむしばんでいることに胸が痛みます。生きる希望を失い、どこにも逃げ場を見つけることのできない子どもたちに生きる希望、生きる喜びをお与え下さい。新聞によると高校生の自殺が急増したとあります。多感な思春期を迎えている若者にあなたの愛が溢れるほどに注がれますように。今日も病のため、天候のため、また様々な理由のためにそれぞれの場所で祈りをささげている者を強め、励まして下さい。
キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年10月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章1節~12節、新約 マタイによる福音書 第22章41節~46節
説教題:「あなたは キリストを どう思うか」
讃美歌:546、68、138、Ⅱ-195、544、Ⅱ-167 

今朝、主イエスは、わたしたちに問うておられます。「あなたは  キリストを どう思うか。だれの子だろうか。」
主イエスの前には、ファリサイ派の人々が集まっていました。主は、彼らに向けて愛の掟を語られました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第ニも、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」そして、今朝の問いへ続くのです。「掟」というと、まず「十戒」を思い浮かべます。神さまがモーセを通してイスラエルの民に与え給うた十の戒めです。十戒には、主イエスが「最も重要だ」と教えて下さった愛の掟に生きるために、わたしたちが どうしたらよいかが、示されています。その十戒を唱和するとき、すぐに戒めを唱えるのではなく、前文を唱和します。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」「わたしの神さまは、捕らわれていたわたしを自由にして下さった。」わたしたちはまず、そのことを言い表して、神さまが、わたしたちをどれほど愛しておられるかを思い起こし、神さまが、わたしたちが愛に生きるためにと与えて下さった戒めを、ひとつ、ひとつ、心に刻むのです。戒めは全て、わたしたちが愛に生きるためのものであることを教えて下さった主イエスが、今朝、わたしたちに改めて尋ねておられます。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」
集まっていたファリサイ派の人々は、「ダビデの子です」と答えました。マタイによる福音書 第1章1節に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。福音書記者マタイは、福音書の冒頭で、「主イエスは、ダビデの子」と紹介しています。さらに第21章、主イエスのエルサレム入城の場面では、主イエスを迎えた人びとが、「ダビデの子にホサナ。」と叫んだと記しています。ファリサイ派の答えは、間違ってはいないのです。けれども主イエスは、彼らの答えに対してこのようにおっしゃいました。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
 ここで、主イエスが引用しておられるのは、詩編 第110篇の初めの御言葉です。この詩編は1節で「ダビデの詩。賛歌。」とあります。ダビデは歌ったのです。「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」ダビデ王自身が、神さまから遣わされた主の君臨を賛美した詩編において、その方を「わが主」と呼んでいる。そこに告げられている「ダビデの主」が、あなたがたが思い描く「ダビデの子」、「メシア」であるとは、どういうことなのか?この詩編を歌った時、すでにダビデ自身が、「真の救いは、自分のような者によっては与えられない」ということを知っていたのではないか。人の枠を遥かに超えた方を「わが主」と呼んで、その方が、神によって立てられる時を、ダビデ自身が仰ぎ望んでいた、となぜ言えないのか?
確かに、主イエスは、アブラハムの血筋、ダビデの血筋を継ぐ者として、この世にお生まれになりました。けれども、それだけなのか。地上の王であったダビデ自身が「わが主」と呼び、待望した救い主は、地上の王以上の者ではないのか。そのように主イエスは、ダビデの詩を用いて、ファリサイ派の人々、また、わたしたちに問われるのです。
主イエスが、ダビデの子孫としてお生まれ下さった。これは、揺るぎない事実です。主イエスご自身も、そう呼ばれることを良しとして下さいました。けれども、その上で今、主イエスははっきりと言って下さるのです。「わたしは、あなたがたが思い思いに描き、期待しているような『ダビデの子』ではないのだ。あなたがたの期待を遥かに超えて、あなたがたに本当に必要な救いをもたらす者として来たのだ。」と。それは、どのようなことを意味するのでしょうか?
わたしたちが第一主日に唱和しているニケア信条は、はっきり言っています。「主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」わたしたちの主、キリストは、創造されることなく、はじめから神さまと共におられ、父なる神さまと全く同じ性質を持っておられた。そして全ての者はこの方、主イエス・キリストによって造られたのです。その方が、神そのものであられるお方が、地上に、人として、ダビデの子孫として、生まれて下さった。そして、人がおのおの勝手に期待する、立派な王さま、立派な祭司、力ある預言者という「ダビデの子」に対する思いを、全部引き受けて、その思いを遥かに超えて、どこまでも高く、そしてどこまでも低くなって下さり、わたしたちのために、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神を愛する」道を、また「自分を愛するように隣人を愛する」道を、拓いて下さったのです。
主イエスは、この後、真の神さまであるにもかかわらず、十字架につけられて殺されました。人間として、わたしたちのように、否、わたしたち以上に、死を迎える苦しみ、痛み、悲しみを、徹底的に味わって下さったのです。十字架で嘲られ、罵られ、弟子たちから裏切られ、最後は父なる神さまからも見捨てられるという経験を、わたしたちと同じ人間として、味わって下さった。ダビデは立派な王ではありましたが、部下の妻を自分の欲望のままに手に入れ、その罪を隠蔽するために合法的に部下を殺害した。そのような罪を犯した人間でした。真の神さまが、そのような罪の男の血を引く者として、地上に生まれて下さり、本来ダビデが受けるべき罰をも、引き受けて下さった。わたしたち人間ひとりひとりの、真の愛に生きることができない罪を全部、まるごと、ご自身と共に十字架にはりつけておしまいになり、ご自身と一緒に、わたしたちをも、天へと救い上げて下さったのです。イエスさまこそ、神さまがわたしたちに与えて下さった真の救い主であり、慰め主であり、愛に生きる力の源であり、喜びなのです。
今回、説教の準備をしている中で八木重吉さんの詩が心に浮かんできて、改めて、詩集『貧しき信徒』を読み直しました。八木さんについてくどくどと説明することは控えるべきかもしれません。ただ一言だけ加えるなら、妻と二人の子を残し、30才で肺結核のために亡くなったキリスト者詩人です。皆さんも愛しておられる詩があるかもしれません。『貧しき信徒』には、項目ごとにいくつかの詩が納められており、「キリスト」という項目には、16篇の詩が納められています。主イエスから「あなたはわたしをどう思うか」と問われた八木重吉さんの答えではないか、と思いつつ、読みました。いくつか、紹介させて頂きます。
『基督』 「神はどこにいるのか/基督がしっている/人間はどうして救われるのか/全力をつくしても人間は救われはしない/基督をいま生きていると信ずることだ/基督に自分の罪を悔ゆることだ」 
『キリスト』 「病気して/いろいろ自分の体が不安でたまらなくなると/どうしても怖ろしくて寝つかれない/しかししまいに/ キリストが枕元にたって/じっと私をみていて下さるとおもうた ので/やっと落ち付いて眠りについた」
『基督』 「からだ悪いままに春になってしまった/だが基督に ついての疑は まったく消え/何か寄りつくと/すぐ手のうちの 火をなげつけるような/するどい気持ちがある」
『私はくるしい』 「私はくるしい/私は怖ろしい/私は自分が たより無い/私は基督に救ってもらいたい/それが最後のねがいだ」
わたしたちも八木さんのような思いになる時があります。結核を患っていなくても、それぞれに痛みがある。苦しみがある。恐怖が ある。その苦しみの中で、主イエス・キリストこそが、真の神さまでありながら、十字架の死と甦りによって、わたしたちに寄り添い、手を差し伸べ、救い上げて下さる方なのだと信じるとき、わたしたちは八木さんのように眠ることができ、力を与えられるのだと思います。それでも、八木さんはくるしいと訴える。そして、心の底から「私は基督に救ってもらいたい/それが最後のねがいだ」と祈るのです。八木さんの祈り、わたしたちにも許されています。同時に、もうわたしたちはキリストによって救われたのです。神の国に生きているのです。わたしたちは心から賛美することができるのです。「キリストにはかえられません、世のなにものも。」と。本来であれば、この後、讃美歌第2編195番をご一緒に賛美したかった。声に出して賛美することはできません。けれども、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」、それぞれに、いつでも、口ずさんでまいりましょう。「キリストにはかえられません、いかにうつくしいものも/この おかたでこころの/満たされているいまは。世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け。キリストにはかえられません、世のなにものも。」主イエスこそ、わたしたちの救い主。主イエスこそ、神さまがわたしたちのために与えて下さった、かけがえのないひとり子。このお方のゆえに、わたしたちは愛に生きられる。そう告白しつつ、心をこめて、命をかけて、証し続けたい。心から願います。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、日々、「キリストにはかえられません、世のなにものも。」と感謝し、祈る続ける者として下さい。どんなときも、あなたの愛に感謝し、あなたを、自分を、隣人を深く愛する者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、アフガニスタンで再びテロが発生してしまいました。憎しみの連鎖が止まりません。アフガニスタンのみならず、政情不安な各国の歩みを導いて下さい。この秋、コロナ禍のため、色々な制約もありますが、今年もバザーを行います。また森島豊先生による秋の特別伝道礼拝、さらに逝去者記念の主日礼拝も行います。どうか、ひとつひとつの礼拝、行事をあなたが祝福し、存分に用いて下さい。今日もそれぞれの事情により教会での礼拝をささげることの困難な者がおります。どうか、その場にあって、あなたの愛と祝福を注いで下さい。体調を崩している者、痛みを抱えている者、孤独を感じている者がおります。主よ、どこにいてもあなたが共におられることを忘れることのないよう、一人一人に聖霊を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年10月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第4章25節~31節、新約 マタイによる福音書 第22章34節~40節
説教題:「いちばん大切なこと」
讃美歌:546、6、Ⅱ-26、Ⅱ-1、321、543 

ファリサイ派の人々は、主イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞き、一緒に集まりました。理由は、どうすれば主イエスを罠にかけることができるか、作戦を練るためです。その中から、一人の律法の専門家が主イエスを試そうとして尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」ファリサイ派は、決して不真面目な人たちではありません。「神の掟の専門家」、「ユダヤ人の中のユダヤ人」と自他共に認める程、真剣に掟に基づく生活を大切にし、人々を指導する立場にありました。そういう意味では、わたしたちのように、言ってみれば真面目に教会に通っている者に近い存在かもしれません。どこで、どう間違ってしまうのか。この問いも、試そうとしたのでなければ、心の中に 悪が入り込んでいなければ、幸いな問いであったことでしょう。「何百という掟がある中、何が最も重要なのか、わからなくなってしまいました。主よ、どうか教えて下さい」と道を求める、救いを求める問いにもなり得るからです。
主イエスは答えて言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」「精神を尽くし」と訳されている言葉は、「魂を尽くし」、あるいは「いのちを尽くし」と訳すこともできる言葉です。主が言われたこと、それは、「いのちを尽くして、神さまを愛する。」ということです。「いのちをかけて、あなたの神を愛する。一所懸命、神さまを愛する。神さまを愛するために、生きる。それが、最も大切で、そこにこそ、あなたのいのちがある。生き生きと、輝いて生きるいのちがある。あなたを創造された神さまを愛することは、あなたのいのちの源なのだ。全ての掟は、あなたが神さまを愛するため、生き生きと、神の国の民として生きるためにあるのだ」と主はおっしゃるのです。そして、すぐに続けて言われました。
「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 第二の戒め『隣人を自分のように愛しなさい。』は、旧約聖書レビ記 第19章の引用です。レビ記 第19章18節を朗読致します。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」神さまがモーセを通してイスラエルの民に告げられた掟です。主イエスは、この掟を第一の戒めと同じ重みを持って語られました。
ところで、40節に「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とありますが、「基づいている」と訳された原語について、有名な解釈があります。「基づいている」という言葉は、ちょうど、一枚の扉が、二つか三つの蝶つがいで柱にしっかりと取りつけられている、そういう状態を意味するというのです。つまり、「律法全体と預言者」、言い換えるなら、わたしたちが、旧約聖書と呼んでいる聖書の中に告げられている真理、神さまの真理に生きる生活は、何によって成り立つのかというと、この二つの戒めに基づいている。扉が、蝶つがいで がっちり取りつけられて、はじめてスムーズに開け閉めできるように、わたしたちの信仰者としての生活も、この二つの戒めにしっかりと結びつけられて はじめて、生き生きと、自由に生きることができるようになるのです。
主イエスは、「第二も、これと同じように重要である。」とおっしゃいました。第一の掟が最も重要であるように、第二の掟も同じように最も重要だ、と言われた。「最も重要」と訳された言葉は、もともとは「大きい」という意味の言葉です。神さまを愛することに比較して、人を愛することは、「小さい」戒めとおっしゃっているのではありません。神さまを愛することと、隣人を自分のように愛することは、どちらも同じように「大きい」、二つであって一つ、一つであって二つ。隣人を愛することは、神さまを愛することであり、わたしたちが生き生きと自分のいのちを生きることなのだ、と主は言われるのです。
個人的な思い出を語ることをお許し下さい。わたしは子どもの頃、教会学校に通っておりました。色々な思い出がありますが、夏期学校は特に忘れられない思い出です。中高生時代、母教会の夏期学校は、山中湖の施設で行われました。講師は加藤常昭牧師。当時を振り返ると、贅沢な2泊3日でした。中1から高3まで毎年出席し、高3の秋に受洗へ導かれました。たくさんのことを学びましたが、「隣人を自分のように愛しなさい。」との御言葉が今も心に強く残っております。「隣人を愛することは大切。でも、その前提として大切なことは自分をきちんと愛すること。自分を愛することなく、隣人を愛することはできないのだ。」というメッセージが、当時、心に引っかかったからです。中高生時代のわたしは、自分が好きではありませんでした。そのくせ、本能的には自分を誰より先に守ろうとしてしまう。そういう自分がますます嫌い。それでも、イエスさまは「自分を愛しなさい」と言われる。心の中で反発しました。「俺は自分を愛せない。」しかし、あるとき「そうか!」と目の前が開ける思いになりました。「決して自分が良い子だから自分を愛せるのではない。そうではなくて、どうしようもない俺のために、イエスさまが十字架で死んで下さった。俺のために、イエスさまが甦って下さった。それほどまでの神さまの愛、イエスさまの愛を受けているのに、自分を愛せない、あの人、この人を愛せないなんて、そんなこと あり得ないんだ。」
主イエスは、ファリサイ派の一人である律法の専門家に、そして、わたしたちに教えて下さいました。神さまを愛すること、自分を愛すること、隣人を愛することを。愛はバラバラではありません。神さまだけを愛する、のではありません。自分だけを愛する、のでもありません。隣人だけを愛する、のでもありません。神さまを愛すること、自分を愛すること、隣人を愛することは、三つにして一つ。三つの愛が一つになるとき、わたしたちは真の意味で神さまから与えられたいのちに生きる者となるのです。けれども、ファリサイ派の人々は、主イエスの愛に背を向けてしまいます。ファリサイ派かキリスト者かの分かれ道がここにあります。神の国に生きる者となるのか。滅びを選ぶのか。いのちの分かれ道です。
これから聖餐の祝いに与ります。神さま、主イエスの愛を目で見て、手に取り、味わうことができる喜びの祝いです。神さまが独り子を世に遣わされるほどにわたしたちを愛して下さった。主イエスが いのちを捨てるほどに、わたしたちを愛して下さった。その証しが、聖餐の祝いです。何と大きな、何と贅沢な喜びでしょう。聖餐に与るとき、どれほどわたしが神さまから愛され、どれほど主イエスに愛されているか、味わうことができる。涙が溢れます。それほどまでに愛され、大切にされているわたしを、わたしが愛さないことほど、また隣人と いがみ合うことほど、神さま、主イエスを深く悲しませることはありません。まっすぐに神さまの愛、主イエスの愛に応えたい。神さまを、主イエスを愛したい。いのちをかけて愛したい。肩に力を入れて、身構える必要はありません。誰にも愛されないわたしに思えても、嫌な相手も、神さまは愛しておられる。主イエスも愛しておられる。心底大切に思って頂いている。その愛に、素直になるのです。これより、愛の証しである聖餐に与ります。溢れる愛を味わうとき、わたしたちは、神さまを愛したくなります。自分を愛したくなる。隣人を愛したくなるのです。いのちをかけて。それが、わたしたちキリスト者なのです。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、溢れる愛を日々、注いで下さり、感謝いたします。主よ、いのちをかけてあなたの愛に応える者として下さい。あなたを愛し、自分を愛し、隣人を愛することを掟ではなく、生涯の喜びとすることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、今日を生きるのに困窮している者がおります。わたしたちは皆、あなたから愛されています。主よ、生活困窮者の空腹が満たされ、柔らかい蒲団で眠ることのできる社会を共につくっていくことができますよう導いて下さい。10月となりました。学校も後期の学びが始まっております。それでもいつもとは違う日々が続いております。様々な行事が中止、延期になっております。主よ、子どもたちが悩むことなく、あなたの愛に満たされ、あなたを愛する喜び、自分を愛する喜び、隣人を愛する喜びに生きることができますよう導いて下さい。先ほどは、聖餐の祝いに与ることができました。深く感謝いたします。それでも、今日も自宅、病院、施設で礼拝をささげている者がおります。主よ、いつの日か、それらの方々と共に聖餐に与ることができますよう聖霊を注いで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年9月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第3章13節~15節、新約 マタイによる福音書 第22章23節~33節
説教題:「神の恵みの力を知れ」
讃美歌:546、8、151、306、542 

少しずつ読み進めておりますマタイによる福音書。今朝は、復活を否定するサドカイ派の人々が登場します。サドカイ派。貴族に多かったと言われています。そして、ユダヤ教の儀式を司る祭司の中に、大きな勢力を持つグループであったようです。彼らは、ただユダヤ人としての知識だけではなくて、ギリシア的な教養にも富み、知的な、インテリでありました。この人々の信仰の特色は、旧約聖書のモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)だけを大切にしていた、と言われています。そしてこれらの中には、はっきりとした復活の表現が見られないことから、サドカイ派は復活を否定していたようです。
 わたしたちは、今朝も使徒信条を告白したように、「身体のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず」る者です。大切なのは、「身体のよみがへり」。いわゆる「霊魂不滅」とは違います。魂だけが残り、肉体は滅びるのではない。人は必ず死にます。それでも、甦りの朝が来る。そのとき、身体が甦るのです。もちろん、わたしも皆さんも死んだことがありません。よって、死んだらどうなるのか、誰もわからない。確認することはできない。ですから、もしも今、目の前にイエスさまがおられたら、伺いたくなるかもしれません。「主よ、いずれ死んで灰になるわたしの身体も、本当に甦ることができるのですか?」サドカイ派の問いは、わたしたち自身が心の奥底に蓋をして閉じ込めている不安や、疑いを、引きずり出すのです。
サドカイ派の人々は言いました。24節。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後に その女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
復活を信じる者が、このようなケースで思い悩んで已むに已まれず、主イエスに尋ねたのではありません。「復活はないと言っているサドカイ派の人々」の問いです。しかし主イエスは、はっきり答えて下さったのです。29節以下、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
主イエスが引用されたのは、今朝の旧約聖書の御言葉、モーセ五書のひとつ、出エジプト記第3章15節の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。」という御言葉です。主イエスはおっしゃるのです。「あなたがたも読んで知っているだろう?あなたがたの神は、昔も、今も、そして永遠に生きておられる。生きておられるあなたがたの神が、あなたがたの先祖であるアブラハムを、イサクを、ヤコブを、モーセを、そしてあなたがた自身をも、創造された。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも死んだ。しかし彼らに生命を与え、彼らを生かし、生涯を導いた神は、今も生きておられる。永遠に生きておられる。そして救いを約束して下さった。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、この救いの約束の中にいるのだ」と。主イエスの愛に満ちた眼差しを感じます。そして その眼差しは、わたしたちの不安や疑いを包みこみ、神さまの御手の中へ、御言葉の中へ、連れ戻して下さいます。
わたしたちは死んだことがありませんから、死後の世界がわからない。わからないと不安になる。けれども、わたしたちには、わたしたちの創り主、神さまの御言葉が与えられています。わたしたちの創り主であられる神さまは、預言者を世に送り、御言葉を与えて下さったのです。
旧約の預言者イザヤは、神さまの御言葉を預かり、民に伝えました。イザヤ書第40章8節。「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」同じく預言者ダニエルも、預言しました。ダニエル書 第12章2節。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。」旧約聖書を開けば、眠りからの目覚め、永遠の生命が鮮やかに預言されているのです。そして、新約聖書を開けば、死者の中から復活して下さった甦りの主が、わたしたちに直接、語りかけて下さるのです。
主イエスは甦られた後、弟子たちに言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:18~20)」主イエスは、世の終わりまで、即ち、甦りの朝が来るまで、わたしたちと共にいて下さるのです。そして甦りの朝が来ると、わたしたちは一人の例外もなく、霊魂だけでなく、身体も甦る。天使のような者となる。わたしたちは、そのような「神の恵みの力」を身に帯びているのです。なんという恵み、なんという喜びでしょうか。「主は生きておられる」聖書全体を貫く、この確かなメッセージの中に立つとき、わたしたちは、生きることができるのです。わたしたちの肉体が灰になって滅んだように見えているときでも、生きておられる神さまが、わたしたちを摑まえておられる手を離してしまわれることは決してないからです。
サドカイ派との問答の数日後には、主イエスは十字架につけられ、死んで葬られ、陰府(よみ)にくだられます。しかし、三日目に死人の中から甦り、天に昇り、そして今も、全能の父なる神の右に坐しておられます。さらに、来るべき日には、生ける者と死ねる者とを審くために、再び世にいらして下さるのです。主は生きておられます。
これからも、「身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。」とご一緒に告白し続けたい。どんなに身体が衰えても、どんなに祈る声が小さくなっても、永遠に生きておられる神さまに、「父よ、どうかこれからもわたしの手を離さないで下さい。どうか、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、そして主イエスの神であられるように、わたしの神として、甦りの望みに生きる者として下さい。」と祈り続けたい。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、あなたの恵みの力を聖書の御言葉によって お示し下さり感謝いたします。死を恐れるわたしたちです。主よ、わたしたちの手を離さないで下さい。思い違いをすることなく、どんなときも、甦りの望みに生きる者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。先週は敬老感謝のときを持つことが許され、感謝いたします。礼拝に出席され、喜びを分かち合えた方々、それぞれの事情により、礼拝に出席することはできませんでしたが、カードとお祝いの品を喜んで下さった方々が恵みの力、永遠の生命の望みに生きることができますよう導いて下さい。特に、病を抱えている方々、痛みを抱えている方々に癒しの御手を差し伸べて下さり、少しでも病と痛みが癒されますよう祈ります。世には様々な問題があります。差別があり、暴力があり、貧困があります。あなたに創造して頂いたすべての者が、神さまの恵みの力を知り、思い違いをすることなく、それぞれに与えられている務めを果たすことができますよう、知恵を授け、正しい道へと導いて下さい。先週は、東京神学大学において教授会と神学生が出席している教会牧師との懇談会が行われました。主よ、伝道献身者をお与え下さい。学んでおります神学生の歩みをこれからも導いて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年9月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ダニエル書 第2章19節~22節、新約 マタイによる福音書 第22章15節~22節
説教題:「神のものは神に返しなさい」
讃美歌:546、3、234A、339、541 

