2016年度メッセージ

2017年3月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編第6篇1節~11節、新約 ルカによる福音書 第13章22節~30節
説教題:「狭い戸口から入るように努めなさい」    
讃美歌:546、14、314、Ⅱ-25、5 

私たちは今、主イエスの受難を心に刻む受難節(レント)の期間を過ごしております。主は、ルカ福音書第13章22節に書かれているように、「町や村を巡(めぐ)って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」のです。エルサレムは、主イエスが私たちの罪のために十字架で殺された場所。つまり主は、ヌクヌクとした場所に座り、上から目線で私たちを審く御方ではなく、神の審きを受けるべく、エルサレムへ向かって進みつつ、愛を持って私たちを審く御方なのです。
主イエスは、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」との質問を受けて、このように言われました。「狭い戸口から入るように努めなさい」。新共同訳で、「努めなさい」と訳された原語αγωνιζεσθε(アゴゥニゼッセ)は、「努力しなさい」とは、違う意味の言葉です。原語には、「人々が集まるところ」から「闘う」という意味があるのです。なぜ「人々が集まるところ」が、「闘う」になるのか?連想ゲームのようですが、人々が集まるところは、競技場です。新約聖書の時代、競技場で闘いが行われる。そこから、「人々が集まるところ」という意味の言葉が、「闘う」という意味になったのです。
つまり、主イエスの「努めなさい」には、「コツコツ努力しなさい」ではなく、「死を恐れず闘い続けなさい」という意味が込められているのです。そこから判断すると、「狭い戸口」である主イエスの道を歩むことは、この世の様々な悪との闘いが伴うと主は語っておられるように思えます。つまり、「主イエスの道を通って、神の国に入ることは楽な歩みではない。むしろ日々、あらゆる闘いが伴う。だからこそ、この世の悪に負けることなく、『狭い戸口』である私の道を通って、神の国に入って欲しい!」と主は語られるのです。実際、主イエスの歩みは闘いの連続でした。だからこそ、主のみならず、私たちキリスト者もこの世の悪に勝利するには日々、激しい闘いを強いられるのです。
ところで、今朝の御言葉に、「お前たちがどこの者か知らない」という言葉が、25節、27節に登場します。「『お前たちがどこの者か知らない』と家の主人であられる神が言われる」と、主イエスが言われるのです。激しい言葉です。ここで確認したいのですが、主イエスが、このような激しい言葉を告げているのは、神に背を向けて生きている人たちではありません。そうではなく、「神に選ばれた民」と信じている人々です。だからこそ、激しいのです。「神の民」と自負している人々が、神の国に入ろうとすると、バタン!と戸を閉められてしまう。それから慌てて、戸をダンダンダンダン、ダンダンダンダンと何度も、何度も叩き続ける。そして叫ぶ。「御主人様、開けてください。私です。あなたの民です」。それなのに、戸は堅く閉ざされたまま。神は、戸の向こうから語るのです。「お前たちがどこの者か知らない」。こんなに辛く、冷たい言葉はありません。だからこそ、戸を叩き続ける。叫び続ける。「どうか、開けてください。御主人様。私です。あなたの民です。御一緒に食べ、御一緒に飲み、あなたも美味しい!とおっしゃられたではないですか。しかも、あなたの教えを広場で受けました」。すると、もっと激しい言葉が突き刺さる。「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」。その後は、私たちがどんなに戸を叩き続けようが、何を叫ぼうが無言。何の反応もない。最終的に私たちは神の国に入ることが出来ず、そこで泣きわめいて歯ぎしりして死ぬのです。これほど厳しく、冷たい御言葉はあまりないように思われます。しかも、神の激しい怒りを、十字架と復活の主イエスが語っておられる。その事実を、今朝はしっかりと心に刻みたい。
改めて思う。私たちキリスト者は「私は、神の国に入れる」と信じています。けれども、今朝の御言葉を読むと、背筋に冷たいものが流れる。慈愛に満ちた神ではなく、厳しい神が戸口の向こうに仁王立ちしているように思えてくる。今朝、皆さんの中に、もしも勇気を持って教会の門を叩いた方がおられるなら、「話が違う!」と思われたはずです。勇気を持って教会に来た。「あなたも神に愛され、赦されている」とのメッセージを期待しておられたはずです。それが、神との交わりを経験した者に対し、「お前たちがどこの者か知らない」と語る。本当に血も涙もない神だと思われたかもしれません。当然の反応だと思います。また信仰を告白し、洗礼を受けた私たちキリスト者も、今朝の御言葉を読むと、「主イエスは何で、こんなにも冷たい言葉を語っておられるのか」と戸惑い、出来れば今朝の御言葉を無視し、第15章の「放蕩息子」の譬えに飛びたい!と思ったかもしれません。なぜなら、放蕩息子の帰りを待ち続けた父、つまり神は、放蕩息子を見つけたとき、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻し、祝宴を開いて下さったのです。
今朝の御言葉で、主が示して下さった激しい神と、放蕩息子の父である神は全く違う神であると思わざるを得ません。だからこそ、改めて27節の御言葉を味わいたい。27節「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」。この御言葉と関連する旧約聖書の御言葉として、今朝の詩編第6篇9節「悪を行う者よ、皆わたしを離れよ」があります。
詩編第6篇は、ダビデの詩であると同時に、「悔い改めの詩編」と呼ばれる七つの詩編(6篇、32篇、38篇、51篇、102篇、130篇、143篇)の最初の詩編です。悔い改めの詩編なので七つの詩編は受難週に読まれます。詩編第6篇は、ダビデが病と闘いつつ、犯した罪により神に捨てられることを恐れる祈りです。「主よ、怒(いか)ってわたしを責めないでください/憤(いきどお)って懲(こ)らしめないでください。主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ/わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう(6:2〜4)」。
ダビデは嘆き悲しみつつ、心の底から悔い改めを祈り、主にすがり続ける。そして9節の祈り「悪を行う者よ、皆わたしを離れよ」に到達する。この祈りによって、ダビデは主の救いの確信へ導かれるのです。「主はわたしの泣く声を聞き/主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる(6:9~11)」。ダビデの祈りは、どんなに辛いことがあっても、どんなに自分が犯した罪に耐えられないことがあっても、心から悔い改め、主の救いを信じ、祈り続ければ、主は必ず、どん底の私を救って下さる!との信仰へ導かれると、私たちに教えているように思われます。
いずれにしても、今朝の御言葉を通し、主が私たちに示しておられるのは、悔い改め続けなければ、神の国に入れないという事実です。もちろん神様は、全ての者に神の国に入って欲しい!と心から願っておられる。しかし、神の愛、神の招きを感じているにもかかわらず神に背を向け、神の招きを無視する者。あるいは「私には神の愛がたっぷりと注がれている」と安心し、神の国に入るべく誠実な歩みをせず、神の思いに従い続けることを怠ると「わたしから立ち去れ」と言われるのです。だからこそ、エルサレムつまり十字架への道を歩み続ける主イエスは、深い憐れみを持って、厳しい審きの言葉を一同に、つまり、今朝、主の日の礼拝に招かれた私たちに語って下さるのです。今、主の御声が聴こえます。
 「いつまでも神の招きを拒んでいると大変なことになる。これは、脅しではない。本当のことだ。神の招きに応えるのが遅くなると、神様とあなたの関係は切れてしまう。また、洗礼を受けたあなたがたキリスト者も、洗礼を受けた事実は大きいが、それだけで安心していると神の国から外に投げ出されるかもしれない。そんなことを神は望んでおられない。だからこそ、この世の様々な悪と闘い続けて欲しい。諦めるのは簡単。でも、あなたがたがこの世の様々な悪との闘いを断念してしまったら、本当に全ての存在がいずれ滅びてしまう。あのノアの物語のように」。
今、「御言葉と祈りの会」では創世記を学んでおりますが、先週はこのような御言葉を読みました。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する』(6:5~7)」。この御言葉を読んだ日、つまり先週の木曜ですが、ロンドンでテロが発生。死者5人、約40人が負傷しました。このようなテロの報道もあまり驚かないほど私たちの感覚も麻痺してしまっている。私たちを創造された神は、今この瞬間も後悔しておられるかもしれません。少なくとも毎日、いや毎分、毎秒、心を痛めておられる。だからこそ、福音書記者ルカも神の怒りを語る主イエスの審きを記すのです。「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ(13:27)」。創造主であられる神の怒りは頂点に達した。なぜなら、神は私たちを創造され、私たちに溢れる恵みを与えて下さった。それなのに、不義を行う私たち、常に悪いことばかり心に思い計っている私たち。神は、そのような私たちに怒りの言葉をぶつけるのです。「皆わたしから立ち去れ」。その結果、不義を行い続ける者は、神の国から投げ出され、泣きわめいて歯ぎしりするのです。
主イエスは、神の激しい怒りを語るほどに、私たちを深く愛しておられます。「何としても神の国に入って欲しい。何としても神の国にとどまって欲しい。何としても神の国で平安に生きて欲しい。今のままでは、神の国から投げ出されてしまう。今のままでは泣きわめいて歯ぎしりして終わってしまう。時間がない。わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道である『十字架への道』を進まねばならない。十字架で殺されると、このように語ることは困難になる。だからこそ、日々、悔い改めて欲しい。悔い改めなければ、皆、滅びてしまう」。
私たちは、過去の自分を捨てられません。過去に犯してしまった罪、過去の栄光、過去の業績、過去の傷、過去の試練、そして過去の悲しみ。良いことも悪いことも過去を引きずるのが私たちです。「私はあんな悪いことをしていた。過去を消すことは出来ない。だから、神の救いから漏れてしまった」。逆に、「私は色々な素晴らしい業績を残した。神にも一所懸命に仕えた。だから大丈夫。必ず神の国に入れる。私が神の国から漏れるなら、いったい誰が神の国に入ることが出来るのか」と本気で思ってしまう。どちらの心にも課題がある。もう駄目だと諦め、悔い改めることなく、敷かれたレールを、神を仰ぐことなく、下を向いて歩き続ける人。反対に、自分は大丈夫!と安心し、同じように悔い改めることなく、胸を張って堂々と歩み続ける人。それぞれの目には、十字架と復活、そして再臨の主イエスが見えていない。いや、見えていても、本気で見ていない。本気で悔い改めていない。本気で信じていない。そのとき、洗礼を受けたキリスト者も、神の国の外に投げ出されることになるかもしれません。たとえ投げ出されることはなくとも、神の国で宴会の席にずっと後に着くかもしれない。逆に、今まで教会に行ったことも、神を信じることも、主イエスの十字架と復活の出来事を知識として知っていても、私のための救いの出来事!と信じることのなかった人々が、ある出来事をきっかけに真剣に信仰を求め、祈り、信仰を告白し、洗礼を受けた。それからは忠実な教会員として雨の日も風の日もコツコツと礼拝に通い、パウロが命じた勧め「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。『霊』の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい(テサロニケの信徒への手紙一5:16~22)」を大切に、狭い戸口である主イエスの道を歩み続けるなら、たとえ人生の後半で受洗しても、神の国で宴会の席に先に着くのです。
主は語ります。「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後(あと)の人で先になる者があり、先の人で後(あと)になる者もある(13:29~30)」。
父なる神様の思いは、全ての人を救いたい!であることは間違いありません。だからこそ東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着いて欲しい!まさに放蕩息子が悔い改めの祈りを献げ、父のもとに立ち帰った結果、父は僕たちに命じたのです。
 「『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた(ルカ15:22~24)」。
そうです。神の国の祝宴には罪を犯し、悔い改めた者こそ招かれるのです。だからこそ、「罪を犯した私には神の国は関係ない」と神の国の宴会の席に着くことを諦めることも、また反対に「私にこそ、神の国の宴会の席は用意されている」と胡坐(あぐら)をかき、悔い改めの祈りを怠ることも神は心を激しく痛められる。だからこそ私たちは、主イエスが十字架で私たちの罪のために、本当に死んで下さった事実を心の目でしっかりと見つめ、日々、罪を悔い改め、同時に、主イエスの十字架によって全ての罪が赦された!との大いなる恵みを心に刻みつつ、全世界の民が神の国で宴会の席に着く日が来るように祈り続けたいのです。
説教後に賛美するのは、讃美歌第2編25番です。今朝の御言葉から、この讃美歌が示されました。1節は、「その戦い いとはげしく 人によりてことなれども、いずれも召されたる 神のうつわぞ」と主を賛美します。2節は、「その苦しみ いとはげしく 身は炎に焼かれつつも、ただただ主のために たたかいぬけり」と主を賛美します。そして3節は、「われらも群れをなし みあしあとをゆかん。よろこびうたいつつ 主の道をゆかん。海に 山に 町に 村に よきおとずれ のべつたえて、いざ主のあかしびと たゆまずすすめ」と主を賛美します。まさに今朝の御言葉のように、狭い戸口である主イエスの道をそれぞれの闘いに屈することなく、どんなときも十字架と復活、そして再臨の主が私たちと共に闘って下さると信じて、私たちも主の道を雄々しく歩み続けたい。そして、海に山に町に村に主の福音を語り続けたい。そのとき、東から西から、また南から北から主の民が続々と神の国の宴会の席に着くようになるのです。共に、その幻を信じ、来年度も主の道を歩み続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。主よ、悔い改めの祈りを怠る私たちを深く憐れんで下さい。主よ、私たちをあなた様の御国から投げ出さないで下さい。主よ、どうか全世界の民と共に宴会の席に着かせて下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。

主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。今日は、2016年度、最後の主の日となりました。2016年度の溢れる恵みを心より感謝申し上げます。同時に今年度、愛する家族を失った者、元気に礼拝に出席していたにもかかわらず、大きな病のため、また看取るため、礼拝から遠ざかっている信仰の友がおられます。主よ、どうか、悲しみの中にあるお一人お一人を、また深い嘆きの中にあるお一人お一人を憐れみ、溢れるほどに慰めを注ぎ続けて下さい。お願い致します。先週も、私たちの罪を痛感させられる様々な出来事がございました。主よ、あなた様が本当に日々、深く心を痛めておられると信じます。どうか今、悲しみの中にある方々、深い絶望の中にある方々を真の慰め主であられるあなた様が慰め、癒し続けて下さい。今、私たちの群れの中にイースターに向けて受洗の準備をしている兄弟がおられます。心より感謝申し上げます。主よ、来週に控えております洗礼試問会において、明確に信仰を告白し、御心なら、4月16日の主の復活の朝に洗礼の恵み、聖餐の恵みに与ることが出来ますようお導き下さい。そして今、熱心に求道生活を続けているお一人お一人にもいつの日か信仰告白、洗礼への決意をお与え下さい。お願い致します。今朝も病のため、様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。主よ、深く憐れんで下さい。お願い致します。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2017年3月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第17章22節~24節、新約 ルカによる福音書 第13章18節~21節
説教題:「神の国は何に似ているか」    
讃美歌:546、90、234A、520、545A

 主イエスは、18年間も病の霊に取りつかれ、腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった女の腰に手を置かれ、病を癒されました。そして、言われたのです。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」。
この御言葉の背景には、旧約聖書の預言書があります。預言者エゼキエルは、神との間に結んだ契約を破ったイスラエルの民に対し、このように語るのです。「主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢(こずえ)を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。(エゼキエル書17:22~23)」。
レバノン杉は、高さ40メートルもの巨木です。堂々たる姿のレバノン杉にイスラエルの民が例えられています。レバノン杉であるイスラエルの民は、神との契約を破ったがゆえに切り倒されるのです。同時に、倒された木の枝から切り取られた若枝が、高い山に移植されると、「それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼あるものはすべてその枝の陰に住むようになる」。まさに、古い国が神によって倒され、神によって遣われたキリストによって、新しい国が誕生すると預言するのです。
主イエスが「神の国に似ている」とたとえたのが からし種です。レバノン杉は40メートルの巨木。それに対し、からし種は、極めて小さく、極めて軽い。750粒も集めて、ようやく1グラムになる。つまり、からし種は、この世の価値観で判断すると全く無力。けれども、からし種が成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作るのですから、驚くべき変化です。主は宣言されます。「あなたがたは、神の国はレバノン杉と思うだろう。しかし、神の国は からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。このダイナミックな成長こそ、神の国、神の御支配なのだ」。
 先週の主日礼拝の直後、祈りつつ報告させて頂きましたが、初代牧師の川合喜四郎先生が2月6日に召されました。今から61年前 1956年2月26日に川合先生が東村山の地に蒔いた福音の種は、まさにからし種でした。最初の主日礼拝の説教題「人生の暗黒と希望」。大きな挫折により示された開拓伝道の地、東村山に福音の種を蒔いた川合先生の心は、まさに「人生の暗黒と希望」だったはずです。東村山に蒔いた種は本当に小さなからし種でした。しかし、この種を主なる神が必ず大きく成長して下さると信じ、希望に満ち溢れていたはずです。当日の礼拝出席は、女性8名、男性3名の合計11名。献げられた献金は100円。そして、午後に行われた子ども会には、85名もの子どもが主によって招かれた。驚くべき数字です。私たちの教会に神が求めておられることが最初の礼拝で示されたように思う。「子どもを愛しなさい。決して、子どもを排除してはならない」。まして最初の礼拝は、多摩みどり幼稚園の園長の理解と協力を頂き、幼稚園園舎で守られた。元気な園児の歓声が響いている園舎で守られた東村山教会の最初の礼拝。午後は、85名もの子どもが教会に招かれた。東村山教会が子どもを招く教会であり、子どもと共に成長する教会であると、しっかりと心に刻みたい。さらに、からし種が成長し、先週の臨時教会総会では、62年目に入る東村山教会に仕える長老が選ばれた。確かに、東村山教会はレバノン杉ではありません。しかし、川合先生によって蒔かれた種は今も成長し、今朝も、空の鳥である私たちは、主の日に、礼拝を守り続け、新しく生まれる雛に福音の種を蒔き続ける。そして大人も子どもも赤ちゃんも、共に東村山教会という木の枝にとまり、「チュン!チュン!」いや「アーメン!アーメン!」と主を賛美し続けるのです。
 主は、また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨(ふく)れる」。
3サトンの粉とは、重さにすると20キロ以上になり、150人分のパンになるようです。ここに登場する女は、家庭の主婦だと思います。つまり、パン職人ではない家庭の主婦が、自宅で150人分ものパンを作る。常識では考えられない。しかし、「神の国はパン種であり、150人もの胃袋を満たす」と主は宣言されるのです。
「からし種」と「パン種」の譬えから、ヨハネ福音書の御言葉が思い浮かぶ。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ(12:24)」。この「死ぬ」ことを、パン種の譬えが示している。パン種が小麦粉に混ざる。つまり死ぬ。その結果、パン全体が膨れ、150人の胃袋を満たすのです。
昨日は3月11日。東日本大震災、福島第一原子力発電所の事故から6年の記念の日でした。震災の死者は15,893人、行方不明者は2,553人。避難後の体調悪化等による震災関連死3,523人を合わせると、犠牲者は約21,000人。あれから6年。被災者の方々の嘆き、涙、怒りは6年が経過しても癒えるものではないことは説明するまでもありません。
2016年12月30日付の東京新聞『筆洗』に、心に突き刺さる詩が紹介されておりました。そのまま紹介させて頂きます。
福島の浜通りに住む詩人・みうらひろこさん(74)の詩集『渚の午後』に、「遅すぎた約束」という詩がある。<約束を果たせなかった事で/心を病んだ人達を知っている・・・>。そんな重い言葉で始まる詩だ▼あの津波が引いた後、がれきが山となった沿岸部で生存者を捜し歩いた消防団らは、あちらこちらから助けを求める声がするのを、確かに聞いた▼だが、闇が迫り、余震がくり返し襲ってきた。「明日朝一番に助けに来るからな」「きっと、きっと助けに来るからな」と約束し、引き揚げるしかなかった▼みうらさんは、うたう。<その約束を果たせなかった事を/悔んで 悔んで胸を掻(か)きむしった日々に/しだいに心が蝕(むしば)んでしまったという/救助に向うはずの翌日は/(原発が)メルトダウンで爆発の危険があるからと/全町避難、まるで石持て追われるように・・・>▼この子も、あるいはあの日、助けを求め声を上げていたのだろうか。原発事故で今なお立ち入りが制限される大熊町の沿岸部で、7歳で行方不明になっていた木村汐凪(ゆうな)さんの遺骨が、見つかったという。5年9カ月を経て果たされた『遅すぎた約束』だ▼みうらさんは
<約束を果たせなかった事で/心を病んでしまった人達よ/あなた達は悪くない/あなた達は決して悪くない>と、語り掛けている。そういう人たちの心を癒やす、時の流れであってほしい」。
今、ゆっくりと朗読させて頂いても、心に突き刺さる詩です。時が悲しみを癒やすこともあるかもしれません。けれども、時が流れるなか、悲しみは益々、厳しく、突き刺さる痛みになるのかもしれません。
説教後の讃美歌も、被災地の皆さんの慰めを祈りつつ選曲しました。讃美歌520番。ある教会のホームページに、讃美歌520番の物語が書かれていました。そのまま紹介させて頂きます。
讃美歌の作詞者ホレーション・ゲーツ・スパフォード(1828~88)は、医者であり、大学教授であり、神学校の理事もしていました。頭が良く、人徳にも優れ、信仰も篤く、誰もがうらやむような人間でした。しかし、彼は深い悲しみを知る人でもありました。この讃美歌を作詞する2年半前のことです。彼は一人息子を亡くしました。そして、その半年後に火災によって財産を失います。さらにその2年後、彼はこの讃美歌を作るきっかけとなった大きな悲劇を経験します。彼は家族でヨーロッパ旅行をし、旅行の終わりには有名な伝道者ムーディ等と共にイングランドの伝道に参加する予定でした。しかし出発直前にホレーションに急用ができてしまいます。彼はやむなく奥さんと4人の娘だけを出発させたのです。ところが、ホレーションの家族が乗った船は衝突事故を起こし、大西洋のど真ん中で転覆、わずか12分で沈没してしまいました。奇跡(的)に奥さんだけは助かりましたが、最愛の4人の娘たちをいっぺんに失ったのです。彼はすぐに他の船で悲劇のあった大西洋に乗り出しました。そして、荒れた海の中になくなった娘たちの面影を、そして神様の摂理を思いながら、この讃美歌を作ったのでした。「しずけき河の岸辺を/過ぎゆくときにも、憂(う)き悩みの荒海(あらうみ)を わたりゆくおりにも、心 安(やす)し、神によりて安(やす)し」(日本基督教団 荒川教会HP「讃美歌物語」より)。
讃美歌520番に、このような物語があることを知りませんでした。私は、4節「おおぞらは巻き去られて/地はくずるるとき」を賛美するとき、被災地の皆さんの慰めを祈る。そして、「被災地の皆さんが、主にある平安に包まれるよう」祈り続けたい。
御言葉に戻りますが、第13章21節に、「やがて全体が膨れる」とあります。150人もの胃袋を満たすパンのように、神の国は私たちキリスト者に加え、家族、そして全世界の人々を平安で包む。主イエスは、約束を果たせなかった事で心が病んでしまった一人一人を深く憐れんで下さるのです。
 パン種は、小麦粉に混ぜるだけで全体が膨れます。「混ぜる」と訳されたεκρυψεν(エクルプセン)は、「隠す」とも訳される原語です。小さなからし種は、庭に蒔かれれば、人間の目には見えなくなります。茶色の種は、土と見分けがつかない。パン種も小麦粉と同じ色ですから、混ぜれば隠される。しかし、私たちの目に見えなくなる時、つまり死んだ時、からし種もパン種も全体を大きく成長させる。まさに、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」のです。
 私たちキリスト者は、神の歴史において、真に小さな存在。つまり、からし種であり、パン種である。けれども、私たちに命を与えて下さったのは、全能の神であり、私たちの罪を赦し、永遠の生命を約束して下さったのは主イエスである。日々、聖霊を注がれている私たちは、神が成長させて下さるのです。もちろん私たちは必ず死にます。地上での生命は終わる。しかし、そのことによって、神の国は確実に成長するのです。
 川合先生は召されました。しかし神は、川合先生に東村山の地に福音の種を蒔かせ、東村山教会を成長させて下さった。被災地でもたくさんの方が召されました。自分の命を犠牲にし、一所懸命に避難を呼びかけた。その結果、最後まで避難を呼びかけた方々は犠牲になった。しかし、ギリギリまで呼びかけたことで、たくさんの尊い生命が救われたのです。また、今日も生命を削って、廃炉の作業をなさっている方々もおられる。そのような厳しい現実を通して、私たちは生命の尊さと、神にかたどって創造された者としての大きな責任を心に刻み続ける。
 私たちは、「今朝の礼拝が、地上での最後の礼拝かもしれない」という緊張を懐きつつ、「たとえ、これが最後の礼拝になっても、再臨の主イエスが地上に来られる終末のとき、必ず神の国は完成する」という希望を抱いて、御国へ凱旋することが出来るのです。まさに「人生の暗黒と希望」です。
十字架と復活、そして再臨の主イエス・キリストは、今朝も宣言して下さる。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハネによる福音書16:33)」。主イエスの勝利と神の国の完成を信じ、希望を持って歩んでいきたい。心から願う者であります。 
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名前を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。主よ、私たちはこの世の試練、苦難、暗黒を前にたじろぎ、言葉を失います。だからこそ、主よ、み言葉を下さい、降り注ぐ雨のように、吹いてくる風のように、草におく露のように。主よ、今も厳しい困難の中にある方々に、「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と語り続けて下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて
下さい。昨日は、東日本大震災、福島第一原子力発電所の事故から6年の記念の日でした。主よ、6年が経過した今も、2011年3月11日午後2時46分から時が止まったままのお一人お一人に、慰めを注ぎ続けて下さい。特に、愛する家族を失い、「どうして救えなかったのか」と自分を責め、心を病んでしまった方々にあなた様が癒しの御手を触れ続けて下さい。お願い致します。私たちも東日本大震災、福島第一原子力発電所の事故を忘れることなく、また、全国、全世界の被災地で今も困難な生活を強いられている方々を忘れずに祈り続ける者として導いて下さい。先週の金曜日、東京神学大学の卒業式が執り行われました。T姉妹が主の祝福に満たされて、卒業なさられました。来週の主日は、「見よ、私はここにいる」と題して、主の日の礼拝説教を担って下さいます。どうか主よ、T姉妹のこれからの歩みも今までのように聖霊を注ぎ続けて下さい。また来週の主日は、大胆に主の御言葉を語ることが出来ますようお導き下さい。私たちの群れの中に今、熱心に求道生活を続けている方々がおられます。どうか主よ、それらの方々がいつの日か明確に信仰を告白し、洗礼の決意が与えられますようお導き下さい。主よ、私たちの群れの中に愛する家族を失い、深い悲しみの中にある兄弟姉妹がおられます。主よ、どうか溢れるほどに慰めを注ぎ続けて下さい。お願い致します。今朝も、病のため、また様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。特に、病と闘っておられる兄弟姉妹を憐れみ、癒しの御手を差し伸べて下さい。お願い致します。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2017年3月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第23章4節~13節、新約 ルカによる福音書 第13章10節~17節
説教題:「束縛からの解放」    
讃美歌:546、2、161、21-81、296、544

主イエスは、安息日に会堂で教えておられました。「安息日」とは、金曜の日没から土曜の日没までの一日で、安息の日です。創世記第2章にこのように書いてある。「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された(2:1〜3)」。
神が天地万物を完成された時、第七の日に安息なさったことに基づいて設定されたのが「安息日」。今朝の旧約聖書の御言葉、出エジプト記第23章にあるように、神が安息なさったのだから、私たちも安息日の「七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである(23:12)」と律法で定められていたのです。
その安息日に、18年間も病の霊に取りつかれていた女性が奴隷の状態から解放され、元気を回復した。そして、神を高らかに賛美した。これほど嬉しい出来事、これほど心が震える出来事はありません。しかし、本当に悲しいことですが、会堂長、いや私たちは、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣けない。主イエスは今朝、そうした深刻な罪を私たちにお示し下さいました。しかも、「偽善者たちよ」との激しい言葉と共に。
主イエスは、私たちの罪を全てご存知です。私たちは罪を隠し続けることができません。たとえ、隣人を騙すことができても、主を騙すことは不可能です。だからこそ主は、罪を放っておくことなく、「偽善者たちよ」の言葉と共に、私たちに悔い改めを迫る。主イエスは熱情の神です。同時に主は、18年間も病の霊に取りつかれた女性を放っておかなかった。
18年間。先週の御言葉は、3年間がキーワードでした。3年もの間、実がならない いちじくの木。その木を「今年もこのままにしておいてください」と訴え、斧で切り倒されるのを阻止して下さったのは主イエス・キリストです。3年と18年。3年の6倍の18年もの間、サタンの束縛に苦しみ続けた女性。その苦しみは想像を絶します。
病の霊に取りつかれ、腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができない。しかしです。女性は祈り続けた。18年間も希望を失うことなく、いつの日か必ず、病は癒されると信じ、安息日に会堂に通い続けた。腰が曲がったまま。女性は、自分から主に癒しを求めることをしません。もしかすると、病の霊も神から与えられたと信じ、祈り続けたかもしれません。主は、女性の信仰をご覧になった。そして憐れまれた。主は、女性をご覧になった瞬間、女性の18年、18×365日=6570日を理解なさった。6570日の痛み、苦しみ、涙、怒り、嘆きその全てを理解なさった。そして御自分の痛み、苦しみ、涙、怒り、嘆きとして受け止められた。だからこそ主は、その女性を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、腰の上に手を置いて下さった。その瞬間、婦人の病は癒されたのです。
今朝の御言葉、ここで終っていたら、気持ちよく聖餐の恵みに与り、礼拝後の臨時教会総会(長老選挙)に集中することが出来るように思える。しかし、今朝の御言葉、ここからこそ大切です。なぜか、私たちの罪が暴露されるから。18年間も腰が曲がったままの婦人が癒された。それにもかかわらず、律法に束縛されている会堂長は、婦人と共に喜べない。喜ぶどころか、腹を立てる。会堂長の姿、本当に嫌になります。けれども、私たちは誰一人、会堂長を非難することは出来ません。
私たちも規則を重んじます。特に、過去の判例を重んじる。同時に、規則に束縛される。もちろん、判例を基に判断することは当然のことです。しかし、その場合に陥る罪は、今、目の前で困っている人を無視することです。今、目の前に困っている人がいる。今、目の前に悩んでいる人がいる。今、目の前に苦しんでいる人がいる。それなのに、その人を見ず、判例を眺め、「私の判断は間違っていない」と主張し、自分の保身を優先する。それが私たちの罪です。
会堂長は、主イエスが安息日に病人を癒されたことに腹を立てたとあります。なぜ、腹を立てるのか?だって、18年間も病の霊に取りつかれていた婦人の腰がまっすぐになり、神を賛美した。本来なら、「良かったね」と共に喜べるはずです。しかし、会堂長は主の癒しを許せない。腹を立てる。私が遵守している律法(安息日規定)を、この男は破った。この事実は、私の立場を脅かす。だからこそ会堂長は怒った。もちろん、会堂長も18年間も病の霊に縛られていた婦人の痛みはわかるはず。しかし、自分の保身を考えると、婦人の痛みに寄り添うことが出来なくなる。小さな子どもでも、18年も病の霊に縛られた婦人の話しをすれば、段々と悲しい顔になり、「かわいそうだね」と言います。そして、婦人が癒されたと知れば、「良かったね」と目を輝かせて喜びます。それが大の大人、しかも会堂長が「かわいそうだね」。「良かったね」が言えない。18年(6570日)も病の霊に苦しみ続けた婦人がサタンの束縛から解放された驚くべき恵みを共に喜ぶことが出来ない。
私は、18年もの間、悪霊に取りつかれていた婦人より、遙かに深刻な病は、会堂長の偽善だと思います。自分の立場を守るため、安息日規定という誰にも文句を言われない律法を振りかざし、主イエスの愛の業をぶった切る。しかも、主イエスに直接訴える勇気もない。だから、群衆に言ったのです。情けない。けれども、会堂長の姿は私たちです。少なくとも私の中に、会堂長の罪があることを否定することは出来ません。
園長を担っていたとき、色々な出来事がありました。小さな子どもを預かることは銀行員時代のお金とは全く違う。命よりお金が大事という方もおられるかもしれませんが、お金と生身の身体は比較することが出来ない。それほど、小さな子どもは神経を使う。毎日、小さな怪我は当然のようにある。ときに、大怪我もある。そのとき、保護者さんに心からお詫びを申し上げるのですが、あまりペコペコすると、損害賠償を請求される可能性もある。幸い、そこまで大きな事件はありませんでした。けれども、赴任して二年目の2011年3月11日の東日本大震災で石巻の幼稚園の園バスが津波に流され、貴い命が犠牲になったとき、園長が訴えられた。そのニュースを通して、もしも私があの日、あの園の園長だったら、同じ行動をしていたかもしれない。早く御自宅に園児を帰らせようとしたのではないか。結果は尊い命が奪われてしまった。本当に私たちも一瞬の判断のミスで大きな過ちを犯してしまうことがある。
そのとき、私たちも規定を出し、自分を守ろうとする。当然です。会堂長もそうです。主イエスは、18年間も病の霊に苦しみ続けた婦人をただ束縛から解放したくて癒された。しかし、会堂長はおもしろくない。自分たちが大切に守り続けている律法を否定されたように思い、また自分の存在まで否定されたように思ってしまった。だからこそ、群衆に向かって大きな声で叫んだのです。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」。確かに正論です。けれども、束縛から解放され、喜びの涙を流している婦人を見ていない。もしも、18年間の束縛から解放された婦人の喜びを少しでも感じることができたら、とてもこんなことは言えないはずです。同時に、彼女の気持ちを考えると、こんなにも辛い発言はない。信頼していた会堂長が私と共に喜んでくれない。私が癒されたことを否定した。18年間の苦しみに匹敵する苦しみを会堂長の発言で味わったはずです。自分の発言が、どれだけ婦人を苦しめるのか、全く想像することが出来ない。この事実こそ、会堂長の深刻な病の証です。まさにサタンに縛られている。だからこそ主は、会堂長の病を癒したい、様々な束縛から解放したい一心で、言われたのです。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。主イエスは激しく怒っておられる。主の怒りは、熱情の怒り。会堂長を打ちのめす!という怒りではなく、会堂長を雁字搦めにしているサタンを追い出すべく、「偽善者たち」と怒っておられるように思えます。今、主の御声が聴こえる。「会堂長、また会堂長を否定しない者たちよ、あなたがたこそ、18年どころか、今もサタンに縛られている。それはあまりにも悲しい。あまりにも悔しい。あなたは会堂長ではないか。人々に神の愛を説く者ではないか。人々を様々な束縛から解放する言葉を語る者ではないか。それなのに、律法で人を縛り、自分まで律法に縛られていることに気がついていない。あなたの顔を鏡で見なさい。眉間に皺が寄り、目がつり上がり、とんでもない顔になっている。まさにサタンに束縛されている。あなたこそ、律法から解放されなければならない。あなたにこそ、安息日が必要だ。もう一度、安息日は何の日か考えて欲しい。安息日。それは全ての束縛から解放される日。あなたの心が主の愛に満たされる日。『偽善の罪』からも解放される日だ」。
ある神学者は、16節後半をこのように訳しております。「安息日にこそ、その束縛から解放されて当然ではないのか」。「なるほど」と思います。心に響く翻訳です。新共同訳は「安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。もちろん、間違いではない。しかし、「安息日にこそ、その束縛から解放されて当然ではないのか」だと、素直に「アーメン」と言えます。私たちも日々、様々な悪霊に取りつかれています。「病の霊」がある。「健康の霊」、「豊かな老後の霊」、「学歴の霊」「プライドの霊」がある。独力で築いたと錯覚している人生が崩壊することに耐えられない。その思いもサタンの仕業です。子どもがどのように成長し、孫がどのように成長するか、「思い煩いの霊」もある。
けれども主は、その全ての束縛から私たちを解放して下さる。それが聖餐の食卓です。なぜか、聖餐に与るとき、私たちの中に主イエスが入って下さる。私たちを聖霊で満たして下さる。さらに永遠の生命まで約束して下さる。そのとき、私たちも真の意味で安息し、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣けるのだと思います。
私たちの群れに、熱心に求道生活を続けている方がおられる。今はまだ聖餐の恵みに与ることが出来ない。だからこそ、真剣に祈る。「求道者の方々が、いつの日か悪霊の束縛から解放され、真の安息を味わって頂きたい」。聖餐の恵みに与るとき、私たちは罪の自分を真剣に見つめることが出来る。同時に、罪の自分だからこそ、聖餐の恵みに与らざるを得ない。主イエスに入って頂かないと生きていけない。聖餐の恵みに与った瞬間、18年もの間、苦しまれた婦人が解放された喜びを共に喜べない罪の自分に気がつく。同時に、深刻な罪を完全に赦して下さるために十字架で肉を裂かれ、血を流された主の驚くべき愛と赦しと憐れみを心に刻む。そのとき、私たちは喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣けるのです。東村山教会に連なる私たちも様々な束縛から解放される。聖餐の恵みによって。そのとき、18年もの間の苦しみから解放された婦人と共に高らかに神を賛美する者となる。そして、いつの日か、全世界の求道者が信仰告白、洗礼を受け、共に主の食卓を囲む日が来るよう、真剣に祈り続ける者となる。さらに、難病で苦しんでおられる方々、病床で苦しんでおられる方々、余命宣告を受け、それでもなお、神から与えられている一日一日を一所懸命に歩んでおられる方々が、たった一度の地上での命を全うすることが出来るよう真剣に祈る者となる。主は、そのような私たちを大いに喜び、大いに慰め、大いに励まして下さるのです。私たちの東村山教会が本当の意味で喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣ける教会となるよう、祈りつつ歩んでいきたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝致します。私たちは喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣けない罪人です。御前に懺悔致します。主よ、私たちの罪をお赦し下さい。どうか主よ、聖餐の恵みよって私たちを喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く者として下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。

主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて
下さい。主よ、東村山教会を開拓伝道なさり、32年間、神様に仕え、東村山教会に仕えてこられた川合喜四郎先生が先月、主のみもとへと召されました。どうか、深い悲しみの中にある御遺族お一人お一人を慰め、溢れるほどに聖霊を注いで下さい。私たちもこのような悲しみの中にあるときこそ、復活と再臨の主を信じ、祈りつつ地上での命を全うすることが出来ますようお導き下さい。今日の午後は、臨時教会総会が行われます。総会では長老選挙が行われます。5人の長老が選ばれます。どうか、祈りつつ投票し、主の御心が明確に示されますようお導き下さい。私たちの群れの中に、愛する家族を失い、深い悲しみを抱えている者がおります。どうか溢れるほどに慰めを注いで下さい。今朝も病のため、また様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。特に、入院をしておられる兄弟姉妹を憐れみ、癒しの御手を差し伸べて下さい。お願い致します。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。



2017年2月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第24章1節~10節、新約 ルカによる福音書 第13章6節~9節
説教題:「このままにしておいてください」    
讃美歌:546、73、132、339、543   