わたしたちは、日本という国で生きています。キリストと出会い、キリスト者として生まれ変わったからと言って、「わたしの国籍は、天にありますので、税金を納付しません」というわけにはいきません。
主イエスの時代、ユダヤの人々にも納税義務がありました。ユダヤの人々にとって、最も大切な税は、収入の10分の1をエルサレムの神殿に納付する神殿税でした。このほかに、ローマ帝国への税金もありました。代表的な税は、収入に関係なく誰もが納付する「人頭税」や街道の「通行税」。結果、ユダヤの人々は、苦しい生活を強いられていました。征服者であるローマ帝国への納税だけでも屈辱ですが、それ以上に、ユダヤの人々にとって苦痛だったことがありました。それは、納税する銀貨に、ローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていることです。神の民を自負するユダヤの人々にとって、自らを神と称してはばからない皇帝の、肖像と銘が刻まれた貨幣。神以外のものを神とすることを禁じるユダヤの掟に生きる者にとって、ローマの貨幣は、神さまに背く生き方を強いる、罪の象徴のようなものであったのです。
ファリサイ派の人々は、そのようなユダヤの人々の鬱屈した思いを利用し、主イエスを罠にかけようと、弟子たちをヘロデ派の人々と一緒に、主イエスのところに遣わしました。
ヘロデ派というのは、ローマ帝国から認められ、ガリラヤ地方を治めていた領主ヘロデ王に仕えていた人々や、ヘロデ王と結びつくことで利益を得ていた人々でした。これらの人々は、ローマの権力を受け入れなくては成り立ちませんから、ローマに税金を納めるのは当たり前と考えていました。
一方ファリサイ派は、神の民であることを誇りとして掟を厳守することにこだわっていた人々です。ローマへの納税を苦々しく思っていた。つまり、それぞれの主義主張は正反対。犬猿の仲であった者どうしが、「イエスを消したい」、その一点で結びついた。「民衆の心をイエスから離してしまいたい。民衆の心が離れてしまえば、捕らえて殺すことは簡単」と考えたのです。そして、主イエスに尋ねました。
「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
この質問、「適っている」と答えても、「適っていない」と答えても、主イエスを陥れることができます。もし主イエスが、「律法に適っている」と答えるなら、民衆の熱狂を失望に変えることができる。「何だ、結局はローマの手先か」と民衆の心は、主イエスへの敵意へ変化するに違いない、という計算です。
反対に、もし主イエスが、「律法に適っていない」と答えるなら、ヘロデ派の人々は、「待ってました」とばかり、ヘロデに伝えることでしょう。「王さま、イエスはとんでもない男です。ローマへの納税は、『律法に適っていない』とぬかしました。すぐ処分して下さい。」いずれにせよ、ファリサイ派、ヘロデ派の双方にとって、都合がよいのです。
主イエスは、彼らの悪意に気づいて言われました。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。」主イエスは、彼らが教えを乞うような態度を示しながら、従う気など はじめから毛頭ないことを、見抜いておられるのです。
主イエスは、続けて言われます。「税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、主はこう問われたのです。「これは、だれの肖像と銘か」。彼らは、「皇帝のものです」と答えました。すると主は、こう言われました。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
「皇帝のものは皇帝に」という始めの部分が、聖書を読んだことのない人にもよく知られていますが、単に「神さまへのつとめ、この世のつとめ、そのどちらをも果たしなさい」ということが言われているのでしょうか?「それはそれ、これはこれ」ということなのか。だとしたら、わたしたちは、どんな横暴な政治の力にも従順でなければならないということなのでしょうか?世界中のあちらこちらで行われている暴力に、沈黙して従うことも仕方ないということなのか?そういう思いも湧き上がってまいります。主イエスも、ここはうまいこと言って生き延びようとされたのでしょうか?
忘れてならないのは、主イエスの十字架の死は、ローマの権力によるものであったと同時に、ユダヤの民の声によるものでもあった、ということです。
わたしたちは今朝も、使徒信条を唱えました。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」。ポンテオ・ピラト。ローマの総督の名です。主イエスは、ローマ皇帝を批判し、反逆を企てた革命家ではなかったのに、ローマ皇帝の名のもとに処刑されたのです。なぜか?革命家を求めたユダヤの民衆が、主イエスに失望したからです。民衆がメシアに望んだのは、ローマの圧政からの解放でした。民衆の声がローマを動かし、主イエスを十字架へと追いやったのです。
主イエスは、ローマを恐れることも、民衆の勝手な期待におもねることもなさいませんでした。主イエスの「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」は、十字架の死への覚悟だったのです。「ただ、神にのみ従う」、それだけを貫かれた主イエスの この御言葉に、ファリサイ派の人々も ヘロデ派の人々も びっくりしました。しかし、立ち去ってしまいました。はじめから、主イエスの御言葉に従う気がなかったからです。
わたしたちも今、問われています。主イエスの御言葉の前を、そのまま立ち去ってしまうのか? それとも、御言葉に驚き、立ち止まり、主イエスに従って生きる道を選ぶのか? 偽善者、と主イエスから呼ばれてしまうのか? それとも 主イエスの弟子として歩み続けるのか? すべては、「神のものは神に返しなさい。」と言われた主イエスの御言葉にかかっています。
わたしたちは、神さまから地上での命を頂き、神さまが創造された世に、生かされています。創世記 第1章27節に、「神は御自分にかたどって人を創造された。」とあります。わたしたちの姿形(すがたかたち)は、神さまにかたどって創られたのです。銀貨に刻まれた皇帝の像どころではない。わたしたち自身に、神さまの姿形(すがたかたち)が刻まれているのです。わたしたちひとりひとりに、神さまのものであるというしるしが刻まれているのです。だから、わたしたち自身を神さまにお返しする。わたしたちの生涯を、神さまの手として足として生きる。「神さま、わたしはあなたのもの」と、祈り、「神のものは神に返」す生き方こそ、わたしたちの本来あるべき姿、まことの生き方なのです。魂も、体も、わたしたちは神さまのものなのです。しかしそれは、操り人形のような生き方、というのではありません。
主イエスは、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。(10:30)」とおっしゃいました。髪の毛一本までも、わたしたちは神さまのもの。驚くべき真実です。たとえ、この世の力にあらがえないような状態に置かれているとしても、わたしたちは神さまのもの。神さまの御支配のもとに生かされているのです。この確信に立ち帰るとき、神さまの御支配のもとに在るのですから、わたしたちには何も恐れるものはない。全くの自由なのです。たとえ今、天に召されたとしても、神さまがわたしを愛し、慈しみ、髪の毛一本まで大切に思って下さるのですから、安心していてよいのです。だからこそ、主イエスはおっしゃった。「あなたがたがローマ皇帝の恩恵に与っていると思うなら、その恩恵の分は皇帝に返しなさい。神さまの御恩に与っていると思うなら、その御恩の分は神さまにお返ししなさい。」そして、主イエスはご自身の お言葉通り、十字架でその身体を神さまにささげ、神さまを見失っていた わたしたちを、神さまのご支配の中へと連れ戻して下さいました。主イエスの御声が聞こえます。「神のものは神に返しなさい。わたしに従って生きなさい。あなたもわたしのように生きられる。何ものも恐れず自由に生きられる。迷子になっていたあなたは、わたしによって、神のもとに帰ることができたのだから。」
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、何ものも恐れず、安心して生きることのできる恵みを感謝いたします。髪の毛までも一本残らず数えておられるあなたに信頼し、あなたの手として足として御国の完成のために働くものとして下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。アフガニスタン、ミャンマー、香港等、政情の不安定な国があります。どうか、一日も早く主の平和をもたらして下さい。体調を崩している方々、痛みを抱えている方々をまもり、励まして下さい。コロナ禍のため、礼拝から遠ざかっている者が多くおります。どうか、それらの方々に聖霊を注いで下さい。たとえ困難な日々が続いても、あなたに信頼し、神さまのものは神さまに返す生き方を貫くことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年9月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第4章1節~4節、新約 マタイによる福音書 第22章1節~14節
説教題:「神さまからの招待」
讃美歌:546、61、86、222、540、427

 ある国の王さまが、王子さまの結婚披露宴を計画しました。他でもない、王子さまの婚宴への招待です。これほど名誉なことはないはずです。ところが、わざわざ家来たちを遣わして招待客を呼びに行ったにもかかわらず、客たちは来ようとしなかったのです。
 しかし王さまは、怒ることもせず、別の家来たちを使いに出し、こう言わせました。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」
もうすっかり、準備万端整っているのです。上等の、温かい食事が並べられ、お客が席に着くのを待つばかりです。
これは、おとぎ話ではありません。わたしたちのために、主イエスが語って下さった譬え話です。つまり、これと同じことが実際に起こっている、ということです。
主イエスは語り始める前に、このようにおっしゃいました。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。」ある王が治める国は、「天の国」なのです。天の国の王さまは、もちろん神さまです。神さまが、天の国の祝宴に招いておられる。「今すぐ、あなたに来て欲しい。」一度ならず、二度までも。招かれた招待客たちは、どうしたでしょう。主イエスはおっしゃいます。「人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他(た)の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」
人々は、王さまの招待よりも、畑や、商売の方が大事。自分の生活を整えることに心を奪われ、婚宴どころではない。それだけではありません。他(た)のもっとひどい人たちは、家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまったのです。「婚宴への招待など要らぬ世話だ!」とばかり、招待の声に耳を塞ぐばかりか、「うるさい!黙れ!」と、  招きの言葉を聞きたくないがために、殺してしまった。さすがの王さまも、これには怒り心頭。「軍隊を送って、」家来たちを殺した「人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払っ」てしまいました。
旧約聖書の時代、神さまに背き、やりたい放題だった人々が住んでいたソドムとゴモラの町が、神さまの怒りによって焼き滅ぼされた歴史が思い起こされます。
さて、その後、王さまはどうしたでしょう?王さまの次の行動は、驚くような大胆な招きでした。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」何と大人も、子どもも、女性も、男性も、ユダヤ人も、異邦人も、善人も、悪人も関係ない。誰もが王子さまの婚宴に招かれている。「片っ端から連れて来い!」王さまは、そう命じたのです。そうして、ようやく婚宴の席は、客でいっぱいになりました。
ところが、この婚宴の席に着いた客の中に たった一人、婚礼の礼服を着ていない者が座っていました。突然のことですから、礼服の準備ができなかったのでしょうか?貧しくて礼服を持っていなかったのでしょうか?それなら、なぜ礼服を着ていない人は、たった一人なのでしょう。大通りにいた人が、いつ王さまから招かれても失礼のないよう、常に婚礼の礼服を身に着けていたとも思えません。しかし、いずれにしても、王さまは男に尋ねました。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」。ところが、婚礼の礼服を着ていない者は、まるで王さまの声が聴こえていないかのように黙っている。王さまは、側近の者たちに命じました。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
 これで、譬え話は終わります。何とも後味の悪い譬え話です。婚礼の礼服を着ていない男は、手足を縛られた状態で外の暗闇にほうり出されたのですから、下手をすると死んでしまう。王さまの言葉通り、泣きわめいて歯ぎしりする男の声が聞こえるようです。譬え話を語り終えられた主イエスは、最後にこう言われました。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」ドキッとする お言葉です。いったい、どういう意味なのでしょう。礼服を着ていないということは、何を意味しているのでしょう。選ばれる人、天の国の祝宴にふさわしい者とは、どういう者なのでしょう。主イエスは、何を言おうとしておられるのか?わたしたちは、いつでも、居住まいを正して、きちんとしていなければ選ばれない、ということなのでしょうか。いつもビクビクしていないといけないのでしょうか?そうではないのです。
10節に書かれているように、宴席に着いたのは、「善人も悪人も皆」なのです。神さまは、わたしたち全ての者に、招きと共に、宴席にふさわしい礼服をも与えて下さったのです。だから王さまは、この人に「友よ」と呼びかけ「どうして、あなたに与えてあるはずの礼服を着ないで、ここに来てしまったのか」と尋ねているのです。わたしたちに与えられた礼服とは、どのようなものだったか?
この「婚宴」の譬えを語られた後、主イエスは、兵士たちに捕らえられ、総督官邸に連行されました。裸にされ、赤い外套を着せられ、トゲだらけの茨で編まれた冠を頭に載せられました。「ユダヤ人の王、万歳」と揶揄され、侮辱され、唾を吐きかけられ、葦の棒で頭をたたき続けられた。その後、外套を脱がされ、元の服を着せられ、縄で縛られたからだを引かれ、十字架に磔にされたのです。本来、わたしたちが受けるべき痛み、苦しみを全て主イエスが引き受けて下さった。手足を縛られ、外の暗闇にほうり出され、最後は、十字架で死なれたのです。なぜか?わたしたちが、神さまの怒りにより、滅ぼされないためです。わたしたちの町が、焼き払われないためです。わたしたちの手足が縛られ、外の暗闇にほうり出されないためです。主イエスが、わたしたちに代わって全ての罪を担って下さったから、わたしたちは今、こうして生かされているのです。主イエスが、わたしたちの「礼服」となって下さったのです。
自分の中に招かれるにふさわしい価値があるか、ないか、ではないのです。キリストによって赦された。キリストによってふさわしい者とされたことを、ただ信じる、ということなのです。ですから、  「こんな わたしが招かれていいのだろうか?」という呟きは、婚宴にふさわしくありません。
神さまは、わたしたちを、全ての人を、招いておられます。「なぜ、わたしの招きに応えないのか。なぜ、わたしの招きを無視するのか。わたしはあなたをつくり、あなたの名前を呼んでいる。あなたにも婚宴の席が用意されている。何度でも、わたしはあなたに声をかけ、あなたを招く。もう無視するのはやめなさい。わたしが与えた礼服を着て、安心して席に着きなさい。あなたが泣きわめき、歯ぎしりする姿は見たくない。だから、大切な独り子を、あなたの身代わりに十字架に磔にし、殺した。そこまでして、あなたを招待したのだ。だから安心して、キリストを信じ、キリストを身に纏い、婚宴に、礼拝に、神の国に来て欲しい。」
わたしたちは皆、天の国に招かれているのです。たとえ今、どのような状態に置かれていても、皆、神さまの招待者リストに名前が刻まれている。天の国に、わたしたちの名前が刻まれているのです。そして、洗礼によって、主イエスという礼服を身に纏う者とされる。主イエスという最高の礼服を纏わせて頂けること、頂いたことを感謝し、命のある限り、喜んで礼拝をささげたい。たとえ、地上での終わりの日が来ても、わたしたちは、礼拝し続けることができるのです。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、今日もわたしどもの名を呼んで招き、主イエスという礼服を身に纏う者として下さる恵みを心より感謝いたします。どうか一人でも多くの者が、あなたからの招待の声に気づき、キリストを身に纏い、喜びの婚宴に連なる者となることができますよう、これからも聖霊を注ぎ続けて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。コロナ禍の収束が見えません。緊急事態宣言も延長となりました。医療現場、介護現場、教育現場、保育現場等、一年以上、困難な状況の中で、働いておられる方々の疲労も蓄積されています。主よ、奮闘しておられる方々を強め、励まして下さい。また、何よりも疫病で苦しんでいる方々、看取っている方々、入院したくても、自宅での療養を余儀なくされている方々に癒しの御手を差し伸べて下さい。主よ、一日も早く疫病を収束させて下さい。そして御心ならば、再び、聖餐の祝いに与り、奏楽者の伴奏によって、声に出して、高らかに主を賛美することができますよう導いて下さい。今日もライブ配信で礼拝をささげている方が多くおられます。どこにあっても、あなたが共におられることを感謝します。どうか体調を崩している者、痛みを抱えている者を慰め、今週も一人一人に祝福と平安を注いで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年9月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第118篇22節~29節、新約 マタイによる福音書 第21章33節~46節
説教題:「神の御心の不思議」
讃美歌:546、56、276、Ⅱ-1、Ⅱ-167、539 

主イエスの譬え話の中で、皆さんがまっさきに思い浮かべるのは、どの譬え話でしょうか?「放蕩息子」かもしれません。あるいは、「見失った羊」かもしれません。教会学校に通っていた方であれば、紙芝居の絵が頭に浮かぶことでしょう。「放蕩息子」なら、父親に抱かれて涙を流している弟息子の絵を思い浮かべるでしょう。「見失った羊」であれば、イエスさまを思わせる飼い主が、怪我をした羊を肩に乗せ、喜んでいる絵を思い浮かべるでしょう。どちらも、神さまの圧倒的な愛が語られています。
けれども、今朝の「ぶどう園と農夫」の譬え話は、農夫たちの残虐さに胸が痛みます。そして、思うのです。なぜ、主イエスは こんな悲惨な譬え話を語られたのか?祭司長や民の長老たちの罪を糾弾するためでしょうか?
主イエスは、祭司長や民の長老たちが主イエスの権威を認めないことを深く嘆いて、「二人の息子」の譬え話を語られました。そして「もう一つのたとえを聞きなさい」と、「ぶどう園と農夫」の譬え話を、念を押すように、語られたのです。そこには、祭司長たちやファリサイ派の人々に、「自らの権威を誇るのではなく、神さまの権威によって生かされていることを知って欲しい」という、主イエスの叫びに近い願いが、込められているように思われてなりません。そして、この譬え話も、他の譬え話と同じように、わたしたちの物語でもあります。他人事ではないのです。なぜなら、わたしたちの財産も、家族も、すべて、神さまからお借りしているものだからです。
先月は、お二人の葬儀を執り行いました。葬儀のたびに思います。「わたしたちは、地上の命を神さまから預かり、いつの日か神さまにお返しする。財産も、家族も。命も。」それなのに、わたしたちは、勘違いしてしまっていないでしょうか?始めから、自分のものであったかのように。自分ひとりの力で、獲得したかのように。
今朝の譬え話に登場する農夫たちも、当初は、主人からぶどう園を借りている自覚がありました。けれども、収穫の時が近づいたとき、「俺たちが汗水流して働いて得た収穫。それなのに、なぜ主人に渡さなければならないのか。収穫したぶどうは、すべて俺たちのもの」と見当違いな欲をかいたのです。
本来なら、農夫たちは収穫したぶどうを主人の僕たちに渡さなくてはなりません。ところが彼らは、自らの正義を振りかざし、送られてきた僕たちを捕らえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。決して赦されない行為です。主人が彼らの残虐な行為を知ったなら、死刑にするか、少なくとも罰を与えてクビにすべきと、わたしたちは思います。それなのに、主人は何とお人好しなのでしょう。農夫たちを信じている。「次は、ぶどうを渡してくれるに違いない。」主人は、前回より多くの僕たちを送りました。しかし案の定、農夫たちは、同じように寄ってたかって僕たちを殺してしまったのです。
さすがの主人も怒り、農夫たちに罰を与えると思います。ところが、主人は言ったのです。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」。あり得ません。大切な僕たちが次々と犠牲になっている。それなのに、農夫たちを罰するどころか、信頼し、息子なら敬ってくれるに違いない、と使者に立てたのです。それでも、農夫たちが、「これは跡取り。さすがに殺すのはまずい。これまでの過ちを主人に謝り、収穫を息子に渡そう」となれば救いがあります。しかし、農夫たちは呟いた。「おいおい、とうとう息子を送ってきた。彼を殺せば、主人の相続財産も俺たちのもの!」農夫たちは、とうとう、この主人の息子をも捕らえ、ぶどう園の外に放り出し、殺害してしまったのです。
譬え話に登場する「ある家の主人」とは、真の権威者であられる神さまです。農夫たちは、神の民イスラエルと呼ばれた人々。ここでは、神殿の境内で教えておられた主イエスにいちゃもんをつけ、「わたしたちこそ真実の権威者」と思い込んでいる祭司長や民の長老たちを指します。
農夫たちが殺害した僕たちは、旧約聖書に登場する預言者です。イザヤも、エレミヤも、エゼキエルも、殉教したと言われています。神さまから使命を与えられ、イスラエルの民の罪を指摘し、神さまに立ち帰るよう促した。結果、人々の怒りを買い、殺されてしまったのです。本来であれば、殺した人々は神の怒りに打たれ、そこでおしまいのはず。
ところが、何と神さまは、イスラエルの民を信じ、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と、御子 主イエスを、真の権威者として、世に送られたのです。それなのに、譬え話において、主人の息子がぶどう園の外に放り出されて殺されてしまったように、譬えを語られた主イエスは、数日後に十字架で殺されてしまうのです。
農夫たちの罪、決して赦されるものではありません。厳しく審かれて当然です。譬え話を語り終えられた主イエスは、祭司長や長老たちに質問しました。「『さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。』彼らは言った。『その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。』」
当然です。誰もが同じように答えるでしょう。農夫たちのあまりにも野蛮な行為は、目に余ります。しかしです。よく考えたい。主イエスの譬え話は、わたしたちにも向けられているのです。「放蕩息子」しかり、「失われた羊」しかり。「ぶどう園と農夫」だけは例外、ということはありません。農夫たちの過ちは、わたしたちの過ちでもあるのです。わたしたちの地上の命も、財産も、家族も、「わたしのもの」ではなく、神さまからお借りしているものだからです。それなのに、その恵みを忘れ、神さまの声に耳を塞いでしまう。自分にとって都合のよい御言葉は頼まれなくても心に刻みます。けれども、自分にとって都合の悪い御言葉はどうしても耳を塞ぎたくなる。主イエスの十字架の死によって、罪を赦して頂いたのに、自分が受けた痛みは忘れることができず、他者を赦すことができない。そのようなわたしたちが、なぜ、罪の赦しを宣言され、罰を受け殺されることなく、今朝も礼拝をささげることが許されているのでしょう?
主イエスは、続けて、今朝の旧約聖書 詩編 第118篇の御言葉を引きつつ、次のように言われました。「『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
この詩編 第118篇。主イエスが、特に愛された詩(うた)ではなかったかと思います。人々が捨てた「石」と、ご自分を重ねておられたに違いありません。父なる神の御業を、主イエスも賛美なさるのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」
確かに、主イエスを十字架で捨てた わたしたちが、捨てたはずの主イエスによって罪を赦され、さらに主イエスが、隅の親石、わたしたちの土台となって下さった。その結果、わたしたちも神の国へ入れて頂けるのですから、わたしたちの目には不思議としか言いようがありません。
今朝も声に出しての賛美はできませんが、説教後の讃美歌、第2編167番を選びました。「われをもすくいし(アメイジング・グレイス)」です。処刑されて当然のわたしたちが、罪の赦しを宣言され、生かされているのは、驚くべき恵みです。救われるはずのないわたしたち。預言者の言葉に耳を塞ぎ、神さまから借りているにもかかわらず、その恵みを忘れ、己の権威を振りかざす。それなのに神さまは、独り子を十字架で殺しておしまいになるほどの愛を、注いでいて下さる。結果、わたしたちの罪は赦され、「この身はおとろえ、世を去るとき、よろこびあふるる/み国に生きん」と賛美することが許されている。まさに、アメイジング・グレイス。驚くべき恵みです。
主イエスは、十字架の上で命を捨てられました。しかし、父なる神さまは、三日目の朝、主イエスを甦らせて下さいました。そして主は、今朝も、隅の親石として、肝心要(かんじんかなめ)の土台の石として、わたしたちを支え、教会を支え、この世を支えていて下さるのです。だからこそ、いかに、わたしたちの罪が悲惨であるか、心に刻みたい。今朝の譬え話に、真実に、打ち砕かれたい。
神さまは、御子の十字架の死によって、わたしたちを赦して下さいました。それほどの神さまの愛、主イエスの愛に打たれれば、罪のわたしたちは倒れます。打ち砕かれ、倒れるとき、主イエスはグイと手を引いて、抱き起こして下さる。そして、こう語られるのです。「あなたの罪、わたしが赦した。だから、安心してわたしを土台として生きなさい。わたしは、生涯 あなたを支え、喜び溢れる御国へ導く。」共に、驚くばかりの恵みに感謝し、神さまからお借りした地上の命を感謝して歩みたい。心から願います。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、日々、あなたの驚くべき愛、御子の驚くべき赦しを感謝し、ただ一度の地上の命を喜びと希望を抱いて歩む者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。教会の外構改修工事が終了し、安全に出入りできるようになりました。感謝いたします。ここで、一人でも多くの者が、あなたと出会うことができますように。自然災害が多発しております。アフガニスタン、ミャンマー等、混乱している国があります。「これを支配せよ」と、あなたから任されているこの世を、わたしどもが勘違いし続けてきてしまったからです。すべてこの世は、おつくりになった あなたのものであることに、わたしどもの世が立ち帰ることができますよう お導き下さい。病を抱えている者、コロナ禍のため、外出することもできず、孤独を抱えている者を慰め、どんなときも共におられるあなたの愛に包まれ、希望を抱いて歩むことができますよう聖霊を注いで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年8月29日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第21章31節~32節、新約 マタイによる福音書 第21章28節~32節
説教題:「愛の中へ帰れ」
讃美歌:546、19、237、336、545B 