主イエスは、今朝も真剣に求めておられる。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。そして、次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか』」。
ぶどう園の持ち主は、神様であることは間違いありません。新共同訳聖書の8節で「御主人様」と訳された原語はκυριε(キュリエ)。岩波書店訳では「主よ」と訳されています。つまり、ぶどう園の持ち主が神なら、ぶどう園は私たちが生かされている世となるのです。
では、いちじくの木は、何を意味しているのでしょうか?イスラエルの民と思われます。しかし、「イスラエルの民、それなら私には関係ない」と安心することはできません。私たちも世に植えられたいちじくの木だからです。主なる神は「今日こそ、実がなっているに違いない」と期待し、悔い改めの実、回心の実を探し続けて下さる。同時に、悔い改め、回心を勧めるために園丁を派遣された。そう考えると、園丁が主イエス御自身であるように思われます。
けれども、園丁である主イエスが、「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と繰り返し語っても、いちじくの木であるイスラエルの民、そして私たちは、悔い改めの実を実らせることができない。そうこうしているうちにあっと言う間に三年が経過してしまった。三年には特別な意味があったはずです。
ある註解書に「主イエスの公生涯の期間は三年であった」と書いてあります。また別の註解書には、「律法では、新しく入った土地で果樹を植える時、最初の三年間はその実を食べてはならず、四年目に実を聖なるものとして神にささげ、五年目に実を自分で食べることが許された」と旧約聖書レビ記第19章23節から25節に記されている規定が紹介され、「このぶどう園の主人は、三年間は待ち、今年で四年目になるのだろう。したがって、このぶどう園の主人は、四年目の実がささげられるのを待つ神自身を象徴していると考えられる」と解説しておりました。
いずれにしても、主なる神が「今日こそ、実がなっている」と期待して実を探し続ける期間も限度がある。三年とは一年を365日とすると365×3の1095日。それが限度。その日数を超えると、主の忍耐も限界となり、園丁である主イエスに通告するのです。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」。当然の通告です。新共同訳は少し迫力にかけます。岩波書店訳はもっと厳しい。「見よ、私は〔これで〕もう三年もこのいちじくの木に実を探しに来ているが、〔何も〕見つからない。[そこで]こいつを伐(き)り倒せ、なんのために〔こいつのせいで〕土地まで遊ばせておくのか」。
忍耐強い神も、さすがに「我慢も限界!」ということでしょう。慈愛の神が、「こいつを伐り倒せ」と言われるのは誤訳と言いたいところですが、原語はεκκοψον(エッコプソン)。「根絶する」、「取り除く」、「切り捨てる」という激しい言葉です。つまり、「三年もの間、私は我慢した。けれども、どこを探しても、悔い改めの実、回心の実がないではないか。だから、イスラエルの民をあなたが滅ぼしなさい」と通告されたのです。園丁である主イエスは訴えました。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。
園丁である主イエスは、「私は真剣に、いちじくの木であるイスラエルの民の救いのために働いた。しかし、『あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる』と告げても、悔い改めの実、回心の実を実らせない。わかりました。あなた様が命じられたように、すぐにイスラエルの民を斧で切り倒しましょう」とは答えない。ただ一言、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と答えたのです。 
繰り返しますが、園丁は主イエス・キリストです。主は、私たちの弁護者。父なる神と罪の私たちが和解させて頂くために世に遣わされた救い主。忍耐も限界に達した父なる神の前に立ち塞がって、弁護者として「主よ、今年もこのままにしておいてください」と執り成して下さった。しかし、忘れてならないのは最後の一言。「もしそれでもだめなら、切り倒してください」。突き刺さる言葉です。主イエスは、弁護者として死刑の執行猶予を神に訴えて下さった。同時に、「一年で悔い改めなければ、死刑執行を受け入れます」と答えたのです。もちろん、「切り倒してください」ですから、園丁である主イエスがイスラエルの民をバッサリと切り倒すことはありません。しかし、「主なる神の御心が切り倒すことなら、一年の執行猶予は訴えますが、それ以降はあなた様に委ねます」と答えているのです。この事実から私たちは目を逸らしてはなりません。
スイスに生まれ、ドイツで活躍した新約学者シュラッターは、注解書にこう記しております。「イエスのとりなしのおかげで、イスラエルには最後の一期間が残されている。イエスが、まだ民への働きかけをしておられるからである。しかし、このことは神の忍耐の最後の現われである。そのあとには終りがくる。民に対するイエスの悔改めの呼びかけは、ほんとうに真剣で切実であった。イエスは、洗礼者と同じように民の前に立っている。斧はすでに木の根もとに置かれている〔3:9〕。脅威をもって迫るイエスの真剣さは、イスラエルの救いのために力をつくすように彼を駆りたててやまない、その豊かな恵みと完全に一つのものであった。イエスは、確信をもってそのことをなさった」。
シュラッターが指摘したように、洗礼者ヨハネは、悔い改めず、見せかけの洗礼を受けようとする人々に圧倒的な迫力で宣言したのです。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ(ルカ3:7〜8a)」。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる(ルカ3:9)」。
主イエスも真剣に悔い改めを迫っておられる。「まあ、いずれ悔い改めればいいですよ」ではなく、「今、悔い改めなければ、シロアムの塔が倒壊し即死した18人のように、鋭い斧で切り倒され、ゴウゴウと燃える炉に投げ込まれ、滅ぼされてしまう。一年の執行猶予は確保した。だから、悔い改めの実、回心の実を実らせて欲しい」。
昨日は、この礼拝堂でいづみ愛児園の生活発表会が行われました。第一部は礼拝。私が語ったのはコリントの信徒への手紙一第3章のパウロの言葉です。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です(3:6~7)」。2歳から6歳の園児が、ほぼ完璧にセリフを語り、演じ、踊り、歌った。神の愛が注がれると、赤ちゃんだった子どもたちもグンと成長する。けれども、悔い改めを忘れ、神抜きでも大丈夫!と思った途端、成長させてくださる神が、私たちを切り倒してしまうのです。まさに「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる(ルカ12:20)」の通りになる。だからこそ、主イエスは真剣に悔い改めを求めるのです。私たち一人一人にも。
今朝は、ルカ福音書と共に旧約聖書 エレミヤ書を読みました。第24章にはゴシックで「良いいちじくと悪いいちじく」とあります。この御言葉について浅野順一牧師が渋谷の美竹教会で語られた説教が『真実:予言者エレミヤ』に収録されています。説教全文の紹介は困難ですが、一部を紹介させて頂きます。「さて今日の所(24:1~10)は、イスラエルの国が倒されて、王をはじめ、政治的、宗教的指導者は勿論、工匠、鍛冶に至るまで、この国の文化を担当していたあらゆる人々が、バビロンに連れて行かれた。その時エレミヤは、一つの幻を神から示されたのであるが、その幻の中に、二つのいちじくの籠が現われ、一つは、熟し始めた非常に良い無花果(いちじく)であり、いま一つは非常に悪く、到底たべられないいちじくであった。エレミヤは、このいちじくの幻によって、バビロンに捕え移された者と、あとに残った者とをはっきり区別しているのである。即ち、捕われて行った人々は良い無花果であり、残った者は悪いいちじくにたとえられている。(中略)人々は、祖国の滅亡と捕囚に対して、悲嘆と絶望のどん底に突き落とされてしまった。このような、国をあげて希望なき状態に陥った時、一人エレミヤは、民族の遠い将来、五十年、百年の先を見ていたと思う。空間的に言えば、小さいイスラエルの国が、大きな世界につながっているのを見たのであるとも言うことができる。人々は、直接目先のことで現在を判断するが、予言者は、遠い過去と、遙かな将来とから現在を判断する。そこに、予言者の、祖国の運命に対する驚くべき希望と確信とが生れる。(中略)亡国という痛ましい試練をくぐって、イスラエルは今一度、新たなる姿に甦える日の必ずくることを、予言者は確信し、希望したのである。(中略)エレミヤは、人間の世界の出来事に対し、甚(はなは)だ敏感な予言者であったが、自然についても、彼の感覚は細かく、鋭い。そこに彼は、自然と歴史とを結びつけ、ともに神の創造と支配の下にある世界が確実に存在することを知った。いちじくの籠を見て、そこから、亡国の将来に希望的なものを見出だしたエレミヤの洞察には、甚だ意味深きもののあることを感ずる」。
預言者エレミヤの苦悩と希望、そして確信が伝わる説教です。主なる神様に感謝したいのは、私たちは旧約でなく、新約の時代に生かされている事実です。つまり、エレミヤは「イスラエルは今一度、新たなる姿に甦える日の必ずくることを、確信し、希望した」のですが、私たちには、真の救い主、真の喜び、真の甦り、真の希望である主イエス・キリストが与えられた。
本来なら、斧で切り倒されてしまう私たちを「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」と執り成して下さる主イエスが与えられている。この恵みをしっかりと心に刻みたい。
この世の園丁である主イエスが真剣に訴えておられるのは、悔い改めです。私たちは神によって成長させて頂ける。けれども、悲しいことですが、一人の例外もなく、私たちは非常に悪く、到底たべられない無花果を実らせてしまう。そうした罪の実ではなく、非常に良い実を自力で実らせることは不可能です。聖霊によって神の愛が注がれ、主イエスを「真の救い主と信じます!」と信仰を告白し、洗礼を受けることで、私たちは一人の例外もなく、非常に良い実、キリスト者という実を実らせることが出来るのです。そのとき、私たちは斧で切り倒されることはなくなる。なぜか、主イエスが十字架の上で切り倒された。そして、陰府(よみ)にくだり、全ての闇を経験して下さった。そして三日目の朝に復活して下さった。その結果、信仰を告白し、洗礼を受けた私たちは、滅びではなく、永遠の生命を実らせることが赦されたのです。だからこそ、私たちは成長させて下さる神を信じ、切り倒される日をビクビク恐れることなく、罪赦された者として、主から与えられる一日を喜んで歩むことが出来るのです。共に、良い実を実らせたい。成長させて下さる神の憐れみを信じ、主イエスの執り成しの祈りを感謝し、今度は私たちが執り成しの祈りを祈りたい。「主よ、あの人もこの人も、信仰告白から洗礼へ導いて下さい。主よ、あの人もこの人も御子が『今年もこのままにしておいてください!』と真剣に祈っておられる御声に気がつくことが出来るようお導き下さい」と祈り続けたい。心から願う者であります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名前を親しく呼んで下さり、主日礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。主よ、私たちは日々、あなた様に忍耐を強いていることを懺悔致します。同時に、そのような私たちを今朝も切り倒すことなく、聖霊を注ぎ続けて下さることを深く感謝申し上げます。主よ、あなた様の憐れみによって罪赦された者として悔い改めの祈りを怠ることのないようお導き下さい。主よ、私たちも隣人を覚えて執り成しの祈りを祈り続ける者として下さい。これらの貧しき願いと感謝を、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。

主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。主よ、世界が混沌としております。まさに目先の出来事に一喜一憂しています。そのような中、弱い者が益々弱くなり悲嘆と絶望に苦しんでおります。どうか世を深く憐れんで下さい。特に、全国、全世界の被災地、争いの絶えない紛争地域で生活しているお一人お一人を強め、励まして下さい。主よ、来週の主日は臨時教会総会で長老選挙が行われます。長老お一人お一人の働きをあなた様がこれからも強め、励まして下さい。どうか、長老選挙を覚えて祈る真剣な心をお与え下さい。長老選挙において、主の御心が明確に示され、新しい年度も東村山教会が一つとなって、主の御栄光を証しする群れとして歩むことが出来ますようお導き下さい。先週の月曜から屋上の防水工事が行われております。冷たい風が吹く中、黙々と働いている方々を強め、励まして下さい。どうか、事故や怪我のないよう工事を最後までお導き下さい。連日、工事に立ち会っておられるS兄の労をあなた様が労って下さい。今朝も病のため、また様々な理由のため、教会に集うことの出来ない兄弟姉妹がおられます。特に、入院している方、療養を続けている方、看取っておられる方に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2017年2月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ヨブ記 第42章1節~6節、新約 ルカによる福音書 第13章1節~5節
説教題:「悔い改めなければ」    
讃美歌:546、70、246、255、542

 御一緒に読み進めておりますルカ福音書も、今日から第13章に入りました。冒頭の御言葉は「ちょうどそのとき」。いったい、どのようなときでしょう?第12章54節に「イエスはまた群衆にも言われた」とあるように、主イエスが群衆に対して、神の審きを語っておられたときです。57節以下は裁判官である神と和解するよう努めなさい!と語っておられる。「ちょうどそのとき」、群衆を恐怖に陥(おとしい)れる凄惨な事件が主イエスに告げられたのです。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」。
ローマの総督ピラトが、ガリラヤ人を虐殺した事件は、ここだけに記されており、ローマの歴史記録にはありません。しかし、このような凄惨な事件は、どこにでも起こっていたようです。ピラトは、使徒信条に登場するポンテオ・ピラト。主イエスを苦しめ、十字架で処刑した。このピラトが、「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」のです。
ガリラヤ人は、神殿でいけにえを献げておりました。つまり、神を礼拝していた。私たちの礼拝と基本的に同じです。武装して礼拝を守る人はおりません。いわゆる丸腰のガリラヤ人をピラトの軍隊が襲撃し、殺戮したのです。
礼拝中に殺される。しかも集団で虐殺される。現代でも報道されます。宗教の対立により教会やモスクが襲撃される。決して過去の事件ではありません。今も起きている信じたくない凄惨な事件です。
そのとき、私たちは考える。「なぜ、彼らは虐殺されたのか?殺されるべき理由があったかもしれない。過去に犯した罪の罰として殺されたかもしれない」。このような考えを「因果応報」と言います。岩波書店の「哲学・思想事典」で「因果応報」を調べると、このように書いてありました。「善行(ぜんこう)が幸福を招き、悪行(あくぎょう)が不幸を招くという思想・信仰。広く世界に見られるが、特に仏教において過去世(かこぜ)や来世(らいせ)をも視野に入れたものを意味することが多い。すなわち、過去世の行為により、現世(げんせ)の境遇が決まり、現世の行為によって来世の境遇が決まり、こうして永遠に輪廻(りんね)を繰り返すというものである」。
なるほどと思う。そして、いかに私たちは「因果応報」に馴染んでいるかと考えさせられる。そのような私たちに、主イエスは明確に宣言されたのです。「『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる』」。
主は語ります。「決してそうではない。私でなく、因果応報を信じるなら、あなたに救いは永遠に与えられない。一所懸命に努力し、一所懸命に頑張り、一所懸命に善行(ぜんこう)を重ねても、あなたの罪をあなたの業で克服することは難しい。あなたの業であなたが滅びから免かれることは絶対にないのだ」。
私たちは、様々な災難が起こると神の意志を問います。「主よ、なぜですか」。まして、ガリラヤ人の襲撃は礼拝中。いけにえを献げつつ、神を礼拝していたときに虐殺された。だからこそ、「神の審き」と考えてしまう。「実際、人間はやりたい放題。よって神がガリラヤ人を審いたのだ」。しかし、こうした「因果応報」を私たちは捨てないといけません。
主イエスは「因果応報」を明確に否定されました。「『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」。
「シロアム」とは、エルサレムの水源地の一つです。そのシロアムから水道が引かれた。その水道工事に関係があった事故かもしれません。あるいは水道を管理するための大きな塔があったかもしれません。そこに、地震が発生し、シロアムの塔が倒壊したのかもしれません。塔の下敷きになった18人が即死した。私たちも繰り返し報道を耳にする。朝、小学校に「行ってまいります!」とニコニコして出かけたかわいい子どもが交通事故で殺され、遺体になった。頭は真っ白。近所の人も「気の毒にね。あの人はついてない。もしかしたら、先祖の悪霊が祟ったのかも」と呟かれる。その結果、「私が悪いことをしたから、罰として、このようなことになってしまった。子どもには罪がない」と強引に自分を納得させることはあるはずです。まさに、「因果応報」を信じることで、自分を納得させてしまう。
主は、そのように考えてしまう私たちに告げるのです。「決してそうではない」。主は、多くを語りません。ガリラヤ人が礼拝中に虐殺された理由、シロアムの塔が倒壊し、18人の尊い命が犠牲になった理由を分析し、語ることはないのです。一言だけ語る。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。
ここから「悔い改め」を考えたい。新共同訳で「悔い改め」と訳されたのは、「メタノエオー(μετανοέω)」というギリシア語です。「回心する」という意味があります。主は私たちに神への方向転換を求めておられる。つまり、「悔い改め」は、犯した罪をウジウジ悔いるという意味でなく、私たちが神の方に向きを転換し、神の懐に思い切って飛び込むことなのです。
主は語ります。「あなたは、父なる神から命の息を吹き入れられた。だから、父なる神と共に歩まなければすぐに死んでしまう。実際、神抜きで生きることは大変。突然、激しい試練があなたを襲う。愛する者が突然、殺されることもある。自然災害に襲われることもある。いじめに苦しむこともある。そのとき、神抜きで物事を判断するならば、身も心もボロボロに滅んでしまう。たとえ、すぐに試練の理由がわからなくても、『主よ、なぜですか』と神に問い続けて欲しい。真剣に神に問い続ける。神と対話しなければ、あなたは滅びるのだ」。
改めて感じるのは、私たちが暮らす世には、どうしても説明不可能なことがあります。今はパソコンやスマホで検索することが可能です。私も色々な事柄を検索する。すると、ある程度の情報を得られる。しかし、検索しても説明のつかないことが世にはあるのです。
神は、私たちの問いに黙っていることがあります。主イエスも今朝の御言葉では多くを語りません。主は、ピラトの兵に虐殺されたガリラヤ人について、シロアムの塔の倒壊によって殺された18人について何も語らない。ただ一言、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とだけ語るのです。
今朝は、ルカ福音書と共に旧約聖書ヨブ記を読みました。東神大の大学院でヨブ記を二年間、学ばせて頂きました。御指導を下さったのは国際基督教大学名誉教授の並木浩一先生。並木先生は関東学院中高の先輩だったこともあり、親身に指導して下さいました。今回、大学院1年のときに提出したレポートを読み直しました。そして、思い出したのです。レポートの最後に「並木語録」を記したことを。一年間の講義で先生が繰り返しヨブ記のポイントを語られたことを箇条書きにして、レポートの最後に記したのです。ここでは、二つだけ紹介させて頂きます。
「ヨブ記において『ヒンナーム(理由なしに)』は、最も重要な言葉である。たった4回しかヨブ記には登場しないが、極めて重要な言葉である」。そのことを裏付けるように、先生は次のことも語っておられました。「ヨブの出来事(数々の試練や苦難)は、全て偶発的な出来事(苦難)であった。全く必然性の欠けた出来事であった。つまり、ヨブ記の主題は一般的には「苦難」と言われているが、『理由なしに』こそ、主題である」。
私たちはどうしても「因果応報」に縛られる。突然の悲しみ、突然の災害に襲われたとき、私たちはどのような行動をとるか。まず考えるのは、「どうして、このようなことになったのか」。試練の理由を探すのです。周囲の人々も言う。「あれがあり、このことがあったから、こうなった」。そのときによく使われる言葉が「運命」。「運命だった!運が悪かった!だからもう諦めよう」。そうした考えが蔓延している。けれども主は、徹底的にそのような考えを否定されます。「決してそうではない」。では、そのとき、私たちはどうすればよいのでしょう。徹底的に神に問うのです。生涯、問い続けるのです。「主よ、なぜですか」と。「私は本当に辛いのです。本当に悲しいのです。本当に苦しいのです。今も、どん底の悩みの中にいるのです」。
ヨブも同じ。神に食らいついた。もう駄目!という試練にあっても、「主よ、なぜですか」と最後まで食らいついた。そのとき神は、ヨブを高く評価したのです。神はヨブの問いに応えないことで、ヨブの問いに応えて下さったのです。
並木先生は、今朝のヨブ記第42章1節以下をこのように訳しておられます。「そこでヨブは、主に応答して言った。あなたはご存じです、あなたは なにごともでき、あなたにはどんな企ても実行不可能ではないことを。『一体何者か、無知であるのに、経綸を隠すこの者は』。そうです、私は認識していなかった  ことを語ったのです。私を超えた不思議な業の数々、それを私は理解しては  いないのです。『とくと聞け、わたしが語るのだ、わたしはあなたに尋ねる、  わたしに答えよ』。そうです、私はあなたのことを耳で聞いていました、しかし今、私の目はあなたを見ました。それゆえ、私は退けます、また塵灰である   ことについて考え直します(並木浩一訳)」。
並木先生は御自分の翻訳についてこう語っておられます。「この拙訳によれば、ヨブは最後に、神に対する思い込みから神が自分を攻撃していると信じ、神に抗議した言葉を撤回し、神が自分に真剣に応答してくださったことを感謝しつつ、みずからが塵灰の身であることを考え直すとの意志を表明したのである。(中略)ヨブ記を読むためには、話者が口にしないことの意図を汲み取ることが大事である。ヨブ自身が神の言及しないことの意味を読み取り、苦しみから解放された。ヨブはそれにより、友人たちの理解から完全に離れることができた。友人たちはヨブには隠れた重い罪があるのではないかと疑っていたし、最後には彼は重罪人であると断罪しさえした(22:5~9)。ヨブ自身も、自覚できない罪を神が処罰しておられるのではないかとの不安を懐いていた(9:28~29、10:2、13:26)。とすれば、神がヨブの挑戦の姿勢を叱責するだけで、ヨブの罪について何も語らなかったことの意味は決定的に大きかった。ヨブは彼の大きな問題が解決されたことを知った。彼は神の真剣な応答の相手とされることで、神から決して見放されてはいないことを知った。ヨブの告白は心からの感謝の言葉であった(『並木浩一著者集1ヨブ記の全体像』日本キリスト教団出版局 214頁)」。
ヨブ記において、神は明確に「因果応報」を否定しました。その結果ヨブは「悔い改めます」と告白したのです。しかも、並木先生の解釈では、「悔い改めます」は、神への感謝の応答です。私たちもヨブのように神、また主イエスに感謝したい。主イエスも、「因果応報」を否定されました。「因果応報は違う。運命も違う。もしもそうなら、皆とっくに滅びている。誰一人、生きることは出来ない。だからこそ、罪赦されたあなたは日々悔い改める。神に心を向ける。神に立ち帰る。神に感謝する。神に祈るのだ。つまり、どんなに辛いときも、どんなに苦しいときも、神に背を向けず、神に向き合い続けることが、滅びることなく、喜びに包まれるための唯一の道なのだ」。
世の信じられない事件、事故、自然災害の前に茫然と立ち尽くすのが私たちです。しかし、ヨブのように「主よ、なぜですか」と神に問い続けたい。そのとき、私たちは神の懐に飛び込める。主の「決してそうではない」を信じ、今、嘆きの涙を流している方々がいつの日か、神に立ち帰ることが出来るよう祈り続けたい。私たちも試練のときこそ主に立ち帰り、嘆きの涙のときこそ「主よ、なぜですか」と最後まで祈り続けたい。そのとき、十字架と復活、そして再臨の主が大きな御手を開き、私たちを喜んで受け入れて下さるのです。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。私たちは子どもから、人生の経験を重ねた大人まで、突然、厳しい試練に襲われます。そのとき、何とかして試練の理由を見つけようとします。すぐ見つかることもあれば、どんなに考えても、グルグルと頭が回転してしまうことがあります。そのようなときこそ、あなた様を見上げる心をお与え下さい。たとえ、「主よ、なぜですか」と、あなた様に食ってかかる祈りであっても、常に、あなた様に問い、あなた様に祈り、あなた様が私たちに向き合い続けて下さることを感謝する者としてお導き下さい。これらの貧しき願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて
下さい。主よ、私たちの世には争いがあり、血が流れております。自然災害が
あり、突然、愛する家族や家を失っている者もおります。どうか、そのような方々が希望を失うことなく、あなた様に「主よ、なぜですか!」と問い続け、そのことによってあなた様の招きを感じることが出来ますようお導き下さい。明日から屋根の防水工事が始まります。どうか事故や怪我などなく安全に工事が行われるようお導き下さい。来月の5日には、臨時教会総会が行われます。大切な長老選挙も行われます。どうか、主の御心がなりますようお導き下さい。
今朝も病のため、また様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。特に、入院をしておられる兄弟姉妹を憐れみ、癒しの御手を差し伸べて下さい。お願い致します。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2017年2月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 箴言 第16章1節~9節、新約 ルカによる福音書 第12章57節~59節
説教題:「仲直りするように努めなさい」    
讃美歌:546、16、228、448、541、Ⅱ-167 

 私たちは、傷つくことを恐れます。可能なら皆と仲良く暮らしたい。だから、相手に深入りしないようにするのです。明らかに相手が誤りで、自分が正しくても黙ってしまう。なぜか?余計なことを喋れば、今度は自分が攻撃されると判断するからです。そのような判断こそ、今の時代を生き抜くための知恵だと思っているのが、私たちかもしれません。
主イエスは、群衆に語っておられます。群衆ですから、今の時を生かされている私たちも例外ではありません。主イエスは今朝、私たちにも本気で語っておられる。「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」。
主が語っておられることは単純です。「あなたを訴える人と仲直りしなさい」。口語訳聖書では「和解しなさい」と訳されています。では、どうすれば仲直りできるのでしょうか?大切なのは訴える人を理解することです。たとえ相手がどうであれ、私は我慢し、偽りの笑顔で相手と握手する。しかし、そのような仲直りはすぐに崩れます。やはり、仲直りするには相手を理解することが大切なのです。
実際、主イエスは仲直りするように努めるべき相手について、丁寧に語っておられます。相手は「あなたを訴える人」です。もう少し踏み込んで表現するなら、相手は「私を訴えることのできる人」であり、私は「訴えられるような罪を犯した者」となる。主は真剣に問われる。「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」。犯した罪を悔い改めることなく、訴える人と目も合わせず、「どうせ俺は罪人だ」と開き直り、裁判所に向かって歩いているのが私たちです。
主は言われる。「それでいいのか?それでは何の解決にもならない。裁判官はあなたが最後の一レプトンを返すまで罰する。あなたは独房で一生を終える。それは本当に悲しい。だから、あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい」。
ところで、「あなたを訴える人」とは、いったい誰なのか?この問いは昔から繰り返し問われてまいりました。御言葉を読み、このような思いが与えられた。譬えを語っているのは主イエスである。主が群衆の目を見て、「あなたを訴える人と仲直りしなさい」と語っておられる。私たちの負債、私たちの罪を訴えることのできる御方は誰なのか?すると、父なる神の姿が示された。また、群衆に語られた主イエスの思いも示された。「私は、あなたの弁護者として命じる。『真の審き主なる神と仲直りするよう努めなさい!人生の途上である今、神と和解しなさい!そのために私は神から世に遣わされた。あなたの弁護者として』。
「仲直りする」と訳された原語απαλλασσω(アパラスッソー)は、興味深い言葉です。アパラスッソーは新約聖書で三回しか使われておりません。まずヘブライ人への手紙では「イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした(2:14~15)」と「解放なさる」と訳されたのがアパラスッソー。次に使徒言行録では、「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった(19:11~12)」で「出て行く」と訳されたのがアパラスッソー。そして今朝の御言葉です。原文に忠実に訳すとこうなります。「<平和のうちに>彼の手から<解放される>よう、道中努めなさい」。つまり、ヘブライ書、使徒言行録で用いられたのと同じように、その人から解放され、自由にされ、免除されるという意味があるのです。相手から解放され、自由にされ、免除されるには、こちらの努力だけでは難しい。相手の赦しによって頂く一方的な恵みです。当然ですが、その恵みを頂くには、相手に自分の罪を認めることが大切です。「私は、あなたから訴えられてもおかしくない罪人です」と、心から悔い改め、ただただ「私の負債を帳消しにして下さい」と祈り続ける。そのプロセスがなければ、相手は絶対に赦して下さらないのです。
ところで、今朝の御言葉の具体的なテーマは借金です。銀行員時代、預金、投資信託、投資型年金の獲得から、カードローン、住宅ローン、企業への融資まで色々な仕事をしました。企業融資、また個人のローンを担当していた頃、避けられない仕事は延滞管理です。確かに銀行にも責任はある。ゴルフ会員権の購入のため、無担保で信じられないほどの額を融資していた。当然、会員権が下落すれば、返済は不可能。それでも督促をし、返済して頂かなければならない。胃の痛くなる日々でした。勿論、借金をしておられる方々の胃の痛みは銀行員の比ではありません。法人も同じ。親会社の下請け、孫請け会社を担当していた頃、社長が御主人で経理が奥さんのようないわゆる父ちゃん母ちゃん企業は、正月返上で汗を流して働き続けている。それでも親会社の締め付けが厳しいと融資の返済が滞る。そのような企業に返済の督促をするのは本当に息が苦しくなりました。年上の社長さんから頭を下げられる。私は申し上げる。「お気持ちは痛いほどわかります。でも私が個人的に融資したお金ではないのです。お客様からお預かりしている大切なご預金から融資させて頂いているのです。ですから、ご返済のご意志を確認するために、何とか1ヶ月分だけでも返済して頂けませんでしょうか」。そのような交渉をしていると、よくあったパターンが、いわゆる逆切れ。「そんなに言うなら、銀行の責任はどうなのか。きちんと調査もせず融資しておいて、困っているときに『返せ!返せ!』じゃないか」。私は歯を食い縛り、「私も仕事なのです」と誠意を示すしかありません。
今朝の御言葉も同じです。裁判所に行く道中で債権者に謝っても、本来なら借金を帳消しにして頂けるわけがない。喧嘩していた子どもが夕暮れになるとケロっとした顔で仲良く遊んでいる。そのような仲直りとは、重みが違います。なぜか?裁判官は「有罪」の判決を言い渡す。そして看守に引き渡し、独房にぶちこむ。その結果、最後の1レプトンを返済するまで、独房で生活するのが罪人の姿です。1レプトンとは、最小の銅貨で1デナリオン(一日の労働賃金)の128分の1。当時の最小の単位です。つまり、最後の1円まで返さないと独房で死ぬという意味がある。主は、それほどの激しい言葉を用いて勧めるのです。「途中でその人と仲直りするように努めなさい」と。
今朝の御言葉のポイントは、群衆に語っておられる御方が主イエスである!という事実です。その事実を心に刻むとき、今朝の御言葉の重みが私たちの心に深く響きます。今朝の御言葉に登場する「あなた」は、「訴えられている人」です。「最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」とありますから、返済期限が到来しても完済しない人です。貸した人は、何度も「完済して欲しい」と交渉した。しかし、口では「来月は完済します!」と言いながら、いつまでたっても完済することはできない。そして、利息も含めどう逆立ちしても返すことの出来ないほど債務が膨らんでしまった。その結果、債権者は債務者を裁判官のところに連れていくことになった。債務者は諦めている。その結果、裁判官の前に立たされた債務者は有罪を宣告される。当然、債務を支払うことも出来ず、独房にぶち込まれる。そして、最後の1円を返済するまで独房で暮らし、たった独りで死を迎える。だからこそ主は語るのです。「そうなったら本当に悲しい。既に、あなたは裁判所に向かって歩いている。もう時間がない。早く債権者である父なる神様と和解して欲しい」。
先週の御言葉のように、主イエスは「どうして今の時を見分けることを知らないのか」とジリジリしておられます。「今のあなたは、莫大な借金を抱えている債務者と同じだ。あなたは裁判所に向かって歩いている。そして、裁判官であられる神によって審かれる。それでは、私がこの世に来た意味が全く無くなってしまう。あなたを救えないのは、父なる神の本意ではないのだ。だから、今すぐ父なる神の御前に跪(ひざまず)いて欲しい。そして真の弁護者である私を信じて欲しい。私があなたの弁護者。だからこそ、あなたの罪の身代わりとして莫大な債務を丸ごと引き受ける。あなたがどんなに努力しても返済することのできない莫大な債務、犯した罪を丸ごと私が十字架の上で背負う。そのときあなたは神と和解するのだ。私の死の瞬間、あなたは全債務から解放され、全ての重荷からも解放され自由になるのだ。だから、今の時を見分けて欲しい。今ならばまだ間に合う。繰り返し言う。あなたはもう裁判所に向かって歩いている。でも、諦めないで欲しい。自暴自棄にならないで欲しい。あなたと一緒に歩いているのは誰か?そうだ。あなたを心から赦したい!と願っておられる父なる神であり、私(主イエス)なのだ。だから、ズンズンと闇に進んでいるあなたの足を止めて欲しい。自暴自棄になりながら裁判所に向かうのではなく、立ち止まって欲しい。向きを変えて欲しい。私を見て欲しい。跪(ひざまず)いて欲しい。祈って欲しい。『主よ、罪深い私をお赦し下さい』と。そのとき、あなたの莫大な借金は全て帳消しになる。あなたは真の意味で全ての重荷から解放される、自由になるのだ」。
ドイツの改革者ルターは、『キリスト者の自由』という極めて重要な書物を、1520年に執筆しました。ドイツ語版とラテン語版がありますが、ドイツ語版は民衆のために書かれたもので、分かり易く30節に分けて書かれています。教文館から出版されている『ルター著作選集』の269頁から296頁に全文が掲載され、徳善義和先生の翻訳で読むことが出来ます。僅か28頁。しかし、そこには「キリスト者はあらゆる罪と律法と戒めから解放され、自由である」と書かれているのです。申すまでもなく、「キリスト者の自由」は何をやっても赦されるという自由ではありません。キリストに従うことによって与えられる真の自由、重荷からの解放です。『キリスト者の自由』の最後、第30節には、ルターの結論と真摯な祈りが記されております。そのまま引用させて頂きます。
「第30、これらすべてのことから、次の結論が出てくる。すなわち、キリスト者は自分自身においては生きないで、キリストと隣人とにおいて生きる。キリストにおいては信仰によって、隣人においては愛によって生きるのである。キリスト者は信仰によって自分自身を越えて神の中に至り、愛によって再び神から出て自分自身の下(もと)にまで至り、しかも常に神と神の愛とのうちに留まりつづける。ちょうど、キリストがヨハネによる福音書第1章〔51節〕で『天が開け(て)、神の天使たちが人の子の上に昇り降(くだ)りするのを、あなたがたは見ることになる』と言われているとおりである。見よ、これこそ真の霊的なキリスト教的自由であって、あらゆる罪と律法と戒めから心を解放するものであり、天が地と隔たるように、他のすべての自由に優る自由なのである。願わくは、神が、この自由を正しく理解し保つ力を、私たちに与えてくださるように。アーメン」。改革者ルターの魂が、500年後の今を生かされている私たちにも熱く迫ってまいります。
私たちは今、罪の私たちを訴え、バッサリと審くことのお出来になられる神と一緒に裁判所に向かって歩いております。不思議ですが、裁判官である神の待つ裁判所に、神と一緒に歩いている。それならば、そのまま裁判所に到着し、バッサリと神に審かれる前に足を止めたい。そして、一緒に歩いて下さる神に方向を転換したい。そして、罪を悔い改め、罪の赦しを信じ、父と子と聖霊の名による洗礼を授けて頂きたい。その瞬間、私たちはキリストを着る者となる。そして、罪の私から解放され、本当の意味で自由な者となる。私たちは罪の私ではなくなる。罪から解放された自由なキリスト者となる。その結果、私たちは喜んでキリストと隣人とにおいて生きる者へと変えられる。キリストにおいては信仰によって、隣人においては愛によって生きることが出来るようになるのです。
旧約聖書の箴言にも書いてある。「主に喜ばれる道を歩む人を/主は敵と和解させてくださる。稼ぎが多くても正義に反するよりは/僅かなもので恵みの業をする方が幸い。人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる(16:7~9)」。心から「アーメン」です。
主なる神は、私たちを罪の呪縛から解放したい!と本気で祈っておられます。独房で孤独死することを喜ばない。だからこそ、大切な独り子、御子主イエス・キリストを世に遣わして下さったのです。私たちに真の自由を与えたもう主が命じておられる。「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直り(和解)するように努めなさい」。
私たちは忘れません。一歩一歩を備えてくださる主が宣言された御言葉を。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。私たちも永遠の命を信じ、大胆に罪を告白し、大胆に罪を悔い改め、大胆に主の道を神に向かって歩き続けたい。心から願うものであります。

(お祈りを致します)

御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名前を親しく呼んで下さり、主日礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。私たちも改革者ルターの祈りをささげます。願わくは、あなた様が、キリスト者の自由を正しく理解し、保つ力を、私たちに与えてくださるように。主よ、私たちはこの世のことで心が乱れます。他者の評価が気になります。他者を裁きます。また他者から裁かれると怒り、そして落ち込みます。主よ、重ねて祈ります。どうか、御子によって与えられた自由を終りの日までしっかりと心に刻ませて下さい。そして、御子が宣言して下さったように、御子こそ、真の道であり、真理であり、命であるとの御言葉を心に刻み、あなた様が備えて下さる永遠の命に至る道を歩む者として下さい。これらの貧しき願いと感謝を、真の救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。


(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。

主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて
下さい。今朝はまず、教会学校の働きをおぼえて祈ります。今の時代、小さな子どもから中高生に至るまで他者と比べられ、心が苦しくなることが子どもにこそあります。大人でも耐えられないようなひどいいじめを受け、ボロボロになっている子どももおります。そのような子どもたちの傷ついた心を解放する場となるよう祈りながら、朝早くから教会学校の教師たちは主に仕えておられます。どうか、東村山教会の教会学校のみならず、全国、全世界の教会学校の働きをあなた様が存分に用い、強め、励まして下さい。そして、私たちも教会学校に通う小さな子どもたちや中高生に至るまで声をかけ、声をかけることが難しくとも小さな子どもたちや中高生を覚えて祈る者として下さい。同時に、教会では今、様々な病とたたかっておられるお年を召した方も大勢おられます。どうか主よ、病と闘っておられるお一人お一人、また看取っておられるお一人お一人が悲観することなく、御子の十字架と復活、そして再臨の約束によって与えられる永遠の生命を信じ、希望を抱いて地上での歩みを終りまで全うすることが出来ますようお導き下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2017年2月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第32章1節~6節、新約 ルカによる福音書 第12章54節~56節
説教題:「今の時を見分けることを知らない偽善者」    
讃美歌:546、72、Ⅱ-111、Ⅱ-1、334、540 
 