 今朝の御言葉は、マタイによる福音書だけに記されている特別な譬え話です。先週は、「権威」についての問答を読みました。自分自身の権威に固執する祭司長や民の長老たちは、洗礼者ヨハネの権威を神さまが与えられたものだとは認めたくない。さりとて、群衆の反応も怖い。そこで、主イエスからの問いかけに心を向けることなく、「分からない」と、はぐらかしたのです。主イエスの問いの前を素通りするところに、信仰は生まれません。
それでも、主イエスは匙を投げませんでした。「二人の息子」の譬え話と問いによって、再度、彼らに悔い改めのチャンス、救いのチャンスを与えられたのです。
「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」
教会学校に通う元気な子どもたちなら、すぐに「お兄さん!」と答えるでしょう。さらに、こう続けるかもしれません。「こんなの簡単だよ。兄は、最初は『いやです』と答えたけど、考え直し、ぶどう園に出かけた。でも、弟はダメ。口では『わかりました』と言ったのに、でかけなかった。弟は嘘つきだ!」もちろん、祭司長や民の長老たちも、「兄の方です」と答えました。彼らも、「そんなことはわかり切ったことだ」と思ったかもしれません。あるいは、もしかすると、主イエスの譬え話の解釈を浅いところで考え、「民の指導者である我々は、兄である」と安心していたかもしれません。よもや自分たちが弟だとは思っていない。先を行く者だと信じ切っている。
彼らの答えを聞いて、主イエスは言われました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
今朝の「二人の息子」の譬え話、先週の「権威についての問答」と同じように、他人事ではありません。わたしたちの信仰は、主イエスの問いに向き合って、何と答えるのかにかかっています。主イエスが、祭司長や民の長老たちに問われたのは、「あなたがたは兄?それとも弟?」という問いです。その問いは、わたしたちにも投げかけられています。「あなたがたは兄?それとも弟?」
主イエスは、二人の息子の兄に徴税人や娼婦たちを、弟に祭司長や民の長老たちを重ねておられます。主イエスの時代、徴税人や娼婦は、汚れた者として、人々から忌み嫌われていました。神さまの救いからもっとも遠いと思われ、彼ら自身もそう思い込んでいた。父から「ぶどう園へ行って働きなさい」と言われて「いやです」と答えた兄も、わたしに父の仕事の手伝いなど出来っこない、どうせ無理、と思っていたのでしょう。けれども、後で考え直した。心の中で、父の言葉を繰り返したのです。「お父さんは、罪のわたしに、『子よ』と呼びかけて下さった。『今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と命じて下さった。『更生したら行きなさい』ではない、『今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と命じて下さった。それなのに、『いやです』と拒んでしまった。よし、お父さんに信頼しよう。『子よ』と呼んで下さり、『今日、行って働きなさい』と言って下さったお父さんを信頼し、ぶどう園へ行って働こう」と、父にすべてを委ねたのです。この兄の父への信頼こそ、徴税人や娼婦たちの信仰です。
徴税人や娼婦たちは、自分には父なる神さまから「子よ」と呼んで頂く資格などない。神さまに「父よ」と応える資格もないと、心の底から自覚していた。だからこそ、洗礼者ヨハネによって示された救いへの道に賭けた。洗礼による罪の赦しを信じ、「父なる神さまは、必ずわたしをも愛し、罪を赦し、神の国へ入れて下さる」と信じたのです。
一方、祭司長や民の長老たちは、「自分たちは、神さまから特別な権威を与えられ、神さまの救いにもっとも近い。いの一番に神の国、天の国に入れる」と確信していました。けれども、その姿は、主イエスの目には、「お父さん、承知しました」と答えたのに、出かけなかった弟息子として映っていたのです。洗礼者ヨハネの悔い改めを促す言葉に耳を塞ぎ、父なる神さまの願いを無視したからです。こうして、「自分は兄、神の国に至る道を先頭に立って歩く者」と確信している祭司長や民の長老たちは後になる弟となり、神のどこまでも深い愛に信頼した徴税人や娼婦たちが、先に神の国に入る兄となる、と主イエスは言われるのです。
わたしたちにも勘違いする時があります。一所懸命に善い行いを重ね、文句のない信仰生活を貫けば、神の国に入れて頂ける。反対に、日々の生活を顧み、「こんな不信仰な生活では、神の国に入れて頂く資格がない」と思ってしまう。主イエスは、そのようなわたしたちに今朝の譬え話を通して教えて下さるのです。徴税人や娼婦たちは、決して人から褒められるような生活をしてはいませんでした。善い行いを重ね、文句をつけるすきのない信仰生活という点では、祭司長や長老たちの方が優れていました。律法を遵守し、「義しい」生活をしていた。
ところが、神の国に先に入るのは、徴税人や娼婦たちだと主イエスはおっしゃいます。『こんなわたしをも、神さまは救い、憐れんで下さる。』と神さまの愛だけを信じ、心を入れかえて洗礼を受けたからです。神さまの愛、赦しへの信頼こそ、神さまが望んでおられることなのです。
 父なる神さまは、どうしようもないわたしたちをどこまでも愛し、赦して下さるという真実を、主イエスは、十字架の死によって、わたしたちに示して下さいました。主イエスは、わたしたちの救いの道となって下さった。わたしたちは、ただ、このキリストの十字架にすがり、信頼し、主イエスに従う。神さまの「子よ」との呼びかけに、「父よ」と喜んで応える。それだけでよいのです。そのように、神さまのお言葉を信じ、愛の中に帰るそのとき、わたしたちは神の国にいるのです。それでも、時には不安になり、犯した過ちに足をとられて、動けなくなる日があります。神さまの愛を疑ってしまう日もあるかもしれません。しかし、父なる神さまは、わたしたちを「子よ」と呼び続けていて下さいます。「今日、ぶどう園で、わたしと一緒に働いてほしい」と招いて下さっています。わたしたちは、主イエスの十字架によって、神さまの子どもです。今朝も、父なる神さまから「子よ」と呼ばれているのです。共に、「父よ」と応え、主イエスの道、神の国に至る道を歩き続けてまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、すぐに自分の力に頼もうとするわたしたちをお赦しください。主よ、御子キリストの十字架に信頼し、あなたの愛の中へ帰り続ける者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。教会の外構工事が先週から始まり、入口、花壇、駐輪場の整備のためにたくさんの方が働いて下さっています。どうか、事故や怪我のないようお守り下さい。主よ、アフガニスタンで自爆テロが発生し、多くの犠牲者が出ました。どうか、報復の連鎖に陥ることなく、武器を捨て、皆が平和に生きることができるよう聖霊を注ぎ、わたしどもを導いて下さい。ひっぱくする医療現場を守り、コロナ禍の不安の中で喘ぐわたしどもに力を与えて下さい。夏休みも終わり、学校も再開されます。主よ、子どもたち、学生たちの歩みをお守り下さい。教育現場で奮闘している方々を守り、お支え下さい。体調を崩している者、礼拝から遠ざかっている者を慰め、聖霊を注いで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年8月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第40章12節~14節、新約 マタイによる福音書 第21章23節~27節
説教題:「ただひとつの問い」
讃美歌:546、16、125、252、545A

 今朝の御言葉に繰り返し登場する言葉があります。「権威」です。権威について、皆さんはどのようなイメージを お持ちでしょうか?子どもの頃は、父親に権威を感じ、父親の命令には絶対服従であったかもしれません。あるいは学校の先生に、また会社に勤務すれば上司に、権威を感じることもあります。権威とは、権力と威力。人々を強制し服従させる力。そのような強い言葉です。
けれども、今朝の御言葉に登場する「権威」は、それとは違います。主イエスがおっしゃる権威は、どのような権威でしょうか?「権威」と訳されたのは、「エクスーシア」というギリシア語で、力、全権、権力、権威、権限、自由、権利、権能、特権、支配等、色々な意味を持つ言葉ですが、その根本には、「なにものにも妨げられないところに立つ」という意味があります。
なにものにも妨げられないところに立つのは、どなたでしょう?神さま以外にはおられません。神さまだけが、何ものにも妨げられることのないお方です。従って、人が権威を持っているとするならば、それは、神さまから預かっている力です。どのような不正にも、暴力にも屈することなく正義を行う、神さまから授かった力。それが権威なのです。
それなのに、祭司長や長老たちは、神さまから預かっている権威を勘違いし、わたし自身に権威があると思い込んでいる。だから、ベタニアからエルサレムに戻られ、神殿の境内で教えておられる主イエスに近寄り、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」と詰問したのです。
彼らの態度は、他人事ではありません。わたしたちも、神さまから預かっている権威を わたし自身の権威と勘違いし、威張ったり、相手を問い詰める罪を犯します。たとえば、親であるというだけで感情の赴くままに子どもを怒鳴り散らすことがあります。神さまから託された子どもを、親の権威で威圧する。わたしたちは、権威の本来の意味を忘れてはなりません。神さまの御心、正義を行うために、神さまが預けて下さった力、それが権威なのです。
御子 主イエスは、なにものにも妨げられないところに立つ御方。権威そのものであられる。その主イエスが、彼らの挑発的な質問に対して、一つの問いをもって応じられました。24節。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」
 主イエスは、祭司長、長老たちに、「ヨハネが授けていた洗礼」の権威について問うておられます。「あなたがたに尋ねよう。ヨハネは、どのような権威によって洗礼を授けたと思うか?神が授けた権威によってか?それとも、ヨハネが勝手に企てた権威によってか?」
らくだの毛衣も着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を主食とした洗礼者ヨハネ。質素な生活を貫き、ユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語り続けた。ヨハネは、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から集まってくる人々に「罪を認め、悔い改めよ。洗礼を受け、神さまの みもとへ立ち帰れ」と促し、ヨルダン川の水で彼らに洗礼を授けたのです。
わたしたちも、日々、主イエスから問われています。「あなたは、ヨハネの洗礼は、神からのものと認めるか」。それは言い換えると、「あなたに悔い改めを求める言葉は、神の言葉であると認めるか」ということです。主イエスの、「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」との問いに向き合うとき、わたしたちは、神さまから選択を迫られているのです。悔い改めて主に立ち帰るのか?それとも、主イエスから差し伸べられている救いの御手を振り払うのか?しかし、祭司長や民の長老たちは、悔い改めの祈りを拒んだ。そして、神さまを畏れず、群衆を怖れた。どこまでも自分たち自身の権威にしがみついたのです。彼らは論じ合いました。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
 彼らは、主イエスから返って来るであろう答えを勝手に憶測して、自分たちの権威が揺らぐことを怖れ、群衆の反応をも怖れた。結果、主イエスの問いに向き合うことなく、「分からない」と言いました。主イエスの質問から逃げ、悔い改めを拒んだのです。主イエスは深く悲しまれたに違いありません。主イエスは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と言われたのです。
 祭司長や民の長老たちは、主イエスの「わたしも言うまい」に益々、主イエスへの殺意を強くしました。わたしたちも、神さまから与えられている恵みを履き違えると、祭司長や民の長老たちと同じ過ちを犯してしまいます。権威もしかり、洗礼の恵みもしかり。
わたしたち、それぞれが持つ権威は、神さまから授けられた、正義を行うための特別な力です。洗礼を受けたすべての者にキリスト者の権威が授けられている。特別な力が預けられている。だからこそ、感謝して、権威を正しく行使するために、聖霊の注ぎを祈り求めるのです。
 主イエスからの ただひとつの問いに向き合うことなく「分からない」と、はぐらかし、悔い改めない祭司長や民の長老たちを主イエスは嘆いておられます。「ヨハネは、わたしのさきがけとなり、人々を悔い改めに導いた。ヨハネを受け入れるなら、わたしをも受け入れることになる。わたしが神殿を清めたことや、神殿で語っていることは、神さまの正義を実現するため。あなたがたが罪を認め、悔い改め、洗礼へと導かれ、救われるため。それなのに、『分からない』とわたしの前を素通りするのか。」
今朝、わたしたちも、主イエスから問われています。「あなたは、あなたに悔い改めを迫る神を、あなたの神と信じるか?」
 わたしたちは、洗礼の恵みを与えられました。洗礼を受けたことで、わたしたちの罪は赦されました。十字架の主イエスによって。主は、なにものにも妨げられることのない天の権威そのものであられます。それなのに、わたしたちの罪を赦すために、十字架の上でそれを捨てられた。権威なき者として死なれた。権威なき者であるわたしたちを神さまの権威に立つ者とするために。神さまの正義に生きる者とするために。
わたしたちは、人の権威に左右されない、なにものにも屈することのない自由を 授けられました。勘違いしてはなりません。人を威圧する権威、自分勝手に生きる自由ではありません。神さまから授けられた権威によって、なにものにも妨げられずに 正義に生きることができる自由です。権威は、天からの賜物であり、神さまと人に仕えるための力なのです。 
主イエスは、なにものにも妨げられない権威をもって、わたしたちに仕えて下さいました。わたしたちも神さまに、主イエスに、人に、喜んで仕えたい。悔い改め、洗礼によって頂いた罪の赦しを感謝するとき、わたしたちも権威ある者として、真実の正義に生きることができるのです。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、罪深いわたしたちを主の十字架によって赦し、さらにあなたの権威をも授けて下さり感謝いたします。主よ、権威の意味を見失うことなく、神さま、主イエス、人に喜んで仕える者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。各地で大雨の被害が発生しております。主よ、全国の被災地で困難な生活を強いられている方々を慰め、主にある希望をお与え下さい。アフガニスタンの情勢が厳しさを増しております。逃げ惑う市民がおります。銃を発砲する者がおります。どうか、世界が連携し、厳しい状況から平和へと転換することができますよう聖霊を注いで下さい。アフガニスタンのみならず、全世界にある差別、暴力、虐待を取り除き、愛し合い、赦し合い、支え合うことができるよう導いて下さい。体調を崩している者、病と闘っている者がおります。どうかその場にあってあなたが聖霊を注ぎ、主にある平安の中で新しい週も歩んでいくことができますようお導き下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年8月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第10章12節~22節、新約 マタイによる福音書 第21章18節~22節
説教題:「実を結べ!」
讃美歌:546、1、268、357、543、Ⅱ-167
 
 都エルサレムを出て、ベタニアに行かれた主イエスは、そこで お泊りになり、翌朝早く、出発されました。十字架の死を覚悟して、都エルサレムへ戻って行かれたのです。
道中、主イエスは「空腹を覚えられ」、道端のいちじくの木に目を留められました。ところが、葉っぱは いかにも勢い良く青々と茂っているのに、実(み)は ひとつも実っていない。その様子をご覧になった主イエスは、驚くべきことをなさった。何と、いちじくの木を呪われたのです。「今から後(のち)いつまでも、お前には実がならないように」。すると たちまち、いちじくの木は枯れてしまいました。なぜ、主イエスはここまで激しく いちじくの木を呪い、枯らしてしまわれたのでしょうか?虫の居所が悪かったのでしょうか?
18節に「空腹を覚えられた」とありますが、他の聖書翻訳(前田護郎訳)では、「彼(イエス)は飢えられた。」と訳しています。単に朝食を食べていないので、お腹が空いた、というようなものではなかったのです。主は、飢えておられたのです。体だけではなく、心も。
この前日、主イエスは、腹を立てている祭司長や律法学者たちをエルサレムの神殿に残して、ベタニアに行かれました。その目的の一つには、彼らが悔い改めるのを、切実な思いで期待しておられたのかもしれません。
主イエスの宣教活動の期間は明確には分かっていませんが、長くて3年、短くて1年と言われています。その間に、主イエスはご自分の全てを捨てて、父なる神さまの御心の実現のために働かれました。休む間もなく、早朝から日が暮れるまで、神さまの御心を宣べ伝え、癒しの業を行い、祈り続けられた。そしていよいよ、総決算のときが近づいている。
けれども、主イエスを待ち受ける都エルサレムはどうか。実のならない いちじくの木のようではないか。わたしの働きは、全て無駄なことだったのか。主イエスは深く、深く悲しみ、心も体も渇き、飢えておられたのです。主は、実を結ばないいちじくの木と、悔い改めず、信仰の実を結ぼうとしないエルサレムを重ねられたかもしれません。
 主イエスは、貧しい人々や、病に苦しんでいる人々を排除している神殿のありさまを、「まるで強盗の巣だ」、とお怒りになられました。では、私たちの世はどうでしょう?私たちの暮らしの陰で、涙に暮れている人はいない、と言えるでしょうか?そのようなエルサレムの罪、わたしたちの世の罪。そして、そこに生きるキリスト者に、主は何を求めておられるのだろうか?主が飢えておられる。嘆いておられる現実。「強盗の巣」に成り下がった世。主イエスの時代も、今の時代も同じです。わたしたち自身も、時代の波に流されてしまう弱い者です。主イエスの深く、激しい飢えを思ってもみない。弟子たちも、主イエスの激しい飢え、悲しみに気づきません。あっと言う間に枯れてしまった いちじくの木に驚き、尋ねるのです。「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」。
それでも主イエスは、「わたしの苦しみがわからないのか」とも、「これが悔い改めないエルサレムの末路だ」ともおっしゃいませんでした。ただ、このようにお答えになられた。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
 日々、心に刻みたい御言葉です。主イエスは言われました。「信仰を持ち、疑わないならば」。「信じて祈るならば」。主は、「信じることとは、疑わずに祈ること。信じること、疑わないこと、祈ることは、一つ。あなたがたも、わたしのように祈るのだ。」とおっしゃる。「わたしのように祈るならば、いちじくが枯れるどころではない、山すら海に飛び込む。」と。
主イエスの祈りとは、どのような祈りでしょう。主イエスの祈りは、ただひたすら、「父なる神さまの御心がおこなわれますように、御国が来ますように」、そのことだけを求める祈りでした。主イエスは、一見、立派に見える青々と茂った木と、見かけは整っていて、立派な服を着た祭司長たちや美しい神殿を重ねられたのかもしれません。葉っぱばかりの いちじくの木のように、神さまの御心はエルサレムには一つも実っていない。どんなに 苦労を重ねても、実っていないことに、激しい飢えを抱えながら、それでも、父なる神さまを信じ、主は祈られたのです。
祈りは聴かれ、いちじくは枯れました。滅んでしまいました。けれども、主イエスが深く、激しく嘆かれた都エルサレムは、滅びはしなかった。いちじくのように枯れ、滅んでしまったのは主イエスご自身でした。主は、「エルサレムは、滅びるしかない」と見捨てることはなさらなかったのです。その滅びを、ご自身が背負うために、エルサレムへと帰って来られました。そして、祈ってくださり、ついには、エルサレムが当然背負うべき罪、弟子たちの罪、わたしたちの罪を、一切合切、ご自分で背負って下さった。滅びるべきは、見かけばかりで 実をつけていない いちじくの木のような わたしたちのはずなのに。
そして、おっしゃるのです。「疑わず、ただ信頼して祈るならば、いちじくの木を枯らすどころか、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。父なる神を信じ、わたしを信じ、聖霊の働きを信じて祈るなら、求めることは何でも得られる。」
 わたしたちの滅びは、動くはずのない山のごとく、揺るぎようのない現実だったのに、主イエスは、それを深く、激しく、痛みに思って下さり、父なる神の御心の実現を、微塵も疑うことなく信じ、祈って下さいました。そして、わたしたちの行く末であった滅びを、ご自分の身に引き受けて下さった。「この信じ難い真実を疑わずに、信じるなら、祈り求めるなら、山は動く」と主はおっしゃる。「滅びは、命に変わる」と言われる。「枯れることなく、豊かに実を結ばせることができる」と言われるのです。
これほどの圧倒的な恵みを、自分たちだけで終わらせてしまってよいのでしょうか?「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」と語り続けたい。「神さまは素晴らしい。主イエスは素晴らしい。なぜなら、それほどまでに わたしたちを愛し、赦し、生かして下さるから」と。
大変な日々が続きます。疫病があり、貧しさがあり、争いがあり、異常気象が続く。神さまは、わたしたちをどのような思いで見つめておられるだろうか?悔い改めの祈りを待っておられます。主イエスの激しい飢えを知ったわたしたちは、今朝の御言葉を心に刻み、祈り、たくさんの人に伝えていきたい。そのとき、動くことのない山が海に飛び込むように、わたしたちが祈る、あの人、この人も、滅びから命へと移されます。そのような救いの喜びを信じ、これからも「主よ、憐れみたまえ。ホサナ!主よ、わたしたちをお救い下さい」と祈り続けたい。主が喜んでくださる実を共に実らせたい。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、励ましに満ちた御言葉を感謝いたします。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」を信じ、感謝の祈り、悔い改めの祈り、執り成しの祈りを祈る者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。昨日は、教会員の伴侶の葬儀が行われました。さらに今週の水曜日にも教会員の葬儀が予定されています。主よ、深い悲しみの中にある者に甦りと再臨の主イエスの慰めを注いで下さい。猛暑の日々が続いております。また二つの台風が九州、関東に近づいております。主よ、どうか被害を最小限に止めて下さい。特に、すでに豪雨により被災した地域を守り、困難な生活を強いられている者を強め、励まして下さい。病を抱えている者、体力の衰えている者、気力の萎えている者を慰めて下さい。来週は芳賀 力先生に説教を担って頂きます。主よ、芳賀先生の ご健康を支え、説教の準備をお導き下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン

2021年8月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第63篇1節~6節、新約 マタイによる福音書 第21章12節~17節
説教題:「祈りの家に賛美の歌を響かせよ!」
讃美歌:546、2、79、Ⅱ-1、309、542 

 先週の主日、教会学校サマーフェスティバルが行われました。いつものメンバーが集い、わたしたちの「祈りの家」であるこの礼拝堂で主を賛美し、2階の集会室で工作を楽しみました。次号の「ぶどうの木」に写真付きで報告されますので、楽しみにお待ち下さい。主は、子どもたちの賛美が、「祈りの家」に響くことを求めておられます。けれども、子どもたちの賛美が、「祈りの家」に響くことに腹を立てる人々がいました。祭司長たちや、律法学者たちです。
 ろばから降りられた主イエス。いよいよエルサレム神殿の境内に入られました。それまでは柔和な表情であられたと思います。しかし、神殿に入ると表情が一変。厳しい表情となられた。神殿で売り買いしている人々を皆追い出し、両替人の台や ささげものにするための鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されたのです。
 主イエスは言われました。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」 主が「こう書いてある」と言って、引用されたのは、旧約聖書 イザヤ書第56章の御言葉です。イザヤ書第56章7節を朗読いたします。「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物と いけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」
 主なる神は、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と宣言されました。神殿は「すべての民の祈りの家」であるべきなのです。ユダヤ人も異邦人も女性も男性も子どもも大人も。それなのに、「すべての民の祈りの家」でなくなっている。特定の人々に支配されてしまった。形式的な祈りがささげられ、神殿に来る人々から日用の糧を強奪している!とお怒りになられたのです。
商売をしていた人々が皆 追い出されると、目の見えない人、足の不自由な人たちが主イエスのそばに寄って来ました。当時、これらの人々は神殿に立ち入ることを認められていませんでした。神殿の外に追い出されていた。世から捨てられ、神に呪われていると思われていました。物乞いをして生きるしかなく、主に救いを求め続けなければ生きていけない人々を、主イエスは、迎え入れて下さったのです。主にすがり続け、主に祈り続けた その祈りを、主は喜んで下さり、そばに寄って来た人々に、「あなたがたこそ、祈りの家の住民である」と迎え入れ、病を癒して下さったのです。
 他方、おもしろくないのは祭司長や、律法学者たちです。彼らは、主イエスがなさった「不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、『ダビデの子にホサナ』と言うのを聞いて腹を立て」たのです。注目したい言葉があります。「不思議な業」と訳された言葉です。これは「驚き」という言葉。「驚くべき事」という言葉なのです。そうです。本来であれば、主イエスが目の見えない人や足の不自由な人々を癒されたのですから、「わー、凄い!」と驚くのが当然。それなのに、祭司長たちや、律法学者たちは、驚くより腹を立てた。「わー、凄い!イエスさまって素晴らしい!」と興奮して喜んでいる子どもたちにイライラしている。自分たちの あずかり知らぬ メシアの出現などあり得ない。あってはならない。自分たちこそ、神に最も近い専門家だという自負により、目の前の奇跡が、メシアの姿が、神の愛が、見えなくなっている。子どもたちのように驚いたり、喜んだりできなくなっているのです。祭司長、律法学者たちは、驚き脱帽するどころか、子どもたちの声に腹を立て、主イエスに怒りをぶつけたのです。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」主は言われました。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
ここで『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』とあるのは、旧約聖書 詩編第8篇の引用です。2節以下を朗読いたします。「主よ、わたしの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝く あなたの威光をたたえます/幼子、乳飲み子の口によって。」
主イエスのこの一言は、律法学者たちのプライドを打ち砕くのに十分でした。両替人の台や 鳩を売る者の腰掛けを倒されたような、強烈な一撃となったに違いありません。その結果、主イエスは祭司長、律法学者たちから益々、強い殺意を受けることになった。いよいよ死が迫ってくる。主イエスは十字架を見据えつつ、癒しと詩編を用いて、今を生かされているわたしたちにも教えておられます。「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ子どもたち、苦しみ続けている目の見えない人や足の不自由な人たちこそ、祈りの家に相応しい者であると。
主イエスは、イライラしている律法学者たちを残して、いったん都エルサレムから立ち去られました。十字架の死を回避されたのではありません。むしろ死を意識しておられるからこそ、どうしても行きたい場所があった。それが「ベタニア」でした。 
少し先ですが、第26章にこのような御言葉があります。「さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。(26:6~7)」この、重い皮膚病の人シモンが住んでいた村がベタニアです。ベタニアの原語の意味は、「貧しい者の家」で、シモンのような重い皮膚病を患っている者など、都や近隣の町や村から村八分にされた人たちが住んでいたと考えられます。ユダヤ人であっても、神の恵みから落ちこぼれていると思われていた村。そうした辛い状況にあるベタニアに、主イエスは行かれたのです。
視察に行かれたのではありません。そこにお泊りになられた。食事も共にされたことでしょう。一緒に食事をすれば、汚れると思われていた時代です。しかし主は、エルサレムからベタニアに行かれました。十字架への備えをするために。ベタニアを 呪われた村でなく、「祈りの家」とするために。主イエスがいらして下されば、どんなに厳しい場所であっても、「祈りの家」となるのです。
一方、主イエスが立ち去られた後の神殿、主イエスに居場所を与えない神殿の、何と空しいことでしょう。わたしたちの教会は、どうでしょう。わたしたち一人一人の心はどうでしょう。主イエスにお泊り頂いているでしょうか?祈りの家になっているでしょうか?思い煩いに占領されていないでしょうか?自分の生活を守ること、利益を確保することに躍起になって、神さまの愛に素直に驚く心を失っていないでしょうか?
主イエスを喜んで迎え入れたベタニアの人々のように、試練のときも、孤独なときも、悲しみのときも、また喜びのときも、どんなときでも、主を迎え入れたい。主に泊まって頂きたい。「祈りの家」を賛美の声でいっぱいにしたい。
今朝も、それぞれの場所で礼拝をささげています。教会で。自宅で。施設や病院で。どこにあっても、そのところに主はいらして下さり、泊まって下さいます。主イエスはこの数日後、十字架で処刑されます。わたしたちが、どんな苦しみの中にあろうとも主を賛美することができるようになるために。そして三日目に、主イエスは甦られます。わたしたちが死を待つばかりではなく、永遠の命に与るために。さらに主イエスは、再び世に遣わされます。わたしたちが甦りの朝を迎えるために。たとえ、試練の日があっても、共に愛し、共に赦し、共に祈り合いたい。賛美の声を響かせる祈りの家として。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、すべての者を祈りの家に招いて下さり感謝いたします。わたしたちも、すべての者を受け入れ、共に祈りの家に賛美の歌を響かせることができますよう導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。平和を祈る8月を迎えました。今も争いがあります。様々な暴力があります。言葉の暴力も心を深く傷つけます。どうか、痛みを抱えている方々を慰め、癒して下さい。主よ、わたしたちを、あなたの平和の道具として用いて下さい。猛暑が続いております。新型ウイルスの感染者も増え続けております。そのような中、心を込めて医療に従事している者を強め、励まして下さい。今日も様々な事情のため、礼拝を休んでいる者、病床にいる者を慰め、どこにあってもインマヌエルのあなたが共におられることを忘れることのないよう お導き下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年7月25日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第52章7節~10節、新約 マタイによる福音書 第21章6節~11節
説教題:「平和の主よ お入り下さい」
讃美歌:546、53、130、297、541 

先週と、今朝の2回に分けて読んでおります御言葉は、クリスマスを迎える第1待降節や、受難週の始まりの棕梠の主日にも読まれる箇所です。旧約聖書に預言された約束の王が、神の民の都エルサレムへいよいよ入城される。エルサレムには、神に選ばれた民ユダヤ人にとって、大切な神殿がありました。遠くに住む人々でも、少なくとも年に一度は参拝するような、特別な神殿です。主イエスや弟子たちにとっても始めての場所ではなかったはずです。しかし、この日は特別でした。神さまから遣わされた約束の王としての入城であり、十字架に向かうための入城であるからです。そしてそのために主イエスは、ろばを必要とされました。
マタイは記します。「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(21:4)」マタイは、主イエスが神さまの御心に忠実に従われた、と書こうとしたのです。神さまの御心とは、何でしょう。神の民の都エルサレムの救いです。我々は神に選ばれた民である、そのようなおごりによって、神さまから心が遠く遠く離れてしまっているユダヤ人の都エルサレムのために、神さまは、昼も夜も休まずに、待って、待って、待ち続けられ、働かれるのです。
そむき続けるエルサレムに対する神さまの思いを表す御言葉があります。エレミヤ書 第4章。「わたしの はらわたよ、はらわたよ。わたしは もだえる。心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。わたしは黙していられない。(4:19)」はらわたがもだえるほどの、心臓が呻くほどの、とても黙っていられないほどの神の思いが、ついに、この世に降り、キリストとしていらして下さったのです。マタイは記すのです。「この方こそ、キリスト。イエスこそ、キリスト。イエスこそ、神の御心を行って下さる方。そして、この方は、勇ましく自分の力を誇るように馬で来られるのではない。神さまだけに信頼し、神さまの力だけを頼る。その証として、ろばをお用いになられる」と。
弟子たちは、主イエスのお言葉を受けて、近くの村へ行きました。すると、主イエスが言われた通り、すぐにろばと子ろばを見つけ、主のところまで引いて来たのです。そして、上着を脱ぎ、ろばと子ろばの上にかけると、主イエスはその上にお乗りになりました。第21章6節以下、「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(21:6~7)」
主イエスが、ろばにお乗りになると、主イエスに従って来た大勢の群衆も、弟子たちにならって、我も我もと自分の服を脱いで道に敷きました。また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いたのです。
現在でも、大切な人を歓迎するための歩行路として伝統的に用いられるのが、レッドカーペットですが、大勢の群衆も、何も持たない中でもせめて、主イエスのための聖なる場所を作りたい、主イエスが歩まれる道を作りたいと考え、行動したのです。
群衆は主イエスの前を行く者も、後に従う者も、口々に叫びました。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」「ホサナ」は、「どうか今、救って下さい」という意味の言葉です。救い主を待望して生きてきた群衆は、「ついに、わたしたちの救い主がやって来た!」と喜び、「ダビデの子にホサナ。あなたこそ、神の名により、神の使命を受け、神の権威によっていらして下さった方。あなたに神の祝福があるように。どうか、わたしたちを今、お救い下さい」と叫び続けたのです。
しかし、彼ら自身が「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っているように、全てを悟って主を賛美しているわけではありません。それでも主イエスは、この「ホサナ」を受け止めて下さっているのです。
「何もわかっていないくせに」とは、おっしゃらないのです。今はホサナと叫んでいる群衆も、主イエスが自分たちの思い描く強い王でないことを知るやいなや、エルサレムの人々と一緒になって「十字架につけろ!」と騒ぎ出す。そのことも、主イエスは十分おわかりになった上で、人々の急ごしらえのカーペットの上を、ろばに乗って、柔和な お姿で、平和そのものとなって、歩いて下さるのです。
この様子を見たエルサレムに住む者たちは、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒ぎました。10節の「騒いだ」は、群衆が
「ダビデの子にホサナ。」と叫んだのとは、ニュアンスが違います。10節で「騒いだ」と訳されたギリシア語には、「揺さぶられた」という意味があり、「都中が恐れ、動揺した」という否定的な意味があるからです。神の都エルサレムを救うために、神さまがお遣わし下さったキリストの登場に、エルサレムのユダヤ人は動揺したのです。
実際、エルサレムの人々の恐れは現実となります。主イエスが神殿に入り、最初になさったのは、商人を神殿から追い出すことでした。主イエスは、神の民の罪と対決し、神の民として生かされている、と自負する者たちを揺さぶられたのです。揺さぶり、「目を覚まして、神に立ち帰れ」と言われたのです。エルサレムの人々は、揺さぶられ動揺しました。けれども、目を覚ますことを拒み続けたのです。
エルサレムの人々の罪は、わたしたちと無縁なものでしょうか。わたしたちもまた、神の民を自負する者たちです。教会の聖なる生活を大切にしようと一所懸命になるあまり、教会の中と外の世界の間に見えない城壁を築いてはいないでしょうか。自分たちの聖なる生活の均衡を保つことだけになってしまっていないでしょうか。「この人と共に生きよ」と与えられている目の前の人を、心のどこかで諦め、見下してはいないでしょうか。主イエスがご覧になったとき、激しく揺さぶらずにはおれない関係になっていないでしょうか。そのように わたしたち自身に問いかけたとき、はじめて気がつくことがあります。
主イエスは、エルサレムの人々の罪を揺さぶり、ひっくり返しました。けれども、神殿は破壊されず、誰も、裁かれて死んでしまうようなことはありませんでした。破壊されたのは神殿ではなく、主イエスご自身であられた。神さまに裁かれ、罪人の中の罪人として死なれたのは、エルサレムの人々ではなく、主イエスただお一人だったのです。
わたしたちに必要なのは、自分自身を聖なる場所に区別して置くことではありません。主イエスに聖なる場所を用意させて頂くことです。主イエスのために聖なる場所を整えようとするとき、わたしたちは何も持っていないことに気づかされます。どうしたらよいのか?途方に暮れる。それでも、とにかく着物を脱ぎ、道に敷いた人々のように、木の枝を切って道に敷いた人々のように、主のために場所を作るのです。聖なる場所を作るのです。忙しい毎日の中で、とにかく御言葉に触れる時間を作る。祈りの時間を作る。そうやって、何とか整えた急ごしらえの場所であっても、主イエスは聖なる場所として喜んで下さる。わたしたちの王として通って下さる。わたしたちの中に入って下さる。入って下さるのは、わたしたちの平和の主。わたしたちに平和を下さる王なのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、柔和な主、平和な主として御子を お遣わし下さり、深く感謝いたします。どうか、わたしたちの中に感謝して、また喜んで、主にお入り頂く者として導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。台風が近づいております。豪雨災害の被災地では今も困難な生活を強いられている方々が大勢おられます。主よ、それらの方々を憐れみ、励まし続けて下さい。台風の被害が最小限に抑えられますようお守りください。猛暑が続いております。体調を崩している者、病を患っている者、入院生活を強いられている者、看取っている者を
その場にあって慰め、主にある希望を与え続けて下さい。今日はこの後、教会学校サマーフェスティバルを行います。集まってくる子どもたち、それぞれの事情で参加することのできない子どもたちに祝福をお与え下さい。8月15日の主の日、芳賀 力先生に「キリストの晴れ着をまとう」と題して、礼拝説教を担って頂きます。先生の説教のご準備をお導き下さい。その日、一人でも多くの者を礼拝へ招いて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年7月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ゼカリヤ書 第9章9節~10節、新約 マタイによる福音書 第21章1節~5節
説教題:「あなたの王が来られる」
讃美歌:546、21、215、348、540 

 主イエスと弟子たちは、エリコの町を出て、エルサレムに近づいていました。エリコは、死海に近く海抜マイナス250メートルの土地です。そのエリコから海抜790メートルのエルサレムまでは、マイナス250メートルから790メートルですから、1,040メートルも上らなくてはならない急な坂道。まるでこれから主イエスが経験なさる十字架の苦しみを予告するかのような坂道。これまで、主イエスは、三度、十字架の死を予告しておられます。処刑の場であるエルサレムに向かって、一歩一歩、険しい坂道をのぼって行く。先頭を行かれる主イエス。その背中を見つめながら、弟子たちが従う。呼吸も荒くなるでしょう。交わし合う言葉の数も、だんだん減っていったかもしれません。そして、とうとう、エルサレムを目前にのぞむ、オリーブ山沿いのベトファゲという村に到着しました。
 そのときです。主イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われました。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
そしてマタイはすぐに続けてこう記します。「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」そうです。マタイは旧約聖書の預言が主イエスのエルサレム入城によって成就したことを明確にしたかったのです。5節の御言葉は鍵括弧でくくられていますが、今朝の旧約聖書の御言葉 ゼカリヤ書からの引用です。
 ゼカリヤ書 第9章9節。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、
勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌(め)ろばの子である ろばに乗って。」
 「娘シオン」とは、神の民の都エルサレムです。敵国の手におちてしまった神の民の都の、救いを預言する言葉です。実に不思議な言葉です。普通に考えれば、敵国に奪われた都を奪還する王なら、颯爽と馬に乗って、周囲を蹴散らしながら登場しそうなものです。それでも、常に力によって押さえつけられ、虐げられ、価値がない者と見くだされた者たち、暴力におびえ、神さまの救いに望みをかけるより仕方のない者たちにとって、「あなたの王は、力ずくで抑え込むような乱暴な王ではない。えばったりしない。雌(め)ろばの子である ろばに乗っていらして下さる」は、深い やすらぎを与える預言として響いたことでしょう。マタイは、このゼカリヤの預言を引用して、こう記しました。
マタイによる福音書第21章5節。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」ところどころ、違いがあることがわかります。ゼカリヤ書では、「娘シオンよ、大いに踊れ」とありますが、マタイでは「シオンの娘に告げよ」と変わっている。次に、「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。」また、「勝利を与えられた者」というところがマタイでは省略されている。一方、マタイでは「荷を負う ろばの子」とありますが、ゼカリヤ書には、そのような表現はありません。マタイが意識的に、神さまが約束して下さった あなたがたの王は、高ぶることのない、柔和な方なのだと強調していることがわかります。主イエスは、まさしくそのような方でありました。主イエスご自身が、ろばで登場する柔和な王を待望する人々のように、いや、彼ら以上に、貧しく、低く、馬鹿にされ、全ての望みを神さまだけに賭け、最後まで神さまに依り頼んで生きられたのです。そして、その柔和な王、主イエスが、ろばを必要とされた、とマタイは記したのです。
ろばは、昔から馬と比べられ、「愚か者」の代名詞ともなっているような動物です。
けれども一方、めいっぱい荷物をくくりつけられても、険しい山道であっても、荷物を放り出すことなく、ゆっくり、ゆっくり、何往復でも、黙って運び続ける。従順な、おとなしい動物であり、貧しい人々にとっては馬よりも役に立つ、頼りになる家畜でした。貧しい人々の暮らしの助け手として、大事にされていたのです。そういう、貧しい人々の友のような、貧しい人々そのもののようなろば。その姿はまた、どんなに馬鹿にされても十字架を背負い、ゴルゴタの丘へと進んで行かれた主イエスのお姿にも重なります。
主イエスは、そのような王です。他者から見捨てられ、自分でも、「わたしなど、いてもいなくても誰も困らない」と思っている者に、言って下さる。「わたしは、あなたに平和をもたらす、『あなたの王』なのだ。わたしには馬鹿にされ、目立たない ろばが必要。なぜなら、わたしは、惨めな者、呪われた者として神に見捨てられ、殺される。だから、わたしがまたがるのは、ろばでなければならない。馬ではだめなのだ。」
 わたしたちが誠実に主イエスに従い、主イエスのように歩もうとするなら、エルサレムへ向かう上り坂を歩くように苦しい時があります。しかし、わたしたちには、ろばに乗る柔和な王が与えられたのです。わたしたちの罪が赦され、今 こうして生かされているのは、主イエスがろばにまたがり、エルサレムに入城してくださったからにほかなりません。もしも、主イエスが、「わたしは、エルサレムには行かない」と、坂道を引き返し、どこかへ行っておしまいになっていたなら、十字架の死はありません。わたしたちの罪が赦されることもなかったのです。
 しかし主イエスは、十字架の死に至るまで、従順に父なる神さまの み心に従われました。柔和な王が、わたしたちの代わりに死んで下さり、三日目に甦られ、信じて従う者に、永遠に生きる道を切り拓いて下さったのです。
主イエスが切り拓いてくださった神の国への道を一歩、一歩、ろばのように、柔和に、祈りつつ、歩みたい。先頭を歩かれる主イエスの背中を見つめつつ。そのとき主イエスは、わたしたちに「歩みが遅い」と鞭を当てることはありません。わたしたちの柔和な王は、親しく語って下さる。「よく歩いている。大丈夫。一歩、一歩でいい。カッコつけることはない。わたしは、あなたが必要なのだ。わたしに必要なのは、颯爽と走る馬ではない。ゆっくりでも、疲れて立ち止まっても、わたしの道を喜んで歩み続けるあなたが必要なのだ。」

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、柔和な王として御子主イエスをわたしたちにお与え下さり、深く感謝いたします。主よ、わたしたちを柔和な者として下さい。争う者ではなく、自分を愛するように隣人を愛し、迫害する者をも愛する者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。猛暑の日々が続いております。主よ 体力の衰えている者をお守り下さい。豪雨災害で困難な生活を強いられている者を慰めて下さい。疫病の感染拡大が止まりません。苦しみの中にある者を憐れんで下さい。医療に従事しておられる者の気持ちが萎えることのないようお支え下さい。体調を崩している者、病と闘っている者、看取っている者、心が塞いでいる者に聖霊を注いで下さい。来週は、教会学校サマーフェスティバルを行います。子どもたちと共に、少年時代の主イエスについて学び、楽しい時を持ちます。主よ 子どもたちの成長にとって豊かなときとなりますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年7月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第27篇4節、新約 マタイによる福音書 第20章29節~34節
説教題:「あなたは何を望むのか?」
讃美歌:546、28、162、312、539、427
 主イエスと弟子たちは、エリコの町を出発しました。一行の後ろには、大勢の群衆が従っています。向かうのはエルサレム。そこで待っているのは、十字架の死であり、三日目の甦りです。エリコは、エルサレムの北東約20キロに位置する街ですから、間もなくエルサレムに到着するのです。
その道中のできごとです。二人の盲人が、道端に座っていました。盲人たちの耳には、色々な音が聞こえてきたことでしょう。遠くからたくさんの人が歩いてくる音。たくさんの人の病を癒した主イエスのことを噂する人々の声。そして、どうやら間もなく、この道を通られるらしいということ。二人の顔色が変わりました。そして間髪入れず叫び出したのです。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。
 主イエスと弟子たちは、まだ遠くを歩いています。しかし、二人は繰り返し叫ぶのです。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。道には、大勢の見物人。段々と主イエスが近づいてくる。二人の盲人は大声で叫ぶ。群衆は、主イエスに迷惑がかかると思ったのか、あるいは二人の叫びに辟易したのか、二人を叱り、黙らせようとしました。それでも、二人は叫ぶ。「このチャンスを逃したくない。イエスさまが通られる。ずっと、なぜ目が塞がれているのか、と問い続けてきた。皆は言う。『おまえが汚れているから、その報いだ』と。納得できなかった。でも、いつしか諦めた。これも 運命であると。けれども、今日は叫びたい。だって、イエスさまが通られるのだから。噂では、たくさんの盲人の目を開いて下さった。塞がれた目を開けて下さる方は、この方をおいて他にはない!」その一心で叫び続けたのです。
 「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。主は、無我夢中で叫ぶ二人の盲人の前を通り過ぎておしまいにはなりませんでした。主は足を止め、二人を呼び寄せ、尋ねられました。「何をしてほしいのか」。
主イエスは、二人の願いを確認するまでもなく、ご存知であられたことでしょう。しかし、あえて尋ねて下さった。二人の願いを、二人に言わせて下さいました。
わたしたちは時に、主に祈り求めることを諦めてしまうことがあるのではないでしょうか。「どうせ、祈っても変わらない」と。あきらめて、自分で自分を納得させようとしてしまう。けれども、今朝の御言葉は、わたしたちに教えてくれるのです。わたしたちを救って下さる方は、この方をおいて他にはない、と固く信じ、心の底から頼り切って「主よ、我らを憐れみたまえ」と祈り求めるならば、主は足を止め、目を注ぎ、耳を傾けて下さる、ということを。
「主よ、我らを憐れみたまえ」という祈りは、教会の歴史、礼拝において、始めから繰り返されてきた祈りです。東村山教会でも「執り成しと主の祈り」の中で祈り続けています。実は、今朝の盲人の話は、マタイによる福音書に加え、マルコによる福音書、ルカによる福音書にも記されています。しかし、違いがあります。マルコとルカは一人の盲人に起こった出来事として記します。ちなみに、マルコ福音書は、バルティマイという名前も明かしています。けれども、マタイは、二人の盲人の出来事として記したのです。マルコによる福音書は、マタイによる福音書より先に書かれていますから、マタイが何らかの思いをもって、「一人」ではなく、わざわざ、「二人」と記したものと考えられます。
そこで思い起こされるのは、マタイによる福音書 第18章の御言葉です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(18:20)」「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」は、教会の交わりです。マタイは、「『主よ、我らを憐れみたまえ』という我々の祈りの前を、主が通り過ぎて行ってしまわれることはないのだ、声をあげ続けるのだ」と、読者たち、即ち、産声を上げたばかりの教会の人々を、そして後世のわたしたちをも、励ましているのではないでしょうか。二人の盲人は、教会の原点であり、「主よ、わたしたちを憐れんでください」という二人の盲人の叫びは、教会の祈りの先駆けとも言えるのです。
 さて、足を止められた主イエスは、「何をしてほしいのか」と尋ねられました。二人の盲人は、必死に訴えました。「主よ、目を開けていただきたいのです」。主は、二人を深く憐れんで、二人の目に触れられました。すると、盲人たちはたちまち見えるようになり、すぐに主イエスに従ったのです。
「何をしてほしいのか」。ここで思い起こすのは、先週、ご一緒に読んだ御言葉です。主イエスの弟子ヤコブ、ヨハネ兄弟と、その母親は、主の御前にひれ伏しました。このときも主は尋ねて下さいました。「何が望みか」。彼らの望みと、二人の盲人の望みは対照的です。ヤコブとヨハネの母は、主イエスが王座にお着きになるとき、息子たちの一人を右に、一人を左に座れるとおっしゃって下さい、と願ったのです。さらにその前、第20章の冒頭には「ぶどう園の労働者」の譬え話が語られました。主イエスが最後におっしゃったのは、「後(あと)にいる者が先になり、先にいる者が後になる(20:16)。」という御言葉でした。そして、この譬え話で印象的だったのは、「わたしの気前のよさをねたむのか(20:15)。」という表現でした。朝早くから働いた労働者が、遅くに来て働いた者たちと同じ報酬を支払った気前のよい主人に不満を訴えた。そのときのぶどう園の主人のこたえです。「ねたむ」と訳されたのは、「目が悪い」という意味を持つ言葉です。
 ヤコブとヨハネは、主イエスが伝道を始められた最初から選ばれ、弟子として主と共に行動しておりました。しかし二人とも、「仲間の弟子たちの中で誰が一番か」と評価を気にする心に支配され、仲間をねたむ心により信仰の目が塞がれていたのです。本当なら、ヤコブもヨハネもその母も、「主よ、信仰の目を開いて下さい。ねたむ心から自由にして下さい。底抜けに気前のよい、どこまでも恵み深いあなたのお姿を見させて下さい。」と願うことができたら、どんなに幸いなことだったかと思います。
肉体の目はよく見えていたのに信仰の目は見えていなかった弟子たちとは対照的に、見えない肉体の目が開かれることだけを願った二人の盲人たちは、主の深い憐れみを受け、すぐに見えるようになりました。主イエスの御顔を、はっきりと見ることができたのです。そして、すぐに立ち上がり、主イエスに従いました。主イエスのお姿をはっきり見たとき、従わずにはおれなかったのです。
わたしたちはどうでしょうか。弟子たちのように、見えなくなっているのによく見えているつもりになっていないでしょうか。わたしたちの目はすぐに塞がってしまう。まわりばかりが気になって、主の正しいお姿、恵み深いお姿が見えなくなってしまうのです。しかし、わたしたちが共に心を合わせて「主よ、我らを憐れみたまえ」と祈るとき、主はわたしたちの祈りに応えて足を止め、目を注いで、尋ねて下さいます。「何をしてほしいのか」。そのときわたしたちは何を願うのでしょうか。「主よ、あなたに従って来たわたしに報いて下さい。わたしを大切にして下さい」と願うのでしょうか。ただひとつのことだけを祈りたい。「主よ、わたしたちの塞がってしまう心、濁る目を開いて下さい。どうか、あなたのお姿、どこまでも恵み深いお姿を、正しく、はっきり、見させて下さい。」そのとき主イエスは、わたしたちに触れ、となりにいる信仰の兄弟姉妹と共に主の御姿を見えるようにして下さり、主に従い行く喜びの中に再び立たせて下さるのです。
主イエスは、エルサレムに向けて再び歩み始めました。見えるようになった二人も、従って行きました。そして主は、十字架にかけられます。二人はどうしたでしょうか?おそらく、ほかの弟子たちと同じように、つまずいた。信仰の目は、濁ってしまったかもしれません。けれども、主は復活して下さいました。再び、彼らの前にまことの お姿を見せて下さいました。道端に座っていた彼らの歩みは、主イエスの深い憐れみを受け、わたしたち教会の歩みとなった。わたしたちも、二人の盲人、産声を上げたばかりの教会の群れと同じ主の憐れみの中に在るのです。そして今朝も、共に み前にひれ伏し、祈るのです。「主よ、我らを憐れみたまえ」。主は聞いて下さる。「何をしてほしいのか」。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、すぐに目が濁ってしまうわたしたちを憐れんで下さい。わたしたちも日々、「主よ、我らを憐れみ
たまえ」と祈り続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。全国で大雨の被害が発生しております。被災され、苦しみの中にある方々を慰めて下さい。被災地にある諸教会も困難な状況にあると思います。どうか、聖霊で満たし、悲しみの中にある方々に主にある希望を語り続けることができますよう導いて下さい。明日、東京都に緊急事態宣言が発令されます。今年の夏も制約を強いられますが、希望を失うことのないよう強め、励まして下さい。病を抱えている者、看取っている者、悩みの中にある者を憐れみ、聖霊を注いで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年7月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第10章12節~16節、新約 マタイによる福音書 第20章17節~28節
説教題:「とことん仕える者となれ」
讃美歌:546、20、123、393、545B 
 