主イエスは、十字架の死と復活について弟子たちだけに語っておられました。主は弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われたのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている(ルカ福音書9:22)」。キリスト者にとって、主イエスへの信仰の土台である受難、死、復活を群衆は想像すらしていなかったと思います。まして、復活された主が天に昇り、生ける者と死ねる者とを審くために再び世に来られる「終末の時」は全く頭になかった。しかし主は、弟子たちに「終末の時」を語っておられます。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである(ルカ福音書12:40)」。主は、十字架の死と復活、そして「終末の時」を弟子たちが群衆に宣べ伝えるために、弟子たちを厳しく鍛えておられました。けれども主は決断された。「弟子たちだけに任せず、私も群衆に伝えたい!このままでは群衆は父なる神様によって本当に審かれ、滅ぼされてしまう。だから、私も群衆に語りかけ、群衆を悔い改めに導き、今が楽しいからこれでいい!でなく、今が苦しいからもう駄目だ!でもなく、悔い改めの先に約束された終末の希望に心を向けさせたい!と願い、ついに群衆に向かって語り出したのです。
「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる」。主イエスが語られた言葉。拍子抜けするような天気の話題です。ついに十字架と復活、そして「終末の時」を語り出したかと思うと、そうではない。群衆が気にしている天気について語られたのです。私たちも、毎日の天気が気になります。楽しいイベントがあれば、一週間も前から当日の天気が気になる。私はプロ野球観戦が大好きなので、試合が雨で中止になるとがっくり。やはり天気が気になる。野球観戦ならまだかわいいですが、農業や漁業など、天気と密接に関係しているお仕事の方々は、天気は極めて重要です。聖書の時代も同じ。パレスチナ地方は基本的に雨季と乾季しかありませんので、経験を積めば天気を見分けることが出来るようです。
地中海側から雲がのぼれば、誰もが「にわか雨がくる」と言う。また南風が吹き込めば、暑く、湿った状態を予想する。そのように人々は空や地の模様を見分け、雨や暑さに備えるのです。群衆は主イエスに対し、「この人はなぜ、天気の常識を語っているのか」と、笑ったかもしれません。しかし、次の瞬間、主イエスの一言に群衆は圧倒された。「偽善者よ」。
主は続けます。「このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」。
主は、群衆の目を見つめ、驚くべき言葉をぶつけられました。先週の御言葉のように、主イエスが1000度の火を投げ込まれたような激しい言葉です。主イエスと目があった群衆の男は、主に対して、「何で俺が『偽善者よ』と糾弾されねばならないのか」と怒りにワナワナと震えたかもしれません。私たちも「偽善者よ」と糾弾されたら、「あなたに言われたくない」と相手を睨みつけ、相手にくってかかるかもしれません。それほど、「偽善者よ」と言われることは屈辱的です。
しかし、主イエスは群衆に「偽善者よ」と言われた。この事実はとても重い。その事実から私たちは目を逸らしてはなりません。主は偽善を許せないのです。実際、主が「偽善者」と糾弾する代表は、律法学者やファリサイ派の人々です。「私はあの徴税人と違い正しい人間」とうぬぼれ、他人を見下している人々に主は「偽善者」と厳しく糾弾されるのです。
けれども主は、空や地の模様を見分けることは知っている群衆に「偽善者よ」と言われた。もしかすると、群衆の中に律法学者やファリサイ派の人々がいたかもしれません。しかし聖書には「群衆にも言われた」とある。群衆ですから、現代を生かされている私たちも含まれるのです。主は、何でこんなにもお怒りなのか。それは、私たちが今の時を見分けることを知らないからです。たとえ知識として「今の時」を知っていても、「今の時」に心が向かない。だからこそ主は、「偽善者よ」と叫ばれたのです。
冒頭で語ったように、群衆はまだ主イエスの受難、十字架の死、復活、昇天、再臨を知りません。それなのに、なぜ主は「偽善者よ」と叫ばれたのか。もしかすると主は焦っておられたのかもしれません。「あなたがたは、自分の目の前のことばかり気にしている。今、私は幸せか?今、私は不幸か?そればかり気にしている。それは違う。あなたがたの本当の幸せは今の喜びや悲しみだけに支配されるのではない。まず、私を見て欲しい。私が今、ここにいることを。父なる神から、あなたがたのところに壮大の救いの計画を成就するために私が遣わされたことを、しっかりと心に刻んで欲しい。私には、父なる神の熱情がギュッと凝縮されているのだ。それなのに、あなたがたは空や地の模様ばかり気にしている。そうではない。今の時をきちんと見極めて欲しい。今が、どのような時なのか。そのために、私をしっかりと見て欲しい。私に従って欲しい。私を見て、神の熱情をしっかりと心に刻んで欲しい。もしも、そのことを怠り、今が神の子である私の時であることを正しく見極めることなく、ああ幸せだと喜び、ああ不幸だと嘆くなら、あなたがたも自分を表面的に正しく見せようとする偽善者と同じだ」。
「偽善」は、古代の俳優たちが仮面を着けて役を演じたことに始まったようです。偽善は、善という仮面を着けただけの、うわべだけの善です。内面の悪を仮面の善が隠しているだけです。主は、そのような偽善を絶対に許しません。「きちんと自分の悪を認め、悔い改め、真の救い主である私を着けて欲しい。洗礼によって私を着て欲しい!」と本気で私たちに願っておられるのです。
主は語られます。「どうして今の時を見分けることを知らないのか」。「今の時(カイロス)」と訳された原語は、時間の長さを表す「時間(クロノス)」ではありません。教団出版局から発行されている『キリスト教神学用語辞典』には、「カイロスとは、人類の歴史上で特別で決定的と言うべき時、特にイエス・キリストの到来において、神の意志と目的とが遂行されるとき、そのような『時』を示すギリシア語」とありました。実際、ルカ福音書で「カイロス」が最初に登場するのは、第1章20節です。19節から朗読します。「天使は答えた。『わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。天使ガブリエルは祭司ザカリアの口を利けなくします。ここに出てくる「時が来れば実現する」の「時」が「カイロス」です。つまり「人類の歴史上で特別で決定的と言うべき時、特に主イエスの到来において、神の意志と目的とが遂行されるとき」がカイロスなのです。
 今朝はルカ福音書と共に申命記の御言葉を読みました。旧約の預言者モーセが、イスラエルの全会衆、つまり主イエスと同じように群衆を警告しています。特に、第32章5節、6節の御言葉は旧約の時代、新約の時代、そして現代と私たちの罪は全く変わっていないことに気がつかされます。
 新共同訳ではなく、岩波書店(鈴木佳秀)訳で朗読致します。「ひねくれ、ねじけた世代よ、自ら堕落し、その汚点〔のゆえに、もはや〕神の子らでない。愚かで知恵のない民よ、これがヤハウェに対しあなたたちが行なう報復なのか。ヤハウェこそあなたを創造したあなたの父、あなたを造った方で、あなたを堅く立てたではないか」。
 これが私たちです。ひねくれ、ねじけている。堕落し、神の子と呼ばれない私たち。私たちを創造して下さった父なる神様を忘れ、自分が神のように振る舞う。しかも、善という仮面を着けた「偽善者」として振る舞う。だからこそ、父なる神は、この世に御子を遣わして下さった。我々が滅ぼされないように、父なる神に立ち帰るように、御子を世に遣わし、御子に十字架の上で贖いの死を成し遂げさせ、再び、御子を世に遣わす再臨を約束して下さったのです。
さて、今朝の説教準備で、母教会で繰り返し学んだ『雪ノ下カテキズム』を開きました。ご一緒に礼拝を守っておられる加藤常昭先生が祈りつつ記された信仰問答です。その中に、私たちにとって終末の望みとは、どのような望みであるのか丁寧に書かれておりますので、少し長いですが、そのまま紹介させて頂きます。問149「その終わりの時の出来事は、どのように起こるのですか。あなたは、今既にそれを知らされてはいないのですか」。答「私にすべてが教えられ、すべてが分かっているわけではありません。終わりの時の出来事がいつどのように起こるかは、主ご自身もまたよく知らないと言われました。まして私どもが、自分の知恵や知識で、終末の出来事を憶測しても、それはすべて不確かなことであると思います。ただ、主がかつて地上を訪れたように、再び来てくださるということと、その時 主による審きがなされるということは、聖書が約束し、教会が明らかに言い表してきたところです。また、使徒信条が聖霊の救いの賜物として挙げる『罪の赦し、からだの甦り、永遠の生命』も、この終わりの時の救いの出来事としてこそ、信じられるべきことなのです」。
また問151では、私たちが終末の「時」をどのように見分け、どのように歩むべきか丁寧に書かれております。そのまま紹介させて頂きます。問151「終わりの時がいつ来るか分からないのは、不安ではありませんか。しかも、私どもの正直な気持ちからすれば、主が再び来られることなどありそうに思えないのではありませんか。主が来られるよりも先に世界は自然に滅びるときが来るのではありませんか。あなたの終末の希望は、どれだけ現実性を持つのですか」。答「私の望みの現実性よりも、主との交わりの現実の確かさが、望みを支えるのです。主はいつも近くおられるのです。その主の近さが、既に今、私に終末の緊張をもたらします。主の近さが目覚めを生みます。今既に永遠の真理の審きを切実なものとして教えます。その主が再臨の姿を現されるとの期待が、今の私の生活を整えさせるのです。人間としては当然であろうかと思われる思い煩いが不安を生むとき、この主が与えてくださる平安が、希望を生むのです。私の死がすべての終わりではないとの望みを生みます。たとえ、世界が滅びることがあったとしても、それによって、主が与えてくださった望みが揺らぐことはないのです。終末を知ることは、陶酔ではなくて、むしろ身を慎んで生きる目覚めた心であります」。
「アーメン!」と祈りたくなる心に深く響く問答です。特に、終末の希望に生きるとき、私たちは陶酔ではなく、むしろ身を慎んで生きる、眠っているのではなく、まどろんでいるのではなく、しっかりと十字架と復活、そして再臨の主イエスを見つめながら、目を覚まして生きる。相手のおがくずをネチネチ指摘し、偽善者のようにふるまうのではなく、自分の丸太をしっかりと見つめ、しかし、自分ではどうすることもできない罪の丸太を完全に取り除いて下さり、それだけでなく永遠の生命を約束して下さった主イエスの再臨を信じるとき、私たちはビクビクと終末の到来、主の審きを待つのではなく、身を慎みながら、再臨の主イエスが与えてくださる希望を信じ、心を高くして歩むことが出来るのです。今、私たちの目の前に主の食卓が用意されています。御子が十字架で裂かれた肉と流された血潮を神の家族と共に与ることが今朝も許された。その驚くべき恵みを心に刻むとき、私たちの心から偽善は消え、悔い改めの祈りに導かれ、神の御前にひれ伏し、「今の時を」身を慎んで歩むように変えられるのです。そのとき、私たちキリスト者は、たとえ、世界が滅びることがあったとしても、それによって、「主が与えてくださった再臨の望みが揺らぐことはない」と心の底から信じることができるのです。
(お祈りを致します)主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主日礼拝にお招き下さり、深く感謝申し上げます。主よ、「今の時を見分ける」澄んだ瞳をお与え下さい。今の時代、様々な不安があります。けれども、そのような時だからこそ、御子の再臨の望みをしっかりと心に刻ませて下さい。陶酔するのではなく、身を慎み、偽善を捨て、ただあなた様への心に生かして下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。

主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて
下さい。主の年2017年も2月を迎えました。一年の中でもっとも寒い月。そのような日々の中、身体だけでなく、心も様々な試練の中で凍えている方が大勢おられます。交通事故等で愛する家族を失った方々、原発事故、自然災害により将来への不安を抱えている方々、4月からの新しい生活に不安を抱えている方々、愛する家族が病に倒れ、入院を余儀なくされている方々、難民や中東・アフリカの7カ国の国民への米国への入国を一時禁止する大統領令により混乱している方々、長期の内戦で愛する家族を失い、途方に暮れているシリアの方々、主よ、この世を深く憐れんで下さい。希望を失い、彷徨っている方々に御子の十字架と復活、そして再臨の希望を与え続けて下さい。来週の火曜は、東京神学大学の2月入試が行われます。献身の志をあなた様から与えられた受験者が、御心ならば合格となり、伝道者として歩む備えをなすことが出来ますようお導き下さい。また東神大のみならず、各神学校の働きを強め、励まして下さい。今朝も病のため、また様々な理由のため教会に集うことの難しい兄弟姉妹が大勢おられます。どうか、それらの方々に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2017年1月29日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ミカ書 第7章1節~7節、新約 ルカによる福音書 第12章49節~53節
説教題:「受けねばならない洗礼」    
讃美歌:546、10、199、352、539 

 主イエスは驚くべき言葉を語られました。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。
火は非常に熱いものです。天井が焼け落ちるような大きな火災になると、火の温度は1000度以上になるようです。当然ですが、手で火に触れることはできません。少しでも触れると大火傷になる。よって、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」とは、私たちが御子の投じた火によって大火傷をするために、父なる神は御子を世に遣わされたという意味に思われます。
赤ちゃんからお年を召した方まで一人の例外もなく、私たちが火に触れると大火傷をする。その結果、手に足に激しい痛みが残る。火傷は大きな水膨れになる。丁寧に治療しないと、皮膚はグジュグジュに化膿し、ただれ、覆われていた肉が見えてしまう。
覆われていた肉は、私たちの罪のようです。「うまく隠した!」と思っても、御子の投じた火によって、私たちの罪が暴かれる。火は激しい。大火傷をする。強い痛みが残る。だからこそ、主は私たちに火を投じて下さった。「今のままでいいよ!」ではなく、「きちんと罪を見つめて欲しい!隠さないで欲しい!罪の痛み、罪の苦しさ、罪の息苦しさを強烈に感じて欲しい!」と。
主イエスが投じた火。それは、私たちへの審きです。しかし、主の審きです。そこには燃えるような激しい愛がある。決して、私たちを焼き滅ぼそうと火を投じておられるのではない。むしろ、「今のままだと、あなたは罪に気づかずに生涯を終えてしまう。それでは、私が神から世に遣わされ、十字架で処刑されても、あなたを救うことが出来ない。だから、私の火で大火傷をして欲しい。そして心の底から悔い改めて欲しい!」。主はそのような熱い思いで、私たちに火を投じて下さったのです。
 さて、私たちキリスト者が、主イエスと火から連想するのは、聖霊の炎です。今朝の御言葉に聖霊は登場しません。しかし、福音書記者ルカが聖霊を重んじていることは間違いありません。ルカによる福音書の続編、使徒言行録でも、聖霊なる神様の驚くべき御業がいたるところに記されています。その中で、誰もが思い浮かべるのは、やはり聖霊降臨の出来事です。
十字架で処刑され、三日目に復活され、昇天された主を見届けた弟子たちは、天に上げられたのと同じ有様で、再びおいでになられる「再臨」を信じ、一つになって集まっておりました。そのとき、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、弟子たちが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたのです。この聖霊降臨を通しても、聖霊と火は密接に結びついていることがわかります。
つまり、主イエスが投じられた火は私たちを悔い改めに導く審きの炎であると同時に、私たちを聖霊で満たし、信仰告白、洗礼へ導く救いの炎でもあるのです。洗礼を受けた私たちキリスト者も、信仰の炎が弱くなるときがあります。洗礼を受けた日の燃える炎のような喜びが、段々と弱くなってしまうのです。
今朝は、説教前に讃美歌199番を賛美致しました。母教会では洗礼入会式の直後に199番を賛美致します。高3の秋に洗礼を受けた私も、罪赦され、愛の炎、聖霊の炎に満たされた喜びに浸り、199番をボロボロと泣きながら賛美したことを忘れません。けれども、私たちの信仰の炎はいつもメラメラと燃えているわけではない。大きな試練を経験すると、すぐに弱くなる。まるで、遊び終わった花火をバケツの水に入れると「ジュッ」と音がして一瞬で冷たくなるように、私たちの信仰も常に煌々と燃え続けることは難しい。その意味で主イエスは、私たちに火を投じ、罪を認識させ、悔い改めに導き、「恐れず、日々、主に立ち帰りなさい!愛の炎、聖霊の炎に満たされ、信仰の炎を燃やし続けよ!」と導いて下さるのです。
主は続けられます。「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」。不思議です。なぜなら、主はすでに洗礼を受けておられる。ルカ福音書第3章21節以下に「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」と書いてある。そうです。主はすでに洗礼を受けておられる。しかも、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」という声が、天から聞こえたと書いてある。それなのに、当の本人が語るのです。「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と。
洗礼は苦しみなのか?そのように感じます。そうです。主イエスは苦しみの洗礼を受けねばならないのです。主イエスが受ける苦しみは、本来、私たちが受けるべき苦しみです。けれども、私たちの罪が赦され、生かされるためには、主が苦しみの洗礼を受け、十字架の死に至る苦難を担わなければならなかった。だからこそ主は語られる。「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」。「終わる」と訳されたテレッセィ(τελεσθη)には、「成し遂げる」という意味があります。
実際、ヨハネ福音書における主イエスの最期はこうです。「この後(のち)、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭(あたま)を垂れて息を引き取られた(ヨハネ福音書19:28~30)」。
主イエスは、「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」の御言葉が実現するように、十字架で、私たちの罪を完全に赦すために、父なる神の御心を成し遂げて下さったのです。成し遂げられた主イエスだからこそ、なかなか悔い改めない私たちに語るのです。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後(のち)、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」。
 頭をハンマーでガーン!と殴られるような激しい言葉です。炎というより、鋭い刃物、いや、ダイナマイトのような爆発力のある言葉。フワフワとした、表面だけを取り繕うような形式的な「平和」を叩き壊す魂の言葉です。実は、私も最初にこの御言葉を読んだとき、主が語られたとは思いたくない。だって、分裂より和解を!争いではなく平和を!と主が語らなければ、私たちの世界はどうなってしまうのか!と考えた。けれども、十字架で「成し遂げられた」と叫び、私たちの罪を完全に赦し、復活によってキリスト者に永遠の命まで与え、その上、再臨まで約束して下さった主イエスが、私たちの世をメチャメチャに破壊するために「分裂だ」と語られたとは思えない。主の言葉には、私たちが考えるより、もっと深い愛、もっと深い憐れみ、もっと深い赦し、もっと深い招きがあるのではないか?段々と、そのように思うようになったのです。 
主イエスは、私たちに「今のままでいいよ」とはおっしゃらない御方です。繰り返し語られるのは、「悔い改めなさい」です。「今のままでは滅びる。今のままでは駄目だ。今のままでは、父の御心を成し遂げても、あなたも家族も分裂のままで終ってしまう。確かに今は、家族と平和に暮らしているだろう。でも、ちょっとしたことで分裂するのが家族だ。だからこそ悔い改めて欲しい。私に立ち帰って欲しい」。そのような主の招きがあるからこそ、主はここまで激しい言葉を語られたのだと思うのです。
主は聖霊の炎を燃やしつつ、私たちに熱く語りかける。「血の繋がっている肉親ではなく、十字架と復活の私を愛して欲しい。私が流した十字架の血潮、引き裂かれた肉からなる食卓を囲み、聖餐の恵みに与るとき、あなたがたは神の家族となる。たとえ遺産相続で激しく分裂しても、父も、子も、母も、娘も、しゅうとめも、嫁も皆、私が流した血潮と裂かれた肉に与った神の家族となるのだ。そのとき、罪深いキリスト者であっても、真の平和が実現するのだ」。
私は高3の秋に洗礼を受け、今49歳。主の憐れみにより結婚させて頂き、三人の子どもが与えられた。当然ですが、洗礼を受けた後も苦難がありました。それでも家族のため!と歯を食いしばって働き続ける。皆さんもそうです。黙々と会社に通い、黙々と家事をし、家事をしながら会社で働く女性もおられる。働く理由はそれぞれですが、家族を養うことは大切。皆、必死に働き続ける。しかし、家族のためと思い、仕事一筋で働いた夫が、定年を迎えると、我が家に居場所がない。銀行に勤務していたとき、早期退職をしたOBが支店に遊びに来て、応接で面談すると、ボソッと語る。「田村くん、現役はいいよ。どんなに辛くても。早期退職し、退職金は頂いた。でも朝から家にいると粗大ゴミ。嘘じゃない。だから、君も仕事だけでなく、趣味を見つけたほうがいいよ」と真顔で語っておられました。男性だけではありません。お腹を痛めて産んだ我が子に幸せになって欲しいと願い、ガミガミ叱るのはたいてい母親。園長時代、子育ての悩みを玄関で涙を溜めて語っておられたお母さんの表情は今も忘れません。皆、必死で子育てをしている。そこに、両親の介護が加わるとアウト。こんなに時間を割いて、こんなにパートも頑張り、こんなに献立も考えているのに、「ありがとう」の一言もなく、ああだ、こうだと文句ばかり。「もう限界」と切れるのが私たちです。しゅうとめと嫁の関係は、語る必要がありません。
家族を愛するがゆえに、ちょっとした一言で対立してしまう。これは5人の問題ではありません。夫婦であっても、血の繋がっている兄弟姉妹であっても、いや、東村山教会に連なる神の家族であっても、なかなか自分の気持ちが相手に伝わらないことはいくらでもあるのです。だからこそ、主は語る。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」。
 主イエスは、私たちの信仰の炎がすぐに「ジュッ」と消えてしまうことを私たち以上にご存知です。だからこそ、主は語り続ける。「あなたの信仰の炎が消えてしまうと、聖霊の炎を拒絶してしまうと、他者への怒りの炎がメラメラ燃えてしまう。そのようなあなたの罪を赦すために、私はこれから燃える炎の洗礼を受けなければならない。あなたが受けるべき苦しみ、ジクジクする痛み、その全てを私は十字架の上で、苦難の僕として引き受けるのだ」。
 先週も国際報道は、トランプ大統領が独占しておりました。「大統領令」。まるで自分が神様になったかのように考えているのかもしれません。「俺こそ、アメリカに敵対する国に勇気を持って火を投ずる素晴らしい大統領」と信じ、次から次へ激しい政策をぶつけています。けれども、私たちの世に審きの火、聖霊の炎を投ずる御方はただ一人。しかも、その御方は、御自分で投じた火を私たちの罪を赦すべく十字架で受けて下さり、カラカラに渇いた唇から「成し遂げられた」と叫ばれた。その瞬間、私たちは皆、頭を垂れ、拳(こぶし)で胸を打ち、真の悔い改めへと導かれるのです。
十字架と復活、そして再臨の主は語ります。「悔い改めることなく、権力で平和を勝ち取ることは不可能。悔い改めれば、私が平安を与える。私は十字架で死に、陰府(よみ)にくだり、三日目に甦り、天に昇り、今もあなたがたに聖霊の炎を日々、注いでいるのだ。そのことを素直に信じて欲しい。そして、私も苦しみの洗礼を受けたのだから、あなたがたも信仰を告白し、罪の赦しと永遠の命が約束される洗礼を受けて欲しい。いや、あなたこそ洗礼を受けねばならないのだ。だって、あなたは私の愛を知った。あなたは私の赦しを知った。あなたは私の励ましを知ったのだから」。
求道者の皆さんがいつの日か、「信じます。信仰のないわたしをお助けください(マルコ9:24)」と信仰を告白し、洗礼へと導かれますよう祈ります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる神様、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主日礼拝にお招き下さり心より感謝申し上げます。あなた様は、御子を真の火として世に遣わして下さいましたから、悔い改めつつ、感謝申し上げます。私たちは悔い改めの祈りをすぐに忘れ、不平、不満を呟く愚かな者です。だからこそ、日々、聖霊の炎を注ぎ続けて下さい。特に今、熱心に求道生活を続けているお一人お一人、また小児洗礼を受けながら信仰告白に至っていないお一人お一人に、「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」とあなた様にまっすぐに祈る心をお与え下さい。これらの貧しき願いと感謝を、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて
下さい。先週は、主日礼拝のあと、婦人会、壮年会 合同の新年会を開くことが許され、心より感謝申し上げます。「災害ボランティア」の喜びと恵みについて共に祈り、語り合いました。特に、生きる力を失った方々が高校生の語る言葉と行いによって生きる力を取り戻した事実を伺い、あなた様が被災地にも聖霊を溢れるほどに注いでおられると信じることが許され、深く感謝申し上げます。しかし、被災地の現状は途方もなく厳しく、前を向くことが出来ないのが現実であることも知りました。どうか今も困難な生活を強いられている方々を深く憐れんで下さい。また、被災地の厳しさを忘れることなく祈り続ける者として下さい。本日は、礼拝後に11月に続けて臨時教会総会を開きます。会堂建築から12年目を迎えるこの会堂の屋上防水改修工事の件を協議します。どうか主の御心がなりますようお導き下さい。今、新しい進路のため、祈りつつ備えているお一人お一人に励ましと力をお与え下さい。今朝も様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹が大勢おられます。特に体調を崩され、入院しておられる兄弟姉妹の上に、聖霊の炎を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2017年1月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 民数記 第15章27節~31節、新約 ルカによる福音書 第12章41節~48節
説教題:「主人の思いを知りながら」    
讃美歌:546、1、Ⅱ-15、354、545B

 十字架と復活、そして再臨の主イエスは、愛する弟子たちに言われました。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。
主イエスは、婚宴から帰って来た主人が、待っていた僕たちに、自分から帯を締め、食事の席に着かせ、そばに来て給仕して下さると、お語りになられました。そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われました。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」。
「時間どおりに食べ物を分配させる」とは、定められた時に、整った食卓を管理人として用意する。つまり、主イエスが再び世に来て下さる時の食べ物を、きちんと用意することです。管理人が管理人としての務めを果たすために必要なことは主人に「忠実」であり、「賢い」ことです。「賢い」と訳されたフロニモス(φρονιμος)は、「感覚」とも訳せます。つまり、復活され、天に昇られた主イエスが、再び世に来て下さる!という感覚を管理人は求められるのです。主イエスは、「忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」と、愛弟子ペトロに問うておられます。同時に主は、ペトロを「忠実で賢い管理人」になるよう、祈りつつ招いておられるのです。
私たちキリスト者は、一人では「主人の帰り」、つまり主の再臨を待ち続けることは難しい。だからこそ、神の家族と共に主の再臨を祈り、共に励ましつつ、主の再臨を待ち続けることが大切です。
主イエスも「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」と言われました。なぜか?残念ながら私たちは、主の再臨を常に意識して生活する人間ではないからです。御子の再臨どころか、父なる神のご支配を忘れてしまうこともある。
実際、主イエスは語られます。「確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男(げなん)や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」。
主イエスが厳しく指摘しておられるのは、主人の帰りが遅れると思うときに生まれる罪の思いです。下男や女中を殴り始める。主の僕として全財産の管理という極めて重要な務めを与えられているにもかかわらず、その務めを忘れ、まるで自分が主人であるかのように行動する。主人の帰り、つまり主の再臨を忘れてしまうと、自分が主人となり、悔い改めの祈りを怠ることになるのです。
47節に「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕」とある。この僕は、私たちキリスト者のことです。予想もしない日、思いがけない時に帰って来た主人は、主人の思いを知らない未信者を厳しく罰することはありません。反対に、主人の思いを知っているにもかかわらず、何の備えもせず、主に背を向け続ける者を、主は厳しく罰するのです。だからこそ主は、深い憐れみを持って、「どこまでも主人に忠実で賢くあって欲しい!」とペトロを含む、私たち全キリスト者に熱く語って下さるのです。
 私たちキリスト者は、主の思いを知らされた群れです。「思い」と訳されたセレィマ(θελημα)は、「御心」と訳せる言葉です。父なる神から御子に知らされた「御心」。それは、真の主人を忘れ、主の再臨も忘れ、己の欲望のままに下男や女中を殴り、食べ、飲み、酔ってしまう私たちのどうしようもない罪を完全に赦すために、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に復活することなのです。
 御子主イエスは、父なる神の「御心」をご存知でした。その日に備え、目を覚まして祈り続け、父から言われた「御心」を常に意識して歩みを続けられた。
それなのに、いや、だからこそ、御子主イエスは父の御心のままに、ひどく鞭打たれた。実際、主イエスはペトロの裏切りの直後、見張りをしていた者たちから侮辱され、殴られ、目隠しをされ、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねられ、さまざまな言葉でののしられたと書かれています。つまり、主人である主イエスが本来、私たちが厳しく罰せられるべきなのに、父の御心として、私たちの身代わりに、ひどく鞭打たれ、侮辱され、殴られ、そしてののしられた。その厳しい事実を知った私たちは、悔い改めへと導かれる。
 その意味で今朝の御言葉も、私たちを悔い改めへと導きつつ、主イエスへの信仰を強くし、主の再臨を心に刻むべく大切な御言葉だと思うのです。復活の主は、いつの日か、必ずこの世に再臨されます。けれども、再臨の時は分かりません。だからこそ、私たちキリスト者は常に主の再臨に備えなければなりません。けれども、「主の再臨はしばらくない」と思えば、私たちは油断する。そして、己が主人のように振舞い始める。真の主人であられる神様を忘れると、また私たちキリスト者が忠実で賢い管理人として歩むことを忘れてしまうと、家庭でも、職場でも、そして国家でも「強いものが弱いものを食べて何が悪い!」となってしまう。米国の新大統領の就任演説からも感じる。特に演説の最後に「私たちはアメリカを再び強くします。私たちはアメリカを再び豊かにします。私たちはアメリカを再び誇り高い国にします。私たちはアメリカを再び安全な国にします。そして、ともに、私たちはアメリカを再び偉大にします」と語る。もちろん、米国の大統領の就任演説ですからアメリカを強くする!と言いたいことはわかります。しかし、アメリカが強くなれば、当然、弱くなる国もある。力の強い国が、神様から与えられた食糧、資源、領土、富を自国だけのものにしようとする。現代はそのような社会であり、私たちキリスト者も、こうした状況に諦めているのかもしれません。けれども、人の子は泥棒が深夜にやって来るように、思いがけない時に帰って来ます。そして、「俺が主人だ!主人が好きなものを食べ、好きなものを飲み、気持ちよく酔っ払って何が悪い!」と叫びつつ、下男や女中を殴り続ける管理人を「厳しく罰する」のです。
 申すまでもありませんが、私たちの真の主人は、主イエス・キリストです。主イエスは、世の終わりの日に再臨され、神の国を完成されます。私たちは、そのことを知らされた者たちです。だからこそ、私たちは主イエスから大いに期待され、多くを与えられ、多くを求められ、多くを任され、更に多くを要求されるのです。このことはしんどいことかもしれません。けれども、こんなに光栄なことはない。こんなに嬉しいことはない。こんなに喜べることはないのです。だからこそ、私たちキリスト者は、主人である主イエスの思いに真剣に耳を傾け、「蛇のように賢く、鳩のように素直に(マタイ10:16)」なりたい。では、具体的に私たちは何をするのか?時間通りに、食事を分配するのです。主の日ごとに、命の御言葉である説教と肉の糧である聖餐の食卓をこの東村山教会でまだ主人の深い愛と赦しを知らない方に提供し続ける。その結果、私たちキリスト者は真の悔い改めから、真の喜びへと導かれるのです。
 先週の月曜から木曜まで富士の裾野で説教塾が主催する説教者リトリートに参加させて頂きました。私に洗礼を授けて下さり、また全国の説教者を熱心に指導して下さる加藤常昭先生からたっぷりと色々なことを学ばせて頂きました。その恵みは、御言葉と祈りの会等で報告させて頂きますが、一つだけ皆さんと共有したいことがある。それは全ての学びの最後に加藤先生が「遺言」として語って下さった言葉です。「皆さんは神様から召された伝道者です。キリストに名を呼ばれたのです。だからもっと自信を持って欲しい。どうせ自分はあの説教者に比べて、能力がないから、この程度でいいやとの呟きを捨てて欲しい。最初から自分をおとしめないで欲しい。どうか神様から頂いたかけがえのない賜物、タラントンを土の中に隠すのではなく、あなたに与えられたタラントン、賜物を信頼して、与えられた教会で一所懸命に伝道して欲しい」。
 その瞬間、私は加藤先生の励ましと慰めに満ちた説教を母教会、鎌倉雪ノ下教会の礼拝堂に座って伺っているように感じました。そして、この励ましは私たち説教者だけでなく、全キリスト者への励ましであると感じたのです。
私たちキリスト者は、主が再臨されたあとに、必ず審かれます。そのとき、「あなたはよく働いた。忠実で賢い管理人だった」と評価されたい。どんなに目立たない働きでもいい。それでも、「あなたは、私がたくした賜物を存分に用いたね」と評価して頂きたい。皆さんにも本当に多くの賜物が与えられています。だからこそ多く求められ、だからこそ多く任され、だからこそ更に多く要求されるのです。共に主から頂いたタラントン、賜物を信じ、十字架と復活、そして再臨の主に忠実に、賢く仕えていきたい。心から願うものであります。

(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名前を親しく呼んで下さり、主日礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。私たちはあなた様の深い思いを知っております。感じております。けれども、ときに、あなた様の思いを忘れ、あなた様に背を向けることがございます。今、御前に懺悔致します。主よ、私たちのこびりついた罪を深く憐れんで下さい。どうかあなた様を真の主人として忠実に賢く仕える者として下さい。間違っても自分の力に酔い、真の主人を忘れ、滅びの道を歩むことのないよう力強く私たちを導いて下さい。お願い致します。これらの貧しき願いと感謝を、真の救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて
下さい。先週は、米国の新大統領が誕生しました。どうか巨大な米国の歩みをあなた様が導いて下さい。そして米国だけでなく、全世界の指導者たちが、真の主の思いを常に感じつつ、共にあなた様から託された国民、資源、また国家を忠実に賢く管理することが出来ますようお導き下さい。特に、貧しい国々を深く憐れんで下さい。先週の1月17日、阪神淡路大震災から22年目の日を迎えました。礼拝の後、婦人会・壮年会の合同の新年会で災害ボランティアの報告をS長老より伺います。どうか被災地の今を学び、災害ボランティアのことを少しでも知り、被災地で今も深い悲しみを抱えて歩んでおられる方々をおぼえて祈るときとして下さい。今朝も病のため、また様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。どうか、それらの方々に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2017年1月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ダニエル書 第7章13節~14節、新約 ルカによる福音書 第12章35節~40節
説教題:「あなたがたも用意していなさい」    
讃美歌:546、6、172、173、 

主イエスは、不安な表情を浮かべる弟子たちに語って下さいました。「小さな群れよ、恐れるな」。確かに、主の弟子たちは小さな群れです。けれども、主は言われた。「恐れなくていい」と。私たちキリスト者も小さな群れです。しかし、私たちが信じるのは十字架と復活、そして再臨の主である。だから、私たちが突然の試練に襲われても、手術を控えていても、病床のベッドに寝ていても、何も恐れることなく、主から与えられる日々を主に感謝し、喜んで歩むことが出来るのです。
主は、弟子たちに語ります。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」。腰に帯を締めるとはどういう意味でしょうか?腰に帯を締めるとは、いつでも仕事が出来る状態です。背広なら、上着を脱ぎ、Yシャツ一枚となり、シャツの腕をまくっている状態。着物なら、着物の袖(そで)を束ねるため、たすきを掛けた状態。つまり背広であれ、着物であれ、どんな命令にでもすぐに応じて、サッと動けるように備えている状態です。
 では、ともし火をともしていなさいとはどういう意味でしょうか?36節に「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」とあります。つまり、ともし火を灯していることと、婚宴と関係がありそうです。ご承知のように現代の婚宴は、長くても三時間で終わります。けれども、主イエスの時代は婚宴が一週間ほど続いた。つまり、終わりが未定。婚宴に招かれた主人はたらふくご馳走を食べ、たっぷりと酒を呑み、酔っ払って帰宅する。当時は携帯もメールもない。朝か昼か夜か、どの時間に主人が帰ってくるかわからない。最悪なのは、深夜あるいは早朝に主人が帰宅するケース。深夜なら真っ暗。つまり、ともし火がないと、主人は困る。どんなに楽しい披露宴でも、帰宅すると、僕たちがぐっすりと眠り、「お帰りなさいませ」の挨拶や、足もとを灯すこともなければ、主人は一気に暗くなる。つまり、主人が婚宴を楽しみ、たとえ一週間後の帰宅であっても、僕は主人の帰りを戸口に立って待ち続け、いつ主人が戸をたたいても、すぐに戸を開け、ともし火で主人の足もとを灯し、「お帰りなさいませ」と丁寧に挨拶し、主人のお土産話しに耳を傾けることが求められるのです。
ここまでの話しは、私たちも納得します。「僕とはそういうものだ。どんなに疲れていても、どんなに眠くても、緊張感を持って主人の帰りをひたすら待ち続ける」。そのような僕の姿勢は、ここにおられる皆さんなら、これ以上、くどくど説明しなくてもご理解頂けるはずです。
問題は、37節からの展開です。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。不思議なことが記されています。なぜ不思議なのか。そうです。「帯を締めて」、「食事の席に着かせ」、「そばに来て給仕してくれる」のが主人だからです。しかも主は、「(アーメン)はっきり言っておくが」と丁寧におっしゃる。よって、ここに主の深い御心があることは間違いないと思います。
 本来なら、主人が帰って来た時に「お帰りなさいませ」と戸を開け、主人の足もとを灯し、婚宴で汚れた足をひざまずいて洗い、酔い覚ましの冷たい水を用意するのは僕の役割です。主イエスもそのように弟子たちに語っておられた。しかし主は、「主人こそ僕に仕える」と語っておられる。主人は帰って来ると、自ら帯を締め、眠らずに待っていた僕たちに「お疲れさま」と声をかけ、「腰に締めた帯を緩めなさい。私が帯を締め、あなたがたに命の食卓を用意しよう」と僕に仕えておられる。主イエスは、そのような主人の姿を語るのです。
 驚きます。なぜなら、このような主人は私たちの世にはおりません。では、このような主人はいったいどなたでしょう?私たちの世にはいない。つまり、主イエスが語られた主人とは、主ご自身なのです。真の主人である主イエスは、私たちキリスト者がどんなときも喜んで仕えるべき主人です。けれども、主は弟子たちに語られた。「アーメン、はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」と。ありがたいことに、私たちが仕えるべき主は、私たちに仕えて下さる。私たちに日用の糧を与え、「何を食べようか、何を飲もうかと思い悩むな」と語り続けて下さる。しかも、私たちの歩みをおぼえて祈り続け、落胆せず、喜んで地上での生涯を全うすることができるよう、力強く導いて下さる真の「僕」なのです。
 実際、主イエスは、「私たちの中で誰が一番偉いか」を気にする弟子たちに、はっきりと語られました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ福音書10:42〜45)」。
 私たちキリスト者が心に刻むべき主の御言葉です。大切なことが語られています。私たちは、たった数名でも、瞬間的に、自分の立ち位置を判断します。自分はこの中でどのような立場か。新人の時代は悩むことがありません。「自分は下っ端」と納得する。しかし困るのが、ある程度、経験を重ね、同じレベルの仲間とグループになったときです。「俺は、彼よりは上」と判断すれば、彼の評価が気になる。「俺は彼よりも下」と判断すれば、卑屈になる。悲しいですが、私たちはどんなに仲の良いグループであっても、常に、自分はこのグループの中でどのような立場かを気にしている。「私は気にしていません!」と言えたら素晴らしいと思います。けれども、少なくとも私のような牧師として8年目、4月になるとようやく9年目になる者であっても、そろそろ私も中堅!と考え、神学生の頃の必死さを忘れていることがある。そのような私にとって、今朝の御言葉は、驚きと同時に、「主イエスが主人なら僕に仕えて納得!」との思いも与えられる。主イエス自ら、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と宣言しておられる。だからこそ主は、「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」と、当然のこととして語っておられるのです。
 さらに主は続けます。「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。 
 ご一緒に確認したように、他者と比較し、悩み続ける私たちを忍耐強く待ち続けて下さるのは主イエスです。放蕩息子を「必ず帰ってくる」と信じ、戸口で待ち続けた父のように、主は僕である私たちを遠くに離れていても見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻し、必要な糧を与えて下さるのです。
主の御手にはともし火があり、私たちの進むべき道を照らし続けて下さる。また主の腰には帯と共に、重い十字架が締められています。その十字架は帯のように緩めることが出来ません。主が語られたように多くの人の身代金として自分の命を献げるために重い十字架を背負い、ゴルゴタの丘で磔(はりつけ)にされたのです。
 そうした主の十字架を見ることが出来るのは、目を覚ましている者だけです。眠っていたら、自分の力に満足していたら、「罪人」と自覚していなければ、主イエスの十字架の死を自分の罪のための出来事とはわからない。たとえ目が開いていても、本当の意味で目を覚ましていないと眠っているのと同じ。その意味で、目を覚まして、主イエスの十字架と復活、そして再臨の希望を信じ、常に主イエスを見つめる僕、主イエスに仕える僕は、やはり本当の意味で幸いな僕、幸いなキリスト者だと思うのです。
 主イエスは続けて、泥棒の譬えを語ります。泥棒がいつやって来るか知っていれば、しっかりと警備しますから、泥棒が家に押し入ることはない。でも、泥棒はいつやって来るか分からない。だから泥棒が来ないように出来るだけの備えをする。そんな泥棒のように「人の子は思いがけない時に来る」と、主はおっしゃいます。しかも、念を押すように、39節の冒頭で「このことをわきまえていなさい」と語っておられる。
 「人の子が来る」とは、終末のとき、主イエスの再臨のときです。今朝も、共に唱えた使徒信条では、主が「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審く」ときです。この審きを経て、神の国は完成します。だからこそ、私たちキリスト者にとって終末のときは、待ち遠しい喜びのときなのです。
 終末がいつなのか私たちには分かりません。だからこそ終末に備え、十字架と復活、そして再臨の主イエスに向けて、目を覚ましていたい。主イエスは、今朝も私たちに「幸いに生きて欲しい」と願い、礼拝に招き、私たちに仕えておられるのです。そのような主の姿を見つめる私たちは、やはり幸いな者です。主は、無力な赤子として世に遣わされました。その後、十字架で処刑された。そして三日目の朝、神は御子を復活させられたのです。復活の主は、今朝も私たちに語り続ける。「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである(ヨハネの黙示録22:12〜13)」。(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名前を親しく呼んで下さり、主日礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。どうか、私たちの目を覚まし続けて下さい。どんなに思い悩むことがあっても、悲しいことがあっても、まどろむことなく、御子の再臨を信じ続ける者として下さい。これらの貧しき願いと感謝を、真の救い主、再臨の主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。

主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて
下さい。第一級の寒波が日本列島を覆っております。どうか今朝も除雪で大変な思いをしている方々、センター試験を受験している方々、愛する者を失い、家を失い、被災地で孤独の中、困難な生活を強いられている方々を強め励まして下さい。世界の状況は益々、混沌としております。あなた様に仕えるのではなく、この世で力ある者に仕える世になっております。どうか、そのような中、見捨てられてしまう社会的に弱い立場の方々を深く憐れんで下さい。今朝も、病のため、また様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。どうかそれらの方々に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。特に今、入院をしておられる兄弟姉妹、これから入院され、手術を控えている兄弟姉妹を守り、導いて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2017年1月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第41章8節~16節、新約 ルカによる福音書 第12章22節~34節
説教題:「小さな群れよ、恐れるな」    
讃美歌:546、9、242、447、 