主イエスと弟子たちの一行は、都エルサレムへの途上にあります。一歩一歩、歩んで行く先に待ち受けているものが何であるか、弟子たちには見えていません。主イエスだけが、はっきりと見据えておられる。主イエスは、これまでに二度、ご自分の死と復活を予告されました。そして、この日、三度目の予告をされたのですが、十字架という言葉を初めて用いて お語りになりました。いよいよ間近に迫った秘密を、打ち明けられたのです。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
そのときです。ゼベダイの息子たちとその母が、主イエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとしました。主が、「何が望みか」と言われると、母親は言いました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 すると主は、お答えになられました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」
ゼベダイの息子たち、すなわちヤコブとヨハネは、ペトロと並んで、十二弟子の中で中心的な役割を果たした人物です。そのような二人の息子を愛し、主イエスに息子たちの人生を委ねた母が願ったこと、それは、主イエスが栄光の座に着かれるときに、息子たちが重用され、一人は主イエスの右、一人は左に座ることでした。「他の弟子たちよりも、主イエスに近い場所に息子たちを!」その一心で主の み前にひれ伏したのです。
主イエスは、どうお答えになられたでしょうか?「よくもそのようなことを願うものだ」と呆れられたかというと、決してそうではないのです。はたから見れば抜け駆けのような、愚かしくも映る願いも、静かに受け止めて下さっています。しかしその上で、「あなたがたが願うこと、つまりわたしの右に、左に座ることがどういうことなのか、あなたがたは何も分かっていない。わたしの右に、左に座ること、それは、わたしの飲む杯を共に飲むことである。」とおっしゃるのです。「杯」とは何でしょう?
主イエスは、十字架の死の前夜、ゲツセマネの園で、父なる神さまに祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(26:39)」「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。(26:42)」もだえ、苦しみつつ、できることなら「この杯を勘弁してください」との祈りを三度も祈られた。「その杯を、あなたがたは飲むことができるのか?」と問うておられるのです。この杯は、ただ「苦い杯」、というだけにとどまりません。旧約聖書エレミヤ書 第25章には、「怒りの杯」という み言葉があります。「それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。『わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わす すべての国々にそれを飲ませよ。彼らは飲んでよろめき、わたしが彼らの中に剣を送るとき、恐怖にもだえる。(25:15~16)」神の「怒りの杯」。十字架刑というのは、ただの死ではありません。犯罪者としての死です。神に呪われた者としての死です。主イエスが飲もうとしておられる杯は、まさにそのような杯なのです。「神の怒りをまともに受けて、神から呪われて、死ぬことができると、あなたがたは言うのか?」
神の怒りを まともに受けるどころか、ほんのちょっと触れただけでもひとたまりもないわたしたちのために、ご自分がしなければ
ならないことを、主イエスは今、見据えておられるのです。ご自分の飲むべき杯を目の前にじっと見据えつつ、「あなたがたは、自分の
言っていることがどれほど重いことか、わかっているのか」と問われたのです。けれども、ヤコブもヨハネも「できます」と答えました。何も知らないまま。あるいは、もしかしたら、このときは「死をも辞さない!」と勇ましい気持ちが燃えていたのかもしれません。主イエスと一緒ならば、たとえ火の中、水の中。心は燃え上っていた。でも、本当に悲しいことに、ヤコブも、ヨハネも、残りの弟子たちも、主イエスがこの杯を飲まれた時、いざ十字架にかけられるというとき、主の近くにはおりませんでした。皆、逃げ出したのです。
ところがです。神さまのご計画は深い。弟子たちは逃げておしまい。ではなかった。その後、ヤコブは殉教します。使徒言行録 第12章1節、2節。「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」主イエスと同じように殺されたのです。ヨハネの その後は諸説あってはっきりしないようですが、彼もまた伝道者として苦難の道を歩んだと考えられています。
主は言われました。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
主イエスは、ヤコブとヨハネの燃える心を受け止めながら、また、この先の二人の行く末を思いつつ、語られました。「あなたがたの望むように、あなたがたはわたしに従って生きることができる。わたしに従って死ぬことにもなるだろう。けれども、その先のことは全て、父なる神さまがお決めになることだ。」このメッセージは二人の弟子限定ではありません。主イエスの弟子とは、どのような者なのか?今をキリスト者として生かされているわたしたちにも教えて下さったのです。「キリスト者は、神さまへの100%の信頼に生き、100%の信頼に死ぬ者である。父なる神さまに、100%信頼するところにこそ、一番先とか後ろとか、右とか左とかではない完全な自由を得る。飲むべき杯を喜んで飲んで生きる道は、そこにこそ開かれるのだ。」と主イエスは、言われるのです。
さて、このやり取りを聞いた他の十人の弟子たちは二人のことで腹を立てました。「お前たち、母親まで引っ張り出して抜け駆けしやがって!」弟子たちの関心は十二人の序列。誰が偉いのか?誰が弟子の中で一番なのか?どうすれば、主から一番と認めて頂けるのか?そのことが頭から離れない。主は、そのような弟子の心を見抜かれる。「また序列を気にしている。なぜ、わからないのか。『先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。』と伝えたばかりなのに。」
そこで主イエスは、一同を呼び寄せ言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」主イエスのおそば近くにいたいと燃える心を、主イエスは静かに受け止めつつ、その心を、皆に仕えることに用いなさい。わたしの近くにいたいなら、わたしと全く同じように仕えるのだ、と言われたのです。「あなたがたは権力を振るうな。『自分が自分が』という自己は神さまに献げて、わたしのように、とことん皆に仕えるのだ。」主イエスは、100%の本気で、弟子たち、また、わたしたちにも命じておられるのです。
主イエスは「どうせ無理だろう」とは、これっぽっちも思っておられません。「あなたがたにも必ずできる。わたしの十字架の死と同じように、あなたがたも父なる神さまに100%信頼し、自分を献げて、皆に仕える者になれる!十字架の真似ができる」と言われたのです。
驚きます。わたしたちはどうしても、「イエスさま、わたしの弱さをご存知ですよね。本気でわたしに期待しておられるのですか?」と呟きたくなります。しかし、主は本気。わたしたちを信じておられる。主は断言なさるのです。「あなたがたにもできる。わたしと同じことができる。十字架の真似ができる。」スポーツ根性もののように闇雲に「やればできる」とおっしゃっているのではありません。主イエスは、そのために、わたしたちに一つの杯を用意してくださったのです。それは、聖餐の杯です。苦(にが)い、苦(くる)しい、神の怒りの杯を、わたしたちに代わって飲み干して下さった主イエスは、代わりに赦しの杯を用意して下さいました。「どうせ、できない」と呟くわたしたちが、主が十字架で裂かれた肉と流された血潮に与ることで、罪の自分が死に、主に結ばれ、新しい命を与えられたことを心と体に刻む。何度でも、刻みなおすのです。
しばらく聖餐に与ることが叶いませんでしたが今朝、ついに、与ることができます。この杯は、「怒りの杯」ではないのです。「赦しの杯」であり、皆に「仕えるための杯」なのです。この杯を頂く者に、右も左も、一位も最下位もありません。主が、十字架の死に至るまでとことんわたしたちに仕えて下さったしるしである「愛の杯」が、わたしたちの前に備えられているのです。それでも、とことん愛すること、とことん仕えることは、やはり苦しいことです。自分がないがしろにされて普通なら耐えられないようなことを耐えることだから。自分の気持ちにあらがっていくことだから。しかし、それこそが主イエスがわたしたちのために拓いて下さった平和の道であり、主イエスの み苦しみをほんの少し分けて頂き、一緒に担がせて頂ける唯一の道なのです。父なる神さまに信頼し、感謝して「愛の杯」を受けるわたしたちには、主イエスの道を喜んで前進する力が与えられるのです。<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、「怒りの杯」を主の十字架の死によって「愛の杯」にして下さり感謝いたします。主よ、喜んで皆にとことん仕える者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。大雨の被害が各地で発生しております。茫然としている者を慰め、希望を失うことのないよう導いて下さい。先週は、大変に痛ましい交通事故も発生しました。「行ってきます!」と小学校へ行った幼い命が奪われました。主よ、厳しい痛みの中にある者に慰めを注ぎ続けて下さい。病を抱えている者、看取っている者、孤独の中にある者を愛で満たし、どんなときも、あなたがた共におられることを忘れることのないよう導いて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年6月27日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ヨブ記 第38章4節~11節、新約 マタイによる福音書 第20章1節~16節
説教題:「神様の気前よさ」
讃美歌:546、26、242、324、545A 
今朝の主イエスの譬え話から、皆さんはどんな思いを抱かれるでしょうか?「早朝から炎天下、一所懸命に働いた労働者と、短い時間、それも、夕方 涼しくなってからちょろっと働いた労働者が同じ賃金であるのは納得できない」、「さすがにこれはまずいよ!」と思うかもしれません。
「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」とあります。ぶどう園、収穫の繁忙期でしょう。たわわに実ったぶどうの実。たくさんの人手が必要。労働者を雇おうと、主人みずから、広場に出かけて行って、労働者たちに声をかけました。労働者に提示された条件は、一日につき1デナリオン。当時の労働者の一日の賃金の相場です。労働者たちも納得して朝早くから働きました。それでもまだまだ人手が足りません。
9時ごろ、主人は再び出かけました。すると、また、広場で仕事を待っている人がいました。主人は彼らに言いました。「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」。9時ごろに採用された人たちは、喜んでぶどう園に行きました。
人手はまだ必要ですが、さすがにお昼ともなればその日の採用は〆切りと思われます。ところが、主人は、12時ごろと3時ごろにも出かけて行き、同じようにしたのです。それでもまだ、おしまいではありませんでした。主人は何と午後5時ごろにも、またまた出かけて行き、働き場を求めている人に声をかけたのです。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」。彼らは「だれも雇ってくれないのです」と答えました。すると主人は、これまでと同じように、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言いました。こうなると、もうわたしたちの理解を超えています。
ついに日没。今日の労働はおしまい。いよいよ賃金の支払いとなりました。ぶどう園の主人は現場監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と命じたのです。またまた「おや?」と思います。わたしたちの常識で判断すれば、長時間働いた者から支払ってやるのが当然ではないでしょうか?けれども、主人は最後に来た者から始めて、賃金を払ってやりなさい、と命じた。そして何と、夕方からの短い時間だけ働いた労働者にも、1デナリオンが支払われたのです。朝早くから働いている労働者は思ったことでしょう。「おお、そうか!それなら、我々は2デナリオン、あるいは3デナリオン頂けるかも」。しかし、彼らも1デナリオンずつでした。朝早くからの労働者は、主人に訴えました。「最後に来たこの連中は、1時間しか働いていません。それなのに、暑い中を働いたわたしたちと同じ扱いにするとは。」
わたしたちの常識、価値観では、彼らの言い分の方が正しく思われます。「納得できない。許せない。だったら夕方からちょろっとだけ働く方が得」と。けれども、主人は猛烈に怒っている一人を見つめ、心を込めて答えたのです。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」よくよく、何度でも、繰り返し味わいたい御言葉です。
主人は怒っている労働者に「友よ」と語りかけるのです。驚きます。主人と労働者の関係であれば、「友よ」と語りかけることなどあり得ません。しかし主人は、早朝から自らが管理するぶどう畑で一所懸命に汗水流して働いてくれた労働者に、「友よ」と語りかけるのです。その上で、「怒るな。冷静になりなさい。わたしは、あなたとの約束通りに賃金を支払った。わたしは同じように、朝の9時、昼の12時、午後3時、午後5時、それぞれの時間まで誰からも雇ってもらえず、何もすることなく、ただ声がかかるのを待ち続けた者にも、友であるあなたと同じ恵みを与えたいのだ。僅かの時間でも、わたしのぶどう畑で働いてくれた人はわたしにとって、あなたと同じようにわたしの友なのだ。わたしの友は、あなたにとっても友。だからあなたにも、怒ることなく、わたしと同じように喜んでもらいたいのだ。」
主人は続けます。「わたしの気前のよさをねたむのか。」そうです。主人は自分の態度が「気前がよい」と認識しているのです。「気前のよさ」という言葉は、元々は「善い」、「完全」という意味の言葉です。また、「ねたむ」という言葉、「目が悪くなる」、「目が暗くなる」という意味の言葉です。主人は問いかけるのです。「友よ、わたしが完全で善い者であるために、あなたの目は明るさを失い、暗く濁ってしまうのか?」「友よ、あなたは、わたしが善い者であってはいけないと言うのか?あなたには、わたしの真の姿が見えないのか?」これらの問いは、神さまからわたしたちへの問いかけです。
主イエスは、「ぶどう園の労働者」の譬え話を語り終えた後、譬え話を語り始める前にもおっしゃった言葉を再び語られました。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」そうです。主イエスはこの真理を伝えるために、「ぶどう園の主人と労働者」の譬え話を語って下さったのです。ぶどう園は、天の国です。天の国、神さまのご支配が隅々まで及ぶ神さまの国。その主人、つまり神さまは、天の国で働く者を「友よ」と呼んで下さる。さらに、朝早くから天の国に仕える者にも、夕方から僅かな時間、天の国に仕える者にも、神さまは同じ恵みを与えて下さる。しかも、渋々ではなく、喜んで、望んでおられるのです。
先週の週報にも記しましたように先週の月曜日、教会員の葬儀を執り行いました。この方との思い出で、印象に残っていることがあります。ある日、しみじみと語られました。「わたしは、小さい頃から教会に通い、ミッションスクールで学んだ。それなのに、教会に通うこともなく80歳まで生きてきました。神さまは、そのようなわたしにも声をかけて下さった。こんなにもったいないことはありません。」
姉妹は80歳で洗礼を受け、89歳まで生かされました。キリスト者として歩まれたのは9年と、決して長い時ではありませんでしたが、キリストの僕として礼拝を喜び、教会の友のために祈り、多くの子どもたちと家庭のために祈り続け、地上での命を終えられました。葬儀を通して、改めて、「あっ、イエスさまの『ぶどう園の譬え』は本当なんだ。神さまの招き、愛、『友よ』との招きは本当だ。早いも遅いもない。むしろ、わたしはこんなにも奉仕しているのに、とプンプンしていると救われた喜びを忘れてしまう」と教えられました。
神さまは自由なお方です。「完全で善い方」であられる神さまを、わたしたちの常識に押し込めようとするとは、わたしたちは何者でしょうか?神さまは、神さまが支配しておられる天の国を、ご自分の自由な意思に従って治めておられます。その国には誰もが招かれており、遅いも早いもない。そのことを神さまが、本当に心から望んでおられる。わたしたちは、何の手柄があったわけでもないのに先に声をかけて頂いて、主の御用のために用いて頂いているのです。それも、『友よ』と呼ばれているのです。そうであるのですから、わたしと同じように、あの人も、この人も『友よ』と呼ばれることを祈りたい!喜びたい!神さまから『友よ』と呼ばれる人は、わたしにとっても『友』なのですから。神さまから招かれた友と一緒に救いを喜ぶことができたら、わたしたちの生涯は、どんなにか豊かな歩みになることでしょう。
今日も、わたしたちの周りには天の国の喜びを知らずに、途方に暮れて、立ちすくんでいる人がいます。わたしたちの主であり、わたしたちを友と呼んで下さる神さまは、早朝にも、9時にも、12時にも、午後3時にも、夕方5時にも、最後まで、諦めずに、救いを求める人を探し続けて下さる御方。喜んで、分け隔てなく、同じ恵みを下さる御方です。主イエスの十字架によって、それを約束して下さいました。わたしたちは どうして、御子の十字架を無駄にできるでしょうか。わたしたちも、最後まで諦めない天の国の主人であられる神さまに倣い、諦めずに祈り、友を探し続ける者として励んでまいりましょう。<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしたちを諦めることなく、探し続け、「友よ」と語りかけて下さり感謝いたします。不平不満を呟くのではなく、与えられる恵みを感謝し、主の栄光を現す者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。先週は月曜日に信仰の友の葬儀が執り行われました。悲しみの中にあるご遺族の上に慰めを注いで下さい。さらに昨日は、信仰の友の結婚式が執り行われました。この教会で洗礼に導かれ、救われた友が伴侶を与えられたことは喜びです。新しい家庭の上に主の祝福が豊かに注がれますように。体調を崩している者、入院している者、孤独を抱えている者がおります。それらの者に「友よ」と語り続けて下さい。わたしたちを、友のために祈り続ける者として用いて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年6月20日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 民数記 第11章21節~23節、新約 マタイによる福音書 第19章23節~30節
説教題:「神に頼ることを知っているならば」
讃美歌:546、12、84、290、544 

金持ちの青年は、悲しみながら主イエスのもとから立ち去りました。主イエスに近寄ったとき、まさか このような別れになるとは 想像もしていなかったことでしょう。「わたしは、小さい頃から掟をまもり続けている。財産にも恵まれて、神さまから祝福されている。何か、足りないことがあれば、それを教えて頂くことで、永遠の命を頂けるはずだ」。そう信じていました。それなのに、主イエスは言われたのです。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年に、「わたしに従いなさい」との主イエスの招きは届きませんでした。
主イエスは、深い悲しみに包まれ去って行く青年を見送って、弟子たちの方に向き直り、言われました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」らくだが針の穴を通ることは無理です。それなのに主は、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいと言われた。実は当時、金持ちは「神から特別に祝福された者」という理解が、一般的ではないにしても根強くあったようです。それなのに、祝福されているはずの者が天の国に入ることが不可能というのなら、いったい誰が天の国に入ることができるのか?いったい誰が救われるのか?誰も入ることができないのではないか?と弟子たちはびっくりしたのです。主イエスは、動揺している弟子たちをじっと見つめ、言われました。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。
主イエスにじっと見つめられて、「人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われたとき、ペトロは「そうか!俺たちには神さまの力が働いて下さったのか!」と嬉しくなったのかもしれません。そして、その喜び自体は間違ったものではありません。しかし、ペトロの口から出てきた言葉は「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」というものでした。「神は何でもできる」という主イエスの お言葉の前で、自分が何者でもないこと、ただ神さまが自由に選んで下さったから主イエスに従うことができたのだということを知って、感謝するよりも、自分が全てを捨てて来たことを誇りに思い、胸を張って、さてどんなご褒美を頂けるのだろうとワクワクしているペトロ。神さまの御業が、何の理由もなしに 自由に働いて下さったことを、まるで自分の手柄が認められたかのように胸を張るペトロ。けれども、このペトロの姿を、わたしたちは笑えるでしょうか?「わたしは神さまを信じる。」わたしたちのその決心が、いったい、どれほどの主の痛みの上に立っていることか。どれほどの犠牲と祈りに支えられていることか。
本来なら、主イエスに叱られても仕方がないところです。けれども主イエスは、そのようなペトロに、またわたしたちすべての弟子に言われたのです。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
主イエスは、ペトロの心をよくよく知っておられます。このあと、主イエスは十字架に向かって歩みを進められます。主イエスが捕らえられたとき、ペトロも、他(ほか)の弟子たちも、一目散に逃げ出すのです。「イエスなど知らない。聞いたこともない」と否定するのです。そのような自分の心の奥底の現実を覗いてみようともせず、「わたしは信じてついて来ました」と胸を張る言葉の、何と空しいことでしょう。
けれども主イエスは、ペトロの空しい言葉も、また裏切りすらも、受け止めておられるのです。父なる神さまの選びを100%信頼しておられるからです。主は言われるのです。「神さまは、それぞれに弱さも欠けもあるあなたがた12人を選び、わたしの弟子としてくださった。だから、わたしが栄光の座に座るとき、あなたがたもいっしょに座るのだ」と。
空しく胸を張るペトロの言葉は、わたしたちの言葉。ペトロの姿は、わたしたちの姿です。とくに牧師や教会生活の長い人ほど気をつけなければいけないかもしれません。けれども、もはや、気をつけるとか、気をつけないとか、そんなことすら突き破って、主イエスはわたしたちにも言って下さるのです。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
「新しい世界になり」と訳された言葉は、元々は「再び造る」、「再び生まれる」という意味の言葉です。神が、人の目にはとうてい無理に見える全く新しい世界を、打ち立てて下さるのです。その神さまの新しい創造の御業が、主イエスにおいて始まった!すでに、始まっているのです!世の終わりまで待ち切れない主イエスの恵みが、溢れ出して、わたしたちのところにまで届いているのです!
主に従う者とは、主イエスの十字架と共に、罪のからだが死んだ者たちです。主イエスは、神さまの御心に従って、わたしたちの罪のからだを終わりにするために、十字架で死んで下さったのです。そして、わたしたちが、罪の世から永遠の世に生きる者として新しく生まれるために、甦って下さいました。わたしたちを、永遠の命に生きる者へと、再び造りなおして下さったのです。
わたしたちは今、そのようにして地上の命を生かされております。主イエスによって、新しく生まれたのです。新しく造り変えられたのです。同時に、主の祈りを祈るとき、「御国が来ますように」と祈るように、新しい世界、天の国は、まだ完成はしていません。けれども、完成は近づいています。わたしたちは、神の国の完成に向けて用いて頂くために、先に呼び寄せられ、新しく命を授けられたのです!全てを捨てるどころか、未練タラタラであるにもかかわらず!
そうであれば、主イエスが「先になる」と言われた後にいる多くの者たちの中には、富める青年も、まだ主の恵みに気づけないでいる、わたしたちの地上の大切な、兄弟、姉妹、父、母、子供たちも含まれているはずではないでしょうか。そして、彼らも、わたしたちと同じ恵みの中に入れられ、新しい命を授けて頂けるはずです。わたしたちには、その希望が与えられているのです。すぐに空しく胸を張りたくなるわたしたちが、このように恵みを受けているのですから。そして、神さまは何でもおできになる方なのですから。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、すぐに己の業を誇りたくなる罪をお赦しください。そのようなわたしたちにもかかわらず、救いの恵みをお与えくださり感謝いたします。先に救われた者として、己の業を誇るのではなくて、あなたを誇り、御子の復活を喜び、御子の再臨を待ち続ける者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。愛する信仰の友が先週の火曜日に召されました。すでに永遠の命を受け継ぎ、甦りの朝を待つ者とされていることを心より感謝いたします。主よ、今夜の納棺式、明日の葬儀を聖霊で満たし、甦りの主イエス・キリストの慰めを注いで下さい。深い悲しみの中にあるご遺族を慰め、いつの日か永遠の命を受け継ぐ者として下さい。主よ、体調を崩している者、入院している者、看取っている者、痛みを抱えている者が大勢おります。どうか、「神は何でもできる」との御言葉を忘れることのないよう聖霊を注いで下さい。混沌とした世情の中で、虐げられている人々に力を与え、国々の指導者の心を聖霊によって導いて下さい。わたしたちをも祈りへと導いて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年6月13日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 サムエル記上 第2章4節~8節、新約 マタイによる福音書 第19章13節~22節
説教題:「天の国でいのちを得るために」
讃美歌:546、82、195、467、543、Ⅱ-167 

主イエスは、住み慣れたガリラヤを発ち、ユダヤ地方に向けて歩み始められました。その日、ついて来た大勢の人々の病を癒し、そして、ホッとする間もなく、「試してやろう」と近寄り、質問を重ねるファリサイ派の人々に、また、それを聞いて ぼそぼそとぼやく弟子たちに、神さまの御心を教えて下さいました。するとそこへ、今度は人々、おそらくお母さんたちが、主イエスに子どもたちを祝福して頂こうと思って、子どもたちを連れてやって来たのです。当時、女性たちの人格が認められていなかったように、子どもたちも、無力なもの、価値のないものと考えられていました。また、弟子たちは、少々疲れていたかもしれません。あるいは同じように疲れておられるであろう主イエスを気遣ったのかもしれません。お母さんと子どもたちを叱りつけました。「おいおい、少しはイエスさまのことを考えたらどうだ!朝からずっと働き続けておられるのだ。とっとと帰りなさい!」
 ところが主イエスは、弟子たちを制しておっしゃいました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、主イエスは、疲れた顔も見せず、笑顔で子どもたちを招き寄せ、一人一人の頭に手を置いて、祝福して下さいました。弟子たちは面食らったことでしょう。すぐには、主イエスの言葉を理解できなかったかもしれません。「弟子である我々こそ、天の国の住人だと思っていたのに、イエスさまは、こんな赤ん坊やハナタレ小僧こそ天の国の住民である、と大真面目に言われる。何の役にも立たない子どもたちが、どうして、天の国の住民なのか?」そのような思いだったかもしれません。
そして、ここで場面は変わります。変わりますけれども、同じ一つのテーマが流れています。ここに登場する青年が求めているものは、永遠の命、すなわち、天の国に生きることだからです。青年は、「何としても、イエスさまから永遠の命のお墨付きを頂きたい」と、質問しました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」主は、答えられました。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」不思議なお答えです。善いことについて、どうしてわたしに尋ねるのか?少し いじわるに聞こえなくもない。けれども、すぐに続けて、「『善い方』はただ おひとかた。神さまだけ。その神さまが授けて下さった掟を守るように」と、青年を神さまの御心へと導いておられるのです。青年は、さらに質問します。「どの掟ですか」。主イエスのお答えは、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
主イエスは、十戒の「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という戒めに、戒めの全てを総括するように、「隣人を自分のように愛しなさい」という、レビ記 第19章に記された愛の掟を青年に与えられました。「隣人を自分のように愛するなら、あなたは殺さない。姦淫しない。盗まない。偽証しない。父母を敬う。」神さまの掟は、隣人と愛によって繋がるためのものなのだと、導いておられるのです。
けれども青年は、主イエスの お導きを聞きとることができませんでした。「十戒については、これまできちんと守ってきた!」という自負が、邪魔をしたのです。彼は幼いときから、悪いと言われていることは用心深く避け、何をするにも真面目に、律法に照らして、これは善いことか、悪いことかと問いながら生きてきたにちがいないのです。ひとつひとつ、ジクソーパズルのピースをはめていくように、善いと思われることだけを行ってきた。そのように、人一倍 真面目だったからこそ、どうも最後のピースが、手元にあるものでは物足りないように思えたのかもしれません。あるいは、善い行いの専門家と考えられていたファリサイ派と意見が違う主イエスの噂を聞いて、自分が今まで善いと思って続けてきた生活だけでは、もしかしたら何か足りないのかもしれない、と感じたのかもしれません。青年は、言いました。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
主は答えて言われました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
これほどストレートな指示はありません。しかし、ストレートなのに、わたしたちの中にすんなり入って来ない。喉の奥に引っかかる。のみ込みづらい。これほど難しい指示はないと思ってしまう。こんなことできるわけがないと。そして、言い訳を呟くのです。「わたしは無理です。わたしがどれほど弱く、欠けの多いものであるか、ご存知でいらっしゃるはずではないですか」。
「完全」と訳された「τελειος(テレイオス)」は、新約聖書で20回用いられている言葉ですが、福音書は、マタイによる福音書だけです。それも、今朝の第19章21節の他は、第5章48節だけ。山上の説教で「敵を愛しなさい」と主イエスが語られた場面の最後で、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と主が弟子たちに語られた言葉。その「完全」という言葉を、主イエスは青年に言われたのです。もしかすると、青年にも弟子として加わって欲しかったのかもしれません。確かに、主イエスはこの青年に「わたしに従いなさい。」と言われました。
けれども、青年は悲しみながら立ち去ってしまいました。主イエスの弟子になり損ねたのです。もったいないことです。せっかく勇気を出して、永遠の命を得るための道を質問した。主イエスも、「完全になりたいのなら」と答えてくださった。しかし、青年はその言葉を受け入れることができなかった。喜ぶことができなかった。主イエスの招きに耳を塞ぎ、莫大な財産にしがみついてしまったのです。
先週の木曜日、頌栄女子学院での授業のテーマはノアの洪水でした。冒頭で生徒たちに伝えたのは、ノアは「全き人」であったということです。でも、それは、完全無欠な人、完璧な人という意味ではない。事実、洪水後、農夫となったノアは、ぶどう酒を飲んで泥酔し、裸になって寝ている姿を末の息子ハムに見られたことに腹を立て、ハムの息子カナンを呪ってしまう弱さを持っていたのです。それでも、神さまへの全き信頼、100%の信頼をおいて生きた人。それがノアでした。
主イエスが、ここで「完全」と言われたのも、そのような意味ではないかと思います。自分の力や富を頼りに、神さま抜きで生きるのではなく、完全な方であられる神さまの愛、赦し、憐れみだけを頼って生きることが、完全な生き方なのだ、と。
主は言われるのです。「神さまを頼って生きる人生に邪魔になるのなら、あなたの富も、行いも、すべて捨てなさい。あなたに与えられている富は、用いようによっては神さまの愛の完全さを証することができる。喜んで差し出して、わたしについておいで。子どもたちを見てごらん。何も持っていない。もちろん富などない。あなたが誇るような善い行いもできない。けれども、そのような子どもたちを、神は喜んで祝福し、天の国に招き入れて下さるのだ。」
一昨日の金曜日は、いづみ愛児園の花の日礼拝で短いメッセージを語らせて頂きました。メッセージが終わると、「ふれあいタイム」になりました。小さな花束を持って、園児と保育者が混ざって、次々と花束を渡し合うのです。渡すとき、「どうもありがとう」と声をかける。もらった子どもも「どうもありがとう」と答える。「お花を受け取ってくれてありがとう」。「お花をくれてありがとう」。照れながら、子どもたちが「ありがとう」と言葉を繋いでいく。その姿に、「ああ、これでいいんだ」と思いました。頂いた恵みに「ありがとう」と感謝する。感謝して、となりの人にプレゼントする。それが天の国、永遠の命への掟なのだと。
わたしたちは、自分の力でどうにかしようと、どれほど頑張っても完全なものにはなれません。欠けだらけの存在です。「今日は、隣人を自分のように愛そう」と願う。しかし、まず自分に躓く。次に隣人に躓く。そして、青年のように、わたしたちも御言葉から立ち去ってしまう。パタンと聖書を閉じて、「どうせ、わたしは持ち物をすべて売り払うことなどできません」と。けれども主は、立ち去った青年のため、また、わたしたちのために、ユダヤ地方への歩みを続けられるのです。目的地はエルサレム。ゴルゴタの丘。主イエスは、無価値とされた子ども、貧しい人々、富の呪縛から逃れられない人々、すべての人々のために、十字架で死んで下さった。主イエスは、ご自分の命を差し出してまで、わたしたちを愛し、赦し、永遠の命を約束して下さいました。この恵みに完全に信頼して、主イエスについて行くことだけが、わたしたちに求められている、完全になるための道です。
 財産を捨てることが立派で完全な愛の姿であるとか、財産を捨てられない凡人は駄目だとか、そういうことではありません。何か善いことをして、自分を天まで高める努力など求められていないのです。おいでおいでと招いておられる唯一の善い方の御腕(みうで)の中に、幼子のようになって飛び込む。幼子のように神さまの愛に飛び込み、「いいこ、いいこ」と頭に手を置いて頂き、祝福して頂くところから、わたしたちの、敵をも愛する、完全な愛に生きる歩みが始まるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、どのようなときも、神さまの愛を信じ、神さまへの愛、自分への愛、隣人への愛に生き続けるものとして下さい。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、聖霊を注いでください。不自由な日々が続いております。家から出ることも制限され、孤独を感じている方々がおられます。暑さも加わり、体調を崩している方々もおられます。病を患い、入院している方々。痛みを抱えている方々。家族を看取っている方々にあなたの愛と慰めを溢れるほどに注いで下さい。世界には、貧困に苦しむ方々がおられます。私たちの国にも日々の生活に困窮している方々が多くおられることを忘れることなく、それらの方々に寄り添う者として導いて下さい。特に、弱い立場にある子どもたちが孤独を感じることがないよう、愛と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。



2021年6月6日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第5章1節b~2節、新約 マタイによる福音書 第19章1節~12節
説教題:「神が結び合わせ給う絆」
讃美歌:546、24、292、428、542 

今日からマタイによる福音書 第19章に入ります。1節に、「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。」とあります。深い意味を持つ言葉です。主イエスがユダヤ地方、エルサレムを目指して出発されたからです。エルサレムを目指すということは、十字架を目指すことです。だからこそ、その前に、第18章で主イエスは「アーメン。これは本当のこと」と繰り返しつつ、「教会とは、罪赦された者たちが互いに罪の悔い改めと赦しを実現する群れなのだ」と教えられたのです。その御言葉をもって、主イエスは、ガリラヤを後にし、十字架への道を歩み始められました。すると、大勢の群衆がついて来て、病の癒しを求めたので、立ち止まって癒されました。そこに、主イエスを試そうと、ファリサイ派の人々が近寄り、質問したのです。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。
聖書の時代、ユダヤの社会では、妻は夫の財産の一部と考えられていました。とはいえ、神の裁きを恐れる民としては、乱暴にとっかえひっかえ妻を捨て、めとるわけにもいかない。そのため、どういう条件が整えば、離縁しても問題ないのか、ということがしばしば議論されたようです。条件の解釈を巡って、厳しいものから緩いものまで、色々な意見が生まれました。厳しい条件は、妻の不品行。明らかに他の男性を愛したことが確認されると、離縁が認められる。緩い条件は、妻が料理をこがしたら離縁成立。また、知らない男性との立ち話でも離縁成立。隣りの人に聞こえる大声を出しても離縁成立。冗談のようですが、当時のユダヤの男たちは大真面目にこのような議論をし、離縁を正当化しようとしたのです。
主イエスは、答えて言われました。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
先ほどの離縁の条件が全て男性目線で考えられていたように、結婚も離縁も全ての選択権は男性にありました。そのうえ、二人、三人と妻をもつことも認められていました。パンを焦がした、声が大きいという、言いがかりのような理由で、簡単に捨てられてしまった女性は少なくなかったことでしょう。
主イエスは、このような関係を深く憂いて言われたのです。「もう一度、天地創造の、一番はじめの、神の御心に立ち帰りなさい。どれほど厳しく 離縁を戒める決まりを守っていても、夫が妻を支配する関係である限り、『わたしは妻を離縁させないから信仰的に正しい。立派な者だ!』と胸を張るようなことが、神の御心だと思うのか」と問うておられるのです。
ファリサイ派の人々は、痛いところを突かれたと思ったかもしれません。次の問いをぶつけました。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」これは、申命記第24章に書いてあります。1節だけ朗読します。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」
これに対して、主イエスは言われました。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
この主イエスとファリサイ派の人々のやりとりを、弟子たちは近くで聞いていました。そして、つい、ボヤいたのです。「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」。
姦通罪は、死刑に価します。「そんなに厳しいなら、妻を迎えない方が楽だ」というボヤキです。
主イエスは言われました。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
ここで「結婚できない者」と訳されたギリシア語には「去勢された者」という意味があります。去勢されれば、子どもを授かることは不可能。子を授からない者として生まれてきた者がいる。他者の手によって強制的に去勢された者がいる。天の国のために、自ら去勢した者もいる。
聖書の時代に限らず、「宦官」と呼ばれる去勢された男性が、王宮の女性たちに仕えていた、ということはよく知られています。「人から結婚できないようにされた者」とは、そうした人々のことだと思われます。何と野蛮な、と思いますが、決してわたしたちと無縁なことではありません。日本には、「優生保護法」がありました。それほど昔のことではない。1948年から1996年まで存在した法律です。廃止されてから、まだわずか25年。第一条には「優生上の見地から、不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命・健康を保護することを目的とする」とある。つまり、優生思想をもった法律で、障がいをもつ方に、中絶や不妊手術、去勢手術を強制的にさせるための法律。今、把握されているだけでも1万6千を超える方々が被害を受けました。わたしの友人 桜井哲夫さんも、元ハンセン病患者で、去勢手術の被害者です。けれども桜井さんは、ハンセン病という病名ではなく、あえて、差別の歴史を想起させる「らい」という昔からの病名を用いて、よくおっしゃっていました。「らいは、わたしの十字架です。らいを病んだから神さまと出会えた。あなたにも出会えた。らいに感謝です。恨んで生きるより、赦す方がいいじゃない。」
「天の国のために結婚しない者」としては、ギリシア教父の一人、アレクサンドリアのオリゲネスが、今朝の御言葉を文字通り受け入れ、自ら去勢したことで有名です。現代では去勢こそしませんが、それでも、結婚することもできたけれど、神さまの栄光を現すためにと、自ら思い定めて献身的に働くことを選び、家庭を持たずに世界各地で働いておられる方々がおられます。それは誰もができる選択ではありません。結婚するのもしないのも、自分で選んでできることではないのです。そこにあるのは、ただ、「神さまの御心を受け入れる」ということだ、と主は言われるのです。
わたしたちは皆、それぞれに今が与えられています。神さまが与えて下さる今を、「共に生きよ」と神さまが結び合わせて下さった伴侶、家族、仲間を大切にしたい。わたしたちは皆、莫大な借金を帳消しにして頂いた者たち。その恵みを受け入れるなら、結び合わせて頂いた相手に対して、「おまえが間違っている!」と裁くことなどどうしてできるでしょうか?主イエスがおっしゃったのは、「人は、結婚してはじめて一人前だ」とか、「結婚をせずに独身を貫く者が偉い」とか、「離婚は許されるものではない」とか、そんなことではありません。結婚すること、しないこと、そのほか人生における一つ一つの決断のときに、「自分が選ぶのだ」と頑固になるのではなく、神さまの御心を問い、受け入れることを求めておられます。神さまの御心とは何でしょう。第18章で主イエスが繰り返し語られたことは、罪を認め、赦し、憐れみ、祈り合うことの大切さです。夫でも妻でも、自分が高いところにいて相手を裁き、切り捨てるのではなく、どれだけ自分が伴侶に忍耐を強いているか、その痛みを思う。離婚した人がいるなら、その痛みを思う。子どもを産めない人がいるなら、その痛みを思う。夫婦であれ、親子であれ、教会であれ、学校であれ、職場であれ、神さまの御心を受け入れるなら、わたしたちは赦し合い、支え合い、祈りあって歩むことができるのです。神さまは、そのように生きよ、とわたしたちに命を与え、結び合わせて下さっているのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、どんなときも神さまの御心を問い、受け入れさせて下さい。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。今、愛する家族が入院している方々がおられます。主よ、御心ならば病を一日も早く癒して下さい。これから生活の拠点を移す姉妹がおられます。リハビリに励んでいる兄弟姉妹がおられます。痛みと闘っている兄弟姉妹もおられます。どうぞ、一人一人に寄り添い続けて下さい。東京神学大学をおぼえて祈ります。祈りつつ学んでいる神学生、働いている教職員をこれからも強め、励まして下さい。主よ、伝道献身者を一人でも多くおこしてください。今、それぞれの場で礼拝をささげている兄弟姉妹を強め、励まして下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年5月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第130篇3節~4節、新約 マタイによる福音書 第18章21節~35節
説教題:「赦しの源泉」
讃美歌:546、93、246、511、541

マタイによる福音書第18章を読んでおります。「罪」とは。「赦し」とは。そしてそれらは、わたしたちの教会生活に、具体的にどのように現れるのか。つまるところ教会とは何なのか。わたしたちの教会がまことに教会として立ち続けるために、主イエスが、ご自分に残された時間を意識して、「アーメン!はっきり言っておく!」と何度も何度も繰り返しつつ、説いて下さった御言葉です。ご一緒に少し振り返ってみたいと思います。
はじまりは、弟子たちの「天の国でいちばん偉い人は誰でしょうか?」という質問でした。主イエスのお答えは、「自分を低くして、子どものようになる人がいちばん偉いのだ」。そして「わたしを信じる小さな者を一人でもつまずかせる者は、不幸である」と、小さな者を軽んじ、つまずかせる罪について厳しく戒め、1匹の迷い出た羊の譬えを語って下さいました。
小さな者とは、キリストによって、神の小さな子どもとして頂いたわたしたちです。キリスト者はみな、小さな者なのです。小さな者たちが共に祈り、共に捜し、共に赦し合う群れが、教会なのです。だからこそ、主イエスは言われるのです。「兄弟が罪を犯したら、そのままにしてはいけない。兄弟のところに行って、神の御前にすべてを明らかにして、心を一つにして赦しを祈る。そうすれば、天の父は祈りをかなえてくださる。」
ペトロは主イエスの言葉を真剣に聞いて、質問をしました。それならば「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 日本でも「仏の顔も三度まで」と申します。「三回位ならまあ我慢しようか。だけど四回、五回となると、さすがに堪忍袋の緒が切れる。」とわたしたちは考えるのです。
当時のユダヤの人々も、三回までは堪忍してやるべきだ、と考えていたようです。ペトロも、そのことは知っていたことでしょう。もしかしたら、イエスさまに褒めて頂こうと思って、「三回の倍の六回に、おまけでもう一回を増やして、七回も赦してやれば十分でしょうか」と質問したのかもしれません。あるいは、「七」という数字は、ユダヤ人にとって大切な数字でしたので、七回赦したら完全な赦しになる、と考えたのかもしれません。しかしいずれにしても、一回、二回と数えている我慢の数は、神の御前に小さい者として頂いた わたしたちキリスト者を、知らず知らずのうちに大きな者にしてしまいます。「一回赦してやった」、「二回赦してやった」、「三回赦してやった」、と数えている限り、その数の分だけ、わたしたちは赦した相手の隣人に対して、ムクリ、ムクリ、と大きくなっていってしまうのではないでしょうか。そうなると、わたしたちはもう主の小さな者でなくなってしまいます。即ち、キリスト者とは言えなくなってしまう。だから、「よくよく、よおおく聞いておきなさい」と念を押して、主イエスは言われたのです。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
創世記 第4章24節に「カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」とあります。人間の怒りと復讐の歌を、主イエスは、敵への赦しの言葉として言い換えられたのです。七の七十倍、あるいは七の七十七倍、どちらも「非常に大きい数、数えることは不可能な数」を意味します。主イエスは「赦し続けるのだ。」と言われるのです。そして、仲間を赦さない家来の譬えを語り始められました。「そこで、天の国は次のようにたとえられる。」
天の国とは、どこにあるのでしょうか。直前の御言葉で、主は言われました。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」主イエスのおられるところに、天の国があります。二人または三人が主の御名によって集まり、祈るところに、天の国があるのです。しかし、二人がいさかいを起こしていては、そこには、主はおられない。二人のうちどちらかが大きな者になってしまっていても、主はおられない。そこは天の国ではなくなってしまいます。自分たちの手で、天の国を壊してしまっているのです。主イエスはおっしゃるのです。天の国に招かれていながら、天の国を破壊する者には、賠償する義務があると。
今朝の譬えに登場するのは、王と家来たち。王が家来たちに貸した金の決済をすることになった。家来の借金、一万タラントンとはいったいどれだけの金額でしょう?一万タラントンは、五千万デナリ。一デナリは労働者の一日の賃金です。と言うことは、一万タラントンを返済するには、五千万日働かなければなりません。五千万日。1年は365日ですから365で割ると、136、986。つまり、13万年も働かなくてはならない。この家来は、返すことなどとうていできない、途方もなく莫大な借金をしているのです。王は、その借金を、自分も妻も子も、また持ち物も、全部売って返済するように命じました。家来は、ひれ伏すしかできません。「『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。」
すると王は、何と、憐れに思って彼を赦し、このとんでもない額の借金を帳消しにしてしまった!それは、借金をチャラにしてしまうことなど、この王にとっては痛くも痒くもなかったからでも、家来のその場しのぎの約束に心が動いたからでもありません。キーワードは「憐れに思って」です。ここで、「憐れに思って」と訳されている言葉は、神の憐れみ、愛、神の低さに用いられる特別な言葉で、はらわたの ちぎれるような痛みを表します。王には数え切れないほどたくさんの家来がいたことでしょう。けれども、この王にとっては、一人一人が、かけがえのない者であったのです。このまま永遠に関係を断ち切ってしまうことは、耐えられない痛みであった。王は、どれほど大きな代価を払ってでも、絆を保ち続けたかった。彼を失うことを望まなかった!天の国とは、そのように誰かが欠けても、それがたった一人であっても、父なる神が はらわたがちぎれるほどに痛み苦しまれるものなのだと主イエスはおっしゃるのです。
それなのに、この家来は王の愛、憐れみの深さを全く分かっていません。自分の借金の大きさ、深刻さがまるで分っていない。一生働いても絶対に返済できない莫大な借金を帳消しにして頂いたにもかかわらず、100デナリオン。半年も働けば十分完済できる小さな借金をしている仲間に、「今すぐ返せ」と迫った。ひれ伏し、どうか待ってくれと、ついさっき自分が王にしていたように懇願する仲間の首を絞め、牢に入れたのです。それが主君の心をどれほど痛め、苦しませるか想像してみることもせずに。しかしこれは、ひとごとではありません。人の罪には敏感で厳しく、自分の罪にはとことん鈍感で甘い。主イエスによって罪が赦されたにもかかわらず、自分が傷ついたこと、損をしたことを忘れることなどできるはずがないと開き直っている。「わたしは道徳的に間違いを犯さず、正しい生活をして、いつも親切であろうと心がけている。少なくともあの人よりは。あの人はいつも問題をおこし、いつもわたしに悪口を言う。顔も見たくない。」このような心こそ、莫大な借金を帳消しにしてもらった家来と同じだ!と主は言われるのです。主君は、家来を呼び、『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』と言い渡して、借金をすっかり返済するまでと、牢役人に引き渡しました。
借金を返済することなど、不可能ですから無期懲役です。永遠に、主君との絆は切れ、仲間との絆も切れてしまったまま。仲間を赦さないということは、仲間を罪に定めるばかりでなく、自分自身をも罪の国に引き渡すことになってしまうのです。それは、父なる神さまが、「一人も滅んではならない」と、わたしたちに、つまりわたしにも、あの人にも、全ての仲間に与えて下さった主イエスの十字架を、わたしには必要ないと突っぱねる行為です。だから最後に主は言われたのです。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
主イエスの十字架の死は、わたしたちが一生どころか、何十万年も働き続けようとも完済することのできない莫大な罪を帳消しにするほどの圧倒的な赦しです。
 わたしたちは、すでに赦されているのです。赦されて、「子よ、私のところに来なさい」と呼ばれ、礼拝に招かれています。神さまの小さな かわいい子どもとして、「父よ、憐れんで下さい」と祈りなさい、頼りなさい、と言われているのです。
 この主の十字架に頼り、二人、または三人が共に心を合わせるとき、主イエスはそこに必ずいて下さいます。「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈るとき、祈りはすでに神さまに届いています。わたしたちは十字架によって罪を赦された小さな者です。どのようなときも、主の十字架を頼み、共に顔を上げ、十字架を仰ぐとき、奇跡は起こります。わたしたちは何度でも、七の七十倍でも、共に赦し合って歩むことができるのです。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの圧倒的な赦しの恵みを感謝いたします。どうか、主にあって愛し合い、赦し合い、祈り合う群れとしてわたしたちを導いて下さい。主の み名によって祈り願います。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。緊急事態宣言が延長となりました。祈りを込めて、医療に従事している方々を励まし、力をお与え下さい。子どもも大人も困難な生活を強いられております。それでも、礼拝をささげることが許され、感謝いたします。礼拝堂で礼拝をささげているわたしたち。オンライン等で礼拝をささげている方々。皆が、主イエスにあって一つであることを喜び、共に祈り、共に愛し、共に赦し合う群れとして導いて下さい。病を患っている方々、痛みを抱えている方々に、癒しの御手を差し伸べて下さい。そして、いつの日か元気になって礼拝堂で礼拝をささげることができますよう導いて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年5月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 レビ記 第19章17節~18節、新約 マタイによる福音書 第18章15節~20節
説教題:「共に生きるために」
讃美歌:546、15、195、314、540

今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。教会が生まれた日を記念する礼拝で わたしたちに与えられたのは、主イエスが教会に与えて下さった、「教会憲章」とも言うべき第18章の、核となる御言葉です。
教会は、聖人君子の集まりではありません。主イエスに招かれ、罪の赦しを宣言して頂き、主イエスの御名の元に兄弟として頂いた者の群れです。この一点に日々 立ち帰らない限り、悔い改めの祈りも、罪の赦しも、兄弟との和解もない。そこは、教会ではありません。主は、弟子たち、さらに教会に連なる わたしたちに命じておられるのです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」
 もしも、誰かに傷つけられる、ということが起こったとき、あなたはどうしたらよいのか。主イエスは、そのときぐっと我慢しなさい、とはおっしゃいません。その人を避けて顔を見ないようにやり過ごしなさい、とも言われません。うまく二人になる機会があれば語り合え、でもない。恐れることなく、すぐに、その人のところに駆けつけて、和解するように、と言われるのです。神に赦していただた者どうしであることに共に立ち帰り、この先も赦された者として共に生きていくために。すぐさま駆けつけるのは、決して、その人の罪を糾弾し、わたしの被害を思い知らせるためではありません。そんなことをしたら、どんな結果が待っているか、わたしたちはよく知っています。兄弟を得るどころか、敵どうしになってしまいます。
すぐ前の14節で、主イエスはおっしゃいました。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」何としても、あなたの兄弟を罪の泥沼から引っ張り出し、平安な歩みへと戻さなければならない。そのために、あなたは急いで行くのだ!それが神の御心なのだ、と主イエスはわたしたちに命じておられるのです。
神さまは諦めません。わたしたちもあるところまでは信じられるかもしれない。「大丈夫。いつか立ち直る」と。しかし、同じ過ちを繰り返す人がいると、さすがに、「もうダメだ!」と諦めてしまう。けれども、神さまは諦めない。その人が罪に溺れ、そのまま滅んでしまうことはあってはならないからです。だから、迷い出た1匹を捜しに行くのです。見つかるまで。そして、見つかると涙を流して、「一緒に喜ぼう。喜んでくれ」とおっしゃるのです。それほど天の父は、罪を犯した人が恵みからこぼれ落ちてしまうことを望まれない。だから、主イエスを通して、わたしたちにお命じになるのです。すぐにその人のところへ行き、忠告し、和解しなさい、と。
 もしも誰かに傷つけられてしまったら。ここまで、そのようにこの御言葉を読んできました。しかし、わたしたちは実にしばしば反対の立場にもなってしまう者です。誰かを傷つけてしまう。わたしたちはそのときの苦しさを知っています。心の中であれこれ言い訳を繰り返し、神さまは全てご存じなのに、隠そうとして、もがき、取り繕って、なかったことにしようと心に蓋をする。
ダビデも、その辛さを歌っています。詩編 第32篇3節以下を
口語訳聖書で朗読いたします。どうぞそのまま お聴きください。
「わたしが 自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨は ふるび衰えた。あなたの み手が昼も
夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏の
ひでりによって/かれるように、かれ果てた。わたしは自分の罪を あなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、
『わたしの とがを主に告白しよう』と。その時あなたは わたしの
犯した罪をゆるされた。(32:3~5)」
ダビデが犯した罪の中で、わたしたちの心に残っているのはウリヤの妻バト・シェバと姦通の罪を犯したこと、さらにその罪を隠すために、ウリヤを戦いの最前線に遣わし、殺した罪です。そのダビデが歌うのです。「あなたの み手が昼も夜も、わたしの上に重かった。」ダビデは知っているのです。神さまの愛を。だから、重いのです。
あるいはまた、たちの悪いことに わたしたちは自分でも気づかぬうちに加害者になっていることがある。その行いが神さまの御心をどれほど苦しめているかも知らずに。そのとき、神さまも腸がちぎれんばかりに苦しんでいらっしゃる。神さまは それほど、わたしたち一人びとりを愛しておられます。だから、急いで行きなさい、と主イエスは言われるのです。それは、苦しんでいる病人の元へ、とにかく一緒に来て下さいと主イエスを連れて行くのと同じことだ、と言ってもよいのではないかと思います。主イエスは続けて言っておられるからです。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 もしも、友のところへ行かず、そのまま放っておいてしまったら、天の国の扉は永遠に解かれることはなく、友はもはや兄弟ではなくなってしまうのです。けれども、友の元へ急いででかけて行って、主イエスの御名によって二人が集まる。そこには主イエスもいてくださるのです。そして心を一つにして祈るなら、神さまは喜んで叶えて下さるのです。そこで祈る祈りは、この祈り以外にあるでしょうか?「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。
主イエスが、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。」と教えて下さった主の祈りの一節です。「兄弟の罪を赦します。兄弟と和解させて下さい。わたしたちの罪をも赦して下さい。共に罪赦されたものとして祈り合い、支え合って歩ませて下さい」と祈る。二人でダメなら三人で、それでもダメなら、教会に申し出て!ひとりでも滅んでしまうことを神さまは望んでおられません。ですから、「御心が行われますように、天におけるように、地の上でも」と心を合わせて祈るとき、祈りは必ず聞かれます。
今日は聖霊降臨日。弟子たちが心を合わせて祈っていたところに聖霊が降り、その日、ペトロに導かれて、男性だけ数えても3千人もの人々が洗礼を授かったと、使徒言行録に記録された日です。主の名によって心を一つにして祈る教会の輪の中心に主が共にいて下さいます。誰か一人でも、その輪の中から欠けてしまうことは御心ではありません。祈りの輪の中にいて下さる主イエスを信じ、父なる神さまの御心を信じ、聖霊の力を信じて、御心が行われることを祈り求めてまいりましょう。父なる神さま、子なるキリスト、聖霊なる神さまに栄光が永遠にありますように。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、聖霊の力を信じ、主イエスと共に祈り続ける群れとして私たちをお導き下さい。主の み名によって、
祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。主よ、聖霊降臨の喜びに加え、新しい姉妹をわたしたちの教会に加えて下さり、感謝いたします。わたしたちの教会で洗礼を授けられ、熊本 錦ヶ丘教会で信仰を告白された姉妹が、献身の志が与えられ、神学生として再び東村山教会員とされたことを深く感謝いたします。どうか、姉妹に溢れるほどに聖霊を注ぎ続けて下さい。姉妹のご家族、また送り出してくださった錦ヶ丘教会の歩みの上にわたしたちと等しい祝福を注いでください。主よ、イスラエルの争いを停戦へと導いて下さり感謝いたします。なお不安定な状態が続いております。これ以上、犠牲者が増えないよう導いてください。主よ、世界にある争い、弾圧を一日も早くしずめてください。今日も礼拝を慕いつつ、病気のため、仕事のため、様々な理由のため、礼拝に出席することのできなかった方々を憐れんで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年5月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第23篇1節~6節、新約 マタイによる福音書 第18章10節~14節
説教題:「天の父の大切な小さき者」
讃美歌:546、54、Ⅱ-41、354、539