主イエスは、愛する弟子たちに言われました。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」。
主がこう言われたのには、明確な根拠があります。まず、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」からです。次に主は、烏(からす)を語る。「烏は、人間のように種蒔きも、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる」と。
主は続けます。「あなたがたは、鳥(とり)よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」。
思い悩むことは無意味です。思い悩んで寿命が延びるなら、ドンドン悩めばいい。しかし、思い悩んだ結果、寿命が延びることは絶対にありません。 
次に主は、野原の花を語る。「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである」。
そして主は、再び「思い悩むな」と語っておられます。「信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」。
 「信仰の薄い者」と訳された原語は、「小さい(オリゴス)」と「信仰(ピスティス)」が合成されたオリゴピストイ(ολιγοπιστοι)で、「信仰の小さい」という意味です。主は、愛の鞭で厳しく語られる。「信仰の薄い者たちよ」。主イエスに選ばれた12人の弟子も信仰が薄い。信仰が小さい。心の中に神を感じること、主イエスを感じること、また聖霊を感じることが小さいのです。神、主イエス、聖霊を心の中で削ってしまい、信仰がペラペラの薄い皮になる。主は、私たちが思い悩むと、信仰が薄く、小さくなることをご存知なのです。
ところで、私たちはなぜ、思い悩むのでしょうか。誰も思い悩みたくない。それなのに思い悩む。親のこと、伴侶のこと、子や孫のこと、病のこと、財産のこと、日本のことから、世界のことまで、思い悩みの種はいくらでもある。実際、真面目な方ほど、真剣に思い悩んでしまうように感じます。「なぜ、あの人から、厳しいことを言われたのか?私の側に問題があるのか?」。あるいは、「なぜ、あの人は死んだのに、私は生き残ったのか、あの人は人格者であった。それなのに自分は生き残り、あの人は死んだ」。戦争、自然災害、交通事故等を経験し、生き残った方は、必ずおっしゃいます。「戦友に申し訳ない。あいつは戦地で死んだ。それなのに、自分は生かされ、愛する家族と再会した。やはり、あいつに申し訳ない。なぜ俺は死ななかったのか、こんなに悩み、苦しむなら、俺も戦地で死ぬべきだった」。このように考える人が多いことは皆さんもご存知です。そのような方々に「思い悩まないで下さい」と伝えても、「お前に俺の何がわかる!」と怒鳴られるかもしれません。しかし、主はおっしゃる。「ただ、神の国を求めなさい」。
「神の国を求める」とは信仰の祈りです。御国を信じ、御国を求め続ける。御心を信じ、御心がなるようにと祈り続ける。御子の救いを信じ、御子を求め続ける。聖霊の働きを信じ、聖霊を求め続ける。この全てが信仰の祈りです。つまり、思い悩むときに私たちに欠けているのは、信仰の祈りです。
私たちキリスト者は、私たちの中に、主が座っておられると信じています。しかし、思い悩みに心が奪われると、主が座っておられるにもかかわらず、主が見えなくなる。先週は、聖餐の恵みに与りました。主が私たちの喉を通り、私たちの中に入って下さった。それにもかかわらず、先週の歩みを振り返ると、お正月で家族といる時間が普段より長い。そのため、両親の介護をどうしたらよいか?子や孫はこれからどうなる?老後はどうなる?等、悩みの種ばかり。しかも、種が種のままならいいのですが、悩みの種から芽が出て、根を伸ばし、悩みの種から不安の実が生じるのが私たちです。そうなると、私たちに必要なことをご存じの主は、悩みの種より、小さな存在になってしまう。その状態は、信仰が薄くなっている証拠です。この状態では、真の平安は与えられません。実際、先週の御言葉にもあったように、溢れる穀物や財産を手に入れ、安泰!と思った男に主は語られた。
「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」。私たちは主の御手にあります。同時に主は、私たちの中にも座っておられる。どんなときも私たちと共におられる神の御子がおっしゃる。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人(ぬすびと)も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」。
私たちが神の国(御国)を祈り求めるなら、真の安心が与えられます。そのとき、私たちは恐れから解放される。けれども、財産、住居、宝飾品、学歴、勤務先等に安心を求めるなら、その安心は崩壊することになる。私は大丈夫!と思っても、突然、財産を奪われたり、住居が崩壊したり、勤務先が訴えられたり、主が「今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と警告されたように、溢れる財産、立派な住居、数々の宝飾品、有名大学で学び、有名企業で働いたプライドは、真の意味で、その人を支えることは困難だと思うのです。つまり、私たちを本当の意味で救い、生かし、守り続けるのは、父なる神、子なる神、聖霊なる神からなる三位一体の神なのです。
 ところで年末年始、皆さんもゆっくりされたと思います。私も2日が月曜となり、久し振りに大好きな箱根駅伝を沿道で応援することが出来ました。その年始3日、御殿場市神山にある国立駿河療養所(ハンセン病)に入院しておられる信仰の友を訪ねることが許されました。病室に入ると、友はベッドに寝ておりました。それでも、私たちが病室に入ると身を起こし、こう語って下さいました。「喜ぶ人と共に喜ぶことは本当に難しい。どうしても『何で、あの人の病は癒され、私の病は癒されないのか』と思ってしまう。眼の手術をした結果、さらに視力が衰えた。それでも手術により眼の痛みは和らいだ。今、こうしてベッドに横になっていると、私のためだけに目薬をさして下さる看護師さんに本当に申し訳なく思う。そろそろ、主の御許(みもと)に召される時ではないだろうか?と真剣に考える。だけど、神がなお私のような無力な者を生かして下さるならば、今までと同じように、たくさんの信仰の友の名前を声に出して、祈り続けたい」。
 こう語って下さった後、まず私が祈り、続いて信仰の友が祈られた。「主よ、神山教会の小さな群れを守り導いて下さい。国立療養所の教会は、どの教会も礼拝出席者が減少し、真摯に礼拝を守り続けた兄弟姉妹も、主の御許(みもと)へ召されました。主よ、どうかこれからも小さな群れを守り、導いて下さい」。その後、私たち家族5人の名を一人一人声に出して祈って下さいました。その瞬間、御殿場の観光地から隔離された神山の高台にある国立駿河療養所の病室にも父なる神、子なる神、聖霊なる神からなる三位一体の神が臨在され、病室で共に祈りを合わせた私たちだけでなく、全国、全世界のキリスト者に向けて「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と、日々、励ましておられると心の底から信じることが出来たのです。 
 「父は喜んで神の国をくださる」とは、父なる神にとって極めて大切な御子キリストを私たちの救いのために世に遣わされたことです。その驚くべき恵みこそ、昨年12月25日に皆でお祝いしたクリスマスの喜びなのです。
 主の年2017年も一週間が経過しました。僅か一週間、しかし連日、様々な報道が続いております。そのような中、私たちの心は常に大きな不安、思い悩み、恐れにさらされていることは否定することが出来ません。だからこそ、祈り続けたい。「主よ、御国を来たらせたまえ」。そして、私たちに与えられたかけがえのない賜物を存分に用い、神の前に豊かな存在として歩んでいきたい。そう思うのです。
 たとえ、何の財産もなく、質素な食事と安価な衣服であっても、私たちには祈る手が与えられている。ハンセン病の方のみならず、私たちにもいつの日か手を組むことすら困難になる日が訪れます。それでも、心を神に向け、終わりの日まで祈り続けたい。「主よ、御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。そのとき食べるもの、飲むもの、みな加えて与えられるのです。この驚くべき恵みを今朝、しっかりと心に刻み、無理やり不安を払拭するのではなく、私たちに必要なことをご存じの主に安心して委ね、この一年も主と共に歩み続けたい。心から願うものであります。

(お祈りを致します)

 御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名前を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。
あなた様は今朝、預言者イザヤを通し力強く語って下さいました。「あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える」。主よ、私たちを今も、そしてこれからも見捨てないで下さい。どうか私たちを思い悩みの心から解放して下さい。主よ、『御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ』との祈りを忘れることなく日々祈り続ける者として下さい。お願い致します。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。主の年2017年が明け、一週間が過ぎました。僅か一週間でも、世界でもまた日本でも様々な報道がなされております。御子が思い悩むなと語って下さいました。しかし、どうしても私たちは様々な出来事を前にたじろぎます。どうか今、大きな悩みの中にある方々、これからどのように歩んでよいか何も見えない方々、ようやく落ち着いたと思ったところでまた地震がおこり、まだまだ不安の中にある方々に語って下さい。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神」と。一年の中で、もっとも寒い季節に入りました。体調の優れない方々、今朝も病室で孤独と闘っている方々、主の日の礼拝を慕っているにもかかわらず、今朝も礼拝に出席することの出来なかった方々に深い憐れみと聖霊を注ぎ続けて下さい。お願い致します。1月から3月は受験生にとって大切なときとなります。目標に向かい一所懸命に取り組んでいる方々にあなた様の御心がなりますようお祈り申し上げます。特に、東京神学大学や各神学校を受験し、伝道者として歩む決意が与えられ、今、祈りつつ備えている兄弟姉妹を支え導いて下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2017年1月1日 日本基督教団 東村山教会 第1主日・新年礼拝・聖餐式  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第36章26節、新約 ルカによる福音書 第12章13節~21節
説教題:「神の前に豊かに生きる」    
讃美歌:546、11、411、21-81、413、543

主の年2017年1月1日の朝を迎えました。東村山教会に連なる 愛する皆さんと共に、新年礼拝をまもることが許され、心より嬉しく思います。主の年2017年の皆さんの歩みが、主の祝福と慰めに満ちた歩みとなりますよう、心よりお祈り申し上げます。
さて、先週はクリスマス礼拝でしたので、ルカによる福音書第2章の御言葉に耳を傾けました。そして、今日から再び第12章に戻ります。早速、13節以下の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。 
群衆の一人が主イエスに言いました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。当時、ユダヤの定めでは、長男に大きな権限があり、父親が死ぬとほとんどの財産が長男に入ったようです。つまり、長男が貪欲で、自分の取り分以上の財産を取り、弟に渡してくれなかった。だから男は「先生、何とかしてください」と懇願した。しかし主は「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言われ、一同に「どんな貪欲(どんよく)にも注意を払い、用心しなさい」と言われたのです。
「貪欲(プレオネクシア)」とは、「より多く(プレオン)」「持つ(エコー)」ことを欲する心。つまり貪欲とは、自分が持っていないものを欲しがるだけでなく、もっと多く所有したい心。あり余るほど所有していながら、まだ欲しい!まだ欲しい!と思う心。それが貪欲です。
ドイツの改革者マルティン・ルターは、『卓上語録』に「貪欲」の罪について大変に厳しい語録を残しております。一つは、貴族の貪欲についての語録です。「穀物を農民からすべて買い占めて、隠匿(いんとく)する貴族の不誠実は目に余る。こうして穀物を差し押えて、故意に値段を暴騰(ぼうとう)させているが、まだ神の罰を受けない。貴族が市場の穀物を差し押える権力があろうか、貴族たちと話し合っている領主も例外ではない。これは人間のみの悪事である。神の刑罰が下されるならば、どうなるであろう。ああ、神様、この世はこのように悪が蔓延しているので、わたしはただ消えてなくなるように、飢えても喜んで死にたい」。
ルターの激しい嘆きが伝わります。さらに、「貪欲が信仰を無にする」という語録もあります。「誰もができるだけたくさんの金を集めようとしている。(中略)この世は神や隣人を蔑(ないがし)ろにし、金銭に仕えている。今の時代を見なさい。貴族、市民、農民は信仰をいかに足蹴(あしげ)にしているか、説教者を飢えで苦しめて追い払っているか。わたしたちの主のために家を建てようとしない。預言者ハガイ(ハガイ書1:5以下)とマラキ(マラキ書3:8以下)が神殿崇拝に何も捧げない軽蔑する者たちを脅したように、彼らの家も崩壊するであろう。それゆえ神は彼らには何も与えるべきではなく、飢えと戦争で滅ぼされるべきである。預言者の同じ箇所を見よ。どうして同じ事がこの時代に起こらないだろうか。この恐ろしい時代に、ソドムより大きな刑罰が襲うであろう」。
2017年は、1517年のルターの改革から500年という節目の年です。つまり、ルターの卓上語録は、今から約500年前も前の語録です。それにもかかわらず、まるで現代社会の貪欲の罪が厳しく指摘されたように感じます。新年早々、気持ちが滅入ります。しかし、これが貪欲の罪です。特に、「この世は神や隣人を蔑(ないがし)ろにし、金銭に仕えている。今の時代を見なさい。貴族、市民、農民は信仰をいかに足蹴(あしげ)にしているか」は、ルターの改革から約500年後の現代社会の罪を厳しく指摘された思いです。
 私たちは今朝、主イエス、そしてルターが指摘した貪欲を主の御前に心から悔い改めたい。そして、悔い改めた上で、主が語られたたとえに耳を傾けたい。
「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ(ルカによる福音書12:16~21)」。
神は、金持ちの男に対し、「愚かな者よ」と言われました。激しい言葉です。なぜ、愚かなのでしょう。今夜、男は死ぬ。夜には死ぬ男が、自分の懐を肥やして何の意味があるか?確かにその通りです。しかし神から「愚かな者よ」と言われなければならないほど、金持ちの男の行為はおかしな行為でしょうか?
主のたとえを繰り返し読む。確かに今は財産がある。しかし、農作物の収穫は天気頼み。凶作の年もあったかもしれない。だからこそ、金持ちの男は豊作の年に悩んだ。「このままでは折角の収穫も無駄になってしまう。そうだ。来年以降の蓄えも考え、もっと大きな倉を建て、穀物、財産を保存しよう。今までの努力は無駄ではなかった。これまで一所懸命に働いた。そろそろ休みたい。こんなにも豊作なのだから。思いっきり食べたり、飲んだりして楽しみたい」。
素直にたとえを読むと、金持ちの男の行為は「愚か者」と言われるほど悪くないように思われる。現代では当然の行為です。むしろ豊作の収穫をそのまま放置し、雀や烏に食べられ、無駄になるよりも賢く思われる。しかし、主なる神ははっきりと断言された。「愚かな者よ」。
私たちも、金持ちの男のように、退職金が入れば、確実な方法で蓄えたい。私も銀行員の頃、退職金が支給された顧客を訪問し、投資型年金を一所懸命にセールスしました。「将来、国の年金制度はわかりません。投資型年金は老後の良い備えになるはずです。ぜひ、退職金を投資型年金で運用して下さい!」と豊かな老後に向けて退職金の運用を熱心に勧めていたのです。
しかし、神様はそのような行為を厳しく戒める。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」。
私たちの頭は混乱します。今朝の御言葉は奥が深い。単純な御言葉ではない。私たちの生き方を揺さぶる、この世の常識を打ち破る、私たちキリスト者が、何を大切に歩むべきかを直球でビシッと投げ込んでくる御言葉だと思います。そこで、今朝の主のたとえを理解するには、21節の御言葉が大切です。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。
今朝のキーワードは、ずばり「神の前に豊かになる」だと思います。自分のために富を積んでも、今夜、お前は死ぬ。しかし、神の前に豊かになる者は、今夜のみならず、いつまでも死なないと主はおっしゃっているように感じます。では、神の前に豊かになるとは、どういうことでしょう?
東京神学大学の教授、また武蔵野教会で50年もの間、牧師として働かれた熊野義孝先生は、1970年2月22日の主日礼拝で、今朝の御言葉(ルカによる福音書第12章21節)の説教をしておられる。「では、『神に対して富む』とはいかなることであろうか。それは生命の起源、自分の人格が何によって根拠を得ているのか、本当の資本はどこにあるのか、ということをわきまえていることである。日々の生命の富、努力、自己反省の拠り所はどこにあるのか。人生の真の富はどこから供給されるのであろうか。(中略)私たちには本当の力や資本の供給源がある。(中略)私たちの真の知恵や真の資本の本源を知っている、ということは我々のみに許されている経験である」。
熊野先生は、神に対して富むとは、「本当の資本はどこにあるのか」ということをわきまえていることであり、キリスト者とは、真の知恵や真の資本の本源を知っており、それは我々のみに許されている経験であると説いておられます。
私たちは、信仰を告白し、洗礼を受けたことで「キリスト者」となりました。キリスト者は、自分の財産で自分の命を守る必要はありません。キリスト者の命は、主イエスの永遠の命と結ばれたからです。永遠の命を信じるのが私たちキリスト者。そして、永遠の命の源こそ、聖餐の食卓なのです。洗礼を受け、復活の主イエスに結び合わされた瞬間、私たちの罪の命は死に、新しい永遠の命が与えられた。その驚くべき恵みに与るのが聖餐の食卓です。主の裂かれた肉であるパンと、主の流された血潮である杯が喉を通り、私たちに入るとき、私たちは永遠の命に満たされます。美味しい料理やお酒を楽しむ食卓でなく、聖餐の食卓こそ、永遠の命、永遠の喜びに満たされる食卓なのです。
ヨハネによる福音書に、主イエスとサマリアの女の物語が記されております。主イエスはサマリアの女に言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠(えいえん)の命に至る水がわき出る(ヨハネによる福音書4:13~14)」。
今から与る聖餐の恵みも、永遠の命に至る水となって私たちを潤し続けます。そのような驚くべき聖餐の恵みに、主の年2017年の最初の日に与ることが許された。もしも今夜、命が取り上げられても、キリストに結ばれた私たちは狼狽える必要はありません。全財産を主に委ね、安心して死ぬことが出来る。つまり、私たちキリスト者は、神の前に豊かに生きることが出来るのです。
ルターの約500年前の指摘「この世は神や隣人を蔑(ないがし)ろにし、金銭に仕えている。今の時代を見なさい。貴族、市民、農民は信仰をいかに足蹴(あしげ)にしているか」をしっかりと心に刻みたい。私たちキリスト者は、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する群れです。金銭に仕えることなく、神と教会と隣人に仕える。また、神から与えられる一日一日を感謝し、誠実に信仰者として歩むのです。主の年2017年も、全てを主に委ね、安心して、神の前に豊かに歩み続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の年2017年の新年礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。主よ、どうか新しい年もあなた様を愛し、自分を愛するように隣人を愛する歩みへと導いて下さい。主よ、あなた様からたくさんの恵みを頂いている者として、自分の前に富を積む生活から、あなた様の前に豊かになる生活を大切にすることが出来ますようお導き下さい。主よ、ルターが500年も前に指摘されたように、私たちはあなた様や隣人を蔑(ないがし)ろにし、金銭の奴隷となってしまいました。私たちの罪を深く憐れんで下さい。主よ、新しい年も毎週の礼拝と毎月の聖餐を重んじる歩みへと導いて下さい。これらの貧しき願いと感謝、真の救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。主イエス・キリストの父なる神様、私たちは御霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに御霊を注ぎ続けて下さい。主の年2017年を迎えることが許されました。心より感謝申し上げます。けれども、昨年末に発生した糸魚川での大火災、また全国、全世界の被災地では、1月1日にもかかわらず、深い喪失感の中で希望を失い、立つことさえままならない方が大勢おられます。主よ、今も困難な生活を強いられている方々をねんごろに慰めて下さい。先週は、M兄の洗礼式、またS姉の転入会式があなた様の祝福の中で行われ、心より感謝申し上げます。どうかお二人の東村山教会での歩みを力強く導いて下さい。主の年2017年は、各国とも益々、自国のために富を積むことになりそうです。主よ、どうか今朝の御言葉のように、あなた様の前に豊かになるために、困難を抱えている国、また人々に寄り添い、せめてそれらの方々を覚えて祈り続けることが出来ますようお導き下さい。今朝も病のため、また様々な理由のため、新年の礼拝に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。どうか、それらの方々に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

2016年12月25日 日本基督教団 東村山教会 クリスマス礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第7章14節、新約 ルカによる福音書 第2章1節~7節
説教題:「飼い葉桶に寝かされた真の光」    
讃美歌:546、100、102、Ⅱ-1、107、542
主の年2016年のクリスマス礼拝を、東村山教会に招かれた 愛する皆さんと共に迎えることが許され、心より嬉しく思います。私たちは今、M兄の洗礼式、またS姉の転入会式に立ち会うことが許されました。洗礼式と転入会式の喜びが、クリスマスの喜びに加わり、本当に感謝です。説教後は聖餐の恵みに与り、聖歌隊の賛美に耳を傾けます。礼拝後は、イースターからクリスマス迄の受洗者、転入会者を囲んでの愛餐会。そして、午後2時から こどもクリスマスの恵みも用意されております。溢れる喜びに包まれるクリスマス当日の主日。同時に今日は、主の年2016年、最後の主日礼拝です。
すでに様々なメディアを通し、この一年を振り返る報道が続いております。そのような報道を見なくとも、私たちは主の年2016年が重い一年であったことを否定することが出来ません。毎日のように、「主よ、なぜですか!」と問わざるを得ない出来事が続きました。確かにリオデジャネイロオリンピックがあり、日本人の大活躍を楽しみました。けれども、そのような喜びも霞んでしまうほど、熊本、大分の大地震、海外での無差別テロ、知的障害者福祉施設での殺傷事件、先日の沖縄でのオスプレイ墜落事故、糸魚川(いといがわ)の大規模火災等、深い悲しみ、また大きな不安に襲われた一年でした。私たちの東村山教会も、2月26日に節目の創立60周年を迎え、共にお祝いをしたのですが、長く東村山教会を支えて下さったS姉とI兄が召され、深い悲しみに包まれました。だからこそ、私たちに与えられたクリスマスの御言葉に集中したいと思います。                           
今朝の御言葉、特に、ルカによる福音書第2章6節から7節の御言葉は、心に深く響きます。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである(ルカ2:6~7)」。          
7節に、「飼い葉桶に寝かせた」とあり、続いて「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあるので、馬小屋を想像します。「宿屋」とありますが、当時、宿泊を商売とする専門の施設があったことは考えにくい。普通の民家の一室を借り、宿泊させてもらう、そうした状況を考えるのが自然です。実際、口語訳聖書は「客間」と訳していました。いずれにしても御子は、宿屋でも、客間でもなく、馬小屋で生まれたのです。
御子が馬小屋で生まれたのは、神様の強い御意志があったからに違いありません。馬小屋の飼い葉桶は、家畜用のえさが入っている容器です。家畜が使用している以上、清潔とは言えません。しかし、家畜にも人にも踏まれることのない安全な場所であることも確かです。御子は、清潔ではないが、安全な場所に寝かされました。ここにこそ、神様の強い御意志があります。
20世紀最大の神学者カール・バルトは、今から58年前、1958年12月25日のクリスマスにバーゼル刑務所でルカ福音書第2章7節の説教をしております。説教題は、『われらと共にとどまりたもう』。説教の最後、バルトはこう語る。「イエス・キリストは私たちのもとに立ち寄りたもう、いやそれどころか、このお方は、私たちすべての者のところに立ち寄りたもう。然り、有難いことに、この暗い場所、私たちの生活のこのような飼い葉桶、このような馬小屋にも立ち寄りたもう。そのようなところで、私たちはこのお方を必要としており、まさにそのようなところで、このお方は私たちを、私たちすべてのものを必要となさるのである。そこにおいて、私たちはこのお方に対し、まさしく正しい者となる。(中略)そこにおいて、私たちは牛やロバと全く近くにいることを恥じることはない!まさにそのような場所で、このお方は、私たちすべての者をしっかりと捕えたもう。このような暗い場所で、このお方は、私たちと共にあろうとされる。私たちはこのお方と聖餐を共にすることをゆるされる」。
スイスのバーゼル刑務所に収容されている人々に、クリスマスの真の喜びを語ったバルトは、説教の後に慰めに満ちた祈りを献げます。その祈りの全文を紹介したいのですが、長くなりますので、冒頭の祈りだけ紹介させて頂きます。「主なる私たちの神!たとい、私たちが不安をいだくようなことがあっても、どうか絶望におちいることがないようにしてください!たとい、私たちが失望するようなことがあっても、ひどく失望することがないようにしてください!たとい、私たちが倒れても、倒れたままにしておかないでください!たとい、私たちの理解や能力が終りになっても、どうか滅びることがないようにして ください!いや、そのような場合にも、あなたが、心へりくだり、砕けたる魂、御言葉を恐れる者に お約束くださった、あなたの近づきと御愛のあとをたどり行かせてください。そのような状態にあるもの、すべての人間のもとに、あなたの愛する御子は来られました。私たちすべての者が、そのような状態でありますので、御子は馬小屋に生まれ、十字架に死にたまいました。主よ、私たちすべてのものを目覚めさせ、私たちすべてのものが、このことを認識し、このことを告白するように、心を開かせてください!」。
 心に深く響く祈りです。特に、最初の祈り「主なる私たちの神!たとい、私たちが不安をいだくようなことがあっても、どうか絶望におちいることがないようにしてください!たとい、私たちが失望するようなことがあっても、ひどく失望することがないようにしてください!たとい、私たちが倒れても、倒れたままにしておかないでください!」は、静かな祈りというより、魂の叫びに思えるほど迫力があります。
 私たちが不安を抱き、絶望に陥り、失望するようなことがあり、倒れるときとは、どのようなときでしょう?それは、愛する両親、愛する伴侶、愛する子、愛する兄弟姉妹が召されたときだと思います。実は、聖餐式の直後に讃美する讃美歌107番「まぶねのかたえに」は、そうした深い絶望を経験した作曲家、また作詞家によって生まれた讃美歌なのです
讃美歌107番「まぶねのかたえに」を作曲したヨハン・セバスティアン・バッハは、常に「死」を意識して、その生涯を歩み続けた人でした。バッハは、6歳のときに次兄を亡くし、9歳のときに母親、続けて父親を亡くしました。深い悲しみの中でバッハは、幼少の頃から「死」を強く意識するようになったのです。そのバッハが作曲した讃美歌の一つが、107番「まぶねのかたえに」です。また、107番を作詞したパウル・ゲルハルトは、ルター派教会の牧師であると同時に、ドイツ、いや世界で最も優れた讃美歌作者と評する人もいるほどです。ゲルハルトも、バッハと同じように、肉親の死を繰り返し経験しました。48歳になって結婚したゲルハルトに、次々と悲しみが襲ったのです。結婚の翌年に生まれた長女は1歳にならないうちに死亡、次女と長男も続いて亡くなり、次男一人が生き残ったというのです。その上、結婚して13年後に妻が45歳で帰らぬ人となりました。このような深い悲しみの中にあっても、いや、深い悲しみの中にあったからこそ、ひたすら神に信頼し、御子キリストによる深い慰めを賛美する讃美歌136番「血しおしたたる」、讃美歌107番「まぶねのかたえに」が生まれたのです。

私たちの日々の生活も、突然の悲しみ、突然の苦しみに襲われることがあります。そして私たちの愛する家族もいつの日か必ず召される。またこれも当然ですが、私たちも遅かれ、早かれ、全員が召されるのです。しかし、私たちは知っています。主イエスが語った大切な御言葉を。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネによる福音書3:16)」。

そうです。神から御子が私たちの世に与えられた。しかも、刺すような痛み、こびりついた汚れ、苦難のしるしである飼い葉桶に無力な赤子として生まれて下さった。無力な御子を私の救い主と信仰を告白し、洗礼を受けると、本当に私たちは滅びることなく、永遠の命を得ることが許されるのです。

 父親から財産を譲り受け、放蕩の限りを尽くし、その結果、全財産を失った放蕩息子は、汚れの象徴である豚の食べるいなご豆を泥まみれの豚に混じってガツガツと食べました。これが私たちです。本当に惨めで、どうしようもない私たち。深い悲しみに襲われると、もうダメだ!とうろたえる。しかし、そうした私たちに真の救い主が与えられた。身体も心もカラカラに渇き、飢え死にしそうな私たち、ビュー、ビューと隙間風が吹く私たちの心に、御子は真の光として、真の希望として、永遠の命として生まれて下さったのです。

 バーゼル刑務所に収容された囚人は、バルトが語った説教を通して、御子の御降誕に深い喜びと慰めを受け、犯した罪を悔い改めました。また、バッハやゲルハルトを襲った悲しみを癒したのも、御子の御降誕であり、御子が十字架で死なれ、三日目の朝に復活し、いつの日か再臨される真の希望だったのです。

 只今から聖餐の恵みに与ります。たった今、明確に信仰を告白し、洗礼をお受けになられたM兄にとって、初めての聖餐の恵みです。聖餐の恵みに与った瞬間、御子が約束して下さった福音が成就します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。どうか、クリスマスの喜びが、永遠の喜びとして皆さんお一人お一人の心に深く刻まれますように。そして、まだ聖餐の恵みに与ることの出来ない方々がいつの日か飼い葉桶に寝かされた御子 主イエスを、私の救い主、私の慰め主と信仰を告白し、永遠の命が与えられますよう心よりお祈り申し上げます。

(お祈りを致します)

御在天の主イエス・キリストの父なる神様、今朝も私たちの名を呼んで下さり、喜びのクリスマス礼拝にお招き下さり、心より感謝を申し上げます。主よ、今、愛する者を失い、深い悲しみの中にある方々、犯してしまった罪にうなだれ、死んでしまいたい!と思いつめている方々、全財産を突然の火災で失い、茫然としている方々に御子の御降誕の慰めを注いで下さい。私たちも、突然の試練に襲われることがあります。どうかそのようなときこそ、御子の御降誕の深い意味を心に刻み、御子の十字架と復活、そして再臨を信じる者として下さい。どうか、御子の御降誕の祝福が全世界の人々に溢れるほどに注がれますよう、心よりお祈り申し上げます。これらの貧しき願いと感謝とを、インマヌエルの主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。

御在天の主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も私たちに聖霊を注いで下さい。たった今、M兄、S姉が神の家族として加えられ、心より感謝申し上げます。どうか共に祈り、励まし合って歩むものとして下さい。主の年2016年も様々な悲しみが私たちを襲いました。世界でも、日本でも、そして私たちにも厳しい試練が襲いました。主よ、どうか今も深い悲しみの中にある方々、厳しい試練の中にある方々に慰めを注いで下さい。愛する家族を失った方々、病におかされている方々、心身の衰えを強く感じ、生きる希望を失っている方々に、御子の御降誕の喜びを届けて下さい。お願い致します。全世界の被災地を深く憐れんで下さい。また、糸魚川での大火災で財産を失った方々にあなた様が寄り添って下さいますようお願い申し上げます。今朝も、病のため、また様々な理由のため、クリスマス礼拝にもかかわらず、どうしても教会に通うことの出来ない兄弟姉妹が大勢おられます。どうか、それらの方々の上にも私たちと等しいクリスマスの祝福をお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。



2016年12月24日(土)日本基督教団 東村山教会 クリスマス讃美夕礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:新約 ルカによる福音書 第2章10節~12節
説教題:「今日、あなたの救い主が お生まれになった」    
讃美歌:98、103、106、112、

 私たちは今夕、御子のご降誕を喜び、主なる神を高らかに賛美しております。すでに讃美歌98番「あめにはさかえ」、103番「牧人ひつじを」、106番「あら野のはてに」を賛美致しました。説教の後は、聖歌隊の賛美に耳を傾け、最後に、讃美歌112番「諸人こぞりて」を賛美致します。
 皆さんも讃美歌は大好きだと思います。小さい頃から教会に通っている方は、讃美歌の思い出は山のようにあるはずです。たとえ、大人になってから教会に通い、洗礼を受けた方であっても、「この讃美歌は、私の心に深く響いた!」という経験はあるはずです。
 私は、小学1年から教会に通うようになりました。また中学、高校、大学とミッションで学ぶことが許されたので、平日も讃美歌を歌い続けた。つまり、私にとって讃美歌は、人生そのものである!と感じます。特に、クリスマスの讃美歌を通して感じるのは、クリスマスの喜びは、約2000年前の出来事であると同時に、私のための出来事であるという思いです。罪深い私のために、主イエスが生まれて下さった。だから、今年もクリスマスの出来事を心から神に感謝し、心から神を喜び、心から神を賛美するのです。
 今、司式者に朗読して頂いたのはクリスマス物語の中でも中心になる御言葉です。「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである』」。野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いに、主の天使が語った喜びの宣言です。同時に、クリスマス讃美夕礼拝に招かれた私たち一人一人に与えられた大きな喜びでもある。
スイスの改革者カルヴァンは、「民全体に与えられる大きな喜び」について、次のように語ります。「神の与える福音(大きな喜び)は、単に羊飼いたちだけに与えられるものではなく、イスラエルの民全体のものになり、そしてさらには、イスラエルの民全体だけではなくすべての民のものになるのである」。
カルヴァンが解釈したように、私たちキリスト者は、羊飼いに語られた天使の宣言を、2016年12月24日の夜、日本の東村山市にある東村山教会に招かれた私に対して告げられた大きな喜びであると本気で信じているのです。初めて教会にいらした方は、不思議に思うはずです。だって、聖書に書かれていることは、約2000年前の出来事である。しかも、主の天使は羊飼いたちに宣言している。それでも、羊飼いを含むイスラエルの民全体への宣言ならば理解出来る。けれども、聖書が書かれた時代から約2000年後の私たちに、イスラエルから遠く離れた、インターネットもない時代に、主の天使が本当に日本で生活している私たちを意識して宣言しておられるのか?と疑問に思って当然だと思います。だからこそ私は、クリスマス讃美夕礼拝の説教題を「今日、あなたがたの救い主がお生まれになった」ではなく、「今日、あなたの救い主がお生まれになった」としたのです。
 そうです。御子がお生まれになった大きな喜びは、あなたの喜びなのです。主イエスは、絶対に過ちを犯さず、いつもニコニコし、誰からも非難されず、品行方正な者の救い主ではなく、ちょっとしたことで落ち込み、ちょっとしたことで「もう嫌!」とブチ切れ、全てが嫌になってしまう私たちのための救い主なのです。今から2000年以上も前の、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった主イエス・キリストの御降誕が、今の日本に生かされている私のための出来事であり、私のためだからこそ、愛するあの人のためであり、少し苦手なあの人のためであり、もう二度と顔も見たくないあの人のためでもあるのです。
皆さんの中に、もしも、勇気を出して初めて教会にいらした方がおられたら、本当に嬉しいことです。「クリスマスイブの夜だから、教会に行ってみよう!」と思い、教会の門を叩いて下さった皆さんを心から歓迎致します。だからこそ、申し上げたいのは、主イエスがお生まれになった喜びは、今日だけの喜びではないということです。また、特別な才能のある人だけの喜びではなく、全ての人のための喜びであり、今までも、今も、そしてこれからも永遠に続く喜びであり、希望であり、私たちのたった一度の地上での歩みが本当に意味のある、本当に喜べる、本当に価値のある歩みとなり、さらに地上での歩みが終わってからも永遠に喜べる決定的な喜びなのです。
 ところで、今週の火曜日に、ある讃美歌との出会いが与えられました。その日の午後、神様の深い憐れみにより、青山学院初等部のクリスマス讃美礼拝で説教の機会が与えられたのです。
初等部の皆さんが御子の御降誕を喜び、心を込めて主を賛美し、ハンドベルを美しく奏で、一所懸命にページェントを演じた姿は、大きな励ましとなりました。讃美礼拝では、たくさんの讃美歌が賛美されましたが、49歳になって、出会いが与えられた讃美歌があったのです。題名は、「かみのお子のイエス様は」。歌詞を紹介させて頂きます。1番、「神のお子の イエス様は 眠りたもう おとなしく 飼い葉おけの中にても 打たぬ藁(わら)の上にても」。2番、「馬が鳴いて 目が覚めて 笑いたもう イェス様よ 明日(あした)の朝 起きるまで 床のそばに おりたまえ」。説教を終えた私は、緊張から解放され、「かみのお子のイエス様は」を賛美する1、2年生の歌声に大いに癒され、励まされました。
「かみのお子のイエス様は」は1903年(明治36年)の讃美歌に417番として収録されていたようです。けれども、私たちが用いている1954年(昭和29年)の讃美歌からは削除されています。それでも、キリスト教保育連盟が発行している「幼児さんびか」は今も「さんびか30番」として収録し、青山学院初等部のクリスマス讃美礼拝では、1、2年生が賛美しているのです。
「かみのお子のイエス様は」の賛美を伺う前、初等部の皆さんにこのようなことを私は語りました。「ヨハネによる福音書には、大切な御言葉があります。『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠(えいえん)の命を得(え)るためである(ヨハネ福音書3:16)』。イエス様が生まれて下さった理由。それは、イエス様を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため。だから皆さんにはいつの日か、『イエス様を私の救い主と信じます』と信仰告白し、洗礼を受けて欲しい」と語ったのです。但し、これだけでは数分で説教が終わってしまうので、私の小学生の頃の思い出も語らせて頂きました。その中で毎晩、私は二段ベッドの上で天井を見ながら泣いていたと伝えたのです。なぜ泣いたか。死が怖いから。死んだらどうなるか不安になるとポロポロと泣きたくなる。それほど夜は闇であり、闇は死であり、死は恐れとなり、恐れの心にグルグルと吸い込まれると考えていたのです。勿論、小学生ですから、どんなに夜遅くまで泣いていても、日中の疲れでいつの間にか寝ていたわけですが、それでも高学年になっても、夜は怖く、死も怖く、泣いていたのです。そのようなことを初等部の皆さんに伝えたあと、「確かに肉体の死を避けることは出来ない。でも、イエス様を私の救い主と信仰を告白し、洗礼を受けると、一人も滅びないで、復活のイエス様のように永遠の命を与えられる」と語ったのです。
この説教の後、1、2年生が「かみのお子のイエス様は」を賛美した。特に2番の歌詞「イェス様よ 明日(あした)の朝 起きるまで 床のそばに おりたまえ」は、私の心にグッと響いたのです。子どもが夜を恐れるのは当然です。しかし、大人になっても、また年齢を重ねると、夜が恐くなり、死が恐くなる。そして、こんなにも一所懸命に歩んできた私の歩みはいったい何だったのか?と途方に暮れることがあるのが私たちの歩みです。
しかし、だからこそ私たちも2番の歌詞のように、主イエスに祈り続けたい。「イェス様よ 明日(あした)の朝 起きるまで 床のそばに おりたまえ」と。そのとき、私たちに永遠の命を約束された主イエスが本当に私たちの床に、私たちのベッドに共に寝て下さり、共に守って下さり、共に導いて下さるのです。
讃美歌研究の第一人者、大塚 野百合(おおつか・のゆり)先生がキリスト教保育連盟の冊子に「さんびかノススメ」を記しておられます。そこに「かみのおこのイエス様は」を取り上げ、原曲の歌詞を翻訳しておられます。そこには原曲の歌詞がきちんと訳されております。2番、「牛がないてイエスさまは目をさまされますが、お泣きになりません。イエスさま、あなたを愛しています。朝がくるまで、お空から私を見守り、揺りかごのそばにいてください」。
大塚先生の翻訳は、原曲の「I love thee,Lord Jesus」がきちんと訳されています。讃美歌では「イエスさま、あなたを愛しています」は訳されておりませんが、この「イエスさま、あなたを愛しています」こそ、子どもの信仰告白だと思うのです。私たちも祈り続けたい。「主よ、あなたを信じます。だから、あなたも私を守り、導き、朝がくるまで、いや、朝が来ても、昼が来ても、そしてまた夜が来ても、そして死の床まで十字架と復活と再臨のあなたが私といつも共にいて下さい!」と。
大塚先生は、「さんびかノススメ」で、『朝の祈り 夜の祈り』の著者 ジョン・ベイリー牧師の言葉を紹介しておられます。ベイリー牧師は、スコットランドにあるエジンバラ大学の神学部長も担われた神学者であると同時に、スコットランドにおける女王付牧師として、スコットランド国の霊的指導者であった方です。ベイリー牧師は「主イエス・キリストにあらわれた神の愛を思いめぐらしながら眠りにつくこと」がキリスト者にとって非常に大事であると述べつつ、旧約聖書 詩編 第127篇2節の御言葉、「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」を紹介しておられます。
 本当にそうだな!と思います。青山学院初等部での説教の機会が与えられ、私の小さい頃の心を思い起こした。同時に、牧師として働いている私にとって、今も私の心の闇を感じ、時代の闇を感じるとき、夜、不安になることがある。死を恐れることもある。だからこそ、夜でも、朝でも、昼でも、どんなときも主イエスに祈り続けたい。「主よ、信じます。あなたは私の救い主です。だから、朝がくるまで、昼になっても、夜になっても、死の床になっても、私を見守り、永遠の命を約束して下さい。主よ、私はあなたを愛し、信じ続けます」。
 今日、お集まりに皆さん、お一人お一人の上に、インマヌエルの主イエスの祝福と慰めが溢れるほどに注がれますよう心よりお祈り申し上げます。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる神様、今夕も私たちの名を親しく呼んで下さり、クリスマス讃美夕礼拝にお招き下さり、心より感謝致します。私たちの世には今も深い闇があります。そして、私たちの心にも深い闇があることをあなた様はご存知であられます。だからこそ、あなた様は今日、私たちのために救い主、イエス・キリストを与えて下さいましたから、重ねて感謝致します。どうか、どんなに辛い夜も、どんなに厳しい試練のときも、あなた様が独り子を世に遣わして下さった真の愛を信じ、本気であなた様を信じ、本気であなた様に全てを委ね、与えられた地上での命を歩む者として下さい。今宵も真の光を知らず世を彷徨っている方々、大切に守り続けたものを火災により全て失い、途方に暮れている方々、愛する家族をテロや交通事故、また震災等で失い、涙も枯れ、呆然としている方々に聖霊と慰めを溢れるほどに注ぎ続けて下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、インマヌエルの主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げ致します。アーメン。


2016年12月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第37章1節〜14節、新約 ルカによる福音書 第12章8節~12節
説教題:「聖霊が教えてくださる」    
讃美歌:546、97、177、498、541