主イエスは、弟子たちに言われました。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」
ご一緒に、「彼らの天使たち」が「御顔を仰いでいる」姿を想像したい。「彼ら」とは、小さな者たち、ちっぽけな者たち、地上では無価値とレッテルを貼られ、軽んじられている者たちです。そのような小さき者一人一人に天使がついていると言うのです。小さき者たちが、辛い思いをしていても、苦しめられ、虐げられていても、ときに、神さまの愛を見失い、「信じられない」と神さまに背を向けていても、天には、一人一人の担当の天使がいて、地上の一人一人に代わって、一所懸命、神さまの御顔を仰ぎ、神さまの光を受けてくれていると主イエスはおっしゃるのです。
天使たちが神さまを仰ぐとき、神さまも天使たちに眼差しを向けておられます。天使たちを通して、地上の小さき者一人一人の全ての日々が、行いが、心が、神さまの御前にあるのです。神さまの眼差しは、世の最も小さな者、価値が無いと切り捨てられている者にも注がれている。たとえ、うっかりつまずいて迷子になり、神さまを見失っているときでさえ注がれている。だから、間違っても、小さき者たちを軽んじるようなことがあってはならないのです。
主イエスは、父なる神さまの小さき者への深い深い愛を、迷子の羊の譬え話を通して、お示しくださいました。主イエスは、どのような思いから この譬え話を語って下さったのでしょうか。
ここで、先週の御言葉を振り返ってみましょう。弟子たちが「天の国でいちばん偉いのは誰でしょうか?」と質問しました。すると、主イエスは、一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われたのです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」「わたしの名のために このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」さらに主は続けられます。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」
主イエスの弟子たちへのメッセージは、そのまま、私たち教会への メッセージです。「教会の中で誰が一番偉いか?」そのように考えることほど愚かなことはありません。むしろ、小さき者、虐げられ、排除され、無価値とされている者を、神さまは必要とされ、深く愛し、慈しんでおられるからです。他の人より大きくなろう、偉くなろうとする心は、小さな者を群れから追い出してしまいます。もしも教会が、そのような群れであるならば、神さまは大いに嘆き、悲しみ、正しい裁きを下されるのです。主イエスは、「今こそ、あなたがた自身も、誰が一番偉いのか?と大きな者となるのではなく、小さき者となれ。小さき者を追い出す者でなく、小さき者に仕える者となれ。滅んではならない」と私たちを悔い改めへと導いて下さっているのです。
その上で、主イエスは語って下さいました。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
小さな者が一人でも滅びることは、天の父の御心ではありません。神さまは、この世でどんなに無価値と言われても、どんなに人々から忘れ去られるような存在であっても、神さまの御手からこぼれ落ち、迷子になってしまったまま滅んでしまうことは、耐えられないのだ、と言われるのです。
そして、迷子の小さな者が見いだされ、懐に帰ってくるためならと、神さまはご自身の大切な大切な御子イエスを、世に遣わされました。この譬え話の羊飼いは、主イエスです。たとえ、99匹を山に残してでも、1匹を捜し当ててくださる。それが主イエスなのです。
もちろん、99匹を軽んじておられるのではありません。迷い出た1匹も、迷い出ていない99匹も同じように愛しておられます。迷い出た1匹を特別に可愛がっておられるのではないのです。もし、99匹の中から新たな1匹が迷い出たら、その1匹を捜しに行くのです。さらに新しい1匹が迷い出たら、またまた捜しに行くのです。私たちが羊飼いならば、「いい加減にしてくれ、これでは、まったく休まらない。もう捜すのはやめた」と言いたくなるかもしれません。しかし、主イエスは諦めない。捜し続けて下さるのです。それが神さまの御心 だからです。
私たちの教会は、そのような愛に生きているでしょうか?神さまの御顔を仰ぐことを忘れて大きな者になろうとしていないでしょうか?小さき者の1人がいなくなっているのに気づかない振りをしてはいないでしょうか?また、天の父の小さき者であることの恵みを見失い、「私は年をとってしまって何の役にも立てない」と嘆いたりしてはいないでしょうか?しかし、私たちの天使は、私たちが神さまの御顔を仰ぐことを忘れているときも、天の父の小さき者である恵みを見失っているときも、私たちに代わって御顔を仰いでくれています。神さまは、天使を通して私たちに目を注いでいて下さいます。主イエスはおっしゃるのです。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
神さまは、主イエスの父であられます。けれども主は、「神は、私だけの父ではなく、あなたがたの父でもあられるのだ」とおっしゃるのです。私たちの天の父が、「あなたがたのうちの一人でも滅びて欲しくない」との思いから、私たちに主イエスを遣わしてくださったのです。私たちを捜し出して、みもとに連れ戻すために。
私たちは100匹から迷い出て、主イエスに見つけ出して頂き、私たちの父なる神さまの みもとに連れて帰って頂いた1匹です。天の父の、小さき者です。大きくなることを欲するのではなく、小さき者同士、仕え合う者でありたい。迷い出てしまった者があれば、主イエスと共に捜し続ける者でありたい。捜し続ければ、いつの日か見つけることができるのです。なぜなら、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」からです。天の父の御心に感謝し、今週もそれぞれの賜物を用いて仕え合い、小さな者、迷い出た者に福音の喜びを届けてまいりましょう。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、小さき者同士、仕え合う者として導いて下さい。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けて下さい。主よ、イスラエルでの争いが激しさを増しております。たくさんの子どもも犠牲になっております。主よ、悲しみの中にある方々を慰めて下さい。憎しみから和解へと導いて下さい。主よ、教会から離れている方々を覚えて祈ります。体調を崩している方々、心が塞いでいる方々、仕事に追われている方々、コロナ感染症リスクを恐れている方々を憐れみ、再び教会に帰って来ることができるよう聖霊を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年5月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第10章1節~4節、新約 マタイによる福音書 第18章1節~9節
説教題:「天の国の子どもとなれ」
讃美歌:546、11、461、334、545B、427

先週の主日は、今年度の年間主題「共に苦しみ、共に喜ぶ」をコリントの信徒への手紙一を通して味わいました。教会は、キリストの体であり、「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要」との み言葉を心に刻みました。「世で評価されない小さな者こそ、教会には必要なのだ」と父なる神さまは子である私たちに語りかけてくださるのです。
主イエスの時代、子どもは小さな者、無価値な者とされていました。では、今はどうでしょう?実は今でも、子どもは弱い立場かもしれません。教会も例外ではない。礼拝堂に子どもの大きな声が響くと気になる。礼拝堂で、赤ちゃんと一緒だとお母さんは落ち着かないかもしれません。静かに眠っていれば安心ですが、ぐずり出すと席を立たざるを得なくなる。それがマナーなのかもしれません。しかし、本当にそれでよいのでしょうか?主イエスが ご覧になれば、もしかしたら間違っているのではないでしょうか?なぜなら、教会は、共に苦しみ、共に喜ぶために、一つとされたキリストの体だからです。
今日の み言葉の冒頭で、弟子たちは、「自分が、自分が」との心に支配されて「共に苦しみ、共に喜ぶ」ことができなくなっています。「共に」ではなく、「誰よりも、私が高く評価されたい。あの人より私が高く評価されて当然」との思いに支配されている。そして、主イエスのところに来て、このように質問しました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。
主イエスは、「これは本当のこと、大切なこと、アーメンなこと」として言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」私たちも、主イエスの警告を心に刻まなければ、とんでもないことになります。天の国で偉いとか、偉くないという議論以前に、子どものようにならなければ、天の国に入ることすらできないのです。
主イエスは私たちすべての者を天の国へ招いておられます。けれども、私たちの心が「誰がいちばん偉いのか」、という思いに支配されているなら、あるいはまた、小さな者、無力な者を排除し、つまずかせるなら、火の地獄に投げ込まれてしまうのだと、主は、私たちを悔い改めへと導いてくださっているのです。
主イエスは、一人の子どもを呼び寄せ、弟子たちの中に立たせて、言われました。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」主イエスの言われる子どものような人とはどんな人でしょうか?
子どもであっても、「偉い人」、「偉く見える人」の評価は気にするものです。幼稚園で働いていたとき、こんなことがありました。素直な園児がいました。良い子だと思いました。しかし、担任の保育者に言われました。「園長先生、あの子は園長先生の前だから良い子なのです。保育室では他の園児のおもちゃを奪い、やりたい放題ですよ。」私は、その一言にショックをおぼえました。むしろ、子どもの方が、誰が「偉い」のかを敏感に察知するのかもしれません。そして、その人の前で「良い子」であろうとする。
言うまでもなく、主イエスがおっしゃる「子どものような人」は、そういうふうに「良い子」を演じることでも、無邪気さや、純真さ、という子どもの美点をおっしゃっているのでもありません。
 子どもは、自分が小さいことを知っています。力の弱さを知っています。自分一人では何もできない。ごはんを作ってもらえないと お腹が空いてしまいます。かまってもらえないと淋しくなります。だから泣くのです。助けを求めるのです。主イエスは、「あなたも父なる神さまの子どもとなり、自分の弱さや、無力さを知っている子どもの心にそっくり入れ替えて、神さまに救いを求めて泣く者となりなさい」とおっしゃるのです。
たいして力のない、名ばかり園長の前で、良い子を演じていた子は、なんともかわいい見当違いを犯していただけですが、すべての者を愛してくださる神さまの前で、点数稼ぎをしようとやっきになることほど愚かなことがあるでしょうか。
私たちはつい、親の前では良い子にならないといけないと思い込んでいるのかもしれません。けれども、父なる神さまは、私たちが良い子でこれこれができるから、そのご褒美として、というのではなく、どこまでも小さく、無力で、繰り返し失敗する愚かな者だからこそ、「子よ」と呼び続けてくださるのです。
それなのに、「私は誰よりも良い子でありたい。偉いと思われたい」との心に支配されているなら、そのような心は、すぐにでもバッサリ切り落として捨てなければなりません。反省するとか、子どもの心を思い出すとかではない。心をそっくり入れ替える。父であられる神さまに、「アッバ、父よ」と助けを求める。私は弱く、小さな者。私はあなたの愛、赦し、憐みなくしては、生きていけません。すぐに人と比較して優越感に浸り、反対に劣等感に苛まれる愚かな者。だからこそ、父よ、憐れんでください。あなたの子どもにしてください。子どもの心を与えてください、と祈り続ける。そのときはじめて、私たちは共に苦しみ、共に喜ぶキリストの体となることができます。
先週、北海道恵庭市にある島松伝道所から会報が届きました。その中に辻中明子牧師がこのような文章を記しておられました。「自分はADHD(注意欠陥・多動症)ですという方と度々電話で話している。どうも、出席教会で出席停止と言われたとのこと。理由は、じっと座ることが苦手で、讃美歌もスムーズに歌えないかららしいが、なんとも残念なことだ。教会があるべき姿にとらわれているのだろうか。」
私はドキッとして読みました。他人事とは思えなかった。もしも、私がその方の出席教会の牧師であったら、私はどのような心でいるだろうか?主イエスはおっしゃるのです。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人を つまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人を つまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」ギクリとします。これまで犯してきた失敗を思い、恐ろしくなります。
けれども、そのような私が今朝も、み言葉を語らせて頂いている。この事実は驚くべきことです。なぜ語ることが赦されているのか?それは、ただただ主イエスの十字架の贖いによる。どうしようもない私たち。すぐに人をつまずかせ、自分にもつまずく私たちを愛し、赦し、「子よ」と招き続けてくださる方がおられる。私たちの代わりに、火の地獄に投げ込まれてくださった み子 主イエスがおられる。そこまでして、私たちすべての者を小さな かわいい子として、天の国に招いてくださり、永遠の命にあずからせてくださる父なる神さまがおられる。だから、もう、誰がいちばん偉いのかにこだわる必要はないのです。ただただ「主よ、愚かな私を憐れんでください」と祈る。ただただ、「アッバ、父よ」とすべてをさらけだして神さまにすがりつく。泣きじゃくる子どものように。何度でも。格好つける必要もない。人と比較する必要もない。偉ぶる必要もない。卑下する必要もない。ただ、父なる神さまの愛、主イエスの赦し、聖霊の注ぎを信じ、「アッバ、父よ」、「主よ、憐れみたまえ」と祈り続ける。教会は、そのような子どもたちが共に受け入れあう祈りの家であり、そこにこそ、神の国があるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、どんなときも、「アッバ、父よ」、「主よ、憐れみたまえ」と祈り続けるものとしてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。今、心が飢え渇いている者が大勢おられます。どうか、それらの方々に聖霊を注ぎ、心の渇きを潤してください。4月から、新しい任地で伝道の業に邁進している教師たちを強め、励ましてください。また、牧師不在の中、祈りつつ新しい牧師を求めている教会を強め、励ましてください。主よ、全国、全世界の諸教会を、コロナ禍の今こそ、祈りの家として存分に用いてください。退院を控えている者、手術を控えている者、入院している者、リハビリに励んでいる者を、強め、励ましてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年5月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第7章6節~8節、新約 コリントの信徒への手紙一 第12章12節~26節
説教題:「共に苦しみ、共に喜ぶ」
讃美歌:546、14、191、385、545A

 今朝は、今年度の年間主題「共に苦しみ、共に喜ぶ」に基づく礼拝をささげております。今朝のコリントの信徒への手紙一を読む上で、当時、コリントの教会はどのような状態であったかを確認しておきたいと思います。コリントは、ギリシアの、人口70万人の賑やかな港町でした。古代の町としては大きな町です。70万人のうち、奴隷が50万人もいたと言われております。また港町なので、多様な人種が入り混じっておりました。パウロが、コリントの町で、最初に伝道したのは、ギリシアに住むユダヤ人でした。その後、ギリシア人、また自由な身分の人々、奴隷たちも加えられていきました。つまりコリント教会には、様々な立場の人が招かれ、信仰告白へと導かれていたのです。
 様々な立場の人がいるのですから、当然、色々な問題が生じました。そこでパウロは、色々な問題に直面している信徒の顔を思い浮かべ、愛をもって、手紙を書き送ったのです。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」
私たちが教会を案内するとき、つい、「私が通っているのは、○○牧師の教会です」と言うことがあります。しかし、それは間違いです。なぜなら、教会の頭は、主イエスだから。教会は、主イエスの体なのです。体が多くの部分から成り立っているように、教会は一人一人のキリスト者によって「一つ」に形成されているのです。今朝の12節から26節までに「一つ」という言葉が繰り返し登場します。教会が主において「一つ」であることは、教会の生命線です。
コリント教会には、様々な立場の人が集っていました。ユダヤ人、ギリシア人、雇い主、奴隷。しかし、パウロは語るのです。「あなたがたは皆、キリストの霊によって生かされている。それなのに、『私はユダヤ人。私はギリシア人。私は奴隷。私は自由人』と自己主張し、『だから、一つになれない』はおかしい。皆、主において一つの体、一つの教会になるために洗礼を受け、聖霊を注がれたのではないか。」
パウロの この言葉は、私たちにも向けられております。子どもも大人も、女性も男性も、弱っている人も元気な人も、好きになれないあの人も、皆一つの体、主イエスの体となるために、洗礼を授かり、聖霊を注がれた。聖餐の祝いに与る者とされたのです。その大いなる目的を私たちは忘れてはなりません。
パウロは続けます。「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。」
子どもにもイメージし易い み言葉です。皆が目だったら、皆が耳だったら、皆が足だったら、皆が手だったら、皆が鼻だったら。それは体ではありません。分かり切ったことです。神さまが、私たち一人一人を、教会というキリストの体を形づくるために愛をもって配置してくださったのです。それなのに、「あのような人が教会にいるのはおかしい」と裁いたり、反対に、「私のような何もできない人は、教会のお荷物」と嘆くなら、それは、配置してくださった神さまへの冒瀆となる。自分がどなたによって教会へ導かれたのか、分からなくなっているのです。
また、もしも、悔い改めを口にしながら、「あの人とは一つになれない、あの人と一つになるくらいなら教会から離れます」と呟くなら、そのとき私たちは、神さまに背を向けている。キリストの体ではなくなっている。一つの体ではなく、バラバラに分裂しているのです。
パウロは続けます。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」2月下旬、新年度の年間主題を求めつつ、2020年度の歩みを振り返っておりました。新型コロナウイルス感染症リスク回避のため、今までと同じように礼拝をささげ、委員会活動等を行うことが困難になりました。礼拝から遠ざかっている方々もおられます。もしかすると、その中には、「私は、教会のお荷物になっている」と思い込んでいる方がおられるかもしれません。
しかし、パウロは記します。「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」体は教会です。ご自分の存在の意味を見失うほど傷つき、弱っている人こそ、教会にとって必要なのです。パウロは続ける。「わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」
神さまの力は、弱く見える部分にこそ働かれます。弱く、何もできないように見える。自分でも「私は役に立たない」と思い込んでいる。そのような者にこそ、「あなたこそ、キリストの体に必要なのだ」と神さまはおっしゃる。み手を持って、立ち上がらせてくださるのです。それこそが神さまの み業です。そして、体の中に痛みや、弱い部分があるときにはそれをかばい、他の機能で補おうとするように、教会という体にも弱い存在があるからこそ、私たちは共に祈り、共に支え、共に赦し合い、共に補い合うことができる。それこそが、教会というキリストの体が行う神の み業です。私たちは皆、そのために一つとされているのです。
最後に、パウロはこのように記します。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」誰かの苦しみを、自分の苦しみとして苦しむ。その苦しみこそ、神さまが与えたもう恵みです。私たちは、キリストの体なのですから。弱く小さく見える誰かが尊ばれるなら、こぞって喜ぶ。その喜びこそ、神さまが与えたもう喜びなのです。私たちは皆キリストの体なのですから。
2021年度も1ヶ月が経過しました。今もコロナの収束は見えません。だからこそ、主において一つとなり、共に苦しみ、共に喜ぶキリストの体として、互いの賜物を持ち寄り、祈り、励まし合いつつ歩んでいきたい。その歩みによってこそ、神さまの栄光を現すことができるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、弱く、欠けの多い私たちをあなたの大切な み子の体として用いてくださり深く感謝いたします。主において一つとなり、共に苦しみ、共に喜べる恵みを心に刻みつつ、神さまの栄光を現す者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。爽やかな5月となりました。しかし、私たちの心は日々の感染者数によりなかなか晴れません。どうか一日も早く収束へと導いてください。特に、医療に従事している方々を お支えください。今朝も教会での礼拝を求めつつ、それぞれの場所で礼拝をささげている兄弟姉妹の孤独、痛み、苦しみが主によって癒されますように。手術を控えている方、手術を終えた方、不安を抱えている方に溢れるほどに聖霊を注いでください。昨日も、東北地方で地震がありました。突風、雷雨もありました。どうか、これ以上の被害が拡大しないよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年4月25日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第30章11節~16節、新約 マタイによる福音書 第17章22節~27節
説教題:「命の代償」、讃美歌:546、9、140、527、544

マタイによる福音書を読み進めておりますが、今朝の み言葉は、分岐点と言ってよい大切な み言葉となりました。なぜなら、今朝の み言葉から、主イエスは、エルサレムへの道、つまり十字架と復活への道を歩み始められるからです。
主イエスと弟子たちは、いったんは領主ヘロデによる暗殺計画を避けてガリラヤ地方を離れ、西へ北へと迂回しておりました。しかし今、ホームタウンのガリラヤ湖畔に戻り、集まったのです。22節の「集まった」と訳された言葉には、ただ「集まった」というだけではなく、「集結する」という強い決意があります。具体的には、軍隊が戦いに打って出る際に用いられる言葉であり、「決起集会」と言ってもよい表現です。その決起集会で、主イエスは弟子たちに語られたのです。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」
「人の子」とは、主イエスが ご自分のことを、神から遣わされたメシアであると、特別に意識して用いられる一人称の名詞です。メシアである私が、引き渡される。人々の手に。人々は殺すのです。自分たちのためのメシアを。ここで、あれ?と思われたかもしれません。いったい誰が、殺人者たちの手にメシアを引き渡すというのでしょうか。答えは「復活する」と訳された言葉にあります。実は、「復活する」と訳されている言葉は原文では「させられる」という受け身の形です。主イエスを復活させるのは誰でしょう。父なる神であります。つまり、殺人者たちの手にメシアを引き渡すのも神なのです。
主イエスはおっしゃいます。「私が今から経験することは、すべて神の み心。人々の手に引き渡されることも、人々が私を殺すことも。神の決断に、私は従う。神によって、私は引き渡される。神によって、私は殺される。神によって、私は甦らされる。すべてが神の み心。その真実を、あなたがたの心に刻んで欲しい。」
 弟子たちは、非常に悲しみました。けれどもその悲しみは、神の子イエスが十字架で死ななければならないほど我々の罪は深いのだ、という悲しみではありませんでした。父なる神の み心を、神の子が、地上に降らなければならなかった真の意味を、まだ理解することはできなかったのです。弟子たちを捕らえていたのは、主イエスが何か不吉な、得体の知れない呪いのような力によって、悪い者の手に引き渡されてしまう、幸せな主イエスとの時間が途絶えてしまう、という悲しみでした。そのような恐れと悲しみに捕らえられていたときに、印象深い出来事が起こりました。悲しみに捕われているペトロへの、主イエスの優しい眼差しが感じられる愛に満ちたエピソードです。おそらく、主イエスが常宿としていたペトロの家での出来事でありましょう。神殿への税金を集める取税人がペトロの家にやって来ました。ペトロが戸口へ応対に出ます。訪問者が言いました。「今日は、確認したいことがあってやって来ました。あなたたちの先生、ナザレのイエスは神殿税を納めるつもりがないのではありませんか?」
 ペトロは、嫌な予感がしました。「この人たちは、イエスさまを捕まえようとしている。『納めない』と言ったら、ヘロデ王に言いつけ、イエスさまを捕らえ、本当に殺してしまうかもしれない。」ペトロはドキドキしながら答えました。「納めます」。取税人たちは、立ち去り、ペトロは、ほっとして家に入りました。すると、主イエスが、このやりとりを聞いておられたのでしょうか、ペトロに質問をされました。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」
ペトロは考えました。「ヘロデ王は、税金や貢ぎ物を自分の子どもたちから取り立てるだろうか?そんなはずはない。子どもたちは跡取りだ。税金を受け取る身分だ。」そして答えたのです。「ほかの人々からです」。
神殿税は、金持ちも貧しい人も等しく徴収され、神殿修理のために用いられました。神殿は、すべてのユダヤ人にとって、神の民であり続けるための非常に大切な場所だからです。その神殿維持に必要な税を払わないということは、神の祝福の中から落ちこぼれてしまう。神の守りがなくなってしまう。もしかしたら、何か悪いことが起こるかもしれない。自分の命がとられてしまうかもしれない。そのように考えられていました。言ってみれば、命の保証金です。犯した罪に目をつぶって頂くための、罰を受けずにすむための、代償です。神の子が、税を支払う必要があるでしょうか?王の子に税を支払う義務がないように、神の子には、神殿税を払う必要などないはずではないか、と主イエスはペトロを答えに導いておられるのです。その上、驚くのですが、「子供たちは納めなくてよいわけだ」とおっしゃいます。「神の子である私は納めなくてよいわけだ」とおっしゃったのではないのです。
私たちが等しく負わなければならない罪の代価。父なる神の愛に背を向けてしまう。となり人を愛することができない。信仰さえ自分中心。その代価は、私たちが生涯をかけても払い終えることはできません。しかし、主は言われるのです。「私は人々の手に引き渡される。そして、そこで殺される私の命こそが、父なる神が望んでおられる あなたがたの命の代償なのだ」と。
独り子の尊い命という代価を払ってでも、私たちの罪を赦し、生かしてくださる父なる神の、果てしなく大きな愛により、私たちは今、神さまの子どもとされ、こうして生かされている。だから主イエスは「子どもたち」とおっしゃった。私たちをご自分と同じ身分であるとおっしゃってくださったのです。
父なる神によって、主イエスの命という代償が支払われ、私たちは税を払う必要のない世継ぎの身分、王子、王女の身分、神の子の身分とされた!私たちは自由となった!何という、驚くべき神さまの愛でしょうか。
けれども、主イエスは、それだけで終わりにされませんでした。主は言われました。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」 ペトロは、主イエスが言われた通り、湖に行きました。そして、ポチャンと湖に釣り糸を垂らした。すると、ピクピクと釣り糸を引っ張る魚がいます。ペトロは、ドキドキしながら釣った魚の口を開いたことでしょう。すると、「あった!」主が言われたように、キラキラと光る銀貨が口の中に入っていたのです。
考えてみれば不思議な奇跡です。銀貨一枚ですから、大変な額ではありません。釣った魚を売れば済むようなことを、わざわざ、奇跡によってペトロに伝えようとされたことは、何だったのでしょうか?悲しみ恐れているペトロに、主は言われます。「恐れるな。今、私とあなたを捕らえているのは、得体の知れない力ではなく、神の力だ。私たちは神の力の中にある。この世のどんな権力からも、どんな呪いのような力からも自由だ。恐れることは何もない。神殿税だって納めなくてよい。けれども、今は納めよう。彼らを躓かせないために。」
私たちは、熱心であればあるほど、「こうでなければならない」と思い込みます。ことに、信仰のこととなると、自分の信じる道を貫き通さずにはおれない。熱心なキリスト者の家庭で、家族の心が反発し、教会から離れてしまう、ということは決して珍しくありません。熱心さのあまり、躓かせてしまうということが起こるのです。
しかし、主イエスは言われるのです。「躓かせてはならない。躓くなら、私の十字架にこそ躓かなくてはならない。」躓き、倒れるのは、主イエスの十字架だけ。そこでこそ、己の罪を知ることができるから。そこにこそ、立ち上がるすべが備えられているからです。「それまでは、余計なことで躓かせてはならない。彼らの救いを、神のご計画を、邪魔してはならない」と、主はおっしゃる。私たちの自由は、となり人が自由になることを妨げるものであってはならない。己の自由を誇り、となり人を裁いたり、躓かせるものであってはならないのです。となり人を生かすためなら、ときに己の主張を引っ込めて、相手に合わせることがあって良いのだ、と教えてくださったのです。
今朝の後半の み言葉は、マタイによる福音書にしか書かれていません。その意味ではあまり目立たない み言葉かもしれません。けれども、主イエスから、私たちがどのように生きることが大切なのか、キリスト者の心のありようを示してくださるとても大切な み言葉であると思います。ペトロがそうであったように、私たちは、神の み心に適っていたから自由にして頂いたのではありません。命の代償は、キリストが支払ってくださったのです。そうして得させて頂いた自由を、どうして誇ることができるでしょうか。むしろ、キリストのように自分自身をひたすらに低くしながら、喜んで となり人を愛し、となり人に仕える者でありたい。できるだけ となり人を躓かせないように生きることを大切にしたい。そのために主イエスは、私たちの代価として十字架で死なれ、甦らされたのですから。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、どこまでも深いあなたの愛に心より感謝いたします。キリストのように己を低くし、喜んで となり人を愛し、となり人に仕える者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も、聖霊を注いでください。緊急事態宣言が発令されました。新型コロナ・ウイルスが収束せず、不安の中にある方々を憐れみ、どのようなときも、あなたが共におられることを忘れることのないよう導いてください。先週の水曜日は、一人の姉妹の葬儀、昨日は、もう一人の姉妹の納骨式が執り行われました。深い悲しみの中にある ご遺族に上に慰めを注ぎ続けてください。今朝も教会での礼拝を慕いつつ、それぞれの場所で礼拝をささげている方がおられます。病床のベッドにある方、手術を控えている方、コロナのため、施設の中から外に出ることの難しい方々、愛する家族とすら面会の叶わない方々の孤独を憐れみ、溢れるほどに聖霊を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年4月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第49章14節~19節、新約 マタイによる福音書 第17章14節~20節
説教題:「からし種一粒ほどの信仰」
讃美歌:546、6、291、525、543

生後6ヶ月で、長女が神奈川県立こども医療センターに入院しました。多くの子どもたちが長期にわたって入院しており、退院の見通しが立たない子がほとんどでした。娘の退院が決まったとき、もちろん嬉しかったのですが、他の親御さんたちにどこか後ろめたいような、申し訳ないような思いになりました。多くの親御さんたちの悲しい思い、辛い思いの前に、無力感でいっぱいだったことを、今、思い起こしています。
ここにも、苦しんでいる一人の父親がいます。息子の病気のことで悩み、苦しみ抜いています。現在の「てんかん」と同じ病なのかは、はっきりしませんが、ひとたび発作をおこすと狂ったように火の中、水の中に倒れてしまう。一度や二度ではありません。度々です。目を離せない。ひとときも気が休まらない。もはや悪霊の仕業としか思えない。父親は色々な人に悪霊払いを頼んだに違いない。しかし、どこへ行っても何をしても無駄足。そんなとき、主イエスと弟子たちがやって来ることを知ったのです。主イエスが多くの病を次々に癒しておられるという噂を、かねて耳にしていた父親は、すがるような思いで、主イエスがおられると聞いた家に行きました。ところが、あいにく主イエスは三人の弟子たちを連れて山に登られており不在。9人の弟子たちが主イエス、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの帰りを待っていたのです。
父親は、必死に頼んだことでしょう。「お弟子さん方、イエスさまはおられないようですが、あなたがたもたくさんの人々の病をイエスさまのように癒されたと聞いております。どうか、息子の病を癒してください。どうか、息子から悪霊を追い出してください。」

弟子たちにも、腕に多少の覚えがありました。主イエスに送り出された先々で、病を癒す体験を重ねていた。弟子たちもそれほど不安を感じることなく、神に祈り、「悪霊よ、去れ!」と叫んだはずです。 しかし、「治すことができませんでした」。そこへ主イエスが、三人の弟子たちと共に、山から降りて帰って来られました。父親は主イエスの前にひざまずいて訴えました。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんで ひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」
主イエスはお答えになられました。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまで わたしは あなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」主イエスは、どのような思いで、このような言葉を語られたのでしょう?「我慢しなければならないのか」と訳されている み言葉から思い浮かぶのは、歯を食いしばり、怒りを爆発させないようにワナワナと震えている姿です。けれども、実はここで用いられている言葉のもつ意味から浮かんでくるのは、そのような姿ではないのです。これまで必死になって、何かを下から支えていた手を、下ろしたくなっている。下ろさずにはおれなくなっている。筋肉がピクピクと痙攣し始めている。しかし、それにも負けず、両手をグイと押し上げて、支え続けている状態。何とか今は持ちこたえている。そのような お姿なのです。つまり、主イエスは、役立たずの弟子たちにイライラしながら怒りをこらえているのではないのです。むしろ、今までと同じように、両手を上げ、筋肉が痙攣しても、グイと下から支えておられる。また、「よこしまな時代」と訳されている言葉は、ねじけている、曲がってしまっている、ゆがんでしまっている、とも訳せる言葉です。つまり、この腕がいつまで、あなたがたのねじ曲がった、歪んでしまっている「信仰」を支えられるだろうか?と必死に耐えながら、問うておられるのです。
主イエスは、親子の苦しみに激しく心を動かされ、「お叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされ」ました。ばつが悪いのは弟子たちです。何とも情けない。なぜ、自分たちは癒すことができなかったのか?恥ずかしさを感じていたことでしょう。だから、「ひそかに」、情けない顔で主イエスに尋ねたのです。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」。主イエスは、答えて言われました。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、
からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
主イエスが言われた「信仰が薄い」とは、どのような状態を指すのでしょうか?からし種は、当時、最も小さいものを示すのに用いられた言葉だったと言われています。さしずめ、ケシ粒ほどの、と言ったところでしょう。その からし種ほどの小さな、小さな信仰と、主イエスに薄いと言われてしまった信仰と、何がどう違うのでしょうか。
気をつけなくてはならないのは、主イエスはここで「山椒は小粒でもぴりりと辛い」とか、小さいから良いとか、悪いとか、そういうことをおっしゃっているのではありません。主イエスは、「信仰とは、からし種のような小さい小さいもの。あるか無いかわからないケシ粒みたいなもの、それが信仰」とおっしゃっているのです。確かに、あるのは、神さまの約束だけ。神さまは全能であられる。全能でいてくださる。だからあなたがたには何も不可能がない、と約束してくださる。その確かな約束にすがり、助けを求めることこそ、「からし種
一粒ほどの信仰」なのです。それは、「神さまへのまっすぐな祈り」と言ってよいかもしれません。「主よ、憐れみたまえ」だけで良いのです。ところが、このまっすぐな祈りを、人間が「わたしの信仰」と呼び、自分のものであるかのように錯覚し始めたとき、神さまの約束にすがる「からし種一粒ほどの信仰」は、曲がってしまいました。
ゆがんでしまいました。ねじけてしまいました。
 主イエスは言われるのです。「あなたが『私の信仰』と呼んでいるそれは、どんなに小さかろうが、立派であろうが、もはや 信仰ではないのだ。あなたが『私の信仰』と呼んでいるものは、ねじ曲がってしまっている。薄っぺらになってしまっている。」私のもの、私の力、と錯覚しているところに、神さまにすがる心はありません。あるのは自分の敬虔さに対する自信か、さもなければ、「私の信仰はみすぼらしい」という卑屈な思いです。そこに神の力は働きません。神さまの約束に信頼する祈り、「主よ、憐れみたまえ」との祈りが、失われているからです。
今朝の み言葉から、大好きな子ども讃美歌を思い起こしました。タイトルは、「どんなときでも」。作詞したのは、高橋順子さん。作詞当時、骨肉腫(骨にできる癌)を患い病床にありました。苦しい闘病生活の中で作詞し、7歳という短い生涯を終え、天に召されました。その順子さんが作詞したのが「どんなときでも」です。改訂版こどもさんびか129番。1節「どんな時でも、どんな時でも/苦しみに負けず、くじけてはならない。イェスさまの、イェスさまの/愛を信じて。」2節「どんな時でも、どんな時でも/幸せをのぞみ、くじけてはならない。イェスさまの、イェスさまの/愛があるから。」
「からし種一粒ほどの信仰」です。病に苦しみ、くじけそう。それでも、イエスさまは、いつも私を支えていてくださる。だから、私は苦しみに負けない。くじけない。たとえ今日、命が終わっても大丈夫。なぜなら、私にはイエスさまの愛があるから。どんな時もイエスさまが一緒だから。7歳の小さな体です。しかし、イエスさまの愛を信じ、イエスさまにすがりつき、イエスさまを離さなかった。7歳の少女が、泣き崩れるご家族に、「私は大丈夫。イエスさまのところに帰るから」と言い残して亡くなったのです。主イエスは、順子さんを支え続けてくださいました。同じように私たちをも、支え続けてくださるのです。我慢に我慢を重ねられた主が、その手を下ろしてしまわれることはなかったのです。痛みに耐え続けてくださったのです。
主イエスは、十字架に死なれました。しかし神は、主イエスを復活させてくださいました。神の み力にただ信頼する からし種の命を、私たちに与えてくださるために。私たちを支え続けてくださるために。今朝も、そして、とこしえに、私たちは全能の神さまの約束の中にいます。あるかないか、わからないほど小さな からし種の命は、無力を嘆くことなく、主の憐れみにただ信頼して良いのです。神さまの約束の中で、何者にもおびやかされず、強く、自由で、「できないことは何もない」者として、生かされているのですから。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、「私の信仰」に生きる者ではなく、日々、あなたから頂く「からし種一粒ほどの信仰」に生きる者としてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。昨日、昨年4月に召された姉妹の記念式を執り行うことが許され、感謝いたします。主よ、今も悲しみの中にある ご遺族に慰めを注いでください。新年度が始まっております。コロナ禍の中、不安を抱えている子どもたち、新しい生活を始めたお一人お一人を支え、導いてください。今日も、それぞれの場で礼拝をささげている兄弟姉妹をおぼえます。どんなときもあなたが共におられることを喜び、「からし種一粒ほどの信仰」に生きる者として導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年4月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第42章1節、新約 マタイによる福音書 第17章1節~13節
説教題:「起きなさい。恐れることはない。」
讃美歌:546、7、161、196、542、Ⅱ―167

主イエスの愛弟子であったペトロには、忘れられない日がいくつもあったことでしょう。主イエスに招かれ、弟子となった日。主イエスから「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われ、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白したことで、「あなたは幸いだ。」と祝福され、さらに「あなたはペトロ。わたしはあなたを土台として教会を建てる」と言われた日。主イエスから「あなたは神を思わず人を思っている」と叱られてしまった日。主イエスを三度も否認してしまった日。名誉な日があれば、自分の弱さを痛感した日もありました。今朝、私たちに与えられた驚くべき出来事も、ペトロにとって、また、主の弟子である私たちにとっても、忘れられない日、忘れてはならない日であります。
第17章1節の冒頭に「六日の後」とあります。六日前に何があったのか?ペトロの忘れられない日の一つとして紹介した、ペトロにとって名誉な出来事があった日です。つまり、主イエスに信仰を告白した日であり、主イエスから「あなたを土台として教会を建てる」と約束された日です。主イエスは、このときから受難と復活を弟子たちに打ち明け始められました。その上で、言われたのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 その大切な お言葉を語られてから「六日の後」、主イエスはこれまでであればお一人で山に登られたところを、その日は弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、山に登られたのです。旧約聖書の時代から、山に登ることは神さまからの啓示を頂くことを意味しております。この日、主イエスは、神さまの深い深い秘密を、弟子たちにも見せようとなさられたのです。
 ペトロをはじめ三人の弟子たちにとって、忘れられない日が始まりました。これまでは、弟子たちを先に行かせ、お一人で山に登られることが常であったのに、今日は選ばれて同行を許された!と、三人は誇らしい思いで従ったことでしょう。そして、高い山の頂に到着したとき、これは夢かと思うようなことがおこりました。主の お顔が太陽のように眩しく輝き、衣まで真っ白く光ったのです。太陽のように、です。とても見続けられるものではありません。目がつぶれる!そう思ったとき、何と、モーセとエリヤが現れ、主と語り合っているではありませんか。ペトロは喜びに溢れて言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロの喜びと興奮がダイレクトに伝わってきます。ここで「すばらしいことです」と訳された言葉は、「美しい」という言葉です。真の神であられる主イエスを中心にモーセとエリヤが語り合っている光景は確かに、この世のものとは思えない美しい光景だった。ペトロは、その光景に圧倒され、じっとしていられなくなったに違いない。何か自分にできることはないかと、思わず、礼拝をささげるための仮小屋を建てることを提案しようとしました。
ところが、ペトロが最後まで言い終える前に、今度は光り輝く雲が彼らを覆い、中から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神さまの み声が響いたのです。真っ白な、眩しい光に包まれて、天の光に包まれて、三人は震え上がりました。
神の圧倒的な光に照らされるとき、私たちは自分がどれほど汚れているかを知る。主の み前に立つことに、とても耐えられる者ではないことを思い知るのです。
しかし、神さまの み言葉は、弟子たちを罪に定めるものではなく、彼らに道しるべを示すものでした。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。あなたたちが、先生と呼んで慕っているナザレのイエスは、私の愛してやまない子である。わたしの大切な大切な子である。この子の言うことをよくよく聞いて、従いなさい。そうおっしゃってくださったのです。
主イエスは、真の人であられました。しかし、本来は真の神であられる。父なる神さまと同質な存在です。そのことを弟子たち、また私たちにはっきりと見せてくださったのがこの「山上の変容」と呼ばれる出来事なのです。そして、神さまはおっしゃったのです。わたしの愛する子に聞け、と。ただ一度、聞くのではありません。どんなときも、嬉しいときも、悲しいときも、喜びのときも、試練のときも、主の み声を聞き続けることを、父なる神が求めておられる。主イエスに信頼し、主の み声を聞き続けることを、父なる神は私たちに求めておられるのです。
六日前、主イエスは、弟子たちに言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」この み言葉は、私たちにも向けられています。主イエスは、私たちの罪をよく知っていてくださいます。「自分、自分」と、自分を捨てるどころか、どこまでも自分にこだわる。あの人よりはまし。反対に、あの人に比べて自分はダメ。そのように、神さまを仰ぐことよりも、自分を誇り、自分を卑下する。そのような弟子の罪、私たちの罪を、主は深くご存知でいてくださいます。
だからこそ、主イエスは弟子たちに近づき、彼らに手を触れて言ってくださいました。「起きなさい。恐れることはない。」神と同質であられる方が、ひれ伏し 恐れ震えているペトロたちに近づき、手を触れて起こしてくださった。地面にひれ伏している人に手を触れて起こすのですから、自らも低く、しゃがんでくださった。抱えるように、起こしてくださった。そして、耳もとで、言ってくださったのです。「起きなさい。恐れることはない。」
 何と慰めに満ちた お言葉でしょうか。「あなたも私によって起きることができる。罪から立ち上がることができる。あなたは何も恐れなくてよい。真の神である私が起こす。あなたの弱さを真の人として知っている私が、あなたを起こすのだ。いつまでも顔を伏せているな。いつまでもうずくまっているな。私があなたと共にいる。起き上がって、私について来なさい。私と一緒に歩こう。私が真の神であることがわかったね。いつまでも山の上にいることはできない。私は十字架への道を、甦りへの道を歩む。その日まで、山の上の出来事は封印しなくてはならない。それが父なる神の み心であるから。けれども、私が甦ったあと、あなたがたは、山の上の出来事を確信を持って、喜びを持って、畏れを持って語り続けるのだ。だから起きなさい。何も恐れることなく、あなたは喜んで生きることができる。あなたは自分を喜んで捨てることができる。安心して、自分の十字架を背負って、わたしに従い続けなさい。」神さまは山上の変容の出来事を通して、私たちキリストに従って生きる者に何度も、何度も、語り続けてくださるのです。
 伝道者パウロは、コリントのキリスト者に向けて手紙を書き送りました。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(コリント二3:18)」
 主イエスに従い続けて生きる者は、たとえ山の上で み顔が太陽のように輝き、衣が光のように白くなった主イエスを目撃することがなくとも、鏡のように主の栄光を映し出すことができるのです。栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えて頂けるのです。聖霊の働きによって自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従って歩む。その道こそが、神の光を映して生きる道です。神の国の民として生きる道です。日々、新しく、美しく、いつまでも疲れない、いつまでもくたびれない命に生かしてくださるのです。
 主イエスは弟子たちと一緒に、山を下りられました。十字架への道、甦りへの道を歩むために。弟子たちは主に尋ねました。「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」。
 当時のユダヤの人々には、大切にしていた旧約の預言がありました。それは、主の大いなる恐るべき日、裁きの日の前には、エリヤを遣わす、と神がおっしゃったことです。預言者エリヤが再び世に来て、万事を元どおりに改めるのだ、と信じられていたのです
 主は言われました。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」洗礼者ヨハネは、万事を元どおりにしようと、人々に、「自分自身の罪の姿、惨めな姿を見よ。神の眩しい光に打たれては、あなたなどひとたまりもない。まず罪の自分、どうしようもない罪の自分を見て、心から悔い改めよ、自分のために生きる生き方から、神の栄光を現わす生き方をせよ」と悔い改めを迫りました。そのヨハネこそが神が遣わされたエリヤだったのに、自分の罪を認めない者の手によって、ヨハネは殺されたのです。主は言われました。「だから私も、ヨハネのように人々から苦しめられることになる。それが神の定められた私の十字架である」と。
 人が、自分の力で自分を捨て、自分の十字架を背負って、主に従い続けることはできません。神の掟を破ったアダムとエバが神を恐れて隠れたように、とても神の前に立つことなどできない。けれども、私たちはすでに神さまから「これに聞け」と道を示して頂いたのです。主イエスに「起きなさい。恐れることはない。」と言って頂いたのです。だから、主の背を見つめて、今、主から与えられている自分の十字架を背負って、主に従い続けたいと祈り願う。そのとき、どんなに惨めな、罪深い、情けない私でも、主と同じ姿に造り変えられます。主の霊の働きを頂いて。主の栄光を鮮やかに鏡のように反射させて、現わすことができるのです。今週も主の み手に触れて頂き、主の霊を注いで頂き、主の栄光を喜んで現わしていきたい。心から願います。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、「起きなさい。恐れることはない。」との み声に感謝しつつ、主の栄光を現わし続ける者としてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。神学生を東村山教会に遣わしてくださり感謝いたします。幼いときに、芳賀 力先生より洗礼を授けられ、神さまによって成長させていただいた姉妹が昨夏に錦ヶ丘教会で信仰を告白され、献身の志が与えられたことを深く感謝いたします。主よ、神学生とご家族を お支えください。神学生、教職員、神学校の働きを祈り続ける者としてください。体調を崩している方々、手術を控えている姉妹、悩みの中にある方々を お支えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2021年4月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第16篇1節~11節、新約 マルコによる福音書 第16章1節~8節
説教題:「恐れは信仰へ」
讃美歌:546、153、156、296、541

マルコによる福音書の復活物語は、突然、終わります。9節以下は後の教会が書き加えたものだというのが定説ですが、書き足した人々も「これはおかしい」と思ったから付け加えたのでしょう。色々な説があり、実は続きのあったものが失われてしまった、と考える人もいます。どのような御言葉で終わっているか?8節「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
世界で最初のイースターは、驚きの日、逃げ去る日、震え上がる日、正気を失う日、沈黙の日、そして恐ろしい日であったと語り終えるのです。確かに何か物足りないような不安を覚えます。けれども今朝は、この何か物足りないような気持ちはひとまず置いておいて、改めて、皆さんと一緒に、世界で最初のイースターの中に身を置いてみたいと思います。女性たちの一人になったつもりで。
マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、主イエスを深く愛していました。第15章41節には、彼女たちは「イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた」とあります。愛するイエス先生に献身的に仕え、衣食住の世話を焼いた女性たちがいたのです。三人はその代表格であったのでしょう。三人の女性にとって、主イエスが十字架の上で息を引き取られたことは胸が締め付けられる激しい痛みであったに違いありません。もしも代わることができるなら私を殺してくださいと思ったかもしれません。けれども、黙って見守るしかできませんでした。
主が息を引き取られた金曜の夕方、ぐずぐずしていると安息日が始まってしまうから、と慌ただしく布でただぐるぐる巻きにされただけで墓の中へ押し込まれてしまった、大事な大事な先生のお身体。それをひっそりと見届けた三人の女性は、安息日が終わるのをまんじりともせずに待ったことでしょう。そして、土曜日の夕方、日が暮れて、安息日が終わると早速、主イエスのご遺体に塗るための香油を手に入れ、辺りが白み始めるのを待って、墓へと急いだのです。何としても主イエスへの愛を最後に示したかった。主のお身体に残っているであろう血を丁寧に拭き取り、良い香りの油を綺麗に塗り、清潔な布でしっかり巻き直して、ちゃんと、丁寧に葬って差し上げたい。愛する主イエスと最後のお別れをしたい。そんなことしかできない。けれども、それが私たちができる主イエスへの精一杯の愛の証しであると。とにかく一刻も早く、その一心で出掛けたのです。急ぎ足で。次第に小走りになっていたのではないでしょうか。でも途中でハタと心配になった。とにかく急いでの一心で出て来てしまった。しかし、お墓は大きな石で塞がれている。どうしたものだろう。誰か番兵でも、近くにいてくれたらよいのだけれど。でも言うことを聞いてくれるだろうか?
ところが、墓に着いてみると、何と、非常に大きな石が、わきへ転がしてあったのです。どういうことでしょうか?私たちの他に、同じことを考えた人がいたのだろうか?墓の持ち主で、ご遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフさんだろうか?それともペトロたちお弟子さんだろうか?恐る恐る、墓の中に入りました。すると、何と、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたのです。
5節に「婦人たちはひどく驚いた」とあります。ただ驚いたのではありません。腰を抜かすほど驚いた。気絶しそうなほど驚いた。もしかすると、最初は幽霊かと思ったかもしれません。完全に想定外。誰?!何?!ひどく驚き、あわあわしている婦人たちに、若者は驚くべき喜びを語り始めた。空っぽの墓に、福音が響いたのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
若者は、天の使いだったのです。「神が、主イエスを甦らせられた!死から起こされた!再び生きてお会いすることができる!」天使は婦人たちにそう告げました。ところが、婦人たちは「恐ろしかった」のです。婦人たちは、ご遺体をきちんと葬りたかっただけなのです。涙に暮れたとしても、ご遺体を丁寧に葬ることが自分たちにできる最後のご奉公だと思って来たのです。復活などこれっぽっちも期待していなかった。主イエスは、御自分が必ず三日目に甦ることになると預言してくださっていたのに、理解することも、信じることもなかったのです。死者が生き返るなど恐怖でしかなかった。それは、神の領域だからです。私たちの知るところではない。想定外の出来事は、私たちにとっては脅威でしかありません。私たちの秩序正しい世界を脅かすものだからです。たとえ冷たいご遺体でも、手に触れることのできるものであることを私たちは望むのです。これが女性たちの現実であり、私たちの現実でもあるかもしれません。もしも私たちの大切な人が死に、ああもう一度目を開いて欲しい、言葉を交わしたい、と思ったとしても、実際に棺の中の遺体がぱっちり目を開いて喋り出したら。やはり腰を抜かすに違いない。主のお甦りを信じることは、科学的な根拠を並べて説明をつけることができたから、信じられる、というものではないのです。甦ってくださった主イエスが、私たちと出会ってくださることなしには、恐怖でしかないのです。しかし天使は女性たち、私たちに、空っぽの墓を示しつつ告げるのです。「驚くことはない」と。十字架につけられたナザレのイエスを捜しても、墓の中にはおられない。父なる神が、あの方を甦らせられた。そして、女性たちだけでなく、私たちすべての者に、もう一度、主イエスに出会って頂くために出発しなさい、と促すのです。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と。
主イエスを知らないと三度も否認したペトロにも、主イエスを置き去りにして逃げ出してしまった弟子たちにも、主は甦られた!その真実をまことに「私の救い」と信じることができるために。
ガリラヤ。主が伝道を始められ、弟子たちをお召しになられ、共に伝道された場所です。そのガリラヤへ主イエスは先に行かれる。もう向かっておられる。そこで再び出会って頂きなさい、そのとき、恐れは信仰へ変えられると天使は告げたのです。
私たちにも沈黙を破る日が来た。動き出す日が来たのです。神は私たちをも召してくださる。震え、正気を失い、黙ってしまう私たちを。私たちは、ガリラヤで主イエスにお目にかかることはできませんが、甦られた主は、この礼拝堂で、私たちに出会ってくださいます。今はまだ墓の前でうずくまるように、主の甦りを信じることのできない方にも、主は必ず出会ってくださいます。もしかしたら、その真理を示し、招くために、マルコ福音書はあえて8節で終わったのかもしれない、とも思います。あの十字架にも、冷たい墓の中にも、主はおられません。主は今朝も生きて、私たちをしっかりと捕らえてくださいます。甦りの奇跡に私たちは生かされているのです。今朝も、父なる神は、私たちを招いてくださいました。聖餐の祝いまで用意しておられる。主イエスの流された血潮と裂かれた み身体に与り、清められ、新しいいのちの約束の中で生かされている喜びを共に味わうのです。
2021年度の始まりの日が、イースターと重なりました。嬉しく思います。新年度も挫折する日もあるでしょう。先の見えない不安に襲われる日もあるでしょう。けれども、主は甦られたのです。そして今朝も、私たちの先を進んでいてくださる。私たちも共に、先を進んでいてくださる主に従い、すでに天にある神の家族と共に目覚める永遠の朝を信じて、新しい歩みへと踏み出して行きましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、恐れではなく、主の甦りを信じる信仰を与え続けてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。日々のニュースを聞くごとに、恐れを抱く私たちです。ミャンマーでは今、この時も虐殺があります。主よ、祈ることを諦めることのないよう聖霊を注いでください。今、深い悲しみの中にある方々を慰め、望みを捨てることがないよう導いてください。死で終わりではない。主はお甦りになられたとの確信を与え続けてください。理解されるよりも、理解することを、隣人を受け入れ、愛することを学ばせてください。己の強さを誇るより、助けを求めている人の助けとなることを得させてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


 

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