 私たちは、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神からなる三位一体の神を信じる者です。このような御言葉があります。「天使は答えた。『聖霊があなたに降(くだ)り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる』(ルカによる福音書1:35)」。
 天使ガブリエルがおとめマリアに言われた極めて大切な宣言です。マリアは言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。マリアはガブリエルの宣言に戸惑いつつ、最後は全てを神に委ね、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、聖霊の働きを信じたのです。マリアは祈りました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後(のち)、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名(みな)は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます(ルカによる福音書1:47〜50)」。
 私たちも大切にしたい祈りです。マリアは聖霊論について詳しく知ることはなかったかもしれません。しかし、聖霊の働きを信じ、力ある方、三位一体の神が、「わたしに偉大なことをなさいましたから」と信仰を告白し、主の御業を畏れつつ、神を喜びたたえたのです。
 父なる神、子なる神、聖霊なる神からなる三位一体の神は、身分の低い、弱さを抱えている私にも、いや、身分の低い、弱さを抱えている私だからこそ、聖霊が働いて下さると素直に信じる者に、聖霊を注ぎ、歩むべき道、語るべき言葉を備えて下さるのです。
 反対に、聖霊を疑い、聖霊の働きに身を委ねることを拒絶する者に対して、主イエスは語るのです。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない(ルカによる福音書12:10)」。今朝の御言葉の中で、特に大切な御言葉だと思います。同時に、少しわかりにくい言葉にも感じます。そこで、山浦玄嗣(はるづぐ)先生の翻訳を紹介させて頂きます。
 「人の子であるこの俺に悪口を言う者については堪忍(かんにん)しよう。水にも流そう。しかし、自分の心に神さまの思いを運ぶ 尊(たっと)き息吹(いぶき)が気高(けだか)き志(こころざし)となって吹いて来るのをわかっていながら、これに刃(は)向かって悪態(あくたい)をつく者は、いつでもそれが気になって雁字搦(がんじがら)めの 惨(みじ)めなことになって
しまうぞ」。主イエスの御心が伝わる良い翻訳だと思います。
 改めて、10節の主イエスの御言葉を直訳すると、こうなります。「そして、すべて 人の子に逆らって言葉を言う者は、彼に対して赦される。しかし、聖霊に逆らって、けがした者に対しては赦されない」。心に深く残る御言葉です。
 新共同訳は「冒瀆する者」と訳し、山浦先生は「刃向かって悪態をつく者」と訳しているのが「ブラスフェーメオー」というギリシア語です。
 ギリシア語の事典には、こう書いてありました。「赦し得ない罪とは、聖霊の力によって生じたイエスの奇跡を悪魔的なものとして誹謗する点に存(そん)する。即ち、地上的イエスを拒絶した者は赦しを得られるが、しかし聖霊降下後の時期に、使徒たちのキリスト宣教に顕現する聖霊に逆らう者はそれを得ることができない」。なるほどと思いました。まさに主イエスが語られたように、聖霊の働きを悪魔的なものとして冒瀆し、使徒の働きを支えた聖霊を軽視する者は赦されないことが「ブラスフェーメオー」という言葉から伝わります。
 聖霊の働きは、神様の働きです。福音書記者ルカがルカ福音書の続編として記した使徒言行録には、「聖霊」という言葉が繰り返し登場します。その意味でもルカは、「聖霊」の働きを重んじたのです。ルカは、確信していました。「主イエスの福音を語り続ける使徒の働きは、すべて聖霊の御業である」と。
ルカは、主イエスの大切な御言葉を記しております。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる(ルカによる福音書11:13)」。聖霊は、父なる神が、子どもである私たちに与えてくださる最良の賜物なのです。
 復活された主イエスも天に上げられる直前、聖霊の働きを弟子たちに伝えておられます。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい(ルカによる福音書24:49)」。「父が約束されたもの」、「高い所からの力」は「聖霊」を示していることは間違いありません。
 実際、エルサレムにとどまっていた弟子たちに聖霊が降った。その時、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたのです。すると、かつて主イエスに対し「わたしはあの人を知らない」と三度も主イエスとの関係を否定したペトロが、主イエスから罪を赦された恵みを、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の9時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕(しもべ)や はしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する』(使徒言行録2:14〜18)。悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです(使徒言行録2:38〜39)」。
 主イエスに対し、「わたしはあの人を知らない」と震えながら叫んだペトロではありません。聖霊を溢れるほどに注がれ、聖霊の力に満たされたペトロは、かつて主イエスが「何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」と約束されたように、聖霊降臨の直後、主の十字架と復活によって、主を否んだ罪が赦された恵みと、聖霊に満たされた喜びを、霊に導かれるままに証ししたのです。その結果、ペトロが語る福音を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わったのです。まさに、聖霊の驚くべき力です。
 その事実を知った私たちが「聖霊を冒瀆する」ことは赦されません。おとめマリアは、人生経験もまだまだだったはずです。現代では中学2年、あるいは中学3年の少女だったかもしれません。それが突然、聖霊の働きにより身重の母となった。本当に大変な戸惑いであったことは間違いありません。それでもマリアは神様の招き、選びを素直に信じた。そして聖霊の働きに身を委ねた。その意味で、私たちはおとめマリアの信仰を大切にしたい。聖霊を冒瀆する者ではなく、聖霊の働きを素直に信じ、聖霊の働きに身を委ね、言うべきこと、祈るべきこと、その全てを聖霊がそのときに教えて下さると信じ、与えられた地上での生涯を誠実に歩む。このことを主は、私たちに求めておられるのです。
福音書記者ルカが、ルカ福音書を記した後に続編として記した使徒言行録に祈りつつ記したことは、神の霊である聖霊がどんなに深く弟子たちを捕らえ、何をどう弁明しようか、と思い煩うことなく、勇気ある証し人として御言葉を語り得るように、弟子たちを生かし切って下さった事実です。
 東京神学大学を卒業、通い慣れた鎌倉の母教会を去り、道東 釧路の地に派遣された私は、「何を、どのように釧路に住む人々に語り続ければよいのか」と毎週のように不安になりました。その不安は、東村山教会に遣わされた今でもあります。土曜の夜、本当に不安になる。与えられた御言葉をどのように語ることが主の御心なのか?今朝、初めて教会に招かれた方にも伝わる言葉とは、どのような言葉なのか?そのようなとき、釧路の春採教会で最初から最後まで語ることが許された使徒言行録に記された数々の聖霊の働きを思い起こします。特に土曜の夜に心に刻むのは、パウロがアテネ伝道の挫折を経て、コリントへ行ったとき、語り続けることに不安を覚えた夜に、幻の中で主が語られた言葉です。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ(使徒言行録18:9〜10)」。
 私たちキリスト者であっても様々な恐れに心が支配され、ペトロのように、「主イエスを知らない」と叫んでしまうことがあります。パウロにいたっては、主イエスを信じるものを徹底的に迫害していた。しかし、ペトロもパウロも、そして私たちも、主イエスの十字架と復活により、皆赦されるのです。しかも主は、「何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」。だから「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」と私たちを日々、励まして下さるのです。
 いよいよ、来週の主日はクリスマス礼拝です。また今週の土曜はクリスマス讃美夕礼拝が行われます。どのような言葉で家族を招くべきか心配かもしれません。しかし、言うべきことは、聖霊がそのときに教えて下さいます。だから、私たちは愛する家族に、不安の中にいる方々に、悲しみの中にある方々に「主イエス・キリストの御降誕を一緒にお祝いして頂きたい!」と声をかけたい。そのとき、聖霊が働き、驚くべき御業がなされるのです。来週は、一人の兄弟の洗礼入会式、また一人の姉妹の転入会式が行われます。聖餐の恵みにも与る。さらに午後は、愛餐会と子どもクリスマス会が行われます。子どもクリスマスでは、恒例のページェントもあります。マリアは語り、心を込めて祈ります。「お言葉どおり、この身に成りますように。わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後(のち)、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名(みな)は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」。アドベント第4の主日も、主なる神を畏れつつ、御子の御降誕を厳かに待ち続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名前を親しく呼んで下さり、第4アドベント礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。
私たちは不安になると、主イエスさえ知らないと叫んでしまいます。しかし、そのような私たちの罪を赦し、永遠の命を約束して下さるためにあなた様は、御子を世にお遣わし下さいましたから、重ねて感謝申し上げます。主よ、聖霊の働きを信じさせて下さい。そして今、混迷の世にどうか聖霊を溢れるほどに注ぎ続けて下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、真の救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて
下さい。世界の情勢が混迷しております。難民がおります。被災地では困難な生活を強いられている方々がおられます。どうか主よ、それらの方々を励まし続けて下さい。そして今、苦しみの中にある方々、悲しみの中にある方々に真の救い主である御子の御降誕の喜びを伝える勇気をお与え下さい。どうか一人でも多くの方々を教会へと導いて下さい。来週のクリスマス礼拝ではMさんの洗礼入会式、S姉の転入会式が行われます。どうか聖霊を注ぎ、明確に信仰を、また転入の決意を告白することが出来ますようお導き下さい。今朝も病のため、また様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。どうかそれらの方々に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。
キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。
天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2016年12月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第40章21節〜26節、新約 ルカによる福音書 第12章4節~7節
説教題:「だから、何も恐れることはない」    
讃美歌:546、96、284、385、540、Ⅱ-167

主イエスは、愛する弟子たちに「友人であるあなたがた」と言われました。主が、弟子たちを「友」と呼ぶのは、ヨハネ福音書第15章(14、15節)にありますが、マタイ、マルコ、ルカ福音書では、今朝のルカ福音書第12章4節のみです。「友人」ですから、主イエスの弟子たちへの愛がいかに深いかがわかります。
私たちは、御子イエス・キリストを「主イエス」と呼びます。主イエスを「友」、あるいは「友人」と呼ぶのは「畏れ多い」と思う。けれども、主イエスは弟子たちに加え、信仰を告白し、洗礼を受けた私たちキリスト者を「友」と呼んで下さる。他者の評価にビクビクし、神様から与えられた賜物を信頼することができず、「私はこのままで良いのだろうか」と真剣に悩み、心が暗闇に覆われてしまう私たちに、主イエスは「友人であるあなた」と親しく語りかけて下さるのです。
 さて、今朝の御言葉(4節から7節)には、翻訳では一回省かれていますが、五回も「恐れるφόβος(フォボス)」が語られます。4節で一回。「恐れてはならないφοβηθητε(フォベィセィテ)」。次の5節を直訳すると、「私はだれを恐れるべきかを教えよう。殺した後(あと)に、地獄に投げ込む権威を持っている方を恐れなさい。そうだ、言っておく。この方を恐れなさい」となり、三回も「恐れてはならないφοβηθητε(フォベィセィテ)」が語られる。最後7節で一回。「恐れるなφοβεισθε(フォベイッセ)」と語られる。以上、主は五回も「恐れ」について繰り返し語られるのです。
 なぜ、主イエスは五回も「恐れ」について語られたのでしょうか?それは、弟子たちが「恐れ」に心を奪われていたからです。では、弟子たちが「恐れ」に心を奪われた理由は何でしょうか?
 主イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「不幸」でなく、「幸い」に生きることを願い「あなたたちは不幸だ」と厳しく裁きました。けれども、主イエスの愛は彼らに通じず、激しい敵意と憎しみを買うことになった。そのような主イエスとファリサイ派や律法学者たちとの対立を通して、弟子たちは「恐れ」に心を奪われてしまった。「いつの日か、主イエスと共にいる我々も攻撃されるに違いない。その結果、主イエスのみならず、私たちも殺される」。 
だからこそ、主は語られたのです。「体を殺しても、その後(のち)、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後(あと)で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。
 主が語られたのは、こういうことだと思います。「友人のあなたがたに言っておく。体が死んだ後(のち)、あなたがたは必ず、神の裁きに遭わねばならない。しかし、友人であるあなたがたは、私への信仰を告白し、洗礼を受けた。その瞬間、あなたがたの名は天の名簿に刻まれたのだ。だから、恐れることはない。恐れるどころか、大いに喜べる。他者を恐れるのではなく、神を畏れなさい。そして、大いに神を喜びなさい」。
来週の御言葉ですが、主イエスは「人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」と言われます。「人の子」とは、主イエスご自身を意味する言葉です。主イエスが「神よ、これがわたしの仲間、友人です」と語ってくださる時が必ず来ると宣言されたのです。
主イエスの再臨のときは分かりません。主イエスご自身も、再臨の日がいつなのか、私も知らないと言われました。しかし主は、必ず来てくださるのです。
主イエス・キリストは十字架で死なれ、三日目の朝に復活されました。復活と再臨の主がおっしゃる。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」。
アサリオンは、ローマの貨幣の最小単位です。一アサリオンは一デナリオン(労働者の一日の平均給与)の16分の1。今の日本だと約五百円。つまり、二アサリオンは千円です。千円で五羽の雀が売られているのですから、一羽の雀は二百円。当時、雀は庶民には貴重なタンパク源でした。網にかけて捕まえ、殺して売っていたのです。雀の一羽、一羽の違いなど私たちには分かりません。それなのに、主は宣言された。「一羽二百円の雀さえ、神がお忘れになるようなことはない」。これは、大きな福音です。牧師である私が強がりで語っているのではありません。復活と再臨の主イエスが宣言して下さった。「その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。
 主イエスは、「友人であるあなたがた」と弟子たちに親しく語りかけました。そこには、主イエスの深い愛と強い覚悟があります。主の覚悟、それは「友人であるあなたがたのために十字架で死ぬ」という覚悟です。「私は、父なる神から世に遣わされた。十字架で死に、三日目に復活するために。あなたがたが他者を恐れるのではなく、創り主なる神を畏れるために。神への畏れは、ただビクビクする恐れではない。積極的に神を畏れる。安心して神を畏れる。そのために私はあなたがたより先に神への畏れを経験するのだ。あのゲツセマネで。
 主イエスは、逮捕される直前、ゲツセマネに行かれました。主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われましたが、ひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われたのです。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」。主は少し進んで行って地面にひれ伏し「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈り、こう言われたのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心(みこころ)に適(かな)うことが行われますように(マルコ福音書14:36)」。
 私たちは、主イエスの神への畏れ、また祈りによって常に守られ、支えられ、生かされています。主は、私たちが経験するすべての恐れ、もだえ、悲しみ、痛みを十字架の上で経験されたのです。「友人であるあなたがたに言っておく」と語りかけ、「恐れるな」と励まして下さった主イエス。その主が、十字架の死の直前、ひどく恐れてもだえ始め、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と弟子たちに語り、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られた。
 けれども、主イエスは友人である私たちへの愛を貫いて下さった。ご自分の命を犠牲にしてまで、私たちを死の恐れ、苦しみ、痛み、もだえから解放することを優先して下さったのです。そのような驚くべき恵みを心に深く刻むとき、私たちは他者の評価、他者の言葉を恐れるのではなく、創り主なる神を畏れ、主イエス・キリストを畏れるのは当然だと思うのです。
 先週の月曜日、東村山教会の忠実な教会員として歩まれたI兄弟が召されました。そして水曜日にこの礼拝堂で葬りの式が行われたのです。昨年6月にI兄が召され司式を担わせて頂いてから、私にとって二度目の司式となりました。葬りの式を通して感じたのは、どんなに長生きをしても、私たちは必ず死ぬということです。死の厳しさを痛感した。
 I兄、昨年のI兄、それぞれの葬儀にはご家族、ご親族に加え、たくさんの教会員が祈りつつ出席して下さいました。それぞれの葬儀で語らせて頂いたのは、復活の約束であり、再臨の希望です。その意味で、キリスト者の葬儀は深い悲しみの中にも光があり、厳しい痛みの中にも大きな喜びがあると今回も教えられました。
 今朝、私たちは十字架と復活、そして再臨の主イエスの御声を伺いました。「恐れるな。あなたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。あなたの髪の毛までも神は一本残らず数えられている。だから、安心しなさい。だから、死を恐れるな。あなたが今、経験している激しい痛みを私はゲツセマネ、また十字架の上で経験した。そして、あなたが恐れている『神からも見捨てられる孤独な死』を経験したのだ。だからもう、あなたは死を恐れなくて良いのだ」。
 私たちが死ぬ前、死ぬ時、そして死んだ後も、神から、私たちが忘れられることは絶対にありません。忘れられるどころか、インマヌエルの主がいつでも私たちと共にいてくださるのです。驚くべき恵みです。それでも死が恐ければ、祈り続けたい。「主よ、それでも私は死が恐いのです」。「主よ、それでも私は愛する者の死を受け止められません」と。主なる神は、私たちの祈りを常に待っておられる。私たちの祈りに真剣に耳を傾けて下さる。そして、必ず応答して下さる。復活と再臨の主の応答こそ、今朝の御言葉です。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。
 どんなときも私たちを忘れることのない神を信じ続けたい。愛する者の死は本当に辛いものです。その辛さをも丸ごと主に委ねたい。主は語って下さる。「確かに悲しいだろう。確かに辛いだろう。確かに痛いだろう。確かに淋しいだろう。当然だ。でも、どうか私を信頼して欲しい。私があなたがたの創り主。あなたの愛したあの人は、私の懐(ふところ)に帰ったのだ。だから安心して欲しい。恐れないで欲しい。どうか他者の評価、他者の言葉に惑わされないで欲しい。あなたには賜物がある。あなたにしかない素晴らしい賜物があるのだ。だから恐れず、与えられた地上でのたった一度の命を、精一杯生きて欲しい。私はいつもあなたと共にいる」。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名前を親しく呼んで下さり、第3アドベント礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。私たちは日々、様々なものを恐れます。そして、もっとも畏れるべきあなた様を畏れることを忘れてしまいますから今、御前に懺悔致します。どうか、創り主なるあなた様を畏れるものとして下さい。同時に、あなた様が私たちを全ての恐れ、痛みから解放し、罪を赦し、永遠の命を与えるべく御子を世に遣わし、十字架の死の三日目の朝に甦らせて下さったことを心より感謝申し上げます。どうか今、愛するものを失い、悲しみの中にある方々を慰めて下さい。お願い致します。これらの貧しき願いと感謝を、真の救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて
下さい。神の家族、I兄が先週みもとに召されました。今、あなた様の懐に抱かれ、安らかに憩っておられると信じますから感謝致します。どうか、深い悲しみの中にあるご遺族お一人お一人を慰め、励まして下さい。私たちもいつの日か必ず召されます。だからこそ、あなた様から与えられた命を、他者を恐れることなく、あなた様を畏れ、復活と再臨の希望を信じ、誠実に歩むものとして下さい。寒さが本格的になってまいりました。被災地で今も困難な生活を強いられている方々を励まして下さい。今、苦しみの中にある方々、悲しみの中にある方々に真の救い主である御子の御降誕の喜びを伝える勇気をお与え下さい。どうか一人でも多くの方々を教会へと導いて下さい。先週はM氏の試問会が行われ、クリスマスの受洗があなた様によって承認されました。深く感謝致します。また今日は、S姉の転入試問が行われます。あなた様の御心がなりますよう祈ります。今朝も病のため、また様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。どうか、それらの方々に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2016年12月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 サムエル記下 第11章1節〜17節、新約 ルカによる福音書 第12章1節~3節
説教題:「暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれる」    
讃美歌:546、61、Ⅱ-96、Ⅱ-1、248、539

 「あなたたちは不幸だ」。裁きの言葉を繰り返し語られた主イエスに対し、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題で質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていたのです。
 当時のユダヤで、権威ある人々から敵意を抱かれることは極めて危険な状態を意味します。主イエスは十字架で処刑されることを覚悟し、逃げることなく、彼らに真剣に悔い改めを求めたのです。
 とかくするうちに、主イエスと律法学者に生じた騒ぎを聞きつけ、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになりました。主イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」。これは、「ファリサイ派の人々に騙されないように」という注意ではありません。そうではなく、「ファリサイ派の人々の偽善と同じ偽善に、あなたがた自身が落ち込まないように」という警告です。
 「ファリサイ派の人々」とは、当時のユダヤ教の一派で、旧約聖書の律法を日常生活に適用し、真面目に遵守しようとした信徒のグループです。彼らは、隣人にも律法の遵守を求め、守れない者を「罪人」として裁いたのです。先週の御言葉(11:45〜54)にもあったように、ファリサイ派の人々は神を信じ、律法を遵守しているようでありながら、実際は、背負いきれない重荷を人々に負わせることによって満足し、重荷を負わせられた人々の重荷に指一本も触れようとしないのです。
ファリサイ派の人々は不真面目ではありません。むしろ真面目。一所懸命に生きようとしつつ、偽善の罪を犯し続けたのです。つまり、弟子たちも偽善の罪を犯しかねない。だからこそ主は、まず弟子たちに話し始められたのです。
1節後半に「パン種」と「偽善」が登場します。パン種とは、パンをふくらませるイースト菌を意味する言葉です。つまり、パン種とは、良い意味でも、悪い意味でも広がってゆくことを譬える言葉です。続く「偽善」は「役者」という意味を持つ言葉です。当時の役者は、面を被った。あるいは厚化粧をして役になり切った。同様に、ファリサイ派も真面目な信仰者の姿を人に見せる。そして、賞賛を得ようとする。彼らの自覚は「私たちは神の律法を忠実に守り、神からも律法の遵守を求められている」と信じている。つまり、人前で仮面を被って信仰者を演じている。そうした偽善が、教会にも入り込むことがある。
 キリスト者は、清く、正しく、美しく生きるべき者です。神がそのことを求めておられる。その事実を曖昧にし、その事実から逃げることは許されない。
しかし、100%清く、100%正しく、100%美しく生きることは不可能です。実際、「私の信仰は完璧」と思った途端、ファリサイ派の人々のパン種によって偽善の罪に陥る。正しい道を歩もうとすればするほど、正しい道でなく、偽善の道を歩んでいるのです。その結果、私たちに信仰を与えて下さる神ではなく、神を信じる私が神になってしまうのです。神様ではなく私が神になる。これは、真の信仰ではありません。ファリサイ派の偽善を攻撃する信仰者が、ファリサイ派の偽善に陥るのです。
主イエスは続けます。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」。「覆われている」と訳された言葉は、「完全に覆う、覆いかぶさる」を意味するギリシア語「シグカリプトー」で、新約聖書ではここにしか登場しない珍しい言葉です。絶対に誰からもばれないように完璧に罪を覆ってしまう。そんな意味の言葉です。
主イエスは弟子たちに厳しく指導しておられます。「形式的に、表面的に、皆から見えるところだけ取り繕っても、不正は現される。父なる神によって。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」。
 「あなたがた」とは、弟子たちです。つまり、主の弟子が暗闇で語ることは、良いことであれ、悪いことであれ、みな明らかにされると主は警告するのです。「明るみ(フォース)」と訳された原語は、「光」を意味する言葉です。光は、主イエスを意味する言葉です。つまり、光である主イエスによって弟子たちの心が照らされ、明らかにされる、その結果、神にも弟子たちの心が聞かれるのです。以上より、奥の間で弟子たちがお互いの耳にささやいたことは、神の耳もとにささやいたことになるのです。
 今朝は、ルカによる福音書の御言葉と共に、旧約聖書サムエル記下第11章1節から17節の御言葉を読みました。出来れば17節で切らず、第11章の最後(27節)まで読みたかったのですが、欲張らず17節までに致しました。第11章の最後に「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」とあります。 
 ダビデ王は、犯した罪を完璧に覆い隠したと確信していました。「犯した罪は自分だけが知っている。罪の重さに耐えられれば、罪は絶対にばれない!」。しかし、ダビデの罪をご存知の父なる神は預言者ナタンをダビデに遣わされた。そしてナタンに「『主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ(12:5)』と言われた男、その男はあなただ」と罪の宣告をさせたのです。
 罪を犯した者が、犯した罪を誤魔化す道はありません。罪を処理する最上の道は、罪を犯さないことです。たとえ、罪を犯してしまった理由があっても、その理由を、口実にしないことが大切です。一切の言い訳を捨て、神の戒めを忠実にまもる。そうでないと私たちは意識して、あるいは意識せずに罪を犯し続けるのです。
 恐ろしいことですが、私たちは、自分の益のためなら、どんな理由でも造り出すことができます。その結果、ダビデのみならず、私たちが犯した罪に対し、父なる神は、「主の御心に適わなかった(11:27)」と裁かれるのです。新共同訳はマイルドな翻訳ですが、口語訳はストレートな翻訳です。「しかし、ダビデがしたこの事は主を怒(いか)らせた」。そうです。たとえ完璧な言い訳をしても、神様を誤魔化すことはできない。ダビデ王がウリヤの妻(バト・シェバ)との間に与えられた子を神様は打たれ、僅か七日目にその子は死んだのです。その事実が、私たちの心に重く響きます。
 私たちは、ダビデのような二重、三重の罪を犯すことはないかもしれません。けれども、毎週の礼拝で十戒を唱和しているように、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「隣人に関して偽証してはならない」、「隣人のものを欲してはならない」は、私たちの日常生活に直結する戒めであることがわかります。父なる神が全存在を持って語られた戒め。だからこそ、ダビデが犯した罪、隣人の妻を欲し、隣人の妻を盗み、姦淫し、偽証し、ウリヤを殺した罪は、神の逆鱗に触れ、徹底的な怒りを浴びたのです。
 では、私たちはいったいどうすればよいのでしょう。それは、真の救い主、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを信じ、悔い改めを祈る。そして、主の復活を信じ、主の再臨を待ち望む。それも、ただボーッと主の再臨を待ち望むのではありません。犯した罪を悔い改め、「私は、あのダビデのような罪を犯すことはない」ではなく、「私もファリサイ派の人々のように偽善の罪を犯し、まるで自分が神のように隣人を裁き、裁くだけでなく隣人のものを欲し、『あの人さえいなければ』と隣人を殺し、姦淫の罪を犯し、隣人のものを盗み、隣人に関し、また自分に関して偽証し、暗闇で、密室で、他者について『ああでもない、こうでもない』とヒソヒソとささやき続ける。そのように私の罪は根が深い。だからこそ、神様の怒りから解放されるには、主イエスが十字架で裂かれた肉と、流された血潮が必要です。私がどんなに努力しても、どんなに取り繕っても償いようのない神様に対する責任、取り戻し得ない罪、これらの罪に対し、神様がお与え下さった御子の十字架の救いのほかには、どんな力も及ぶことはありません」と祈り続けるのです。
 只今から、聖餐の恵みに与ります。主イエスが私たちの罪のために十字架で裂かれた肉、流された血潮に与る。当然ですが、悔い改めの祈りが重要です。同時に、私たちの覆うことのできない罪が主の十字架により完全に赦された。その恵みを、身体全身で味わえる聖餐式は、私たちキリスト者の喜びなのです。
 改めて、主イエスが語って下さった3節の御言葉を読むと、こう書いてある。「だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」。「屋根(屋上)」は、私たちの世において、神の座である天に最も近く、散歩や祈祷などの公共の場として利用されていました。ダビデ王は、屋根(屋上)で誘惑に負け、二重、三重の罪を犯してしまった。しかし、ダビデは悔い改めの祈りを神に献げたのです。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません(詩編51:3〜6)」。
 ダビデは、奥の間で神に悔い改めの祈りを献げました。奥の間でささやいたことは、屋根の上で言い広められるのですから、真剣な祈りも父なる神の耳に届いているのです。しかも、私たちには真の救い主、キリストが与えられた。驚くべき恵みを頂いた私たちは、主イエスの福音を言い広めたくなるのです。
 いよいよ12月に入りました。12月24日(土)夜7時からクリスマス讃美夕礼拝、25日(日)朝10時30分からクリスマス礼拝、午後2時から子どもクリスマス会が行われます。御子の御降誕を喜びつつ、御子が私たちの罪を十字架で赦し、復活によって死に勝利され、再臨の希望を約束して下さった恵みを共に言い広めたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名前を親しく呼んで下さり、第2アドベント礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。
今朝の御言葉を通し、改めて、私たちの罪の深さを今、御前に懺悔致します。同時に、その罪を全て赦し、永遠の命を与え、再臨の希望を約束して下さった御子キリストを信じる者の驚くべき恵みを心に刻むことが許され、重ねて感謝申し上げます。どうか、この驚くべき恵みを一人でも多くの方々に宣べ伝える信仰をお与え下さい。特に、家族への伝道は困難なものです。しかし、どうか諦めずに家族伝道の灯を燃やし続け、また隣人への伝道の灯をも燃やし続けることが出来ますようお導き下さい。これらの貧しき願いと感謝を、真の救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。御在天の主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。12月に入りました。いよいよクリスマス伝道の季節となりました。今、私たちの国は大きく変わろうとしております。また世界も大きく変わろうとしております。しかし、どんなことがあっても、変わることのないあなた様の愛、御子の愛、十字架の赦しを信じ、被災地で凍えている人を覚えて、愛する者を失った人を覚えて、心が塞いでしまっている人を覚えて、犯した罪にがんじがらめになっている人を覚えて、隣人を憎しみ続けている人を覚えて、執り成しの祈りを祈り続ける者として下さい。長老会では、洗礼試問会が行われます。どうか、クリスマス礼拝で信仰告白、洗礼の決意をされた兄弟をあなた様が強め、明確に信仰告白、洗礼への決意をあなた様に宣べることが出来ますようお導き下さい。今朝も、病のため、また様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。どうか、それらの方々の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ憐れみたまえ。
天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

2016年11月27日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第55篇23節〜24節、新約 ルカによる福音書 第11章45節~54節
説教題:「重荷に触れてくださる主」    
讃美歌:546、94、257、522、545B

 「あなたたち律法の専門家も不幸だ」。主イエスは、ファリサイ派の人々に加え、律法の専門家も裁いておられます。律法の専門家とは、旧約聖書に書かれている律法を、どのように守るべきかを解釈してみせるプロの集団で、律法学者とも呼ばれております。ファリサイ派の人々は、律法学者の解釈を伺い、その通り実践するのです。ですから、主イエスによるファリサイ派の人々への裁きは、イコール律法学者への裁きとなる。だからこそ、その場にいた律法の専門家の一人は反論したのです。「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」。
 主イエスに対する脅迫です。一応、「先生」と呼んでいますが、尊敬の念はひとかけらもない。なぜなら、彼らはユダヤの社会で絶大な権威と権力を与えられているから。律法の専門家の本音はこうです。「あなたは、我々の権威を知っているのか。この世の権威である我々をコケにすると、ユダヤの社会ではどうなるかを。あなたは、表の道を歩けなくなる。そして、いつか殺される」。
 主は、ひるむことなく裁かれました。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ」。         
不幸になりたい者はいません。誰もが、幸せになりたい!と思っております。では、私たちが幸せになるためには、どうすればよいのか?何が必要なのか?主イエスは、律法の専門家の「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」に対し、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問われ、律法の専門家は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えた。すると主は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われたのです。しかし、律法の専門家は幸せになるための答えを知りつつ、実行することが出来なかった。なぜなら、律法の専門家にとって隣人は、律法を指導するためだけの存在であり、隣人が今どのような状態で、なぜ律法を守れないのか、隣人に寄り添うことが出来なかった。隣人を裁くことしかできなかった。そして、「私は律法の学者である。私こそ、父なる神に祝福される」と安心している。そのような律法学者、ファリサイ派の人々を主イエスは、激しく裁かれたのです。
「あなたがたは全くわかっていない。何のための律法か。それでも、あなたがたは律法のプロか。自分の生活のために学者をしているのではないか。自分の名誉のために学者をしているのではないか。そんな学者はいらない。そんなプロはいらない。どうすれば隣人が律法を大切にすることが出来るようになるのか、そのことを祈りつつ、隣人に指導しなければ意味がない。どうすれば、一つでも重荷を下ろすことが出来るようになるか、そのことを隣人と共に考え、祈らなければ、何のための学者か、そのような学者ならば、生涯あなたがたは不幸だ。本気で隣人を愛して欲しい。真剣に隣人の悲しみ、痛み、嘆きに耳を傾けて欲しい」。
隣人を愛するには、隣人が今、何を考え、何に悩み、何に迷い、何に苦しみ、何を嘆いているのか、隣人の声に耳を傾け、隣人に寄り添うことが不可欠です。けれども、ファリサイ派の人々や律法の専門家のみならず、私たちには限界がある。朝から深夜まで色々な人から悩みの電話が入り、メールが入り、手紙が届くなら、どこまで真摯に対応出来るか。それこそ、寝る時間もなくなります。主は、「寝ないで隣人に寄り添いなさい」とは求めておられないかもしれません。しかし主は、「あなたたちは、自分では指一本も隣人の重荷に触れようとしない。それは不幸だ」と激しく裁いておられる。やはり、私たちは主イエスのように隣人を愛することは難しい。だからこそ私たちは、「どうか主よ、あの人の隣人として歩ませて下さい」と祈り続けることが大切なのです。
今朝の御言葉を読むときに重要なことは、主イエスの「不幸だ」は、私たちへの裁きでもあると受け止めることです。間違っても、「私はファリサイ派ではないし、律法学者でもない。幸か不幸か私には彼らのような権威も権力もない。だから、今朝の御言葉は私とは関係がない」。これでは駄目です。そうではなく、今朝の御言葉に真摯に耳を傾ける。しかも、「私にもファリサイ派の心がある。私にも律法学者の心がある。いや私こそ、両親、子ども、孫に背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本も両親、子ども、孫の重荷に触れようとしない、寄り添うこともしていなかった」と、悔い改めつつ主の裁きの言葉に真摯に耳を傾けることが大切なのです。
ところで、重荷と訳された原語は、新約聖書であまり用いられておりません。しかし、大切な言葉です。聖書において重荷は、本来、律法の積み重ねを意味するものではありません。確かに律法の専門家は、細かい戒律を重荷として人に負わせ、戒律で動けなくなった人を助けようともしない。これは不幸です。けれども、主イエスが「不幸だ」と裁かれたのは、自らの罪を悔い改めずに、隣人の罪をまるで自分が神様のように、神様の言葉で糾弾する行為なのです。
律法の専門家、ファリサイ派の人々は、自分たちの正しさを示すとき、常にこの世の罪人と比較しました。「奴(やつ)は徴税人、神様に背く罪人。それに比べ、私は律法を遵守する清い者」と自分と罪人を比較する。だからこそ、主イエスの行為を無視できなかった。「イエスが、俺たちと食事をするのは当然。しかしイエスは、徴税人とも食事をしている。信じられない。彼は何を考えているのか」。彼らは、主イエスの全てが気になったのです。
だからこそ、主イエスは激しく裁かれた。「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ」。
預言者や使徒は、いつの世も迫害されるものです。そして、主イエスの時代、迫害した者は、殺したあと、あちらこちらに墓を建てたようです。本来、墓を建てることは、死者を奉(まつ)る意味で敬虔な行為です。しかし、迫害者が預言者の墓を建てる意味は、預言者の言葉を聴き続けようとする姿勢ではなく、預言者を滅ぼした記念として墓を建てるのです。そのような彼らを主は厳しく裁かれる。「そのような思いで墓を建てることは、再び預言者を殺すことになる」。
ところで51節に「アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ」と書かれております。ゼカルヤとは、歴代誌下第24章20節に登場するゼカルヤです。なぜ、預言者ゼカルヤがルカ福音書に登場したのか、その理由はわかりません。しかし、このように考えられております。旧約聖書の最初は創世記ですが、その後は律法の書物、それから歴史の書物が並びます。その歴史の書物の最後が歴代誌下となる。つまり、聖書が伝える信仰の歴史の最後の物語、その最後に殺された預言者がゼカルヤということになります。
最後がゼカルヤで、最初はアベル。あのカインとアベルのアベルです。人類最初の夫婦アダムとエバにカインとアベルの二人の子が与えられ、弟アベルが、神に祝福されたのを妬(ねた)んで兄カインが殺したという話です。アベルは、預言者ではありません。しかし主は「天地創造の時から流されたすべての預言者の血」と語り、アベルも預言者のように語るのです。アベルが預言を語った記録はありません。つまり私たちの常識ではアベルは預言者ではない。しかし主は、神に従った弟アベルが兄カインの暴力によって殺されたとき、広い意味で「預言者が殺された」と、嘆かれたと思うのです。
では、私たちの心にもファリサイ派、律法学者の心があるならば、私たちも生涯、主イエスから厳しく「あなたは不幸だ」と言われ続けるのでしょうか。確かに私たちは、「あなたは不幸だ」と言われて当然な罪深い存在です。では、私たちは本当に不幸なのでしょうか。神はなぜ、主イエスをこの世に遣わして下さったのか。私たちに「不幸だ」、「不幸だ」と言わせるためだけに独り子を世に遣わされたのでしょうか。もちろん「不幸だ」と言わせることは大きな目的だったはずです。しかし、それ以上に私たちに「不幸な者から幸いな者へ転換して欲しい!自分を大切にして欲しい!隣人への愛に生きて欲しい!」と父なる神様は真剣に願っておられるのです。
今朝の御言葉は、アドベントに相応しい御言葉となりました。決して、フワフワした優しい御言葉ではない。ガツンと脳天に響く厳しい裁きの御言葉です。本来であれば、私たちは不幸な存在であり、自分に都合の悪い存在は抹殺し、自分の罪を棚に上げ、隣人の罪、弱さを徹底的に糾弾する。当然、「不幸だ」と言われる存在です。そのことをしっかりと心に刻むとき、私たちは悔い改めつつ、真の救い主の到来を祈らざるを得なくなる。「主よ、どうか、私たちを滅ぼさないで下さい。主よ、どうか、真の救い主、主イエス・キリストを世にお遣わし下さい。私たちは主イエスの十字架と復活、そして再臨の希望がなければ、生涯、不幸な歩み、いや、不幸どころか呪われる存在のままであります。どうか、御子の御降誕を、主の年2016年のアドベントも真剣にまた厳かに待ち続けることが出来ますようお導き下さい」と。
 最後に、主イエス・キリストの力強い福音の御言葉をご一緒に味わいたい。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠(えいえん)の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである(ヨハネによる福音書3:16~18)」。
 私たちは神の独り子、主イエスを私の救い主、キリスト!と信仰を告白しました。信仰を告白した私たちは、あなたは不幸だと言われない、裁かれないと御子が宣言されたのです。そうした驚くべき恵みを頂いた者として、私たちは隣人の重荷を無視することは出来ない。様々な重荷で押しつぶされている者、自分を愛することが出来ず、自分を傷つけている者、頼る人がなく、両親にも相談できず、「死んでは駄目だ」と自分の力だけで、重荷を背負おうとしている小さな魂が、いつの日か真の救い主の存在を知り、全ての重荷から解放される日が到来するよう祈り続けたい。心から願うものであります。

(お祈りを致します)

御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名前を親しく呼んで下さり、第1アドベント礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。
私たちは意識して、また無意識に様々な重荷を隣人に負わせておりますから、今、御前に心より懺悔致します。また、私たちの全ての重荷をお一人で背負うために御子を世に遣わして下さり、悔い改めつつ、心より感謝を申し上げます。どうか、その驚くべき恵みを改めて心に深く刻みつつ、私たちも隣人の重荷を少しでも担い、せめて指一本だけでも隣人の重荷に触れ、祈り続ける者として下さい。そして、全ての重荷を背負い、私たちを様々な重荷から解放し、不幸な者から幸いな者へと転換して下さった御子の存在をご存知ない方に伝道する勇気をお与え下さい。これらの貧しき願いと感謝を、真の救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。御在天の主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。主の年2016年のアドベントに入りました。御子の御降誕を厳かに待つ時を悔い改めの祈りを深めつつすごすことができますようお導き下さい。巷(ちまた)では、人をののしる言葉が連呼されております。また、自分を必要以上に卑下する言葉もあります。いじめがあります。見て見ぬ振りをします。その結果、絶望し、生きる力を無くしている方が大勢おられます。どうか、隣人の痛みに寄り添う心をお与え下さい。特に今、被災地で寒さの中で凍えているお一人お一人を慰め、憐れんで下さい。また愛する者を様々な事故や事件、また争いで失った方々を深く憐れんで下さい。憎しみではなく、赦しの心を私たちも常に持ち続け、主の憐れみの中で共に祈り、共に支え、共に愛し合って平和に生きることが出来ますようお導き下さい。そして、クリスマスの本当の喜びを知らずに彷徨っているお一人お一人に主の福音が届きますよう心よりお願い申し上げます。今朝も病のため、また様々な理由のために、教会に通うことの出来ない兄弟姉妹がおります。どうかそれらの方々の上にも私たちと等しい祝福をお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

2016年11月20日 日本基督教団 東村山教会 逝去者記念主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第132篇13節〜18節、新約 フィリピの信徒への手紙 第3章17節~第4章1節
説教題:「わたしたちの本国は天にある」    
讃美歌:546、8、239、500、545A

 11月11日(金)の東京新聞朝刊に「私たちの最期は」というタイトルの記事が掲載されておりました。記事の中央に、「襲ってくる感情の波」とあり、その下に、優しい笑顔のご主人と痩せ細った腕の奥さんの写真がありました。ご主人は74歳。奥さんは64歳。ご主人より10歳も若い奥さんが肺がんで召されたのです。記事には、ご主人を襲う感情の波が丁寧に綴られております。「葬儀、四十九日、百日法要、初盆・・・。忙しく動き回っていたせいか最初の一年ほどは小柴(ご主人の苗字)も気が張っていた。強い感情の波が襲ってきたのは、一周忌を終えてしばらくしてから。『一人での日常生活を取り戻せば取り戻すほど、悲しみっていうのかな、ちょこちょこ顔を出すようになった』(中略)亡くなったことを知らない泰子(奥さまの名前)の知人から『奥さまいらっしゃいますか』と電話が入る。ああ、自分の知らない交友関係がいっぱいあったんだな。小さな出来事の積み重なりが泰子の不在を実感させ、負の感情が湧き出るのを抑えられない。『俺、何やってんだろう』」。
 私は、逝去者記念主日礼拝の準備をしつつ、この記事を読み、色々なことを教えられました。今、妻と三人の子ども、私と妻の両親、また妹夫婦も元気である。よって、家族を失う痛みを、自分の痛みとして実感することは難しい。けれども、逝去者記念主日礼拝に招かれたご遺族の皆さん、また教会員の中でご家族を失った皆さんは、10歳年下の奥さんを亡くされたご主人の痛みを、ご自分の痛みとして共感なさったと思うのです。私は、自分の痛みとして共感することは難しいですが、「そうだろうな」と感じたのは、「一人での日常生活を取り戻せば取り戻すほど、悲しみがちょこちょこ顔を出すようになった」、「小さな出来事の積み重なりが愛する妻の不在を実感させ、負の感情が湧き出るのを抑えられない」感情でした。
 主なる神は、愛する家族を失い、激しい痛みに襲われ、立っているのも困難な者にパウロを通して力強い励ましを与えて下さいました。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑(いや)しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです(4:20〜21)」。
 パウロは、キリスト者を迫害した罪を悔い改め、「神がこのような私をも赦し、伝道者として導いて下さった」と感謝し、異邦人伝道に生涯を献げたのです。伝道者パウロが、特別な思いを抱いたのがフィリピの教会でした。パウロが、ヨーロッパで最初に訪れた地がフィリピであり、「金銭の贈り物」を受け入れた唯一の教会こそ、フィリピの教会だったのです。
 パウロが、フィリピの信徒への手紙を執筆したのは牢獄と言われております。牢獄は、エフェソにあったようです。実際、使徒言行録第19章に、「パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった(19:8〜10)」とあるように、パウロはエフェソでの二年間のどこかで、獄中からフィリピの信徒たちに手紙を記したのです。  
 かつてのパウロは、キリスト者を迫害しておりました。しかし、復活の主に出会って頂いたことで心を180度回転させて回心し、迫害される側に立った。その結果、牢獄されたのです。けれども、パウロは沈黙しなかった。むしろ、暗闇の獄中だからこそ、真の光なる主イエスの復活と再臨の約束を信じ、手紙を書き続けたのです。そのパウロが、涙ながらに伝えたかったことは、「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです(3:20〜21)」と、「主によってしっかりと立ちなさい(4:1)」だと思うのです。
 そこで、第3章20節から第4章1節の御言葉を、新共同訳聖書ではなく、柳生直行先生の翻訳で改めて味わいたい。「だが、われわれは違う。われわれの故国は天にあり、そこから救い主なる主イエス・キリストが降(くだ)ってこられるのを、待ち望んでいるのである。そのとき、彼はわたしたちのこのみじめな体を変えて、彼御自身の栄光の体に似たものとして下さるであろう。キリストはそれを実現する力を持っておられるのである。なぜなら、彼は万物を御自分の目的に従わせることのできるお方だからである。愛する兄弟たちよ-
ああ、わたしはどんなにあなたたちを慕(した)っていることか。あなたたちはわたしの喜び、勝利の冠(かんむり)なのだ。愛する兄弟たちよ、いま言ったようにキリストは力あるお方なのだから、彼にしっかり結びついて、何ものにも動かされないようにしていただきたい」。
 パウロの熱い思いが私たちの心にも深く響きます。特に、「愛する兄弟たちよ、いま言ったようにキリストは力あるお方なのだから、彼にしっかり結びついて、何ものにも動かされないようにしていただきたい」は、パウロから今朝の逝去者記念主日礼拝に招かれた全ての皆さんへの励ましに思えるのです。
 ところで、20節「わたしたちの本国は天にある」について、ある説教者はこう語っておられます。「われわれが天に国籍を持っているということは、地上の悩みから逃れて天に逃げ込むということではないのです。そうではなくて、神の勝利を信じている者が、非常に具体的に自分の救いの完成されるのを待っているということです。したがって、救いを与えられていろいろ欠陥を感じたり、悩みがあったり、戦いがあるが、やがてこの救いが完成される日があることを信じて、待ち望んでいるという待ち望み方であります。ですから、それが一日も早くあるようにと願うように、体を乗り出して待っているということになるでありましょう(竹森満佐一先生 講解説教 ピリピ人への手紙)」。
 「なるほど」と思いました。そして「今、私は体を乗り出して、主の再臨を待ち望んでいるだろうか」と思わされたのです。キリスト者なら、キリストの復活と再臨の約束を信じ、どんなに厳しい試練に襲われても、崩れることなく、しっかりと立ち続けることが出来るはずです。けれども、牧師としてようやく八年目になりましたが、気持ちがぐらつき、恐れに支配されることもあります。けれども、パウロは語るのです。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです(1:21)」。「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方(ほう)がはるかに望ましい(1:23)」。
 パウロの信仰は徹底している。だから、語るのです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう(4:4〜7)」。
 私は不思議に思います。本当にこの手紙は獄中で書かれたのか?と。しかも、手紙を書いている途中で獄中から処刑台に連行され、処刑される可能性もある。そのような極限状態で、パウロは語るのです。「あなたも喜べる。主において。どんなに深い悲しみに襲われても、どんなに先が見えなくとも、どんなに孤独に襲われても、主において常に喜べる。なぜか。主はすぐ近くにおられるから。だから、どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。ただ、感謝を込めて祈りと願いを神にささげ、求めているものを神に告白しなさい。そうすると、神の平和、神の平安があなたの心と考えとをキリスト・イエスによってしっかりと守って下さる」。私たちも、パウロのようになれます。しかも、私たちの努力によってではありません。主によってです。主の十字架と復活、また再臨の約束を信じることで、私たちにも主の支えが確実に与えられるのです。
 最後に、スイスの改革派の神学者トゥルナイゼンが1973年に、数年にわたり癌で苦しみ、召されたキリスト者の葬儀で語った説教の一部を紹介させて頂きます。「今や、イエス・キリストは万物をご自身に服従させる方として、支配し、治めておられます。天から治められるのですが、しかし、この地上を支配なさるのです。わたしたちはここで、友人であったカール・バルトと、その死の前夜に最後に交わした会話のことを思い起こします。わたしたちは世界情勢について語り合いましたが、バルトは次のように述べました。『そうだ、世界の状況は暗い。だが、耳に入ってくることだけを頼りにしちゃいけない、断じていけない!(キリストが)治められているのだから-ワシントンやモスクワや北京ではない。天において、だよ。だから、心配はない、どんなに真っ暗な瞬間でも心配はないよ!』と。事実、使徒がわたしたちに、『あなたがたの居住権は天にあるのだ』と呼び掛けるときには、そういうことが考えられています。天から救い主、イエス・キリストがこられるのを、わたしたちはお待ち申し上げるのです。キリストは一切のことを、まことに、地上にあって暗くなり、もつれきっている一切のことを、すべて正しい状態に変えられます」。
 現代も世界情勢は混沌としております。アメリカの大統領も変わる。日本もこれからどのような国になるのか不透明。その意味で私たちが生かされている時代、子どもや孫の時代、いったいどんな時代になるのか、トゥルナイゼンとバルトが語り合った年、1968年からすでに48年が経過しておりますが、時代は今も混沌としている。それでもバルトは、こう語ると思います。「そうだ、世界の状況は暗い。だが、耳に入ってくることだけを頼りにしちゃいけない、断じていけない!(キリストが)治められているのだから。天において、だよ。だから、心配はない、どんなに真っ暗な瞬間でも心配はないよ!わたしたちはどんなに悲しいことがあっても、どんなに辛いことがあっても、十字架と復活、また再臨の主イエスによってしっかりと立つことが出来るのだ」。
 「主によってしっかりと立つ」とは、主により頼む、つまり主を完全に信頼するということです。「しっかりと立ちなさい」と言われると、自分の力だけで踏ん張って立ち続けることを考えますが、そうではありません。つまり、自分が頑張ることではないのです。自分の力で頑張ろうという心を完全に捨てる。そして、主イエスを本気で信頼して生きる。これこそ、主によってしっかりと立ち続けることなのです。本気で自分を捨て、本気でキリストによって生きる。これが、主イエスによってしっかりと立つことなのです。そのとき、十字架と復活、また再臨のキリストが私の中にしっかりと立ってくださるのです。
 冒頭で紹介させて頂いたように、愛する者の死は、その瞬間よりも、むしろ、年を重ねるほどに辛く、苦しいものだと思います。たとえ熱心な信仰者でも、その辛さ、苦しみは同じはずです。そして、いつまでも悲しみを抱えていてはいけないと考えれば考えるほど自分の力でしっかりと立たなければと力が入り、息が苦しくなり、立っていられなくなるのだと思います。けれども、私たちは今朝、大切な御言葉を与えられました。そして知ったのです。今の痛みを覆い隠すことなく、頑張ることなく、そのまま、「神様、私は苦しいです。私は痛みを抱えております。私は淋しいのです。だから主よ、どうかしっかりと支えてください。今も激しい不安に襲われますが、その不安をも支配なさるあなたに全てを委ねます。どうか主よ、天の本国(御国)に帰るまで私を支えて下さい。そして、いつの日かキリストがこの世に再び来て下さるのを、身を乗り出して待ち続けます」。
 私たちが自分の弱さも含め、そのまま主に祈るとき、十字架と復活、そして再臨の主イエスは、私たち一人一人を支え、しっかりと立たせて下さるのです。今朝、逝去者記念の主日礼拝に招かれたすべての皆さんの上に復活と再臨の主イエス・キリストの慰めと祝福が今も後も永遠に豊かに注がれますよう心よりお祈り申し上げます。

(お祈りを致します)

御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名前を親しく呼んで下さり、逝去者記念主日礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。私たちには日々、様々な試練が襲ってまいります。特に、愛する者の死による負の感情は、日々、ご遺族を襲い続けます。主よ、どうか、ご遺族の悲しみに永遠に寄り添い続けて下さい。主よ、御心ならば、今朝の逝去者記念主日礼拝にあなた様が深い愛を持って招いて下さった方の中で、信仰を告白していない方々、洗礼を受けていない方々を聖霊で満たし、いつの日か信仰告白、洗礼へお導き下さい。お願い申し上げます。そして、皆が御子の復活と再臨の希望に満たされ、命の食卓である聖餐の恵みに与ることが出来ますようお導き下さい。これらの貧しき願いと感謝を、真の救い主、復活と再臨の主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。御在天の主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。今朝は逝去者を記念する主の日の礼拝に招かれています。どうか、愛する者を失い、今も深い悲しみを抱えているお一人お一人に慰めを与え続けて下さい。主よ、アメリカ、韓国と政情が不安になっております。また難民、移民の問題も混沌としております。戦争放棄を原則とする私たちの国も、具体的な変化がおこっております。主よ、どうか私たちキリスト者が平和への祈りを諦めることなく、真摯に祈り続けるものとして下さい。そしていつの日か、全世界の人々が主による平和に包まれますようお導き下さい。主よ、被災地をどうか守り導いて下さい。今週の水曜日、23日には東京神学大学で11月入試が実施されます。主よ、献身の志をあなた様から与えられた受験生が明確に献身の志を宣べ、御心ならば、全員が合格となりますようお導き下さい。今朝も病のため、また様々な理由のために、教会に通うことの出来ない兄弟姉妹がおります。どうかそれらの方々の上にも私たちと等しい祝福をお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2016年11月13日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝(家族礼拝)説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第1章27節、新約 ルカによる福音書 第11章37節~44節
説教題:「すべてのものが清くなる」    
讃美歌:546、Ⅱ-78、21-171、452、544、427

今日は、年に一度の家族礼拝の日です。すでに子どもたちは退場しましたが、小さな子どもから中高生まで、教会学校の子どもたちと共にS長老から、創世記第8章15節から22節に記されているノアの箱船の説教を伺いました。
 皆さんの中には、小さい頃から教会に通っておられる方、また大人になってから教会に通うようになった方がおられます。どちらであっても神様から名を呼ばれ、教会に招かれ、そして信仰告白、洗礼へと導かれたことは同じです。それでも信仰歴の短い方は、信仰歴の長い方に対し気後れすることや、「私は、あの人のような立派なキリスト者ではありません」と思ってしまうこともあるでしょう。しかし、今朝のルカ福音書の御言葉を繰り返し読むと、そのような考えを主イエスは、厳しく否定されたように感じるのです。
 私は高3の秋に信仰告白し、洗礼を受けました。当時の母教会には、高校生の青年会、大学生の青年会、そして社会人の青年会がありました。私は、「あのような青年になりたい。そして、いつの日か、あの長老のようになりたい」と考えておりました。私が目標とした青年や長老は、黙々と主に仕えてこられた方々です。ですから、「あの人のようになりたい!」と思うことは悪いことではないと思っておりました。しかし、今朝の御言葉を改めて読むと、主が求めておられるキリスト者は、いわゆる目立つ人、立派な人、誰からも文句を言われない人ではなく、自分の弱さをきちんと知っている人、つまり、自分の弱さを日々悔い改めつつ、主イエスの赦しを信じ、主の十字架をみつめながら、一所懸命に歩むキリスト者ではないかと感じるのです。
 主イエスは42節で、「もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが」と語っておられます。つまり主は、「十分の一の献げ物」を大切にしておられる。神から頂いた恵みの十分の一を、感謝して神に献げることは尊いと評価しておられることは間違いありません。しかし、主イエスのファリサイ派の人々への激しい言葉を繰り返し読むと、規定さえきちんと守ればよいということではないように感じるのです。つまり、規定を守るにせよ、献金を献げるにせよ、他者に施すにせよ、そこに神様への愛、隣人への愛、悔い改めの心があるか、私たちの心の内側が問われているように感じるのです。
 さて、今朝の御言葉には、主イエスより信じられない言葉が発せられております。もしかすると皆さんも心が折れそうになったかもしれません。愛の人、赦しの人、憐れみの人、慰めの人であられる主イエスが、「あなたたちは不幸だ」とファリサイ派の人々に告げている。42節「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」。43節「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」。そして44節「あなたたちは不幸だ」。主イエスは、42節、43節、44節と「不幸だ」の三連発を発しておられるのです。
 もしも今朝、教会に初めて来られた方がおられたら、ドキッ!とされたかもしれません。「今日は家族礼拝。だから子どもと一緒に大人の礼拝にも出席してみよう」。あるいは、「今日は家族礼拝。午後にはバザーもある。午後のバザーだけ楽しむのは申し訳ないから、勇気を出して、午前の礼拝から出席しよう」と決意された方がおられたら、今朝の御言葉は大変な驚きであり、期待外れであり、「イエス様は激しい方だった。イエス様は優しい笑顔でいつも人々を愛し、赦し、慰めて下さると思っていたけれど違った。敵に対して容赦のない方だ。そういえば、子どもへの説教でも神が激しく怒り、地上に洪水を起こされた。神様は激しい。イエス様も激しい」と思ったかもしれません。
 実際、創世記第6章にはこう書いてあります。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』(6:5〜7)」。
 私たちを創造された神は、悔い改めることなく、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、人を創造されたことを後悔し、心を痛められたのです。創世記第1章27節にあるように、神は御自分にかたどって人を創造されました。つまり神に似た者として人を創造されたのです。だからこそ、神は第一の日から始まった創造の御業を第六の日に完成され、「極めて良かった」と人も含めて評価されたのです。しかし、極めて良かった人が、常に悪いことばかりを心に思い計っている。だからこそ、神は心を痛められたのです。
 主イエスも同じです。「私たちはユダヤ人のエリートである。ユダヤ人の中のユダヤ人として律法を遵守している。食事の前にまず身を清め、杯や皿も綺麗にしている。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一を献げている。だから広場では尊敬の眼差しで見られ、挨拶され、会堂でも上席に着くのは当然」と考えるファリサイ派の人々に対し、心を痛められたのです。
 主イエスは、本気で嘆かれました。「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」。もしも、何らかの試練を経験している私たちに、主イエスが厳しく「あなたは不幸だ」とおっしゃられたら、私たちは主イエスを信じ続けることを断念するかもしれません。「主に言われなくても、『私は、何て不幸だ』と思っている。それなのに、傷口に塩を塗るように『あなたは不幸だ』はないだろう」と主に文句を言ってしまうかもしれません。
 しかし、冷静に判断したい。37節にこう書いてある。「イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた」。
 主イエスはユダヤ人です。ユダヤ人の中のユダヤ人であるファリサイ派の人から食事の招待を受けたのですから、大いに喜ばれたはずです。つまり主は、ファリサイ派の人が「憎い」というのではなく、むしろ、深く愛しておられた。だからこそ、激しい言葉になったのだと思うのです。私たちもわかる。愛する子だからこそ、時に激しい言葉をぶつけてしまう。愛する親だからこそ、自分の気持ちが伝わらないと激しく攻撃してしまう。夫婦も同じ。「何で、わかってくれないの」と激しく相手を攻撃してしまう。主イエスの愛は、私たちの愛と比較することができないほど深く、激しい愛です。ファリサイ派の人々も深く愛する。内側に満ちている罪(強欲と悪意)に気がついて欲しい!その思いが強いからこそ、主は「あなたたちは不幸だ」と私たちもドキッ!とする激しい言葉を繰り返し語られるのです。
 ところで、新共同訳聖書で「不幸だ」と訳された元の原語は、「ウーアイ」という言葉です。「ウーアイ」をギリシア語辞典で調べると、こう書いてあります。「悲嘆、悲痛を表わす『ウエッ!』、何と悲しいことか、悲しいことよ、『あなたたちのことを考えると、私の胸は張り裂ける!』の意味」。
 なるほどと思いました。主イエスが上から目線でファリサイ派の人々を突き放すように、「お前たちは不幸だ!」と罵倒しているのではなく、その正反対。悔い改めて欲しいファリサイ派の人々だからこそ、「何でわからないのか!何で間違っていないと言うのか!本当に悲しい。あなたがたの罪を思うと、嗚咽が止まらない。私の胸は張り裂ける!」とファリサイ派の人々を突き放すのではなく、ファリサイ派の人々の内側に入り、ファリサイ派の人々の災いは、全て自分の災いと受け止めておられる。そして「ウェッ!」と嗚咽するのです。
 これが主イエスの愛です。これが主イエスの憐れみです。これが主イエスの嘆きなのです。実際、主は最後の晩餐で、主を裏切るユダに対し、このように嘆いておられる。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ(ルカ22:20〜22)」。
 この「不幸だ」も「ウーアイ」です。主イエスは、ユダのことも当然、深く愛しておられた。だからこそ、ユダがこのあと自分を裏切ることが辛く、嗚咽が止まらないほど深く嘆かれたのです。同様に、ファリサイ派の人々が悔い改めの祈りを献げていない事実を悲しまれ「あなたたちは不幸だ。あなたたちのことを考えると、腸(はらわた)がちぎれる。あなたたちのことを考えると、私の胸も張り裂けてしまう」と真剣に嘆いておられるのです。
 ファリサイ派の人々は神に選ばれた民です。だからこそ主は、御自分の民の食卓への招きを受け入れた。そして、神に選ばれた民に真剣に問うたのです。主イエスは深く嘆いておられます。ファリサイ派の人々を冷たく突き放したのではなく、深い愛をもって真の幸せ、真の清さへと招いておられるのです。
主は、ファリサイ派の人々を試しておられるのではありません。蔑(さげす)んでおられるのでもない。ファリサイ派の人々を受け入れておられるのです。喜んで、ファリサイ派の人々と食卓を囲んでおられる。そして「早くあなたの内側にある強欲と悪意に気づいてほしい。早く悔い改め、信仰を告白し、洗礼を受けてキリスト者として歩んで欲しい!」と真剣に招いておられるのです。
主は、すでにこのように語っておられます。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる(ルカ6:20〜21)」。十字架と復活、そして再臨の主イエスを信じ、聖霊を注いで頂くこと以外に私たちが清められ、幸いになることはありません。神様に創造して頂いた目を濁らすことなく、澄んだ目で主を見つめ続けたい。澄んだ目で主を見つめると、教会の中心に主が立っておられるがわかります。バザーにも主が立っておられるのがわかる。主は、私たちと一緒におにぎりを召し上がり、一緒に販売を担われ、一緒に珈琲や抹茶を飲んで下さるのです。その驚くべき恵みを信じるとき、私たちから強欲と悪意が消え、聖霊に満ち、私たちも清いものとして正義の実行と神への愛に生きることができるのです。今週も、インマヌエル(神は我々と共におられる)の主をまっすぐに信じて、主イエスと共に歩んでまいりたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
 御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名前を親しく呼んで下さり、年に一度の家族礼拝にお招き下さり心より感謝申し上げます。どうか、東村山教会の将来を担う教会学校の子どもたちを守り、導いて下さい。また、毎週朝早くから教会学校の業を熱心に担っておられる教会学校の教師を守り導いて下さい。今日の午後は、皆で祈りつつ準備してまいりましたバザーが行われます。笑顔溢れる、祝福に満ちたバザーとなりますようお導き下さい。これらの貧しき願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。

(こどものための祈り)→こどもたちを覚えて共に祈りましょう。

御在天の主イエス・キリストの父なる神様、今日は、年に一度の家族礼拝に、教会学校の子どもたちを招いて下さり、心より感謝申し上げます。子どもたちにも日々、様々な試練が襲います。どうか、子どもたちの歩みを深く憐れんで下さい。アメリカでは大統領選挙が行われ、新しい大統領が選ばれました。私たちの国にも大きな影響があることは間違いありません。もしかすると将来、子どもたちが大人になったとき、武器を持ち、他国の人々を殺すような時代が再び来るかもしれません。どうか、そのような国にならないようお導き下さい。しかし、現実には全世界の子どもたちの中に、武器を持ち、大人と同じように争いを経験している子どもがおります。日本の子どもたちも武器を持つことはありませんが、子どもたちにも大きな格差があり、受験、就職等、様々な争いを経験していることは否定できません。どうか、私たち大人が日々、悔い改め、これからの世界を担っていく子どもたちに何を伝え、何を残すべきか、真剣に祈り続けるものとなさしめて下さい。どうか、東村山教会の子どもたち、また、全世界の子どもたちがお互いの存在を認め合い、愛し合い、赦し合い、祈り合う子どもとして健やかに成長することが出来ますようお導き下さい。そして、教会学校に通っている子どもたち、また、かつて教会学校に通っていた子どもたちも、いつの日かあなた様の招きに応え、心を大きく開き、信仰告白、洗礼へと導かれますよう、心よりお祈り申し上げます。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。


2016年11月6日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第119篇105節~112節、新約 ルカによる福音書 第11章33節~36節
説教題:「あなたの中にある光」    
讃美歌:546、24、276、21-81、453、543

主イエスは、群衆に向かって語っておられます。「ともし火をともして、それを穴蔵(あなぐら)の中や、升(ます)の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台(しょくだい)の上に置く」。
深夜、光のない家は真っ暗闇。どこに何があるのかわかりません。その結果、足をぶつけ、手をぶつけ、最悪は階段から滑り落ちる。つまり、私たちの生活に光は不可欠であり、だからこそ、ともし火をともして、家に入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置くのです。
主は、続く34節で「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁(にご)っていれば、体も暗い」と語っておられます。
 「目が澄んでいれば」と訳された原語には「単純」という意味があります。つまり、「目が澄んでいれば」とは、「視線が単純ならば、あちらを見るとか、こちらを見るとかせず、一つのものに視線を注ぎ続ける」という意味になる。目が澄んで、単純になるには一つのものに視線を注ぎ続ける忍耐力が必要です。但し、「単純」という言葉は、良い意味より、悪い意味で用いられることの多い言葉です。「うちの亭主は単純なの」と言うとき、決して亭主を褒めていない。そのような観点から判断すると、目が澄んでいる人、視線が単純な人は、群衆から馬鹿にされるかもしれません。
実は、「澄んでいる」の反対語は、29節の「今の時代の者たちはよこしまだ」の「よこしま」なのです。つまり、「今の時代の者たちは濁った目、よこしまな目になってしまった」と主イエスは深く嘆いておられるのです。
ところで、今日も受付で予約注文が可能ですが、「日々の聖句」を田村家でも用いております。先週の金曜日、11月4日の新約聖書の御言葉は、「澄んだ目、単純な目を持ち続けよう」との励ましに満ちた御言葉でした。ヘブライ人への手紙第12章1節以下、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら(12:1~2)」。
励ましに満ちた御言葉です。ただ前を向き、がむしゃらに走っても、疲れるだけです。「自分に定められている競争」を自覚しても、試練に襲われた途端、前に進めなくなる。だからこそ、神様はヘブライ書を通して宣言されたのです。「確かに、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てることは難しいだろう。しかし、弱さを抱えているあなたも、主イエスの背中を見つめていれば、定められている競争を忍耐強く走り抜くことができる。どうか、あなたの目を濁らせずに、澄んでいる状態、単純な状態に保ち続けて欲しい」。
主は続けます。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」。「光が消えていないか」の原文は、「光が闇ではないか」です。続く「調べなさい」は、「注視しなさい」という意味です。主は、群衆を叱っているのではありません。むしろ、慈愛に満ちた眼差しを注ぎつつ丁寧に語っておられる。「だから、あなたの中にある光が闇ではないか注視しなさい」と。
私たちは、私の中にある深い闇に気がつくと、「私の闇には光が届かない」と嘆きます。実は、そうした嘆きの「時」こそ、神の救いが動き出す「時」だと思います。私の中にある深い闇を嘆くとき、嘆きの祈りから、真の光を求める祈りへと変えられる。「主よ、私の闇に真の光を届けて下さい」と祈り始める。
つまり、今朝の御言葉の主題は、光と闇です。明るいのが光、暗いのが闇。この光と闇について福音書記者ヨハネは、このように語っています。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった(1:1~2)」。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった(1:4~5)」。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(1:9)」。
神学生時代、私は荻窪清水教会の祈祷会に出席しておりました。そのとき、聖書研究でヨハネ福音書を学び、数名の出席者と共に、ヨハネ福音書の冒頭の御言葉を輪読した記憶があります。指導して下さったT先生から、「言の部分を『主イエス』と言い換えて輪読してみましょう」と奨められたのです。こうなります。「初めに主イエスがあった。主イエスは神と共にあった。主イエスは神であった」。「主イエスの内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。すべて御言葉が、私たちの心の奥深くまで響きます。
ところで、「まことの光」である主イエスが、私たちの心の闇を照らすとき、私たちは強烈な恥ずかしさを覚えます。なぜか、闇を覆う衣を脱がされ、裸にされるからです。裸の私には闇しかない。だから、私たちは「まことの光」に心を照らされるより、「闇のままでいい」と思ってしまう。まさに、「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者」になってしまいます。
 しかしです。「闇のままでいい」と思う私たちに、主は、まことの光として神によって遣わされました。だからこそ、私たちは主イエスを救い主と信じ、闇の私にも主が住み続け、永遠に私を輝かせて下さると信じるのです。
 主イエスを信じる私たちは、澄んだ目、単純な目で、主イエスだけを見つめ続けることが大切です。ただし、忘れてならないのは、主イエスだけを見つめ続けるとき、隣人の苦しみや痛みを無視することは間違いです。主は、すでに、善いサマリア人の譬えを語っておられます。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。主イエスだけを見つめること、それは隣人を自分のように愛することに繋がります。隣人を無視し、主イエスのみを見つめることは間違いです。主イエスを澄んだ、単純な目で見つめるからこそ、主イエスが招いておられるすべての人々を私たちも愛を持って澄んだ目、単純な目で見つめ続けるのです。そのとき、隣人も私たちの澄んだ目、単純な目、明るい体、輝いている全身を通し、真の救い主、真の光なる主イエスの愛を感じると思います。だからこそ、私たちは澄んだ目、単純な目を保ち続けたい。
 先週の木曜、御言葉と祈りの会の午前の部が終わった後、急いで弁当を食べ、自転車で明治学院中学、東村山高等学校で行われた「ヘボン祭」に行ってまいりました。12時30分から行われたS長老が責任を担っておられる高校有志ボランティア・チーム第25&26陣 活動報告を伺いました。僅か30分の報告会でしたが、高校生一人一人が自分の言葉でしっかりと語って下さり、またスライドを通して活動の様子も手に取るように伝わりました。また第26陣の報告の後、福島県の若松第一高校の教師と生徒さんの報告も伺いました。明治学院東村山高校の生徒さんと若松第一高校の生徒さんが力を合わせて仙台や石巻の被災地でボランティアに取り組まれた様子を伺い、励ましと慰めを頂きました。活動報告の内容を詳しく語ることは控えますが、報告して下さった高校生の目は間違いなく輝いておりました。
 仙台、石巻、女川に加え、常総市の様子を伺いつつ、高校生の皆さんの柔らかな心に、「被災地、また被災地で暮らしている方々の心にも主イエスの光が確実に注がれている」と感じられたように思いました。活動報告をされた生徒さんの中には、「ぶどうの木」第80号の3ページに「石巻の子どもたちとの再会」と題して寄稿して下さった高校2年生のSさんもおられました。彼は、東村山教会の教会学校に兄弟で熱心に通っている生徒さんです。いつの日か、Sさん兄弟に加え、ボランティアに励んでおられる全ての生徒さんが澄んだ、単純な目で主イエスを救い主と信じ、信仰を告白する日が与えられるよう、報告を伺いながら祈らせて頂きました。
 私たちにも10代の頃がありました。まっすぐに生きていた時代があった。しかし、20代、30代、40代と様々な経験を重ねると目が濁ってしまう。主イエスの十字架と復活、そして再臨を信じるより、目に見える「しるし」に頼ってしまう。そして、自分の中にこびりついてしまった闇ばかり気になる。だからこそ、私たちは礼拝に通い、主を賛美し、祈り、御言葉を聴き続けるのです。しかも今日は、聖餐にも与かります。聖餐式では、主イエスの裂かれた肉であるパンと、主イエスの流された血潮である杯に与かります。パンと杯に与るとき、私たちの中に真の光である主イエスが入って下さるのです。その時、主イエスは私たちを外からだけでなく、中からも明るく照らし、私たちの全身を輝かせて下さるのです。今、熱心に求道生活を続けておられる皆さん、また最近、教会に通い出された皆さんが、いつの日か、真の光である主イエスを「私の救い主!」と信仰を告白し、洗礼を受け、聖餐の恵みに与ることが出来たら、本当に嬉しく思います。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝を申し上げます。主よ、あなた様が放つ真の光を一筋に見つめる目をお与え下さい。そして、私たちから濁った闇ではなく、澄んだ光を放つことが出来ますようお導き下さい。これから聖餐の恵みに与ります。どうか、いつの日か礼拝に出席しておられる全ての皆さんと共に聖餐の恵みに与ることが出来ますよう、私たちに真の光である聖霊を注ぎ続けて下さい。お願い致します。これらの貧しき願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。先週も、全国、全世界で悲しみの涙、怒りの涙、嘆きの涙が流されました。どうか主よ、あなた様の御手でお一人お一人の涙を拭って下さい。主よ、今、熱心に求道生活を続けておられるお一人お一人に御霊を注ぎ続けて下さい。そして御心ならば、信仰告白、洗礼への決意をお与え下さい。主よ、来週の主日は家族礼拝、また午後にはバザーが行われます。どうか良き伝道の機会として用いて下さい。そのために心を込めて奉仕しているお一人お一人を強め励まして下さい。さらに11月20日には、逝去者記念主日礼拝が行われます。愛する家族を失い、今も深い悲しみの中にあるご遺族を慰め、励まして下さい。どうか、一人でも多くの皆さんと逝去者を記念する礼拝を守ることが出来ますようお導き下さい。東北、北関東、熊本、大分、北海道、鳥取などの被災地を深く憐れんで下さい。そして今朝も、それぞれの地でまもられている主の日の礼拝を祝福し、慰めと励ましを注ぎ続けて下さい。お願い致します。今朝も様々な理由により、聖餐に与る主日の礼拝に集うことの出来ない方々を深く憐れんで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝の
ものなればなり。アーメン。

2016年10月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 列王記上 第10章1節~13節、新約 ルカによる福音書 第11章29節~32節
説教題:「ここに、ヨナにまさるものがある」    
讃美歌:546、12、250、Ⅱ-191、542

 先週の主日は、皆さんと共に秋の特別伝道礼拝をまもることが許されました。森島 豊先生が心を込めて語って下さった説教から、慰めと励ましを頂きました。また、その前の主日は、東日本連合長老会講壇交換のため、私は清瀬信愛教会で説教となり、東村山教会では竹前 治牧師が説教をして下さいました。よって、皆さんの前で説教をさせて頂くのは三週間振りとなります。東村山教会の牧師として、東村山教会の皆さんに説教をさせて頂ける恵みを改めて主に感謝申し上げます。早速、今朝の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。
29節、「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた」。ここで「ますます増えてきた」と訳された原語を調べると、「どっと押し寄せる」という意味の言葉でした。主イエスの周りに群衆がどっと押し寄せた。群衆がどうしても欲しいものがあるので、どっと集まって来たのです。
ところが、主イエスの口調は厳しかった。「今の時代の者たちはよこしまだ」。「今の時代」と訳された原語には、「あなたがたの時代」という意味があります。主イエスは、「あなたがたの時代は悪であると同時に、悪の時代を形成しているあなたがたも悪である」と断定されたのです。
なぜ、主の口調は厳しかったのでしょう?29節後半にその理由が書かれております。「しるしを欲しがる」。私たちも様々な不安に襲われると、何らかのしるしを求めます。健康に不安が生じると、あの有名な先生の診断、治療なら間違いないと安心する。将来の生活に不安を感じると、これだけの蓄えがあり、生命保険に加入したので安心と考える。子どもの教育、親の介護も同じ。あの学校に入れたから安心。あの施設に入れたから安心。しるしを欲しがるのは、主イエスの時代の群衆だけでなく、現代を生かされている私たちも同じです。
群衆も私たちと同じようにしるしを欲しがる。主の十字架と復活による救い、聖霊の働きを通して与えられる真の平安を求めることなく、目で確かめられるしるし、悔い改めの心を持たずして獲得出来るしるしに群がった。主イエスにどっと押し寄せた群衆は、悔い改めることなく、主イエスに対し、「しるしをくれたら、救い主と信じてやろう!」と、しるしを求めたのです。
その意味で、私たちの心の全てをご存知の主イエスがお怒りになられるのは当然です。しかし、主イエスはお怒りになっておしまいではない。そのようなしるしを求める私たちのために、すでに十字架への道を歩んでおられるのです。私たちであれば、他者に厳しい言葉をかけたあとのフォローはなかなか難しいものです。けれども、主イエスは真の人であると同時に、真の神であられる。だからこそ、群衆を悔い改めに導くために厳しい言葉をかけた上で、父なる神の御心に従い、黙々と十字架への道を突き進んで下さるのです。
さて、今朝の御言葉には、旧約聖書の二つの物語が記されております。まず29節後半から預言者ヨナが登場します。7月17日の礼拝後に行われた教会学校サマーフェスティバルでは、ヨナ書の御言葉を味わい、子どもたちは魚の形のクッキーや工作を作り、中高生はニネベの都のジオラマを作成しました。ここで、ヨナ書のあらすじを確認したいと思います。
預言者ヨナは、イスラエルにとって脅威の大帝国アッシリアの首都ニネベに行きなさい!と神に命じられました。しかしヨナは、様々な思いを抱き、神の命令を断ったのです。ヨナは神から逃れようと、ニネべとは反対のタルシシュ行きの船に乗り込みました。その結果、神の怒りにより船が転覆しそうになり、ヨナは手足を捕えられ、海へ放り込まれたのです。けれどもヨナは、神が用意して下さった巨大な魚に呑まれ、命を守られました。救われたヨナは、巨大な魚の腹の中で三日三晩、悔い改めの祈りを献げたのです。その後、魚に吐き出されたヨナは、ニネベの都に到着。悔い改めたヨナは、神が命じられた通り、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と告げたのです。ヨナは語りつつ思っていました。「よこしまなニネベの人々が、私の忠告を聴いて、罪を悔い改めるはずがない」。しかしです。大帝国アッシリアの王が「人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」と真剣に罪を悔い改めた。その結果、神は災いを下すのをやめられたのです。以上より、神は悔い改める者には、ユダヤ人のみならず異邦人をも救いたい!と強く望んでおられることがわかります。
続く31節に入ると、南の国の女王が登場します。南の国の女王とは、今朝の旧約聖書の御言葉、列王記上第10章1節以下に登場する「シェバの女王」のことです。シェバは、現在のイエメン(中東のアラビア半島の先)周辺で、イスラエルの首都エルサレムから見れば、まさに地の果てなのです。
その地の果てからソロモンの知恵を聞くために、はるばる女王がやって来た。それは、神の言葉を聞くためにやって来たということです。シェバの女王が、ソロモンの知恵、神の言葉に圧倒され、膝を屈めた。「そうした悔い改めの心があなたがたにはあるか?」と主は群衆に真剣に問うておられるのです。
実は、列王記上第3章を読みますと、ソロモンは、王として立てられるとき、主なる神から「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたのです。そのときソロモンは、長寿や富を求めることなく、「善と悪を判断することができるように、この僕(しもべ)に聞き分ける心をお与えください」と願ったのです。神は、ソロモンの願いを大いに喜び、願いに応え、ソロモンに知恵に満ちた賢明な心をお与えになられ、求めることのなかった富と栄光もお与えになられた。その結果、ソロモンの王国は栄えに栄えたのです。そうした評判を聞いてやって来た女王は、ソロモンの言葉を聞いた後、「あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように」と主を賛美したのです。この賛美は、アラビア半島の先、地の果ての異邦人による賛美であることを忘れてはなりません。
 だからこそ、主イエスは群衆に悔い改めを求めつつ、真剣に語られるのです。「あなたがたイスラエルの民にはない信仰が、ニネべの人々、シェバの女王にある。ニネベの人々、シェバの女王はどちらも異邦人だ。異邦人こそ、主なる神の救いを真剣に求め、悔い改め、その結果、神の祝福を頂き、高らかに神を賛美しているのだ。このような異邦人の信仰こそ、ソロモンにまさっている」。
主イエスは、ニネベの人々、そしてシェバの女王の信仰を高く評価しておられます。それに対し、悔い改めることなく、しるしのみを欲しがる群衆を愛の鞭で叩いたのです。「あなたがたは、しるしに飢えている。それに対し、ニネベの人々、シェバの女王は真剣に悔い改めた。悔い改めない限り、あなたがたが救われることはない。どうか、真剣に悔い改めて欲しい。そして、真の救いのしるしである私の十字架と復活、そして再臨の約束を信じて欲しい」。
 昨日は、明治学院東村山高等学校のチャペルで、宗教改革記念礼拝の説教を主から託して頂きました。高校生750名を前に、宗教改革の心を語りました。11年前、この会堂を建築しているとき、毎週の礼拝で用いていたチャペルで語らせて頂いたことに深い感謝の思いを抱きました。昨日も、初めから終わりまで語らせて頂いたのは、悔い改めの祈りの大切さです。
明日、10月31日は今から499年前の1517年にマルティン・ルターがドイツのヴィッテンベルク城(しろ)教会に95個条の提題を貼り出した日と言われております。中世カトリック教会は、「贖宥券(免罪符)を購入すると罪が赦される」と主張し、贖宥券を発行しておりました。しかしルターは、「罪の赦しには、悔い改めの祈りが不可欠である。逆に言えば、日々、悔い改めの祈りを献げていれば、贖宥券を買わなくとも罪は赦される。むしろ、贖宥券を購入し、私の罪は赦されたと、悔い改めの祈りを怠り、困窮している者を無視する者は、神の怒りを招く」と主張したのです。今朝の、主の言葉にも通じる主張です。もしかすると、ルターは今朝の御言葉に書かれている「しるし」と贖宥券を重ねたかもしれません。悔い改めることなく富で得た「しるし」には、救いはない。ニネベの人々が、ヨナの説教を聞き、悔い改めたように、贖宥券という「しるし」を得て満足し、悔い改めの祈りを怠るならば、そこに救いはない!と主張したのだと思います。
主イエスは、私たちを本気で救いたい!と願っておられます。それなのに、私たちは目に見える「しるし」で満足し、目に見える「しるし」がないと不安になる。そのような私たちに、主は語っておられます。「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある」。
 主イエスは、悔い改めの祈りを献げる者を本当に救って下さいます。実際に主は、群衆から一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫ばれ、さらに「十字架につけろ」と叫ばれた。その結果、主イエスは十字架の上から、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫び、息を引き取られました。この事実こそ、救いのしるしです。この事実を知った私たちは、日々、悔い改めの祈りを祈らざるを得なくなる。しかも主は、三日目の朝、力強く復活されたのです。私たちキリスト者には、こんなにも確かな「しるし」が与えられている。主の十字架の死と復活。さらに再臨の約束まで与えられている。その「しるし」を100%信じ、これからの歩みを主に委ねたい。毎日、気持ちの滅入る事件や事故が報道されております。私たちの罪を突きつけられる。だからこそ日々、悔い改めの祈りを献げ、私たちの罪のために十字架で死に、三日目に復活され、再び世に来て下さる真の救いの「しるし」主イエス・キリストを信じ続けたい。心から願うものであります。

(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。私たちは、不安に襲われると、どうしても目に見えるしるしが欲しくなります。しかし、今朝の御言葉を通し、あなた様の御子、主イエス・キリストこそ、真の救いのしるしであることを改めて心に刻むことが許され、重ねて感謝申し上げます。どうか日々、悔い改めの祈りを献げ、あなた様から愛され、罪を赦され、生かされている者として、主に従って歩む者としてお導き下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。今朝も、全国、全世界で悲しみの涙が流れております。怒りの涙もあります。戦争があります。自然災害があります。避難生活があります。交通事故があります。核実験があります。原発もあります。裁判があります。愛する者の死があります。言葉の暴力があります。嘆きがあります。あなた様が今、私たちよりも深いところで悲しまれ、涙を流し、嘆いておられると信じます。主よ、どうか今、うずくまっている方々を深く憐れんで下さい。主よ、どうか今、怒りに震えている方々の心を強引ではなく、ゆっくり静めて下さい。そして、いつの日か、あなた様の平和が全世界に満ち溢れるようお導き下さい。主よ、今、熱心に求道生活を続けておられるお一人お一人に御霊を注ぎ続けて下さい。そして御心ならば、信仰告白、洗礼への決意をお与え下さい。お願い致します。主よ、教会学校の働きを祝福して下さい。今朝も、幼児から高校生まで、たくさんの子どもたちがあなた様から託されました。そのために労しておられる教会学校教師を祝福して下さい。今朝も、様々な理由により、主の日の礼拝に集うことの出来ない方々を憐れんで下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2016年10月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第121篇1節~8節、新約 ルカによる福音書 第11章14節~28節
説教題:「神の国は あなたたちのところに来ているのだ」    
讃美歌:546、15、85、301、539、Ⅱ-167

今朝のルカ福音書の御言葉には、「悪霊」が何度も登場します。24節では「汚れた霊」も登場する。「聖霊」の働きを重視する福音書記者ルカが、今朝の御言葉には「聖霊」ではなく、「悪霊」を繰り返し登場させているのです。なぜでしょう?もしかすると、ルカ自身、悪霊に繰り返し襲われ、悪霊に負け続けた。だからこそ、悪霊のしぶとさを語っているのかもしれません。しかし、ルカが本気で伝えたいことは、悪霊のしぶとさではないはずです。悪霊を追い出す神の指、つまり聖霊の働きを信じ続けるなら、神の国が私たちのところに来ている喜びに包まれる!との思いであることは間違いありません。同時に、悪霊のしぶとさを馬鹿にすると、悪霊に負けてしまう。いや、悪霊にどっかり居座られてしまう。どうすれば、悪霊を私たちから追い出すことが出来るのか?そのような問いに、ルカは主イエスの御言葉を通して、今朝、私たちに答えてくれるのです。
14節の冒頭にゴシックで「ベルゼブル論争」とある。「ベルゼブル」とは、15節にあるように「悪霊の頭」を意味します。群衆は、悪霊を追い出した主イエスに対し、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と本気で信じていたのです。また16節に「天からのしるしを求める者がいた」とあるように、「あなたがしていることは、神の御業である」との神の証明書を発行することができるか?と主を試す者までいたのです。こうした人々に取り囲まれた主イエスは、「彼らの心を見抜いて言われ」ました。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何(なん)の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」。
主は、「天からのしるしを求める者」に、「天からのしるし」を見せるのではなくて、ご自分の地上での御業を見せつつ、丁寧に一言、一言、お言葉を語り続けて下さるのです。
続く20節、今朝の御言葉の中でも特に心に響きます。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。キーワードは二つ。一つは「神の指」。もう一つは「神の国」です。まず「神の指」を味わいたい。
「神の指」は、旧約聖書出エジプト記第8章に登場します。モーセとエジプトのファラオとの対決が続いている場面です。ファラオにはお抱えの魔術師がいる。モーセが、杖でナイル川を血の色に変え、カエルを全土に溢れさせたように、魔術師も同じことが出来ました。その後、モーセが杖で土の塵を打つと、土の塵がすべてブヨとなり、エジプト全土に広がって人と家畜を襲った。魔術師も秘術を用いて同じようにブヨを出そうとしたのですが、できなかった。そこで、魔術師はファラオに「これは神の指の働きでございます(8:15)」と言ったのです。人には出来ない奇跡的な業に関して「神の指」という言葉が使われています。主イエスの時代の群衆は、神がこのような奇跡をなさることを知っており、信じていたはずです。しかし、主イエスが、ある人から悪魔を追い出し、口の利けない人がものを言い始めても、それが「神の指」の働き、つまり聖霊の働きであると信じることは出来ませんでした。
 次に「神の国」を味わいたい。「国」と翻訳された原語は、「バシレイア」というギリシア語で、「支配」を意味する言葉です。主は宣言しておられる。「神の国(神の支配)はあなたたちのところに来ている」。
 カール・バルト、ディートリッヒ・ボンヘッファーと共に20世紀における最も卓越し、最重要の神学者のひとりに数えられる存在のハンス・ヨーアヒム・イーヴァント(1899~1960)は、聖書にひたすら聞き、徹底して黙想した牧師であり神学者でした。
 イーヴァントの『ゲッティンゲン説教黙想集』の中に、20節の御言葉への黙想がある。「(主が)『わたしが、神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ』と言われるとき、事はすでに現実のものとなっているのである。神の国についてのこの言葉は、あらゆる議論というものを爆破してしまうのである。(中略)『神』の指は、そのように定められた神の国の深みにまで突入してきているのである。悪霊の国は、悪霊より解放された者たちの手によって破壊されており、その破壊のなかに、神の国は、その到来の痕跡(こんせき)を示すことであろう」。
 イーヴァントは「破壊」、「爆破」という激しい言葉を用い、「すでに悪霊の支配は破壊された。なぜなら、神のご支配は現実となっているのだから」と断言しているのです。
イーヴァントの黙想が激しいように、今朝の御言葉で気になるのは、「追い出す」、「内輪で争う」、「武装する」、「襲って来る」、「奪い取る」等、激しい言葉の数々です。全て「戦い」を表す言葉です。実際、神とサタンは日々、戦っています。神は主イエスを遣わし、サタンは悪魔を遣わし日々戦っている。私たちキリスト者は、神の国が到来していると信じております。しかし、この世には悪霊の仕業としか思えない悲しい出来事が続いています。
実際、主イエスは24節以下でこう語っておられる。「汚(けが)れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後(あと)の状態は前よりも悪くなる」。
汚れた霊も、聖霊には負けます。だからこそ、私たちに聖霊が満ち溢れると悪霊も逃げ出す。しかし、悪霊はしぶとい。暫くの間、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、悪霊は安住の地である私たちの中に、スーッと戻って来る。悪霊にとって、私たちは安住の地です。居心地がよい。神が聖霊を注いで下さり、悪霊を追い出し、整えられた。しかし日々、聖霊の注ぎを祈り求めていないと、すぐに悪霊が戻ってしまう。しかも、以前よりも強力な悪霊が入り込み、住み着く。私たちの中から聖霊というパワフルな存在がいなくなると、すぐに汚れた霊が戻って来てしまう。それが私たちなのです。
スイスで生まれ、ドイツで活躍した新約聖書神学者アドルフ・シュラッター(1852~1938)は、24節から26節について、イーヴァントと同じように激しい口調でこのように解説している。「中途半端な悔い改め、つまりサタンからの永久的な解放ではない、サタンへの服従からの〔生半可な〕転向、たえず神に帰って行き、そこに固く保たれていることのない神の助けの経験は、最後にはひどい堕落で終るのである」。
イーヴァント、またシュラッターは悪霊のしつこさを痛感していたはずです。中途半端な悔い改め。確かにあの瞬間、私は悔い改めた。それは間違いない。けれども、そんなに甘いものでない。一度、180度回心しても、また徐々に、180度が179度に、179度が178度に、ある出来事により、178度が100度に。そして知らず知らずにグルッと回転したのに、また元に戻ってしまうことは私たちも知っております。そうなると悪循環。「どうせまた元に戻ってしまう」と開き直り、聖書を開くこともなくなる。礼拝からも遠ざかる。それでも生きていけると思い込んでしまう。しかし、主は、明確におっしゃる。「それでは、いったい私は何のために神の指(聖霊)を用いて悪霊を追い出したのか。確かに、あなたたちのところに神の国、神の支配は到来しているのだ。なのに、なぜ神の言葉を聞き続けない。神の言葉を守らない。繰り返し告げる。求め続けなさい。そうすれば、必ず与えられる、聖霊が。探し続けなさい。そうすれば、必ず見つかる、聖霊が。門をたたき続けなさい。そうすれば、必ず開かれる、神の国が。『天の父は求め続ける者に聖霊を与えてくださる』と語ったばかりではないか。なぜ、求め続けない。なぜ、神の言葉を聞き続けない」。
主イエスの心からの願いです。「汚れた霊に苦しみ続けるあなたをもう私は見たくない」と主は本気で願っておられる。「確かに悪霊の力は強い。しかし、聖霊こそ、あなたに相応しい。あなたが神の言葉を聞き続け、それを守ろうとするならば、必ずあなたから悪霊は逃げていく。悪霊が逃げていったあなたは、幸いだ!」と。
28節で「守る人」と翻訳された原語には「見守る」という意味があります。さらに「見守る」に込められているのは、「目を覚ましている」ことです。深夜の警備を頼まれた人がグッスリと眠ってしまったら、何の役にも立ちません。目を覚まし、見守り続けていなければだめです。神の言葉に、どんなときも目を覚まし、神の言葉が、どんなときも生きて働くよう見守り続ける。そういう意味の言葉です。
 悪霊は、私たちから出て行っても、必ず戻って来ます。もしも空き家ならば再び住みつく。強力な七人の仲間を引き連れて。そうなると、私たちの状態は前よりも悪くなるのは当然です。しかし、主イエスは私たちが願うよりも強く、私たちが幸いに生きることを真剣に願っておられる。だからこそ、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」とおっしゃるのです。
礼拝において御言葉を聞き続けることは本当に大切です。礼拝を守ることは、強制されることではなく、本当に幸いなことです。神の言葉を聞き続けると、私たちの中に聖霊が満ち溢れます。そのとき、私たちの中に住み着いた汚れた霊も、居心地が悪くなり、出て行くのです。
本日は、私たちの群れに新しい神の家族が加えられました。F兄弟、F姉妹。お二人にも、もしかするとこれまでの長い教会生活において、悪霊の力に襲われたような辛いご経験があったかもしれません。しかし主は、明確におっしゃられた。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。
最後に、イーヴァントの黙想論を加藤常昭先生が翻訳して下さった書物から、イーヴァントの確信に満ちた言葉を味わいたい。「神の言葉がわれわれのなかに住むということになれば、それは、神の言葉がわれわれを照らす言葉となっていることを意味する。そのときには、われわれの目が真理を認識し始める。真理を見つめ始める。そして、われわれが現実と呼び慣れているもの、しかし結局はただ悪の現実、罪の現実、死の現実、神については何も知らず、また知ろうともしない人間の現実を、もはや見ようとはしなくなるのである。そうなれば、われわれが『見ている』と称するこの現実、従って常に希望なく、欺瞞(ぎまん)に満ち、しかも神とその言葉から捉えられているわけではない現実に対する、このような偽りの、悪い信仰は、われわれのこころのなかから、一歩一歩逃げ出していくことになる」。
もっともっと引用したい言葉が続きますが、ここまでにします。主イエスが語られたようにイーヴァントも語る。「神の言葉がわれわれのなかに住むということになれば、それは、神の言葉がわれわれを照らす言葉となっていることを意味する。そのときには、偽りの、悪い信仰は、われわれの心のなかから、一歩一歩逃げ出していくことになる」。
気を抜くと、私たちの中にスーッと悪霊が戻ってしまいます。だからこそ、教会に通い続け、御言葉に耳を傾け、「御国が来ますように」と祈り続ける。そのとき、聖霊によって神の愛が溢れるほどに注がれ、私たちの心から悪霊は一歩一歩逃げ出しのです。本日、私たちの群れに新しく加えられた神の家族と共に、礼拝を守り、主を高らかに賛美し続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。私たちは、すぐに悪霊に支配されてしまいます。聖霊を求め続けていないと、私たちは、悪霊にとって居心地のよい空間になってしまいます。どうか、聖霊を日々注ぎ続けて下さい。聖霊を注いで頂く私たちも、主の日の礼拝、日々の祈りを通し、御言葉に触れ、「御国が来ますように」と主の祈りを祈り続ける者として下さい。どうか、まどろむことなく目を覚まし、たとえまどろんでしまっても、日々、あなた様によって目を開いて頂き、あなた様を心に迎え続ける者として下さい。これらの貧しき願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。先週も悪霊の業としか思えないような事件、事故が続いております。今、深い悲しみの中にある方々、怒りと憎しみに震えている方々の心に聖霊を溢れるほどに注ぎ続けて下さい。争いが続いています。偽りが語られております。自然災害も全世界で猛威を振るっております。どうか、私たちが今、何を祈るべきなのか、日々、お示し下さい。来週の主日は、東日本連合長老会の講壇交換、10月23日は秋の特別伝道礼拝を守ります。どうか、そのために準備しておられる説教者を強め励まして下さい。本日は、転入会式があなた様の祝福の中で執り行われました。私たちの群れに新しく加えられた神の家族であります。転入なさられたF兄弟、F姉妹のこれからの歩みをあなた様がしっかりと守り、導いて下さい。どうか、Fさん御夫妻の御家族の上にも神様の力強いお導きがありますよう祈ります。今日は神学校日、伝道献身者奨励日です。熱心に学んでおられるT神学生を強め、励まして下さい。また竹田神学生と共に学んでおられる神学生を力強く導いて下さい。どうか、T神学生に続く伝道献身者をお与え下さい。今朝も、主の日の礼拝を慕いつつ、様々な理由により、どうしても主日礼拝に集うことの出来ない方々を憐れんで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2016年10月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第4篇1節~9節、新約 ルカによる福音書 第11章5節~13節
説教題:「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」    
讃美歌:546、7、71、Ⅱ-1、Ⅱ-196、545B

主イエスは、弟子たちの求めに応じ、「主の祈り」を教えて下さいました。続けて主は、父なる神が私たちに期待しておられる祈りの心について、譬えを用い、丁寧に語り始めたのです。
「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう(11:5~8)」。
 シンプルな譬えです。真夜中に旅行中の友達が我が家に立ち寄った。旅人をもてなすことは大切である。しかし、パンは一つも残っていない。そこで、友のところへ行き、「パンを三つ貸して欲しい!必ずパンを焼いたときに返す」と頼んだ。最初は断られた。それでも、諦めずに何度も、繰り返し頼んだ。その結果、友達は起きて来て、願いを聞いてくれたという譬えです。
パンを求められた友は、もしかすると貧しく、一部屋しかない家で暮らしていたかもしれません。家族全員が部屋の片隅で、床より高くした台の上で子供たちと一緒にグッスリ眠っていた。床には家畜もいたかもしれません。そんな真夜中に、友達の突然の願いに応えることは難しい。しかし、旅行中の友達をもてなさなければ!と、「友よ、パンを三つ貸してください」と執拗に頼んだ。その結果、根負けした友は、起きて来て必要なものは何でも与えたのです。
この譬えで強調されているのは、真夜中だろうが何だろうが、執拗に頼めば、「友は必ず応えてくれる!」という友への絶対的な「信頼」です。譬えに登場するパンを頼まれた「その人」は、前後の文脈から判断すると、13節に登場する「天の父」、つまり神様であることは間違いありません。
もう少し譬えを味わいたいのですが、「友よ、パンを三つ貸してください」とある。「貸してください」ですから、「パンを焼いて返します」という約束です。しかし、7節に「起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」とあるように、「その人」の頭には、「貸す」という言葉はない。「貸す」ではなく「あげる」しか頭にないのです。実際、7節から13節までに「与える」という言葉は六回も登場します。「その人」は、執拗に頼まれると、「貸す」ではなく「与える」。しかも「三つのパン」で終らない。「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与える」のです。まさに、私たち人間ではなく、父なる神の無償の愛です。主イエスは、「祈りとは、父なる神を100%信頼し、遠慮することなく、執拗に願い続けることだ!」と教えておられるのです。
8節で「しつように頼めば」と訳された原語は、「恥知らず」と訳してもよい言葉です。主は、5節以下の譬えを通し、簡単に起きてくれない「その人」の家の戸を、たとえ深夜でも、ドンドン!ドンドン!と叩き続ける心を私たちに熱く求めておられるのです。
私たちの祈りはどうでしょう?早朝から深夜まで「オギャー、オギャー」と泣き叫ぶ赤ちゃんに対して、母親が産後鬱になるように、私たちも赤ちゃんのように泣き叫び、「頼むから、これ以上、面倒をかけないでくれ」と父なる神が困り果てるほど、神を信頼し、「父よ、苦しいです!父よ、これからどうすればよいのですか?」と父なる神に訴え、泣き叫ぶ祈りになっているでしょうか?
父なる神は、日々、私たちの魂の叫びを待っておられます。もちろん、感謝の祈り、執り成しの祈り、懺悔の祈りも大切です。同時に、「ああして欲しい!こうして欲しい!どうして?なぜ?」という神にとって、困ってしまう叫びを求めておられるのだと思います。私たちは、神への祈りにおいてすら、先の先まで考え、落胆しないよう無意識に調整しているのかもしれません。しかし、神様は全能なる御方です。確かに、私たちの世には偽りがあり、争いがあり、どんなに祈り続けても、どうせ無理!と諦める空気が蔓延していることは否定できません。その諦めの思いが、神に向けられてしまう。神に、こんなことを祈っても無駄。もしかすると、神から「あなたには、祈る資格すらない!」と怒られてしまいそう。いや、私の祈りなど無視され、馬鹿にされておしまいと祈る前から諦めてしまう。しかし、主はそのような心を深く悲しまれる。「なぜ、私を信頼して祈らないのか。なぜ、祈る前から諦めるのか。私はあなたの父だ。あなたを創造したのはこの私だ。だからあなたは子として、私に叫んでいい。甘えていい。なぜ、そのことがわからない」。
私たちは、突然の試練に襲われると、「なぜ、こんな苦しみを経験しなければならないのか、私が何をしたというのか!」と嘆き、神様に祈る気持ちになれないことがあります。けれども、そのようなときこそ、その嘆きを、父なる神にぶつけて頂きたい。最初に「父よ!」と呼び、同じ言葉で祈る。「父よ、なぜ、こんな苦しみを経験しなければならないのか、私が何をしたというのか!」。神への立派な祈りです。父なる神を100%信頼しているからこそ、父なる神に子どものように泣きながら叫ぶことが出来る。その叫びに父である神も喜んで耳を傾けて下さる。いや全身で受け止めて下さる。私たちは、この祈りを大人として父なる神に祈るのではなく、子どもとして、いや赤ちゃんとして父なる神に叫び続けたい。
主は続けます。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる(11:9~10)」。
東神大で、忘れることの出来ない講義があります。学部3年のギリシア語の講義で三永旨従(みなが・むねつぐ)先生が、この御言葉について語られた姿を忘れることが出来ません。語学の苦手な私はギリシア語の講義は苦痛でした。しかし、その日の講義で、先生が語られたことは、今もしっかり覚えています。先生はこのように教えて下さいました。「『求めなさい』、『探しなさい』、『たたきなさい』の動詞は、『命令法現在』。つまり、継続することが大切。主は、一回で終わりではなく、求め続け、探し続け、叩き続けることを求めておられるのだ」。
細かい話になりますが、ギリシア語の命令法は、現在形と過去形があります。命令法において、現在形と過去形は、時の現在と過去を表わすのではなくて、動作の様態を示します。つまり、現在形ならば「継続的な行動」、過去形ならば「一度だけの単発の行動」を表します。よって、9節の御言葉は、「命令法現在」ですから、「求め続けなさい」、「探し続けなさい」、「たたき続けなさい」という意味になるのです。この学びは、脱サラして学部3年に編入学した私にとって、大きな励ましとなりました。脱サラし、主のお召しを信じ、神学校での学びを始めた。しかし、固くなった頭には神学の学びがスッと入っていかない。予想以上に課題も多い。寮の真夏の暑さは異常、真冬の寒さも堪える。そのような三鷹の寮と横浜の実家の二重生活を続けながら、神学の学びを続けられるのか、牧師として歩めるのか、不安が不安を呼び、神学の学びを断念することになるかもしれない。しかし、神学校を退学してしまったら、どうやって家族を養うことができるのだろう。もう銀行員には戻れない。そうだ、「主よ、どうすればよいのですか?」と真剣に祈っても一回ではダメ。主が教えて下さったように、父なる神に全てを委ね、主のお召しを100%信頼し、牧師の道を求め続け、探し続け、たたき続けていこう!と、ギリシア語の講義から教えられたのです。
主は続けます。11節以下「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。
魚を欲しがる子供に蛇を、卵を欲しがる子供にさそりを与える親はいません。確かに、私たちは悪い者です。マイナスの力が働くと、神に背を向けてしまう。そのような私たちも、我が子には良い物を与えることを知っています。だからこそ主は、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と語るのです。主は続けます。「父なる神は、求める者に聖霊を与えて下さいます。だから、神様に全てを委ね、『父よ』と祈り続けて欲しい。だれでも、求め続ける者は受け、探し続ける者は見つけ、門をたたき続ける者には開かれる」。
 ところで、祈り続けていると、あるとき、ハッと気がつくことがあります。私たちが主を求め、探し、門をたたいていると、主も同じように、私を求め、私を探し、心の戸をたたいておられることがわかるようになる。まるで、トンネルの向こうとこちらと、それぞれ穴を掘り続け、あるところで貫通し、トンネルが開通する。こちらから穴を掘り続けた人がいるように、向こう側にも、穴を掘り続けた人がたくさんいる。その両者が、トンネルが貫通した瞬間、共に抱き合い、涙を流して喜び合う。青函トンネルのドキュメントを見たとき、試練の連続の工事だったことを知りました。何人もの尊い命が犠牲になった。そのような深い悲しみを経て、青函トンネルが開通したときの、男たちの涙に私も涙が溢れたのです。
私たちも、真っ暗な闇のようなトンネルの中をさまようことがあります。先が全く見えない。いくら叩いても、いくら掘っても、先が見えない。向こうの音も聞こえない。しかし、父なる神様は、確実に私たちの心の戸をトントン、いや、ガンガン叩いておられる。とても不思議なのは、神様は、私たちも神の戸をたたき続けないと、強引に心のトンネルを貫通なさらない。ダイナマイトをドカン!と爆発させるように強引に私たちの心の戸を貫通されません。強引ではなく、私たちが、救いに至る道を求め、探し続ければ、また日々の祈りによって神の戸をたたき続ければ、必ず、私たちの祈りに応えて下さり、聖霊を注ぎ、信仰告白、洗礼へとだれでも導いて下さるのです。
ヨハネの黙示録にこうに書いてある。「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう(3:19~20)」。
 今、私たちの目の前に主の食卓が備えられております。十字架と復活の主が備えて下さった命の食卓です。命の食卓に与ることは、決して難しいことではありません。日々の祈りによって神を求め続け、探し続け、神をたたき続ける。「これからの生涯を、主と共に歩んでいきたい。主から頂く聖霊に満たされて歩んでいきたい」と祈りつつ、「私の悪を誰にも見せたくない!」とがっちりガードしていた心の戸を父なる神に向けて解放する。その瞬間、聖霊が注がれ、神とのトンネルが開通する。たとえ、闇のような恐れに再び襲われても、もう一人ではない。主が共におられ、暗闇だったトンネルにも、主の復活と再臨の光が溢れるほどに注がれているのです。求道者の皆さんには、心の戸を開いて頂きたい。聖餐式の後、共に賛美します。「すくいぬしは/待っておられる、おむかえしなさい。こころをさだめ今すぐ/主にこたえなさい。いままで主は 待たれた、いまも主はあなたが/こころの戸を開くのを/待っておられる。ひとあし主に近づくなら/受けてくださる。こころのやみは消え去り/愛がわきでる。いままで主は待たれた、いまも主はあなたが/こころの戸を開くのを/待っておられる」。
 求道者の皆さんも、すでに洗礼を受けた私たちも、日々、心の戸を開き続け、心の中に主に入って頂きましょう。その瞬間、私たちの心の闇は消え去り、主への愛が湧き出ると共に、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に溢れるほどに注がれるのです。(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。
私たちは、試練の中で祈るとき、これほど真剣に祈ったのに、あなた様は私の祈りを無視された!と怒り、祈ることを諦めます。しかし、今朝の御言葉を通して、祈り続けることの大切さを教えて下さり、重ねて感謝申し上げます。どうか、どのような試練の中にあっても、あなた様が常に私たちの祈りに耳を傾け、心の戸をたたき続けて下さることを信じ、私たちも、あなた様をたたき続け、お互いに心の戸を開き、永遠の命に至る道を歩む者となさしめて下さい。特に今、求道生活を続けておられる方、病と闘っておられる方に聖霊を溢れるほどに注ぎ、求道者の方、病と闘っておられる方が喜んで心の戸を開くことが出来ますようお導き下さい。これらの貧しき願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。伝道の秋を迎えました。10月23日には秋の特別伝道礼拝を守ります。どうか、暗いトンネルの中をさまよっている方に父なる神と出会う機会として、秋の特別伝道礼拝を存分に用いて下さい。今日の主日礼拝後には、転入試問会を予定しております。真剣に祈りつつ転入会を決断なさられたF兄、F姉の決断をあなた様が受け入れて下さり、御心なら、来週の主日に転入会式を執り行うことが出来ますようお導き下さい。東村山教会には、たくさんの求道者があなた様から託されております。今、それぞれの手を用い、一所懸命にあなた様の戸をたたいておられます。どうか、あなた様が喜んで戸を開いて下さい。求道者の方々も、同じように喜んで心の戸を開き、あなた様より溢れるほどの聖霊を注がれ、もっとも相応しいときに、信仰告白、洗礼へお導き下さい。そして本日は、与ることの出来なかった聖餐の恵みに共に与ることが出来ますようお導き下さい。今朝も、主の日の礼拝を慕いつつ、様々な理由により、どうしても主日礼拝に集うことの出来ない方々を憐れんで下さい。全国、全世界の被災地の諸教会を深く憐れんで下さい。キュリエ・エレイゾン主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2016年9月25日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第63章16節、新約 ルカによる福音書 第11章1節~4節
説教題:「父よ、御名が崇められますように」    
讃美歌:546、80、309、Ⅱ-157、545A

 弟子たちは、主が毎日「父よ」と神に祈っておられることを知っていました。弟子たちは、主に教えて頂きたいことがたくさんあります。その一つが「祈り」です。主に召されるまで、全く違う仕事をしていた弟子たちは、祈りは難しい!と思っていました。そこで弟子たちは、「主に『祈り』を教えて頂こう」と思い、主が祈り終わるのをじっと待っていたのです。
 主イエスの祈りが終わりました。そこで、弟子の一人が言ったのです。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と。主は言われました。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください』」。
 主は、弟子たちに「主の祈り」を教えて下さいました。主が教えて下さった「主の祈り」は、父なる神への呼びかけ「父よ」から始まります。パウロは、ローマの信徒への手紙に、こう記しています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥(おとしい)れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます(8:14~16)」。
 「アッバ」とは、主イエスの時代のユダヤ人が用いていたアラム語で、幼い子ども、あるいは小さな赤ちゃんが心からの信頼をもって父を呼ぶ時の言葉と言われます。まだ「パパ」とか、「ママ」と呼べない赤ちゃんは、アバアバと親を呼びます。そして、お腹が空いたときや、おむつを替えて欲しいときは、「オギャー」と泣き叫びます。つまり「アッバ」は、親に訴える、泣き叫ぶ、そのような言葉かもしれません。きちんと整った言葉ではなく、「私の叫びに耳を傾けて欲しい!」と必死になって呼び求める言葉、それが「アッバ」だと思います。
子なるキリストは、父なる神に祈るとき「アッバ、父よ」と呼びかけました。「アッバ、父よ」。こうしたシンプルな呼びかけは、当時の人々にとって驚くべき呼びかけでした。当時のユダヤ人、特に祭司や律法学者は、祈る時に長い修飾語をつけて神様に呼びかけたのです。「天地をお造りになり、統(す)べ治めたまい、我らイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出してご自身の民となしたまい、目の瞳のように愛してくださる偉大にして憐れみ深い並ぶ者なき唯一の神様」と祈り始めた。人々はそうした祈りが立派な祈りだと信じ、そのような祈りこそ、神様に喜ばれると信じていたのです。しかし、主イエスは、そのような祈りではなく、シンプルに「アッバ、父よ」と呼べばいい!と教えて下さった。祈りは、そんなに難しいものではないし、長い修飾語は不要!と教えて下さったのです。
 繰り返しになりますが、赤ちゃんがママを呼ぶときに、「全く何も出来ない私をウンウンと苦しみつつ産んで下さり、深夜でもミルクを飲ませて下さり、どんなに疲れていても、私のおむつを取り替えて下さる偉大なる母よ」と呼ぶことはありません。ギャーギャーと泣き叫び、「アッバ、アッバ、ママ、ママ」と泣き叫ぶ。困ったとき、助けが必要なとき、苦しいとき、痛いとき、悲しいとき、私たち大人も長い修飾語をつけて祈ることはありません。そんな余裕はなくなる。もっとストレートに、もっとシンプルに神の名を呼ぶ。神に訴える。まさに「アッバ、父よ」と叫ぶ。その叫びを父なる神は喜んで下さるのです。「もっと親しく私を呼んで欲しい!遠慮なく私の名を呼び続けて欲しい!」と父なる神は、心から子である私たちに期待しておられるのです。
 弟子たちは、主に祈りを教えて頂くまで、祈りを難しく考えていたはずです。祭司や律法学者のように長い修飾語をつけて神様に呼びかけ、祈りを吟味し、祈るべきと考えていた。それが、主から教えられた祈りは、短く、シンプルである。しかも、長い修飾語はなく「父よ」と呼びかける。この事実を私たちも今朝、改めて心に刻みたい。
 私自身、信徒の時代が長かったので、特に感じますが、教会の集会で突然、「祈って下さい」と指名を受ける。もうその瞬間からドキドキとなる。祈りの直前に突然、指名されるのも困りますが、事前に指名を受けると、礼拝の間、講演の間、ずっと祈りを考え、説教も講演も上の空ということは何度もありました。先週は、東日本連合長老会の全体修養会が本郷教会で行われましたが、分団で昼食を頂く直前に、本郷教会の長老さんから「田村先生、閉会祈祷をお願いします」と頼まれ、すぐに「はい。わかりました」と答えましたが、信徒の時代であれば、もう弁当どころではなくなり、分団中も、必死に祈りのメモを書いていたと思います。しかし、今ではもうメモを書くことなく、お弁当も美味しく頂き、全体修養会の恵みをそのまま祈らせて頂きました。それでも、祈った後、「もっと、あのこと、このことも祈るべきだった」と思いましたが、しかし、神様は私たちが祈る前から私たちに必要なことをすべてご存知であられるのですから、赤ちゃんがママを信頼して泣き叫ぶように、聖霊に導かれるままに素直に大きな声で祈らせて頂きました。
 先週の木曜日は、東日本連合長老会の全体修養会、そして午後3時から会議があり、御言葉と祈りの会を休会させて頂きましたが、毎週の木曜の朝10時30分と午後7時からの「御言葉と祈りの会」では、本当に自由に参加される兄弟姉妹と共に祈ります。いつも強く感じるのは、祈りの輪の中心に、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神がおられるという思いです。日中働いている方や、遠方の方、子育て世代の方や、お年を召している方が祈祷会に出席することはなかなか難しいと思います。しかし、もっとたくさんの方々に祈祷会に出席して頂きたいと本当に願っております。「私は、立派な祈りが出来ない」とか「まだ求道者だから祈るのは難しい」と言い訳をせず、ぜひ、祈りの輪にもっとたくさんの方が加わって頂けたら、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊なる神がどんなに喜ばれるかと思います。
今朝は、最後まで「アッバ、父よ」にこだわりたいのですが、芳賀力先生の著書『神学の小径Ⅱ 神への問い』の中に「信仰の手引き」が記されております。あとがきに、このように書いてあります。「最後に付論として『信仰の手引き』を付けた。少しでも教義学が教会の実践に役立つことを願ってのことである」。芳賀力先生の祈りによって記された「信仰の手引き」に、「アッバ、父よ」の心を深く理解する上で参考になる問答が記されておりますので、そのまま紹介させて頂きます。

問101:どうして私たちは祈る時に、「天の父なる神さま」と呼びかけるのですか。
答:   私たちすべてのものを造られた方だからです。

問102:でも「父」という言葉には、何だか封建的な響きがあるように思えます。幼い時に父から虐待を受けたような人は、素直な気持ちで祈れないのではないでしょうか。
答:   最初はそういう戸惑いもあるかもしれません。しかし祈る相手は地上の父ではなく、天におられる私たちのまことの父なのです。天の父は聖書によれば、母の愛よりも深く私たちを憐れんでくださる方です。 
問103:それを聞いて安心しました。でもそれでは、別にキリスト教でなくてもよいように思いますが。
答:   実は、そのように安心して天の父に祈ることができるようにしてくださった方が、主イエスなのです。私たちは天の父のもとを離れ、自分勝手に人生を歩んでいました。感謝することも知らず、父の御心を悲しませることばかりしてきました。その私たちを父なる神のもとに連れ戻すために、御子である主イエスが来てくださり、十字架の贖いによってもう一度父の子供たちとして生きることができるようにしてくださったのです。 
問104:それで私たちはイエスさまの御名によって祈るのですね。
答: その通りです。御子の御名によって祈る時、聖霊が働いて、こんなにひどい私たちですが、父なる神の子供にしてくださるのです」。

父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神が私たちに働いて下さることにより、自分勝手に人生を歩み、感謝を忘れ、父の御心を悲しませていた放蕩息子の私たちを、父の家、父なる神のもとに連れ戻すために、主は世に来てくださり、十字架の上で死なれ、三日目の復活によって、私たちの罪を完全に赦し、死に勝利して下さった。その結果、私たちは一人の例外もなく、父なる神の子どもとして生きることができるようにされたのです。この事実を素直に主に感謝したい。確かに、私たちの中には、「父よ」と祈り始めることに何らかの抵抗を感じる方がおられるかもしれません。父に褒められたことがないとか、父にはいつも怒鳴られていたとか、父は私に無関心であった等それぞれ地上の父親に対し、色々な感情を抱いておられるはずです。しかし、そのような地上の父も、真の父なる神からすれば、かわいい子どもです。あのどうしようもない地上の父も、神様の御手の中にあるのです。だからこそ、父よ!と祈ることに抵抗があればあるほど、あの父の罪も赦して下さい!と祈り、あの父を赦せない私の罪を赦して下さい!と祈り続けるのです。
 今朝もこのあと、皆さんと「主の祈り」を祈ります。毎週の「御言葉と祈りの会」に出席することは難しいかもしれません。だからこそ主日礼拝で「主の祈り」を祈る時間を大切にしたい。「天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」。
 「主の祈り」を私たちが本気で祈るとき、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神も本気で私たちの祈りを聴いて下さいます。そのとき、私たちも他者の罪を赦せない自分に気がつく。だからこそ「主の祈り」を本気で祈り続けたい。全能の神に「『父よ』と祈ってよい」と教えて下さった子なるキリストに感謝したい。そして、赤ちゃんが「アッバ、アッバ」と泣き叫ぶように、私たちも安心して苦しいとき、悲しいとき、泣きたいとき、失望したとき、将来が見えないとき、「父よ!」と神を呼び、ゆっくりと噛むように味わいつつ、「主の祈り」を祈り続けたい。心から願うものであります。

(お祈りを致します)

御在天の主イエス・キリストの父なる神様、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝を申し上げます。今朝は、私たちキリスト者にとってもっとも大切な祈り「主の祈り」を与えて下さり、重ねて感謝を申し上げます。私たちは、祈りを難しく考えてしまいます。また、あなた様に「父よ」と祈ることにためらいをおぼえることもございます。なれなれしくあなた様を「父よ」と呼べないと考えます。また、とてもじゃないが、あなた様の子と名乗ることは出来ないと罪の中にとどまり、罪の中に生き続けようとします。確かに、私たちはあなた様を「父よ」と呼べない愚かな者です。自分に負い目のある人を誰一人、完全に赦すことのできない罪深い存在です。けれども、だからこそ、あなた様は私たちを深く憐れみ、「子よ」と呼び続けて下さる。深く感謝申し上げます。どうか、あなた様を「アッバ、父よ」と呼び続ける信仰をお与え下さい。どうか、様々な誘惑から私たちを遠ざけて下さい。お願い致します。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。

御在天の主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。早いもので2016年度も半分が終わります。そして、伝道の秋を迎えます。私たちの教会も、10月23日に秋の特別伝道礼拝を守ります。今回は、森島豊先生による礼拝説教、また午後の講演会を予定しております。どうか、「アッバ、父よ」と呼べるあなた様を知らずに、彷徨っている方々に父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神と出会う機会として、秋の特別伝道礼拝をあなた様が存分に用いて下さい。特に、祈りつつ既に準備に入っておられる森島先生の御準備をあなた様が力強く導いて下さい。お願い致します。私たちの教会には、竹田沙絵里神学生があなた様から託されております。夏の実習も終わり、レポート、試験に取り組み、教会での様々な奉仕を誠実に担っておられます。来月から学部4年の学びも後期に入り、大切な学びが続いております。また10月9日は神学校日です。どうか献身の志が与えられ、日々、祈りつつあなた様に仕えている神学生を強め励まして下さい。また、神学生を祈りつつ指導しておられる先生方、職員の働きを祝福して下さい。私たちの教会にも、体力が衰え、病と闘っている兄弟姉妹が大勢おられます。先週は、敬老感謝のときを持ちましたが、改めて、それらの兄弟姉妹をいつも覚えて祈り続ける者として下さい。特に、病院のベッドで生きる希望を失いそうになっている方々、御自宅で礼拝を慕いつつ、どうしても主日の礼拝に通うことの出来ない方々を深く憐れんで下さい。全国、全世界の被災地の諸教会を深く憐れんで下さい。キュリエ・エレイゾン主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。   アーメン。

2016年9月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 歴代誌下 第28章9節〜15節、新約 ルカによる福音書 第10章25節~37節
説教題:「行って、あなたも同じようにしなさい」    
讃美歌:546、3、86、312、543、427

 今日は、礼拝後に9月の誕生者を覚えてお祝いを致します。今回も祈りつつ誕生カードに祝福のメッセージを書かせて頂きました。また来週は、敬老感謝のお祝いを致します。48歳の私でも、これまでの人生で様々な経験をさせて頂いたのですから、誕生日を迎える皆さん、また75歳以上になり、敬老感謝を迎える皆さんも、様々な思いが溢れるはずです。特に、「善いサマリア人」の譬えのように、子どもの頃から聴き続けた御言葉に対し、子どもの頃の思いと、様々な経験を重ねて来られた今の思いは、同じ譬えでも違う響きを感じたかもしれません。
 私も小さい頃から、教会や母校の礼拝で「善いサマリア人」の譬えを何度も聴いてまいりました。中学生の頃は、「サマリア人は素晴らしい。それに比べ、祭司やレビ人はとんでもない。見て見ぬ振りをして、そそくさと通り過ぎた。これだから偉い人は困る!」と考えておりました。そして、「私もサマリア人のように困っている人がいたら、助けてあげる人になりたい!」と聖書の授業で感想を記した記憶があります。しかし、48歳になり、様々な経験を重ねると、この譬えを語ることが難しく感じる。私は、譬えに登場する誰なのか?旅人を見捨てた祭司やレビ人か、追いはぎに襲われた旅人か、理想はサマリア人だが、サマリア人のようにはなれない等、様々な思いが与えられるのです。
 今日は、礼拝後に各委員会が控えておりますので難しいですが、コイノニアミーティングで、皆さんに「あなたは今朝の譬えに登場する誰だと思いますか」と質問し、自由に語って頂けたら今朝の御言葉をより深く味わうことが出来ると思います。ある方は「私は、追いはぎに襲われた人です。今、試練に襲われ、生きているより、半分は死んだような気持ちです」と答えるかもしれません。ある方は「私は、困っている人がいても、気になりつつ、自分の都合を優先し、見ないように、道の向こう側を歩いています」と答えるかもしれません。またある方は、「私はサマリア人のように、困っている人がいると放っておくことが出来ず、つい介抱してしまうのです」と答えるかもしれません。
 実際、神様から「あなたは登場人物の誰ですか」と問われたらどう答えるか?中学生の頃ならば、主イエスが命じられたように「私も、サマリア人のように困っている人を無視せず、その人の痛みに寄り添い、介抱する人になりたい」と答えたはずです。今なら、どう答えるか。真剣に考えれば考えるほど黙ってしまう。そして、言い訳をする。「確かに、追いはぎに襲われた人はかわいそう。しかし、私には色々な人にかかわっている余裕はない。だから、自分の都合を優先し、祭司のように道の向こう側を通って行くかもしれない」と。
 今回、「善いサマリア人」の譬えを読み、改めて、深い御言葉と感じたのは、「いやまてよ、私は祭司に思えるが、実は追いはぎに襲われ、服をはぎ取られ、殴られ、半殺しにされ、動くことの出来ない人ではないか」とも思ったのです。東村山教会に遣わされ、あっと言う間に一年五ヶ月が経過し、快適な牧師館も与えられ、毎週の「御言葉と祈りの会」でも、全員が私と家族を覚えて祈って下さる。毎週の礼拝でも、司式者が祈って下さり、教会員や求道者の皆さんも熱心に礼拝を守り、説教に耳を傾けて下さる。よって、自分が半殺しにされ、倒れている人と考えることは許されないと思います。けれども、皆さんも一所懸命に生きていれば、服をはぎ取られ、殴られ、動けない日もあったはずです。ある方の激しい言動により、大切に着ていた服をはぎ取られ、裸にされ、頭をハンマーでガーンと殴られたような衝撃を受けたこと、また突然の試練により、生きているにもかかわらず、半分は死んだようになったこともあったはずです。その意味で、譬えに登場する人物に自分を自由に重ねることは許されると思います。その上で、今朝の御言葉を読むときに大切なことは、譬えを語られた主イエスは、譬えに登場する誰だろうか?という視点だと思うのです。 
 誰もが言うでしょう。「介抱したサマリア人こそ、主イエスである」と。実際、主イエスは深い悲しみに襲われた人に対して、憐れみの眼差しを注ぎ、真摯に介抱され、全ての人の隣人になって下さる。よって、善いサマリア人こそ、主イエス・キリストであると断定して間違いないと私も思います。しかし、それ以上に感じるのは、主イエスこそ、追いはぎに襲われ、服をはぎ取られ、裸にされ、人々から殴られ、半殺しどころか、十字架の上で殺された。しかも弟子たちからは通り過ぎるどころか、完全に裏切られ、ペトロに至っては、三度も「あの人を知らない」と関係までも否認されたのです。つまり、今朝の譬えは、主イエスの激しい覚悟が伝わる御言葉だと思います。
 では、そこまでして主イエスが私たちに伝えたかったことは何だったのか?それは、「行って、あなたも同じようにしなさい」です。それも、上から目線で、命令しているのではない。むしろ、「あなたにも出来る。私があなたと共にいるのだから。私こそ、群衆から襲われ、服をはぎ取られ、殴られ、十字架の上で殺された。だからこそ、あなたの罪を赦し、『自分を大切に生きて欲しい!』と願っているのだ。あなたに受け継いで欲しいことがある。それは、『永遠の命』である。地上での命には限りがある。あなたにも地上での命を終える日が来る。しかし、その日、あなたが生きた地上の命が無意味になることはない。たとえ、地上の全ての人から、あなたが地上で生きたことを忘れられても、私は絶対に忘れない。あなたにも伝えたはずだ。『あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい』と。そうだ。あなたがたの名が天に書き記されているほど、あなたの命は尊いものなのだ。命の重さには、ユダヤ人もギリシア人も日本人もサマリア人もない。皆、私にとって愛すべき大切な兄弟であり、姉妹なのだ。どうか、自分をもっと愛して欲しい。自分を大切にしない者は、隣人を大切にすることも出来ない。善いサマリア人も自分を見失うほどには介抱していない。憐れに思い、近寄り、持っていた油とぶどう酒を傷に注ぎ、包帯をし、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そしてデナリオン銀貨二枚(銀貨二枚は、二日分の給料)を宿屋の主人に渡し、「もしも足りなければ、また払う」と行って仕事に行っているのだ。『自分を見失うほどに隣人を愛せ』とは命じていない。苦しんでいる人の心に寄り添い、あなたの出来る範囲で、心を込めて、隣人の苦しみ、悲しみ、痛みが癒されるよう祈る。それが隣人だ。まず自分を愛して欲しい。自分を大切にして欲しい。それができれば、隣人を放っておくことが出来なくなるはずだ。『隣人を自分のように愛する』。確かに、難しい。でも、そんなに難しく考えないで欲しい。まず自分に与えられたたった一度の地上での命を本当に大切にして欲しい。きちんと自分を認めて、愛して欲しい。確かに、あなたには弱さもある。あなたには頑固なところもある。それは全て知っている。でも、そのあなたを、十字架で処刑されたことで、完全に赦したのだ。その事実を忘れないで欲しい。そこまでして私はあなたを愛している。だから、あなたも、自分を愛して欲しい。自分を赦して欲しい。自分を大切にして欲しい。そのとき、本当の意味で他者の痛みに寄り添える。他者の嘆きに耳を傾けることが出来る。他者の悲しみに共に涙を流すことが出来る。そして、善いサマリア人のように、あなたも追いはぎに襲われた人の隣人になることが出来るのだ」。
 私たちは、どうしても律法の専門家のように、自分を正当化しようとします。しかし、自分で自分を正当化することは出来ません。むしろ、真の神であり、真の人間であられる主イエスの十字架と復活によって、私たちは神様との間に義なる関係、正しい関係を与えられるのです。そのとき、私たちの「あなたがかわいそうだから、あなたを愛してあげる」という傲慢な愛は打ち砕かれ、「私のようなものも神から愛され、赦され、生かされ、大切にされている。ならば、当然、あなたも、あなたも、神から愛され、赦され、生かされ、大切にされているのは間違いない。そのような神の愛、主イエスの愛を、まだ知らない人に一緒に伝えていこう。こんなにも素晴らしい神の愛、主イエスの愛を、もっと、もっとたくさんの人に伝えていこう」と伝道の思いに導かれるのです。
 この後、大切な讃美歌を御一緒に賛美致します。讃美歌312番。私自身、教会学校で、中高6年間、大学4年間、そして洗礼を受けてから今まで、また釧路の湖畔幼稚園の合同礼拝で何度も賛美した讃美歌です。3節「いつくしみ深き/友なるイエスは、かわらぬ愛もて/導きたもう。世の友われらを/棄て去るときも、祈りにこたえて/労(いたわ)りたまわん」。
 今朝の譬えと同じ心です。私たちも主イエスと共に、今、嘆きの中にある方々、悲しみの中にある方々、自分で自分を責め続けている方々に寄り添い、神の愛、主イエスの愛、主イエスの赦し、主イエスの御言葉を語り続けていきたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる神様、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝を申し上げます。私たちは、弱く、貧しい者です。今、目の前で困っている人がいても、自分の都合を優先してしまいます。同時に、自分なんていてもいなくても誰も何とも思わないと嘆きます。そのような私たちを十字架の死に至るまで愛し、赦し、守り抜いて下さる御子の十字架の前にひれ伏す者として下さい。そして、あなた様の愛を知った者として、まず、あなた様を全力で愛し、自分を愛し、さらに目の前で助けを求めている方々、助けを求める気力すら萎えている方々に少しでも寄り添う気持ちをお与え下さい。どうか、このような私をもあなた様は愛し、赦し、生かして下さっていると謙遜な思いになり、自分を愛するように隣人を愛する者として下さい。お願い致します。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。

御在天の主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。先週も、全国各地で台風や大雨の被害が発生しております。今から一年前は関東、東北豪雨により茨城県常総市、宮城県大崎市等では河川が決壊し、壊滅的な被害を受けました。そして今年も岩手県、北海道等を中心に壊滅的な被害が発生、大勢の方が犠牲となり、行方不明者の捜索が続けられております。今朝の御言葉のように、私たちは、すぐに自分の都合を優先します。そして、あっと言う間に他者の痛みを忘れ、自分に関心が移ります。しかし、今も深い悲しみを抱えている方々、厳しい痛みを抱えている方々に寄り添い、そのような方々を忘れずに祈り続ける心をお与え下さい。私たちは、隣人への愛でさえ、傲慢になります。どうか心を尽くしてあなた様を愛し、自分を愛し、謙遜に隣人を愛する者としてお導き下さい。全世界の指導者を導いて下さい。どの国も当然のことのように自国の利益を求めます。けれども、私たちの世を創造されたのは、あなた様です。ある国に富が集中すれば、必ず貧しい国が生まれます。どうか、自分を愛するように隣人を愛することを、国家レベルでも大切にすることが出来ますよう各国の指導者を力強く導いて下さい。お願い致します。今朝も病のため、この世の様々な理由のため、どうしても主の日の礼拝に通うことの出来ない兄弟姉妹が大勢おられます。どうか、それらの方々の上に、私たちと等しい祝福をお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。



2016年9月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  
説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第25章7節〜11節、新約 ルカによる福音書 第10章21節~24節
説教題:「御子を見る目は幸いだ」
讃美歌:546、2、166、21-81、331、542
私たちは、この目でキリストを見ることは出来ません。だからこそ、ペトロは語るのです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています(ペトロの手紙一1:8)」。ペトロから、各地に離散しているキリスト者への手紙に記されている印象深い御言葉です。また、今朝のルカ福音書には、主が、弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われたメッセージが記されております。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ(10:23)」。
今朝は私にとって二週間振りの説教となります。8月22日から28日まで夏季休暇を頂きました。先週の主日、説教を担って下さいました加藤常昭先生、長老会、また教会の皆さんに心から感謝いたします。22日の月曜日は東村山周辺も台風の影響で猛烈な雨が降り、その日は父が生まれ、母も育った石巻に宿泊したのですが、西武多摩湖線も土砂崩れで不通、様々な道路も冠水し大変な状況になっていることを知り、「なぜ、このような非常事態に、教会を離れているのか」と申し訳なく思いました。幸い、教会員の皆さんから携帯に連絡はなく、神様が東村山周辺を守って下さると信じ、二泊三日の旅を続けたのです。東日本大震災から5年5ヶ月が過ぎ、ようやく父の実家を訪問したのですが、懐かしい祖父、祖母の家は津波で流され、門と井戸を残し更地となっておりました。また23日の火曜日は、1時間ほどの運転し大川小学校を訪問。津波の威力を痛感致しました。鉄骨がむきだしになった校舎を目の当たりにしたとき、複雑な心境になりました。震災直後、どれほど悲惨な状況だったのか。先週も岩手、北海道等で猛烈な風雨で大勢の方が犠牲になり、収穫を控えていた様々な農作物も壊滅的な被害を受けました。また五年前の津波を思い起こすような濁流に飲み込まれた家が流されている映像もありました。二泊三日の石巻の旅、また先週の台風の被害を通して、「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」との主イエスのメッセージをどう受け止めたらよいのか?と被災地で苦しんでいる方々から厳しく問われるような思いがいたします。 主イエスは21節で「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子(おさなご)のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心(みこころ)に適(かな)うことでした」と言って神をほめたたえました。 知恵ある者や賢い者は頭で神を知ろうとします。その思いは理解出来ます。しかし、それではいつまでたっても神を知ることは出来ません。私たちの頭で知ることが出来る神は、私たちが作り出した神だからです。天地を創造し、御自分にかたどって人を創造された神ではありません。津波や台風の威力を目の当たりにしたとき、私たちは言葉を失います。そして、なぜ神がおられるなら、このようなことをなさるのかと嘆く。全世界で悲惨な出来事が起こると、嘆きの涙が溢れる。そのような状況で、どうすれば神への信仰を保ち続けることが出来るのか。それこそ頭で神を知ろうとするなら、どう考えても理解出来ないことがある。いや、神を恨み、神に文句を言い、神を呪いたくなることもある。だからこそ、神の御心を私たちの頭で理解することは難しいことなのです。  父なる神様は、私たちにとって、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、愛し続ける御方です。間違っても、神の御心を理解し、納得したから、神を愛するのではありません。そうではなく、まさに幼子のように、どこまでも神を信じ、たとえどのような試練に襲われても、父なる神は絶対に子である私を悪いようにはなさらないと信じ、最後まで神の救いを信じ続ける。そのような幼子のような者に、父なる神は御子の十字架と復活、そして再臨の希望を鮮やかに示して下さるのです。私たちも今までの人生の中で、何度考えても、なぜこうなったのか理解出来ないこと、あるいは、なぜあの人でなく私があのような目に遭わなければならなかったのか!と怒りと悲しみでブルブルと身体が震える出来事もあったはずです。そのようなとき、なぜか私たちの心のもっとも深いところに、十字架の主がスッと立っておられる。そして、私たち以上に激しい痛みと深い悲しみを味わって下さった。主イエスこそ、罪を犯したことがないのに、父なる神から見捨てられ、処刑され、隠府(よみ)にまで落とされたのです。その主イエスが、三日目の朝、復活によって全ての悲しみ、全ての痛み、そして全ての死に完全に勝利されたのです。
御子の復活は、私たちの知恵で理解することの出来ない驚くべき奇蹟です。しかも主は、今朝も私たちに聖霊を注ぎ、聖餐の恵みまで用意しておられる。聖餐の恵みに与るとき、私たちは誰が何と言おうと、今も生き、聖霊を注いで下さる主イエスをはっきりと見、はっきりと感じ、はっきりと味わう。たとえ、厳しい試練に襲われても、いや厳しい試練に襲われたからこそ、隠府(よみ)にまで落ちて下さった主イエスの救いを信じ、私も主と共に生きたい!となるのです。                      
74名の児童と10名の教職員、さらにスクールバスの運転手さんも犠牲になった大川小学校の広い敷地に立ったとき、突然、大粒の雨が降り出しました。こんな表現は御遺族の方には許されないと思いますが、たくさんの子どもたち、教職員、そして今もぽっかりと穴の空いたままの保護者の涙だと感じました。なぜ裏山に逃げることが出来なかったのか。保護者の深い嘆きは、生涯の嘆きとなります。また、現地の墓誌を見てわかったのですが、津波で流された教師の中に、遠い親戚がいることもわかりました。私は思った。津波で愛する家族を失った御遺族の目を見て「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」と言えるだろうか。このような悲惨な出来事があっても、あなたには、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神の愛が注がれていると言えるだろうか。
五年前の東日本大震災の意味、あるいは先週の台風被害の意味を世の知恵で御遺族に理解させようとすると、どこかで破綻すると思います。いずれにせよ、神は私たちの知恵で知ることも制御することも出来ない超越的な御方であり、偉大な御方であり、不思議な御方であることは間違いありません。
主は、23節で弟子たちに向けてこう言われます。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」。なぜ「幸い」なのか。旧約時代の人々は、主イエスの奇蹟を見ることも、主イエスの言葉を聞くことも出来なったからです。旧約聖書に登場する「多くの預言者や王たち」は、それぞれ神に立てられ神の御業を託された者です。けれども、主イエスがもたらした「神の国」は旧約聖書の時代には知り得ない。だから、彼らは「幸いだ」と言われることがないのです。
ところで、「幸いだ」には、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである(ルカ6:20)」と同じ響きを感じます。「貧しい人々」と「幼子(赤ちゃん)」は同じです。「貧しい人々」、また「幼子」は「自分の力だけでは絶対に生きていけない者」なのです。
知恵ある者や、賢い者でない幼子のような私たちは幸いです。父なる神が、御子を通して私たちを選んで下さった。「父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」とは、そういうことです。
父なる神は、今朝も私たちを礼拝に招き、聖霊を注ぎ、聖餐の恵みまで用意して下さいました。そのようにして神は、私たちの、時に萎えてしまう信仰を育み、しっかりと導いて下さるのです。私たちは、罪の贖いを成し遂げた主が、三日目に復活され、今朝も、私たちを守り導いて下さると信じる者です。主は、そのような私たちを「あなたがたは幸いだ」と祝福して下さる。だからこそ、父なる神に祝福された私たちは、自分の目で見たこと、耳で聞いたことを語り続けることが大切なのです。
今回の二泊三日の旅を通して、たくさんの方々の証言を伺いました。先週の御言葉と祈りの会では朝の部、夜の部で短く紹介させて頂きましたが、本当に現地に伺い、実際に震災の被害を受けた方々の証言を伺うことがどんなに大切なことか改めて学ばせて頂きました。同時に、そのような証言の中に、確かに震災で受けた深い心の傷は生涯背負い続けなければならない。しかし、震災を経験されたことで、目に見えるものだけに頼るのではなく、目に見えない御方を意識するようになった方がおられる。これまた大きな驚きでしたが、愛する御家族を津波で失い、失意の中、これまで一度も通ったことのなかった教会に導かれ、洗礼をお受けになられた方の存在は、本当に神様は今も生きて働いておられると強く感じ、大いに励ましと慰めを頂きました。
只今から、聖餐の恵みに与ります。私たちは、御子が十字架の上で裂かれた肉であるパンと流された血潮である葡萄汁を目に見ることが出来ます。そして、各地の震災で厳しい経験をされ、今回の台風でも途方に暮れておられる方々の救いのために、十字架で贖いの死を成し遂げ、全ての悲しみ、痛み、苦しみに復活によって完全に勝利して下さった主イエス・キリストを見るだけでなく、味わうことも許される。本当に幸いであると思います。御一緒に、今朝も深い悲しみの中にある方々に、主の慰めが届くよう祈り続けたい。そして、いつの日か、そのような方々も、御子の十字架と復活、また再臨の約束を信じ、信仰告白、洗礼へと導かれ、御一緒に主の食卓に与る日が来るよう祈り続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる神様、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝を申し上げます。主よ、私たちの世を憐れんで下さい。どうか今、深い嘆きの中にある方々、家族を失い途方に暮れている方々に主の十字架と復活、そして再臨の希望をお示し下さい。私たちも、信仰が萎えてしまうときがあります。どうか、闇のような深淵の面(おもて)にも、神の霊が確実に動き続けていると信じる信仰をお与え下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。9月となりました。今年は台風が少ないと思いましたが、8月下旬から次々と台風が日本列島を襲い、甚大な被害が各地に発生しております。北は北海道から南は沖縄まで、貴い命が奪われ、道路や土砂が崩れ、川が決壊、収穫間近の農作物も壊滅的な被害を受けております。主よ、どうか私たちの世を深く憐れんで下さい。そして今も、深い悲しみから立ち上がれず、嘆きつつうずくまっている方々の上に、あなた様の慰めと励ましを注ぎ続けて下さい。T神学生が長い夏期伝道実習を終えて元気に教会に戻って来ることが出来ました。心より感謝申し上げます。T神学生のみならず、この夏、全国の諸教会で実習を行った神学生、また神学生を受け入れて下さった教会の上にあなた様の祝福が豊かに注がれますようお祈り申し上げます。伝道の秋を迎えました。私たちの教会も、10月23日に青年伝道を祈りつつ、森島豊先生による秋の特別伝道礼拝、また午後の講演会を計画しております。どうか、皆で祈りを合わせ、伝道の炎を燃やし続けていくことが出来ますようお導き下さい。特に、御準備して下さる森島先生の上に聖霊を豊かに注いで下さい。今朝も病のため、この世の様々な理由のため、どうしても主の日の礼拝に通うことの出来ない兄弟姉妹が大勢おられます。どうか、それらの方々の上に、私たちと等しい祝福をお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2016年8月21日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  
説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ダニエル書 第12章1節〜4節、
     新約 ルカによる福音書 第10章17節~20節
説教題:「天に名が記されていることを喜ぶ」    
讃美歌:546、26、82、527、540
 主イエスに任命され、派遣された72人は喜んで帰って来て、こう言ったのです。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」。    
 72人の伝道の旅が、どれくらいの期間だったのかわかりません。しかし、伝道の旅が長くても、短くても、財布も袋も履物も持たずに出かけた72人が、無事に、しかも喜んで帰って来た事実は、私たちにとって励ましとなります。喜んで帰って来たのですから、彼らに寝床や三度の食事を提供した人々が存在したことになります。溢れる恵みを頂いた72人は、「神の国はあなたがたに近づいた」と語り、主のお名前を用いて病人を癒し、悪霊に苦しむ人々を解放したのです。
 もう今から10年前になりますが、2006年の夏、私の最初の伝道の旅は、四国西南地区での夏期伝道実習でした。愛媛県の城辺教会から始まり、高知県の須崎教会、土佐福音教会、愛媛県の近永教会、高知県の宿毛栄光教会と中村栄光教会の6教会を一週間毎に伝道したのです。財布に加え、スーツケース、ノートパソコン、モバイルプリンターの入った鞄を持参したので、72人とは比較にならない大荷物でしたが、それでも、一人で真夏の四国を伝道した旅は、今でも鮮明に覚えております。そのときに、深く感謝したのは、どの教会にも熱心に説教に耳を傾けて下さる方がおられたこと、また愛情の詰まった手料理でもてなして下さる教会員がおられたことは本当に嬉しかったです。そして、愛を持って厳しく指導して下さった牧師たち、また礼拝後の愛餐会で励ましに満ちたコメントを下さった教会員がおられたことは大きな喜びでした。
 しかし、正直に告白すると、実習の後半からは、心身ともにボロボロとなり、「私は伝道者への道をこのまま歩んでよいのだろうか」とガランとした礼拝堂の奥にある畳の上に蒲団を敷いて寝泊まりした須崎教会での夜や、同じようにガランとした礼拝堂の真ん中に簡易ベッドを置き、真っ暗な礼拝堂に寝泊まりした近永教会の夜に悩んだことを思い起こします。それでも、次の教会で説教をさせて頂くと、しっかりと私の目を見、真剣に耳を傾けて下さる方々を通し、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」との主の励ましを感じたのです。
 今朝、T神学生も、蒸し暑いH教会で汗を拭きつつ、一所懸命に主から託された御言葉を取り次いでおられると思うと、それだけで胸が一杯になります。
 夏期伝道実習の意味は、遣わされた地で、主の溢れる恵みを経験すると共に、思うようにいかない、ストレートに表現するなら、「牧師にむいていない」と落ち込み、深い挫折を経験することが夏期伝の意味なのかもしれないと10年前を振り返り思います。つまり、伝道者として主に任命された者は、伝道の旅において、主によって徹底的に打ち砕かれる。それでも、主によって主日毎に講壇に立たせて頂き、今朝の皆さんのように、夏の暑さにもかかわらず教会に集い、主の御声と信じ、説教に耳を傾けて下さる方が与えられる。この事実によって伝道者は御言葉を語り続けることが出来るのです。72人の伝道の旅も、喜びに加え、深い挫折も経験した。その72人が、主のお名前を用いて悪霊を屈服させた事実は、やはり大変な喜びであったことは間違いありません。 
 主イエスも、彼らの報告を笑顔でお聞きになったはずです。主は、喜びに満ちた表情で言われました。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」。  
 主は、具体的な場面を語られました。「サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」。本当に、サタンが天から落ちたのかもしれません。同時に、「サタンが天から落ちる」という表現を用いて、サタンの支配から神の支配、つまり「神の国が近づいた」と72人に伝えたのかもしれません。  
 ところで、「蛇やさそり」は、サタン同様、神に敵対する闇の力の象徴です。蛇やさそりに噛まれたり、刺されたりすれば、人は死に至る。蛇やさそりは、そのような存在です。しかし、主イエスは彼らに「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」と言われたのです。  
 主イエスのお名前を用い、神の国の到来を告げ、悪霊を屈服させた72人が、溢れる喜びと感謝をもって伝道の旅を報告している。主は、その事実を通して、「神の国が近づいた」と告げているのです。けれども、神の国は今も完成しておりません。事実、日々の報道を通して、今もサタンがこの世を支配しているように感じます。だからこそ主は、「神の国の完成」のために、ある者は家庭に、ある者は職場に、ある者は地域に、ある者は学校に派遣され、派遣された者は、日々、「御国を来たらせたまえ」と祈り続けるのです。  
 私たちも、主イエスの名によって祈り、御心を問いつつ歩むならば、「蛇やさそりを踏みつけ」力強く歩むことが出来るはずです。なぜなら、私たちに「害を加えるものは何一つない」からです。  
 けれども、主イエスへの信仰に生きる者であっても病気や事故、自然災害に襲われることがあります。そして、私たちはいつの日か必ず死を迎えるのです。つまり主イエスは、病気や事故、自然災害、そして死を「害」と規定しているのではありません。  
 キリスト者だからといって、病気や事故、自然災害、そして死を免除されることはないからです。キリスト者だからこそ、この世の苦難に襲われることもある。しかし、私たちは、「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他(た)のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです(ローマの信徒への手紙8:39)」を信じております。そのような主キリスト・イエスに対する信仰を、人生の土台に据える限り、私たちに「害」を加えるものは何一つないのです。けれども、私たちの心に、主キリストでなく、自分を喜ぶ心がスーッと入ってしまうことがあります。  
 主イエスの次の言葉は、その点に触れているように思われます。「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。
 主イエスが、72人を喜んで迎えられたことは間違いありません。同時に、弟子たちの心に主ではなく、自らの業を喜ぶ罪を感じたことも否定できません。彼らは「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と語る。そこには、主イエスのお名前が持っている力に対する畏怖と賛美があることは確かです。しかし、72人の喜びには、「悪霊さえもわたしたちに屈服した」、つまり主ではなく「わたしたちも悪霊に勝った」喜びが大きいのです。だからこそ主は、「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない」と戒める。事実、悪霊が屈服したのは、彼らではなく、主イエスに対して屈服したのです。
 主は続けます。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。先月、7月10日の主日にO兄の洗礼入会式が行われました。恵みのときであり、喜びのときとなりました。 O兄が洗礼を受けた瞬間、O兄の名前が天の名簿に記録されたのです。もちろん、私たち全キリスト者の名前も、天の名簿にしっかりと記録されている。何という恵み、何という喜びでしょう。 
 地上の教会の教会員名簿に記録されている全キリスト者の名は、神の手元にある天の名簿にこそ、しっかりと記録されているのです。神の手元にあり、日々、神がご覧下さる天の名簿に、全キリスト者の名がしっかりと記録されている。弱く、罪深いこの私を信仰に導き、熱心に祈り、何通も手紙を下さったすでに召されたあの方、この方の名も、天の名簿に記録されている。大きな喜びです。
 主は、そのような喜びを忘れてしまう私たちを深く憐れまれます。一所懸命、主イエスのために働いていると思っている私たちも、この喜びを忘れてしまう。「自分は献身的に、神様のため、主イエスのため、そして教会のために、我を忘れて奉仕している。だから、私こそ神様から評価されて当然!」と考える。つまり、天の名簿の順番にこだわってしまう。「あいうえお順では困る。しかし、トップは目立つ。でも、年に数回しか礼拝に出席していないあの人より、毎週の礼拝を守り、祈祷会にも出席し、熱心に奉仕している私があの人よりも後に名が記されることは許せない」と本気で考えてしまう。これが私たちの罪です。
 主イエスが、ここで語られる喜びは、そうした「あの人より上」という喜びではありません。どんなに大きな業をしようが、たとえ小さな業に終ろうが、皆が等しく、全キリスト者の名が、天の名簿に記されている。この事実こそ、私たち全キリスト者の永遠の喜びなのです。
 私たちが喜ぶのは「私たちの名が天に書き記されている」事実です。悪霊を屈服させることではありません。私たちの信仰生活は山あり谷ありです。それでも、時に悪霊さえも屈服させるような華々しい恵みを与えられることがある。けれども、それは神が与えて下さった恵みです。つまり、その恵みを、喜んで神様にお返しする必要があります。収穫の主は、父なる神様です。だからこそ、私たちも「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と天に名が書き記される喜びをまだご存知ない方々に主の働き手として勇気を持って伝道したい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
  御在天の主イエス・キリストの父なる神様、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝を申し上げます。今朝の御言葉を通して、私たちは大きな喜びと共に、心からの悔い改めに導かれました。私たちはあなた様から恵みを与えられると、あなた様を賛美するより、自分の業を誇ってしまいます。私たちに与えられた恵みは、あなた様の深い憐れみによるものであることを改めて心に刻ませて下さい。私たちもいつの日か、必ずあなた様のみ元へと召されます。そのとき、あなた様の手元にある天の名簿を確認することが許される。そこには、私たちを信仰に導いて下さったあの人、この人の名がびっしりと記されている。心から感謝を申し上げます。どうか、この驚くべき喜びをご存知ない方々に伝道する勇気をお与え下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
  御在天の主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。説教でも触れたように、今朝はT神学生がH教会で説教を担っておられます。どうかT神学生の語る説教を力強くお導き下さい。そして、明日で終る夏期伝道実習を最後までお守り下さい。私たちの教会には、8名の長老があなた様から与えられております。日々、様々な面に心を配り、献身的に働いておられます。どうか8名の長老の尊い働きをあなた様が存分に用いて下さい。特に、先週から長期の出張に旅立たれたT長老の海外での生活をあなた様がしっかりとお支え下さいますよう心よりお祈り申し上げます。世界も、日本も様々な争いがあります。どうか今も悲しみの涙を流しておられる方々、絶望の中から立ち上がることの出来ない方々を憐れんで下さい。特に台風や地震、また原発事故や津波等により住居を奪われ、困難な生活を強いられている方々を深く憐れんで下さい。今朝も病のため、夏の暑さのため、この世の様々な理由のため、どうしても主の日の礼拝に通うことの出来ない兄弟姉妹が大勢おられます。どうか、それらの方々の上に、私たちと等しい祝福をお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。



2016年8月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第14章12節〜15節、新約 ルカによる福音書 第10章13節~16節
説教題:「裁きの時には」    
讃美歌:546、68、252、358、539、Ⅱ-167

 主イエスは、12人の他に72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされました。主は、彼らに命じました。「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。そして、あなたがたを受け入れない町があれば『しかし、神の国が近づいたことを知れ』と言いなさい。その上で主は、厳しい言葉を加えたのです。「言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方(ほう)が軽い罰で済む」。
 ソドムとは、創世記に登場する異邦人の町で、暴虐が満ちていました。神は、ソドムの実態を調べた上で、暴虐の罪が事実なら、町を滅ぼす決意をされたのです。そこで、アブラハムは神の御前に進み出て、直訴しました。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか(18:23〜25)」。神は、アブラハムに言われました。「もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう(18:26)」。
 神の赦しとは、悪の状態を「まあいいよ」と放置することではありません。むしろ、罪人が悔い改めるまで忍耐して待ち続ける、それこそが神の赦しです。アブラハムは、それから「40人しかいないかもしれません」、「30人しかいないかも」、「20人しかいないかも」と粘り、ついに最後「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、10人しかいないかもしれません」と言い、「その10人のためにわたしは滅ぼさない」という「神の赦し」を引き出すことに成功したのです。しかし、私たちの罪の現実ですが、ソドムには10人すら正しい者がいなかったのです。その結果、ソドムとゴモラ、および低地の町々は神に滅ぼされてしまいました。
主イエスは続けます。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方(ほう)が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ(ルカ10:13〜15)」。
 コラジン、ベトサイダ、そしてカファルナウムはガリラヤ湖周辺のユダヤ人の町です。一方、ティルスやシドンは地中海沿岸の港町で、異邦人の町です。旧約聖書アモス書には、「ティルスの三つの罪、四つの罪のゆえに/わたしは決して赦さない(アモス1:9)」とあります。しかし、そのような異邦人の町でさえ、主の奇跡が行われれば「とうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない」、よって最後の裁きの時にはコラジンやベトサイダより「軽い罰で済む」と主はおっしゃるのです。
コラジンとべトサイダは、主イエスの力ある業を見ても回心しませんでした。このような場合、神の裁きは厳しくなります。神の奇跡を知りながら、奇跡を無視するなら、神は無視した者の責任を追及し、厳しい裁きを下される。その結果、かつては、預言者たちによって厳しく非難されたほど偶像礼拝と不道徳に陥っていた異教徒の町ティルスとシドンは、堕落していたにもかかわらず、裁きの時には、コラジンとべトサイダの人々より、軽い罰で済む。それほど、主イエスの力ある業を見ても回心しない者には、重い罰が与えられるのです。
さらに主イエスは、カファルナウムに対し、「陰府(よみ)にまで落とされるのだ」と厳しく審かれます。カファルナウムは、主イエスのホームタウンです。主は、カファルナウムで精力的に働きました。しかし、この町も主イエスの業を見ても回心しなかった。その結果「陰府(よみ)にまで落とされる」のです。
ルカ福音書と共に朗読して頂いたイザヤ書第14章にも、「お前は陰府(よみ)に落とされた/墓穴の底に(14:15)」と書いてあるように、元々は異邦人であるバビロンの王に対する預言者イザヤの言葉です。「隠府(よみ)」とは、一般的には、「死者が一定期間のみとどまるにすぎない場所」を意味しますが、ここでは「地獄」と同じ意味で用いられているようです。主の裁きは、ユダヤ人も異邦人も共通です。つまり、主イエスにとって、ユダヤ人であるか異邦人であるかは重要ではなくて、私たちが心から回心するか、あるいは主の招きを無視するかが決定的に重要なのです。
 主は、72人を激励するべく最後に語ります。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」。
 72人が心を込めて、「悔い改めれば、あなたも救われる」と伝道しても、「私は悪いことはしていない」と拒絶されるケースがほとんどだったはずです。だからこそ、主はおっしゃる。「72人による悔い改めを促す言葉を拒絶する者は、72人を拒絶するのではなく、72人を遣わされた主イエスを拒絶するのであり、さらに主イエスを遣わされた神を拒絶するのである」と。その結果、「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む(10:12)」と主イエスが言わざるを得ないほど厳しい罰を受けることになるのです。
72人を通して、私たちに与えられた主のメッセージは、溢れる恵みを知りつつ、その恵みは神から与えられた恵みと感謝することなく、自分の力で獲得したと思いあがり、「自分は、天にまで上げられて当然」と驕り高ぶる者の罪を、主が厳しく裁かれることを示しています。
 ルカ福音書において、「悔い改め」は大切な言葉です。第15章に入ると、「見失った羊」、「無くした銀貨」、そして「放蕩息子」の譬えが登場します。それらのテーマは、まさに「悔い改め」です。主イエスは、「悔い改める1人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある(15:7)」と話され、「1人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある(15:10)」と言われました。実際、放蕩息子が父親のもとに帰った時、父親は「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった(15:24)」と大いに喜んだのです。
主イエスこそ、罪人が悔い改め、神に立ち返ることを、大いに喜ばれます。つまり、ユダヤ人として生まれた主が、ユダヤ人の救いのために伝道しておられることは確かです。同時に主は、異邦人も含めた世界の人々の救いのために、多くの弟子たちを各地に派遣して伝道しておられるのです。しかし、「私たちの先祖にはアブラハムがいる」と血筋を誇り、「律法を与えられた私たちこそ神の民であり、律法を守っているが故に正しい人間である」と自負するユダヤ人は、主イエスの力ある業を見ても回心しない。しかも、ユダヤの血筋として当然「天にまで上げられると」安心しきっている。そういう人々の代表として、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムという町の名が登場しているのです。
 主イエスは、それらの町の人々を「不幸だ」と言って嘆かれました。「不幸」と訳された原語は、ギリシア語で「ウーアイ」という言葉です。「ウーアイ」という響きそのものが、主の深い嘆き「ああ、何と悲しいかな」を表しているように聞こえます。「ウーアイ(不幸だ)」は、私たちが回心する日を今か今かと待ち続ける主イエスの心からの嘆きです。
 神も本当はソドムを滅ぼしたくなかった。だからこそ、ソドムに「正しい人」が十人いればソドムは滅ぼされず、赦されたはずでした。しかし、ソドムには正しい人が10人いなかったのです。どういうことか?10人どころか、1人も正しい人はいなかった。つまり、私たちがどんなに努力しても、自分たちの正しさによって神から赦されることはないのです。その意味では、地上に生かされている私たちが、神の厳しい裁きにあうことは避けられない。だからこそ、父なる神は御子主イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのです。ただ一人、主イエスだけが「正しい人」として十字架で死に、三日目に復活し、天にまで上げられた。そして今、この瞬間も神の右に座し、弱さを抱えている私たちのために真剣に執り成しの祈りを献げておられるのです。この世で唯一の「正しい人」の犠牲の故に、神様は私たちの罪を赦し続けて下さるのです。
 スイスの宗教改革者カルヴァンは、ジュネーブ教会信仰問答の中でこう問うています。問87「それゆえ、われわれは、最後の審判を、恐れおののくべきではありません」。答「まったくです。われわれの出頭すべき審判者は、われわれの弁護人であり、われわれの訴訟を弁護するために引き受けて下さった、そのお方以外ではないのでありますから」。またハイデルベルク信仰問答は、このように問う。問52「『生ける者と死ねる者とを審(さば)』かれるためのキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか」。答「わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭(あたま)を上げて、かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出し/すべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその裁き主(ぬし)が天から来られることを/待ち望むように、です。この方は、御自分とわたしの敵を/ことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許(みもと)へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです」。
 天からの審判者、天からの裁き主がこうした審判者、裁き主であるがゆえに、私たちキリスト者は、裁きの時にも、何も恐れることなく、頭を高く上げて、再臨の主イエス・キリストを安心してお迎えすることができるのです。
 8月、今年も私たちが犯してしまった戦争の過ちを悔い改め、平和を祈る月を迎えました。争いは過去のことではありません。世界規模の争いのみならず、私たちの家庭、またキリスト者の群れにも様々な争いがある。その事実を否定することは出来ません。だからこそ、私たちは本来であれば、厳しく裁かれる。しかし、主イエスを救い主と信じ、信仰を告白し、洗礼を受けた私たちは主の裁きを、恐れおののくべきではないのです。最後の審判の日、再臨された主は、あのゴルゴタの丘で、全世界の救いのために神の裁きを自分の身に引き受け、十字架の上で処刑され、陰府(よみ)にまで下られたのです。そのような主の赦しと愛を知った私たちは もう不幸ではありません。たとえ、この世で厳しい試練に襲われても、過去に犯してしまった罪にさいなまれても、もう落ち込むことはない。頭を高く上げ、主を仰ぎ、高らかに主を賛美することが許されているのです。
 讃美歌第2編の1番「こころを高くあげよう」の4節では、このように主を賛美します。「おわりの日がきたなら、さばきの座をみあげて、わがちからのかぎりに、こころを高くあげよう」。今週も、高らかに十字架と復活、そして再臨の主イエスを賛美し続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる神様、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝を申し上げます。私たちは一人の例外もなく、あなた様の計画しておられる「時」に召されます。そして、一人の例外もなく裁かれます。けれども、そのときこそ、裁きの座を見上げて、我が力の限りに、心を高く上げることが許されている恵みを今、心より感謝を申し上げます。どうか、裁きの時の恵みを固く信じ、日々、あなた様の御前に悔い改めつつ、主を高らかに賛美し続けることが出来ますようお導き下さい。今、私たちの世には様々な争いが存在しております。何よりも、私たちは自ら犯してしまった罪を責め続けます。けれども、私たちが既に犯し、今も犯し、そしてこれからも犯す罪を御子が十字架で裁かれたことで全て赦して下さった、この驚くべき恵みを本当に心から感謝を申し上げます。どうか、罪赦された者として、大胆にまた喜びを持って、御子の十字架と復活、そして再臨の恵みを語り続けることが出来ますようお導き下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。平和を覚える8月を迎えております。8月6日は広島、9日は長崎への原爆投下、明日15日は終戦の日を迎えます。しかし、今も核実験は終わらず、福島での原発事故も収束せず、それにもかかわらず、原発再稼働の動きは止まりません。また、戦争が終わるどころか、戦後71年を迎えても、全世界で様々な争いが続いております。今、心から悔い改めの祈りを献げます。どうか、全国、全世界で今も流されている悲しみの涙、嘆きの涙を真の平和の造り主であられるあなた様が拭って下さい。お願い致します。私たちも人間の弱さ、罪に諦めることなく、どのような試練に襲われても、主の十字架と復活、そして再臨の希望を抱きつつ、「み国を来たらせたまえ」と祈り続ける者として導いて下さい。T神学生の半田教会での夏期伝道実習も今日を入れて、あと9日となりました。今夜は、奥田センターでの夕礼拝の説教奉仕が控えております。どうか、T神学生の夏期伝道実習を最後までお導き下さい。日本でも、オリンピック報道一色となっておりますが、今日は、4月14日の夜に熊本県を中心に最大震度7の揺れが襲った熊本地震から4カ月です。18万人を超えた避難者も、仮設住宅への入居等が進み、ピーク時の約1%1800人まで減りました。それでも今も1800人もの方が避難生活を余儀なくされております。どうか、私たちもそれらの方々の痛みを忘れず、全国各地の被災地を覚えて祈り続けることが出来ますようお導き下さい。今朝も病のため、夏の暑さのため、この世の様々な理由のため、どうしても主の日の礼拝に通うことの出来ない兄弟姉妹が大勢おられます。どうか、それらの方々の上に、私たちと等しい祝福をお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン