メッセージ


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2025年3月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第43章1節~7節、新約 エフェソの信徒への手紙 第1章3節~6節
説教題:「輝く恵み」
讃美歌:546、20、167、514、541  

先週から読み始めたエフェソの信徒への手紙。今日からいよいよ本文に入ります。本文は、力強い賛美の言葉から始まります。3節。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」日本語訳では、元の言葉の勢いが伝わりにくいかもしれません。元の文章の言葉の並びはこうです。「ほめたたえられよ!神、わたしたちの主イエス・キリストの父。」そして、この賛美の言葉のすぐあとに、「その神が、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福によって、満たしてくださった!」と続くのです。神への感謝が、神を賛美する言葉となって溢れ出した。そのような力強い言葉です。また「ほめたたえられよ」という言葉は、「賛美」とも「祝福」とも訳すことのできる言葉で、原文では、3節の中だけで、3回も出てきています。わかりやすいように「祝福」という言葉に統一し、3節をもう一度読んでみます。「祝福されよ!神、わたしたちの主イエス・キリストの父。神は、天のあらゆる霊的な祝福によって、わたしたちを祝福してくださった!」
神を祝福する、即ち神をほめたたえる。それはそのまま、礼拝です。パウロはこの手紙を書きながら、エフェソの信徒と共に神の前に並び、礼拝している。そのような気持ちだったのではないでしょうか。またこれを読むわたしどもも、彼らと共に並んで礼拝しているような思いが与えられる、そのような言葉であると思います。
今朝は、第1章3節から6節を読みますが、実際は本文の冒頭は、3節から14節まで続きます。驚くべきことに3節から14節までが一つの文章です。わたしどもも思いが溢れると、言葉が切れない。説教の準備をしていても、ついつい、一つのセンテンスが長くなることがあります。口に出して喋ってみて、「これでは伝わりにくい」と反省し、句読点で句切る。この新共同訳もそういう努力がされているわけですが、実は、一連の長い文章なのです。その一つの文章を、今日は3節から6節。来週は7節から10節。再来週は11節から14節と3回に分けて読んでまいります。それでも、この文章が、一息に書かれたものであることも忘れずにいたいと思います。念のために申しますと、こうした長い文章が、原文のギリシア語のもつ特徴なのではありません。これほど長いひとつの文章は、新約聖書の中にも、ほかのギリシア語の文献の中にも、見られないようです。パウロが神さまの恵みに満たされ、心の中から溢れ出す言葉をそのまま、区切ることも忘れたかのように、一気に語っているのです。何を語っているのか、というと、4節以降に書かれているのは、3節にある「天のあらゆる霊的な祝福」の、具体的な内容です。神が与えてくださった祝福を、言葉を尽して語っているのです。
4節。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」何ということでしょうか。神さまが、わたしどもひとりひとりを覚え、特別な者として愛し、神さまの前に立つことができる聖なる者、しみひとつない清らかな者にしようと、キリストにおいて選びとってくださったのは、何と、天地創造の前に遡ることだ、というのです。大切なのは「キリストにおいて」です。1節、2節でも、「キリスト・イエス」、「主イエス・キリスト」と、短い文章の中に3度も言われております。真にその通りで、神さまの愛は、主イエス・キリストにおいて、わたしどもに示されました。
天地創造の前から、主イエスは父である神さまと共におられます。第1主日に告白するニケア信条にも、こうあります。「主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」パウロも、喜んで信仰を告白するのです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御(ご)自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」「キリストにおいて」とは、即ち、「キリストによらなければ」ということです。つまり、キリスト抜きでは、わたしどもは誰ひとり、神の前に聖なる者、汚れのない者とはなれなかったのです。パウロはこの真実を、身をもって思い知った人でした。キリスト者を「異端」として迫害していたパウロ。ナザレのイエスが、神の み子であることを認めることができず、キリスト者を迫害することが神の御心であると信じていたのです。それなのに、甦りの主イエスは、パウロを使徒として お選びになりました。それまでの生き方が、主イエスとの出会いによって180度ひっくり返る経験をしたパウロが、自分の全存在を賭けて語るのです。「神は、天地創造の前から、わたしを愛し、聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいて、選んでいてくださった!罪にまみれたこんなわたしが選ばれたのだから、あなたがたも皆、選ばれた者なのだ。」と。
パウロの言葉は次から次へ溢れます。5節。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心(みこころ)のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子(みこ)によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。(1:5~6)」天地創造の前から神によって選び出していただいているわたしどもは、キリストの十字架による救いをただ信じることによって、「神の子」とされています。主の祈りでも、「天にまします われらの父よ」と祈り始めることが許されています。わたしも含め、教会生活が長くなればなるほど、この恵みの輝く光の眩しさに、慣れてしまうことがあるように思います。神さまを父と呼べること、「父よ」と祈ることができること。これは決して、当たり前ではありません。わたしどもが何も支払わず、いわばタダで受け取るようにと神さまから差し出されているからといって、勘違いしてはならないのです。わたしどもが「神の子」とされたのは、主イエスが十字架の上で  流された血によるのです。主イエスの十字架の死という、とてつもない代償を神さまが支払ってくださったから、わたしどもは神の子となることができたのです。本来であれば、「神の子」と言えるのは、主イエスのみ。ですから、5節で「神の子」と訳された元のギリシア語は、「養子」と訳すべき言葉です。本来なら、「神の子」とは言えないわたしどもを、神は、子どもとして抱きしめたい、愛したいと欲してくださって、その御心のままに、真の子である主イエスを、惜しげもなく身代金として差し出し、その代わりにわたしどもを子として受け入れてくださったのです。このように大きな神さまから賜った祝福に対して、わたしどもに何ができるでしょう。何もできることがない、というのが本当のところではないでしょうか。わたしどもにできることがあるとすれば、感謝すること。「主イエスの父なる神こそ、わたしのまことの神。」と信仰を言い表わすこと。そして神を賛美すること。それだけです。パウロは、「これほどの恵みをいただいていることを忘れないで欲しい。そして一緒に神を賛美しよう!」と、わたしどもを神の み前へ、礼拝へと、招くのです。
この後、讃美歌514番を共に賛美します。3節ではこう賛美します。「われになにの いさおしあらん、ただ主の血に きよくせらる。主によりて あがなわる、わが身の幸は みな主にあり。」わたしどもには何も誇るものはありません。ただ主イエスの愛、主イエスの血によって、聖なる者、汚れのない者にしていただきました。神の子としていただきました。そのすべては、神の愛から出たことで、主イエスによるものです。
昨日、施設に入所しておられる教会員の訪問聖餐にまいりました。今日の説教準備が途中でしたので、焦る気持ちがなかったと言えば嘘になります。けれども、訪問前に、この方の「信仰の遺言書」を読み直して驚きました。いくつか挙げられていた愛唱聖句の筆頭に、今朝のエフェソの信徒への手紙 第1章4節、5節が記されていたのです。このことに気づくまでは、わたしが、この方のところに主の福音を届けに行くつもりでいました。けれども、逆でした。この方の信仰が、わたしを神の前に連れて来て、立たせようとしている、そのように感じました。認知機能の衰えによって、ご子息のことがわからない日もあるようです。しかし、そのようにして神の前に誇るものをひとつひとつはぎ取られたところで、尚、主の恵みの確かさを示す働きを担っておられる。そう思いました。施設に到着すると、お痩せになった姉妹が座って待っておられました。ご子息と、同行してくださった長老と共に讃美歌を歌い、エフェソ書の み言葉を読み、聖餐に与りました。聖餐に与るとき、姉妹は初め、パンを口に運ぼうとしませんでした。しかし、今日は難しいかなと半ば諦めながら、わたしがパンを姉妹の口に近づけると、口を開き食べられたのです。しかも、それまで硬かった姉妹の表情が、ほんの一瞬でしたがニコッと微笑まれたのです。ただただ驚き、じわーっと涙が溢れました。この方も生まれる前から、否、天地創造の前から、神に愛され、今も愛され、永遠に愛されているのだと心に深く刻んで、教会に戻りました。わたしどもの人生には、試練のとき、痛みのとき、悲しみのときがあります。感謝なんて出来ないと思う日もあるかもしれません。それでも、それらを覆い尽くすほどの圧倒的な輝かしい恵みが、わたしどもに与えられている。そのことを教えられた訪問となりました。たとえ、かつてのように礼拝に出席することができなくなり、自覚して祈ることができなくなったとしても、主イエスが祈っていてくださいます。神さまが、愛していてくださいます。抱きしめていてくださいます。そして共に祈り合い、仕え合うために、わたしどもが神の子としての兄弟姉妹とされています。 
今、受難節の日々を過ごしております。主の み苦しみに、神の愛がある。そうであるなら、わたしどもも、困難な中にあっても、主によって生きていける。これが、わたしどもの神さまが主イエスによって与えてくださった輝く恵みです。主の み名がほめたたえられますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたは天地創造の前から、わたしどもを愛し、聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びくださいましたから、ありがとうございます。これほどの輝かしい恵みを受けたものとして、生涯、あなたを喜んで誉めたたえる人生を歩ませてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の御心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって強くしてください。主よ、教会での礼拝を望みつつ、病院で、施設で、自宅で祈りをささげている兄弟姉妹がおります。どうか、その場にあってあなたの愛で包んでください。どこにあっても、寝たきりになっても、天地創造の前からあなたの愛が注がれ、み子キリストにおいて聖なる者、汚れのない者にされている恵みを忘れることのないよう み霊を注いでください。たとえ忘れてしまったとしても、あなたが憶えていてくださり、わたしどもには あなたの子である「しるし」が刻まれています。感謝します。み名がほめたたえられますように。主よ、ミャンマーで大きな地震が発生しました。すでに明らかになっているだけでも、1,600人以上の尊い命が犠牲になっております。主よ、次々と発生する自然災害により困難な生活を強いられている全国、全世界の犠牲者をまもり、導いてください。何があっても変わることのないあなたの愛で包み、望みを失うことのないようお支えください。ガザで、ウクライナで、また世界の至るところで争いが続いております。愛する者を亡くし、深い嘆きの中にあるひとりひとりを慰め、励ましてください。一日も早く争いを終わらせ、平和を築くことができますように。今日で2024年度の教会の歩みが終わります。新年度も、牧師不在の教会があります。特に、東日本連合長老会に加盟している小金井西ノ台教会、青山教会の歩みを導いてください。困難な中にあって礼拝をささげている能登半島の教会をはじめ、各被災地の諸教会の歩みを力強く導いてください。洗礼、信仰告白への準備をしている子どもたちの信仰を強め、明確に信仰を告白することができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2025年3月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第116篇1節~7節、新約 エフェソの信徒への手紙 第1章1節~2節
説教題:「恵みと平和のあいさつ」
讃美歌:546、12、194、Ⅱ-195、540  

 本日から、エフェソの信徒への手紙をご一緒に読んでまいります。
福音書に比べると、手紙は、どこかとっつきにくいと感じている方もおられるかもしれません。けれども、ヨハネ福音書のあとに何を読んでいこうかと考えたとき、神さまから「エフェソ書を読みなさい。」と言われたように感じ、読むことにしました。
エフェソの信徒への手紙が中心に据えているのは、教会です。教会は、キリストの体であると言われます。わたしどもは、日曜日に限らず、いつでもキリストの体の一部分として、聖なる者とされているのです。この、わたしどもが与っている恵みを、改めて心に刻み、大切に読んで、成長していきたいと願っています。
この手紙は、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」と、始まっています。けれども、近年の研究によれば、この手紙は、主イエスの時代に信仰を与えられた世代の次の世代、いわゆる信仰の第2世代、さらに第3世代に向けて、紀元90年代に記されたという説が有力であるようです。とすれば、著者は、使徒パウロではありません。パウロは紀元60年頃に殉教の死を遂げていると伝えられているからです。そのため著者はパウロの信仰を受け継ぎ、教会の責任を負ったリーダーではないかと考えられています。パウロの弟子であったこの著者は、自分の名を残すことをいさぎよしとせず、パウロの名前で手紙を書きました。自分へのこだわりを捨て、敬愛するパウロ先生が祈りつつ語った言葉として、「キリストによって与えられている驚くばかりの恵みと平和を、もういちど思い返して欲しい。」と伝えたのです。ですから、わたしどもも、パウロが語った言葉として聞いていきたいと思います。
次に、手紙の受け取り手について お話しします。エフェソの信徒への手紙とありますので、エフェソの町の教会宛かと思いますけれども、ここにも色々な見解があるようです。現在の聖書は、最初に書かれたものを、幾世代にもわたって書き写して伝えた たいへん多くの写本を手掛かりに、ひとつにまとめられています。新約聖書の写本やその断片を合計すると5,000にも及ぶそうで、写本によってそれぞれ少しずつ、違う箇所があるのです。そのようなわけで、エフェソの信徒への手紙の冒頭部分に関して言えば、「エフェソにいる聖なる者たち」とありますが、この「エフェソにいる」という言葉が記されている写本は、比較的、新しい時代の写本においてだと言われます。つまり、古い写本には、「エフェソにいる」という言葉がないものもあるのです。そう考えると、エフェソの信徒への手紙とありますが、エフェソ教会だけでなく、現在のトルコの西側地域に当たるアジア州の諸教会に宛てた手紙と考えることもできます。すなわちエフェソの教会だけでなく、周辺のいくつかの教会に向け、「真の教会は、キリストの体として一つである。」と告げているということです。ですから、時代も国も異なりますが、わたしどもがエフェソの信徒への手紙を、東村山の信徒への手紙として読んでも、少しも不思議なことではないと思います。本日から読み始めるエフェソ書、ぜひ、古い異国の教会に向けて書かれた手紙を学ぶという感覚ではなく、使徒パウロからわたしどもへのメッセージとして、しっかり受け取っていきたいのです。
ところで、わたしどもが誰かに手紙を書くとき、その手紙には目的があります。愛の手紙であれば、どれだけ相手を大切に思っているかを、心を込めて書きます。世話になった相手に、礼状を書くこともあるでしょう。相手が道を逸れてしまったと感じるようなときには、愛を込めて厳しい手紙を書くこともあります。そのような手紙は書く側にも、読む側にもエネルギーが必要です。エフェソの信徒への手紙も、たいへん大きなエネルギーを必要とした手紙でした。なぜなら、エフェソの教会は主イエスやパウロを知っていた人々の時代が過ぎ去り、第2世代、第3世代になると、最初の頃の燃えていた炎がだんだんと小さくなり、世の考えに流されてしまっていたからです。自分たちに与えられている恵みと平和のありがたさが薄れてしまって、心が燃えない。伝道よりも、自分たちが心地のよい教会であればよい。そのような思いになっていたかもしれません。しかしそれでは、もはや「教会」とは言えません。たんなる仲良しクラブになってしまいます。
新約聖書の最後に、ヨハネの黙示録があります。その第2章に、エフェソの教会に向けて書かれた言葉があります。このような言葉です。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。(2:4~5)」と語っています。さらに、同じ地域のラオディキアの教会には「あなたは、冷たくもなく熱くもない。・・・なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。(3:15~16)」とあります。ヨハネ黙示録の言葉ですが、エフェソ書が問題にしている諸教会の状況が、伝わってきます。紀元1世紀末の小アジアには、誤った教えが出現し、諸教会の分裂が生じていたのです。キリストへの愛が冷め、熱意は衰え、主イエスが愛をもって説かれた「互いに愛し合い、赦し合い、祈り合う」ことへの真剣さが失われてしまっていたと思われます。黙示録に記されているように、信仰がなまぬるいものになってしまった。エフェソ書は、そのような状況の中で、なぜそうなってしまったのか、その原因を見つめ、その原因と戦い、キリストの体として生きる道を、指し示すのです。エフェソの信徒たちの信仰は、なまぬるくなってしまっています。冷たくもなく、熱くもない。わたしたちはどうでしょうか。

ここでもう一度、パウロの呼びかけの言葉を読んでみましょう。「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たちへ。」そうなのです。わたしどもが今、ここに共に座っていること。信仰告白、洗礼へ導かれたこと、そのすべては、神さまがそのように望んでくださったことによるものであって、わたしども自身が自分で選び、望んだことではないのです。神さまの思い、神さまの、「あなたを愛し、あなたを救いたい!」という思い、その思いが、主イエスを通して、わたしどもに示されました。神さまが望んでくださったから、わたしどもは、主イエスを信じる信仰へと導かれました。パウロも、エフェソの信徒たちも、わたしどもも、神さまが望んでくださって、同じ恵みの中にいるのです。それだけではありません。パウロは、エフェソの信徒に「聖なる者たち」と呼びかけました。リップサービスなどではありません。パウロは信じているのです。キリスト・イエスを信じる人たち、信仰告白し、洗礼を受け、キリストと結ばれた者は皆、聖なる者とされているのだと。そして、そのことを思い出して欲しい、忘れないで欲しい、との祈りも込めて呼びかけているのです。
わたしどもも今、となりの人と向き合い、「あなたは聖なる人です。」「あなたも聖なる人です。」と呼び合いたい。思わず、下を向きたくなるかもしれません。「いえいえ、わたしなど、とても聖なる者とは言えません。」と言い訳をしたくなるかもしれません。それでもパウロは言うのです。エフェソの信徒の罪も弱さも知りつつ、呼びかけるのです。「罪人であったこのわたしをも、甦りの主イエスは捕らえてくださり、聖なる者としてくださった。それは、神の御心によるものだ。あなたもそうだ。あなたも神が望んでくださったから、聖なる者とされている。だから、神の恵みに応答する生き方を思い起こして欲しい。これから記すことは、耳が痛いことかもしれない。そんなことできるか、と思うかもしれない。こんな手紙など読みたくない、と破りたくなるかもしれない。それでも、最後まで読んで欲しい。そのような祈りをこめて、パウロは祝福を祈るのです。
「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(1:2)」たった数行の挨拶と祈りの言葉です。しかし、ここに記されている言葉は、エフェソ書のみならず、新約聖書、いや、旧約聖書を含む聖書全体を貫く、主イエスからの恵みが凝縮されていると言って過言ではありません。主イエス・キリストの父でいらっしゃる神さまが、わたしどもの父となってくださいました。神さまが、そのことを望んでくださいました。すぐになまぬるくなってしまうわたしどもです。それなのに、キリストによって、わたしどもを聖なる者としてくださり、あろうことか、キリストの体を形づくる者として用い、キリストの光を世の人びとにを運ぶつとめに、あたらせてくださるのです。キリストの使徒として、遣わしてくださるのです。
先週は東村山教会に属する一人の姉妹が骨折、一人の兄弟が病を患い入院なさったというニュースが飛び込んできました。二人とも90代の教会員です。教会には若いひとたちもいれば、90代の方もいます。その皆が、父なる神さまの御心によって、キリスト・イエスの使徒とされています。パウロと同じように。パウロがエフェソの人々に恵みと平和を祈り、励ましたように、わたしどももこの恵みと平和をいただいた者として、互いに祈り続けたいと思います。
本日をもって、佐藤 晏神学生が東村山教会を離れます。4月からは伝道師として、大阪教会に属する聖なる者たちに主イエスからの恵みと平和を祈りつつ、語り始める。何と嬉しいことでしょう。わたしどもも、聖なる者として、互いに、主イエス・キリストからの恵みと平和を祈りつつ、父なる神さまの子どもとして生きる平安をまだ知らないすべてのひとに、神さまの御心がなるよう祈りつつ、共に歩んでまいりましょう。

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたと、主イエスの愛と赦しのゆえに、わたしどもを聖なる者としてくださいましたから感謝いたします。主よ、世界の教会が主イエスによってひとつとなり、あなたの御心が成るために力をつくすことができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の御心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって強くしてください。主よ、東村山教会に連なる二人の仲間が入院されました。どうか、あなたが癒しの み手を触れてくださり、癒やしてください。本人、またご家族の痛み、不安を取り除いてください。本日の礼拝をもって大阪の地へと遣わされる佐藤 晏 神学生に聖霊を注ぎ、伝道師としての歩みをお支えください。昨日は教会学校の子どもたち、青年会の若者たちが郊外活動を通して交わりを深めました。その中にはイースターに洗礼、信仰告白を控えている子どもたちもおります。どうか、これからの時代を担う者たちに聖霊を注いでください。これからの長い人生をあなたと共に歩める恵みと平安を心に刻みつけてください。主よ、牧師不在の教会、被災地で奮闘している教会があります。あなたの体である諸教会の歩みをお支えください。4月から、新しい歩みを始める者がおります。進級、進学する者、就職する者、それぞれの歩みを導き、お支えください。主よ、パレスチナでの停戦が破られ、再びイスラエルとハマスとの争いが始まってしまいました。ウクライナでの争いも続いております。どうか、一日も早く争いを続ける国と国が武器を捨て、あなたの愛と赦しに生きることができますように。尊い命が奪われることのない世界をつくることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2025年3月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ヨブ記 第42章1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第21章20節~25節
説教題:「あなたは、わたしに従いなさい。」
讃美歌:546、86、190、448、539 

 先週は、佐藤 晏 神学生による卒業説教でした。わたしも会衆席に座り、ルカによる福音書 第9章の、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(ルカ9:23)」との、主イエスの み言葉に耳を傾けたとき、   卒業説教を語った日のことを思い起こしました。小学1年から通い続け、洗礼を受けた教会を離れて、釧路の春採教会に遣わされる。期待と不安を胸に抱きながら語った日から16年が経ちました。釧路で6年。東村山で10年。迷い、悩む日がありました。それでも、伝道者としての日々が守られたのは、主イエスが常に先を歩いてくださり、ペトロに語られたように、「あなたは、わたしに従いなさい。(ヨハネ21:22)」と励まし続けてくださったからにほかなりません。
 本日、わたしどもは、ヨハネによる福音書を読み終えます。2023年1月22日に第1章1節から5節を読んでから、2年2ヶ月の日々でした。この間、天に召された仲間がいました。また先週も転入会式が執り行われましたが、わたしどもの群れに新しく加えられた仲間もいます。最後まで一緒にヨハネ福音書を読むことができなかった者、途中から共に読むことになった者、それでも、わたしどもは、第3章16節に集約される恵みを、大切に心に刻み続けてまいりました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この2年2ヶ月の間に天に召された、兄弟姉妹の耳もとで、わたしが朗読してきたのも、この み言葉でした。そして朗読の後には、こう語りました。「地上の命を終えても、わたしどもは何も恐れる必要がありません。なぜなら、主イエスを、わたしの救い主と信じ、洗礼を受けた者は、誰ひとり、滅びることなく、永遠の命に与っているからです。」すると、ベッドで横になっている兄弟姉妹のお顔がほんのり赤くなり、穏やかな表情になったことを忘れる ことができません。これはもう、わたしが何をしたからということではなく、主イエスご自身が、わたしを その方々の枕元に連れて 行ってくださって、主イエスご自身が、直接その方々の心に語りかけてくださった。そうとしか、思えませんでした。そのようにヨハネ福音書の み言葉は、わたしどもを励まし、慰め、永遠の命の喜びを与え続けてくださった。その福音書を今日で読み終えるのです。福音書の最後の場面に登場するのは3人。主イエス。次にペトロ。そして、主イエスが愛しておられた弟子です。けれども、ここは主イエスとペトロが語った言葉で構成されていて、主イエスに愛されたという、その弟子が語った言葉はありません。
主イエスはペトロにおっしゃいました。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他(た)の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。(21:17~18)」ペトロは、ここで主イエスから大切な二つのことを告げられました。一つは、羊の群れに譬えられるキリスト者の群れを、主イエスから託されたということ。もう一つは、そのためにペトロは、殉教の死を遂げるであろう、ということです。さらに主は、ペトロに言われました。「わたしに従いなさい(21:19)」。ペトロは、主イエスの言葉によって力を受け、献身の志を篤くし、前を向き、主イエスに従って歩み出そうとしました。けれどもここで、ペトロはなぜか、うしろを振り向いたのです。そこには主イエスの愛しておられた弟子が一緒について来るのが見えました。20節。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸(むな)もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である。」
ヨハネによる福音書に度々登場するこの人物は、おそらくは、ペトロと同じく漁師から主イエスの弟子となったヨハネではないかと言われています。あえて名前は伏せることによって、わたしどもに「あの夕食のとき」即ち最後の晩餐の場面を、思い起こさせようとしているのかもしれません。第13章21節以下の場面です。主イエスが「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。(13:21)」とおっしゃったとき、ペトロは席が遠かったのかもしれません。主イエスの胸もとに寄りかかってくつろいでいたその弟子に目配せをして、「裏切るのは誰ですか」と尋ねさせたのです。このことからもわかるように、ペトロとは気心の知れた仲であったのでしょう。主イエスから特別愛されていた弟子。もしかしたら、ペトロたちよりも年下で、皆から可愛がられていた存在だったのかもしれません。ペトロは、主イエスに従って歩み出そうとしたそのとき、ふと、この弟子のことが気になって、うしろを振り向いたのです。こういうことは、わたしどもにもよくあることのように思います。主から自分に与えられている賜物を感謝し、自分の置かれた持ち場で精一杯 力を尽くせばよいはずなのに、人の賜物が気になる。人が置かれた場所をうらやむ。自分と人を比べてしまうのです。ペトロは彼を見て、主イエスに尋ねました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか(21:21)」。すると主イエスは、こうおっしゃったのです。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。(21:22)」
 第1章から読み続けたヨハネ福音書に記された主イエスの最後のお言葉です。大切に、受け取りたいと思います。もしかしたら、この箇所を読んで、少し冷たく感じた方がおられるかもしれません。確かに、激しく、厳しい言葉です。けれども、この厳しさをもって、主イエスはペトロの中にしぶとく残っていた罪の根っこをバッサリと断ち切ってくださいました。罪から解放してくださいました。自分と人を比べて不平を言ったり、落ち込んだり、あるいは逆に、優越感に浸ったり、人を裁いたり、そういう罪の根っこを、断ち切って、「人がどうあろうと、あなたは、わたしに従いなさい。わたしだけを見て、わたしを愛して、わたしについて来なさい。」と呼んでくださったのです。これは、「他者に対し無関心であれ。」と言われているのではありません。わたしどもは主にある兄弟姉妹。「互いに愛し合い、互いに仕え合いなさい。」と勧められています。ただ、「主イエスとわたし」という関係、主イエスに愛され、主を愛するという愛の関係においては、外野に対して「無関心であれ。」と言われています。「よそ見をするな。」と言われています。「あなたは、わたしだけを見て従って来なさい。」と言われているのです。
わたしが教会学校に通っていた頃、大好きな「こどもさんびか」がありました。「主にしたがいゆくは」です。由木 康先生の訳と、元気のでるメロディーです。「主にしたがいゆくは/いかによろこばしき/心の空はれて光はてるよ/みあとをふみつつ/共にすすまん みあとを ふみつつ/うたいて すすまん。」青年になると、今度は、讃美歌448番が大好きになりました。「いざすすめ、たゆみなく、いざうたえ、こえたかく。みことばにしたがいて/われらも今はつよし。」辛いときも、犯した罪に惨めな思いになっても、448番を賛美すると元気になるのです。
日々、わたしどもに声をかけてくださる主イエス。冷たいのではなく、真の愛を持って声をかけてくださる。「他の誰がどうであれ、そのことに心を奪われることなく、あなたはわたしの背を見つめ、わたしに従いなさい。」ヨハネによる福音書を記したであろう、主イエスに愛されたヨハネは、最後、このように記しました。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。(21:24)」そうです。日本で、この混迷の時代に、ヨハネ福音書を読んできたわたしどもも、それぞれの賜物を用いて、「主イエスこそ、わたしどもの救い主。」と証しする者として、遣わされています。主イエスによって、遣わされています。わたしどもも主に愛され、主を愛している主の弟子です。この恵みを喜んで、人間を照らす光として世に来られた、主イエスの光を映しつつ、歩んでまいりましょう。

<祈祷>
天の父なる神さま、他者のことが気になり、すぐによそ見をしてしまうわたしどもです。それでもあなたは、わたしどもを愛し、主イエスを世に遣わし、「わたしに従いなさい。」と真の救いへと招いてくださいましたから感謝いたします。よそ見することなく、主の背を見つめ、喜んで主に従い続ける者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって強くしてください。今日も礼拝を慕いつつ、病のため、体調を崩しているため、痛みを抱えているため、様々な理由によりそれぞれの場で祈りをささげている兄弟姉妹がおります。どこにあっても、あなたが共にいてくださることを信じ続けることができますように、み霊を注いでください。全国、全世界の被災地で困難な生活を強いられている人びとを思います。特に大船渡の山林火災により、厳しい試練の中にある人びとを慰め、励ましてください。日々の必要が満たされますように。世界の至るところで争いが続いております。犠牲になるのは弱い立場の人たちです。子どもたちの悲しみを、痛みをあなたが癒してください。望みを失うことのないよう導いてください。イースターでの洗礼、信仰告白に向けて備えの日々を過ごしている教会学校の子どもたちがおります。明確に信仰を告白し、生涯、主イエスの僕として、喜んで主に従う決心が与えられますよう、み霊を注ぎ続けてください。全国、全世界の諸教会を強め、励ましてください。特に、被災地の教会、牧師不在の教会をお支えください。主よ、あなたの導きにより、神学校を卒業された佐藤 晏 神学生の歩みをお支えください。来週は礼拝後に送別会を予定しております。共に、祈りをもって大阪教会へと送り出すことができますように。学部3年の学びを終え、学部4年の学びを控えている神学生たちの歩みも導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2025年3月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第18章21節~32節、新約 ヨハネによる福音書 第21章15節~19節
説教題:「神を愛するということ」
讃美歌:546、6、321、21-81、333、545A 

今から69年前の1956年2月26日。東村山教会は産声をあげました。開拓伝道の志を与えられた川合喜四郎牧師を中心とした11名が幼稚園の園舎を借りて、最初の主日礼拝をささげてから69年、この地に福音の種を蒔き続けてくることができました。先週の水曜日が、ちょうど2月26日でしたので、「御言葉と祈りの会」では、これまでの歩みを主に感謝し、共に祈りました。創立70周年の記念の日に向かって、またその先へ、主が与えてくださった希望を喜び歌いつつ前進したい。そう願うわたしどもに、今朝示されたヨハネ福音書の み言葉は、主イエスと弟子たちとの食事が終わった場面から始まります。漁を終えて、疲労困憊していた弟子たちのために、主イエスがパンと魚を用意して待っていてくださいました。そして、「さあ、来て、朝の食事をしなさい(21:12)」と食卓に招いてくださり、皆が元気になった場面から始まるのです。
主イエスはペトロの目を見つめ、おっしゃいました。「この人たち以上にわたしを愛しているか(21:15)」。主イエスは、今朝、わたしども一人一人をも見つめ、お尋ねになっています。「あなたはわたしを愛しているか。」ここにはキリスト者として何十年も主に仕えてきた者がいます。イースターに洗礼、信仰告白を予定している者もいます。「いつの日か洗礼を」と道を求めている者もいます。初めてここに座っている人もいらっしゃるかもしれません。すべての人が問われています。「わたしを愛しているか」。主イエスが、わたしどもの愛を求めておられます。主イエスはなぜ、信仰ではなく愛を、ペトロにお求めになったのでしょうか。主イエスを信じるということと、愛するということは、同じではないのでしょうか。信じているなら、そこには必ず愛が伴うとは、言えないのでしょうか。愛とは何でしょう。ヨハネによる福音書を2年にわたって読んでまいりましたが、幾度となく立ち戻って読んできた み言葉があります。第3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」神さまは、争い悩むわたしどもの世を、腸(はらわた)がちぎれるような痛みをもって悲しんでくださり、誰ひとり滅んではならないと、み子イエスさまの命を差し出してくださったのです。また、そのようにして わたしどものもとへ来てくださった主イエスは、ヨハネによる福音書第15章においておっしゃいました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(15:12~13)」。そして、さらに続けて「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。(15:15)」と言ってくださいました。そして事実、主は、十字架の上で、すべての者のために命をお捨てになったのであります。しかしまさにそのとき、ペトロは、死ぬことを恐れて、主イエスへの愛を捨てました。「あなたも、あの人の弟子でしょう」と告発されて、おそろしくて、一度ならず、二度、三度と、主の弟子であることを否定してしまったのです。主イエスを神の子と信じていても、命を捨てることができませんでした。友のために命を捨てる愛を、貫くことができなかったのです。
ペトロの姿が、わたしどもの姿そのものであることに、愕然とするしかありません。主イエスを信じている。教会に毎週通っている。「これは、わたしの献身のしるしです。」と祈りながら献金をささげている。でも。わたしどもは命を奪われるどころか、自分の立場や誇りがほんのちょっと傷つけられるだけでも腹を立てたり、平和を築く努力をすぐに投げ出してしまうことはないでしょうか。
わたしどもの信仰生活において、もしもそういう問題があるならば、そこには、主イエスを信じていても、真実に愛しきれていない、という状態があるのではないかと思います。主イエスを信じていても、真実に愛し抜くことができない。わたしどもの愛はそのような惨めなものであることを思って、うつむかざるを得ません。このときのペトロも、主イエスが会いに来てくださったことが嬉しくて、湖に飛び込んでいき、喜んで食事に与ったものの、いざ主イエスに見つめられ、「わたしを愛しているか」と問われたとき、死の恐怖から主イエスへの愛を三度否定してしまったことを思い出し、うつむいてしまったかもしれません。しかし、そのペトロに、主イエスはなお、愛することを求めてくださいました。「わたしを愛しているか」。
死の鎖を断ち切って復活なさった主は、この問いかけによって、ボロボロになってしまったペトロの愛を、まったく新しい愛に創りかえようとなさっています。死を恐れない愛に、創りかえてくださるのです。主イエスは、ペトロの中に、新しい愛を、ひと行程、ひと行程、丁寧に手作りしていくかのように、一度、二度、三度と、お尋ねになりました。「わたしを愛しているか」。ペトロは一度、二度、三度と尋ねられるたびに、自分が手放して、壊してしまったボロボロの愛が、益々 惨めに思えて、悲しくなりました。ペトロは三度目に答えて言いました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。(21:17)」ペトロは主の前に悲しみを隠さずに言ったのです。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしの失敗も、あなたはわたし自身よりもよく知っておられます。それでもボロボロになりながらも、なおあなたを愛していることも、あなたは知っていてくださいます。あなたの揺るぎない愛だけが、わたしの愛を支えていてくださいます。」ペトロは自分の惨めさを思い知り、それでも愛したいと、切に願いました。まさにそこで、主は まあたらしい愛を、ペトロの中に完成させられたのです。
そして、主イエスは改めてペトロにお命じになりました。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他(た)の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。(21:17~18)」主は、ペトロに教会の礎(いしずえ)となることをお命じになり、その結果、殉教することになる将来を示されたのです。伝えられるところでは、ペトロは迫害の中、十字架にはりつけにされて殉教しています。主イエスの愛が、ペトロの愛を最後まで支えてくださったのです。そうでなければとても説明がつきません。わたしどもの愛の確かさの根拠は、いつでも、主イエス・キリストの愛の中にあります。わたしどもの覚悟や、わたしどもの誠の中ではないのです。この箇所において、しばしば指摘される問題があります。日本語の訳で「わたしを愛しているか」となっている愛という言葉です。一度目と二度目は、神の愛を表す「アガペー」の動詞形が用いられています。み子の命を引き換えにするほどの、激しく、深い、神さまの愛です。けれども、三度目だけは、友としての愛を表す「フィリア」の動詞形が用いられています。とても不思議に思えます。ちなみに、ペトロは、これらの問いに対して、三回とも、「フィリア」、友の愛を表すことばを用いて、答えています。考えてみれば、ボロボロのペトロに対して、「あなたはわたしを神の愛をもって愛するか」とお尋ねになるとは、それも二度もお尋ねになるなんて、随分と酷な気もします。けれどもこの問いが、主イエスがペトロの中に新しい愛をおつくりになっている過程だと考えたら、これほどの確かさがあるでしょうか。神の愛によって土台がつくられ、神の愛によって骨組が組まれる。わたしどもは、自分のボロボロで惨めな愛をそのまま、ただ差し出すしかありません。しかしそこに響いてくるのは、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃってくださった第15章の み言葉です。見えてくるのは、わたしどものためにまことの友として命を捨ててくださった主イエスの十字架です。そこで主は改めて、尋ねてくださいます。「あなたはわたしを友として愛するか」。主はそのようにして、ペトロの中に、わたしどもの中に、愛を完成させてくださる。主のために命を捨てることが、わたしどもの喜びとなるように、愛を完成させ、わたしどもの愛を、この上なく深く確かな愛で支えてくださるのです。
主のために命を捨てると言っても、わたしどもの国に迫害はありませんし、あまりピンとこないかもしれません。しかしわたしどもはいつでも、日々の生活の中で、「あなたはわたしを愛するか」と問われています。わたしを愛するあなたは、どのように生きるかと、問われています。互いに愛し合い、平和を築くためにわたしどもは主から遣わされています。しかしそのとき、わたしどもは一人で何とかしろと言われているのではありません。主は19節の最後におっしゃいました。「わたしに従いなさい」。わたしについておいでとおっしゃったのです。わたしどもは主イエスのあとからついていけばよい。主が愛を与えてくださって、主の愛が、支えてくださいます。わたしどもは、わたしどもの愛を支えてくださる主イエスの愛を信じて、ついていくのです。迷うときは主イエスに聞く。倒れそうなときは主イエスに頼る。ペトロは、そのようにして教会をつくっていきました。そのあとに、わたしどもの教会も、続いています。わたしどもは、主の愛に支えられて主を愛する群れです。自分の思いや願いではなく、主の思いにこそ、喜んで従う群れです。主が支えていてくださいます。まもなく迎える70周年。そしてその先へ。主のために喜んで自分を捨てる愛を、わたしどもに与えてくださり、支えてくださる主の愛を信じて、進んでいくことができますように。

<祈祷>
わたしどもの救い主、主イエスの父なる神さま、主イエスが与えてくださった愛を、信じきることができますように。あなたが始めていてくださり、また必ず完成してくださる救いの みわざを信じ、あなたの祝福の喜びの中で、あなたを愛し、み子 主イエスを愛し、また となり人どうし互いに愛し合って生きる者としてください。平和を築く者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって お支えください。主よ、わたしどもの世を顧みのうちに置いてください。血の通う平和な世界を作り続けていくということが、どんなに困難であるかを思い知らされる日々であります。争いに次ぐ争い、憎しみの応酬に、世界は滅びに向かっているのではないかと思ってしまいます。主よ、わたしどもを憐れみ、敵を愛する以外には世界が滅びずにすむ道はないことを、どうか、深く悟らしめてください。国と国、人と人が武器を捨て、お互いの存在を認め、平和をつくりあげていくことができますように。今朝も礼拝を慕いつつ、病床にある者、力衰えたことを嘆いている者が多くおります。主よ、どこにあってもあなたが共におられ、ゆるぎない愛で支えていてくださることを信じ、平安に歩むことができますように。地震で、大雪で、山火事で、傷つき苦しんでいる被災地に心を寄せ祈ります。主よ、どうかそれぞれの地の人びとを、そこに立つ教会を、励ましてください。一日も早く困難が解消され、必要が満たされますように。今週の金曜日、4年間の学びを終え、東京神学大学を卒業される佐藤 晏神学生の上に、祝福をお与えください。来週予定している卒業記念の説教の準備のために、あなたのお導きを祈ります。イースター礼拝での洗礼式、信仰告白式に備え、大切なときを過ごしている教会の子どもたちの備えの日々を導いてください。あなたへの信仰を確かなものとし、生涯、あなたへの愛に生きる者として強め、導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2025年2月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第57章14節~19節、新約 ヨハネによる福音書 第21章1節~14節
説教題:「待っていてくださる主」
讃美歌:546、30、246、324、544  

今から40年ほど前、わたしが教会学校の中高科時代の話です。毎年夏は、山中湖で行われる夏期学校に参加しておりました。2泊3日でしたが、2日目の夜、寸劇をするのが恒例でした。初日に中1から高3までの縦割りグループがつくられ、くじ引きで聖句が与えられます。それぞれにシナリオを作り、2日目の夜に演じるのです。ザアカイの物語がありました。放蕩息子の物語もありました。一所懸命に準備し、演じた経験は、わたしの心に、み言葉を根付かせました。
今朝の準備のために、改めてわたしどもに与えられた み言葉を読んでおりましたら、そのときのことを思い起こしました。この場面を演じた記憶はありません。けれどももし、この場面をシナリオにして、皆さんと一緒に演じることができたら、み言葉がよりリアリティをもって、からだの中に入ってくるのではないかと思いました。実際に演じることはできませんが、今朝、わたしどもも、共に み言葉の中に立ち、演じるような気持ちで、み言葉を辿っていきたいと思います。
舞台はガリラヤ地方のティベリアス湖畔です。シモン・ペトロと、ディディモと呼ばれるトマス。ガリラヤのカナ出身のナタナエル。ゼベダイの子たち、そして、名前はわかりませんが、二人の弟子の7人がいたと書かれています。彼らは湖畔で何をしていたのでしょう。第20章でご一緒に読みましたように、すでに主イエスは復活なさって、弟子たちの前に現れてくださいました。そして弟子たちに聖霊を与え「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。(20:21)」とおっしゃって、伝道のために弟子たちを派遣なさいました。それなのに彼らは、故郷に帰ってしまっていたのです。いったいどんな気持ちでいたのでしょう。まるで、主イエスとの出会いなどなかったかのように、弟子になる前の生活に、完全に戻ってしまっていたのでしょうか。そうではないと思います。もしもそうであったならば、7人はそれぞれ別々に、自分の生活に戻っていたことでしょう。また、わざわざ「わたしは漁に行く(21:3)」などと言う必要はなく、黙々と、当たり前に仕事をしていたのではないでしょうか。もしかしたら7人は、主イエスから伝道に派遣されたものの、どうしたらよいか途方に暮れてしまったのかもしれません。先に進めず、途方に暮れるとき、わたしどもは「原点に戻ってみよう」と思うことがあるのではないでしょうか。かつて、弟子になる前のペトロが、初めてイエスさまから声を掛けられたのも、ティベリアス湖畔でありました。沖に漕ぎ出してひと晩中 漁をしたのに、一匹も獲れずにがっかりして網の手入れをしていると、主イエスから「舟を出して欲しい」と頼まれたのです。舟に乗り込んだ主イエスは、岸から少し離れたところから説教をなさり、そのあとペトロに向かって、「舟を沖へ漕ぎ出して、網を下ろしてみなさい。」とおっしゃいました。すると、驚くほどたくさんの魚が網にかかり、網が破れそうになったのです。畏れおののくペトロに、主イエスは、おっしゃいました。「恐れることはない。今から後(のち)あなたは人間をとる漁師になる。(ルカ5:10)」ペトロは、主イエスの言葉を信じ、すべてを捨てて主イエスに従ったのです。
また、ここに名前が挙げられているゼベダイの子たち、即ちヤコブとヨハネも、ペトロと同じようにティベリアス湖の漁師でした。トマスもナタナエルもガリラヤ地方出身であったようです。彼らにとってティベリアス湖は、故郷であり、主イエスとの思い出の深い場所であったのです。この湖を、主イエスと一緒に何度渡ったことでしょう。嵐に見舞われて沈みそうになったときには、主イエスが嵐を静めてくださいました。「先に舟で渡るように」と言われて弟子たちだけで、沖へ漕ぎ出したときには、主イエスが湖の上を歩いていらっしゃったこともありました。そのたびに彼らは、「イエスさまは神の子、神さまから遣わされて来られた方」だと、心に刻んできたのです。それらの記憶が、7人をティベリアス湖へと呼び寄せたのかもしれません。ペトロが、「わたしは漁に行く」と言ったとき、無意識であったかもしれませんが、ペトロの心はイエスさまの姿を、探していたのではないかとも思います。そうしてペトロが漁をしに行こうと立ち上がったとき、ほかの6人も「わたしたちも一緒に行こう(21:3)」と立ち上がりました。
ところが、ひと晩中あちこちに網を下ろしてみたものの、どうしたことか、一匹もかかりません。そうこうするうちに白々と夜が明け始めましたので、がっかりしながら沖から戻ってきました。そして浜辺まであと100メートルもないくらいのところまで来たときのことです。朝もやの中にぽつんと人影が見えてきました。その人影が、こちらに向かって呼びかけています。「子たちよ、何か食べる物があるか(21:5)」。弟子たちはキョトンとして答えました。「ありません(21:5)」。するとその人から再び声が返って来ました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。(21:6)」もしかしたら、ペトロは胸騒ぎがしたかもしれません。「あっ、あの日と同じだ。」ペトロたちはザパーンと網を打った。すると、やはりあの日と同じように、網が破れんばかりにたくさんの魚が獲れたのです。そのとき、主イエスが愛しておられた あの弟子がペトロに言いました。「主だ(21:7)」。シモン・ペトロは、その言葉でハッと我に返ったのではないでしょうか。裸同然で漁をしていたので、さすがにこの格好のままイエスさまに会うわけにはいかないと、上着をまとってから、ザブーンと湖に飛び込み、全力で岸まで泳いだのです。ほかの弟子たちも、たくさんの魚のかかった網を引いて、舟で戻ってきました。するとそこには、主イエスが待っておられました。すでに炭火がおこしてあり、どこで調達してこられたのか魚やパンまで準備されています。主イエス自らが準備して、炭火をおこして焼いておられます。疲労困憊している弟子たちを力づけるために。主は弟子たちに言われました。「今とった魚を何匹か持って来なさい(21:10)」。153匹もの大漁であったと聖書は伝えています。しかし、それらもすべて主イエスが「舟の右側に網を打ちなさい。」と教えてくださったことによるものです。弟子たちがしたことは、言われるままに網を打ち、引き上げ、嬉々として魚を数えた、それだけでした。必要なすべてを、主イエスが備えてくださったのです。そして、朝の光の中で、主イエスは7人の弟子たちを食卓へと招いてくださいました。「さあ、来て、朝の食事をしなさい(21:12)」。弟子たちは、もう、誰ひとり、「あなたはどなたですか(21:12)」と問いません。手と足、わき腹の釘跡も見ようとしません。なぜなら、「子たちよ」即ち、「神の子どもたちよ」と弟子たちを呼ぶことのできるお方は、イエスさましかおられない。153匹もの魚を与えてくださることのできるお方はイエスさましかおられない。どんなに困り果ててしまっても、どうしたらよいか分からなくなってしまっても、何をやってもうまくいかず、諦めそうになるときも、どんなときでも先回りして食卓を備えて待っていてくださる。そんな方は、イエスさまのほかは誰もいない。そのことがはっきりと分かったのです。
 わたしどもも、7人の弟子の一人です。「ほかの二人の弟子が一緒にいた。(21:2)」とあります。福音書記者は、あえて名前を記しませんでした。それは、そこに主イエスを信じ、「わたしの主、わたしの神よ(20:28)」と信仰を告白するすべてのキリスト者の名前を入れて欲しいからではないでしょうか。ペトロは、主イエスを裏切って逃げ出してしまったことを恥じて、苦しんでいました。わたしどもも、これまでの人生において、どうしても赦せない自分の罪がある。そして、自分など、主イエスの弟子とは言えないと、洗礼を受ける前の自分に戻ってしまったように感じる日があるかもしれません。でも、主イエスは、そのようなわたしどもを丸ごと背負って罪を赦し、いつでも先回りして、恵みを用意して、わたしどもを待ち続けておられます。そして、わたしどもそれぞれに必要なタイミングで、「子たちよ、何か食べる物があるか」と尋ねてくださいます。そのとき、わたしどもは、かっこつけず、遠慮することなく、「ありません」と答えてよいのです。だって、ほんとうに何も持っていないのですから。わたしどもが頑張って何かを生み出したとしても、すぐに枯渇してしまうのですから。わたしどもの中には本当に何もありません。それでも主は、わたしどもを見捨てることなく、待ち続けてくださいます。食卓を用意し、わたしのからだであるパンを『食べなさい』と与えてくださいます。だから、わたしどもは生きていけます。主の弟子として、歩んでゆくことができるのです。
わたしどもが信仰を告白し、洗礼を受けるときにはすでに、7人の弟子と同じように、恵みの食卓が用意されています。主が十字架で裂かれた肉と流された血潮からなる聖餐の食卓です。そしてこの食卓から、わたしどもは伝道へと派遣されて行きます。となり人の罪を赦し、となり人との間に平和をつくるために派遣されます。そこで行き詰まり、挫折することもあります。それでも、弟子たちが153匹もの魚を喜んで数えることが出来たように、わたしどもも、一人、また一人と、兄弟姉妹が加えられる喜びを与えられるのです。主がすべてを備えていてくださいます。安心して、主イエスから託されているつとめに励むことができますように。

<祈祷>
天の父なる御神、わたしどもは、過去に犯した罪に縛られ、み子の十字架による罪の赦しを疑ってしまう愚かな者です。み前に懺悔いたします。主よ、それでもあなたは、わたしどもを愛し、憐れみ、先回りして恵みを与えてくださいますから感謝いたします。どんなときも、あなたが備えてくださる恵みを信じ、あなたの招きに応答する者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって お支えください。主よ、教会に来ることのできない多くの者のあることを思います。病床で闘っている者を顧みてください。看病に明け暮れている者を支えてください。厳しい試練の中に置かれている年老いた者、あるいは若き人びとを顧みてください。この地上にありまして、自分のしていることが虚しいのではないかとさえ思いつつ、それでもなお愛の小さなわざを重ねている人びとを、あなたを信じている信じていないを問わず、あなたの み心に適うものとして生かし、用いてください。あなたの恵みを必要としている人びとのことを思います。家に残してまいりました家族たち、心にかかりながら、あなたのもとに導くことのできない友人たち、その一人ひとりをあなたの み前に差し出して祈り願いたく思います。あなたの恵みを必要としている者たちを顧みてください。日本の社会の歩みを思います。世界の歩みを思います。み心に添うこと少なく、争いに満ち、殺し合いが続き、お互いに信じ合うことができず、真実の平和をもたらすことのできない世界を憐れんでください。わたしども一人ひとりに「主の平和」が植えつけられ、わたしどもの家庭に「主の平和」が広がり、隣人の中に広がり、あなたの み栄を現すもとになりますように。弱い立場の子どもたちをかえりみてください。あなたにある望みに生きることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【YouTube動画配信】
2025年2月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第3章14節~18節、新約 ヨハネによる福音書 第20章30節~31節
説教題:「語り尽くせない恵み」
讃美歌:546、84、239、502、543 

 おととしの1月22日の主の日から、ヨハネによる福音書を共に読んでまいりました。ちょうど2年がたとうとしています。今日は、第20章の最後、30節と31節を読みます。ここは、少し不思議な印象を受けます。まるで、あとがきと言ってもよいような文章です。けれども、このあとには第21章が続きます。ですから、もしかすると、もともとのヨハネ福音書は第20章で終わっており、第21章は、あとから付け加えられたのかもしれないという説もあります。一見すると、記されている内容は、ある意味、読み飛ばしてしまっても大勢に影響はなさそうです。しかし、ここにこう書かずにはおれなかった福音書記者の心を思うとき、やはり素通りしてしまうのはもったいないことであると思います。
 こうして説教壇に立って、皆さんを見渡しますと、僅か2年の間にも、変化があったことを感じます。天に召された兄弟姉妹の顔が浮かんできます。一方、2年前にはいらっしゃらなかった方が新たに加えられています。その意味では、教会は変化していきますし、それは当然のことです。けれども、東村山教会は2月26日で創立69年を迎えますが、69年前も、2年前も、今も、そしてこれからも、どんなに礼拝者の顔ぶれが変わろうと、牧師が変わろうと、変わらないことがひとつだけあります。それは、教会が語り続けている恵みです。教会が語る恵みとは、この30節と31節の み言葉に尽きます。即ち、主イエスが弟子たちに示された多くのしるしであり、このしるしによって、主イエスを救い主であると信じるなら、永遠の命を得る、ということです。早速、ご一緒に読んでまいりましょう。
 30節。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。」福音書記者は、なぜ、このようなことを記したのでしょう?どうして全部書いて教えてくれないのか。そんな思いもしてきます。理解を深めるためのヒントになる み言葉があります。続く第21章の最後。25節の み言葉です。ヨハネ福音書全体の、最後の み言葉です。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。(21:25)」ヨハネによる福音書は、主イエスがなさったこと、神さまの救いのしるしを、いちいち全部書こうとしたならば、世界もその書かれた書物をとても収めきれないと宣言し、福音書を閉じるのですから、何とダイナミックな表現でありましょう。
主イエスは弟子たちの目の前で、恵みに満ちた多くのしるしをなさいました。福音書記者自身も、その多くを見たり聞いたりしてきたと考えられます。出来ることなら、見聞きしたすべてを丁寧に記録したい。しかし、とても語り尽くせない。あのこともこのこともと、恵みがあとからあとから溢れてきて、いつまでたっても終わらない。似たようなことは、日曜日ごとの説教の準備をしていても感じます。どんなに精一杯準備しても、主の恵みを語るには、まだ言葉が足りないような気がしてくるのです。
 しるしとはいったい何でしょう?ヨハネ福音書に、はじめて登場するしるしは、第2章のカナでの婚宴における出来事です。結婚式の宴会の席で、招待客に出すために準備していた葡萄酒が、予定よりずっと早く底をついてしまいました。そのとき、主イエスが、水を葡萄酒に変えてくださった、という、奇跡物語です。この奇跡を伝えながら、福音書記者は、このように記しました。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(2:11)」ですから、しるしは奇跡を意味すると言うこともできます。しかし、しるしの目的について、第20章31節はこのように告げています。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」「イエスの名により命を受ける」とは、主イエスご自身から命をいただく、ということです。福音書にたくさんのしるしが書かれているのは、あなたがたがイエスを神の子、救い主であると信じるため、そして、イエスご自身から命をいただくためである。というのです。このように読んでゆくと、しるしとは、奇跡だけにとどまらず、もっと深く、広い意味を持って、わたしどもに迫ってまいります。
例えば、今朝読んでおります30節と31節の直前では、主イエスは、ご自身の甦りの体を、しるしとしてトマスに示し、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と、救いの中へ招いてくださいました。そして、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白するトマスの姿を通して、のちの世のわたしどもにも、「見ないのに信じる人は、幸いである。」との招きのメッセージを届けてくださいました。このように、主イエスのしるしは、時空を軽々と超え、「主イエスは神の子、救い主である」とわたしどもに証しするのです。ですから31節で、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」と言われている「あなたがた」とは、わたしどものことでもあります。福音書記者は、この福音書を読むすべての人が、主イエスのしるしに触れ、主イエスと出会い、主イエスを神の子として受け入れ、「主イエスはわたしの救い主」と信じて洗礼を受ける、そのことを心から願って書いたのだ、と言っているのです。もちろん、これは福音書記者だけの願いではありません。父なる神さまの願いであり、主イエスの願いです。
福音書記者ヨハネは、第3章16節に万感の思いを込めて記しました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」主イエスご自身が、神さまの愛のしるしです。神さまが、「誰ひとり滅んではならない」と強く願ってくださり、そのために、主イエスを世にお遣わしになったのです。
 今朝、ヨハネ福音書と合わせて読みましたエレミヤ書 第3章14節は「背信の子らよ、立ち帰れ、」と始まっていました。神さまに背を向け、争いに明け暮れるわたしどもです。それでも「立ち帰れ、帰っておいで。」と、神さまは呼んでくださるのです。
 スポルジョンというバプテストの説教者がいます。日本でもいくつかの読み易い書物が訳されて出版されています。その中でスポルジョンは、今朝の み言葉であるヨハネ福音書第20章31節後半の「イエスの名により」という言葉を「イエスに包まれて」と言い換えています。主イエスをわたしの主と信じて洗礼を受けるとき、わたしどもは、主イエスにすっぽり包まれてしまうのです。主が、わたしどもを包んでくださる。罪のわたしどもを、そのまま丸ごと  だきしめ、頭の先からつま先まで、全部、すっぽり包んでくださる。すっかりひとつになってくださる。主イエスから命をいただくということは、それほどまでに確かな恵みなのです。先週ご紹介したドイツの彫刻家バルラハの主イエスとトマスの「再会」の彫刻は、主イエスの両腕がトマスをしっかりと支えています。倒れそうになるわたしどもの信仰を、主の手が支えてくださる。そうして主の手に支えられながら、「わたしの主、わたしの神よ」と、信じるとき、死に勝利し復活された主イエスは、わたしどもをすっぽり包んでくださる。わたしどもは、おくるみにくるまれた赤ん坊のように、主イエスの復活の命にすっぽり包まれて、主イエスと一緒に、死を超えるのです。そのようにして、新しい命に生まれる。これが、わたしどもが招かれている永遠の命です。主イエスご自身から命をいただいて、主イエスの復活の命を、わたしどもも生きるようになるのです。これが、わたしどものために福音書が指し示し、「あなたにも受け取って欲しい!」と言われている大きな大きな、恵みです。福音書記者ヨハネが言葉を尽して、いくら書いても書ききれないと、なかば ぼやくかのように告白しながら、懸命に伝えようとしている恵みです。主イエスご自身が、釘跡の残る体を示しながら、「どうか、信じない者ではなく、信じる者になって欲しい。」と招いてくださっている恵みです。
主イエスご自身が、釘跡の残る両手を広げて、「見ないのに信じる人は、幸いである。」と、祝福の中へ招いてくださっています。「わたしの主、わたしの神よ」と、主の み手に飛び込むなら、抱きしめて包み込んでくださいます。そのとき、主の復活の命が、わたしどもの命となるのです。この恵みから漏れて良い人はいません。だからこそ、このあとの第21章へと続いていきます。死を恐れるあまり、主イエスを捨ててしまったペトロの救いと、伝道への派遣の物語です。わたしどもをひとり残らず救いたい、何としてでも救いたいと願ってくださる神さまの強い意志が、人に福音書を書かせました。福音書が語るしるしに込められている恵みを、大切に受け取ることができますように。

<祈祷>
天の父なる御神、罪深いわたしどもを諦めることなく、信仰へと招き続けてくださり感謝いたします。主イエスの愛と赦しと招きを信じ、「わたしの主、わたしの神よ」と日々、信仰を告白することができますように。どうか、救いの道を求めている者が、主イエスの救いのしるしを信じ、信仰を告白し、洗礼を受け、主イエスに包んでいただき、永遠の命を受ける者としてください。主イエス・キリストの お名前によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって お支えください。主よ、教会に連なる神の家族の中で手術を受けた者、体調を崩している者、痛みを抱えている者が多くおります。どうか、あなたの愛で包み、ひとときも、目を離さず、お支えください。また、そのひとりひとりが、支えてくださるあなたの み手に信頼することができますように。先週の火曜日は、東日本連合長老会の長老研修会と会議がありました。主よ、牧師不在の中、礼拝をささげている教会をお支えください。良き牧者を与えてください。あなたが お立てくださった教会が、望みを失うことなく、あなたのみ子の救いのしるしを喜んで語り続けることができますように聖霊を注いでください。全国、全世界の被災地で困難な生活を強いられているひとりひとりを強め、励ましてください。また、被災地で主イエスの名により受ける命の喜びを語り続けている諸教会を強め、励ましてください。世界中のいたるところで争いが続いています。憎しみのうねりを、止めることができますように。巻き込まれている人びとを顧みて、助けてください。戦いの中で、痛みを抱えながらあなたを礼拝する群れに、力を与えてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【YouTube動画配信】
2025年2月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第27篇7節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第20章24節~29節
説教題:「わたしの主、わたしの神よ」
讃美歌:546、8、243、525、542、Ⅱ-167 

 わたしどもの体の目では、甦りの主イエスは見ることができません。礼拝堂の何処をどう探しても、見えません。けれども、甦りの主イエスは、間違いなく、この礼拝堂の真ん中に立っておられます。わたしどもひとりひとりに「フーっ」と息を吹きかけ、「聖霊を受けなさない」と「生きる力」を注ぎ続けてくださっています。
 先週は、弟子たちが鍵をかけて隠れていた家の中へ、甦られた主イエスが入って来られたときの記事を読みました。このとき、弟子の一人で「ディディモ」と呼ばれるトマスは、その場におりませんでした。甦りの主イエスと再会した他の弟子たちは、トマスに告げました。「わたしたちは主を見た」。しかしトマスは信じられません。むきになって反論しました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
このエピソードによって、トマスは、「疑い深い男」と、呼ばれてきました。けれども、わたしどもが自分自身の歩みを顧みるとき、果たしてトマスをどうこう言えるでしょうか。
トマスのことを、福音書記者は「ディディモと呼ばれる」と記します。ディディモとは、「ふたご」という意味です。同じ名前の人が何人かいた場合、区別するためにニックネームをつけます。12弟子のひとりであったトマスは、「ふたごのトマス」と呼ばれていたのです。実際に ふたごだったのかもしれませんが、もうひとりは、聖書の何処を探しても出てきません。これについて、ドイツのある神学者は、こう言います。「ふたごの、もうひとりはどこへ行ったのか。わたしどもの誰もがその片割れだ。わたしども自身である。わたしどもも甦りの主イエスに会いたいと思っている。会って信じたいと願っている。ただ ひとの言葉を聞いているだけでは納得がいかない。」
わたしも、「甦りの主があらわれてくださったらいいのに。」と思ったことがあります。「甦りの主が、体の目で見えるかたちでここへ現れてくださったら、百聞は一見にしかず。誰でもすぐに信じることができるのに。」もしもそうであれば、極端な話、牧師は必要ないかもしれません。疑い深いのはトマスだけではないのです。トマスの ふたごのもうひとりのような わたしどもにとって、主イエスとトマスの「再会の物語」は、宝物のような み言葉です。
 トマスが、「わたしは決して信じない。」と宣言した日から、八日が経ちました。主イエスが甦られて、弟子たちの前に現れてくださった日曜日から数えて八日目、再び、日曜日が巡ってきたのです。弟子たちは、一週間前の出来事を再現するように、一軒の家に集まって、窓にも扉にも全部、鍵をかけていました。あの日と違うのは、トマスが輪の中にいることだけです。もしかすると、トマス以外の弟子たちは、「主は、トマスにも会いに来てくださるに違いない」と信じて、トマスを誘って、まったく同じ状況をつくったのかもしれません。「信じない人にも信じて欲しい。共に喜びたい。」という思いは、わたしどもにもよくわかります。「愛する人を教会へ連れて行くことができたら、この人にも主が出会ってくださるに違いない。」弟子たちの行動は、「伝道の原点」であると思います。弟子たちの祈りは聞き入れられ、主イエスが現れてくださいました。主イエスは彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。それから主イエスは、トマスを見つめて言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスが実際に主イエスの手や、わき腹に触れたかどうかは、わかりません。ただ、ひとつ明らかなことは、福音書は「触って信じた」とは書いていない。ですから、トマスにとって、すでにこの瞬間、主の体に触れることは重要な問題ではなくなったと考えることができます。トマスは言いました。「わたしの主、わたしの神よ」。これは、トマスの信仰告白です。主イエスはおっしゃいました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 主イエスとトマスの「再会の物語」は、わたしどもに厳粛な心を与えます。ドイツの彫刻家に、エルンスト・バルラハという人物がいます。そのバルラハの作品の中に、今朝の み言葉に題材をとった『再会』という作品があります。今からもう19年前になりますが、『再会』のブロンズ像が東京にやって来ました。わたしは東京神学大学の学部4年生になったばかりでしたが、東京芸術大学の美術館まで見に行きました。膝からガクンと、今にも崩れ落ちそうになっているトマスの脇の下に、主イエスが両手を差し入れて、しっかりと支えています。主イエスに抱きかかえられているトマスは老人の姿です。バルラハ自身の姿を刻んだのではないかと言われています。主イエスを食い入るように見上げるトマスの瞳は、喜びよりも、不安や、おびえ、疑いが拭いきれていないように見えました。不安や疑いで曇る目を、それでも信じたい、恵みを見たい、真理を見たいと、懸命に見開いている。そのトマスを、主イエスの両手がしっかり支えているのです。釘跡の残る主の両手に支えられて、トマスはようやく「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白することができたのではないか。そのような印象を抱きました。また、この像のトマスは主イエスの顔を見ているのですが、主イエスの視線は、トマスの頭の上を越え、遠くに据えられています。主イエスの視線の先に回り込んで見ますと、像を観ているわたしが見つめられているような、そのような気持ちにもなりました。「わたしは決して信じない。」と、心を固くこわばらせる、トマスのふたごの片割れのようなわたしども。しかし、固く心を閉ざすわたしどもの中に、主は確かに、入ってきてくださるお方です。そして、「あなたに平和があるように」と宣言してくださいます。わたしどもの罪のために、釘を打たれた両手で、わたしどもをしっかりと支え、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と、甦りの体でわたしどもを包み込むように、抱き起こしてくださるのです。
先週は、火曜日と木曜日に教会員のお宅への訪問が叶いました。近況を報告し合い、み言葉を読み、祈りを合わせました。礼拝に足を運ぶことが難しくなってきた兄弟姉妹の部屋で共に祈りながら、たとえ目には見えなくても、どんなに淋しくても、どんなに切なくても、ここにも、わたしどものために平和を祈り、甦りのいのちの中へ抱(かか)え込んで立ち上がらせてくださる主イエスがいてくださると確信しました。そしてその恵みを喜び合って、教会へ戻ってまいりました。
今朝、ヨハネ福音書と共に朗読していただいたのは、詩編第27篇の み言葉でした。ダビデ王による祈りの言葉ですが、この目で主イエスを見なければ、この耳で み声を聞かなければ、わたしは復活など信じないと心を固くするトマスの叫びのようにも思えます。「主よ、呼び求めるわたしの声を聞き/憐れんで、わたしに答えてください。心よ、主はお前に言われる/『わたしの顔を尋ね求めよ』と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。御顔を隠すことなく、怒ることなく/あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください/見捨てないでください。父母(ちちはは)はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。(27:7~10)」ダビデと、トマスの祈りが、疑い深いトマスの ふたごのもうひとりであるわたしどもの祈りに重なって、胸が一杯になります。トマスの体を引き寄せ、  抱き起こし、信仰告白へと導いてくださった主イエス。その主イエスが、わたしどもの教会の真ん中に立っておられます。それぞれの場所で礼拝をささげている兄弟姉妹の部屋、施設、病院の真ん中に立っておられます。そして、すぐ心を固く閉ざしてしまうわたしどものために平和を祈り、釘跡のある手でわたしどもの信仰をしっかり支えてくださいます。倒れかけても、抱き起こしてくださるのです。
主イエスは、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白したトマスにおっしゃいました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」この言葉は、決してトマスをおとしめておられるのではありません。また、見なくても信じることができる人の方が偉いと褒めておられるのでもありません。「幸いである」とは祝福の言葉です。主イエスは、祝福の光の中に、「あなたも、この中へ入っておいで」と招いておられます。釘跡の残る手を広げて、「わたしが支えるから、安心して信じてごらん」と、招いてくださっているのです。見なくても信じることができる幸いの中へと、招いてくださっているのです。

<祈祷>
天の父なる御神、疑い深いわたしどもにも目を注いでくださり、諦めることなく、み子を通して、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と招き続けてくださり感謝いたします。支えてくださる主イエスの み手に信頼して、見なくても信じることができますように。主イエス・キリストの お名前によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって お支えください。厳しい寒さが続いております。各地で大雪の被害も発生しています。主よ、どうか、困難な中にある人々を顧みてください。わたしどもの群れの中にある病を患っている者、痛みを抱えている者たちひとりひとりを、み心にとめてください。家にいるときも、施設の部屋にいるときも、病室にいても、どこにあっても、あなたの み子が部屋の真ん中に立ち、「あなたに平和があるように。見ないのに信じる人は、幸いである。」と語りかけてくださっていることを、忘れることがありませんように。み子がしっかり支えてくださり、抱き起こしてくださることを、信じることができますように。イースター礼拝での信仰告白、洗礼に向けての準備が始まりました。どうか、良い準備をすることができますように。支えてくださる主にすべてをゆだねて、信仰を告白することができますよう力強く導いてください。争いのある所に、平和をもたらしてください。憎しみのある所に、和解をもたらしてください。虐げられている者、日々の生活に困窮している者に、あなたの愛と慰め、日々の糧をお与えください。全国、全世界の諸教会を強め、励ましてください。特に、被災地で伝道している教会、牧師不在の教会、困難の中にある教会に力をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【YouTube動画配信】
2025年2月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第57章14節~19節、新約 ヨハネによる福音書 第20章19節~23節
説教題:「平和をいただいたから」
讃美歌:546、28、177、Ⅱ-1、Ⅱ-157、541 

先週の月曜日、わたしが子どもの頃から大変に お世話になった牧師の葬儀に出席いたしました。加藤常昭先生のご次男、加藤哲牧師が、1月24日、朝4時44分、天に召されました。65歳の地上での ご生涯でした。わたしは小学5年の春から、教会学校に通い出しましたが、最初の分級の先生が哲先生でした。先生は最近まで、YouTubeで、わたしの説教を聞いて、アドヴァイスをくださっていました。先生が口を酸っぱくして教えてくださったのは、「み言葉から示された、ただ一点の恵みを伝える。それにつきる。」というものでした。あれもこれも伝えようとして、説教を聞き終えたあと、「ただ一点の恵み」がぼやけるようではだめ。説教を聞いて家へ帰った教会員が、子どもから、「おかあさん、今日はどんな お話だったの?」と聞かれたとき、子どもにも分かる言葉で、恵みを語ることができるように、言葉を届けなければだめだよと、根気強く、教えてくださいました。わたしどもは皆、神さまから「いのちの息」を吹き入れていただき、生きるものとされています。ですからいつかは、与えられた いのちを神さまに返す日がまいります。それでもこんなに急に、別れが訪れるとは思いもしませんでした。昨年4月、常昭先生の葬儀で、わたしが火葬前に祈りをささげたとき、哲先生は、「祈ってくださり、どうもありがとう。」と言葉をかけてくださいました。いつもおだやかで、優しい先生でした。神さまの「時」の厳しさの前で、茫然とする思いです。けれどもわたしどもは、哲先生が死の直前まで講壇に立ち、語り続けた恵みの中に、すでに天へと移された先生方や、多くの神の家族と、共に立っています。この恵みを証する み言葉を、ご一緒に読んでまいりましょう。
19節。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」「その日」とは、主イエスが甦られた日のことです。マグダラのマリアは、喜んで、「わたしは主を見ました」と弟子たちに告げました。また、主から言われたことを伝えた。にもかかわらず、弟子たちは恐れていました。一人でいるのは心細かったのでしょう。ガタガタと震えるような心境で、一つの家に集まり、戸に鍵をかけ、隠れていたのです。果たして、ユダヤ人たちが、「あのイエスの仲間を、この際ひとり残らず捕らえて、根絶(だ)やしにしてしまおう」と考えていたのかどうか。弟子たちの取り越し苦労であったかもしれません。けれども少なくとも弟子たちは、恐れていたのです。あるいはまた、ひょっとすると、弟子たちの中には、このような思いもあったかもしれません。もしもマリアが言う通りなのだとしたら。わたしたちはイエスさまを裏切ってしまった。あの方が、十字架に架けられて苦しんでおられるときも、隠れてガタガタ震えているだけで、何もできなかった。見捨ててしまった。こんな自分たちが赦されるはずがない。神さまのさばきがくだされ、いのちを取られてしまうかもしれない。弟子たちは疑心暗鬼で、心もからだも文字通り、自分たちの殻の中に、閉じ籠っていたのです。するとそこへ、主イエスがいらっしゃって、真ん中にお立ちになり、おっしゃいました。「あなたがたに平和があるように」。殻に閉じ籠って震えている弟子たちに、平和を祈ってくださいました。弟子たちは、どれほど安心したことでしょう。呪いの言葉によってさばかれても仕方ないほどの、裏切り者である自分たちに、今、主イエスが平和を祈ってくださった。そして、「ほら、わたしだよ」と、手の釘のあと、わき腹に残る槍(やり)のあとを示しながら、重ねておっしゃいました。「あなたがたに平和があるように。」主イエスの手の釘あとも、わき腹に残る槍(やり)のあとも、弟子たちにとっては自分たちの罪の証でしかありません。けれども主イエスは、呪いではなく、平和を祈ってくださいました。赦しを与えてくださいました。励ましてくださいました。「あなたがたに平和があるように」。そのひとことで、弟子たちの恐れを、喜びに変えてくださったのです。赦されている喜びの中に、立たせてくださったのです。その上で主イエスは、おっしゃいました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」「父がわたしをお遣わしになったように」と主イエスはおっしゃいました。父なる神さまは、何のために主イエスをこの世にお遣わしになったのでしょうか。それは、わたしどもすべての者の罪を赦すためです。罪を赦し、恵みの中に立たせ、永遠に、神の愛を受けて生きる者とするために、主イエスは神さまから遣わされて来られました。そして、そのわざを成し遂げるために十字架の上で死に、甦られて、今、「平和の宣言」によって弟子たちを赦し、恵みの中に立たせた上で、おっしゃったのです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」何ということでしょうか。主イエスはとうてい赦されないような者たちに、呪いではなく平和を与え、さらに、ご自分の全権大使として、弟子たちを お遣わしになるのです。それだけではありません。主はそのためにまったく新しい いのちをも、与えてくださいました。22節。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」この「息」ということばは、息のほかに、風、空気、霊、いのちとも訳すことのできることばです。それらすべてを、ひとつの言葉に表していると言ってもよいのです。人は息をしていれば、いのちがあります。逆に死んでしまえば、息は止まります。息は口から出ます。でも空気や風と同じように目には見えない。そのようなところから、この言葉が生まれたのかもしれません。
創世記の第2章には、神さまが土をこねて人の形をつくり、その鼻に、ご自分のいのちの息を吹き込んで、最初の人アダムをお造りになったという箇所があります。神話的な物語ですが、この物語が伝えているのは、わたしども人間は、神さまのいのちを宿すことによって生かされているのだ、という「信仰」です。わたしどもは、それほどまで尊いいのちを生きているのです。それと同じように、主イエスが今ここで改めて、弟子たちに息を吹きかけておられます。弟子たちひとりひとりに「フーっ」と息を吹きかけてくださったのです。主イエスご自身の息です。十字架の死を突き抜けて復活なさった、主イエスのいのちの息です。それは、地上におられた間、主イエスを生かした神さまのいのちの息であり、また、お甦りになった主イエスの中に宿る、神さまのいのちの息です。このいのちの息を弟子たちに吹きかけて、今までのあなたたちは、わたしの十字架と共に死んだ。これからは、わたしの甦りのいのちを宿して生きるのだと、弟子たちを新しい いのちに造り替えてくださったのです。驚くべきことに、わたしどももまた、洗礼を受けることによって、このいのちに与ることができます。洗礼は、わたしどもが新しいいのちに生きるしるしです。主イエスは、ご自身の甦りのいのちの息を吹き入れ、弟子たちにおっしゃいました。22節後半から。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
弱く、不誠実なわたしどもです。信じていた人から裏切られては、「赦せない」と息巻き、ひとから悪口を言われては、思わず言い返してしまう。けれども主イエスは、そのようなわたしどもを赦し、いのちの息を吹き入れて造り替え、新しいいのちを生きる者として遣わそうとおっしゃるのです。主イエスは、裏切り者の弟子たちを愛し、愛し抜いて、呪いではなく平和を祈ってくださいました。滅ぼすのではなく、いのちの息を吹き入れてくださり、「わたしのいのちを宿して生きよ。あなたにはできなくても、わたしにできないことは何ひとつない。だから、わたしはあなたに、わたしのいのちを授ける。わたしの甦りのいのちを受けなさい。永遠に神の赦しの中に生きなさい。このいのちに生き、わたしの担った務めをあなたも共に担って欲しい。父なる神が、あなたの罪を赦すためにわたしをお遣わしになったように、わたしも、あなたの隣り人の罪を赦すために、あなたを遣わすのだ。」とおっしゃるのです。そうであるなら、赦されずに残る罪があることを、主イエスが望んでおられるはずがありません。主はわたしどものために血を流し、肉を裂かれてくださいました。甦って平和を祈り、息を吹きかけて新しい いのちを与えてくださいました。わたしどものいのちは主がくださったいのちです。このいのちをいただいていながら、「あの人を赦せない」と我を張ることは、再び主を十字架につけることと同じです。恐ろしい罪です。では、わたしどもには、やはり希望はないのでしょうか。
ヨハネの手紙一に、驚くべき救いの み言葉があります。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父(おんちち)のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。(2:1~2)」何と慰めに満ちた み言葉でしょう。罪を犯しても神さまのもとに帰ってくればいい。あの  放蕩息子のように。放蕩の限りを尽くして、悔い改め、父のもとに帰って来た息子を、父親は喜んで迎え、宴会を開いてご馳走を食べさせました。わたしどもには、聖餐の食卓が備えられています。主イエスの十字架で裂かれたからだと流された血が、わたしどもには与えられているのです。何と言う恵みでしょうか。
わたしどもは新しい いのちを生きる者として、主の甦りのいのちを宿して、遣わされています。隣り人を赦すために、遣わされています。主イエスが神さまから遣わされたように。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われています。共に地上の いのちある限り、主イエスの背を見つめ、主がなさったように、罪の赦しに生き続けたい。主の息吹、聖霊の助けを受けながら。

<祈祷>
天の父なる神さま、わたしどもは今、み子の甦りを通して、喜びの中にあります。どうか、主イエスの全権大使として、罪の赦しに生きるものとしてください。主イエス・キリストの お名前によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって お支えください。主よ、愛する人を失った者がおります。深い悲しみと不安を抱えております。あなたの愛で包んでください。あなたが必ず良い方向に導いてくださるとの信仰を お与えください。主よ、わたしどもの世は、赦しに生きるより、隣り人の罪を責め、徹底的にさばく世になっております。寛容さが失われ、国と国、人と人が対立する世になっております。まことのさばき主であられる主よ、争いの世から平和の世へとの祈りを深めるものとしてください。激しい争いの中で傷つき、望みを失い、疲れ果てているものに、あなたの愛と慰めを注いでください。主よ、被災地で困難な生活を続けている方々を憐れんでください。どうか、望みを失うことのないように。その地であなたの み言葉を語り続けている教会を強め、励ましてください。今、「なぜ、愛する者を助けることができなかったのか」と自分を責めている人がおりましたら、その心を癒し、あなたの愛で包んでください。今日も様々な理由で教会に来ることのできなかった者がおります。どうか、どんなときも、どこにあっても、あなたが共におられることを信じる信仰を与え続けてください。今、道を求めているものがおりましたら、あなたの招きに素直に応える信仰を強めてください。いつの日か、あなたのみ子の十字架による罪の赦しと甦りによる永遠のいのちを信じますとの信仰を告白することができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【動画配信YouTube】
2025年1月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第88篇4節~8節、新約 ヨハネによる福音書 第20章11節~18節
説教題:「なぜ泣いているのか」
讃美歌:546、93、Ⅱ-102、296、540 

 礼拝のときの牧師の服装には、特に決まりはありません。教会によって様々です。わたしはこのように、黒の礼服に、白ネクタイ。この服装は、一般的には結婚式など祝い事の正装とされています。白いネクタイについて、わたしがまだ教会学校の生徒であった頃、加藤常昭先生が教えてくださったことが、たいへん印象深く心に 残っています。言葉は少し違うと思いますが、こういう内容でした。「白いネクタイは、主イエスの甦りをあらわしています。日曜日は復活の日、喜びの日。主イエスが死に勝利し、甦られた恵みを感謝する日。だから、甦りを象徴する白いネクタイを締めているのです。」日曜日は主イエスの甦りを祝い、喜びを分かち合う日。今朝、わたしどもに与えられております聖書の み言葉は、まさにその喜びの、甦りの日の朝の出来事が記されている箇所です。けれども、喜びの日の朝、マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていました。お墓に納められていた主イエスの遺体が、こつぜんと、消えてしまったからです。空っぽのお墓の中には、イエスさまのからだを包んでいた亜麻布と、頭を包んでいた布だけが残されている。誰かが持ち出したのなら、布に包んだまま持ち出すはずです。でもマリアは、  イエスさまがまさか復活なさったとは想像もできなかったのです。わたしどもも、独りぼっちでどうしたらよいかわからないとき、  マリアのように、ただ泣くことしかできないのではないでしょうか。けれども、そんなふうに泣くことしかできないときも、主イエスは必ず、わたしどもの近くにいてくださるのです。
マリアが泣きながら墓を覗くと、二人の天使が見えました。天使は、マリアに尋ねました。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。マリアは天使に言いました。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」マリアの悲しみは、主イエスの遺体がなくなってしまったことでした。この悲しみは、わたしどもにも想像ができるのではないでしょうか。愛する人が死んでしまった。火葬が終わり、小さな骨壺に骨が納められる。その骨壺をかかえると、それなりの重さがある。その重さを通して、愛する者のぬくもり、愛を思い起こすことができる。だから、すぐに納骨してしまうのではなく、いつでも眺めることのできる場所に骨壺を置いておきたい。それだけで安心できる。骨壺と共に写真を飾り、聖書を置き、花をいける。愛する人の写真、骨壺に向かって話しかけていたい。そのように思う人は、決して少なくありません。マリアも、たとえ遺体であっても、主イエスを近くに感じることができるなら、それで十分。そう思っていたのに、遺体がどこかへ持っていかれてしまった。そう思うと涙が溢れ、止まらなかったと思うのです。
 そのときです。マリアは、背後に人の気配を感じて、後ろを振り向きました。誰かが立っています。その人は、マリアに尋ねました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、お墓の管理人だと思い、言いました。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」マリアは、主イエスの遺体を、「お守り」か何かのように思っていたのかもしれません。「お守り」のように、手元において、いつでも自分だけの主イエスを感じて安心していたかったのではないでしょうか。すると、マリアが管理人と思い込んでいた人が、マリアに改めて呼びかけました。「マリア」。マリアは反射的に、「ラボニ」と答えました。16節。「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」注意深く読みますと、14節で、マリアはすでに主イエスの方へ振り向いています。14節。「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」それなのに16節でも「彼女は振り向いて」ともう一度書かれているのです。うっかり読み過ごしてしまいそうな、ひとことです。けれども、わざわざ、二度振り向いたとも取れるように書かれているのですから、何か意味があるはずです。14節の一度目は、マリアのからだが振り向いて、肉体の目で主イエスを見たとき。そのときには、マリアは、自分に語りかけておられる方が主イエスであるとは、分からなかったのです。しかし、16節で主イエスが、「マリア」と名前を呼んでくださったとき、そのときようやく、マリアの心の目が、主イエスの方へ向き直ったと、読むことができるのではないでしょうか。甦られた主イエスが、名前を呼んでくださったとき、マリアの信仰の目が開かれました。主イエスであることがわかり、マリアの心は、主イエスの方へ向き直ることができたのです。
「マリア」。「ラボニ」。不思議な表現です。新約聖書はギリシア語の書物です。「先生」という意味のヘブライ語をわざわざここに訳をつけて記しているのです。これはもしかしたら、「マリア」。「ラボニ」。というやり取りを、ヨハネ福音書が書かれた時代の教会が、とても大切にしていたのではないでしょうか。外国人のわたしどもが、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」や「アーメン(まことに)」、「シャローム(平和)」といった言葉を大切にしているように、主イエスが名前を呼んでくださってはじめて、わたしどもの心は、主イエスの方へ向き直ることができ、信仰の目が開かれて、「ラボニ」と応えることができる。ここに、わたしどもの信仰の原点がある。そのような思いで書かれているのではないでしょうか。「主イエスは、わたしの先生。この先生に、わたしはついて行く。生涯、この先生が教えてくださった愛を実践していく。」弟子とは、そのように先生のまねをして学んでいくものです。初めはまねているつもりでも、不格好だったり、さまにならない。でも、諦めずに毎日まねているうちに、身についてまいります。わたしどもの信仰も同じです。先生である主イエスの愛を映しながら生きる。主イエスの方へと向き直った目を、主イエスから離さずに生きるのです。主から目を離さずに生きるには、ぴったりとすがりついていては、よく見ることができません。主は、すがりつこうとするマリアにおっしゃいました。17節。「わたしにすがりつくのはよしなさい。」それは冷たい態度ではありません。主イエスは真実にわたしどもを愛しておられます。主イエスは、わたしどもがギュッとすがりついていなければ、どこかに行ってしまうような お方ではないのです。「必死ですがりついていなければいけない。」というような苦しい思いから、主イエスはわたしどもを解放してくださるのです。
 主イエスは、続けておっしゃいました。「まだ父のもとへ上(のぼ)っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」主イエスが弟子たちを「兄弟」とお呼びになったのは、ここが初めてです。わたしどもは教会の仲間を「神の家族」と呼び、兄、姉という言葉を用います。もちろん血が繋がっているわけではありません。それでも皆、主イエスの十字架の死と復活を信じ、洗礼を受けることによって、主イエスの兄弟として新しく生まれることができるのです。それは、主イエスが天に上ってくださって、わたしどもに聖霊を送ってくださることにより実現します。天から送られる聖霊が、わたしどもに信仰を与えてくださるのです。わたしどもはそのようにして、主イエスの兄弟、姉妹として、神さまを「父」と呼ぶことができるようになります。「主の祈り」を祈るときのように、「天にまします我らの父よ」と祈ることができるのです。主イエスの甦りを信じて洗礼によって新しく生まれる、この いのちこそが、永遠の いのちなのです。
マリアは、弟子たちのところに行き、息をはずませて告げました。「わたしは主を見ました」。そして、主イエスからの伝言を、喜んで伝えたのです。わたしどもも今朝、マリアと共に主イエスから告げられました。「もう泣かなくてよい」と。「わたしにすがりつかなくてもよい」と。「あなたがたはわたしの兄弟であり、姉妹である」と。ただただ感謝です。詩編 第133篇に、このような み言葉があります。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。(133:1)」教会に招かれたわたしどもは、兄弟であり、姉妹です。主イエスが、そのように呼んでくださいました。主イエスの父であられる神さまが、わたしどもの父です。驚くべき恵みであり、喜びです。すべての人が、この恵みの中へと招かれています。わたしどもの「ラボニ」であり、「兄弟」となられた主イエスの甦りの喜びを、マリアのように語り続けたい。洗礼を受けようか迷っておられる方も、ぜひ、わたしどもの兄弟姉妹となって、これからも一緒に喜びの礼拝の輪に連なり続けていただきたい。わたしどもにいのちを与えてくださった神さまが、わたしどもの父として永遠にわたしどもと共にいてくださいます。その証が主イエス・キリストです。神さまに いのちをお返しする日まで、いや天の国に帰っても、ずっと一緒に、恐れることなく、安心して、甦りの主イエスを賛美してまいりましょう!

<祈祷>
天の父なる御神、み子が、わたしどもを兄弟と呼んでくださった恵みを感謝いたします。わたしどもは、み子の十字架の死を信じることで罪を赦されました。さらに、み子の甦りの いのちを信じることで永遠のいのちをも約束されました。この恵みを、ただ一筋に、信じさせてください。あなたに呼び集められた兄弟姉妹と共に み子の甦りを賛美するものとして用いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって お支えください。祈っていたイスラエルとハマスとの停戦が合意され、人質も解放され始めました。どうか、再び争いに戻ることがないよう導いてください。そして今も争いの中にある人々の悲しみ、不安を取り除き、すべての国が平和に歩むことができますよう導いてください。全国、全世界の被災地を憐れんでください。困難な生活を強いられている方々の上に、あなたの愛を注ぎ続けてください。どうか、望みを失うことがないように。主よ、教会に連なる兄弟姉妹の中に病を患っている者、体調を崩している者、気力が衰えている者が多くおります。どこにあっても、いつもあなたが共におられることを忘れることのないよう導いてください。み心ならば、健康が快復し、再び共に主を賛美することができますように。イースター礼拝での洗礼式、信仰告白式に向けて祈りを深めている者たちがおります。主よ、日々、あなたへの信仰を育み、確かなものとしてください。あなたへの信仰を明確に告白し、喜びの洗礼式、信仰告白式を迎えることができますように。  主よ、あなたがお建てくださったすべての教会を導いてください。特に被災地にある教会、牧師不在の教会、困難を抱えている教会を強め、励ましてください。どのようなときも、十字架と甦りの主イエスを喜んで賛美することができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


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2025年1月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第60章19節~20節、新約 ヨハネによる福音書 第20章1節~10節
説教題:「まことの光を信じるために」
讃美歌:546、24、154、353、545B、427 

先週、東日本連合長老会の機関紙に掲載する原稿を書きました。昨年の1月から12月までの教会の歩みを時系列に記していく中で、礼拝を共にささげてきた5名の教会員と、2名の隠退牧師を、主のみもとに送ったことを、改めて心に刻みました。死を避けることは誰にもできないという、当たり前と言えば当たり前のことを、強く感じた一年でした。どんなに元気でも、どんなに長生きしていても、誰にでも死は訪れます。それでも教会の葬儀では、「信仰を告白し、洗礼を受け、主イエスと結ばれた者は、死んでも生きる。主イエスによって、甦りの朝を迎える。」と宣言します。誰にも避けることのできない死は、天の国への入口であり、甦りの朝を迎えるための  一歩となる。その根拠が、今朝わたしどもに与えられている み言葉です。主の甦りの物語を ご一緒に読んでまいりましょう。
第20章1節。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」マグダラというのは苗字ではありません。マリアという名前の女性が多いため、マグダラ出身のマリアと呼び、ほかの同じ名前の女性と区別したのです。聖書の時代、女性は、誰々の娘、誰々の妻、誰々の母、といったぐあいに、父や夫、息子との関係から特定されたようです。しかし、マグダラのマリアは町の名前で呼ばれていることから、身寄りがなかったのではないかと考えられています。マリアは、主イエスが十字架で息を引き取られた現場にいました。男の弟子たちが逃げ去ってしまっても、主イエスのそばを離れず、十字架の下にいたのです。どれほどの衝撃と、悲しみと、喪失感の中にいたことでしょう。主イエスが墓に入れられ、過越祭の安息日の土曜日を、どのような思いで過ごしたことでしょう。安息日は、「何もしてはならない。」と定められている日です。墓のそばへ行って、泣くことさえできない。暗い家の中で、灯(あか)りもつけずに、たった一人で、どんな気持ちであったことでしょう。マリアの心を思うとき、頼みとする伴侶を失い、礼拝へ向かう足の一歩が、重く感じておられる方たちが、わたしどもの中にもあることを、思わずにはおれません。
ヨーロッパの古い教会のように、教会の中に お墓や納骨堂があればよいのに...と思ったりもします。そうしたら少しでも亡くなった人を近くに感じることができるかもしれません。マリアが朝早く、墓へ行ったのも、そのような理由であったと思います。そしてそのように考えると、早朝、主イエスの墓へ向かうマリアの足どりは、軽いものではなかったかもしれないと、このたび初めて思いました。これまで何となく、息せき切って駆けつけるマリアを想像していたのですが、大切な人を失ったわたしどもと同じように、暗い気持ちで、重い足取りで、何の希望も見出せないまま、墓に向かったのではないでしょうか。安息日が終わる。間もなく夜が明ける。暗いうちの方が目立たずにすむだろう。そう考えてマリアはひとり、重い腰を上げ、まだ暗く誰もいない街を出て、下を向き、とぼとぼと墓に向かいました。
そして白々と夜が明ける頃、墓に着いて目を上げたマリアが目にしたのは、信じられない光景でした。何と、墓の入口を塞いでいた大きな石がゴロゴロッと、脇によけてあるではありませんか。墓に行けば、イエスさまを近くに感じられる。そう思って沈む心を励まして来たのに、墓を塞ぐ石が取りのけられている。その瞬間、マリアは、「イエスさまの墓が荒らされた!」と思ったかもしれません。これはわたしひとりの手には負えないと、マリアはシモン・ペトロのところ、また、主が愛されたもう一人の弟子のところへ走って行きました。
「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」は、これまでも何度か登場しています。ヨハネ福音書の著者ではないか、あるいはこの弟子ととても近い関係にあった人がヨハネ福音書を著したのではないかとも言われています。一方で、名前が記されていないことに関して、以前、わたしは説教の中で、この表現はもう少し広い意味で、すべての主イエスの弟子を巻き込んで、いっしょにこの場所に立たせるような表現でもあるのではないかと、申し上げました。わたしどももいっしょに墓に走っていく、そのような思いで読み進めていきたいと思います。いずれにしましても、ペトロも、もう一人の弟子も、マリアの慌てように驚いて、それぞれ走って墓に向かったのです。
ヨハネ福音書には、ほかの福音書には見られない細かい描写があります。4節。「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。」墓は街を囲む城壁の門の外にあります。二人の弟子は、マリアの知らせを受けて、エルサレムの町のどこかにあるそれぞれに滞在していた家から走り出し、門の辺りで合流したのかもしれません。しかし一緒に走っているうちにペトロの息が切れてきた。ペトロの方が年輩であったのでしょう。「悪いが先に行ってくれ。」「わかりました。」そんなやり取りが思い浮かびます。
さて、もう一人の弟子が先に墓に着くと、マリアの言った通り、墓を塞いでいた石が取りのけられていて、中を覗くと、亜麻布が置いてあるのが見えました。しかし、彼は墓の中には入らず、ペトロを待っていました。想像するしかありませんが、弟子のリーダー格であったペトロに気を遣ったのかもしれません。あるいは、怖くて墓に入る勇気がなかったのかもしれません。やがてペトロもやって来ました。ペトロは墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見ました。主イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所ではなく、   離れた所に丸めてありました。「墓が荒らされた」という雰囲気ではなかった、ということでしょう。ここも細かい描写です。
ペトロに続いて、もう一人の弟子も墓に入りました。そして、8節によると、「見て、信じた。」とあります。見たのは、「亜麻布」であり、主の頭を包んでいた「覆い」です。その覆いがきちんと丸めて置いてあった。その光景を「見て、信じた。」のです。いったい何を信じたというのか、彼らの心の中については、残念ながら福音書は記していません。それでも、「信じた。」と記していることは間違いありません。しかし、そのあとすぐ、9節には、このように記されています。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。(20:9~10)」「見て、信じた。」しかしそれは、主イエスの復活が預言されている「聖書の言葉」をまだ理解していなかったから、というのでは、まったく矛盾しているように感じます。もしかすると、主イエスのお墓が開いていると告げたマリアの言葉を疑っていたけれど、ようやく、本当だったと信じた、ということなのかもしれません。あるいは、見る前から復活を信じていたわけではない、ということかもしれません。「見て、信じた。」ということについて、もう一つ、読みたい箇所があります。同じ第20章の最後に、トマスという弟子が出てまいります。ほかの弟子たちが主イエスを見たと騒いでいるのに、自分だけがその場にいなかったために、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。(20:25)」と言い張るトマスに、主イエスが現れてくださった場面です。主イエスを見て、信じたトマスに、主はおっしゃいました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。(20:29)」ですから、二人の弟子たちに関しても、同じことが言われていると、読むこともできるでしょう。
いずれにしても、ペトロも、もう一人の弟子も、主が復活されたことを確信して、喜び勇んで、ほかの弟子たちに「イエスさまが甦られた!」と伝えに行ったかというと、そうではありませんでした。それぞれの家に帰ってしまったのです。もしも、もう一人の弟子が福音書を記したヨハネならば、自分のことを書いているのですから、どんな思いでここを書いたのだろうかと考えます。「あのとき、わたしは見た。主イエスのからだを包んでいた亜麻布を。あのとき、わたしは見た。丁寧に丸められた頭の覆いを。」しかしそこまで書いたとき、書き加えざるを得なかったのではないでしょうか。
墓が空っぽであることは、見て信じた。けれどもそれは、信仰が小さな小さな芽を出したにすぎないものだった。自分は、本当には理解していなかったのだと。イエスさまが繰り返し語ってくださり、聖書の至る所に記されている復活の預言を、わたしは何も分かっていなかった。忘れていた。空っぽの墓を確かに見たのに、甦られたイエスさまを探そうともしないで帰ってしまった!そう書かざるを得なかったのです。
実際、主イエスのお甦りを信じるということは、そんなに簡単なことではありません。事実、起こったこととして、信じることができたとしても、その事実を信じることと、その事実こそが、自分を生かす「ただひとつの光」であると信じる、ということの間には、大きな隔たりがあるのです。それは、わたしども自身の問題です。主イエスによって示された神さまの愛を信じている。十字架の死によって赦されていることを信じている。主イエスが復活されたことも信じている。でも。大切なひとが逝ってしまった。骨になった。もう二度と、一緒に、たわいのない話をすることも、手を握り合うことも、隣りに座って礼拝に与ることもできない。そう思うと、暗い気持ちで家の中にへたり込んでしまうのです。墓は開いて、光が射したのに、心が閉じてしまう。心が閉じてしまうから、光が見えなくて、立ち上がれなくなってしまう。
主イエスの復活によって墓は開かれ、先に逝ったあの人も、あとから逝くこのわたしも、今や同じ光の中にいるということを、いちばん望んでいるはずなのに、まさか、そんな訳がないと諦めている。信じ切ることができなくなってしまう。弟子たちのように、自分の家から、出ることができなくなってしまうのです。先ほど、「お墓が教会にあればいいのに」と申しましたが、実はそういうことが問題なのではない。亡くなった人の骨が近くにあることが大事なのではないのです。主イエスの復活によって、暗い墓が開いて、天の光が射した。その光の中に、先に逝ったあの人も、後から逝くわたしも、共に立っている。共に立っていることを、心の目で見る。信じる。肉体の目では見えなくても信じる。それが、主イエスが「幸いだ」と言ってくださる生き方なのです。
今朝、ヨハネ福音書と共に朗読していただいたのは、イザヤ書の み言葉でした。短い箇所でしたが心に響く聖書の言葉です。「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。(60:19~20)」わたしどもの心の目を開き、このことを信じさせることがおできになる方は、聖霊と呼ばれる神さましかおられません。牧師や、大学の先生が寄ってたかって言葉を尽くしても、信じさせることはできないのです。嬉しいことに、教会学校で育った複数の子どもたちから、洗礼への願い、信仰告白への願いを打ち明けられました。聖霊なる神さまが生きて、働いておられることを目の当たりにして、心が震えます。「洗礼を受ける」ということは、新しく生まれるということです。主イエスの十字架と一緒に、それまでのわたしは死に、天の光の中に新しく生まれるのです。このいのちには終わりがありません。だから、主を信じるなら、この世に生きている者も、すでに死んだ者も、天の光の中に生きています。共に生きています。そして主が再び来てくださる日、眠りから起こしていただけます。この恵みの光の中に、立ち続けることができますように。

<祈祷>
天の父なる御神、主イエスを甦らせてくださり感謝いたします。主イエスの甦りは、わたしどもの確かな望みです。光です。今朝、礼拝に招かれたすべての者に、聖霊を注いでください。「主イエスの甦りこそ、わたしの救いです。」と、見ないのに信じる者としてください。主イエス・キリストの み名に よって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。全国、全世界の被災地を憐れみ、お支えください。深い傷を負ったひとりひとりをあなたの愛で包んでください。主よ、病の中にある者、心が塞いでいる者を強め、励ましてください。礼拝に行きたくても行くことができず、自宅で、施設で、病院で祈りをささげている仲間がおります。その場にあってあなたの愛で包んでください。み心なら、再び、教会に集うことができますように。主よ、世界の至るところで争いが続いています。この世の政治に責任をもつ者が、何が最もよく み心を表す道であるか知ることができますように。そして、ひとりでも多くの人が、この世界は神によって創られた良き世界であって、悪魔の支配するところではないとの確信を抱くことができますように。主よ、牧師不在の教会を顧みてください。一日も早く牧者を遣わしてください。救いの道を求め、礼拝に通い続けている者がおります。いつの日か、あなたを信じ、信仰告白、洗礼へと導いてください。主よ、幼い頃から教会の子どもとして育まれた者の中から洗礼、信仰告白の思いが与えられたことを感謝いたします。イースター礼拝での洗礼、信仰告白に向け、良い備えをすることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【動画配信YouTube】
2025年1月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第16篇7節~11節、新約 ヨハネによる福音書 第19章38節~42節
説教題:「天の扉を開く墓」
讃美歌:546、411、287、21-81、361、545A 

新しい年が明けました。この一年も、愛する皆さんの上に、主の祝福が豊かに注がれますよう お祈りいたします。混沌とした世界情勢が続いています。しかし、また、それゆえにこそ、主の十字架の元にしっかりと立ち続けて、赦され、生かされている恵みを感謝しつつ、共に生きてまいりたいと願います。
今朝、神さまから与えられたのは、主を愛し、主に愛された二人の弟子によって、主イエスが墓に葬られる場面です。二人の弟子とは、アリマタヤ出身のヨセフとニコデモであります。二人は、12弟子ではありません。12弟子のように、「家業も何もかも捨てて主イエスに従った。」というわけではなかったのでしょう。けれども主の教えを慕い、12弟子にも出来なかった大切な役割を果たしました。年の初めに、ヨセフ、ニコデモの勇気ある働きが記されている み言葉を ご一諸に分かち合う幸いを感謝しつつ、読んでまいりましょう。
38節。「その後(のち)、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。」新約聖書に収められている4つの福音書の中で、最初に書かれたマルコ福音書によると、アリマタヤ出身のヨセフは、身分の高い議員であったようです。マルコ福音書 第15章43節。「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。」地位や、財産があるということは、ときに、信仰を弱くしてしまうのかもしれません。信仰を貫くことによって、自分の持っているものが無くなってしまうのではないかと恐れる。失うことが怖い。その弱さは、わたしどももよく知っています。わたしども自身の弱さです。しかし、そのような弱さを持つ者すらをも、神さまは、みわざの遂行のために用いてくださることに、驚きと感謝を覚えずにはおれません。アリマタヤのヨセフは、日が傾いて夕闇が迫る中、ユダヤ人たちの目をはばかりながら、何とか日暮れ前に、主イエスの遺体を十字架から降ろしました。
すると、そこへ、おそらくはヨセフの親しい友であったと考えられます、ニコデモがやって来ました。39節に、「かつてある夜(よ)、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」と紹介されています。ヨハネ福音書 第3章に、心に残る主イエスとの対話があります。ある夜(よ)、ファリサイ派に属するユダヤ人たちの議員であるニコデモは、主イエスのもとを訪ね、こう言いました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。(3:2)」主イエスへの尊敬の思いがにじみ出るような呼びかけの言葉です。すると主イエスは、まだニコデモが質問する前に、ニコデモが求めていた答えを お与えになりました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。(3:3)」ニコデモは言いました。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。(3:4)」このとき既に、ニコデモは自分の死を意識せざるを得ない年齢であったのかもしれません。真面目に信仰生活を送っていたことが想像できます。真剣に律法を学び、守って生きてきた。けれども、主イエスの教えに触れて、今まで学んできたことと何かが違うと気づいたのです。それまでは、律法を守ることによって神さまの国に入れていただけると信じ、一所懸命 生きてきた。しかし、それだけでよいのだろうか?ニコデモの不安な心を、主イエスは知っておられたのです。この主イエスとニコデモの対話は、かなり長く続きます。そして、この対話によって、ヨハネ福音書の告げる恵みの中心と言えるような み言葉が、主イエスによって語られました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」その後、ニコデモは第7章にも登場します。議会の一員であったニコデモは、イエスを殺そうとするユダヤ人たちの企(たくら)みを何とか阻止しようと、このように主張しました。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。(7:51)」周りの空気を読み、黙って、流されていれば、ニコデモの地位は安泰でした。しかしニコデモは、主イエスを愛し、自分は主の弟子だと自覚していました。だから、恐れながらも、「結論ありきの裁判はやめよう」と抵抗したのです。そんなニコデモにとって、主イエスの死は、自分の罪を思い知らされる極めて重い出来事であったことでしょう。そのことが、彼の行動に滲(にじ)み出ています。
39節には、「没薬と沈香(じんこう)を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。」とあります。一リトラは、326グラムと言いますから、百リトラは、約33キロという大変な重さです。値段も相当なものであったでしょう。けれども、当時、身分の高い者や金持ちの葬儀では、大量の香料を用いることは珍しくなかったようです。もしかしたら、すでに年齢を重ねていたと考えられるニコデモが、自分の葬りのために備えていたものであったかもしれません。その香料を惜しげもなく、まるごと主イエスにささげたのです。また、41節には、「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。」とあります。マタイ福音書によれば、この新しい墓は、ヨセフの持ち物でありました。ヨセフもまた、自分がいずれ葬られるときのために用意していた新しい墓を、主イエスにささげたのです。地位と財産を失うことを恐れて主イエスへの信仰を公に言い表すことができなかったアリマタヤのヨセフと、ニコデモです。それがどうして、このように勇気ある行動を起こすことができたのでしょうか?とても不思議なことです。聖霊が働いてくださったのでなければ、説明がつきません。神さまが、この弱い二人を用いてくださったのです。主イエスを愛しながら、公に信仰を言い表すことができずにいたヨセフとニコデモを、12弟子にもできなかった大切な役目のために、用いてくださった。聖霊を注いで、力を与えてくださった。二人は聖霊に突き動かしていただいて、神さまが与えてくださった務めを果たすことができたのです。このことは、同じように弱さを抱えているわたしどもにとって慰めであり、励ましです。
わたしどもも、主イエスに愛され、赦された者であるにもかかわらず、周りの人たちの目を気にして、家庭で、職場で、学校で「わたしはキリスト者です。主に愛され、赦され、生かされている者です。」と証することがなかなか出来ません。「年が変わっても、何も変わらないわたし。」そのように思うかもしれません。弱く、罪深い者です。それでも、神さまは、みわざの遂行のために、わたしどもを用いようとしてくださっています。ヨセフは勇気を出してピラトに願い出て、自分のために用意していた墓をささげました。ニコデモも自分の葬りのために用意していたたくさんの香料を全部ささげました。主イエスと出会い、主の愛を受け、聖霊に突き動かされて、与えられたすべてをささげた二人の信仰の先輩の姿を、わたしどもは今朝 改めて、この一年を歩んでいくための道しるべとして、心に刻みたいと思います。
ニコデモの香料を添えた亜麻布に包まれ、ヨセフの新しい墓に納められた主イエスは、三日目の朝早く、天の父なる神さまによって、復活させられました。甦られて、香料を添えた亜麻布を外し、墓を破って、出て行かれました。第3章において、天の国を求めるニコデモに主イエスが告げてくださった約束の言葉が、改めて響いてまいります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」主イエスの甦りによって、墓は開かれました。今や、墓は、永遠の命への入口となりました。天の国への扉となりました。神さまが主イエスを死から起こしてくださったように、わたしどもも、この恵みを信じることによって、主に抱(だ)き起こしていただける日を、待つ者とされています。ヨセフとニコデモが葬りのためにささげたものは、無駄になったかもしれません。けれども二人は、そのことを喜び、誇りとしたのではないでしょうか。「わたしたちのささげたものが、神さまの勝利を証明するために用いられた!」そうやって喜び勇んで、今度こそ、何ものをも恐れずに、主の復活を証する者として立ち上がったに違いありません。わたしどもも、二人に続く者として、主からいただいた恵みを喜び、誇り、絶えず祈り、すべてのことに感謝しつつ、新しい年を歩んでまいりましょう。

<祈祷>
天の父なる御神、公に信仰を言い表すことを恐れていたヨセフとニコデモの信仰が聖霊の働きによって強められたことを目の当たりにしました。わたしどもも、それぞれに弱さを抱えております。それでもあなたは、わたしどもに愛を注ぎ、主の弟子としてくださり、みわざのために働く者として立ててくださいます。ありがとうございます。新しい年も、あなたを喜び、誇る者としてください。喜んであなたにすべてをささげる者としてください。主イエス・キリストの み名に よって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、能登半島地震から1年が経ちました。今も心に深い傷を抱えている一人一人をあなたの愛で包んでください。能登伝道のために、困難な中で伝道に励んでまいりました輪島教会、七尾教会、羽咋(はくい)教会、富来(とぎ)伝道所の歩みを新しい年もお支えください。世界では、激しい争いが続いております。どうか、一日も早く争いを終結へと導いてください。新年礼拝にも、病のため、仕事のため、心が塞いでいるため、やむなく欠席している兄弟姉妹がおります。主よ、それぞれの場で祈りをささげている者に、祝福と平安を お与えください。新しい年も、あなたが置いてくださっているそれぞれの場所で、あなたから与えられている賜物を用いて、主の栄光を証する者としてください。道を求めている者がおります。どうか、あなたの愛を信じる心を、授けてください。聖霊の働きによって、信仰を告白する勇気を お与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年12月29日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ゼカリヤ書 第12章9節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第19章31節~37節
説教題:「いのちの水の流れに立て」
讃美歌:546、120、260B、520、544 

一年間、主の お守りの中を、走ってまいりました。マラソンランナーが給水を受けるように、日曜日ごとに礼拝で力を頂きながら、走ってきました。時に、転んで擦りむいたり、走るのに疲れて歩いたりしながらも、今年最後の日曜日を共に迎えることが許され、主に感謝します。同時に、この一年、主の みもとへ送った兄弟姉妹の顔を思い浮かべます。一足先に主の みもとに行った者も、後に残り、なお主から頂いている務めに励む わたしどもも、共に、主の十字架を仰ぐ者とされています。それも復活の希望の光の中で、仰ぐことが許されている。この恵みを感謝しつつ、今朝 与えられました み言葉を、共に読んでまいりたいと思います。
先週、わたしどもはクリスマスを祝いました。そして今朝、クリスマスにお生まれになった み子が、十字架で息を引き取られた時の聖書の言葉を読みます。改めて感じます。天使が告げたクリスマスの大きな喜びは、突き詰めれば、み子の死に繋がっている。み子は、まったく罪のない方なのに、十字架で罪人として処刑されるために、お生まれくださったのだと。神さまは、わたしどもすべての人間が、死にも、悪にも、この世のどんな力ある者にも縛られずに、罪からも自由にされて、神さまの愛の中で永遠に生きるようになることを望んでくださいました。そして、主イエスは、そのために命を捨ててくださいました。クリスマスの夜、天使は言いました。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。(ルカ福音書2:10)」それは即ち、神さまが、わたしどものために、み子の十字架の死を、「大きな喜び」とおっしゃってくださった、ということです。何と言う恵みでありましょうか。このクリスマスの時に、み子の十字架の恵みを改めて心に刻み直す、そのような み言葉を ご一緒に読める幸いを主に感謝いたします。
主イエスが十字架で殺されたのは、安息日の前の準備の日のことでありました。31節。「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。」「準備の日」の準備とは、何よりもまず過越の祭りのいけにえとする小羊を殺すことでした。その準備の日に、主イエスは十字架で殺されたのだと、ヨハネ福音書は念を押すように伝えております。これは明らかに、ヨハネ福音書が主イエスを「過越の小羊」即ち、人間の罪を赦すためのいけにえの小羊なのだと強調していることを表しています。ユダヤ人たちは死の確認を急ごうとしました。早く遺体を片付けたかった。もうすぐ日が暮れる。日が暮れてしまうとユダヤの暦では、新しい日になります。過越の祭りの安息日になってしまう。聖なる安息日を、死体を十字架に架けたままで祝うわけにはいかない、と考えた。このときユダヤ人たちの心にあったのは、律法の規定です。申命記 第21章に、このように記されています。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚(けが)してはならない。(21:22~23)」ユダヤ人たちにとって、「律法を忠実に守る」ということは、自分たちの聖(きよ)さの証明でありました。律法を守ることが、神の み心であり、天国へのパスポートだと信じていたのです。けれども、それがここでは何を意味するのかと言えば、主イエスを呪い抜くということです。罪人として処刑した。呪われた者として十字架に架けて殺したのです。こんな汚(けが)れた死体を残したまま、聖(せい)なる安息日を迎えられない。そういうことでありました。
ユダヤ人たちの頼みを聞いたピラトは、ローマの兵士たちに命じました。「十字架で処刑された三人の男の足を折り、取り降ろせ。」ローマ兵たちは、主イエスと一緒に処刑された、ほかの二人の男の足を折り、絶命させた後、主イエスに近づいてみると、主イエスは既に死んでおられました。念を押したのかもしれません。兵士の一人が槍で主の脇腹を刺した。「すると、すぐ血と水とが流れ出た。(19:34)」と、ヨハネ福音書は告げています。主イエスの脇腹から、「血と水とが流れ出た」ことに、どんな意味があるのでしょうか?ヨハネ福音書と親戚関係にあるヨハネの手紙一第5章にこのような み言葉があります。「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。(5:6)」当時、水だけの存在は本当の人間ではない、という考え方があったそうです。主イエスは、水と血によって来られた。
つまり、われわれと同じ人間であられた、というのです。主イエスがマリアの赤ちゃんとしてベツレヘムの馬小屋で生まれたように、死ぬときも、人間として死なれた。わたしどもと同じ、体に血が流れている命を生きて、死なれた。復活のための単なる儀式のような死ではなかったということです。
また水は、人間の命にとって、なくてはならないものです。蛇口をひねれば水が飲めるわたしどもには、その有難みに、理解が及ばないかもしれません。しかし、当時の人々にとっては、水がないことは死を意味すると言っても過言ではなく、水は命の象徴でした。コツコツと読み進めてまいりましたヨハネ福音書ですが、第4章に忘れ難い主イエスの お言葉がありました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(4:14)」主イエスが、ヤコブの井戸で、サマリアの女に与えてくださった約束の言葉です。「わたしから流れ出す命の水を受けよ。この水は、受けた人の中で泉となる。永遠の命に至る水がこんこんと湧き出る泉となる。」とおっしゃったのです。主イエスの脇腹から流れ出た血と水は、このサマリアの女への約束を思い起こさせます。
続く35節では、このように書かれています。「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。(19:35)」「それを目撃した者」とは誰でしょう。ヨハネ福音書には、「イエスが愛しておられた者」という人物が何度も登場します。第19章でも、26節に登場しています。十字架の上の主イエスから、母マリアを委ねられた「愛する弟子」です。35節に登場する「目撃した者」も、「愛する弟子」と同一人物ではないかと言われています。ヨハネ福音書の最後に、このような み言葉があります。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。(21:24)」この言葉から、ヨハネ福音書は、主イエスの愛する「この弟子」による「真実の証し」を元に書かれたことを知ることができます。では、「真実の証し」とは具体的には、何を意味するのでしょう。それは、「わたしどもの救いは主イエスのみ。他にはない。」ということにつきます。単なる歴史的な事実の証言にとどまらないのです。イエスという人物が存在したとか、十字架で処刑されたのは歴史的な事実である、というようなレベルの話ではなく、そこに確かな救いがあるのだ、それこそが真理なのだ、という証しです。例えば、誰かから、「あなたの人生にとって、イエスの死は、どんな意味があるのか?」と問われたとします。そのとき、「主イエスの十字架にこそ、わたしの生きる理由がある。わたしが生き、そして、死んでいくために、なくてはならない真理がある。どんなに汚れたわたしをも愛してくださる神が、わたしに『生きよ』と言ってくださっている。わたしを救い出してくださって、いつも共にいてくださる。だから、わたしは生きる、喜んで生きるのだ!」と言えるということ。それこそが真実の証しです。主イエスに愛された弟子は、主イエスの体から、血と水とが流れ出るのを確かに目撃しました。そのとき、主イエスの命の水は、その弟子の中で泉となって、湧き出し、証しの言葉となって溢れ出ました。そのとき、彼の証しの言葉は周りの人を潤し、その人たちの中で泉となりました。そして、命の水は流れ流れて、今、わたしどもをも潤し、わたしどもの中で泉となって湧いています。わたしどもは、主イエスの十字架を見たわけではありません。でも、主イエスの十字架による救いを知って、洗礼によって命の水を通り、新たに真実を証しする者として立てられています。まだ洗礼を受けるに至っていない人であっても、命の水を求めて、共にここに座っているのです。
36節で、福音書記者は、「これらのことが起こったのは、聖書の言葉が実現するためであった。」と言って、二つの旧約聖書の言葉を引用しています。初めに36節。「その骨は一つも砕かれない」とあります。しかし、旧約聖書のどこを探しても、この言葉とまったく同じ言葉はありません。それでも、よく似た表現がいくつか出てまいります。二つの言葉を紹介いたします。まず、出エジプト記から。過越の祭りにおいて屠られる羊に関する み言葉です。「一匹の羊は一軒(けん)の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。(12:46)」
次に、詩編から。「主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し/骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。(34:20~21)」この一年を振り返るだけでも、本当にそうであったと思います。それぞれに辛いことがありました。災いとしか思えないこともありました。それでも、こうして痛みを抱えながらも、共に、主を賛美し、祈りをささげ、み言葉を命の水として頂くことが許されています。主イエスの十字架は、真実にわたしどもを生かします。わたしどもは主の十字架があるから、もはや呪われることがない。決して、罪に定められない。どんな人間も、主イエスに繋がっているなら呪われない。この約束こそ、十字架の主イエスが与えてくださった真実な約束です。
もう一つ、引用された旧約聖書の み言葉があります。37節、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」です。これは司式の長老にヨハネ福音書と併せて朗読して頂いたゼカリヤ書の言葉です。10節に、「彼ら自らが刺し貫いた者であるわたし」との み言葉があります。「わたし」とは、明らかに、神さまを示しています。「彼ら」と呼ばれているのは、エルサレムの住民です。神の民である者たちが、神さまを刺し貫いた、ということです。神の民として生きているわたしどもにとって、他人事ではありません。わたしどもの罪を示す み言葉です。罪とは何か。わたしどもの罪は、どのような罪なのか。それは、神を殺すことです。神などいない、と絶望してしまう。あるいは、「神がいるなら、なぜこんな世の中なのか」と評論家気取りで神を裁く。そのようなとき、わたしどもは、無意識のうちに、神さまを殺しています。それでも、神さまはわたしどもを愛することを諦めません。諦めるどころか、どこまでも愛し、わたしの愛に戻って来て欲しいと、招き続けていらっしゃいます。ゼカリヤ書も、わたしどもの罪を指摘しながら、同じ10節に、このように記すのです。「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。(12:10)」何と、ありがたい み言葉でしょう。神さまは、ご自分を刺し貫く者を呪うのではなく、何と、憐れみ、祈りの霊を注いでくださるというのです。さらにゼカリヤ書を読み進めてまいりますと、第14章に入りまして、この預言の言葉は、不思議な光を帯びるようになります。第14章6節以下を朗読いたします。「その日には、光がなく/冷えて、凍(い)てつくばかりである。しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく/夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出(い)で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ/その御名(みな)は唯一の御名となる。(14:6~9)」光がなく、冷え切った世。それはまるで、わたしどもの今の時代を言い当てているようにも思えます。けれども、どんなに冷え切って希望がないように思えても、神さまだけが知っておられる救いの日が必ず来る。神さまの愛が地上のすべてを覆う日が来るという預言です。
わたしどもは、知らず知らずのうちに神さまを殺す日があります。それでも十字架の主を仰ぐとき、わたしどもの罪は赦され、招かれているという真実に気づかせて頂ける。主の脇腹から ほとばしり出ている血と水が、わたしどもを包み、聖(きよ)くしてくださるのです。主は憐れみの眼差しを向けて、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ福音書11:28)」と招き続けてくださっています。わたしども、一人一人が、主から呼ばれています。招かれています。「わたしの命の水と血を表す洗礼と聖餐を受け取って欲しい。」と、主イエスは大きな手を広げ、わたしどもを招いておられるのです。そして、神さまの愛をまだ知らない人に真実を証しして欲しい、神さまの愛で地上を潤すために走り続けて欲しい、と託されています。一年を終えるにあたり、主イエスの招きに感謝し、望みを抱いて新しい年を迎えたい。心から願います。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、主の十字架の恵み深さを心に刻むことができ感謝いたします。礼拝に招かれたすべての者が、主の恵みを受け、命の水の流れに立つことができますように。主の み名によって祈ります。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みの上に、聖霊を注いでください。主よ、この一年、愛する者を天に送った者がおります。あなたの懐に抱かれ、安らかに憩っていることを信じつつも、心に ぽっかりと空いた穴を抱え、今も、悲しみの中にあります。悲しみの中にある者を慰めてください。あなたの甦りの光で包んでください。まもなく能登半島での大地震、大津波から一年となります。今も困難な生活を強いられている一人一人を励まし、日々の必要を満たしてください。また、被災された各地でボランティアに従事している者、復旧、復興のために働いている者を守り、支えてください。牧師不在の教会を強め、励ましてください。望みを失うことのないよう聖霊を注いでください。世界の各地で今も争いが続いております。痛みの中にある者を慰めてください。一日も早く主の平和がなりますように。今朝も礼拝を慕いつつ、病のため、痛みを抱えているため、礼拝に出席することのできない者がおります。主よ、わたしどもと等しい祝福をお与えください。主にある望みを抱いて新しい年を迎えることができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年12月24日(火)日本基督教団 東村山教会 クリスマス讃美夕礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 第2章1節~14節
説教題:「あなたのための救い主」    
讃美歌:102、107、114、112

2024年は、能登半島を襲った大きな地震と津波で幕を明け、 その後も大雨による災害がありました。ウクライナ、パレスチナ、 ミャンマーなど、世界の至る所で起きている争いは、収まるどころか、ますます激しさを増しています。そのような中で、社会的に弱い立場にある者の命が軽く扱われ、片隅に追いやられています。社会 批判をしようというのではありません。しかし、人間の罪が世界を 覆ってしまっていることを認めざるを得ません。わたしどもは、どうしてこうも、隣人と一緒に、平和に生きていくことができないので しょうか。
それでも、神さまのご計画は、あくまでも、平和の計画なのであります。旧約聖書エレミヤ書に、このような言葉があります。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は 言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(29:11)」この神さまの平和のご計画が、地上において具体的に始められた日が、クリスマスです。人間の罪が、夜の闇のように世界を覆っていた。その罪の闇の中に、神の み子が、天から降って来てくださり、人間の赤ん坊として、生まれて くださったのです。そして、そのニュースを誰よりも早く知らされたのは、当時、社会的にもっとも弱く、貧しく、片隅に追いやられて 生きていた人々の、代表のような、羊飼いたちでありました。
天使は、羊飼いたちに告げました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主が お生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。(2:10~12)」神の み子が、人間の子どもとしてお生まれになった。それも、王様や裕福な家の子として生まれて、柔らかな蒲団に寝かされたというのならともかく、貧しい大工の子として、あろうことか牛や馬の餌を入れる硬い木の箱に、粗末な布に包まれて寝かされた。それこそが、罪に覆われた世で平和を失って生きている、あなたがたへの 救いのしるしなのだと、天使は告げたのであります。神の ご計画は、平和の ご計画です。神さまは、わたしども人間が、奪い合い、自分勝手に生きるのではなく、助け合い、励まし合いながら、隣人どうし一緒に、平和に生きていくことを望み、そのご計画を始められた。主イエスの誕生は、そのしるしなのです。
 それにしても、なぜ神の み子が家畜の餌箱に生み落とされなけ ればならなかったのか。聖書は言います。「宿屋には彼らの泊まる 場所がなかったからである。(2:7)」罪に覆われた世界には、神の救いの計画を受け入れる場所がなかった。人間の罪が、神の救いなど無用だと言って、神の み子を追い出し、粗末な馬小屋に追いやったのです。そのようすはいみじくも、わたしどもが今、つくり出して しまっている世と同じなのではないでしょうか。神の み子を受け 入れず、神の平和の ご計画を受け入れない わたしどもの罪が、わたしども自身を苦しめ、弱い立場の人たちをもっと苦しめ、神さまを 悲しませているのです。しかし、それでも、わたしどもは今夜、幸いにも、天使の告げる言葉を聞くことが許されました。「恐れるな。  わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主が お生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝て いる乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
わたしどもは今日たまたま気が向いたからここにいるのではありません。神さまが、この平和の計画を知って欲しい、信じて欲しいとお思いになって、わたしども一人一人を、ここへ呼び集めてくださったのです。神さまが、わたしの計画をあなたに知って欲しい、あなたに信じて欲しい、受け入れて欲しい、とおっしゃっています。ですから、素直に信じたい。そして、天使が去った後、ベツレヘムに向かった羊飼いたちに学びたいのです。「羊飼いたちは、何のあてもない まま、ベツレヘムに出かけて、本当に飼い葉桶の中に眠る乳飲み子を見つけることができるだろうか?」と不安に思うのが、わたしども かもしれません。しかし、羊飼いたちは、そんなことは心配せずに 急いでベツレヘムに向かいました。そして、マリアとヨセフ、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子イエスさまを探し当てたのです。この ことは、神さまの言葉を信じて、行動するなら、必ず、イエスさまを探し当てることができる、また、神さまのご計画の一端を担うことができる。そのように、導いていただけるのだと伝えています。
天使は言いました。「クリスマスに生まれた赤ちゃんは、あなた がたのための救い主」だと。神さまは、わたしどもすべての者の救いのために、主イエス・キリストをわたしどもの世に遣わしてくださいました。そして、「主イエスは、わたしの救い主」と信じるなら、神さまはわたしどもの罪を赦し、わたしどもから離れることなく、いつも、そして、いつまでも、共にいて助けてくださいます。この恵みは確かであり、真(まこと)の喜びです。救い主は、あなたのために  生まれてくださいました。罪に覆われた世に生きるわたしどもすべての者が、隣人と一緒に平和を築きながら生きることができるようにと、生まれてくださいました。クリスマスおめでとうございます。

<祈祷>
天の父なる御神、あなたは闇の世に真の光として、み子をお遣わしくださいましたから感謝いたします。日々、「主イエスは、わたしの救い主」と信じる信仰を お与えください。どんなときも み子と共にある平安に生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

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2024年12月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第35章1節~10節、新約 ルカによる福音書 第1章26節~38節
説教題:「主が あなたと共におられる」
讃美歌:546、100 、108、Ⅱ-1、115、543 

2024年のクリスマスを皆さんと一緒に迎えることが許され、心より嬉しく思います。今年のクリスマスは、マリアへの受胎告知の場面を読むことにしました。おや、と思われた方もあるかもしれません。慣例では、クリスマス前のアドヴェントで読まれることの多い箇所です。わたしも少なからず迷いましたが、クリスマスの出来事の始まりを告げる み言葉であり、また、核と言ってもよいほどの恵みの詰まった この み言葉を、今朝、皆さんと ご一緒に分かち合いたいと思いました。
天使ガブリエルによるマリアへの受胎告知は、祝福の言葉で始まります。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」照らし合わせて読みたい み言葉があります。「おめでとう」と訳されている言葉や、「主があなたと共におられる」と訳されている言葉の意味や、他の箇所の同様の言葉を調べていたら、この言葉に行きあたりました。聖書は開かずに、そのままお聞きいただけたらと思います。旧約聖書 ゼカリヤ書 第2章14節です。「娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て/あなたのただ中に住まう、と主は言われる。」天使ガブリエルが、マリアに伝えたのは、この み言葉そのものであったと言ってよいと思います。「マリアよ、喜べ。歓声をあげて喜べ。神ご自身が来て、あなたの ただ中に住んでくださる!」だからマリアは戸惑ったのです。喜べと言われても、喜びというのは強制されるものではありません。しかも神さまがいらっしゃって、わたしの中に住もうとおっしゃっているとは、何ごとであろうか。マリアはすっかり考え込んでしまいました。
話は少々それますが、天使そっちのけで、自分の考えの中に潜(もぐ)っていくように、じーっと考え込んでいる少女を思い浮べると、聖書にはほとんど書かれていないマリアという少女の内面がうかがえるような気がして、何だかちょっと楽しくなってきます。
話を元に戻しましょう。天使は、考え込んでいるマリアに、再び語りかけました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
天使の言葉は、マリアを安心させるどころか、ますますびっくりさせるような内容でありました。ナザレというガリラヤ地方の町は、田舎の、ほんとうに小さな、貧しい村でした。世界の片隅の この小さな村で生まれ、おそらく、貧しいながらも信仰深い両親に育てられ、当たり前のように親に決められた結婚をし、子を産み、育て、当時の普通の生活に明け暮れ、老いて、死んでいく。マリアに想像できる自分の未来は、それ以上でも、それ以下でもなかったことでしょう。天使が告げるような未来は、思い描くことすらできない。マリアは天使に言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
マリアの親類エリサベトが、年を重ねていたのに、また、「不妊の女」と言われていたのに妊娠し、6ヶ月になっているというニュースは、マリアにも届いていたことでしょう。人間の常識では考えられないことが現実に起きている。「神にできないことは何一つない。」という天使の言葉は、原文に忠実に訳せば、「なぜなら、神においては、その語られた言葉のすべてが、不可能に終わるということが決してない。」となります。「なぜなら」という言葉が記されています。わたしども人間にとっては考えられないことも、きちんと理由があって実現する。天使は、その理由を、「神が語られた言葉の中で、その通りにならないことは一つもないからだ。」と告げたのです。
神さまが、マリアに、「あなたは身ごもって男の子を産む、その子をイエスと名づけなさい」とお命じになり、約束なさった。だから、その通りになる。そういうことです。神さまが、世界の片隅で生活していた娘に、ご自分のとてつもなく大きな計画を打ち明けておられるのです。そして、この計画は途中で行き詰って、頓挫してしまったり、不可能に終わってしまうことは決してない。なぜなら、これは神さまのご計画だから。天使ガブリエルは、この神の ご計画をマリアに打ち明けながら、マリアを、その神の ご計画の中に招いているのです。「人間の計画ならば途中で頓挫してしまうことなど珍しくない。しかし、これは神さまのご計画だ。神さまが必ず成し遂げられる計画だ。マリア、この計画を成し遂げるために、ひとつ働いてくれないか。」天使はそんなふうに、マリアを招いているのです。
マリアの心の中には、よく理解できていないことも、納得のいかない気持ちも、なかったわけではないと思います。それでもマリアは決断しました。いや、決断をしたというより、すべてを天使の言葉に任せたのです。神さまの救いのご計画を、そのまま信頼し、受け入れました。
マリアは言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」「はしため」とは、「女奴隷」のことです。ちなみに、新しく出版されました聖書協会共同訳は、「仕える女」と書いて「仕え女(つかえめ)」と訳しています。「はしため」、「仕え女」、いずれにせよ、「わたしは主のはしためです」というこの言葉は、わたしのいのちは、神さまに仕えるためにある、ということを表しています。マリアは、天使の言葉を受け入れました。そして、自分のいのちを、神さまの ご用のために、よしなに用いてくださいと、100%、神さまにまかせきったのです。
神さまの ご計画が動き出しました。主イエスは、神さまと等しい存在であられたのに、マリアのからだに宿り、この世に生まれてくださいました。そして、人間が勝手な信じ方をして、ねじまげてしまっていた神さまの真実の恵みを、教えてくださり、すべての人間の罪を赦すために、ご自分の おいのちを、捨ててくださいました。そのすべてが、神さまの、クリスマスの、ご計画でありました。マリアは、神さまの ご計画のために、神さまが用いてくださるままに、働きました。主イエスも、神さまの ご計画のために、神さまの み心のままに、働かれました。ゼカリヤ書に書かれた預言のように、また、天使ガブリエルがマリアに告げた祝福の言葉のように、今、わたしどもにも、神さまはおっしゃいます。「声を上げて喜べ!わたしは来て、あなたのただ中に住まう」と。
クリスマスの季節によく読まれる聖書の み言葉に、ヨハネによる福音書 第3章16節があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」マリアが神さまの言葉を信じたように、わたしどもも信じるならば、主は、わたしどものただ中に来て、永遠に、住んでくださいます。そして、わたしどもが隣人同士、互いに愛し合い、赦し合って生きていくことができるように、主が いつも共にあって、わたしどもを励まし、導いてくださるのです。この神さまの ご計画は、主イエスの十字架によって成し遂げられました。でも、実はまだ、続きがありました。まだ途中なのです。神さまは、わたしどものことも、ご計画の中へ招いておられます。この世を、神の愛の国にする。途方もなく遠大な ご計画です。戦いに明け暮れて、今この瞬間にも奪われていく いのちがある。略奪され、じゅうりんされ、ないがしろにされているいのちがある。「とても不可能」としか思えない計画です。世の中の有り様を見れば絶望するよりほかないように思える。わたしどもは思います。「どうして、そのようなことがありえましょうか。」しかし、「神にできないことは何一つない。」のです。
信じるなら、主が、わたしどものただ中に住んでくださいます。これは、確かな約束です。途中で頓挫してしまわない約束です。わたしどもは、この約束の中へ招かれています。この世を神さまの愛の国とする ご計画のために、あなたも働いてくれないかと招かれています。マリアのように、神さまに、すべてを委ね、神さまがおっしゃったことは必ず実現すると信じて、互いに愛し合い、赦し合って、幸いな人生を歩むことができますように!神さまの愛を信じることができますように!神さまがいつも共にいてくださることを、信じることができますように!わたしどもがそのことを信じて、決して希望を失わず、愛に生きるために、主イエスは天から世に降り、マリアのからだを通して、人間として生まれてくださいました。だからクリスマスは、わたしども皆の喜びです。希望です。平和です。クリスマス、おめでとうございます。

<祈祷>
天の父なる御神、クリスマスの恵みを感謝いたします。あなたの み子がわたしどもに約束してくださいました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」主よ、あなたの独り子を信じる信仰を日々、お与えください。そして、あなたの僕として、あなたの愛の み国の完成のために、喜んで働く者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みの上に、聖霊を注いでください。主よ、病床にある者、嘆きの中にある者、悲しみの中にある者を慰め、励ましてください。クリスマス礼拝に来ることができなかった者にも、聖霊を注いでください。あなたがいつも み顔を向けていてくださることを、信じることができますよう導いてください。この町の人びと、この国の人びと、この世界の人びとに、クリスマスの祝福を与えてください。全世界の諸教会に力を与えてください。被災地にある教会を顧みてください。昨年のクリスマスから、今日まで支えられたことを感謝すると共に、家族の愛が深くなり、職場、学校での生活が喜びに満ちたものとなりますように。主イエスへの熱情と、主に仕える喜びとが、すべてのキリスト者を生かし、教会を生かしますように。日々、平和を祈り、平和の歌を自分たちの生活の中で賛美するキリスト者を作ってください。今、その歌声を一つにして賛美するわたしどもの歌を、あなたの栄光をほめたたえる歌として受け入れてください。そして、そこから溢れ出るような平安をもってこの場所を満たし、一人ひとりの心を満たしてください。今日、勇気を出して初めて礼拝につらなった者を祝福してください。道を求めている者が、あなたから与えられた命を喜んで あなたに委ねる決断をする日が与えられますよう導いてください。いつの日か洗礼の恵み、聖餐の祝いに与る日が与えられますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


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2024年12月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第69篇17節~22節、新約 ヨハネによる福音書 第19章28節~30節
説教題:「成し遂げられた神の愛」
讃美歌:546、Ⅱ-112、134、495、542 

 先週の日曜日、わたしどもは、主イエスが母マリアに対して、ご自分の弟子を、あなたの子ですと引き合わせ、この弟子に対して母マリアを、あなたの母ですと引き合わせた、そして、弟子は母マリアを引き取って共に暮らし始めたという、聖書の み言葉を読みました。
 アドヴェント第3主日の今朝、わたしどもも、主の十字架のもとに立って、十字架を振り仰いで、主イエスの み声を聴くために、集められました。主イエスは、わたしどもにおっしゃいます。あなたと共に座っているこの人たちは皆、あなたの家族であると。主イエスが巡り合わせてくださった、神の家族として、わたしどもは、主の十字架のもとに集められて、教会を形づくっているのです。
そして み言葉はこのように続きます。第19章28節。「この後(のち)、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」主イエスは、わたしどもを神の家族としてくださった、まさにそのところで、「すべてのことが今や成し遂げられた」と、悟られたのです。わたしどもが、家族として、互いに愛と慈しみをもって生き始める、そこが、すべてのことが成し遂げられたターニングポイントであったのです。「すべてのこと」とは何でしょう。第3章には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とありました。また、第12章には、「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(12:23~24)」とありました。父なる神さまが世に生きるわたしどもを この上なく愛してくださって、わたしどもを救うために、途方もない計画をお立てになったのです。そのご計画は、わたしどもが神の家族とされて生きるところにおいて、まっとうされる。この神さまの救いの ご計画に従って、主イエスは、クリスマスに生まれ、神の愛を伝え、実践なさり、そして、十字架の上で死んでいく道を選び取ってくださったのです。ですから、この十字架刑は、人に強制されたものではありません。共に十字架に架けられている二人の罪人(ざいにん)は、自分の犯した罪のために、人から強制されて死んでいく。しかし主イエスは、人から強いられているのではありません。ただ神だけが、主イエスに強いておられるのです。わたしどもが神の家族として豊かに、健やかに、平安のうちにいたわり合い、赦し合って生きていく、愛し合って生きていく、神の愛の中で生きていくことを父なる神さまが、望まれました。そのために、主イエスは、神によって、あとにも先にも誰も経験し得ない渇きの中に、ただひとり、立たされているのです。もっと言うなら、神さまは、この肉体と魂の渇きの極みに み子がひとりぼっちで立っておられるのを御覧になって、満足しておられる。そして主イエスご自身も、父なる神さまのご計画に喜んで、進んで従って、そこに立っておられるということです。しかしそれは、イエスは神の子だから十字架なんか痛くも痒くもない、ということでは決してありません。主イエスはまことの神でいらっしゃいますが、クリスマスに馬小屋でお生まれになったまことの人でもあるからです。
ご自分がなすべき務めがすべて完了したことを知った主イエスは、そのとき、「渇く」とおっしゃいました。水が欲しいとおっしゃった。この渇きは、何よりもまず肉体の渇きです。わたしどもも、どんなに高熱で苦しくてごはんが食べられないようなときでも、水だけは、飲みたいものです。炎天下の一杯の水の、どれほどありがたいことかも知っています。ましてや十字架の上の渇きは、どれほど辛いものであったことでしょう。一杯と言わない。一滴でもいい。
また、主イエスの十字架における渇きは、神から捨ておかれるという魂の渇きでもあります。先週も ご一緒に詩編 第22篇を読みました。その中の16節には、このように書かれています。「口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎(うわあご)に はり付く。あなたは わたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」この詩編 第22篇は、嘆きから始まっています。2節。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」主イエスは、この詩編 第22篇の言葉をなぞるように、十字架の上で お語りになりました。マタイによる福音書第27章46節。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。渇きのあまり、舌が上あごにはり付くほどであるという嘆きの言葉は、その延長線上にあります。渇きは、神さまによって「塵と死の中にうち捨てられ」ている渇きなのです。
何人もの説教者が、このときの主イエスの渇きを、原爆の被害の中で「水ヲクダサイ」とさまよった人々に重ねて語っています。この、人類の罪がもたらした地獄の渇きの中にも、主イエスはおられたにちがいないと語ります。主イエスが父なる神から強いられた渇きの中に、ご自身から進んで立ってくださったからです。たとえ、この先わたしどもにどんな渇きが待っていようとも、悲惨な苦しみの末の死が待ち構えていようとも、そこにも、必ず、主イエスの お姿があるのです。共にいてくださる主の お姿を見出すことができる。主の十字架における渇きは、この恵みを指し示しています。何という幸いであろうかと思います。どんな渇きの中にあっても、わたしどもは決して、ひとりぼっちではありません。そこには、必ず、主イエスが共にいてくださるのです。
 ヨハネによる福音書は、主イエスが「渇く」と言われたときに、こんなことが起こったと書いています。29節。「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。」酸っぱいぶどう酒など、好んで飲む人はいません。「気付け薬」として用いられたのかもしれません。一説によりますと、ローマ兵が主イエスに飲ませようとした「酸いぶどう酒」とは、ローマの兵隊が常用する「ポスカ」という酢と水を混ぜ合わせた飲料を指すとも言われております。そうだとすると、ローマ兵の一人が、見るにみかねて、自分用のポスカをイエスの口もとに差し出したのかもしれません。いずれにせよ、大切なのことは、「酸いぶどう酒」という言葉は、旧約聖書の中の言葉を指し示している、ということです。今日、ヨハネ福音書とあわせて読んだ詩編 第69篇が、それです。詩編 第69篇は、信仰に生きようと願うダビデが、屈辱の生涯を生きざるを得なくなっていることを嘆く悲しみの歌です。20節から朗読します。「わたしが受けている嘲りを/恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。わたしを苦しめる者は、すべて御(み)前にいます。嘲りに心を打ち砕かれ/わたしは無力になりました。望んでいた同情は得られず/慰めてくれる人も見いだせません。人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。(69:20~22)」詩編 第22篇、第69篇を記したダビデの嘆きは、裸にされ、人々から罵られている主イエスの十字架の嘆きと重なります。まさにここに書かれているとおりのことが実現している。しかし、これは、シナリオどおりにことが運んだ、という意味ではありません。主イエスとダビデとの間には決定的な違いがあります。ダビデは、詩編 第69篇29節で、自分を屈辱に追い込んでいる人びとに対する激しい敵意を語ります。「命の書から彼らを抹殺してください。」屈辱の中にあるダビデは、敵を呪うより他なかったのです。しかし、主イエスは、そうではありませんでした。自ら進んで十字架に架けられる道を進み、敵を呪うどころか自分を裁く者たちの罪を赦し、神の愛の ご計画、わたしどもを救うというご計画を成し遂げるために、差し出された酸っぱいぶどう酒を口にされたのです。そして主は「『成し遂げられた』と言い、頭(あたま)を垂れて息を引き取られ」ました。
 「頭を垂れて」とあります。十字架に架けられているのですから、ついに力尽きて、首がガクンと前に倒れる、そういうようすを思い浮かべますし、絵画などでもそのように描かれています。しかし、ここで用いられているギリシア語からの、いくつかの言語への翻訳を確認いたしますと、むしろ、首をうしろにもたげるように垂れたとなっているものがある。寝床について、安らかに頭をまくらにあずける、そういう解釈ができるのです。父なる神さまに頭をあずけ、安らかに、息を引き取られた。息を引き取られたという日本語も、よく使われる慣用句ですけれども、奇しくも、このことをよく表していると思います。神さまが、イエスさまの命を、まことに人として生きられた命を、大切に抱くようにして、引き取ってくださった。人の目には悲惨な死の姿でも、主イエスは神さまのご計画をすべて成し遂げて、平安に、神さまに頭をあずけて、眠りにつかれたのです。そしてまた、この主イエスの お姿を知っているがゆえに、わたしどもは、信仰者の死が、たとえ苦しみの末の死であったとしても、「この人は支えていてくださる神に頭をあずけて、今、安らかに眠ったのだ。」と、言うことができるのです。まことに幸いな恵みであります。「成し遂げられた」と訳されていた言葉の元になった言葉は、ゴールを意味する言葉です。やるべきことを成し遂げての「終わり」です。ここで思い起こしたい み言葉があります。第17章17節です。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。(17:17~19)」わたしは箱根駅伝を見るのが好きです。駅伝のランナーは、自分の持ち場を、力を尽くして走り、次のランナーに襷を繋いでいく。そうして最終地点を目指します。力の限りに走り抜いて襷を繋ぐ選手たちの姿に、心が揺さぶられます。主イエスは、ゴールを迎えられました。多くの信仰の先達が、それぞれの走りを終え、今、襷はわたしどもの肩に掛けられています。
主イエスは、「わたしがあなたを赦したように、あなたがたも赦し合うように」、「わたしがあなたがたの足を洗って愛し抜いたように、あなたがたも愛し抜くように」、と教えてくださいました。わたしどもはすでに、「愛の襷」を主イエスから受け取りました。ここにいる皆が、「愛の襷」をかけているのです。その襷には、主イエスの血と汗が染み込んだ襷です。力を尽くして走らないうちに、「このような襷をわたしが掛けるのは畏れ多いことです」と外してしまってよいでしょうか?最終ゴールは、主イエスが再び来てくださる再臨の日です。その日までに、この世を神の国とする。神の愛の支配をあまねく行き渡らせるのです。年を重ねると、かつてのように動けない。それでも、これまで主イエスと共に走った日々をゆっくり語ることはできます。
わたしたちは神の家族です。教会の子どもたちは、わたしどもの子どもたちです。子どもたちに神の愛を伝えましょう。教会を支えてこられた兄弟姉妹は、わたしどもの父であり母です。神さまの愛をそれぞれの賜物を用いて届けましょう。そのとき、わたしどもは主イエスのように孤独に走るのではありません。十字架の死から甦られた主イエスがわたしどもに日々、聖霊を注いでくださり、駅伝で選手の後ろから常に声をかけ、選手を励ます監督のように、共にわたしどもの歩みをも守り、導いてくださるのですから。

<祈祷>
天の父なる神さま、主イエスが十字架の上で祈られた言葉、「渇く」と「成し遂げられた」を心に刻むことが許され感謝いたします。わたしどもの罪のために、み子は渇きの中に立ってくださり、そして、息を引き取られました。神さまの愛を成し遂げてくださった主イエスの死をわたしどもが無駄にすることがありませんように。わたしどもを愛に生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みの上に、聖霊を注いでください。主よ、本日、二名の兄弟姉妹がわたしどもの群れに加えられました。感謝いたします。これまで兄弟姉妹の信仰を育み、祈り支えてきた広島教会、蕃山町教会の歩みを、これからも守り、導いてください。今、この時も、争いが続いている地があります。ウクライナ、ガザ、ミャンマー、そのほか多くの地で争いによって人々の血が流れ、嘆きの声が響いています。主よ、互いに信じ合うことができず、真実の平和をつくることができずにいる世界を、み心にとめてください。平和をつくるために心を砕いている者たちを助け、導き、よく用いてください。1月1日に大きな地震、またその後も度重なる災害に襲われた能登半島の諸教会を強め、励ましてください。昨年のクリスマスの僅か1週間後に、深い悲しみに襲われるとは想像すらしていなかった中で、賢明に一年を歩んできた隣人たちに、主にある希望を語り続けるためにあなたが立てた諸教会です。来週のクリスマス礼拝に一人でも多くの人が招かれ、あなたにある平安、主にある望みを抱くことができますように。主よ、今日も様々な理由で礼拝に集うことのできない神の家族のために祈ります。年を重ねたために、病を患っているために、それぞれの場で、あなたに祈りをささげております。それらの仲間に、わたしどもと等しい愛を注いでください。どこにあっても、あなたが共におられるとの信仰を与え続けてください。み心なら、来週のクリスマス礼拝に一人でも多くの者が教会に招かれ、み子のご降誕を共に喜ぶことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【動画配信YouTube】
2024年12月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 アモス書 第5章1節~9節、新約 ヨハネによる福音書 第19章16節b~27節
説教題:「十字架の主と ひとつにされて」
讃美歌:546、Ⅱ-96 、262、515、541、Ⅱ-167 

アドヴェント第2主日を迎えました。天の父なる神さまの懐(ふところ)に抱かれていた神の み子が、なぜ、わたしどもの世にくだって来なければならなかったのか?それは、わたしどもの罪がつくり出す闇が、世を覆い尽くして、天の光が見えなくなっていたからです。神の愛が見えなくなり、希望を失っていたからです。
今、わたしどもが生きている世も、まるで、クリスマスの出来事などなかったかのような有りさまであることを、認めざるを得ません。奪い合い、殺し合い、隣人を足で踏みつけている。では、クリスマスは無意味なことであったのでしょうか?主の十字架は、焼け石に水をジュッとかけるような、いっときの気休めでしかなかったのでしょうか?断じて、そうではありません。わたしどもは、主の愛を知り、主の恵みを知った者として、今の世に、生かされています。ただ主の恵みのゆえに、こんな絶望的な世にあっても、なお希望を持って生きる、幸いな者として、生かされています。神の愛を踏みにじる世の真ん中に、生かされています。神の恵みをあまねく、世に知らしめるために!そのためにわたしども一人一人が生かされており、わたしどもの教会も、立てられています。主キリストによる救いの恵みは、クリスマスに始まり、十字架と復活において、成し遂げられました。主イエスの十字架への道を、今朝も大切に辿ってまいりましょう。
ヨハネによる福音書 第19章17節。「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。(19:17~18)」簡単に折れてしまうような細い木ではありません。人の体の重みに耐え得る、太い丸太であったことでしょう。ぐいと肩に食い込む。主イエスは、本来わたしどもが背負うべき、世の罪の十字架を、文字通り背負ってくださり、一歩一歩、ゴルゴタに向かって、歩みを進められたのです。どれほど長い、苦しみの時であったことでしょう。しかし、ヨハネ福音書は、主の肉体的、精神的な苦しみよりも、むしろ、わたしどもの罪の重大さを描き出すのです。ここに描き出されている人間の みにくい罪の姿は、わたしども人間がつくり出してきた歴史の みにくさであり、今の世の みにくさでもあります。まことにわたしどもがつくっている世は、主を十字架につけ続けているようなものです。ここで、主を十字架につけている「彼ら」とは、14節に出てくるユダヤ人たち、あるいは15節に出てくる祭司長たちを指しますが、彼らの中に、わたしどもは自らの姿を見いださざるを得ません。
主イエスの十字架の上には、ピラトが記した罪状書きが掛けられました。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」。ユダヤ人たちは、この罪状書きを、「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と訂正してくれと、ピラトに求めました。どこまでも、「この男は、われわれの王ではない」と主張したのです。神から遣わされた方であることを、認めませんでした。ヨハネ福音書に記されている神の愛を示すたくさんの み言葉の中から、一つだけあげなさい、と言われるなら、第3章16節でありましょう。神が、ただ独りの み子を世に与えるほどに、世を愛されたという み言葉です。彼らはこの、神の愛を、徹底的に、そんなものはいらないと、はねつけたのです。 
しかしピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えました。しかもピラトは、罪状書きを、ユダヤ人たちの言葉であるヘブライ語に加え、ラテン語、ギリシア語でも記したと、ヨハネ福音書はわざわざ書いています。また、この罪状書きを、多くの人が読んだとも書いています。これは、ユダヤ人だけでなく、ほかの国々の人も おおぜい読んだということです。 
神さまは、ご自分の愛を成し遂げるために、ユダヤ人の王として迎えられるべき方であったはずの み子に、世の罪をすべて負わせました。そして、ピラトをも用いて、み子は、「ユダヤ人だけでなく、すべての人びとにとって、真実の王である。」と教えてくださったのです。わたしどもも、今、日本語の翻訳で聖書を読むことが許されています。主イエスの罪状書きを読める。わたしどもは、ユダヤ人ではないから、この罪状書きは関係ないということはないのです。「ナザレのイエスを見よ。この方こそ、あなたのための王なのだ。」と、ヨハネ福音書は、わたしどもに教えてくれるのです。
今日は、旧約聖書に記されている預言書の一つ、アモス書 第5章を読みました。1節以下の み言葉は痛烈です。その中の、4節に、「わたしを求めよ、そして生きよ。」とあり、6節にも、「主を求めよ、そして生きよ。」とありました。神さまが、預言者アモスの口を通して、繰り返し、「わたしを求めて欲しい。わたしと共に生きて欲しい。」と訴えておられます。なぜ、繰り返し訴えなければならなかったのか?それは、人間が神を真実に求めないからです。旧約聖書の時代も、主イエスの時代も、そして残念ながら今日(こんにち)でも、わたしどもは自分たちにとって都合の悪い神は認めない。自分自身が王となり、自分の義しさによって隣人を裁き、踏みにじるという過ちを、繰り返しています。わたしどもとて、例外ではありません。主に従う者として生涯を歩もうと決意した。しかし、一年が経ち、二年が経ち、日々の生活の中で、何度言い訳をしてきたことでしょう。赦してくださる主イエスに罪を背負わせ、神を利用しておいて、そのくせ、自分が人を愛せないのは仕方ないことだと呟いてきた。その罪を思うとき、うなだれるしかありません。しかし、まさに、そのようにうなだれ、絶望するしかないわたしどもに、神さまは、「聖書を読んでごらん」と、十字架を背負い続けてくださる み子の お姿を示してくださいました。総督ピラトをも用いて、主イエスの罪状書きを読ませてくださいました。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」、すなわち、「ナザレのイエス、罪深いあなたの王」と。
 み言葉に戻ります。23節。「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、『これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう』と話し合った。それは、『彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた』という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。」
4人の兵士たちの姿が、描かれています。彼らは、主イエスの服を奪い、身に着けていた下着まで奪い、裸にしました。縫い目のない一枚織りの上等な下着だったのでしょう。その下着を4つに裂くのはもったいないので、「くじ引きで一人のものにすればよい」などと、わいわいやっている。その罪の姿さえも、神さまのご計画に従って起きたことなのだと、ヨハネ福音書は指し示すのです。
ここで、「聖書の言葉」と言われているのは、詩編 第22篇の み言葉です。詩編 第22篇はこのように始まります。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしを お見捨てになるのか。(22:2)」お気づきの方もおられるでしょう。マタイ福音書、マルコ福音書には、主イエスが十字架に架けられたとき、この詩編の冒頭の言葉と同じ祈りを祈られたという記述があります。嘆きの言葉で始まる詩編 第22篇は、主の十字架の出来事そのものです。人々はあざ笑い、衣はくじ引きで分けられる。しかし最後は、このような み言葉で締めくくられます。「わたしの魂は必ず命を得/子孫は神に仕え/主の ことを来(きた)るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。(22:30~32)」ヨハネによる福音書は、4人の兵士のあさましい姿は「聖書の言葉が実現するためであった。」と書きました。そこには、この詩編 第22篇全体が実現するためであったというメッセージが込められていると、言ってよいと思います。第22篇は長い み言葉ですので、礼拝で通して読むことは叶いませんでしたが、アドヴェントのときを通して、それぞれの家で、祈りを深めながら読んでいただきたいと願っています。
さて、ヨハネ福音書は、この4人の兵士の姿に対比させるようにして、主イエスの十字架のそばに、4人の女性たちの姿をえがきました。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」主イエスの母もマリアという名前でしたから、主イエスの母マリア、クロパの妻マリア、さらにマグダラのマリアの3人のマリアと、主イエスの母マリアの姉妹を加えて、4人の女性たちが十字架のもとに立っていたのです。そして、26節には、このように書かれています。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』」このとき、実際に十字架のもとに、この4人の女性がいたのか。「愛する弟子」と言われている弟子が立っていたのか。そんなことを考えたくなってしまうかもしれませんが、これが史実であったとしても、なかったとしても、それは大事な問題ではありません。大事なのは、いずれにしても、ヨハネ福音書はここで、この み言葉を読む すべての者を、十字架の真下に立たせているということです。わたしどもは皆、4人の女性であり、主に愛していただいた弟子として、呼び集められて、十字架の真下に、今、共に立っています。そして、主イエスから、「見なさい。あなたの隣りにいるこの人は、あなたの母だ。見なさい。あなたの隣りにいるこの人は、あなたの子だ。母のように、子のように、互いに思い合って、大切にし合って生きよ。」と言われているのです。愛し合って生きよ。赦し合って生きよと、引き合わせていただいているのです。わたしどもは、主に引き合わせていただいて、「教会」という「共同体」を形づくり、神さまのご支配をこの世に実現するために、十字架のもとに、共に立っているのです。
昨日の土曜日の午後、二人の長老と共に一人の兄弟の病床洗礼、病床聖餐にまいりました。祝福に満ちた時となりました。91歳になる兄弟が、神の招きを信じ、洗礼を受け、はじめての聖餐の祝いに与りました。終始ニコニコと笑顔を浮かべ、聖餐感謝の祈りには、大きな声で「アーメン」と祈られたとき、「神さまは、生きて働いておられる。」と心から感謝しました。わたしどもは、この方を主から託されました。「見よ、あなたの父だ。兄弟だ。」と、託されました。この方だけではありません。道を求めて礼拝に来られるすべての人も、「見よ、あなたの子だ。あなたの母だ。」と、主がわたしどもに引き合わせてくださっている、一人一人です。朝に夕に祈りに覚え、思いを寄せて、支えていきたい。そのようにして、世の人びとに、神の愛を伝えていくために、わたしどもは生かされているのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、十字架の恵みを感謝いたします。昨日は、  一人の兄弟の病床洗礼を執り行いました。ただただ感謝いたします。来週の主日礼拝には、二人の兄弟姉妹の転入会式を執り行います。主よ、新たに教会の群れに加えられた兄弟姉妹と共に、罪を赦された者として、どんなときも十字架のもとに立ち、共に愛し、共に  支え合って、あなたの国をこの世に実現するものとしてください。わたしどもの群れを用いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、争いが終わりません。平和が来ますように。望みを失っている者、嘆きの中にある者を、あなたの愛で包んでください。国々の指導者として立てられている者たちに、他者を思う柔らかな心と、まことにあなたを知る知恵を、授けてください。  能登半島をはじめとする被災地で今も困難な生活を続けている方々を強め、励ましてください。日々の必要を満たしてください。今日も礼拝を望みつつ、自宅で、施設で、病院で礼拝をささげている多くの者を強め、励ましてください。エレベータ前の机の上にたくさんのクリスマスカードが用意されています。お名前を読み、署名をしながら、暫く教会から遠ざかっている兄弟姉妹のために祈ります。神の家族としての祝福と平安を祈ります。今日の午後、伝道委員会の兄弟姉妹がクリスマス礼拝のポスティングにまいります。あなたの招きに多くの者が気づき、一人でもクリスマス礼拝、讃美夕礼拝に招かれますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年12月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第50章10節~11節、新約 ヨハネによる福音書 第19章1節~16節a
説教題:「この人を見よ」
讃美歌:546、94 、121、Ⅱ-1、511、540 

 アドヴェント・クランツのロウソクが、一つ灯りました。「闇」としか言いようのない世に、神さまが み子 主イエスをお遣わしくださったクリスマスを、ロウソクを一つ一つ灯しながら待つ。その時、わたしどもの心も、一つ、また一つとロウソクが灯るように、明るくなっていくのを感じます。
闇の中にずっといると、暗いのに慣れっこになってしまって自分を包んでいる闇がどういうものか、よくわからなくなるかもしれません。もしかしたら、「闇の方が居心地がよい。」などということもあるかもしれない。主イエスを十字架に架けた人々も、そのような状態にあったのではないかと思います。そして、もしもクリスマスの出来事が起こらなければ、わたしどもも、いまだにそういう闇の中にいたことでしょう。今年は計らずも、このアドヴェントの時期にちょうど重なるようにして、主イエスの ご受難の物語を読むこととなりました。わたしどもがどのような闇の中にいたのか、そしてどのように救われて光の中に入れていただいたのか、大切に読んでまいりたいと思います。
総督ピラトは、「イエスを十字架につけろ」と叫ぶユダヤ人たちの声に負け、主イエスを鞭で打たせました。兵士たちは茨で編んだ冠を主イエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と あざ笑い、平手で打ちました。ピラトは再び群衆の前に出て来て、言いました。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」そして、主イエスを引き出して言いました。「見よ、この男だ」。
しかし、祭司長たちや下役たちは、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫びました。ピラトは、もうこれ以上、かかわりたくなかったのでしょう。主イエスの身柄をユダヤ人たちに引き渡そうとしましたが、ユダヤ人たちは言いました。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
主イエスを告発しているユダヤ人たちが、わたしどもと比較して、悪意に満ちた人だったわけではありません。むしろ神を信じ、熱心に祈り、自らの行いを厳しく律して生活していた人々です。もしもわたしどもが この時代に生きていて、その場にいたとしたら、一緒になって「十字架につけろ。」と叫んでいたかもしれないことを、忘れてはならないと思います。11月23日の土曜日、この礼拝堂で東京バロック・スコラーズの皆さんによる「マタイ受難曲演奏会」が行われました。指揮を担ってくださった三澤洋史(ひろふみ)先生が、場面、場面の解説を丁寧にしてくださいました。またドイツ語の歌詞が翻訳され、正面の壁に映し出されたことで、主イエスが裁かれている場面に紛れ込んだかのような思いになりました。そして、自分は今、どこにいるのかわからなくなるような、落ち着かない気持ちになりました。わたしは今、群衆の一人として、主イエスに、「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と叫んでいるのか。それとも聖職者の一人として、主を裁いているのか。それとも自分の立場をまもるため、何の罪も見出せないのに、主イエスを十字架につけるため引き渡してしまったピラトなのか。ピラトの罪、聖職者たちの罪、ユダヤ人たちの罪が自らの罪と重なり、悔い改めの祈りへと導かれ、忘れ難い演奏会となりました。
ピラトはユダヤ人たちが語った、「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」との言葉を聞いて、ますます恐れたとあります。そして、再び総督官邸の中に入って、主イエスに尋ねました。「お前はどこから来たのか」。ピラトが、まことの意味で神を畏れていたわけではないでしょう。それでも、「もしも、この囚人が人知を越えた存在であったとしたら・・・たたりがあったらどうしよう・・・」そのような恐れを抱いたのかもしれません。しかし、主イエスは何もお答えになりませんでした。ピラトは いら立ち、恐れを隠すように、威圧的に主イエスに迫りました。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」主イエスは静かにお答えになりました。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」ピラトは、いよいよ得体の知れない不気味さを感じて脅えました。もう関わりたくない、と考え、釈放しようとしました。けれども、ユダヤ人たちはピラトを脅迫しました。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」ピラトは、ローマ皇帝の権威を恐れていました。皇帝の友であることによって、自分の権威がまもられていることを知っていたのです。このままイエスを釈放してしまえば、ユダヤ人たちが告げ口をするかもしれません。ローマ皇帝を恐れ、ユダヤ人たちを恐れたピラトはついに、それまで官邸の中に留め置いていた主イエスを引き出し、裁判の席に着かせました。正式に裁判が始まったのです。
福音書記者ヨハネは、裁判が始まった日時を、丁寧に記しました。14節。「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。」これは、他の福音書とは、明らかに異なる内容です。マタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書は、主イエスが十字架につけられたのは過越の祭りの当日であったと書いています。これは受難週の金曜日に当たります。しかし、ヨハネ福音書だけが、過越祭の準備の日の正午ごろ、つまり木曜日の正午ごろに裁判が行われたと記しているのです。どちらが史実なのかはわかりません。しかしヨハネ福音書が、他の福音書にならわずに、わざわざ「準備の日」と書いていることは、ヨハネ福音書が語る福音を受け取るために、大切なことです。
過越祭の準備の日の正午といえば、本当であれば、エルサレムの祭司たちは、主イエスの裁判どころではなかったはずです。やるべきことがたくさんあった。過越の祭りは、出エジプト記にあるように、エジプトで奴隷状態になっていたイスラエルの民が解放されたことを記念する大切な祭りです。エジプトを脱出する日、イスラエルの民は、主の命令に従って、小羊を屠り、その血をそれぞれの家の柱と、かもいに塗りました。赤い血が目印となって、イスラエルの民は災いをまぬがれ、無事に脱出することができたのです。その記念の祭り。だから、この祭りの日は、小羊を屠り、その血による祭りをしました。そして、その小羊を屠る役目は、祭司たちの務めであったそうです。主イエスが、裁判の席に着かれた時は、まさに小羊を殺す時であったのです。祭司長たちは、大事な務めを放っておいてでも、イエスを殺すことに夢中になっていたということです。ヨハネ福音書は、そのような祭司たちの不信仰を描きつつ、同時に、まさにその不信仰までもが用いられて、主イエスがいけにえの小羊となられたことを指し示すのです。
ヨハネによる福音書は第1章において、洗礼者ヨハネが主イエスにお会いしたときのことを記しました。第1章29節で、洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と言って、イエスを指し示したと書かれています。状況は、まったくの正反対と言えるほど異なりますが、今朝の箇所において、ピラトは言いました。第19章5節、「見よ、この男だ」。さらに14節、「見よ、あなたたちの王だ」。責任を逃れようとする、ピラトの苦し紛れの言葉ですが、洗礼者ヨハネの言葉が重なって響いてはこないでしょうか。
ピラトは、何とかしてイエスを釈放できないものかと、主イエスを指さし言いました。「見よ、あなたたちの王だ」。しかし、ユダヤの人々は叫んだのです。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」受難曲で歌われた刺すような叫びを思い起こします。一つの塊(かたまり)のように迫ってくる声です。一人の声では制止できない。圧倒的な叫び。それでもピラトは、なんとか威厳を保とうとして言いました。「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」。そのとき、ついに、ユダヤ人たちの罪が、彼ら自身の口によって、あらわになりました。「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」。「信仰告白」の対極にある言葉と言えましょう。わたしたちは神以外の者を王とする。神以外の者に従う。神から遣わされた方を拒み、皇帝を主(あるじ)とするのだと公言したのです。
今日は、ヨハネ福音書と共にイザヤ書 第50章10節、11節の み言葉を心に刻みました。「お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明(たいまつ)を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手が このことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。」これは、4節から9節までの「主の僕(しもべ)の歌」と呼ばれる詩に続く言葉です。6節にはこのような言葉があります。「打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬(ほお)をまかせた。顔を隠さずに、嘲(あざけ)りと唾を受けた。」ヨハネ福音書 第19章が伝えている主イエスの お姿そのものです。神以外の者を、自分を導く光として掲げて進んでゆく。イザヤ書で描かれているそのような人間の罪が、ユダヤ人たちが言った「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」という言葉に表れています。しかし、まさにそこで、ヨハネ福音書は、主イエスこそが、神が備えてくださった救いのための「いけにえの小羊」だと指し示しているのです。洗礼者ヨハネの信仰の言葉によって。総督ピラトの責任逃れの言葉によって。さらには、福音書記者ヨハネの「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。」という記述によって。
主イエスは、本来わたしどもが引き出され、つかねばならない裁判の席に座ってくださいました。わたしどもにくだされるべき裁きから、わたしどもを逃れさせる、過ぎ越しのしるしの小羊となってくださいました。闇の中で、神が灯してくださる光ではない、偽物(にせもの)の光によって道に迷うわたしどものために、神さまの愛は、到底思いもつかないなさり方で成就したのです。わたしどもの、どうしようもない罪の中に、主イエス・キリストという天からの光が灯って、成し遂げられたのです。わたしどもは、ただ信じるだけでよいのです。神さまが灯してくださった光を、主イエスを、信じるだけでよいのです。神さまの救いの ご計画の、何と言う深さでありましょう。
只今から聖餐の祝いに与ります。毎回、思います。聖餐の祝いに与るにふさわしくないわたしども。けれども、だからこそ、洗礼によって新しい いのちに生まれ、聖餐によってこの恵みを確かめつつ歩みなさいと招いていただいているのだと。洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と、主イエスを指し示しました。わたしどもも、皆で、「この方こそ、わたしを救った神の小羊です。」と、証(あかし)し、主イエスのみを王とし、主イエスに従って、世に光を一つ一つ灯すようにして、アドヴェントの時を過ごしてまいりましょう。

<祈祷>
天の父なる神さま、闇のような世に、「神の小羊」として み子をお遣わしくださった恵みを感謝いたします。み子の十字架によって罪を赦していただき、救っていただいた者として、まだあなたの愛と赦しを知らない者に、「この人を見よ、この人こそ、わたしどもを罪から救ってくださる神の小羊だ。」と語り続ける者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、本日のアドヴェント第一礼拝、さらに聖餐の祝いを慕いつつ、教会に来ることのできない友を思い起こします。病床にある者。施設にいる者。体調を崩している者の上に、あなたの慰めと励ましが注がれますよう祈ります。12月の聖餐献金は、「能登ヘルプ」の働きを覚えてささげます。主よ、いまだ余震の続く能登半島、また全国、全世界の被災地で困難な生活を強いられている一人一人に、生きる希望をお与えください。必要が満たされますよう祈ります。世界の至るところで争いが続いています。力ある者を謙遜にしてください。自分こそ正義を握っていると思っている者を、へりくだった心に変えてくださいますように。礼拝後、転入志願者二名の試問会が行われます。また今週の土曜日には、一名の病床洗礼式が予定されています。み心がなりますように。み霊(たま)による お導きを切に祈り願います。求道生活を続けている者に聖霊を注いでください。いつの日か、あなたの み子を救い主と信じ、信仰告白、洗礼へと導いてください。そして、共に聖餐を受ける喜びに与ることができますように。三人の神学生の歩みを強め、励ましてください。来春から伝道者としての歩みを始める佐藤神学生の備えの日々をお支えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年11月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第139篇13節~24節、新約 ローマの信徒への手紙 第8章38節~39節
説教題:「愛は勝つ」
讃美歌:546、54、461、532、539 

 この朝は、伝道者パウロが書きました、ローマの信徒への手紙 第8章の最後の言葉、38節、39節を、逝去者記念礼拝に与えられた み言葉として聞きたいと思います。わたしどもの教会では、昨年の逝去者記念礼拝から本日までの一年間で、5名の教会員が天に召されました。また共に礼拝をささげてまいりました隠退教師の加藤常昭先生、愛澤豊重先生も天に召されました。深い愛をもって接してくださったお一人お一人の笑顔を思い起こすと、どの方も わたしにとって大切な兄弟姉妹であり、先生でした。
 「死」というものは、絶対的で、決定的なもののように思われます。大事な人を奪って行ってしまう、最強にして最後の敵、とても勝ち目がないように思ってしまいます。だからこそ今朝は、パウロが生涯をかけて伝えてくれました、「神さまの愛は死にも勝る」という恵みを、皆さんと共に、心にしっかり刻みたいと思いました。
パウロは宣言します。38節。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他(た)のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」パウロは、神さまの愛に対抗する敵として、「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、」と、10もの言葉を重ねています。その筆頭に登場することからも、「死」がどれだけの力を持って、わたしどもを恐怖の虜(とりこ)としてしまうかを、パウロはよく知っていたのだとわかります。どんなに信仰が篤くても、死を目の前にして怖れない人がいるだろうか?と思います。自分の死はもちろんですが、むしろ、もっと恐ろしいのは、愛する者の死かもしれません。愛する者の死は、わたしどもから生きる望みまで奪おうとします。
加藤常昭先生が生前、お連れ合いである さゆり先生が天に召されたあとの痛みを、打ち明けてくださったことがありました。「田村くん、淋しいというレベルではないんだよ。痛いの。ズキズキと心が痛む。激痛なの。そして、痛みから解放されるために、死んでしまいたいと思ったの。さゆりが亡くなってから暫くは、死にたいと思ったの。」日本を代表する説教者として、永遠の命、神さまの愛、主イエスの赦し、復活、再臨を語り続けてくださった先生が、さゆり先生の死によって生きる希望を奪われていた事実に、衝撃を受けながら、先生ですらそうだったのかと、どこか安心した気持ちを覚えたことが思い出されます。しかし、そのように最強で最後のように思える「死」すらも、神の愛にかかっては、ひとたまりもない。敵のうちに入らない。それほどの愛をもって、我々は神さまにかたく結ばれているのだと、パウロは確信をもって、ローマの教会の人々を、また、今日この み言葉を聞くわたしどもをも、励ますのです。
パウロが「死」の次に記したのは「命」です。「死」はともかくとして、「命」がわたしどもを神の愛から引き離そうとするとは、どういうことでしょうか。命は、神さまがくださったものです。神さまがくださった命を、喜んで、生き生きと、心豊かに暮らすことは幸いなことです。それは、神さまがくださる幸いです。しかし、その命の喜びの中に、神さまを忘れさせようとする「魔力」のようなものがひそんでいることを、否定することはできません。楽しく暮らしているうちに、神さま抜きでも十分うまくやっていけると思い始めるとき、わたしどもの歩みは平安を失い始めているのです。
さらにパウロは、8つの言葉を続けています。「天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、」これらは、例えば、政治的な権力などというよりは、天使をも含む、一種の神秘的な力、隙あらば わたしどもを支配しようとする力を指していると言われます。身近なところでは占いや おまじない、お守りや お祓いなどを想像していただくとよいかもしれません。なんとなく不安があるとき、わたしどもは、こういったものに頼りたくなるものです。それらは、いっときの安心をもたらすかもしれませんが、きりがありません。不安はいつまでもつきまといます。極端な例ではありますが、初めは母親どうしの付き合いを装って近づいてきた人に、いつの間にか心を支配されてしまい、その人の言いなりになっているうちに、しまいには我が子を死なせてしまった、という痛ましい事件もありました。買い物や、スマホ、ギャンブル、果ては万引きや薬物など、様々なものへの依存症も、社会問題になっています。淋しい心、不安な心は、いとも簡単に、あらゆるものに乗っ取られてしまうのです。
しかし、そういった色々なものを挙げながら、パウロは宣言するのです。「神の愛は勝つのだ」と。主イエスを信じ、洗礼を受けて信仰という武具を身につけたわたしどもは、神の愛に、しっかり結びつけられている。だから、死がどれほど決定的に思われるときでも、神の愛があなたと共にある。日々の暮しの中にも、神の愛があなたと共にある。さまざまなものに頼りたくなるような不安な夜にも、神の愛があなたと共にある。その神の愛を、わたしどもはどこで知ることができるのか?イエス・キリストによって知ることができる。聖書が指し示す、イエス・キリストこそが、神の愛そのものなのだと、パウロは確信をもって証言するのです。ここに、聖書の中心があります。
主イエスを救い主と信じて、洗礼を受ける前と受けたあとの、神の愛との繋がりの違いについて、こんなことを言っている人がいます。サルの親子は子ザルが母ザルにしがみついている。けれども、ネコの親子は、母ネコが子ネコの首をしっかりくわえて運んでいく。洗礼を受けたキリスト者は、子ザルのように必死にしがみつかなくても、子ネコのように、神さまの愛によってしっかり捉らえていただいて、どこへ行くにも一緒なのだと言うのです。
神の愛は、漠然とした愛ではなくて、イエス・キリストとして、わたしどもの人間の歴史の真ん中に降って来てくださいました。わたしどもの人生の重荷の中に、苦しみの中に、悲しみの中に、罪の中に、そういうドロドロした闇の中に、神さまは、愛する独り子を与えてくださいました。神の独り子キリスト・イエスは、どこまでも低くへりくだってくださったのです。主イエスは、病や死の中にまで入って行かれました。それなのに、わたしども人間は、神さまが与えてくださった独り子を「必要ない」と拒み、十字架にかけて殺してしまいました。しかし、キリストは甦られました。死に勝利され、「わたしに繋がりなさい」と呼んでおられます。「わたしに繋がっていれば、あなたも共に神の愛の中にいるのだ」と約束してくださっているのです。
主イエスは、おっしゃいます。「わたしは、あなたを放さない。誰もわたしの手からあなたを奪うことはできない。」今、礼拝堂には、信仰の先達の写真が置かれています。確かに、かつてのように亡くなった人びとと語り合うことはできません。それでも、わたしどももパウロのように確信しています。わたしどもも、わたしどもに先立って天に召された信仰の友も、キリストに結ばれています。わたしどもは、一足早く神さまの みもとへ赴いた人々と一緒に、神の愛の み腕にしっかりと抱かれています。神の愛において、わたしどもに愛する者との別れはありません。なぜなら、神においては死がないのですから。
十字架と復活の主イエスは、おっしゃいました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。(ルカによる福音書20:38)」何と、力強い み言葉でしょうか。そうなのです。主イエスによって示された神さまの愛は、どんなものにも勝つのです。神さまの愛は、わたしどもを永遠に生かす愛です。わたしどもは、先に天に召された人々の信仰に励まされつつ、永遠の命の確信を持って、キリストによって示された神の愛の勝利を語り続けます。そして、今日ここにおられるすべての皆さんが、主キリスト・イエスによって示された神の愛を信じ、神さまにしっかりと結ばれる日の訪れることを、心から願っています。

<祈祷>
天の父なる御神、愛する者の死は、わたしどもから望みを奪おうとします。けれども、何ものも、主イエスによって示されたあなたの愛から、わたしどもを引き離すことはできません。あなたの愛を感謝し、御名を讃えます。主よ、試練の中にあるときこそ、あなたの愛を疑うことがありませんように。主イエス・キリストの み名によって祈り、願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。逝去者記念礼拝の恵みを感謝いたします。今日、礼拝に招かれたお一人お一人の上に、主の慰めを祈ります。望みを失うとき、痛みを抱えているとき、孤独を感じるとき、不安を覚えるとき、あなたがしっかりと捉えていてくださることを信じさせてください。試練の中にある者を想います。病と闘っている者を強め、励ましてください。世の争いにより、愛する家族を失った者、住む家を失い、途方に暮れている者一人一人に、主にある望みを与えてください。すべての者に、特に、諸国の指導者に、あなたを畏れる思いと、主の平和を祈る心をお与えください。紛争や戦争を一日も早く終結することができますように導いてください。主よ、昨日は東京バロック・スコラーズの兄弟姉妹によるマタイ受難曲の演奏を通して、悔い改めの祈りへと導いてくださり深く感謝いたします。昨日の演奏会には、93名の皆さんがあなたによって教会に招かれましたから感謝いたします。どうか、一人でも多くの者を信仰告白、洗礼へと導いてください。あなたの愛でしっかりと捉えてください。主よ、昨日の演奏会では、能登の被災地をおぼえて共に祈り、能登ヘルプへの献金をささげました。主よ、被災地で困難な生活を強いられている一人一人に、あなたの愛が届きますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年11月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第13章1節~7節、新約 ヨハネによる福音書 第18章28節~40節
説教題:「真理とは何か」
讃美歌:546、27、252、273B、545B 

少しずつ読み進めてまいりましたヨハネによる福音書。今日で、第18章を読み終えます。主イエスが、大祭司カイアファのところから総督官邸に連れて行かれ、ピラトの尋問を受ける場面です。
わたしどもは毎週、使徒信条を告白しています。その中で、「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、・・・・」と、言っています。毎週、ピラトを告発しているようなものかもしれません。皆さんの中にも、映画等で、ピラトが主イエスを尋問している場面や、「イエスではなくバラバを解放しろ!」と要求する群衆に対して、ピラトが困った表情を浮かべている場面を思い浮べる方がおられるかもしれません。わたしもかつて映画で見たとき、ピラトを責めるような思いになったことを思い起こしました。しかし、使徒信条が、ピラトだけに責めを負わせようとしているのでないことは、明白であります。
ローマ総督ピラトは、紀元26年から36年まで、ユダヤ地方、サマリア地方、イドマヤ地方を統治した人物です。連日報道されているガザ地区は地中海に面している町ですが、ガザも含む、現在のイスラエル全体を統治していた人物であります。普段の駐屯地は、カイサリアでした。巻末の聖書地図を開いていただき、「6、新約時代のパレスチナ」を見ていただきますと、地中海に面しているサマリア地方の地名のひとつにカイサリアがあります。ピラトは平時は、このカイサリアに駐屯していましたが、ユダヤ人の祭りの際には、騒動を防止するために、エルサレムに駐在したのです。
主イエスは明け方、ユダヤ人たちによって、ピラトが駐在している官邸に連れて来られました。けれども、連れてきたユダヤ人たちは官邸の中には入って来ませんでした。なぜなら、ユダヤ人にとって、異邦人との接触は「汚(けが)れ」を意味したからです。汚れてしまうと、過越の食事に与ることができない、そのように考えられていたのです。そのためにピラトは、彼らのところへ行ったり来たりすることになりました。ピラトは、まずユダヤ人たちに尋ねました。29節。「どういう罪でこの男を訴えるのか」。ユダヤ人たちは答えました。30節。「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」。ピラトは言いました。31節。「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」。ユダヤ人たちは反論しました。「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」。
実際のところ、ユダヤ人たちに人を死刑にする権限があったのか、なかったのか、はっきりしていません。色々な説があるようです。使徒言行録の中には、キリスト者であったステファノが、ユダヤ人たちから迫害を受け、石で打ち殺されている記事があります。ですから、死刑の権限があったにせよ、なかったにせよ、いずれにせよ、彼らの考えに反する者を、神の名によって処刑することは行われていたようです。にもかかわらずここでは、ユダヤ人たちはピラトにイエスの死の責任を押し付けようとしている。「我々には、人を死刑にする権限はない。これは、あなたがたローマ人の仕事でしょう。早く死刑判決をくだしてください。」と、責任逃れをしている。これもまた、過越祭の前に汚れることを嫌ってのことでありました。神の民を自称するユダヤ人たちは、神が お遣わしくださった救い主を裁き、罪に定めて殺すというとんでもない罪を犯そうとしておりながら、自分たちは聖いと信じ込んで、その聖さを守るため、汚れないために、細心の注意を払っているのです。我こそは聖い者であると信じる者たちが、汚れた者の代表と見なしている、ピラトを利用することによって、主イエスを裁き、殺したのです。しかし、この罪の極みとしか言いようのない状況において、ヨハネ福音書は宣言するのです。32節。「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」これは、第3章14節の主イエスの み言葉を示しています。「そして、モーセが荒れ野で蛇(へび)を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。(3:14~15)」旧約聖書にあるエピソードのように、神の独り子が十字架に上げられる。罪人(ざいにん)として殺される。信じる者が救われるために。神のご計画の、何と言う、途方もない深さでありましょう。
ユダヤ人たちに提案を拒否されたピラトは仕方なく、再び官邸の中に入り、主イエスと対峙して、問います。33節。「お前がユダヤ人の王なのか」。主イエスは、それに対して鋭い問いを投げかけられました。34節。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」主イエスはピラトに、「あなたは、自分自身の考えでそう言うのか?あなた自身の心が、わたしに王であるのかと言ったのか?」とお尋ねになったのです。この問いは、ピラトへの問いですが、同時に、わたしどもひとりひとりも、きちんと受け止めなければならない問いであります。あなた自身はどう思うのか?あなたは、わたしを王とするか?主が答えを待っておられます。けれども、ピラトは言い返す。「わたしはユダヤ人ではないから関係ない。お前の仲間のユダヤ人が、お前をわたしに引き渡した。『お前がユダヤ人の王だと自称している。ローマに対する反逆を野放しにしていてよいのか』そう言ってきた。だから尋ねているだけだ。お前はいったい、何をしたのだ?どうして、こんなに自分の仲間から憎まれているのだ?」これに対して主イエスは、お答えになりました。36節。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」主イエスは、ピラトに、「そのように心配せずとも、わたしの国は、この世のものではない。神の国はローマ帝国のように戦争によってつくられる国ではないのだ。もし、同じこの世の国であるならば、とうに戦っていただろうし、決着もついていただろう。」とおっしゃったのです。主イエスが、何を語っているのかチンプンカンプンなピラト。もしかしたら、気が狂っていると見なしたかもしれません。この問答が面倒くさくなったのか、決着を急ぐような問いを投げかけます。37節。「それでは、やはり王なのか」。ローマへの反逆者なのであれば、反逆罪で刑を執行することができます。けれども、ピラトの問いに対して、主イエスは「真理」について語り始められました。37節。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
ヨハネ福音書を第1章から第18章まで読み続けてまいりましたわたしどもは、「真理」という言葉を何度も心に刻んでまいりました。主イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(8:31~32)」。さらに主イエスは、心を騒がせている弟子たちに言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(14:6)」これらの「真理」と訳されたギリシア語は、αληθεια(アレィセイア)という言葉です。ギリシア語辞典で確認すると、真実、本当、真相、ありのまま、真理、誠実、真っ直ぐとあります。特に、ヨハネ福音書で「真理」と訳されている言葉には、原則として「神の真実」が主イエスの中に啓示されていることを意味している、とありました。神の愛が、神の真実が、世に来てくださって、十字架に架かって、わたしどもの罪を赦し、自由にしてくださった、このことを信じるなら、わたしどもは罪から解放される。自由になる。主イエスは、そのような愛をもって、ピラトに向き合っておられるのです。しかしピラトは、「真理とは何か。」と言ったまま、自分が口にした問いの答えを探そうともせずに、主イエスの前を立ち去ってしまいました。そして、もう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て告げたのです。38節後半。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」39節。「ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」ピラトはこのとき、まさか強盗バラバを釈放しろと要求されるとは、少しも思っていなかったことでしょう。しかし人々は、「その男ではない。バラバを」と大声で叫んだのです。
昨日は朝10時から午後1時まで約3時間、ぶっ通しで東京バロック・スコラーズの皆さんが「マタイ受難曲演奏会」の練習に励んでおられました。本日の説教準備を牧師室で行っていたのですが、扉を閉めていても、心に迫ってくるような響きでした。マタイ受難曲とヨハネ受難曲の違いはありますが、どちらの受難曲にも「バラバを!」と狂い叫ぶ群衆の場面が歌われます。ピラトを吹っ飛ばすような迫力です。ヨハネ受難曲では、「その男ではなく、バラバを!」と叫ぶ合唱が終わると、バスのアリオーソが続きます。このような歌詞です。「しかと見据えよ、わが魂よ、見よ、彼を苛(さいな)む この鞭(むち)の上には、汝の罪を浄めるためにヒソプの花が咲き、イエスの飛び散る血潮が汝を清める。片時も目を離さずイエスを仰ぎ見よ!」
「その男ではなくバラバを!」と叫ぶ声は、他でもない、神の民として選ばれた者たちの声です。わたしどももまた、神に選んでいただき、救いの中に入れられている者として、この恐ろしい罪すら浄めてくださった主イエスから片時も目を放してはなりません。目を放すということは、「真理とは何か。」と問うだけで、真理を見ようともせず、主の前から立ち去ったピラトと同じだからです。主はおっしゃいました。37節。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ここに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という、ヨハネ福音書を貫く第3章16節の み言葉が響いてまいります。「神の愛が、あなたを呼んでいる。この『真理』の中に、ピラト、あなたも生きて欲しい。わたしと共に生きて欲しい。」と主イエスが呼んでおられるのです。神が、世を愛するがゆえに お遣わしくださった神の み子を、ピラトが裁いています。群衆が裁いています。神の愛を裁いている。しかし、まさにそこで、主は呼んでいてくださるのです。裁かれながら、わたしどもを愛し抜いてくださる。このまっすぐな「真理」を信じて欲しい、神の愛を信じて欲しいと、どんなに憎まれても、さげすまれても、愛を貫いていてくださる。神の愛が確かにここにある。これこそが「真理」なのだと、手を広げ、招いてくださっているのです。あなたは、神の愛を受け入れるか?わたしをあなたの王として受け入れてくれるか?と問われています。ピラトが問われたように、わたしどもも、問われています。「はい、主よ、信じさせてください!」と、応えることができますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたの愛、み子の赦しを感謝いたします。真理なる 主イエスの招きを感謝し、日々、信仰を告白する者としてください。み子の十字架から片時も目を放すことのないようにしてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか、わたしどもの歩みを聖霊によって導いてください。主よ、遠い地で、東村山教会に連なる神の家族として歩んでこられた兄弟が99年の生涯をまっとうし、あなたの みもとへと帰りました。主よ、悲しみの中にある者の上に、あなたの慰めを溢れるほどに注いでください。礼拝を慕いつつ、体調を崩しているため、大怪我をしたため、痛みを抱えているため、礼拝を休んでいる友がおります。どうか主よ、その場にあってわたしどもと等しい祝福を注いでください。どこにあっても、いつもあなたが共におられることを忘れることがありませんように。今も、世界の至るところで争いが続いています。暴力があり、搾取があります。主よ、わたしどもの世を憐れんでください。辛い思いをしている者、望みを失っている者に、あなたの愛を注いでください。被災地で困難な生活を強いられている者を強め、励ましてください。日々の必要を満たしてください。今週の土曜日、東京バロック・スコラーズの皆さんによるマタイ受難曲の演奏会が行われます。当日、み子の十字架を仰ぎつつ、恵みに溢れた演奏会となりますように。来週の主日は、逝去者記念礼拝をささげます。主よ、出席予定の皆さんが礼拝に招かれ、共に甦りと再臨の み子を賛美することができますように。欠席する皆さんにもあなたの慰めが届きますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年11月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第18章21節~28節、新約 ヨハネによる福音書 第18章12節~27節
説教題:「わたしの罪に勝ち給う主」
讃美歌:546、Ⅱ-78、254、259、545A、427

今朝の み言葉は、ときを同じくして進行していた二つの場面が、同時に描かれています。大祭司の屋敷の中でのようすと、ちょうどそのとき、屋敷の中庭で起きていた出来事が、交互に記されているのです。一度に読むには長い箇所となってしまいました。少しずつ読み進めるべきだったかと後悔する思いも少しあります。しかし、大祭司の屋敷と中庭を舞台として、登場する人物たちが、舞台に登場したり、袖に引っ込んだりするかのように配置されていることにも、ヨハネ福音書のメッセージが込められているように思い、一気に読むことにいたしました。
捕らえられた主イエスが、まず連れて行かれたのは、ユダヤ人の中で当時、最高の権威を持っていたと思われる人物のもとでした。12節。「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。(18:12~13)」大祭司とは、当時のユダヤ人の信仰の世界における指導者であると同時に、政治的な指導者。ユダヤ人の中では最大の権力者です。アンナスは、すでに大祭司の職を退いていましたが、時の大祭司カイアファのしゅうとであったと言いますから、現 大祭司であるカイアファも頭が上がらない陰の大祭司、そのような構図が見えてきます。どんな組織にも、どこの国にも、およそ人間のつくる世には、このような陰の権力者が生まれてくるものなのかと、暗澹(あんたん)たる気持ちになります。
さて、福音書記者は、大祭司カイアファについてこのように記しています。14節。「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。」「好都合」と訳された言葉には、「まとめて支える」という意味があるようです。カイアファに言わせれば、「イエスひとりに反逆の罪を着せてローマ帝国に突き出してしまえば、この急に人気の出てきた、預言者気取りで、我々を批判してはばからない田舎者を抹殺できる上に、支配者ローマとの関係も良好なまま保つことができる。万事ОK。一石二鳥。」そんなところでしょうか。要するに、イエスがいない方が、自分たちの利益になると考えたのです。自分の利益になるならば利用する。都合のよい神ならば信じる。必要なければ捨てる。そういうことです。これが、当時のユダヤ教の指導者の考えだったのです。そして、このカイアファの都合のよい、自分本位な信じ方の記述の後、すぐに描かれているのが、主イエスの弟子のペトロの姿であり、「もう一人の弟子」と呼ばれている人物のようすです。主イエスが捕らえられてしまったとき、一緒に捕らえられずにすんだペトロは、もう一人の弟子と一緒に、後からそっとついて来ていたのです。もう一人の弟子は、大祭司の知り合いだったため、今まで何度も出入りしていたのでしょう。先に屋敷の庭に入って、門番の女中と交渉し、ペトロを門の中に招き入れました。ペトロは、恐る恐る、門の中に入りました。すると、門番の女中が、ペトロの顔をまじまじと見て言いました。17節。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、慌てて打ち消しました。「違う」。 大祭司カイアファのしゅうとアンナス。もう一人の弟子。そして、シモン・ペトロ。彼らの立場は、三者三様です。しかし、こうして並んで描かれているのを繰り返し読んでいると、共通点が隠れているようにも思えてくるのです。大祭司と、もう一人の弟子が、どれほどの関係であったのかはわかりません。けれども、少なくとも、ペトロに比べれば、裁判にかけられそうになっている主イエスの処遇に対し、何らかの働きかけができた立場だったはずです。しかし、彼がしたことは、ペトロを中庭に招き入れた。それだけです。そしてペトロ。主イエスが捕まってしまう前は、「あなたのためなら命を捨てます。(13:37)」と勇ましいことを言っていたのに、主イエスが捕まってしまった途端、怖ろしくなり、「弟子ではない」と証言してしまいました。もちろんペトロも、もう一人の弟子も、彼らなりに主イエスを心配していたに違いありません。けれども、結果だけを見れば、二人ともカイアファの発言に従っているかのようなことになってしまった。すなわち、自分たちが死ぬよりイエスひとりに死んでもらったほうが都合がよいという、カイアファの言葉を、そのままなぞるかのような結果になってしまっているのです。
では、わたしどもはどうでしょう。「わたしは彼らとは違う。」と言えるでしょうか。自分の都合のよいように信じ、都合が悪いと捨ててしまう。そんな生き方をしてはいないでしょうか?自分が信じたい都合のよい神さま像を、勝手につくり上げていないでしょうか。主イエスの十字架を知っていながら、弱さを言い訳にして、愛に生きることを放棄しようとするとき、望みを失いそうになるとき、わたしどもも、大祭司の中庭に立っています。「あなたはどうするか?」と問われています。ヨハネ福音書を記した者が、「もう一人の弟子」と名前を記さなかったのも、「わたしも、そこに立つ一人。わたしどもは毎日、大祭司の屋敷、またその中庭で、『あなたは、どう生きるか?』と問われているのだ。」そのような思いがあったかもしれません。その夜の大祭司の屋敷は、わたしどもが生きている世そのものです。神を神としない罪の世そのものでした。19節。「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。」人間が神さまを裁こうとしています。しかも大祭司、正確に言えば陰の大祭司アンナスの心は、「イエスを処刑する。」と決めてしまっている。形ばかりの尋問。ですから、主イエスは答えておっしゃいました。20節。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。(18:20~21)」主の み言葉が激しく、わたしどもに迫ってまいります。わたしどももまた、主の み言葉を聞いた人々のひとりです。わたしどもも日々、主の み言葉の確かさを証言するために、裁判の証言台に立つことを求められています。
 大祭司の下役たちの中にも、もしかしたら、会堂や神殿の境内で語られる主イエスの言葉を聴いて心うごかされた者が、いたかもしれません。しかし、彼らは大祭司の心の内を忖度することに戦々恐々としていました。下役のうちの一人は、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか(18:22)」と言って、平手で打ちました。ほかの者がどうしたかは書かれていませんが、少なくとも、黙っていたのでしょう。証言する者はいなかったのです。平手打ちされた主イエスは、おっしゃいました。23節。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
その後、大祭司アンナスは、主イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送りました。主が、縛られて連行されて行きます。しかし、主イエスだけが、この裁きの場で、たった一人、自由な方でいらっしゃいました。アンナスは、自分の権力が損なわれることを恐れて、イエスを殺そうとしています。周りの人々は、大祭司の権力を恐れて証言することができない。縛られて、自由を奪われたように見える主イエスだけが、自由に発言しておられるのです。
ヨハネ福音書は、ここで再び、わたしどもの目を、ペトロの姿に向けさせます。もしかしたら、縛られて大祭司カイアファのもとへ送られていく主イエスも、ペトロをご覧になったかもしれません。25節。「シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、『お前もあの男の弟子の一人ではないのか』と言うと、ペトロは打ち消して、『違う』と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。『園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。』ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。(18:25~27)」第13章で読んだ み言葉が思い出されます。主イエスの前で「あなたのためなら命を捨てます。(13:37)」と胸を張るペトロに答えておっしゃった み言葉です。「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。(13:38)」鶏の声を聞いた時、ペトロ自身、ハッと思い出したに違いありません。主イエスは、すべてをご存知だったのです。すべてをご存知の上で縛られ、連行され、十字架に架かり、死なれました。主イエスに ご自身を救う力がなかったからではありません。主イエスは、誰に強いられたのでもなく、自由な ご意志で十字架に架かられたのです。
主イエスを否定してしまったペトロの惨めな姿は、まぎれもなく、わたしどもの姿です。わたしどもは、主イエスが お示しくださった「愛を実践する務め」をさっさと放棄し、主イエスひとりに死んでいただく都合のよい生き方を、この世における日々の暮らしの中で、言い訳をしながら選び、そのような生き方を信仰と呼んではいないでしょうか。神さまを裁き、証言台に立つことを避ける。偽りだらけの裁判。しかし、そこで本当の意味で審かれるのは、わたしども人間です。ところがまさに、その真実の審きの場において、裁判長が自ら、その席を降りてきて、被告席に立っておられる。わたしどもに代わって罰をお受けになるために。何ということでしょう。これが、神さまの愛です。主イエスの愛なのです。第15章で、主イエスはおっしゃいました。「わたしの愛にとどまりなさい。(15:9)」わたしどもは皆、一人残らず、「わたしの愛にとどまりなさい。」と、呼ばれています。わたしどもの罪を全部背負い、十字架に磔にされ、「わたしを見なさい。あなたの罪は死んだ。だから、安心して、わたしの愛にとどまりなさい。」と、呼んでくださっているのです。
わたしどもは今日も、ここを出て、大祭司の屋敷や中庭のような世に遣わされて行きます。それでも、わたしどもはどこにいても、いつでも、主の愛の中に在ります。この喜びを全身で表しながら、主の掟に生きる道を一つ一つ、選び取っていくことができますように。感謝の歌を歌いつつ、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合って、主の恵みを証しする日々でありますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、簡単に み心に背くわたしどもにもかかわらず、み子の命と引き換えに、わたしどもの罪を赦し、日々、愛を注いでくださるあなたの御(おん)憐れみをいただいている者として、真実にあなたを畏れる者としてください。互いに赦し合い、愛し合う者として、主の証言台に立つことができますように。主の恵みを喜んで証しする者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

こどもたちのためのいのり→共に祈りましょう。
天の父なる神さま、世界中の子どもたちを祝福し、あなたの慈しみの内においてください。生きることを脅かされている子どもたちがおります。食べるものがない子どもたちがおります。住む家を奪われた子どもたちがおります。ひとりぼっちの子どもたちがおります。大人たちの顔色を伺い、ビクビクして生きなくてはならない子どもたちがおります。信頼していた大人に裏切られ、ひとを信じることのできない子どもたちがおります。教育を受けることの難しい子どもたちもおります。主よ、どうか、子どもたちひとりひとりの心と体の成長のための必要を満たしてください。あなたに愛されていることを知ることができますように。望みを失うことがありませんように。深い傷を負っている子どもたちの傷を癒してください。うなだれている顔を、再び上げることができますように。あなたを愛する喜びを知ることができますように。自分を真実に愛することができますように。自分を愛するように、隣人を愛することができますように。苦しみ、悩んでいる隣人のために祈ることができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

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2024年11月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 哀歌 第4章20節、新約 ヨハネによる福音書 第18章1節~11節
説教題:「解放を告げる主のことば」
讃美歌:546、7、132、21-81、348、544

 少しずつ読み進めておりますヨハネによる福音書。本日から、第18章に入ります。主イエスに、刻一刻と、死が迫っています。迫り来る死を覚悟して、主イエスがまずなさったことは、弟子たちの汚れた足を洗うことでした。最後の晩餐の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、弟子たちの前にひざまずき、彼らの足を洗い、手ぬぐいでふき始められたのです。その後に語ってくださった み言葉の中で、主イエスは宣言してくださいました。第16章33節。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」主イエスが、弟子たちの足を洗い、ふき始めてくださったとき、十字架の血による救いの み業は、すでに始まっていたのです。主イエスを見捨てて逃げ出してしまった弟子たちは、後になって思い起こしたでしょう。「あのときイエスさまは、裏切り者の わたしの足を洗ってくださった。綺麗にふき取ってくださった。足を洗ってくださったあの水は、十字架で流されたイエスさまの血潮だったのか。」
第17章において、主イエスは、弟子たちのために、長い祈りを祈られました。そして第18章は、「イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。(18:1)」と、始まります。「キドロン」という地名には、「暗い谷」という意味があるようです。わたしが幼少の頃から親しんできた鎌倉には、谷戸(やと)と呼ばれる地形が多く見られます。うっそうとした木々に囲まれた、昼間でも薄暗い谷戸を一人で歩いていると、鎌倉時代にタイムスリップしたような思いになったものです。しかし主イエスは、キドロンの谷を散歩しているのではありません。捕らえられ、大祭司のもとに連行され、最後は、十字架で処刑される。そのために、キドロンの谷を通り、谷の向こうにある園に向かわれたのです。
 詩編 第23篇を愛唱しておられる方は多いと思います。「死の陰の谷を行(ゆ)くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。(23:4)」もしかしたら、暗い谷を通ってゆく主イエスの心を励ましていたのは、この詩編の み言葉であったかもしれません。暗い谷を抜けたところにあった園は、マタイ福音書、マルコ福音書に記されている、「ゲツセマネ」と呼ばれる場所であったと思われます。そこは、2節に、「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。」とありますように、主イエスと弟子たちにとって、エルサレムの都に行くときには必ず立ち寄った祈りの場所であったのです。主イエスと弟子たちにとって、神聖な祈りの場所であった。先ほどの詩編 第23篇は、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。(23:1~3)」と始まります。ゲツセマネは、そのような憩いの園であったのです。そのゲツセマネが、ユダによって裏切られる場所となってしまう。捕らえられてしまう主イエスの姿は、勝利者どころか、敗北者にしか見えません。けれども、そのお姿にこそ、父なる神さまに従い、どこまでも罪人を愛し、赦し続けるまことの勝利者の姿があります。どのような暴力にも、侮辱にも、裏切りにも決して屈しない愛がある。まことに確かな、揺るぎない、決して変わることのない愛です。しかしユダは、そのような一見弱々しく見える愛に、信頼することができませんでした。愛の勝利を、信じることができなかったのです。
3節に、「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明(たいまつ)や ともし火や武器を手にしていた。」とあります。ものものしい装備です。「我々こそが力ある者だ。」と、ことさらに強調するような武装をして、味方を引き連れて、ユダはゲツセマネにやって来ました。祈るためではなく、主イエスを裏切るために。対照的に主イエスは、裏切り者であるユダをも愛し、赦すために、十字架への歩みを進めてゆかれました。十字架の死を成し遂げるために、ゲツセマネに入り、おっての軍勢に向かって進み出てゆかれたのです。
4節。「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた。」おってたちの方から近づいて来たのではないのです。主イエス自ら、進み出られた。そして、「誰を捜しているのか」と お尋ねになりました。ご自身の身(み)を、進んで差し出されたのです。兵士たちは答えました。
「ナザレのイエスを捜している。」すると、主イエスはおっしゃいました。「わたしである」。そのとき、「彼らは後ずさりして、地に倒れた。(18:6)」のです。主イエスが、手を下されたのではありません。主イエスの み言葉が、ローマの軍隊、また、ユダヤ人を代表して来た者たちを、押し倒したのです。ここで、「わたしである」と訳されている言葉は、「エゴ・エイミ」というギリシア語で、「わたしはここに在る」という存在を表す言葉。英語なら「Iam.」 です。ナザレのイエスを捜している、という兵士たちに対して、「それは、わたしだ」と答えた。表面だけ読むと、それだけのことです。けれども、ヨハネ福音書において、この「エゴ・エイミ」は、特別な意味を持ちます。たとえば、同じ表現が第8章21節以下にも見られます。第8章24節の主イエスの言葉に、「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」とあります。また、同じく28節には「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」とあります。これらの箇所で「わたしはある」と訳されている み言葉が、「エゴ・エイミ」です。すなわち、「エゴ・エイミ」は、主イエスが ご自身を、まことの人となられた、まことの神であることを宣言なさる言葉として、用いられているのです。本物の神が、今、ここに、いる。目の前におられる。罪の世に生きる人間が、神の前にまともに立っていることはできません。だから押し倒されてしまった。ヨハネ福音書はここで、主イエスの神としての お姿を、明らかにしているのです。何が何だかわからぬうちに地面に倒されてしまい、慌てている人々に主イエスは重ねてたずねられました。「だれを捜しているのか」。同じ答えが繰り返されます。「ナザレのイエスだ」。8節。「すると、イエスは言われた。『「わたしである」と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。』」「この人々」と言われた者の中にはペトロがいます。他の弟子たちもいます。ペトロはついさっきまで、「たとえ、死ぬことになったって、イエスさまについてまいります!」と勇ましいことを言っていました。実際、もしも主イエスがここで守ってくださらなければ、ペトロたちも捕まって主イエスと一緒に十字架に架けられて死んでいたかもしれません。ペトロはこの後、「あなたも、イエスの仲間ではないか?」と問われたとき、「そんな男は知らない!」と三度も否んでしまいます。恐ろしさのあまり、主イエスを捨てたのです。主イエスは、ペトロのそういう弱さもすべてご存知の上で、「この者たちに手を出すな!」とおっしゃいました。死んではいけないと、体をはって守ってくださったのです。
わたしどもも弱い。弱さのゆえに、信仰に生きることができず、愛に生きることができず、希望に生きることができない。「弱さ」という言葉は都合のよい言葉かもしれません。「弱さ」を言い訳にして主の掟に生きられないのであれば、弱さは即ち、罪であることを、わたしどもはきちんと自覚していなければなりません。けれども、まさにそこでこそ、主イエスは言ってくださるのです。「この人々は去らせなさい。」「わたしがあなたがたに代わって裁きを受けるから、あなたがたは、ここにいる必要はない」と言われる。「あなたがたは、死んではならない。神の赦しの中で生きなさい。」と言ってくださる。わたしどもを、罪から解き放ってくださるのです。わたしどもは、一人残らず、この救いの中に、入れていただいているのです。
しかしペトロは、持っていた剣(つるぎ)を抜き、打ってかかりました。勇ましいようにも思えますが、実際のところは、恐怖のあまり闇雲に振り回したのではないかと思います。そして、たまたま大祭司の手下であるマルコスの右の耳をスパンと切り落としてしまいました。話しは少しそれますが、わざわざ「マルコス」と名前が残っていることを不思議に思います。もしかしたら、マルコスは後にキリストを信じるようになったのかもしれません。この場で主イエスの神の力に押し倒された。そのことを後の教会の中で無残な傷痕を誇らしげに示しながら、証した人であったかもしれない。そんな空想も許されるのではないかと思います。さて、耳を切り落とされてしまったマルコスもびっくりしたでしょうが、もっとびっくりしたのはペトロだったかもしれません。振り回した剣が、たまたま近くにいた相手の耳を切り落としてしまった。それほどペトロは脅えていたのです。主イエスの お言葉に信頼し、主イエスの「エゴ・エイミ、わたしである」との宣言を心に刻んでいたら、剣に頼る必要などなかったはずです。ペトロの姿は、わたしどもの「罪」と重なります。主イエスの お言葉に信頼するのではなく、目に見えるものに頼ってしまう。主の愛ではなく、力に頼み、互いに傷つけ合う。主イエスは、そのようなわたしどもの世にも、告げくださっているのではないでしょうか。11節。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
主イエスは、父なる神さまから与えられる苦い杯を受け入れ、飲み干すことを覚悟しておられます。主イエスが、飲もうとしておられる杯とは、十字架の死です。本来ならペトロだけでなく、すべての人間が受けるべき裁きを、神そのものであられる主イエスご自身が受けようとなさっています。罪のまったくない、真っ白な方が、真っ黒によごれたわたしどもに代わって、罰を受けようとなさっているのです。そして、わたしどもに、「十字架の死」という苦い杯に代えて、罪の赦しと永遠の命という、この上なく甘く、幸いな杯に与らせてくださるのです。
今、わたしどもの前には、主の食卓が備えられています。わたしどもは、今日も杯に与ることが許されています。主イエスが、「この人々は去らせなさい。」と、解放してくださったからです。それは、立派な行いへのご褒美ではありません。あまりにも弱く、愛を貫くことのできないわたしども。目の前の敵に脅えて、闇雲に剣を振り回してしまうわたしども。そのようなわたしどもにもかかわらず、いや、そのようなわたしどもだからこそ、主イエスは自ら進み出て、捕えられ、わたしどもが十字架で殺されないよう、罪に定められることのないよう、父なる神さまが お与えになった十字架の死という杯を飲んでくださったのです。そこまでして罪を赦され、生かされているわたしどもが成すべきことは、剣を抜いて、敵の耳を切り落とすことではありません。敵としか思えない相手にも、剣を捨て、愛を持って接することです。それでもどうしても愛を持って接することができなければ、神さまに祈る。「神さま、わたしはどうしてもあの人を愛せません。赦せません。でも、あなたがわたしを赦してくださるために、み子を世にお遣わしになられたように、あの人のためにも、み子を世にお遣わしになられたと信じる心をお与えください。どうか、あの人と和解できますように。」と祈ることはできるはずです。今から共に与る聖餐の祝いに、まだ信仰を告白していない者、洗礼を受けていない者も、主イエスの愛、赦し、主イエスの「わたしである」との み言葉を信じ、いつの日か一緒に与ることができますよう祈ります。今日も主イエスは、わたしどもの前に立ち、「エゴ・エイミ、わたしはある。わたしは、いつも、あなたと共にいる。」と語り続けてくださるのですから。 

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたは み子に十字架の死を強いてくださり、わたしどもの罪を赦してくださいましたから感謝いたします。み子が言われた「エゴ・エイミ、わたしはある」を信じ、主イエスの愛に真実に生きる者としてください。主イエス・キリストの お名前によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか、わたしどもの歩みを聖霊によって導いてください。主よ、教会での礼拝を慕いつつ、様々な理由で礼拝から遠ざかっている兄弟姉妹をお支えください。特に、体調を崩している者、病と闘っている者を強め、励ましてください。主よ、剣を抜き、大祭司の手下に打ってかかったペトロのように、力に頼み、世界の至るところで敵に攻撃を仕掛ける者がおります。その結果、厳しい生活を強いられている者がおります。主よ、どうか、傷ついている人々を強め、励ましてください。争いが止みますように。わたしどもの世が、平和を実現することができますように。知恵を与えてください。主よ、全国、全世界の被災地で困難な生活を強いられている者の必要を満たしてください。あなたの愛で、悲しむ人々を包んでください。来週の主日は家族礼拝をささげます。礼拝後はミニ・バザーを計画しております。良い交わり、良い伝道のときとなりますように。求道生活を続けている者がおります。み子が「わたしである」と語ってくださった み声を聞き漏らすことのないよう導いてください。そして、いつの日か、信仰を告白し、洗礼を受け、共に聖餐の祝いに与ることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年10月20日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第11章1節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第17章20節~26節
説教題:「すべての人が一つとなるために」
讃美歌:546、16、191、Ⅱ-59、542

主イエスは、捕らえられ、十字架につけられる前の晩、残される弟子たちのために、祈ってくださいました。その長い祈りの言葉を少しずつ読み進めています。今日は、その最後の部分、20節から26節を ご一緒に読んでまいりましょう。20節。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」「彼ら」とは、主イエスが祈っておられるこの場に一緒にいた、主イエスの弟子たちのことです。このときはまだ頼りない弟子たちでしたが、いずれ使徒として、主の み言葉を宣べ伝える者となっていきます。そして、彼らが語る説教を通して、主イエスを救い主と信じるキリスト者の群れが生まれたのです。そのキリスト者の群れの伝道によって、さらにキリスト者が生まれ、世界中の至るところに教会が生まれていきました。主イエスは、目の前の弟子たちだけでなく、その後の宣教の業によって生まれるキリスト者たち、つまり、わたしどものためにも、祈ってくださったのです。
21節。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしを お遣わしになったことを、信じるようになります。」主イエスは、祈ってくださいました。「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」「わたしたち」とは、主イエスと父なる神さまのことです。主イエスと父なる神さまの間に、お互いがお互いの内にいると言える交わりがある。その交わりの内に、弟子たちも、また、弟子たちの言葉によってキリストを信じた人も、さらにそれらの人々の言葉によって、世界中に生まれていく、数え切れないほど多くのキリスト者たちも、みんな、いるようにしてください、と主は祈ってくださいました。神さまと主イエスが、一つとなっている、深い交わりの内に、すべての人も入れられる。それによって、すべての人が一つとされるのです。気をつけて読まなくてはならないのは、「すべての人を一つにしてください」との祈りは、キャッチフレーズに使われるような、単に、「思いを一つに」ということではないということです。そうではなくて、神さまと主イエスが一つに繋がっておられる。互いの中に はいり込むようにして一つになっておられる。そのような深い交わりの中に、わたしどももいれられること、神さまと主イエスが一つになって抱いておられる愛の中に、すべての人が一つになって生きることを、主イエスは祈っておられるのです。神さまが主イエスの内におられ、主イエスが神さまの内におられる。そのように、完全に一つとなっている神さまと主イエスの愛の関係の中に、主イエスが、ご自分の命を賭けて、わたしどもをいれてくださったのです。
主イエスは、念を押すように、同じことを繰り返しておられます。22節。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。(17:22~23)」父なる神さまと、み子 主イエスが一つであるように、わたしどもも主イエスの内にいて完全に一つとなっている。そのようにして、主イエスに結ばれて、主イエスを信じる者には、すでに神さまの栄光が与えられていると、主イエスはおっしゃっています。ですから、わたしどもが語る言葉や、わたしどもの中にあるものを世の人々が見れば、そこには神さまの栄光を見ることができると、おっしゃっているのです。教会の交わりを見れば、父なる神さまと、み子 主イエスと、わたしどもが密接に、複雑に、一つとなっていることを知ることができる。主イエスの救いを信じることができる。神を信じて生きることがどんなに素晴らしいことかがわかる。わたしどもキリスト者は、そのような者とされているのです。まだ神さまを知らない人々、信仰を持っていない人々も、わたしどもの営みを見ていると分かる。「ああ、イエス・キリストは、神から遣わされた方だ。」「あの人々は、神に愛されている人たちだ。」と分かる。その結果、「わたしも仲間にはいりたい。」と思う。神さまの愛を信じたくなる。そのようにして、主イエスが与えてくださる栄光が、わたしどもの姿の中に見えるのです。 これは、主イエスが、ご自身の命を賭けて、わたしどものために祈ってくださった祈りの言葉です。主イエスが祈ってくださった言葉ですから、真理の言葉です。真理によって聖なる者とされたわたしどもには、これほどの大いなる使命と賜物が与えられているのです。すべての人が、神と、主イエスとの密接な愛に結ばれて一つとなるために。 もしも、わたしどもに近しい人たちや、初めて教会においでになった方が、わたしどもを見て、少しもそう感じられないとしたら、わたしどもは、主の十字架の元に悔い改めなくてはなりません。というより、そのように生きようとして、先週も精一杯、愛の闘いを派遣された場所で闘って、闘いに疲れて、すっかりみすぼらしくなってしまった愛を抱えて教会に帰って来るのが、わたしどもです。教会で、礼拝において、主イエスに癒していただくため、日曜日ごとに教会に帰ってくるのです。月に一度の聖餐式では、マタイによる福音書 第11章の主イエスの み言葉が読まれます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(11:28)」日曜日ごとに教会へ来れば、主イエスが、闘いに破れてボロボロになったわたしどもの愛に触れて、癒してくださる。再び、主イエスの栄光を現す器としてくださる。そしてまた、派遣してくださるのです。
世の現実は、厳しいものです。ガザ地区において、神の民であるはずのユダヤ人が、あろうことか神の名によって殺戮を繰り返している惨状には、もはや一つになることなどあり得ないのではないかと絶望しそうになります。けれども同時に、そんなに遠くを見なくても、わたしどもは常に罪と隣り合わせです。実際に人を殺すことはなくとも、どうしても誰かの一言を赦せない。どうしても好きになれない人がいて、できれば顔も見たくない、そのような心は神のみ心に背くことだと分かっていても、心がざわざわするのを ざわざわを抑えられない、わかり合うことができない。愛することができない。何とかして理解しようと努力するより、交わらないように避ける方が楽なのです。あの人は駄目な人だとレッテルを貼り、付き合わない方が面倒がない。それでも主イエスは、弟子たち、また弟子たちに続くわたしどもが疲れ果ててしまわないよう、み言葉を備えてくださいました。祈りつつ聖書を開けば、日曜日には礼拝に帰ってくれば、わたしどもが主に結ばれて一つになることができるために、主イエスが、どれほどの篤い祈りをもって、命を捨ててくださったかが迫ってまいります。わたしどもを呼んでくださる み声が、聞こえてくるのです。
25節以下。「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」主イエスは、神さまと主イエスが一つであるように、弟子たち、さらにそれに続く者が一つとなるように祈っておられます。祈りの中で、「すべての人」と呼ばれたのは、何よりも、弟子たちが語る説教によって、主イエスを「わたしの救い主」と信仰を告白した すべてのキリスト者を指すと言えます。教会が主イエスにあって、一つとなることが語られている。同時に、教会が一つとなるとき、何が起こるか?21節後半。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」教会が、主イエスにあって一つになるとき、そこには神の栄光が輝き、教会の外にいる人々が、主イエスによる救いを信じるようになる、というのです。教会という枠を突き抜け、全人類が、神と、主イエスと、一つとなる交わりの中に はいる日のために、わたしどもは主に結び合わされて、世に遣わされています。
さらに24節に、「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」とあります。「共におらせてください。」と訳されている言葉は、「共におらせることにいたします。わたしはそれを志します。」とも訳すことのできる言葉です。主イエスが、十字架の死を覚悟しながら、「すべての人を一つに結ぶ」決意を、表明しておられる。主イエスの命を賭けて、宣言しておられるのです。ですから、わたしどもも、主イエスの祈りに「アーメン」と祈るとき、苦手なあの人、この人とも、共に祈ることができるのです。わたしどもは、主イエスの祈りによって、すでに一つにされています。主イエスが、父なる神さまと一つであるように、わたしどもと一つになってくださいました。だから、「主よ、教会の内も外も一つとなりますように。」と祈ることができる。わたしどもが地上の命を終える日まで、望みを抱いて祈ることができる。それだけでなく、第3章16節にあるように、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る(3:16)」ことができるのです。主イエスは、わたしどもがバラバラになり、殺し合い、滅んでしまわないため、祈ってくださいます。これまでも、今日も、これからも永遠に祈ってくださるのです。主イエスの愛によって、永遠の命を得たわたしどもは、今日も、教会から世へと派遣されます。神さまの栄光を現すために。神さまの光を世に示すために。主イエスの愛を伝えるために。主の祈りに支えられ、主と共に、愛の闘いの一歩を歩み出すのです。

<祈祷>
天の父なる御神、あなたと主イエスの中に、わたしどもも加えてくださり感謝いたします。主よ、わたしどもの世は、なかなか一つになることができません。それでも、み子の祈りを通して、すべての者が完全に一つになることができると励ましてくださいました。主よ、世の人々があなたの愛を信じ、共に愛されている者として、完全に一つとなることができますように。わたしどもの日々の歩みを通して、一人でも多くの者を教会へと招いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか、わたしどもの歩みを聖霊によって導いてください。主よ、殺し合う世を憐れんでください。み子が「すべての人を一つにしてください。」と祈ってくださった祈りを、わたしどもも祈り、いつの日か、対立する者があなたの愛によって和解し、憎しみ合う者があなたの赦しによって赦し合い、完全に一つになることができますよう祈ります。戦争の長期化により、日々の生活に困窮しているたくさんの者に、日々の糧が届きますように。能登半島、全国、全世界の被災地で苦しんでいる者を強め、励ましてください。その地で伝道している教会の歩みをお支えください。今朝も、望みつつ、礼拝に来ることのできなかった兄弟姉妹の上に、わたしどもと等しい祝福を注いでください。来週は秋の特別伝道礼拝となります。祈りつつ準備しておられる芳賀 力先生の心身の健康をお守りください。求道生活を続けている者に聖霊を注いでください。あなたの愛と招きを信じることができますように。信仰告白、洗礼へと導いてください。東京神学大学をはじめ、神学校の働きを祝してください。学んでいる神学生、働いている教職員を支え、導いてください。東村山教会で奉仕している三人の神学生の歩みをお支えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【動画配信YouTube】
2024年10月13日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第30章15節~26節、新約 ヨハネによる福音書 第17章6節~19節
説教題:「神の言葉によって生きる」
讃美歌:546、80、Ⅱ-80、501、541、Ⅱ-167

 伝道の秋を迎えました。クリスマスに向けて、特別な礼拝、行事を計画しております。そのすべてが、伝道のためにあります。10月27日には、秋の特別伝道礼拝をささげます。まだ、福音を知らないひとに、神さまの言葉を届ける大切な機会となります。今日の午後、伝道委員会の皆さんが、祈りつつ印刷してくださったチラシを近隣のマンションに配布してくださいます。皆さんも、チラシを有効に用いて、大切な家族や友人が み言葉に触れることができるよう祈りつつ、お誘いください。また11月10日は、バザーを行います。11月23日は、東京バロック・スコラーズの皆さんによるマタイ受難曲の演奏会を行います。バザー、演奏会を通して、多くの方に教会にいらしていただき、わたしどもの交わりに触れていただきたいと願っています。新しく教会に来られた方を迎えるのは、わたしども共通の喜びです。では、初めて教会に来られた方々は、わたしどもキリスト者の交わりに触れて、どんなふうに お感じになるでしょう。
主イエスは、神さまに祈られました。17節。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」「真理によって」とあります。主イエスが、十字架の死を目前に見据えながら、わたしどもが神さまの み言葉によって聖なる者となるよう、祈ってくださったのです。この事実を心に刻みたいと思います。主イエスの祈りは、確実に実現する祈りです。少し前に読みました主イエスの み言葉を思い起したいと思います。第14章16節以下です。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」
わたしどもは、主イエスの祈りに支えられ、聖霊に導かれて、真理である神の み言葉を受け入れるとき、「主イエスをわたしの救い主と信じます!」と信仰を告白することができます。そして、洗礼を授けていただきます。真理である み言葉が、わたしどもの中に入って、住んでくださり、わたしどもを聖なる者としてくださるのです。今朝の礼拝でも、使徒信条を告白しました。毎週のように告白しておりますと、告白している言葉の意味の一つ一つを心に刻み、信じ、告白していますか?と問われると、心もとない気持ちになるかもしれません。それでも、わたしどもは主イエスの祈りに支えられながら、告白するのです。「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、とこしえの命を信じます。」「聖なる公同の教会」。「聖徒の交わり」。どちらも聖書の「聖」という字が使われています。「教会は聖なるもの。教会は聖なる信徒たちの交わり」であると信じます、と告白しているのです。考えてみていただきたい。聖なる者であるわたしどもが自宅に帰る。家族が待っている。そこでもしも、「わたしは、聖なる者である」と告げたなら、家族はどんな反応をするでしょうか?あるいは、鏡に向かって、「わたしは聖なる者である」と言えるか?思わず、下を向いてしまうかもしれません。「わたしは、聖なる者と言えません。」と呟いてしまうかもしれない。また、教会は長い歴史の中で、たくさんの罪を犯してまいりました。「教会は世俗的であり、汚れに満ちている!」と言われれば一言もないのです。けれども、だからこそ告白するのです。「わたしどもは、主イエスの み言葉を信じる。真理の霊を信じる。聖徒の交わりを信じる。主イエスの祈りが支えてくださるから、わたしどもは聖い。聖さに生きることができる。神さまの子どもとして、主イエスの友として生きることができるのだ」と。実際のところ、わたしどもの中をいくら探したところで、神さまの子どもとなる資格などありません。神さまと同じ聖さに生きる要素など一つもない。それでも、いや、だからこそ、主イエスは、弟子たちの前にひざまずいて、裏切り者となってしまうイスカリオテのユダの足さえも、洗ってくださいました。それだけではなく、十字架の上で命を捨ててくださいました。わたしどもを聖なる者としてくださるために!主は、ご自身の祈りを現実のものとするために、わたしどもの身代わりとして、死んでくださったのです。それなのにわたしどもが、「わたしなど、とても聖なる者とは言えません。聖なる者だなんてとんでもない!」と呟くのだとしたら。それは、主イエスの死を無視し、無意味にしてしまうという怖ろしい罪です。教会は、神によって罪を聖めていただき、聖なる者にしていただいた者の群れです。だから週ごとに、礼拝において罪を悔い改め、罪の赦しを感謝し、恵みへの応答として主を賛美し、使徒信条を告白し、み言葉を心に刻み、祈るのです。
わたしどもを聖くするしるしは、洗礼です。洗礼によって、罪の自分が死にます。そして、聖なる者として新しい命をいただきます。洗礼によって、主イエスの十字架の死と復活を、この身に受けるのです。例外なしにそうなるのです。それは、世に属する者ではなくなることです。天に属する者となる。天から世に来られた主イエスは世から憎まれました。ですから洗礼を受ければ、わたしどもも世に憎まれる者にさえなるということです。ところが、天に属する者としていただいたとは言え、わたしどもは変わらず、世に生きなければなりません。ですからそこには当然、闘いがあります。闘いと言っても、誰かと戦うのではありません。学生であっても、社会人であっても、家庭の中にあっても、主がくださった掟に従って生きるために、世に染まってしまいそうになる自分と、闘うのです。罪に傾き、世に染まりそうになる自分を捨てる闘いです。主イエスがくださった掟とは、これまで繰り返し読んでまいりましたように、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。(15:12)」というものです。この聖なる闘いは、簡単なことではありません。ですから主イエスは、わたしどもがこの闘いに負けてしまわないように祈ってくださいました。わたしどもが神の聖なる者として、主が愛してくださったように互いに愛し合うことができるために、世の憎しみに対して愛を貫くことができるように、祈ってくださったのです。
14節。「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(17:14~15)」主イエスの祈りを、わたしどもの武具にしたいと思います。主イエスは、わたしどもをこの世から取り去られることは祈っておられません。この世と断絶し、交わりを放棄し、キリスト者の楽園に隔離することも、望んではおられません。もしも、そんなことになれば、すでに洗礼を受けた人が地上の命を終えたら、キリスト者は滅んでしまうでしょう。世の中にあって闘いながら生きるわたしどもが、世の悪に支配されてしまわないように、世の憎しみに耐えることができるように、祈っていてくださるのです
わたしどもの愛は、まことに貧しいものです。すぐに闘いに破れ、綻び(ほころび)だらけになってしまいます。そのようなボロボロの愛を抱えながらも、主イエスの祈りによってどうにかこうにか、ここまで生かされています。「もう駄目だ!」ということを何度も経験しているのがわたしども。それでも、不思議とここまで守られ、生かされているのはなぜだろう?と思うのです。それは、弱いわたしども、「聖なる者とは言えません。」と言い訳をしてしまうわたしどもを神さまが自由に愛し、世から選び出してくださったからです。6節に、「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」とあります。驚くべき祈りです。わたしどもは皆、神さまに選ばれた者であり、神さまが主イエスに託してくださった者です。たとえ、愛の闘いに敗れ、憎しみの濁流に流されてしまう日があったとしても、わたしどもは「神の選び」の民です。神さまがあらかじめ、わたしどもの救いを定めてくださっているということです。
神さまが、わたしどもを聖なる者とするために自由に選んでくださった。わたしどもがお願いしたわけではありません。ましてや、わたしどもが聖なる者となるのに相応しかったからでもありません。主イエスが自由にわたしどもの足の汚れを洗い、拭い、聖めてくださり、「あなたがたは聖い」と、宣言してくださったのです。主は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(15:16)」と声をかけてくださいました。そして、主イエスは、この選びを、すでに選ばれたあなたがただけの喜びにしておいてはならないと、わたしどもの隣人のもとへ、わたしどもを遣わしておられます。すべての者を神さまの愛、主イエスの赦し、聖霊の働きによって、一つとしたいと願っておられるのです。そのためにわたしどもを遣わし、祈りによって支えていてくださいます。神さまは、聖なる者とされたわたしどもを、世から隔離するのではなく、世に遣わしてくださいました。「世」の中にあって天に属する者として立ち、愛を貫くために。神の言葉を宣べ伝えるために。キリスト者の喜びを証しするために。
対立はどこにでもあります。教会の中であっても、例外ではありません。それらの対立を、もしもわたしどもが諦めているのなら、主イエスの祈りを諦めているのと同じこと。それは、罪です。聖なる者としていただいたわたしどもは、教会の内であれ外であれ、どこでも遣わされている場所において、罪と戦い続けるのです。「どうせ、わたしは・・・・」という呟きをやめ、「わたしは、主イエスによって聖なる者としていただいた。」と顔を上げ、主イエスを仰ぎ続けたい。そして、たとえ意見が対立している者どうしであっても、愛をもって、共に平和を築いていきたい。
 世の悪に負けてしまうときも、自分が聖なる者と思えないときでも、主イエスの祈り、神さまの み言葉が支えていてくださいます。そのことを、思い起こしたいのです。わたしどもは、一人で闘っているのではありません。神の言葉が、真理が、わたしどもの内にあって、力づけてくださいます。主イエスが、今日もわたしどものために執り成しの祈りを祈ってくださっています。試練の中にあっても、主イエスの祈りに支えられ、わたしどもは今までも、今も、これからも、永遠に守られるのです。

<祈祷>
天の父なる御神、み言葉をいつも聞かせてください。聖霊を注ぎ、塞いだ心を開いてください。み心のままに、わたしどもを選び、聖なる者としてくださったことを感謝いたします。この喜びを、世の人々に宣べ伝えることができますように。まだ、あなたを知らない者が、教会に招かれ、あなたと出会い、聖なる者とされますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか、わたしどもの歩みを聖霊によって導いてください。主よ、あなたのみ言葉を知らないために絶望している者、悲しみを抱えている者に心を寄せて祈ります。孤独の中にある一人一人が、あなたの招きに気づき、み言葉と出会い、慰めと励ましを得ることができますよう導いてください。世界の至るところで争いが続いております。互いに愛し合うどころか、互いに奪い合い、むさぼり合い、殺し合う世を、主よ、どうか憐れんでください。争いにより家族を失った者、住む家を破壊された者、食べるものに困窮している一人一人に み顔を向けて、あなたの愛で包んでください。国々を導く立場にある者たちに、敵を倒す心ではなく、敵と和解する心を与えてください。能登半島をはじめとする、これまでの様々な災害により、今も困難な生活を続けている各被災地を顧みてください。必要が満たされますように。望みを持って立ち上がり、歩み出すことができますよう、支え、導いてください。その地に、あなたがお立てくださっている教会の歩みをお守りください。今朝も、礼拝に来ることのできなかった仲間たちの上に、わたしどもと等しい祝福を注いでください。求道生活を続けている者に聖霊を注いでください。あなたの招きを信じ、洗礼の恵みを求める信仰をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年10月6日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 哀歌 第3章22節~33節、新約 ヨハネによる福音書 第17章1節~8節
説教題:「永遠の命」
讃美歌:546、10、284、Ⅱ-1、334、540
 
 冒頭から、わたくしごとになりますが、今日、10月6日は、今から39年前、高校3年の秋にわたしが洗礼を受けた日です。大学受験に不安を抱えていたわたしは、高校の掲示板に、青山学院大学経済学部キリスト者推薦制度の概要を見つけました。その中に、洗礼を受けていることが条件とありましたので、願書の提出に間に合うよう、当時の母教会の牧師 加藤常昭先生にお願いし、10月6日の主日礼拝で洗礼を授けて頂きました。幼少の頃から教会に通っていたとはいえ、何とも格好のつかないスタートを切ったわたしが、今、み言葉を取り次がせて頂いている不思議と幸いを、主に感謝するばかりです。そのようなわたしでしたが、洗礼を受けて、初めて聖餐に与ったとき、自分でも驚いたことに、涙が溢れてきました。両親や先生の期待を裏切るような自分の弱さに落ち込む日々に、主が み顔を向けてくださっていたことが、聖餐の祝いに与った瞬間、わかったのです。理屈ではなく、全身に、主イエスの愛と赦しが染み渡るのを感じました。また、幼少の頃から「死んだらどうなるの?」と死におびえていたわたしが、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネによる福音書11:25)」と主イエスがおっしゃってくださるのなら、主イエスを信じ、主に従っていれば大丈夫!と思えるようになりました。そして、人生、何があっても、主イエスがわたしと共におられ、必ず、支えてくださると信じることができたとき、知らず知らず、涙が溢れていたのです。
さて、主イエスは、愛する弟子たちへの「遺言」とも言える説教を語り終えられたのち、天を仰ぎ、父なる神さまに向かって、祈り始められました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」主イエスはここで、第18章以下に記されている、ご自身の死を、指し示しておられます。「時が来た」という言葉は、既に第12章でも語られていました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(12:23~24)」第17章の祈りを読み終えますと、わたしどもはいよいよ、主イエスの十字架の死と向き合わねばなりません。人間が、神の子を殺す。神の愛を殺す。わたしども人間の目で見れば、絶望的な人間の罪が、まるで、神の愛に勝利したかのように見える。しかし実は、そこにこそ神の愛の勝利があり、神の栄光が現れる時なのだと主はおっしゃるのです。
先ほど、旧約聖書 哀歌を読みました。哀歌は、バビロニアによるエルサレム滅亡の後、イスラエルの民が、バビロンに捕囚となって苦しむさまを描いています。また戦争によってすべてを失い、荒廃した町で、人々がいかに悲しみ、苦悩の淵に沈むかを詩のかたちにしたものです。全体として もの悲しく、絶望的な空気に包まれていますが、それにもかかわらず、神に希望を託す一途な信仰はわたしどもの心に深く響きます。中でも、第3章22節以下は、最も愛されてきた み言葉ではないでしょうか。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若いときに軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら/黙(もく)して、独り座っているがよい。塵(ちり)に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬(ほお)を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。(3:22~31)」
この歌は、言うまでもなく、明るい光の中で、幸せいっぱいの人が歌っているのではありません。重荷を負わされて、「わたしは独りぼっち。」と思うような時、ひたすら頬を打ち叩かれるような辱めに耐えながら、なお、望みを持って歌うのです。「主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。」なぜ、このように歌うことができるのか?なぜ失望せず、希望を抱くことができるのか?それは、この哀歌の背後にも、主イエスがおられるからです。
主イエスは、今朝の み言葉 ヨハネ福音書 第17章5節で、「父よ、今、御前(みまえ)でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」と祈っておられます。世が造られる前から、主イエスは神と共にあり、神の言(ことば)でいらっしゃいました。哀歌を含む、旧約聖書の み言葉の背後には、主イエスの恵みが、既にあるのです。そのような主イエスの栄光が、ついに、鮮やかに現れる「時」が来たのです。どこにおいてか?一粒の麦として地に落ちて死ぬところにおいて。この世の罪の力が、主イエスの力を飲み込んでしまって、完全に勝利したと思われるようなところに。主イエスは抵抗することなく、十字架の死を選んで、命を捨ててくださいました。主はまさにそこで、その十字架の上で、わたしどもへの愛のゆえに、死によって、世の罪に勝利してくださったのです。神を殺すという絶望的な罪に対して、神さまは人間を滅ぼしてしまうことがお出来になったはずです。主イエスも、「もうたくさんだ」と、愛することを放棄して、人間を見捨ててしまうことがお出来になったはずです。しかし、それでも神さまはわたしどもを愛して、どこまでも愛し抜いて、愛を貫いてくださいました。主イエスはその お命を、わたしどものために捨ててくださいました。神さまの愛が、人の罪に、勝ってくださったのです。
主イエスは、十字架の死を迎える前夜の祈りの中で、父なる神さまに祈っておられます。「あなたは子にすべての人を支配する権能を お与えになりました。(17:2)」「すべての人を支配する権能」とは、どのような資格であり、能力なのでしょうか?主イエスの祈りは続きます。2節後半。「子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」主イエスに与えられた権能とは、わたしどもすべての者に、永遠の命を与える権能なのです。主イエスは続けて祈られます。3節。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたの お遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」永遠の命。それは父なる神さまを知ること!そして、神の み子、主イエス・キリストを知ること!主はそのようにおっしゃいました。わたしどもは「知る」というと、わたしども自身が、何か本を読んだり、机に向かって勉強して知識を身につけることと考えます。もちろん、そういう側面もあります。しかし主イエスはここで、「永遠の命を与える権能」とおっしゃっています。わたしども自身が、神から命をいただいて生きていることを知り、主イエスによって救われた者であることを知る。それは、主イエスが与えてくださるから、得られる恵みです。父なる神さまが、わたしどもを罪の世から自由に選び出してくださって、与えてくださって、はじめて、受け取ることのできる知恵なのです。
6節以下の祈りを読みましょう。6節。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名(みな)を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御(み)言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしが みもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを お遣わしになったことを信じたからです。(17:6~8)」父なる神さまが、わたしどもを罪の世から選び出してくださいました。わたしどもが素直であったり、正直であったり、真面目であったり、熱心であったからではありません。神さまの選びはまことに自由です。幼少の頃から教会に行っていながら、洗礼を受ける決心をするために たいして悩んだわけでも、努力していたわけでもなく、日々、流されるように生きていたわたしにさえ、永遠の命をくださいました。冒頭で お話したわたしの涙は、まさに主が、ご自身の権能を行使なさった瞬間であったのだと思います。そのとき、神さまの愛を知り、主イエスの救いを知った。永遠の命の恵みの中に自分が入れられていることを知ったのです。
主イエスが、神さまに祈っておられます。弟子たちはその祈りを、どのような思いで聞いていたことでしょう?何という幸いな経験であったことかと、うらやましい思いもいたします。けれども今、わたしどもも、心を静かにして み言葉に触れるとき、主イエスの祈りが弟子たちだけのためのものではなく、この場にいた弟子たちと共に、今を生かされているわたしどものための祈りでもあることを、知ることができます。「そのことに気づいて欲しい!わたしを心から信頼して欲しい!」と、主が呼んでおられます。
今、ここには、まだ洗礼には至っていない方がおられるかもしれませんが、主イエスは、その一人一人のことも心に留めてくださりながら、神さまに祈っていてくださいます。今、この場に呼ばれて共に み言葉を聞いている。そのことがすでに、神の選びの中に入れられている証ではないでしょうか?主が、永遠の命を与えようと、わたしども一人一人の名前を呼び、ここへ招いてくださっています。「わたしの与える永遠の命を受け取って欲しい!」とおっしゃっています。主イエスが、祈っていてくださいます。わたしどものために、十字架の死を覚悟して、祈っていてくださいます。今日から読み始めました第17章の主イエスの祈りの言葉を、大切に聞き取ってまいりたいと願っています。
今から聖餐の祝いに与ります。聖餐は、洗礼を受けていなければ、与ることはできません。聖餐は、主イエスが十字架で流された血と、引き裂かれた からだを表すものだからです。それでも、この食卓には、すべての人が招かれています。「矛盾している」と思われる方もあるかもしれませんが、洗礼を受けることで、わたしどもは、真実に、わたしのために血を流し、肉を裂かれてくださったキリストを、「どうぞお入りください。わたしの主となってください。」と、自分の中に迎え入れるのです。同時に、そのことによって、わたしどもの帰るべき場所は、わたしどもすべての者の命のつくり主、父なる神の みもとであることを知る。父なる神と子なる神を、まことに、知るのです。わたしどもは、キリストと結ばれて、永遠の命の中で生きるようにと、神さまに選んでいただきました。能力があるからではありません。信仰心が篤いからでもありません。弱く、欠けの多い者だからこそ、神さまが憐れみの眼差しを注いでくださり、「あなたのために、キリストを送る。だから、何も恐れず、心配せず、ただわたしの愛と赦しを信じ、わたしの愛の中にとどまりなさい。」と、招かれているのです。父なる神さま、み子キリストの愛を、毎週の礼拝を通して、より深く知り続けたいと願います。そして、愛によって、すでに世に勝利してくださっているキリストと共に、罪の世の中に立って、諦めずに、愛を貫く闘いを続けたい。主イエスの祈りに支えられながら、祈り続けたい。み国が来ますように。み心がなりますように。

<祈祷>
 天の父なる御神、わたしどもを世から選び取り、永遠の命を与えてくださった幸いを、深く感謝いたします。永遠の命には、み子の祈りがあり、十字架の死があったことをわたしどもが決して忘れることがありませんように。すべての人が、あなたと、あなたの み子を知ることができますよう、聖霊を注ぎ続けてください。主イエス・キリストの お名前によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか、わたしどもの歩みを聖霊によって導いてください。主よ、『哀歌』の時代と同じように、各地で争いの激しさが増しております。憎しみの世に、愛をもって勝利してくださった主に、立ち帰ることができますように。争いの続く地に平和をつくることができますように。特に、国々を導く立場にある者たちに聖霊を注ぎ、あなたの愛を、知らしめてください。敵となってしまった隣人を思いやり、悔い改める心を与えてください。今朝も礼拝、聖餐を覚えつつ、教会に来ることが困難な兄弟姉妹の上に、主の祝福と平安を注いでください。どこにあっても、わたしどもは主にあって一つであることを思い起こさせてください。全国の被災地で、悲しみの涙を流している者に、あなたの愛と励ましが届きますように。今、生きる気力を失っている一人一人を み心にとめ、慰め、励ましてください。折れてしまった心をあなたの愛によって包み、いたわってください。そこにあなたがお立てくださっている教会を強めてください。10月に入りました。27日に予定している秋の特別伝道礼拝を存分に用いてください。み言葉を取り次いでくださる芳賀 力先生の健康が守られますように。クリスマスに向けて、家族礼拝、バザー、東京バロック・スコラーズによるマタイ受難曲の演奏会、逝去者記念礼拝等を予定しております。主よ、一つ一つの礼拝、行事を導いてください。一人でも多くの方が、あなたと出会い、あなたからの招きである「永遠の命」に生きる者とされるために、わたしどもを用いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年9月29日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第91篇1節~16節、新約 ヨハネによる福音書 第16章25節~33節
説教題:「神は我らの強き盾」
讃美歌:546、8、196、267、539

ヨハネによる福音書を少しずつ読み進めてまいりました。第13章で、主イエスが、食事の席で弟子たちの足を洗ってくださった出来事に始まり、主イエスの十字架を前にした遺言とも言うべき長い説教が続いています。そしてとうとう、今日は第16章を読み終えます。第17章に入りますと、主イエスは天を仰ぎ、「父よ、時が来ました。」と祈りを お始めになる。そして、祈り終えると立ち上がり、弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれます。そこで待ち受けているのは、イスカリオテのユダの裏切りであり、ユダヤ教指導者たちによる捕縛です。さらに待っているのは、一番弟子ペトロによる三度の裏切りであり、総督ピラトによる尋問であり、死刑判決であり、十字架の死なのです。主イエスは、それらすべてを ご存知でいらっしゃいました。そこで、「わたしたちは信じます。」と言う弟子たちに向かって、このようにおっしゃっています。32節。「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしを ひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」主は、どんな お気持ちだったでしょう?今、目の前に弟子たちがいる。しかし、その弟子たちが、「我々まで殺されてしまうかもしれない」と怖れ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、自分の家に帰り、鍵をかけ、閉じこもってしまう。けれどもだからこそ、主イエスは、十字架の死に向かって、歩みを進めてくださったのです。皆 逃げ出してしまうことを知っておられたからこそ、主イエスは、「あなたがたがわたしをひとりにして家に帰ってしまうだろう。」とおっしゃったあと、「しかし」と続けてくださいました。32節後半から朗読いたします。「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(16:31~33)」
父なる神さまが、主イエスと共におられる。さらに、主イエスは、「わたしが死ぬことによって、あなたがたは平和を得るのだ。」と、おっしゃる。「そのとき、弟子たちには苦難がある。しかも、苦難に負けてしまうだろう。しかし、それでも勇気を出してよい。わたしが与える平和の中にとどまっていればよい。たとえ、あなたがたが負けてしまっても、わたしが勝っている。あなたがたの代わりに勝っているのだから、安心してよい。平安でいてよい。」と、主はおっしゃるのです。弟子たちの弱さも、主イエスに背中を向けてしまう罪も、すべて、この場にいた弟子たちだけのものではありません。わたしどももまた、弟子たちの弱さを自分自身の弱さとして知っています。「どんなときも、主に従いたい!」と願いつつ、主のように生きることができない。それでも主イエスは、「わたしの勝利の旗の元にあなたも立ち続けなさい。『自分は負け犬』と思っても、わたしの勝利に頼り切ればよい」とおっしゃってくださったのです。そのようにおっしゃっていただくのに相応しい立派な闘いをしたわけでもないのに、そうおっしゃっていただけるのはなぜなのでしょう?理由は、ただ一つ。27節の み言葉です。「父 御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」
「愛しておられる」、とあります。愛をあらわすギリシア語には、大きく分けて三種類あることを、皆さんもどこかでお聞きになったことがあると思います。まず、エロースの愛。エロースとは、人間が何かを求める動きです。自分の中に、満たされないものがあり、それを求める。自分が満たされるために愛する愛。自己中心的な愛です。次に、フィリアの愛。「友愛」と訳されます。友としての愛。対等な関係にある愛です。三つ目は、アガペーの愛。アガペーは、エロースとは向きが逆の愛。自分が何かを求める愛ではなく、自分が与える愛です。たとえ、相手が何かをしてくれなくても与え続ける愛。これがアガペーの愛です。
そう考えると、27節に記されている「父 御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。」の愛は、父なる神さまから弟子たち、またわたしどもへの愛ですから、アガペーが使われているだろうと当たりをつけます。ところが、調べてみると、原文は、アガペーでなく、何と、フィリアが使われているのです。父なる神さま ご自身が、わたしどもを友として愛しておられる!対等な関係に立ち、愛してくださる!わたしどもは、「そんな、とんでもないことです!」と、戸惑います。しかし、「そのとんでもないことが起こるのだ」と、主イエスは、弟子たちに宣言してくださいました。25節。「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはや たとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたは わたしの名によって願うことになる。わたしが あなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。(16:25~26)」「父なる神さまと、主イエスによって子としていただいた わたしどもが、親子としてだけでなく、肩を並べて一緒に歩く友人同士のように、対等に、互いに愛し愛され、直接語り合うことができる関係に立つ。そういう日が必ず来るのだ。」主は、そのようにおっしゃったのです。そして、「その日」を来らしめるために、主イエスは「今、地上を去るのだ。」とおっしゃいます。28節。「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」神さまとわたしどもが、親と子の関係にとどまらず、友のように親しく、いつでも心の中にあるすべてを打ち明け、永遠に一緒に歩いていく。「その日」を来たらしめるために、主イエスは、十字架に架かってくださいました。「その日」のために、神の み子が、命を捨ててくださったのです。そのようにして、わたしどもは今、「その日」を生かされているのです。
もう一度、25節から28節の み言葉を続けて朗読いたします。そのまま お聞きください。「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはや たとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父 御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」この み言葉を聞いて、弟子たちは答えました。29節。「今は、はっきりとお話しになり、少しも    たとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。(16:29~30)」主イエスの言葉により、弟子たちが信仰告白へと導かれたのです。けれども、冒頭に申しましたように、このあとの32節の主イエスの み言葉通り、「弟子たちは逃げ出して家へ帰ってしまう。」にもかかわらず、「その日」は来たのです。主イエスが、「その日」をもたらしてくださったのです。この出来事は、わたしどもの信仰告白と洗礼に至る道を、そして、その後の信仰生活、悔い改めと、祈りの日々を、よく表しているのではないでしょうか?
第16章を読んでまいりましたように、わたしどもは、主が遣わしてくださった聖霊に導かれ、信仰を告白し、洗礼を受けて、信仰生活を歩み始めます。神さまが備えてくださった「その日」を生きる者として、ぶどうの枝が木に繋がっているように、主イエスに結ばれて、歩み始める。主イエスの聖さに与って、歩み始める。しかし、その途端に、弱い自分、しつこく絡みついてくる罪に落ち込み、望みを失いそうになります。しかし、それでも、主イエスはおっしゃってくださるのです。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」わたしどもは、主の み言葉に励まされ、親しい友人に話すように、神さまにすべてを打ち明け、「助けて欲しい」と求めることが許されています。そして第14章で読みましたように、主イエスは、いつでも父なる神と共にわたしどものところへ来て、わたしどもの中に住み、助けてくださるのです。
本日から、第5主日礼拝後に、加藤常昭先生の著書『祈りへの道』の読書会を始めます。婦人会主催ですが、誰でも大歓迎。ご一緒に、『祈り』の喜びを味わえることを嬉しく思っています。本の帯には、「神が、わたしたちの祈りを待っておられる!」と書かれています。フィリアの愛は友愛、対等な愛の関係と申しました。父なる神さまが愛してくださる。そして、わたしどもも、神さまを愛するのです。愛して、親友に打ち明け話をするように、自分のダメなところも、嬉しかったことも、悲しかったことも、不安も、苦難も、安心して祈ってよい。助けを求めてよいのです。それが、わたしどもが生かされている「その日」の恵みなのです。
加藤先生は、この本の中で、「信じることは祈ること」だと記しておられます。神さまの「フィリアの愛」がわたしどもを支えてくださるから、わたしどもはその愛に信頼して祈ることができます。それは同時に、わたしどもが神さまを「フィリアの愛」で愛するとき、祈らずにはおれなくなる、ということでもあると思います。主の み言葉に励まされ、ぽつりぽつりと祈り始めるとき、わたしどもは、主イエスが友としてかたわらに立ち、励ましていてくださることに気づきます。主は、世に生きるわたしどもの苦難を知っていてくださいます。怖気づき、主の道を外れそうになる弱さを知っていてくださる。いや、自分の祈りは、そんな立派な悩みではなく、自分の欲求が満たされるためのものでしかないと、下を向いてしまうことがあったとしても、主は、そのようなわたしどもの悩みをも、すべてご存知の上で、わたしどもの友として引き寄せ、力づけてくださる お方です。そして、「父なる神は、あなたがたを友として愛してくださっているのだ」と、告げてくださいます。どのような苦難が、わたしどもを脅かそうとも、すでに勝利しておられる主イエスが共に闘っていてくださいます。すべてを治めておられる主イエスの父なる神が、わたしどもの父となり、友となっていて愛していてくださいます。この平安の中に、わたしどもは生かされているのです。

<祈祷>
 天の父なる神さま、あなたが、わたしどもの父となってくださるばかりか、わたしどもの友として、わたしどもを愛し、深く憐れんでくださる恵みを感謝いたします。苦難に襲われるとき、主イエスの勝利宣言を忘れ、苦難から逃げてしまうわたしどもです。どうか主よ、弱いわたしどもを憐れんでください。苦難に襲われても、主イエスの勝利宣言、「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」を心に刻み、安心して、あなたにすべてを打ち明け、願い、あなたから与えられる一日一日を大切に生きる者としてください。主イエス・キリストの お名前によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか、わたしどもの歩みを聖霊によって導いてください。主よ、世界の至るところで争いが続いております。そのため、かけがえのない命が失われ、嘆きの涙が日々、流されております。主よ、憎しみの連鎖を断ち切ってください。否、あなたがすでに断ち切って、愛の闘いに勝利していてくださることをすべての者が信じて、あなたの愛と赦しに立ち帰ることができますよう聖霊を注いでください。災害により、困難な生活を強いられている者を強め、励ましてください。特に、地震からの復興の道をようやく一歩踏み出したところで、大雨により再び苦難に襲われてしまった地域に、具体的な支援が届きますように。苦難の中にある一人一人に、再び、立ち上がる勇気を与えてください。そこに立つ教会を強めてください。今日も、様々な理由で礼拝に集うことのできなかった友がおります。体調を崩している者、施設での生活が続いている者、心があなたから離れている者がおります。どこにあっても、あなたが共におられることを忘れることがありませんように。み心なら、再び、教会に帰ってくることができますように。伝道の秋です。すでに罪を赦され、永遠の命を与えられている者として、あなたから「子よ」と呼ばれ、「友」と呼んでいただける幸いを知っている者として、愛する者を教会へ誘う勇気をお与えください。信仰告白、洗礼を祈り求めている者がおりましたら、あなたが背中を押してください。そして、すべてをあなたに委ねる思いを強め、一日も早く、あなたと共に生きる喜び、平和に生きる喜びを お与えくださいますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年9月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第42章10節~13節、新約 ヨハネによる福音書 第16章16節~24節
説教題:「永遠の喜び」
讃美歌:546、61、179、352、545B

9月に入り、続けて二人の仲間を主の みもとに送りました。今年は、すでに何人もの教会員、またその伴侶が召されています。4月には、加藤常昭先生が95歳で地上の命を終えられました。95歳ですから、何の不満もない年齢ですし、多くの著作も残されました。キリスト教ラジオ局FEBCのライブラリーには、音声もたくさん残っています。それでも、説教について直接 教えてくださったり、共に祈ることはもうできないと思うと、淋しさを禁じ得ません。
わたしどもは、人生を長く生かされれば生かされるほど、多くの出会いと共に、多くの別れを経験しなければなりません。加藤先生の お宅を訪問して、おしゃべりをしていると、こんなことを語っておられました。「もうみんな死んでしまった。わたしと共に切磋琢磨した牧師たち、教授たちで、今も生きているのは、僕だけになってしまった。」甦りの喜びを力強く教えてくださった先生であっても、愛する者との別れは、辛く、悲しいことに変わりはないのだと思い知らされました。東京説教塾が行われるキリスト品川教会に、加藤先生を送迎させていただいたときに、先生が、さゆり先生との別れの辛さをポツポツと語られたときのことは忘れられません。「さゆりとの別れの辛さ、悲しさ、そんななまやさしい言葉ではすまないんだよ。痛いんだよ。それも、激痛なんだ。悲しくて、涙がぽろぽろこぼれるなんてもんじゃない。本当に激しい痛みなんだ。そして、激痛に耐えられなくて、死にたいと思ったの。数年が経って、ようやく、そこからは抜け出すことができた。それでも今も心が痛む。あなたには、わたしの痛みは、わからないだろうな。」
運転がおろそかになりそうなほどの衝撃をおぼえました。説教の中で語ることは控えるべきエピソードかもしれません。けれども、わたしどもの信仰を鍛え、励ましてくださった加藤先生であっても、愛する人との別れは、耐え難い痛みであり、主の み言葉さえ、耳に入りにくい状態になっていたことは、わたしにとってむしろ慰めとなりました。わたしどもは、まことに弱い者です。激しい痛みの中で、まともに立っていられない。おぼれてしまうのです。しかし、それでも、わたしどもには教会がある。神さまが呼んでおられます。「いつでも、ここへ帰っておいで。あなたの重たい荷物をおろしにおいで。」との み声に導かれて、今日も、教会に戻ってくることが許されています。み言葉が与えられています。
今朝、わたしどもに与えられた み言葉には、「悲しみが喜びに変わる」という小見出しがつけられています。変わるのです。変わるかもしれない、ではありません。必ず変わるのです。変わってまた元に戻ってしまうのでもない。変わったら喜びが続く。そのように主イエスは宣言してくださるのです。その望みをもって、み言葉を読んでいきたいと思います。
第16章16節。「しばらくすると、あなたがたは もうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」主イエスの言葉を聞き、弟子たちは困惑しました。何をおっしゃっているのか、まったくわからなかったのです。そして、その思いを主イエスに正直に打ち明けるのではなく、となりどうし、互いに呟き合いました。わたしどももそうです。主イエスに信頼しているつもりでも、「主イエスに従おう」と決心し、キリスト者になっても、主の み言葉がわからなくなる時がある。主の お姿が見えなくなる時がある。祈りや聖書を読むことによって、主に尋ねることを忘れ、動揺する時があるのです。
主イエスは、弟子たちにおっしゃいました。20節。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。」この後、主イエスは捕らえられ、十字架に架けられて殺されてしまいます。弟子たちは泣いて悲嘆に暮れる。キリストを信じない者たちはあざ笑い、弟子たちの悲しむようすを見て喜ぶ。わたしどもも、主イエスが見えないと感じるとき、神の恵みが見えなくなってしまうとき、周りのすべての人が、悲しみとは無縁で、喜んでいるように思え、いっそう自分が惨めで、孤独に思ってしまうときがあります。けれども、主イエスは続けておっしゃったのです。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
皆さんもお気づきになられたと思いますが、16節の「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。(16:16)」この主イエスの お言葉は、17節、さらに19節と、三度も繰り返されております。少し、くどいのではないかと思うほどです。しかし、何度も読んでいるうちに、ヨハネ福音書が書かれた時代のキリスト者が、この、主の約束を、どれほど愛していたかが伝わってくるような気がするのです。たとえ今、主の お姿が見えなくても、しばらくすれば見えるようになる。見ることができる。ヨハネ福音書が書かれた時代、教会は過酷な迫害にさらされていましたから、この み言葉によって約束されている喜びを、見失ってしまわないように、互いに励まし合っていたのではないしょうか。「しばらくすると」と訳された元のギリシア語は、「ミクロン」という言葉です。ミクロンは、1000分の1ミリメートル。非常に微小な長さの単位です。主イエスは、そのような「ミクロン」を用いて、悲しみの後におとずれる喜びは、ずっと続くものであることを指し示し、「あなたの悲しみは、永遠の喜びへと続いているのだよ。」と、励ましてくださったのです。
主イエスは続けて、こんな話をなさいました。21節。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはや その苦痛を思い出さない。」出産の苦しみをわたしは味わったことがありません。それでも、妻の次男の出産に立ち会ったときに、「こんなにも出産は苦しいものなのか」と知ることができました。繰り返す陣痛の合間、「ふ~、ふ~」と呼吸を整え、出産に備える。「このまま、妻は死んでしまうのではないか?」とさえ思いました。そして、出産。「オギャー」と次男が真っ赤な顔で泣いている。その次男と対面したときの妻の笑顔。ついさっきまで苦痛に顔をゆがめ、今にも死んでしまいそうなようすだったのが嘘のように、「かわいいね」とニコニコしている顔を見たとき、「何だ、女性という存在は!」と驚き、畏敬の念すら、覚えました。
主イエスはなぜ、この話をここでなさったのでしょうか?お産の苦しみは一時のもので、それを過ぎれば大きな喜びが待っている。そのように、あなたがたの苦しみもまた、一時のもので、苦しみのあとには必ず喜びが待っているのだ、ということなのでしょうか?確かに、わたしどもの人生には「苦あれば楽あり」の面もあります。しかし、「それだけなのだろうか」とも思うのです。母親の子を産む苦しみと、わたしどもを新しく「神の子ども」として産み出された神さまの苦しみを比較するべきではないかもしれません。けれども、主イエスこそ、わたしどもを新しく「神の子ども」として産み出すために、十字架の苦しみを経験してくださいました。マタイによる福音書には、主イエスが十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(マタイによる福音書27:46)」と叫ばれたと書かれています。神さまから見捨てられる絶望の中に立たれた主イエスを、世はあざけりました。喜んで、はやしたてたのです。それこそ、ミクロンどころか、永遠にも思われるような苦しみ、絶望であったのではないでしょうか?しかし、神さまは、主イエスの絶望と死のゆえに、「わたしどもの苦しみはミクロン」と言えるほどの永遠の喜びの中に、わたしどもを産み出してくださいました。またそのようにして、わたしどもが「神の子ども」として新しく生まれることを、主イエスは喜んでくださる。「神の子ども」が生まれる喜びと比較したら、十字架の苦しみは、ほんのひととき、ミクロンとおっしゃってくださったのではないかと、思うのです。
主イエスは続けておっしゃいました。22節。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」主イエスが十字架に架けられたとき、弟子たちは誰一人そばに残っていませんでした。皆 逃げ出してしまったのです。主が甦られても、すぐに信じることができず、疑ったばかりではありません。この先の第21章によれば、復活なさったことを知っても、ふるさとに帰り、もとの漁師に戻ってしまったのです。しかし、そんな弟子たちに、主イエスは会いに来てくださいました。弟子たちが信じる前に、主の方から会いに来てくださったのです。
また、主は続けて約束してくださいました。23節。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」主が、わたしどもに出会ってくださるとき、わたしどもには、苦しみの中で、悲しみの中で、望みが見えてこない暗闇の中で、それでも、神さまの子どもとして、神さまに願い求めることができる喜びが与えられるのです。この特権は、永遠に、わたしどものものです。この喜びは、永遠に、わたしどものものです。誰も奪うことはできないのです。主の十字架の死が、わたしどもを神さまの子どもにしてくださったからです。わたしどもは、「天のお父さま、苦しいです。悲しいです。辛いです。助けてください。主イエスのお名前によって祈ります。」と、助けを求めることが許されているのです。永遠に!
わたしどもは、主イエスによって、父なる神さまに祈りが届き、神さまが愛によってわたしどもの祈りに応えてくださることを知りました。それらすべてが、聖霊の働きによるものです。わたしどもは弟子たちのように、復活の主イエスを直接 この目で見ることは できませんが、聖霊が信仰の目を開き、主イエスに出会わせてくださるのです。そうであるなら、祈ることを遠慮してはなりません。祈ることは信じることです。もっと大胆に、もっと喜んで、求めていることを何度でも祈り求めたい。願い続けた末に示される神さまの答えは、もしかしたら自分の願いとは違うものかもしれません。「神さまは、わたしの願いにちっとも応えてくださらないじゃないか」と、思うこともあるかもしれない。それでも、わたしどもの喜びのために、命を捨ててくださった主に信頼するとき、苦しみも、痛みも、大きな喜びの中で経験していることを知るのです。大きな喜び。それは、どんなときも、いつでも、わたしは神さまと共にいる。どんなときも、いつでも、主イエスに結ばれていることを知っている喜びです。わたしどもの絶望の底にまで主が会いに来てくださって、いつまでも、たとえ死を迎えても、ずっと、主と共に生きる命を与えてくださいました。どんなときも、いつでも、聖霊なる神さまがわたしどもを支え、まもり続けてくださいます。だから痛みも、苦しみも、悩みも、すべて神さまに委ね、神さまから与えられる地上での一日一日を祈りつつ歩んでいきたい。そのように生きることが、わたしどもには許されているのです。

<祈祷>
 天の父なる神さま、激しい痛み、耐えられない苦しみが、わたしどもを襲うとき、わたしどもは途方に暮れます。永遠に続く深い淵の中に落ちてしまったかとさえ錯覚してしまいます。あなたが見ていてくださることが分からなくなります。それでも今、主イエスの慰めと励ましに満ちた み言葉を伺いました。感謝いたします。主よ、わたしどもの心を開き、あなたの愛、あなたの赦し、永遠のいのちを喜ぶものとしてください。主イエス・キリストの お名前によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか主よ、わたしどもの歩み、聖霊によって導いてください。主よ、能登半島地震で傷ついた地域に大雨が襲い、大変な被害が発生しております。神さま、どうか助けてください。被害がこれ以上 拡大しないようにおまもりください。おん目を注いでください。み手を差し伸べて慰め、あなたにある望みをお与えください。主よ、争いが絶えません。祈っても、何も変わらないじゃないかと呟きたくなる心を憐れみ、今こそ、主イエスが約束してくださった み言葉「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」を思い起こし、主の平和がウクライナに、ガザに、世界の紛争地域になりますようにと祈り続ける者としてください。その地で嘆きの中にある者に、望みを失っている者に、それでも望みをもって生きる力をお与えください。今朝も教会での礼拝を望みつつ、それぞれの事情で礼拝に来ることができなかった兄弟姉妹がおります。体調を崩している者、心がふさいでいる者がおります。特に、愛する家族を失い、激しい痛みを抱えている者を慰め、励まし続けてください。明日は、東日本連合長老会の教会全体修養会が行われます。無牧師の小金井西ノ台教会、増田将平牧師が天に召された青山教会の歩みをお支えください。明日の修養会が励ましと慰めに満ちた修養会となりますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年9月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第36篇6節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第16章4節b~15節
説教題:「真理を渡してくださる霊」
讃美歌:546、68、262、Ⅱ-103、545A

お手元の週報に記載されておりますように、先週、二人の教会員が相次いで地上での命を終えられました。長く、共に礼拝に与ってまいりました。キリスト者にとって、死は終わりではありません。この恵みは、わたしどもにとって、ただ一つの、この上ない、慰めです。それでも、死という、決定的な出来事は、わたしどもの心を曇らせ、悲しみでいっぱいにしてしまいます。
今朝、わたしどもに与えられております み言葉において、弟子たちの心を満たしていた悲しみも、わたしどもの悲しみに似ていると思います。頼りにしていた主イエスに、お会いできなくなってしまう。直接、眼と眼を合わせ、言葉を交わすことができなくなってしまう。しかし、主イエスは、そのような、弟子たちの悲しみに、心を寄せてくださっています。第16章5節。「今わたしは、わたしを お遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。(16:5~6)」
弟子たちの心は、主イエスに、これからのことを尋ねる気力も失せるほど、悲しみでいっぱいになってしまっています。けれども主イエスは、そんな弟子たちを慰め、励まし、望みへと導こうとしてくださいました。第16章7節。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」この、「しかし、実を言うと、」という日本語に訳されている言葉は、ギリシア語原文にそって訳すと、こうなります。「しかし、わたしは真理をあなたがたに語る」。主イエスが、事の真相を、わたしどもに打ち明けてくださいます。「実を言うとね、」、そのように、親しい者だけに打ち明け話をしてくださるかのように、神さまの真理を告げてくださる。死という出来事によって、すっかり悲しみで曇ってしまった心に光を与え、悲しみの雲を打ち払おうとしてくださっています。「わたしは今こそ、あなたがたに真理を告げる」と、希望を与えてくださるのです。そのようにして、主が打ち明けてくださった真理とは、何でしょう?
7節後半。「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのとこに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」主イエスは言われるのです。「わたしが死に、あなたがたの前から去るのは、あなたがたのため。なぜなら、わたしが去ることによって、弁護者があなたがたのところに来てくださる。わたしが、あなたがたのところに弁護者を送るのだから。」
「弁護者」とは、父なる神さまが主イエスの名によってお遣わしになる「聖霊」であると、すでに主イエスは語っておられます。「弁護者」と訳されている言葉は、「助け主」と訳されることもあれば、「慰め主」と訳されることもあります。もともとの言葉の意味は、「呼んでそばに来てくれた人」です。呼ぶとそばに来てくれ、ずっと一緒にいてくれるのです。主イエスは、そのような助け手、慰め手、弁護者として、あなたがたのところに「聖霊」が送られるのだと繰り返し、約束してくださったのです。
では、聖霊は、どのようにわたしどもを慰め、助けてくださるのでしょうか?主イエスが語ってくださっています。第16章13節。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。(16:13~15)」主イエスがわたしどものために送ってくださる聖霊は、独立して自らの考えを勝手に告げるのではない。そうではなくて、神さまの真理そのものでいらっしゃる主イエスの恵みを、わたしどもに告げてくださるのです。
先週ご一緒に読みました4節の前半に、聖霊の働きとして、「わたしが語ったということをあなたがたに思い出させる」という言葉がありました。聖霊が働くとき、「思い出す」ということが起こるのです。聖霊は、主イエスのこと、主イエスの みわざと言葉を、わたしどもに思い起こさせてくださる。いや、思い起こさせるだけでなく、「わたしのものを受けて、あなたがたに告げる(16:14)」と言うのです。単に、2000年の遠い昔のイエスという人が語った優れた言葉、数々の奇跡、十字架で磔にされて殺されたというような、歴史的事実を知らせる、というのではありません。聖霊は、「わたしのもの」、主イエスのものを直接受け取り、わたしどもに渡してくださる。主イエスの愛を手渡しするように、わたしどもの心に届けてくださる。主イエスの恵みに与らせてくださる。主イエスのいのちに、与らせてくださる。聖霊が、わたしどもに主イエスのことを思い起こさせてくださるときには、そのような奇跡が起こるのです。あり得ないことが起こる。死によって、滅ぶべき存在であるわたしどもが、主イエスのいのちに与り、永遠に、主のものとして生きることができる。主イエスは、「わたしはそのために去る。あなたがたが永遠に、わたしと共に生きる者となるために去っていくのだ。」と約束してくださったのです。また、主イエスは続けておっしゃいました。8節。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」「その方」すなわち、「真理の霊」が送られたとき、わたしどもは知るのです。罪とは何か?義とは、どのようなことであるのか?裁きは、どのようにくだるのか?9節に、「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、」とあります。神の前における罪とは、単に、道徳的な過ちを犯しているということではないのです。主イエスを、救い主と信じないこと、主イエスを、まことの神の子として信じないことにつきる、と主はおっしゃるのです。ヨハネによる福音書には、心に響く み言葉が溢れています。その中でも、多くの人に愛されてきた み言葉に、第3章16節があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」主イエスは、神の独り子。神の救い。神の愛です。ですから、主イエスを救い主と信じないということは、神の愛、神の救いを信じないことです。神が主イエスを与えてくださったほどに、世を愛しておられることを信じない。神の愛を疑い、神がわたしどもを救おうと差し伸べてくださっている手を振り払う。聖霊は、それこそが「罪」なのだと教えてくださるのです。嘘をついたとか、ズルをしたとか、悪口を言ったとか、盗みをはたらいたとか、殺したとか、そういうことは、もちろん、悪いことです。けれども、神が罪だとおっしゃるのは、そういうことに留まらない。わたしどもが、悪いことだと知っている、知っているのに、いとも簡単に誘惑に負けて悪魔の罠に はまってしまう、そのようなわたしどものために、神さまが主イエスを遣わしてくださったことを信じない。主イエスが十字架に架かって、命を捨て、わたしどもを赦してくださったことを信じない。それこそが罪なのです。聖霊は、そのことに気づかせてくださるのです。
さらに、主イエスは続けておっしゃいました。10節。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、」。罪に対立するのは神の義、神の「ただしさ」です。神の義は、主イエスが十字架で死んで、三日目に甦り、神の みもとに赴いてくださったことにおいて、明確に姿を表しました。神の「ただしさ」は、わたしどもを徹底的に愛し、赦すのです。主は、神の愛に信頼しようとしないわたしども、愛していただくのに値しないわたしどもを、どこまでも愛し抜いてくださいました。「神の義」は、そのようにわたしどもを生かすのです。神さまの「ただしさ」は、神さまとわたしどもとの関係を、本来の姿に戻してくださいます。わたしどもの罪によって断ち切られていた父なる神さまとの関係は、神さまが備えてくださった主イエスの十字架によって、本来あるべき関係として、結びなおされたのです。聖霊の働きは、わたしどもの目を開き、耳を開き、心を開いて、この恵みを、真理を、届けてくださいます。渡してくださいます。それこそが、わたしどものために主が与えてくださる聖霊の働きなのです。
同時に聖霊は、裁きをももたらします。11節。「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」ここで、わたしどもはつい思ってしまうかもしれません。ああ、わたしは世の支配者ではないから安心。確かに、わたしどもは、いわゆる世の支配者ではありません。しかし、夫であれば、妻を支配する言葉をぶつけることがある。妻であれば、夫を支配する言葉をぶつけることがある。親であれば、子を支配する言葉をぶつけることがある。子であれば、親をなじる言葉をぶつけることもあることを忘れてはなりません。悲しいことに人間は、いつでも、自分こそが義しい、正義だというところに立ち、人を罰するのが大好きな生き者です。主が命を捨てて赦してくださったことを忘れ、神の「ただしさ」を忘れ、自分がただしい、正義だと信じて疑わない支配者のように、毎日、誰かを罪に定め、罰する。この世の争いも、SNSに溢れる誹謗中傷も、わたしどもがしょっちゅうやらかす言い争いだって、みな、根っこは、わたしどもの中にひそむ、「自分はただしい」と思う支配者の心にあると思います。そして、実にわたしどもは、そのようにして自分自身の裁きを招いているのです。「裁き」とは、もともと右と左、善と悪、義と不義など、あちらか、こちらかを明確に分ける、という意味の言葉です。聖霊の働きによって、分かれ目に引かれている線が見えてくるのです。そして、あなたがたはどちらに立っていますか?と問われていることがわかるようになる。
先ほどの第3章16節、「神は、その独り子を お与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」というみ言葉には、続きがあります。第3章17節。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。(3:17~18)」わたしどもは、「圧倒的な恵みの中に立って欲しい!」と、呼ばれています。自分の「ただしさ」に立ち、自分に滅びを招くのではなく、救われて、神の「ただしさ」に守られ、永遠に主と共に生きるいのちの中へと招かれている。聖霊が、わたしどもを、この恵みの中へと、導いてくださるのです。
信仰は、どこかで必ず、決断しなければならないものです。洗礼を受けるということは、神さまの愛に信頼して、神さまの愛を受け入れる誓いの「しるし」であるからです。「わたしも、神さまの愛の中にある。イエスさまが、命を捨て、この愛の中にわたしを入れてくださった。」この真理を受け入れるのです。もしも今、洗礼を受けようか?どうしようか?と、迷っている方がおられましたら、今、あなたの心に響いてるのは、真理を告げる聖霊の声です。創り主であられる神さまが送ってくださった聖霊が、主イエスから受け取った恵みを、渡そうとしてくださっています。主イエスが送ってくださっている霊の声ですから、信頼し、安心して、受け取ることができますように。真理を受け入れ、共に、神さまの愛に信頼し、十字架のもとに立ち帰り続ける日々を歩み、この世の命の終わる日まで、主イエスを愛し、互いに愛し合って、生きていくことができますように! 

<祈祷> 
天の父なる神さま、わたしどもに注がれている真理の霊の働きを感謝いたします。わたしどもを日々、悔い改めへと導いてください。あなたの「ただしさ」に頼ることができますように。今、洗礼を迷っている者がおりましたら、あなたの愛を受け入れる勇気をお与えください。日々、溢れるほどに聖霊を注ぎ続けてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか主よ、わたしどもの歩みを、聖霊によって導いてください。主よ、共に礼拝をささげ、共に主に仕えてきた姉妹と兄弟が、先週、地上での歩みを終えました。昨日の葬儀に続き、明日も葬儀が執り行われます。今、深い悲しみ、厳しい痛みに襲われている者たちをあなたの愛で満たし、慰めてください。今こそ、真理の霊によって示された永遠の命の約束、甦りの朝を待つ信仰を強めてください。主よ、日々、自分こそが正義と信じ、殺し合いに明け暮れる世を憐れんでください。どうか、各国の指導者があなたの愛と赦しに立ち帰り、一日も早く罪を悔い改め、互いに争うのではなく、互いに愛し合うことができますように。主よ、わたしどもは、日々の忙しさで今も深い悲しみに襲われている者を忘れがちであることを み前に恥じるものです。自然災害により被災され、困難な生活を強いられている者。想像もしなかった事件、事故にまきこまれ、今も、その痛みを抱えている者。「もう、生きていても何もいいことない」と望みを失っている者を強め、励まし、あなたにある希望に生きる者としてください。まだまだ猛暑が続きます。礼拝を望みつつ、今日も礼拝に来ることができなかった兄弟姉妹を強め、励ましてください。どこにあっても、あなたが共におられ、真理の霊を注ぎ続けてくださる恵みを忘れることのないよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【動画配信YouTube】
2024年9月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第43章8節~12節a、新約 ヨハネによる福音書 第15章26節~第16章4節a
説教題:「真理の証人」
讃美歌:546、71、181、502、544、427

 主イエスは、わたしどもを愛して、愛し抜いてくださいました。そして、わたしどもの罪を赦すために、十字架の上で殺されました。この恵みは、わたしどものことを、この上なく愛してくださる父なる神さまのどこまでも深い み心によるものです。今朝、わたしどもに与えられております み言葉は、主イエスが十字架に架けられる前の晩、弟子たちに遺言を残すように語られた み言葉の中の一節です。主イエスは、主ご自身の働きを、弟子たちに託そうとなさっています。同時に、弟子たちが主イエスの お働きを受け継ぐとき、大きな苦難が襲ってくるであろうことも、あらかじめ お語りになりました。「わたしが人々から憎まれて殺されていくように、弟子であるあなたがたも、人々から憎まれるだろう。神を礼拝する会堂から、追放されてしまうだろう。それも、あろうことか、神の名によって、追放されてしまう日が来る。神の名によって、『出ていけ!』と命じられてしまう。」と、おっしゃったのです。神の名によって追放されてしまうのですから、弟子たちは、何が真理なのかがわからなくなり、混乱してしまうかもしれない。自分たちが間違っていたと、主イエスが教えてくださった真理から離れてしまうかもしれない。神の愛が、わからなくなってしまうかもしれない。主イエスは、「そのときのために、今のうちに、語っておくのだ。」とおっしゃいました。「わたしが語ったことを、そのとき、思い出しなさい。」と、おっしゃったのです。また、「そのときには真理の霊が降る。」ということも、あらかじめ教えてくださいました。神さまに祈り、願い求めるとき、主イエスに代わって、真理を教えてくださる霊が、すぐに、そばに来てくださる。神さまの愛がわからなくなったとき、真理から離れてしまいそうになったとき、そばに来て、真理に立ち帰らせてくださる。主イエスが、まことに神の み子でいらっしゃることを教えてくださり、語るべき言葉を与えてくださる。なすべき務めを示してくださる。主の お姿が見えなくても、み声が聞こえなくても、主イエスは生きておられて、そのような真理の霊を、父なる神さまのもとから遣わしてくださるのです。また、主イエスは弟子たちに、「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。(15:27)」とおっしゃいました。主イエスと、生活を共にしてきた弟子たちを、主イエスを証しする者として、世に遣わそうとなさったのです。さらに主は、今を生きるわたしどもにも、同じ使命を託してくださっています。この使命は、ひとりで果たさなくてはならない使命ではありません。わたしどもはいつでも、「真理の霊」と一緒に証しをする。「真理の霊」がわたしどもに宿り、わたしどもを通して、働いてくださるのです。
 わたしが教会に通い始めたのは、小学1年の春でした。それからずっと通い続けていますが、主イエスの お姿をこの目で見たことはありませんし、直接み声を聞いたこともありません。それでも、「主イエスを、わたしの救い主と信じます。」と、信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者との数え切れない出会いが与えられました。それらすべての方々が、神さまから与えられた賜物を感謝し、その賜物を用いて、わたしにキリストを証ししてくださいました。まだ幼かったわたしに「たかおちゃん」と声をかけてくださり、やさしい笑顔で包んでくださいました。調子にのって、教会学校の礼拝中にふざけていたわたしを、叱ってくださった方もありました。今でも、忘れられない食卓があります。わたしが小学5年だったと思うのですが、妹と二人で、鎌倉の高台にある教会員のお宅に招待されました。キリスト者ばかりの食卓につき、ポテトサラダとピラフをご馳走になったときのことです。「いただきます!」とすぐにご馳走にありつけると思っていたわたしは、食前の祈りが始まったことに驚きました。それまでわたしの家では、キリスト者でない父に遠慮して、食前に祈ったことがなかったのです。食前の祈りが始まったとき、わたしはびっくりしながら、「イエスさまも、この食卓に一緒に座っていらっしゃる。」と感じました。そうしたたくさんのキリスト者との出会いは、わたしの宝となりました。すでに、お世話になった多くの方々が天に召されましたが、それらの方々が証ししてくださった主イエスの愛と赦しによって、今のわたしがあります。多くの方々の生き方を通して、主イエスご自身が、わたしと出会ってくださり、対面して、あたたかな眼差しを注ぎ、語りかけ続けてくださったのです。わたしどもはそのように、主の証人(しょうにん、あかし   びと)として、世に遣わされていることを、今朝、いまいちど、心に刻みたいと思います。
今朝、ヨハネによる福音書と共に朗読して頂いたのは、旧約聖書イザヤ書の み言葉です。改めて第43章8節から10節前半を朗読いたします。「引き出せ、目があっても、見えぬ民を/耳があっても、聞こえぬ民を。国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に、このことを告げ/初めからのことを聞かせる者があろうか。自分たちの証人を立て、正しさを示し/聞く者に、そのとおりだ、と/言わせうる者があろうか。わたしの証人(しょうにん)はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。」 預言者イザヤの口を通して神さまが、わたしどもを僕として選び、証人 (しょうにん)として用いてくださることが、語られています。イザヤ書 第43章は、イスラエルがバビロンに打ち負かされ、バビロンに捕囚の民として連行された時代に告げられた預言です。神さまのお姿が、現実には見えてこない。むしろ、「神は本当に生きて働いているのだろうか?」との疑いが、民の心にわきおこるような時代です。転じて、主イエスの弟子たちが遣わされた時代は、神を憎み、神に敵対していた者たちが神の名を騙(かた)って、人々を指導していた時代でした。神の み心がわからなくなっていたという意味で、イザヤの時代に通じるといえるでしょう。わたしどもが生かされている現代も、神の名を騙(かた)る者たち同士が憎み合い、殺し合っている現実を見るにつけ、ある意味 同じような状況にあると言えるのではないかと思います。神の み心が見えない。神が生きて働いておられるなら、どうしてこんな八方塞がりの世の中なのか。しかし、主イエスは、弟子たちを真理を証しする者、主の証人(しょうにん)として遣わすにあたって、おっしゃいました。第16章1節。「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。」また、4節ではこのようにおっしゃっています。「これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということを あなたがたに思い出させるためである。」  もしも、わたしへの信仰を失いそうになっても、わたしがあなたがたに語り続けてきた言葉を思い起こして欲しい!あなたがたのそばにあって助けているのは真理の霊であることを、忘れないで欲しい!」主は、そのようにわたしどもを励ましてくださっているのです。
先日、新聞の社会面にこんな記事がありました。タイトルは、  『更生できる/帰る場所つくる(歌舞伎町の元暴力団員)』。遊佐 学  (ゆさ まなぶ)さんの写真を眺めながら、記事を読みました。そのまま一部を紹介します。「不自由な足は、毎日のように覚醒剤を使い幻聴も聞こえていた20年ほど前、ビル5階から飛び降りたときのけがの後遺症だ。飛び降りから3日後、目覚めたのは病院の集中治療室だった。先輩から勧められ『1回だけ』と18歳で始めた覚醒剤をやめられず、ついに命にかかわる事態を招いた。病院のベッドの上で思い出したのは、その少し前、友人に誘われて初めて行ったキリスト教会で、自然と涙が出てきたことだった。『生きていてよかった。神に生かされた』と思った。間もなく暴力団を抜け、栃木市の実家に戻った。だが薬物はやめられず、その後も2度、逮捕された。自分に絶望したが、拘置所の中で、元暴力団員から牧師となった男性の半生をつづった手記を読み、『同じ境遇の人がいる。自分も』と生き直すことを決意し、毎日聖書を読み込んだ。」 記事を読み、心が熱くなりました。その後、遊佐さんは洗礼を受け、伝道者として働いているようです。さらに、遊佐さんのお母さまも、遊佐さんが神さまに出会ったことで変えられた姿を目の当たりにし、主イエスの愛と赦しを信じ、洗礼へと導かれたのです。わたしどもには、色々な賜物が与えられています。強さだけでなく、弱ささえも、賜物なのです。主は、わたしどもの弱さをも赦し、慈しみ、とことん愛して、あろうことか神さまのお働きをあなたに任せると、わたしどもを遣わしてくださるのです。なんという恵みでしょうか。わたしどもが、すべてをさらけだして、キリストの救いの証人(しょうにん)として生き続けることを、主は喜んでくださるのです。
 この後、讃美歌502番を共に賛美いたします。大好きな讃美歌です。賛美するたびに涙が溢れてきてしまう歌詞があります。3節。「くすしきめぐみ/あまねく満ち、あるに甲斐なき/われをも召し、あまつ世嗣と/なしたまえば、たれか洩るべき/主のすくいに。」今までの人生において、大きな挫折を経験するたびに、この讃美歌に救われてきました。「主は、わたしのような罪人をも選び、用いてくださる。そうであるなら、弱さをもさらけだし、主の愛と赦しを語り続けていこう」と、立ち上がることができました。わたしどものすべてを通して、「真理の霊」が働いてくださいます。共に世にある限り、そのことを喜んで、主の ご栄光を映しながら歩んでまいりましょう。

<祈祷> 
天の父なる神さま、わたしどもは弱く、簡単につまずく者です。それでもあなたは、そのようなわたしどもに、真理の霊を遣わしてくださいますから感謝いたします。主よ、試練のときこそ、あなたの言葉を思い出すことができますように。与えられた賜物を用いて、喜んで主の ご栄光を映し続ける者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか主よ、わたしどもの歩みを、聖霊によって導いてください。今、この瞬間も、世界の至るところで争いが続いています。「この争いに勝利することこそが、神への奉仕だ。」と考えている指導者がおります。主よ、どうか、各国の指導者がそれぞれの正義を振りかざす愚かな争いを止めることができるよう導いてください。あなたを真実に畏れ、争いではなく、愛に生きることができますように。9月に入っても厳しい暑さが続いております。今日こそ、礼拝にと体調を整えていながら、この場へ足を運ぶことのできなかった兄弟姉妹を顧みてください。体調を崩している者、病と闘っている者、気持ちが塞いでいる者を強め、励ましてください。自然災害により、困難な生活を強いられている方々を顧みてください。一日も早く、復旧復興が実現しますように。生きる望みを失っている者に み顔を向けて、平安を得させてください。あなたにある望みを抱くことができますように。あなたが選び、伝道献身者として召しくださった三人の神学生の歩みを強め、支えてください。修士論文提出を終え、残り半年の神学校での学びに備えている佐藤神学生を支えください。この秋、いくつもの教会で説教の働きを担います。体調を崩すことなく、あなたの み言葉を喜んで語ることができますように。学部3年生に編入して学んでいる二人の神学生の後期の学びもお支えください。  
キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします  我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせ たまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より  救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年9月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第24章1節~13節、新約 ヨハネによる福音書 第15章18節~27節
説教題:「僕は主人にまさらず」
讃美歌:546、15、246、21-81、274、543

主イエスは、十字架の死を前にして、弟子たちを待ち受けている苦難について、お語りになりました。18節。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」
18節、19節に、6回も登場する言葉があります。「世」です。「世」とは何か?ここで言う「世」とは、神さまに対立し、神さまを憎む人間の世界を意味しています。主イエスは、人の心の中にある神への憎しみを知っておられます。その憎しみが、神の み子イエスを殺す。そのことを見抜いておられるのです。
キリスト者であるわたしどもはどうでしょう。わたしどもは、自分が神さまを憎む者だとは思っていません。神さまに対立しているとも思っていません。しかし、本当にそうでしょうか。わたしどもは毎週 声を合わせ、十戒を心に刻んで、この礼拝堂をあとにします。主が愛してくださったように、互いに愛し合おう。赦し合おうと歩み始める。けれども、ほんの一日も経たないうちに、そんなことを言われたって、無理なものは無理と開き直る。祈ることもしないで、「やっぱりわたしには無理」と諦め、ブツブツと文句を呟きだす。そのように、わたしどもが、わたしども自身を、惨めさに追い込んでいく、長年しみついてしまった悪い癖のようなもの。その正体は、神さまを憎む心、キリストを十字架につけてしまう心です。神さまに祈ることをやめてしまう心、それはとどのつまり、神なんかいらない、必要ない、と思う心であり、それこそが、神と敵対する「世」の、心なのです。例えば手術が成功し、悪いところは完治したのに、どうしたことか、痛みが治まらない、ということがあるようです。あるいは切除して、もうないはずの手脚が痛む、という話も聞いたことがあります。脳が痛みを覚えていて、そうした錯覚が起こると言われているようですが、わたしどもにしみついた癖のような罪の心も、それに似ていると思います。しかし主は、弟子たちに、またわたしどもに向かって、言われるのです。「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。」しっかりと心に刻みつけたい。主の約束を信じ、ひとたび信仰を告白し、洗礼を受け、キリストに結び合わせていただいたなら、わたしどもは、「世に属していない。」と、主が宣言してくださっています。これらの言葉に先立って、主イエスは、弟子たちの汚(よご)れた足を洗い清めてくださいました。「わたしが洗ったのだから、あなたがたは清いのだ。」とおっしゃってくださいました。そして、これらの言葉を語り終えられたあと、主イエスは、十字架に架けられて死んでゆかれます。わたしどもの心に、まるで悪い癖のようにしみついている神を憎む心を、すべて背負って死んでゆかれます。さらに、甦ってくださり、「あなたがたの神を憎む心は、わたしと共に死んだ。だから、あなたがたはすでに清いのだ。」と、主は宣言して、わたしどもを罪から解放してくださったのです。
一方で、「この恵みの中に入れられるということは、この世を敵に回す、この世に居場所がなくなる、ということでもある。」と、主はおっしゃいます。キリストを信じれば、いわゆる一般的な意味での幸せとは反対の、「苦難が待っているのだ。」と、言うのです。神を憎む世を敵に回すのですから、当然と言えば当然です。祈りを諦める心と闘わなければなりません。神を呪う心と闘う。憎しみに囲まれても、愛をもって闘う。そのとき大切なのは、既に、キリストがこの闘いに勝利してくださっているということを忘れないことです。忘れっぽいわたしども。覚えていると思っていても、すぐに長年の癖に流されそうになる。だから思い出せと、主イエスはおっしゃいます。20節。「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。」僕は主人にまさらない。弟子は師にまさらない。わたしどもは、師であられるキリストにまさる者ではないのです。だから、何をするときでも、どんな選択をするときでも、自分の思いに従うのではなく、いつでも、主イエスに従って歩くのです。主イエスのように生きる道を探し求めるのです。たとえ、世から異質な存在と排除されても、憎まれても、主イエスの生き方を真似るのです。主は、世から排除され、憎まれ、友である弟子たちからも見捨てられ、十字架の上で孤独に死なれました。十字架刑とは、神に呪われた存在としての死を意味します。主イエスの死ほど惨めな死はありません。しかし主は、世の憎しみに対して、ご自分の命を与えるほどの愛をもって闘い、愛を貫かれたのです。憎しみに負けて、憎み返すことは簡単です。けれども、人の憎しみに、主の愛が負けてしまうことはありませんでした。主の愛は、命を奪われても、変わることはなかったのです。
既に闘いに勝利しておられる主イエスが、わたしどもの主人です。わたしどもの師匠です。愛の師匠です。わたしどもは、どんなときでも、わたしどもにまさっていてくださる主に頼ることができるのです。現代の日本においては、教会に行っているからといって、石を投げられたりすることはありません。せいぜい、たまに、教会の前にゴミが捨ててあったり、駐車場に動物のフンがおきっぱなしになっていたりする程度です。その意味では、迫害というほど苦しみを味わうことなく過ごすことができています。しかし、わたしどもは「世」に属さない者として、「世」で生きています。キリストの弟子として、「世」に派遣されているのです。ですから、例えば、家族と一緒にいるときにも、職場でも、学校でも、常に思い起こしたい。「僕は主人にまさりはしない」ことを。主イエスが、わたしどもの存在を通し、家族に、同僚に、友人に、ご自身の みわざをあらわそうとしておられます。わたしが、あなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさいとおっしゃって、わたしの真似をしてごらん、とわたしどもを派遣しておられます。そのとき、わたしどもはひとりぼっちではありません。世の憎しみを一身に背負って、愛を貫き、十字架で死に、甦ってくださった主が、あなたがたを弁護する者を遣わすと約束してくださいました。26節。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」
弁護者とは、元のギリシア語をそのまま訳すと、「呼べば すぐにそばに来てくれる助け手」という意味の言葉です。父なる神さまが、主イエスを世にお遣わしになったのは、ご自分に敵対する世を憎み、滅ぼすためではありません。「神は、その独り子を お与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書 第3章16節の み言葉にある通りです。わたしどもの主は、世の憎しみに対し、愛をもって勝利されました。そして、わたしどもが主のあとに続いて、この闘いを闘い抜き、愛を貫いて勝ち抜くために、助け手を送ってくださる。わたしどもが呼べば、すぐに来てくださる助け手です。キリストの名によって祈れば、いつでも助けてくださるのです。
先週の主日、わたしは小田原十字町教会で礼拝をささげました。礼拝を終えて向かったのは、元ハンセン病患者の皆さんが生活している御殿場の駿河療養所でした。一昨年の末に天に召された友人の上野忠昭さんの記念会が行われることになり、妻と娘と共に参加させて頂きました。上野さんは、若い頃にハンセン病を発症し、駿河の地で生涯を送りました。信仰を与えられ、毎日、北から南に至るまでかかわりのある友のため、かかわりのある教会のために祈っておられました。日々の祈りの時間は2時間にも及ぶと、伺ったことがあります。わたしどもの教会のためにも、毎日、祈っていてくださいました。記念会に参加されたのは北海道から関西に至るまで、上野さんの祈りに支えられた方々でした。キリスト者でない方もおられたと思いますが、そこに集まったすべての皆さんが、上野さんの祈りによって、キリストの愛を心に刻んだと確信しました。ハンセン病を発症した方々への迫害、差別は簡単に語ることができないほど壮絶なものであったと聞いています。しかし上野さんは、世に倣って憎むことより、主に倣って愛する道を選び、聖霊の助けをいただきながら、最期まで執り成しの祈りを祈り続けたのです。上野さんの遺品として、独特な筆づかいによるノートが展示されていました。わたしも参加していた鎌倉雪ノ下教会の教会学校のキャンプで上野さんが中高生に語ってくださった証しもありました。そこには、自らの苦しみを隠すことなく、赤裸々に語りながら、「わたしは洗礼を受け、イエスさまと結ばれ、イエスさまの友とされたことを心から喜んでいます。中高生の皆さんにも、いつの日か、イエスさまと共に生きる喜びを知って欲しい。」と洗礼への促しが記されていました。
わたしどもも、日々の歩みの中でこの世の論理に巻き込まれそうになることがあります。憎しみに対し、憎しみが湧いてきてしまうこともあります。憎しみに押し流されてしまいそうになる。しかし、わたしどもは世の僕ではなく、キリストの僕です。「僕は主人にまさりはしない」ことを思い起こしてよいのです。主は、わたしどもが今まで受けてきたどんなに辛いことも、痛みも、その辛さ痛みをも含む、もっとも厳しい痛みを十字架の上で経験してくださいました。肉を裂かれ、血を流してくださいました。世の憎しみに対し、愛によって勝利してくださったのです。そのようにして、この愛の中に、わたしどもを立たせてくださいました。「あなたはここに立っていてよい。」と言ってくださいました。そして、わたしどもの祈りを待っていてくださいます。祈るなら、聖霊が、わたしどものかたわらに来て、助けてくださるのです。
これから聖餐に与ります。主の愛の証、十字架の上で裂かれた主のからだであるパンと、流された血潮であるぶどうの液に、わたしどもは今から与る。世の憎しみに勝利された主の愛のしるしです。聖餐に与るわたしどもは、世の身内ではなく、主の弟子である。主の愛の中に立たせていただいている。そのことを、改めて確かめるのです。神さまは、今も生きておられます。神さまの愛は、どんなに愚かな世にあっても変わることはありません。なぜなら、救いようのないわたしどもを、世に迎合してしまうわたしどもを諦めず、救いへと導き、罪から解放し、永遠の命を約束するために、み子主イエスの命さえ惜しまずに与えてくださったのですから。欠けだらけのわたしどもを用いてくださる主イエスに信頼し、証人(あかしびと)として用いてくださることを喜び、聖霊の助けを祈り、聖霊に助けていただきながら、主イエスが委ねてくださった使命に生き続けたいと心から願います。

<祈祷> 
天の父なる御神、「僕は主人にまさりはしない」と、わたしどもの歩むべき道を指し示してくださった み子の姿を見つめ、み声を聞き続ける者としてください。わたしどもも、真理の霊に従って生きることを生涯、大切にすることができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか主よ、わたしどもの歩みを、聖霊によって導いてください。主よ、全国各地で台風による様々な被害が発生しております。困難な中にある者を支え、励ましてください。どうか、これ以上の被害が発生しないようおまもりください。世界の至るところで争いが続いております。主よ、争いのあるところに平和をもたらしめてください。世界の指導者が武器を捨て、話し合いによって和解へと進むよう、聖霊を注ぎ続けてください。9月に入りました。なおいっそう、伝道に励もうと、心を奮い立たせる季節を迎えています。10月27日には、病を克服された芳賀力先生による秋の特別伝道礼拝を予定しております。主よ、芳賀先生の心身のご健康をお守りください。一人でも多くの方が教会に招かれますように。伝道委員会だけでなく、すべての教会員が秋の特別伝道礼拝に向けて、祈りを篤くすることができますように。新学期を迎え、悩みを抱えている者がおります。主よ、あなたを頼り、聖霊の助けをいただける恵みを感謝する者としてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【動画配信YouTube】
2024年8月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第30章11節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第15章11節~17節
説教題:「友なるイエス」
讃美歌:546、13、312、Ⅱ-93、541

先ほど、ご一緒に賛美した讃美歌は、312番、「いつくしみ深き」でした。今日、はじめて礼拝に出席された方も、どこかで聞いたことのある曲かもしれません。世界中で愛されている代表的な讃美歌の一つです。恵泉女学園大学名誉教授でいらした大塚野百合先生の著書『賛美歌・聖歌ものがたり』に、この讃美歌についての記述があります。「この歌を書いたジョゼフ・スクラィヴィンは、一度ならず二度までも婚約者に先立たれるという痛ましい運命に出会った人です。最初の婚約者は、結婚式の前日に溺死。二度目の婚約者は、結核にかかり、帰らぬ人となりました。その絶望はどれほど深かったでしょうか。しかし苦しみの中に神さまの不思議な慰めを感じとっていた彼は、心をいためていた故郷の母を慰めるためにこの讃美歌を書いて、送ったといわれています。スクラィヴィンは、自分自身の悲しみ以上に、故郷の母親の苦痛を思い、『わたしのことは心配しないでください。愛なる主イエスがわたしの悲しみを全部背負っていてくださいます。わたしは、祈りによって、平安を得ています』と母に告げるつもりで、この歌を書いたのではないでしょうか。」
日本語の歌詞では、原文にある言葉が省略されているので、大塚先生が原文通りに翻訳してくださっています。1節を紹介します。「なんとすばらしい友でしょうか、主イエスがわたしたちのすべての罪と悩みを負ってくださるとは!なんという特権でしょうか、すべてを神に祈ることができるのは!しかし、なんとしばしばわたしたちは平安を受けそこない、無駄に心を痛めるのでしょうか。すべてのことを神に告げる祈りをしないからです。」今朝、わたしどもに与えられた主イエスの み言葉には、讃美歌312番で歌われている喜びが、記されています。主イエスがわたしどもの友となってくださった喜び。主イエスの名によって、神さまに祈ることが許されている喜びです。
十字架の死が刻一刻と迫る中、主イエスは心を込めて弟子たちに語ってくださいました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。(15:5)」さらに主は、「わたしの愛にとどまりなさい。(15:9)」と、おっしゃいました。「どんなに辛いことがあっても、ぶどうの木に枝がつながっているように、わたしから離れずにいなさい。わたしにつながり、わたしの愛の中にとどまるならば、必ず、豊かに実を結ぶことができる。」と約束してくださったのです。
主イエスの約束は、わたしどもの約束とは違います。わたしどもであれば、相手の出方によって、前言撤回(ぜんげんてっかい)も日常茶飯事。たとえば、「わたしとあなたは一生の友」と約束したのに、もっと魅力的な友と出会った途端、新しい友に心を奪われるのがわたしどもです。しかし、主イエスの約束は違います。たとえわたしどもが主イエスの愛を裏切っても、決して変わることはありません。弟子たちが皆 逃げ出してしまっても主イエスは十字架から逃げ出したりはなさいませんでした。また、ペトロはこのあと、「イエスなんか知らない!」と三度、否定してしまいます。けれども、そうして、主イエスとのつながりを捨ててしまったペトロに、復活なさった主イエスは出会ってくださいました。「あなたは わたしを愛するか。」と三度、お尋ねになり、再び、主イエスにつながらせてくださったのです。
主イエスにつながることの意味を、主はこのようにおっしゃっています。11節。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」主イエスが、「わたしはぶどうの木、あなたがたは、わたしにつながる枝だ。」と、おっしゃってくださったことも、「わたしが父の愛の内にいるように、あなたがたもわたしの愛の中にとどまりなさい。」と、おっしゃってくださったことも、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と、繰り返し語ってくださったことも、すべては、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と、主はおっしゃったのです。喜びそのものでいらっしゃる主イエスが、わたしどもの内に宿ってくださり、わたしども自身の喜びとなって、わたしどもの人生が生き生きと喜びに満ち溢れる。主イエスの み言葉はすべて、そのためのものだと言われているのです。
わたしどもの人生には予期しないことが起こります。嬉しいこともあり、悲しいこともあります。立ち直れないと思うような試練もある。それでもわたしどもは、主イエスのゆえに、喜ぶことができます。この喜びは今、共に礼拝をささげているわたしども、すべての者の喜びです。わたしどもの群れの中には、愛する家族を失った痛みを抱えている方が何人もおられます。それでも、ひとりひとりの中に、喜びそのものでいらっしゃる主イエスがおられます。主がわたしどもの喜びとなってくださり、わたしどもを満たしてくださいます。「あなたがたをひとりぼっちにはしておかない。あなたがたを生かすわたしの言葉を からだいっぱい、心いっぱいに満たして、わたしの名によって祈ってごらん。」とおっしゃっています。
主イエスは、これまで何度も繰り返してこられた教えをもう一度おっしゃいました。12節。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」主イエスが十字架の死を前にして、弟子たち、さらにわたしどもに求めておられることは、とってもシンプルなことだとわかります。シンプルなのに、わたしどもは、愛することを難しく考えてしまっているかもしれません。拒絶されるのがこわくて、裏切られるのがおそろしくて、愛することに臆病になる。
主イエスはおっしゃいます。「あなたがたがぶどうの木の枝のようにわたしに繋がっているなら、あなたがたの中に、わたしは住んでいる。父なる神と共に住んでいる。あなたは決してひとりではない。わたしがついているのだから、必ず、愛に生きることができるのだ。」12節にある「掟」、さらに14節には「命じる」という言葉がありますが、これらは同じ言葉です。日本語の響きから、トップダウンの、有無を言わさぬ響きを感じてしまうかもしれません。しかし、この掟は、単なる命令ではありません。16節には、「わたしがあなたがたを任命したのである。」とあります。主イエスが父なる神さまから遣わされて世に来てくださったように、わたしどもも、主から使命をいただいているのです。主イエスがご自分の務めを、わたしどもに分けてくださっている。委ねてくださっています。それも、この使命を与えてくださったとき、主イエスはおっしゃいました。14節。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」わたしどもが、主からお預かりした使命を果たそうと、一所懸命ひとを愛そうとするとき、主は、「あなたがたは、わたしの友だ。」と言ってくださるのです。15節にあるように、僕(しもべ)に対する命令ではないのです。何が何だか、よくわからないままにくだされる命令を闇雲に遂行しろ!というのではないのです。
これらの言葉に先立って主イエスは、おっしゃいました。13節。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」主イエスが、これから成し遂げようとしておられるもっとも大きな愛のわざ、十字架の死を指し示しておられます。「わたしは、あなたがたを友として愛しているから、あなたがたのために命を捨てる。わたしは、あなたがたをそのように愛しているのだ。」と、おっしゃっています。そして、「わたしの愛のわざを共に行って欲しい。神の愛を伝えて欲しい。わたしの同労者として、共に働いて欲しいのだ。」と、おっしゃっているのです。
加藤常昭先生の著書に、信仰の基本を教える『雪ノ下カテキズム』があります。その問87、88で、主イエスとわたしどもが「友」の関係にあることの特質について、このように書かれています。  「主は、また私どもを、ご自身の『友』と呼んでくださいました。そうであれば、主もまた私どもの『友』であります。『友』とは、ただ相互の愛によって作られた関係に生きる者のことです。わたしどもと主イエス・キリストとは、ただ愛により、また深い信頼により結ばれるものです。それ以外に根拠を持たない絆です。わたしどもはそのように主を愛することが許されているのです。」わたしどもの愛はうつろいやすいものです。だからこそ、主は十字架を指し示して言われるのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」今、わたしどもの前に、十字架の上で、血を流しておられる主イエスが迫ってまいります。主は、おっしゃいました。14節。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
何度も、繰り返し心に刻みたい。主イエスは、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」とおっしゃってくださり、このお言葉を真実とするため、十字架で死んでくださいました。命を捨てて、わたしどもを愛してくださいました。それほどまでに父なる神さまがわたしどもを愛しておられることを、十字架の死によって教えてくださいました。そして、すぐにぐらつき、裏切ってしまう頼りないわたしどもを選び、友と呼んで、「互いに愛し合いなさい。」と使命を与えてくださったのです。「友よ、互いに愛し合うことによって、ぶどうの木の枝に実がなるように、愛という実りを、ひとつひとつ、実らせて欲しい。」と、任命されています。
わたしどもが、真剣に愛に生きようとするとき、わたしどもの内に住んでくださる主イエスが、父なる神さまが、わたしどもの祈りにこたえてくださいます。力をくださいます。勇気をくださいます。私事ですが、わたしが洗礼を受けたのは、高校3年の秋でした。そのとき、プレゼントの聖書の扉に、洗礼を授けてくださった加藤先生が、み言葉を記してくださいました。当時は、口語訳聖書を用いておりましたので、口語訳の み言葉です。ローマ人への手紙 第5章11節です。「そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」この み言葉は、新共同訳になって、「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」と改訳されました。「神を喜ぶ」というのと「神を誇りとする」というのとでは、だいぶ違うように思われるかもしれませんが、訳としてはどちらも正しく、どちらにも訳すことができる言葉です。二つの日本語で一つのことを示すと言ってもよいかもしれません。神を喜び、誇りとすることは、わたしどもの信仰生活をよく表しているように思います。主の使命をひとつひとつ果たすことができたなら、わたしどもの人生は、どれほど誇らしく、喜び溢れるものとなることでしょう。主は、そのようにしてわたしどもの喜びを満たしてくださるのです。赦せないと思うとき、愛せないと思うときこそ、主イエスの み名によって神さまに祈り願うなら、神さまはわたしどもの必要を満たしてくださって、愛することができます。赦すことができます。これほど誇らしく、喜び溢れることはありません。そのために主は、十字架で命を捨ててくださいました。そうまでして、わたしどもの友となってくださいました。神さまはそれほどまでに、わたしどもを愛してくださっています。主の愛にこたえる主の友として、今日、ここからわたしどもは主の愛の使命を  受けて、誇りをもって、喜んで、それぞれの持ち場へ遣わされて行くのです。

<祈祷> 
天の父なる神さま、み子が、わたしどもの罪を赦すために十字架の上で命を捨ててくださったことを心より感謝いたします。主が、わたしどもの内に住んでくださり、「友」と呼んでくださっていることを喜びとし、主の同労者として、「互いに愛し合いなさい。」との使命に、喜んで従う者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか主よ、わたしどもの歩みを、聖霊によって導いてください。主よ、今こうしている間にも、世界の至るところで争いが続いております。命が奪われ、嘆きの声が増すばかりです。あなたの導きを真に願うことができますように。み子がわたしどもを「友」と呼んでくださったように、国と国、民族と民族が、お互いに「友」として愛し合い、赦し合い、助け合う日を一日も早く実現させることができますよう、導いてください。平和をつくる者をひとりでも多くし、特に力ある者の中に、ひたすら平和に生きる願いを呼び起こしてください。なお厳しい気候が続きます。病床にあります兄弟姉妹、痛みを抱えている兄弟姉妹、あなたから心が離れてしまった兄弟姉妹たちの上に、あなたの顧みが豊かにありますように。いつの日か、再び、共にあなたを賛美することができますよう導いてください。全世界にあります教会を顧みてください。戦禍にある教会、被災地にある教会、牧師不在の教会を強め、励ましてください。今日は、佐藤神学生が弦巻教会で説教を担っております。来週は東村山教会で説教を担います。その働きを存分に用いてください。主よ、求道生活を続けている者がおります。み子が「友」と呼んでくださることを素直に信じ、いつの日か、信仰を告白し、洗礼と聖餐の喜びに与ることができますよう、聖霊を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【動画配信YouTube】
2024年8月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第5章1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第15章1節~10節
説教題:「豊かな実りの約束」
讃美歌:546、9、349、525、540、Ⅱ-167

 本日より、第15章に入ります。十字架の死が目の前に迫って来ている中での、主イエスのメッセージが、第14章から続いています。その中で主イエスは、「さあ、立て。ここから出かけよう。(14:31)」とおっしゃいました。先週、ご一緒に読んだ第14章の最後の部分です。けれども、すぐに立って出ていかれたかというと、主イエスのメッセージは第15章、そして第16章へと続いてゆきます。また、現在の聖書は便宜上、このような章や、節で分けられています。さらに、新共同訳聖書では小見出しで区切られるようになりました。しかし、もともとの聖書には何の区切りもありません。ですから、今朝わたしどもに与えられている「ぶどうの木の譬え」と呼ばれる箇所は、「さあ、立て。ここから出かけよう。」という み言葉に続くものであることを大切にして、読んでまいりたいと思います。
 繰り返しになりますが、これらの み言葉を語っておられる、その夜が明ける前に、主イエスは捕らえられます。そして、翌日には世の憎しみを一身に受けて、十字架の上で殺されます。主は、人々の憎しみの真ん中へ、平和を打ち立てるために、飛び込んでいこうとなさっているのです。ヨハネによる福音書は、そのようすをわたしどもに伝えてくれています。この福音書が書かれた時代、教会は、ひどい迫害にさらされていました。憎しみに囲まれ、せめ立てられ、耐え切れずに、主イエスへの信仰を捨ててしまう人もいたのです。ですから、教会に繋がって生きる人々にとって、主イエスが、「さあ、立て。ここから出かけよう。」と言ってくださったことは、そのまま、「さあ、一緒にいこう。憎しみに囲まれていても、共に平和をつくろう。」と励ましてくださっていると感じたのではないかと思います。み言葉の力に、どれほど元気づけられたことでしょう。そして、そのすぐあとに記された、「ぶどうの木の譬え」もまた、憎しみに囲まれた世にあって、平和をつくりだそうと信仰にふみとどまっていた人々の心に、深く響いたに違いありません。現代も、人間の憎しみがうずまく時代です。わたしども一人一人も、互いの間に平和を築くことの難しさを、嫌というほど知っています。傷つくことを恐れ、赦し合うことの難しさに、諦めそうになる日々をおくっています。そのようなわたしどもにも、主イエスは今日、「ぶどうの木の譬え」を語ってくださっているのです。このメッセージは、教会に通っている者、教会学校で育った者、キリスト教保育の幼稚園、保育園で育った園児や、聖書を土台とする学校で学んでいる中高生にとって、馴染み深いものだと思います。わたしが、伝道者として初めて遣わされた教会には幼稚園がありましたので、園長として語り聞かせたことを思い起こします。身振り手振りで、わたしが、ぶどうの木になって、「ぶどうの木はイエスさま。この腕が、ぶどうの枝。そこにぶどうの実がなる。美味しそうだね。」と実演しながら、イエスさまという「ぶどうの木」から離れないでいれば、必ず大きく成長することができます、と楽しく語っていました。
 けれども、繰り返し1節から10節の み言葉を読むと、「あれっ?」とひっかかるところがあるかもしれません。わたしも、今まで園児たちに語るとき、教会学校の子どもたちに語るとき、中高生に語るとき、避けていた み言葉があることを否めません。2節の み言葉です。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」恐ろしい み言葉に思えます。理由を説明する必要はないと思います。「わたしにつながっていながら」とは、「わたしは、主イエスをわたしの救い主と信じます。」と信仰を告白し、洗礼を受け、主イエスと結ばれた者であっても、ということです。実を結ばない枝はみな、ハサミで切り落とされる。それも、農夫である父なる神さまによって。もしも、園児たちの前で、「神さまは、実を結ばない枝は、植木屋さんのように一本残らず、切ってしまうのだ!」と伝えたら、感受性の強い子どもは泣いてしまうかもしれません。わたしは無意識に、限られた時間で子どもたちに語る難しさを言い訳に、2節の み言葉を避けていたことを思わされました。しかし、2節には、まだ続きがあるのです。「しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」
 先週も紹介した、20世紀最大の霊的指導者ヘンリ・ナウエンの著作を編集した書物に、「ナウエンと読む福音書」というものがあります。長く絶版になっておりましたが、再販の希望が多く、2年前に再販されました。ナウエンと同じオランダの画家レンブラントによる素描も収録されているため、イメージ豊かに福音書の世界を伝えてくれる良い書物です。その中に、「ぶどうの枝」の2節への黙想が記されています。ナウエンはこのように記しています。
「刈り込みは、木がより多くの実を結ぶ助けになるというのです。たとえ私が実を結び、神の国のためにあることをなし、人々が私によってイエスをより深く知ることができたと感謝しても、私には  さらに多くの刈り込みが必要です。多くの不必要な枝や小枝が、  実をたくさん結ぶのを妨げています。それらは切り取らねばなりません。それには痛みが伴います。不必要かどうか自覚しているわけではないので、なおいっそう痛みを感じます。さらに、不必要な  枝は、とても活き活きと茂って見えることが多いのです。でも、  切り捨てねばなりません。実をより豊かに実らすために。(中略)  刈り込まれた木は見栄えがしません。しかし収穫の時には、多くの実を結びます。(一部加筆修正)」
 神さまは決して、実らない枝はないか、いらない枝はないかと、大きなハサミを振り回すように、待ち構えておられるのではないのです。より豊かな実りのために、心を配ってくださる。ナウエンは言います。「人から理解されず拒絶される。孤独を味わう。それらは、父なる神さまによる刈り込みかもしれない。」と。わたしどもは、何がしかの良い行いをして、わたしもまんざらではないと思うとき、自分の手柄のように思ってしまうものです。さらに、手柄が人から認めてもらえないと腹を立ててしまうのではないでしょうか。けれども、そのときもし、神さまがハサミを振るって、わたしを整えてくださったと思うことができたなら、むしろ、感謝の思いが溢れてまいります。思い上がることなく、平安の日々を歩み続けることができます。神さまは、あらゆる方法を用いて、わたしどもを豊かな実りへと、導いてくださるのです。
主イエスの言葉は、本当に丁寧に読まないと、溢れる恵みを聞き漏らしてしまいます。飛ばしたり、自分のイメージで曲げたりせずに、言葉通りに読み、信じたい。3節には、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」と言われております。驚くべき み言葉です。わたしども主の僕が清くなるのは将来のことではない。「既に清くなっている」のです。主が心を込めて、言葉を届けてくださるのは、「まことのぶどうの木」である主イエスにつながっているわたしどもです。主の み言葉がわたしどもを既に清めてくださっている。ぶどうの木である主イエスから、枝であるわたしどもに向けて流れる養分が、主の み言葉です。木の養分が枝の隅々にまで行き渡るように、主の み言葉が豊かに流れてくださるとき、わたしどもは清いのです。
主は、続けておっしゃいました。4節。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
主イエスの み言葉は、わたしどもを清め、励ましてくださいます。5節の「その人は豊かに実を結ぶ。」との約束が響きます。主イエスは、「努力して、豊かな実を結びなさい。」と命じておられるのではありません。わたしにつながっていれば、あなたは豊かに実を結ぶと宣言してくださっているのです。神さまから、わたしどもに与えられている賜物はそれぞれ違います。しかし皆、ぶどうの木である主イエスに繋がって、主の み言葉から栄養を頂き続けているなら、誰もが豊かに実を結ぶ。結ばないということは有り得ないのです。
今朝の み言葉を通して、改めて感じるのは、キリスト者の人生に成功も失敗もないということです。勝ち組も負け組もないのです。ぶどうの木である主イエスに繋がり、教会に繋がり、み言葉を慕い求める。それがキリスト者の喜びです。悲しいかな、わたしどもはうっかりすると自分の行いを誇りたくなります。誰かから誉めてもらいたくなります。誰も誉めてくれなかったり、理解されなかったりすると腹が立ちます。でも、ナウエンの言うように、そのような痛みを感じるときは、神さまが無駄な枝葉を刈り込んでくださっている時かもしれません。刈り込んで頂けることを喜びとしたい。皆、かげがえのない一枝です。太い枝もあれば細い枝もある。それでも皆、同じ主イエスという ぶどうの木の一枝。皆、農夫である父なる神さまから、愛を注がれ、主イエスの み言葉を養分とし、それぞれに与えられた地上での ただ一度の命を生きる者たちなのです。
先週は、数名の教会員の訪問をさせていただきました。御言葉と祈りの会に出席された皆さんには、訪問の報告をし、共に、それらの皆さんの祝福と平安を祈りました。月曜、火曜、水曜とそれぞれ1名ずつ訪問。限られた時間ではありましたが、教会員の皆さんの様子を報告し、訪問させて頂いた方々の近況を伺いました。教会で様々な奉仕を担ってくださった方々です。しかし今は、毎週の礼拝出席は難しくなりました。一人の姉妹は、東村山から遠い場所での生活が既に始まっています。けれども、三人の姉妹方とそれぞれ、面談の最後に祈り合うと、皆さん、ぶどうの木であるイエスさまに繋がっておられる。それぞれの中に神さまが住んでおられ、イエスさまが住んでおられると感じるのです。訪問先からの帰り道、励まされ、慰められ、元気になっていました。たとえ視力が衰えても、歩くことが困難になっても、皆、豊かに実を結んでおられる、と心から主に感謝したのです。
最後に、ドイツの宗教改革者ルターの言葉を紹介して終わります。ルターが、叫ぶように書き記した激しい言葉です。「わたしたちは きよくはない。いやしかし、それにもかかわらずきよい、イエス・キリストのゆえに。」主イエス・キリストに繋がっているならば、み言葉が樹液のように わたしどもの隅々にゆきわたるならば、わたしどもは、誰が何と言おうと、自分がどう思おうと、清いのです。主イエスが「あなたは清い。わたしのゆえに。」と、保障してくださっているのですから、清いのです。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(13:34)」との、主の掟を生きることができるのです。第14章14節では、このように言われていました。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」敵対するあの人のことは赦せない!と思うときも、祈るのです。愛することなどできない!と思うときも、祈るのです。主の み名によって、祈るのです。赦すことができますように。和解することができますように。主に不可能はありません。必ず叶えてくださいます。心を込めて神さまに願い続けるなら、祈りによって、強められます。赦すことができます。愛することができます。主につながって、豊かに実を結ぶことができるのです。

<祈祷> 
天の父なる御神、ぶどうの木である主イエスにつながる枝として、育んでください。あなたから離れることなく、清い者として、愛の実を豊かに結ぶことができますよう聖霊を注ぎ続けてください。主イエス・キリストの み名によって 祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか主よ、わたしどもの歩みを、聖霊によって導いてください。主よ、東村山教会に新しい兄弟姉妹を加えてくださり、心より感謝いたします。生まれる前からあなたの愛に育まれてきました。どうか、これからも、あなたの子どもとして、ぶどうの木に連なる枝として、豊かな実りへと導き続けてください。み心と信じ、送り出してくださった岩槻教会の上にも、あなたの祝福がありますように。全能の神よ、主の平和を祈ります。争いの続く世に愛を注いでください。愛する者を失い、嘆きの中にある者を慰めてください。望みを失っている者にあなたにある希望を抱かせてください。わたしどもの国も戦後79年を数え、戦争による傷の記憶が遠のく中、再び、愚かな方向へ舵を切ろうとしている現実があります。憎しみ合う世ではなく、赦し合い、愛し合う世をつくっていくことができますように。宮崎で大きな地震がありました。さらに大きな地殻変動も心配されています。能登半島の復興もなかなか進んでいません。全国各地で困難な生活を強いられている者たちの必要を満たしてください。不安の中にある者を強め、励ましてください。福音を語り続けている教会を存分に用いてください。猛暑の中、被災された方に寄り添い、災害支援を続けている者たちの健康もお守りください。暑い日が続き、体調を崩している兄弟姉妹がおります。礼拝を慕いつつ、それぞれの場所で祈りを合わせております。主よ、どこにあっても、あなたが共におられることを忘れることのないよう聖霊を注いでください。み子 主イエス・キリストに繋がるぶどうの枝として、愛し合い、祈り合い、励まし合う教会として導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も  与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【動画配信YouTube】
2024年8月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第41章9節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第14章25節~31節
説教題:「平和の約束」
讃美歌:546、53、498、Ⅱ-1、531、539

 弟子たちは、主イエスから「わたしに従いなさい。」と声をかけて頂いて、それからずっと、「この方こそ、救い主。」と信じ、従ってきました。その主イエスが、祭司長たちやファリサイ派の人びとの陰謀によって捕まってしまう。殺されてしまう。心を騒がせている弟子たちに、主イエスは、遺言ともいえるような説教を お語りになりました。
主イエスは、弟子たちに約束されました。第14章18節。「あなたがたを みなしごにはしておかない。」十字架の上で殺されても、「あなたがたのところに戻って来る。」すでに読みました16節には こうありました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」「弁護者」と訳されたギリシア語は、「パラクレートス」という言葉で、「力強い味方」、「助け主」という意味の言葉です。26節でも再び、この「弁護者」について語っておられます。26節。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」父なる神が、わたしどもに、神の愛、主イエスの赦し、永遠の命の約束を届けるために、主イエスの名によって遣わしてくださる聖なる霊、それが聖霊です。主イエスは、ご自分がこれまで語り、教えてきた言葉、約束の意味を悟っていくための助け主として、聖霊が与えられる、と約束してくださいました。聖霊は、目で見ることはできませんが、今ここに集っております わたしどもにも、聖霊が働きかけていてくださっています。
 聖霊のはたらき方は、様々です。ときに突然の雷のように激しいものであったりします。大雨のあとの虹のように、試練を越えて、現れることもあります。あるいはまた、何十年もかかって、葡萄酒を静かに熟成させる酵母のように、じっくりと時間をかけて働いてくださることもあります。聖霊は、わたしどもひとりひとりのために、もっとも良いと神さまが考えてくださった通りに働いてくださり、わたしどもに神さまの恵みがよくわかるように、助けてくださるのです。ですから、もし、今は よくわからないと思うことがあっても、読み飛ばしてしまわずに、心の中にしまっておいて、ときどき思い起こしたり、読み直してみたりして頂きたいのです。
先週は、たくさんの中高生の皆さんが、主の日の礼拝に出席してくださいました。進学先が、たまたまキリストを軸とする学校だったという中高生の皆さんにとっては、もしかすると、今は神さまの恵みとか、聖霊の働きとか言われてもピンとこないかもしれません。でもどうか、学校で使っている聖書を、卒業しても捨てないでください。可能であれば、押し入れの中などではなく、ときどき目につくところ、引き出しの中や本棚の片隅に置いて、気が向いたら、パラパラめくってみて欲しい。そして、何年後かわかりません、何十年後かもしれません。教会を、ふと、懐かしく思い出したら、聖霊が働いておられます。時が来たと、知らせておられます。教会で、主イエスが待っておられます。わたしどもの教会にも、時々、そのようにして教会に帰って来られる方がいらっしゃいます。非常に嬉しく、力が湧いてきます。先ほど、聖霊は目に見えないと申しましたが、聖霊が働いてくださっている事実を、その方の姿を通し、見ることができるからです。
さて、主イエスは続けておっしゃいました。27節。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」平和という言葉が心に響きます。平和と訳された元のギリシア語は、「エイレーネ―」という言葉で、平和、平安という意味の言葉です。
20世紀を代表する霊的指導者ヘンリ・ナウエンは、「平和」についてこのようなメッセージを残しています。「み子、イエスは平和を実現する方です。イエスの平和は、単に戦争がない状態を言うのではありません。単なる調和や均衡ではないのです。(中略)戦争によって引き裂かれた世界のただ中でも、未解決の問題や激化する人間の争いのさなかであっても、(イエスの)平和は存在し得ます。」主イエスは、わたしどもすべての者のために、ご自分の命を お与えになることによって、平和を実現されました。十字架の上で世の憎しみを一身に引き受けながら、敵対する者たちのために、平安を祈ってくださり、すべての者の罪を背負って、身代わりとなって、死んでくださいました。そしてわたしどもが、不安で心騒ぐときにこそ、「この平和は、あなたがたのものだ。安心していなさい。わたしが、あなたがたと共にいるのだから。」と主は、おっしゃっています。わたしどもの平和を聖霊によって守り、励ましていてくださいます。「あなたがたも平和を実現することができる。戦いに引き裂かれている世にあっても、必ず、実現することができる。心を騒がせなくてよい。おびえなくてよい。わたしを愛し、すべてをわたしに委ね、わたしと共に生きて欲しい。どこにいても、あなたの平和は決して消えることがない。わたしが与える平和なのだから。」と、励ましてくださるのです。
主イエスは続けておっしゃいました。28節。「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」主イエスは、念を押しておられます。18節で、約束された言葉を繰り返しておられる。けれども弟子たちは、主イエスが何を語ってくださっても、言葉を重ねて繰り返し励ましてくださっても、下を向くばかりでした。どんなに「大丈夫だ、必ず戻って来る。」と言われても、結局、死んでしまったらそれまでじゃないか。イエスさまがどんなに素晴らしい方であっても、死んでしまったら意味もない。そういう思いに囚われていたのです。
愛している人に先立たれる。その不安は、わたしどもを主イエスの み言葉から引き離そうとします。死の力を前にして、生きることが無意味なように感じてしまうのです。だからこそ、主イエスは、自分の死の意味を、あらかじめ弟子たちに伝えようとなさいました。29節。「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行(おこな)っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
「世の支配者が来る」と、主はおっしゃいました。「世を支配している者たちが、わたしを殺しに来る。しかし、彼らが殺したつもりでも、実際には、わたしをどうすることもできない。これから起こるすべては、わたしが望んで、父なる神の み心にそって行っていることなのだと、よく知っておきなさい。」と、主はおっしゃいます。そして、「さあ立って、一緒に出かけよう。父なる神の み心を成し遂げる歩みに、ここから共に出かけていこう!」とおっしゃったのです。
主イエスは、罪のない お方。神と等しい お方です。ですから、世の支配者たちは手出しできない。そして、その主に守られて、主イエスと共に歩む者にも、誰も危害を加えることができません。何者にも支配されない。主がお与えくださる平安の内を歩み、主と共に、主の平和を実現することができる。だから、「さあ、共に出かけよう。わたしについておいで。影法師のようにぴったりとくっつき、離れずについておいで!」とおっしゃってくださるのです。
主イエスは、第14章12節で「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と約束してくださいました。弟子たちが、これから教会においてする業は、主が地上でなさった業より大きいものになると、主イエスご自身が約束しておられます。「わたしを信じ、聖霊によって力を得るあなたがたの業は、もっと大きく広がる。もっと大きく根を下ろしていく。」とおっしゃるのです。そして、弟子たちだけでなく、今の時代を生きるわたしどもにも、「さあ一緒に、ここから出発しよう!」と声をかけてくださるのです。
このあと聖餐に与ります。「これは、あなたのために裂かれたキリストのからだ。あなたのために流されたキリストの血。この犠牲により、あなたは清くなっている。あなたの平和は、たとえ死によっても、おかされることはない。キリストが、あなたの内にいてくださるのだから。」と言われています。そしてさらに、礼拝の最後には、牧師は祝福を祈ります。わたしどもは、この祝福の祈りにより、それぞれの持ち場へと散ってゆきます。家庭、職場、学校へ。主イエスが先立って、「さあ、ついておいで。ここから一緒に出かけよう!」と励ましてくださいます。平和の使者としての働きを期待しておられます。
 最後に、「聖フランチェスコの平和の祈り」を共に心に刻みたい。当初、「平和の祈り」は、作者不明の祈りだったようです。後に誤解によって、フランチェスコの祈りとされましたが、平和を愛した、フランチェスコにふさわしい祈りとされ、「聖フランチェスコの平和の祈り」として広まりました。「ああ主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。争いのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、誤りのあるところに真理を、絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、闇の  あるところに光をもたらすことができますように。ああ主よ、   わたしに、慰められるよりも、慰めることを、理解されるよりも、理解することを、愛されるよりも、愛することを求めさせてください。わたしたちは与えるので受け、ゆるすので ゆるされ、自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。アーメン。」
世のひとは、そんなのは綺麗ごとだ、理想と現実は違う、と言うでしょう。けれども、これが、主イエスが命を賭けてわたしどもに与えてくださった平和です。世の支配者たちが、どんなに強くても、大きくても、おかすことのできない、わたしどもの平和なのです。主イエスが、わたしどもに「さあ、一緒に出かけて、実現しよう!」とおっしゃってくださっている平和です。共に、平和の道具、平和の使者として、与えられた命の炎を燃やし続けたい。聖霊の助けを頂きながら。

<祈祷>
天の父なる御神、主が励ましてくださいますから、主と共に立ち、主と共に出て行くことができますように。「み言葉に従おう」と願いつつ、繰り返して挫折してしまう わたしどもに、望みを新たに、  立ち上がる勇気を与えてください。この世を疎んじたり、憎んだりするのではなく、わたしどもが世に先んじて見ることができた あなたの愛を、あなたの平和を、世もまた見ることができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか 主よ、わたしどもの歩みを、聖霊によって導いてください。主よ、この場での礼拝、聖餐の祝いを慕いつつ、猛暑のため、病気のため、痛みを抱えているため、それぞれの場で祈っている者がおります。オンラインでの礼拝をささげている者もおります。その場にあって、わたしどもと等しい祝福と平安をお与えください。愛する伴侶を天に送った姉妹があります。義理のお母さまを天に送った仲間もあります。あなたの慰めを溢れるほどに注いでください。被災地で今も困難な生活を強いられている者に、あなたの愛を、あなたの平安を注ぎ続けてください。主よ、あなたの愛と赦しを忘れ、憎しみ合い、争い合う世を憐れんでください。一日も早く武器を捨て、和解へと導いてください。争いによって、家族を失い、住む家を失い、深い悲しみの中にある者を憐れみ、あなたの愛で包んでください。主よ、礼拝後、東村山教会への転入会を希望している兄弟姉妹の試問会を執り行います。どうか、あなたの み心がなりますように。夏休みを過ごしている子どもたち、中高生の歩みをお守りください。若い人たちの成長を守り、その行く道を あなたの光で照らしてください。老いていく者の一日一日を み手の内に守り、あなたを仰ぐ信仰を、日々 新たにしてください。力を与え、励ましてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年7月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第31章10節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第14章18節~24節
説教題:「共に住んでくださる神」
讃美歌:546、12、156A、529、545B

刻一刻と迫っている別れを前にして、主イエスが、恵みと慰めの溢れる み言葉を語ってくださっています。できればここで、皆さんと一緒に み言葉を声に出して読んでみたいほどです。家にお帰りになりましたらぜひ、繰り返し声に出して読んでみることをおすすめします。声に出すと、聞こえてくるのは当然、自分の声なのですが、主が語りかけてくださっているような体験を、することがあります。自分の口から出た み言葉が、心の中に染み通るように入ってくる。殊に、第14章以下の み言葉を読んでおりますと、主イエスが大切な宝物をわたしどもに届けようと何度も何度も繰り返し、少しずつ表現を変えながら語りかけてくださっている。そのように感じます。
さて、今日の み言葉は、主イエスの力強い約束から始まります。18節。「わたしは、あなたがたを みなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」主イエスは翌日、十字架で死なれます。今、心を決めて、死に向かって行こうとなさっています。弟子たちに別れを告げておられます。しかし、ご自分のことよりも、残される弟子たちが味わうことになる親に死に別れたり捨てられたりしたかのような淋しさ、不安を思いやって、「わたしは、決してそのまま放っておきはしない、必ずあなたがたのところへ戻って来る。」と、約束してくださったのです。では、「戻って来る」とおっしゃったのは、いつのことを指しているのでしょうか?一つには、主イエスの復活のとき、と言えるでしょう。けれども、主の言葉には続きがありました。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」主イエスは復活してくださって、弟子たちのところへ戻って来てくださる。その恵みを語ってくださりながら、しかし、この恵みには続きがある。それで終わりではないことを示しておられます。「世はもうわたしを見なくなる」と言われています。それでも、「あなたがたはわたしを見る」とおっしゃるのです。信仰は、復活なさった主イエスの姿を肉眼で見て、主のからだに触れて、一緒に食事をしていただいた者だけに与えられる特権ではないのだと、主が約束してくださっているのです。
わたくしごとになりますが、わたしが洗礼に導かれたのは、母の熱い祈りによります。母は、わたしが小学1年生になるのを待って、教会に連れて行ってくれました。母から何度も聞かされたのは、母の幼少の頃の痛みです。母は、法華真宗の熱心な信者の両親から5人きょうだいの4番目として生まれました。しかし、色々な事情が重なり赤ん坊のうちに、養女に出されました。そのことを知ったのは小学生の頃であったと言います。多感な年頃ですから、みなしごのような心細さを味わい、母の心は深く傷つきました。その傷を癒したのは、友人に誘われて通い始めた教会であったと聞いております。誘ってくれた友人や、導いてくれた教会の兄弟姉妹を通して、キリストが母に出会ってくださって、淋しさから救ってくださったのです。わたしどもは皆、状況も、経緯も違いますが、キリストが出会ってくださり、キリストに呼ばれて、ここに集められています。主イエスは、21節で、「その人にわたし自身を現す。」とおっしゃいました。信仰は、主ご自身が、わたしども一人一人の心に、お姿を見せてくださるところに生まれるのです。そうでなければ、わたしどもは一人もここにいなかったでしょうし、教会もなかったでしょう。「わたしは、あなたがたを みなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。」その約束通り、戻って来てくださった。そして実際に、母も、わたしも、そしてすべてのキリスト者が、主イエスに支えられて、主と共に生きています。
わたしどもは肉眼で主イエスを見ることはできません。それでも、主は確かに戻って来てくださって、今も生きて、一緒にいてくださる。たとえ愛する者の死を前にしても、主の約束、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」に「アーメン。本当にその通りです。」と、感謝することができるのです。
主イエスはおっしゃいました。20節。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」弟子たちにおっしゃった「かの日」とは、甦りの日でありましょう。弟子たちは甦りの主にお会いすることができました。主はそれと同じように、わたしどもにも、聖霊によって、お姿を見せてくださいます。肉眼で見ることができなくても、聖霊が、信仰の目を開いてくださる。主イエスは今も生きて、わたしどもの内に働いていてくださることを、教えてくださるのです。そのとき、わたしどもの身に起こることは、驚くほど複雑です。父なる神の内に主イエスがおられ、わたしどもが主イエスの内におり、主イエスも、わたしどもの内に宿ってくださる。入り組んでいるようで、父なる神と主イエスとわたしどもがひとつになっているような、そういうことが起こる。起こっているのです。
主イエスは、十字架の死と復活により、わたしどもをしっかり抱きかかえるようにして、ご自身の中に巻き込んでくださいました。ご自身の存在を賭けて、わたしどもを抱きかかえたまま、神の愛の中へ、永遠の命の中へ突入してくださいました。そのため、一言では言い表せない複雑な繋がりが生まれました。神さまの中におられる主イエスの中にいるわたしども。そうでありながら、わたしどもの中におられる主イエス。わたしどもの存在の内側に深く食いこむように主がいてくださる。主イエスは、そのように、ご自身をわたしどもに現してくださるのです。わたしどもと出会い、繋がってくださるのです。だからこそ、続く21節で、このように約束してくださっています。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」この掟とは、少し前、第13章34節で主がおっしゃった「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という掟です。主ご自身が、わたしどもの人生に深くくいこむようにしてご自身の命を与えながら、「あなたの命は、わたしの復活の命である。だから、わたしが赦したように赦し合い、愛したように愛し合い、仕えたように仕え合うことができる。」と、おっしゃってくださったのです。
しかし、これを聞いていたイスカリオテでない方のユダが、主に尋ねました。22節。「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」。なぜわたしどもに敵対している世、あなたに敵対する世に、ご自身の姿をじかに現わしてくださらないのですか?誰もが ひれ伏さざるを得ないような圧倒的な力を見せつけてやればよいではないですか?と尋ねたのです。イスカリオテでない方のユダ、とわざわざ但し書きをしています。ヨハネ福音書を書いた人は、なぜ、わざわざこのように書いたのでしょう?少し前にイスカリオテのユダの話をしたときにもお話しましたが、ここでもイスカリオテのユダだけが特別なのではない、と言いたいのではないかと思います。イスカリオテのユダも、イスカリオテでない方のユダに代表されるほかの弟子たちも、主イエスに求めたのは、誰が見ても黙らざるを得ない圧倒的な神の力であった。そう思います。ヨハネ福音書が書かれた頃、教会は激しい迫害にさらされていましたから、もしかすると、同じような疑問が生まれていたのかもしれません。どうして主は、こんなまどろっこしいなさり方をしておられるのか?わたしどもと出会ってくださるのはありがたいこと。しかし、もっと、神の存在が一度ですべての人にわかるようななさり方を、どうしてしてくださらないのだろうか?そのような疑問は弟子たち、福音書が生まれた頃の教会に限らず、現代の混沌とした世に生かされているわたしどもにとっても、決して無縁なものではありません。
主イエスは、そのようなわたしどもの疑問に、このようにお答えくださいました。23節。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」質問の答えになっていないように感じます。22節の質問の前に語られた言葉を、繰り返しているように感じる。しかし、よくよく、質問の前の21節と、その後のお答えを比べて読んでみると、つけ加えられている言葉があることに気づきます。それは、24節です。21節と、23節はほとんど同じです。まず21節をもういちど読んでみます。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」次に、質問の後のお答えの23節。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」この後に、24節が続きます。「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」はっきりとした、一本の線が引かれていることに、気づきます。主を愛するのか、愛さないのか。神の言葉を信じるのか、信じないのか。イスカリオテではない方のユダの質問に対する、答えであるかのように、線が見えてくるのです。この線が、動くことはないのです。主は、線をねじ曲げたり、取っ払うことはなさらないのです。無理矢理、圧倒的な力で人間に言うことを聞かせるようなことはなさらない。わたしどもを操り人形のように扱われることはないのです。静かに、問うてくださいます。「あなたはわたしを愛するか?」線のこちら側においで、と呼んでくださっています。
主は、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。(14:14)」とおっしゃいました。人を愛そうとするとき、赦そうとするとき、主イエスの言葉を信じて祈り願うなら、わたしどもは、主の掟を生きることができます。互いに愛し合い、赦し合い、仕え合うことができます。父なる神さまが、わたしどもを愛していてくださり、父なる神さまと、主イエスが、わたしどもを訪問してくださり、一緒に住んでくださるからです。共に住んでくださる神に栄光がありますように。アーメン。

<祈祷>
父なる御神、あなたが み子の内におられ、わたしどもも み子の内におり、さらに み子がわたしどもの内におられることを信じ、み名をあがめます。主よ、あなたを愛し、み子を愛し、隣人を愛する者としてください。あなたと み子が訪問してくださり、共に住んでくださる平安に一人でも多くの者が与ることができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか主よ、わたしどもの歩みを、聖霊によって導いてください。主よ、秋田と山形で記録的大雨による被害が発生しております。さらに能登半島地震等、全国の被災地で今も困難な生活を強いられている者がおります。どうか、必要な支援が行き渡りますように。また猛暑の中、復興のために働く人々をお守りください。主よ、体調を崩している者、入院を余儀なくされている者、治療を控えている者、施設で生活している者、孤独を感じている兄弟姉妹がおります。どこにあっても、あなたと み子が共に住んでおられることを忘れることなく、あなたの眼差しを感じながら、平安に歩むことができますよう聖霊を注いでください。世界の至るところで、争いと対立があります。愛することを忘れ、裁くことに躍起になっている世を憐れんでください。どうか、あなたの愛に立ち帰り、あなたの言葉を守る世へと導いてください。牧師不在の諸教会を強め、励ましてください。特に青山教会、小金井西ノ台教会を力強く導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年7月21日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ヨブ記 第17章1節~3節、新約 ヨハネによる福音書 第14章15節~17節
説教題:「わたしたちの永遠の味方」
讃美歌:546、67、183、500、545A

 主イエスは、愛する弟子たちの不安、恐れを、弟子たち以上にご存知でいてくださるお方です。翌日に迫った主イエスの十字架の死を、弟子たちも察しています。そこで主は、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」とおっしゃいました。また、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と続けられました。そして、不安なとき、恐れにがんじがらめになるときには、わたしを信じ、祈って欲しいと、こうおっしゃったのです。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」わたしどもは、この み言葉を心に刻み、先週の歩みを始めました。皆さんは、どのような一週間を過ごされたでしょうか?わたしは、先週の出来事を通じ、自分がいかに、信仰の乏しい者であるか突き付けられました。 
先週は、大変お世話になった二人の牧師との別れがありました。神学生時代、聖書研究祈祷会に通い、大変お世話になった隠退牧師が天に召されました。週に一度の祈祷会でしたが、中身の濃い学びの時、祈りの時を過ごさせていただきました。短い期間ではありましたが、「み心ならば必ず成し遂げられる」と主の助けを固く信じて、牧会なさる姿と言葉に、大いに力づけられた日々でした。火曜日の前夜式に出席し、その帰りにスマホを見ると、今度は、皆さんと共に祈ってまいりました青山教会の増田将平牧師が天に召されたことを知りました。青山教会牧師として、また頌栄女子学院や青山学院でも福音伝道のために働いておられた先生が52歳で天に召されたのです。いくらなんでもまだ早過ぎる、神さまなぜですか?という思いが、湧き上がってきました。
木曜日、納棺式に参列するため、青山教会にまいりました。納棺前の ご遺体が礼拝堂に安置されていました。2年間にわたる闘病生活から解放された先生の穏やかな表情を見つめ、先生の死を受け入れざるを得ませんでした。また金曜日は富士見町教会を会場に葬儀が執り行われ、大きな礼拝堂に入りきれないほどたくさんの人びとが集い、増田先生との地上での最後の礼拝をまもりました。わたしが司式のときは絶対に泣いていけないと心に決めているのですが、会衆席に座り、最後の讃美歌338番「主よ、おわりまで」を賛美している途中で涙が溢れてきて、賛美できませんでした。そのように、騒ぐ心を抱えながら今日の礼拝の備えをすることになりました。第14章15節から17節の 主イエスのどこまでも深い愛、ご配慮に溢れる み言葉を読みながら、この み言葉を取り次ぐことができる、皆さんと共に読むことが許されている、その恵みが、胸に迫ってきました。
15節にはこうあります。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」主イエスが、弟子たちを信頼しておられます。このあと、ご自身を見捨て、皆が逃げ出すことをすべてご存知のうえで。それでも、「あなたがたは、わたしを愛している。そうであるなら、あなたがたはわたしの掟を生きる。」そういう「宣言」です。決して、「わたしを愛しているというのなら、その証拠として、わたしの掟を守りなさい。」という「命令」ではないのです。主イエスがおっしゃる「掟」とは、第13章34節で主ご自身が、「新しい掟」と呼んでお与えになった「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」でありましょう。わたしどもが愛するよりも先に、主イエスが愛してくださって、足を洗ってくださって、さらに不実な わたしどもを赦すために命を差し出そうとなさりながら、「わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい。あなたがたにはそれができるのだ。あなたがたはわたしを愛しているのだから。」とおっしゃるのです。
しかし、弟子たちがこのあとどうしたかというと、ペトロ、イスカリオテのユダに限らず、すべての弟子が、主イエスが十字架で息を引き取られるときには、逃げ出してしまいました。何と薄情な、と非難することは簡単です。けれども、日々の生活を振り返るとき、弟子たちの姿はそのまま、わたしどもの姿です。たとえ自分に対して好感を持ってくれていない人の言葉であっても赦したい。好きになれない相手であっても愛したい。困窮している人がいれば助け、祈りを必要とする人がいれば、その人のところに行き、心を込めて共に祈る。その人のところに行けなくても、手紙を書いたり、メールをしたり、その人のことをおぼえて祈る。そのように愛に生きたいと願う。しかし、わたしどもは落ち込むのです。ああ、あの人のことも、この人のことも、気にはなっているが、何も行動をおこしていない。まして、迫害する者のために祈ることなど無理、と最初から諦めてしまう。わたしどもの愛はそのように、ほころびだらけです。
火曜日に みもとに召された増田先生は、わたしが釧路から東村山教会に遣わされ、初めての東日本連合長老会の教師会で、親しみを込めて声をかけてくださいました。そして、いつか必ず、青山教会に遊びに来てください。一緒に食事をしておしゃべりしましょう!と笑顔で接してくださいました。先生が声をかけてくださったことだけでも緊張が和らぎました。その後、会議等では常に声をかけてくださり、食事に誘っていただいたときには、牧会での喜び、試練、さらにキリスト教学校での働きの恵みを時間の許す限り語ってくださいました。また、わたしの献身への経緯にも、静かに耳を傾けてくださいました。さらに、4年前からは、同じ学校での働きも与えられました。その増田先生が2年前から闘病生活を続けておられたのに、一通の手紙も書かずに終わってしまいました。情けないことです。申し訳の立たないことです。自分の愛の貧しさに、がくぜんとしています。しかし、主イエスは、そのようなわたしどもであるからこそ、祈り求めてくださったのです。
 16節で主イエスは、こう言われました。「わたしは父にお願いしよう。」真の神と同質であられる主イエスが、心が騒ぎ、愛に生きることに挫折し、「どうせ、わたしなんかには無理な話」と呟いてしまうわたしどもに代わって、父なる神に祈り求めてくださったのです。「弁護者を遣わしてください」と。しかも、永遠に、わたしどもと一緒にいてくださる弁護者です。主イエスは、わたしどもの愛の貧しさをご存知です。同時に、それでも、何とかして主イエスの愛に応えたいと思う心もご存知でいてくださいます。あの人のこと、この人のことをなかなか赦すことができない。好きになれない。でも、愛したい。大事に思いたい。そのように主の み名によって祈るなら、その心を励ますために、必ず新しい弁護者を与えてくださるのです。
「弁護者」という言葉が何を意味しているかは、17節に「この方は、真理の霊である。」と記されているように、聖なる霊であることは明らかです。新共同訳で「弁護者」と訳されている言葉。ギリシア語(パラクレィトン)は、元々は、「呼ばれて傍らにきてくれている者」という意味の言葉です。そこから、「力強い味方」、「肩を持ってくれる者」、「同情をもって弁明してくれる人」、「弁護人」という意味の言葉になりました。主イエスは、ご自分が明日、十字架で処刑されることをご存知です。弟子たちの心が大きく騒いでいることも。そこで、自分が十字架で死んでも、復活し昇天しても、誰も困らないように、代わりの弁護者を遣わしてくださるように、父なる神さまに願ってくださると、約束してくださったのです。
主イエスはおっしゃいます。「まもなく、わたしはあなたの前からいなくなる。だからわたしとは別に弁護をしてくれる聖霊を神からいただこう。わたしが神に願った。だから、あなたの永遠の味方である『真理の霊』が、あなたの弁護者としてあなたを守り、支え、寄り添ってくださる。一緒に住んでくださる。」主イエスは、念を押すように、16節後半で、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」と言われました。「真理の霊」が、永遠に一緒にいてくださるのです。わたしどもが死んでも一緒にいてくださる。父なる神の審きの前に立たされる時も一緒にいてくださる。まさにそこで、わたしどもの弁護をしてくださいます。取り繕いようもない過ちを繰り返し犯してしまうわたしどものため、神ご自身であられる聖霊が、父なる神の前でわたしどもを弁護してくださる、と主イエスは約束してくださったのです。
お手元の新共同訳聖書の巻末にある用語解説を開いて頂きますと、「聖霊」について、このように書かれています。「聖霊は『弁護者』と呼ばれ、いつまでも弟子たちとともにいてイエスを証しし、弟子をすべての真理に導いてくださる。」実際、本日の聖書箇所の少し先26節で、主はこうおっしゃっています。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によって お遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」わたしどもがどんなに辛い時も、誰からも認められない孤独の中にある時も、新しい弁護者、永遠の味方であられる聖霊が共にいてくださいます。聖霊が、聖書に記されている主イエスのお言葉を通じて、わたしどもを励まし、慰め、力を与えてくださるのです。
先週、天に召された増田将平牧師は、息を引き取る直前、救急車の中で伴侶と、ご子息たちが讃美歌を賛美しているとき、共に歌うことは叶いませんでしたが、穏やかな表情で讃美歌に耳を傾けておられたようです。そして、左手を上げ、指先を天に向けられたと伺いました。そのようすを聞いたとき、増田先生は、「わたしは、これから天に帰る。父の家に帰る。だから何も恐れていない。愛する家族、青山教会の愛する皆さん、すべてのキリスト者には、新しい弁護者であられる聖霊が永遠に味方として共にいてくださる。だから、大丈夫。」と最後の力を振り絞り、天を指(ゆび)さしたのだと思いました。
 主イエスはおっしゃいました。「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」先週の二人の伝道者の葬りを通して、わたしもこの真理の霊を地上の命が許される限り、語り続けたいと願いました。さらに、主イエスが語られた「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」「わたしは道であり、真理であり、命である。」との み言葉を信じて欲しい。信仰を告白し、洗礼を受け、主イエスと結ばれ、道である主イエスを通り、永遠の命に至って欲しい、と語り続けたいと願いました。今日、礼拝堂に招かれたおひとりおひとり、またライブ配信を通して礼拝をささげているおひとりおひとりも、それぞれに今、心騒ぐ日々を過ごしているかもしれません。神さまに対する疑いの心が首をもたげているかもしれません。それでも今朝、わたしどもは、主イエスがどれだけわたしどもを愛していてくださるかを知りました。わたしどものために、新しい弁護者、永遠の味方である聖霊を与えていてくださることを知りました。わたしどもは、どんなことがあっても独りではないのです。父なる神さま、子なる神さまを目で見ることができなくても、聖霊なる神さまがわたしどもを支え、永遠の味方としていつも共にいてくださいます。信仰を告白し、洗礼を受けることの幸いは、主イエスの言葉に100%信頼し、天の神さまに向けて、指をあげ、わたしたちはあそこに帰る。あそこから日々、聖霊をいただけると知ることです。わたしも、また愛する者たちも、決して独りではないと、安心して生き、死んでいけることです。聖霊に支えていただきながら、天を仰ぐことができる。天にあるわたしどものふるさとを指さしながら、信仰の闘いの持ち場につくのです。心騒ぐときも大丈夫。聖霊によって必ず愛し合える。赦し合える。慰め合える。聖霊によって、主の み心を地上に拡げていく。主イエスの背を見つめながら、信仰の先輩の歩みに、続くことができるのです。

<祈祷>
天の父なる御神、心騒ぐわたしどものために、聖霊を与えてください。あなたの愛を知った者として、あなたを愛し、み子を愛し、隣人を愛する者としてください。聖霊が常にわたしどもを弁護し、慰め、助け、支えていてくださることを、わたしどもの何にもまさる喜びとすることができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。どうか主よ、わたしどもの歩みを、聖霊によって導いてください。牧者を失った青山教会のために祈ります。教会に学校に心を込めて仕えてきた牧師が天に召されました。深い喪失感の中にある ご遺族、教会員、学校の生徒たちの上に、慰めを溢れるほどに注いでください。深い悲しみの中でささげられる今日の青山教会の礼拝を顧みてください。どのような悲しみの中にも、慈愛に満ちたあなたの眼差しが注がれ、これからも青山教会の歩みを導いてくださいますように。争いが続いております。どうか、あなたの掟である互いに愛し合う世へと聖霊によって導いてください。被災され、困難な生活を強いられている者を強め、励ましてください。特に、その地で伝道牧会の業に励んでいる教会の歩みを導いてください。愛する家族を失い、深い悲しみを抱えている者、病と闘っている者、体調を崩している者、心が塞いでいる者にあなたの愛と平安と慰めがありますように。礼拝後、教会学校のサマーフェスティバルが行われます。子どもたちの心にあなたの愛が届きますように。求道生活を続けている者がおります。あなたへの信仰を成長させてください。信仰を告白する勇気をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年7月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ミカ書 第7章8節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第14章1節~14節
説教題:「心を騒がせるな」
讃美歌:546、54、265、488、544、427

今年に入り、共に礼拝をささげていた仲間たちが次々と天に召されました。もう、一緒におしゃべりしたり、励まし合ったりすることはできません。それでも今朝、わたしどもに与えられた主イエスの約束を心に刻むとき、沈んだ心が奮い立たされる。ざわざわしている心の奥に、主イエスの慰めと励ましが響いてくるのです。
本日から、ヨハネによる福音書第14章の み言葉を読み始めます。第14章から第16章にかけて綴られているのは、主イエスが弟子たちに語られた「告別説教」です。十字架の死を覚悟なさった主が、遺言ともいうべき説教を語ってくださったのです。主イエスが自分たちを置いてどこか遠い所へ行ってしまうと聞いて、不安にかられている弟子たちに、主イエスはおっしゃいました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」
わたしどもも、先が見えずに不安になることがあります。今日が幸せでも、明日のことはわからない。とんでもない不幸に襲われるかもしれない。自分や大事なひとが、病気になってしまうかもしれない、死んでしまうかもしれない。主イエスを失う不安におびえている弟子たちの姿は、わたしどもの姿です。主は、わたしどもにも、おっしゃっているのです。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」あなたには神がついているではないか。わたしがついているではないか。心を騒がせる必要などないではないか。不安に囚われ、暗闇に心を奪われ、脅えているわたしどもを、グイと、光の方へ引き戻すような、力強い み言葉です。「そっちじゃない」と、首ねっこをつかむようにして引き止め、神さまの方を向かせてくださる み言葉です。主イエスは、そうしてわたしどもを神さまの方に向き直らせてくださって、おっしゃるのです。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」神さまのところには、わたしどもが住む場所があるのです。この世のどんな頑丈な家よりも、安心できる住まいが用意されている。主イエスは神さまの光の方へ向き直らせてくださって、「ほら、見なさい。どこよりも安全なあなたの住まいが見えるだろう?もし今見えなくても、わたしがあなたの場所を備えに行って、必ず戻って来る。そのときには、あなたにも見えるようになる。わたしが、あなたと共にいることも、わかるようになる。だから、何が起こっても、神を信じ、わたしを信じて、安心していなさい。」そうおっしゃって、主イエスは十字架と復活の道を進んでくださったのです。そして、復活なさった主イエスは、天へ昇られました。
 ここで一つの疑問が生じます。主イエスはいつ、戻って来てくださるのだろうか?再臨のときまで、わたしどもは放っておかれるのだろうか?しかしヨハネ福音書は、明らかに、「既に戻って来てくださった主イエスが、教会に生きる者たちと共に生きていてくださる。」と信じる信仰に基づいて、書かれています。第14章を読み進めてまいりますと、このような み言葉があります。23節。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとは その人のところに行き、一緒に住む。」主イエスは、主を愛し、主の教えを愛するわたしどものところへ、霊において戻って来て、一緒に住んでくださっているのです。主の霊は、いつでも、わたしどもと共にいてくださる。主は、そのために、天の父なる神さまのもとへ、行かれたのです。
それでも弟子たちは、主が何処かへ行ってしまわれる、との不安が大き過ぎ、主イエスの言葉が心に入ってきません。トマスが耐え切れずに言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」父なる神さまのもとに通じている道。その道を通って行けば、神のもとに行くことができる。神が、ただ遥かに仰ぎ見る存在ではなくなる。その道は、わたしどもが一所懸命、思いを凝らしたところに見えてくるのではありません。しかしトマスは、何か特別な修業でもしなければ道が見えてこないと思っている。わたしどもも、道というと、「道を志す」とか、「道を究める」とか申しますように、困難な道を想像するかもしれません。しかし主イエスはそんなトマスに、またわたしどもに、「わたしから離れないでいなさい。わたしが道なのだ。」とおっしゃいます。わたしを見ているあなたがたは、わたしを信じているあなたがたは、すでに神の みもとで、神を見ている。永遠の神の愛の中にいるのだとおっしゃる。あなたがたはその真理を知っている。永遠の命を得ているとおっしゃるのです。だから、心を騒がせなくてよい、とおっしゃるのです。
しかし弟子たちは立ち止まったまま、困惑しています。トマスに続いて、フィリポも言いました。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」。トマスの問いは、フィリポの願いは、愚かなものでしょうか?そうかもしれません。でも、実は、トマスの問いも、フィリポの願いも、わたしども自身の問いであり、願いではないでしょうか。目を覆いたくなるような世界の惨状に心を奪われ、神が見えなくなる。神なんて、本当は、どこにもいないのではないか。主イエスが再び来てくださるなんて、昔の人が勝手に生み出した妄想ではないか。神が本当におられるというのなら、今ここで、ひと目で誰もが納得する力を見せて欲しい。
けれども主は、そのようなわたしどもの愚かな問いや、願いに対して、怒ったり、突き放したりなさらない。心を尽くし、丁寧に答えてくださったのです。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」父なる神とキリストは、一つなのだということです。わたしどもが修業を重ね、道を究めれば、いつの日か、悟りを開いて、神のもとに行きつく、そのような道が与えられる、というのではない。主イエスご自身が、道なのです。そして、道である主イエスを通れば、誰でも父なる神のもとで平安に暮らすことができる。その根拠は、父なる神とキリストは一つであるからだと主がおっしゃっています。だから、あなたがわたしを見ているなら、すでに父なる神を見ている。あなたがわたしを知っているなら、父なる神を知っているのだと、告げておられます。神と一つであるわたしを信じて欲しい。それこそが、真理なのだと告げてくださっているのです。主イエスが道です。その道は、父なる神さまに通じている道です。主イエスによって、わたしどもは父なる神さまのもとに行くことができます。神さまが、遥かに仰ぎ見るだけの存在でなくなる。それは同時に、わたしどもが神のみもとに住まいを得る、ということでもあります。そのために主イエスは、十字架へと向かって行かれます。復活して、天に昇り、霊において、わたしどもの中に住み、わたしどもを強め、励ましてくださるために、死におもむいて行かれるのです。道である主イエスを通って行けば、神さまの家に行くことができます。
主イエスを通るということは、主イエスと一つに結んでいただくということです。洗礼は、その絆を表しています。洗礼によって、主イエスと一つに結ばれ、主イエスと共に歩み、父なる神さまの愛の中に安心して住まうのです。神の愛の中に、住まいを得るのです。どこよりも安らかな神の みもとに住むのです。今も、そして、永遠に。たとえどんな悲しみに襲われようと、たとえこの世の命の終わるときが来ようと、この安心の保障は限りなく続くのです。
教会は、主キリストのからだであると言われます。道そのものである主イエスが、わたしどもが形成する共同体の中心におられるのです。そして、主キリストの中に父なる神がおられる。神は、そのようにしてわたしどもと共にいてくださいます。今年に入って天に召された仲間たち、さらにすでに召されたたくさんの仲間たち。また、いずれ召されるわたしどもも、洗礼を受け、主と結ばれたならば、一人の例外もなく、主イエスが用意してくださった父の家に、いつかではなく、今、共にいるのです。姿は見えなくても、声は聞こえなくても、この道を、この真理を、この命を、わたしを、信じて欲しいと、主イエスは思いを尽し、トマスを、フィリポを、弟子たちを、わたしどもを、招いておられます。神のみもとへと、招いていてくださいます。それでもまだ信じられなければ、「十字架と復活を見なさい。そして、信じて欲しい。」と念を押すように言われました。「もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」その上で、主イエスは約束してくださいました。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」神さまが見えない、何をどう信じたらよいかわからない、闇のような世に生きているわたしどもにとって、何と言う力に満ちた励ましでしょうか。教会に生きるわたしどもが行う業は、主が地上で行われた業よりはるかに大きなものとなる、というのです。主イエスご自身が、そのようにおっしゃっているのです。そして、その大きな業を行うために必要なことも教えてくださいました。
13節。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」主イエスが、わたしどもを祈りへと導いてくださっています。「信じることは、祈ること。」とおっしゃっています。キリストの教会が2000年以上、続けてきたのは、主の日の礼拝と祈りです。心が騒ぐときも礼拝がある。不安なときも祈ることができる。教会は、主の日の礼拝と、日々の祈りによって、もうおしまいだと思われるような迫害を乗り越え、苦難を乗り越えてきました。苦難の中にあっても、キリストが共におられる。神のみもとに住んでいる。その平安が、教会と、教会に生きる人びとを支えてきました。教会は、神のみもとに備えられている永遠の住まいの、入口と言ってよいと思います。神の住まいの入口の一つであるわたしどもの教会にも、空席があります。場所がたくさんある。共に信じ、共に祈るところに、キリストがおられます。キリストと一つとなって業を行ってくださる神がおられます。それが、わたしどもキリスト者の恵みです。神さまが、放蕩息子の帰りを待ちわびている父のように、ここに立っておられます。待っておられます。信じることは、祈ることです。わたしどもが、主の み名によって祈るなら、その祈りは必ず聞かれます。世のすべての人がこの平安を知り、共に心騒がせず、神を信じ、キリストを信じ、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合う世をつくっていくことができますように!

<祈祷>
天の父なる神さま、道である主イエスを通れば、誰でもあなたの家に住むことが許されている幸いを感謝いたします。主よ、あなたと共に歩む喜びが、ひとりでも多くの者に届きますように。わたしどもも、主にある平安の中で、あなたから与えられる一日、一日をただあなたのみを信じ、父の家に帰るその日まで祈りつつ歩む者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって導いてください。主よ、礼拝を慕いつつ、闘病生活を続けている者がおります。どうか、主にある平安の中で、祈りつつ、豊かに過ごすことができますように。大雨による浸水、土砂崩れ等、災害が発生しております。今までの様々な災害により、今も困難な生活を強いられている者の必要を満たしてください。一日も早く、穏やかな日常を取り戻すことができますように。世界では、激しい争いが続いております。あなたの眼差しを忘れ、争いを正当化するわたしどもを憐れんでください。嘆きの中にある者に、それでもあなたが共におられると信じる心をお与えください。どうか、一日も早く 争いが終結しますように。また、うわべは平和を保っているように見えていても、力ある者が弱い者に蹂躙してはばからない世のありさまを思い、み前に恥じるばかりです。わたしどもの作り出している世の、ひずみのみにくさが正される日が訪れますように。すべての者が みもとに立ち帰る日を来らしめてください。来週の主日は、教会学校のサマーフェスティバルが行われます。ひとりでも多くの子どもたちと共にあなたを礼拝し、楽しい時間を過ごすことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年7月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章11節~12節、新約 ヨハネによる福音書 第13章36節~38節
説教題:「何のために死ぬのか」
讃美歌:546、10、242、21-81、331、543

最後の晩餐における出来事と、主イエスの み言葉を少しずつ読んでおります。わたしどもは、シモン・ペトロのように、主イエスと一緒に寝起きし、主イエスをこの目で見て、主イエスのお声をこの耳で聞いたわけではありません。ですから、シモン・ペトロたちをうらやましく思うこともあります。けれども一方で、わたしどもにとって幸いなことは、わたしどもは、聖書の み言葉によって、主が復活してくださったことを知っているということです。主のご復活をまだ知らないペトロにとって、主が、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない(13:36)」とおっしゃったことは、とても不安な、恐ろしいことであったに違いありません。漁師をしていたときに主イエスと出会い、それまでの生活を全部ほったらかして、主イエスの弟子となったペトロですから、「イエスさまがいなくなってしまったら、これから何を信じ、何を頼りに生きていけばよいのか。イエスさまのおられない日々なんて考えられない。」と途方に暮れてしまったことは、想像にかたくありません。
わたしどもは、主イエスの言葉を繰り返し読み、言葉の奥にある恵みを考えることができます。しかしペトロは、死ぬまでずっと、主イエスと共に神さまの恵みを宣べ伝えていくのだと思い込んでいました。そんなペトロにとって、主イエスの お言葉は、大きな不安に突き落とされるような言葉でした。わたしどもがもし、ペトロの立場で、主イエスから直接、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」と言われたら、どう反応するか?と考えるなら、ペトロのように思わず叫ぶかもしれません。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。(13:37)」
けれども、主は答えておっしゃいました。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。(13:38)」ペトロは、大きなハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けたことでしょう。福音書記者は、このときのペトロの反応について何も記していません。このあとは、主イエスのお言葉が続きます。ペトロはその主の言葉をどのような思いで聞いていたことでしょう。もしかしたら、このあとのお言葉は、まったく耳に入って来なかったかもしれません。
このあとペトロの名前が再び登場するのは、第18章10節です。第18章の冒頭に記されているのは、ユダが主イエスを裏切る場面です。ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れてやって来ました。そのとき、シモン・ペトロは剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落としたと書かれています。
けれども主イエスは、ペトロに言われました。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。(18:11)」そして主イエスは、十字架で死ぬために、進んで、大祭司のもとに連行されていかれたのです。ペトロは、そのあとをそっとついて行きます。しかし、召し使いに見とがめられて、主が予告された通り、その夜が明ける前に、三度、主イエスのことを知らないと証言してしまいました。主イエスは、そうなることがよくわかっておられたのです。しかし主イエスは、ペトロに「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と言われました。「できない。」で終わりではなかった。「できないが」に続けて、「後でついて来ることになる。」とおっしゃってくださったのです。これほどの救いが記されていることをわたしどもは忘れてはなりません。主イエスは、ご自分を捨てて、逃げ出してしまうペトロのために、十字架にかかってくださいました。また、ペトロと同じように、どんなに主イエスに従って生きたいと思っていてもなかなか赦すことができず、愛することができずに何度も失敗してしまうわたしどものためにも、十字架の死を、選んでくださったのです。しかも、死で終わりではありませんでした。死の三日目の朝、父なる神さまは、主イエスを甦らせてくださいました。
ヨハネ福音書を読み進めてまいりますと、主イエスが、甦られたのち、弟子たちの前に再び姿を現してくださったときのことが描かれています。甦られた主イエスは、三度、「イエスなど知らない」と証言してしまったシモン・ペトロに、同じ質問を三度、繰り返して、お尋ねになりました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか(21:15)」。ペトロは答えました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。(21:17)」「あなたのために死ぬ」と言っていたかつてのペトロなら、何のためらいもなく、胸を張って、「はい、主よ、わたしはあなたを愛しています。あなたのためなら、この命も惜しくはありません。」と答えたでしょう。けれども、三度も主の愛を裏切ってしまったことを、ペトロは忘れることができませんでした。だからこのように言ったのです。「イエスさま、わたしの愛がどんなに惨めで、頼りないものであるか、あなたは何もかもご存知です。それでも、あなたがわたしの愛を知っていてくださいます。あなたが、わたしの乏(とぼ)しい愛を支えていてくださいます。」そういうペトロに、主イエスは改めて言われました。「わたしの羊を飼いなさい。(21:17)」自分の愛の乏しさを知り、主の愛がその乏しさを支えていてくださることを知ったペトロに、主イエスは、教会のために生きなさい、わたしに従いなさいと、使命を与えてくださったのです。
主に従うということは、主と共に死に、主と共に生きるということです。あれ?と思われるかもしれません。生きて、死ぬの間違いではないか。しかし、間違いではありません。主イエスの十字架によって、主と共に死ぬ。そして、主イエスの復活によって、主と共に新しい いのちに生まれる。それが、キリスト者の いのちです。永遠の いのちです。永遠の いのちとは、人間がこの世で永遠に生き続けるというようなオカルトチックなことではありません。何度過ちを犯そうとも、何度間違えようとも、「あなたはわたしを愛するか」と繰り返し尋ねてくださり、愛の中で立ち直らせてくださる、主イエスの愛の中に生きるいのちです。神さまは、主イエスを復活させてくださいました。主イエスは今も生きておられます。永遠に、生きておられます。その主と共に在るのですから、永遠なのです。洗礼は、十字架の主と共に死んで、復活の主と共に新しいいのちに生まれることを表しています。主の愛の中に在る、全く新しいいのちに生まれかわるのです。だからキリスト者の死は、終わりではありません。いつまでも、主の愛の中で、生き続けます。
これから主の晩餐に与ります。そこで、主イエスは「わたしを愛するか」と問うていてくださいます。わたしどもの答えは、「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることをあなたはよく知っていてくださいます。」それだけです。「あなたのために立派に死んでみせます!」などと見栄を張る必要などないのです。主は、すべてを知っていてくださるのですから。聖餐式では式文に記されている制定語を朗読いたします。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」この晩餐は「主の死を告げ知らせる」と言うのです。主の死は、決して滅びの死ではありません。その先には、復活が約束されている、望みの死です。信仰を告白し、洗礼を受け、主の愛の中に永遠に生きる者となったわたしどもは、「いずれ必ずやって来る自分の死も、主イエスの死と同じように、復活のいのちに向かう死なのです。」と、告げることができるのです。主イエスの死を告げ知らせる。それによって、わたしどもも主イエスのように死に、主イエスのように甦ると言い表すことができるのです。
先週も触れましたが、長老として主に仕えてこられた愛する兄弟が天に召されました。実は、火葬場で、ハプニングがありました。火葬場には、いくつかの炉がありますが、ちょうど隣りに、まさにこれから炉に入れられようとしている棺に、ご遺族が取りすがって泣き崩れておられたのです。わたしどもが火葬前の式を行っている間も、絶叫と言っても言い過ぎではないほどの嘆きの声は止みませんでした。火葬前式を執り行ってよいだろうかと戸惑うほどでした。それでも、いやだからこそ、その方にも、地上の死は永遠のいのちの始まりという恵みが届くようにと願いつつ、讃美歌405番、「かみともにいまして」を、心を込めて賛美しました。十字架に向かって行かれる主イエスに、シモン・ペトロはついて行くことができませんでした。わたしどもも、愛する者の死に際し、どんなに悲しくても、ついて行くことはできません。けれども、主イエスは甦ってくださいました。そして、ペトロに、またわたしどもに、主と共に永遠に生きる道を拓いてくださいました。三度どころか、繰り返し失敗してしまうわたしどもを、主の愛の中に招き入れてくださいました。だからわたしどもが生きているいのちは、主の弟子としてのいのちです。この世のいのちのある限り、「主イエスは、このわたしのために死んでくださったのです。」と、主の死を告げ知らせながら、生きていくのです。そして、この世のいのちを終えるときも、主の弟子として死んでいく。「わたしの死は、甦りのいのちへと続いている死です。だから悲しまないでください。主の愛の中にわたしは生きています。あなたと一緒に生きています。」と言いながら、死んでいくことができるのです。この永遠のいのちは、信じて洗礼を受けるなら、すべての人に与えられる恵みです。すべての人に この恵みが届きますように。

<祈祷>
天の父なる御神、み子イエスが、弟子たちの手を振り切るようにして死に急ぎ、甦りのいのちの中に立たれたように、そしてそこでもう一度ペトロに愛を求めて、「わたしに従って来なさい」と改めて言ってくださったように、わたしどももその恵みのわざの中で生かしていてくださることを、固く信じさせてください。わたしどももまた、何のために生き、何のために死ぬのかという問いに、いつも明確に、主の弟子として、と答えることができます。主イエスへの愛のゆえに生きまた死ぬと答えることができます。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって導いてください。主よ、教会での礼拝を願いつつ、集うことができなかった者がおります。病と闘っている者、体調を崩している者がおります。主よ、その場にあって、わたしどもと等しい祝福をお与えください。先週の能登半島地震被災地報告会を通し、被災地の現実を感じることができました。主よ、能登半島地震の被災地、また、全国、全世界の被災地で、今も困難な生活を強いられている者の上に必要な支援が行きわたりますように。その地にある諸教会の伝道、また公の復興支援やボランティア活動が守られますように。先週の主日、小金井西ノ台教会で説教の機会を与えてくださり感謝いたします。牧師不在の中、教会の歩みを支えている3名の長老を励ましてください。小金井西ノ台教会のみならず、全国各地の牧師不在の教会を強め、励ましてください。主よ、祈りつつ求道生活を続けている者がおります。どうか、あなたへの信仰を告白する勇気をお与えください。争いの続く世を、愛し合い、赦し合う世へと み心のままに導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【動画配信YouTube】
2024年6月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第6章4節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第13章31節~35節
説教題:「互いに愛し合いなさい」
讃美歌:546、82、235、342、542

 今朝、わたしどもに与えられております箇所は、不思議な み言葉から始まっています。ユダが、主イエスを裏切るために、最後の晩餐の席を立ち、去って行ったその時、主イエスはおっしゃいました。「今や、人の子は栄光を受けた。(13:31)」「人の子」とは、神から遣わされた救い主である、主イエスご自身を表す言葉です。主イエスが、ご自分で弟子として選び、共に神の救いを述べ伝えるために汗を流してきたユダが、最後の晩餐の席を立って出て行ってしまった。それも、主イエスを裏切るために。主にとって、また、神にとっても、不名誉な出来事としか思えません。福音書記者は、「夜であった。(13:30)」と書きました。そう書かずにはおれなかったのです。深い闇が覆っている。主イエスの愛が、破綻してしまったかのように思える。しかし、まさにそこでこそ、主は栄光をお受けになった、というのです。主イエスはなぜ、ユダが出て行ってしまったその時に、「栄光を受けた。」とおっしゃったのでしょうか。
 「栄光を受けた。」ということは、別の言葉に言い換えると、「誰かによって、神として扱われた」という、受け身の言葉です。いったい、主イエスは誰によって、神として扱われたというのでしょう。席を立って出て行ってしまったユダでないことは、確かでしょう。しかし、ユダが出て行ったそのときに、主イエスの十字架は、決定づけられました。主イエスは、裏切ろうとしているユダを止めることがおできになったはずです。でも、そうはなさいませんでした。逃げて、身を隠してしまうことが、おできになったはずです。でも、進んで十字架への道をお選びになりました。主イエスが、ユダの裏切りを甘んじて受け入れられたその時に、わたしどもを救う十字架が、打ち立てられたのです。主が、神によって遣わされたキリストであることが、明らかになったのです。そして、わたしどもは今、十字架のもとに座り、共に十字架を仰いでいます。十字架の上で、わたしどもの罪をすべて背負い、処刑された、神の み子主イエスを、神としてあがめ、ほめたたえているのです。
 主イエスは、さらに続けておっしゃいました。「神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。(13:31~32)」人間から見れば、十字架は恥です。屈辱です。誰が、罪人として処刑されて死んでいくことを望むでしょうか?それも、自分の罪でなく、人の罪を背負い、身代わりに殺されるのです。しかし、その恥と屈辱の極みである十字架こそが、神の栄光が現われるところ、神が神としてあがめられるところなのだと、ヨハネ福音書は告げているのです。
 そして、ここまで、「栄光を受ける」という受け身の言い方がされてきましたが、途中から、「神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」と、受動態から能動態に変化しています。主イエスの十字架によって、神の救いが明らかになったら、すぐに、神の働きが始まるのです。時を置かずに、神は、主イエスを復活させてくださる。その希望を、告げてくださったのです。そして、改めて、弟子たちに語りかけられました。「子たちよ(13:33)」
 スイスで宗教改革を行ったカルヴァンは、「子たちよ」について、このように書いています。「イエスは、弟子たちを、『わたしの小さな子どもたちよ』と呼んでいる。この極めて愛情のこもった呼びかけによって、イエスは、弟子たちを深く愛しており、弟子たちから離れて行くのも、決して、彼らの救いに無関心なのではないということを、明らかに示している。」
 「子たちよ」。小さな言葉ですが、まるで童話の中で、子ヤギたちを置いて出かける母ヤギが、子ヤギたちを心配して、思いを尽して語りかけるような慈しみを感じます。主イエスの愛が、ほとばしるような、呼びかけです。主イエスは、あとに残していく弟子たちを愛し、慈しんでおっしゃいました。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。(13:33)」
主イエスが、「ユダヤ人たちに言ったように」とおっしゃったのは、第7章34節に記されている主イエスの言葉です。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」その言葉を、十字架の死を見据えて、弟子たちにもおっしゃったのです。しかし、同じ言葉であっても、主イエスは、「子たちよ」と愛をこめて呼びかけておっしゃいました。また、今日は第13章35節で区切りましたが、主イエスの お言葉は続いています。先を読み進めてまいりますと、第14章15節以下で、主イエスはこのようにおっしゃいました。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、  わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。(14:15~21)」少し長い箇所を朗読しましたが、主イエスは本当に、我が子に噛み砕いて話すかのように、少しずつ言い方を変えて、ひとつのことを一所懸命伝えてくださっています。「わたしは、決して、あなたがたをひとりぼっちにするのではない。わたしはいつでも、あなたがたの内にいる。あなたがたは、わたしを愛しているだろう。それならば、あなたがたは、わたしの与える掟を守ることができる。」その思いを込めて、主イエスがわたしどもに与えてくださったのが、第13章34節の お言葉です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」この お言葉の中に、わたしどもは主イエスの姿を見ることができます。この お言葉に、主イエスがおられるのです。ただの命令ではないのです。「わたしがあなたがたを愛したように」と、主イエスはおっしゃいました。主イエスは、この お言葉を通して、弟子たちに、「あなたがたの汚(よご)れた足を洗ったわたしの姿を思い起こして欲しい」とおっしゃっています。「わたしの姿を思い起こすなら、あなたがたも、互いに足を洗い合うことができるだろう?」と弟子たちにおっしゃっています。そして、わたしどもにも。「十字架に架かって、あなたがたの代わりに死んだわたしを、その姿を、思い起こして欲しい。わたしの十字架を思い起こすなら、あなたがたも互いに赦し合うことができるだろう?愛し合うことができるだろう?」と、おっしゃっているのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」この掟の中に、わたしどもは、主の十字架を見ることが許されています。「子たちよ、あなたがたはひとりではない」と、愛をもって、語りかけてくださるお姿を、見ることができるのです。
さらに主イエスは、続けておっしゃいました。35節。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」互いに赦し合い、愛し合うわたしどもの姿を見た人が、「ああ、この人たちは、主イエスの弟子なのだ。」と、知るようになる。この人たちは、主イエスに従い、主イエスと共に歩んでいる人たちなのだと、わかる。主イエスが、わたしどもの中に生きておられるのだと、知ることができると言うのです。主イエスがわたしどもに与えてくださった掟とは、そのような恵みに溢れたものなのです!主イエスが、ご自身の命と引き換えにして、「子たちよ、あなたがたは、愛に生きることができる!赦し合うことができる!」と語りかけていてくださいます。わたしどもが、主イエスの十字架による赦しに信頼して、愛し合い、赦し合い、祈り合うなら、わたしどもを見る誰もが、主イエスの愛がわかる、神の愛がわかるようになるのだ、と言われています。
先週の水曜日、ちょうど、午前の「み言葉と祈りの会(祈祷会)」が始まる前、93才の誕生日を迎えたばかりの、わたしどもの大切な仲間が、主の みもとに召されたことを知りました。前日に病院を訪問し、額に手を触れて祈ったのが最後となりました。訪問の度に立ち合ってくださった病院の院長先生は、このようにおっしゃっていました。「兄弟は、どのような状態でも、感謝を言葉にしておられました。その姿に、病院のスタッフはどれだけ慰められ、救われたか。」わたしは、その言葉を聞いて、愛する兄弟は、ベッドで8ヶ月もの間、寝たきりの状態でも、主イエスが与えてくださった「新しい掟」に、忠実に生き抜かれたのだと感じました。亡くなる前日は、会話ができる状態ではありませんでしたが、幼子のような澄んだ瞳の中に、主がおられる、そう感じました。わたしどもも、日々、新しい思いで、主がわたしどもに、「子たちよ」と呼びかけながら与えてくださった掟に、生きる者でありたい。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」み言葉の中に立っている主の十字架を仰ぎ、復活してわたしどもに聖霊を注ぎ、いつも共にいてくださる主イエスに依り頼んで、本気で祈り願うなら、力は必ず、与えられます。赦し合うことができます。愛し合うことができます。主の弟子として生き、死ぬことができます。主イエスの愛を、皆に示すことが、できるのです。

<祈祷> 
天の父なる御神、互いに愛し合う者としてください。主イエスの十字架を仰ぎ、主の弟子として、主の愛に生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。 
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けを  いただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたし どもの歩みを、聖霊によって導いてください。先週の水曜日、主の弟子として、あなたに仕えてこられた愛する兄弟が召されました。昨日 兄弟とささげる地上での最後の礼拝を復活と再臨の光に包まれ執り行うことが許されました。深く感謝いたします。主よ、深い悲しみの中にある者にあなたの慰めを溢れるほどに注いでください。主よ、世界の至る所で、互いに愛し合うことを忘れた争いが続いています。深い嘆きの中にいる者を憐れんでください。指導者たちの頑なな心に、真にあなたの前にひれふす思いを、お与えください。憎しみ合う者でなく、互いに愛し合い、赦し合い、祈り合う世へと導いてください。今日は礼拝後、能登半島地震被災地報告会を行います。困難な生活を強いられている者の痛みを分かち合い、祈り合う時として導いてください。教会での礼拝を慕いつつ、様々な理由のため、それぞれの場で、この時を過ごしている仲間がおります。主よ、いつの日か再び、共に礼拝をささげることができますように。たとえ、この場での礼拝をささげることが困難になっても、互いに愛し合うこと、祈り合うことを忘れることなく、主の弟子として主と共に生きる者としてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年6月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第1章11節~20節、新約 ヨハネによる福音書 第13章21節~30節
説教題:「闇の餌食にならないために」
讃美歌:546、70、195、375、541 

 主イエスが捕らえられる直前、過越祭の前の夜の、夕食の席での出来事を、何回かに分けて、少しずつ読んでいます。今朝、わたしどもに与えられております み言葉は、「夜であった」という言葉で終わっています。「夜であった」。重い響きです。これは、実際に夜の時間帯であったというだけのことではありません。ヨハネ福音書を書いたひとが、ここに、そう書かずにはおれなかったのです。「夜であった」。闇に覆われていた。キリストの光が見えなくなっていた。そう言っているのです。
 夜というときは、つくづく、不思議なときだと思うことがあります。朝になって考え直してみれば、たいしたことでもないのに、夜、ベッドで横になっていると、心配事が頭の中でふくらんで、不安で眠れなくなってしまう、というような経験は、どなたにも、あるのではないでしょうか。そのときわたしどもは、光を見失っています。神さまが、わたしどもを闇から救い出すために、主イエスを光として遣わしてくださった、ということを、忘れてしまっています。神さまが、どれほどわたしどもを大切に思い、愛してくださっているのかが、わからなくなっています。その意味で、今朝、わたしどもに与えられている み言葉は、他人事(ひとごと)ではないと思うのです。
 ユダについて、ヨハネ福音書の記者は、書きました。第13章2節。「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」27節。「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。」29節。「ユダが金入れを預かっていた」。30節。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」キリストに足を洗っていただいたのに、闇の中で光を見失ったユダ。サタンは、いとも簡単に、ユダの中に侵入し、たちまち、占領してしまったのです。ユダは、わたしどものひとりです。例外ではないのです。ユダはむしろ、弟子たちの中で、一目置かれ、信頼されていた人物であったと考えられます。そうでなければ、どうして、大事な財布を預けたりするでしょうか。現に、仲間の弟子たちも、主イエスが、「今から、パン切れを与える者が裏切る」とおっしゃって、ユダにパン切れを与えても、それを受け取ったユダが出て行っても、ユダが裏切ることを誰も分からなかったというのですから、そのことだけとっても、ユダは仲間から厚い信頼を得ていたと考えられます。誰が見ても、あいつならやりかねない、というような男ではなかったのです。それがどうして、こうなってしまったのか。闇に飲み込まれてしまったのか。
ヨハネ福音書が伝えるのは、ユダの心に生じた、小さなほころびを予感させる事件です。第12章の初めに記されています。過越祭の6日前の出来事です。やはり夕食のときのことでした。第12章において、主イエスによって復活させていただいたラザロのきょうだいであったマリアが、主イエスの足にたいへん高価な香油を注ぎ、自分の髪の毛で拭ったのです。この行動を、ユダはとがめました。ユダは言いました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。(12:5)」これについて、第12章の記事には、続けて、こうあります。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。『この人のするままにさせておきなさい。…。』」このあと、ユダの心の動きは、一切、語られていません。まるで、あとは、あなたが胸に手を当てて考えてみれば、思い当たるのではないか?と言われているような気がします。自分のことは棚に上げ、ひとを非難する心。ひとに仕えるよりも、自分の利益を求める心。自分の過ちを誤魔化そうとする心。心当たりのない人間が存在するでしょうか。サタンは、そのようにわたしどもが自分のことばかりに気をとられ、光から目を離している隙に、スーッと入ってくるのです。しかし、どれほど闇が濃くても、光は確かにあるのです。主イエスが、そのようなわたしどもを救うために、光として、神さまの元から来てくださったからです。わたしどもの足を、こびりついている罪を、洗い流して、清めるために、来てくださったからです。
 それなのにユダは、主イエスを近くで見ていながら、この方が神の元から遣わされてきた光であることを、見抜くことができませんでした。主イエスを、光として見ることができませんでした。そのことは、他の弟子たちにも言えることです。だから彼らにも分からなかったのだと思います。主イエスは、ユダが神の恵みから堕ちていこうとしていることを、ご自分の一部がもぎ取られるほどの痛みを覚えながら、おっしゃったのではないでしょうか。「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。(13:20)」ここで、「はっきり言っておく」と訳された元の言葉は、ギリシア語で、「アーメン、アーメン」です。アーメン。これは本当のことです。嘘偽りのない真実です。という言葉です。その、アーメンを、繰り返して、わたしを受け入れてほしい。光として、受け入れてほしい。神から遣わされてきた光であると、信じてほしいと、おっしゃったのです。闇に囚われてしまったユダに。ユダと同類である弟子たちに。わたしどもに。
まさにその時、主イエスは、「心を騒がせ、断言された。(13:21)」とあります。この、「心を騒がせ」、という言葉は、第11章に、きょうだいラザロの死を泣いて悲しんでいるマリアと、彼女を取り巻くユダヤ人たちをご覧になった主イエスが、「心に憤りを覚え、興奮(11:33)」なさったという記述がありますが、ここで用いられている言葉と同じものです。人びとを捕らえ、絶望の中へ閉じ込めていた死。主イエスは、その死と向かい合い、憤り、対決してくださいました。そのときのように、主イエスはここでも、ユダを捕らえた闇に対し、憤っておられます。光を受け入れない闇と、戦っておられるのです。ユダのために。弟子たちのために。わたしどものために。その上で主は、ユダの罪も、弟子たちの罪も、わたしどもの罪も、全部、引き受け、十字架の死に向かって歩み出すことを宣言して、おっしゃったのです。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。(13:21)」
 けれども、先ほどから申し上げているように、弟子たちの中には、主イエスのおっしゃったことの意味がわかった者は、ひとりもいませんでした。皆、主イエスのおっしゃった意味をはかりかねて、顔を見合わせています。そのときの様子を、ヨハネ福音書はこのように書きました。「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、それはだれのことですか』と言うと、イエスは、『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。(13:23~26)」「イエスの胸もとに寄りかかったまま」というのは、少し不思議な表現です。これが誰なのかは、分かりません。ですから、多くの人によって、様々な考察がなされていますが、よく言われているのは、「彼は、我々すべての者にとっての、憧れの弟子の姿だ」という考えです。同時にこれは、わたしどもの本来あるべき姿であると思います。ヨハネ福音書 第1章18節に、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」とありますが、胸もとに寄りかかる弟子という表現は、この み言葉を彷彿させます。父なる神さまのふところ。その平安な憩いの中におられた み子イエスと同じように、主イエスの最も近くにいて、主の愛の中にいる弟子。けれども、その者にも、主の お考えは分かりませんでした。離れたところにいたペトロがしびれを切らし、その弟子に合図を送る。その様子が目に浮かぶようです。
主イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ(13:26)」とおっしゃってから、パンをさき、ぶどう酒に浸して、ユダにお与えになりました。ユダがパン切れを受けたとき、「サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた。(13:27)」とあります。
今日(こんにち)、わたしどもが与る聖餐のパンとぶどうの汁は、主イエスが十字架の上で裂かれた肉であり、流された血潮を現しています。主は、その聖餐を先取りするように、浸したパン切れを、ユダにお与えになりました。愛と赦しの食卓が、ユダにこそ、与えられている。裏切る者に、むしろ、裏切りを指し示すゴーサインのように与えられているのです!何ということかと思います。ユダよ、裏切るがよい。わたしの愛は、あなたの裏切りに勝つ。わたしは、あなたを赦している。これが、この聖餐が、あなたのための光だ。この光のもとへ帰ってくるのだよ。必ず、帰ってくるのだよ。そのために、わたしは、これから死ぬのだから。主イエスはそのようにおっしゃっているのです。
 ヨハネ福音書にその記述はありませんが、ユダは、主を裏切ってしまったことを後悔し、自ら命を絶ったと伝えられています。最後まで、光を見失ったまま、自分で自分を裁いてしまいました。主イエスが、足を洗ってくださったのに。浸したパン切れを渡してくださったのに。ユダのためにも、死んでくださったのに。あなたもわたしの胸もとに寄りかかればよいのだと言われているのに。それでも、だからといって、主の十字架が悪魔に負けたまま、ということはないのです。主イエスは、ユダのために死んでくださったように、ユダのためにこそ、復活してくださったからです。
 わたしどももまた、これほどの主イエスの愛の中へと、招かれています。「わたしの胸もとに寄りかかればよいのだ。」と、招かれています。どんな失敗をしでかそうと、神から遣わされて来たわたしが、あなたを赦しているのだと、言われています。この主イエスの愛に寄りかかり、何もかも、主イエスにお任せして、互いに赦し合って歩んで行くことが許されているのです。

<祈祷> 
天の父なる御神、わたしどもを縛り続ける罪を赦すために、大切な独り子を世に お遣わしくださいました恵みを、感謝いたします。簡単に闇の餌食になってしまうわたしどもです。自分で自分を裁き、うなだれるわたしどもです。だからこそ、語り続けてください。「わたしの胸もとに寄りかかりなさい、わたしの愛と赦しを信頼しなさい」と。わたしどもも、あなたの愛と赦しを心から信じ、共に愛し合い、共に赦し合う歩みを続ける者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。 
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けを  いただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたし どもの歩みを、聖霊によって導いてください。主よ、争いが続いています。至るところで血が流されています。涙が流されています。主よ、憐れんでください。嘆きの中にいる者を。憎しみの中にある者を。望みを失っている者を。すべての者が、あなたの愛と赦しを知り、それゆえに、愛に生きる者、赦しに生きる者としてください。被災地にある諸教会のために祈ります。様々な困難、将来への不安を抱えながら、それでも、あなたが必ず良い方向に導いてくださると信じ、今朝もそれぞれの地で礼拝をささげております。どうか、主にある希望を抱いて歩むことができますように。教会での礼拝を慕いつつ、病のため、体調を崩しているため、様々な理由のため、それぞれの場で、この時を過ごしている仲間がおります。主よ、わたしどもと等しい祝福で満たしてください。どこにあってもあなたが共におられ、いつも愛の眼差しを注いでおられることを忘れることがないように。もうわたしのことなど誰も心にかけていないと思わせる悪魔の誘惑に負けることなく、あなたの愛、あなたの光でわたしどもの仲間を包んでください。主よ、求道生活を続けている者に、日々、信仰をお与えください。そしていつの日か、み子の十字架の死による罪の赦し、み子の復活による永遠の命を信じ、あなたの胸もとに寄りかかる平安、憩いに生きる決断をくだすことができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年6月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ゼカリヤ書 第14章4節~9節、新約 ヨハネによる福音書 第13章12節~20節
説教題:「主が洗ってくださったから」
讃美歌:546、16、340、344、540

過越祭の前の日の夕食の席で、主イエスは立ち上がって上着を ぬぎ、たらいに水を汲み、弟子たち一人一人の足を順番に洗って、手ぬぐいで お拭きになりました。そして、12人の弟子みなの足を洗い終えると、上着を着て、再び、席にお戻りになりました。主は、お尋ねになりました。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。」今朝、わたしどもも、問われています。「どうか、わかって欲しい」と、言われています。
先週、妻と二人、たらいに水を汲み、お互いの足を洗ってみました。気心の知れた者どうしのせいか、気恥ずかしさが先に立ち、今ひとつ、このことの大切さに思い至らず、「気持ちよかったね」、で終わってしまいました。しかし、むしろそのせいで、ああ、わたしどもは本当に何もわかっていないのかもしれないと思わされました。そして今朝、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。」と、  尋ねておられる主イエスの前に、こうして皆さんと一緒に立って います。
わたしどもはイエスを主と呼びます。わたしの主、わたしの救い主。その思いを込めて、主イエスと呼びます。また、洗礼を受けた者は「キリスト者」と呼ばれます。キリストの者、という意味です。一般的に言えば、「クリスチャン」です。先週、第13章1節を読みました。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来た ことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。(13:1)」そして、ここで「世にいる弟子たち」と訳されている言葉を原文通りに直訳すると、「世にいるご自分のものたち」つまり「キリストの者たち」となることを ご一緒に確認しました。これは逆に言えば、キリストの者、キリスト者と呼ばれるようになった者は皆、キリストの弟子である、生徒である、ということです。わたしどもはこのことを、どれほどの真剣さをもって受け止めているでしょうか?13節で主イエスはおっしゃってくださいました。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしが あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」主イエスが、「わたしはあなたがたの先生、師匠だ」とおっしゃっています。その上で、弟子としての一番初めの心得を、教えてくださいました。弟子として主イエスに入門したわたしどもへの、イロハのイの教えです。それを、主は、ご自身で お手本を示してくださったのです。
ひとくちに師匠といっても、色々な道の師匠があります。踊りや落語のような芸能の師匠、武道の師匠、華道、茶道等、様々です。では、主イエスは、何の師匠でしょうか?第13章を読み続けて  まいりますと、34節に、このような み言葉が与えられています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」そうです。主イエスは、愛の師匠です。「互いに愛し合いなさい」という一番大切な教えを、わたしどもが からだで覚え、心から実践し、隣人(となりびと)との間に平和を築いていくために、イロハのイとして、「ほら、こうするんだよ。わたしの真似をしてごらん」と、お手本を示してくださったのです。どのような道であっても、弟子入りをしたら、まず、先生を真似することから始まります。例えば、わたしの妹はクラシックバレエの教師をしていますが、子どもでも大人でも、入門したての頃は、どう動けばよいのかわかりません。バレエを見て、「こんなふうにわたしも踊ってみたい」と思い立って、決心して教室の門を叩いてみたものの、手はどう動かせばよいのか。足はどう動かすのか。誰でも初めは、文字通り、手も足も出ません。ですから先生はまず簡単な動きから、実際に踊ってみせます。手本を示すのです。お手本を見せて、とにかく、何度も何度も繰り返し真似させます。稽古のたびに そうして手本を見せ、真似させているうちに、だんだん動けるようになっていきます。むずかしくても、思うようにできなくても、諦めずに先生のお手本をひたすら真似ているうちに、少しずつ身についてくるのです。
わたしどもが主イエスに弟子入りして、何とか身につけたいと心から願っている、ひとを愛するということ。敵のために祈ること。友のために命を捨てること。ひとを自分の下に置いて見下したり、相手によって態度を変えたりせずに、いつでもひとに仕えること。それらは本当に難しいことです。主のようにできないことは、ある意味、当たり前かもしれません。16節で主イエスもおっしゃっているように、弟子が師匠より優れているということはありえないのですから、自分の実力でどんなに頑張ろうとしたところで、うまくいくわけがないのです。そのことを、しっかりわきまえて、途中であきらめたり、投げ出してしまわないように、主イエスのお手本を、真似し続けることが大切です。
洗礼を受けた者は皆、主イエスの弟子です。師匠の家に住み込み、いつも師匠と一緒にいる弟子のように、わたしどもは生活の中で、主イエスの真似をして生きていくのです。人を愛するということを、まるで息をするかのように、行うことができるようになるために、主イエスが、見せてくださったお手本を、ひたすら繰り返し、真似をするのです。主イエスのお手本とは、弟子たちの足を洗ってくださったことです。主イエスは、ご自分を裏切ろうとしているユダの足さえ、洗ってくださいました。そればかりか、十字架に架かって、死んでくださいました。「これが、愛することだ」と、手本を示してくださったのです。自分を、まさに今 裏切って、殺す側に回ろうとしている者を赦し、その罪を洗い流された主イエス。そのお姿こそ、わたしどものお手本です。
わたしどもは、敵をも愛し抜くという、途方もなく長い困難な、愛という道の始まりに立って、手も足も出ないかもしれません。  それでも、わたしどもの先生であられる主イエスは、わたしどもを諦めておられないのです。そればかりか、わたしどもの足を洗い、わたしどもの罪を十字架によって清め、「ほら、わたしがあなたがたを洗ったのだから、あなたがたはもう清くなっている。新しい命に生まれ変わって、愛に生きる者となっているではないか。」と言っておられます。入門したばかりの者に、いきなり免許皆伝(めんきょかいでん)を与えるようなものです。しかし、形式だけの免許ではありません。一度手本を示しただけで無責任に取り敢えず免許だけ与えて、あとは自分で頑張りなさい、などというのではないのです。19節に、このような み言葉があります。「事の起る前に、今、   言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、  あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるので ある。」
「わたしはある」という言葉は、旧約聖書においては、神さまが、ご自身をあらわす言葉として使われています。同じように、ヨハネによる福音書では、主イエスが、ご自身の、神としての存在を明らかになさるために使われる言葉です。先生であり、神が天から遣わされた救い主である主イエスが、弟子たちの足を洗ってくださった。それは、わたしどもを裁き、死刑に処すことができるお方が、僕のように ご自分を低くなさって、わたしどもの足を洗い、罪を清めてくださった、ということです。そして、「神であるわたしが、あなたを洗い清めたのだから、あなたは清いのだ」と言ってくださったのです。そのように言っていただきながら、いつまでも、誰かの上に立ったまま、誰かを裁き、責め続けているのだとしたら、それは主イエスの愛を拒むことです。
主イエスが、「わたしはある」とおっしゃってくださいました。「事が起こったとき」、とは、主イエスがユダの裏切りにあい、主の愛が、神の愛が、破れてしまったように思えるとき。愛が敗北したように思えるとき。ということだと思います。わたしどもの愛も破綻してしまいそうなときがあるでしょう。わたしどもが愛そうとして愛に挫折しそうになるとき。赦そうとして、できるわけがないと諦めてしまいそうになるとき。主の弟子であり続けることを諦めてしまいそうになるとき。そのとき、主が語りかけてくださいます。「わたしがあなたを洗った。洗い清めた。わたしを信じ、受け入れるなら、あなたはわたしをお遣わしになった方、神を受け入れている。神の清めが、あなたを清めている。あなたを聖なる者としている。あなたを包むようにして、『わたしはある』。あなたの中に生きて、『わたしはある』。だから、愛することができる。赦し合うことができるのだ。」そればかりではありません。「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」というのですから、主の 弟子であるわたしどもは、ひとに赦しを届ける者、神の愛を運ぶ者として主イエスから派遣されている、ということです。
主イエスが、わたしどもの先生です。わたしどもは、主イエスの生徒です。主イエスを信じるということは、「わたしはある、いつもあなたと共にある」とおっしゃってくださっている方を、ひたすら信じて、毎日の生活を、主イエスの真似を繰り返し反復することによってつくっていく、ということです。主イエスの真似をする生活に、真剣でありたい。まずは形から入れば良いのです。真似で良い。真似が良いのです。主イエスが教えてくださった「主の祈り」は、まさしく、わたしどもにとって、主の真似をする祈りといって良いと思います。「我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」これは、わたしどもに対して、ひどいことをしたひとの罪を、わたしどもは赦しましたから、わたしどもの罪をも、  赦してくださいという祈りです。「赦しましたから」なのです。すぐにひとの上に立って、ひとを罪に定め、裁こうとしてしまうわたしどもです。なかなか赦すことのできないわたしどもです。でも、主イエスが赦し、洗い清めてくださったお姿に倣い、この祈りを祈りつつ、「わたしは主の弟子だから、このひとの足もとにひざまずく。わたしは主の弟子だから、このひとを赦すのだ。」と心に決め、そのひとの足を洗うように、「主よ、わたしにこのひとの失敗を赦させてください」と、諦めずに祈り続けるのです。誰よりも高く尊い方が、神と等しい方が、わたしどもの僕になって、誰よりも低くなって、足元にひざまずいて、足を洗ってくださったのです。その真似を、していくのです。どうしても赦せないと思う相手の足もとに座り、足を洗う。赦すのです。そうして主の真似をしているうちに、赦すということが身についてくるのだと主はおっしゃいます。共に励まし合いながら、諦めずに、主イエスの真似を続けていきましょう。わたしどもが派遣されて行く先々で、主が力をくださいます。わたしどもの先生であられる主イエスは、わたしどものことを決して、諦めておられないのですから。

<祈祷> 
天の父なる御神、あなたが主イエスを遣わしてくださり、互いに足を洗い合う模範を示してくださり感謝いたします。み子のように、互いに足を洗い合う者としてください。主の赦しを真似る者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。 
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けを  いただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたし どもの歩みを、聖霊によって導いてください。主よ、体調を崩している者がおります。病と闘っている者がおります。孤独、不安を抱えている者がおります。生きる望みを失うことのないよう、あなたの愛で満たしてください。あなたの み前に、かかえているすべての荷物をおろすことができますように。争いが続いています。互いに足を洗い合うどころか、足を引っ張り合い、揚げ足を取り、相手の主張に耳を傾けることなく、自らの正義をふりかざす世を憐れんでください。互いの罪を赦し合い、愛をもって歩む世へと導いてください。真の道を求め、求道生活を続けている者を信仰告白、洗礼へと導いてください。あなたの招きを信じることができますように。困難な中にある教会を支え、導いてください。特に、数名の信徒で礼拝をささげている教会、牧師不在の教会、被災地にある教会を強め、励ましてください。礼拝後、各委員会がもたれます。働く一人一人を聖霊によって強め、用いてください。キュリエ・エレイゾン  主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年6月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第11章1節~11節、新約 ヨハネによる福音書 第13章1節~11節
説教題:「完全な愛」
讃美歌:546、86、277、493、539、Ⅱ-167

 一週間の旅路を経て、日曜日、わたしどもは、ここへ戻って参りました。日曜日。主の ご復活を覚える日です。数日さかのぼりまして、木曜日の夜は、皆さんそれぞれ、どのように過ごされたでしょうか。
 本日より、第13章を読み始めます。この第13章から、ヨハネによる福音書は新しい展開をしていきますが、ちょうど、主イエスが捕らえられる直前の、木曜日の夜の出来事から始まっています。年に一度の過越祭の前の、夕食のときのことであったと記されています。
 この日、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。(13:1)」と、第13章は始まります。「この世から父のもとへ移る御自分の時」。これは単に、死んで天国に行く、ということではありません。主イエスが、十字架の死を意識して語られた言葉ではありますが、それだけではないのです。過越祭に、いけにえとしてささげられる小羊のように、殺されて死ぬ。けれども、そのことによって、永遠の存在であられる、父のもとにお帰りになる。しかし、わたしどもを置き去りにして、一人で帰ってしまわれるのではないのです。主イエスを信じる者を皆、一人残らず、神のもとへ連れて行く、そのための道を拓くため。道のないところに道を拓くために、お帰りになる。「そのときが、ついに来たのだ」と、主は悟られたのです。
そのとき、主イエスは、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。「弟子たち」と訳されていますが、   原文に忠実に訳すと、「世にいるご自分の者たち」となります。これは、ひとつには、この場にいた12人の弟子たちを指しています。けれども、ヨハネ福音書の記者は、あえて、「12人」とは書かずに、「世にいるご自分の者たち」と書きました。そこには、主イエスが ご自分の者としてくださったのは、12人だけではない!わたしも、主が愛し抜いてくださった、その一人だ。わたしも、あの時、主の者としていただいた。主の愛の中にあった!という確信があると思います。
ここで一つ、思い起こしておきたい み言葉があります。ヨハネ福音書 第1章11節。「言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」この、「自分の民」という言葉も、第13章1節の「弟子たち」即ち「ご自分の者たち」という言葉と、同じ言葉なのです。主イエスは、「ご自分の者たち」のところに、天から降って来られたのに、受け入れられませんでした。それでどうなったかと言うと、殺されてしまいました。ですから、ヨハネ福音書の記者が、第13章に「世にあるご自分の者たち」と書いたとき、それは、主への忠実を死ぬまで貫き通した者たちばかりではなかったことを、心に刻んでいたに違いありません。しかし、それでも、そのような者たちを、主イエスは弟子として選び、この上なく愛し抜かれた。ヨハネ福音書は、それが、この第13章以降に記していく、主イエスの救いの み業なのだと、告げているのです。主の愛は、目の前の弟子たちだけではなく、「世にいるご自分の者たち」すべてに注がれています。その中には、共に礼拝をささげている、わたしども皆が、数えられているのです。
主イエスは、そのような、「ご自分の者たち」を救い、父のもとへ導く道を拓くために、父のもとへお帰りになる。そのために、死を覚悟なさいました。その死がどのようにおとずれるのかというと、ご自分が弟子としてお選びになった者から、裏切られることによって、始まるのです。「世にいるご自分の者たち」のうちの一人。主が愛して、この上なく愛し抜かれた者たちのうちの一人から、裏切られる。そして、その裏切りの背後には、悪魔が働いていると、主イエスは見ておられます。ユダが例外的なのではありません。ユダも、主イエスの「ご自分の者たち」の一人です。「ご自分の者たち」の一人の心に、悪魔がそーっと入ってきて、占領してしまったのです。
2節。「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」それでもなお、裏切りの計画が遂行されるところで、主イエスは、愛して、愛して、愛し抜かれるのです。3節。「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」足を洗う行為は、奴隷の仕事でした。間違っても、主人のすることではありません。それを先生であり、主人である、主がなさったのです。それも、食事の席に着く前ではなく、食事中に突然、席から立ち上がられた。まさにそのとき、父なる神さまが、すべてを、主に委ねられたのではないかと思います。神さまが、成し遂げようとしておられる救いの み業のすべてを、主イエスにお委ねになった。神さまの愛が、実現しようとしています。それを行う力と、権威が、神さまから主イエスに授けられたそのとき、主は、立ち上がり、上着をぬぎ、手ぬぐいを腰にまとい、たらいに水をくんで、弟子たちの足もとにひざまずいて、その足を洗い、腰の手ぬぐいで、丁寧にふき始められたのです。からだの中で一番汚れてしまっている足を、洗ってくださったのです。
 ペトロの順番が来たとき、ペトロは、「イエスさまに足を洗って いただくなんてとんでもない!」と思いました。そんなペトロに、主はおっしゃいました。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる(13:7)」、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる(13:8)」。主がおっしゃったように、このときのペトロは、まだ何もわかっていません。主イエスと何のかかわりもなくなる、と言われ、慌てて、「もっと、あっちもこっちも洗ってください。」と求めました。しかし、主イエスは、これ以上の清めは必要ないとおっしゃいました。なぜなら、主イエスが足を洗ってくださることの延長線上に、主の十字架があるからです。すでに主イエスは、神さまから委ねられたご自分の務めを、しっかり見据えておられます。十字架の死を、覚悟しておられます。ですから主は、ここで、十字架の死による清めは、その一回限りで完全なのだと、おっしゃっているのです。十字架以外の何か別のことを付け加えて補う必要など、一切ないのです。 
 わたしどもは、洗礼を受けることによって、主イエスの十字架の死による清めを、この身に受けることができます。ですから、洗礼を受けたということは、主に足を洗っていただいたことであり、主の十字架の死によって、罪を洗い清めていただいた、ということです。では、洗礼を受けたら、金輪際、間違いを犯すことはないのでしょうか?なかなか、そううまくいきません。主イエスに自分を委ねきることができず、失敗を繰り返す。それなのに、です!そういうわたしどもを、さらに清めるための新たな赦しの儀式のようなものは必要ない!と、言われているのです。わたしが足を洗ったのだからもう十分。わたしが十字架に架かったのだから、もうあなたは清い、と言われているのです。何度も失敗しようが、自分で自分を赦せない思いがあろうが、誰が何と言おうが、わたしが、父からすべてを委ねられて、あなたを赦したのだ!と主はおっしゃいます。あなたが、わたしの十字架による清めを受け入れたのなら、あなたは、すでに、神の愛の中で、わたしと共に生きる者になっているのだ、と、言われているのです。
 ペトロは、足を洗っていただいたあと、主が捕らえられて十字架に架けられてしまうそのとき、自分の身を守るために、弟子であることを否定して、逃げ出してしまいました。その大きな挫折の中で、立ち上がることができずにいたとき、主イエスは復活し、ペトロと出会ってくださり、ペトロを立ち上がらせてくださいました。そのときようやくペトロは、「今は分からなくても後になって分かる」と言われた、主イエスの清めの意味を、悟ったのです。
 ここで、主イエスに足を洗っていただいた者たちの中で、避けて通ってはならない人物のことを、もう一度、考えたいと思います。イスカリオテのユダ。もしかしたら、わたしどもは、「この人は、わたしとは関わりのない人。」と、思っているかもしれません。「わたしは、ペトロのような罪人かもしれない。しかし、ユダほどの罪人ではない。」けれども、ヨハネ福音書は、このユダも、主イエスが「ご自分の者たち」としてくださり、足を洗っていただいた者たちの中にいた。主イエスが愛して、この上なく愛し抜いてくださった者たちの中にいたのだ、と書いているのです。主イエスは、ユダが裏切ることを承知の上で、ユダの足元にひざまずき、汚れた足を洗ってくださいました。ということは、ユダのためにも、十字架で死ぬことが、神さまからご自分に委ねられた使命であると、覚悟しておられたのです。そう考えると、「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。(13:10)」という主イエスの み言葉の中に、主の悲しみが響いてきます。主イエスの愛の中にありながら、そこから堕ちていこうとするユダのために、主が悲しんでおられる。主は、ご自分の者であるユダを失うことに、ご自分の一部をちぎり取られていく痛みを、覚えておられたに違いないと思います。ユダは、わたしどものうちの一人です。ユダも、ペトロも、わたしどもも、主が「ご自分の者たち」として愛し抜いてくださり、足を洗ってくださった者の一人なのです。だからこそ、わたしどもは、こびりついた汚れを、ただ一度の十字架の死によって清めていただいたのだと、ひたすら信じ抜くよりほかに、道はないのです。それこそが、主  イエスが拓いてくださった、父なる神さまのもとへ続く道なのです。主の愛にしがみつき、十字架にしがみついて、キリストの力に依り頼むのです。どんな過ちを犯そうとも、何度失敗しようとも、十字架の赦しの力に信頼して、み言葉のもとに身を寄せ、力をいただいて、主の愛の中にとどまり続けるのです。悪魔の もっともらしいささやきを、み言葉によって、はねのけるのです。
 主イエスの十字架の死は、ただ一度の、完全な赦しです。十字架の赦しが完全だから、洗礼を受けた者の命は、どんな過ちを犯しても、何度失敗しても、いつまでも、永遠に、神さまの愛の中にあるのです。ただ一度の、完全な赦しを、完全な愛を、信じ切ることができますように!頼り切ることができますように!一週間の旅路において、何度つまずいても、転びかけても、朝に夕に み言葉に励まされ、「わたしは主の者たちの一人に数えていただいている」その恵みを忘れずに、木曜日には主が足を洗ってくださったことを思い、金曜日には主が十字架で血を流してくださったことを思い、土曜日には主が陰府(よみ)にまで降ってくださったことを思い、復活の日曜日、またここへ戻ってくることができますように!それぞれの事情によって、ここまで体を運んでくることのできない仲間のために、祈ることができますように!

<祈祷> 
天の父なる御神、真の神であられる主イエスが、ひざまずき、わたしどもの汚れた足を丁寧に洗ってくださった恵みを忘れることのないようにしてください。罪を赦された者として、お互いの罪を責め合うのではなく、互いに足を洗い合う者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。 
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けを  いただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたし どもの歩みを、聖霊によって導いてください。主よ、教会での礼拝を望みつつ、様々な理由のためにここに来ることのできない仲間をおぼえます。闘病中の者、試練の中にある者、不安を抱えている者を憐れみ、あなたの愛と祝福で満たしてください。主よ、争い続ける世を憐れんでください。主イエスが、罪深い わたしどもの足を丁寧に洗ってくださったことを感謝し、わたしどもも互いに足を洗い合う者、主に倣う者としてください。地震、豪雨、津波等による被災地で途方に暮れているひとたちをお守りください。また、そこに立つ教会を、守り、お導きください。生きる望みを失っている者に、あなたにある望みと平安を思い起こさせてください。求道を続けている者に、あなたへの信仰を告白する勇気を お与えください。明日から明後日にかけて、全国連合長老会の会議が横浜指路教会で行われます。祝福に満ちた会議となりますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


【動画配信YouTube】
2024年6月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第26章7節~13節、新約 ヨハネによる福音書 第12章44節~50節
説教題:「キリストの熱情」
讃美歌:546、69、Ⅱ-21、Ⅱ-1、276、545B 

6月第一の主日を迎えました。5月は、第二主日に、年間主題  聖句のローマの信徒への手紙。第三主日は、ペンテコステ礼拝のため、使徒言行録。第四主日は、春の特別伝道礼拝のため、ルカ福音書をご一諸に読みました。ですから、およそ1ヶ月振りにヨハネ福音書に戻ってまいりました。第12章の最後の み言葉です。第13章に入りますと、いよいよ過越祭の前夜、「最後の晩餐」と呼ばれている場面に入っていきます。十字架の死が、刻一刻と迫っていたのです。その直前の、今日ご一緒に読む箇所は「イエスは叫んで、こう言われた。」と始まっています。どうしても伝えなければ、どうしてもわたしの言葉を信じてもらいたい、主イエスの熱い思いが、  ほとばしり出た。叫び出さずにはいられなかったのです。なぜでしょうか。この、「叫んで言われた」という言葉のすぐ前には、「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。(12:42)」と書かれています。イエスの逮捕に、異議を唱えることができる立場にあった人たちの中にも、信じている人は少なからずいたのです。しかし、  「ナザレのイエスは、神が我々に与えたもうたキリストだ!」とは、言い出せなかった。なぜかと言うと、自分の立場が危うくなることを恐れたのです。議会から、礼拝堂から、コミュニティから追い出されて、現在の安定した生活を失ってしまうことを、恐れたというのです。時代も、状況も違いますが、その思いは、わたしどもにも、多少なりとも、覚えがあるのではないでしょうか。例えば、身近な人を教会に誘いたいと思う。でも今の関係が壊れてしまうのではないか。そう思うと一歩が踏み出せない。喉まで出かかっている声が出てこない。議員たちの心の迷いは、他人事ではないと思います。だからこそ、今日、改めて、心に刻みつけたい。主イエスがわたしたちの迷いに対して、その迷いを打ち払うかのように叫ばれたことを。叫んでくださったことを。わたしどもを救いたい!あらゆるものに縛られ、迷い、悩み、不安から抜け出せないでいるわたしどもの魂を、ただ救いたい!神さまのふところに抱かれる、あの平安の中へ、神の愛の中へ、連れて行きたいのだと、叫んでくださったことを、しっかりと共に心に刻みたいのです。
主イエスの叫びは、わたしどもの救いです。希望です。わたしを信じて欲しい、わたしを見て欲しいと、主はおっしゃいました。そのときあなたは神を見ているのだ。神のふところの中で、神のまなざしを受けつつ、み顔を仰いでいるのだと約束してくださいました。とは言え、、、と、わたしたちは考えるかもしれません。「この時代に生きていた人ならともかく、イエスを見ることなんて できないじゃないか。」ある意味その通りです。しかしそれでも、「見る」ことが求められています。見えない事実を見抜く、曇りのない澄んだ目が、求められています。
ヘブライ人への手紙第11章には、このような み言葉があります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(11:1)」神さまが、主イエスを天からお遣わしになっている。神さまの言葉も、働きも、すべて委ねて、お遣わしになっていることを、見抜いて欲しいと言われています。主イエスがそのように、天から来られた理由を、主は続けて示してくださいました。46節。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」闇を照らす光が、天から
降(ふ)り注いだのです。わたしどもの進むべき道を明るく照らしている。主イエスこそがその光であると見抜くことができたなら、わたしどもはもう、既に、暗闇ではなく明るいところを歩いているのです。天の光の中にいる。今までどうにも抜け出せずにいた暗闇から足を引っこ抜いていただき、光の中に移されているのです。主イエスが、天から来られたのは、それも、十字架に架けられて殺されるために天から来てくださったのは、ただただ、このため。わたしどもが暗闇で足を取られることなく、神さまが備えてくださる道をまっすぐに歩むため。主イエスの光に照らされながら歩むためなのです。
神よりも、自分の思うところに従って生きている、そのようなわたしども自身がつくっている世界は、争いが絶えることはなく、もはや行きつくところまで行ってしまったのではないかと絶望しそうになります。それぞれの正義を振りかざし、自らの過ちを認めるどころか、相手を徹底的に攻撃し、殺戮の手を止めようとしない。また、自己責任ばかりが問われ、となり人への責任に対してはまったく無関心。自立できない者は打ち捨てられる。闇としか言いようがありません。しかし、主イエスは来てくださったのです。愚かなわたしどものために、すでに、光として、来てくださったのです。そして叫んで、おっしゃったのです。「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。(12:45)」今朝、わたしどもはその声を、叫びを聞きました。「見えない事実を見抜いて欲しい。わたしを光として見て欲しい。光の中で生きて欲しい。神を、ちゃんと、神として欲しい。おのおのの正義ではなく、神の義しさをこそ、畏れかしこみ、神の み心に生きて欲しい。」と言われています。
神の み心とは何でしょう。主イエスが教えてくださっています。「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。(12:50)」永遠の命は、神さまのご命令なのです。命令と訳されている言葉は、このあとの第13章に、あなたがたに新しい掟を与える、と訳されている言葉がありますが、この掟と同じ言葉です。そこで新しい掟として、何が語られているかというと、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(13:34)」という み言葉です。
来週から第13章に入ります。第13章で描かれるのは、夕食の情景と共に、食事をしている弟子たちの足もとにひざまずいて、まるで僕のように、弟子たちの足を洗う主イエスの お姿です。その主イエスが、新しい掟として、「わたしがこのようにあなたがたを愛し抜いたのだから、あなたがたもわたしがしたように互いに愛し合いなさい。」とおっしゃったのです。ですから、これが、神さまのご命令です。永遠の命に生きるということです。ご命令、掟の通りに生きていれば、やがていつの日か、ご褒美として永遠の命が与えられる、というのではないのです。今、ここで、永遠の命を受けよと言われています。互いに愛し合い、この世を神の国にせよと言われています。主イエスを光として見る目があれば、それができる。必ずできると言われています。一日の歩みを振り返るだけでも、うなだれるしかないわたしどもです。赦せない心がある。嫉妬する心がある。しかし、それでもなお、主イエスは叫んでくださったのです。
「そんなあなたを愛し抜き、あなたの罪に対する罰を全部引き
受けた わたしが見えるだろう?十字架が見えるだろう?光が見えるだろう?見えたならば、あなたはすでに光の中にいる。わたしがあなたを闇から光の中へ移したのだから。」自分の行いによってしか罪が赦されないのなら、誰が赦されるでしょうか。しかし、罪を取り除いてくださったのは、神から遣わされて世に来られた主イエスです。だからわたしどもは自由なのです。何ものにも束縛されず、ただ神のご命令のままに、永遠の命に生きることができる。互いに愛し合うことができる。わたしどもはただ信じればよいのです。
主イエスの叫びを、十字架を、無にしてはなりません。十字架は、わたしどもが永遠の命に生きるしるしです。互いに愛し合う者とされているしるしです。信じることができますように。信じ抜くことができますように。わたしどもにはできなくても、神に出来ないことはありません。そのお約束に、頼り切ることができますように。 
これから聖餐に与ります。主が弟子たちの足を洗い、あなたがたは清いのだと宣言してくださってから、分かち与えてくださった聖餐です。ですから洗礼を受けた方、小児洗礼を受け信仰告白をした方のみに陪餐が許されています。繰り返して申しますが、洗礼を受けた者が偉いのではありません。自分のことしか考えない罪人であったのに愛していただき、洗い清めていただき、闇の中から引っこ抜いて光の中に置いていただいた者です。互いに愛し合うために、ここへ招いていただいた者です。もし今、洗礼を迷っておられる方がいらっしゃいましたら、一緒に、主のご命令に従って永遠の命に生きる仲間になってください。励まし合い、慰め合いつつ、神の国をつくる働き手になってください。共に天の光の中を歩んでまいりましょう。

<祈祷> 
天の父なる神さま、み子の十字架の死によって、わたしどもを暗闇の中から、光の中に置いていただき、感謝いたします。望みを失いそうなとき、み子の姿を見ることができますように。光を見失う
ことがありませんように。まだあなたの愛を知らずに、暗闇の中にとどまっている者に信仰を与え、永遠の命へと導いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。 
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けを  いただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたし どもの歩みを、聖霊によって導いてください。能登半島地震から  5ヶ月が過ぎました。今も困難な生活を強いられている人がいます。
望みを失っている人もいます。主よ、あなたの愛で包んでください。能登半島のみならず、国内外の被災地、紛争地において、家族を
失い、住む家も奪われ、深い嘆きの中にある者をあなたの特別の
憐れみの内においてください。あなたと共に生きる平安で包んで
ください。主よ、不当な扱いを受けている人たちが守られますように。すべての人が、人種や性別や、そのほかどんな理由によっても差別されることなく、人らしく生きることができますように。今日も礼拝を慕いつつ、様々な事情により礼拝に与ること、聖餐に与ることができなかった兄弟姉妹が多くあります。主よ、あなたの祝福で満たしてください。あなたの愛を、キリストの光を、見失うことがありませんように。東日本連合長老会に加盟している諸教会を 強め、励ましてください。特に、牧師不在の小金井西ノ台教会、   増田将平牧師が病と闘っている青山教会の歩みをお支えください。あなたが遣わしてくださった三人の神学生の歩みをお支えください。今日の午後から明日にかけて、西東京教区総会がもたれます。あなたの導きにより、祝福に満ちた総会となりますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【動画配信YouTube】
2024年5月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第50章10節、新約 ルカによる福音書 第10章38節~42節
説教題:「必要なことは ひとつだけ」
讃美歌:546、28、238、239、545A 

説教を始めるにあたり、皆さま お一人お一人の上に、神さまの祝福を祈ります。今日、初めて礼拝にいらっしゃった方がおられましたら、心より歓迎いたします。また様々な事情により、教会に足を運ぶことが難しくても、オンラインで初めて礼拝をささげている方がおられましたら、同じように心より歓迎いたします。
本日ご一緒に読んでまいります聖書の箇所は、ルカによる福音書 第10章38節から42節です。登場するのは3人です。一人目は、「イエス」。一般的に「イエス・キリスト」と呼ばれますが、「キリスト」というのは苗字ではありません。すべての命の創り主である神が、この世に遣わされた、「救世主」を示すギリシア語です。ですから「イエス・キリスト」というのは、「イエスは、神さまがわたしたちのために遣わしてくださった救世主。キリストである。」という意味の、イエスへの信仰を言い表す言葉です。同じ意味で、わたしどもの教会では「主イエス」と呼び習わしておりますので、説教の中では「主イエス」と呼ばせていただきます。さて、話を元に戻しまして、二人目と三人目は、マルタとマリアという名の姉妹です。書かれている内容は、それほど難しいものではありません。主イエスは弟子たちと一緒に、旅を続けていました。観光旅行ではありません。神の愛を一人でも多くの人に伝えるための、伝道旅行です。旅の途中で、主イエスは、マルタとマリアが暮らす家をおとずれました。マルタは、おそらくお姉さんでありましょう。しっかり者で、働き者。人をもてなすのが好きで、細やかな心配りができる。それも喜んで、一所懸命することができる人でした。信仰的にも、たいへん熱心な人であったと思われます。
その頃、主イエスは、重い病気を癒すなどの様々な奇跡を行ったり、神の恵みをやさしく教えてくださると、評判になっていました。ですから、マルタは喜んで、「どうぞ、今夜はうちにお泊りになってください」と迎え入れ、心尽くしのもてなしをしました。「噂に名高いイエスさまとお近づきになれた。うちにお泊りいただいて、おもてなしすることができる。」マルタは、それだけで嬉しかった。その思いは、妹のマリアも同じだったと思います。きっとマリアも、途中までは かいがいしく働いていたことでしょう。でも料理を運んでいったときに、つい、お話に引き込まれてしまったのかもしれません。マルタが、ハッと気づいたときには、マリアは、姉の手伝いなどほったらかして、主イエスの足もとにペタンと座り込んで、目をキラキラさせながら話に聞き入っていたのです。
マルタの顔は引きつったかもしれません。「わたしだって、イエスさまのお話を聞きたいのに。神さまの恵みに与りたいのに。でも、まだ料理を用意しなくては。飲み物もおつぎしなくては。ひと段落したら寝床の仕度も、してさしあげなくては。それなのに、マリアときたら!どうしてわたしばっかり!イエスさまもイエスさまだわ。わたしばかりに働かせている妹に対し、何とも思われないのかしら。」マルタは、その思いをそのまま、主イエスにぶつけました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」気が立っていますから、仕事の手は休ませず、立ったまま、そして、周りにも聞こえるような、大きな声であったことでしょう。主イエスは、顔を上げてマルタをご覧になりました。そしてマルタの瞳をじっと見つめながら、静かに呼びかけられました。「マルタ、マルタ」。
わたしどもは、マルタの気持ちがよくわかるのではないでしょうか。どうして自分ばかりがこんな目に合わなくちゃならないんだ。こんなに頑張っているのに、ちっとも報われない。そんなふうに心がイライラしているときは、誰の声も耳に入らないかもしれません。だから主イエスは、静かに、「マルタ、マルタ」とゆっくり、名前を繰り返して、呼んでくださいました。イライラしているマルタの心に届くように、「マルタ、マルタ」と呼びかけてくださったのです。そして、マルタの心が、主イエスの言葉を聞くことができるように落ち着くのを待ってから、おっしゃいました。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
今朝、ここに座っているわたしたちの毎日も、マルタのように、しなければならないことが山積みです。フル回転で働いているのに、誰も手伝ってくれず、ねぎらってもくれなければ、文句の一つも言いたくなるに違いありません。
「必要なことはただ一つだけ」なのだと、主イエスは教えてくださいました。主イエスがおっしゃる、「ただ一つの必要なこと」とは何でしょう。「疲れているときは休みなさい。」とか、「仕事はあとで分担すればよい。」とか、そういうことなのでしょうか。それとも、「そんなに頑張らず、肩の力を抜いてご覧。」などという気休めにもならないようなことなのでしょうか。わたしたちは、あまりにも身につまされ過ぎて、この話の中心が見えてこないかもしれません。
マルタは、心から一所懸命、真剣に、人の役に立ちたいと思っています。そのことは素敵なことです。主イエスも、そういうマルタを否定なさっているわけではありません。でも真剣であるあまり、マルタは色々なことに気を遣い、思い悩み、心を乱してしまったのです。「どうして、自分ばっかり」という思いが湧き上がってきて、「不公平だ」と神さまに文句を言ってしまいました。心が、ぐちゃぐちゃに混乱して、自分でもどうすればよいのかわからなくなってしまったのです。
主イエスはおっしゃいました。「マリアは良い方を選んだ。」マリアが選んだ「良いこと」とは何でしょう。39節に「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」とあります。足もとに座るという表現は、弟子が先生から話を聞くときの姿勢を表すものです。それが、マリアが選んだことでした。主イエスは、マルタを心から心配して、「マルタ、あなたにもわたしのそばに座って欲しい。マリアと一緒にわたしの話を聞いて欲しい。」と、招いておられるのではないでしょうか。
主イエスは、マルタのことも、マリアのことも愛しておられます。そして、わたしたちのことも愛しておられます。愛しておられる  から、今朝、わたしたちをここへ呼んでくださいました。「わたしのそばに座って、話を聞いて欲しい。」と、呼んでくださったのです。その声を、わたしたちは、耳で聞いたわけではなかったかもしれません。けれども、わたしたちも一人一人、名前を呼ばれ、心の耳が、主イエスの声を聞き取ったのです。だから、「せっかくの日曜日、  掃除もしなくちゃ、洗濯もしなくちゃ、あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ」という思いがありながらも、今、ここに座っています。わたしたちの日常生活は、マルタの心を占領していたのと同じような、こまごまとしたことで溢れています。そして、それらをとどこおりなくこなし、誰かの役に立ち、社会の役に立つことで、自分の価値を見出そうとする、そのような毎日かもしれません。しかし主イエスは、そういうわたしたちに「本当に必要なことは、ただ一つだけ。」とおっしゃる。「誰かの役に立とうが立つまいが、わたしはあなたを愛している。だから、疲れた心を抱えたまま、思い悩みも抱えたままで、そのままわたしの元に来て、その重たい荷物を下ろして欲しい。ただ、わたしのそばに座って、わたしの言葉を聞いて欲しい、それが、あなたにとって必要な、ただ一つのことだ。」と、おっしゃっているのです。
ここに、十字架がかかげられています。十字架は、神さまの愛のしるしです。主イエスは、神さまの愛を、マルタに、マリアに、   そしてわたしたちすべての人間に伝えるために、神さまのもとから世に降って来られました。クリスマスの夜に、人間の赤ん坊として、生まれてくださいました。そして、神さまの愛の証として、十字架にかかって、死なれました。神さまがわたしたちをどれほど大切に思っておられるか、どれほど愛しておられるかを、命を賭けて、  教えてくださったのです。神さまの愛は、すべての人に向けられています。主イエスは、わたしどものすべてをご存知です。「どうして、わたしばかりがこんな目に合うのか。」という思いを。「あの人ばかり可愛がられて、誰もわたしのことなど気にしてくれない。」という思いを。主イエスは、そのようなわたしどもを自分の命を犠牲にするほどに、大切にしてくださいました。十字架の上から「神の愛、わたしの愛を知って欲しい。」と呼んでおられるのです。ただ一つの必要なこと。それは、今わたしたちがしているように、主イエスの十字架のもとに、ただ座り、耳を澄ますことです。主イエスの愛に、心を澄ますことです。自分を縛っている思い、こうしなければ、  こうでなければ、誰かの役に立たなければ、生きている意味がないのではないか、そんなわたしたちの重たい荷物を、「全部ここへ下ろしにおいで。」と、呼ばれています。主イエスのもとで、主の愛に心を澄ませば、あとのことは主イエスが教えてくださいます。本当になすべき務めも、そのために必要な知恵も、力も、勇気も、与えてくださいます。そして、いつもそばにいて、助けてくださいます。洗礼を受けてキリスト者、クリスチャンとなった者は皆、その証人です。とは言え、洗礼を受ければ、まったく思い煩わなくなるのか、というと、そんなことはありません。だから毎週、教会へ来て、主イエスの足もとに座り続けています。そして、そのたびに力をいただいて、ここから、それぞれの生活の場に出かけていくのです。
今日、初めて教会にいらした方、ぜひ、わたしたちの仲間になってください。わたしたちと一緒に、主イエスの足もとに座り続けて欲しいのです。祈り合い、支え合い、励まし合う仲間になって欲しい。礼拝は今日だけではありません。毎週ささげられます。来週も、その次の週も、ここで待っています。誰よりも主イエスが、これ  までも、これからも、あなたを待っておられるのです。

<祈祷> 
天の父なる御神、わたしどもに、どんなときも主イエスの足もとに座り続ける信仰を与えてください。今日、初めて礼拝に来た者、求道生活を続けている者が、あなたの招きを信じ、いつの日か信仰を告白し、洗礼を受ける日が与えられますよう導いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。 
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって導いてください。悲しみの中にある者、望みを失っている者がおりましたら、あなたの愛で包んでください。「誰も、わたしのことなど必要としていない」と思い込み、自分の殻に閉じこもっている者がいるなら、あなたの眼差しを注ぎ、「どんなときも、わたしは、あなたを見捨てることはない。安心して、   わたしの足もとに座り、わたしの言葉に耳を傾けなさい。」と語り続けてください。今日も、それぞれの場で祈りを合わせている仲間がおります。病をも み心と受け入れ、あなたから与えられる一日一日を感謝して歩んでいる仲間がおります。教会での礼拝を何年も守ることができない仲間もおります。それでも、それぞれの場であなたが共におられることを信じて、皆、平安のうちに歩むことができますように。主よ、仲間たちの日々の歩みを お支えください。争いの絶えない世界の上に、対立ではなく和解を。憎しみではなく赦しの心をお与えください。共にあなたの足もとに座り、互いに赦し合い、大切にし合う道を選びとっていくことができますように。災害によって苦しんでいる被災地を思います。あなたの慰めと平安がありますように。平安な暮しを築くために必要な助けが、行き渡りますように。今日の午後、小金井西ノ台教会でささげられる主の日の礼拝において佐藤神学生を説教者としておたてくださいましたから感謝 いたします。あなたの愛と赦しを語らしめてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン

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2024年5月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第16篇7節~11節、新約 使徒言行録 第2章22節~39節
説教題:「全ての人への賜物」
讃美歌:546、79、177、21-81、333、544 

本日の礼拝は、ペンテコステを記念してささげております。日本では「聖霊降臨日」とも呼ばれていますが、「ペンテコステ」とは、ギリシア語で「50番目の日」という意味です。甦られた主イエスは、40日にわたって使徒たちに現れ、神の国について話されました。そして、復活から40日目、主イエスが使徒たちと別れる日がきました。主イエスは、使徒たちが見ているうちに天に上げられたと、聖書は伝えています。飛行機で簡単に雲の上まで行けるようになった現実が、わたしどもの信仰の邪魔をするかもしれません。しかし、目には見えない天が、確かに存在している、そのことを信じる信仰が与えられていることは、わたしどもにとって大きな慰めです。争い悩む地上で生きている、わたしどもの希望です。
主イエスは、神さまによって、天に上げられました。そのとき、主イエスは弟子たちに使命と、約束をお与えになりました。使命とは、エルサレムだけでなく、ユダヤへ、サマリアへ、さらにはるか地の果てまで、主イエスの十字架と復活による救いの約束を証することでした。しかし、主イエスの逮捕と同時に散り散りに逃げ出してしまった弟子たちに、この途方もない使命を担うことなど、できるはずがありません。ですから、主イエスは、「あとは、お前たちの力で何とかしなさい。」と、どこか知らないところへ行ってしまったのではありません。これから先は、あなたがた一人一人に、天から聖霊が降る、神の力が授けられるのだ、と約束して、父なる神さまのおられる天へ、み子 主イエスが元々おられた天へと、お帰りになったのです。
主イエスが天に上げられたとき、主のお姿が雲に覆われて彼らの目から見えなくなってしまっても、使徒たちは茫然と天を見つめていました。しかしすぐに、地上でなすべき務めへと導かれたのです。それは、聖霊が降ってくださるようにと、心を合わせて熱心に祈ることでした。ときどき、わたしどもは、「祈ることしかできません」と呟くことがあります。目に見える業を行いたいという願望がその裏にあるからです。しかし、弟子たちが熱心に祈る姿に倣い、「祈ることしかできません」という言葉を封印したいのです。なぜなら、皆で心を合わせて熱心に祈るとき、聖霊が働いてくださるからです。教会が一つとなり、聖霊なる神さまの働きを信じ、祈り続けることこそ、わたしどもがなすべき務めではないでしょうか。そして、天から降って来られる聖霊なる神さまは、わたしどもの体を介して、 み心を行ってくださるのです。聖霊の働きによって、わたしどもも神さまの使徒となるのです。
甦られた主イエスが、天に上げられたのが、復活から40日目。そして、使徒たちがエルサレムに戻り、心を合わせて熱心に祈り続けて10日目。合計すると、主が甦られてから50日目、ついに、聖霊が降りました。父なる神さまが、使徒たちの祈りに応えてくださいました。聖霊は、心を合わせて熱心に祈り続けた一人一人の上にとどまり、彼らに様々な国の言葉で神さまの恵みを語らせました。その場に居合わせた人々は皆、驚き、戸惑い、「いったい、これは  どういうことなのか(1:12)」と互いに言ったと聖書に記されています。中には、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ(1:13)」と言って、あざける者もいました。
すると、ペトロが仲間の11人と共に立ち上がり、声を張り上げ、話し始めたのです。これが、キリストの教会において最初に語られた説教です。ナザレのイエスを主としてあがめる、キリストの教会が生まれたのです。14節から次のページの36節まで続くペトロによって語られたこの説教こそ、わたしども教会が語るべき言葉、地の果てまで語り伝えるべき言葉です。わたしどもに与えられている使命です。
2千年前、聖霊なる神さまが、ペトロに語らしめた言葉を、今、エルサレムから見ればまさに地の果てに住んでいるわたしどもが、教会を形成し、仲間と共に聞くことができる喜びを、主に感謝します。わたしどもは今、天から降って来られた聖霊の働きによって教会に集められています。ペトロたち使徒に聖霊が降ったことによって始まった伝道が、わたしどものところにも届き、教会を形づくっている。わたしどもは今、聖霊の働きを、この目で見て、この耳で聞いているのです。
ペトロは、旧約聖書の言葉を引用し、語り始めました。「わたしの言葉は、わたしの考えではありません。酒に酔っているのでもありません。預言者の預言にもとづき、すべての者の救いが、ナザレ地方出身のイエスの十字架と復活によって、成就した喜びを語っています。」と、語りはじめました。そして、預言者ヨエルの言葉を引きながら、ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方であること。神ご自身が、イエスの奇跡と、不思議な業と、しるしを通して、そのことを証明なさったこと。さらに神は、あらかじめ お定めになっていたご計画に沿って、イエスの身をあなたがたに引き渡され、あなたがたはそのイエスを十字架につけて殺してしまった。しかし、神は、イエスを死の苦しみから解放し、復活させられたのだと、一気に語ったのです。
さらにペトロは、詩編 第16篇のダビデ王の詩を引用し、あなたがたが十字架につけて殺してしまったのは、あなたがたが大切にしている先祖ダビデが、主とあがめていた方なのだと説き明かしました。その上で、ペトロは はっきりと証言したのです。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。(2:36)」神さまから遣わされて来たメシア、救い主を殺してしまった。普通に考えれば、もう取り返しのつかない罪です。悔やんだところでどうなるものでもありません。ペトロの話を聞いて心を打たれた人々も、どうしたらよいのか途方に暮れてしまいました。だから、ペトロに尋ねたのです。37節。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」。聖霊の力を受けたペトロは答えました。38節。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」驚くべき答えです。悔い改めたら、罪を赦していただける。取り返しのつかないことをしたのに、神さまは赦してくださる。「悔い改める」とは、反省し、始末書を書くようなことではありません。神さまに背いていたことに気づかせていただいて、神さまの方へ向き直り、洗礼を受けることです。罪の赦しはただ一度の洗礼によって与えられる恵みです。
さらにペトロは、罪の赦しの約束に加え、もう一つの恵みの約束を語りました。38節後半。「そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」「遠くにいるすべての人に」。地の果てまで、すべての人に神さまの救いの みわざを証する力が与えられる。勇気が与えられる。言葉で証する者もいるでしょう。行いで証する者もいるでしょう。祈りで証する者もいるでしょう。賛美で証する者もいるでしょう。その力はどこから来るのか?聖霊はどこから来るのか?父なる神さまが、おられる天からです。み子キリストが昇られた天からです。聖霊なる神さまは、悔い改めて、洗礼を受けるすべての者のところに、天から降って来てくださいます。そしてわたしどもすべての、一人一人の上に、とどまってくださるのです。ペトロがこのように雄弁に語ることができたのも、聖霊の力によります。ペトロは、聖霊なる神さまに導かれるままに、恐れずに、大胆に語ったのです。「わたしは、神さまから力を受け、喜んで語っている。わたしに与えられた聖霊を あなたがたも受けることができる。この力はすべての人に与えられる賜物です。だから、今ここで洗礼を受けて欲しい。」ペトロの説教を聞いて、大いに心を打たれた人々は、続々と洗礼を受けました。41節。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(2:41~42)」
只今から聖餐の祝いに与ります。聖餐は口で公に信仰を告白し、洗礼を受けた者だけが与ることのできる恵みです。聖餐は、父なる神さまと み子キリストが天にいてくださる。また聖霊なる神さまがわたしどもと共におられ、わたしどもに力を与えてくださる。そのことを証するものです。もしかしたら、聖餐に与るとき、何かしらの感動を伴うような体験をしなければ、恵みに与ったことにはならないのではないか、と思う方も、いるかもしれません。けれども、そのような考え方は、人が特別な演出によって、感動をつくり出してしまう、そのような過ちを犯しかねません。また、今日は自分の気持ちが整っていないから聖餐には手を出さずにおこう、などと思ってしまうかもしれません。その思いは、誠実なようで、とんでもない間違いです。たとえ、わたしどもがどんな状態であろうとも、主の恵みは確かにあるのです。主がここにいてくださる。わたしどもがどんなに不誠実でも、主が共にいてくださる。聖餐はその約束を証するものです。主がいてくださる。わたしのために血を流し、肉を裂かれてくださった主がいてくださる。その恵みをただ信じて味わうのです。洗礼を受けるということは、それほどまでに確かな恵みの中に入れられるということなのです。
聖霊が語らしめたペトロの説教に導かれ、洗礼を受け、教会の礎をつくった人々は、「パンを裂くこと」に熱心であったと書かれています。聖霊降臨日に、エルサレムに生まれた教会で、パンを裂き、杯を分け、聖餐の祝いの原型になるような祈りの時を3千人ほどのキリスト者が共に過ごしていたのです。そしてこの圧倒的な喜び、恵みの中に、わたしどもも招かれています。わたしどもも、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であり続けたい。聖霊によって力をいただいた者として、まだキリストの救いの喜びを知らない人たちが、一人でも多く、一日も早く、聖霊の賜物を受け、力が与えられるよう祈り、証し続ける教会でありたい。心から願います。

<祈祷> 
父なる神さま、聖霊の賜物を感謝いたします。あなたの愛と赦しを知らないすべての人を悔い改めの洗礼へと導いてください。共に聖餐の祝いに与ることができますよう導いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、今、この瞬間も争いがあります。搾取されている人がいます。世界の至るところで血が流され、飢えがあり、悲しみと絶望の涙が流されています。どうか主よ、世を憐れんでください。傷ついている魂を癒してください。どうか、あなたの み名があがめられますように。み国がきますように、み心がなりますように。来週は、春の特別伝道礼拝を行います。一人でも多くの者が礼拝を通してあなたと出会うことができますように。手術を控えている者がおります。悩みの中にある者がおります。心細い思いをしている者がおります。どうか、一人一人の上に、聖霊を注いでください。あなたの愛で包んでください。礼拝後、婦人会を予定しております。あなたの祝福の中で、良い交わりのとき、良い祈りのときとなりますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年5月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第116篇1節~19節、新約 ローマの信徒への手紙 第12章3節~8節
説教題:「それぞれの賜物を主に献げる」
讃美歌:546、7、191、537、543、427 

今日は、年間主題にもとづく礼拝として、ローマの信徒への手紙 第12章の み言葉をご一緒に読んでまいりたいと思います。すでに3節から8節を朗読して頂きましたが、み言葉の理解を深めるために、1節、2節の み言葉が大切になります。そこで、説教を始めるにあたり、1節、2節を朗読させていただきます。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣っては なりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
聖書は、信仰というものは、精神や心の中だけの問題ではないことを繰り返し伝えています。洗礼は、キリストとわたしどもをぴったりと結びつけます。そのようにキリストに結ばれたわたしどもの体の営む生活が、洗礼を受ける前とまったく同じであるのはおかしなことです。キリスト者には、神さまから期待されている使命がある。そう言ってよいと思います。
 「聖なる生けるいけにえ」という言葉に、わたしどもは戸惑います。自分の体が聖なるものであるだろうか。「いけにえ」とは大袈裟ではないだろうか。しかし、パウロは言うのです。「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」わたしどもは、そのままではとても、神さまに喜んでいただけるような聖なる者ではありません。それなのに、あなたがたは、信じて洗礼を受けるなら、キリストと一つに結ばれて聖なる者なのだと言われているのです。
すべての出発点は、神さまの憐れみです。神さまから命を授かっておりながら、自分中心で、人をうらやみ、ねたみ、決して赦さず、奪い合って生きている。そのようなどうしようもないわたしどもを、神さまはなんと言うことか、憐れんでくださいました。愛してくださいました。そして、聖なる者として生きて欲しい、わたしの大切な宝物として生きて欲しい、と望んでくださいました。そのために、わたしどもの罪を赦すためのいけにえとして、キリストを世に遣わしてくださいました。だからキリストを信じて欲しい、洗礼を受けて聖なる者となり、自分が自分がという思いを殺して、互いに赦し合い、仕え合って生きて欲しいと、わたしどもは神さまから呼ばれたのです。そのわたしどもが、「自分は聖なる者などではないから、赦すことはできないし、自分を捨てて人に仕えることもできない」と言い続けることは、キリストの十字架を否定することになってしまいます。
 また、3節にはこのように語られています。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深(ぶか)く評価すべきです。」パウロは、わたしどもに、「神に喜ばれる」ことを大切に生きて欲しい、と勧めています。どんなに人のために尽くした一日であっても、そのことによって自分を満足させ、自分を喜ばせているなら、それはパウロの言う過大評価です。「わたしは、これこれの良いことをした。わたしもまんざらではない。」そう思った瞬間、わたしの喜びのために生きてしまっているのではないでしょうか。わたしどもに与えられているすべては、自分の努力によるものではありません。ただ神さまの憐れみによるもの。神さまからの愛の贈り物です。わたしが偉いからではありません。ただ信じ、キリストと結び合わせていただいたことによるのです。キリストに結び合わせていただいた者の集まりが教会です。神さまの憐れみにより、キリストに結び合わせていただいている者たちが共に座り、共に礼拝をささげ、教会を形成しているのです。その教会を、パウロは「キリストの体」だと言います。
4節。「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」洗礼式を、洗礼入会式と呼ぶこともあります。なぜなら、洗礼を受けることは、そのまま、キリストの体の一部となることであり、具体的にはキリストの体である教会に入会することだからです。洗礼は、ただひとり神の前に立って、自分の全存在をかけて神さまと交(か)わさなければならない約束ですが、同時に、キリストの体である教会の仲間入りをして、すべての仲間と一緒に救われる、ということでもあります。繰り返しになりますが、この恵みの出発点は、神さまの憐れみです。わたしども一人一人に与えられている賜物も、神さまの憐れみによるものです。そして、その賜物に相応しい奉仕も、神さまがそれぞれのために与えてくださるものなのです。
6節。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」。わたしどもは、皆、キリストに結ばれて、キリストの体である教会を形成しています。けれども、神さまからそれぞれに与えられている賜物は異なっています。神さまが、一人一人に、ほかの人とは違う別々の賜物をプレゼントしてくださっています。一人一人に、「あなたにはこれをあげる、だから、このことに命を賭けて取り組んで欲しい」と、神さまが特別な思いを向けて、期待してくださっているのです。
パウロは、6節後半から、教会におけるいくつかの具体的な賜物を記しました。「預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し」とあります。まず、「預言」という言葉が出てまいります。神の言葉を語る務めです。神の真理を語る賜物が、神から与えられるものでないならば、またそれを信じることができなければ、とても務まることではありません。「信仰に応じて」とありますが、何か秤(はかり)のようなもので信仰の大きい小さいを量って、それに応じて、というのではないと思います。「信仰」は、その人の持つ力ではありません。量るとするならば、自分の弱さ、小ささを量る秤(はかり)とでも言えばよいでしょうか。自分がどれだけ弱く小さい、取るに足らない者であるかが分かっていれば、主に頼るほかありません。ですから、「信仰に応じて」とは、神さまに信頼して、ということでしょう。自分の力に頼らず、ただ神さまに信頼し、神さまから与えられている務めを果そうとする。そのとき、「ああ、キリストは本当に生きて働いておられる」と、わたしどもは生きておられるキリストに出会うことができます。神の力、キリストの力がどれほど偉大であるかを知ることができるのです。
7節以降には、「奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し」とあります。「専念する」とは、我を忘れて熱中するという意味です。文字通り、我を忘れて、たとえ誰からも気づかれなくても、感謝されなくても、気にならないほどに熱中するのです。その姿を、神さまが喜んでくださいます。また、8節で「惜しまず」と訳されている言葉は、「素直に」という意味でもあります。素直に、頂いたものをそのまま、主に献げるのです。
そして最後、「慈善を行う人は快く行いなさい。」愛に生きる務め。小さな施しの心に生きる。そのとき大切なのは、「快く」行うことです。ペトロの手紙一 第4章9節に、「不平を言わずにもてなし合いなさい。」という言葉があります。お互いに、もてなし合いながら、「わたしは、こんなに頑張っているのに、誰も お礼を言ってくれない」とぶつぶつ言う不平が心の中にあるなら、それは、神さまが喜ばれることではないと言われています。「快く」。大胆に訳せば、「愉快に」、あるいは「朗らかに」となるでしょう。今年度の年間主題は、「それぞれの賜物を主に献げる」にしました。快く、愉快に、朗らかに、それぞれの務めを果たしたいと思います。その楽しそうなようすを、神さまが喜んでくださいます。
 最後に、先日、召された加藤常昭先生の著書『慰めのコイノーニア』から加藤先生のメッセージを紹介させて頂きます。書物の帯に、こんな言葉が記されていました。「コイノーニア(交わり)に生きる者には、隣人の魂への配慮が務めとして与えられています。そのひとのために祈り、神の恵みが届くようにこころを配る。慰めのコイノーニアを形成するのは、あなたなのです。」さらに本文には、今朝のパウロの み言葉と重なるように、このような勧めが記されていました。「パウロは、キリストのからだの部分になっている者たち、キリストの手足になっている者たちには、皆カリスマを与えられていると言います。何の役にも立たないということはありません。(中略)若いとき、壮年のときは、活力があり、いろいろな奉仕を喜んで  していたのに、病気になってしまったり、高齢になると、あれもできなくなった、これもできなくなった、と悲しい思いを重ねることがあります。しかし、たとえ病床についても祈ることはできます。そのようなひとに具体的に祈るべきことを教え、祈ってほしいと頼むことができます。」加藤先生はカリスマについて、このように説明しておられます。「カリスマは、もともとギリシア語です。カリスというのは『恵み』を意味します。ですから『恵みの賜物』という意味の言葉です。」わたしどもは、それぞれに恵みの賜物を神さまから与えられています。そのことを共に喜び、主の栄光のために、教会形成のために、キリストの体の部分として、一所懸命、働きたいと願います。

<祈祷> 
父なる御神、わたしどもに恵みの賜物をお与えくださり、心より感謝いたします。それぞれの賜物を喜んであなたに献げ、あなたに快く仕える者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。教会に連なる者の中に入院を余儀なくされている者、手術を控えている者、体調を崩している者がいます。施設に入り、ここまで来ることができない者もいます。その一人一人に、あなたの愛と癒しが届き、主と共に生きる望みを失ってしまうことがありませんように。主よ、世界の至るところで争いが続いております。いつまで争いが続くのかと胸が潰れます。主よ、どうか、国々の指導者たちがあなたの御前に小さくなることができますように。あなたから任されている務めに対して、驕りを捨てることができますように。戦地で、また地震などの被災地で、その他、あらゆるところで流されている、弱き者たちの涙を、主よどうか、ぬぐってください。今日は、礼拝後に、コイノニア・ミーティングを行います。皆で、それぞれの賜物を主に献げることを、心にとめる機会とすることができますように。来週はペンテコステ礼拝。さらに、その翌週は春の特別伝道礼拝を計画しております。それぞれにあなたの み心がなりますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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2024年5月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第6章1節~13節、新約 ヨハネによる福音書 第12章37節~43節
説教題:「神からの誉れ」
讃美歌:546、19、250、21-81、336、542 

先週の月曜日、わたしに洗礼を授けてくださった牧師であり、27年間わたしどもと共に礼拝をまもってきた加藤常昭先生の葬儀が、鎌倉雪ノ下教会で執り行われました。わたしは青山学院大学相模原キャンパスで礼拝説教があったため、20分ほど遅刻したのですが、葬儀の冒頭で川﨑公平牧師が、「今日の葬儀は鎌倉雪ノ下教会、また東村山教会で行われる礼拝としてささげます。」と告げられたことを知りました。加藤先生の他に類を見ない業績を褒めたたえるのではなく、ただ神さまの栄光を褒めたたえる。そのことに徹した葬儀は、今朝の み言葉に通じると思います。献花も、悼辞も、弔電の披露もありませんでした。人からの誉れを求めず、ただ、神さまの栄光を褒めたたえるための礼拝によって加藤先生を送ることができ、たいへん幸いなときとなりました。
今朝、わたしどもに与えられております み言葉は、他人(ひと)事ではありません。身につまされる。心が痛む。そのような み言葉です。登場する群衆や議員の中に、わたしがいる。そう思わざるを得ないのです。福音書には、「彼らはイエスを信じなかった。」だけでなく、「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。」さらに、「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」と記されています。教会が、信仰を公に言い表すことを重んじてきた理由が、ここにあると思います。神さまを心の中で信じていても、ひとの目を怖れているということは結局、神よりもひとを怖れているということでしかないのです。
 けれども一方で、神ではなく、ひとを怖れる心は、信仰を告白し、洗礼を受けた者も例外ではないと思います。公の場で、神と会衆との前で信仰を告白しても、教会から去ってしまう者がいます。わたしどもも例外ではありません。礼拝堂に身を置いていても、神よりもひとの評価を怖れるということがおこるのです。わたしも中高生の頃、「日曜日、田村は教会だよな」と茶化されました。就職してからは、「田村、お前こんな成績で昨日も教会に行ったのか!」と怒鳴られました。そのとき、堂々としていられたわけではありません。今朝の み言葉に登場する議員の中にも、ナザレのイエスは、待ち続けた救い主ではないかと思いながらも、律法の専門家集団であるファリサイ派が否定しているイエスを信じますと言い出せば、議員としての立場が危うくなってしまいますから、怖くて言い出せなかったのです。
 ところで、37節から43節に鍵括弧で記されているのは、旧約聖書イザヤ書の み言葉です。38節と40節に記されています。実は38節と40節は、それぞれ違う箇所からの引用です。イザヤ書は第1章から第66章からなる大変に長い文書です。「イザヤ書」と言われているので、すべて預言者イザヤが記したように考えてしまいますが、旧約学者によると、イザヤ書は、紀元前8世紀の預言者イザヤひとりによる著作ではないことが分かっております。イザヤが記したものは第39章までで、第40章から第55章は、時代背景が異なり、イスラエル民族のバビロン捕囚末期に書かれたものと推定されています。そのため第40章以降は「第2イザヤ」と呼ばれています。また第56章以下は、さらに時代はくだり、バビロン捕囚が終わり(紀元前538年)、エルサレムに帰ってからのもので、「第3イザヤ」と呼ばれます。
今朝のヨハネ福音書 第12章の38節に引用されている「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」は、イザヤ書 第53章1節からの引用です。第2イザヤの預言で、「苦難の僕の歌」と呼ばれております。主イエスの十字架から何百年も前に、無名の預言者によって、まるで、目の前で見て、それを描き出したかのように、人びとの罪を担って苦しみながら死んで行く主イエスの お姿が預言されています。しかし、第2イザヤは、その人の死が我々すべての者の救いのためであったと信じる者は一人もいないとも預言している。それが、38節の引用部分です。そして預言のとおり、主イエスを信じる者はいなかったのです。
 主イエスは、エルサレムで群衆に向かって語られました。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。(12:35~36)」主イエスの十字架の死が数日後にせまっています。間もなく光が失われてしまう。闇がすぐそこまで迫って来ている。だから信じて欲しい。わたしが神の元から遣わされて来た光であることを信じて欲しいと、主イエスはお語りになったのです。そして、そののち、主イエスは群衆から身を隠されました。群衆を見捨ててしまわれたのではありません。いよいよ、群衆の罪、弟子たちの罪、わたしどもの罪を全部背負って、十字架の死に向かうために身を隠されたのです。その出来事を記す福音書記者ヨハネの心には、イザヤ書の み言葉がありました。そして人々が主イエスを信じようとしなかったのは、まさにイザヤ書の預言のとおりではないかと書いたのです。そして、ヨハネ福音書は人々が信じなかった理由を、イザヤ書 第6章からの引用によって説明しております。第6章ですから、こちらは、預言者イザヤの言葉です。   今日はヨハネ福音書と共に、イザヤ書 第6章を朗読して頂きました。小見出しに「イザヤの召命」とあるように、イザヤがどのように神さまから召されたかが描写されております。
預言者は、神の言葉を語るために召し出されます。それなのに、神さまはイザヤに対し、「あなたが語る わたしの言葉を、人びとは聞かない」と告げられました。しかもその理由は、神さまが聞く者たちの心をかたくなになさるからだと言うのです。同じように、主イエスの語られた言葉を信じる者もいない。その理由もまた、神の み心が成し遂げられるためなのだと、ヨハネ福音書は告げているのです。神さまの み心とは何でありましょう。それはひとえに、わたしどものため、わたしどもの救いのためでありました。神さまに背を向け、思いのままに自分の利益を求める。その結果、互いに奪い合い、傷つけ合って生きているわたしどもを救いたい。それが、神さまの み心でした。そのために、主イエスは十字架に上げられなければなりませんでした。そして主イエスを十字架に上げるために、神さまは人間のかたくなな心をも、用いられたのです。わたしどもは、それほどまでに深い主の愛によって赦されている。それだけでなく、わたしどもは死を越えて、主の み手の中に永遠にあるのです。たとえ、地上の命が終わっても、主から起こしていただける甦りの朝が約束されている。これ以上の誉れがあるでしょうか。
先日、東京神学大学学部3年に編入した二人の神学生と面談しました。それぞれ今までの歩みと献身の経緯を丁寧に語ってくださいました。7月発行予定の「ぶどうの木」に、記してくださることになっております。楽しみにして頂きたいと思います。95歳で召された加藤先生、伝道献身者たち、さらにわたしどもは、人間からの誉れとは比較にならない圧倒的な誉れを主から頂いた者たちです。そうであるなら、わたしどもがなすべきことはただ一つ。神さまの愛を語り続けることです。愛を教えてくださった主イエスに従って、平和を実現することです。大袈裟なことではありません。それぞれの賜物を用いて、主イエスがわたしどもに教えてくださったように、神に仕え、人に仕える。神を愛し、人を愛する。誰からも褒められなくても、わたしどもはすでに罪の赦しと永遠の命という圧倒的な誉れを神さまから頂いております。それでも、ひとの目が気になることがあるかもしれません。でも大丈夫。神さまは、わたしどものすべてを ご存知。わたしどもの弱さをも用いてくださる お方です。
主イエスは、数日後に迫る十字架の死に心を騒がしておられました。しかし、すぐに父なる神さまに祈りをささげたのです。「父よ、御名の栄光を現してください。」主イエスは、何をなすにせよ、何を語るにせよ、神さまの栄光を求めておられました。十字架の死が迫っていても、神さまの栄光が現されることを、一番にお求めになったのです。そのような主の お姿に従う者として、わたしどもは、今朝も礼拝へと召し出されたのです。
ヨハン・セバスティアン・バッハは、作曲を終えると、楽譜に「S.D.G.」とサインしました。「ソリ・デオ・グロリア」の略で、「ただ神にのみ栄光」という意味です。「ただ神にのみ栄光」と、自らを戒めるように、自分の誉れを求めるな、すべては神さまからの賜物であると、祈りを込めてサインしたのです。わたしどもは、バッハのような特別な才能はないかもしれません。それでも、「さすが」とか、「何々さん、凄いね」などと言われるとまんざらでもない思いになることがあります。また、たとえどんなに些細なことであっても、わたしどもは褒められれば喜び、無視されれば腹を立てる。たとえば、「おはようございます」と笑顔で挨拶したとします。ところが、相手からは笑顔どころか満足な返事も帰って来ない、そんな経験はないでしょうか。わたしどもは神さまから賜わった誉れを忘れて、そんな小さなことにすら腹を立てる。しかし、そんな愚かな罪人のために、主は死んでくださったのです。体を裂かれ、血を流して、死んでくださったのです。
これから聖餐に与ります。聖餐は、主イエスが十字架で裂かれた肉と流された血潮に与る食卓です。あの席で、大きな身体を丸めて、聖餐に与っておられた加藤先生と共に聖餐に与ることはもうできません。淋しいです。それでも今、加藤先生は、さゆり先生と神さまの みもとで、わたしどもと共に迎える甦りの朝を待っておられます。わたしどもが聖餐の祝いにあと何回、与ることができるか?それは神さまにしかわかりません。それでも今日は共に与ることができる。その恵みを主に感謝しつつ、この中で聖餐の祝いに与ることのできない方が一日も早く信仰を告白し、主イエスと結び合わされる洗礼を受け、共に聖餐の祝いに与る日が与えられますように。神さまの愛が、ひとりでも多くのひとに届きますように。祈りをあつくし、福音伝道のためにいそしみたいと願います。

<祈祷> 
天の父なる神さま、人間からの誉れでなく、あなたからの誉れを喜び、感謝する者としてください。あなたの招きを信じ、公に信仰を告白し、洗礼を受け、真実の救いを喜ぶ者をおこしてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。先週の月曜日、わたしどもと共に主の日の礼拝をまもり続けてきた加藤常昭先生の葬儀が執り行われました。再び共に礼拝をまもる日、聖餐に与る日を信じ、祈ってまいりましたが、あなたが定められた時に、あなたのもとへ帰ることになりました。主よ、深い悲しみの中にあるご遺族の上に、また先生と親しい交わりを築いてきたすべての者の上に、あなたの慰めを溢れるほどに注いでください。主よ、世界は今、あなたの誉れよりも、人間からの誉れを好み、もっとも弱い立場の者が命を奪われ、食べるものや、安心して生活する住居まで奪われております。どうか、すべての命が軽んじられることなく大切にされる世をつくっていくことができますように。今日も礼拝と聖餐の祝いを望みつつ、様々な理由でここへ来ることができない者がおります。それぞれの場にあって、あなたの愛で包み、祝福で満たしてください。求道生活を続けている者のために祈ります。あなたの招きを信じ、公に信仰を言い表すことができますように。5月26日の主の日は、春の特別伝道礼拝を計画しております。主よ、一人でも多くの者を礼拝へと招いてください。そして、あなたと出会い、あなたの愛を心に刻むことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

【動画配信YouTube】
2024年4月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第37章11節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第12章27節~36節
説教題:「天の光の中へ」
讃美歌:546、25、326、532、541 

初めてのことを体験するときは、誰でも不安になります。わたしどもは誰も、死んだことがありません。どんなに信仰があるからと言っても、そのときになってみれば、やはり恐ろしく感じるのではないかと思います。福音書は、主イエスも例外ではなかったことをわたしどもに教えてくれています。主イエスは、心の中のざわざわとした思いを、隠そうとはなさいませんでした。「わたしが、父なる神にお願いすれば必ず聞き入れてくださる。だから十字架で死にたくない、助けてください、と言ってしまおうか。」そのような複雑な思いを、打ち明けてくださいました。主イエスは、父なる神さまからの使命と、死を恐れる気持ちとの間で、揺れておられた。神さまと等しい方だから、人間の苦しみなどご存知ない、というような方ではなかったのです。わたしどもはこのことを今一度、しっかりと心に刻みながら、本日の み言葉を読んでいきたいと思います。ご自分の死を前にして苦しまれた、その お姿は、わたしどもにとって大きな慰めです。いずれ必ず訪れるわたしどもそれぞれの死に際しても、わたしどもは一人ではない。苦しまれた主のお姿を見つめながら、あとに従って行くことができる。苦しみながらも、神さまの栄光が現されることを願われた主を、仰ぎ見てついて行くことができるのです。主イエスは苦しみながらも、神さまの栄光が、闇のような世を照らし、光り輝くことを お望みになりました。そのためにこそ、わたしは神のもとから遣わされて来たのだ、と、ご自分の揺れる思いを振り払うかのように天を仰いで、神さまに祈られたのです。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしは まさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」
すると、神さまからの応答が、響き渡りました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」驚いたのは、そこにいた群衆です。「雷が鳴った!」「いやいや天使がこの人に話しかけたのだ!」もう大騒ぎです。主イエスは、騒いでいる群衆に向かってお答えになりました。30節。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」神の声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだと主はおっしゃいました。「あなたがたのためだ」との み言葉は、少し前に読みました、ラザロの復活の場面で語られた、主イエスの み言葉を思い起こさせます。
主イエスはラザロを墓から呼び出される前にも、天を仰いで祈られました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。(11:41~42)」神さまは、ラザロの復活を頂点とする主イエスの数々の奇跡の業を通して、ご自身の栄光を現してこられました。そして今、地をふるわす雷のような声で、再び栄光を現すと宣言なさったのです。「わたしは再び栄光を現す。イエスを十字架につけ、復活させることによって。」神さまの み心は、そして、主イエスの思いは、いつでも、わたしどものために。わたしどもが神さまと主イエスを信じ、救われるために。ただ、そのことに尽きるのです。主は、「今こそ、世に裁きがくだるときだ。」とおっしゃいました。神さまの裁きが行われるとき。そのときが、今、来ようとしている。神さまの裁きを受けるべきなのは他(ほか)でもない、闇の世をつくっているわたしどもであります。
ところが、実際に裁きを受けて、罪人として死なれたのは、主イエスでありました。そのことを預言して、主はおっしゃいました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」今日、しっかりと心にとめたいのは、この「上げられる」という言葉です。
主イエスは、「上げられる」という言葉を二つの意味で用いておられます。一つは、十字架の上に「上げられる」という意味が込められています。主イエスの十字架の死を「わたしの罪の赦しのための死」と信じ、信仰を告白し、洗礼を受ける者をご自分のもとへ引き寄せ、すべての罪を赦してくださるのです。そのために、わたしは「地上から上げられ」て殺されるのだ、と主はおっしゃっています。  
もう一つの意味は、死人の中から「上げられる」、天に「上げられる」という意味が込められています。そこには、主イエスの復活と昇天が意味されております。今朝も、使徒信条をご一緒に告白しました。「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」。わたしたちが大切に告白し続けているように、主イエスは、十字架に上げられ、罪人として殺されました。どんな死よりも深い絶望の中に死なれ、死者が行く場所、陰府(よみ)の国にまでくだられたのです。しかしその主イエスを、父なる神さまは死の中から甦らせてくださり、天に上げられました。そして今も、父なる神さまの右に座り、すべての人を、まるで強力な磁石のように、引き寄せようと、日々、聖霊を注いでいてくださるのです。
けれども、主イエスの このお言葉を聞いて、群衆は戸惑いました。34節。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」ホサナ、ホサナと歓喜して主イエスを迎え入れた群衆が求めていたのは、いつまでも世に留まり、われわれに栄光を永遠に与え続けてくれる、そのようなメシア、救い主でありました。
ところが、主イエスが、「人の子は上げられなければならない」と言われたので、混乱し、問い質したのです。この問いに対して、主イエスは、このように答えられました。35節。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
受難週の金曜日、主イエスが十字架に上げられたときの様子を、ルカ福音書はこのように記しました。「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。(23:44~45)」ヨハネ福音書も、主イエスこそ、真の光である、と繰り返し伝えています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(1:5)」「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(1:9)」「わたしは、世にいる間、世の光である。(9:5)」そのように聖書に語られている光が、ただ一度、消えるときが来るのです。主イエスが十字架に上げられ、陰府(よみ)にくだられるからです。光を失った世は、闇となる。実際、このあと主イエスは、十字架の上に上げられ、殺されます。けれども、先ほど申しましたように、ヨハネ福音書は、主が地上から上げられる、ということは、十字架に上げられることと同時に、それはすでに、主が天に向かって上げられることを意味していると、はっきり告げているのです。そして、そのとき、主イエスを救いの光と信じる者は、主がしっかりと みもとに引き寄せてくださるのだ、と言われています。このように、復活の光の中で、わたしどもは十字架を仰ぐことができる。暗闇の中で、光を見、光に頼り、自分がどこへ向かうのかをはっきりと見る者として、光の子として歩むことができる。
わたしどもの行く先、それは、主が引き寄せてくださる、主の みもとであります。行く先、と申しましたが、むしろ、信じて洗礼を受けるならば、そのとき、すでに、主の みもとに引き寄せられている。すでに神の国にいるのです。先週ご一緒に読みましたように、わたしどものいるところに主イエスがいてくださる。主が共にいてくださるということは、即ちそこはすでに、光に照らされた神の国であります。
わたしどもの教会には、礼拝堂の正面に十字架が掲げられております。今から18年前、2006年2月26日に現在の会堂が献堂されたときに作成した「献堂への歩み」に、芳賀 力先生が「礼拝堂の基本的な考え」を記しておられます。その中で「木彫の十字架」について、このように書かれています。「中央の椅子の真上、正面の十字架は、壁から浮き上がる仕方で設置されています。その上の天井は全面横長の天窓になっており、そこから光が当たります。十字架につけられた方の甦りを象徴しています。(中略)この空間で行われる事柄のすべてが、私たちのために十字架につけられ、私たちに先立って甦られた方にかかっていることを、いつも新たに心に刻みます。」わたしどもの目の前に十字架があります。礼拝堂から、それぞれの生活の場に遣わされても、わたしどもの前には常に十字架がある。その十字架に主イエスは上げられて、死なれました。しかし今、主は十字架の上におられません。天に上げられた。そして今も、これからも、日々、聖霊を注いでわたしどもを みもとへと引き寄せていてくださるのです。
今日の備えをしていた先週の金曜日の午後、加藤常昭先生が息を引き取られた、という知らせが飛び込んでまいりました。先生の説教集に、本日の箇所を語られた説教も収められています。ちょうど、主のご復活を祝うイースターの礼拝に語られた説教です。先生は、来年の主の甦りを祝うとき、すでに、この世にいない者もいるかもしれない、とおっしゃりながら、説教を このように締めくくって  おられます。「しかし、そこでなお、われわれはみずみずしいいのちに生きるのです。十字架の低さに、最も深い絶望に『上げられた』主イエスが、わたしどもを引き寄せてくださる。その主イエスの愛の磁力はどこにあっても変わりません。」ここ1~2週間は、面会に訪れた人に、心細げに「帰らないで欲しい、もう少し一緒にいて欲しい」と不安を訴えておられた先生でしたが、主が経験してくださった暗闇への不安を辿りながら、主イエスの愛に引き寄せていただいた者として、主の光を頼りに、甦りの朝の希望を仰ぎ望んで、しばしの眠りにつかれました。神さまが定めておられる甦りの朝に、主イエスから「起きなさい。」と、起こしていただける。
わたしどもは皆、同じ希望の中へ招かれています。今、信仰を告白することを躊躇している方がおられるならば、どうか、一日も早く光を受け入れて頂きたい。主イエスこそ、真の光、わたしの救い主と信じますと信仰告白して、洗礼を受けて頂きたい。わたしどもは一人残らず、裁かれる者ではなく、光の子として神の国へ招かれているのですから。

<祈祷> 
天の父なる御神、わたしどもの罪を赦し、永遠の命を約束してくださるために、主イエスを十字架の上に上げ、さらに、天へ引き上げてくださり感謝いたします。光なる主イエスを信じ、光の子として歩むものとしてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。先週の金曜日、95年の地上での歩みを走り続けた加藤常昭先生があなたの懐へと帰りました。わたしどもを祈りによって支え、導いてくださった先生を、天の光の中で大切に養い続けてください。悲しみの中にあるご遺族の上に、あなたの慰めをお与えください。わたしどもの群れが先生の み言葉の説き明かしと、交わりによって得た恵みを大切に、福音伝道への祈りをあつくし、信仰の足腰を強くしてゆくことができますように。今日も礼拝を慕いつつ、体調を崩している者、施設で生活している者、入院を余儀なくされている者、動画配信で礼拝をささげている者がおります。どこにあってもあなたが共におられることを感謝し、光の子として一日一日をあなたの祝福の中で歩む者としてください。争い悩む世界に、和解と平和をもたらしてください。お互いの存在を大切にし、赦し合い、祈り合う世界へと導いてください。3人の神学生の歩みを力強く導いてください。入学して1ヶ月が経ち、疲れも溜まっていると思います。体調を崩すことなく、学びを続けることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年4月21日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第52章13節~第53章12節、新約 ヨハネによる福音書 第12章20節~26節
説教題:「一粒の麦の死」
讃美歌:546、8、Ⅱ-11、338、540 

今朝の礼拝の備えのために、改めて何度も み言葉を読みながら、釧路で幼稚園の園長をしていたときのことを思い出しました。園庭の周りに ひまわりの種を蒔いたときのことです。園児たちと一緒に「おおきくなあれ、おおきくなあれ」と祈りつつ、ひまわりの種をひと粒、ひと粒、土の中に埋める。すると、種は土の中の水分を吸って、小さな芽が種を割って出てきます。そして種の中の養分と太陽の光によってグングン成長し、土の中にしっかりと根を張り、やがて園児たちの背丈を追い越していきます。その頃にはもう土の中の種の姿はどこにもありません。種を覆っていた固い殻さえ土にかえってしまっています。やがて、大きく育った茎の先には黄色の大きな花が咲く。そして、花が終わる頃には数えきれないほどたくさんの種がぎっしりと実るのです。整然と美しく並ぶたくさんの種をほぐしてみると、一つの花からとれる種だけでも 驚くほどの数でした。
今朝、わたしどもに与えられたヨハネによる福音書 第12章20節から26節には、有名な み言葉が記されています。24節です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」教会に通ったことがない人、聖書に関心のない人にも広く知られている み言葉の一つかもしれません。主イエスがこの み言葉を語られたのは、十字架に架けられる直前、受難週の最初の日でありました。ここに、祭りのためにエルサレムに来ていた何人かのギリシア人が登場します。ユダヤ教の祭りの礼拝のためにエルサレムに来ていたというのですから、ユダヤ教に改宗した人たちだったかもしれません。少なくとも、ユダヤ人の神さまの教えに心惹かれていたと考えてよいでしょう。詳しい経緯(いきさつ)はわかりませんが、とにかくユダヤ人ではない外国の人たちが、ぜひ主イエスに会いたいと願い、主イエスの弟子のフィリポを頼り、取り次ぎを依頼してきた、というのです。このギリシア人たちが  どれほどの真剣さをもって面会を求めてきたかは、わかりません。けれども、そこには確かに、主イエスを求める思いがありました。
21節の「お願いです。」と訳された言葉の元となっているギリシア語は、「主よ(キュリエ)」という言葉です。主の弟子フィリポに対して、「主よ(キュリエ)」と呼びかけていることを、わたしどもは可笑しく思うかもしれませんが、弟子にまで主イエスと等しい尊敬を示すほど謙遜している。主イエスの前で小さく、低くなっていると言えるのではないでしょうか。この人たちもわたしどもがはじめて教会を訪ねたときと同じように、求道者であったのです。このとき、主イエスがギリシア人たちに会ってくださったのかどうかは、書かれていないのでわかりません。しかし、たとえ直接会うことがなかったにせよ、主イエスの み言葉は、仲介したフィリポとアンデレだけではなく、ギリシア人たちにも向けて語られていると考えてよいと思います。なぜなら、主イエスの十字架の死と復活によって、主イエスの み言葉はギリシアどころか、山をこえ、谷をこえ、海を渡って遥か遠く、わたしどものところにも届き、キリスト者の群れという実りをもたらし続けているからです。
主イエスはおっしゃいました。「人の子が栄光を受ける時が来た。(12:23)」「人の子」とは救い主のことです。主は、ギリシア人たちが訪ねてきたことを受けて、ユダヤ人という枠を超えてご自分の言葉を聞きたい、信じたいと言う人が現れたことを、お喜びになったのかもしれません。しかし、それより何より、「父なる神さまの み心がついに現れるときが来たのだ。」と、確信なさったと思います。神さまの み心が現れるとき。それは即ち、ご自分の死によって、すべての人の罪が赦される、その道が拓かれるとき。すべての人がキリストによる救いを信じ、神さまの みもとに立ち帰り、平安のうちに永遠に生きるようになるために、道が拓かれるときでありました。そのために、一粒の麦は、一粒のままでいてはいけない。地に落ちて、死ななければならない。すべての人が神さまの子どもとして生きる者となることこそが、ご自身の死によってもたらされる実りであり、神さまの み心なのだと、主イエスはわかっておられたのです。もしも、主イエスが父なる神さまと同質なお方として、そのまま天におられたなら、主イエスは、神の独り子として安泰であったでしょう。けれども、神さまは主イエスを「一粒の麦」として地上に蒔かれました。そして主は、神さまの み心を成し遂げるために、世に来てくださり、一粒のままであり続けることなく、十字架の死を お選びになったのです。
主イエスは、続けておっしゃいました。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。(12:25)」申すまでもなく、これは自殺を促す言葉ではありません。十分に気をつけなくてはいけないことは、この み言葉は、その前の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と語ってくださった み言葉と切り離してはならない、ということです。み子 主イエスが、「このわたしのために死んでくださった。」ということをしっかり心にとめながら、聞かなくてはなりません。わたしどもの命は、神さまが与えてくださった命であり、主がご自分の命を捨ててまで救ってくださった大切な命です。その命を粗末にしてよいわけがありません。それでは、「自分の命を憎む」とは、どういうことなのでしょう。なぜ、これほど厳しい言葉が用いられているのでしょう。
この後の第15章には このような み言葉があります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(15:13)」わたしどもは思う。「そんなこと できっこない!」そうなのです。とてもできることではない。どうしてできないのでしょう。それは、自分ひとりの力で、この愛のわざを立派に成し遂げようとしているからです。神さま、主イエス抜きで人を愛そうとしたって、無理です。それを自分の力で何とかしよう、自分が自分の命の王様であるかのように生きていこうとする。神様が遣わしてくださったキリストを王様として迎え入れようとしないで、かたくなに助けを拒み、自分を王様として自分が正しいと思うところに従って生きていく。その生き方が罪であり、わたしどもが憎むべき自分の命なのです。しかし、友のために命を捨てることがどんなに難しくても、わたしどもの闘いは、決して孤独ではありません。あなたがたを一人にはしておかないと主はおっしゃっています。「わたしと共に行こう。愛の闘いを一緒に闘おう。そのためにわたしを信じて欲しい。わたしを信じてついて来て欲しい。」と主はおっしゃいます。
第12章26節。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」わたしどもは、主から「ついておいで」と言われています。「わたしについて来れば、あなたはいつでも、わたしのいるところにいるのだ。」と言われています。そして、主と共にいるわたしどもの命を、神さまが大切にしてくださるというのです。父なる神さまが、わたしどもを大切にしてくださる。そして、わたしどもを大切にしてくださるということは、どうしても苦手なあの人のことも、敵対しているこの人のことも、みんな神さまから大切に思っていただいているということです。大切にしてくださるとは、深く愛しておられるということ、かけがえのない存在として、宝物としてくださるということです。そのために主イエスは、「一粒の麦」となって地に落ちて、死んでくださいました。神さまの宝物として生きる命は永遠です。「自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と主はおっしゃいました。
ヨハネによる福音書 第17章は、主イエスの祈りの言葉として、次のように伝えています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(17:3)」主イエスの「一粒の麦」としての死によって、わたしどもは永遠に、神さまの宝物として生きることができる。洗礼は、この主イエスとの約束のしるしなのです。
このあと讃美歌338番を賛美いたします。「主よ、おわりまで 仕えまつらん、みそば はなれず おらせたまえ。世のたたかいは   はげしくとも、御旗(みはた)のもとに おらせたまえ。」賛美は祈りです。「主よ、あなたが、一粒の麦として天からくだって来られ、地に落ちて、死んでくださいました。わたし一人では、敵を愛することも、友のために命を捨てるどころか、ほんの小さな我慢もできません。わたしはそのような自分の命を憎みます。そして、あなたの命と引き換えに賜った、あなたのおそばで生きる永遠の命を信じます。あなたのおそば近くであなたと共に生きる永遠の命を、決して手放すことがありませんように。終わりの日まで、あなたに仕え、従い続けるこころを、かわらずに もたせてください。」そのように朝に夕に、家事をしながら、仕事をしながら、学びながら、どんなときでも祈りつつ、主についていきたい。主イエスを信じて洗礼を受ける者は皆、主イエスの「一粒の麦」としての死によって実った、種の一粒です。自分の力によって自分のために生きる種ではありません。互いに祈り合い、赦し合い、支え合い、大切にし合って、歩んでいきたい。心から願います。

<祈祷> 
天の父なる神さま、あなたの み子 主イエスは、一粒の麦として、地に落ちて死んでくださいましたから感謝いたします。み子の死と復活によって、罪の赦しと、永遠の命を約束されていることを感謝いたします。どうか、溢れる恵みへの応答として、生涯、主に仕え、主に従う者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。国内、国外において、地震が頻発しております。被災し、体に心に深い傷を負った者たちを慰め、励ましてください。その地の教会が、試練の中にあっても、望みを失うことのないよう お支えください。世界各地の争いが止みますように。傷つけ、奪い合うのを止めることができますように。すべての人にあなたの愛が届きますように。主よどうか、争い続ける世を、憐れんでください。今日も様々な事情によって礼拝に来ることができない兄弟姉妹がおります。骨折し、入院を余儀なくされた姉妹、礼拝を望みつつ、病院、施設で過ごしている兄弟姉妹、働かなければならない兄弟姉妹を、あなたの憐れみの内において、慰めてください。信仰が萎えている者がおりましたら、聖霊によってあなたを信じる思いを呼びおこし、励ましてください。芳賀 力先生が、あなたのおまもりによって、オンラインでの授業を始められたことを伺いました。病に倒れてから暫く遠ざかっていた神学校での働きが許され、感謝いたします。主よ、神学校での働き、さらにいくつかの教会での説教奉仕をお支えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年4月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ゼカリヤ書 第9章9節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第12章12節~19節
説教題:「恐れるな あなたの王が来られる」
讃美歌:546、11、129、294、539、Ⅱ-167 

昨年からヨハネによる福音書を少しずつ読み進めてきておりますが、今朝、わたしどもに与えられた み言葉には、主イエスが ろばの子にお乗りになって、エルサレムに入城された出来事が記されております。ゴシックの小見出しには「エルサレムに迎えられる」とあります。主イエスが、十字架に架けられる前の一週間、受難週の最初の日の出来事です。わたしどもは、3月31日にイースター礼拝をまもりましたので、教会の暦に少し遅れて、追いかけるような形となりましたが、むしろそのために、改めて、わたしどもは主の復活の光の中で、主の ご受難の道をたどることが許されているのだという恵みが、迫ってくるように思われます。大切に読んでまいりたいと思います。
先週は、第12章の1節から11節までを読みました。主イエスによって復活させていただいたラザロのきょうだいマリアが、夕食の席で主イエスの足に香油を注ぎ、自分の髪の毛でぬぐった、という記事です。説教では、9節から11節までの箇所は触れることができませんでしたが、このとき、主イエスを一目見たい、また死後三日も経っていたのに生き返った、というラザロをこの目で見たいという人が、大勢押し寄せました。9節に「大群衆」とありますからベタニア村は、人でごったがえしていたかもしれません。そしてこの騒ぎを知ったユダヤ教の指導者たちは、イエスばかりでなく、ラザロをも殺そうと陰謀をめぐらせました。それは、11節に、「多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」とあります。人々の心が、自分たちが教えることから離れ、イエスに移ってしまうことを恐れたのです。「大群衆」のフィーバーは、翌日になっても収まるどころか、ますます、熱を帯びてゆきました。
折しも、過越祭が間近に迫っており、エルサレムには国内外から、神殿に お参りをするために大勢の群衆が集まってきていました。そして、17節に「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。」とあるように、主イエスが死者を復活させたという噂はどんどん広がり、エルサレムはすでに主イエスの噂で もちきりであったのです。その噂のイエスが、エルサレムへ来られると聞きつけて、人々は、こぞって迎えに出ました。手には なつめやしの枝を持って。なつめやしの枝は長く、細長い葉が細かく綺麗に並んでいて、美しいものです。かつて日本では、あまり知られていない植物だったために、棕梠の葉と訳され、この日を棕梠の主日、と呼んできましたが、実は棕梠とは違う種類だそうです。最近では大きなスーパーにまいりますと、「デーツ」の名で、なつめやしの実のドライフルーツが売られております。鉄分やミネラルを多く含む大変栄養価の高い実が、びっくりするくらいどっさり実るそうです。詩編にも、「神に従う人は なつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。(92:13~14)」とあります。優美と勝利、また祝福を意味する植物とされているようです。その なつめやしの枝を持って、大群衆が迎えに出てきたのです。13節には、「なつめやしの枝を持って迎えに出た。」とあります。また18節には、「イエスを出迎えた」と書いてありますが、実はこの「迎える」、「出迎える」という言葉は、ただ単に「誰かに会う」とか、「迎える」ということではなく、戦いに勝利して凱旋して来る王さまを迎える時に用いられる特別な表現であるようです。この頃のイスラエルは、自治が認められていたとはいえ、長く続くローマ帝国の支配のもとで、政治は腐敗。民衆は生活に困窮。人々は望みを失い、信仰も萎えていました。
そこへ、死者を復活させるほどの力を持つ人物が現れた。これは神が我々に与えたもうた指導者に違いない、自分たちの王さまがついに現れた、と大きな期待と喜びを抱いて、叫び続けたのです。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」「ホサナ」とは、「救いが私にあるように」という意味の言葉です。
けれども、この群衆の熱狂ぶりに反して、主イエスが用いられたのは立派な軍馬ではなく、ろば。しかも、まだ子どもの ろばでありました。王の凱旋と言えば、艶やかな毛並みの、大きく勇ましい馬に颯爽とまたがる姿を連想します。けれども、主イエスは、子ろばにお乗りになりました。まったく絵にならない。しかし、そこに父なる神さまの み心が示されています。ろばは、パレスチナにおいては、ひき臼をひいたり、重い荷物を運ぶための家畜として重宝(ちょうほう)されていました。また、極めて従順に、同じ所を一日中でも回るということが知られています。さらに、馬と違って、いつでも頭を垂れている容姿から、謙遜を連想します。軍馬が、戦いを象徴するなら、ろばは、平和を象徴する。主イエスは、平和の王として、エルサレムの街に入られたのです。
今朝、ヨハネ福音書と共に朗読していただいた旧約聖書 ゼカリヤ書 第9章に記されている預言が、主イエスのエルサレム入城のお姿にぴったりと重なります。改めて、ゼカリヤ書 第9章9節を朗読いたします。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌(め)ろばの子である ろばに乗って。」また、続く10節には、このように書かれています。「わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」
けれども、ヨハネ福音書 第12章16節には、その姿を見ていた弟子たちには、その意味が「分からなかった」と書かれています。もちろん、「ホサナ、ホサナ」と歓呼の声をあげている大群衆にも、分かっていませんでした。わたしどもは、この熱狂している群衆がこのあと何日もたたないうちに「イエスを十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び出すことを知っております。ではわたしどもは、主イエスが平和の王ということの意味が分かっているのでしょうか。わたしどもは、このまったく信用ならない群衆に対して、批判的な思いを持ちます。けれども、主イエスは違うのです。主イエスは、わたしどもが知っている以上に、群衆の信仰の頼りなさを知っておられます。この群衆が罪の人間の集まりであることを、分かり過ぎるほど分かっておられました。この群衆によって、ご自分が十字架の上に上げられて、殺されることを、知っておられた。それなのに、「お前たちは信用ならない。お前たちは敵だ。」とはおっしゃらなかったのです。「ホサナ、ホサナ」という歓呼の声を、拒絶なさることなく、受け入れてくださいました。それも、立派な馬にまたがって人々から見上げられるのではなく、見栄えのしない子ろばに乗って。もしかしたら、イエスの姿を一目見ようと背伸びをしたり、飛び  はねたりしている群衆よりも、子ろばに座る主イエスの方が低く、見下ろされていたかもしれません。主イエスはそのように、まったく信用ならない罪の人間をとことん信頼し、ご自分の方が低くなって、群衆の歓迎を受け入れてくださったのです。わたしどもはどうでしょうか。群集を批判しているということは、群衆よりもさらに高いところに立って見下ろしているということになりはしないでしょうか。平和の王を見下ろし、期待していたような強い王ではないと判断するやいなや、平和の王をさっさと捨ててしまう、どこまでも傲慢な恐ろしい罪は、まぎれもなく、わたしどもすべての者の罪です。それでも、ヨハネ福音書は、「恐れるな。」と書きました。   15節、「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」は、ゼカリヤ書 第9章9節の引用です。ゼカリヤ書と比べていただきますと気がつきますが、ゼカリヤ書では、「娘シオンよ、大いに踊れ。」となっているところが、ヨハネ福音書では、「シオンの娘よ、恐れるな。」と言い換えられています。ヨハネ福音書は、「それでも恐れずに、主イエスをあなたの王さまとして、平和の王さまとして、あなたの中に迎え入れなさい。」と告げるのです。神さまは、こんなに傲慢なわたしどもを、どこまでも信頼して、「どうか、わたしのたった独りの大切な子イエスを、あなたの王として迎え入れて欲しい。」とおっしゃって、わたしどもに主イエスを与えてくださったのです。
今朝の み言葉は、ファリサイ派の人々の呟きで終わっています。19節。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」主イエスを受け入れることを拒んだ人々の呟きです。しかし、それでも、主イエスは十字架の死へと向かって、歩みを進めてゆかれます。低く低く、神さまの み心にどこまでも従順に、死んでゆかれます。そして神さまは、主イエスを復活させてくださいました。それは、このように呟く者たちにも、救いの道を拓(ひら)くためでありました。わたしどもは何度もつまずきます。失敗する。傲慢になる。それでも主は、諦めたり、「もう我慢ならん」とはおっしゃらなかったのです。十字架から降りてしまわれることなく、審(さば)きを受けなくてはならないわたしどもの代わりに、死んでくださいました。そして、神さまは主イエスを甦らせてくださり、わたしどもが救われるための道を拓(ひら)いてくださったのです。どこまでもわたしどもを信頼し、悔い改めて主イエスと共に生きる者となることを、今か今かと待ち望んでいてくださるのです。どこまでも低くなってくださった平和の王さまが、わたしどもの心の扉をノックしておられます。この方を王さまとして迎え入れることができますように。この方に従って日々を歩んでいくことができますように。わたしどもをどこまでも諦めないでいてくださる主の愛に、信頼することができますように。

<祈祷>
 主よ、「恐れるな。」との み言葉を主イエスの十字架の死と復活によって真実の言葉としてくださり、感謝いたします。わたしどもは、あなたの愛をどれだけ裏切ってきたことでしょう。にもかかわらず、あなたはわたしどもを諦めることなく、どこまでも信頼し、わたしどもの罪を み子の十字架によってすべて赦し、あなたの裁きを恐れる者ではなく、あなたと共にある平和を与えてくださいましたから感謝いたします。どうか、あなたの愛に喜んで応える者としてください。み子が与えてくださる平和の中に立ち続ける者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、今朝も教会での礼拝を望みつつ、様々な理由で礼拝に出席することの叶わない者にわたしどもと等しい祝福を注いでください。特に病と闘っている者、4月の誕生感謝のときを楽しみにしていたにもかかわらず、転倒により、急遽、欠席を余儀なくされた姉妹、施設や病院のベッドで過ごしている者を顧みてください。1月1日に発生した能登半島地震で被害を受けた者、4月3日に発生した台湾地震で被害を受けた者、各地域で被災し傷ついた者をあなたの み手をもっていやし、強め、励ましてください。わたしどもも、忘れることなく祈り続ける者としてください。今もウクライナで、ガザ地区で、ミャンマーで、またあらゆる地域で争い、紛争が続いております。軍馬ではなく、平和の王さまとして、ろばの子にお乗りになられた み子主イエスを迎え入れる世を、築いてゆくことができますように。政治にたずさわる者を、またわたしども一人一人をも、平和を祈る者として、平和を実現する者として歩ませてください。悲しみ、嘆きの中にある者を憐れんでください。あなたにある望みがすべての者に与えられていることを、世のすべての者が知ることができますように。礼拝後、2024年度 最初の各委員会がもたれます。本年度、それぞれの委員会であなたに仕える者を強め、励ましてください。また、教会学校の教師、オルガニスト、さらに見えるところ、見えないところであなたに仕えるすべての者を み国のために存分に用いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2024年4月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第116篇1節~19節、新約 ヨハネによる福音書 第12章1節~11節
説教題:「キリストへのささげもの」
讃美歌:546、6、321、Ⅱ-1、332、545B 

 2024年度がスタートしました。わたしが東村山教会に遣わされて、10年目を迎えます。改めて、新たな思いで、愛する皆さんと一緒に、主の栄光を現していきたいと願っています。
 先週は、主イエスの復活を喜ぶ、イースター礼拝をささげました。礼拝では、一組のご夫妻の転入会式と1歳になったばかりのこどもの小児洗礼式を執り行いました。さらに、新しく4月から歩みだす神学生も与えられ、主の復活の喜びが二重にも、三重にも広がりました。そして迎えた月曜日の夜、一本の電話が入りました。それは、3月10日までわたしどもと一緒に礼拝をささげてくださった愛澤豊重先生が重篤な状態であるとの連絡でした。少し体調を崩しておられると伺っていましたが、まさか、それほど悪いとは思っておりませんで、少々慌てながら、ご自宅に駆けつけました。荒い息遣いの先生を、ご家族と共に囲んで、先生の愛する聖句を読みました。また、愛唱讃美歌を歌い、祈りを合わせて、その夜はいったん帰宅しました。翌日は東京神学大学の入学式に妻と共に出席、4月から東村山教会に加えられる二人の神学生と喜びを分かち合いました。今日は お二人とも礼拝に出席していますので、のちほど紹介させていただきます。入学式のあと、その足で、今月で95歳になられる加藤常昭先生が入所された施設を訪問しました。体力が衰えているように感じました。枕元で聖書を朗読し、讃美歌を歌い、早い快復を祈り、教会に帰ってきました。それから前夜の愛澤先生の様子が気になっていましたので、電話をしたところ、前日の夜、わたしの帰宅後 間もなく、先生が亡くなったことを知らされました。水曜日に納棺式、金曜日に前夜式、そして土曜日に葬儀となりました。先週は、改めて「献身」について考えることになった一週間でした。
 今朝、わたしどもに与えられた み言葉も、大きなテーマは「献身」ではないでしょうか。本日の説教題は、「キリストへのささげもの」といたしました。「献身」というと、まずはじめに述べたような「伝道献身者」を思い浮かべます。けれども、伝道者になることだけが「献身」でないことは申すまでもありません。
 今朝の み言葉は、大変に有名な、また昔から多くの人に愛されてきた物語です。わたしどもは約ひと月かけて少しずつラザロの復活の物語を読んでまいりましたが、そのラザロのきょうだいマリアが、主イエスを招いての食事の席で、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、主イエスの足に注ぎ、髪の毛で主イエスの足をぬぐったというのです。
この夜の翌日は棕梠の主日、主イエスのエルサレム入城ですから、食事は土曜日。翌日から受難週が始まり、その週の金曜日に十字架の死を迎える。このときすでに、主イエスの逮捕は決定されておりました。ラザロ、マルタ、マリアと食事を楽しむことは、おそらく最後となる。そのことを、マリアが知っていたわけではなかったと思います。マリアは純粋に、主からいただいた恵みに対して、感謝したかったのだと思うのです。しかし、主イエスからいただいた恵みに価する感謝の方法が見つからない。考えあぐねたマリアが行き着いた答えが、自分が知る限り最も高価で、よい香りの香油をたっぷり使って、主イエスの足を洗って差し上げたいという思いだったのではないでしょうか。本来、食事の前に、お客の足を洗う行為は奴隷の仕事です。また、1デナリオンが労働者1日の賃金であったと伝えられていますから、300デナリオンといえば、1年分の給料です。マリアにとっては、全財産といっても過言ではない額であったかもしれません。そして、香油で洗った主イエスの足を、自分の髪の毛でぬぐいました。髪の毛は、女性の命とも言われます。  まして、この時代のユダヤの女性にとって髪の毛は、滅多なことでは人に触らせたりしない、非常に大切なものでした。その大切な髪の毛をも、喜んで主のためにささげたのです。その行為には、「あなたはわたしの救い主。わたしはあなたの僕です。わたしはあなたにすべてをささげ、あなたに従って、生涯、生きてゆきます」という、マリアの信仰告白と献身とがあらわれていると思います。
けれども、このマリアの信仰告白と献身をとがめた者がいました。12弟子のひとり、イスカリオテのユダです。「なぜ、この香油を売って、貧しい人々に施さなかったのか。」この言葉について、ヨハネ福音書はこのように書き添えました。6節。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」わたしどもは、このあとユダが主イエスを裏切ることを知っておりますから、これをユダたけの問題として見て、わたしどもには関係ないこととして、み言葉を読んでしまうかもしれません。しかし、これは決して、ユダだけの問題ではありません。わたしどもひとりひとりのことが書かれています。ユダだけが盗人ではないのです。少なくとも、「主から財布を預かっている」ことにおいては、わたしどももまた、ユダと同じ。わたしどもの持っているもの何もかも、命さえも、すべては、主から賜わった恵みです。即ち、それらすべてが、主の財布にほかなりません。わたしどもが、この主の財布の中身を、常に自分のことだけを考えて使っているとしたら、どうでしょう。わたしどもは盗人ではない、ユダのようでないと言い切れるでしょうか。主イエスは、マリアをとがめるユダにおっしゃいました。7節。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
主イエスは、マリアの信仰告白の行動を静かに受け止めてくださりながら、ユダの言い分を否定なさってもいません。主イエスは、このように言っておられるのではないでしょうか。「貧しい人々は、いつでもあなたのそばにいる。でも、わたしは、これからあなたと一緒に旅を続けることはできなくなる。だからあなたは、そのときこそ、貧しい人々のことを心にかけていてほしい。自分の利益でなく、いつもあなたのそばにいる人のために、わたしの財布を用いてほしい。」
イースターを迎え、主のご復活を祝ったわたしどもにとって、何にも勝る恵みは、主の十字架による罪の赦しであり、主と共に歩む永遠の命です。主が、命を捨てて、わたしどもの罪を赦し、救ってくださいました。主から赦していただいているのに、わたしどもに、もし、どうしても赦せない人がいるとしたら、わたしどもはユダと同じ、盗人であります。
2024年度の年間主題が、週報の左下に小さく書いてあります。読みにくいかもしれませんが、こう記されています。「それぞれの賜物を主に献げる」。マリアは、自分の考え得るもっとも良い方法で、持っているものすべてをささげ、主イエスに感謝し、自分の信仰をあらわしました。マリアが献げたものも、主から賜ったものです。それを、そのまま献げたにすぎません。それでも、主はそれで良いのだ、するままにさせておきなさいと受け止めてくださいました。改めて5月に年間主題による説教を行いますが、2024年度最初の礼拝で、与えられた賜物を喜んで主にささげたマリアの姿を心に刻みたいと思います。
今朝は、ヨハネ福音書とあわせて詩編第116篇をご一緒に読みました。最後に12節以降をもう一度 共に味わいたいと思います。「主は わたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。救いの杯を上げて主の御名を呼び/満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。(116:12~14)」今、恵みでいっぱいの主の財布がここにあります。わたしどもひとりひとりに託されています。主の財布の恵みは、どんなにささげても、どんなに配っても、減るどころか、ますます豊かになるのです。
これより聖餐に与ります。わたしどもの救いの杯をいただきます。主の み名を呼び、満たされている恵みを感謝して、主から賜わっているすべてを献げて、赦し合い、仕え合う一年となりますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたの僕として、あなたから託された賜物を用いて、あなたに、となりびとに、仕える者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、愛澤豊重先生がみもとへと召されました。悲しみの中にあるご遺族の上に、溢れるほどの慰めをお与えください。新年度が始まりました。あなたから伝道者としてのお召しを受けた神学生がさらに2名加えられ、これから3名の神学生と共に歩むことになりました。どうか、神学生の歩みを支え、導いてください。主よ、能登半島地震で被害を受けた者、台湾地震で被害を受けた者、各地域で被災された者を強め、励まし、聖霊を注いでください。争いの続く世を憐れんでください。あなたから託された財布を、自分の利益、自国の利益だけに用いるのではなく、貧しい人々のために、苦しんでいる人々のために用いることができるよう導いてください。礼拝を慕いつつ、今日も病床で祈りをささげている兄弟姉妹がおります。その場にあって、愛と祝福で満たしてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年3月31日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第16篇7節~11節、新約 ヨハネによる福音書 第20章1節~10節
説教題:「復活されたキリスト」
讃美歌:546、148、151、21-81、352、545A 

説教を始めるにあたり、お集まりの皆さんに、また、この場を慕いつつ離れたところにおられる皆さんに、イースターの祝福をお祈りいたします。今朝は、いつもより早く、教会にまいりました。教会学校のイースター墓前礼拝をささげるためです。朝8時から、小平霊園にある教区墓地で子どもたちと礼拝をまもり、朝食をいただき、たまご探しを楽しみました。なぜ お墓で礼拝を守るのかというと、イースターの出来事のはじまりの舞台は、お墓だからです。第20章1節。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」
最初に、マグダラのマリアという女性が登場します。ガリラヤ湖の西岸マグダラ出身なので、「マグダラのマリア」と呼ばれております。ルカによる福音書 第8章2節には、こう記されています。「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」。七つもの悪霊にとりつかれた苦しみが、どのようなものであったかは、わかりません。けれども、とにかく身も心も救い難く病んでおり、孤独であったことが、「七つの悪霊」という言葉によって示されていると思います。同じくルカ福音書の第7章には「罪深い女」と記されており、芝居や映画等では娼婦として描かれることが多い女性です。いずれにしましても、主イエスに出会っていただくまで、おそらく誰からも愛されず、まわりから向けられる さげすみの目にさらされながら生きてきたことでありましょう。どんなに辛い人生であったことかと思います。しかし、だからこそ、主イエスと出会って、すべての苦しみから解放していただいた恵みは、その後のマリアの生き方を、まさに180度、ひっくり返しました。主イエスの愛を知ってからは、ただただ、主イエスのそばで生きたい、その愛に応えたい、と願い、自分の持ち物をすべてささげ、主イエスに仕える者へと変えられたのです。その生き方は、主が捕らえられ、十字架に架けられても変わりませんでした。マグダラのマリアは、十字架の下に立ち続けたのです。ヨハネによる福音書 第19章25節には、このように記されています。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」苦しみの中から救い出していただいたマグダラのマリアにとって、十字架のもとに立ち続ける以外の選択肢はなかったのです。
主イエスの十字架のもとに立ち続け、主イエスのために何ができるか?ということだけを考えていたマリアの生き方は、主が死んでしまっても変わりませんでした。他にどうしたらよいのか、わからなかったとも言えるかもしれません。マリアは、「何もしてはならない。」と定められている安息日が終わるのを、どんなに じりじりした思いで待ったことかと思います。そして、とにかくイエスさまの近くにいたい!と願い、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」主イエスのご遺体が埋葬されている墓に行ったのです。すると、予想もしない光景を目の当たりにしました。何と、墓穴を塞いでいた大きな石が、取りのけられていたのです。マリアは、主イエスのご遺体が何者かに奪い去られてしまったと思い込み、慌てて走り出しました。向かったのは、主イエスの十二人の弟子の一人、シモン・ペトロの家。そして、主イエスが愛しておられたもう一人の弟子の家でした。マリアは告げました。「主が墓から取り去られました。  どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」驚いたシモン・ペトロと、もう一人の弟子は、それぞれの家から外へ飛び出し、走り出しました。そして、おそらく途中で合流し、二人は一緒に墓に向かって、夢中で走ったのです。もう一人の弟子の方がペトロよりも若く、足が速かったのかもしれません。彼は先に墓に到着しましたが、覗いてみただけで、ペトロが来るのを待っていました。年長者であり、弟子たちのリーダー的な立場であったペトロを待っていたのでしょう。あるいはひとりで入るのは怖かったのかもしれません。
やがてペトロも墓に到着しました。シモン・ペトロが、恐る恐る墓に入ると、亜麻布が置いてあるのが見えました。また、主イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所ではなく、離れた所に丸めてあることに気づきました。ペトロはもう一人の弟子を手招きし、「お前も中に入って、確認してくれないか。」と言ったかもしれません。恐る恐る墓に入ったもう一人の弟子は、「見て、信じた。」と福音書には記されています。
聖書学者 雨宮 慧(あめみや さとし)先生は、この「見て、信じた。」という言葉について、非常に興味深いことを書いておられます。「見て」は、「エイドン」というギリシア語で、「心の目で洞察する」という意味があるのだそうです。「信じる」ことが可能となるためには、本質を見抜く心の目が必要なのです。最初に信じることのできた弟子は、「イエスが愛しておられた」弟子でありました。その主イエスの愛が、信じるための前提となるのだと、雨宮先生は言っておられます。主イエスの愛を受けて開かれた目で見るとき、信じることが可能となるのです。
わたしどもの中に、復活されたイエスさまを肉の目で見た者はおりません。けれども、主イエスは復活されました。神さまが、復活させてくださいました。それは、主イエスを信じる者がひとりも滅びずに、主イエスと同じ復活の命に生きるようになることを、神さまが望んでくださったからです。わたしどもが復活の命に与って生きるなら、たとえ地上の命を終えるときも、まるで隣りの部屋に移るような軽やかさでいることができます。主の愛が、生きるときも死ぬときも信じる者を包み込んでいるからです。主の愛に終わりはありません。わたしどもは心の目で、復活の主イエスを見ています。主イエスに出会っていただき、愛を注いでいただいて、信仰の目を開いていただいたのです。それでも、愛する者の死を目の当たりにするとき、信仰がぐらつくことがあるかもしれません。火葬が終わり、骨を拾う。そのとき、「復活の命なんて、ほんとうだろうか?」そう考えてしまうこともあるかもしれません。しかし、これ以上 確かなものはない主イエスの愛が、わたしどもの目を開き、信仰を支えてくださるのです。主イエスが愛しておられたもう一人の弟子は、ヨハネ福音書だけに登場します。名前は明らかにされておりません。ヨハネ福音書はなぜこういう書き方をしているのでしょうか?それは、ヨハネ福音書を生んだ教会の信仰によるところが大きいと思います。「主イエスが愛しておられたもう一人の弟子、それは、このわたしだ。わたしたちだ。さらに、この福音書を読むすべての者たちだ。わたしたちはみんな、主の墓に向かって走る。力の限り、それぞれの全速力で走る。そして空(から)の墓を主の愛によって開かれた目で見て、信じる。マグダラのマリアに続く者、ペトロに続く者なのだ。」と言っているのではないでしょうか。ヨハネによる福音書は、今、ここにいるわたしどもをも巻き込むようにして、主の墓の前に立たせるのです。
 しかし一方で、9節以下にはこのように書いてあります。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。」「見て、信じた」のに、まだ聖書の言葉がさっぱりわかっていなかった、というのでは、矛盾しているように感じます。けれども、よく考えてみれば、わたしどものありさまをよく言い表しているかもしれません。主イエスが復活された。そのことを、自分とはまるっきり関わりがないとは言わないまでも、どこか遠い、神話のようなものとしてぼんやり信じている。少なくとも、主の復活が、わたしども自身の死をも照らす、光であるというところまで、なかなか実感が湧いてこない。そのような感覚が、ありはしないでしょうか。だからペトロも、もう一人の弟子も、  家に帰ってしまったのかもしれません。「みんなにこの喜びを知らせたい!」と飛び出して行くことはなかった。だからこそ、わたしどもには、聖書の み言葉が必要なのです。
改革者カルヴァンの言葉があります。「わたしたちの信仰に欠けているものはすべて、わたしたちの内にある聖書に対する無知のせいである。」わたしどもの信仰に何かが欠けている。その欠けている原因は何か。それは、わたしどもが聖書を知らないからだと言うのです。聖書にすべてが書いてある。だから、聖霊の助けを祈り求めながら、聖書を理解させていただくということが大切です。ペトロと、もう一人の弟子は家へ帰って行きましたが、マグダラのマリアは一人残って、墓の前で泣いていました。そして泣いていたマリアに、主イエスはいちばんはじめに、会ってくださいました。マリアが、主イエスの言葉を100%すべて理解していたから会ってくださったというのではありません。弟子たちと同様、理解はしていなかったと思います。でも、十字架のもとに立ち続けたときと同じように、墓の前に、立ち続けていたのです。主イエスを求め、主イエスを慕い、主イエスを愛し、ただ、立ち続けたのです。マグダラのマリアは、わたしどもの信仰の手本です。わたしども主イエスに従う群れの、いちばん先頭に立っている人です。暗闇の中で、主の限りない愛を知って、何とかして、主の愛に応えるすべはないものかと考えて、わからなくても、わからないなりに、主のそばに居続けたマリアの生き方を、わたしどもは信仰の模範として、生きてゆきたい。聖書の み言葉のそばに立ち続けたい。
只今から聖餐の祝いに与ります。死を越えて続く命の主が、わたしどもと出会ってくださり、愛してくださり、繋がってくださり、わたしどもと一つになっていてくださいます。その恵みを聖餐によって確かめつつ、十字架のもとに立ち続ける群れでありたいと願います。そしていつの日か、ここにいるすべての人が、今日 小児洗礼を受けた子どもも、教会学校の子どもたちも、みんなで一緒に、  聖餐の祝いに与る日が与えられるよう祈り続けてまいりましょう。

<祈祷>
天の父なる神さま、主イエスは死に勝利してくださいましたから感謝いたします。主よ、どのようなときも、十字架による赦しと、復活の命を信じて、あなたの愛の中で永遠に生き続ける者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、イースター礼拝において、一組の夫婦の転入会式と、子どもの小児洗礼式の恵みをお与えくださり、深く感謝いたします。これから共に力を合わせ、主の栄光を現すことができますよう導いてください。今朝も礼拝を欠席しなければならなかった者に、どうか、その場にあってあなたの祝福を溢れるほどに注いでください。特に、病と闘っている者をあなたの愛によってお支えください。信仰が萎えてしまっている者がおりましたら、聖霊をもって支えてください。明日から新年度を迎えます。環境の変化により、不安を抱いている者がおりましたら、あなたの愛の中で、安心して一日一日を歩むことができますよう導いてください。東村山教会にも4月から新しい神学生、また青年があなたから託されます。主よ、それぞれの歩みを力強く導いてください。主よ、能登半島地震で被害を受けた一人一人を、あなたの慈しみの中に置いてください。望みをもって歩むことができますよう聖霊を注いでください。主よ、争いの続く世を憐れんでください。政治を託されている者を、あなたの みもとに立ち帰らせてください。驕り高ぶりを捨て去り、互いに敬い、共に平和をつくる者となることができますように。わたしどもをも平和を祈り続ける者として用いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年3月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第23篇1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第11章45節~57節
説教題:「十字架の死が我らを生かす 」
讃美歌:546、138、262、495、544 

本日の礼拝は、受難週礼拝としてささげております。主イエスが十字架の死に向かって受難の道を歩まれる。その第一歩は、ロバの子に乗って、エルサレムに入城される場面です。今、ヨハネによる福音書 第11章45節から57節が記されているページを開いている方は、1ページめくると、192ページ、上の段のはじめ、第12章12節を読むことができます。小見出しに「エルサレムに迎えられる」とあります。この記事が、今日から始まる受難週の、最初の日の出来事です。今日この日に、わたしどもに与えられております み言葉は、その第12章に入る直前であり、少しずつ読み進めてまいりましたラザロの復活の物語に続く場面です。主イエスから、「ラザロ、出て来なさい」と呼ばれ、死んでいたラザロが、手足を布で巻かれたまま墓から出て来た。ラザロのきょうだい、マルタとマリアは、主イエスを神から遣わされた救い主と信じていました。二人は、どれほどの感動と、喜びをもって、神さまと主イエスに感謝したことでしょう。その場にいた多くの人々も、この方こそ、神から遣わされた救い主、メシアだと、主イエスを信じました。
けれども中には、この驚くべき みわざが、神の力であると信じることができない者たちもいました。死んでいた者が、生きかえった。得体の知れない、おそろしさを感じたのかもしれません。神さまの力の働きを信じることができなければ、これほどおそろしいことはないと思います。あるいは何か、からくりがあるのではないか?と疑う人もいたかもしれません。そしてそのような、主イエスを信じない心が、53節の「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」というところにまで行ってしまうのです。
これまでも、主イエスは、ユダヤ人たちから殺意を抱かれてきました。石で打ち殺されそうになったこともありました。けれども、この53節は、これまでとは違う。第11章の最後は、このように締めくくられています。57節。「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」ユダヤ教の指導者たちが、正式に主イエスの指名手配を決定したのです。そして、第12章からの受難の物語へと続いていきます。主イエスが、「ラザロ、出て来なさい」と墓に向かって呼びかけてくださり、暗闇に光が輝きました。死から命へ。信じる者にとっての慰めと希望の光が天から射した。その一方で、その同じ出来事によって、人の世の暗闇は、さらに深さを増してゆくのです。けれども、それゆえにこそ、神さまはご自分の計画を進めてゆかれます。
51節に、「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」とあります。預言とは、神さまからお預かりした言葉です。ですから、これは、カイアファという人の思いではなく、神さまの思いとして語られた言葉なのだと、ヨハネによる福音書は告げているのです。どのような預言かというと、49節。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」という言葉です。ヨハネ福音書は、主イエスの死は、国民全体が滅びないで済むための身代わりとしての死なのだと、告げているのです。この、カイアファを通して語られた神さまの思いを、わたしどもは受難週礼拝の今朝、心に刻みたいと思います。本来であれば、罰を受け、滅びなければならないのは、主イエスではなく、わたしどもです。しかし神さまは、わたしどもの身代わりとして、主イエスを十字架の死に向かわせられたのです。罪のわたしどもを生かすために。死んでも生きる者とするために。神の み子が犠牲となる。カイアファがそれを理解していたというのではありません。主イエスを救い主と信じていたのでもないでしょう。しかし、カイアファの口が語った言葉は、神さまが授けた言葉であったのです。神さまは、み心の実現のために、カイアファをも用いられたのです。そして、ヨハネ福音書はカイアファの預言に、さらに解説を加えています。52節。「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」国民とは、ユダヤ人のことですが、主イエスが十字架で死なれたのは、ユダヤ人の救いのためだけではない。散らさせている神さまの子どもたち、ユダヤ人だけでなく、パレスチナ人でも、ドイツ人でも、韓国人でも、中国人でも、日本人でも、そのほかのすべての国で、神さまの子どもとして生かされている者たちが、主イエスの死によって、一つに集められるために主イエスは死ぬのだ、と言うのです。世界中のすべての人間が、主イエスの死によって罪を赦されて、そのことを信じて、互いに赦し合って、一つに集められる。神さまはそれを望んでおられるのです。決して、国と国で争い、殺し合うためではない。そのことを今こそ、心に刻みたいと思います。
先日、『映像の世紀バタフライエフェクト』というNHKの番組で「イスラエル」の特集が放送されました。ご覧になった方もおられると思います。第一次世界大戦より前、ユダヤ人によるパレスチナへの入植は、はじめは平和な共存関係がありました。しかし、次第にそれぞれの立場、思惑の違いが明らかになっていきます。そして国家という形を求めるあまり、大国の二枚舌の誘惑に、まんまと  のせられて戦争に巻き込まれてしまったのです。そのようにして、一度始まった戦争は大きな渦(うず)となって何もかもを巻き込んでいってしまいました。戦いは止むどころか、どんどん激しさを増しています。そのような、人間が神さまの思いからどんどん離れていってしまう過程を、何とも言い難い、苦(にが)く、苦(くる)しい思いで見ました。主イエスは、ラザロの死を嘆くマルタ、マリアの涙に激しい憤りを覚え、興奮し、涙を流されたように、今、世界の各地で流されている多くの涙に、激しく心を揺さぶられながら涙を流しておられるのではないでしょうか。わたしどもは、主イエスが、ユダヤの「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死」なれたことを、決して忘れてはならない、と思います。
ところで、47節に記されている「最高法院」とは、ユダヤ教の律法に関する最高法廷であり、ローマ帝国の支配下にあるユダヤ人の自治機関でもありました。大祭司が議長で、71人の議員がいたようです。行政権と、死刑判決を含む司法権を持っていましたが、その執行には、ローマ総督の最終認可が必要でした。裏を返せば、ローマに征服されて自分たちの国を持たないユダヤ人でしたが、皮肉なことに、ローマに従うことによってその立場は保障されていました。もしイエスが革命でも起こしたら。イエスにその気がなくても、群衆が彼をかつぎ上げ、ローマに反旗をひるがえしたら。その恐怖が、48節にあらわれています。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」そこへ、カイアファによる預言がお墨付きを与えました。結果、57節に「イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」とあるように、指名手配が決定されたのです。
主イエスは、この後、「もはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。(11:54)」と記されております。そして、過越祭が近づいてまいりました。多くの人が都エルサレムへ上って行きます。エルサレムは、死者をよみがえらせたという主イエスの噂で持ち切りであったことでしょう。「過越祭」は、ユダヤ教の三大祭のひとつです。旧約聖書 出エジプト記に祭の由来が記されております。紀元前1300年ごろ、エジプトの奴隷となっていたユダヤ人たちが、指導者モーセに導かれてエジプトを脱出しようということになりました。しかし、エジプトの王は、労働力を失うことを嫌って、奴隷の解放を渋りました。そこで神さまは、エジプトにさまざまな災いを与えられたのです。このとき、ユダヤ人には災いがふりかかることのないように、ユダヤ人たちは、神さまから命じられて小羊を殺し、その血を目印として家の門口に塗りました。そして災いをもたらす天の使いがやって来たとき、門口に塗られた血が目印となって、天の使いたちはユダヤ人の家は素通りして行ったので、災いを免れました。ユダヤ人たちは小羊の犠牲によって、無事にエジプトを脱出することができたのです。神さまがくだされた災いが、小羊の犠牲によって過越した。この出来事を記念する祭りが、過越祭です。そしてこの過越祭を、神さまは救いのときとしてお定めになり、神自らが、犠牲の小羊を備えられました。神の み子が、犠牲の小羊として、十字架に架けられたのです。み子主イエスが、過ぎ越しの小羊として十字架で死なれ、三日目の朝に復活なさったことを信じる者が、滅びを免れ、死んでも生きる者となるために。
今日は、ヨハネ福音書と共に、詩編 第23篇を朗読していただきました。4節。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/  それがわたしを力づける。」来週のイースター礼拝をはさんで、再来週からは主のご受難の物語を読んでまいります。主イエスが、死の陰の谷へ向かって歩んでいかれます。主が過越の小羊として、わたしどもが救われるために死んでいてくださる。だからわたしどもは、たとえ死の陰の谷を行くときも災いを恐れなくてよいのです。
おとといの金曜日に、愛する兄弟の自宅で執り行われた納棺式、ならびに棺前祈祷会では、この詩編 第23篇を ご遺族の皆さんと一緒に味わいました。わたしどもは皆、死の陰の谷を歩くときにも、恐れなくてよい。どんなときも、主イエスがわたしどもと共におられます。たとえ死んでも、わたしどもは主から与えられた永遠の命の中にいます。この恵み、神さまの慈しみに、終わりはありません。来週はイースター礼拝です。主イエスの十字架の死の先には復活の喜びがあることを感謝し、先に眠りについた兄弟の信仰に励まされながら、ひとりでも多くの人に、主イエスと共に歩む平安を届けたい。ひとりでも多くの人に、罪の赦しと永遠の命の約束を届けたい。心から願います。

<祈祷>
天の父なる神さま、み子が十字架で死んでくださった意味を心に刻むことが許され、感謝いたします。罪を赦され、滅びを免れた者として、互いに愛し合い、赦し合い、支え合う者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、昨日は、愛する兄弟の葬儀をあなたのおまもりの内に執り行うことが許され、感謝いたします。言葉にならない喪失感を抱いている ご遺族に、慰めを注いでください。今週は、み子が十字架で息を引き取られた受難日を覚えて金曜日に祈祷会を行います。み心なら、ひとりでも多くの兄弟姉妹と共に祈りをささげることができますように。来週は、イースター礼拝となります。先週の礼拝後、伝道委員の者たちがポスティングを行いました。イースター礼拝に新来者がひとりでも与えられますよう聖霊を注いでください。イースター礼拝で東村山教会への転入会を希望している夫婦を与えてくださり感謝いたします。さらに、お子さんの小児洗礼式も予定しております。礼拝後、臨時長老会を執り行います。主よ、あなたの み心が示され、お二人の転入会式と小児洗礼式を執り行うことができますよう導いてください。主よ、世界を覆う闇をあなたの光で照らしてください。世界中で流されている悲しみの涙を、喜びの涙へと変えてください。礼拝出席を望みつつ、出席の叶わない兄弟姉妹がおります。主よ、来週のイースター礼拝にはそれぞれの状況が整い、ひとりでも多くの者と主イエスの復活を喜び合うことができますように。礼拝後に行われる婦人会総会を祝福し、新年度も婦人会の歩みを力強く導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年3月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ハバクク書 第2章1節~5節、新約 ヨハネによる福音書 第11章38節~44節
説教題:「神の栄光の約束」
讃美歌:546、24、151、316、543

ヨハネによる福音書 第11章を読み続けております。主イエスは、兄弟ラザロの死を悲しむマルタにおっしゃいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(11:25~26)」主イエスが命をかけて、マルタに、そしてわたしどもにくださった約束です。「わたしの命をかけた、この約束を信じるか?信じてほしい!」と言われています。今朝の み言葉、38節から44節でラザロの復活の物語は頂点に達します。信じるか?と尋ねてくださった その約束の通り、ラザロが墓穴から出て来たからです。ラザロだけが、特別扱いされているのではありません。わたしどもすべての者が、同じ恵みの中へと招かれております。わたしどもにも、ラザロのように、主イエスから「出て来なさい」と呼んでいただける朝が約束されています。ラザロだけではなく、わたしども皆に約束されている、復活の約束の み言葉を、ご一緒に味わってまいりましょう。
38節。「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。」この み言葉の直前に、人々の呟きが記されています。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか(11:37)」。人々の心を捕らえている、死の途方もない闇、あらがい難い暗さは、わたしどもの心をも、捕えようと待ちかまえています。当時のお墓は、そのような死の闇を象徴するかのような洞穴でした。現代のような保存技術はありませんから、遺体は腐って臭いを発してきます。そのため、洞穴の入口を石で塞ぎ、遺体が腐っていく臭いが外に漏れないようにしたのです。しかし、主イエスは、おっしゃいました。「その石を取りのけなさい」。マルタは恐れて、抵抗しました。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。石を取りのければ、暗闇がぽっかりと口を開きます。そして、そこにただよっているであろう兄弟ラザロの死の臭い。それらは、マルタにとって、怖ろしく、耐え難いものでした。それでも、主イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」とおっしゃいました。既に読みましたように、マルタは主イエスに「あなたこそ、神の子キリストです。」と信仰を告白しました。それなのに、死の暗闇を怖れるマルタに、主は神さまの光を指し示してくださったのです。
 わたしどももマルタと同じです。既に主イエスへの信仰を告白し、洗礼を受け、永遠の命を信じていても、愛する者が衰え、遂に死んでしまう、そのとき、死の力に圧倒されてしまうのではないでしょうか。真っ暗な洞穴のように、ぽっかりと口を開けて、愛する人を飲み込んでしまった死の力が絶対なのだ、と信じてしまう。神の力といえども、死んで、腐ってしまったものを、焼かれて灰になってしまったものを、甦らせるなんてできるわけがない、と絶望する。神の力よりも、死の力の方が絶対と信じてしまう。けれども、そのようなわたしどもに、主イエスは心を震わせ、涙を流し、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。復活であり、命であるわたしが約束したではないか。」と語りかけてくださるのです。「神の栄光」という言葉は、既に記されています。主は、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。(11:4)」と、明確に語っておられます。
当時、病による死は、罪の結果と信じられていました。確かに、わたしどもは皆、神さまの み心に背く罪人です。口では平和を語りながら、いざ自分がおろそかにされれば腹を立て、攻撃されればやり返し、優れた人を見ればうらやみねたむ、そのような弱い者です。赦すよりも赦されることを求め、愛するよりも愛されることを求めてしまう者です。誰もが神さまに審かれる時、滅びの中に立つしかありません。しかし、主イエスへの信仰を告白し、洗礼を受け、キリストと結ばれるなら、そこに希望が生まれます。絶望しなくてよい。キリストと結ばれることによって、キリストと共に死に、キリストと共に復活する。本来の わたしどもには、滅びを免れる可能性などまったくないのに、神さまはわたしどもに、キリストのように生きるための まったく新しい命を与えてくださるのです。あなたの立つべき場所はここ、十字架の死による赦しの中だと、言っていただけるのです。まったく新しく造られた者、まったく新しい命に生きる者として、生きる希望が与えられる。そしてこの希望は、死をも超える。死を突き破るのです。
主イエスに言われた通りに、人々が石を取りのけると、主イエスは天を仰いで祈られました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが わたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」主イエスは、神さまに祈られたのです。「あなたはいつも、わたしの願いを聞いてくださいます。それでも、わたしがここで天を仰いであなたを呼ぶのは、ここにいる、すべての人びとが、あなたがわたしを天から遣わされたことを信じるようになるためです。」主イエスが神さまに対して、ある意味、パフォーマンスをするかのように祈っておられることに驚きを覚えます。しかし、そこには理由がある。主イエスが、人々の前で天を仰いで祈られた理由。それは、ただただ、この人たちみんなが、わたしを信じて、死んでも生きる者となって欲しい。死なない者となって欲しい。死の闇から救われて欲しい。主イエスの願いはただ、そこにつきるのです。
 そして主イエスは、墓に向かって大声で叫ばれました。「ラザロ、出て来なさい」。すると、神さまによって復活させられたラザロが、手と足を布で巻かれたまま、顔も覆いで包まれたまま、歩いて出て来たのです。福音書の記者は、このときラザロが、主イエスに何を言ったかも記さないし、マルタとマリアが何を言ったのかも記していません。その代わりに記されているのは、主イエスから人々への「ほどいてやって、行かせなさい」との言葉です。主イエスによる、死からの解放の宣言だけが、書き記されているのです。
 このあと間もなく、主イエスは、ラザロたちの住むベタニアに近い、エルサレムの郊外ゴルゴタの丘で、十字架に磔にされ、死んでいかれました。ラザロも、自分を墓の中から呼び出してくださった主イエスが死なれたことを知ったことでしょう。そのとき、ラザロが、マルタやマリアが、どう思ったのか、どうしていたのか、聖書は何も語っていません。だから、想像するしかありません。ラザロが死んだときのように三人とも涙に暮れたかもしれません。しかし、主イエスの頬をつたった涙を忘れることはなかったと思います。主の約束の言葉を忘れてしまうことはなかったに違いない。そして、「信じます」、「信じています」と繰り返し祈り、神さまの答えを、待っていたのではないかと思うのです。そして三日目の朝、愛する主イエスが復活なさった!という知らせを、踊り上がるような喜びを持って、聞くことができたのではないでしょうか。
週報にも記しましたが、先週の木曜日の深夜、病床にあったわたしどもの教会に連なる兄弟が、天に召されました。長く教会のために祈り、神さまの栄光を現し続けた長老経験者です。亡くなる二日前の火曜日、雨が降りしきる午後でしたが、病床を訪問することができました。あたたかな手と額に触れながら、愛唱聖句を読み、讃美歌を歌い、祈るうちに、目には見えなくても、今、確かに復活の主イエスが、ここにおられると、心の底から信じることができました。復活と再臨の主イエスが、兄弟の傍らにおられる。いや、傍らというよりも、兄弟の中におられることを確信して、教会に戻ってまいりました。
わたしどもは、主イエスの十字架の死と復活を信じて、信仰を告白し、洗礼を受けるなら、復活の主イエスと結ばれ、主イエスの復活の命をいただいて生きる者となります。その約束が、わたしどもに与えられているのです。
墓の洞穴のような、真っ暗闇が、ぽっかり口を開けている、そのような死の前に立ち、恐怖に足がすくむときも、「出て来なさい」と大声で叫ばれた主の み声が、わたしどもの耳に響く。さらに、復活なさった主イエスが、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように(20:19)」と言ってくださった声が、響くのです。墓の穴の暗闇に射した命の光に、わたしどもは既に照らされています。わたしどもは、復活の主の命をいただいて、イースターの朝の光に照らされながら、死を迎えることができる。わたしどもの中で生きて働いていてくださる主によって、死の暗闇と対決して、勝利することができるのです。
愛する者の死は、とてつもなく大きな痛みです。火葬され、骨になる。いずれ墓に納骨される。墓の中は、現実には光が遮断され、真っ暗です。しかし、わたしどもは今朝、そして、この数回の礼拝においてラザロの死と甦りを心に刻みました。わたしどもは、この驚くべき出来事を信じてよい。愛する者が死に、いよいよ墓に納められるとき、「ああ、ここにイエスさまがおられたら、イエスさまが愛する者の名前を呼び、『墓から出て来なさい』と叫んでくださったなら。」と思いたくなります。しかし、その必要はない。なぜなら、骨になっても、真っ暗闇の墓の中に納められても、そこには、主の復活の光が射しているからです。永遠に輝き続ける主イエスの み言葉が、与えられているからです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(11:25~26)」
「信じます」と信仰を告白したマルタ。また、自分自身の中に生きておられる主イエスを信じて、復活の命を信じて、地上での命を終えた多くの兄弟姉妹。わたしどもは、そのあとに続く者です。「主よ、信じます」と、復活の約束を信じて、恐れることなく、安心して、一日一日を主と共に歩んでよいのです。
洗礼は、わたしどもの魂と肉体を新しくします。洗礼は、復活の主イエスとわたしどもを結びつけるからです。死んだあと、わたしどもはどうなるのか、確かなところはわかりません。でも、希望がある。それも、神さまが主イエスによって約束してくださった希望。主が、その命をかけて約束してくださった希望です。ですから、どんなに衰えた体にも、声を発することのできない体にも、復活の主イエスが宿っていてくださるのです。たとえ、すべてを忘れてしまっても、洗礼によって新しくされ、主イエスと共にある命は永遠です。そして、主イエスが再び世にいらしてくださる再臨のとき、まったく新しい体を持った人間として、神さまの み前に立つことが約束されているのです。その希望の中で、地上の命を終えることができるのです。そのように、わたしどもは死において、神の栄光を見ます。信じる者は、死で終わらない事実に、光を見る。神の栄光を見る。主は、わたしどもと、どんなときも、どこにあっても、永遠に、共におられます。わたしどもの中に生きていてくださいます。これこそ、主イエスがラザロ、マルタ、マリア、そしてわたしどもすべての者に与えてくださる祝福の約束なのです。

<祈祷>
天の父なる御神、慰めと励ましに満ちた み言葉を感謝いたします。復活によって死に勝利された み子の救いを信じ、どのようなときも、あなたの栄光を現す者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、先週の木曜日、愛する兄弟が召されました。今週の土曜日、葬儀を執り行います。この葬りの業を、ひとりでも多くの者が、み子を信じる信仰へと導かれるために用いてください。あなたの栄光を現すことができますように。深い悲しみの中にあるご遺族の上に、溢れるほどに慰め、聖霊を注いでください。世界の至るところで、争いが続いています。主よ、悲しみの中にある者、飢えの中にある者、望みを失っている者を、あなたの愛で包んでください。争っている者たちが互いに武器を捨て、和解に向けて努力することができますように。赦し合うことができますように。震災によって傷つき、苦しんでいる多くの人に、あなたの慰めが届きますように。能登半島にある輪島教会、七尾教会、羽咋教会、富来(とぎ)伝道所の歩みをお支えください。主よ、礼拝を慕いつつ様々な理由のためにその願いが叶わない者がおります。特に入院を余儀なくされている者、痛みを抱えている者を み手をもってお支えください。東日本連合長老会に属する諸教会を強め、励ましてください。特に、増田将平牧師が闘病中である青山教会の歩みをお支えください。再び、説教壇に立つ日を信じ、厳しい病と闘っている増田牧師の病を癒やしてください。また、4月から牧師不在となる小金井西ノ台教会の歩みをお支えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年3月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第11章8節~12節、新約 ヨハネによる福音書 第11章28節~37節
説教題:「主の憤り、主の涙」
讃美歌:546、13、255、304、542、427

ヨハネによる福音書 第11章の長い物語を、少しずつ区切って読んでおります。マルタとマリアの兄弟ラザロが病のため死んでしまい、墓に葬られて四日も経っている。そのとき、主イエスがようやくベタニアに到着された。姉であったと思われるマルタが、まず主イエスを迎えに出て行き、妹マリアは家で泣き続けていました。  マルタは、主イエスとの対話によって信仰へと導かれてゆきます。そして、大急ぎで家に帰り、妹のマリアを呼んで、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と、そっと耳打ちしました。
28節の「先生がいらして」と訳された言葉には、特別な表現が用いられています。「傍らに立つ」と訳せる言葉で、「助けを与える」という意味にもなります。また、「呼ぶ」という言葉は、「声を出す」という意味を持つ表現が用いられています。「イエスさまが、わたしたちを助けに来てくださった!そしてマリア、あなたを呼んでおられるから、急いで行きなさい」と、マルタはマリアに伝えたのです。「先生がいらして、あなたをお呼びです」。マルタの この言葉は、何気ない一行です。けれども、ここにも、わたしどもがどのように主に招かれて、どのように救いの中へと入れられるかが、示されていると思います。主が、わたしどもを救うために来てくださり、傍らに立って、一人一人の名前を、呼んでいてくださる。その声を、先に聞き取った誰かが伝えてくれる。そのように、わたしどもは主のもとへ招かれて、信仰の中へと入れていただくのではないでしょうか。
さて、マリアは、主の招きを知ると、すぐに立ち上がり、主イエスのもとに駆けつけました。マリアが急に立ち上がって出て行くのを見て、家の中でマリアと共にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、きっと墓に行って泣くのだろうと思い、マリアの後を追いました。主イエスは、まだベタニア村には入らず、そのまま、マルタが出迎えた場所で、待っておられました。マリアは、主イエスの姿を見つけるやいなや、抱えていた悲しみをすべてぶつけるように、主の足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と泣き崩れました。その後は、もう言葉が続かなかった。主の足もとにひれ伏し、オイオイと泣き続けたのです。もしかしたら、マリアもマルタのように、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と、言葉を続けたかったのかもしれません。でも言葉にならないほど、涙があとからあとから溢れてきて、しまいには自分の涙におぼれるように、泣き続けることしかできませんでした。それを見ていた人々もつられて泣きだす。
主イエスは、マリアがご自分の足もとにひれ伏し、泣き崩れている姿を見て、また、そのマリアと一緒になって泣いているユダヤ人たちを見て、「心に憤りを覚え、興奮した」と聖書は告げています。「憤り」と訳された言葉は、馬が興奮して、激しく鼻を鳴らす姿を描く言葉と言われております。「怒って鼻を鳴らす」という意味から、不機嫌になる、不快や憤りを表にあらわす、という意味の言葉になりました。憤りが、その場にいたすべての者に伝わるほど、激しい興奮を あらわになさったのです。
主イエスが憤りの感情を、周りにもそれとわかるほど、むき出しにしておられる。主イエスは何に対して、こんなに激しく憤っておられるのでしょうか?見えない人の目を見えるようにし、歩けない人を歩けるようにしてきたイエスさまでも、死に対してはさすがに無力だと、あなどる人々の不信仰に対して、憤られたのでしょうか?人々をこれほどまでに嘆き悲しませ、恐れさせる死に対し、憤っておられるのでしょうか?その両方でしょうか?あるいは、「わたしが、すべての人に復活の命を与えるために、神から遣わされて、ここにいるのに、それが伝わらない。」そのようなもどかしさ、苛立ちもあったかもしれません。まるで、神が生きておられないかのように、主イエスがどこにもおられないかのように、オイオイと嘆くマリアとユダヤ人たちの涙を、主イエスは断ち切るように、憤然として言われました。「どこに葬ったのか。」そこで泣いていたユダヤ人たちは、「主よ、来て、御覧ください」と、墓まで案内して行きました。すると何と、今度は主イエスが涙を流された。主イエスの両眼から、涙が溢れたのです。
主イエスの涙は、単に感傷にかられた涙でも、絶望の涙でもありません。「イエスは涙を流された。」と訳された言葉には、マリアやユダヤ人たちのそれとは違う、特別な表現が用いられています。「実際に、「主イエスの両眼から涙が溢れて、頬をつたった」という表現です。そして、主の涙を見た人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言ったと福音書は告げています。この、36節で、「愛しておられた」と訳された言葉は、11節で、主がラザロのことを「わたしたちの友」と呼んでくださいましたが、この、「友」という言葉と語源は同じで、友への愛を示す言葉です。「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」。一見、傍観者による意味のない感想とも思える言葉ですが、それでも、わざわざ、「御覧なさい」、「見なさい」と命じ、主の目から溢れ出し、頬を つたう涙に、わたしどもの目を向けさせているのです。この一言を、ここに書き添えた、ヨハネ福音書を書いた人の切実な思いが、伝わってくるように思います。「ご覧なさい、見なさい、目から溢れ出し、頬をつたって落ちていく主の涙を。友のために流された涙を、目に焼きつけなさい。」と、わたしどもは言われているのではないでしょうか。「復活であり、命である」主イエスが、わたしどもを友として愛し、このわたしどものために、涙を流しておられる、わたしどもは死ぬ時、その涙を見つめながら、神さまのもとへ帰ることができる。また、親しい人の死に際しても、その人のためにも主が涙を流しておられる、その涙を見つめながら、愛する者を神の みもとへと送ることができるのです。これから死んでゆく、そのときに、わたしを友として名前を呼んでくださり、涙を流してくださる、その涙に支えられ、死んでゆける。決して闇に赴くのではありません。主イエスの命の光に導かれて死に赴くのだと確信して、死んでゆくことができる。主イエスの涙は、その確信を支えてくださる涙なのです。
明日は、3月11日です。東日本大震災から13年。「あの日から13年」というタイトルで様々な報道がされておりますが、そのひとつ、先週の火曜日の東京新聞 社会面で「悲しみ 我慢せず話して」と題した記事を読みました。宮城県 山元町(やまもとちょう)は、宮城県最南端の町で、津波で大きな被害を受けました。その一人が現在53歳の亀井さん。亀井さんは妻と当時1歳だった次女を失いました。あれから13年。新聞記事は亀井さんの言葉を伝えていました。「1月、能登半島地震で親族を全員失った同じ年の男性をテレビで見て、『力になりたい』と思い、最近話していなかった経験を再び語ろうと決めた。『つらい時は我慢しなくていい。前に進もうと思わなくていい。暗闇にともる明かりのようなものがいつか必ず現れる』。」 わたしどもには、亀井さんの涙の重さを想像することしかできません。しかし、主イエスは、一人一人の傍らで、一人一人と同じ涙を流すことができる方であります。そしてわたしどもに、死を越えた命を与えることがおできになる方です。マルタがマリアに「イエスさまが側に来てくださって あなたの名前を呼んでおられます」と耳打ちしたように、わたしどもも主の涙を指し示し、「主が、あなたの名前を呼んでおられます」と伝えながら、生きていきたいと切に願います。
この後、ご一緒に賛美する讃美歌304番の3節は、このように賛美します。「わざわいとくるしみ/われをかこむとも、まごころを ささげて/主によりすがらば、おもいにまされる/安きを身にうけん。」辛いとき、苦しいとき、悲しいとき、涙が溢れるとき、泣きじゃくってよい。無理に言葉を紡ぐ必要もない。けれども、ただあてもなく泣くのではない。主イエスにすがりついて泣くことができる。ただ涙を流すしかできないときにも、わたしどもを友として愛し、名前を呼んでくださり、涙を流してくださる主イエスが、側にいてくださいます。そして、わたしどもには考えも及ばないような平安を与えてくださるのです。主の頬をつたった涙が、わたしどもを支え、導く光です。
ラザロが病気になり、マルタとマリアが必死に祈って、「イエスさまどうかすぐに来てください」と願ったのに、主イエスはすぐには来てくださいませんでした。そのように、主が与えてくださる答えは、いつもわたしどもの思い通りのものとは限りませんし、今、この時にも、世界中で目を覆いたくなるような殺され方で死んでいる人がいることを、わたしどもは知っています。それでも、主イエスはそのような一人一人の友の死に心を痛め、涙を流しておられると、わたしどもは信じています。主の み心が行われますように。み国が来ますように。主の愛の業のために、わたしどもを用いようとしておられる主に、従うことができますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、至るところで悲しみの涙が流されております。しかし主イエスは、わたしどもの悲しむ姿を ご覧になって憤りを覚え、ご自身も涙を流してくださいますから感謝いたします。愛する者の死に涙が溢れるときにも、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と約束してくださった み子の約束を信じ続ける者としてください。この地上に あなたの み心が行われ、悲しんでいる者の涙が かわく日を、来たらしめてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、東日本大震災から明日で13年となります。あの日、多くの命が奪われました。さらに、原発事故により故郷を奪われ、今も苦しんでいる者がおります。けれども主よ、どれだけの涙が流され、今も流され続けているか、あなたはすべてご存知でいてくださいます。主よ、愛する者を救えなかったと自分を責め続けている者を憐れみ、あなたの救いの中へ招き入れてください。まことの平安に生きる日が与えられるよう、聖霊を注いでください。主よ、ウクライナで、ガザ地区で、ミャンマーで、また至るところで続いている争いを一日も早く終結へと導いてください。特に、食べるもの、飲む水すらなく、泣いている子どもたちの必要を満たしてください。主よ、わたしどもの教会に連なる者の中にも入院している者、痛みを抱えている者、不安の中にある者が大勢おります。それらの者が、決して一人ではない。どんなときも、どこにあっても、インマヌエルの主が共におられることを忘れることがありませんように。あなたと共にある喜びで包んでください。3月、卒園、卒業、進級の時期を迎えております。4月から新しい生活を始める者たちの歩みを導き、お支えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年3月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第40章27節~31節、新約 ヨハネによる福音書 第11章17節~27節
説教題:「愛といのちのまなざしの中で」
讃美歌:546、11、128、21-81、525、541

先週から、ヨハネによる福音書 第11章に入りました。そして、今日は17節以下を読み進めてまいります。本当のところを言えば、毎回、第11章を通して朗読したいと思う箇所です。全体を通して読むことで見えてくる恵みがある。受難節の間、それぞれの自宅で繰り返し、第11章全体を読むことを、わたしども皆の共通の課題としても良いのではないかと思うほどです。第11章の最後、45節以下には「イエスを殺す計画」という小見出しがつけられているとおり、ラザロの死と復活の出来事のゆえに、主イエスは死ななければならなくなります。主の ご受難と死が決定づけられた出来事を、大切に読んでまいりたいと思います。
主イエスが愛しておられた、マルタとマリアの兄弟ラザロが重い病気にかかってしまいました。マルタとマリアは、ラザロにまだ息があるときに、主イエスに癒して頂きたいと願い、人をやってラザロの容態を伝えましたが、主イエスが三人のもとへ出かけて行かれたのは、連絡が来てから二日後のことで、到着されたときには、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていたのです。「四日」という期間には意味があります。その頃は、現代のような診断の技術があったわけではありませんから、てっきり死んだと思っていたところが、数日たって息を吹き返す、ということが実際にあったようです。そのため、三日間は様子を見て、四日目になってから、「完全に死んだ」と判断したのです。マルタとマリアは、ラザロが生きていた間はもちろんのこと、せめてこの四日の間にでも、イエスさまが間に合ってくださったらと、切実に願い続けていたことでしょう。「イエスさまさえ、来てくださったら!」ただただ、そこに賭けていた二人の望みが絶たれてしまった、ちょうどそのときに、イエスさまがいらっしゃって、死んだラザロを御覧になったのです。17節の「行って御覧になる」という表現は、日本語だと伝わりにくいのですが、原文では「行く」よりも、「見る」という意味に重きが置かれています。ラザロは既に息をしておらず、遺体となって墓にありましたが、このとき確かに、主のまなざしに包まれた。墓を塞ぐ石など、まるでそこにないかのように、主イエスのまなざしが、洞穴に埋葬されているラザロを包み込んだのです。
さて、そのころ、「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来て」おりました。これは、葬式が続いていたことを意味します。当時のユダヤの葬儀は一週間も続いたと伝えられています。その葬儀の間に、主イエスがようやくベタニアにやって来られたというニュースがマルタの耳に入り、マルタはすぐに迎えに出ました。葬式の最中に、おおぜいの弔問客をほったらかして、姉妹そろっていなくなるわけにもいかなかったでしょうから、マルタは、マリアには告げずに、そっと抜け出したのかもしれません。
マルタは、主イエスを見つけるやいなや、この数日間ずっと祈り、待ちこがれていた思いを全部、主イエスの前に注ぎ出しました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」主イエスを心から信頼し、マルタは言うのです。「主よ、あなたが一緒にいてくださったならラザロは死ななくてすんだはずです。でも、祈ってくださったなら、求めてくださったなら、神さまが働いてくださる。わたしは、そのことを今でも信じています。」マルタの素朴な信仰の言葉です。しかし、マルタの信仰は、このときにはまだ、ユダヤ教の伝統的な信仰の中にとどまっていました。主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」とおっしゃってくださっても、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。ユダヤの人々の信仰は、「人間の罪の結果、最後にはすべてが滅んで、消え去ってしまう。」というのではなく、「最後には必ず、甦りの命の希望が見えてくる。そういう望みの日として、終わりの日が与えられる。」というものでした。マルタも熱心な信仰者として生きておりましたから、「主よ、終わりの日の復活の時に復活することは信じて、望みとしています。」と言いました。イエスさまが、神さまにお願いすれば、神さまは何でも叶えてくださる。そのことは少しも疑っていない。でも、死んで四日もたってしまったのだから、いつかおとずれる終わりの日に望みをかけるほかないのだと諦めていた。目の前の現実である死の、圧倒的な力に飲み込まれて、イエスさまといえども死の力にはかなわないと思い込んでしまっていたのです。
しかし、主イエスはこのような信仰から、マルタをグイッと引き上げようとなさるのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」いつか、ではなく、今、ここに、わたしが来ている。わたしが、復活である。わたしが、命である。と、主は言われます。マルタは、兄弟ラザロの死に直面し、死の圧倒的な力に飲み込まれてしまっています。けれども主イエスは、その死の中に手を突っ込んでマルタを引っ張り出すように、いや、手どころか全身で飛び込んでマルタを抱きしめて、引っ張り出して、わたしが復活だ、命だと、言われたのです。実際、主イエスはこの出来事ののち、十字架の死へ、マルタが絶対だと思い込んでいる死の中へと突き進んでゆかれます。そして、ご自身も復活なさって、墓の中から出て来られます。マルタに対し「わたしは復活であり、命である。」とおっしゃったときには、まだ、主イエスの十字架の死と復活の出来事は起こっていませんが、主イエスは既に、はっきりと、ご自分の死と復活を、ご自身が必ずなすべき務めとして、見据えておられたに違いありません。だから、『わたしは復活であり、命である。』」と、主イエスはおっしゃったのです。マルタは死の力の中から主イエスに引っ張り出して頂き、主の前に立ちました。わたしどもも今、マルタと一緒に、主イエスの前に立ち、主の宣言を聞いています。「わたしは復活であり、命である。」
マルタやユダヤの人々が、いつか訪れる「終わりの日」に望みを託していたように、わたしどもにもまた、それぞれ勝手に思い描いている ふんわりとした期待があるかもしれません。『まもなくかなたの』という聖歌があります。昔、日曜学校で歌ったことがある、という方もおられるかもしれません。死んでしまっても天国の綺麗な川の流れのほとりで、懐かしい人たちと会えるから、楽しく再会しましょう、という内容の歌詞です。
しかし、主は、「それどころではないのだ。」とおっしゃるのです。わたしどものおぼろげな空想が本当であろうが、なかろうが、そういう問題ではない。将来の話でもない。今、ここに、わたしがいるのだ。あなたと共にいるのだ。今、この、死が世界を覆っているようにしか思えない世界、痛みや苦しみや不安に満ちている現実の只中に、わたしが来た、わたしがいる。復活であるわたしがいる。命であるわたしがいる。あなたと共にいると、主はおっしゃるのです。そして、わたしが共にいるところには、死はないのだ。このことを信じるか?と主イエスがお尋ねになっています。わたしども一人一人に、お尋ねになっているのです。ラザロを包んでいるまなざしが、マルタをも、そしてわたしどもをも、包んでいます。
主がマルタを、そのまなざしで包んで、ご自分がどのような方であるかを示してくださったそのとき、マルタがそれまで自分で信仰だと思っていたものが、ひっくり返るような大事件が起こりました。マルタは答えました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」死んでも生きる。決して死なない。それは不老不死というようなことではありません。ラザロもマルタもマリアも、いつまでもこの世に存在しているわけではありませんし、わたしどもの地上の命にも、終わりがあります。そのあとどうなるかは誰も知りません。でも、独り子を差し出すほどにわたしどもを愛していてくださる神さまが、知っていてくださいます。そして神の み子キリストが、信じる者の中に生きておられます。なぜなら、主の「わたしは復活であり、命である。」との み言葉を信じて洗礼を受けるとき、神の子、キリストがわたしどもの内に宿ってくださるからです。このキリストと共にある命は、永遠です。
マルタの「信じます。」ではなく、「信じております。」という言葉は、「これまでもそう信じてきました。」という表現です。信じてきたのであれば、なぜ、兄弟の死に直面したときに、死の力に飲み込まれてしまったのか、矛盾があります。けれども、わたしども自身、マルタの嘆きや動揺がよくわかるのではないでしょうか。わたしどもも、自分自身や愛する者の死に際して、うろたえずにはいられません。死ぬことに対する恐怖、大切な人を失う怖ろしさ、不安をマルタのように、主イエスの前で、おいおいと嘆き、注ぎ出すことしかできないときがあります。しかし、そこでこそ、主イエスは「わたしは復活であり、命である。」との み言葉をもって、死の中に飲み込まれているわたしどもを引っ張り上げてくださるのです。そのとき、わたしどもは主のまなざしの中にとらえていただきながら、改めて気づく。「そうだ、わたしは決して一人ではない。復活であり命であるイエスさまと共に、これまで生きてきた、いや生かされてきたではなかったか!」と、恵みに、立ち帰ることができるのです。
「神の子が、キリストが、この世に来てくださった。あなたこそ、キリスト。」というマルタの答えは、マルタ自身が、その存在まるごと、死の中から引っ張り出され、既に主イエスの復活の命の中に移っている、という奇跡が起っていることを表しています。わたしどもも、主の、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」との問いかけに、すでに自分が死の中から命の中に引っ張り上げていただいている恵みを確かめながら、「はい、主よ、信じております。あなたこそ生ける神の子キリストです。わたしの救い主です。」と、答えることができるのです。
只今から聖餐の祝いに与ります。主イエスがマルタに宣言された「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」との約束を信じ、その恵みを目で見て、口で味わう。聖餐のパンと杯は、わたしどもが死んでも生きる者となるために、何の罪も犯していない神の子 主イエスが、わたしどもに代わって十字架で肉を裂かれ、血を流して、死んでくださった「しるし」です。神の み子の尊い命によって、「だれも、決して死ぬことはない。」者としていただいていることを、聖餐によって改めて心に刻むのです。主はそのように、信じる者の歩みを整えてくださっています。命の主と共に、今までも、これからも、歩んでいく幸いを、恵みの事実を、み言葉と聖餐の食卓によって確認しつつ、受難節の日々を祈りをもって過ごしたいと思います。

<祈祷>
天の父なる神さま、愛する者の死にうろたえ、取り乱すわたしどもです。だからこそ、あなたは み子を世に遣わし、み子を信じるすべての者に永遠の命を約束してくださいましたら感謝いたします。死の闇に飲み込まれそうになるとき、主のまなざしと、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」との み声を思い起こさせてください。日々、罪の赦しと永遠の命の恵みを心に刻み、ただ一度の地上の命をあなたと共に平安のうちに歩むものとしてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。能登半島地震から2ヶ月が経ちました。それでも輪島の町はほとんど1月1日と変わっていないと報道されています。主よ、被災して、今も困難な生活を強いられている方々を慰め、励まし続けてください。わたしどもも祈り、また具体的に支える者として用いてください。礼拝後、4年振りに対面での臨時教会総会(長老選挙)を行います。どうか、あなたのみ心が行われますように。今日も様々な理由のため、どうしても礼拝に出席することのできない仲間が大勢おります。特に、病を患い入院している者の上に、溢れるほどの聖霊を注いでください。今、死を怖れている者がおりましたら、どうか主よ、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」とのあなたの約束を、主の十字架と復活を、思い起こさせてください。主よ、ウクライナ、ガザ地区、世界の紛争地域に一日も早く平和をもたらしてください。それぞれの国益ではなく、あなたから与えられた一人一人のいのちを何よりも大切にする世へと導いてください。み国が来ますように。み心がなりますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年2月25日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第59章9節~20節、新約 ヨハネによる福音書 第11章1節~16節
説教題:「いのちの光」
讃美歌:546、55、154、533、540

わたしどもは今、受難節、レントの日々を過ごしています。そのタイミングで今日から、ヨハネによる福音書 第11章に入ります。神さまが、「受難節の今、ラザロの死と甦りを心に刻みなさい。」と言っておられるように感じます。実際、このラザロの死と甦りから、主イエスの十字架への歩みが具体的に進んでいくのです。
第11章に登場するのは、主イエスと弟子たち。そして主が、「わたしたちの友ラザロ」と呼ぶほどに愛しておられたラザロと、そのきょうだい、マルタとマリアです。ここに登場するマリアは、2節に「主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。」とわざわざ記されています。このあとの第12章の冒頭に記されているエピソードです。マリアが主イエスの足に塗った香油は、非常に高価なものでした。そのため、主イエスの弟子の一人、イスカリオテのユダから「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。(12:5)」と、マリアは叱られてしまいますが、主イエスご自身は、マリアのしたことに深い慰めを得て言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。(12:7)」主イエスは、ご自分の死を覚悟しておられたのです。そして、第12章12節から、わたしどもが受難週と呼んでおります、主イエスの死に向かう一週間が始まります。そのように、第11章のラザロの死と復活の出来事を伝える記事は、主の十字架の死と三日目の甦りを先取りするような、とても大切な み言葉です。そのことを心にとめながら、第11章を数回に分けて読んでまいりたいと思います。
み言葉を読み始めますと、ベタニア出身のラザロが病気であったことがわかります。ラザロのきょうだいマルタとマリアは、以前から交流があり尊敬していた主イエスなら、病気を治してくださるに違いないと、人を遣わして、伝えさせました。3節。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。すると主は、こう言われました。4節。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」主イエスは、ラザロの病気は「死に至るような ひどい病ではない。」と見立てをしておられるのではありません。主イエスは、ラザロが死ぬことを、すでに知っておられる。けれども、それでおしまいではないのだ、とおっしゃるのです。この言葉は、主イエスと特に親しかったマルタ、マリア、ラザロだけに与えられたものではありません。主イエスは、弟子たちにも、主を殺そうとしていた人々にも、のちの世のわたしどもにも、すべての人に向かって、おっしゃったのです。「この病気は死で終わるものではない。」。主イエスはすべての人を、死で終わることのない、いのちの中へ、招き入れようとなさっています。「このいのちを受けなさい」と、呼んでおられるのです。
この いのちは、主イエスを信じるすべての人に与えられます。主イエスへの信仰を告白し、洗礼を受け、主イエスと結ばれる者は、どんなに重く深刻な病気に冒されようとも、たとえ、今、この瞬間に、神さまから与えられた いのちを神さまにお返しするときが訪れようとも、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」と信じ、望みをもって死ぬことができる。洗礼は、その約束のしるしです。
さて、主イエスは、マルタとマリアからの伝言を受け、すぐにラザロのもとに駆けつけられたかというと、何と、「なお二日間同じ所に滞在された。」と書かれています。5節には、わざわざ「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」と書いてあるのに、わたしどもの期待に反するように、なお二日間 動かれなかった。 いったいなぜすぐに行動してくださらなかったのか?一つの確かな理由は、主ご自身が14節で、「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」とおっしゃっているように、あえてラザロが死ぬときを待っておられた、ということがあります。けれども、それだけではなかったであろうとも思います。ここで、「あなたがたにとってよかった。」と訳されている言葉は、原文通りに直訳すると、「そして、わたしは喜びます。あなたたちに。それは あなたたちが信じるようになるために。」となります。驚くべきことに、「喜ぶ」という単語が使われているのです。すべては、あなたたちのために。「あなたたちが信じるようになるために。」。主イエスの喜びは、そこにあるのです。神が望んでおられるのは、ただただ、そのことなのです。すべての人に、死が終わりでないことを知って欲しい。終わらない いのちに生きて欲しい、そのことだけなのです。
ですから主イエスは二日の間、ただラザロが死ぬのを待っておられただけではなく、父なる神さまに祈り続けておられたのだと思います。すぐにでも駆けつけたい思いを抱きつつ、しかし父なる神さまの み心が行われることを、即ち、すべての人が信じるようになることを、祈っておられたに違いない。ラザロの死という、目の前で起こる現実の中で、しかし「死が決して終わりではない」ことを信じる信仰が生まれることを、祈っておられた。すべての人が信じる者となるよう、祈っていてくださったのです。
二日後、主イエスは決心をなさって、もう一度ユダヤに行こうと弟子たちに言われました。弟子たちは、答えて言いました。「ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」弟子たちはこれまで、主イエスとユダヤ人たちの論争の現場に幾度となく遭遇していました。主がいつ石で打ち殺されてしまうかと、気が気ではなかったことでしょう。もしもそうなれば、弟子である我々だってひどい目にあうにちがいない。再びユダヤに行かれるなんて無謀だ。そんな思いだったはずです。けれども、主イエスははっきりと言われたのです。9節。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。」ヨハネ福音書は、冒頭でキリストについて、このように語っています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(1:9)」また、第8章では、主イエスご自身が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(8:12)」と言われました。主は、おっしゃるのです。「昼間は明るい。昼のうちに歩けば、誰もつまずかない。まして、光であるわたしと一緒に歩いてゆけば、たとえ今、闇の中にあっても、あなたがたは何も恐れることはないではないか。」  
さらに主は、続けて言われました。10節。「しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」夜、闇、主イエスの光がない状態。もしも、主イエスが一緒にいてくださらなかったとしたら。わたしどもが一人で、どんなに、明るく生きよう、この世に明るい光を灯そうと努力しても、限界があります。主は言われるのです。「自分の光でなく、わたしの光に頼って欲しい。わたしについてきて欲しい。」と、主イエスは、わたしどもを呼んでおられるのです。
主イエスは、そのように弟子たちを励ましてから、おっしゃいました。11節。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」主イエスはラザロを、「わたしたちの友なのだ」と言われるのです。主イエスはラザロを、また主に従う弟子たちをも、友と呼んでくださっている。またすべての者を、友の輪の中に巻き込もうとなさっているように感じます。ヨハネ福音書を読み進めてまいりますと、第15章に「ぶどうの木の譬え」があります。そのすぐあとで、主イエスは、こう言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(15:13)」第11章で、ラザロを「わたしたちの友」と呼ばれたとき、主の心の中には、すでに、ご自分が後ほど語られるこの み言葉があったに違いありません。「わたしたちの友ラザロ」という主の み言葉には、ラザロを、また弟子たちを、ひいては弟子たちに続くすべてのキリスト者を、ご自分の命を捨てて愛してくださるという意味が、込められているのです。そして実際に、主イエスはわたしどものために、十字架の上で いのちを捨ててくださったのです。
本来であれば、わたしどもには、「友」と呼んでいただく資格などありません。わたしどもの代表として、16節に、トマスという弟子が登場します。トマスは仲間の弟子たちに勇ましく呼びかけます。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」。このときトマスの心は、本当にそう思っていたのだと思います。しかし、実際に主イエスが捕まってしまったとき、トマスは、ほかの弟子たちと一緒に、一目散に逃げ出してしまいます。その姿に、わたしどもの姿が重なります。まことに誰かの友となることの、何と難しいことかと痛感させられます。また、トマスは主イエスがお甦りになったときにも、最後まで信じないと言い張った男です。ラザロの死と復活を、その目で見ていたはずなのに。勇ましいことを言っても、結局は、死の力に圧倒されてしまったのです。死が絶対だと思ってしまっていた。神さまの力よりも、死の力を信じてしまっていた。その姿の中にも、わたしどもは自分の姿を見るのではないでしょうか。それでも、主イエスは、甦られた後にトマスのところへ赴いて、「十字架で負った傷痕に指をあててごらん、手を入れてごらん」と、諦めずに呼びかけてくださいました。そしてそのとき、トマスの中にも光が灯りました。光であられる主イエスが、トマスの心の真ん中に入って来てくださって、光と共に生きることができるように、つまずかないで歩けるように、トマスを変えてくださったのです。
このあと、主イエスがユダヤに到着なさったとき、ラザロは墓に葬られて既に4日も経っていました。けれども、主イエスがそのラザロの墓を訪れてくださって、わたしどもには真っ暗闇としか思えない墓に、主イエスの光が射し込みました。死んでいたラザロがキリストの光に包まれて、まるで、その光のあまりのまぶしさに目を開いたように、手と足を布で巻かれたまま墓から出て来た。
わたしどもの教会では洗礼は頭に水をつけて行いますが、今でも、水槽や川で行う教会は多くあります。どぶんと、頭まで水に沈められる。息ができない。それは死を意味します。そして水の中から起こされるとき、新しいいのちに甦る。ラザロに起きた復活の奇跡がわたしどもにも起こる。洗礼は、そのことを表しているのです。ヨハネによる福音書 第3章16節は、神は、その独り子をわたしどもに与えてくださるほどに、世を愛してくださった、と書きました。そして、続いてこう書きました。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」主イエスを信じる者が、みんなラザロになるのです。ラザロはこの後、いつまでもそのままの姿で生きたわけではありません。同じようにわたしどもも、必ず死にます。しかし、洗礼によって主と結ばれた者の死は、希望の中の死です。主イエスが十字架で死んで、甦って、わたしどもといつまでも一緒にいてくださる、そして、神さまがお定めになったときに、主の まばゆい光に包まれて目を覚ますことが、聖書の中に約束されています。
これまで何度か葬儀の司式をさせて頂きました。参列されたキリスト者でない方から、式の後で、「教会の葬儀は明るいですね。」と感想を言われたことがあります。わたしどもの死は、死で終わりではない。死によって、主の いのちの光が輝く。その光を何となく感じ取られたのかもしれないと思いました。そして、いつの日か、この感想を言われた方も、主イエスが望んでくださったように、主を信じ、主と共に、生きていって欲しい、と祈らずにはおれません。
わたしが伝道者となって初めて葬儀をした方は、亡くなる3ヶ月前に胆管癌の診断を受け、余命を宣告されていました。医師の見立て通り、3ヶ月で天に召されましたが、それでも、うろたえる新米伝道者のわたしを励まし、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と、固く信じて、激しい痛みと闘い抜かれました。その方のお嬢さんは、ご両親の信仰によって、小児洗礼を受けておられましたが、昨年、ご自身の口で信仰告白をなさいました。お母さまの葬儀のときに耳にした、わたしの出身教会の名前を記憶しておられて、通うようになり、信仰告白まで導かれたと聞いて、キリストと共にある信仰者の死には神の栄光が現れることを、改めて知った思いです。ラザロの死と甦りを通して、信仰が生まれることを喜んでくださる主は、ラザロを友と呼び、わたしどもを友と呼び、主イエスをまだ知らない人も友と呼んで、信じる者になって欲しい、光の中を歩んで欲しい、と招いておられます。いつか必ず訪れるわたしどもの死も、キリストの光の中で、そのように用いていただけることでしょう。何と喜ばしいことかと思います。キリストと共に歩む幸いが、キリストの光が、一人でも多くの人に届きますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、病を患うと、たじろいでしまいます。病は死で終わると思ってしまいます。けれども、あなたのみ子は、「病は死で終わらない。」と宣言してくださいましたからありがとうございます。あなたの み子がどんなときもわたしどもと一緒におられ、いのちの光となってくださいますから、ありがとうございます。主よ、あなたから与えられたただ一度の地上のいのちを、キリストの光を見失うことなく生きる者としてください。そして、まだあなたと一緒に歩む幸いを知らないたくさんの人びとが、いつの日か、死の闇に勝利してくださった み子を信じ、永遠のいのちに生きる喜びを味わうことができますよう、すべての者に聖霊を注いで導いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、ロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始し、2年となりましたが、いまだ終結のきざしすら見えません。そればかりか、紛争は世界中のいたるところで起っています。人間の罪の何と深いことでしょう。主よ、どうか、わたしども一人一人があなたの み声に聞き従うことができますように。主が命を捨ててくださったように、わたしどもも隣人のために自己を捨てることができますように。地震で被災し、愛する人を失い、望みを失っている者にあなたの愛を注ぎ続けてください。そして、いつの日か、いのちの光が教会にあることを知り、信仰へと導かれますよう祈ります。病を患っているため、入院生活を続けているため、礼拝出席の叶わない者がおります。それらの者に、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」と信じる信仰を お与えください。来週の主の日、臨時教会総会を行います。主よ、一人でも多くの者を礼拝へと招き、共に聖餐の祝いに与り、み心を問いつつ、長老選挙にのぞむことができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年2月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第82篇1節~8節、新約 ヨハネによる福音書 第10章31節~42節
説教題:「神のわざが始まっている」
讃美歌:546、68、190、324、539

石を握りしめた手を振り上げて、今にも襲いかかろうとしている人たちの、まん中に、主イエスがおられます。誰か一人が石をぶつければ、ほかの人たちも次々に投げつけるに違いないのです。しかし、それでもなお、主イエスは、この人たちのことを諦めてはおられません。今にも自分を殺そうとしている人たちに、主イエスはお尋ねになりました。32節。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えました。33節。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
「冒瀆」とは、「神聖なもの、清らかなものをけがすこと。」です。今こうして礼拝をささげているわたしどもは、聖書を通して、主イエスが、父なる神さまと同質な方であることを知っています。主イエスが30節で「わたしと父とは一つである。」とおっしゃったことは、真実であり、何ら神さまを冒瀆することにはならないと、知っている。しかしです。もしも、わたしどもがこの場にいたら、どうしていたでしょう。今にも石を投げつけて主イエスを殺そうと息まいている人たちに向かって、「この方のおっしゃることは正しい。この方こそ、生ける神の子キリストだ。」と言えるでしょうか?逆らえば、自分まで石打ちにされてしまうかもしれません。それでも「あなたがたは間違っている。」と言えるだろうか。あやふやな態度でその場を取り繕い、「わたしにはよくわかりません。」と、石を握りしめている人びとに同調して、そそくさと逃げ出してしまうのではないか。その姿は、罪の奴隷です。罪の言いなりになってしまって、主イエスを捨ててしまう。しかしそれでも、主イエスがわたしどもをお見捨てになることはないのです。丁寧に、心を尽くして、語りかけてくださっているのです。
主イエスは、自分を殺そうとしている人々におっしゃいました。34節。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃(すた)れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。」主イエスが引用された聖書の み言葉は、今朝、ヨハネ福音書と一緒に朗読して頂いた旧約聖書 詩編 第82篇の み言葉です。詩編について旧約学者の雨宮 慧(あめみや・さとし)先生は、「詩編の書はヘブライ語で『テヒラー』と呼ばれるが、この語は『賛美』を意味している。しかし、詩編を読んでみると、その多くは嘆きの歌である。嘆きの歌が多いのに『賛美』と呼ばれるのは、詩編の嘆きは神の介入を求める祈りであり、神の介入を確信する賛美でもあるからだ。」と、解説しておられます。現状を嘆きつつ、神さま助けてください、あなたは必ず、わたしを救ってくださる方だと、神を賛美するうた。それが詩編なのであります。
詩編 第82篇はこのように始まります。1節。「賛歌。アサフの詩。神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。」父なる神さまが、神聖な会議の場に立っておられる。そこに居並ぶ神々の裁判が行われるのです。ここで言われている「神々」とは、神さまの言葉を託された、イスラエル人の指導者たちを指しています。スイスの改革者カルヴァンの注解書にも、「聖書が神々と呼んでいるのは、神が名誉あるつとめを与えたひとたちのことである。(中略)かれらがこの世を管理するため、神のしもべとして立てられているからである」と記されています。主イエスは、そのことを指して、おっしゃったのです。「詩編 第82篇に書かれているように、神の言葉を託された者たちは、『神々』と呼ばれるほど、神の大切な同志として用いられてきたではないか。それならば、わたしが神の子だと言ったことが、どうして冒瀆になるのか。」と。また同時に、主イエスがこの詩編の言葉を引用されたことには、もう一つの意味が隠れていると思います。詩編 第82篇を続けて読んでまいりますと、「神々」と呼ばれる人々、神さまから大切な責任を託された者たちの罪が、描かれているのです。2節。「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏(とぼ)しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
詩編 第82篇は、アサフによる詩とあります。アサフはダビデの幕屋礼拝における賛美のリーダーの一人だったようです。彼は礼拝の中で、王国の政治を司る指導者たちに、賛美の歌を通して、人間の最も深い罪の問題に切り込んで、悔い改めを促し、神さまに救いを願い求めたのです。「あなたがたは全能なる神の信頼を受け、神の み心を行うために立てられたのではなかったか。それなのに弱い人、貧しい人が虐げられ、弱者や孤児のための正しい裁きが行われていないのはどういうことか。」アサフによる、「神々」と呼ばれた指導者たちの告発はさらに続きます。6節。「わたしは言った/『あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか』と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。」
アサフは、「あなたがたは『神々』として働くことを期待されているのに、神さまの思いを無視し、力ある者におもねり、苦しんでいる人を見殺しにしている。あなたがたは、『神々』ではないか。神の子ではないか。それなのに、驕り高ぶる王たちのように、滅んでいってしまうと嘆いているのです。
わたしどももまた、神さまの み言葉を受け、主イエスから「すべてのものより偉大であり」と言っていただいたものとして、詩編 第82篇の厳しい裁きの言葉に耳を塞いではならない。そして、この詩編を主イエスが引用されたことも、忘れてはならないと思います。主イエスは、石を握りしめて ご自分を打ち殺そうとしているユダヤ人たちに、また、わたしどもに、愛をもって、自分の罪を見つめ、神さまに救いを求めなさい、と勧告しておられるのではないでしょうか。
先週の水曜日から受難節に入りました。主イエスのご受難をおぼえる大切な日々であります。主イエスは、「神々」の名にまったく価しないわたしどもが滅んでしまわないように、わたしどもの罪をすべて引き受けて、十字架に架かって死んでくださいました。主イエスはそのために、クリスマスの日、この世に生まれてくださいました。神さまの愛が、人間のかたちをとって、わたしどものところに来てくださったのです。第3章16節に書かれている通りです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
主イエスは、神さまの愛によって世に生まれてくださり、父なる神さまの み心にどこまでも従順に、十字架への道を歩まれ、石を握りしめて襲いかかろうとするユダヤ人たちにも向き合って、諦めることなく語り続けてくださったのです。第10章37節以下。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」ヨハネによる福音書は、第9章において、主イエスが生まれつきの盲人を癒された記事を伝えています。弟子たちが、「先生、この人の目が見えないのは誰のせいですか。」と尋ねたのに対し、主は「誰が悪いのでもなく神の業がこの人に現れるためである。」とおっしゃって、この人の目を見えるようにしてくださいました。それと同じ奇跡が、わたしどもにも起こるのです。神さまの業が、わたしどもにも、現れるのです。主イエスは、「わたしを信じなくても、その業を信じなさい。」と言われました。「その業」とは、今まで行われた主イエスの多くの奇跡の業だけでなく、何よりも、これから成し遂げられる最も大きな愛の業を、指し示しています。
主イエスが十字架で死なれ、甦ってくださった、その業を信じる、そのとき、そこに神さまの奇跡が現れる。弱く、罪の奴隷となっているような者が、神の子とされる。神さまから「我が子」と呼んでいただけるのです。「あなたは、どんなものよりも偉大な、大切な宝もの。誰もあなたをわたしの手から奪うことはできない。」と言っていただけるのです。洗礼は、その約束のしるしです。洗礼は、キリストとわたしどもをしっかり結び合わせます。神の子の一人として数えていただくほどに、強く、しっかりと結び合わせていただくのです。もしも、石を握りしめて主イエスを取り囲んだユダヤ人たちが言うように、主イエスが神の子でないなら、わたしどもは、いつまでも変わらず、罪の奴隷のままです。しかし主イエスは、「わたしが行う業を信じなさい。十字架と復活を信じなさい。」と粘り強く、呼びかけていてくださいます。「そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」と、待ってくださっています。洗礼は、神の み子主イエスとわたしどもを一つに結び合わせるのですから、即ち、わたしどもも父なる神さまの中におり、わたしどもの中にも、父なる神さまがいてくださるということです。ただ、信じるだけでよい。そのとき、神さまが「このわたし」の内にすでに宿っていてくださったことを、知るのです。悟るのです。すでに、救いの道は拓かれています。主イエスが命を捨てて、わたしどものために拓いてくださった奇跡の道を、心から信じることができますように。わたしども自身の中に起こっている奇跡を、神さまの業を、信じ抜くことができますように。父なる神さまのどこまでも深い愛を、信じることができますように。

<祈祷>
天の父なる御神、あなたを悲しませることを繰り返すわたしどもの罪を、み前に懺悔いたします。そのようなわたしどもを諦めることなく、み子を与えてくださり、十字架の死と甦りの業を成し遂げてくださり感謝いたします。どうか、あなたの愛と赦しを信じ続ける者としてください。救われた者として、あなたの み心に従って生きてゆくことができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、受難節に入りました。わたしどもの罪が赦されるために、み子が命を捨ててくださったことを、片時も忘れることなく、この時を過ごす者としてください。み子がそこまでしてわたしどもの罪を赦し、滅びから救い出してくださったにもかかわらず、世界では、この時も殺し合いが続いております。主よ、各国の指導者たちにあなたを畏れる心をお与えください。これ以上、無益な血が流されることがないよう導いてください。3月3日の礼拝後、臨時教会総会を行います。主よ、祈りつつ選挙に備えることができますように。様々な働きを担っている長老たちに聖霊を注ぎ、これからもみ心のままに用いてください。今日の礼拝にも様々な理由で出席の叶わなかった者がおります。体調を崩している者、手術を終えた者、入院を余儀なくされている者、新しい環境での生活を始めた者、あなたを信じる心、あなたに頼る心が萎えてしまった者を顧みてください。そして再び、共にあなたを礼拝することができますよう導いてください。昨日は教区伝道部主催の「教誨師の働きをおぼえる集会」が相愛教会で行われました。教区には4人の教誨師の牧師たちがおります。大切な働きを担っている教誨師をお支えください。罪を犯した者たちが、あなたの愛と赦しを信じ、望みを持って生きることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年2月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第50章4節~11節、新約 ヨハネによる福音書 第10章22節~30節
説教題:「キリストの声」
讃美歌:546、9、140、527、545B、Ⅱ-167

 ユダヤ教には、仮庵祭、過越祭等、たくさんの祭りがあります。
その一つに、「ハヌカーの祭り」があります。ハヌカーとは、建物が完成する、あるいはそれを神に献げることを意味する言葉で、新共同訳聖書では、「神殿奉献記念祭」と丁寧な訳語になっています。ちなみに、口語訳聖書では、「宮きよめの祭」と訳されておりました。この祭りの起源は、一つには、ソロモン王によるエルサレム神殿の奉献やバビロン捕囚後の神殿再建を記念したものであると考えられますが、こんにち、この祭りの由来とされている歴史的な出来事が示す意味としては、神殿を清めるという意味の「宮きよめの祭」という訳の方がしっくりくるかもしれません。旧約聖書の続編のマカバイ記に、詳しい顛末(てんまつ)が語られておりますが、軍事侵攻によって征服され、神殿にゼウス像をおいて拝むことを強いられ、汚されてしまった神殿を奪還したことを記念する祭りです。
その「神殿奉献記念祭」が行われたある冬の日、主イエスが、「神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた」ところ、ユダヤ人たちが待ち構えていて、サッと、主イエスを取り囲み、このように問いただしました。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」ここで、「気をもませる」と訳された原文ギリシア語は、「上に物をあげる」という意味の言葉です。ちなみに、口語訳では、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。」と訳しています。「お前のせいで我々の心は宙ぶらりんになったままで落ち着かない。いいかげん白黒はっきりさせようじゃないか」ということではないかと思います。
 メシアというのはキリスト、救い主を指すヘブライ語です。ユダヤ人たちの聖書、わたしどもも用いている旧約聖書ですが、そこには、メシアの到来を預言する言葉がいくつも散りばめられています。メシアが到来するそのときには、歩けない人が歩くようになる。そのときには、目の見えない者が見えるようになる・・・。何度も何度も繰り返して、預言者たちが語っているのです。そして、主イエスは、何度も何度も、そのようなわざを行い、「わたしは神の元から遣わされて来たのだ」と、何度も何度も証言しておられたことは、これまでヨハネによる福音書を通して、わたしどもも聴いてまいりました。
主イエスが、神の み子が、メシアとして世に来られた。まさに、間違った信仰によって汚されてしまった神殿を清め、建て直すために、来られた。そのような大きな出来事が、起こっているのです。状況証拠は出そろっている。主イエスご自身も証言なさっている。あとは人々が素直に信じれば良いだけなのです。けれどもユダヤ人たちは信じない。心の扉を固く閉ざしたまま、主イエスの言葉に耳を傾けようとしませんでした。イエスが目障りでたまらない。そんな心が伝わってきます。今日も、ガザ地区で戦闘が続いています。譬えとしてはあまり相応しくないかもしれませんが、パレスチナ人を執拗に攻撃するイスラエル軍と重なります。イスラエルにガザ地区があることが目障り。ガザ地区にパレスチナ人が住んでいるのが目障り。だから、テロリストを滅ぼすという大義名分をかかげて、これでもかと攻撃を続けるイスラエルを、父なる神さまは、どれだけ悲しんでおられるだろうかと思うのです。悲しいかな、そのような心は、わたしどもにもあります。考えや、生活環境や、肌の色、目の色、なんにしても、少しでも自分と異なる者を見ると、縄張りを荒らされるのではと怖れてしまう。
教会も例外ではありません。むしろ教会こそ、その中だけで通じる考えや、言葉や、慣習に囚われてしまっているかもしれません。少しでも異なる雰囲気の人が教会にやって来ると、何だか落ち着かない。「そのようなことはない」と言い切れるでしょうか。もしも、わたしどもの心の、ほんの片隅にでも、変化を恐れる排他的な気持ちがあるとしたら、その気持ちは、主イエスの到来に落ち着かなくなっている者たちと同じものかもしれません。
主イエスは、言われました。27節。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」主イエスの お言葉をそのまま信じたい。主イエスは、ユダヤ人たちだけでなく、わたしどもにも、心を込めて語りかけてくださっています。「信じないものではなく、信じるものになりなさい」と、呼ばれています。そして、続く29節には驚くべき救いの恵みが語られています。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」「わたしの父がわたしにくださったもの」。それは、主イエスがわたしの羊と呼んでいてくださる、主イエスの声を聞いて、従う者たちのことです。主イエスに従うしるしとして、主イエスへの信仰を公に自分の口で言い表し、洗礼を受けたキリスト者たちです。主イエスは言われるのです。「父である神が、わたしにくださったあなたがたキリスト者は、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできないのだ。」「え?」と思います。ひっかかる。「父なる神さまがすべてのものより偉大である。」というのなら、もっともなことです。しかし、今、ここに座っているわたしどもキリスト者が、すべてのものより偉大とは、どういうことか。
実は、この箇所は異なる写本がいくつも存在し、こんにちでも、解釈が定まっていません。2018年に発行された聖書協会共同訳は、29節をこのように訳し直しました。「私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。」「神さまが、偉大」こちらの方が、すんなり読むことができると思います。聖書という書物は、元の一つの文章が多くの人々の手によって書き写され、伝えられてきました。従って、写す人のミスであったり、写した人がよく理解できないと感じるところがあれば、そこにその人の解釈が加えられたりしてしまうことが、あったのだと思います。ここは、その典型と言ってもよいところかもしれません。いくつもの異なる写本が存在し、その中でも、ただ今紹介しました二つのパターンが有力とされている。そして、どちらが元の意味を正確に伝えているものなのかが、わからなくなっているのだそうです。しかし、誰もがすんなり読める、納得する言葉とは別の言葉が、あえて残されている。読み継がれ、語り伝えられてきている。そのことはとても大切で、無視してはいけないことなのではないかとわたしは思います。
主イエスは石を持って、自分を打ち殺そうとする人たちを前に、命懸けで、「わたしを信じ、わたしの羊となったものは皆、すべてのものより偉大である」と宣言してくださったのではないかと思うのです。主イエスが、おっしゃってくださる。「わたしへの信仰を告白し、洗礼を受ける者は皆、わたしの羊。あなたは、父なる神がわたしにくださった大切な宝。あなたはすべてのものより偉大であり、誰も、わたしの手から、また父なる神さまの み手から、あなたを奪うことはできないのだ。」と。
今朝の み言葉を読む中で、わたしの心に一つの み言葉が与えられました。テモテへの手紙二 第2章の み言葉です。朗読しますので、そのままお聞きください。「次の言葉は真実です。『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。』(2:11~13)」
キリストと共に死に、共に生きるようにされた者とは、即ち、主イエスの十字架の死による罪の赦しと、復活による永遠の命の約束を、ただ信じて、洗礼を受けた者のことです。洗礼を授けていただいた者が、神さまの み手から奪われてしまうことは、決して、ないのです。わたしどもはいつも誠実ではいられない者です。わたしどもは挫折します。愛そうとして、赦そうとして、失敗します。しかしそのように主に対して誠実になれないときでも、主にすがって立ち直ることが許されているのです。なぜなら、キリストはいつも真実な方であり、約束を反故(ほご)にしてしまわれることなど、決してない方だからです。洗礼は、わたしどもとキリストを、それほどまでに強く結びつけるのです。主に固く固く結ばれたわたしどもは、誰も奪うことができない者として、生きることが許されている。その主イエスの約束の お言葉をわたしどもは信じ、心に刻んでよいのです。主イエスによって、一つの群れとされた教会に連なるわたしも、今、隣りに座っているこの人も、今日はお休みのあの人も、すでに天に召されたあの人も、皆、すべてのものより偉大なものとしていただいた。たとえ地上の命を神さまにお返しする日がやってきても、決して滅びず、だれも、神さまの手から奪うことができないものとされている。そのことをただ信じてほしいと、言われているのです。
この後、讃美歌527番を共に賛美いたします。「ひるたたえ、よるうたいて なお足らぬをおもう。」常に真実であられる主イエスが、キリストの者としていただいたわたしどもを、「すべてのものより偉大」と言ってくださり、父なる神さまから誰も、何ものも、死すらも、わたしどもを奪うことはできない。主イエスが、そのように約束してくださいました。この お約束をただ信じて、「わがのぞみ、わがいのちは とわに主にあれや。」と賛美し続けることができますように。主の羊として、わたしどもの心に響く主の み声に聞き従い、互いに愛し合い、赦し合い、平和をつくる歩みに、いそしむことができますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、わたしどもに み子を お与えてくださり、感謝いたします。み子を わたしの救い主と信じ、信仰を告白し、洗礼を受けるすべての者に永遠の命を与えてくださるという約束を、重ねて感謝いたします。あなたの招きを、呼んでいてくださる み子 主イエスの声を、日々の歩みの中で聞き分け、従い続けることができますように。主イエス・キリストの み名に よって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、あなたの救いの恵みを知らない者がおります。どうか、それらの者に聖霊を注ぎ、教会へと導いてください。とくに、能登半島で被災された方々、望みを失っている者、死の不安を抱えている者に、あなたの み子を信じる信仰を与え、洗礼へと導いてください。今、入院しておられる加藤常昭先生、リハビリに励んでおられる芳賀 力先生、病を患っている兄弟姉妹、手術を控えている者にあなたが寄り添ってください。望みをもって、あなたから与えられる一日一日をあなたと共に生きる者としてください。ガザ地区での争いが続いております。ウクライナでの争いも続いております。ほかにも世界中の至るところで紛争や暴力があり、多くの涙が流されています。主よ、地上に平和がなりますように。み心が行われますように。今日も病のため、寒さのため、痛みを抱えているため、さらにあなたの声を聞き分ける思いが薄れてしまったため、礼拝に出席することの叶わなかった者がおります。それらの者に、わたしどもと等しい祝福と平安を お与えください。どこにいても、何をしていても、主の羊である幸いを、忘れることがありませんように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年2月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第55章1節~5節、新約 ヨハネによる福音書 第10章7節~21節
説教題:「主イエスが あなたの羊飼い」
讃美歌:546、53、211、Ⅱ-1、354、545A

能登の震災から1ヶ月が経ちました。報道を通して感じるのは、被災されたすべての方に、今の悲しみ、嘆きを訴えるすべを知って欲しい、み言葉が届いて欲しい、という思いです。知っていれば、少なくとも、「主よ、なぜですか?どうして、わたしにこんなにも厳しい悲しみを与えられるのですか?」と訴えることができます。でも、そうするすべを知らなければ、悲しみ、嘆きは自分に向かうばかりです。「愛する人を救えなかった。わたしだけが生き延びてしまった。」と自分を責めてしまう。テレビに映し出されるその姿に、胸が詰まります。
神さまは今朝、わたしどもに、そして、ここにはおられなくともすべての人に向けて、ヨハネによる福音書 第10章7節から21節の み言葉をお与えくださいました。被災され、打ちひしがれているお一人お一人にも、主イエスの招きが届くようにと祈りつつ、み言葉を心に刻んでいきたいと思います。
先週から第10章に入っておりますが、主イエスとファリサイ派の人々との対話が続いております。主イエスは、「わたしは羊の門である。」とおっしゃいました。加藤常昭先生は、以前この箇所を説教なさったとき、このように語っておられます。「初めは 門については何もおっしゃっていなかった。ただ羊飼いが門を出入(い)りするということだけ語っておられたのに、ここでは『わたしが羊の門である』と言われる。どうしてもそう言いたかった。 なぜかというと私どもを守るためです。また門というのは、はっきりとした道を示すものです。ほかの門ではなくてこの門を通る道 こそ いのちの道だということであります。そしてしかもこの門は守るものです。門が閉じられる時、確かに守られます。」
加藤先生がおっしゃっているように、どうにかして伝えたい、という主イエスのほとばしるような思いが、ここにあるのです。6節に、「彼らはその話が何のことか分からなかった。」とあるように、主イエスの み言葉を聞いても、何を訳のわからないことを話しているのか、と見下すばかりのファリサイ派の人たちにも、どうしても伝えたくて、「わたしは門である。あなたがたにこそ、わたしの言葉が届いてほしい。門であるわたしを通って救われて欲しい。」と、言葉を尽くしておられるのです。
主イエスは続けて、こうもおっしゃいました。11節。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」命を捨てる!たいへんなことが言われています。主が、神の み子が、わたしどもを救うために命を捨てる、とおっしゃっている。ガツンと頭を殴られるような、あるいはそれ以上の衝撃をもって聞くべき言葉です。しかし、もしかしたら、わたしどもはあまりにも、この恵みに慣れっこになってしまっているかもしれません。当たり前のことのように、自分は、命をかけて救っていただく価値のある者であるかのように、錯覚しているのではないか。例えば、わたしどもが「主の祈り」を祈るとき。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」と祈る。いささか古い言い回しなので言いかえますと、「わたしたちに罪を犯した者を わたしたちが赦しましたから、わたしたちの罪を赦してください。」という祈りです。わたしどもは、そのように、祈りの言葉を口にしながら、何だかとても祈りにくいと思いつつ祈っているのではないでしょうか。これは、逆ではないのか。逆ならば祈りやすいのに、と思う。「神さま、あなたがわたしたちの罪を赦してくださったように、わたしたちも、他人(ひと)の罪を赦すことができますように」と祈るほうが、祈りやすいと思っている。その心の中に、わたしどもの傲慢があります。罪がある。神さまがわたしどもを赦してくださることが大前提になってしまっている。赦していただくことが当たり前になってしまっている。しかし、神さまがわたしどもを赦すことは、当たり前のことなのでしょうか。また、わたしどもは自分が他人(ひと)の罪を赦すことなどできなくて当たり前と思っていますが、本当にそうなのでしょうか。そして、そのように自分の傲慢さに気づこうともしないわたしどものために、主イエスが「命を捨てる」とおっしゃったことは、当たり前のことなのでしょうか。主イエスは、わたしどもを、わたしどもの心の中を、よくよく知っておられます。知っておられるのに、いや、知っておられるからこそ、とても放っておけない、迷子のままにしておけない、だから、命を捨てるのだ、とおっしゃるのです。主イエスは14節で、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」とおっしゃいました。聖書において、「知っている」とは、「愛する」ということと同じことを意味します。主イエスは、わたしどもを知っておられる。愛しておられる。傲慢なわたしどもを知っておられるのに、ご自分の命を捨てるほどに、愛していてくださる。大切に思っていてくださるのです。
主は、続けておっしゃいました。16節。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」主は言われます。「その羊をも導かなければならない。」ここで、「ねばならない」と訳されている言葉ですが、マルコによる福音書 第8章に、このような み言葉があります。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後(のち)に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。(8:31)」ここで、「復活することになっている」と訳されている言葉にも、ヨハネによる福音書の「導かなければならない」と同じ言葉が用いられています。ですから、16節は「わたしは、この囲いに入っていないほかの羊をも導くことになっている」と訳すこともできます。導くことになっている。そのように定められている。父なる神さまによって。主イエスが命を捨てて羊を導き守ること、即ち、すでに囲いの中にいる者だけでなく、すべての人を導き守ることは、父なる神さまがお決めになったことであると言われているのです。主イエスは、神さまの命(めい)を受け、十字架で死なれたのです。命を捨てることによって、わたしどもの傲慢を、罪を、バッサリ絶ち切って、ほら、もう切れているよ、あなたたちは自由だよ、もう赦すことができるのだよ、とわたしどもを呼んでおられるのです。わたしの声を聞いてほしい、聞き分けて、ついて来てほしい。わたしが命を捨てたのは、あなたのためなのだから、あなたは、わたしの声を知っているのだ。わたしの声を聞き分けることができるはずだと、呼んでくださっているのです。そのように呼び集められた羊たちの群れ、それが教会です。今、ここに座っているわたしどもは羊たちの群れ。囲いの外から、主イエスに呼ばれて導かれ、門を通って囲いの中へ入れていただき、一つの群れとしていただいて、ここに在るのです。
昨年の秋に特別伝道礼拝で説教を担ってくださいました遠藤勝信(まさのぶ)先生が属しておられる日本同盟基督教団で用いられている聖書は、新改訳聖書ですが、第10章18節は、このように訳されています。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」新共同訳聖書では、隠れてしまった言葉があることを お気づきになられたと思います。それは、「権威」と訳されている言葉です。「εξουσιαν(エクスシアン)」というギリシア語で、「自由、権威、力」という意味をもつ言葉です。主イエスは、「わたしは、命を奪われるのではない。わたしには父なる神の み心を受けて、命を捨てる権威がある。」とおっしゃっているのです。「力」、「自由」と表現してもよい。主イエスはご自分の命を捨てる力をもっておられる。何ものにも束縛されず、自由に、命を捨てることがおできになる。そしてまた、再び命を受けることがおできになる。その力を、自由を持っておられる。それほどの力あるお方、権威あるお方、自由を持っておられるお方が、わたしどもの群れを導き、わたしどもの羊飼いとして、日々、わたしども一人一人を、心にかけていてくださる。文字どおり命懸けで愛していてくださる。しかも、この権威は、父なる神さまが直接、み子主イエスに命令として与えられたのです。新改訳2017で「命令」、新共同訳では「掟」と訳されていますが、それは、こうでなければいけないと定めることです。主イエスが、羊である わたしどもを救ってくださり、その一人一人の羊飼いになってくださるというのは、父なる神さまが定められたこと、必ず そうでなければいけなくなっていることなのです。16節で「導かなければならない」とおっしゃったように、マルコ福音書で「復活することになっている」とおっしゃったように、父なる神さまが望んでくださり、そうなるように定めて、主イエスを遣わしてくださったのです。
主イエスは、ファリサイ派の人々に十字架の死と三日目の甦りについて、このように語っておられます。17節。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」信仰告白し、洗礼を受けるということは、このお言葉を語られた主イエスと結び合わされ、一つにしていただくということです。一つにしていただくということは、主イエスの捨てられた命と共に死に、主イエスが神さまから受けられた復活の命と共に生きるということです。主イエスとぴったり一つになって、罪人のわたしは死に、復活の命をいただいて、主イエスと共に永遠に生きていく、その「しるし」が洗礼です。主イエスと一つにされているから、「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈れるだろう?祈れるはずだと、主イエスはおっしゃるのです。
けれども、主イエスが神さまのもとから、神さまの命(めい)を受けて、神さまの権威を帯びて世に来られたことを認めたくない人々は、「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。」と言いました。わたしどもはどうでしょうか。さすがに「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。」とは思っていないと言いたい。しかし、もし、心のどこかに、わたしがあの日犯したあの罪は、絶対に赦されない、と疑う心があるとしたら。神さまがどうであろうとわたし自身が赦せないと思う心があるとしたら。また、あの人のわたしに対する態度は何があっても赦せないと思いながら、まるで固いものを飲み込むように「主の祈り」を祈っているのだとしたら。それらの心は、ファリサイ派の人々の心と同じ場所に立っています。
只今から聖餐の祝いに与ります。なぜ毎月聖餐に与るのか。それは、すぐに主イエスの権威を忘れてしまうからです。神の み子主イエスが、このわたしを、罪の鎖から救い出すために命を捨ててくださったことを、当たり前のことのように思ってしまったり、なかったことにしてしまったりするからです。聖餐によって、わたしは羊。主の羊。主に結ばれて、主と共に生きる命に与っている羊。そのことを改めて心に、からだに刻みつけるのです。
主イエスは羊の門です。「あなたたちを守りたい、導きたい、わたしを通って中へ入って来てほしい。互いに赦し合い、愛し合う群れに加わってほしい。」と呼んでおられます。主イエスは良い羊飼いです。「あなたたちは一人残らず、わたしが命を捨てて守ることになっているわたしの羊だ。」とおっしゃっています。わたしどもはそのように呼んでいただいています。主イエスはすでに囲いの中にいる羊も、囲いの外の羊も、呼んでおられます。主イエスの呼んでおられる声を、誰かを呼んでいる声ではなく、このわたしを呼んでくださる声として、聞くことができますように!主イエスの み声が、一人でも多くの人に届きますように!

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたの み声を信じる信仰をお与えください。わたしどもが他人(ひと)を赦す自由を得るために、み子が命を捨ててくださったことを、いつも、忘れることがありませんように。この自由を、手離してしまうことがありませんように。み恵みの中に、生き続けることができますように。あなたの愛を知らず、傷ついている羊を聖霊の働きによって、あなたの門の中へ導いてください。主の み声を届けるために、どうか、わたしどもを用いてください。主イエス・キリストの み名に よって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、能登半島地震から1ヶ月が経ちました。良い羊飼いを知らないために、すべての嘆きを自分に向け、自分を責め続けている者がおります。あなたの愛で包んでください。慰めを与えてください。被災地の教会を強め、励まし、そして用いてください。共に礼拝をささげておりました加藤常昭先生が入院しておられます。芳賀 力先生も、なおリハビリを続けておられます。また、今日も様々な事情により礼拝出席が叶わない者がおります。主よ、あなたがまなざしを注ぎ、慰め、励ましてください。離れていても、わたしどもは主によって一つの群れであることを、信じさせてください。世界の各地に争いがあります。多くの人たちが苦しみ、嘆いています。その嘆きをあなたが、あなたの み子がすべてご存知であり、いつの日か必ず嘆きを喜びへ変えてくださると信じます。すべての人が主にある望みに生きることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年1月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第34章11節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第10章1節~6節
説教題:「主イエスの声が聞こえるか」
讃美歌:546、19、Ⅱ-83、448、544

 さきほど、讃美歌 第2編83番『呼ばれています』をご一緒に歌いました。これまで、歌ったことがない方もおられたかもしれません。今朝の み言葉から思い浮かんだのが、この『呼ばれています』でした。「呼ばれています いつも、聞こえていますか いつも。」歌詞とメロディーが、静かにわたしどもの心に迫ってくる、そんな思いが致します。わたしども一人一人を呼ぶ主イエスの声がいつも心に響いているかと、この讃美歌は問いかけます。わたしどもの心の中は、いつも静かという訳にはいきません。雑音が入ってくる日があります。いろんな声が聞こえてくるときもあります。そういうとき、うっかり雑音に気を取られないように、耳障りのよい誘惑の声についていかないように。人から何かされたら、やり返したくなる、そんな自分の欲望の声にも、耳を貸さないように。キリストの声だけに耳をすます。日々の暮らしの中で、いつでも、どこでも、み声を聞き取って生きていく。そのために、今朝も み言葉が備えられています。
 今日からヨハネによる福音書 第10章に入ります。第10章に入り、場面や内容が変わるかというと、そうではありません。第9章で、主イエスによって目を見えるようにしていただいた人を追い出してしまったファリサイ派と、主イエスとの間の議論が展開していきます。ファリサイ派の人々は、先週もお話しいたしましたが、非常に真面目に神さまを礼拝し、古くからの掟の道を究めようと日々努力をしていた人々です。当時さまざまな掟が定められていましたが、それらの掟の根本にありますのは、わたしどもも主の日の礼拝において唱えている十戒です。わたしどもも、十戒を唱えて、一週間の歩みの一歩を踏み出します。
しかし、気をつけなくてはならないのは、十戒は、わたしどもを縛る規則ではないということです。礼拝のしおり10頁のはじめには、こう書かれています。「※私たちはこの十戒を、私たちを縛る戒律としてではなく、福音の自由に主と共に生きる、神の招きとして受け止め、唱和します。」わたしたちは神さまのもの。神さま以外のものにはついていきません。神さまに従って生きていく。その生活は、敵対する者にやり返したり、むやみに恐れて相手を殺そうとする必要などありません。人のものを欲しがったり、盗みとったりする必要もない。わたしどもを守り、必要を満たしていてくださる神が、わたしどもの神さまなのですから。その信頼に立つとき、わたしどもの耳に聞こえてくる呼び声は、クリアなものとなります。雑音や、ほかのものの声がしていても、ラジオの周波数がピタリと合ったときのように、飼い主の声だけが、スパーンと、クリアに、聞こえるのです。主イエス・キリストの父なる神が、わたしの神さま。その信頼が、わたしどもの耳の周波数を、主の声に合わせるのです。
ファリサイ派の人々は、自分たちは、「よい耳」を持っていると信じていました。だから、よい耳を持たない民衆を率い、導くのが使命であると勝手に思っていました。いろんな雑音の中で、「我々は耳がよいのだから」と、自分の耳を信頼し、周波数が合わないままで一所懸命に神さまの み声を聴き取ろうとし、また聴き取っているつもり。そんな状態であったかもしれません。その彼らに、主イエスは、羊の囲いの譬え話をなさいました。わたしどもは残念ながら、当時の羊飼いの仕事をよく知りません。それでも主イエスがここで丁寧に話してくださっていますから、イメージすることはできます。
囲いがあります。狼などの外敵から襲われないように、柵で囲われた牧場でありましょう。羊飼いたちが共同経営していた牧場かもしれません。その囲いに、1ヶ所だけ門がある。門には常に門番がいて、悪い者が侵入し、大切な羊を盗んでいってしまわないように見張っています。門番が、知らない者に対して門を開けることは決してありません。朝、夜が明ける頃、羊飼いたちがやって来て、自分の羊の名前を一匹一匹呼びます。羊の方でも自分の飼い主の声がわかっていて、羊飼いのところへ飛んでいきます。すべての羊が揃ったところで、羊飼いは先頭に立って、歩き始めます。あとから羊がぞろぞろメェメェついていく。おいしい草がたくさん生えている場所まで、羊飼いが連れて行ってくれる。そして夕方になると、また囲いの門へと戻ってくるのです。
主イエスがなさったお話ですから、大切なメッセージが隠れています。羊飼いと羊の関係に譬えて、ファリサイ派の人々にメッセージを伝えようとしておられるのです。ですから、この話には、ファリサイ派の人々も、何かに譬えられて、登場しています。それは、門を通らないでやってくる者たちです。彼らは、門を通らないで柵を乗り越えてやって来て、羊を連れ出そうとします。門番の許可を得ずに強引に侵入する。そして、羊たちを自分たちの思いのままに間違った方向に連れて行こうとする。けれども、羊は、ついて行かない。その声を聞いても逃げ去るのです。
第9章を思い出してみましょう。主イエスによって、目を見えるようにしていただいた男は、ファリサイ派から厳しい尋問を受けました。「お前の目を見えるようにした人物は、律法に従わない罪人であることを認めろ」と、答えを強要されたのです。しかし彼は、「あの方は、神のもとから来られた方に違いない。」と証言し続けました。ファリサイ派に従うことを、明確に拒んだのです。主イエスの譬え話の中で、羊飼いの声と盗人の声をちゃんと聞き分けて、盗人から逃げ去った羊の姿が重なります。
3節を読みますと、「羊はその声を聞き分ける。」とあります。どうして羊は、羊飼いの声をちゃんと聞き分けることができるのでしょうか。それは、羊飼いが、はるか遠くから呼んでいるのではなく、ちゃんと迎えに来てくれて、一匹一匹名前を呼んでくれるから。そして、羊の方でも、羊飼いを信頼しているからです。
主イエスは、目の見えない男を見つめてくださり、地面にかがみ込んで、手を泥で汚しながら、見えない目に塗って、見えるようにしてくださいました。さきほどの讃美歌では「はるかな とおい声だから」と歌いましたが、神さまは、高く、遠いところにおられるだけではありませんでした。主イエスは、高く、遠いところにおられたのに、わたしどものところに降りてきてくださいました。クリスマスの夜、家畜小屋に生まれてくださり、わたしどもの罪をすべて赦すために、十字架で死んでくださった。さらに、三日目の朝、死に勝利してくださった。そして今日も、愛をもってわたしどもに語りかけてくださいます。「あなたがたは、わたしの愛する大切な羊。わたしは、あなたがたの名前を呼んでいる。毎日呼んでいる。わたしは、絶対にあなたがたを見捨てない。だから、わたしを信頼し、わたしの声を聞き続けなさい。」
 けれども、ファリサイ派の人々は、主イエスの譬えが何のことか全く分かりませんでした。何度も申し上げているように、ファリサイ派は、神さまを信じ、真面目に生きようとした人々です。それなのに、手を泥だらけにしながら、目の見えない男を癒された主イエスの お姿の中に、神さまの存在を見ることができませんでした。主イエスの声に、神さまの声を聴きとることができませんでした。主イエスが、すべての者をご自分の羊として愛し、赦し、救い、導こうとしておられることがまったく分からなかった。このあと、主イエスが「わたしは良い羊飼いである。」と語られても、自分たちこそが民を正しく導く者であると言って、まことの羊飼いを十字架に磔にし、殺してしまいました。最後まで、主イエスに信頼することができなかったのです。
今日は、ヨハネによる福音書に加え、旧約聖書 エゼキエル書 第34章を朗読して頂きました。冒頭には、「イスラエルの牧者」と小見出しがついております。エゼキエルは預言しました。11節。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」
神さまは、主イエスを十字架の死から甦らせ、エゼキエルの預言を成就してくださいました。そして今、主イエスがご自分の羊を呼ぶ声は、すべての者に向けられています。わたしどもは羊です。まことの羊飼い、主イエスの羊です。わたしどもは皆、一人残らず、主イエスの尊い命と引き換えに罪を赦していただいたから、神さまの み前に立つことができます。主イエスが、その命をかけて、羊飼いのようにわたしどもを率い、神さまのもとへと連れていってくださるのです。主イエスは、わたしどもの痛みも、弱さもすべて知っておられます。主イエスだけが、父なる神さまの み国へ、平安の中へ、導いてくださいます。ただ主イエスに信頼し、主イエスの み声に導かれるままに、主なる神を愛し、隣り人を愛し、敵をも思いやり、慈しむ道を歩み続けてゆく者でありたい。心から願います。

<祈祷>
天の父なる神さま、「わたしは良い羊飼いである」と、おっしゃってくださるその み声を、耳元ではっきり聞かせていただける幸いを、心から感謝いたします。日々、主イエスに信頼し、み声を聞き、従い続ける者としてください。主イエス・キリストの み名に よって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。能登半島地震から約1ヶ月となります。愛する人を失った者がおります。住み慣れた地から離れるべきか、とどまるべきか、身を切られるような選択を迫られている者がおります。不安の中で受験を控えている者がおります。主よ、あなたの励ましと慰めを与えてください。突然の試練によって、あなたのみ声を受け入れることのできない者の耳を開いてください。あなたの声に力を受け、「主よ、信じます」と信仰を告白する日が与えられますよう聖霊を注ぎ続けてください。被災地にある教会を強め、励まし、用いてください。世界の各地で争いが続いております。国を導く者の耳を開いてください。あなたの愛と赦しの声を聞き、共に愛し合い、共に赦し合う心へ変えてください。主よ、今日もあなたを慕いつつ、病のため、寒さのため、痛みを抱えているため、仕事のため、礼拝に来ることのできない仲間がおります。主よ、それぞれの場にあって、祝福と平安をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年1月21日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第13章1節~9節、新約 ヨハネによる福音書 第9章35節~41節
説教題:「主イエスが導いてくださるから」
讃美歌:546、6、240、529、543

わたしどもは今朝、主イエスに導かれ、礼拝へと招かれました。本日ご一緒に読んでまいります み言葉の中に、「ひざまずく」と訳されている言葉があります。この言葉はしばしば「礼拝する」とも訳されます。主イエスの十字架の死によって罪を赦され、わたしどもの心は今、神さまの み前にひざまずいています。
1月7日の新年礼拝からヨハネによる福音書第9章を読み始め、今日で読み終えます。生まれつき目の見えない人に主イエスが目を注いでくださり、唾で土をこねてその人の目にお塗りになられた。そして、その人がシロアムの池で洗うと目が開かれ、見えるようになったことを読んでまいりました。その後、その人は、ファリサイ派の人々、ユダヤ人たちから繰り返し尋問され、それを通して、主イエスへの信仰が強められた。けれども、そのためにファリサイ派の人々、ユダヤ人たちの反感を買い、外に追い出されてしまいました。
34節。「彼らは、『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出した。」「外に追い出した。」とは、具体的には、「神殿の外に追い出した。」ということでしょう。ユダヤ人にとって神殿への出入りを禁じられることは、もうそのコミュニティの中で生きていくことができないということであり、「お前は神の民ではない」とジャッジされ、神の救いからの脱落を宣言されることでした。しかし彼は、宗教的に、また社会的にも権威ある人々からどんなに脅されても、親から見放されても、社会から追放されても、「わたしの目を開いてくださったのは、罪ある人間ではない。神さまのもとから来られた方だ」と証言し続けました。主イエスが肉体の目だけではなく、心の目をも、開いてくださったのです。シロアムの池の水で目を洗い、暗闇だったところに、初めて光が射し、明るくなり、「見える」ということがどういうことかを生まれて初めて知った喜びと同じように、開かれた心の目で見た真実は、どんなひどい目にあったとしても、とうてい否定などできない、明るい希望の光だったのです。これを否定することは、もとの暗闇に戻ってしまうのと同じ。そんな思いだったかもしれません。そして、生まれて初めて知った真実の光を手放さなかったために、親にも見放されてひとりぼっちになってしまったそのときに、主イエスが、出会ってくださったのです。そして、尋ねられました。「あなたは人の子を信じるか」。 
「人の子」とは、主イエスが ご自身を表すときに用いられた言葉ですが、ヨハネによる福音書においては、わたしどもと同じ人間であると同時に、神の救いそのものである救い主を表す言葉として用いられています。当時の人びとが待望していたメシア(救い主)は、そのような存在でした。人間の姿で現れる神の救い。そのような「人の子」を、「あなたは信じたいと思うか?」、「信じてみないか?」そのように、主イエスは救いの中へと招かれたのです。
彼は答えました。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」「主よ(キュリエ)」という言葉に、主イエスに対する信頼の心が現れています。すると、主は言われました。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずきました。
「ひざまずく」と訳された言葉は、「礼拝する」とも訳すことができると冒頭で申しました。群馬県草津町にあります、ハンセン病療養所の中に聖慰主(せいなぐさめぬし)教会という聖公会の教会があります。畳敷きの礼拝堂で、そこで実際にひざまずく礼拝を初めて経験しました。見よう見まねでひざまずき、手を合わせ、祈り、聖餐の祝いはひざまずいたまま、前の方ににじり寄り、聖餐に与り、またそのままの姿勢、つまり、ひざまずいたまま元の場所へ戻りました。わたしは初めてのことに戸惑いながら、小さい子どもになったような、「こっちへおいで」と呼ばれてよちよち歩いていく、そんな嬉しさを感じていました。得難い経験でありました。
わたしどもの礼拝では、具体的にひざまずくことはありません。それでも、心はひざまずいています。わたしどもの心がひざまずいていないなら、礼拝は成り立ちません。神さまの み前に、主イエスの み前に自分を小さく、低くし、ひざまずいて祈る。その姿勢は、わたしどもがひとりで、自分の信念や、自分の義(ただ)しさを貫いて、守り通す、そのようなものではありません。生まれつき目が見えず、見えるようにしていただいた この人が尋問を受けている間も、外に追い出されたときも、そこに主イエスの お姿はありませんでした。けれども、その間も、主イエスはこの人をじっと見つめ、支えておられたに違いありません。だから、出会ってくださった。35節で「出会う」と訳された言葉は「見た」という言葉です。彼が追放されたことを聞いて、彼を見つけてくださった。そして、その眼差しで包んでくださった。さらに「信じてごらん」と招いてくださった。「わたしの救いが、ここにある」と信仰を告白するまで、主イエスが、導いてくださったのです。わたしどもも皆、同じではないでしょうか。主イエスの十字架によって、すべての罪を赦していただき、心の目を開いていただいて、支え、導いていただき、主の眼差しの中で ひとりぼっちではなかったことを知り、「信じるか?信じてごらん」と招いていただいて、信仰を告白し、今ここに、主の み前に、ひざまずいているのです。
主イエスは、彼の信仰告白の言葉を聞き、ひざまずく姿をご覧になっておっしゃいました。39節。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」「裁く」と訳されている言葉は、もともとは「切れ目を入れる」、「分け目を入れる」、という意味だそうです。線を引くのです。はじめから見える人と見えない人がいて、白黒はっきりと分かれているのではなく、混ざっている。そこへ線を引く、というと、普通はこのように考えるかもしれません。混ざっているところへ線を引き、「はい、あなたは見えるから右へ。あなたは見えないから左へ行きなさい」。しかし、そうではない。主イエスの裁きは、そういう線引きではない。混ざっているところに、線が引かれる。そのとき、人間が思ってもみなかった事件が起こるのです。「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」主イエスの登場によって、闇の中でうずくまっていた者に光が与えられ、明るい光の中を堂々と歩いていると思っていた者が、実は真実が見えていなかったことが明らかになる。それまでの価値がひっくり返る。義しいと思っていたことがひっくり返る。大事件です。
主イエスは、「自分たちの信仰こそ、完全な信仰。」と信じていたファリサイ派の人々に言われました。41節。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」わたしどもは、ファリサイ派というと、主イエスを十字架で殺した一派と理解してしまいます。けれども、それはあまりにも短絡的です。ファリサイ派は、真剣に救いを求め、モーセの戒めを大切に生きていた人々です。義しい生き方、神さまから誉めていただける生き方を追及して一所懸命、清く正しくあろうとした。しかし、その思いはキリストを必要としなくなっていました。自分たちは清く正しいと思い込んでいますから、救い主など来なくてよい。むしろ邪魔になってしまっていたのです。神の救いを見る目を曇らせてしまった。だから神さまの前に義しいことと信じて、胸を張って、主イエスを殺したのです。真実が見えているつもりで見えていない。そのままでは、あなたたちは罪の中に取り残されてしまうと主は言われます。愛を持って、「そのままでいてはダメだ。それでは、あなたたちの罪は赦されずに残ってしまう」と警告されたのです。
では、ここで、「見えない」と認めていれば、罪にならなかったのか?というと、そうではありません。「見えない」ということは神が見えていないということ、それは、罪です。しかし、そこで主イエスの言葉を聴かせていただき、光をいただき、真実を、神さまの愛を、主イエスの お姿を見せていただき、招いていただく。事件が起こる。救いが起こる。そのとき、救いを受け入れるのか否か。感謝し、ひざまずくことができるのか否か。そこにかかっています。主イエスによって、裁きの線は引かれました。しかし、この線はさきほど申しましたようにわたしどもを分けて追い出す線ではありません。線が引かれるそこで、事件が起こる。奇跡が起るのです。主イエスは、ファリサイ派の人々の心の目をも開こうとしておられる。わたしには、そう思えます。
わたしどももまた、真面目に生きようとすればするほど、ファリサイ派の人びとと同じ過ちを犯してしまう者です。主イエスに目を開いていただき、信仰を与えていただき、救っていただいたその瞬間から、もう、ひざまずく自分がひとかどの者のように思えてくる。真実が見えている目覚めた人間だと勘違いしてしまう。主イエスに導かれ、救っていただいただけにすぎないのに。それほどに、わたしどもは罪深い。いみじくもファリサイ派が34節で言っているように「全く罪の中に生まれた者」以外の何者でもありません。しかしそのような者だからこそ、主イエスの十字架がなくてはならなかったのです。神の み子の命でなければ、救われないほどに、どうしようもないわたしどもであることは、わたしども人間の戦いの歴史、今も続く争いの現実が証明しています。そこまでしなくとも、自分自身の心の奥を覗き込めば一目瞭然です。自分の思うようにしてくれない近しい他者(ひと)に腹を立てたり、自分は義しいと胸を張って、あの人はよい人、あの人はダメ、とジャッジしたりするわたしどもは、いったい何者でしょうか。しかし、何度も言います。そのようなわたしどものために、主が天からいらしてくださいました。命を捨ててくださいました。神さまの み心に従って真実の線を引いて、人間が勝手に引いた線によってつくり上げた世界をひっくり返す、奇跡を行ってくださいました。そして「この奇跡の中へおいで」と、わたしどもすべての者を呼んでおられます。神さまは、諦めておられないのです。
 この後、ご一緒に賛美する讃美歌は皆さんもお好きな讃美歌ではないでしょうか。わたしも大好きな讃美歌です。メロディーも素敵ですが、歌詞が心に深く響くのです。信仰を告白し、洗礼を受ける者の心が歌われていると思います。救われた者に見えるのは、3節の歌詞「われもなく、世もなく、ただ主のみいませり」。主イエスの十字架によって罪を赦され、主イエスの甦りによって、永遠の命が与えられて、ただ主に手を引かれ、支えられて、主イエスだけが見える。その幸いの中で、ひざまずき、主イエスだけを仰ぎ見て歌うのです。「うたわでや あるべき、すくわれし身のさち、たたえでや あるべき、みすくいのかしこさ」と。共に、目を開いていただいた喜びに満たされて、主の み前にひざまずき、主の み心が実現することを信じて、主に従い歩む者でありたい。

<祈祷>
天の父なる御神、真実にあなたの み前にひざまずく者としてください。み子の死によって罪を赦していただき、み子の甦りによって永遠の命を与えていただいた恵みを感謝いたします。罪を赦していただいた者として、永遠の命を与えていただいた者として、み心を行う者としてください。主イエス・キリストの み名に よって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、能登の地で被災された方々を慰め、励ましてください。被災された方々を支えている方々を支えてください。愛する者を失い厳しい痛みを抱えているひとがいます。これからどうやって生きていけばよいかと途方に暮れているひとがいます。どうか、あなたのおそばに招き寄せ、励ましてください。慰めてください。被災地で礼拝をささげている兄弟姉妹がおります。礼拝堂を用いることができず、避難所の廊下でささげられている礼拝があると聞いています。けれども主よ、どこにあってもあなたが共にいてくださいます。それぞれの場所で礼拝をささげている仲間たちを強め、励ましてください。わたしどもを支える者として用いてください。今日も礼拝を慕いつつ、様々な理由によって、礼拝を欠席している兄弟姉妹がおります。主よ、その場にあって、わたしどもと等しい祝福をお与えください。至る所で続いている争いにより嘆きの中にある者を慰めてください。一日も早く争いを終結へと導いてください。各国の指導者の目を開き、それぞれの正義によって相手を裁くのではなく、互いに愛し合い、赦し合う関係を構築していくことができますよう、導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年1月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第11章1節~9節、新約 ヨハネによる福音書 第9章13節~34節
説教題:「信仰の成長」
讃美歌:546、8、277、Ⅱ-167、542、427

 信仰とは何でしょうか。わたしが神学生のとき、修士論文の指導をしてくださった近藤勝彦先生の著書『癒しと信仰』には、このように書かれています。「信仰とは何でしょうか。それは、主イエスの中に働いている恵みの力を『わがものとして感じ取る能力』だと言ってよいと思います。(中略)信仰は、そのようにされる資格も能力もないのに、にもかかわらず、恵みの力を受け取ること、癒しの力に捉えられることです。(中略)自分はふさわしくない、自分には価値がない、しかしその価値なき状態にもかかわらず、それを越えて生かされること、赦され、癒されたことを受け取ること、それが信仰です。そしてそれは聖霊によるのです。」
今朝、わたしどもに与えられたのは、ヨハネによる福音書 第9章13節から34節の み言葉となりました。長い箇所を朗読して頂きました。途中で切って、2回に分けて説教することも考えましたが、生まれつき目の見えなかった男が、主イエスに癒していただいて、変化していく。彼が、自分におこった救いの出来事の確かさに気づき、信仰が形づくられていったプロセスを、ひと息に読んでみたいと思いました。
生まれつき目の見えない人がいました。まさか自分の目が開かれるとは、まったく予想していないし、そもそも見えるとか、明るいとかが、どういうことなのかも知らなかった。しかしある日、話し声が近づいてきました。そして突然、一度も開かれたことのない瞼(まぶた)に、何かが塗られる ひんやりとした感覚を味わったのです。そして、声が聞こえました。「シロアムの池に行って洗いなさい」。
盲人は何が何だかわかりません。けれども、彼はシロアムの池に行ったのです。なぜでしょう。わけがわからないなりに、何かを感じたのだと思います。近藤先生の言葉を借りるなら、聖霊が働いたとしか思えません。そうでなければ、「わざわざ行って何になる。みんなから馬鹿にされるだけだ。」そう思ったかもしれません。しかし、言われた通りにしてみることにしました。よくわからないがイエスという名前であるらしい方を信用してみることにした。聖霊の力によって、この人の中に、信仰の種が蒔かれ、小さなふたばが芽生えたのです。その意味で、池に向かって歩き始めた時、すでに救いの出来事は起こり始めていました。男の中に信仰が芽生えたのです。池の水で目を洗い、目が見えるようになって戻ってきた男を見て、周囲の人々は驚き、不思議がりました。男は人々に証言しました。「イエスという方が、土をこねて わたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」「イエスという方」と答えているように、主イエスに対する感謝の思いを抱きながらも、主イエスが自分にとってどのようなお方なのかは、この時点ではまだわかっていなかったと思います。
 さて、目の見えるようになった男は、人々によって、ファリサイ派の人々のところに連れて行かれました。「ファリサイ派」とは、「分離」という意味の言葉から生まれた言葉です。日本語にすれば「分離派」となるでしょう。我々は、他の人々とは違う。清貧を心がけ、祈りを重んじ、律法を重んじ、一点の曇りもない清く、正しい生活をしている。そうやって真面目に生きていた人々です。彼らの考える信仰は、自分たちを汚(けが)れから分離し、清く保つことであり、その行いによって神に「善し」としていただけると信じていたのです。
14節に、「イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。」とわざわざ書かれています。ユダヤ教の信仰の決まりで、安息日には、いかなる労働もしてはならないことになっていました。決まりを重んじるファリサイ派の人々にとって、土をこねたり、病を癒やしたりする行為は、短い時間でも立派な労働であり、許されないことであったのです。
 けれども、ファリサイ派の人々の中にも、冷静な判断のできる人がいたようです。「安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者がいる一方、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいました。しかし、安息日でも癒しを行うイエスを認めてしまったら、今までファリサイ派が厳格に守り、人々に教えてきたことが間違っていたことになってしまいます。ファリサイ派に聞けば何でも明解。はっきりわかる。そう思っていた人々は戸惑いました。そして、盲人であった男に再び尋ねました。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は言いました。「あの方は預言者です」。預言者。神さまから言葉を預かり、人々を諭し、励ます、神さまから選ばれた大切な働き手です。「わたしの目を開いてくださったイエスという方は、イザヤのような預言者、エレミヤのような預言者に違いない。」そんなイメージを抱いたのかもしれません。
 しかし、ユダヤ人たちは目が見えるようになった男の言葉を信じない。いや、信じたくない。そんなことをすれば、自分たちの立場が危うくなると脅えているのです。そこでこんどは、男の親を呼びつけ、尋問しました。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」愛の無い言葉です。生まれつき目の見えなかった息子が、何と見えるようになったのです。「よかった。息子さん、目が見えるようになったのですね。」と一緒に喜べたら、どんなによかったことかと思います。けれども神さまのわざが現れたことを喜ぶことができなかった。神さまを見失い、主イエスをねたみ、自分たちの立場が脅かされることを恐れたのです。
自分の立場を守るために、真実を隠してしまう思いは、目が見えるようになった息子の両親も例外ではありませんでした。両親は、このように答えました。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開(あ)けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」聖書にも書いてあるように、ユダヤ人たちは既に、「イエスをメシアである」と公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていました。要するに村八分です。明るい場所を歩けない。社会からのけ者にされてしまう。両親は恐れていました。ファリサイ派の人々、社会的に権威を持っている人々が、イエスに対して明らかに殺意を抱いている。余計な証言をしたら、息子だけでなく、自分たちまで追い出されてしまう。そこで、息子に丸投げしたのです。はっきり言ってしまえば、自分たちの生活を守るために息子を捨てた。両親を責めることは簡単です。しかし、人間にとって、自分の生活している社会の中から締め出されることほど、おそろしいことがあるでしょうか。この両親の立場であったなら、息子を守りきることができるだろうか。息子を信じて、一緒に闘うことができるだろうか。せめ立てるユダヤ人たちと一緒になって、イエスを殺す側に立ってしまうのではないだろうか。似たような局面は、わたしどもにも訪れることがあります。悪口に同意を求められる。パワハラや、いじめに気づいても止めることができない。仕方なかった。そうするしかなかったのだと言い訳をして主イエスを殺す側につくのか。それとも心の中に響いている主の み声を聞き取って従うのか。決して他人事ではありません。これは、わたしども、ひとりひとりの問題です。
さて、自分たちの信じる掟に従わないイエスを一刻も早く罪人として抹殺しなければ!と鼻息を荒くしているユダヤ人たちは、もう一度、盲人であった男を呼び出しました。しかし、神さまは、そのような試練をも用いて、男の信仰を鍛え、成長させてくださったのです。キリストに従うか、キリストを殺す側にまわるかの局面で、一緒に苦しんでくださる方がいる。一人ではなかった。キリストが共にいてくださる。その お姿を、見ることができた。頼ることができた。恵みの力を、受けるにふさわしくないのに、悪魔に対抗する力をいただけたのです。
ユダヤ人たちは、再び問いただしました。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」「お前の返答次第では、お前も罪人だ」と脅したのです。質問していながら、ひとつの答えしか認めていない。ここで、「神の前で正直に答えなさい。」と訳されている元の言葉は、「神に栄光を帰しなさい」という意味の言葉です。彼はすでに何度も「わたしの目をイエスという預言者であろう お方が開いてくださいました」と証言しています。この証言こそ、神に栄光を帰しているのに、その証言を撤回させようとしている。偽りの証言によって、神に栄光を帰しなさいと命じている。もうめちゃくちゃです。それでも、その場の空気を読むなら、「これ以上 抵抗しない方がいいな。せっかく見えるようになったんだ。イエスという方は、どこにおられるのかわらかない。適当にユダヤ人たちが求める通りの答えをして、解放してもらい、両親のもとに帰り、人生を楽しもう」と思ってもよいところです。
しかし、彼の心に芽生えた信仰は、恵みの力をいただいて、音を立てるようにグングンと成長していくのです。神さまによって。聖霊の働きによって。もうこの喜びを消すことはできない。誤魔化すこともできない。男は、さらに大きな声で、開かれた目で、まっすぐにユダヤ人たちの目を見て、こう答えました。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
ユダヤ人たちも負けていません。いや、すでに完敗しているが、負けを認めたくない。だからしつこく、ねちっこく、何度も何度も同じ質問を繰り返すのです。「あの者は お前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開(あ)けたのか。」目の見えるようになった男は、声のトーンが明らかに上がったに違いありません。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
この場面に主イエスは登場しません。また、この人も主イエスを直接見たことはありませんでした。それでも、彼の開かれた目は、はっきりと主イエスを見ている。救い主を見ているのです。そして、「わたしは、あの方、イエスという方の弟子だ。」と、自分でも知らないうちにそう言っていたのです。「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。わたしは、イエスという人に癒された。誰からも見捨てられていたわたしを、あの方は救ってくださった。誰が何と言おうと、わたしは、あの方について行きます。」そんな勢いを感じる言葉です。
これを聞いたユダヤ人たちは逆上し、男をののしって言いました。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」先ほどまで目が見えず、物乞いをし、ユダヤ人たちに見向きもされていなかった男が、主イエスによって目を開かれ、聖霊の働きによって力をいただいて、主の弟子として、権力者の圧力をものともせず堂々と神の栄光を現している。それなのに、そのことを認めたくないユダヤ人たちは、モーセの弟子として、十戒を完璧に守っている自負と共に、今度は「あの者がどこから来たのかは知らない。」と逃げに入っている姿は滑稽にも映ります。
男は、ひるまず答えました。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開(あ)けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開(あ)けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」小兵の関取が、からだの大きな関取を鮮やかな決まり手で倒したような、信仰告白の言葉です。
ノックアウトされたユダヤ人たちは捨てゼリフを吐きました。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」そして、言葉で完敗したので、実力行使に出ました。男を外に追い出してしまいました。しかしそこで、主イエスが出会ってくださるのです。その場面は、来週、ご一緒に読んでまいりましょう。
最初は「イエスという方が」と呼んでいた男が、「イエスさまが、神のもとから来られたのでなければ、わたしの目を開くことなどできるわけがない。」と主イエスを心から信頼し、主イエスへの信仰を告白するに到りました。わたしどもも皆、このようにして信仰を成長させて頂いています。これからも試練があるかもしれません。痛みがあるかもしれません。けれども、何があっても、それらの出来事をも用いて信仰を成長させてくださる神さまに信頼し、与えられる一日、一日を主と共に歩んでいきたい。心から願います。

<祈祷>
天の父なる神さま、何ものでもない わたしどもに、信仰をお与えくださり、感謝いたします。どうか、わたしどもの信仰を日々、成長させてください。主イエスの中に働いている恵みの力を『わがものとして感じ取る能力』を聖霊の み力によって磨き、強めてください。主イエス・キリストの み名に よって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、被災された方々、被災された諸教会、教会に連なる方々を守り、慰め、導いてください。生きる望みを失っている人がいるなら、どうか、そばにいてください。平安を与えてください。そして、悲しみ、痛み、試練を越えて、あなたを完全に頼る信仰に生きる者をひとりでも多く、み救いの中に入れてください。今日も礼拝を慕いつつ、入院しているため、体調を崩しているため、高齢のため、家族への介護があるため、仕事のため、様々な理由のため、礼拝を欠席している仲間が多くおります。主よ、そのひとり、ひとりに、わたしどもと等しい祝福を注いでください。今も世界各地で続いている争いを、どうか終結へと導いてください。お互いが お互いの違いを認め、相手の声に耳を傾け、励まし合って平和をつくっていくことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年1月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第66章10節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第9章1節~12節
説教題:「因果応報の鎖からの解放」
讃美歌:546、1、411、21-81、309、541

新しい年が明けました。「心新たに、新しい年を歩んでいこう」と思っていた矢先の元日の夕方、長い揺れを感じました。あわてて確認すると、能登半島で大地震が発生したことを知りました。何日か経って、少しずつ被害の状況が明らかになるにつれ、心が痛み、重くなっていきます。中部教区ホームページの情報によると、輪島教会では、幸い死傷者はなかったものの、自宅が全壊してしまった教会員がおられるようです。礼拝堂の窓ガラスは割れ、壁も大きく損傷しており、本日の礼拝は、牧師館で守る準備をしている、とのことでした。しかし、その牧師館も、隣りの家が倒壊して壁を突き破ったために、大きな穴があいてしまっているとのこと。周辺の道路も、地割れがあるようです。被災された方々に心を寄せ、思いを尽くし、祈りを集め、支えていきたいと願っています。主の慰めと平安がありますように!
このようなことが起こりますと、往々にしてわたしどもは、原因と結果を結び付けて理解しようとしてしまいがちです。「何の因果で、こんなことになってしまったのか。呪われているかもしれない。」そのような思いが頭をよぎる。天災に限りません。病気や、事故なども、そうです。「因果応報」という言葉があります。なぜ。どうして。「わたしに原因があるのか、先祖に原因があるのではないか」そう考えてしまう。「不幸が続くのは、あなた自身のせい。」そう言って、苦しんでいる人をさらに苦しめる。このような考えは、主イエスが登場した聖書の時代にもあったようです。しかし、主イエスは、このような考え方に、はっきりと、「それは違う」と、おっしゃいました。
今日から、ヨハネによる福音書 第9章に入ります。ここに、生まれつき目の見えない人が登場します。主イエスは、通りすがりに、その人を見かけられました。弟子たちは、主イエスに尋ねました。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」弟子たちはいたって真面目です。家族から見捨てられ、物乞いをして日々の生活を続けなければならない哀れな人。そのような人は本人、もしくは両親が罪を犯した報いを受けている、という考えは、弟子たちだけでなく、当時の人々を縛っていたのです。ですから主イエスの答えは、弟子たちにとって、驚くべき言葉でした。3節。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)がこの人に現れるためである。」
この み言葉に触れるたびに、わたしの心に浮かぶ二人のキリスト者がおります。一人は、これまでも何度か紹介したことのある元ハンセン病患者で詩人の桜井哲夫さんです。群馬県草津町の療養所を訪問するたびに、このように語ってくださいました。「わたしの本名は長峰利造。青森県津軽の りんご農家に生まれ育った。けれども、17歳で発症したため、ふるさとから遠く離れた土地で、何もかも、名前さえも奪われ、桜井哲夫として生きることになった。つらいことがたくさんあった。でも、そのすべてが神からのギフトなんだ。『らい』になったから、キリストに出会えた。あなたにも会えたんだ。」その言葉に、ハッ!としました。当時、上司のパワハラに悩み、「どうして、自分ばかりがこんな目にあうのか」と下を向いて呟いていたわたしの目は、今、思い返すと、神さまを見失っていました。そのようなわたしに神さまは、ハンセン病の後遺症によって、両目の眼球を失った桜井さんとの出会いを与えてくださり、その生きざまを通して、神さまの み業を見せてくださったのです。
主イエスは続けておっしゃいました。4節。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」主イエスは「わたしは」ではなく、「わたしたちは」とおっしゃいました。伝道の業、救いの業に弟子たちを巻き込もうとしておられます。わたしと共に、神さまの み業を行って欲しいと招いておられます。わたしどももまた、主の弟子として招かれています。主イエスは、わたしどもにも、語っておられます。「あなたがたは、この盲人がどうしてこんな目に遭っているのかと問うている。しかし大切なのは、この人に神の業が起こるかどうか、この人が救われるかどうか、なのだ。この人に神の業が現れるために、共に働いてくれないか。」
 主イエスは、「だれも働くことのできない夜が来る。」とおっしゃいました。ご自身の十字架の死を見据えておられます。その上で、「わたしは、世にいる間、世の光である。」と宣言なさいました。「世にいる間」とおっしゃっているのは、十字架の死で終わってしまうのではありません。十字架の死は、甦りの命に繋がっているからです。主イエスが お甦りになる、そのときこそ、信じるすべての者に、神の救いの業が現れるのだと、約束してくださいました。その約束の光の中で、主イエスは不思議とも思える行動をとられました。主イエスは、しゃがんで、地面に唾をし、唾で土をこねて、その人の目にお塗りになり、そして、シロアムの池に「行って洗いなさい」と言われたのです。
ある神学者は、「目に泥を塗られて、シロアムの池に行くこの人は、洗礼を受けようとする人の姿」と言っています。たとえ肉体の目が見えていても、神さまの光が見えていなかった心の目に、主イエスが触れてくださる。癒やしてくださる。「水で洗いなさい」とおっしゃる。その言葉を信じ、洗礼を受ける。そのようにして、神さまの光が見えるようにしていただくのです。
目に泥がべったり塗られたままシロアムの池まで歩いていく盲人の姿を見て、周りの人は馬鹿にして笑ったかもしれません。それでもこの人は、主イエスがお命じになられた「行って洗いなさい」を信じ、歩き始めたのです。もしかすると、弟子たちがシロアムの池まで寄り添ったかもしれません。
わたしたちに求められている働きも、そのような働きかもしれません。今、心が塞いでいる人、救いが見えない人、望みを失っている人。わたしどもに、その人たちを救うことはできなくても、寄り添い、主イエスがおられる教会に連れていくことはできます。自分に起きた救いの業、神の み業を証しすることもできるのです。
生まれつき目の見えなかった人は、シロアムの池に到着すると、すぐに目を洗いました。すると、目の前にキラキラと輝くシロアムの池が飛び込んで来た、その瞬間、その人の両目からは大粒の涙が溢れたに違いありません。そして、喜んで元いた場所に帰って来たのです。すると、近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、わいわい寄って来ました。「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言う人、同意する人、反対する人。すると、この人ははっきりと証言しました。「わたしがそうなのです」。ここで、「わたしがそうなのです」と訳されたギリシア語は、εγω ειμιエゴゥ エイミ。先週の み言葉である第8章58節で主イエスが、アブラハムが生まれる前から、「わたしはある。」と言われた言葉とまったく同じ言葉であり、神さまがご自身を顕されるときに用いられた言葉です。
目が見えるようになった人は、このような思いだったのではないでしょうか。「わたしは、わたしとして、ここに在ります。『わたしはわたしです』。わたしはイエスという人をわたしの救い主と信じます。物乞いとして生き、物乞いとして死ぬと思って人生を諦めていたわたしに、イエスさまが目を注いでくださいました。そればかりか、唾で土をこねて、わたしの目に塗ってくださり、『シロアムの池に行って洗いなさい』と命じてくださいました。そうして、わたしは救われたのです。目が見えるようになったのです。わたしが救われた本人です。わたしはわたしとしてここにいるのです。わたしはこれから、救われた者としてイエスさまと共に、神さまの み業の中で生きていきます。」
わたしどもはどうでしょう。この人のように神さまに救っていただいた喜びを、証言し続ける者でありたいと願います。かつては見えていなかった。神さまの光が見えず、次々と襲ってくる苦しみに脅えていた。しかし今は違う。わたしを見てください。そのように証言し続ける者でありたいと重ねて願います。
先ほどお話ししました草津の桜井さんと共に、静岡県御殿場市にある駿河療養所で生活しておられた上野忠昭さんも、忘れられない信仰の先輩です。この方も本名を公開なさる前は長い間、「神村」と名乗っておられました。毎年、正月休みには家族と共に上野さんを訪ねておりましたが、昨年、天に召されました。週に三度の透析を受け、まったく目が見えないながら、毎朝、2時間かけて北から南までひとりひとりの名前を声に出し祈っておられました。療養所を訪問すると、わたしが、うっかり忘れてしまっていたあの人、この人の悩みを覚えておられ、「先生、あの方はその後、どうしておられますか?」と質問攻めにあうのです。「上野さんは、目は見えなくても見えている。毎日、心を込めて祈っておられる。目が見えているはずのわたしは何をしているのか」と教えられたのです。草津の桜井さんも、御殿場の上野さんも、「わたしがそうなのです」と、神さまの み業を証しして生き抜かれました。「わたしが『らい』に冒されたのは、わたしが罪を犯したからではありません。両親が罪を犯したからでもありません。ただ神の み業が わたしに現れるためです。救われた わたしを見てください。わたしに現れた神さまの み業を見てください」と生き続けられた姿に、わたしは今も、励ましを受けています。
只今から聖餐に与ります。聖餐は、主イエスがわたしどもを生かすために十字架で死んでくださり、甦ってくださって、今日も、わたしどもと共に生きておられ、世を照らす まことの光でいてくださることを信じ、洗礼を受けるならば、誰でも、与ることができます。時に信仰が弱くなる日があります。光を見失う日がある。それでも、聖餐に与ることで、イエスさまの十字架の死と甦りにより、因果応報の鎖から解き放たれて、主イエスに繋がっている喜びと望みを新たにしていただけます。神さまの確かさが、わたしどもの信仰を、新たにしてくださるのです。
新しい一年、何があるかはわかりません。けれども、何が起ころうとも、主がわたしどもを み業の中に用いようとしてくださっております。命の限り、喜んで主に仕える日々を送っていきたいと願います。

<祈祷>
天の父なる御神、心騒ぐ新年の幕開けとなりました。主よ、どんなことがあっても、あなたの救いを信じ、あなたに従い続ける者としてください。辛い日も、心が折れる日も、主の十字架の死と甦りの命によって救われた者として、あなたの ご栄光を現す者として、用いてください。主イエス・キリストの み名に よって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、被災地で寒さと、緊張と、想像を絶する深い嘆きの中に人たちを、どうか、あなたの おそば近くに招き寄せ、慰めてください。わたしどもも、成し得る限りの祈りと支援をもって、支え続けることができますように。能登伝道のために、あなたがお建てくださった輪島教会、七尾教会、羽咋(はくい)教会、富来(とぎ)伝道所の歩みをお支えください。主よ、被災された教会、教会に連なる兄弟姉妹に寄り添ってくださり、あなたの愛と憐みによって、深く傷ついた心を癒してくださいますように。世界では、激しい殺し合いが続いております。わたしどもを正しい道に導いてください。因果応報の論理に立つ傍観者ではなく、寄り添い、執り成しを祈り続ける者としてください。この新年礼拝にも、病のため、仕事のため、心が塞いでいるため、やむなく欠席している兄弟姉妹があります。主よ、それぞれの場で祈りをささげている者に、祝福と平安を与えてください。新しい年も、あなたから与えられた賜物を存分に用いて、あなたの栄光を証しする者としてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年12月31日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第12章1節~4節、新約 ヨハネによる福音書 第8章48節~59節
説教題:「死に勝つことば」
讃美歌:546、120、121、161、540

2023年、今年最後の主の日が、大晦日と重なりました。クリスマスの喜びの中で今日の朝を迎え、皆さんと一緒に礼拝を守り、新しい年へと向かうことが許された恵みを、主に感謝します。
先週は、わたしにとりまして東村山教会で迎える9度目のクリスマス礼拝でした。出席してくださった大学時代の先輩から、「田村が痩せてしまったので、別な牧師が説教していると思った」と真顔で感想を言われました。学生時代は顔がパンパンだったので、もっともなことですが、歳月を重ね、いつの間にか人生の折り返し点を過ぎたのだなぁと思わされました。皆さんから、「56歳ならまだ若い」と言われてしまいそうですが、最近、「えっ?」と思うことが多くなりました。同世代、あるいは若い世代の中にも、突然亡くなったと知らせを受けたり、病を患い、入院中の牧師がいたりします。両親も80代に入り、これまでと同じようにはいかないことが増えてまいりました。年を重ねていくことに対する不安は、その立場になってみて初めてわかることが多いと思わされております。では、若い人たちは、そのような憂いや不安とは無縁かと言えば、そんなことはないでしょう。強い者が弱い者を蹂躙(じゅうりん)する社会で、傷つかないように生きていくには、ときに心を押し殺さなければ、とてもやって行けるものではありません。感じやすい心の持ち主であればあるほど、病気になってしまうような世の中です。ひとつ間違えば、ぱっくりと大きな口を開けている死という穴の中へ落ちてしまいかねません。
若かろうが、年を重ねていようが、わたしどもは、丸腰で死に対抗することは不可能です。丸腰では、負けは目に見えています。 死に飲み込まれてしまう。恐ろしくて、不安で、心を病んでしまったり、「どうせ死ぬのだから」と、やぶれかぶれになってしまう。
しかし、神さまは、わたしどもに闘うための武具を与えてくださいました。それも条件なしで。今朝の み言葉でユダヤ人たちが胸を張って、誇っているように、アブラハムの血筋だから与えられるとか、善い行いを積み重ねたから与えられる、というのではありません。まったくの無条件です。では、その武具とは何でしょうか。
わたしどもがヨハネによる福音書を読み始めたのは、今年の1月22日の主の日でした。そして一年を終える今日、第8章を読み終えます。今日まで色々な み言葉を読んでまいりましたが、どんな み言葉を読むときにも、わたしどもの心に響いているのは、第1章1節の み言葉でした。「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」言語(げんご)の言(げん)という一(ひと)文字を用いて「ことば」と読みます。ヨハネ福音書は、いつも神と共に在り、神の中の燃えたぎるような愛であり、心であり、情熱であり、魂(たましい)であるような、神そのものともいえる存在を、「言(ことば)」と表現しました。そして、第1章14節で「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と記しました。
東村山にも住んでおられた島崎光正さんというキリスト者詩人の詩に、クリスマスをうたった「聖誕」という短い詩があります。「言(ことば)は/耐えられずに/形となり/地球への旅を急いでいた/約束の時は/ふるえ/ベツレヘムの夜更けに/嬰児(みどりご)となった言(ことば)は/ふと/花のように瞳(め)を開いていた/馬小屋の片隅で。」父なる神さまが、わたしどものありさまをご覧になって、神さまの中の愛、情熱、魂と言ってもよい存在であられる「言(ことば)」が、どうにもこうにも耐え切れず、形をもって、命をもって、人となって、父なる神さまの中から飛び出し、地上にいらしてくださった。弱く、小さな赤ちゃんの姿で、 生まれてくださった。それが、わたしどもの主、イエス・キリストです。そしてこの「言(ことば)」、肉体をとって人となられた「言(ことば)」、キリストこそが、わたしどものための武具なのです。
その主イエスが、第8章51節で、「はっきり言っておく」と前置きしておっしゃいました。この「はっきり言っておく」との み言葉は、これまで何度か話したように、「アーメン、アーメン」という言葉です。「わたしが今から語ることは、まことにまことに、本当のこと!だからよく聴き、信じて欲しい」と前置きした上で、おっしゃったのです。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
ここで、「わたしの言葉を守る」の「守る」と訳された元の言葉は、「見張る」、「番をする」、「(見張って)守る、保持する」という意味の言葉です。日本語だと、「言葉を守る」というと、「いいつけを守る」という意味にとりがちです。けれども、もとは、「見る」という意味が大きく、「よく見て守る」、「見守る」、「大事にする」。そういう成り立ちの言葉なのです。神さまそのものであられる「言(ことば)」、すなわち主イエスを見る。見続ける。見張りをするように、そばで目を離さない。主イエスから離れない。片時も離れない。そういう意味なのです。
この「守る」という言葉は、55節後半の「わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。」の「守っている」と同じ言葉です。神さまの愛そのもの、お心そのものであられ、神さまの中から飛び出してわたしどものもとへ来てくださった「言(ことば)」、すなわち主イエスが、父なる神さまをいつも見ておられるように、「あなたたちも、わたしから決して目を離さずにいなさい。どんなときも、見続けていなさい。」と主はおっしゃっています。
もう一度、51節を読みます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」「死ぬことがない」という言葉は、52節でユダヤ人たちが言い換えているように「その人は決して死を味わうことがない」ということでもあり、「死を経験しない」とも訳すことができます。これは、わたしどもが死ななくて済むということではありません。わたしどもは必ず、死にます。しかしそのとき、死んでいながら死を味わっていない、死を経験しない。主イエスは、わたしどもにそのように約束されたのです。
ふるくから、多くの人々に愛誦されてきた詩編 第23篇はうたいます。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。(23:1~4)」また、キリスト者を徹底的に迫害する者から、喜んで福音を宣べ伝える者へと変えられ、異邦人伝道に残りの生涯をささげたパウロは、ローマの信徒たちに向けて手紙を書き送りました。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他(た)のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマの信徒への手紙8:38~39)」命をもち、肉体をもって世に来てくださった「言(ことば)」であり、神そのものであられる主が、死ぬときであっても共にいてくださることを喜び、証しする力強い聖書の言葉です。
主イエスは、ユダヤ人たちに、こう言われました。58節。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」「わたしはある」とは、神さまがご自分をお示しになるときに使われる表現です。神さまが、旧約聖書において「わたしはある」と言われたように、主イエスも、まことの神として「わたしはある」とおっしゃったのです。主イエスは、ユダヤ人たちが大切にしている先祖アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」と言われました。何と神さまが来てくださったのですから、喜ぶべきところです。しかし、ユダヤ人たちは、石を取り、主イエスに投げつけて、殺そうとしました。自分たちの正義によって、神を裁いて、殺そうとしたのです。しかし、主イエスは、このときは身を隠して、神殿の境内から出て行かれました。
主イエスは、ご自分の命が惜しくて、身を隠されたのではありません。父なる神さまをいつも見ておられる主イエスは、神さまの み心に従い、神さまが定められた時が来るのを待つために、身を隠されたのです。主イエスは、その後、群衆の「殺せ。殺せ。十字架につけろ。(19:15)」という叫びの中で死んでゆかれました。神の言(ことば)であられる主イエスが、神ご自身が、死を味わってくださったのです。けれども主イエスは、死んだままでおられたのではなく、甦られました。そして、「わたしを見なさい。わたしを見続けなさい。わたしをあなたの中に受け入れて、いつもわたしから目を離さず、わたしから片時も離れずにいて欲しい!」とおっしゃっています。主イエスを受け入れて、主イエスから片時も離れず一緒にいるから、わたしどもは死ぬときでも、青草の茂っている原っぱにいるような心持ちでいられる。おいしい水が、こんこんと湧いている泉のほとりにいるように、安心していられる。死も、わたしどもから主を引き離すことはできません。主イエスが、わたしどもを守っていてくださいます。
今年のクリスマスも、多くの皆さんからクリスマスカードが届きました。その中に、母教会の信仰の大先輩のカードがありました。こう書かれていました。「クリスマスおめでとうございます。主の光の中を歩ませて頂き/本当に幸せでございます。皆様お健やかでお過ごしでしょうか/今年一年 私は 原発性胆汁性肝硬変、副腎不全、十二月になって転倒し/病人生活をしております/でも楽しい毎日を感謝しております」。
父なる神から賜った、最強の武具に守られて生きる強さに溢れるメッセージと思いました。この方が立派なのではありません。主イエスがいつも共にいてくださる。その真実を見つめている。わたしと共に、わたしの代わりに、病気と、死への恐れと闘っていてくださる。しかも、すでに勝利して、甦っていてくださる。そのお姿から目を離さずに、じっと見つめている。ただそれだけです。
新年が始まります。「言(ことば)」が耐え切れずに世に来てくださった、クリスマスの喜びの中で、主イエスから片時も目を離さず、主と共に、新しい年の歩みを踏み出していきたいと願います。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる御神、この一年も み言葉を与えてくださり感謝いたします。たとえ死の陰の谷を行くときも、わたしどもは恐れません。主イエスがわたしどもと一緒にいてくださるからです。どうか、どんなときも主イエスから離れることのないようにしてください。生涯、あなたの恵みから目をそらさずに歩むことができますように、守り導いてください。主イエス・キリストの み名によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、この一年も、様々な理由によって一度も礼拝に出席することのできなかった仲間がおります。仕事のため、肉体の弱さのため、信仰が揺らいでいるため、礼拝から遠ざかっている仲間を深く憐れんでください。共にいてくださる主イエスを見失うことがありませんように。礼拝の喜びの中へと導いてください。主よ、今日も病と闘っている者がおります。リハビリに励んでいる者がおります。新しい環境に馴染もうと努力している者がおります。どうか、どこにあっても、真の神であられる主イエス・キリストが共におられることを心に刻み、主と共に歩む喜びを日々、お与えください。主よ、この一年、多くの災いがあり、争いがあり、たくさんの命が失われ続けています。日本でも、日々の生活に困窮している者が多くいます。どうか、途方に暮れている者に望みを与え、すべての者に、互いに赦し合い、支え合う心を与えてください。あなたと共にある平安の中へ導いてください。今日は、佐藤 晏神学生、大阪教会で説教者として立てられております。佐藤神学生はじめ、献身の志を与えられた者たちが、あなたのお召しを信じ、望みをもって神学の研鑽に励むことができますよう守り、導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年12月24日(日)日本基督教団 東村山教会 クリスマス讃美夕礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:新約聖書 マタイによる福音書 第1章18節~25節
説教題:「神は我々と共におられる」    
讃美歌:100、103、108、112

今夜は、クリスマス讃美夕礼拝へようこそおいでくださいました。皆さんとご一緒に、神さまの み子 主イエスがお生まれくださったクリスマスを祝うことが許された恵みを主に感謝いたします。
マタイによる福音書は、「イエス・キリストの誕生の次第」をこのように語り始めます。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」ヨセフと婚約中のマリアが、神の力によって妊娠したこと。妊娠を知ったヨセフは、ひそかにマリアと縁を切ろうと決心したことが、淡々と書かれています。
マリアは、少女のような年齢であったと言われています。ヨセフもマリアより年上であったと思いますが、まだ若かったことでしょう。当時、結婚の約束をしているにもかかわらず、婚約者以外の子を妊娠することは、石で打ち殺されてしまうほどの重罪とされていました。ヨセフは、苦しんだことでしょう。誰にも知られないように、縁を切ってしまえば、マリアの命を守ることができると思ったかもしれません。
縁を切るしかないと思い詰めていたヨセフに、主の天使が夢に現れて語りかけました。「あなたは、この娘と離縁してはならない。恐れず妻として迎えなさい。そして、産まれた子を、自分の子どもとして引き受けなさい。マリアのお腹の あかんぼうは、神の力によって宿った。名前は、『イエス』。忘れてはならない。神があなたに託された子は、すべての人を罪から救う者となるのだ。」
ヨセフが眠りから覚めると、脂汗をかいていたかもしれません。天使の言葉に戸惑い、理解することができなかったかもしれない。それでもヨセフは、天使に命じられた通り、マリアを妻に迎えました。マリアが産む子どもは、神さまから託されたと信じ、自分の子どもと して受け入れたのです。そして、天使が命じた通り、生まれた子を「イエス」と名付けました。ヨセフは、神さまの み心を、ただ信じて、受け入れたのです。
そして、このあとマタイによる福音書のクリスマス物語において、大切な み言葉が続きます。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。(1:22~23)」
このように、マタイによる福音書は、その冒頭に、主イエスの名が「インマヌエルと呼ばれる」と記し、さらに丁寧に、その言葉の意味は、「『神は我々と共におられる』という意味である。」と記しました。それだけではありません。福音書のいちばん最後。締めくくりの言葉にも同じ言葉が記されているのです。それも、今度は、主イエスの約束の お言葉として記されています。主イエスはおっしゃいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(28:20)」
もしかすると、筆者であるマタイは、このただ一つの真実を、何とかして伝えたいと願い、福音書を記したのかもしれません。どんなときも神さまは、そして主イエスは、わたしどもと共におられる。
わたしどもは、今はこうして厳(おごそ)かな気持ちでロウソクの光をみつめ、共に礼拝をささげています。それでも、礼拝が終われば、それぞれの生活の場へと戻っていく。日々の歩みにおいて、強烈な孤独を感じる日があるかもしれません。ヨセフのように、「どうしたらよいのか」ともがき、苦しむ日があるかもしれません。誰にも相談できない悩みを抱え、「いっそこのまま死んでしまいたい」と思う日もあるかもしれない。しかし、どのようなときであっても、わたしどもの身代わりとなって十字架の上で命を捨ててくださったほどにわたしどもを愛しておられる主イエスが、約束してくださいました。ご自分の命と引き換えに、約束を確かなものとしてくださったのです。「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたと共にいる。神は、いつでも、いつまでも、あなたと共にいてくださる。」
「世の終わりまで」です。わたしどもが地上の命を終えるときも、終えたのちも、わたしどもはひとりではないのです。この真実を、わたしどもひとりひとりが受け入れ、主が共にいてくださる平安の中で生きることができますように。マリアのように、ヨセフのように、クリスマスに生まれてくださった幼子(おさなご)主イエス・キリストを、ひとりひとりの心に、お迎えすることができますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、闇に閉ざされてしまったと思うときも、どんなときも、世の終わりの日まで、あなたは、わたしどもと共にいてくださいますから感謝いたします。この恵みを忘れず、望みをもって歩む者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

2023年12月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第9章5節~6節、新約 ルカによる福音書 第2章8節~20節
説教題:「キリストの平和」
讃美歌:546、102、106、Ⅱ-1、114、539

世界で最初のクリスマスの夜。ベツレヘムという小さな町の近郊の野原では、羊飼たちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。羊飼いという仕事は、皆が休んでいる、寒く、真っ暗な夜中でも、羊の群れの番をしなければなりません。誰もが、「できることならやりたくない」と考える、厳しい仕事でした。しかし、神さまは、そのような羊飼いたちに、天使を遣わし、ほかの誰よりも早く、救い主(ぬし)誕生のニュースを知らせました。突然、天からの眩(まばゆ)いばかりの光が、暗闇の中にいた羊飼いたちを照らし、天使が現れて言いました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主が お生まれになった。この方こそ主メシアである。(2:10~11)」
そして、天から ぞくぞくと天使たちが降(くだ)って来て、神の栄光を賛美したのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心(みこころ)に適(かな)う人にあれ。(2:14)」。この賛美は、「天使の歌、グローリア・イン・エクセルシス」と言われ、世界中で賛美されるようになりました。クリスマスを祝った最初の讃美歌です。物凄い景色であったことでしょう。さきほど、わたしどもも「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」と賛美し、クリスマスの喜びが礼拝堂に響きましたが、その何万倍、何億倍もの爆発的な喜びが、天からこぼれ落ちて来たような大合唱を思い浮べると、ドキドキします。
今日はルカによる福音書とともに、旧約聖書 イザヤ書 第9章の み言葉も朗読していただきました。預言者イザヤによって語られた神さまの約束です。
「ひとりの みどりごが わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子が わたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。(9:5~6)」  
この預言にあるように、「平和の王として、救い主が与えられる。」という幻の実現は、国を持たず、他国に支配され、散らばったユダヤの人々にとって、切実な祈りでした。その祈りが、今、実現したと、天使は羊飼いたちに告げたのです。「喜びなさい。平和の王があなたがたのために生まれた。この方こそ、あなたがたが待ち焦がれていた救い主です。」羊飼いたちは、大喜びで主イエスのお生まれになった馬小屋を目指して出発したのです。
平和の王は確かにお生まれになりました。ところが、どうしたことでしょう。それから2千年以上を経た今も、争いは絶えることなく、主イエスがお生まれになったベツレヘムから僅か70キロほどの距離にある「ガザ地区」では日々、悲惨な戦闘が繰り広げられています。先日、ニュース映像が目に飛び込んで来たとき、胸が潰されるような心もちになり、「何で、こんなことになってしまったのか!」と叫びそうになりました。ガザ地区で生活している少年が「お父さんが死んじゃった。お母さんも死んじゃった。お兄ちゃんも死んじゃった。」とカメラに向かって泣き叫んでいたのです。
今、暖房の効いた会堂で、礼拝をささげながら、「あの少年は今、どうしているのか?食べるものも、飲むものも手に入らない人々はどうしているのか?」考えずにはおれません。ガザ地区だけでなく、世界の至るところで、強い者は武力で相手を脅(おど)し、暴力の応酬は止みません。日本とて、例外ではありません。平和憲法などまるで無視。とうとう武器の輸出が可能になると報じられています。現実に、絶望しそうになります。平和なんて所詮、幻にすぎないのではないかと、わたしどもの心は闇に覆われてしまう。
しかしです。主イエスは確かに、生まれてくださいました。憎み合い、殺し合う世界に平和の王として、救い主として、神が お遣わしくださったのです。人間は、救い主を喜んで迎えるどころか、受け入れることを拒みました。宿屋には臨月の母マリアが休む場所はなく、ようやく見つけた場所は、粗末な家畜小屋でした。貧しく、希望の見えない生活を強いられていた羊飼いたち以外には、救い主の到来を歓迎する者はいなかったのです。誰も見向きもしなかった。それどころか、ついには、神が遣わされた救い主、平和の王を、十字架につけて殺してしまいました。そして今も、わたしども人間は、救い主をひとりひとりの心へお迎えすることより、それぞれの正義によって相手を裁き、敵対する者を殺すことに夢中になっているのです。しかし、だからこそ、今こそわたしどもは、毎年の恒例行事としてクリスマスを祝うのではなく、本気で、心から平和を祈りつつ、わたしどもひとりひとりの魂の内に、平和の王であられる主イエスを、お迎えしたいのです。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」という天使の歌は、昔から様々な解釈がなされてまいりました。ひとつの解釈は、「天の神さまに栄光があるように。地に生きる善意の人々に平和があるように」と、人々の行い、善い業(わざ)を強調する読み方です。「神さまに喜ばれる生き方、善意をもって生きているならば、平和が与えられる。」と読む。しかし、それでは、いったい誰が救われるでしょうか。人間は、神から遣わされて来た救い主を歓迎しないどころか、殺してしまったのです。そして、主イエスがお生まれになってから2千年も経(た)つのに、未(いま)だに互いに殺し合っている。「紛争地」だけの問題ではありません。わたしどもの心はどうでしょう?ひとを傷つけたことのない人などいるでしょうか。自分は正しいと信じ、「あんな人いなければいいのに」と、ひとを裁く思いに囚われてしまう。あるいは、自分を他者と引き比べ、一喜一憂しては、自慢したり、卑屈になったり。そんなふうに、わたしどもはいつも何かを恐れ、自分を守るためにひとを傷つけたり、あるいはまた自分を傷つけたりしているのではないでしょうか。
それでは、「御心(みこころ)に適(かな)う人」とは、どんな人なのでしょうか。神さまは、神さまに背を向け、互いに裁き合い、傷つけ合っているわたしどもを「救いたい」、ただその一心で、大切な独り子 主イエスをわたしどものところへ遣わしてくださいました。そして、このイエスを、「どうか、ひとりひとりの平和の王として、受け入れて欲しい」と願っておられます。この、神さまがわたしどもに寄せてくださる好意、神さまの愛こそ「御心」です。わたしどもは、神さまの愛を受けるのに ふさわしくない者です。それにもかかわらず、神の方で「善し」としていてくださる。「赦す」とおっしゃってくださるのです。み子の十字架の死と引き換えに。それほどの神の愛、神の ご好意を、素直に「ありがとうございます。」と、貧しく、何も持たない羊飼いたちのように、受け入れる者が、「御心に適う人」なのです。平和の王 主イエスを心にお迎えすれば、主イエスが導いてくださいます。
主イエスは、神さまの独り子として、神さまのふところにおられたのに、そこを飛び出して、十字架への道を歩み出すために、誰よりも低く、弱く、小さい無力な乳飲み子となって、馬小屋で生まれてくださいました。そのお姿を見つけることができたのは、世間で最も弱い立場にあった羊飼いたちだけでした。そして、主イエスは、地上におられた間、貧しい人々、病に苦しんでいる人々、社会からつまはじきにされている人々と共に歩んでくださり、立ち上がらせてくださり、敵対する者に対してすら、「わたしは、神さまとあなたがたとを和解させるために遣わされた平和の使者なのだから信じて欲しい、受け入れて欲しい。」と道を示し続けてくださいました。その主イエスを、わたしどもは拒み続け、十字架につけて殺してしまったのです。しかしそれでもなお、神さまはわたしどもを お見捨てになっていない。「わたしの愛の中へ帰って来て欲しい!」と、待っておられます。
神さまは、わたしどもの究極の罪である主イエスの十字架を、わたしどものための赦しの印(しるし)に代えておしまいになりました。人間にはとても理解できない奇跡です。神さまは、この十字架による赦しを信じて欲しい、わたしの愛を信じて欲しいと、待っていてくださるのです。わたしどもが、ニュース映像を胸が潰れる思いで眺めているよりも、もっともっと深く、腸(はらわた)が ちぎれるほどの痛みを持って待っていてくださいます。
この後、聖餐に与ります。先ほど、洗礼を受けた姉妹にとっては、生まれて初めての聖餐の祝いです。わたしどもは、聖餐にふさわしいよい行いをしてきたから、これに与ることができるのではありません。その反対。神の愛を信じることができず、互いに裁き合い、傷つけ合い、望みを失っていたわたしどもを、神さまは愛してくださって、主イエスを遣わしてくださいました。わたしどもの背きや過(あやま)ちをすべてわたしどもの代わりに背負い、十字架に架かってくださった主イエスを、「わたしの王さまになってください。わたしの中に住み、導き、守り、救ってください」と、ひとりひとりの心にお迎えすることだけが、聖餐を受けるために必要な、ただひとつの資格なのです。
今日は、多くの皆さんがクリスマス礼拝に招かれました。とっても嬉しいです。主イエスは待っておられます。「信じます」と主イエスを迎えれば、どんなときも、永遠に、主イエスは、わたしどもと共に生きてくださいます。平和の王として、わたしどもを必ず良い方向に導き、わたしどものことを「平和の使者」として用いてくださいます。クリスマスに、無力な赤ちゃんの姿で生まれてくださった主イエスを、喜んでお迎えすることができますように。

<祈祷>
天の父なる御神、わたしどもに主イエスを与えてくださいました恵みを感謝いたします。すべてのひとに、クリスマスの出来事が、「このわたしのための恵みなのだ。」と信じる心を お与えください。主イエスは、わたしどものために貧しさの中に生まれ、追い出され、十字架に架けられることを受け入れてくださったのですから、裁き合い、傷つけ合うのではなく、イエスさまを わたしの平和の王として喜んで受け入れ、主イエスから賜わる平和を携え、周りの人々に届けることができますように。主の平和が世界を包み、互いに大切にし合うことができますように。主イエス・キリストの お名前によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、わたしどもの群れに新たに加えられた一人の姉妹と二人の幼子(おさなご)たちの歩みを祝福し、溢れるほどに聖霊を注いでください。クリスマスの喜びに包まれているわたしどもの群れの中には、今日も病と闘っている者、心身の痛みを抱えている者がおります。それぞれの場に、クリスマスの喜びが届きますように。インマヌエルの み子がどんなときも共におられることを喜び、与えられる一日、一日を平安のうちに歩む者としてください。主よ、平和の王であられる み子をわたしどもの内にお迎えし、今も続いている悲惨な争いがなくなり、皆がそれぞれの存在を認め合う世界をつくっていくことができますように。主の み国が来ますように。今日、クリスマス礼拝に招かれたすべての者が、いつの日か洗礼を受け、罪の赦し、永遠の命、聖餐の祝いに与ることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメ

2023年12月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第32章1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第8章39節~47節
説教題:「神か、悪魔か。」
讃美歌:546、96、Ⅱ-112、387、545B

来週の主日は、いよいよクリスマス礼拝をささげます。この季節になりますと、なぜか、初めてこちらの礼拝堂に足を踏み入れた日のことを思い起こします。わたしが、東京神学大学の学部4年生になったとき、クラス担任は芳賀先生でした。毎年、年度始めの4月に、クラス集会が行われるのですが、その年の会場は、献堂直後の東村山教会でした。建ったばかりの美しい会堂に座ると、初めての場所なのに何だか懐かしいような、心落ち着く気持ちになったことを覚えています。
あの日から、もう17年が経とうとしています。わたしが、こちらへ赴任して、皆さんと一緒に礼拝をまもるようになってからは、9回目のクリスマスとなりますが、「礼拝から始まり、また礼拝へと繋いでいく歩み」を、神さまの守りと導きのうちにここまで続けることが許され、感謝なことだなあと、しみじみと、思います。
今朝、わたしどもに与えられたヨハネ福音書の み言葉は、先週に続く、主イエスとユダヤ人たちとの激しい論争の場面です。主の言葉が熱を帯びて、響いています。「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。(43節)」厳しい言葉です。けれども、同時に、何としても分かって欲しい、という、熱い呼びかけです。礼拝から礼拝へと続く歩みを大切にしてきて、ある意味においては当然のように、今年もクリスマスを迎えようとしているわたしどもに今朝、備えられた主イエスのメッセージを、耳をすまし、心を静かにして、聴き取っていきたいと願います。
ユダヤの人たちにとって、アブラハムという人物は民族のご先祖さまです。それも、ただ先祖というだけでなく、神に選ばれた特別な人物でありましたから、その「アブラハムの子孫である」ということは、信仰において、特別な誇りでありました。「自分たちは異邦人とは違う。神によって特別に選ばれたアブラハムの信仰を受け継いだ、純血の、混じりっけなしの、直系の子孫である。」その誇りの上に立っていたのです。
けれども、そのような彼らに向かい、主イエスは、「アブラハムの子だと言うのならば、アブラハムと同じように生きるはずだ」とおっしゃいました。このとき、主イエスの心にあったのは、創世記 第18章に記されている、アブラハムが主の使いたちを丁寧にもてなし、そのことのゆえに祝福を受け、年老いた不妊の妻サラとの間に息子が授けられた出来事だったかもしれません。主イエスは問うておられます。「アブラハムは、神から派遣された主の使いたちを受け入れた。あなたがたがアブラハムの子だと言うのであれば、どうして、わたしを受け入れないのか?」
ユダヤ人たちは反論しました。41節後半。「わたしたちは姦淫(かんいん)によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」。ここで彼らは、「アブラハムが父だ」と言った言葉を、「父は神だ」と言い換えています。これは言い間違いではありません。アブラハムは神を父とあがめ、どんなときも信頼して神に従って生きました。つまり、「アブラハムを父として生きる」ことは、「神を父として生きる」こととイコールなのです。父なる神さまも、アブラハムを愛し、その子孫たちを愛して、祝福なさいました。そのことを、主イエスもわかっておられました。わかっておられたからこそ、「本来ならば神の子である あなたがたなのに、なぜ、神の子ではなく、悪魔の子になってしまったのか!」と激しく、ほんとうに激しく嘆きながら、問うておられるのです。
主イエスは おっしゃいました。42節。「神が あなたたちの父であれば、あなたたちは わたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神が わたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。」わたしどもは今、アドヴェントの時を過ごしております。神の独り子であられる主イエス・キリストは、どなたによって世に遣わされたのか?父なる神さまによってです。よそ見ばかりで、すぐに神さまの眼差しを忘れてしまうわたしどもを、神さまは愛してくださいました。愛して<愛して<どうしようもないほどに大事に思ってくださって、「このまま、あなたがたが悪魔の手下になってしまうのを見たくない。」その一心で、主イエスを わたしどもに遣わしてくださいました。だから主イエスは、求めておられるのです。「あなたがたが本当に、神を父として生きる神の子ならば、神のもとから遣わされたわたしを、あなたがたが愛さないはずがないではないか。素直に、わたしを受け入れて欲しい。わたしを信じて欲しい。」
ユダヤ人たちは「われわれは、アブラハムの子孫、神の子として生きる者。」そう固く信じていました。その意味で、実は彼らユダヤ人たちとわたしどもは紙一重の存在かもしれません。ひとつ間違うと、彼らのような間違いを犯しかねない。もしも、わたしどもの心の片隅に、「我々は礼拝から礼拝へ。礼拝中心の生活を大事にしている。それクリスマスだ!と言って、クリスマスの本当の真味をよく考えもしないで浮かれている街の人々とは違う。」そんな思いがあるなら、そのように「わたしは義(ただ)しい者」と誇る心は、真理(しんり)を必要としていません。神さまによって清めていただくまでもなく、自分は他者を裁くことができるほど清い者だと思っているからです。神さまの真理(まこと)を必要としていないのです。神の真理(まこと)がなくても、自分は義(ただ)しいと思い込んでしまっているから、他者を裁くのです。主イエスは、「それは、悪魔の子としての生き方である」とおっしゃいます。
それでも神さまは、そのようにフラフラと悪魔の方へついて行きそうになる わたしどもだからこそ、放っておくことができず、主イエス・キリストを お遣わしくださったのです。神さまの真理(まこと)を求めることを忘れ、「わたしこそ正義。」とすぐに勘違いするわたしどもに、「どうして、神の愛がわからないのか。どうして、悪魔についていこうとするのか!」と、声をからして、呼び続けてくださるのです。
先週、ある教会員の病床を訪ねました。兄弟は今、口から食事を摂ることが難しい状況ですが、わたしの到着を今か今かと待っておられたようで、喜びを全身で表現してくださいました。それだけで、涙が溢れてきました。「院長先生の許可を得ていますから、ここで久し振りに礼拝をささげましょう」と伝えると、兄弟は繰り返し、「嬉しいです。嬉しいです。」と喜びの声をあげてくださいました。いくつかの み言葉を読み、短い説教、祈りのあとで、共に「主の祈り」を祈り、讃美歌を歌いました。ベッドに横たわりながらでしたが、しっかりした お声でした。病室なのに、まるで一緒に礼拝堂に座っているような心持ちでした。「ああ、この方はこんなにも教会を愛し、礼拝を心底(しんそこ)求めておられる。」そう思いました。クリスマスは目の前なのに、大好きな教会に行けない。行きたいのに行くことができない。心の底から、キリストの眼差しを求めておられる。渇望しておられる。その心が、ひしひしと伝わってまいりました。そして、主イエスが、わたしどもに求めておられるのも、このような「渇いた心」、「打ち砕かれた心」だけなのだと、つくづく思い知りました。
わたしどもの教会では、「主の日の礼拝を霊と真理(まこと)とをもって、わたしたちの主にささげます」と言って礼拝を始めますが、霊も、真理(まこと)も、わたしどもが用意し、携えていくものではありません。霊は、聖霊なる神さまであり、真理(まこと)は、神さまが与えてくださった み子主イエスです。父なる神さまが備えてくださった霊と真理(まこと)によって清めていただいて、神さまの み前に、進み出る。それが礼拝です。そして、そのときに、わたしどもに求められているものは、渇き、打ち砕かれた心だけです。そこにおいてのみ、わたしどもは赦しの み言葉を聴くことができるのです。
自分の正しさの上に立ち、他者の過ちを裁くとき、わたしどもは悪魔の子どもになっています。神さまの子どもでなくなっている。それでも、手遅れということはありません。何度でも、「神さま、ごめんなさい。これからも『父よ』と呼ばせてください」と祈る。すると、主イエスのもとに帰る道が既に備えられていることに気がつくのです。主イエスは、「わたしを信じるなら、十字架に架かり死んであげよう」とおっしゃっているのではありません。すでに主イエスは、わたしどもの代わりに、十字架に架かって死んでくださっています。三日目の朝、甦ってくださっています。悪魔と闘い、勝利してくださっているのです。神さま、主イエスの愛は、わたしどもの誠意や、行いの代償として与えられるようなものではないのです。神さまは、主イエスは、わたしどもが悪魔の子の歩みをしているにもかかわらず、愛していてくださるのです。わたしどもはただ、それほどの神の愛、主イエスの愛を、「ありがとうございます」と受け入れる。悪魔の誘惑に負けそうなとき、負けてしまったとき、「主よ、わたしの中に住み続けてください。主よ、信仰の弱いわたしを聖霊によって支え、あなたの真理(まこと)によって清めてください。」と何度も繰り返し、祈り続ければよいのです。
この後、讃美歌387番を賛美いたします。2節は、このように賛美します。「力の もとなる/主ともにませば、悪魔のたくみも/などかは おそれん、勝利(かち)は つねに/主の御手(みて)にあり。」シンプルながら力強いメロディーにのって、皆さんと主を賛美したい。たとえ、悪魔の誘惑に負けそうになっても、主イエスにすがりつき、「主よ、助けてください!」と祈る。父なる神さまから離れ、ふらふらと悪魔についていきそうなときこそ、主を高らかに賛美したいと思います。讃美歌を開くと、関連する聖句が記されています。387番の関連聖句の一つとして、ヤコブの手紙 第4章7節とありました。最後に、ヤコブ書 第4章の み言葉を朗読いたします。「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔は あなたがたから逃げて行きます。」

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの計り知れないほどの深い愛のゆえに、大切な み子を贈ってくださり、ありがとうございます。み子を信じる心を与えてくださった恵みを、ありがとうございます。それにもかかわらず、悪魔の誘惑に負け、自らの業を誇り、思い上がることがあります。反対に、自分を他者と比較し、「自分なんて」と呟くこともあります。そのようなときこそ、悪魔に勝利された十字架と甦りの主イエスを思い起こすことができますよう導いてください。たとえ試練に襲われる日があっても、不安の中にあっても、どんなときも、インマヌエルの主イエスが共におられることを忘れることがないようにしてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、今日も病と闘っている兄弟姉妹がおります。礼拝を慕いつつ、それぞれの場で主の日を祈りつつ過ごしている者がおります。主よ、どこにあってもあなたが共におられることを忘れず、あなたの子どもとして、平安のうちに歩むことができますように。主よ、来週のクリスマス礼拝では、姉妹の洗礼式と子どもたちの小児洗礼式を執り行います。どうかクリスマス礼拝にひとりでも多くの者を招いてください。み心ならば、芳賀 力先生も一緒に 主の御降誕を祝い、洗礼を受ける者たちと喜びを分かち合うことができますよう導いてください。今、この時も世界の至るところで悲惨な争いが続いております。主よ、諦めることなく、「主の み国が来ますように」と祈り続ける者としてください。望みを失い、さまよっている者たちに溢れるほどに聖霊を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年12月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第51篇12節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第8章31節~38節
説教題:「自由をもたらす真理」
讃美歌:546、Ⅱ-96、265、267、545A、Ⅱ-167

4回の日曜日を、礼拝を繰り返しつつ、クリスマスを迎える備えをいたしますアドヴェント。今日は、第2アドヴェントです。アドヴェントは、主イエスの ご降誕の祝いの日、クリスマスまでの備えの季節ですが、もう一つ、伝統的な暦を守っている教会で大切にされているのは、主が再び来られる、再臨の主イエスをお迎えするための備えの期間、という理解です。自分自身を顧みて、主をお迎えするための備えができているだろうか?そのように自分自身の生活を整えつつクリスマスを待ち、24日の夜にクリスマスの前祝い、そして25日、26日と二日に亘(わた)ってクリスマスを祝い、その喜びが新年へと受け継がれていくのだそうです。わたしどもの教会は、そこまで厳格にそういった伝統的な暦を守ってはいませんが、その心は大切にしながら、過ごしていきたいと思います。
今朝、わたしどもに与えられたヨハネ福音書 第8章31節以下の み言葉は、そのようにアドヴェントの日々を整えたいと願うわたしどもに、ただひとつの道を示す大切な み言葉です。31節。イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」主イエスの言葉の中にとどまり続ける。生涯、主の弟子として生き続ける。それは、具体的には、「主イエスよ、あなたをわたしの救い主と信じます。あなたの弟子となり、生涯、あなたと共に歩みます。」と信仰を告白し、洗礼を受け、主イエスの言葉に守られながら力をいただき、励まされ、導かれながら生きることです。主イエスは、「わたしと、わたしをあなたのもとに遣わした父なる神を信じて欲しい。」と、わたしどもを招いておられるのです。
そのうえで主は、続けておっしゃいました。32節。「あなたたちは真理を知り、真理は あなたたちを自由にする。」「わたしは、神さまを信じている。聖書もよく勉強して、生きる指針としたい。だけど、洗礼となると、縛られてしまうような、自由がないような気がして、遠慮したい。」そういう人は多くいます。けれども、主イエスは、「まったく逆だ」とおっしゃる。「洗礼によってわたしの中にとどまり続けるならば、あなたたちは自由だ」とおっしゃるのです。いったいどういうことか?主イエスの言葉を聞いたユダヤ人たちも同じ思いでした。
彼らは言いました。33節。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」彼らは、自分たちが何ものかにとらわれているなどとは思ってもいません。自分たちは奴隷ではない。誰からも束縛されていないと思っている わたしどももまた、この人たちと同じように、そのように思い込んでいるところがあります。しかし、本当にそうでしょうか?自由とは何でしょう。
キリストの弟子であるキリスト者の「自由」について、わたしどもの身近な生活の中で、子どもたちにもわかるように語られた言葉があります。教会にも関係しておられる方があります「友の会」や自由学園を創立した羽仁もと子先生が、学園の生徒たちに語った「靴を そろえてぬぐ自由」というものです。わたしどもは思います。靴を揃えてぬがなければならないことが、どうして自由なのか?むしろ束縛されて不自由なのではないか?そう思う。ではなぜなのでしょう。もちろん、履くときに不自由、ということもあります。けれども、この言葉の根っこにあることであり、また、わたしどもが自分自身を顧みて、つくづく感じずにはいられないのは、人間は、放っておけば、易きに流れてしまうということです。怠け心に支配され、簡単な方へ、楽な方へと流されてしまう。しかしそこで、「わたしは靴を揃えてぬぐ。断固として、怠け心と戦う。流されないように自由の旗をしっかり立て、イエスさまをただ一人の先生として、生きよう」と、羽仁先生は生徒を励ましたのです。「靴を揃えてぬぐ」などということは些細なことです。でも、そんな些細なことさえ怠け心に負けて疎かにしてしまうのが人間です。
わたしどもの心は弱いのです。叩かれれば、叩き返したくなる。それが自然な心の流れです。流れに身を任せる方が楽です。相手を赦すことの方が余程むずかしい。まして、主イエスが教えてくださったように敵を愛することなど、どうしてできるでしょう。あるいはまた、正しいと思うことでも周りの空気を読んで口をつぐんでしまう。せいぜい、匿名でつぶやく位が関の山です。長いものに巻かれてしまう。その方が楽なのです。自分は自由だと思い込んでいるわたしどもですが、実は、多くのものに縛られ、流されて生きている。そういうわたしどもに、主イエスはおっしゃるのです。「ここへおいで」と。「わたしの中へ飛び込み、留まり続けるなら、わたしがいつもあなたと共にある。あなたを守り、助け、導き、励ます。だから、あなたは自由なのだ」と。
主イエスは、自分たちは自由だと思い込んでいるユダヤ人たちに「はっきり言っておく」と念を押して、言われました。これは、「アーメン、アーメン。まことに、まことに。わたしが、これからあなたがたに語ることは本当に、本当に、真理である」という意味の言葉です。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。」主イエスはここで、「奴隷」と「子」を対比し、「何とかして、わかって欲しい」と、教えてくださっています。子どもであれば、いつまでも自由に家にいることができます。しかし、奴隷はいつまでもいられません。主人に売り飛ばされたらそれまでです。家とは、誰の家でしょう?父なる神さまの家です。神さまの子どもである主イエスは、いつまでも、永遠に、父の家におられるのです。
35節で、「いつまでも」と訳されているギリシア語は、「永遠に」という言葉です。父なる神さまの独り子であられる主イエス・キリストは、永遠に神の家におられる。父なる神と共におられる。けれどもそこで、主イエスは、「その恵みは、あなたにも開かれているのだ」と教えてくださっている。「わたしを信じ、わたしの招きに応え、わたしの懐に飛び込み、とどまりつづけるなら、わたしは喜んであなたを受け入れ、あなたを自由にする。わたしの十字架のゆえに、あなたも神の子となれる。罪に縛られることなく、真実に自由な神の子となれるのだ。」と約束してくださったのです。
しかし、主イエスの言葉は、次第に「嘆き」へと変わっていってしまいました。「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちは わたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」
最後38節の「ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」を読み、「おやっ?」と思います。38節前半の「わたしは父のもとで見たことを話している。」は、主イエスが「父」と呼んでいるので、父なる神さまを意味するのは間違いありません。けれども、38節後半の「父」がわからない。主が「あなたたちは父から聞いたことを行っている。」の「父」が神さまなら、ユダヤ人たちは悪いことはしていないことになる。では、「あなたたちの父」と言われているのは、いったい誰なのでしょう?答えは、来週読む み言葉へ続いていきます。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺(ごろ)しであって、真理をよりどころとしていない。」と続く。「あなたたちの父」は、「悪魔」だとおっしゃっているのです。
わたしどもは、主イエスの言葉の中にとどまっていないと、簡単に悪魔の誘惑に負けてしまいます。今朝は、ヨハネ福音書とあわせ詩編 第51篇を読みました。イスラエルの王ダビデによる、悔い改めの祈りです。神さまから選ばれ、民からも尊敬される王として君臨していたダビデでしたが、部下であるウリヤの妻バト・シェバの美貌にほだされ、夫の留守中に奪ってしまい、妊娠させた挙句、夫である部下を戦いの最前線へ送り、戦死させてしまいました。余談ですが、日本語の「ほだされる」という言葉、今では「情(じょう)にほだされる」という使い方くらいしかしないと思いますが、辞書を引くと、最初に、「身の自由を束縛される」と書かれていました。ダビデは、まさに悪魔の誘惑に からめとられ、身の自由を束縛されてしまったのです。自分の罪の恐ろしさを知ったダビデは、悔い改め、神に祈りました。その祈りが詩編 第51篇です。「あなたに背いたことを わたしは知っています。わたしの罪は常に わたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目(おんめ)に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。」ダビデは、神さまに祈り続けました。救いを求め、罪の奴隷状態からの解放を求め、真実の自由を求めて。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前(みまえ)から わたしを退(しりぞ)けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御(み)救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。」わたしどもも日々、ダビデのように、悔い改めを祈りつつ、自由の霊、真理の霊、神の言葉の中で歩み続けたい。
 この後、讃美歌267番「かみは わがやぐら」を賛美します。3節ではこう賛美します。「神の真理(まこと)こそ/わがうちにあれ。」さらに4節では、「主の みことばこそ/進みにすすめ。」主イエスの み言葉こそが、わたしを罪の束縛から解き放ち、守り、導く。主イエスこそが、わたしの王。み言葉こそが、わたしを守るとりでの塔。主の み言葉から離れてしまっては、わたしには何もできない。み言葉の中にとどまり続けるなら、み言葉が守ってくださる。すでにわたしは、神の国に生きている。そのような信仰告白の賛美です。
 わたしどもが 主の中にとどまり、主が わたしどもの中にとどまってくださるならば、わたしどもは自由です。罪の誘惑からも、死からも、恐れからも自由です。主イエスが ご自分の命を捨てて、わたしどもに神の子の身分を与えてくださったから、わたしどもは永遠に自由なのです。主の弟子とされ、主と共にある限り、何ものをも恐れず、何ものにも流されず、縛られず、愛に生きることができる。自由に生きることができる。それがどんなに難しくとも、必ず、わたしどもを守ってくださる方が支えていてくださる。その「しるし」が、洗礼です。だから洗礼は、主イエスがご自分の命を十字架で捨ててまで、成し遂げてくださったわたしどもへの恵みです。父なる神さまが、世界で初めてのクリスマスに、たった独りの み子を世に遣わしてまで、成し遂げてくださったわたしどもへのギフトです。主イエスの言葉が、力をくださり、守り、助け、励まし、導いてくださいます。幼子のように信じ切って、飛び込むことができますように。信じ、受け入れ、とどまり続けることができますように。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、み言葉の中にとどまらせてください。み言葉の中に生き続ける者としてください。主イエスの弟子であることに大きな喜びを抱く者としてください。主の弟子として知る真実な自由に生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みのひと足ひと足を、聖霊によってお支えください。主よ、あなたの導きによって、ひとりの姉妹の洗礼の恵み、ふたりの子どもたちの小児洗礼の恵みをクリスマス礼拝で味わえる喜びを感謝いたします。当日、あなたの祝福の中で洗礼式を執り行うことができますように。芳賀 力先生の退院が今週の金曜日に決まりました。感謝いたします。退院後の先生の歩み、支えておられるご家族の歩みをこれからもお支えください。今日も病と闘っている兄弟姉妹がおります。病院で、施設で、自宅で、礼拝を慕いつつそれぞれの場所で主の日を過ごしている者がおります。主よ、どこにあってもあなたが共におられることを感謝し、平安のうちに今週も歩むことができますように。主よ、世界の各地で激しい争いが続いております。主の平和を一日も早くもたらしてください。すべての者が敵を愛し、敵を赦す自由に生きることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年12月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第3章11節~20節、新約 ヨハネによる福音書 第8章21節~30節
説教題:「神は存在される」
讃美歌:546、94、162、Ⅱ-1、334、544

今朝、神さまからわたしどもに与えられた み言葉に、ゴシックで小見出しがつけられております。「わたしの行く所にあなたたちは来ることができない」。主イエスが語られた み言葉です。主の み心を、祈りつつ問わなければなりません。
先週は別の箇所を読みましたので、この箇所の前の部分を読んだのは先々週です。主イエスが「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」とおっしゃった み言葉を読みました。クリスマスの光が、この み言葉の中にあります。天からの光です。けれども、この光を信じないで闇の中にとどまり続けようとする者たちに、主イエスは諦めることなく呼びかけておられるのです。
「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」主イエスは、この厳しい み言葉を、すぐあとの24節では、二度も語っておられます。「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」繰り返されているこの主イエスからの警告を、わたしどもは今朝、しっかりと心に刻まなければなりません。
主イエスは、天から、世を照らす光として、いらしてくださいました。父なる神さまが、罪の現実の中であえいでいるわたしどものために、闇の中で神さまを見失っているわたしどものために、光を贈ってくださったのです。それが、クリスマスの出来事です。わたしどもは皆、例外なく、自分の罪のうちに死ぬべき罪人です。いやそんなに悪くはないと思いたい。しかし、水が高いところから低いところへ流れるように、わたしどもは、誰かから悪口を言われれば黙ってはおれません。敵のために祈ることなどできません。世界で起きている戦争、紛争はすべて、そういうわたしどもの成れの果ての姿です。これがわたしどもの現実。ひとごとではないのです。主イエスは、そのようなわたしどもの身代わりとなって、たった独りで、わたしどもすべての者の罪を背負うために、十字架に架かってくださいました。そのために、天からいらしてくださったのです。
主イエスは、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」と言われました。まことにその通りです。わたしどもの誰が、自分を殺そうと狙っている人のために命を捨てることができるでしょうか。天とは、それほどまでに清く、まぶしいほどに真っ白な方のための居場所です。わたしどもの行けるような場所ではないのです。
ところがです。ヨハネによる福音書を読み進めてまいりますと、驚くような み言葉が備えられているのです。第14章1節から3節を朗読いたします。どうぞそのままお聞きください。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
主イエスは、わたしどもが思ってもみなかったなさり方で、わたしどもを天に迎え入れようとしておられるのです。自分自身の罪のために滅ぶべきわたしどもの代わりに、十字架に架かり、命を捨てようとなさっている。「そのことを信じ、わたしに繋がりさえすれば、天は、あなたがたの居場所となる。信じさえすれば、あなたも真っ白な清い者となれる。だから信じて欲しい、繋がって欲しい。繋がり続けて欲しい。そうでなければ、あなたたちは自分の罪の うちに死んでしまう。」と、主イエスは命を賭けて、必死になって、わたしどもを招いてくださるのです。
そのように、すべての人間の罪を背負って死のうとしておられる主イエスの覚悟など、想像もしていないユダヤ人たちは、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と呟きました。すると主イエスは、こう言われたのです。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
「上のものに属する者」とは、「神に属している者」という意味です。どこまでも清い方の居場所である天に属している。ユダヤ人たちは、我々こそ、上のもの、神に属するもの、天に属する神の民と信じ込んでいました。ですから、三度も繰り返して、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」と言われ、頭が混乱したかもしれません。思わず、「あなたは、いったい、どなたですか」と尋ねました。すると主イエスは、答えておっしゃいました。
25節後半。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしを お遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」主イエスは、罪を罪とも思わず、神に背を向け続ける人間の罪の赦しのために、神から世に遣わされた救い主であることを、明かしてくださっているのです。けれども、ユダヤ人たちは、父なる神さまとナザレのイエスを「父と子」として結びつけて受け入れること、悟ることが、できませんでした。主イエスはおっしゃいました。
28節。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしを お遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしを ひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」「人の子」という表現を、主イエスがお使いになっているときには、世の救いをもたらす人、つまり、主イエスご自身を表しています。その人の子、主イエスを「上げる」。「十字架に上げる」のです。主イエスは、ご自分が十字架に上げられることをすでに覚悟しておられました。そして、十字架に上げられることが、父なる神さまの ご意志であることも知っておられたのです。ご自分が神さまの ご意志によって、また人々の手によって、十字架に上げられるそのとき、あなたたちは知ることに なる、と主イエスは言われました。主イエスが父なる神さまの み心に従う、まことに清い方である、そのことを、ようやく知ることになる。今はまだ分からない、ということです。30節に「多くの人々がイエスを信じた。」とありますが、本当には信じていない。主イエスの十字架の死だけが、天の国への扉を開くからです。主の死によって、まことに清い方の居場所の扉が開かれるのです。
ところで、今朝の み言葉で、24節と28節に登場する大切なキーワードがあります。「わたしはある」です。24節。「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪の うちに死ぬことになる。」また28節以下で主イエスは、ご自分が十字架に上げられたときに初めて、あなたたちは「わたしはある」ということが分かるだろうと言われました。「わたしはある」を信じること、分かることは、わたしたちが生きるか死ぬか、罪人として滅びるか、罪を赦された者として永遠の命をいただけるか、その分かれ目となるのです。
「わたしはある」ということを信じ、分かるために、避けることのできない旧約聖書の み言葉があります。それが今朝の旧約聖書 出エジプト記 第3章11節以下の み言葉です。モーセは、神さまから、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から導き出す指導者に選ばれたことに驚き、辞退しようとしました。けれども、父なる神さまは、「わたしは必ずあなたと共にいる。」と告げ、モーセを励ましてくださったのです。そのときモーセは、「では、わたしと一緒にいてくださるあなたを、イスラエルの民にいったい、どのように紹介したらいいでしょうか?」と尋ねました。すると神さまは、モーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々に こう言うがよい。『わたしはある』という方が わたしをあなたたちに遣わされたのだと。」と命じられたのです。
 主イエスは、おっしゃいます。「十字架を見なさい。十字架に上げられたわたしを見なさい。『わたしはある』という お方、父なる神がわたしと共におられる。わたしは十字架の上で、神の み心によって、あなたがたのために肉を裂かれ、血を流し、命を捨てる。だから、わたしを信じて欲しい。わたしに繋がって欲しい。信仰を告白して欲しい。洗礼を受けて欲しい。洗礼は、わたしとあなたを繋ぐしるしだ。父なる神と共にあるわたしと、あなたを繋ぐ。だから、あなたがたは、わたしと共に天の国に行けるのだ。」今朝、主イエスは、わたしどもをそのように招いておられるのです。
 今、目の前に備えられている聖餐のパンと杯が、神さまの愛、主イエスの赦し、主イエスの招きの真実な証しです。皆さんの中に、祝いの食卓に与ることのできない方がいることを誰よりも悲しんでおられるのは主イエスです。「このままでは、あなたは、わたしの行く所に来ることができない。このままでは、あなたは、自分の罪のうちに死んでしまう。」と悲しんでおられます。ぜひ、主イエスの招きに心を開いてください。ぜひ、主イエスを「わたしの救い主」として受け入れてください。ぜひ、主イエスを信じる者として望みを持って生きる者となってください。主イエスが、十字架の上から、あなたを呼んでおられるのですから。

<祈祷>
天の父なる神さま、罪のうちに死ぬべきわたしどもを、み子の死によって赦し、永遠の命を約束してくださった恵みを感謝いたします。どんなときも、あなたが み子と共におられ、み子をひとりにしてはおかれないように、わたしどもと共におられ、わたしどもをも、ひとりにしてはおかれないことを信じ、望みをもって歩む者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの刃を砕いてください。わたしどもを常に、聖霊によって導き、愛に生きることができるよう助けてください。主よ、様々な地域で争いが続いております。激しい憎悪の故に街が破壊され、たくさんの命が失われています。争い続ける世を憐れみのうちに覚えてください。特に、力ある者を謙遜にしてください。心からの悔い改めをもって平和のクリスマスを迎えることができますように。主よ、厳しい病と闘っている者がおります。肉体の痛み、心の痛みを抱え、生きる望みを失いそうになっている者もおります。様々な理由のため、訪ねたくても訪ねることのできない兄弟姉妹がおります。主よ、愛する仲間たちの病床にあなたが共におられ、日々、祝福と憐れみの眼差しを注いでください。礼拝の後、クリスマス礼拝での洗礼を希望している者たちの試問会が行われます。主よ、確信を持って信仰を告白することができます よう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年11月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第121篇1節~8節、新約 ヨハネによる福音書 第11章17節~27節
説教題:「ただ、信ぜよ」
讃美歌:546、82、296、288、543

わたしどもは今朝、わたしどもに先立って天に召された親しい人たちを記念する礼拝をささげております。父、母、兄弟、伴侶、子ども、孫、祖父、祖母。また、信仰の兄であり、姉である人たち。その、地上での歩みを懐かしむ思いと共に、何より、その人たちが、何があろうとも立ち続けて生きた信仰を、そしてその人たちを、地上の誰が愛するよりも深く愛された、否、今も愛し続けていてくださる主イエスの愛を、ご一緒に心に刻むときとなりますように。祈りつつ、読んでまいりましょう。
今日は、ヨハネによる福音書 第11章17節から27節を中心に み言葉を味わってまいりますが、今朝の物語は、第11章1節から44節までの比較的長い物語です。ゴシックの小見出しを確認すると、第11章1節から16節は「ラザロの死」、今朝の17節から27節は「イエスは復活と命」、28節から37節は「イエス、涙を流す」、そして38節から44節は「イエス、ラザロを生き返らせる」と続きます。今日は残念ながら、この長い物語を筋を追って読む暇(いとま)はありません。ものすごく簡単にまとめてしまえば、主イエスと親交のあったマルタ、マリアの姉妹のラザロという兄弟が死んでしまい、4日後に、主イエスによって復活させられた、という奇跡の話です。ばかばかしい。だから聖書なんて、『キリスト教』なんて信じられない、そう思う方もいるかもしれません。実際、わたしどもの親しい人たちは、死んでしまいました。思い出すことはできても、生前のように語り合ったり、抱き合ったりはできません。わたしどももまた、ときが来れば親しい者たちを地上に残して死なねばなりません。今日の み言葉に登場する、主イエスによって一度は復活させていただいたラザロにしたところで、このあといつまでも生きたわけではない。マルタも、マリアも、ラザロも死んだのです。
本日の週報の報告欄に記載した通り、先週の月曜日、共に礼拝を守り、水曜日の「御言葉と祈りの会」も大切にしてこられた姉妹が、天に召されました。85年の生涯でした。献体を希望しておられたため、病院の遺体安置所で短い祈りのときを持ったのち、遺体は大学病院へと運ばれて行きました。11月7日には、手を握り、一緒に「主の祈り」を祈り合うことができたのに、もうそれは叶いません。実は数ヶ月前から、今年の逝去者記念主日礼拝では、主イエスがマルタに語られた「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は だれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」との み言葉を読もうと決めておりました。ですから、この姉妹の病室を訪問するときには、いつも、姉妹の耳もとで、また その隣りで一緒に祈ってくださった息子さんと共に、繰り返し読み続けていました。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。』」
そして今、わたしは、わたし自身にも、さらに、ここに集っておられる皆さんにも、主イエスが信じて欲しいと、祈りを込めて問うてくださる「信じるか。」の声に、真正面から向き合いたいと思うのです。ラザロだけの問題ではないのです。マルタだけが問われているのでもありません。ラザロも、マルタも、マリアも、わたしどもの代表です。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と主イエスはおっしゃいました。主イエスを信じるということは、主イエスが十字架の上で死なれたのは、このわたしの罪を赦し、真っ白な、真新しい状態にして、父なる神さまの子どもとしてくださるためであったと信じることです。そして、そのようにして死なれた主イエスを死人の中から復活させてくださった父なる神さまを、信じるということです。これを信じるなら、肉体の死を経験しても、その死は主イエスと同じ、神の子としての死であり、決定的な滅びではないのだ、と主イエスはわたしどもに教えてくださったのです。死んでも生きる。永遠に、父である神さまの懐(ふところ)の中の、憩いの中にある。平安の中にある。そして、この平安な命は、死んだあとだけでのものではありません。この地上にある今から、生き始めることができるのです。「このことを信じるか。」と、わたしどもは今日、問われている。招かれているのです。
マルタが、主イエスから問われているこの時点では、主イエスはまだ十字架に架けられていませんし、死んでおられません。復活もまだ先の出来事です。けれども主イエスは、このとき、すでに、知っておられました。ご自分が、わたしどもの罪を赦すために十字架で死んで復活されることを。そしてそのことを信じ、信仰を告白し、洗礼を受ける者にも、ご自分と同じ永遠の命が与えられることを。主イエスはそのために殺されなければならないことを覚悟しながら、マルタに問われたのです。「このことを信じるか。」マルタは、主イエスへの信仰を告白しました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」信仰とは、主イエスに見つめられ、主イエスから「このことを信じるか。」と問われ、全面的に、受け入れることです。もちろん、信じるのはわたしどもです。しかし信仰とは、歯を食い縛り信じ抜くのではなく、イエスさまがおっしゃることを、イエスさまが甦られることを、イエスさまと同じ永遠の命が与えられることを、よくわからないけど、説明できないけど、ご自分の命をこのわたしを救うために捨ててくださったイエスさまが、そうおっしゃるなら信じますと告白する。それが、「信仰」ということではないかと思います。
わたしどもの親しい人たちも、そうだったはずです。わたしどもはつい、「あの方の信仰は立派だった」と言います。そして、「あの方にくらべてわたしの信仰は貧しいと。」呟くことがある。でも、主イエスは、「ただ、信ぜよ。」と小さな子どものように素直な信仰を求めておられるのです。ただ主イエスの言葉を信じ、ただ主イエスの甦りを信じ、自分にも甦りの命が与えられることをただ信じ、信仰を告白する。洗礼を受ける。そのことだけを、今日、礼拝に招かれた皆さん、ひとりひとりに、主イエスは祈りを込めて、求めておられるのです。
マルタは、兄弟ラザロの死によって、激しい痛みを抱えていたことでしょう。けれども、主イエスが神さまにお願いになることは何でも神さまはかなえてくださると、信じているのです。神さまの絶対的な力を信じている。神さまが、痛みを抱えているわたしと共におられ、今、この時も生きて働いてくださると、ただ信じているのです。
わたしどもが今日、教会に招かれたのは、マルタのように、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と信仰を告白して欲しいからです。先に主の みもとへと召された信仰の先輩方が生前、共通して口にされていたのは、「いつの日か伴侶、息子、娘、孫が信仰を告白し、洗礼を受け、わたしと同じ永遠の命に与る者となって欲しい。」という願いでした。皆さんが祈っておられましたし、東村山教会制定の「信仰の遺言書」に家族へのメッセージとして記しておられます。
わたしどもは、いつの日か必ず地上の命を終える日がまいります。泣いても、笑っても、人間は必ず地上の命を終える。愛する人も、憎んだ人も死ぬ。父も、母も、伴侶も、子どもも、孫も死ぬ。生涯の先生と仰いだ人も、友人も、地上の命を終える日が来るのです。そのときわたしどもは「死」に対していかに無力な者であるか突き付けられる。絶対に越えることができない高い山が、そこにあります。今日、ヨハネによる福音書と合わせて読みました詩編 第121篇は、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。(1~2)」と始まり、「あなたの出(い)で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。(8)」と結ばれています。高い山々、生きているときにぶつかる困難だけでなく、「死」という山の前で立ちすくむときも、天地をつくり、わたしどもに命をお与えになられた神ご自身が、とこしえに共にいてくださり、守ってくださる。だから、安心して行きなさいとおっしゃってくださる。わたしを信じて、永遠に生きなさいと励ましてくださる。わたしどもには、天から主の み声が響くのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」わたしにとって先週の一週間は、どんなに祈っても、どんなに病室に通っても、死の前にわたしは無力な者である。そのことを突き付けられた日々でした。けれども、この み言葉が天に召されていった姉妹、またわたしをも励まし、力づけました。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
主イエスはマルタだけでなく、今日、礼拝に招かれたわたしどもすべての者に祈りを込めて問うておられます。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」主イエスが待っておられる答えは、ただひとつ。「はい、主よ、信じます。」です。わたしどもが、主イエスに「はい、主よ、信じます。」と信仰を告白するとき、主イエスは喜んで何度でも、繰り返し語ってくださいます。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
主イエスは、「だれも」と告げてくださいました。「あなたは、信仰が強いから生きる。あなたは、信仰が弱いから死ぬ。」ではないのです。「主よ、信じます。信仰の弱いわたしを助けてください。」と、すべてを委ねるなら、「あなたも決して死ぬことはない。」と宣言してくださったのです。
礼拝堂の後ろに並べられている信仰の先輩方のお写真を見つめるとき、ああ、あの人も、ああ、この人も、皆、信仰を告白し、洗礼を受け、甦りのキリストと結び合わされたのだ。ああ、あの人も、ああ、この人も、皆、決して滅んでしまったのではない。皆、キリストと同じ甦りの命を与えられている。そう信じることができる。そう慰め合うことができる。ここにおられるすべての皆さんが、マルタのように、「はい、主よ、あなたが世に来られた神の子、メシア、救い主キリストであるとわたしは信じます。」と信仰を告白し、すでに召された愛する人たちと同じ永遠の命を与えられるよう祈り願います。

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたが永遠の命を約束してくださいましたから感謝いたします。主よ、「ただ、信じます」とまっすぐに日々、信仰を告白する者としてください。今日、礼拝に招かれたすべての者がいつの日か、信仰を告白し、洗礼を受け、永遠の命に与る者となりますよう聖霊を注ぎ続けてください。主イエス・キリストの お名前によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。逝去者記念主日礼拝の恵みを感謝いたします。今日、礼拝に招かれたひとりひとりの上に、甦りと再臨の主イエスの深い慰めを祈ります。痛みを感じるときも、孤独を感じるときも、あなたがいつも共にいてくださる喜びを思い起こすことができますよう、聖霊を注いでください。主よ、病と闘っている者、痛みを抱えている者を強め、励ましてください。戦争によって、愛する人を失った者、住む家を失った者に、主にある望みを お与えください。すべての者に、特に諸国の指導者に、あなたを畏れる思い、主の平和を祈る心をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年11月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第17章9節~18節、新約 ヨハネによる福音書 第8章12節~20節
説教題:「光の中に立とう」
讃美歌:546、3、Ⅱ-28、360、542

主イエスは、仮庵祭の余韻の残る、神殿の境内で、再び語り始められました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」主イエスは、今朝、わたしどもにも語っておられます。「あなたが、この世を生きるとき、あなたの道を照らす光がわたしである。」
これまでも礼拝の中で何度か お話したことがありますが、娘が生後半年のとき、髄膜炎を発症しました。緊急入院した病院に職場からかけつけると、娘はたくさんの管に繋がれ、目を閉じていました。その姿だけでもショックでしたが、暫くすると、主治医の先生が病室に入って来られ、低い声で言われたのです。「娘さんの命は、今夜が山です。今の段階で生きる確率と亡くなる確率は、それぞれ50%です。」その瞬間、頭が真っ白になり、すべての色が消えました。病院から家へ帰る道は、夜だからというだけではなく、真っ暗闇でした。その2週間ほど前のクリスマス礼拝。娘は、小児洗礼を授けられました。長男、次男に続き、娘も小児洗礼を授けて頂いた。子どもたちの生涯はすべて神さまに委ねた。あとは、いつの日か信仰を告白する日が与えられるよう、日々、祈り続けようと誓い、新年を迎えた。その数日後、家族は暗闇に襲われたのです。幸い、当時2種類あった特効薬の一つが炎症を抑え、娘の命は助かりました。あれから20年以上が経過しましたが、今でもあの夜の暗闇を忘れることはありません。
わたしどもは、誰でも、それぞれに経験は違っても、暗闇に吸い込まれてしまうような「時」を知っているのではないでしょうか。たとえ、ある人から見れば、そんなこと?と言われてしまうような経験であったとしても、暗闇に濃いも薄いもありません。その人にとっては、暗闇は、暗闇なのです。暗闇の中にあるとき、誰かが優しい言葉をかけてくれたとしても、その言葉は、暗闇には届かないものです。妻に確認すると、娘が入院した約3ヶ月間の日々を思い出そうとしても、病院での出来事は覚えていても、家庭や教会でのことはほとんど記憶からスッポリ抜けているようです。きっとたくさんの人が妻を励まし、慰めてくれたはずなのに。
しかし、主イエスは、わたしどものすべてをご存知です。わたしどもが、今どんな状態であるか、主イエスは、わたしども以上に、深くご存知であられます。そして、そのことを知っているか、いないかは、わたしどもの生命線です。ほかの誰の声が届かなくても、主イエスの、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」との み声が、今 暗闇の中にある方に届き、安心して一日、一日を歩むことができますよう祈ります。
先週は、姦通の罪を犯した女性への罪の赦しを心に刻みました。主イエスは、この女性の心の暗闇も、ご存知でした。女性の孤独、カラカラに渇いた心。すべてを諦めて犯してしまった罪。さらに、律法学者やファリサイ派の人々が無意識のうちに犯している裁きの罪もご存知でした。彼らは、本当に正しい方、真実の光であられる主イエスが、見えていなかったのです。ファリサイ派と呼ばれた人々は、旧約聖書の掟をとても真面目に研究し、実践していた人々です。「民衆の先頭に立って道を照らし、義(ただ)しさへと導く者は我々である」という自負を持っていました。けれども主イエスは、その人々に、言われたのです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
主イエスは、わたしどもが吸い込まれ、迷い込んでいる「暗闇」をご存知です。だからこそ、告げてくださったのです。「わたしに従いなさい。わたしから離れず、一緒に歩こう。」主イエスがわたしどもに求めておられることは、決して、そんなに難しいことではありません。「わたしを、あなたの歩む道を照らす光だと、小さな子どもが、親に信頼するように信じ、わたしについて来なさい。」ということだけです。それは、具体的には、主イエスを、「わたしのキリスト」、「わたしの救い主」と信じ、洗礼を受けることです。信仰告白や洗礼というと、窮屈な気がして、躊躇する人がいます。あるいは、「わたしには、光の道など必要ない。わたしには暗闇が似合っている」とうそぶいてしまう人もあるかもしれません。あるいはまた、ファリサイ派の人々のように、「わたしには、キリストの光など必要ない。暗闇の世にあっても、わたしは神の掟に忠実に生きている。すでに光の道を歩んでいる。」と信じ込んでいる人もいます。でも、どうか知って頂きたいのです。主イエスに従う道がどんなに平安であるか。どんなに辛く、真っ暗闇でも、光なるキリストがわたしを見ていてくださる、知っていてくださる、照らしていてくださる。その光の恵みを。
ファリサイ派の人びとは、「自分たちこそ、道を照らす光だ」と信じ込み、主イエスを罪に定めようとして言いました。13節。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」「証し」と訳されたのは、裁判で用いられる言葉です。裁判所で、「わたしは潔白です。」とただ主張しても無駄です。裁判では、証拠を提出し、身の潔白を証明する必要があります。ファリサイ派の人々は、この世における権威によって、神の元から来られた方を裁こうとしています。「あなたが境内で、『わたしは世の光』と主張しても、何の効力もない。あなたが真の預言者か、偽りの預言者か、ファリサイ派の我々がジャッジする。」と通告したのです。
すると主イエスは、答えて言われました。14節。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。」さらに主イエスは、ご自分の証言が真実である理由を続けておっしゃいました。「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」
わたしどもが、暗闇の中に立ち尽くしてしまうのは、光を見失うからです。天の父なる神さまのもとからいらっしゃって、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と宣言してくださった主イエスの み声が聞こえなくなってしまう。「そんなのは まやかしだ」と決めつけ、裁いてしまう。けれども、光は確かにあります。天の光です。ここにいる洗礼を受け、信仰告白した者ひとりひとりが、暗闇の中で この光に救われた証人です。主イエスは、今日の み言葉の中で語ってくださっているように、父なる神さまのもとから、この世にいらしてくださいました。わたしどもが、暗闇の中で、命の光を持つために。わたしどもの命の、本来の居場所である、父なる神さまの愛の中で、わたしどもが永遠に生きることができるために。
主イエスは、続けておっしゃいました。15節。「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」わたしどもがどんなに神さまの愛に背を向けようとも、光を無視して闇雲に歩こうとも、主イエスはおっしゃるのです。「わたしはだれをも裁かない。」主イエスは、この後、「わたしはだれをも裁かない。」とおっしゃったその言葉を真実とするために、十字架への道を歩まれ、そして十字架の死を成し遂げてくださいました。それほどの犠牲を払って、わたしどもの罪は赦されており、「もうひとりで暗闇の中を歩かなくてよい。わたしが照らすから、わたしについておいで!」と、光の中へ招かれているのです。
先月、ある教会員を訪問しました。時間の許す限り、93年間の歩みを語ってくださいました。途中、愛唱聖句への思いを伺ったのですが、み言葉の力を強く感じたのです。愛唱聖句の一つは、旧約聖書 詩編 第119篇105節でした。新共同訳聖書は、「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯(ともしび)。」ですが、その方は、文語訳の み言葉を、心の支えとして生きてこられました。「なんぢの聖書(みことば)は  わがあしの燈火(ともしび)わが路(みち)の ひかりなり」。今朝の み言葉「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と重なります。若い者も、年を重ねた者も、暗闇に覆われてしまった、としか思えない日があるかもしれません。けれども、主イエスは、わたしどもが経験するよりももっともっと深い暗闇を、すべて、十字架で経験してくださいました。暗闇に吸い込まれ、うろたえ、すぐに罪に足をからめとられてしまうわたしどもの光となってくださるために。「わたしが世の光だ。わたしについておいで!」と言って、天の父なる神さまの愛の中へ、わたしどもを導いてくださる主イエスを信じて、ついて行きたい。小さなこどものような素直さで、ただ信じて、ついて行きたい。

<祈祷>
 父なる神さま、み子の光に照らされるとき、闇の世としか思えなくても、光の中に立つことができますから、感謝いたします。どうか、これからも、わたしどもと歩み続けてください。闇の中をさまよっているとしか思えないときこそ、み言葉の光で わたしどもの足をともし続けてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。一日、一日、聖霊を注いでください。主よ、クリスマス礼拝での信仰告白、洗礼を祈り求めている者がおります。また、子どもたちへの小児洗礼を祈り求めている夫婦もおります。どうか、それぞれの思いを強め、クリスマス礼拝での喜びの洗礼式へと導いてください。主よ、病床にある者たち、看取っている者たちを強め、励ましてください。たとえ、暗闇の中を歩むような思いになったとしても、光なるあなたを信じ、望みを持って一日、一日を歩むことができますよう力強く導いてください。ウクライナ、ガザ、世界の至るところで争いが激しさを増しております。キリストの平和が、世界を覆いますように。政治に責任をもつ者に、人ではなく、あなたを畏れる心を思い起こさせ、これ以上、無益な死を増やすことのないよう導いてください。先週は、芳賀 力先生のお見舞いに伺うことができましたから感謝いたします。どうか、これからもリハビリの日々を お支えください。そして、み心ならば、クリスマス礼拝の喜びを この礼拝堂で共に味わうことができますよう聖霊を注いでください。来週の主日に予定している逝去者記念主日礼拝に、ひとりでも多くの者を招き、共に甦りと再臨の主イエスを賛美することができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年11月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第17章9節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第8章1節~11節
説教題:「神を殺す者」
讃美歌:546、72、138、250、541、427

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」第7章37節の、主イエスのみ言葉を、礼拝で繰り返し皆さんと一緒に読みながら、「渇いている」ということを、考えておりました。「渇いている人」。助けを必要としている人。助けが必要なのに、自分で何とかしなくちゃと水を求め砂漠を歩くように一所懸命に歩いて、へとへとになっている。もうこれ以上無理。人には言わずにずっと頑張ってきた。ギリギリまで頑張った。でも、もう無理。頑張ってきた心が、パキンと折れてしまった。もうどうとでもなれ・・・。イエスさまはおっしゃるのです。「そんなあなたのために、わたしは来た。ここへおいで。」主イエスは今朝も、呼んでおられます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」この言葉を、主イエスは神殿で、大きな声でおっしゃいました。神殿は、神さまを礼拝するところ。わたしたちにとっては教会です。主イエスは教会で、呼んでおられます。「ここへおいで、あなたのために、わたしは来たよ。」
しかし、聖書には、それを良く思わない人々が描かれています。それは、聖書に定められている掟を研究し、厳しく守ることに熱心であった「律法学者」や「ファリサイ派」と呼ばれた人たちでした。この人たちは、「自分たちこそが、神さまに最も近いところにいる」と信じていました。朝に夕に聖書を読み、掟に忠実に生きていた人たちです。そう考えると、雨が降ろうが、風が吹こうが、忠実に教会へ通っているわたしどもは、もしかしたら、この人たちに近い存在かもしれません。少なくとも、わたしども教会に通っている者、それも教会生活が長くなればなるほど、そして、わたしの ような牧師こそが、うっかりはまりかねない、そのような罪がここにあることを、今日の み言葉と共に、肝に命じておかなくてはならないと思います。
皆さんも、お気づきになられたと思いますが、第7章53節から第8章11節は、括弧の中に入れられています。それは、今日の み言葉は、元来のヨハネ福音書にはなかったからです。後の人たちによって、加えられた部分であるらしいのです。それも、他の場所ではなくここに。「どうにかこうにか踏ん張ってきた、それでも、もう駄目だ、もう無理だ。気持ちがプツンと切れてしまった。そういう人は、わたしのところへおいで。あなたのために、わたしは神さまのところから来たんだよ。」そう大声で言われた主イエスを、殺そうと企てている聖職者たち。誰もが陥る可能性のある罪があらわになったところで、今日の み言葉が挿入された。だからこそ、わたしどもは今日、神さまから、「この物語に耳を傾けなさい。」と示された み言葉として、ご一緒に読みたいと思います。
今日の み言葉に登場するのは、主イエス。姦通の罪を犯した女。律法学者たちやファリサイ派の人々。そして民衆です。場面は早朝のひんやりした空気に包まれた神殿の境内。主イエスは、朝早く、境内に入られると、集まって来ていた民衆の中に座り、語り始められました。民衆も、主イエスのもとに座り聴き始めました。静かな礼拝の輪ができた。そこへ、その静けさを打ち破るように、律法学者たちやファリサイ派の人々が、どやどやと入って来たのです。姦通の現場で、現行犯逮捕された女を連れて来て、人々の輪の真ん中に立たせ、鬼の首をとったようにイエスに訴えました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
石打ちの刑。ただ石を投げるだけではない。皆で寄ってたかって石を投げつけ、打ち殺すのです。それが旧約聖書で律法と呼ばれる掟に定められている、昔から行われてきた刑罰でした。
申命記 第22章に、石打ちの刑の規定が記されています。「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床(とこ)を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。(22:22~24)」
ならば、どうして男も一緒に連れて来なかったのか?と思いますが、連行してきた人たちにとって、そんなことは二の次の問題でした。律法学者たちやファリサイ派の人々にとって、目的は主イエスを陥れることであったからです。当時、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ民族は、ローマの法のもとにあり、刑の執行権はありませんでした。ですから、もし、「この女は、石打ちの刑にしなければならない。」と答えれば、ローマへの反逆罪で捕らえ、ローマ政府に引き渡すことができます。また、「女の罪は赦された。」と答えるなら、律法をないがしろにしたととがめ、民衆を扇動して捕らえることができたでしょう。あろうことか、天の神さまのもとから遣わされて来られた方を、正義の名のもとに審き、殺す口実をつくろうとしている。それが罪だとは思ってもいないのです。自分は正しいと思い込んでいる。自分は神の み心に添っている。そう確信して審いているのです。正義のためには、悪を排除しなくてはならない。だから、罪を犯した女を石で打ち殺す。同じように正義のために、神のもとから来られた方を罠にはめ、殺そうとしている。もしもこれが演劇の舞台であれば、照明が舞台を真っ赤に照らしているかもしれません。そこでパッと舞台は暗くなり、地面にかがみ込んでいる主イエスにスポットライトが当たる。光の中に浮かび上がるのは、指で地面に何やら書いている主イエス。正義のこぶしを振り下ろそうとしている律法学者やファリサイ派の人々は闇の中。そんな場面かもしれません。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」言葉は丁寧ですが、殺気立ってまくしたてている学者たち。その声など、まるで聞こえないかのように、かがみ込んで、何も言わずに静かに、何かを地面に書き続けておられる主イエス。主はいったい、この緊迫した場面で、何を地面に書いておられたのでしょうか?ある注解書には、「わからない」と書いてありました。わからないので、いろいろな考察をすることが許されると思いますし、実際さまざまなことが言われています。しかし、何を書いておられたにせよ、そのお姿を、わたしどもは決して、忘れてはならないと思います。わたしどもは自分の正しさを確信して相手を責めているとき、黙って地面に何かを書いておられる主イエスを忘れているからです。見事に忘れて、相手を責め立てながら、「わたしは、こんなに祈っている。それなのに神さまはちっとも答えてくださらない。ちっともこっちを向いてくださらない。」と腹を立て、神さまをも責めているのです。主イエスと、連行されて来た女を取り囲み、見下ろしている人々のように。
けれども、こんなに身勝手な問いかけでも、しつこく問い続けているうちに、主イエスは答えてくださいました。かがんで下を向いておられた主イエスは、からだを起こして、彼らの方にまなざしを向けて、おっしゃいました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そして再び、かがみ込んで、地面に指で何かを書き始められました。
すると、そこにいて、主イエスの お言葉を聴いた人々は、まず年長者から始まって、一人、また一人と、境内から立ち去っていきました。主イエスの お言葉により、主イエスを照らしていた天の光が、神のまなざしが、自分にも注がれていることに気づかされたのではないかと思います。「あなたは、天の光の中でこの人に石を投げられるか?神のまなざしの中で、この人を罰することができるか?あなたは、審く者なのか?あなたは、神なのか?あなたもまた、審きを受けるべき者ではないか?」
主イエスと罪を犯して連行されて来た女を取り囲んでいた人々は、いつの間にか一人もいなくなっていました。主イエスは、再びゆっくりとからだを起こして、その女性を見つめて、おっしゃいました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」婦人は、声を震わせて答えました。「主よ、だれも」。すると、主イエスは言われたのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
わたしどもは、下を向いて地面に何かを書いておられる主イエスのお姿を忘れ、神のまなざしを忘れて、罪を犯します。この女性と同じです。彼女がどのような人生を送ってきた人なのかはわかりません。一所懸命に生き、もうこれ以上は無理というところまで追い詰められ、投げやりになったのかもしれません。罪を犯したとき、神のまなざしを感じることができなくなっていたことだけは確かでありましょう。主イエスと婦人を取り囲み審こうとした人々も同じです。神さまのまなざしを忘れ、自分も審かれるべき者であることを忘れ、人を審くのです。主イエスは沈黙しておられます。かがみ込み、指で地面に何か書いておられる。そして、わたしどもにまなざしを向けて、おっしゃるのです。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
世界の至るところで争いを続けるわたしどもに語り続けておられます。主イエスから呼びかけられているのは、わたしどもです。「いや、わたしは手に石など持っていない」とは言えません。自らが神となり、相手の罪を裁き、「これは正義のためだから殺しても構わない」と主張し合って、世界は今、嘆きの声に溢れています。今朝ご一緒に読みました旧約聖書 エレミヤ書 第17章にあるとおりです。「あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。(エレミヤ書17:13)」
わたしどもは皆、審きを受けるべき者です。審くことがおできになる方は、主イエスだけです。罪を犯した女性は、そのことを知りました。女性も、その場から立ち去ってしまってもよかったのに、そうしなかった。そこに残りました。「主よ、わたしを審く者は誰もいなくなりました。主よ、あなただけが、わたしを審くことがおできになります。あなたの審きを免れる者はいません。わたしは、あなたの審きを受けなくてはならない者です。」そう知ったから、主イエスのもとに残ったのです。そして残ったところで、主イエスから赦しの言葉を聴くことができました。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
今日、主の日の礼拝に招かれたわたしどもも言われています。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」この、「犯してはならない。」は、たいへん強い力を持っている言葉です。「あなたはもう罪を犯すことができなくなった。」そのように訳してもおかしくない言葉です。わたしどもは、罪を犯すことができなくなりました。主イエスが、わたしどもの身代わりとなり十字架の上で罰を受けてくださったから。審かれ、罰を受けるべきわたしどもに代わって罰を受け、死んでくださったから。そして、甦られて、その死による罪の赦しを信じるなら、永遠に、神の光の中に立つことができるのだと教えてくださったからです。それほどの恵み、喜びを知っていながら、どうして投げやりな人生を送ることができるでしょうか。人を審き、責めることができるでしょうか。わたしはあなたのために天から降(くだ)って来た、あなたの代わりに、罰を受けるために来た。あなたをこれ以上放っておけなくて来た。そのように言ってくださる主イエスに、日々、心を開くことができますように。
<祈祷>
父なる神よ、み言葉を通して、主イエスの赦しを心に刻むことが許され、感謝いたします。主よ、争いが続いています。裁きの言葉が溢れています。圧倒的な破壊力を持つ、ミサイルでこれでもかと殺し合いが続いています。主よ、わたしどものどうしようもない罪をお赦しください。黙ってかがみ込み、静かに何かを地面に書いておられる主の お姿を、わたしどもに思い起こさせてください。あなたのまなざしに気づかせてください。み子の十字架の死によって、罪赦されたわたしどもが、諦めることなく、必ず、み心がなると信じて、主の平和を祈り続けることができるよう、み霊を注いでください。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。一日、一日、聖霊を注いでください。主よ、一日も早く主の平和がなりますように。み国が来ますように。み心がなりますように。クリスマス礼拝に信仰を告白し、洗礼を受けようと求めている者があります。同じく、小児洗礼を授けて欲しいと願っている夫婦もおります。主よ、どうぞそれぞれの思いを聖霊によって強め、み心ならばクリスマス礼拝に洗礼の恵みをお与えください。本日、久し振りに礼拝に招かれた兄弟姉妹がおります。同時に、礼拝を慕いつつ、今日も礼拝に出席できなかった兄弟姉妹もおります。どうぞ一人一人に愛を注ぎ、どこにあっても、あなたが共におられると信じる信仰を日々、お与えください。病を患い、病床で主の日を過ごしている兄弟姉妹を深く憐れみ、わたしどもと等しい祝福を日々、注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年11月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第26章7節~15節、新約 ヨハネによる福音書 第7章40節~53節
説教題:「イエスを裁くもの」
讃美歌:546、10、120、21-81、332、540

主イエスは立ち上がって大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」今、わたしたちも、主イエスから、大きな声で呼びかけられています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」
当時、主イエスからこう呼びかけられた人々のうち、いったいどれだけの人々が、その言葉に従って、主イエスのもとに飛び込んでいったか?聖書には書かれておりません。ある注解書には、誰ひとり、主イエスの招きに応えた者はいなかったと書いてありました。
中には、主の招きの言葉に、今までにない力を感じた者もいました。ある人は、「この人は、本当に あの預言者だ」と言いました。またある人は、「この人はメシアだ」と言いました。
「本当に あの預言者だ」とは、イスラエルの民をエジプトからカナンの地へ導いたモーセのように、民を力強く導く預言者が再び来てくれる。そのように信じられていたことから出た発言です。また、「メシア」とは、キリスト、救い主です。神さまが、救い主を送ってくださらなければ、どうしようもない、というほど、民衆の渇いた心は、メシア、キリストを求めていたのです。
しかし、これらの人々も、「この人はメシアだ」と言いながら、主イエスの懐に飛び込みはしなかったのです。主イエスに従ったのではなく、主イエスそっちのけで、対立する者との論争に熱中してしまいました。主イエスは、「ただ信じなさい。幼子のように。安心してここへおいで。」とおっしゃっているだけなのに。
群衆の中には、はっきりと、「ナザレのイエスは、救い主ではない」と否定する人たちもいました。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」エルサレムの人たちからすると、ナザレはへんぴな田舎の小さな村であり、ベツレヘムから離れたところにあります。今では、主イエスがユダヤのベツレヘムというダビデの町でお生まれになられたことは、教会学校に通っていたり、キリスト教保育の幼稚園、保育園で育ったならば、誰でも知っています。しかし、エルサレムの群衆は、ナザレのイエスが、まさかダビデの出身地ベツレヘムで生まれたとは、想像もできないことだったのでしょう。
一方には、「メシアかもしれない」と言いながらも、当のキリストはそっちのけで論争に熱中する者がおり、もう一方には、せっかく待ちこがれていたキリストが神さまのもとからいらしてくださったというのに、そのキリストを裁く者がいる。そのようにして、群衆の間には対立が生まれたと福音書記者は記しております。それぞれが、相手の言葉をよく聞きもせずに、自分の思いを勝手に述べる。互いに裁き合い、対立する人間社会の構図は、聖書の時代も、今も変わらないのかもしれません。
そして、さらに第7章の最後、45節から53節には、主イエスを殺そうと狙うユダヤ教の指導者たちの姿が描かれます。45節。「さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、『どうして、あの男を連れて来なかったのか』と言った。下役たちは、『今まで、あの人のように話した人はいません』と答えた。」この下役たちは、第7章32節以下に登場していた者たちです。32節に、「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」とありました。「祭司長たち」とは、ユダヤ教の最高の権威者たちです。ファリサイ派の人々は、行いにおいても、知識においても、民衆の尊敬を集めており、誇り高い人びとでした。いわばユダヤ教のエリート集団が、イエスを捕まえさせようと部下である下役たちをイエスのもとへ送り込んだのです。ところが、下役たちは主イエスの言葉に圧倒され、そのまま何もせずに帰って来てしまいました。彼らは報告しました。46節。「今まで、あの人のように話した人はいません」。
下役たちは、主イエスの言葉を聞いたとき、言葉の意味は分からなかったかもしれません。それでも、主イエスの言葉に圧倒されてしまったのです。祭司長たちやファリサイ派の人々は、激しく怒(おこ)りました。下役たちが命令に従わなかったばかりか、「今まで、あの人のように話した人はいません」と反論したからです。イエスをこのまま生かしておいたら、我々の立場まで危うくなってしまう。その恐れの心は、下役たちへの激しい叱責となりました。47節。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」「惑わされ」るとは、誘惑され、信仰の道から逸れる、つまり、「異端の教えに導かれてしまう」という意味が含まれています。はっきり言えば、「お前たちは悪魔の教えに惑わされている。」と言っているのです。ユダヤ教の指導者たちには、「われわれこそ、神の言葉の専門家」という自負がありました。エルサレムでしっかりした教育を受けた者の中に、あんな田舎者のイエスをメシア、救い主と信じる者などいるわけがない。まさか、お前たちまで悪魔の教えに惑わされるとは情けない。あの男をメシア、救い主と信じている連中は、神に呪われている。」と怒鳴ったのです。わたしども自身の罪の醜さに、胸がしめつけられます。自分の意見が否定されると、相手を徹底的にこき下ろす。「あなたは間違っている」と罪に定めようとしてしまう。それが、わたしどもの本性であり、すべての争いの根源にあるものではないでしょうか。
今朝の40節から53節の み言葉には、主イエスは一度も登場しておりません。キリストについて話していながら、キリストそっちのけ、イエスさまそっちのけで議論を戦わせているのです。主はどれだけ心を痛め、悲しんでおられたことでしょう。しかし、このような対立、呪いの言葉は、2000年前の出来事、ではすみません。2023年11月。今こうしている間にも、相手を呪う言葉は飛び交っており、殺し合いが続いている。キリストは、どこまでも無視されたままです。
祭司長たちやファリサイ派の人々の怒鳴り声に意気消沈した下役たちは、沈黙してしまいました。わたしどもも、下役たちと同じ罪を犯す。周りの空気を読み、黙ってしまう。その場を支配している人々の顔色を見て、キリスト者としての責任を放棄してしまう。
第7章には、「ナザレのイエスは人々を惑わし、扇動する異端者である」という誤った裁きが、「正論」と認められてしまった経緯が記されています。そして、そのような誤った裁きに黙ってしまう罪は、わたしどもの罪です。
僅かな救いは、この誤った流れに、抵抗しようと試みた男がいたことです。ニコデモであります。第3章1節以下が伝える物語に登場した人物です。ニコデモは、ファリサイ派のひとりでしたが、主イエスの教えに惹かれ、日が暮れてからそっと、主イエスを訪ねて行き、教えを乞うたのです。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。(3:2)」そのようにニコデモは、主イエスを尊敬していましたから、何とか流れを変えようと、勇気を出して申し出ました。第7章51節。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」なぜ裁判を開くこともせず、イエスを異端者と断罪するのか?それはおかしい!と訴えたのです。しかし、ニコデモの抵抗はそこまででした。主イエスが神のもとから来られた方だと知っていながら、イエスを殺そうと息巻いている仲間たちの中で、「この方こそメシアだ」、とは証言できなかった。怖かった。命をかけてイエスに従うことができず、結局はキリストを裁く側に立ち続けてしまいました。言うまでもなく、ニコデモの姿の中にも、わたしどもの惨めさがあります。
しかし、キリストそっちのけで、それぞれの意見をぶつけるだけぶつけ合って、人々はどうしたかというと、第7章は、あっけなく終わります。53節。「人々はおのおの家へ帰って行った。」激しいやり取りが続いた第7章。しかし最後は、何事もなかったかのように、人々はおのおの家へ帰って行ったのです。僅か一行の短い言葉ですが、ここには、わたしどもがどんなにやっきになって神を否定しようとも、神さまの救いのご計画は、神さまの時の中で、着々と進んでいくのだ、という強いメッセージが込められているように思います。人の手によって神さまの救いのご計画がとん挫してしまうことはないのです。主イエスが捕らえられ、十字架に架けられたのは、もうしばらくあとのこと。過越祭での出来事でした。それが、神さまの定められた「時」でありました。主は、過越祭にほふられる いけにえの小羊のように、十字架の上で殺されたのです。主イエスそっちのけで議論に熱中する者のために。己の知恵を誇り、真実を見失っている者のために。み子を裁き、罪に定める者のために。「間違っている」と気づいていながら、声を上げられない者のために。とどのつまり、わたしどもすべての者のために。
今、わたしどもの前に、聖餐の祝いが備えられました。聖餐は、十字架で裂かれた主イエスのからだと流された血潮をあらわしています。これをいただくとき、わたしどもは自分が赦されていることを心とからだに刻むのです。すべての者が、聖餐の祝いに招かれています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と、わたしどもは招かれているのです。主イエスの招きに応え、主の懐の中に飛び込む。それが信仰告白であり、洗礼です。神さまが遣わしてくださったキリストを、遠くから眺めて、議論の対象としてあれこれ論評するような知恵を捨てたい。己の正しさを捨て、神さまの恵みの中へ飛び込みたい。主イエスは、ただ、そのことだけを待っていてくださいます。「安心して、わたしに全部、任せてほしい。」と待ってくださっているのです。
<祈祷>
 主よ、あなたの呼びかけに素直になることのできない世を憐れみ、すべての者に聖霊を注いでください。すべての者をあなたのもとへ立ち帰らせてください。一日も早く、争いから和解へとわたしどもの世を導いてください。主の み名によって祈ります。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。一日、一日、聖霊を注いでください。主よ、日々新たに生かされる力を必要としている兄弟姉妹が病床にあります。あなたの癒しの み手で触れてください。それぞれの痛み、苦しみを和らげてください。ウクライナ、イスラエル、世界の至るところで争いが激しさを増しております。どうか、争いをしずめてください。嘆きの中にある者たち、悲しみの中にある者たち、望みを失ってしまった者たちを憐れんでください。政治に責任をもつ者に、あなたを畏れる心を思い起こさせ、世界に対する責任を果たし、これ以上、無益な死を増やすことのないよう導いてください。求道生活を続けている者に聖霊を注いでください。どうか、あなたの招きを信じ、あなたの懐に飛び込むことができますように。信仰告白、洗礼への思いを強めてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年10月29日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第63篇2節~9節、新約 ヨハネによる福音書 第7章37節~39節
説教題:「キリストこそ、いのちの水」
讃美歌:546、Ⅱ-78、238、270、539

年に一度の家族礼拝としてまもっております本日の礼拝。この朝、わたしどもに与えられております み言葉は、主イエスから、すべての者への招きの言葉です。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」「だれでも」と、主イエスはおっしゃいました。子どもでも、大人でも「主イエスはすべてのひとを、このわたしをも、呼んでいてくださる。」この恵みを おのおの胸に刻みつつ、ご一緒に読んでまいりましょう。
この み言葉は、ユダヤの民にとって大切な祭り、仮庵祭が最も盛り上がる最終日に、主イエスが言われた言葉です。祭りといえば、学園祭でも体育祭でも気持ちが高ぶり、興奮するものです。まして、民族あげての一週間の祭りの最終日ともなれば、なおさらでありましょう。人々の心がもっとも満たされるときと言えるかもしれません。しかしそのとき、主イエスは、立ち上がって、大声で言われたのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」主イエスは、満足しているように見える人々の心が、実は、カラカラに渇いていることをご存知でいらっしゃいました。ひととき、祭りの雰囲気に酔っていても、祭りが終わればそれぞれの現実へと戻らなくてはなりません。
たとえ表面はそうは見えなくても、人にはそれぞれ大なり小なり、思い悩みがあるものです。それは、わたしどもにも言えることです。新聞やラジオの「悩み相談」を時おり読んだり聞いたりいたしますが、相手にどう思われるのかが気になり、身動きがとれなくなっている者の悲鳴で溢れています。先日、ラジオから流れてきたのは、新しい職場になじめない、という相談メールでした。先輩に話しかけたいけれど、そのタイミングがわからない。ささいなことと言ってしまえばそれまでですが、思い悩みの根っこにあるのは「恐れ」です。まわりの人を信頼することができず、壁をつくって閉じこもる。そうすると、余計に心配になって外へ出るのが怖くなる。孤独です。しかし、だからこそ、そのような現実の中へこそ、主イエスは降りて来てくださいました。父なる神さまの温かいふところを離れて、天から降りて来てくださったのです。そして、天に向かって祈るように、大きな声を張り上げて、おっしゃいました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」主イエスは、決して、難しいことを求めておられるのではありません。高いところから、「ここまでのぼって来い」と呼んでおられるのではないのです。わたしどもと同じ場所。匿名でなければ、人に言えないような孤独の中に立ってくださって、「わたしがここにいるよ。そのままの姿でここへおいで。重たい荷物をおろしにおいで。」と呼んでくださっているのです。わたしどもと同じ場所と申しましたが、実際には、もっともっと低い場所です。十字架の死という、誰よりも低い、誰よりも孤独なところに立っておられる。しかしそれゆえに、この方は、信じる者にとっては、命の水の水源でいらっしゃいます。地中深くから湧き出す清水のように、主イエスの み言葉はわたしどもを潤すのです。
ところで、38節に、「聖書に書いてあるとおり」とあります。主イエスが語っておられる「聖書」とは、わたしどもも用いております旧約聖書のことです。ここで主イエスは旧約聖書の、どの部分を指して話しておられるのでしょうか。調べてみますと、いくつかの箇所がその候補としてあげられます。その中の一つ、ゼカリヤ書 第14章の み言葉を朗読いたします。そのままお聞きください。「その日、エルサレムから命の水が湧き出(い)で/半分は東の 海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。(14:8)」預言者ゼカリヤは、幻を見ました。わたしどもを生かす命の水が、やがて神の都エルサレムから湧き出る時がくる。神さまの定められた時、命の水は神の都エルサレムから湧き出(い)で、東西に絶えず流れ、やがて死海や地中海にまで達する。そのとき、湧き出る流れが、乾いた石の土地を青々と茂る緑の大地に変貌させる、という幻です。預言者ゼカリヤは、その幻を、信じて、語ったのです。主イエスは、ゼカリヤの預言を、「今こそ、わたしが成就するのだ」と宣言なさったのです。しかし、そのように理解すると、38節後半に記されている「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」と言われた「その人」とは、いったい誰を指すのか、少し混乱するかもしれません。
「わたしを信じる者は」、と書かれていますから、主キリストを信じる者、キリスト者と捉えるのが自然です。しかし、ゼカリヤ書の み言葉を合わせて読むならば、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」存在は、誰よりも、主イエスご自身であります。そして、主イエスから湧き出る水を飲む者、すなわち主イエスを信じる者もまた、主イエスからいただいた命の水をあふれさせ、流れとなり、周囲を潤す者となる。主イエスは、「これを信ぜよ」とおっしゃいます。「信じて飲みなさい」と言っておられるのです。
ここで、すでにご一緒に読みましたヨハネによる福音書 第4章の み言葉が思い起こされます。そこには、主イエスとサマリアの女の物語が記されておりました。主イエスは、心が渇ききっていたサマリアの女に言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(4:13~14)」サマリアの女は、主イエスとの対話の中で、「この人こそ、キリストと呼ばれるメシアではないか」と感じていきます。女は大喜びで、サマリアの人々に「メシアが到来したかもしれません」と伝えました。そしてこの女性を介して主イエスと出会った、サマリアの多くの人々は、次々と「主イエスこそ、メシア、救い主である」と信仰を告白していきました。主イエスに、渇きを癒やしていただいた者は、ただ癒やされてお終いとはなりません。その人の内から癒やされた喜びが溢れ出て来る。その喜びが周りの人々に溢れ、周りの人々をも、潤すのです。
また、ヨハネ福音書は第19章34節に、そこだけを拾って読むとよくわからない、不思議な言葉を記しています。そのままお聞きください。「しかし、兵士の一人が槍(やり)でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」これだけを読むと、不思議な言葉ですが、サマリアの女のエピソードをはじめ、ヨハネ福音書を通して読んでいきますと、それこそ渇いた土地に水が染み入るように、わたしどもの心の奥に恵みが染み入ってくるように感じられます。主イエスの十字架の死によって、わたしどもを生かす水が流れ出たのです。主は、「命の水」をわたしどもに与えるために、十字架に架かってくださったのです。そこまでして、わたしどもに「生きて欲しい、渇きを癒やして欲しい、永遠の命を得て欲しい」と願っておられます。そして「渇き、苦しんでいる者は、だれでも、わたしのところに来なさい。罪の赦しを信じなさい。」と、救いの中へ招いてくださるのです。主イエスは、すべての者にとっての、「命の水」の源です。わたしどもは、主イエスの お言葉をただ信じて、どんなときも、「主よ」と呼び続ける。そのとき、わたしどもは主イエスのもとにいます。主イエスが「ここへおいで」と み手を広げて待っていてくださる、その手の中にいて、永遠に湧き出る水を受けているのです。
ヨハネによる福音書は、主イエスの約束を記したあとでこう言いました。39節。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降(くだ)っていなかったからである。」「栄光を受ける」とは、主イエスが十字架に架けられたのち、お甦りになられた、死に対する勝利の栄光を意味します。主イエスのすべてのわざが成し遂げられた時、神の霊の力が天から降り、主イエスを甦らせ、主イエスに栄光が与えられる。そして、これを信じるわたしどもにも神の霊が注がれ、わたしどもを満たし、永遠に生かすのです。この主イエスのお約束があるから、死がどんなに決定的であろうとも、超えることのできない深い谷であろうとも、わたしどもは自由です。死の谷のこちら側にある今も、わたしどもは主の命の水に生かされており、むこう側へ行ったとしても、わたしどもを満たしている主の命の水、神の霊に限りはないからです。そして、わたしどもを満たした霊は、こんどは、わたしどもから溢れ出し、あの渇いているひとにも、この渇いているひとにも届き、潤していく。「あなたも、わたしのところに来て飲みなさい」との、主イエスの招きが届けられていく。預言者ゼカリヤが、エルサレムから湧き出す命の水が大地を潤す幻を信じたように、わたしどもも、この幻を信じたい。わたしども自身の、リアルなヴィジョンとしてはっきりと心に描き、持ち続けていきたいと願います。
 今日は、ヨハネによる福音書と共に、詩編 第63篇を朗読して頂きました。先ほどは新共同訳でしたが、新しい聖書協会共同訳で朗読いたします。どうぞそのまま、お聞きください。「神よ、あなたこそわが神。私はあなたを探し求めます。魂はあなたに渇き/体はあなたを慕います/水のない乾ききった荒れ果てた地で。聖所であなたの力と栄光にまみえるため/私はあなたを仰ぎます。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。私の唇はあなたをほめたたえます。命のあるかぎり、あなたをたたえ/その名によって、手を高く上げよう。極上の食物(しょくもつ)にあずかるように/私の魂は満ち足り/唇は喜び歌い、口は賛美の声を上げます。私が床(とこ)であなたを思い起こし/夜回りのとき、あなたに思いをはせるなら/あなたは必ずわが助けとなってくださる。あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。私の魂はあなたに付き従い/あなたの右の手は私を支えてくださいます。(詩編 63:2~9)」
 人どうしが信頼できず、壁をつくり、互いを恐れる。挙句の果てには、互いを攻め、殺し合うような渇ききった今の世ですが、主イエスは変わらず、「わたしのところへ来なさい」と呼んでいてくださいます。「命の水がここにあるよ」と呼んでいてくださいます。わたしどもは、ただその水を飲みなさいと、ここに集められ、主の命の水で満たしていただいています。今、この水はわたしどもから溢れ出します。すべての人に、主イエスが、ここへおいでと呼んでおられることを伝えたい。人の目におびえ、孤独の中で、どうしてよいかわからなくなり、声にならない悲鳴を上げる者にも。戦禍で震えている人々にも。貧困に喘ぐ子どもたちにも。主イエスの招きを届けたい。祈りをあつくしたい。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、あなたが約束してくださった溢れる恵みを信じさせてください。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と招いてくださいました主イエスの お言葉を、しっかりと聴き取ることができますように。素直に、「命の水をください」と、主のもとへ行く者としてください。わたしどもを命の水で満たし、溢れさせてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

2023年10月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第32章15節~20節、新約 ヨハネによる福音書 第7章25節~36節
説教題:「神の明るい光の中へ」
讃美歌:546、28、265、352、545A

「死んだらどうなるのか?」誰もが一度は考えたことがあるのではないでしょうか。わたしも小学生の頃、「死んだらどうなってしまうんだろう」と考え始めると、怖くなり、夜、なかなか眠れない時期がありました。もちろん、わたしどもは死んだことがありません。ですから、そういう意味では死んだらどうなるかを知りません。けれども、「主イエスは、わたしの救い主、キリストと信じます。」と信仰を告白し、洗礼を受ける者は誰でも、キリストに結ばれて、主イエスと同じ甦りの命を生きる者とされます。たとえ死んでも、それでおしまいではありません。父なる神さまの みもとへ、天の光の中へ移されると、わたしどもは固く信じています。
今、ヨハネによる福音書を少しずつ読み進めています。第7章に入り、人間の罪の問題が、どんどん浮き彫りにされてくるのを感じながら、読んでおりますが、そうして浮き彫りにされ、形を現してきた人間の罪が、まるで息をしはじめて、何か巨大な化け物となって立ち上がって迫って来るような出来事が、現実に起こってしまいました。
10月7日の土曜日、パレスチナ暫定自治区のガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスが、突如、イスラエルへの攻撃を開始し、イスラエル側も激しい空爆で応酬。双方の死者は、すでに3,500人を超えているといいます。「神さま、あなたは、どこに隠れてしまったのですか!」と叫びたくなるような、悲惨な映像が目に飛び込んでまいります。イスラエル側、ハマス側、双方が「自分たちは正しい」と主張し、相手を攻撃している。結果、犠牲になるのは弱い立場の者たちです。34節の主イエスの み言葉が、現実となっています。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」しかし、だからこそ、今朝「ここに立ち帰りなさい」と示されている み言葉を、大切に読んでまいりたいと思います。
今朝のヨハネによる福音書 第7章25節から36節は、主イエスが、「ご自分が、どこへ帰ることになるか」を、初めてお語りになった み言葉です。すでにわたしどもは、主イエスがどこからいらしたかを語られた み言葉を読みました。第6章51節。「わたしは、天から降(くだ)って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」これはやがて、わたしどもが毎月与ります聖餐へと繋がった み言葉です。主イエスが、天から降って来られた救い主、キリストと信じ、洗礼と聖餐によってキリストと一つにされるとき、わたしどもは永遠に生きる者とされる。もちろん、はじめに申しましたように、地上での命には限りがあります。どんなに長生きしたとしても、地上での命を神さまにお返しする日が必ずまいります。だからこそ、主イエスがどこへお帰りになられるかを語られた今朝の み言葉は、わたしどもにとって大切であり、闇の中の光であります。
主イエスは、故郷ガリラヤから、仮庵祭でにぎわうエルサレムへ、人目を避け、隠れるようにして上って行かれました。そして、祭りも半ばとなったころ、神殿の境内で聖書を教え始められました。エルサレムの人々の中には、主イエスのことばを聞いて呟く者たちがいました。25節。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
「公然と」と訳されている言葉は、「大胆に」、あるいは「自由に」と訳すことのできる言葉です。エルサレムの人々は、主イエスがユダヤ教の指導者たちから指名手配されていることを知っていました。それなのに主イエスが、まるで誰からも、何の束縛も受けていないかのように、何も恐れずに、大胆に、自由に、聖書を教える姿に、本当にお尋ね者なのかと驚いたのです。「議員たち」とは、ユダヤ人の社会における最高の権力機関である議会の「議員たち」です。その議員たちが、大胆に語っているイエスを黙認している。ということは、ナザレのイエスを「メシア(救い主)」と認めたのだろうか?しかしです。エルサレムの人々は、イエスの出自を知っていました。ナザレ出身の大工の息子がメシアだなんてことがあるものか。我々が待ち続けているメシアは、神のところから来るのだから、神秘のベールに包まれているに違いないと、つぶやき合ったのです。すると、神殿の境内で教えておられた主イエスは、「大声」で言われました。28節。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
旧約聖書において、「大声」は、父なる神に向かって叫ぶときに用いられる表現です。神さまに向かう叫びは祈りです。主イエスは、神に叫ぶように、祈るように、エルサレムの人々に宣言なさったのです。「わたしは、自分勝手にあなたがたの前へ出て来て、自分勝手にしゃべりたいことを語っているのではない。神がわたしを世にお遣わしになり、神から授けられた言葉を語っている。神は真実な お方。あなたがたは神を知らないが、わたしは神のもとから来た。だから、つぶやいていないでわたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きなさい。」
ひそひそささやき合うエルサレムの人々の疑問であった、何者も恐れずに大胆に、自由に語ることがおできになった理由を、主イエスは大声で、宣言なさいました。エルサレムの人々は、主イエスのメッセージに圧倒されたことでしょう。同時に、「あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。(7:28~29)」と言われた言葉の前に、素直になることができませんでした。「主よ、本当にそのとおりです。どうか、み言葉をください」と求めることができず、聞き捨てならない言葉として受け取ってしまった。なぜなら、「自分たちこそ、神に近いところに立っている。お前なんかよりも神のことをよく知っている」という高慢な思いがあったからです。そして、「お前は何様のつもりだ。神を冒瀆する気か?」と、イエスを捕らえようとしました。けれども、誰一人、主イエスに手をかける者はいませんでした。その理由をヨハネ福音書は「イエスのときはまだ来ていなかったからである」と書いています。神さまが、お許しにならなかったということです。神さまが、今はまだそのときではないと、人々の手を止められたのです。しかし、そのことを知る由もない人々の反応は、様々でした。31節以下。「しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか』と言った。ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」ここにも、人間の高慢が描き出されているように思えてなりません。「信じる者が大勢いて」、とありますが、それでも、その言葉には、自分が本物か否かを判別してやろうという気持ちが見え隠れしているのではないでしょうか。素直に信じて従うのではなく、評論家のように高いところから眺めて、ささやき合い、周りの人の出方をうかがっているだけのように感じます。そして、そのささやき声が大きくなることを恐れる者たち、ファリサイ派の人々と、祭司長たちは結託し、イエスを捕らえるために下役たちをイエスのもとへ遣わしました。
主イエスは、ユダヤ人たちにお告げになりました。33節。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」主イエスは、はっきりおっしゃいました。「わたしは、今は、こうして神殿の境内で聖書を説き明かしており、あなたがたもわたしの言葉を聞くことができる。けれども、父なる神さまがお定めになったときに、わたしは、わたしを世に お遣わしになった神さまのもとへ帰るのだ」と言われたのです。「ちゃんと勉強したこともない田舎ものが何を言うか」と見下している人々には、主イエスの お言葉の意味が理解できませんでした。我々は神のことをよく知っているという傲慢な思いが、この み言葉の中に隠れている神さまの恵みの光を見る目を曇らせてしまったのです。主イエスの お言葉の意味が、まったくわからないユダヤ人たちは、互いにささやき合いました。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。(7:35~36)」
わたしどももまた、本来であれば、誰ひとり、主イエスを捜しても、見つけることができない者です。おごり、高ぶり、自分が神であるかのように他者を裁き、争う。すぐに神さまを見失ってしまう。わたしども自身の力では、主イエスのおられる所に行くことなどできません。しかし、そのような罪人であるからこそ、父なる神さまは主イエスをわたしどものところへ遣わしてくださいました。主イエスは十字架の死に向かって歩み続けてくださいました。そして、父なる神さまの み心に従って、「わたしのところに来なさい」とわたしどもを招き続けていてくださるのです。しかし、それでは、34節以下に記されている主のお言葉は矛盾しているのではないかと思われるかもしれません。けれども、それは違います。
先週の金曜日、もう口から食べることができなくなってしまい、点滴だけで生かされている教会員が入院している病室を訪ねました。長くても9月末までと余命宣告を受けておられますが、かすかな声ではありましたが、「主の祈り」を共に祈ることができました。そのとき、姉妹の耳元で朗読したのは、主イエスが、最後の晩餐の席で弟子たちに語られた み言葉でした。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。(14:1~4)」ヨハネ福音書が、第7章34節で終わるなら、わたしどもは闇の中で地上の命を終えるしかなかったことでしょう。けれども、福音書は続きます。第14章で主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。(14:6)」とおっしゃいました。主イエスがお帰りになられた神さまの懐、父の家に、わたしどもも住むことが許される。主イエスが、その場所を確保してくださっているのです。主イエス ご自身が、そこへ行く道となってくださり、その道を照らす明るい光となってくださいました。
主は言われます。「自分の義しさにどこまでもこだわって主張し続けるあなたがたがわたしを捜しても、確かに見つけることはできない。しかし、あなたがたのその罪を赦すために、わたしは十字架の死を成し遂げた。たとえ、あなたがたがわたしを捜せなくても、見つけることができなくても、来ることができなくても、わたしがあなたがたを捜し、見つけ、招く。」
主イエスは、十字架の死という、どんな死よりも屈辱に満ちた、もっとも低く みすぼらしい死を、成し遂げてくださいました。その死によって、わたしどもの罪を赦すために。しかし、その主イエスを、神さまは放っておかれることはなく、三日目に復活させてくださいました。キリストは死に負けたままではなかったのです。主イエスは、十字架と復活によって、罪と死に勝利してくださいました。そのうえで、「わたしのもとに来なさい。遠くから、高いところから眺めていないで、わたしの十字架のもとに来なさい」と呼んでいてくださいます。十字架という、最も低いところに立ってくださった主イエスが、「わたしのもとに来なさい、わたしこそ、神さまの明るい光の中へ入るための入口だ」と呼んでいてくださるのです。己の高さを誇り、まるで自分が神であるかのように裁き合い、殺し合いを続ける世にあるわたしどもこそ、誰よりも低くなってくださった主イエスの前に、何も持たず、立ち帰らねばなりません。そこにこそ光が、わたしどもの場所が備えられているのですから。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたがわたしどもに与えてくださった溢れる恵みを感謝します。わたしどもは、すでに神さまの明るい光の中へ招かれております。主よ、あなたの招きを素直に信じ、あなたの招きが、わたしどもだけでなく、すべての者への招きであると信じ、主の平和を、主の祝福を日々、祈り続ける者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。一日、一日、聖霊を注いでください。主よ、ウクライナでの争いが終結する前に、今度はイスラエルで、争いが始まってしまいました。お互いにミサイルを撃ち合い、多くの命が失われています。主よ、攻撃を怖れ、不安な夜を過ごしている者、家族の命を奪われ、家を失い、怪我を負って嘆きの中にある者、人質として拉致され、震えている者、望みを失ってしまった者にあなたの慰めが行き渡りますように。あなたによって
与えられる、生きる力を必要としている者が多くいます。どうか、あなたの言葉が届きますように。来週の主日は、秋の特別伝道礼拝となります。祈りつつ準備しておられる遠藤勝信(まさのぶ)先生の上にあなたの祝福と導きを祈ります。わたしどもも、家族、友人に声をかけ、礼拝へと招く者としてください。たとえ、礼拝出席が困難でも、ライブ配信を紹介する者としてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年10月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第42章1節~7節、新約 ヨハネによる福音書 第7章10節~24節
説教題:「うわべだけで裁くな」
讃美歌:546、27、132、357、544、Ⅱ-167

 10月に入り、厳しかった暑さもようやく峠を越えて、心地よい季節となりました。秋、収穫の季節。この時季、ユダヤの人たちにとって大切な祭りがあります。仮庵祭です。この祭りは収穫感謝祭の側面もありますが、由来は、出エジプトの出来事です。エジプトでの奴隷生活からの脱出と、荒れ野での40年もの放浪生活を忘れないための祭りです。40年間、定住することなく、荒れ野を転々としていた。当然テント暮らしです。しかしその間、神さまはいつも守り導いてくださった。そのことを覚えて、人々は自分の家を出て、仮庵と訳されておりますが、小さなテントをこしらえて、そこで一週間暮らすのです。強い風が吹けば飛ばされてしまうような小さなテントで暮らしながら、自分たちの存在がいかに小さく、弱く、頼りないものであるか、そして、そのよるべない存在を助け、支えていてくださるのはどなたであるのかを、思うときなのです。わたしどももまた、自分のこれまでの歩みを思うとき、思うようにいかない、先の見えない、不安なときがあった。今も、その渦中にあるかもしれません。嵐の中でひとり、テントの中で夜明けを待つような心細さ。しかし、その心細い存在のわたしどもの心が、ぽっきり折れてしまわないように、支えていてくださる方が、おられるのです。目には見えなくとも。声は聞こえなくとも。それはどなたであるのか。わたしどももまた、そのことに思いを馳せながら、み言葉を読んでいきたいと思います。
先週から、ヨハネ福音書 第7章に入りました。主イエスの兄弟たちが、主イエスに、仮庵祭でにぎわう都エルサレムで一旗上げるように勧めた、というところをご一緒に読みました。けれども、主イエスは、「まだ、わたしの時が来ていない」とガリラヤにとどまられたとありました。けれども話は続いておりまして、今日の箇所では、兄弟たちが主イエスを残して、都エルサレムに上って行ったとき、あとから主イエス御自身も、「人目(ひとめ)を避け、隠れるようにして上って行かれた」のです。第7章の1節には、すでにユダヤ人たちは主イエスを殺そうと狙っていたことが書かれていました。いわば「お尋ね者」です。ですから主イエスは、ひっそりとエルサレムに上って行かれました。
案の定、ユダヤ人たちは「あの男はどこにいるのか」とイエスを懸命に捜していました。ここで「ユダヤ人」とありますのは、ユダヤ教の指導者たちのことです。すでに、エルサレムでも、イエスの噂がささやかれていました。「『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」とあります。面倒なことには巻き込まれたくないとヒソヒソうわさ話をするだけだった、ということです。そのようなエピソードを、わざわざここに挟んだ福音書記者の意図を思うとき、わたしどもは、この、無責任で危うい群衆の中に、見たくないのですが、自分自身の姿を見ざるを得ません。ここに、わたしがいる。しかし、だからこそ、主イエスは十字架に向かって歩み続けてくださったのです。
祭りも半ばになったころ、主イエスは、エルサレムの神殿の境内で、人びとの前に姿を現し、聖書を語り始められました。あまりに見事な説教にユダヤ教の指導者たちは驚きました。彼らは、驚いて言いました。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。今でも特に芸能の世界などでは有名な先生に師事した、というプロフィールが重んじられます。師事することで箔がつく。それに似ているかもしれません。「あのイエスという男は、どの先生の教えも受けていない。それなのに、なぜ、見事な説教ができるのか?」その思いは、やっかみ、嫉妬に通じる思いです。
ご覧になっていた方もおられると思いますが、朝の連続テレビ小説「らんまん」の主人公は、小学校中退という学歴で、当時の東京帝国大学で働くことになりました。目立つ功績をあげるたびに、いつもついてきたのは、「この人は学歴もないのに」というつぶやきでした。やっかんだり、やっかまれたり。わたしどもにも多かれ少なかれ覚えがあります。ユダヤ教の教育を受けた者たちは、それぞれ、「わたしは有名な先生の教えを受けた。わたしこそ正統派の聖書学者」と胸を張っていた。それなのに、学歴もない、大工の息子であるナザレのイエスが堂々と教えを説いている。そのことばを、一方では認めながらも、嫉妬心が邪魔をして、つぶやいたのです。
主イエスは、彼らに お答えになりました。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心(みこころ)を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」主イエスは、わたしは自分勝手な話はしない。神さまが与えてくださった言葉を、語っているだけである、とおっしゃるのです。18節に、「自分勝手に話す」とありますが、直訳は、「自身から語る」という言葉です。わたしどもが話す、その言葉がどこから生まれるのかというと、そのほとんどは、自分の中にある考えです。しかし、主イエスは、「わたしは自分の中から出てくる言葉は語らない。」とおっしゃいます。自分の中から出てくる言葉を語る者は、神さまの栄光よりも、語っている自分が尊敬され、何という偉い先生だろう、凄い先生だ、と褒められることを、心の中で求めている。「栄光」という言葉は、もともと「光」という意味の言葉です。神さまにのみ、光が当たることを求めて生きる。その人は真実な人であり、不義がない。反対に、「自分たちこそ正義」と思い込み、自分にスポットライトが当たることを求める生き方は、道を間違えていると、主は言われるのです。
さらに主イエスは、モーセの名前をあげ、ユダヤ人たちに語りました。「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」ユダヤ人たちの顔色は、怒りに満ちた表情に変わったに違いありません。なぜなら、我々こそが、律法を忠実に守っていると思い込んでいたからです。自分の過ちが明らかにされるときのわたしどもの反応はひとつ。相手への攻撃です。その声はユダヤ教の指導者たちではなく、群衆から上がりました。20節。「あなたは悪霊に取りつかれている。」そして、主イエスから見透かされてしまった殺意をやっきになって否定しました。「だれがあなたを殺そうというのか。」この群衆の言葉が、むしろ彼らの殺意を明らかにしています。
ここで、「だれがあなたを殺そうというのか。」と言っている群衆たちこそ、今朝もご一緒に告白した使徒信条に登場するポンテオ・ピラトのもとで主イエスが裁判にかけられたとき、一斉に「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と狂ったように叫び続けました。これが、わたしどもの罪の現実であります。自分こそが正義だと思っている。そして、わたしの正しさを否定する神なんかいらない。何の役にも立たない、我々の罪のことばかり言ううるさいキリストはいらないと殺す。群衆の罪は、他人事ではありません。わたしどもの現実なのです。
主イエスは、最後に こう言われました。21節。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆 驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」
主イエスが21節で語っておられる「一つの業」とは、第5章に記されている一つの事件です。エルサレムにある「べトザタの池」のほとりで、38年もの間、病に苦しみ続けていた人を、主イエスが癒やされたのです。その日は、ユダヤ人たちが必ず休まなくてはならない日として大切にしている安息日でした。そのため、ユダヤ人たちは怒ったのです。「お前は、安息日にやってはいけないことをやった。安息日に働いてはいけない。安息日が過ぎるのを待たなければならない。」この事件をきっかけに、ユダヤ人たちは主イエスを迫害し始めました。
一方、ユダヤの人たちは、男の赤ん坊が生まれますと八日目に割礼を施します。ユダヤの民族のしるしを、赤ん坊のからだに刻むのです。割礼もまた、「一つの業」です。当然、安息日規定が問題となります。そこでユダヤ人たちは、「割礼は例外」と定めました。なぜなら、割礼を施さなければ、息子が神さまの祝福から漏れてしまうと考えたからです。だから、愛する息子に割礼を施すためならば、医者を呼んでもよいと定めたのです。
主イエスは、ユダヤ人たちに、深い愛と憐れみを抱きつつ、おっしゃるのです。「あなたがたは、自分たちの矛盾にまだ気がつかないのか。愛する息子の祝福のための割礼なら、安息日の掟に例外を認めている。それなのになぜ、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。」ここで、「全身」と訳されている言葉は、「全存在」と訳してもよい言葉です。「ベトザタの池で肉体の病だけでなく、生きる望みを失っていた人の『全存在』を癒やした。それなのになぜ、あなたがたは、この人に起こった救いの出来事を一緒に喜んでくれないのか?なぜ、腹を立てるのか?」主イエスの深い嘆きがわたしどもに迫ってまいります。
主イエスは、ユダヤ教の指導者たち、群衆、そしてわたしどもに、「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」と命じられます。「腹を立てる」人間は、「わたしは間違っていない。わたしには不義がない。」と思い込んでいます。わたしは正しい。その思いは相手に腹を立てます。正義を振りかざして相手を裁く。裁きの行き着くところは殺しです。実際に殺さなくても相手を否定して「あの人さえいなければ」とか、「お前なんかいらない、消えてしまえ」と思う。それは、心の中で犯す殺人です。これまでの人生の中で、わたしはいったい何人の人を殺してきたか?と思うと、おそろしくなります。
主イエスは、このときすでに十字架の死を覚悟しておられました。そのときユダヤ教の指導者たちから「神を冒瀆した。」と裁かれることも、群衆から「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と裁かれることも、ご存知であられた。すべてをご存知の上で、わたしどもの罪による間違った裁きを受けて、十字架刑に処せられました。自分勝手な正義を振りかざすわたしどもの罪を赦すために。ヨハネ福音書を貫いているのは、それは、神さまの愛のご計画によるのだ、というメッセージです。第3章16節以下。そのままお聞きください。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」主イエスは、わたしどもの全存在が赦され、癒やされることを真実に望み、十字架の死を受けてくださいました。それが父なる神さまの み心であることを知っておられたからです。その主イエスが、わたしどもを呼んでおられます。「あなたの罪は、わたしの十字架の死によってすべて赦された。だから呟くのはやめなさい。正義を振りかざして腹を立て、自分の正しさで裁くこともやめなさい。そして、わたしの十字架の もとに来なさい。後悔も、悲しみも、苦しみも、あなたの心の中にあるものを全部、わたしのもとに注ぎ出しなさい」と招いておられるのです。神さまは、わたしどもを裁くためではなく、わたしどもを救うために、主イエスを お遣わしくださいました。罪を赦された者どうし、お互いに裁き合うのではなく、赦し合い、支え合い、祈り合う日々を共に過ごしたい。心から願います。

<祈祷>
主よ、み言葉の光の中で見えてくる恐ろしい罪を、はっきり認めることができますように。主イエスを心で殺しているから、み言葉を聞かないふりをしているから、となりびとを真実に愛することができません。自分の正しさをふりかざし、だれかを裁いてしまいます。病んでしまっているわたしどもを癒やしてください。罪を赦された者として、自分勝手な言葉を捨て、ただ、あなたの栄光を現す者として、あなたの教えに、あなたの み言葉に真実に生きる者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。一日、一日、聖霊を注いでください。主よ、今日も争いが続いています。子どもたちが犠牲になり、住み慣れた街が破壊され、望みを失っている者がおります。わたしどもを諦めることなく、平和への祈りを続ける者としてください。望みを失っている者に、主にある平安を お与えください。主よ、年老いて、ここに来ることができなくなった者がおります。病を患い苦しんでいる者もおります。たとえここに来ることができなくとも、どこにあってもあなたが共におられることを信じることができますように。今日は、礼拝後に各委員会が行われます。それぞれの委員を強め、存分に用いてください。伝道委員会は、10月22日の秋の特別伝道礼拝のためのポスティングを行います。その業を祝し、一人でも多くの者を礼拝へと招いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年10月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ヨブ記 第24章1節~12節、新約 ヨハネによる福音書 第7章1節~9節
説教題:「キリストの『とき』」
讃美歌:546、52、195、Ⅱ-1、290、543

10月を迎えました。ご一緒に読んでいるヨハネ福音書も、今日から第7章に入ります。第7章の舞台は、ユダヤ地方のエルサレムです。けれども、今朝の箇所では、主イエスはエルサレムから遠く離れた ご自分の故郷(ふるさと)ガリラヤに留まっておられます。時に、「ユダヤ人の仮庵祭が近づいて」おりました。
「仮庵祭」とは、過越祭や五旬節と並ぶ、ユダヤ教の3大祝祭の一つです。毎年9月から10月に行われます。ちなみに、今年は9月29日(金)の夕方から10月6日(金)の夕方までの一週間ということで、ちょうど真最中のようです。この期間、人々は「仮庵」、仮設の家で過ごします。テントのようなものを想像していただくとよいと思います。しっかり建てられている家を出て、一週間、テント暮らしをするのです。旧約聖書レビ記 第23章42節以下には、このように記されています。どうぞそのままお聞きください。「あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々(よよ)の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。(23:42~43)」このように、「仮庵祭」は神さまのご臨在を深く思う時です。同時に、主イエスが活動なさっていた頃の人びとにとって、嘆きの時でもあったといいます。
今日は、ヨハネ福音書と共に、旧約聖書ヨブ記 第24章を朗読していただきました。冒頭1節には、健康や家族など、多くのものを失ったヨブの深い嘆きが記されています。「なぜ、全能者のもとには/さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が/神の日を見ることができないのか。」ローマの支配下でイスラエルの国の復興をどれだけ待っても、どれだけ祈っても、神の救いが見えてこない状況にあったイスラエルの民にとって、ヨブの嘆きはそのまま、自分たちのものでありました。荒れ野(あれの)を旅したモーセが率いる祖先たちは、昼は 雲の柱、夜は 火の柱を与えて導いてくださった神の力を仰ぐことができたし、飢え渇いた時にはマンナが与えられ、岩からほとばしる水をもって養われた。しかし、我々は、長くローマ帝国の圧制によって、虐げられている。「主よ、あなたは本当に今も生きておられるのですか?いつになったら、『救いの時』が訪れるのですか?」毎年「仮庵祭」が近づくたびに、そのような思いをつのらせずにはいられなかった。そんなときに、主イエスが現れたのです。病人を癒やすなどの多くの奇跡を行っておられたイエスを見て、兄弟たちは言いました。第7章3節。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世に はっきり示しなさい。」
 兄弟たちとは、いとこの範囲ぐらいの広い関係のようです。自分たちと同じ血を分けた者の中に、イエスという男がいる。彼は、人々の病を癒やし、悪霊に取りつかれた者を自由にし、驚くような力を発揮している。もしかしたらローマ帝国からの解放をもたらす救世主になってくれるのではないか。こんな田舎で くすぶっていないでエルサレムへ行って、一旗(ひとはた)揚げて来い、と促している。今、まさに仮庵祭が近づいて、エルサレムは大勢の人でごった返している。そこで特別な力を見せつければ、間違いなく注目される。絶好の機会じゃないか。
そこまで言っているのですから、兄弟たちは、自分たちの身内であるイエスを、神さまから世に遣わされた救い主と信じていたのかというと、5節には、「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」と書かれています。兄弟たちは、イエスの驚くべき数々の奇跡の業を見て驚いた。何か凄いことをやってくれるんじゃないか。救世主だ。世直しをして欲しい!と願った。けれども、ヨハネ福音書の記者は、「その思いは信仰ではない」とはっきり言うのです。
主イエスは、兄弟たちに答えて言われました。6節。「わたしの時は まだ来ていない。しかし、あなたがたの時は いつも備えられている。」不思議な言葉です。「わたしの時は まだ来ていない。」ということは、今ではないが、将来必ず来るということです。ヨハネによる福音書第1章1節には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」とありました。言語の言(げん)、ひと文字で表記されている「言(ことば)」は、神さまの み子であられる主イエスを示すと読んでまいりました。世の始めから存在しておられる主イエス。すべてのものの創造主でいらっしゃる神さまと始めから共におられ、すべてのものは主イエスによって成った。その主イエスが、「わたしの時は まだ来ていない。」と告げられました。あなたがたは自分の都合のよいときに好きなことができる。「さあ仮庵祭だ。今この時を逃してはならない」と言う。しかし、わたしはあなたがたには従わない。わたしは父なる神が定められた時に、エルサレムに上り、神の救いの業をあなたがたに示す。わたしの手の中に「時」はない。わたしは、父なる神と共に働き、父なる神のご意志を実現する以外の使命を持っていない。わたしは、父なる神に従うのみ。神の「時」に従う者なのだ。と言われるのです。
 主イエスが、「わたしの時」と言われる「時」は、ギリシア語でκαιροςカイロスという言葉です。辞典には「ふさわしい時期、好機、頃合」とありました。主イエスにふさわしい、主イエスの時。それは、永遠なる神さまが人間の歴史に触れてくださる時と言ってもよいでしょう。神さまがわたしどもの罪を赦し、その み手の中へ、わたしどもを取り戻してくださる時。父なる神がそれを実現なさる時を、主イエスは待っておられる。「時」を支配しておられるのは、神さまです。み子 主イエスですら、勝手に操ることはできない。けれども主イエスは、ご存知でいらっしゃいました。その時には、先週も説教で触れたように、ご自身で選ばれた弟子ユダに裏切られ、逮捕され、十字架に架けられることを。弟子たちが皆、自分を捨てて逃げてしまうことも。「ホサナ。ホサナ。」と主イエスを歓迎した大勢の群衆が、手のひらを返すように、「殺せ。殺せ。十字架につけろ。(19:15)」と叫ぶことも。
主イエスは、続けてこのように語っておられます。「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。」ヨハネ福音書の記者は、第7章に入った途端、「その後(のち)、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」と記していることに、敏感でありたい。主イエスに向けられる世の憎しみが、わたしどもは見えているだろうか?この、主イエスに向けられている世の憎しみが見えていないということは、先程読みました5節の「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」という み言葉に、繋がっていると思います。主イエスへの世の憎しみが見えていないで、それ仮庵祭だ、一旗揚げてこいと言っている。何かしてくれるんじゃないかと、自分に都合のよいキリストを求めている。その思いは、信頼しているように見えて利用しているにすぎません。利用できない、価値がないと見るや、簡単にひっくり返る。憎しみに変わってしまう。これは、わたしどもにとって、たいへん深刻な問題です。父なる神さまから差し伸べていただいている救いの み手を振り払い、「利用価値のない救い主なら必要なし」と、キリストを殺す。これは、ひとごとではありません。わたしども自身の問題なのです。
7節後半。「わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」主イエスが、「世の行っている業は悪い」と証ししておられる。そのことを わたしどもは、しっかりと心に刻む必要があります。聖書に書かれているのは、心地よい言葉ばかりではありません。耳の痛い言葉がある。うっかりすると「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と、主の言葉をうるさいと思う。そして自分が「時」の支配者であるかのように勘違いし、祈りがきかれないといらだち、キリストを信じたって何も変わらない、こんなはずじゃなかった、とキリストを憎み、恨む者となってしまう。その姿は、「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と叫んだ群衆であり、主イエスを裏切ってしまった弟子たちです。自分では信じていると思っているところに、罪が隠れているのです。
 はっきりと言えることは、今日の主イエスの み言葉は、審きの言葉であるということです。主イエスの み前にひざまずき、神さまがご計画してくださっている時を信じてすべてをお任せし、まことに信じる者としていただくのか、自分の都合のよい時を決め、都合のよい神の像を描いて、自分勝手に期待するのか。しかし、審きの言葉は、同時に、招きの言葉でもあります。主イエスは、すでに十字架に架かってくださり、その死をもって、わたしどもを父なる神さまのもとへ帰っておいでと、招いてくださっているからです。
 主イエスは、わたしどもひとりひとりに、日々、罪を悔い改めて立ち帰れと呼んでおられます。わたしと一緒に生きよう。わたしの甦りの命は、あなたのものだと、呼んでおられます。主イエスは、父なる神さまから示された「時」に、都エルサレムに入城されました。それは、仮庵祭ではなく、過越祭のときでした。過越祭とは、イスラエルの民が、モーセに導かれてエジプトを脱出するとき、小羊を殺し、その血を玄関の柱と鴨居(かもい)に塗ることによって、神さまが下される災いを避けた出来事に由来する祭りです。
主イエスは、「過越のいけにえ」とされた小羊のように、十字架に磔にされ、その肉を裂かれ、血潮を流してくださいました。その死によって、わたしどもの罪は赦されました。わたしどもが父なる神さまの救いの み手の中に戻って来ることができるために。わたしどもが神さまの愛の中で、永遠の時の中で、平安に過ごすことができるようになるために。主イエスは、その命を わたしどものために差し出してくださったのです。今から、聖餐の祝いに与ります。本来ならば、聖餐の祝いに与る資格などないわたしどもです。そのようなわたしどものために、主イエスは命を捨ててくださいました。わたしどもが洗礼を受け、聖餐に与るのは、その主イエスとひとつにしていただくためです。洗礼と聖餐は、十字架と甦りの主イエスが、自分勝手で不信仰な わたしどもをそのまま抱きしめ、ひとつになってくださる「しるし」です。わたしどもは、主イエスに審かれて当然である自分を知るところで、主の十字架によって「赦されている」恵みを知ることができます。主は、ご自分の命を小羊のように神さまにおささげになられました。そのようにして、父なる神さまが定められた「時」を、その身に引き受けてくださいました。その十字架の赦しのゆえに、わたしどもは、今から聖餐の祝いに与ることができます。主にのみ、栄光がありますように。

<祈祷> 
主イエス・キリストの父なる御神、すぐに頑なになるわたしどもの心を柔らかにしてください。わたしどものために流された主イエスの血潮、裂かれた肉を思い、そこで救い取られているわたしどもであること、それゆえになお、あなたを「父」と呼び得る者であることを、感謝して受け入れ直すことができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。


<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、み言葉をありがとうございます。共に み前につどい ささげる礼拝を、ありがとうございます。この場所を慕いながら、ここに来ることができない者がおります。悲しみの中にあります者、痛みを覚えております者、それらすべての者を、どうか、あなたが励ましてください。肉体の力が衰えても、霊の力は変わらざる思いに生きることができますように。どこにあっても、あなたが共におられ、日々、み言葉をもって養ってくださることを忘れることがないようにしてください。争いの絶えない世界を顧みてください。わたしどもすべてのひとが、ことに国々の指導者たちが、あなたの愛に気づき、み前に立ち帰り、一日も早く争いを終わらせることができますように導いてください。あなたの み国を来らしめてください。10月22日の秋の特別伝道礼拝、10月29日の家族礼拝、11月12日、19日のバザー、11月26日の逝去者記念主日礼拝、12月24日のクリスマス礼拝、こどもクリスマス、クリスマス讃美夕礼拝への祈りを深めていくことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年9月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第18章21節~32節、新約 ヨハネによる福音書 第6章60節~71節
説教題:「立ち帰って、生きよ。」
讃美歌:546、1、183、524、542

ヨハネによる福音書を少しずつ、読み進めております。今日で第6章が終わり、来週は第7章へ移っていきますが、いよいよあらわにされていくのは、わたしども人間の罪であります。しかしそこにこそ、わたしどもの救いが備えられています。目をそむけずに、耳をふさがずに、大切に読んでいきたいと思います。
今日の箇所に描かれるのは、主イエスの弟子たちです。主イエスを信じ、従ってきていた人たちです。弟子たちというと、まず12弟子を思い浮べますが、12弟子のほかにも、主イエスが行われた奇跡を目の当たりにした多くの者が自発的に主イエスについて来ていました。主イエスが政治的なリーダーとなってくれることを期待したのです。その人たちが、主イエスの言葉を聞いて、「こんなことを言いだすなんて、とんだ見込み違いだ。」と離れていこうとしているのです。彼らは、主イエスが、「わたしを食べなさい、そうすれば永遠の命が与えられる」と繰り返す言葉を聞き、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつぶやきました。その人たちに主イエスは、問いかけられました。「あなたがたは このことにつまずくのか。」このようなつまずきは、この時代の、この人たちだけのものではありません。ここは良い言葉だけれど、ここは信じられないと、自分の理解が及ばない み言葉を否定してみたり、洗礼を受ければ、行き詰まりを感じている今の自分が劇的に変わるのではないかと、大いに期待して洗礼を受けた。それなのに、実感として何も変わらないとがっかりしたり。下手をすると、「こんなことなら、洗礼など受けなければよかった。」とつぶやいてしまう。主イエスは今朝、わたしどもにも問うておられるのです。「あなたがたは、わたしの言葉に つまずいていないか?」
主イエスは続けておっしゃいました。「それでは、人の子がもといた所に上(のぼ)るのを見るならば……。」「このこと」とは、主イエスが、ご自分を「命のパン」と言われたことです。そのことでつまずくならば、「人の子が もといた所に上(のぼ)るのを見るならば……。」「……。(てんてんてん)」と、聖書の中ではほかにほとんど見当たらない、珍しい表現が用いられております。主イエスが言葉に詰まっておられる。「より深く つまずいてしまうに違いない。」と深く悲しんでおられるのです。
「人の子」とは、主イエスご自身をあらわす言葉です。「もといた所」とは、神さまのおられる所、主イエスがおられた所です。そこへ、主イエスが、上っていかれる。主イエスがもともとおられたところ、天に帰られることを指していると理解できますが、ヨハネ福音書においては、「もといた所に上る」を、「十字架に上げられる」という意味でも理解されます。どういうことかと言うと、主イエスが、十字架で殺されることによって、わたしどもが天に向かう道をこじ開けてくださる。主イエスが、「わたしが、もといた所である天に、あなたがたも帰ることができるよう、わたしは十字架への道を通らなければならないのだ。」と、十字架の死を覚悟しておられるのです。しかし、今ここでつまずいてしまうなら、十字架を目の前にしたときには、あなたたちは天に向かう道がますます見えないにちがいない、このままでは神さまの救いの み手からこぼれ落ちてしまうと、わたしどものために言葉を詰まらせながら、心配してくださっているのです。
主イエスは再び語り始められました。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」主イエスが「霊」について語られるとき、強く念じておられるのは、「霊」は、「救いにあずかりたい!」と願うすべての者に与えられる、そして皆、「霊」によって生かされるのだという思いです。人は皆、神さまから吹き入れられる命の息である聖なる「霊」によって、生かされると言われる。さらに主は、「わたしの言葉が霊であり、命である。わたしの言葉に耳を傾け、『アーメン』と信じ、委ねる時、あなたがたは永遠の命に生きる。」と宣言してくださっているのです。
けれども、主イエスは悲しみつつおっしゃいました。「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」主は、信じない者たちが誰であるか、また、ご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられました。主イエスは、それらの人びとが一人また一人と自分から離れ去っていくようすを見つめておられたに違いありません。深い悲しみのまなざしをもって。「父よ、霊を求める思いを、この人にも、どうか与えてください。」との熱い願いをもって。主イエスは、残った12弟子を見つめ、言われました。「あなたがたも離れて行きたいか」。シモン・ペトロが間髪を入れずに答えました。「主よ、わたしたちは だれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
すると、主イエスは言われました。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」もしも今朝、初めて教会にいらした方がいましたら、優しいイエスさまに救いを求めて来たのに、従ってきた弟子にまで「悪魔だ。」とおっしゃるなんて、と、それこそつまずいてしまうかもしれません。確かに、イスカリオテのユダは、12弟子の一人でありながら、主イエスを裏切りました。主イエスを、十字架の死に追いやる決定的な役割を担ったのはユダです。それでも主イエスは、ユダも含めて、「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。」と言っておられます。ユダを除いて、「あなたがた11人」ではありません。「あなたがた11人は選んだが、裏切り者のユダは、はじめから諦めていた。」と言われたのではないのです。
今日は、ヨハネによる福音書と共に、旧約聖書から、エゼキエル書 第18章を朗読して頂きました。預言者エゼキエルの言葉です。27節以下に、こうありました。「しかし、悪人が自分の行(おこな)った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」悪人であっても、自分の犯した悪から離れて神さまのところへ帰って行くなら、「必ず生きる。死ぬことはない。」のです。それなのに、イスラエルの民は、罪を悔い改めることなく、「神さまの方が間違っている」と、つぶやきました。ヨハネによる福音書において、神の み子 主イエスに対し、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつぶやいた弟子たちの姿が重なります。
エゼキエル書、そしてヨハネによる福音書に登場するぶつぶつとつぶやく人々。神さま、主イエスを責める人々。その中に、わたしどもがおります。どこまでも、わたしどもを愛し、赦し続けてくださる神さまの愛、主イエスの十字架による赦しを疑い、そんなことが信じられるものかと開き直る。あるいは、我々が必要としているのはそんなことではない。もっと具体的な、願いが叶うとか、運が開けるとか、敵が倒れるとか、そういうことを欲している。それが、神さまの愛を見失っているわたしどもの罪の姿です。
かつて、共に礼拝をまもっていた仲間の中にも、教会から離れてしまった者は少なくありません。お顔を思い浮べては心が重くなります。また、わたしどもも、今はこうして礼拝をまもっておりますが、突然の試練に襲われたとき、ユダのように、主イエスから離れ去ることなど絶対にないと、誰が言い切れるでしょうか。ここでは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは 永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と、主イエスに威勢の良い返事をしたペトロですら、主イエスが捕まったときには三度も「イエスとわたしは何の関係もない」と言ってしまったのです。その夜、ペトロは悪魔に負けました。その場をしのぐために、主イエスを裏切ってしまった。主イエスは、12人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と問われたとき、すでに、ユダだけでなく、ペトロが三度、主イエスとの関わりを否定することも、自らが選んだ愛する弟子たちが皆、自分を捨てて逃げ去ってしまうことも、ご存知であられたに違いありません。
しかし主イエスは、わたしどもを諦めない。簡単に悪魔の誘惑に負けてしまう わたしどもを、弱い者だからこそ、見捨てない。「わたしのもとに、帰って来なさい。」と招き続けてくださるのです。愛する弟子たちの裏切りがわかっていたからこそ、主イエスは、ユダのためにも、ペトロのためにも、「わたしは十字架で必ず死ななければならない」と覚悟を強められたのではないかと思います。弟子たちに、ユダヤ人たちに、群衆に、またわたしどもにも、「永遠の命に与って欲しい。わたしを食べ、わたしを飲む、聖餐に与って欲しい。」と願い、十字架の死へと歩み抜いてくださったのです。
主イエスは、63節で、「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と言われました。このとき、主イエスの お心には、預言者エゼキエルの言葉があったのではないかと思います。エゼキエル書には、神の霊が注がれて、石の心が柔らかな心に変えられることが記されています。エゼキエルが、神からの激しい呼びかけの言葉を取り次ぎます。「新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ(18:31)」。
 ヨハネ福音書は、第13章に、ひざまずいて弟子たち一人一人の足を洗ってくださった主イエスのお姿を記しています。その後、主イエスは十字架の死へと向かわれました。ユダの罪も、ペトロの罪も、主イエスが洗ってくださいました。わたしどもの罪も、主イエスが洗ってくださいました。主イエスがお独りで担われた十字架の死によって、わたしどもは罪を赦され、永遠の命に生きよ、と招かれているのです。
 今朝の主イエスの激しい お言葉は、深い愛です。深い憐れみです。主イエスは、悪魔に魂を乗っ取られてしまったユダの罪が赦されるために、十字架の死を選ばれました。威勢の良いことを言っていても悪魔に負けてしまう弱いペトロのために、また、すぐに「実にひどい話だ。」とつぶやいてしまうわたしどもの罪を赦すために、十字架の死を選んでくださったのです。わたしどもは皆、いつでも悪魔になり得る。しかし主イエスは、悪魔に勝利されました。復活によって、死にも勝利してくださいました。そして、わたしどもに日々、「父なる神の愛、十字架の赦し、聖霊なる神に立ち帰り、わたしと共に生きなさい。」と力強く招き続けてくださっています。日々、主の愛に立ち帰りたい。主の愛から離れてしまっている仲間たちのために祈り続けたい。いつの日か、必ず、主の愛に、永遠の命に立ち帰り、共に礼拝する日が来ることを信じて。

<祈祷>
天の父なる神さま、どこまでも深いあなたの愛、どこまでも深いあなたの赦しを知っていながら、あなたの言葉につまずき、あなたを疑い、ぶつぶつとつぶやいてしまう罪を、今、み前に懺悔いたします。主よ、あなたの愛を裏切ることなく、日々、あなたに立ち帰り、あなたと共に生きる者としてください。あなたから、また教会から離れてしまった者に、これからも聖霊を注ぎ続けてください。いつの日か、あなたに立ち帰り、再び、一緒に礼拝をささげる日がきますように。主イエス・キリストの お名前によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、この場所を慕いながら、ここに来ることができない人がいます。病床にあります者たち、旅にあります者、この朝も この世のさまざまな営みに巻き込まれています者たち、その魂ひとつひとつに、あなたに向かう思い、あなたに立ち帰る思いを与えてください。厳しい迫害に遭い、闘いを強いられている者たちを顧みてくださいますように。貧しさの故に、小ささの故に、病の故に、老いの故に、望みを失いがちな者を特別にあなたが支えてくださいますように。主よ、世界の平和を祈ります。どうか、一日も早く愚かな争いを終結へと導いてください。10月22日に予定しております「秋の特別伝道礼拝」まで1ヶ月となりました。多忙な中、説教を担ってくださいます遠藤勝信(まさのぶ)先生の ご健康を守り、聖霊を溢れるほどに注いでください。わたしどもを、特別伝道礼拝のために祈る者としてください。当日、一人でも多くの者を教会へ招いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年9月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章6節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第6章52節~59節
説教題:「わたしたちをつくるたべもの」
讃美歌:546、86、156A、298、541

今朝の み言葉を読み、今から8年前に与った聖餐の祝いを思い起こしました。2015年8月。東村山教会に赴任して初めての夏休み。群馬県草津町にある国立療養所 栗生楽泉園の中にある日本聖公会 聖慰主(せいなぐさめぬし)教会で聖餐礼拝をささげました。木造の礼拝堂。椅子ではなく、畳の上に座布団が並べられておりました。朝9時から礼拝が始まり、ハンセン病から快復された入所者の信徒さん方と一緒に聖餐に与りました。まず信徒が順に前に進み出て、祭壇の前にひざまずき、目を閉じ、手を前に合わせて口を開けます。そして司祭は、そのひとりひとりの口に、「汝のために裂かれたまいし、イエス・キリストのからだ。」と告げながら、ウエハースを入れ、「汝のために流したまいし、イエス・キリストの血。」と告げながら、ひとさじの葡萄酒を注いでいきます。いつもとは異なる手順に少し戸惑いながら聖餐に与りましたが、改めて、「ああ、イエスさまが、わたしのために体を裂かれてくださった」、「イエスさまが、わたしのために血を流してくださった」と心に刻んだ、感謝のときとなりました。
 東村山教会では、皆さんの席に長老がパンと杯を運びます。これもまた恵みです。パンと杯が主イエスですから、長老がパンと杯を持って近づくとき、主イエスがわたしどもひとりひとりのところに近づいて来てくださる。そして、「わたしを食べ、飲みなさい。」とおっしゃってくださることを心に刻みながら感謝してパンと杯に与るのです。
今朝、わたしどもに与えられた み言葉には、聖餐の恵みが至るところに散りばめられております。けれども、ここに登場しているユダヤ人たちは、どうしても同郷の大工ヨセフとマリアの息子である主イエスの言葉を信じることができません。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めたのです。主イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」
ドキリとするような み言葉です。しかし、何度も繰り返して、聖餐を受けるときと同じように心の中で噛みしめるように読むと、深い慰めと励ましが響いてまいります。たとえ、孤独の中にあっても、将来への不安を抱えていても、キリストの十字架による救いを受け入れて聖餐の祝いに与る者は、誰でも、いつも、主イエスの内にとどまる。そして、そのひとの内にも、主イエスがいつも、とどまってくださる。み言葉を受け、聖餐を受けることによって、わたしどもは主イエスとどんなときも、どこにあっても、いつも、ひとつに結ばれている。み言葉と、聖餐によって、主イエスの存在の確かさを、目と耳と口で味わうことができる。この恵みは、聖餐の時だけに限定されるものではありません。一時的なものではない。今日は第3主日なので聖餐はありません。けれども、聖餐に与る日であろうとなかろうと、わたしどもの内には、いつも主イエスがとどまっていてくださいます。そして、わたしどもも、主イエスの内にとどまっています。主イエスが、それをここに、この み言葉によって、約束してくださっているのです。
今朝の み言葉には、「食べる」という言葉が繰り返し登場します。人間の体は、食べたり飲んだりできなくなると弱っていってしまいます。病院や施設を訪問するとき、たいへん気になることは、お食事を口から食べておられるかどうかです。口から食べることができていれば少し安心します。でも、口から食べる力が衰えたり、嚥下障害があると、厳しい思いになるのです。それは、若い人でも同じです。食べる意欲がなくなると危険信号です。実際、食べ物が健康な体をつくる。わたしどもの体は、細胞によって成り立っております。その細胞のひとつひとつは、毎日の食事によって絶えず生まれ変わっています。新陳代謝です。新しい細胞が古い細胞と入れかわるのです。食事をとることができなければ、細胞は壊れる一方で新しいものに入れかわることができません。わたしどもの信仰も、これに似ていると思います。わたしどもの信仰は、主イエスの肉を食べ、主イエスの血を飲み続けることで生きる。食べ物の中の栄養分によって古い細胞が新しく生まれる細胞と入れかわるように、生きる力が日々、新しくされる。主イエスの命が行きわたるのです。主イエスはおっしゃるのです。「あなたが生きるために、わたしは わたしの肉を差し出す。あなたが生きるために、わたしはわたしの血を差し出す。だから食べなさい。飲みなさい。わたしをあなたの中に入れなさい。わたしの十字架による赦しを受け入れ、わたしをあなたの体の隅々にまでゆきわたらせなさい。」と。
57節では主イエスは次のようにおっしゃっています。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」ここで、「生きる」という言葉が、3回も繰り返されております。永遠に生きておられる父なる神さまの命が み子主イエスを生かし、主イエスの命によって、わたしどもも生きるのです。
主イエスは、その み体を、わたしどもを生かすために、ゴルゴタの丘で神さまに差し出されました。十字架の死です。その前夜、主イエスは天を仰いで長い祈りをなさいました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。(17:21)」主イエスの祈り、そして十字架の死と甦りによって、わたしどもは今、主イエスの中で生きています。主イエスもまた、わたしどもの中で生きていてくださいます。この驚くべき恵みを主に感謝しつつ、わたしどもは、聖餐の祝いに与り続けるのです。そして、この真実を教える み言葉を日々、食事を食べるように読む。口ずさむ。それが、わたしどもの命を生かします。皆さんがおうちで聖書を読むとき、ぜひおすすめしたいのは、声に出して読むことです。小さな声で大丈夫です。この み言葉が、わたしを生かす。わたしの細胞をつくる。信仰を日々新しくする。そう信じて口ずさむと、不思議と力が湧いてきます。キリストによって、聖餐と、み言葉によって、わたしどもは日々、新たにされてゆくのです。
先週の火曜日、数年前まで共に礼拝をささげ、聖餐に与っていた姉妹を、面会時間5分という制限がありましたが、病床を訪問することが許されました。息子さんから連絡があり、転倒をきっかけに衰え、今、口から食事をとることが困難になっていると伺い、本当に驚きました。病床を訪ねると、すっかり小さくなってしまった姉妹が横になっておられました。そのとき、今すぐ、聖餐に与っていただきたいと願いました。しかし残念ながら今、病院や施設では、感染症のリスクがあるため、聖餐を執行することが難しくなっておりますから、これまで何度も一緒に聖餐に与ってきたこと、共に永遠の命を得て、そして、イエスさまが再び、世にいらしてくださる日には、みな一緒に、甦りの朝を迎えることを、共に確かめて、帰ってまいりました。洗礼を受けて教会に連なるわたしどもすべての者の中に、永遠の命であられるキリストがおられます。また、キリストの中にも、わたしどもひとりひとりが住んでいるのですから、すべてを主に委ねて、安心して一日、一日を主と共に歩むことができるのです。
主イエスは続けておっしゃいました。58節。「これは天から降(くだ)って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」このメッセージは、カファルナウムの会堂、つまり神さまの お言葉が聞かれるべき礼拝堂で語られました。今、この東村山教会の礼拝堂にも、同じ主イエスの お言葉が響いています。草津の療養所にある聖公会の礼拝堂にも響いています。世界中の、どんな小さな群れであっても、キリストを信じる者たちに、そして、大切な神の家族が入院している病床にも響いているのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」

<祈祷>
天の父なる御神、わたしどもはいつの日か死すべき者です。死はいつ訪れるかわかりません。来週の主日に、ここに来る力が与えられるかどうかもわからないのです。一緒に聖餐を祝い続けた多くの兄弟姉妹が世を去りました。しかし、誰の内にも、み子は共におられますし、今も共におられますから感謝いたします。東村山教会、全国、全世界の諸教会が、永遠の命に生きる群れとして、主において一つとなり、高らかにあなたのご栄光を賛美し続けることができますよう導いてください。キリストの平和、キリストの命が、わたしたちの心のすみずみにまで、ゆきわたりますように。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。今日も礼拝を慕いつつ、病のため、痛みのため、家族の介護のため、礼拝に出席することの難しい者がおります。主よ、その場にあって聖霊で満たしてください。どこにあっても、あなたが共におられ、見捨てることがないことを思い起こさせてください。迫害の下にある教会、望みを失いかけている教会を、あなたの体なる教会として正しく導いてください。主よ、この国の歩みに深く憂いを抱いています。この世界の流れに大きな恐れを抱いています。どうか、いたずらに揺れ動くことなく、確かな思いをもちながら、何を祈り、何をなし、何を語るべきかをわきまえて生きることができますように。突然の災害で途方に暮れている者を慰め、励ましてください。先週は、芳賀 力先生のお見舞いに伺うことが許され感謝いたします。あなたのお支えにより一所懸命にリハビリに励んでおられる先生を強め、励ましてください。み心ならば、12月24日のクリスマス礼拝には一緒に み子のご降誕をお祝いすることができますよう導いてください。浜松の遠州教会で説教を担っている佐藤神学生を強め、励ましてください。神学生に説教の機会を与えてくださった遠州教会の歩みをこれからも導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年9月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 サムエル記上 第2章1節~11節、新約 ヨハネによる福音書 第6章41節~51節
説教題:「つぶやきを、祈りにかえて」
讃美歌:546、16、309、361、540、427

すでに天に召されましたが、数年前、わたしどもの教会の群れに、ひとりの夫人が転入会されました。少しおかしな表現かもしれませんが、信仰の背骨がシャンとしている、そんな印象の方でした。その方から、ある日、相談を受けました。「先生、夫が病に おかされ、今、施設で生活しております。ぜひ、夫のところに行ってお祈りしてもらえないでしょうか。」コロナ禍前でしたので、面会制限もなく、すぐに面会が叶いました。その後も、定期的に訪問を重ねていましたが、ある日、余命がもう長くはないことがわかり、再び、相談を受けました。「先生、夫は礼拝に通うこと、洗礼準備の学びも難しいです。それでも、洗礼を授けて頂きたいのですが。」長老会で協議し、病床で洗礼を授けることが決まりました。当日は、数名の長老と一緒に病院へ行き、明るい光のさすオープンスペースで洗礼式を執り行いました。すでに寝たきりになっておられましたが、その日は、車椅子に座り、わたしたちの到着を今か今かと待っておられたようです。「永遠の命を求めておられますか。イエスさまを『わたしの救い主』と信じますか。」と尋ねましたら、はっきり頷かれました。そして教会でなされる洗礼と同じように、「父と子と聖霊との み名によって、バプテスマを授ける。アーメン。」と洗礼を授け、そのあと、聖餐を執り行いました。そのときのことは今でも鮮明に思い出すことができます。聖餐に与った瞬間、表情がパーッと明るくなり、笑顔になられたのです。パンと杯を、大切に味わうようす、ニコニコと嬉しそうな表情が、忘れられません。その後、お医者さまの診断通り、3ヶ月後、天に召されました。数ヶ月でしたが、永遠の命を得たキリスト者として生き、キリスト者として天に移されたのです。わたしどももまた、いつの日か、地上の命を終えます。けれども、洗礼によって主イエスに結び合わされ、聖餐によって主イエスの命をいただいて、わたしどもは皆、死んでも生きる。神さまの愛の中に、永遠に生きるのです。
今朝の み言葉の中で、主イエスが宣言されたように、わたしどもは皆、自分の力で主イエスのもとへ来たのではありません。父なる神さまが、主イエスのもとへと引き寄せてくださいました。先ほど紹介いたしました病床洗礼と聖餐も、夫人の祈りと伝道によるところが大きいことは確かですが、そこに神さまの み力が働いてくださらなければ実現しませんでした。ここにいるわたしども、洗礼を受けた者も、まだ洗礼を受けていない者も、皆、ひとり残らず、み子主イエスを世に遣わしてくださった父なる神さまの力によって引き寄せられ、今、ここに座っております。わたしどもはそのようにして、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と宣言してくださった主イエスのもとに集められ、「わたしを信じてほしい。永遠の命に生きてほしい」と、招かれているのです。
けれども、今朝の聖書の み言葉に登場するのは、なかなか素直に主イエスを信じることのできない人々です。彼らは、主イエスと縁もゆかりもない人々ではありませんでした。むしろ、主イエスを小さい頃から知っていた同郷の人たちです。彼らは、つぶやきました。「これは、われわれのよく知っている大工ヨセフのせがれではないか。それがどうして、『わたしは天から降って来た』などとバチ当たりなことを言うのか。」彼らの反応を、わたしどもは笑ったり、非難したりできるでしょうか。わたしどもも、つぶやくことがあります。たとえ口に出さなくても、心の中でうつむき、ぶつぶつ言うことがある。
言葉は、相手に思いを届けるためのものです。それに対し、つぶやきは、宛先不明。口の中でモゴモゴとはんすうするか、あるいは地面に吐き捨てられる、心の闇です。つぶやくとき、人は相手を信用せず、疑っています。交わろうとしていません。「あんな人、いなきゃいいのに。」また、神さまの方を見てもいません。「いったい、神が何をしてくれるというのか。」「祈ったって、無駄じゃないか。」つぶやきは、わたしどもと決して無縁なものではないのです。
主イエスは、そのようなわたしどもにおっしゃいます。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしを お遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
主イエスが言われた父なる神が「引き寄せる」という言葉には、引きずってでも連れて行くという、とても強い意味があります。父なる神さまが、力づくで、思いを込めて、わたしどもを主イエスのもとに引き寄せてくださる。神さまが、「わたしを信じ、十字架の赦しと永遠の命を信じ、キリストのもとに来なさい!」とグイグイ引っ張って、連れて行ってくださるのです。つぶやき合ってもわたしどもの心は晴れません。ますます、疑心暗鬼になるだけです。主はおっしゃいます。つぶやきを祈りに変えなさい。あなたがたの心を、神に向けなさい。父なる神は、祈りの言葉を聞いて、応えてくださる。あなたを、わたしのもとへ連れて来てくださる。わたしを信じさせてくださる。そのようにして、神が連れて来てくださった者を、「わたしは決して追い出さない(6:37)」とおっしゃった主イエスの言葉を、わたしどもは先週ご一緒に読みました。そして神さまがお定めになった日に、ひとり残らず、わたしの手によって抱き起こし、復活させるのだ、とおっしゃいます。
46節で主イエスがおっしゃっているように、父なる神さまを見た者はひとりもいません。神さまの元からおいでになった方、み子主イエスだけが、神さまを直接知っておられる唯一の お方です。その方が、おっしゃるのです。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降(くだ)って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠(えいえん)に生きる。」
信じるとは、この み言葉をそのまま、丸ごと飲み込んでお腹の中へ入れることです。主イエスの み言葉に頼り切って、この救いの証しである聖餐のパンを食べるのです。わたしが洗礼を受ける前、周りの人がうやうやしく聖餐のパンをいただく様子を見て羨ましく思いました。それは、わたしが食いしん坊だったからだけではありません。死ぬのが怖かった。「このパンを食べれば、死んでも生きる。それなら、僕も食べたい。信じたい。安心したい。」そういう単純な思いでした。そんな単純なことでいいの?と言われるかもしれません。でもこのとき、神さまがそういう思いをわたしにお与えになった。そのようにしてわたしを主イエスの元へひきずって連れて来てくださったのです。
主イエスは、念を押すように、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と言われました。「世を生かす」と訳された原文は、「この世の命」という言葉です。主イエスによって、この世の命と、永遠の命とがひとつになる。境い目がないのです。どこまでも続く。聖餐をいただくたびに、わたしどもは そのことを確信し、この喜びをひとりでも多くの者と一緒に分かち合いたいという伝道の志と、互いに赦し合い、仕え合う思いを、日々、新たにしていただくのです。
わたしどもは今朝、主イエスから「つぶやき合うのはやめなさい。」と言われました。主は言われるのです。「あなた方は父なる神によって呼ばれ、わたしのもとに連れて来られた。わたしを信じなさいと連れて来られた。だから、つぶやきは捨てなさい。あなたの口も、心も、神に向かって祈るために備えられているのだ。」
先ほど、サムエル記上第2章が伝える、預言者サムエルの母になりましたハンナの祈りを朗読して頂きました。ハンナは、第1章の記すところによりますと、夫エルカナとの間に子どもがなかったことを悲しみ、神さまに非常に長い祈りをささげました。そのとき、唇は動いていましたが声は聞こえなかったのです。そのため、神殿に仕えている祭司エリは、ハンナが酒に酔ってブツブツつぶやいていると思い込んでしまいました。そのようすをとがめた祭司エリに、ハンナは伝えました。「わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。(1:15)」ハンナは、神さまを信頼し、神さまに向かって、心からの願いを注ぎ出していた。それは決してつぶやきではなく、祈りでありました。
わたしどもは、主イエスの十字架で裂かれた肉と流された血潮によって、今日も罪を赦され、こうして生かされております。「永遠の神の、愛の み手の中で生きよ」と、招かれています。ひとりうつむいてブツブツつぶやくのでなく、神さまを仰ぎ、神さまに向かって、心の中に湧き上がる願いを全部注ぎ出したい。誰にも言えないようなドロドロした思いが心に湧いてきてしまう、そんなときであっても、「神さま、どうしても赦せないんです。神さま、どうしてもわからないんです。どうぞ助けてください、力をください!」と、わたしどもの内で働いてくださる主イエスを信じて、祈りつつ生きたい。地上の命を神さまにお返しするその日まで。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもを み子のもとへ力を込めて、思いを込めて、グイと引き寄せ、導いてくださった恵みを感謝いたします。すぐにブツブツとつぶやきそうになるわたしどもを憐れんでください。試練の中にあっても、不安の中にあっても、悲しみの中にあっても、誰かに傷つけられるときも、つぶやくことなく、ただ、あなたの愛と永遠の命を信じ、あなたを信頼し、祈り、赦し合うことができますよう、導いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、今朝も教会での礼拝を望みつつ、様々な理由で礼拝に出席することのできなかった者がおります。病を抱えている者、痛みを抱えている者、仕事をしている者、それぞれの上に、聖霊を注いでください。つぶやきそうになるそれぞれの心を、あなたへの祈りへと導いてください。北アフリカのモロッコで大きな地震が発生しました。日本でも大雨の被害を受けた地域があります。悲しみをあなたが癒し、望みを失うことのないよう、慰め、励ましてください。世界を分断しているわたしども人間のとどまることを知らない欲望を、神さまどうか せき止めてください。みもとに立ち帰らせてください。互いにつぶやいて責め合い、殺し合う愚かな心を捨てて、互いに執り成しを祈りつつ助け合う心へと導いてください。来週の主日礼拝の後、敬老感謝の時を持ちます。当日、皆の体調を整えてください。ひとりでも多くの兄弟姉妹と共に礼拝をまもり、感謝の時を持つことができますように。感染症の拡大により、どの教会も礼拝出席者が減少しております。東村山教会も例外ではありません。この数年間で教会から足が遠のいてしまった兄弟姉妹に、再び、あなたを信じ、賛美する喜びを思い起こさせてください。そして、礼拝堂の空席をいつの日かいっぱいに埋めてくださいますよう聖霊を注ぎ続けてください。特に、道を求めている者に、永遠の命を求めている者に、信仰を告白し、洗礼、聖餐の恵みを一日も早く お与えください。約1ヶ月の大阪東教会での夏の教会実習を終えて、佐藤神学生が戻って来ました。お導きを感謝します。ご指導をくださった大阪東教会の吉浦牧師、教会の皆さんの上に、あなたの祝福を注いでください。

キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年9月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第26章16節~19節、新約 ヨハネによる福音書 第6章34節~40節
説教題:「わたしが命のパンである」
讃美歌:546、14、187、21-81、493、539

先週の主の日は、夏の休暇を頂いたため、愛澤豊重先生に説教を担って頂きました。わたしは一年振りに母教会である鎌倉雪ノ下教会の礼拝にあずかりました。高校3年生の秋に洗礼を受け、献身の志が与えられ、釧路へ遣わされるまで、転勤で浜松の遠州教会に通った数年を除きますと、毎週、通い続けた教会での礼拝は、恵みの時となりました。たくさんの兄弟姉妹との再会も嬉しいことでしたが、特別な再会がありました。わたしたち家族が鎌倉を去り、春採教会に遣わされてから6年間、大変にお世話になった役員さんがいました。その方のお嬢さんと、先週の主の日、鎌倉の教会で再会することができたのです。それだけでも嬉しいのですが、その方が、本日、9月3日の礼拝で信仰告白をなさることを知ったのです。先週の主の日は、礼拝後に臨時長老会が開かれ、信仰告白の試問会でした。そして本日、初めての聖餐に与るのです。飛び上がりたいほど嬉しい気持ちです。
わたしども、信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者は、聖餐に与ります。主イエスを信じていないひとから見ると、小さなパンと、小さな杯に注がれているぶどうの液を喜んで頂く姿は、不思議な光景かもしれません。それでもわたしどもは、聖餐に与るとき、大きな力を頂きます。永遠の命が約束されていることに慰めを与えられるのです。
今朝、わたしどもに与えられております み言葉は、主イエスから、すべての者への、聖餐の食卓への招きの言葉です。主イエスは言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
湖を渡って主イエスを追いかけて来た人々は、主イエスに、自分たちの必要を満たしてくれる便利な王になってくれることを求めていました。人々が求めていたのは、空腹を満たすパンでした。腹が減ったら食べさせてくれる便利な王です。けれども、主イエスは おっしゃったのです。「わたし自身が、あなたがたの命を養う  パン」だと。主イエスの お心の中にあるのは、ご自身の命によって、すべての者が、神さまの救いの中に入れられることです。間違っても、いっときの空腹を しのぐための、便利な王になることではない。「困ったときの神頼み」のような、そんなことではない。主イエスは言われるのです。「わたしは、わたしのからだを、あなたのために、父なる神に献げる。神は、わたしの十字架の死ゆえに、あなたを赦してくださる。だから、わたしのもとに来なさい。わたしを信じて欲しい。受け入れて欲しい。」と。けれども、人々には主イエスの真実が届いていない。だから主イエスは、こう言われたのです。36節。「しかし、前にも言ったように、あなたがたは わたしを見ているのに、信じない。」主は、どれほどの深い嘆きを持って、この言葉を語られたことでありましょう。
「あなたがたは、わたしを見ている。それなのに、わたしを信じない。」と深く深く、悲しんでおられる。だからこそ、言葉を続けられました。37節。「父がわたしに お与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」わたしたちの信仰は弱いものです。日々、神さまから信仰を与えて頂かなければ、すぐに涸れてなくなってしまう。そのことは、主イエスが誰よりも ご存知です。それでも、いや、それだからこそ、主イエスが、わたしどもへの招きを諦めてしまうことはありません。「いつでも、わたしのところに帰っておいで」と招き続けてくださいます。
父なる神さまは、すべてのものの造り主です。誰をも招いておられます。主イエスは、「神が招いておられるのだから、わたしが わたしのもとに来る人を、追い出すことは絶対にない」と約束してくださったのです。そこには根拠がある。それが38節以下に書かれています。「わたしが天から降(くだ)って来たのは、自分の 意志を行うためではなく、わたしを お遣わしになった方の御心を行うためである。わたしを お遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活 させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆  永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活 させることだからである。」
なぜ、主イエスが世に遣わされたのか。なぜ、主は、わたしたち信仰の薄い者たちを諦めることなく招き続けてくださるのか。その理由が丁寧に、また具体的に記されています。主イエスは、神さまの み心を行うために、世に遣わされました。神さまはわたしどもの中の たとえひとりであっても、滅びてはならない、永遠の命に生かしたい、と願っておられる。そして、わたしどもの地上の命が終わっても、神さまがお定めになった日には、主イエスが起こしてくださる。ひとりひとり、「起きなさい。甦りの朝が来たよ。」と、起こしてくださる。主イエスは、「わたしは、そのために天から 降って来たのであり、これから、神の み心に従って、あなたがたのために命を捨てるのだ。」と言っておられるのです。
主イエスの この み言葉は、主イエスが肉体を持って地上におられたときに語られたものです。わたしどもは、主イエスの姿を肉の目で見ていません。しかし、主イエスへの信仰を告白し、洗礼を受け、今日もこの後、聖餐に与ります。そのとき心に刻むのは、父なる神さまに、大切な み子を差し出させてしまったほどの、わたしどもの罪です。主イエスを、十字架の上で殺してしまったほどの、どうしようもない罪です。命ある すべてのものの父であられる神さまの愛を、信じ切ることができない。独り子さえ惜しまずに与えてくださるほどの神さまの愛に、委ね切ることができない。自分の願いに簡単に応えてくれない、便利な王ではない主イエスを裁き、呟き、「こんな王ならいらない。十字架で殺してしまえ」と、捨ててしまう。これは他でもない、わたしどもの罪です。けれども、そのような罪深い者だからこそ、主イエスの十字架の前に立ち、不信仰を悔い改め、甦りの主イエスのもとへ立ち帰る。そのとき主は、憐れに思い、黙って抱きしめ、「よく帰って来た」と喜んでくださる。「わたしは決して追い出さない。」と、約束してくださったのです。
先週、母教会での礼拝で感じたのは、あの方も、この方も衰えておられるという思いです。小学校1年生の春から通い始めた母なる教会。あれから50年が経ちました。当時、30代の方は80代。40代の方は90代になるのですから当然です。ずっと、祈り支え続けてくださった信仰の先輩たちが次々と召されている。やはり、淋しい思いになります。それでも、今朝の み言葉によって、淋しく思う必要などない、と励まされました。なぜなら、十字架で死なれた主イエスを、神さまは復活させてくださったから。さらに、世を創造された神さまが定めておられる終わりの日に、主は再び、わたしどものもとに来てくださると、約束してくださったからです。
甦りと再臨の主イエスが、ご自身の口で、神さまの み心を語ってくださった39節以下をもう一度読みます。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆 永遠の命を得ることであり、わたしが その人を終わりの日に復活させることだからである。」
愛する者が召されたとき、自らの死を恐れるとき、主イエスの み言葉を思い起こしたい。愛する者と一緒に聖餐に与った日々を思い起こしたい。甦りの主は、これまでも、今も、これからも、招き続けてくださいます。「さあ、わたしのもとに来なさい。わたしにすべてを委ね、わたしを食べ、わたしを飲みなさい。」聖餐の食卓は準備万端、常に整えられています。あとは、わたしどもが永遠の命を信じて、祝いの食卓に着くだけです。
 わたしどものために命を差し出してくださった主が、「わたしが命のパンである。」と言われました。わたしどもは皆、主イエスから、「わたしを受け入れて欲しい。信じて欲しい。信仰を告白し、洗礼を受けて欲しい。わたしのからだを食べて欲しい。わたしの血を飲んで欲しい」と招かれています。月に一度、またクリスマス、イースター、ペンテコステに、聖餐に与るそのとき、信仰の薄い わたしどもに、主イエスが宿ってくださいます。たとえ、わたしどもの肉体が灰になっても、主が宿ってくださる真実は消えません。聖餐に与るとき、わたしどもは、終わりの日の復活を喜び、待ち望む信仰を新たに与えられるのです。
主イエスは今朝も、わたしどもに語りかけておられます。「わたしが命のパンである。わたしを食べ、わたしを飲みなさい。あなたが永遠に神の み手の中で生きるため、わたしは十字架で肉を裂かれた。あなたが永遠に神の愛の中で生きるため、わたしは十字架で血潮を流した。だから、わたしの肉であるパンと、血潮である杯を受けなさい。あなたは、決して飢えることはない。決して渇くこともない。わたしが、あなたの中で永遠に生きるのだから。」

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたの み子が命のパンとなって、わたしどもを飢えから解放してくださいましたから感謝いたします。まだ聖餐の喜びを知らず、救いを求めてさまよっている者たちを み心にとめてください。そして、地上での命を与えられたすべての者が、信仰を告白し、共に聖餐の恵みに与り、永遠の命を得ることができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、聖餐の恵みに与ることを願いつつ、病のため、痛みを抱えているため、暑さのため、仕事のため、信仰が萎えているため、聖餐に与り得ない者たちを 御(おん)憐れみのうちにおいて強め、励ましてください。争いの続く世に、互いの命を大切にする思いを強めてください。他者の痛みに気づき、愛のわざを喜ぶ心を育んでください。疑いの心ではなく、互いに信じ、赦し合う心を授けてください。世界のさまざまなことに責任を負っている者のために、あなたの導きと支えがありますように。すべての者を用いて、あなたが世界の平和を確かなものとしてください。この日も愛のわざにいそしんでいる者を、医療、介護に従事している者を、あなたが強め励ましてください。新学期が始まりました。不安を抱えている子ども、教師がおりましたら、あなたの溢れる愛で包んでください。決して「ひとりぼっち」ではないと、信じさせてください。主よ、今、わたしどもの群れには4名のオルガニストが与えられておりますが、み心でしたら、さらに奉仕者が立てられますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年8月20日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第16章1節~5節、新約 ヨハネによる福音書 第6章22節~35節
説教題:「人を永遠に生かすたべもの」
讃美歌:546、13、287、Ⅱ-95、545A

ヨハネによる福音書 第6章の、主イエスが「わたしが命のパンである。(6:35)」とおっしゃった み言葉を中心とした部分を読んでおります。教会が大切に守り続けてきた聖餐に込められている神さま、主イエスの想いを、数回かけて大事に読んでいきたいと思います。
今朝ご一緒に読む場面は、5千人以上もの群衆がすべて満腹した奇跡から一夜明けた、ガリラヤ湖の湖畔から始まります。主イエスの奇跡を目の当たりにし、興奮した群衆は、「何としても、イエスを我々の王にしよう。」と主イエスを捜しました。しかし、どこにも見当たりません。群衆が血まなこになって捜すと、近くの湖畔には小舟が一そうしかなかったこと、また、小舟には弟子たちだけが乗り込み、向こう岸へと出かけたことに気づいた。「イエスはいったいどこに隠れてしまったのか?何とかして見つけなくては!」と興奮している群衆。そのとき、ティベリアスという町から小舟が数そう、やって来たのです。噂を聞き付けたほかの人々が、「奇跡なんて本当か?イエスという男に会いたい。」そのような好奇心で朝一番でやって来たのかもしれません。向こう岸へ渡って捜しに行こうにも、舟がなくて困っていた群衆にとって、まさに渡りに舟。「便乗させてほしい」と、舟でやって来た人々に頭を下げました。男性だけで5千人という群衆が皆、乗ることはさすがにできなかったでしょうから、群衆の代表が、主イエスに直談判しようと、乗り込んだと考えられます。そして、対岸にあるカファルナウムの会堂で、主イエスを発見したのです。群衆は、主イエスを見つけるやいなや、なじるように訴えました。
25節。「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」。主イエスが、自分たちの前から姿を消したことに腹を立て、「あなたはなぜ、我々の王になってくれないのか。」と、くってかかったのです。しかし主イエスは、きっぱりとおっしゃいました。26節。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」主イエスの このお答えをよく味わうために、先ほど読み過ごしてしまった箇所に戻ります。23節です。「主が感謝の祈りを唱えられた後(のち)に人々がパンを食べた場所」とあります。「人々がパンを食べた場所」だけでも十分通じるところを、「主が感謝の祈りを唱えられた後(のち)に」と丁寧に記しているのです。それが、とても大切なことであるからです。主イエスは、5つのパンと2匹の魚を手に取り、神に感謝の祈りをささげられました。この感謝の祈りを父なる神さまが受け入れてくださり、神の力が働き、5千人以上の人々が満腹した。「しかし、あなたたちはパンだけを見ている。」と、主イエスは言われます。先週の説教の中で、後(のち)の教会において、このときの主イエスの「感謝の祈り」が、「聖餐の代名詞」となったと申しました。聖餐もまた、父なる神さまが、そこに働いていてくださることを信仰の目で見なければ、ただのパンとぶどうの液です。しかし神さまは、争い、奪い合っているわたしどもの世界を深く憐れみ、み子イエスを与えてくださいました。み子は、ご自分を、わたしどもの救いのために差し出してくださいました。聖餐は、その救いのしるしです。そのことを信じるわたしどもは、聖餐のパンとぶどうの液を、十字架の上で裂かれた み子の肉と、流された血潮として、いただく。わたしどもひとりひとりのための、父なる神さまの救いのしるしとして、いただく。「わたしを食べなさい。わたしを飲みなさい。わたしが、あなたたちの中に住み、神の業を行う力を与えよう」とおっしゃる み子に信頼して、いただくのです。
群衆は、自分たちの意のままに動き、常に腹を満たしてくれる王を求めていました。だから、思い通りに動いてくれない主イエスをなじりました。ここに描き出されているのは、わたしどもの罪の姿です。自分の望みを叶えてくれる神を求め、思い通りに動いてくれないと言って、神をなじる。それでも神さまは、人の思いを遥かに超えて、わたしどもを愛してくださっています。神さまは、「わたしが与えるこのキリストを、あなたの中に据えて生きよ」と、大切な み子イエスをわたしどもに与えてくださった。その神さまの大切な み子が、わたしどものためにおっしゃいました。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。(6:27)」永遠の命に至る食べ物のために働くとは、いったい何をしたらよいのでしょう?人々は、主に尋ねました。28節、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。主イエスは答えて言われました。29節。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」「神の業」を行うために、「永遠の命に至る食べ物のために」、働くとは、神さまが主イエスを、わたしどもに お遣わしくださった救い主と信じること。主イエスに信頼し、すべてを委ねること。それが、「永遠の命に至る」はじめの一歩であると、主イエスは答えてくださったのです。
また、これに先立って、主イエスはもうひとつ大切な み言葉を、わたしどもにくださいました。永遠の命に至る食べ物について、27節で、「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」とおっしゃっています。「人の子」とは、旧約聖書の時代からイスラエルの人々が待ち望んでいたキリストです。主イエスは、ご自身のことを言っておられる。また群衆も、ある意味においてはイエスこそキリスト、と見込んで、自分たちの望みを賭けたのです。しかし、彼らが求めていたのは、神の業を行われるキリストではなく、自分たちの生活と身分をローマ帝国から取り戻し、保障してくれるリーダーでした。
そこで、彼らは言いました。30節。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」どこまでも上から目線です。しかし、よくよく自分の心の底を覗き込むと、わたしどもの中にもこのような思いがあるのではないでしょうか。主イエスが「わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださっているのに、あのこと、このこと、不安がある。恐れもある。幼子(おさなご)が親に全ぷくの信頼を寄せるようには、信じ切ることができない。それは、ここに描かれている人々の、「しるしを見せてください。あなたが信じるに値する方であることを、あなたの方で証明してほしい。そうすれば、あなたを救い主と信じよう」、という姿と、よく似てはいないでしょうか。
彼らはなお続けます。31節。「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」「イエスよ、あなたも、それをして見せてくれ」と言うのです。今朝は、旧約聖書 出エジプト記 第16章を朗読して頂きました。改めて2節以下を朗読いたします。「荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。』(16:2~3)」。
エジプトの奴隷であったイスラエルの人々がエジプトを脱出し、荒れ野で放浪生活をしていたときの出来事です。腹を空かせた人々は、指導者たちに文句を言った。そこで、指導者であったモーセは神さまに願い、神さまはマンナと呼ばれる食べものを彼らにお与えになりました。人々は、その出来事を引き合いに出し、主イエスに再び奇跡を要求したのです。
主イエスは、ここでも愛を持って答えてくださいました。32節。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降(くだ)って来て、世に命を与えるものである。」主は、言われます。「あなたがたは、パンを与えたのはモーセであり、しかも、それは過去のことと考えている。だが、モーセは自分の力で与えたのではない。父なる神が天から与えてくださったからモーセにそれができたのだ。マンナは、神が あなたがたを思い、養っていてくださることを示す『しるし』なのだ。それなのに、かつてのイスラエルの民も、そしてあなたがたも、神が、いつでもあなたがたを愛してくださっていることを忘れている。神のパンは、あなたがたのために、天から降(くだ)って来る。神のパンは、あなたがた自身の手で確保しなければならないものではない。わたしが天から降(くだ)って来て、あなたがたを生かす命のパンである。『神のパン』とは、わたし自身のこと。わたしを食べなさい。そうすれば、あなたがたは飢えることはない。わたしを飲みなさい。そうすれば、あなたがたは渇くことがない。わたしを食べれば、あなたがたは強い。わたしを飲めば、恐れは消える。わたしがあなたの中に居るのだから。」
主がおっしゃったように、「神の業」とは、主イエスが、天から降って来られた方であることを信じ、激しい嵐の中でも「わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださる主イエスに、信頼することです。不安も、恐れも、できそうもないことも、わたしの中にいてくださる主イエスならできる。親の腕の中で、スヤスヤと眠る幼子のように、少しも疑わず、信じ切って、すべてを主イエスに委ねることにより、わたしたちは互いに仕え合うことができる。愛し合うことができるのです。
わたしどもも群衆のように、主イエスを自分の欲望を満たすための道具として扱ってしまう罪を悔い改めなければなりません。欲望が満たされないと主イエスを疑い、なじってしまう。しかし、主イエスは、そのような弱さを抱えているわたしどもに、どこまでも誠実に語り続けてくださる。「わたしを信じなさい。神の愛を信じなさい。わたしは、あなたに必要なものとして神によって与えられた命のパンである。恐れることはない。わたしを食べなさい。わたしをあなたの中に受け入れ、愛の業に生きて欲しい。どんなに自信がなくても、あなたの中に在る わたしには何でもできるのだから。」 
永遠に生きておられる主イエスが、わたしどもの内に永遠にいらしてくださるから、わたしどもも死の壁を超え、永遠に、神の愛の中に在ります。主イエスに信頼し、神さまから与えられている賜物を用いて、主の栄光を共に現し続けたい。

<祈祷>
天の父なる神さま、わたしどもを永遠に生かす食べ物として、み子を世に お遣わしくださり、感謝いたします。あなたがわたしどもを養ってくださいます。み子が、わたしどもの糧となって、わたしどもを決して飢えることも、渇くこともない命に生きる者としてくださいます。主のために働く者としてくださいます。そのことを、信じ切ることができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。今こうしている間にも、世界中の各地で争いが続いていることに恥を覚え、あなたの導きを真剣に願うことができますように。奪い合うのではなく、分かち合うことが国々の間で、そしてわたしどもひとりひとりの間で、あなたの み心に適ったこととして実現してまいりますように。病床にあります者に、連日の猛暑で体調を崩している者に、看取りの疲れをおぼえる者に、肉体は健康であっても心があなたから離れたために病んでおります者のために、あなたの顧みがありますように。もしそれがあなたの み心であるならば、わたしどもの言葉と行いが、あなたの慰めを語る器として用いられますように。来週の主日は、愛澤豊重先生が説教を担ってくださいます。先生の上に、あなたの導きを祈ります。一年間の学びのために、アメリカに留学される教師と姉妹を お守りください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年8月13日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第31章1節~8節、新約 ヨハネによる福音書 第6章16節~21節
説教題:「わたしだ。恐れることはない」
讃美歌:546、9、292、519、544、Ⅱ-167

 先週の主の日、主イエスが非常に多くの人々にパンを分け与え、そこにいたすべての人が満腹した奇跡の出来事に耳を傾けました。主イエスのなさったこの驚くべきわざを目の当たりにした人々は、「この人こそ、我々が待ち焦がれていた預言者だ!」と興奮し、主イエスを、ローマを打ち倒すための王に担ぎ上げようとしました。しかし主イエスは、そのような人々の望む王となることを、良しとなさいませんでした。群衆から離れ、弟子たちもそこへ残して、ひとり、山に登られたのです。主イエスは、しばしばおひとりで祈るために山に登られました。祈りというと、わたしどもの祈りは、「ああして欲しい」、「こうしてください」というようなものになりがちですが、主イエスの祈り、それもおひとりで祈られる祈りは、父なる神さまの み心に、耳を傾けるときであったのではないかと思います。「父よ、お話しください。み心を教えてください。」と、静かなところで、ひとりで、心を静めて聴く。そのための、大切な時間であったのではないでしょうか。
ところで、残された弟子たちは、主イエスから、戻って来るのが遅いようなら日の暮れないうちに向こう岸へ先に渡っているようにと、あらかじめ言われていたのでしょう。夕方になってから、湖畔へ下りて行きました。まもなく日も沈み、暗くなる。弟子たちの中には元漁師のシモン・ペトロと兄弟アンデレや、ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネがいましたが、それでも日暮れ時、主イエスのおられない舟で移動することには、不安があったかもしれません。湖の天気の急変は何度も経験していたからです。
すると嫌な予感が的中。ガリラヤ湖名物の強い風が吹き降ろし、湖は荒れ始めました。弟子たちがいくら一所懸命に舟を漕いでも、逆風に押し戻され、いっこうに前に進まない。そんなとき、予想もしなかったことが起こりました。なんと人影が、湖の上を歩いて、舟に近づいて来たのです。弟子たちは恐れました。幽霊と思ったかもしれません。おそろしかった。けれども、その人影は主イエスでありました。
 主は言われました。「わたしだ。恐れることはない。」日が暮れてすっかり暗くなってしまった湖で、波風にもまれて今にも沈没してしまうのではないかという不安と、得体の知れない人影にすっかりおびえ、パニックになった弟子たちの耳に、聞き覚えのある、尊敬してやまない主イエスの声が響いた。「わたしだ。」その み声は、慌てふためく弟子たちの心に、どれほど深く響いたことでしょう。弟子たちだけでなく、のちの時代、教会という名の舟に乗り込み、迫害を受けていたキリスト者たちも、この物語から繰り返し力を、勇気をいただいてきたに違いありません。今、わたしどもが読んでおりますヨハネによる福音書が記された頃、キリストの名のもとに集まり、礼拝をささげるのは、命がけの行為でした。ローマ帝国による迫害が続いていたのです。300年にもわたって迫害が続いた時期。教会は、突風が吹き付ける湖のまん中で、もがき続ける小舟のようでした。常に命の危険にさらされ、おびえながら、ヨハネ福音書を生み出した教会は、それでも主イエスが「わたしだ。恐れることはない。」とおっしゃって、われわれと共にいてくださる、という確信を、記したのです。わたしどもの国の教会にも、かつて、そのような時代がありました。皆さんの中にも、子ども時代に見聞きした記憶をお持ちの方がおられるかもしれません。国を挙げて、天皇を神と崇めていた時代の中で、まことの神さまを礼拝することは、命がけの行為でした。礼拝も、当時の警察によって見張られており、説教の言葉をとがめられて、牧師がつかまることもあったと聞いています。そういう命がけの時代を踏ん張っていたわたしどもの先輩方にも、この み言葉は変わらずに響いていた。「わたしだ。恐れることはない。」この み言葉に勇気をいただいて主キリストに立ち続けた先輩方がいたから、今のわたしどもがおります。現代の日本に生きるわたしどもは、主イエスを信じているからといって、命の危険を感じることはありません。その意味では、湖は凪の状態かもしれない。教会の建物も、立派なものが与えられております。ヨハネ福音書を生んだ教会よりも、わたしどもの先輩の時代の教会よりも、間違いなく大きな、立派な建物です。波に もまれて沈む心配はないはずです。だから何の不安もなく希望に満ちて伝道し、皆、力が みなぎって舟を漕いでいるかというと・・・。
 先週の東村山教会の礼拝出席者は50名でした。猛暑ということもありますが、やはり空席が目立ちました。50名の中の5名は、教会員以外ですので、教会員は45名。さらにその中の5名は、教職者ですから、教職者を除くと、教会員は40名です。聖餐の杯がたくさん余った。コロナウイルスによる脅威がある程度落ち着いたと言える2023年の夏。観光地には、たくさんの人々が戻った。けれども、教会には戻って来ていない。舟に乗っているわたしどもの数は、確実に減っているのです。わたしどもは思う。「この先、教会はどうなってしまうのか。そこで、はたと立ち止まり、考える。もしかしたら、わたしどもは、大きな舟に乗り、気心の知れた仲間たちと共に舟の外の波風から守られている安心感の中で、今は凪だと思い込んでいただけなのかもしれません。「伝道の困難さ」という点では、現代も、昔とは違う意味で「嵐の時代」と言ってよいのではないかと思います。皆、忙しく、隣りにいる人を顧みる余裕を失っている。人々は溢れかえる情報と言葉の大波に飲まれて傷ついている。傷つけ合って、信じ合うことができなくなっている。そのような、わたしどもを囲む現状を、目を背けずに見つめると、恐ろしくなります。しかし、そのときこそ、まことに主イエスの み声が響いてくるのです。「わたしだ。恐れることはない。」
ヨハネ福音書には、この後、「わたしは○○である」との み言葉が繰り返し登場します。第6章、「わたしが命のパンである。(6:35)」。第8章、「わたしは世の光である。(8:12)」第10章、「わたしは良い羊飼いである。(10:11)」第11章、「わたしは復活であり、命である。(11:25)」第14章、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(14:6)」第15章、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(15:5)」
そのように、主イエスは、いくつもの言葉を用いておっしゃったのです。繰り返し、繰り返し、「わたしだ。わたしはここにいる。」と。目に見えるものに囚われ、「もう駄目だ」と諦めてしまう弱いわたしどもにも、主イエスは「わたしだ。安心しなさい。」と語りかけてくださるのです。夜の闇の中、荒れ狂う嵐の湖で、大波に もまれながら おびえていた弟子たちは、「わたしだ。恐れることはない。」という主イエスの み声を聴いて、主を舟に迎え入れようとしました。すると間もなく舟は目指す地に着いた、と福音書は告げます。「迎え入れようとした。」であって、「迎え入れた」とは書かれていない。不思議な感じを受けます。それでも、信仰告白、洗礼へと導かれる過程を思うと、合点がいく気がいたします。恐れと、不安に囚われている中で、近づいて来られる主イエスの姿すら恐ろしく見えるとき、主イエスの み声が響く。「わたしだ。恐れることはない。」その み声が心に届く。ホッとする。安心する。それは、主イエスに、「わたしの舟に乗ってください」と、わたしどもが口にする前から、主イエスはわたしどもを救いたい、安心させたい、父なる神さまのもとへ連れて帰りたいと願っておられるからです。主イエスの愛が、いつでも先回りをして、わたしどもを迎え入れてくださる。わたしどもが、主を迎え入れようとするときにはもう、主は わたしどもと共におられ、父なる神さまの みもとへ連れて行ってくださるのです。。
主イエスは、「わたしだ。」と声をかけてくださり、わたしどもの不安を、恐れを取り除いてくださいます。主イエス抜きで恐れや、不安を取り除くことは絶対にできません。ひとつの不安が解消されると、新たな不安が生まれる。それがわたしたちです。主イエスは、そのようなわたしたちの弱さをご自分の痛みとして受け止めてくださり、寄り添ってくださり、わたしどものために配慮してくださり、「わたしだ。恐れることはない。」と語り続けてくださるのです。それでも不安なとき、天を仰ぎ、「主よ」と祈る。すると、天から神さまの眼差しが注がれていることがわかる。聖霊が注がれていることがわかる。主イエスの「わたしだ。恐れることはない。」が聞こえてくるのです。わたしどもは、「主よ、今日も、わたしの舟に乗ってください。」と申し上げればよいのです。
勤務している学校が夏休みに入り、できるだけ皆さんとの面談を大切にしたいと願っております。先週も、ある教会員を訪問させて頂きました。その姉妹は、今朝もオンラインで礼拝をささげていることでしょう。残念ながら、礼拝出席名簿の「出席」欄に〇はされません。それでも今、自宅のパソコンを通して共に礼拝をささげているのです。姉妹は、「主イエスの奇跡物語から、元気と励ましを頂きました」と語ってくださり、わたしも姉妹から元気と励ましを頂きました。また、「オンラインで同じ時間に礼拝をささげている方が10数名おりました。その中には教会員でない方もおられると思います。嬉しいですね。」と報告してくださいました。
「東村山教会」という舟に乗るわたしどもにも、主イエスは声をかけていてくださいます。「わたしだ。恐れることはない。」わたしどもひとりひとりという小舟にも、いつも声をかけていてくださいます。「わたしだ。恐れることはない。」主イエスの み声を信じ、共にいてくださる主に委ね、舟を漕いでいきたい。喜んで語り続けたい。主イエスと共に生きる喜びを。喜んで語り続けたい。主と共に歩む旅には恐れがないことを。喜んで語り続けたい。主と共に歩む旅の目指す地は、神さまの懐であることを。

<祈祷>
天の父なる神さま、恐れの中にあっても、主イエスの「わたしだ。恐れることはない。」との み声を信じ、「東村山教会」という名の舟を漕ぎ続ける者としてください。わたしどもと共に乗り込んでいてくださる主イエスを信じ、喜んで生き、伝道への思いを篤くする者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。8月は平和を祈る月です。世界各地で続いている争いを一日も早く終結へと導いてください。わたしどもをそのために用い、平和のための祈りを日々、怠ることのないよう導いてください。教会に連なる者の中で病を患っている者、痛みを抱えている者、体調を崩している者がおります。どうか、それぞれの病、痛みを癒やしてください。また、看取っている者を強め、励ましてください。台風が接近しております。み心なら、少しでも被害が少なくすむように。全国、全世界の諸教会を強め、励ましてください。ひとりでも多くの者が、真実の救いを得ることができますように。求道生活を続けている者、夏の課題で礼拝に出席している若き魂が、いつの日か、あなたの招きに気づき、信仰を告白し、洗礼へ導かれますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年8月6日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第145篇10節~16節、新約 ヨハネによる福音書 第6章1節~15節
説教題:「少しも無駄にならない恵み」
讃美歌:546、2、93、Ⅱ-1、259、543

わたしたちは皆、神さまから素晴らしい賜物を与えられています。それなのに、気がつけば「あれが足りない、これが足りない」と嘆いて下を向いている。しかし、そのようなわたしたちに今朝、み言葉が与えられました。下を向いてしまうわたしたちを生かす、命の み言葉です。「この言葉をただ信じなさい」と、わたしたちは神さまから、今日、ここへ呼ばれ、集まって来ました。
今日の み言葉にも、主イエスの元へ集まった群衆が登場します。主イエスがたくさんの病人を癒やされた奇跡を見て、熱狂し、押し寄せて来たのです。そのようすをご覧になった主イエスは、山に登り、弟子たちと一緒にお座りになりました。見晴らしの良い丘のような山の上からは、続々と集まってくる群衆が見えます。そのとき、主イエスは、弟子のフィリポに一つの質問をなさいました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。フィリポは予想もしなかった問いかけにまごつきました。目の前には物凄い数の人々が迫っています。そんなの無理に決まっていると思いながらも、慌てて頭の中でそろばんをはじく。そして答えました。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。1デナリオンは、大人が一日働いて得る賃金。ですから、8ヶ月ぐらいの収入をつぎ込んでも足りないと思うほどの群衆が迫って来ていたのです。10節の後半に、男たちの数はおよそ5千人とありますから、女性、子どもを入れると1万人以上であったかもしれません。たとえ今、200デナリオンが手元にあったとしても、そんなに大量のパンを用意している店などあるはずがない。そんなの無理に決まっている、とのフィリポの思いがありありと伝わってまいります。
また、弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが主イエスに言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」しかしです。主イエスは言われました。「人々を座らせなさい」。主イエスのご命令です。フィリポも、アンデレも、他の弟子たちも、主イエスのなさろうとしていることがわかりませんでした。わからなかったのですが、主の ご命令に従いました。改革者カルヴァンは、この場面について、こう言っています。「かれらの速かな服従ぶりは、大いに賞賛されるに値するものである。かれらはいま、キリストの意図がなんであるかを知らず、自分たちがしていることがどんな役に立つかも知らずに、ただキリストの命令にしたがっているのだ。」どう逆立ちしても人々の胃袋を満足させることは不可能と思い込んでいる弟子たちですが、それでも、キリストの命令に、すぐに従ったのです。この弟子たちの速やかな服従は、わたしたちにとっても、大切な姿勢です。「僅か数人の教会員で、何ができるというのか。」「高齢化した教会で伝道など困難。」「教会学校もこのままでは子どもたちがゼロになってしまう。」どうしても悲観的な意見ばかりになる。しかし、目の前の現実に心を囚われ、下を向くわたしたちの心を、主は打ち破るように命じられるのです。「わたしを信じ、わたしの言葉を信じ、わたしに従いなさい。」と。
主イエスは、大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年からパンを受け取り、感謝の祈りを唱えられました。そして、座っている人々に、分け与えられました。きっと、パンを差し出した少年が最初にいただいたことでしょう。続いて、魚も同じように、少年から受け取り、感謝の祈りをささげてから、人々が欲しいだけ、分け与えられました。すると、12節にあるよう、すべての人が満腹したのです。でも、主イエスの恵みはこれで終わらないのです。主イエスは弟子たちに命じられました。12節。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」。
弟子たちは、おのおの籠を抱えて、パン屑を集めて回りました。すると、12の籠がいっぱいになったのです。頭の中で計算して、主イエスの問いかけに、そんなの無理に決まっていると決め込んでいた、信仰の貧しい12人の弟子たち一人一人が抱える籠が、ちょうどいっぱいになる恵みが、残ったのです。このとき主イエスが言われた、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」という み言葉の「無駄になる」という言葉の元のギリシア語には、「殺す」、「失う」、「滅びる」という意味があります。ヨハネによる福音書には、よく用いられている言葉です。たとえば第3章16節。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この「滅びる」という言葉と「無駄になる」という言葉が同じものなのです。主イエスは、「一人も失いたくない。一人でも滅びるのは耐えられない。あなたがたがわたしの前に座るなら、わたしの恵みはあなたにも、あなたにも溢れる。わたしの恵みがあなたにいっぱいになり、こぼれる。わたしの恵みを無駄にして欲しくない。あの人にも、この人にも、喜んで届けて欲しい。」と、心の底から願っておられる、わたしはそう思います。
ところで、第6章6節にはこう書かれています。「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。」主が、何をしようとしているか、それは、このときの出来事だけではありませんでした。主イエスは、すでに決心しておられたのです。ご自分の身体をすべての人のために、差し出すことを。熱狂して集まって来ている目の前の群衆が、いずれ「十字架につけろ」と叫び出すことも、知っておられたに違いありません。そのような人間の身勝手な罪が、主を十字架につけました。けれども、この主イエスの死こそが、すべての人の罪が赦されるための代償であったのです。うっかりすると、サラッと読み過ごしてしまいそうですが、4節に、このような み言葉が挟まれています。「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。」
過越祭は、昔、エジプトの奴隷であったユダヤ人たちを救い出すために、神さまが備えられた恵みを記念する祭りです。そのとき、ユダヤ人は、神さまに命じられた通り、小羊を「いけにえ」とし、その小羊の血によって、生きてエジプトを脱出することができました。主イエスは、ご自分が小羊のように、すべての人のために、神さまによって遣わされた「いけにえ」であることを、知っておられたのです。
主イエスは、ご自分の十字架の死のゆえに、「すべての人の罪を赦して欲しい」と、神さまに執り成すために、天から降って来られました。罪の赦しが、神さまから与えられた使命でありました。「ご自分では何をしようとしているか知っておられた」という み言葉には、このとてつもない恵みが含まれているのです。
教会では月に一度、聖餐式を行います。聖餐式で配られるパンとぶどうの液は、十字架で裂かれた主イエスの身体と流された血を、あらわしています。今朝もここに聖餐が備えられています。今朝の み言葉では、主イエスがパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられました。これは、ヨハネによる福音書における、聖餐制定の起源を示しています。ここに、聖餐の原形がある。11節の「感謝の祈り」という言葉は、のちに聖餐の代名詞となりました。聖餐式では、司式者である牧師がまず祈りをささげます。この祈りによって、今朝も、主イエスがわたしたちのために感謝の祈りを唱えてくださっていること、また一人一人に「わたしの身体を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」と渡してくださることを心に刻むのです。
 聖餐は、心で信じ、口で公に信仰を言い表した者、つまり、信仰告白をし、洗礼を受けた者だけが与ることができます。けれども、この食卓について欲しい、と招かれているのは、すべての人です。主イエスは、すべての人のために、わたしを信じて、食べなさいとご自身の身体を差し出してくださったのです。「みな一人残らず、わたしを信じて欲しい。わたしの言葉を信じて欲しい。わたしの前に座って欲しい」と、主は呼んでおられます。主が与えてくださる食べ物は尽きることがありません。主の恵みは涸れることがない。一人の例外もなく満たされるだけでなく、主の恵みをたくさんの人に伝える働き人として、籠いっぱい、手いっぱいの恵みをいただけるのです。「あれもない」、「これもない」と下を向く必要はない。恵みは溢れている。「わたしを信じなさい」とわたしたちは招かれており、ここから遣わされてゆくのです。今、罪の赦しと永遠の命に至る聖餐の食卓を、主イエスご自身からいただく大いなる恵みとして、感謝して与りたい。

<祈祷>
天の父なる神さま、ただあなたと、あなたの言葉を信じ、あなたからの溢れる恵みに生きる者としてください。今日の礼拝にあなたから招かれたすべての者が、いつの日か、聖餐の祝いに与ることができますよう聖霊を注ぎ続けてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。今日から夏期伝道実習生として大阪東教会に遣わされた佐藤神学生を強め、あなたに仕える僕として用いてください。今日、8月6日は広島、9日は長崎に原爆が投下された記念の日を迎えます。二度と戦争は行わないとあなたに誓ったにもかかわらず、世界の至るところで争いがあり、紛争があります。平和を来らせてください。平和をつくる者をひとりでも多くし、特に力ある者の中に、ひたすら平和に生きる願いを呼び起こしてください。なお厳しい猛暑が続きます。台風、大雨の被害も各地で発生しております。その中で、病床にある者を、望みを失ったような中でなお生き続けようとしている者を、あなたが深く顧みのうちに覚え、支えてくださいますように。永遠に変わらぬ望みを与えてくださいますようにお願いいたします。リハビリに励んでおられる芳賀力先生の一日も早い快復を祈ります。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年7月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第12章8節~12節、新約 ヨハネによる福音書 第5章41節~47節
説教題:「信じることができるために」
讃美歌:546、24、274、Ⅱ-195、542

第5章19節から、主イエスを神の み子と信じることのできないユダヤ人たちへの、主イエスのメッセージが続いています。先週も申しましたが、主イエスは、ユダヤ人たちを潰そうとしておられるのではありません。「わたしを信じて、神さまの救いの み手の中で生きて欲しい」と、切に願っておられるのです。「わたしたちは神を信じ、信仰生活を大事にしている。だから、わたしたちはほかの人々よりも神の近くにいる」と、思い込んでいるユダヤ人たちへの、主イエスのメッセージを、大切に読んでいきたいと思います。
主イエスは言われます。41節。「わたしは、人からの誉れは受けない。」「誉れ」という言葉は、44節にも登場します。元のギリシア語は、「ドクサ」という言葉です。辞書を調べると、「意見」、「評価」、「賞賛」、「栄光」とありました。ちなみに、2018年に新しく発行されました聖書協会共同訳は、41節を「私は、人からの栄光は受けない。」と訳しています。「誉れ」、「栄光」は、魅力的です。誰でも褒められれば嬉しい。晴れがましいことは苦手と言う人でも、誰の目にも止まらなかったり、人から誤解を受けるのを、喜びはしません。しかしそれは、あなたたちの中に神さまへの愛がないためだ、と主イエスはおっしゃるのです。
42節以下。「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。」「神さまへの愛が、あなたたちの中にあるなら、あなたたちは神さまに喜んでいただくことだけを求めるはずだ」と主イエスは言われます。「そうであれば、神さまの元からあなたたちのために遣わされてきたわたしを、喜んで迎え入れるはずだ」と。何度も申し上げているとおり、ここに登場しているユダヤ人たちは、神さまを信じ、聖書を隅から隅までよく研究し、熱心に礼拝をささげていた人たちです。「信仰熱心」と、人々から高く評価されてもいました。しかし、そうやって神に近い生活を追及し、人からの誉れを喜んでいるうちに、まるで自分が神さまのとなりに並んだかのように勘違いしてしまいました。
旧約聖書の「バベルの塔」の物語は、自分たちの技術を誇り、人々から注目されることを喜ぶ人間の、罪の物語です。天まで届く塔を建てて、神に近づき、神と並ぼうとした。神さまの愛に頼らず、自分の力に頼る生き方は、自分を神さまにしてしまうのです。今も続いている世界の争いも、正義の名のもとに、相手を悪魔と決めつけ、神さまの眼差しを忘れ、殺し合っている。その意味で、主イエスがユダヤ人たちに告げているメッセージは、争いの時代を生かされているわたしたちこそ、心に刻むべき、平和、和解へのメッセージであります。
「もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。」と主イエスはおっしゃいました。自分が神と同等であると錯覚してしまった人間は、他人(ひと)が自分より高いところにいることを許せません。互いに受け入れて誉め合うのも、自分の方が高いところにいると、安心して、誉めているに過ぎないのです。主イエスは、自分の名によっては来られませんでした。主イエスは、父なる神さまの名によって、神さまから、この世に遣わされて来られました。神さまのわたしたちへの愛によって、この世に遣わされたのです。人間よりも、遥かに高いところから来られた。そのような方として、主イエスは、わたしたちの信仰の急所を、告げておられます。「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」
主イエスは、「あなたたちは、神さまの愛が見えなくなっている。神さまが、『あなたは、わたしにとって尊い者だ』とおっしゃってくださる声が、聞こえなくなっている。」と悲しんでおられます。「その にぶくなっている目と耳を開くためにわたしはあなたたちのもとへ来たのだ。」と、訴えておられるのです。
わたしたちは今、どこに立っているでしょうか?神さまの慈愛に満ちた眼差しの中に自分の身を置き、ただ神さまから喜ばれることだけを求めているでしょうか?人から誉められなくても、たとえ、良かれと思って人にした行いが一方通行であっても、人から愛されなくても、神さまが、知っていてくださる。神さまが、愛していてくださる。そのことだけのために、喜んで生きているでしょうか?主イエスは、神さまの望まれることを行って誉れを受けるために、天から降って来られました。神さまが望まれたため、人々から受け入れられなくても、鞭打たれても、あざけられても、神さまの み心に従って、十字架に架けられ、死なれました。神さまの み心によって、誰よりも低く、低く、これ以上なく低くなってくださったのです。神さまからの誉れを受けることだけを喜びとして。そのイエスさまから、わたしたちは今朝、問われています。あなたたちは、どこに立っているか?
45節以下。「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」
主イエスは、ユダヤ人たちが尊敬し、自分たちの「生きる規範」として重んじるモーセの名をあげ、メッセージを伝えられました。モーセは、エジプトの奴隷であったユダヤ人を救い、神が与えられた土地へと導いた偉大な預言者、指導者です。当時のユダヤ人は、「聖書を記したのはモーセ」と信じていたので、旧約聖書のはじめの5つの文書は「モーセ五書」と呼ばれています。主イエスは、「あなたたちがモーセ五書を信じているなら、わたしが語ることを信じないはずがない。もし、あなたたちがわたしを救い主と信じることができないのなら、あなたたちはモーセ五書を信じていないことになる。そしてわたしを信じないことによって、あなたたちの罪はモーセから神に告発されているのだ。なぜなら、モーセ五書が指し示しているのはわたしなのだから」と言われたのです。
 今朝は、モーセ五書の一つである、申命記 第12章を朗読して頂きました。改めて8節と13節を朗読いたします。「あなたたちは、我々が今日、ここでそうしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない。」「あなたは、自分の好む場所で焼き尽くす献げ物をささげないように注意しなさい。」ここでは、「まことの礼拝」について語られています。「自分が正しいと思うような礼拝をするな。」「自分が好むような礼拝をすれば、神さまを拝んだことになると思うな。」神さまから、イスラエルの民に対する戒めです。この神さまからの戒めは、わたしたちへの戒めでもあります。あなたはどこにいるか?わたしの愛の中にいるか?まことの神に並んで立とうとしていないか?わたしから誉れを受けることだけを喜びとしているか?
主イエスは、わたしたちのために、「わたしを信じる者になりなさい」と語り続けてくださっています。その根拠が、45節です。「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。」主イエスは、ご自身を罪に定め、殺そうと狙っているユダヤ人たちに対して、「わたしが神から遣わされて来たことを信じて欲しい。わたしは、あなたがたを訴えない。わたしは、神さまに対して、『わたしに免じてこの人たちを赦して欲しい』と、あなたたちを執り成す者なのだ」と言っておられるのです。
主は、ご自分を殺そうと狙っている者にすら、「わたしはあなたたちを父なる神に執り成すために、あなたたちのもとへやって来たのだ」と言われました。「信じない者でなく、信じる者になりなさい」と、主イエスは招いてくださっています。信じる者となるために必要なこと。それは、ただ、素直になることだけです。受け入れられなくても、嘲られても、父なる神さまから喜ばれ、誉れを受けるために十字架に架けられた主イエスが、この命に免じて赦して欲しいと、わたしたちを神さまに執り成してくださいます。父なる神さまが、そのことを望まれました。神さまが、主イエスの十字架の死による執り成しを望まれたのです。そして主イエスが神さまの望まれたとおりのことを成し遂げられましたから、神さまは主イエスに栄光を、誉れを、お与えになりました。それほどまでに、大切なみ子の命をひきかえに差し出すほどに、わたしたちは神さまから愛されています。信じられないようなこの恵みの中に、ただ素直に立つ、それだけが、わたしたちに求められている、ただひとつのことなのです。
この後、第2編195番を賛美いたします。「キリストにはかえられません」と繰り返し賛美します。「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。」と語り続けてくださる主キリストの前に素直に立ちたい。人からの誉れでなく、神さまが喜んでくださることだけを喜び、賛美したい。「世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け。キリストにはかえられません、世のなにものも。」

<祈祷>
天の父なる御神、人からの誉れに一喜一憂するわたしどもの罪をお赦しください。主よ、唯一の神さまであられるあなたからの誉れを求め、自分の体で主の栄光を現す者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。連日の猛暑が続いております。礼拝を欠席している者たちのことが気にかかります。主よ、どうか、一人一人と共にあって祝福を与え、お守りください。連日、痛ましい事件、事故、災害、争いが続いております。愛する家族を失った者、生きる気力を失った者、住む家を奪われた者、今日の食事にも困窮する者を憐れんでください。体調を崩している者、病を抱えている者を憐れんでください。特に、リハビリに励んでおられる芳賀 力先生を強め、励ましてください。今日はこの後、夏のコイノニア・ミーティングを行います。共に、それぞれの課題を共有し、祈り合うときとなりますよう、導いてください。来週の主日から大阪東教会において夏期伝道実習に臨まれる佐藤神学生を強め、励ましてください。約1ヶ月の実習を通し、あなたからの召命を益々、強くすることができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年7月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第33章22節、新約 ヨハネによる福音書 第5章31節~40節
説教題:「真実の証し」
讃美歌:546、10、190、239、541

主イエスが語られた み言葉を読んでおります。主イエスに対し、心の中に殺意をふつふつとたぎらせているユダヤ人たちに向けて語られたメッセージです。31節。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」
主イエスは、はっきりおっしゃいました。「わたしは自分自身について証しをしない」と。主イエスは、ご自身を証しするために世に来られたのではありません。父なる神さまが、神さまご自身の意志を証しするために、主イエスを世に お遣わしになったのです。
今朝の み言葉に先立って、主イエスは言われました。30節。「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」主イエスのなさるひとつひとつのわざは、主イエスご自身の意志によるのではなく、父なる神さまのご意志なのです。
主イエスは、続けておっしゃいました。33節。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。」主イエスは、洗礼者ヨハネの証言を「必要ない」と、はねつけておられるのではありません。主イエスは第14章でこのようにおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。(14:6)」主イエスは、「洗礼者ヨハネは真理について証しをしたが、確かな証しがここにある」と言われます。神さまのご意志、み心そのものであられる主イエス・キリストこそが、真理であるからです。
今日の第5章31節から40節までの間に、何と11回も登場する言葉があります。それは、「証し」という言葉です。新共同訳では「証し」と訳されておりますが、元来のギリシア語では「証言」という法廷用語として訳すことのできる言葉です。
今日は、旧約聖書イザヤ書第33章の み言葉を朗読して頂きました。「まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。(33:22)」ヨハネによる福音書第5章の み言葉では、ユダヤ人が裁判官であるような印象です。ユダヤ人たちは、聖書を研究している者として、聖書の言葉をもって主を裁こうとしています。「お前は、聖書で定められた安息日を守らないばかりか、自身を『神の子』と称し、神と等しい者であると言ってはばからない。お前の罪は死刑に値する」と、裁こうとしている。主イエスは、被告として証言を求められているように見える。けれども、実はここで問われているのは、主イエスこそ、真実の裁き手であられることを信じるか、ということです。あなたたちは自分が裁判官だと思っている。しかしそれは真実であろうかと問われているのです。そしてその問いは、ユダヤ人たちだけではない。わたしどもへの問いでもあります。「ユダヤ人たち」とここで書かれている人々は、決して、みだらな行いにふけったり、あくどいことをしていた人々ではありません。掟を守り、礼拝をささげ、まじめに、聖書を隅から隅まで研究していた人々です。それゆえに、自分たちこそが神にもっとも近く、神の み心をよく知っており、裁き手にふさわしい者であると思ってしまったのです。
今、わたしどもは「主イエスを殺そうなどと考えるはずがない」と思っていますが、果たして本当にそうだろうか。この人たちに、わたしどもは よく似ていないだろうか。毎週教会へ通い、聖書に親しみ、奉仕にいそしみ、正しい生活を心がけている。けれども、いつの間にか、そのことが目的になってしまい、同じようにできない他者を裁いてしまったり、年を重ねてだんだん人の世話になることが多くなっていってしまう自分を裁いてしまったりはしていないでしょうか。「ただ、わたしにつながっていなさい」とそれだけを求めていてくださる主イエスの み手を振り払い、自分ひとりで歩こうとしていないでしょうか。まことの正しい裁き主に、わたしの王となっていただくことが、何より大切です。
また、ここでは、もうひとつ、大切なことが問われています。それは、主イエスが神の子か、否か、という問題です。先週の み言葉である第5章25節。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」主イエスが「アーメン、アーメン。これは本当のこと。」と念を押して言われた、「神の子であるわたしの声を聞く時が来た。今やその時である。」との言葉を、信じるか否か。信頼して、「アーメン、あなたこそ神の子キリストです。わたしを救ってください」と言えるのか、言えないのか。それは、先週ご一緒に読んだように、わたしどもの命に関わる重大なことです。滅びか、永遠の命かの瀬戸際です。
けれども、そのとき、主イエスは、このように言ってくださるのです。34節。「しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。」主イエスは言われたのです。「相手がまことの裁き主であることも知らずに裁こうとしているあなたたちが救われるために。わたしを殺そうとしているあなたたちが救われるために。このことだけは言っておきたい。わたしは、あなたたちを救いたい。あなたたちが避けて避けて無視してきたサマリアの人々が次々とわたしを救い主と信じ、死から命へと移されたように、あなたたちも、死から命へと移されて欲しい。」と真剣に望んでおられる。だからこそ、主イエスは、今、目の前にいるユダヤ人たちにとって、またわたしどもにとっても、耳の痛い厳しい言葉を続けられるのです。くどいようですが、それは、わたしどもを滅ぼすためではありません。その反対。「何としても救い出したい。聞いたことも見たこともない神を信じることができる道に、あなたたちを招きたい。」そのようにおっしゃってくださっているのです。
35節。「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」主イエスは再び、洗礼者ヨハネについて話されました。洗礼者ヨハネがヨルダンのほとりで神の言葉を説いていたとき、あなたたちは裁判官のつもりになって、それが真実かどうかを確かめに行った。そして、「ヨハネの言葉にもなかなかいいところがある」などと上から目線で論評していた。こういうところにも、わたしどもの罪が見え隠れします。聖書の み言葉の都合のよいところだけ拾い読みして、理解できない言葉は避けたり、勝手な解釈を加えたりする。しかし、それではいつまでたっても、真理にはたどりつけないと、主イエスはわたしどもをまっすぐに見つめて言っておられるのです。
主イエスは、ただただ「あなたがたを救いたい!」と願い続けられます。36節以下。「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
相手への真実の愛がなければ、相手を救いたい、いや、救わなければならないと思わなければ、これほど厳しい言葉は言えません。あなたたちが救われるためにと、主イエスは言われます。まことの裁判官が自ら、今からでも遅くはない。真理であるわたしのもとに来なさい、わたしと繋がりなさいと、招いておられます。主イエスはおっしゃるのです。「あなたがたは権威ある者として聖書を学び研究している。そこにこそ永遠の命があると思って研究している。でも、それではいつまで経っても、永遠の命を見つけること、得ることはできない。なぜなら、『聖書は わたしについて証しを するもの』だから。
旧約聖書も、新約聖書も、聖書が語っているのは、イエスを主と信じるなら誰にでも永遠の命が与えられる、ということです。主イエスを抜きに、聖書を読み、いくら研究しても、聖書の中に永遠の命を見つけることなどできないのです。主イエス・キリストは、「あなたに、一日も早く、そのことに気がついて欲しい。わたしのところに来て欲しい。」と、愛をもって呼んでおられます。
この後、讃美歌239番を賛美します。この讃美歌を賛美すると、主イエスのお声、主イエスのお姿を聞いたことも見たこともないはずなのに、本当に今、目の前でわたしどもを見つめ、憐れみ、わたしの涙を拭い続けてくださるイエスさまのお顔が迫ってまいります。日々、十字架の上から血潮したたる み手をひろげ、「生命(いのち)をうけよ」と招き続けてくださるイエスさまが、グイと迫ってくるように感じる。勉強が必要なのではない。立派で正しいことが求められているのでもない。十字架につけて殺してしまおうと命を狙う者さえも、主イエスは絶対に諦めない。匙を投げない。主イエスこそが神さまの み心そのものであり、真理であられるからです。どこまでも探し、どこまでも招き続けてくださる。呼び続け、待ち続けていてくださるのです。
聖書は、研究するための書物ではありません。聖書は、主イエスと出会うための書物です。主イエスと出会うために、み言葉に触れ続けたい。厳しくとも、よくわからなくとも、触れ続けるのです。主イエスこそ、わたしどもを父なる神さまのもとへと導く道です。真理です。命です。主イエスのもとにいれば、主イエスにつながっていれば、わたしどもは何も恐れる必要がありません。たとえ、死の間際にあっても恐れなくてよい。こわがらなくてよい。何の心配もいらない。つながっていてくださる主イエスにただ頼る。そこにこそ、永遠の命、永遠の安らぎがあるのです。

<祈祷>
天の父なる御神、日々、み言葉を通してわたしたちに「生きよ」と語りかけてくださり感謝いたします。日々、自分の力に頼るのではなく、ただ主イエスにつながって、主の み力に頼り切る者としてください。主よ、すべての者があなたの懐に帰り、永遠の命を得ることができますよう導いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。梅雨が明け、厳しい暑さが続いております。主よ、体調を崩している者、痛みを抱えている者を憐れんでください。先週は、芳賀先生のご家族が礼拝に出席され、近況を伺うことが許され感謝いたします。今日も礼拝を慕いつつ、病院でリハビリに励んでおられる先生を強め、クリスマス礼拝をご一緒にささげることができますように。今日はこの後、教会学校サマーフェスティバルが行われます。子どもたちと共に「主の祈りは、わたしたちの祈り」というテーマのもとで過ごします。主よ、「主の祈り」の心を子どもたちの心に刻んでください。世界の平和のために祈ります。わたしどもが戦いを一日も早く終わらせることができますよう、主よ どうか、導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年7月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第37章11節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第5章19節~30節
説教題:「死から命へ」
讃美歌:546、8、151、502、540

もしも突然、友人から、「あなたが信じている永遠の命について説明して」と言われたら、わたしたちはどう答えたらよいでしょうか。今朝の礼拝の備えをしながら、そんなことを考えました。言うまでもなく、伝説の吸血鬼ドラキュラのように100年も200年も生き続ける、という類(たぐい)のことではない。地上の命にはいつか必ず、終わりがきます。うまく伝えることができないかもしれません。それでも、これだけは言える。主イエスの言葉に、心の耳を澄まして、聴き続ける。それが永遠の命に生きるためのカギになる。すべてのものをお造りになり、命を与え、永遠を生きておられる神さまが、主イエスの言葉を通して、わたしたちに語りかけてくださるから。
主イエスの言葉には、触(ふ)れるたびに、新しい発見があります。「発見する」というより、言葉によって自分自身が「発見される」ような感覚、と言った方がよいかもしれません。繰り返し読んで良く知っていると思っていた言葉が、まったく違う響きをもって迫ってくる。この世をお造りくださり、わたしたちをもお造りくださった、すべての命ある者の父でいらっしゃる神さま。その神さまが、わたしどもひとりひとりに、「わたしと共に健やかに、平安に、生きて欲しい」と、主イエスを通して語りかけ、招いてくださるのです。
永遠の命は、聖書を研究し尽くせば理解できるものではありません。主イエスの言葉を聞き続ける。すると、主イエスをわたしたちのために お遣わしになられた神さまの愛が、心に響いてくるのです。主イエスの言葉を聞き、受け入れるとき、永遠に生きておられる神さまとの深い交わりが生まれます。神さまと一緒に、生きる者とされるのです。地上の命が終わっても、神さまとの交わりは終わることがありません。生きているときも、死ぬときも、主のお守りの中で健やかに、安心して、生きることができるのです。
今日わたしたちに与えられているヨハネによる福音書の み言葉は、主イエスのお言葉ですが、神さまの救いの奥義と言ってよい み言葉です。これを主イエスは誰に向かって話しておられるのか、というと、弟子たちではなく、大勢の群衆でもありません。何と、主イエスは、ご自分を迫害し、殺そうと命を狙っているユダヤ人たちに向けて語っておられるのです。神さまとご自分の関係、そしてなぜ、ご自分が神さまからこの世に遣わされて来たのか、その意味を、一所懸命、伝えてくださったのです。このように語り始められました。「はっきり言っておく。」
「はっきり言っておく。」と訳されている元の言葉は、「アーメン、アーメン」です。わたしたちが祈りの最後に唱える「アーメン」を、2回も繰り返しています。それは、「今からわたしが語る言葉は本当であり、真実である」と、主イエスが全存在を賭け保証してくださる言葉、約束です。今朝のヨハネによる福音書 第5章19節から30節には、この「アーメン、アーメン」が、何と三度も出てきます。この言葉を、よくよく、あなたがたに伝えておく、これは本当のこと、どうか信じて欲しいと、主イエスはご自分の命を狙う人たちに向かい、祈るように語られたのです。
最初の「(アーメン、アーメン)はっきり言っておく。」は19節。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」何と、主イエスは、殺意を抱いているユダヤ人たちに「わたしは無力である」と言われました。さらに30節でも「わたしは無力なのだ」と、念を押すように繰り返しておられます。「父なる神さまなしでは、子であるわたしは何もできない」と。しかし主イエスは、続けて言われたのです。「父なる神さまの みわざを、神の子であるわたしはそのとおりに行なう。なぜなら、父なる神さまは子であるわたしを愛して、ご自分のなさることをすべて、子であるわたしにひとつ、ひとつ、示してくださるから。」
主イエスは続けておっしゃいます。20節後半。「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」
ここで主イエスは、これから起ころうとしている神さまの秘密を打ち明けておられます。父なる神さまが、これからなさろうとしているすべての人間に対する救いのわざを、予告しておられるのです。「あなたがたは驚くことになる。これは、これまで誰も想像しなかった救いのわざだ。勉強すればわかるというものではない。あなたがたの思いを遥か高く超える、神の み心であるからだ。わたしは十字架で死ぬ。しかし、父なる神さまによって、復活させられる。神さまが新しい命を与えてくださる。そして同じように新しく命を与える権限をも、お与えくださるのだ。」と。ここで言われている命が、永遠の命です。主イエスは、ご自分を殺そうと狙っている人々に、あなたがたも、わたしの言葉を聞いて、信じて欲しい、永遠の命を受けて欲しいと、招いておられるのです。この予告どおり、主イエスは、十字架に架けられ、死なれました。しかし、三日目の朝、墓の中にはおられませんでした。神さまによって、復活させられたのです。そして、復活なさった主イエスは、主イエスの言葉を聞き、「アーメン、本当のことです」と信じる者たちに、ご自分が神さまから与えられた復活の命を、同じように与えよう、と約束しておられるのです。
2番目の「(アーメン、アーメン)はっきり言っておく。」は、24節。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」神学を勉強して、1から10までしっかり理解すれば救われるとか、何か立派なよいことを一所懸命に積み重ねていけば、最後には救われる、というのではないのです。主イエスが、これは本当のことですと、アーメン、アーメンと言われたその言葉を聞いて、主イエスをお遣わしになった神さまをただ素直に、幼い子どもが親を信じるように、信じるなら、あなたはそのときにはもうすでに、永遠の命を生きている、死から命へともうすでに移っているのだ、と宣言してくださったのです。
永遠の命について、うまく話せなくても、主イエスの言葉を聞き、信じるとき、そのときあなたはすでに永遠の命の中にいる、永遠の命を生きているのだ、と宣言されているのです。主イエスの言葉にすべてを委ねて受け入れる。主イエスをわたしたちに与えてくださった神さまの愛を信じる。そのときすでに、わたしたちは死をこえて、わたしたちを抱(だ)きかかえて守ってくださる神さまの愛の中にいる。ですからわたしたちは、恐れなくてよいのです。生きているときも死ぬときも、わたしたちは主のもの。神さまの み手の中で安心して過ごせる。平安の中にいる。それこそが、永遠の命なのです。
3番目の「(アーメン、アーメン)はっきり言っておく。」は、25節。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」現代社会を生きるわたしたちにとって、これを信じることは困難かもしれません。すでに死んだ者が、墓に入ってしまった者が、どうして神の子、主イエス・キリストの声を聞くことができるのか?しかし、主イエスは「驚いてはならない。」と言われました。28節以下。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」
「人の子」とは、主イエスがご自分のことを指して言われた言葉です。「神さまがお定めになったときが来れば、死んで墓の中にいる者たちもわたしの声を聞くのだ」と主イエスは言われます。必ず甦りの朝を迎えるのだ、わたしがあなたがたを起こすのだ、と主は約束してくださっているのです。そのために主イエスは、父なる神さまから遣わされ、十字架で死に、甦ってくださったのです。ですから、わたしたちの教会では死ぬことを「永眠」とは言いません。永遠なのは眠りではなく、命です。しかも「永遠の命」への道は、主イエスを殺そうと狙った者にすら開かれているのですから、この恵みから漏れる人は一人もいません。すべての人が「永遠の命」の中へ、神さまの愛の み手の中へと、招かれている。呼ばれているのです。主イエスは、「永遠の命」について第3章でも語っておられました。16節。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
わたしたちは、これほどの神さまの愛を知らずに過ごしておりました。それでも神さまは、ご自分の大切な独り子を、世に遣わしてくださいました。ご自分の命を狙うような者にも、神さまの救いの秘密を知らせ、何とかして、神さまの愛の中に帰って来て欲しい、信じて欲しいと、招いてくださったのです。父なる神さまは、神に背を向け、好き勝手に奪い合い、争い合っている人間を、見捨てることができない、何としても、罪を赦し、「死から命へと移って」ほしい。死んだらおしまい、そうなってほしくない。わたしの愛の中で永遠に生きてほしい。わたしがあなたがたを愛しているようにあなたがたも互いに愛し合い、大切に思い、赦し合って、安心して生きてほしい。その一心で、父なる神さまは、独り子なる主イエスを世にお遣わしくださったのです。そして、主イエスを通して、ご自身のほとばしるような愛を教えてくださったのです。
この後、わたしの大好きな讃美歌の一つ502番をご一緒に賛美いたします。この讃美歌を賛美すると、わたしはいつも涙が溢れてきます。洗礼を受けた頃、銀行員として働いていた頃、転職に失敗し、途方に暮れていた頃、神学生として歩んでいた頃、北の大地で園長の重い責任に、潰れそうになっていた頃、そして今も、ひとつ、ひとつの歌詞に「アーメン、アーメン」と繰り返したくなる讃美歌です。父なる神さまに背を向けて歩いてきたわたしどもです。本来であれば、罪の中で死んでいたこの身に主イエスは「永遠の命」を喜んで与えてくださいました。滅ぶべき この身が裁かれることなく、死を恐れる必要もなく、神さまの愛に入れられている。この驚くべき喜びを、すべての人に知ってほしい、信じてほしい。心から願います。

<祈祷>
天の父なる神さま、み子 主イエスへの信仰によって、死から命へと移っている幸いを感謝いたします。永遠の命の恵みをわたしたちだけの喜びで終わらせるのではなく、世のすべての者に宣べ伝える者としてください。死を恐れている者、望みを失っている者に、主イエスにある希望を お与えください。主イエス・キリストの み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。連日の猛暑により教会での礼拝を望みつつ、礼拝に出席できない兄弟姉妹がおります。主よ、その場にあって、わたしたちと等しい祝福を お与えください。リハビリに励んでいる芳賀力先生、体調を崩している者、痛みを抱えている者、不安を感じている者に、主よ、あなたが寄り添ってください。昨日は、わたしたちの群れに連なる者の結婚式が執り行われました。主よ、新しい家庭の上に、祝福を注いでください。新しい家庭が、あなたの み言葉にどんなときも耳を傾けることができますよう導いてください。豪雨災害により、悲しみの中にある者を顧みてください。来週は、教会学校サマーフェスティバルを予定しております。み心なら一人でも多くの子どもを招いてください。主にある喜びを、子どもたちの心にお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年7月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第42篇1節~9節、新約 ヨハネによる福音書 第5章1節~18節
説教題:「休みなく働いてくださる主」
讃美歌:546、6、242、258、539、427

 ヨハネによる福音書を第1章1節から順に、少しずつ読み進めています。今日から、第5章に入ります。冒頭「その後(のち)」とありますから、第4章の最後、故郷ガリラヤで過ごされた後、主イエスはユダヤ教の祭りに合わせて聖地エルサレムへと、上られたのです。エルサレムの神殿をぐるりと囲む高い城壁には、九つの門がありました。その内の一つ、羊の門と呼ばれる門のそばに、「べトザタ」と呼ばれる池がありました。当時、四角い二つの池があり、池の周りと二つの池の間に五つの回廊が巡らされていたそうです。そこには、色々な病を患っている人が大勢横たわっていました。なぜ大勢の病人が横たわっていたのか、ここには書かれていませんが、1節から順に読んでいきますと、3節と5節の間に、本来記されているはずの4節が抜けていることがわかります。小さな♰のマークがあるだけです。そこでヨハネ福音書の最後のページを開くと、下の段の最後に「底本に節が欠けている箇所の異本による訳文」とあり、第5章3節bから4節が書かれています。つまり、いくつかの写本には記述があるけれども、底本にはなかった、という理由で、省略されているのです。新共同訳では、本文に記すことはせず、巻末に記されているのです。こう書いてあります。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」天使がたまに降りてきて水を揺らす、その時、いの一番に飛び込めば病気が癒されると信じられていたのです。迷信の類(たぐい)でありましょうけれども、要するにもう治る見込のない病人が藁にもすがる思いで、水面(みなも)が動く瞬間を今か今かと息をのんで待ち構えていたのです。想像してみただけでも異様な緊張感と静けさが伝わってくる気がいたします。
さて、回廊に横たわる大勢の人々の中に、38年も病気で苦しんでいる人がいました。思うように体を動かせない。38年です。しかも、この人には、水が動いても水の中に入れてくれる人がいない。動いた!と思ったときには、ほかの人々が我先にと水に飛び込んでいく。その様子をただ見つめているだけ。38年間。主イエスは、その人に「良くなりたいか」と尋ねられました。「良くなりたいか」を原文に忠実に訳すと、「あなたは欲するか。健康になることを」です。そんなの当たり前のことじゃないか、と思われるかもしれません。でも、どうでしょう。ほかの人々が我先にと池に入る。本当に病気が治って家に帰る人がいたのか?今となっては確かめようもありませんが、この人には池に入る方法がない。池に入ることさえできればいくらかの可能性はあるかもしれませんが、その僅かな可能性すらない。そのような38年を思うと、もうこの人はとうの昔に「良くなること」という望みをなくしてしまっていたのではないかと思うのです。希望を失って、暗闇に包まれた心で、ただ池を眺めていた。大勢の病人たちが息をひそめるようにして水が動くのを今か今かと待っているのに、この人だけが、どこか他人事のような、遠い目をして、眺めている。そんなようすが浮んできます。だからこそ主イエスは、この人に声をかけてくださったのではないかと思うのです。この人にしてみれば、暗闇に突然、声が響いた。「良くなりたいか」と。
 わたくしごとになりますが、銀行員であったとき、38年の病の苦しみには遠く及びませんが、劣等感で心が死んだようになっていました。周りの人たちが成果をあげ、出世していくのを横目に、惰性で通勤する日々。心の中は「どうせ」という言葉でいっぱいでした。心が病んでいた。38年も病を患っていた人も、「どうせ、池には入れない。このまま死んでいくしかないのだ」と望みを失い、「良くなりたい」という心を捨てていたと思うのです。そのような諦めの心を主イエスはすべて知ってくださった。そして、「良くなりたいか」とのひとことによって、彼が捨てていた希望の光を、ともしてくださったのではないでしょうか。
 病人は答えました。7節。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」「主よ、無理なんです。自力であの池に飛び込むことはできないのです。」そう訴えた。「主よ、わたしの主よ」と希望の光をともしてくださった主イエスにすがったのです。
 そのとき主は、この人に癒しの言葉をかけてくださいました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに足腰がしゃんとし、自分の寝床を担いで歩き出したのです。けれどもこの話は、めでたしめでたしで終わらない。続きがあるのです。ページをめくると、「その日は安息日であった。」と書いてある。そして、ユダヤ人たちが登場するのです。ユダヤ人たちは、寝床を担いで歩いている人を見つけるやいなや、「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」と叱責しました。
ちょうど今、水曜日の「御言葉と祈りの会」で安息日規定について学んでおりますが、旧約学者の雨宮慧(あめみや さとし)先生は、安息日規定について、こう記しておられます。「安息日とは単純な骨休めの日ではありません。自分の過去において神が払った配慮に目を向け、社会的弱者に取るべき態度を思い起こし、残りの六日間をその心で生き抜くための日なのです。新約聖書のイエスの態度もこのような流れの中で見るべきです。イエスは安息日そのものを否定したのではなく、安息日に禁止されている仕事の細則に目を奪われ、安息日の本質を忘れ去った人々を厳しく批判しました。ですから、イエスは安息日を否定したのではなく、安息日の基本に立ち帰ろうとしたと言うべきです。」
安息日の基本とは何でしょう。旧約聖書 出エジプト記 第23章にこのような み言葉があります。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛や ろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。(23:12)」社会的に弱い立場の者を守る。そのための安息日なのです。ですから主イエスが38年も病に苦しみ、希望を失っていた人に癒しと望みを与えられたのは、安息日に最もふさわしい行為でありました。雨宮先生が書いておられるように、主イエスは、安息日を否定しておられるのではありません。38年、休む間もなく苦しみ続けていた人に、安息を与えてくださったのです。
それでも、病気を癒やしていただいた人は、律法違反を指摘されて、困ってしまい、咄嗟にこう言い訳しました。「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」。人間の弱さがボロッと出てしまうのは、こういうときであると我が身を振り返ってつくづく思います。そして、聖書のはじめに記されている人間の罪の歴史の発端を思い起こす。食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまったアダムは、神さまに、あなたがわたしに与えた女が食べろと言ったから食べたのだと言い、エバはエバで、蛇が食べろと言ったからだと、神さまに訴えた。わたしが悪いのではない、神さま、あなたが与えた女が悪い、あなたのつくった蛇が悪い。つまりは神さま、あなたのせいだ。病を癒やしていただいた人は、自分を癒やしてくれたのが誰なのか、わかっていませんでしたが、結果的に、同じことを言ってしまったのです。この人は、わたしたちの代表です。
しかし主は、神殿の境内を歩いていたこの人に再び出会ってくださいました。そして、再び言葉を与えられたのです。14節。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」これはいったいどういうことでしょうか。主イエスは、因果応報、罪を犯せば、また病気になるぞ、それももっとひどいことになるぞ、と脅しておられるのでしょうか。けれども先を読みすすめていくと、第9章で主イエスははっきりと、人の不幸や病気と、罪との関係を否定しておられる。では、どういうことか。
食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまったアダムとエバは、どうなったでしょうか。楽園を追い出されてしまったのです。アダムとエバが、あのとき「ごめんなさい」と、神さまの前に心から悔い改めていたら、また違う結末があったでしょうか。それはわかりません。わかりませんが、アダムは、あなたがわたしに与えた女が食べろと言ったから食べたのだと言った、エバは、蛇がそそのかしたのだと言った、二人はその言葉によって、自分自身で神さまの愛の外へ飛び出して行ってしまったのではないかと、わたしは思う。この病を癒やされた人に、主イエスがもっと悪いことがおこるかもしれないと言われたのも、そういうことではないでしょうか。あなたは、せっかく良くなったのだ。わたしの言葉によって癒された。わたしの業が、あなたに働いた。このわたしの救いの中に立ちつづけてほしい。神の愛の中に、いつづけてほしい。神の愛の外に飛び出していかないでほしい。神の愛の外ほど、惨めで悲しい生き方はないのだから、と言っておられるのではないかと思うのです。
しかし、この人は、境内から立ち去り、ユダヤの人々に「自分をいやしたのはイエスだ」と知らせました。神さまに救っていただいた、神さまの救いのわざがわたしに働いてくださった。その喜びの中で生きることよりも、社会的に認められ、ユダヤ民族の共同体の中に受け入れられることを選んだのです。この人の選択を責めることは、わたしたちにはできません。わたしたちもまた、社会的に孤立することを恐れてしまう者であるからです。癒された人の、またわたしたちの、そのような心によって何が起こったか。結果的に、「ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。」のです。迫害を強めるユダヤ人たちに、主イエスはおっしゃいました。17節。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」この言葉によって、ユダヤ人たちの怒りは殺意に変わりました。聖書には、その理由が書かれています。18節。「イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」どこの馬の骨かわからないこの男が、我々の共同体の規則を破っただけでなく、神に対し、「わたしの父」と言った。「自分は神と等しい者だ」と平然と言ってのけた。とうてい生かしてはおけない。ユダヤ人たちの中にも、わたしたちの罪の姿があります。主イエスを受け入れようとしない闇は、けっして他人事ではないのです。わたしたちは、もしもそこにいたとしても、主イエスを殺そうなどと考えるはずがないと思っているかもしれませんが、大事な祭の日、皆で礼拝している最中、田舎者の正体不明の男が我々の大事な決まりを破って、働いている。あろうことか、神の名を語って病人を癒やしている。許せないと殺意を抱いたのはほかでもない、敬虔なユダヤ教の指導者たちでした。神を信じているはずの者たちが、神から遣わされた方を殺そうとしたのです。そのようにして、まことの王であられる神さまを自分たちの決まりの中へ閉じ込める心が、自分たちの信じたい、信じやすい神の像をつくりあげて神さまをその中に閉じ込めようとする心が、まことの神を殺すのです。
主イエスは、今朝もわたしたちに語りかけてくださいます。望みを失い、「どうせわたしは」と呟くわたしたちに。せっかく立ち上がらせて頂いたのに、またぞろ救いの中から迷い出ようとしてしまうわたしたちに。勝手に神さまの像をつくり上げ、まことの神さまに背を向けようとしてしまうわたしたちに。「わたしの愛にとどまりなさい。どんなときも、わたしを頼りなさい。わたしは休むことなく、あなたを支えている。」と。主イエスの十字架が、罪の中にあったわたしたちを立ち上がらせてくださいました。神の み手の中へ、立ち帰らせてくださいました。
今日、主の日は、わたしたちの安息の日です。わたしたちが寝ていた床を担ぎ、歩き出した日です。主にある希望を与えて頂いた日です。わたしたちは、床を担いで、歩き続けることができる。証しすることができる。証しとは、じっと横たわっているしかなかった自分が、寝床を担いで歩くことです。「わたしはかつて、この寝床に横たわっていた。誰も助けてくれないとうらんでいた。良くなることを諦めていた。でも、主イエスが近づいて来られ、心を寄せてくださった。『あなたも良くなれる。健やかになれる。』と救いへと招き入れてくださった。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』と言ってくださった。だからわたしは、床を担いで歩く者となった。わたしを見てください。わたしがその証人です。」と、歩み続けることです。胸を張って語り続けたい。どんなときも、主の み声を聞き続けたい。わたしたちの病は、良くなったのですから。

<祈祷>
天の父なる御神、あなたに頼ることを忘れ、「どうせ」と呟いてしまう罪を赦し、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。」と宣言してくださいました恵みを感謝いたします。日々、あなたから迷い出ることのないようにしてください。どんなときも働いてくださるあなたに信頼し、あなたの愛を証しする者としてください。主イエス・キリストの み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。猛暑の日々が続いております。暑さのため、体調を崩している者を憐れみ、力をお与えください。各地で豪雨災害も発生しております。望みを失っている者を憐れみ、生きる力をお与えください。ウクライナでの戦いは今も収束の気配すらありません。主よ、戦争を終わらせる知恵と勇気を、政治を司る者に、お与えください。諦めることなく、あなたの平和がなりますようにと日々、祈る者としてください。リハビリに励んでおられる芳賀力先生をお支えください。祈りつつ看取っておられるご家族の健康もお守りください。今朝も礼拝を慕いつつ、様々な理由で礼拝に出席できない者がおります。その場にあって、あなたの愛で満たし、どこにあっても、あなたが共におられることを信じる者としてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年7月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ハバクク書 第3章17節~19節a、新約 ヨハネによる福音書 第4章43節~54節
説教題:「信じるということ」
讃美歌:546、12、280、21-81、522、545B

ヨハネによる福音書を、少しずつ読み進めております。6月は、主イエスとサマリアの女性の対話と、それに続いて、サマリア地方のシカルの町の多くの人々が、主イエスを救い主と信じた、というエピソードを読んでまいりました。ユダヤ人とは犬猿の中であったサマリアの多くの人々が、主イエスの言葉を聞いて、主イエスこそが、待ち望んでいた救い主、メシアだと信じたのです。この出来事は、ユダヤ人である弟子たちにとって、これまで味わったことのないほどの衝撃であったことでしょう。その後、主イエスと弟子たちはそこを立ち、目的地、ガリラヤのカナへ向かいました。
ヨハネによる福音書を書いた記者は、マタイ福音書、マルコ福音書、そしてルカ福音書にもそれぞれ記されている、印象深い主イエスの お言葉を記しています。44節。「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」ちなみにマタイ福音書は、このような主イエスの お言葉です。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである(マタイ福音書13:57)」。マルコ福音書は、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである(マルコ福音書6:4)」。そしてルカ福音書は、「はっきり言っておく、預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。(ルカ福音書4:24)」それぞれ表現は微妙に違っていますが、基本的には同じことを記しています。四つの福音書の記者が、「この言葉は削ることができない」と考えて記したのですから、やはり特別な意味があると思います。
「故郷(こきょう)」とは、主イエスがお育ちになったナザレの村を含む、ガリラヤ地方一帯のことでありましょう。主イエスは、サマリア地方では、ユダヤ人から見下されていたサマリアの人々との深い交わりを喜ばれた。一方、ご自分の故郷ガリラヤ地方においては、かつて、「故郷では敬われないものだ」と言わざるを得ないような体験をなさった。そのような主イエスの お言葉を、ヨハネ福音書は、ここにわざわざ挟んで記しているのです。
けれども、それに続いて書かれているのは、ガリラヤの人々の、主イエスに対する意外な反応です。45節。「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。」しかしそのあとに、ただし書きが続きます。「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」ガリラヤの人たちは主イエスを歓迎しました。しかしそれはあくまでも、祭りのためにエルサレムへ行っていたときに、ちょうど主イエスが奇跡を行われたのを見ていたからだ、とはっきり記されているのです。わたしどもが既に第2章で読みました23節以下には「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」とありました。多くの人が奇跡を見たから信じた。しかし主イエスは、そのような信仰を信用されなかったのです。そのように、わたしどもの信仰は、まったく当てにならない。主が守ってくださるのでなければ、もろいのです。信じているつもりでも、自分の思い通りに動いてくれるキリストでないと、がっかりして、いとも簡単に信じることをやめてしまう。ガリラヤの人たちが主イエスを歓迎したことは事実でしょう。しかし、それは、主イエスに信用されない信仰の心を持って歓迎したに過ぎないのだと、ヨハネ福音書ははっきり書いているのです。それはのちに、主イエスが ろばの子に乗ってエルサレム神殿に入城されたときの光景を、わたしたちに思い起こさせます。大勢の群衆が喜んで「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。(12:13)」と、主イエスを喜んで迎えた。なつめやしの枝を振って「ホサナ、ホサナ、万歳、万歳」と喜んだ。ところが、その数日後には、「殺せ。殺せ。十字架につけろ。(19:15)」と叫び、主イエスは十字架に上げられたのです。調子のよいときは神さまに守られていると感謝しても、何かことが起これば、自分の思い通りに動いてくれない救い主など必要ないと、簡単に捨ててしまう。いかにわたしどもの信仰が危ういものであるか。ヨハネ福音書が、「イエス御自身は彼らを信用されなかった」と書いていること、「故郷では敬われないものだ」と記していることを、忘れてはなりません。また、ヨハネ福音書は、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と第1章5節に記しました。世を照らすために天から降って来られた光である主イエスを、暗闇であるわたしたちは、理解しなかった。信じなかった。受け入れなかった。こんな弱くみすぼらしい男は我々の救い主ではないと追い出し、捨てた。十字架につけて殺してしまったのだと、福音書は冒頭からズバッと指摘しているのです。このことはヨハネ福音書を貫いている一本の芯と言って良いと思います。わたしたちは、自分の内面そのものであるこの現実から目を逸らしてはなりません。しかし、それでも、主イエスは、「もう二度と故郷には行かない」とはおっしゃらなかったのです。「敬われない」とわかっていても、来てくださった。再びガリラヤのカナの地を訪ねてくださいました。諦めてはおられなかった。さらには、十字架が待っていると知りつつ、数日後には捨てられることを承知の上で、エルサレムへ入られた。「ホサナ、ホサナ」という歓迎を、あえて受け入れてくださった。このことはわたしどもにとって決して忘れてはならない痛みであると同時に、限りなく大きな慰めであり、恵みであり、希望です。
46節以下。「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」いつも思うのです。主イエスの行動は、偶然のようでありながら、必然であると。それぞれにふさわしいときに、思いもよらないなさり方で、一人、一人に、出会ってくださる。例えば、ルカによる福音書になりますが、嫌われ者の取税人ザアカイの物語。ザアカイは、まさか自分の名前が呼ばれるとは思ってもいなかった。それでも、主イエスはエリコの町に行き、ザアカイに声をかけてくださった。ザアカイだけでなく、サマリアの女性、12人の弟子たちも、それぞれ予想もしないときに、主イエスから声をかけて頂いた。招かれた。その結果、それまでとは180度違う人生を、それぞれ生きることになりました。今日の み言葉に登場する王の役人も同じだったと思うのです。ただ藁にもすがる思いで、主イエスのもとに行ったのです。
王の役人ですから、王の権威によって何でも命じることができる人でしょう。その役人が、王の権威を笠に着て命じるのではなく、なりふりかまわず頼んだ。もしかすると、主イエスの足もとにひれ伏したかもしれません。それほど必死であった。わたしたちも、もしも自分の愛する家族、まして、自分よりも年齢の若い、これからという人が瀕死の状態にあれば、「何としても癒してください。お願いいたします。」地面に頭をこすりつけて、イエスさまにただただ お願いするに違いない。そして、「あなたの信仰があなたを救った」とすぐに癒していただけると思い込んでいるようなところがあるかもしれません。けれども、主イエスは、まるで意地悪をしておられるかのように、言われたのです。
48節。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。ここでも、わたしたちの信仰がどれほどあてにならないものであるかが、突き付けられます。意地悪ではない。信仰が問われている。主イエスは、「あなたは」、でなく、「あなたがたは」と言われました。あなたがたの信仰は しるしを求める信仰ではないか?病が治るのをその目で見なければ信じることができないのではないか?わたしの言葉をそのまま、ただ素直に、受け入れることができるか?わたしたちは、そのように問われているのではないでしょうか。
49節。「役人は、『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った。」早くしないと死んでしまう、と焦る王の役人に、主イエスは何と言われたでしょうか。再び、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と突っぱねられたでしょうか。そうではありませんでした。主イエスは、役人に、約束の言葉を与えられたのです。すぐに見えるしるしの代わりに、言葉を与えられた。ただ一言。50節。「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』」救いの約束の言葉を、与えられたのです。あなたの息子は死ぬことなく、生きる、だからこのまま帰りなさいと。そのとき役人は、主イエスの約束の お言葉を、100%信じました。50節後半。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」ただ主イエスの言葉を信じた。約束を、信じた。信じて、帰って行きました。半信半疑であったら、帰ることはできません。「いや、何としても一緒に来て欲しい」と願ったことでしょう。100%大丈夫。必ず息子は生きると、主イエスの言葉をそのまま信じた。見なくても、ただ素直に信じた。だから帰って行ったのです。結果は、51節以下にあるとおりです。「ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、『きのうの午後一時に熱が下がりました』と言った。 それは、イエスが『あなたの息子は生きる』と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。」
主は、「あなたがたは?」と問うておられます。あなたがたは、わたしと繋がっているのだから、死をこえて、生きる者とされている。わたしのように生きることができる。赦し合うことができる。互いに仕え愛し合うことができる。その言葉、約束を、アーメンと100%信じて、それぞれの家へ安心して帰りなさいと、主は わたしたちに語りかけておられるのです。
今から聖餐に与ります。聖餐は永遠の命の約束です。王の役人に言われた言葉、「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と同じ、救いの約束です。わたしたちも王の役人の信仰に生きることができる。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」との 主イエスの み言葉に、ただ、「アーメン。主よ、本当にその通りです。」と応え、信じ、それぞれの歩みへと旅立つことができるのです。
信仰は、自分の力で獲得するものではありません。今は洗礼を受けていない者にも、主ご自身が、それぞれにふさわしいときにキリストを見る心の目を、み言葉を聞き取る心の耳を、開いてくださいます。そして聖霊が、日々、わたしたちの信仰を強めてくださいます。王の役人のように、わたしたちだけでなく、家族もこぞって、また、わたしたちに委ねられている隣(とな)り人が皆、信仰を告白する日が来ると信じ、今、それぞれに与えられている所で、キリストを証する者でありたい。わたしたちの中に住んでくださるキリストを信じ、キリストに委ね、安心して、み霊の導きのままに、キリストがそうしてくださったように隣(とな)り人を愛し、隣(とな)り人に仕えることができますように。
<祈祷>
天の父なる御神、日々、あなたを信じる信仰をお与えください。突然の試練に襲われても、厳しい病を患うことになっても、役人が主イエスの言われた言葉を信じて帰って行ったように、主イエスが約束してくださった永遠の命を信じ、望みを持って生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは み霊(みたま)の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も み霊を注いでください。主よ、何年も礼拝から足が遠のいている兄弟姉妹がおります。主よ、どうか、み霊を注いでください。いつの日か、教会に帰って来ることができますよう祈ります。芳賀 力先生はじめ、闘い続けている病床の者を顧みてください。不安を抱えながら過ごしている者をしっかりと支えてください。日々、祈りに生きようとしている者をあなたが支え、導いてください。また大きな災害がおこってしまいました。被災地にあって苦しんでいる人々を、教会を、お守りください。立ち上がる力を与えてください。世界には日々、多くの悲しみ、深い嘆きがあります。争いが続き、命が失われております。あなたが与えてくださった理性、愛によって秩序ある平和な世界を作るべきであるのに、国と国が争い、民と民が争いを続けております。主よ、争いのあるところに平和をもたらしてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年6月25日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第55章8節~13節、新約 ヨハネによる福音書 第4章39節~42節
説教題:「キリストの言葉の力」
讃美歌:546、67、Ⅱ-80、284、545A

6月は、主イエスとサマリアの女性の対話を ご一緒に読んでまいりました。今日はその最後、39節から42節を読みます。これまでのいきさつを振り返りつつ、読み進めてまいりましょう。サマリア地方の、シカルの町の近くにある「ヤコブの井戸」と呼ばれる由緒ある井戸での出来事です。主イエスは、ユダヤからガリラヤへ向かう旅の途中、井戸端に座って休んでおられました。そこへ、桶を担いだサマリアの女性が、水をくみに来たのです。主は、その女性に、「水を飲ませてください」と言われました。女性は、驚きました。なぜなら、9節にあるように、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないから」です。なぜ、ユダヤ人のあなたが、サマリア人のわたしに頼むのですか?そのようにして対話が始まり、ついには、この女性は、主イエスから、「あなたが待っているキリストと呼ばれるメシアは、このわたしである」との宣言を受けたのです。
 ちょうどそのとき、買いものから戻って来た弟子たちは、驚いてしまいました。律法の教師が、サマリアの女性と言葉を交わすことなど、ありえない、と言うのが当時の常識で、彼らもそのように考えていたからです。それほど、男女の差別、ユダヤ人とサマリア人の間の差別は深刻でした。しかし、主イエスは、人の思いを遥かに越えてすべての者に注がれている神さまの思いを弟子たちに伝え、さとし、励まされました。
そのとき、シカルの町の多くのサマリア人が、主イエスのもとにやって来たのです。39節。「さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。」女性の顔がいつもと違う。言葉の調子も違う。驚き、興奮し、あるいはおそらく涙を流して、「あなたも来てごらんなさい」、「あなたも来てごらんなさい」と誰彼かまわず誘い続けたのです。主イエスのもとへ。結果、サマリアの人々は、彼女の言葉に心動かされて、敵対しているユダヤ人 主イエスのもとにやって来たのです。この女性には、かつて5人の夫がいましたが、今連れ添っているのは夫ではないという経歴があり、町の人々からは良く思われていませんでした。その女性が、目をキラキラ輝かせて伝道している。主イエスについて証言し、サマリアの人びとを主イエスのもとへグイと引き寄せていることに、驚きを覚えます。町の人々自身も驚いていたかもしれません。「なぜ、わたしたちは、この女性の言葉を信じたのだろう?」と、不思議な思いを抱きつつ、これが神さまの力、聖霊の働きなのだろうかと感じていたかもしれない。ともあれ、サマリアの人たちは、主イエスのもとにやって来たのです。
40節。「そこで、このサマリア人(じん)たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。」「とどまる」、「滞在する」という言葉は、ヨハネ福音書を理解する上で鍵となる大切な言葉です。主イエスが、十字架で処刑される前夜、弟子たちに語られた「ぶどうの木の譬え」にも登場します。第15章4節。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」
この譬え話に登場する「つながる」という言葉が、今朝の箇所の「とどまる」、「滞在する」と同じ言葉なのです。主イエスは、サマリアの人たちの願いに応えてくださり、二日間、彼らのもとに滞在されました。どこかに行ってしまわずに そこにとどまってくださった。サマリアの人たちと、つながってくださるために。弟子たちにしてみれば、内心穏やかでなかったはずです。サマリアの町などに滞在したことが、エルサレムの都の権力者たちや、故郷ガリラヤに聞こえたりしたら、いったいどんなことになるやらと、不安を抱えたに違いない。それほど、ユダヤ人とサマリア人の間の断絶は深刻でした。しかし、主イエスが二日間滞在してくださり、シカルの町の人々は、主が語られる言葉に心を震わせ、主イエスをキリスト(救い主)と信じました。主につながっていただいて、まことに神さまを礼拝する者として主から招かれ、その招きに応えることができたのです。
聖書には、わたしたちの常識では考えられない出来事がいくつも記されています。そのうちの一つが、この41節かもしれません。主イエスが二日間滞在してくださり、み言葉を聞かせてくださり、対立していたサマリアの多くの人々の心に信仰が生まれました。それも、主イエスの驚くべき奇跡を目の当たりにしたからではなく、主「イエスの言葉を聞いて信じた」のです。この出来事は、ともすれば教勢が衰えていると言って下を向きがちな わたしどもを、奮い立たせてくれます。教会への励ましであり、慰めです。信仰が生まれるのは、ただただ、主がつながってくださり、言葉を語ってくださったことによるからです。主イエスの言葉によって、礼拝する群れが生まれるのです。それは、聖書の時代も、今も、変わらないのです。
使徒言行録には、聖霊降臨日、教会が生まれた日のようすが描かれています。主イエスが捕らえられてしまったとき、「わたしは、イエスの弟子ではない」と三度も否認してしまった弱いペトロが、聖霊に満たされ、立ち上がり、声を張り上げ、話し始めたのです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。(使徒言行録2:38~39)」ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わりました。神さまがペトロに言葉を与えてくださり、三千人もの人々に主イエスがつながってくださったのです。主イエスを救い主と信じたサマリアの人々や、ペトロを通して信じた人々と同じように、わたしたちも、主イエスによって「わたしにつながりなさい」と招いていただいて、ここに集めていただいているのです。
サマリア人たちは、水がめを井戸に置いたまま駆け付けた女性に言いました。42節。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」ユダヤ人から差別を受け続けていたサマリアの人びとにとって、このような言葉を口にすることなど思いもよらないことでした。まったく驚くべき、新しいことでした。42節の後半に、「世の救い主」とあります。世に生きる者すべてに対して与えられる「救い主」です。シカルの町の人々は、ユダヤ人が語っている救いが、サマリア人の救いでもあり、この世に生きる者すべての救いでもあると分かって、主イエスを信じたのです。そのように、神さまの救いは、人間が勝手に築く壁を越えます。差別、いさかいを、ポーンと飛び越える。そして、まさか自分が神に呼ばれているなどとは思ってもみなかった者に、神の招きの声、神の言葉を聞かせてくださるのです。ユダヤでも、ガリラヤでもなく、ユダヤ人に敵対されていたサマリアで、まことの礼拝を献げる群れが生まれた。その事実が、主イエスが「世の救い主」であることをよく示しています。
わたしたち信仰を告白し、洗礼を受け、主イエスと結ばれた者は皆、この日 信じたシカルの町の人々と同じように、「永遠の命に至る実」です。「永遠の命に至る実」として刈り入れられたのです。それは同時に、喜んで、望みを持って、種を蒔く者とされた ということでもあります。種を蒔くとは、ぶどうの枝がぶどうの木につながるように、主イエスにつながって、主イエスの言葉に生かされ、自分に与えられている場所で主イエスに従って生きることです。サマリア人たちが、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と言ったように、わたしたちも、「わたしが信じるのは、誰に誘われたからとか、家族がキリスト者だからではない。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と告白しつつ、ひたすら主イエスに頼り、主イエスを手本として生きるのです。その生き方によって、祈りによって、一人、また一人と主につながる者が増えていく。神の国が広がっていく。それが種を蒔くことであり、収穫の わざです。
主イエスと出会い、二日間、主イエスと共に生活をしたサマリアの人びと、この後、キリスト者としてどのように成長したでしょうか。主イエスは、十字架で処刑されます。その時、サマリアの人びとは、どうしたでしょう。命が惜しくて、主イエスから離れてしまったかもしれません。しかしそれでもなお、主イエスが蒔いてくださった言葉の種は消えなかったはずです。もう駄目だ、と思われた主イエスの十字架こそが、神さまの み心であったからです。人間の目には完全に負けと思われる死が、すべての人間のために神さまが用意してくださった救いの道であったからです。そして神さまは主イエスを復活させてくださいました。人間は「もうおしまい」と思っていたのに、「完全に負け」と思っていたのに、大逆転。キリストは世に勝利してくださった。死という壁をも越えてくださったのです。「終わりではない。負けではない。だから安心して、あなたの場所で生きなさい、わたしは既に世に勝っている」と、キリストは、わたしたちを日々、励ましてくださるのです。
種を蒔くことが困難な日もある。蒔いても蒔いても、刈り取ることのできない日が続くこともある。しかし神さまは、み言葉によって、わたしたちを励まし、勇気づけてくださいます。イザヤ書 第55章10節以下を朗読いたします。「雨も雪も、ひとたび天から降(ふ)れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」
 慰めと励ましに満ちた言葉です。サマリアの女性が確信を持って人々に伝えた言葉が たとえ消えてしまっても、わたしたちが伝える言葉がいっこうに実る気配が見えなくても、神の言葉は むなしく天に戻ることはない。むなしくはならない主の言葉によって、キリストによって、教会は生き続けています。今ここで主イエスと共にわたしどもは生かされています。主イエスの愛に信頼して、互いに愛し合い、互いに祈り合う喜びを大切にしたい。ここに、「イエスの言葉を聞いて信じた」者の喜びがあり、救いがあり、望みがあるのです。

<祈祷>
天の父なる御神、わたしたちはどうしても目の前の現実に不安を抱え、うろたえる者です。しかし、そのような者であるからこそ、あなたはわたしたちの世に大切な独り子、主イエスを お遣わしくださいましたから、感謝いたします。不安を抱え、うろたえるときに、主イエスの言葉を聞かせてください。福音の種を蒔き続ける者としてください。主イエス・キリストの み名によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、争いにより、差別により、貧困により、自然災害により、いじめにより、嘆きの中にある者がおります。主よ、うずくまって苦しんでいる者にあなたの愛を注いでください。誰もわたしのことなど必要としていないと思い込んでいる者に、「安心しなさい。わたしは いつもあなたと共にいる」と語りかけてください。病と闘っている者、痛みと闘っている者がおります。主よ、癒しの み手でそれらの者に触れてください。リハビリに励んでおられる芳賀 力先生を強めてください。不安の中にある ご家族を お支えください。教会から遠ざかっている者がおります。主よ、どこにあっても、あなたが共におられることを信じ、再び、教会に帰ってくることができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年6月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第126篇1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第4章31節~38節
説教題:「実りの喜びを共に」
讃美歌:546、28、224、503、544

6月4日、11日と二週続けて、主イエスとサマリアの女性との対話を読んでまいりました。ここまで、主イエスの弟子たちはほとんど登場しておりません。なぜなら、第4章8節にあるように、「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」からです。暫くすると食事を調達した弟子たちが主イエスのところに戻ってまいりました。すると、ユダヤ人とは敵対しているサマリア人の女性と、主イエスが話をしておられるのを目撃し、驚いてしまったのです。その後、サマリアの女性は水がめを置いたまま町の方へ行ってしまいました。弟子たちはサマリアの女性のことには一切触れずに、主イエスに勧めました。「先生、食事はいかがですか」。すると、主は言われました。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」。弟子たちは、主イエスのおっしゃる意味がわからず、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言い合いました。確認しておきたいのは、主イエスは神の子だから、食事がなくても大丈夫というわけではなかった、ということです。サマリアの女性との対話も、主イエスが、「喉が渇いているから水をください」と言われたことから始まりました。おそらくこのときも、主イエスは喉が渇いておられたであろうし、お腹も空いておられたに違いない。けれどもこのとき、主イエスは、弟子たちが調達してきた食べ物とは違う食べ物によって満たされておられたのです。わたしたちも思いがけない喜びを経験するとき、胸がいっぱいになって食欲を忘れることがあります。主イエスは、「わたしは今、満ち足りている。あなたがたも、共にこの喜びを味わってほしい」と弟子たちを招いておられるのです。では、主イエスのおっしゃる「あなたがたの知らない食べ物」とはいったいどんな食べ物なのでしょう。
34節。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」父なる神さまの「御心」とは何でしょうか。主イエスは、第4章23節で教えてくださいました。「父はこのように礼拝する者を求めておられる」。父なる神さまは、「まことの礼拝」を求めておられる。主イエスは、ご自分を世に送り出された、父なる神さまの み心を告げることができた喜びに溢れておられるのです。ご自分の告げた神さまの み心が、サマリアの女性によって受け入れられ、また、この女性によってほかのサマリアの人々へも広がろうとしている。サマリアの女性との対話を通して、神さまが求めておられるまことの礼拝がここに始まった、という確かな手応えを感じておられる。そのことを空腹を忘れるほど喜んでおられるのではないかと思います。
また、主イエスは、「その業を成し遂げること」とも言われました。ヨハネによる福音書 第19章には、主イエスの十字架の死がこのように記されております。「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭(あたま)を垂れて息を引き取られた。(19:30)」サマリアの井戸端で、喉の渇きを覚えながら、女性と対話を始められ、その対話の中で渇きをひととき忘れるほどの喜びを味わい、その喜びの中へ弟子たちを招き入れようと話しておられる主イエス。そのとき、主イエスは、いずれご自身が十字架に上げられ、「成し遂げられた」と宣言する時が来ることを、既に覚悟しておられたのではないかと思います。十字架の死と甦りによる救いを信じる者に、永遠の命を与えることが、父なる神の み心であり、わたしの成し遂げる神のわざなのだと、空腹も、喉の渇きも忘れるほどの喜びとして語っておられる。わたしの成し遂げる恵みを食べなさい。あなたの食事としなさい。わたしの十字架を飲み込むように、朝にも、昼にも、夜にも、あなたの腹(はら)の中に わたしの十字架を入れなさい。あなたの中を十字架で満たしなさい、と言っておられるのではないかと思うのです。
続く35節。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」この み言葉が語られた季節がいつであったかは わかりません。刈り入れまで4ヶ月もある、というのですから、ちょうど6月ころ、今ごろの季節かもしれません。しかし主イエスは、わざわざ「わたしは言っておく」と念を押して、「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と言われました。目の前の畑を見るのに、わざわざ目を上げる必要があるでしょうか。しかし、主イエスは「目を上げて畑を見るがよい」と言われました。すでに黄金色(こがねいろ)に色づいて刈り入れを待っている畑。目を上げて見る畑。主イエスが言っておられるのは、目の前に見える麦の畑とは違う、「神さまの畑」です。目を天に上げれば、神さまが今か今かと収穫の時を待っておられる「神さまの畑」が「色づいて刈り入れを待っている」のです。「色づいている」と訳されたギリシア語(λευκαιリューカイ)の意味は、「きらきら光る」、「輝いている」です。30節を読みますと、「人々は町を出て、イエスのもとへやって来た」と書いてあります。サマリアの人びとが女性から「さあ、見に来てください。わたしが行(おこな)ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と聞いて、町を出て、主イエスのもとへやって来た。そのとき主は、ご自分の言葉が通じて、サマリアの人びとの心が刈り入れを待つ麦畑のようにきらきら輝くのをご覧になったのです。主イエスが心を動かしておられる。喜んでおられる。伝道の喜び、「神さまの畑」の収穫の喜び、この喜びを共に喜んで欲しいと、主イエスは、弟子たちを、そして、わたしたちをも、招いておられます。
主イエスは続けて言われました。36節以下。「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他(た)の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」主の十字架をいつも自分の中いっぱいに満たして神さまの み心を行い、礼拝を守り続け、主の恵みを伝えていく歩みは、決して簡単ではありません。しかし、それこそが、あなたたちを永遠に生かす食べ物だとおっしゃいます。福音の種を蒔き続けることは、根気のいることです。思うように伝わらない悲しみも経験する。けれども、喜びが約束されているのです。たとえ自分で収穫することができなくても、父なる神さまがそれを望んでいてくださり、聖霊が働いてくださるから、別な人が刈り入れる日が来るのです。そのとき、種を蒔いた人も、刈り入れる者も共に喜ぶ、と主イエスは語っておられます。主イエスは、ご自分と共に働く者、福音の種を共に蒔き、「神さまの畑」での実りの刈り入れを共に喜ぶ者を求めておられるのです。ここで「実りにあずかっている」と訳されている言葉のギリシア語の表現は、「実りの中へ入(はい)らされる」あるいは「入(はい)らされている」という表現なのだ、と加藤常昭先生の説教集にありました。それを読み、今朝の み言葉の黙想を重ねながら、ある信仰の先輩を思い出しました。その方は、生まれつきの心臓の病のために若くして召されました。わたしが教会に通い始めた幼い頃から、可愛がっていただいた青年でした。名前は実(みのる)さん。大好きな教会のお兄さんでした。鎌倉雪ノ下教会が伝道開始70年を記念して発行した書物『神の力に生かされて』に、実さんの歩みを加藤先生が記しておられます。「この世的には、何の痕跡も残さなかったようであるが、多くの人々の心に染み通る信仰の歩みをなし、愛され、若い友人たちは、その死を悼んで、のちに追悼文集まで刊行している。肉体的な欠陥から、すべてのことを人並みにすることができないことを口惜しく思っていたに違いないが、それに耐え、父母をはじめとする肉親の愛に支えられ、それに象徴される神の愛を信じて精一杯に生きた若者であった。」実さんが召されたのは、1984年1月21日でした。その翌年、1985年10月6日にわたしは洗礼を受けました。わたしが小さい頃から高校生になるまで「たかお」と声をかけてくださり、自宅へ招き、江ノ島にも連れて行ってくださった実さんは、わたしが洗礼を受けたことを知ることなく召されました。皆さんにもそれぞれ、教会に導いてくれた人がいることでしょう。中には亡くなられた人もいるかもしれません。しかし、それらの人々もまた、わたしたちと共に、主の愛の み手の中で、永遠の命に至る実りの喜びの中に入(はい)らされている。入(はい)りこんでいる。そして、その喜びのために、わたしたちは、主イエスから、遣わされているのです。
世界は今、憎しみの連鎖が広がっております。憎しみに憎しみをもって応酬する限り、世界は滅びへ突き進むしかありません。滅びへの歩みを止めるためには、自分を愛するように隣人を愛することのほか、残された道はありません。主イエスとサマリアの女性の対話の始まりは、主イエスが、ユダヤ人と敵対しているサマリアの女性に「水を飲ませてください」と言われたことです。弟子たちは、食料を調達し、主イエスのところに帰って来ました。そのとき、まさか主イエスがサマリアの女性と話し合っておられるなど、想像もしておりませんでした。主イエスに対し、弟子のように尊敬の眼差しを向けているサマリアの女性。そのサマリアの女性を慈しんで恵みを宣言しておられる主イエスに驚いてしまったのです。しかし、弟子たちはそれ以上、深くかかわろうとしなかった。「『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった。」とはっきり書かれている。要するに無視です。何の関心も示さなかった。弟子たちはそれほど、サマリアの人々を見下していた。この人たちも神の恵みの中に入(い)れられているとは、夢にも思っていなかったのです。
主イエスは、弟子たちに語りかけておられます。「あなたがたのこころは憎しみに囚(とら)われて冷たくなっているのではないか。この女性と、その同胞との間に神さまの み心が行われようとしているのに気づいていないのではないか。」主イエスは、神さまの み心が人の憎しみの壁を突き破って行われることを、あなたがたも共に喜ぶ者となって欲しいと、招いておられるのです。
主イエスが天から世に遣わされたのは、第3章16節にあるよう「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」でした。「独り子を信じるユダヤの民が」、とは書いてありません。ユダヤ人であろうと、サマリア人であろうと、日本人であろうとも、独り子を信じ、信仰を告白し、洗礼を受けるなら、一人の例外もなく、皆、永遠の命を得ることができる。誰もが救われてよいのです。いや、救われなければならないのです。そして、救われた者が、喜んで愛し合い、赦し合い、祈り合って歩み続ける。神さまから頂いた恵みを感謝し、福音の種を蒔き、刈り入れる喜びの中に入(い)れられることを主は望んでおられるのです。
 主イエスが38節で言っておられます。「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」わたしどももまた主の弟子です。主ご自身が、わたしどもをそれぞれの場へと遣わしてくださっているのです。主と一諸に喜ぶことができる。わたしたちの蒔く福音の種も、わたしたちの生きている間に刈り入れられることはないかもしれません。けれども、「目を上げて畑を見るがよい」、と言われています。実りの喜びの中に入(い)れられています。おのおの遣わされている持ち場で、喜んで主の み心を行う者でありたいと願います。

<祈祷>
天の父なる神さま、どんなときも目を上げてあなたの畑を見る者としてください。わたしどもの腹の中を主の十字架で満たし、折が良くても悪くても福音の種を蒔き続ける者としてください。永遠の命に至る実(み)の刈り入れをあなたと共に喜ぶ者としてください。主イエス・キリストの み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。芳賀 力先生が今週の火曜日、リハビリ専門の病院に転院することになりました。一歩一歩、快復に向かっていることを感謝いたします。主よ、あなたが芳賀先生と共におられ、リハビリの日々を お支えください。看取っておられるご家族の歩みも お支えください。日々の歩みに疲れ果てている者に、望みを失っている者に、誰の励ましの言葉も通じなくなっている者に、あなたの励ましが聞こえますように。世界の平和のために祈ります。み心に適った方法で争いが解決し、ひとりでも多くの者が無益の血を流さなくてすみますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2023年6月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第36章25節~32節、新約 ヨハネによる福音書 第4章16節~30節
説教題:「神と出会うところ」
讃美歌:546、19、252、273B、543、Ⅱ-167

 今朝の み言葉について思いを巡らしながら、これまで経験してまいりました礼拝を思い起こしておりました。何百人もが一同に会してささげる礼拝。牧師を含め数人という礼拝。思い起こしながら改めて気づかされたのは、どの礼拝も、父なる神さまが必要としておられ、礼拝のためのさまざまな備えをしてくださっていることでした。主が望まれ、わたしたちに出会ってくださり、対話してくださるところに、礼拝が生まれるのです。
 今日も先週に引き続き、主イエスとサマリアの女性の対話を朗読して頂きました。ユダヤ人とサマリア人は互いに敵対し合っていました。しかし主イエスは、言ってみれば敵対勢力の真ん中に入って来られたのです。そのうえ、「水を飲ませてください」とお願いをなさいました。そこから、主イエスと女性との対話が始まったのです。主イエスは、女性に言われました。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女性は、それが何を指すのか、本当の意味はわからなかったかもしれません。それでも、わからないなりに、一所懸命に求めました。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」主イエスが思いがけなく訪ねて来てくださり、語りかけてくださり、対話を始めてくださったことで、女性の中に、「主よ、永遠の命に至る水を与えてください」と願う、信仰の芽が芽生えたのです。先週も申しましたが、このサマリアの女性の物語は、わたしたち自身の物語であると思います。喉の渇きを潤すために井戸に水をくみに来た女性のように、わたしたちも心に渇きを覚える者として、潤いを求め、教会の敷居をまたいだ。そして、後の方の席に座って礼拝を守る。そこで思いがけない聖書の言葉と出会うのです。「永遠の水を与えよう」と言われる。主イエスから語りかけられ、対話が始まる。キリストのおられるところに、礼拝が始まるのです。
サマリアの井戸端で、すでに礼拝が始まっています。女性は、主イエスがすぐに水を与えてくださる、と思っていたことでしょう。それなのに、主イエスがおっしゃったのは思いがけない言葉でした。その言葉によって、女性はさらに深い対話へと、導かれていきます。主イエスはおっしゃいました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。主イエスは、女性が隠しておきたい、触れて欲しくない心の奥の扉をノックなさったのです。女性は驚き、少し怖くなったかもしれません。女性は、決して嘘ではないが、すべてを告白するわけでもない言葉で答えました。「わたしには夫はいません」。すると主イエスは言われました。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
 「ありのまま」と訳されたのは、αληθες(アレィセス)というギリシア語で、「真実に」、「まことに」、「本当に」という意味の言葉です。この女性と6人の男性との間に起こった事は、わたしたちには分かりません。しかし主イエスは、すべてを知っておられます。主イエスは、すべてをご存知の上で言われました。「あなたは真実を言ったのだ」。女性は、あえて核心の部分を隠して答えたのですが、隠したはずの6人の男性との関係を言い当てられたことにびっくりしました。また、それだけではなく、「あなたは真実を言っている」と言われたことに、もっとびっくりしたと思います。状況から推し量れば、これまで、この女性の言い分など誰も本気で聞いてくれなかったことでしょう。ところが、初めて、「あなたの言ったことは真実だ」と言っていただいた。そのとき、主イエスの言葉によって、女性の心の中に、ひとつの問いが生まれたのです。「この方は、神が遣わされたキリストかもしれない。」問い、ではなく、願いかもしれません。「この方が、救い主であって欲しい。」女性は高鳴る胸を押さえて対話を続ける。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」この頃、サマリア人(じん)は、ゲリジム山に神殿を築いて礼拝をしていました。ユダヤ人は、シオンの山の上にエルサレム神殿を築き、そこに神がおられると信じ、礼拝していました。サマリアの女性は、「どちらが、本当の礼拝なのでしょう?」と尋ねたのです。いささか唐突な言葉にも思えます。しかし、それだけこの女性の心の渇きが深刻だった、ということだと思います。心の底から救いを求めていた。まことの礼拝をささげ、過去から解放されたい。赦して欲しい。罪から解放されたい。真剣に願っていたと思うのです。主イエスは婦人の願いに答えてくださいました。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
主イエスは、「わたしを信じなさい。」と言われました。サマリアの女性の問いに、答えてくださいました。神の独り子キリストが世に遣わされた今、もはやエルサレムとゲリジム山どちらがまことの礼拝にふさわしい場所か などと議論する必要はない。主イエスを信じ、主イエスの名のもとにささげられる礼拝こそ、まことの礼拝なのだと、主イエスは言われます。そして、まことの礼拝は、「霊と真理」をもって、父なる神にささげられる礼拝だとおっしゃるのです。「場所」や「建物」は関係ない。「霊と真理」が必要と言われます。既にご一緒に読みました第3章34節に洗礼者ヨハネの言葉がありました。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。」神さまがお遣わしになった主イエスが、神の言葉を話される。それは、父なる神さまがご自分の“霊”を、み子に限りなくお与えになるから。み子は、神の霊によって与えられた言葉を、わたしどもに お与えくださる。神の霊によって真理の言葉を与えてくださる。だから「霊と真理」は一体。決して切り離すことはできないのです。
ヨハネによる福音書において、霊は聖霊、神の霊であり、真理は主イエスです。主イエスは、自らをこう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(14:6)」
暗闇に覆われた世に、父なる神さまは、み子主イエスを遣わしてくださいました。争いに明け暮れ、弱い者が虐(しいた)げられる世を憐れみ、大切な独り子を遣わしてくださいました。そして、み子に霊を惜しみなく与え、み子を十字架につけ、復活させることによって世を救うという、わたしども人間には思いもよらない救いを実行してくださいました。それほどまでに、神さまはわたしどもを愛しておられる。愛する独り子に、わたしどもの罪の責任をすべて背負わせて十字架刑にするほど、わたしどもを救いたい、と願っておられる。そのことをただ信じ、「主イエスこそ、わたしの救い」と信仰を告白し、洗礼を受ける者は、一人の例外もなく、キリストと結ばれ、永遠の命を得る。神さまの懐で平安に生きる者となる。そのような救いの道を、切り拓いてくださったのです。
主イエスは父なる神さまに至る道。主イエスは真理。主イエスは命です。主イエスは、神さまの み心にどこまでも従順に生きられました。霊の命じられるままに生き、死なれました。十字架に磔にされ、父なる神さまから打ち捨てられるという、過酷な渇きを経験されながら、霊の望まれることがすべて成し遂げられたことを宣言して、息を引き取られたのです。その主イエスを、父なる神さまは、三日目の朝、復活させられた。キリストに、復活の命を与えてくださいました。そのことを信じ、洗礼を受け、キリストと結ばれた者が、一人残らずキリストと同じ復活の命を得て、死をこえて、永遠に生きるようになるために!
24節に「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」とあります。荘厳な礼拝堂で礼拝をささげていても、主イエスによる罪の赦し、永遠の命が語られることがなければ、真理はありません。霊のおられるところに真理があります。キリストがおられます。ここを切り離して、神の存在は信じるが、イエスは信じられないとか、復活は信じられないということは成り立たない。キリストの死と、復活こそ、神さまの愛の証です。キリストが命をかけて、神さまの まことの愛を示してくださったのです。そして、その真理を、わたしたちに与え、信じさせてくださるのが聖霊の力です。霊の働きなしに、キリストの十字架の死と復活を信じることはできません。霊が働いてくださるから、わたしたちは神さまの愛を信じることができるのです。
サマリアの女性は、主イエスが語られた「まことの礼拝」について、このときすべてを悟ったわけではないでしょう。しかし、救い主は、もしかするとこの方ではないか、その思いをまっすぐに主に伝えました。25節。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」主イエスは、サマリアの女性に宣言されました。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」女性はいてもたってもいられなくなり、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に告げました。「さあ、見に来てください。わたしが行(おこな)ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」すると、人々は町を出て、主イエスのもとへやって来たのです。
主イエスは、神さまが求めておられることを教えてくださいました。神さまは、霊と真理をもって礼拝する者を切に求めておられる。救い主が今、世に来た。救い主は、わたしだ。今こそ まことの礼拝をささげるときが来たのだ、と言われました。父なる神さまは、わたしたちにも、霊と真理をもって礼拝することを求めておられます。「まことの礼拝」を求めておられます。キリストの十字架のもとで、わたしと出会って欲しい。わたしの言葉を聞き、言葉に応えて欲しいと、対話を、礼拝を、わたしたちに求めてくださるのです。霊も真理も、神さまが備えてくださる。わたしたちは、ただ「アーメン」と受け入れるだけでよいのです。神さまが日々、与えてくださる霊と、み子が与えてくださったキリストのまことを感謝して受け入れる。固く閉ざしていた心の扉を開き、主に入っていただく。自分自身を明け渡し、み子を受け入れる。そのとき、はじめて、わたしたちの礼拝は、神さまの求めに応えるものとなります。すべては主が備えていてくださるのです。主の真理が支配してくださることを喜んで、主にすべてを委ねて、主の求めに応えてまいりましょう。そして、生きていくために不可欠な水がめを置き、今まで避けていた人々の真ん中に飛び込んで行ったサマリアの女性のように、ご一緒に、礼拝から、それぞれの持ち場へ遣わされてまいりましょう。

<祈祷>
父なる神さま、毎週の礼拝を霊と真理をもってささげる者としてください。礼拝において、あなたの言葉を伺い、あなたを賛美し、「父よ」と祈り、「子よ」と語りかけて頂く喜びに満たされます。この喜びを、悲しみの中にある者、嘆きの中にある者、不安の中にある者に届ける者としてください。主イエス・キリストの み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、芳賀力先生が今、病と闘っておられます。本来であれば、本日、春の特別伝道礼拝の説教を担ってくださる予定でした。主よ、芳賀先生に聖霊を注ぎ、病を癒やしてください。一日も早く共に礼拝をささげることができますように。ご家族のこともおまもりください。主よ、争いがあり、自然災害があり、貧困があり、対立があります。悲しんでいる者、望みを失った者、嘆いている者に聖霊を注ぎ、あなたの愛で包んでください。教会での礼拝を慕いつつ、様々な理由で教会に来ることの難しい者を憐れみ、聖霊を溢れるほどに注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年6月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第2章16節~22節、新約 ヨハネによる福音書 第4章1節~26節
説教題:「永遠に渇きを癒やす水」
讃美歌:546、7、179、Ⅱ-1、217、542

 今日からヨハネによる福音書 第4章に入ります。ゴシックの小見出しには、「イエスとサマリアの女」とあります。この箇所は、1節から42節までと長い箇所です。今日は1節から26節までを朗読して頂きましたが、1節から26節までも盛りだくさんの内容なので、今日は前半部分、1節から15節を中心にご一緒に読んでまいりましょう。
 福音書に記されている主イエスの伝道活動は、ガリラヤ地方と ユダヤ地方に集中しています。そのガリラヤ地方とユダヤ地方の間に挟(はさ)まれるようにして、今日の み言葉の舞台であるサマリア地方があります。ガリラヤ地方とユダヤ地方を行き来するには、サマリア地方を通る必要がありました。サマリアの人たちは、ユダヤ地方やガリラヤ地方の人々とは異なる、自分たち独自の礼拝の場所を持っており、ユダヤ人たちからは敵対視されていました。元々は、ガリラヤもユダヤもサマリアも、同じルーツを持つ神の民です。しかし歴史の流れの中でサマリアの人々の信仰が薄れてしまったことで、兄弟で憎み合うような対立が生まれてしまったのです。そのことを頭に入れておくことが必要です。
 主イエスがユダヤ地方から弟子たちと一緒にガリラヤ地方に行かれるとき、シカルというサマリアの町に来られました。主イエスは神さまだから、飢えることも渇くこともない、ということはありません。主イエスは神さまであられながら、人間として、わたしたちの真ん中に来てくださいました。まことの人として、わたしたちと同じように疲れる日もある。胃がキリキリする日もある。そのような主イエスが、ユダヤ地方からガリラヤ地方へ至る乾いた道を一歩一歩、弟子たちと共に歩いて行かれる。もう日が高く昇っています。足は疲れて喉もカラカラ。ちょうどシカルの町が見えてきた。そこには、ユダヤ人の先祖ヤコブが拓いた井戸がある。ひとやすみしよう、ということになったのでしょう。「正午ごろ」であったと記されています。弟子たちは食べ物を買うために、町に行き、主イエスは、井戸のそばに座っておられました。そこへサマリアの女性が水をくみに来ました。普通、水をくみに来るのは朝早い時間です。誰も好き好んでカンカン照りの中で水くみなどしません。女性には事情がありました。かつて5人の夫があった。今は6人目の パートナーがいるが夫ではない。何があったかはわかりません。 同情されるべき事情があったかもしれません。けれども、あることないことひそひそ噂され、白い目で見られていたことは間違いないでしょう。女性は人目を避けて、誰にも会わずに済む日中に、井戸に来たのです。しかし主イエスは、その女性に声をかけられました。「水を飲ませてください」。女性は、いきなり声をかけられて、さぞびっくりしたことでしょう。それも言葉の訛りや雰囲気で、 ああ、この人はサマリアの人ではないとすぐにわかる。だから、 驚いて言いました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。
 聖書に書いてあるように、ユダヤ人とサマリア人とは交際しないのです。交際しないとは、敵対しているということです。交わろうとしない。声もかけない。ましてや頼みごとなどするわけがない。それなのに、ユダヤ人のあなたが、サマリアのわたしに、しかも男性のあなたが、女性のわたしに、頭を下げて頼むとは。本当に驚いているのです。すると、主イエスは、不思議な言葉で答えられました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
 サマリアの女性は、主イエスが何を言おうとしておられるか、わかりませんでした。しかし、何かを感じたのです。この人は、わたしを敵視していない。そして、預言者のような力がある。力を感じたのは、語り口だったかもしれません。語られた内容だったかもしれません。眼差しだったかもしれません。サマリアの女性は、驚きつつも、知らず知らず、主イエスに心を開き、心の中に湧いた問いをまっすぐに投げかけました。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
それまでこの女性は、目の前の男性を「ユダヤ人のあなた」と 呼んでいました。それが、ここでは「主よ」と呼んでいます。「主よ」と訳されたギリシア語は、「キュリエ」です。わたしたちが毎週の執り成しの祈りで「キュリエ・エレイゾン(主よ 憐れみたまえ)」と祈っているのと同じ言葉です。無意識であったかもしれません。しかし、いつも人から避けられ、自分でも人目を避けて生きてきた女性の心は、主イエスとの対話の中で少しずつ、自分でも 知らないうちに開かれていったのではないかと思います。「その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と言われた「その人」とは、今、目の前に座っているこの方であるに違いない。だけど この方は、深い井戸から水をくむ物をもっておられない。どうやって井戸からくんで、わたしに与えることができるのか。特別な力を持っているお方であったとしても、井戸を与えてくれたわたしたちの父ヤコブよりも偉いのだろうか。女性は、心に浮かんだ問いを、そのまま主イエスに投げかけました。すると、返ってきたのは思ってもみない答えでした。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
 蛇口をひねれば飲める水が出てくる生活に慣れ切っているわたしたちにとっては、あまりピンとこないかもしれません。けれども、想像したい。乾いた大地の中を歩いて やっと たどり着く井戸。先祖が拓いて遺してくれた井戸。皆は、ジリジリと照りつける太陽を避けて早朝くみに来るのに、この女性は人目を避けて昼間くみに来なくてはならない。この女性にとって、喉の渇きの辛さもさることながら、それ以上に辛いのは心の渇きであった。そのことを主イエスは知っておられたのです。誰にも理解されず白い目で見られ、 後ろ指をさされる辛さ。孤独。カンカン照りの乾いた地をひとりで歩くような彼女の渇きを、ただ主イエスおひとりだけが、知っていてくださった。なぜなら、主イエスは、造り主であられる父なる神さまの懐から、神さまの み心を成し遂げるために 来てくださった方であるからです。主イエスご自身こそ、この先、この女性の 歩んで来た道よりもはるかに険しい道を進んで行かれます。カラカラに渇き切った孤独の中を行かれます。十字架が待っている。だからこそ、この女性の渇きに目をとめて、声をかけてくださいました。そして、「わたしが新たに拓こうとしている井戸の水を飲む者となって欲しい」、「わたしが与える永遠の命に至る水を飲んで欲しい」とおっしゃいます。主イエスが渇ききった人びとの心に天の国の水を引いてくださる。十字架の死によって。十字架の死こそが、主イエスがカラカラに渇くような孤独を背負って成し遂げられる、父なる神さまの み心でありました。十字架の死によって、主イエスは天の水がコンコンと湧き出る井戸を拓いてくださったのです。この水、この女性だけのものではありません。わたしたちすべての者に「どうか飲んで欲しい」と備えられています。この水は、洗礼の水であり、聖書の み言葉であり、聖餐です。しかし まだこの 段階では、「永遠の命に至る水」の意味は隠されています。だから、女性はこう答えました。「主よ、渇くことがないように、  また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
毎日の水くみから解放されたい。その一心で「主よ、その水を ください。」と求めました。ここでもサマリアの女性は「主よ (キュリエ)」と呼んでいます。永遠の命に至る水の本当の意味はわからなくても、「主よ」と呼んで、求めたのです。主イエスの 言葉によって、眼差しによって、この女性に小さな信仰が芽生えたのです。
この後、主イエスとサマリアの女の会話は、26節まで続きます。サマリアの女性は、主イエスから「婦人よ、わたしを信じな さい。」と招かれます。女性は言いました。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。」その言葉を受け、主イエスは「それは、あなたと話をしているこのわたしで  ある。」と宣言してくださいました。この対話により、女性は信仰へ導かれていきます。ゆっくりと、でも着実に主イエスによって 変えられていく。わたしたちも、サマリアの女性と同じではないでしょうか。疲れを覚えて教会に来る。いっときでいい。一息つければよい。そう思って来る。しかし、そこで主イエスの眼差しに捉えていただくのです。思いがけない み言葉に触れて、びっくりして、わからないなりに「主よ、その水をください。」と求めるのです。そして、主の招きに応えて洗礼をうけ、聖餐をいただく。死をも超えて、永遠に主イエスと結ばれて、神さまの懐の中に平安に生きる者とされる。どんなに辛いことが待っていても、どんなに厳しい試練が待っていても、わたしは独りではない。いつも父なる神さま、子なる神さま キリスト、聖霊なる神さまがわたしと共に永遠にいてくださる。その平安の中で、生き生きと生きることができるようになる。そしてその喜びを誰彼かまわず伝えたくなる。この 女性の物語は、わたしたちの物語なのです。
 この後、サマリアの女性は、水がめを井戸に置いたまま、今まで避け続けていた人々のところへ飛んで行きました。そして、人々に伝えました。「さあ、見に来てください。わたしが行(おこな) ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。(4:29)」人々は、主イエスのもとへ やって来ました。そして、主イエスの言葉を聞いて信じました。
すべては、主イエスの、サマリアの女性へのひとこと、「水を飲ませてください」から始まりました。サマリアの女性の、孤独でカラカラに渇いた心に、主イエスは語りかけてくださいました。しかも頼みごとをされた。「水を飲ませてください。あなたの その渇いた心が、神さまの国をつくるために必要なのだ」と主イエスは望んでくださるのです。なんという恵みでしょうか。渇き、力を失った あなたが必要と言ってくださる。そして信仰へと導いてくださる。永遠の命に至る水を、水源ごと、わたしたちにくださる。主イエスが命を賭けて拓いてくださったこの恵みに心を開いて、「主よ」と求めることができますように。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、永遠の命に至る水をお与えくださり、感謝いたします。わたしたちを決して渇かない者としてくださる主よ、この恵みに心を開いて、「主よ」と答える者としてください。喜びを語り続ける者として用いてください。主イエス・キリストの み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、ここに来ていない兄弟姉妹のことを思わずにおれません。闘い続けている病床の者を顧みてください。不安の中で過ごしている者を特別にあなたが支えてください。いつ快復するか分からない思いの中で、日々、祈りに生きようとしている者をあなたが覚えてくださいますように。世界には多くの悲しみがあり、深い嘆きがあります。争いが続いています。自然災害があります。信じられない事件が起こり、不安なことが起こり、顔を上げることができないような悲しみを味わいます。あなたの み言葉の力が今こそ必要であると思わずにおれません。主よ、どうかわたしどもを憐れみ、わたしどもの願いを聞いてくださいますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年5月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第9章1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第3章31節~36節
説教題:「天から来られた方キリスト」
讃美歌:546、68、177、Ⅱ-1、344、541

 今日は聖霊降臨日、ペンテコステを記念する礼拝です。その日の出来事は使徒言行録に記されております。甦りの主イエスが天に昇って行かれてから、弟子たちは、主が約束してくださった聖霊が降ることを信じ、一つになって祈っていました。すると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたのです。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、ひとりひとりの上にとどまり、一同は聖霊に満たされて、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で神さまの みわざを話しだしました。そして、そこに、教会が生まれたのです。
今日の説教箇所を決めるとき、少なからず悩みました。実は今日ご一緒に読みます第3章31節から36節は、クリスマスに語られることの多い み言葉です。天におられる神さまの独り子が、世に与えられた真理が語られているからです。それでもわたしは、聖霊降臨の祝いの日に、聖餐の祝いに与るこの日に、ここを読むこともまた深い意味があると信じ、この箇所にさせて頂きました。
わたしたちが信じている神さまは、父なる神さま、子なる神さま(キリスト)、聖霊なる神さまからなる三位一体の神さまです。求道者の方と洗礼準備の学びをするとき、「父なる神さま、子なる神さま(キリスト)についてはイメージが浮かぶ。けれども、聖霊なる神さまは、何となくピンとこない。」という方がおられます。しかし、今朝の第3章34節を読むと、聖霊なる神さまの働きがどれほど大切であるか、なくてはならないものであるか、そのことがわかります。
34節に、こう書かれています。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。」父なる神さまは、わたしたちの救いのために、み子主イエスを遣わしてくださいました。主イエスは、父なる神さまの み子として、神さまの言葉を わたしたちに語ってくださいました。それは、聖霊なる神さまの働きによるのだと洗礼者ヨハネはここで自分の全存在をかけて証ししています。神さまが、主イエスに、聖霊を限りなく与えておられるから、主イエスは神の言葉を話される。父なる神さまの愛を、憐れみを、怒りを、嘆きを、話されるのです。 
先週は、年間主題にもとづく礼拝でしたので、ヨハネ福音書は お休みしました。そこで、先々週読んだ箇所を少し振り返ってみましょう。洗礼者ヨハネの弟子たちが、ヨハネ先生に訴えた。主イエスがヨルダン川の向こう側で洗礼を授けていること、ヨハネ先生から洗礼を受ける人より、主イエスから洗礼を受ける人が多いことを訴え、ヨハネが弟子たちに答える場面でした。ヨハネは、わたしの人生は、キリストを信じ、洗礼を受け、キリストと結ばれる者の群れが大きくなるためにあるのだから、キリストが栄え、わたしが衰えることは、わたしの大きな喜びだ、と答えました。今日の み言葉は、それに続く洗礼者ヨハネの言葉として書かれています。
ヨハネは、天から来られた方 主イエスを指し示して言うのです。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」「上」、「天」とは、神さまがおられるところです。神さまは、神さまの懐の中から迷い出てしまったわたしたちを見捨てることなく、諦めることなく、何とか、懐の中に帰って来て欲しいと、その一心で、神さまのおられる天から、み子をお遣わしくださいました。神さまが、遣わしてくださった。だから主イエスは、すべてのものの上におられる。地に属する者を支配しておられるのだ、とヨハネは言います。支配といっても、 がんじがらめに縛りつけられるのではありません。み子がすっぽりと包んでくださる。誰でも信仰を告白し、洗礼を受けるとき、キリストにすっぽり包まれる。その安心の中で生きるようになるのです。
ヨハネは続けます。32節。「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。」これまでこつこつとヨハネ福音書を読んでおりますが、ところどころでドキッとする み言葉に出会います。ここはまさにその一つです。ここには、直視したくない わたしたちの罪の現実があります。主イエスは、父なる神さまの懐の中でご覧になってきたこと、神さまからお聞きになってきたことをそのまま証しなさる。この主イエスの証しという言葉は、明らかに、十字架の死と ご復活をも含んでいます。ですから、洗礼者ヨハネの言葉として書かれていますが、福音書を著(あらわ)した教会の告白と言ってもよいと思います。誰ひとり、真剣に耳を傾けようとしない。誰ひとり、神さまの み子を受け入れない。神さまの思いよりも、自分の思いで生きている。これがわたしたちの現実だ、と福音書は突き付けます。わたしたちの信仰はもろい。日々、聖霊を注いでいただかなければ、神さまの み心に従い得ません。わたしは真っ白で、偽りのない者ですと、天の光に照らされてもなお、胸を張れる者がいるでしょうか?わたしたちは、自分の心の中の闇が明るみに出るのを恐れます。み子を十字架につけようと画策したユダヤ人の指導者たちや、「殺せ。殺せ。十字架につけろ。(19:15)」と叫んだ群衆がそうであったように、わたしたちは皆、主イエスのまことの光、天の光に照らされて、自分の罪が暴かれることを恐れる者です。わたしたち人間は、子なる神さま(キリスト)を受け入れず、拒みました。十字架にはりつけて、神の み子を殺してしまいました。けれども、それで「ジ・エンド」ではありませんでした。闇のまま終わりではなかったのだと、福音書は わたしたちに救いの道を示すのです。
33節以下。「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。」ここで、「確認した」と訳された原語は、判を捺(お)すという意味の言葉です。神さまの み子が天からわたしたちのところにいらしてくださって、神さまの み心を証ししてくださった。神さまの愛を教えてくださった。それを受け入れることは、「神さまがこのわたしを愛してくださっているという真実を、確かに受け取りました。」と、受け取りのハンコを押すことなのだ、というのです。キリストが十字架で流された血が、わたしの罪を洗い清めると信じ、洗礼を受ける。その洗礼が、神さまの愛を受け取ったハンコとなる。神さまの懐の中で永遠に生きられる道となる。父なる神さまは、そこまでして、「わたしのもとへ帰って来て欲しい。わたしの懐の中で安心して生き続けて欲しい」と願ってくださって、わたしたちには思いもつかないようななさり方で救いの道を拓いてくださったのです。
み言葉は続きます。35節。「御父(おんちち)は御子(みこ)を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」「永遠の命」とは、わたしたちの体が、いつまでも長生きするというようなことではありません。わたしたちは皆、神さまが定めてくださった「時」に召され、墓に入る。また、わたしたちの霊魂だけが生き続けるというものでもありません。しかし、その滅ぶべきわたしたちがなお「永遠の命」を得ている。それは、生きるときも、死ぬときも、いつでもわたしたちは主のものである、という確信を得ていることです。神さまの懐の中に在る平安です。そしてそれは、ただ み子をわたしの救い主と信じる信仰によって得られるものなのです。主イエスの十字架の死と甦りを信じる、ただそのことによって、わたしたちは死も、神さまの怒りも、恐れなくてよいものとされているのです。
神さまは、神の怒りの上にわたしたちがとどまることを望んでおられません。怒りの炎で焼き滅ぼされるのではなく、何とか永遠の命を得る者として生きて欲しいと願っておられます。そのために、大切な み子を、この世に遣わしてくださいました。み子は、おひとりで神さまの怒りをすべて受け止めて、わたしたちの代わりに死んでくださったのです。身代わりとなってくださった。この方を信じることは、そのまま、永遠の命の中に在ることになる。神さまの愛の受け取りのハンコを捺して、確かに受け取った。キリストに包まれて、神さまの懐の中にいる。永遠に。
今から聖餐の祝いに与ります。主イエスが十字架の上で裂かれた肉と、流された血潮をいただきます。それほどまでのわたしたちの罪を思う。本来であれば、わたしたちが神の怒りを受けねばならなかった。けれども神さまは、そのすべてを愛する み子キリストに負わせられました。そこまでして わたしたちの罪を赦したい。そこまでして永遠の命を与えたい。そう願われたのです。それほどの神さまの愛、主イエスの赦しをいただいたわたしたちが、み子キリストに従わないという選択肢は考えられません。無理矢理、必死でみ子に従うのではありません。聖霊が助けてくださいます。み子に父なる神さまの言葉を語らしめ、聖霊降臨日に弟子たちに大きな力を与え、教会を生まれさせてくださった聖霊。その聖霊が、わたしたちにも注がれ、わたしたちを助けてくださるのです。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、聖霊降臨の恵みを感謝いたします。「御子を信じる人は永遠の命を得ている」との喜びを感謝いたします。どうか、神さまの愛は真実であると証しする者としてください。主の み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、あなたの確かさの中で、病床にある者を支えてください。看病を続けている者を励ましてください。途方に暮れている者に救いの道を示してください。疲れを覚えている者に真実の安息を与えてください。今も世界の至るところで争いが続いております。嘆きの中にある者を憐れんでください。体調を崩している者が多くおります。心身に痛みを抱えている者もおります。主よ、聖霊を注いでください。礼拝を慕いつつ、ここに集まることのできない者にも、聖霊の働きを信じる信仰をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年5月21日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第37章1節~10節、新約 コリントの信徒への手紙一 第12章12節~26節
説教題:「共に苦しみ、共に喜ぶ」
讃美歌:546、61、191、385、540

今朝は、年間主題に基づく礼拝をささげております。礼拝の後、コイノニア・ミーティングを行い、年間主題について、4つの分団に分かれ、語り合います。今年度の年間主題は、「共に苦しみ、共に喜ぶ」です。実は、2021年度も同じ主題を選んだのですが、もう一度、この み言葉を皆さんと一緒に心に刻みたいと思ったのです。そのきっかけは、教会報『ぶどうの木』への一人の姉妹からの投稿でした。すでに皆さんのお手元に届いていると思いますが、改めて、一部を紹介させて頂きます。「高齢化が進んでいる現在、全ての人の問題として、せめて月一回の礼拝出席ができるような 形が作れないかと思いました。」切実な訴えだと感じています。礼拝を守りたい。この世の命の終わるときまで守り続けたい。わたしたち皆の願いです。色々なことを諦めても、最後に残るたった一つの願いではないでしょうか。
先週とその前の週は主の日の朝、雨が降りました。雨が降ると、足もとが滑りやすくなります。そうでなくとも、持病があったり、お年を召してふらつきや転倒の不安を抱えている方が増えています。実際、教会の帰りに転倒してしまい、それ以降、礼拝への出席が難しくなってしまった方もいます。このような問題の前に立っている今、神さまが、わたしたちに望んでいらっしゃることを、伝道者パウロの言葉を通し、改めて学びたいと思ったのです。パウロは、手紙に記しました。12節。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」決して、忘れてはならないのは、教会は、主イエス・キリストの体であるということです。天にいらっしゃるキリストを頭(かしら)として、キリストの み心が、地上に実現するために、わたしたちはキリストの手足として、目や耳として、教会という交わりをつくっているのです。
13節。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」パウロの時代の教会には、ユダヤ人、ギリシア人、奴隷、自由な身分の者、さまざまな人びとがいました。ユダヤ人には、「わたしたちは、神から特別に選ばれた民である」という自負があります。ギリシア人には、知識人としての誇りがある。奴隷がおり、奴隷の主人もいる。ありとあらゆる人びとが信仰生活を共に営んでいたのです。ちょっと想像してみただけでも、大変そうです。案の定、「わたしは神に選ばれたユダヤ人であって、ギリシア人ではない」と言ってみたり、「わたしは知恵のあるギリシア人であって、ユダヤ人とは違う」と主張したり、「どうせわたしは奴隷」と卑屈になったり、「なぜ奴隷が偉そうな顔をしているのか」と呟く、といったことが実際にあって、それがコリント教会の存続をあやうくするような大きな課題であったのだと思います。では、わたしたちは、どうでしょうか。コリント教会ほどの目に見える互いの違いは感じないかもしれません。しかし、だからと言って、コリント教会のような危機はわたしたちの教会には起こらないということではありません。教会はキリストの体。その一点を忘れるとき、教会は教会でなくなってしまいます。改めて、14節から22節を朗読いたします。
「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
ここ数年、教会員の皆さんからこのような言葉をよく聞くようになりました。「先生、わたしは教会のお荷物になっていませんか?何もできなくなってしまいました。わたしが教会に来ることは迷惑ではありませんか?」わたしは咄嗟に、「そんなことないですよ。教会にいらしてくださり、椅子に座り、最後まで礼拝を守り、挨拶してお帰りになられる。そのことが、どれだけわたしを含め、教会の皆さんの励ましと慰めになるか。神さまは喜んでおられると思います。」と伝えますが、「そうですか。でも、わたしは何もできなくなってしまいました。」と嘆き続ける方もおられます。それでも、聖書は宣言するのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
わたしたちは皆、神さまに望まれて、キリストの体の一部にしていただきました。洗礼によってキリストの霊をいただき、キリストの体である教会の中に、「あなたはここで、わたしの心を現しなさい」と置いていただいたのです。神さまが望まれ、キリストの体の一部として置かれた者を、人が勝手に「もう要らない」などと、どうして言ってよいでしょうか。
電話連絡網、また週報でもお知らせしましたが、先週の火曜日、姉妹の一人が みもとに召されました。近年は少しずつ衰えて、礼拝に着ていらした ご自分の上着がわからなくなったり、主の日と間違え、平日に教会に来てしまったりしながらも、最後までキリストを慕い続けられました。その お姿にわたしはどれほど励まされたか知れません。体調を崩され、施設に入られてからは、なかなかおいでになれませんでしたが、2ヶ月ほど前の3月5日の主日礼拝に息子さんと出席。聖餐の祝いに喜んで与っておられました。わたしが東村山教会に着任した2015年、姉妹は、伝道委員会のメンバーの一人でした。ほとんど発言はありませんでしたが、存在感のある方でした。その後、伝道委員はお辞めになられましたが、体調を崩されるまで、ほとんど欠かさず、なかほどの席にちょこんと座って礼拝を守り、穏やかな笑顔で挨拶され、お帰りになられました。ちなみに、この方からは、一度も、「わたしは、何もできなくなって」という言葉を伺った記憶がありません。わたしたちはキリストの体。命ある限り、教会で礼拝を守る。礼拝者の喜びを、細い体を通して、わたしたちに教えてくださった姉妹でした。
パウロは続けます。23節以下。「わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」
「見劣りのする部分をいっそう引き立たせて」とは、何を意味するのでしょうか?わたしたちの誰もが、何らかの弱さを抱えています。わたしも同じ。牧師も長老も教会員の皆さんも、常に強いわけではない。それぞれに、恰好が悪い部分、見栄えのしない部分を抱えている。しかし神さまは、その弱さを隠すことなく、むしろ引き立たせて、キリストの体である教会を組み立てられたと言うのです。驚きます。何でもお出来になる神さま。世のエリートを集め、キリストの体を組み立てることは簡単です。けれども、そうではない。弱さを抱えている者、深い傷を負っている者を選び、引き立たせて、教会を組み立てておられるのです。
パウロは記します。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」「キリストの体」の一部としていただいた恵みを喜び、互いの弱さを認め合い、配慮し合う。一人の悲しみを一緒に担い、一人の苦しみを互いの苦しみとして配慮し合ってこそ、キリストの体である教会になる。キリストの体として生き続けることができる。そうパウロは今朝わたしたちに訴えているのです。
パウロは、コリントの信徒への手紙二第12章に、「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(12:9)」と記しました。わたしたちは、自分の罪、弱さ、無力さを知った時、神さまのどこまでも深い愛、憐れみ、赦しを全身で味わい、震える者です。こんなにも弱く、欠けだらけのわたし。それでも神さまは、わたしを見捨てることなく、引き立たせ、キリストの体の一つの部分として組み立ててくださった。それほどの神さまの愛、キリストの十字架の赦しに打たれ、聖霊の力を受けるとき、わたしたちは、恰好が悪い部分を覆わず、見苦しい部分をさらけだし、「わたしも、キリストの体の一部として頂いた」と喜んで証しすることができるのです。
教会は弱い者の集まり。弱い者だからこそ、神さまに選ばれた。何かができるから選ばれたのではない。弱い者であるわたしたちを神さまは選び、「見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられ」たのです。
最後に、ヘンリ・ナウエンが記した「中心にある最も弱いもの」と題したメッセージに耳を傾けましょう。「体の最も大事な部分は、リードし制御する頭や手ではありません。最も重要な部分は他よりも見栄えが悪いと思われる部分です。それが教会の神秘です。教会の中心を形作るのは、私たちの内で最も弱い人々(老人、幼子<おさなご>、障害を持った人、心の病を患う人、飢えている人、病気の人)です。(中略)貧しい人々が教会の最も大切な部分である時、神の民である教会は私たちの間におられる生けるキリストを真(しん)に姿、形ある方として示すことができます。貧しい人々を思いやることは、キリスト教的慈善事業をはるかに超えるものです。それは、キリストの体となることそのものです。」
今日から、「わたしは衰え、教会のお荷物になりました。」と嘆くことなく、「わたしは衰え、教会の中心を形作る者となりました。皆さん、わたしの苦しみを共に苦しんでください。弱い者が大切にされることを共に喜んでください。」そのように互いに励まし、配慮し合う群れとして成長したい。聖霊の導きをご一緒に祈り続けましょう。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、わたしたちを見捨てることなく、主イエスの十字架によって罪を赦し、主イエスの甦りによって永遠の命を与え、主イエスの体の部分として用いてくださることを深く感謝いたします。聖霊の力によって、共に苦しみ、共に喜ぶ群れとして成長させてください。主の み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。愛する姉妹が みもとへと召されました。主よ、悲しみの中にある者に慰めを与えてください。明日の葬りの業の上に聖霊を注いでください。被爆地 広島でサミットが開催されています。広島、長崎に原子爆弾がもたらした悲しみと、平和の誓いを踏みにじるように戦争を続けている世を憐れみ、「平和の祈り」へと導いてください。主よ、病床にある者、望みを失っている者を顧みてください。永遠に変わることのない望みを与えてください。来週の主日、ペンテコステ礼拝に一人でも多くの者と共に礼拝をささげることができますよう聖霊を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年5月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 歴代誌上 第29章10節~20節、新約 ヨハネによる福音書 第3章22節~30節
説教題:「わたしたちの喜び」
讃美歌:546、54、265、527、539、427

 今日から3年2ヶ月振りにすべての讃美歌を賛美する礼拝に戻りました。2020年3月1日の礼拝から、最初の讃美歌、説教前の讃美歌、説教後の讃美歌を感染対策のため賛美することを中止しました。突然、賛美ができなくなり、毎週の礼拝を皆さんと共に守ることすら困難になるという試練は、辛く、厳しいものでした。あれから3年。ようやく、礼拝を以前の状態に戻すことになりました。感染症そのものが無くなった訳ではありませんが、改めて、共に前を向き、祈りつつ、主を賛美してまいりましょう。
これまでも週報には、声に出して歌わない讃美歌もすべて選び、記しておりましたが、今日からはすべて賛美できることになり、選曲にも力が入りました。今朝、最初に賛美したのは54番。「よろこびの日よ、ひかりの日よ」。わたしたちにとって、礼拝をささげる主の日は、喜びの日であり、光の日です。そして、説教前に賛美したのは265番。「世びとの友となりて 自由を あたうるため、わが主は世にくだりて 罪をきよめたまえり。」キリスト者の喜びは、自分が富み、栄えることではありません。神さまと同質であられる主イエスは、わたしたちの罪を清めるために、争い、悩みの中にある わたしたちの世に降って来てくださいました。そして、わたしたちを友と呼び、「友よ、わたしと共に神さまの事業に加わって欲しい。わたしと共に働いて欲しい。」と、招いていてくださいます。神さまの事業とは、神の国の建設です。国と言っても、わたしたちの考えるような国境で隔てられた国ではありません。すべての人と共に神さまの懐に抱かれ、互いに愛し合い、赦し合い、励まし合って生きる世を造ることです。神の国の完成に向かって前進することは、キリスト者の喜びなのです。
 もしかすると、キリスト者の喜びを世界で最初に味わったのは、洗礼者ヨハネだったかもしれません。ヨハネは言いました。「わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。(3:29~30)」「あの方、主イエス・キリストは栄光に輝き、みんながついて行く。わたしは栄えてはならないのだ」と、ヨハネは言うのです。負け惜しみでも、いじけているのでもなく、心から、主イエスが栄光に輝く お姿を喜んで言うのです。実際、ヨハネは、他の福音書に記されているように、領主ヘロデによって捕らえられ、牢に入れられ、首をはねられました。ヨハネ自身がそれを予感していたかもしれないと考えると、今朝の み言葉は、「ヨハネの遺言」と言ってもよいかもしれません。そのようなヨハネの喜びの証言に至る発端となったのは、「清めのことで」起こった論争でした。
 主イエスは、弟子たちと共にユダヤ地方に行き、人々に洗礼を授けておられました。一方、洗礼者ヨハネは、ガリラヤ湖から死海に向かって流れるヨルダン川中流の町アイノンで洗礼を授けておりました。23節に、「そこは水が豊かであった」と書かれています。アイノンは、「泉」という言葉が地名になったものです。恐らく、ヨルダン川が近いこともあり、新鮮な水が湧き出る泉があったと思われます。主イエスはユダヤ地方で、ヨハネはアイノンで洗礼を授けていた。それぞれの地で執り行われていた祝福と喜びに満ちた洗礼式を思い浮べます。
しかし福音書は、そこに「ヨハネはまだ投獄されていなかった」との言葉を入れ、さらに「清めのことで論争が起こった。」と記しました。当時、ユダヤの人々への洗礼は簡単なものではなく、論争の火種となることを、ヨハネは承知していたのだと思われます。
洗礼は、「清め」のしるしです。洗礼により、わたしたちの体も心も洗い清められるのです。この「清め」が、なぜ議論になったのか?ユダヤ人は、生まれたときから、神の民とされます。そして、そのしるしとして、生後まもなく割礼を受けるのです。ユダヤ人は、「わたしたちは割礼を受けているのだから、『清め』の洗礼など受ける必要はない。」と主張していました。それに対し、洗礼者ヨハネたちは、「割礼」で罪は清められない。洗礼によってこそ、清められる。」と主張。結果、昔からの考え方を持っているユダヤ人と、ヨハネの弟子との間で、論争が起こったのです。
さらに、そのような論争の中、ユダヤ人たちはヨハネの弟子たちを挑発したのかもしれません。「そういえば、ガリラヤからユダヤ地方にやって来たイエスという男と弟子たちも、洗礼を授けているようだが、お前たちの先生のところよりもずっと多くの人が集まっているぞ。」ヨハネの弟子たちは、ヨハネ先生のもとへ戻って来て訴えました。
26節。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネの弟子たちの、「何とか言ってください、ヨハネ先生。」そんな声が聞こえてくるようです。ヨハネは冷静に、確信を持って、弟子たちを諭すように答えました。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。」
 ヨハネは言うのです。「なぜ、わたしが、『自分はメシアでない。自分は主イエスの前に神から遣わされた者だ』と言うことができるか。それは、わたしの考えからでなく、天から与えられた知識に基づくから。天から与えられたのでなければ、確信を持って このようなことを語ることはできない。そのことは、あなたがたもよく知っているだろう。」ヨハネは、天から語るべき言葉と知識を授けられて、神の国の到来が近いことを人々に告げ、主イエスに出会い、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と証言したのです。その喜びを、このように言いました。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
 「花婿」は、主イエスです。では、「花婿の介添え人」は、誰を指すのでしょう。「介添え人」は、「友」という言葉でもあります。結婚式で、最も信頼できる「友」に立ち合ってもらう。ヨハネは、心から喜んで語るのです。「わたしは、主イエスの友として、花婿主イエスが、わたしが連れて来た花嫁を迎えるのに立ち合う。花婿である主イエス。花嫁である教会。主イエスと教会が結ばれ、一つとなる喜びに、主イエスの友として立ち合える喜び。花婿の喜びの声。花嫁の喜びの声。それぞれの声が重なり二重唱となる。そこに友とされたわたし、ヨハネ自身の喜びも重なり三重唱になる。さらに続々と生まれるキリスト者の群れである教会の喜びも重なり、花婿である主イエス、花嫁なる教会の大合唱を喜ぶとき、わたしの務めは終わる。わたしが衰えても、わたしは喜びで満たされている。なぜなら、そこにこそ神の国は現れ、主の栄光は永遠に続くのだから。」
ヨハネだけでなく、わたしたちは皆、キリストの「友」と呼ばれています。ヨハネによる福音書 第15章14節以下で、主イエス御自身が語っておられます。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(15:14~16)」
 「わたしの命じること」とは、ヨハネによる福音書の後半、「最後の晩餐」の場面において、繰り返し語られる「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(13:34)」との み言葉に尽きます。この み言葉が実現するところに、神の国があります。神の国の建設事業が前進します。神であられる主イエスが、わたしたちを「友」と呼んで、愛してくださいました。わたしたちに代わって、父なる神さまの審きを その身に受け、十字架に架かってくださり、そのことによりわたしたちの罪は清められました。それを信じ、洗礼を受けるなら、滅びることなく、永遠の命に生きることができるように、神さまの懐の中で平安に生きることができるように、そのための道を拓いてくださいました。洗礼者ヨハネは、主イエスが通られたその険しい道の先駆けとして、神さまから遣わされました。ヨハネは、喜びに満たされて断言するのです。「わたしは衰えねばならない。ついにそのときが、救いのときが、神の国が、近づいているのだ。」衰えてゆくことを喜ぶ、ヨハネの覚悟に満ちた遺言が、今朝、わたしたちに与えられているのです。
 ヨハネの喜びは、わたしたちの喜びでもあります。自分の手柄が認められ、褒められることでなく、神さまの国、神さまのご支配のもとで、神さまの栄光を現すため、自分を喜んで差し出す者となりたい。そのことを、そのことだけを、「わたしの喜び」としたい。そのための道を、主イエスは、第15章で教えてくださいました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(15:5)」「わたしにつながりなさい」と、主は言われます。ぶどうの枝が幹に繋がっていなければ実がならないように、主イエスと繋がっていなければ、わたしたちは人を赦したり、愛したりできません。洗礼は、ぶどうの枝が幹に繋がっているように、わたしたちが花婿 主イエスと結ばれるために、主が定めてくださった、救いの道なのです。    
 この後、讃美歌527番を賛美いたします。皆さんと「わがよろこび、わがのぞみ、わがいのちの主よ、ひるたたえ、よるうたいて なお足らぬを おもう。」と賛美できる幸いを感謝します。どんなに賛美しても足らない主の愛の中に、わたしたちは招かれています。わたしたちは誰もが衰え、地上の命を神さまにお返しする者です。そのたった一つ、神さまからいただいた命を、主に結ばれて、主から力をいただいて、主の栄光を賛美するために用いましょう。一人でも多くの人が救われるために、互いに赦し、互いに愛するために用いましょう。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、わたしたちを友と呼び、同労者として招いてくださり、感謝いたします。わたしたちに洗礼の喜びをお与えくださり感謝いたします。み子が お命じになられた「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」をいつも心に刻み、実践する者としてください。主の み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、病に苦しんでいる者に力を与え、支えてください。み心ならば、どうか、再び、共に礼拝をささげることができますよう導いてください。日々、信じられない事件が起こっています。殺し合いも続いております。あなたが創ってくださった世を託されたわたしどもが、互いに愛し合い、赦し合うことを疎かにしております。その結果、弱い者がますます弱くされ、貧しい者がますます貧しくされています。どうか主よ、今、苦しみの中にある者、望みを失っている者、嘆きの中にある者に、あなたの愛と慰めを注いでください。主よどうか、愚かなわたしどもを憐れみ、世にあるわたしどもすべての者に、あなたの み顔を仰がしめてください。平和をつくる知恵と勇気を与えてください。今朝も礼拝を慕いつつ、様々な理由で教会に集うことのできない者がおります。主よ、その場にあって、励ましと慰めを与えてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年5月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 アモス書 第4章4節~8節、新約 ヨハネによる福音書 第3章16節~21節
説教題:「光の中で生きよう」
讃美歌:546、28、191、Ⅱ-1、276、545B

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」先週も紹介しましたオランダ出身のカトリックの司祭ヘンリ・ナウエンは、「永遠の命」について、次のように著(あらわ)しています。「イエスは、私たちの死ぬべき体に 死なないものを 着せるために来られました。(中略)私たちは、洗礼によって このいのちを与えられ、聖餐によって それを保ち、様々な霊的な活動によって深め、確固としたものにします。(中略)死はすべての ものを終わらせる敵ではなく、むしろ私たちの手を取って永遠の 愛の み国へと 導き入れてくれる友なのです。」「永遠の命」とは、神さまの懐(ふところ)に抱(いだ)かれて生きることです。「永遠の命」の対極にあるのは、「滅び」です。神さまの懐から飛び出して、闇の中で迷子になってしまうことです。神さまは、「独り子を信じる者が一人も滅びない」ですむように、独り子 主イエスを、わたしたちに与えてくださいました。神さまは、神さまに背中を向けて、てんでんばらばらに迷子になっている わたしたちを ご自分の懐の中に取り戻したい、その一心で、神 さまの懐の中におられた独り子 主イエスを、わたしたちに与えてくださったのです。「わたしの独り子を受け取って欲しい。受け 入れて、あなたも、わたしの懐の中で生きて欲しい。」と、神さまは無償で、独り子 主イエスという とてつもなく大きな贈物をくださったのです。み子の十字架と復活を、ただ信じる。そのことに よって、わたしたちが、死を、「私たちの手を取って永遠の愛の み国へと導き入れてくれる友」と呼べるようになる、その道を拓いてくださったのです。主イエスの言葉は続きます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々は その行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」「裁く」と訳された言葉は、もともとは「区別する」という意味の言葉です。神さまは、わたしたちを一人も区別することなく、誰にでも、み子 主イエスを お与えくださいました。神さまは、わたしたちすべての者を、区別することなく、「わたしの懐で生きよ」と呼んでいてくださるのです。主イエスは、「わたしは、すべての人を救うために来た。だから、ただ わたしに信頼して、洗礼を受け、新しい命に生まれかわって欲しい」と、わたしたちを呼んでおられます。洗礼による新しい命。それは、永遠の命。神さまの懐で平安に生きる命です。けれども、主イエスに信頼しない限り、「神は、その独り子を お与えになった ほどに」このわたしを、今のままのわたしを、迷子のままのわたしを「愛された」その み言葉に信頼しない限り、迷子の状態は変わりません。闇の中で道を見失ったまま。その状態こそ、裁かれて いる状態にほかならないのだと。そこには、決定的な一線があるのです。曖昧はない。ナザレのイエスを救い主と信じるか、否か。 光か、闇か。わたしたちが、光よりも闇の方を好むことは、いちいち説明する必要はないと思います。ここで改めて思い起こしたいのは、ここで語られている主イエスの言葉が、もともと誰に向けられたものであったかということです。主イエスの教えを乞うために、ある夜、暗くなってからやって来たファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員ニコデモです。ファリサイ派は、多くの人々がユダヤ人として堕落した道を歩んでいるのに対し、自分たちだけは清く、正しく、ユダヤの民として立派に生きようと努めていた人たちです。ほかの人はともかく、わたしたちは義しい。義しい行いによって、神さまの前に義しいと認めていただける、そう信じている人たち。ところが、そのファリサイ派のニコデモに、み子 主イエスは、愛をもっておっしゃたのです。「洗礼を受け、新しく生まれ、生き方そのものを変えなさい。」「どうして、そんなことができましょう。」と反論するニコデモ。自分の今までの生き方にしがみつき、信心深いつもりでいるニコデモに、主イエスはおっしゃいました。「光が世に来たのに、人々は その行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」この み言葉を、ある神学者は、こう訳しています。「裁きとは、これである。すなわち、光がこの世に来たが、人々は光よりも、暗やみを大切にした。自分たちの生き方が威圧的だったからである。うわべをつくろっている人はみな、光をきらい、光のほうへは来ない。自分の生き方をさらけ出したくないからである。」自分たちは義しい。自分たちは ひとより優れている。まさっている。ほかの人は裁かれても、自分たちは神さまの戒めをしっかり守っている。そういう生き方は、いつの間にか ひとに対して威圧的になっているのではないか?主イエスは、そのように問うておられるのではないでしょうか?神さまは、ひとりも滅びないことを望んでおられます。「うわべは、清く、正しく、体裁を整えていても、そのことで ひとを見くだしているとすれば、その生き方は神さまの方を向いていない生き方ではないのか?」この問いは、わたしたちに無縁なものでしょうか?わたしたちの信仰はどうでしょうか?ニコデモのようになっていないでしょうか?父なる神さまの懐から飛び出してしまっていないでしょうか?神さまは、すべての者に懐に戻って来て欲しい!と心から願われ、み子を世にお遣わしになりました。誰も区別せず、すべての人に。神さまの み子が、誰よりも低いところにいらしてくださった。それなのに、わたしたちが誰かより高いところに立っているとしたら。それは、誰よりも 低いところに立たれている、主イエスよりも高いところに立って いることになります。その状態は、まさに自滅です。自分で自分を区別し、裁き、滅ぼしているのです。これほど神さまを悲しませることはありません。「どうして、素直にわたしの懐に戻って来ないのか?なぜ、光の中に帰って来ないのか?」主イエスは続けて言われました。21節。「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」「神に導かれてなされた」という言葉は、直訳すると「神にあってなされた」という文章です。先ほど 紹介しました神学者の訳は、「神の中で支えられている」となっていました。わたしたちは、真心を込めて平和のために働く人の姿を知って、「なぜあの人は、あのようなことができるのだろうか?」と驚きつつ、感心することがあります。主イエスは、おっしゃるのです。「その行いは、その人の力によるものではない。神さまの懐に抱(いだ)かれている喜びの中で、神に導かれ、神の力に支えられながら、行われている真理である」と。
先日、NHK BS1で放送されたドキュメンタリー番組を視聴しました。アフガニスタンで活躍された中村 哲 先生の歩みを振り返る番組「良心を束ねて河となす 医師・中村 哲 73年の 軌跡」です。再放送だったので、皆さんもご覧になったかもしれません。驚きをもって視聴しました。み子 主イエスが21節で語られた、「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に 導かれてなされたということが、明らかになるために。」の  み言葉が、そのまま、映し出されているように感じました。番組では中村先生の生い立ちから亡くなるまでの歩みが、先生を知る人々に取材して語られていました。貧しい人々に献身的であった祖父母や両親の影響を受けて育ち、若い日に西南学院で学び、盲目の牧師と出会い、洗礼を受けておられます。父なる神さまの懐に抱(いだ)かれ、生涯を、戦禍と貧しさに苦しむアフガニスタンの民衆のために献げたのです。「一隅(いちぐう)を照らす」という言葉を愛していたそうです。「一隅」とは「かたすみ」のこと。目立たない場所。そのような「一隅」を、明るく照らすのです。神さまに導かれ、神さまの懐の中で、神さまの力に支えられ、神さまに祈りつつ、苦しむ人に、み子 主イエスの光を、黙々と届け続けた人でありました。
アフガニスタンでは当時、干ばつが深刻で、医療以前に水の確保が喫緊の課題になっておりました。しかも、9・11後、アフガニスタンはテロリストの温床となっていると見なされ、報復攻撃を受けていました。その中で畑に引くための水路建設に身を投じておられたのです。実はその頃、ご次男を脳腫瘍で失っておられます。まだ小学生。中村先生は「わが子を失い、アフガンで、空爆や病気で子どもを亡くした親の気持ちがいっそうわかるようになった。他人事(ひとごと)でなくなった」と述懐しておられます。先生は、2019年12月4日、アフガニスタンで何者かに銃で撃たれ、亡くなりました。73歳でした。この世の闇の、何と深いことかと思います。わたしたちには、先生のような凄まじいまでの生き方はできないかもしれません。それでも、わたしたちに与えられている持ち場、持ち場で、神さまの懐の中で生きることはできます。神さまに導かれ、真理を行い、み子の光を照らすことができる。主イエスは そのために わたしたちすべての者のところに来てくださったのです。
只今から聖餐に与ります。20世紀最大の神学者カール・バルトが、1946年にボン大学で行った講義『教義学要綱』に聖餐の喜びを著(あわら)しています。「聖餐は、喜びの食事であります。すなわち、この方(イエス・キリスト)の肉を食し、この方の血を飲むことです。それは、私たちの生(せい)の只中にあって、永遠の生命(とこしえの いのち)に至る食べ物であり飲み物です。私たちは、この方の食卓の客であり、それゆえ、もはやこの方 御自身から分かたれることは ありません。(中略)イエス・キリストにおいて、私は、もはや私が死にうる場所にはいません。イエス・ キリストにおいて、私たちの肉体は、すでに天にあります。」 
洗礼を受けた者は、すでに「永遠の命」を生きています。主の懐の中に生きています。わたしたちは聖餐によって、この命を自らの内に確かめ、喜びを新たにします。この喜びは、わたしたちだけのものではありません。この食卓には、すべての人が招かれています。「洗礼を受けて、新しく生まれて、一緒に この食卓を囲んで 欲しい」と招かれています。洗礼を受け、新しい命に生まれ変わり、神さまの懐に生きる幸いの中に、招かれているのです。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる御神、あなたの独り子への信仰ゆえに永遠の命を お与えくださり感謝いたします。主よ、闇の中ではなく、光の中で生きる者としてください。うわべではなく、自らをあなたの光の中にさらけだし、照らしていただいて、あなたに抱(いだ)かれている喜びの中で、一所懸命に真理を行う者として ください。主イエス・キリストの み名によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。大きな地震が石川県能登地方で発生しました。不安の中にある者を強め、励ましてください。能登伝道圏を構成する輪島教会、七尾教会、羽咋(はくい)教会、富来(とぎ)伝道所の歩みをお支えください。今も各地で争いが続いております。主よ、あなたを信じている者も、信じていない者も、平和と愛と義を作らんとするあなたのみ心に生きることができますよう導いてください。小さなわざにも、愛と望みをもって取り組むことができますよう力をお与えください。わたしたちをあなたの み言葉と み力の中で生かしてください。病んでいる者、望みを失っている者に、あなたの み声を聞かせてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2023年4月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第19篇2節~15節、新約 ヨハネによる福音書 第3章10節~21節
説教題:「神さまの愛」
讃美歌:546、82、Ⅱ-184、Ⅱ-194、545A

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ヨハネによる福音書 第3章16節の み言葉は、クリスマスによく読まれる み言葉です。わたしも、小学校6年生のクリスマス。まだ木造の会堂だった鎌倉雪ノ下教会の礼拝堂で、教会学校の仲間たちと並び、暗唱したことを覚えております。会衆席に向かって、一人ずつ大きな声で暗唱しました。わたしにあてがわれたのが、この み言葉でした。当時は口語訳でしたが、クリスマスが過ぎても、不思議と、この聖句は、わたしの心に残り、神さまの愛を疑ったときも、不安に押し潰されたときも、この聖句が心の底から起き上がってきて、わたしを引き留めてくれました。皆さんの中にも、愛唱聖句としておられる方があるかもしれません。
ドイツの改革者ルターは、著書『卓上語録』に、印象深い言葉を残しています。見出しのタイトルは、「頭痛に対する処方」。ルターが、友人から、これはよく効く薬だから、と頭痛薬を貰ったとき、こう言ったのだそうです。「わたしの最上の処方箋はヨハネによる福音書に記されている『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』だ。これは、わたしが持っている最高の薬なのだ。」
今朝は、先週と重なるように、第3章10節から朗読して頂きました。主イエスは、厳しい言葉を語っておられます。「あなたがたは わたしたちの証しを受け入れない。」また第2章23節以下でも厳しい言葉を心に刻みました。「多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」主イエスは、わたしたちをよく知っておられます。何が心の中にあるかをよく知っておられます。主イエスの奇跡の力に捉えられ、多くの人が主イエスの名を信じたときも、主イエス御自身は、彼らを信用なさいませんでした。わたしたちは、主イエスに何の反論もできません。なぜなら、わたしたちも、自分の心がいかにあてにならないかを知っているからです。どんなに愛している相手であっても、疑いはちょっとしたことで生まれるものです。そのうち妄想が膨らみ、妄想に支配されてしまう、ということがある。「疑心、暗鬼を生ず」という言葉があるように、疑いが生じると、ありもしない恐ろしい鬼が見える。悪魔が見える。心が病んでしまう。ルターは、そういうときでも、第3章16節を服用すれば、病が癒されると言いました。
 神さまは、そうして、すぐに疑心暗鬼になるようなわたしたちをどうなさったでしょうか?「あなたがたは、わたしの望むことではなく、望まないことを行っている。もういい。わたしは、あなたがたを裁く。」と言われたでしょうか?わたしたちは、一直線に滅びの道、裁きの道を突き進み、闇に向かって落ちていくしかないのでしょうか?もしもそうであったら、わたしたちは今、ここに座っていません。神さまは、そのように愚かなわたしたちを放っておくことは我慢ならない、と、どこまでも、わたしたちを愛し抜いてくださいました。大事にしてくださいました。第3章16節の み言葉が、その根拠です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 ルターは、この み言葉を「小さな聖書」とも呼んだそうです。この「小さな聖書」の中に、福音の全体がギュッと、凝縮されています。ルターは、心が病むと、「小さな聖書」を「最高の薬」として服用したのです。死の床にあり、地上の命の尽きるときも、「小さな聖書」と呼んだヨハネによる福音書 第3章16節の み言葉を口にして、祈りつつ息を引き取ったと伝わっています。その み言葉が今朝、わたしたちにも「今、あなたに必要だよ。」と、神さまから与えられています。
「世」とは、「この世」のことです。この世は、神さまの愛に対立しているように思われます。ウクライナ、ミャンマー、アフガニスタン、スーダン、シリアなど、たくさんの地域で紛争が続いています。この世の現実は、もう神さまから見捨てられ、顧みられることがなくなったのか、と思われるほどに、悲惨な状況です。決して目を逸らしてはならない。けれども、目を逸らしたくなる現実がある。
それでも、わたしたちには立ち帰ることのできる み言葉があるのです。心が暗くなり、落ち込んでしまうとき、服用できる み言葉が与えられているのです。それが第3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
この薬には、服用制限はありません。副作用もありません。一日に何度服用しても構わない。子どもも、食事制限を受けている大人でも、口から食事をとることが難しくなった者でも、服用できる薬です。皆、一人の例外もなく、滅びの道、裁きの道へ一直線のような者であるにもかかわらず、一人も滅びることなく、永遠の命を得させるために、父なる神さまは、大切な独り子 主イエス・キリストをわたしたちに与えてくださったのです。
第1章10節以下には、このように書かれていました。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」神さまの言、思いが世に降(くだ)り、主イエスが来られた時、世は主イエスを受け入れませんでした。これは、過去のことではありません。神さまの愛を無視し、争いに明け暮れるわたしたち。闇に支配されて、隣人を疑い、神さまの愛を疑ってしまうわたしたち。神さまから「あなたがたへの愛を諦める」と匙を投げられてもおかしくないのが、わたしたちの現実です。 
それなのに、いや、だからこそ、そのようなわたしたちを、父なる神さまは、しつこいほどに、愛して、愛して、愛し抜いてくださいました。いつまでも懐に抱えていたかった み子を手放し、人としての苦しみ、悩みをすべて経験させ、最後には、十字架の死を強いてくださいました。み子 主イエスも、神さまの思いを受け入れてくださり、十字架の上で、「成し遂げられた」と言って、死んでいかれたのです。そこまでしなければ、わたしたちの罪は赦されなかった。そこまでしなければ、わたしたちは裁きを免れることはなかったのです。み子の十字架を仰ぐまで、わたしたちは、自分の罪が それほど重いものであったことを知りませんでした。神さまの愛が、それほどまでに深いことを知りませんでした。主イエスの十字架が、神さまの溢れる愛を、わたしたちに教えてくださいました。
ヨハネの手紙一 第4章の み言葉は、今朝の み言葉と重なります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。(ヨハネの手紙一4:9~11)」
「生きるようになる」とは、「永遠の命を得る」ことです。洗礼を受け、神さまの ご支配を受け入れて、神さまの み腕の中で生きるようになることです。主イエスが、世に遣わされなければ、誰も生きることはできなかった。神さまを礼拝することも、「父よ」と祈ることも、愛し合い、赦し合って生きることもできませんでした。「滅び」へとまっしぐらであったのです。ヨハネは、手紙を通して伝えます。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
わたしたちの愛は、「条件付きの愛」です。あの人から愛された。だからわたしもあの人を愛する。あの人から愛されなくなった。だからわたしもあの人を愛することをやめる。けれども、神さまの愛は、「条件付き」ではないのです。ただ愛したい。赦したい。神さまの愛は、わたしたちに日々、押し寄せてくるのです。神さまは、愛に貧しいわたしたちを お見捨てになって当然でした。しかし、神さまはわたしたちを お見捨てになりませんでした。大切な独り子をわたしたちに与えてくださいました。わたしたちは、神さまの信用を失っていたのです。わたしたちが何をしても神さまの信用を取り戻すことは不可能です。だからこそ神さまは、み子 主イエス・キリストの十字架の死によって、み子の十字架を信じるすべての人を、滅びから救い上げ、わたしたちへの信用を回復させてくださったのです。これが、神さまの愛です。み子 主イエスは、真の神さまでありながら、真の人として世に遣わされ、神さまの愛に一所懸命に生き、一所懸命に死んでくださいました。神さまと等しい方が、人間を愛するために、世にいらしてくださり、人間から「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と叫ばれて十字架に架けられ、死んでくださった。そしてそのことによって、ようやく神さまの愛に気づいて信じた者が、滅びないですむ道を、拓いてくださったのです。
わたしにとって、敵としか思えないあの人であっても、主イエスは、その人のためにも、愛をもって死んでくださいました。この人さえいなければ、どんなに苦しまなくてすむかと思う、その人のためにも、愛をもって死んでくださいました。すべての者への「神さまの愛」を信じるとき、わたしたちの心は憎しみ、怒りの心から、ゆっくり解放されていきます。主の愛に生かされ、新しい命に生かされて、神さまが愛してくださったように、主イエスが愛してくださったように、愛する道が備えられているのです。光の道を歩きなさい。わたしたちはそのように招かれているのです。
最後にヘンリ・ナウエンのメッセージに耳を傾けたい。ナウエンは、20世紀を代表するキリスト教会の霊的指導者であり、カトリックの司祭です。「神の愛に立ち帰る」と題して、こう記しています。「神の無条件の愛とは、私たちが悪いことを言ったり考えたりする時ですら、神は私たちを愛し続けてくださるということです。神は、迷子になった子どもを待つ親のように、私たちを待ち続けておられます。私たちの行いが神を悲しませる時ですら、神は私たちを愛することを決して止(や)められることはないという真実を、私たちがしっかりと心に抱(いだ)き続けることが大切です。この真実は絶えることのない神の愛に私たちを立ち帰らせてくれます。」
 今日は礼拝の後、定期教会総会を開催いたします。対面での総会は、2020年3月1日の臨時教会総会以来ですから、3年振りとなります。3年間、コロナに振り回された日々でした。長老会は、迷いながら、悩みながら決断し、様々な制約を皆さんに強いてまいりました。今、思うのは、本当にこの3年間の対応が神さまの み心に適っていたのだろうか?という思いです。しかし、そのようなわたしたちに今朝、神さまは、僅か1節で聖書の福音を知ることのできる「小さな聖書」を備えてくださいました。敵であった者さえも愛してくださり、赦してくださる神さまの愛から、こぼれ落ちる者はひとりもいません。それほどの神さまの愛に包まれているわたしたちです。小さな聖書を、最高の薬を、いつも心に携えて、共に歩んでまいりましょう。

<祈祷> 
天の父なる御神、み子の十字架の死によって罪を赦され、そればかりか永遠の命をも与えてくださったあなたの愛に感謝いたします。主よ、あなたの愛に生きる者としてください。争い悩む世を憐れんでください。わたしたちも共に愛し合い、赦し合い、祈り合うことで、あなたの愛に応えることができますように。主イエス・キリストの お名前によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。今日も争いが続いています。無益な人殺しが続いているのです。しかし、これらすべて、あなたがお造りになられ、「極めて良かった」世界における出来事です。主よ、わたしたちの世を どうか み心に留めてください。み子によって成し遂げられた永遠の命の約束を、すべての者に果たしてください。争いの地であなたの約束に生きる教会を強め、励ましてください。信仰の仲間の中にも病んでいる者、心が萎えている者がおります。年老いて、ここに来ることができなくなった者もおります。人びとに介抱されながらようやく生き続けている者がおります。たとえ明瞭な言葉であなたを呼ぶことができなくなった者であっても、あなたがそばにいてくださることを信じることができますように。果てしなく続くかと思われる家族の看取りの労苦をあなたが支えてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年4月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第37章11節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第2章23節~第3章15節
説教題:「新しく生まれなければ」
讃美歌:546、54、199、532、544

2023年度がスタートし、あっと言う間に第4主日を迎えました。ご承知のように、3年前から女子校で聖書科非常勤講師として働いております。先日、今年度最初の授業を終えました。毎年、はじめに自己紹介をします。まず黒板に名前を書きます。次に生年月日を記して、若い頃のエピソードをいくつか話し、それから再び、黒板に、1985年10月6日と記します。そして、伝えます。「わたしには二つの誕生日があります。一つは、母のお腹から生まれた1967年11月29日。もう一つは、1985年10月6日。この日、罪のわたしは洗礼によって死んで、同時に、まったく新しい命に生きる者となりました。」生徒たちは、不思議そうな顔を浮かべていました。わたしだけでなく、キリスト者には皆、二つの誕生日があります。二度目の誕生日である洗礼を受けた日、罪のわたしは死ぬ。そして、「水と霊とによって」まったく新しい命に生きる者とされる。十字架のキリストと共に死に、キリストの復活の命を与えられて、新しい存在として生まれ変わるのです。
主イエスは、過越祭の間、エルサレムにおられました。多くの人が、主イエスのなさったしるしを見て、主イエスをキリスト、救い主と信じました。しかし、主イエス ご自身は、彼らを信用なさいませんでした。なぜなら、主イエスは すべての人のことを知っておられ、何がわたしたちの心の中にあるかを、よく知っておられたからです。わたしたちの心はまったくあてになりません。くるくると変わる。主イエスは、わたしたち以上に、わたしたちの心の闇を ご存知であられたのです。
ここに、一人の人物が登場します。第3章1節。「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」「ファリサイ派」と呼ばれた人々は、ほかの人はどうであれ、自分たちだけは、神さまに選ばれた民として、真面目な生活をしよう、誠実に生きようと、徹底して努力した人びとでした。さらにニコデモは議員でしたから、ファリサイ派の中でも一目置かれる存在であったと考えられます。そのニコデモが、ある夜(よ)、主イエスのもとに来て言ったのです。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
なぜニコデモは「夜」に、主イエスを訪ねたのでしょう?ヨハネによる福音書は、この時点では、主イエスとファリサイ派との対立を描いていませんが、徐々に明らかにされていきます。ファリサイ派の人々は、真面目に生きようとする余り、古くからのしきたりや決まりにとらわれて、主イエスが語られる真理がわからなかったのです。その対立がこの頃からすでに芽生えていたと考えると、もしかしたら、ニコデモは人目(ひとめ)を気にしていたのかもしれません。けれども、一方で、夜は、人がおきてを学ぶ時、神さまの み言葉を学ぶ時でした。仕事を終えて夜になると律法の教師を訪ねる習慣があったようです。ニコデモは、 神さまの真理を主イエスから学ぼうとする謙虚な男であったかもしれません。いずれにしても、そこには、どうにかして、この先生のお話を直接聞いてみたい、という情熱が感じられます。ニコデモは、「ラビ」と呼びかけました。普段はニコデモ自身が「ラビ」と呼ばれる立場にありました。「ラビ」とは、律法の教師に対する敬称です。あなたをわたしの先生として受け入れます、という主イエスへの敬意が感じられます。さらに、ニコデモは、「神があなたと共におられる」と素直に告白しています。ニコデモがこのとき、何歳であったか、想像するしかありませんが、おそらく、主イエスの方が年下だったのではないかと思われます。それでも、主イエスを「ラビ」と呼び、「あなたは神から遣わされた教師、あなたと共に神がおられるのでなければ、このような数々のしるしを行うことはできません」と伝えたのです。
主イエスは、心を込めて言われました。3節。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」「はっきり言っておく」と訳されているギリシア語は、「アーメン、アーメン」です。「まことに、まことに、あなたに告げる。よく聞いて欲しい。わたしがこれから言うことは本当のこと、現実のこと、真理である」と強調して、言われたのです。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
「新たに生まれなければ」の「新たに」と訳された言葉には、「上から」という意味があります。岩波書店訳は、「アーメン、 アーメン、あなたに言う。人は上から生まれなければ、神の王国を見ることはできない」と訳しています。そして、この「上から」という言葉は、時間的な意味では「初めから」と訳すことができます。人は上から注がれてくる力によって、初めから、生まれ直さなければ、「神の国を見ることはできない」のです。  
「神の国」とは、神さまの ご支配と言い換えることができます。ニコデモが真面目に問い続け、求め続けていたものこそ、「神の国」、神さまの ご支配でありました。ファリサイ派は、自分たちの行いを厳しく律することによって、神さまの ご支配を見たいと真剣に願っていた人びとです。この時代、神さまに選ばれた民であるイスラエルは、国を失っていました。ほかの神々を拝んでいる者たちによって征服されていた。イスラエルの民は、神さまを見失っていたのです。その結果、ローマ権力に へつらう者がいくらでもいました。そのようなユダヤ人たちに逆らうように、信仰の筋道を立てようと努力していたのが、ファリサイ派でした。ニコデモは、 ファリサイ派に属する者として、何とかして神の国、神さまの ご支配を この目で見たい、と切に求めていたのです。
主イエスは、「何が人間の心の中にあるかをよく知っておられ」ます。ニコデモの心の中も知っておられた。だから、お答えになりました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは、主イエスの言葉を真面目に受け止め、訴えました。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」ニコデモの必死の訴えに、主イエスはお答えになりました。5節。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
主イエスは「水と霊とによって生まれなければ」と、おっしゃいました。それは、洗礼を意味します。母の胎内に戻って、もう一度生まれるのではなく、天から授けられる霊によって、新しく生まれる。洗礼によって新しく生まれなさいと、主イエスは言われたのです。「ニコデモ、よく聞きなさい。あなたは生まれ変わらなければならない。神の国は、コツコツと徳を積んだ先にあるのではない。あなたの存在そのものが、まったく新しくならなければならないのだ。」
洗礼には水を用いますが、水そのものには罪を洗い清める霊的な力はありません。水が用いられるのは、お風呂やシャワーで体の汚(よご)れを洗い流すように、聖霊が働いてわたしたちの全存在が罪から洗い清められ、聖なる者とされることを示す、しるしです。ですから、本来洗礼は、全身を水に浸して行うものです。今も、 そのようにしている教会もあります。水の中に全身ざぶんと浸かり、まったく姿が見えなくなって、そこから再び姿を現すことで、キリストと共に死んで、キリストの復活の命を与えられて、まったく新しい存在として生まれ変わる。わたしたちの教会で行う洗礼も、全身は浸しませんが、それを表しています。
ニコデモは、覚悟を決めなければならないのです。自分の努力では生まれ変わることなどできません。天から注がれる力を信じて、自分が立っているところからざぶんと、洗礼の水の中へ飛び込まなくてはならないのです。主イエスはニコデモに、またすべての人に、勧めてくださるのです。「あなたも、霊によって、新しく生まれることができる。感謝して、また喜んで、生まれ変わって欲しい。」
主イエスは、「霊」を語られるとき、「風」を用いて教えてくださいました。8節。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」「風」と訳された言葉は、「霊」と訳すこともできる言葉です。ギリシア語でもヘブライ語でも、「風」と「霊」は、同じ一つの言葉で言い表されます。ですから、「霊は思いのままに働く。あなたは霊の音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊によって新しく生まれた者も、皆、霊のように、風のように、自由である」と訳すこともできるのです。霊は風のように、思いのままに、自由に、わたしたちを訪れてくださいます。
先日倒れてしまった教会の前の木は、幹が根元で分かれていて、双子のように生えていました。今は1本だけになってしまったその木の枝が、3階の窓からよく見えます。その枝の葉が、風に揺れている様子を見ていて、ふと思いました。なるほど、風は見えない、どこから吹いてきて、どこへ行くのかも、わたしたちには分からない。でも木(こ)の葉が揺れていることで、風が吹いていることが分かるし、木(こ)の葉は吹いてくる風に揺られて、時が来たら、風に乗って、風の行くところへと運ばれていく。霊もまた、思いのままに天から注がれる。それは見えないけれど、霊に心を震わせて、水で洗礼を授けていただいたキリスト者もまた、霊の導かれるままに生き、死んでゆく。天のご支配の中で生き、死んでいく。幸いなことだなあ、と思いました。
けれども、ニコデモの頭は、まだ混乱しています。9節。「どうして、そんなことがありえましょうか」。主イエスは、答えて言われました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」
皆さんも、お気づきになられたと思いますが、主イエスは11節で「わたしたち」と言っておられます。主イエスの孤独と悲しみと、迫害に耐えながら福音書を著(あらわ)した教会の苦悩とが、重なって、響いてきます。「わたしや、わたしのことを語り続ける教会は、いつも証しをしているではないか。それなのに、あなたがたは証しを受け入れない。」
主イエスは、証しをしておられます。即ち、「人の子」について、つまりご自分の話をしておられるのです。「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降(くだ)って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上(のぼ)った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
預言者モーセの名が記されているのは、旧約聖書 民数記 第21章4節から9節に記されている出来事です。神さまから遣わされた蛇が、罪を犯したイスラエルの民を噛み、多くの者が死んだのです。そのとき、ようやく人びとは自らの罪を思い知り、悔い改め、赦しを求めました。神さまはモーセにお求めになりました。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。(21:8)」モーセは、青銅で蛇をつくり、旗竿の先に掲げました。これを仰ぎ見たイスラエルの民は、死を免れました。審きをもたらす蛇が、悔い改めた民にとっては救いのしるしとなったのです。それが、「モーセが荒れ野で蛇を上げた」意味です。主イエスは、その蛇の姿にご自分の姿を重ねて語っておられるのです。旗竿に掲げられた蛇のように、ご自身が十字架に架けられるとき、神さまの審きのしるしである十字架が、悔い改め、洗礼を受けた者にとっては救いのしるしとなるのだと、ご自分を証ししておられるのです。
けれども、ニコデモは、このときは、残念ながら主イエスのおっしゃったことがわからず洗礼には至りませんでした。この後、ニコデモの名は第7章と、第19章に登場します。第19章では、主イエスが十字架で息を引き取られた後、アリマタヤのヨセフが、主イエスのご遺体を十字架から取り降ろしたときに駆け付けて、ヨセフと共に埋葬を行ったと書かれています。主イエスと対立していたファリサイ派に属する議員。にもかかわらず、十字架で息を引き取られた主イエスのもとに駆け付けたのです。主の十字架を見て、主の証しの み言葉を思い起こしたのかもしれません。そして、もしかしたら、主の復活の後には、この人も洗礼を受けて、キリスト者となったかもしれません。わかりませんが、そうであって欲しいと思います。
わたしたちキリスト者も皆、主イエスに信用されない者でした。聖霊の力なくして、救われることはありませんでした。ただ、聖霊が、思いのままに吹いて来てくださり、主の救いを知ることができました。そして、聖霊の導きにより、信仰告白、洗礼へと導かれ、新しく生まれ、神さまのご支配のもとで平安に喜んで生きる者とされました。死すらも、神さまとわたしたちを引き離すことはできないことを知りました。すべての人が、この恵みの中へ招かれています。だから、わたしたちは生涯をかけて、人々の間で証しをするのです。
わたしたちの証しは、わたしたちの生き方です。霊に導かれる生き方です。風に木(こ)の葉が揺れるように、霊の導かれるままに生きて、死んでゆく。主イエスが与えてくださる永遠の命を信じ、喜んで赦し合い、仕え合いつつ生きて、死んでゆく。神さまのご支配のもとで生き、希望をもって死んでゆく。霊の導きを祈りつつ。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる御神、あなたが私どもに与えてくださっている証しの言葉と、霊の導きを大切に受け入れることができますように。わがままを捨てて、主の お姿だけが大きく見えて、そこに見えてきているあなたの愛のご支配だけがはっきりと見えて、悩みに耐えて生き続けることができますように。愛する喜びに いつも勇んで生きることができますように。そのようにして、霊と水によって、新しく生きることを許された者が生きる喜びに終生 生きることができますように。主の み名によって祈り願います。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。今、互いのためにも祈ることができますように。ここにあるとき、自分を送り出してくれた家族や、自分が傷つけてしまっているかもしれない人のためにも祈ることができますように。この国の社会の歩みを思います。世界の歩みを思います。み心に従うこと少なく、争いに満ち、殺し合いが続き、お互いに信じ合うことができず、真実の平和をもたらすことのできない世界を み心のうちに留めてください。愛する者を失い、悲しみの中にある者、手術を控えている者に、あなたが寄り添い、慰め、励まし続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年4月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第36章25節~36節、新約 ヨハネによる福音書 第2章13節~25節
説教題:「新しく清い心をいただこう」
讃美歌:546、11、Ⅱ-83、521、543

 先週は、主イエスの死への勝利を覚えて、85名の皆さんと共に感謝の礼拝を守りました。久し振りに出席された方もおり、嬉しく思うと同時に、この日も出席の叶わなかったお一人お一人を思いました。どのような状況にあろうとも、わたしたちは、主が、まことに死なれ、その死から、復活されたことを信じる仲間です。主のご復活をただ信じ、洗礼を受け、主とひとつにしていただきました。だから、わたしたちは神さまの子として、永遠の命の、希望の光の中を歩むことができます。たとえ今、自分の望む状況に置かれていなくても、たとえ明日、地上の命の終わる時が来るとしても、この希望の光は消えません。復活の主が、わたしたちとひとつになってくださったことを信じているからです。
 今朝、わたしたちに神さまから示された み言葉は、受難週礼拝でも読みました13節から22節、神殿から商人を追い出す主イエスによる宮清めの出来事と、それに続く23節から25節の厳しい み言葉です。23節から25節は、大きなエピソードが語られているわけではありませんので、うっかりするとサラッと通り過ぎてしまいそうになるかもしれません。しかし、ここは、わたしたちにとって、非常に大切な箇所です。わたしたちはともすると、信仰生活の中で、自分の現実に蓋をして、いつの間にか、その現実が無かったことにしてしまうからです。
主イエスは、過越祭の間、エルサレムに滞在されました。その間、数々の「しるし」をなさったと書かれています。「しるし」とは、非常に重い病を癒される、というようなことであったと思われます。奇跡を目の当たりにして、多くの人がナザレのイエスを救い主だと信じて喜んだのです。しかし、主イエスのお心の内にあったのは、喜びではありませんでした。ヨハネによる福音書ははっきりと告げます。「イエス御自身は彼らを信用されなかった。」痛烈なメッセージです。「イエス御自身は彼らを信用されなかった。」彼らとは、主イエスのしるしを見て、主イエスを救い主と信じた人々です。主イエスが、ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変える「しるし」を行われたとき、弟子たちは主イエスを信じました。エルサレムの人々も主イエスの「しるし」を見て、「イエスこそ、メシア」と信じたのですから、彼らを信用してくださってもよいのに、と思ってしまいます。けれども、福音書記者は、「しかし」と書き始め、「イエス御自身は」と、わざわざ「御自身は」と書き加えて、主イエスは、彼らを信用なさらなかったと書きました。そして、み言葉は続きます。24節後半。「それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。
主は、すべての人間の心の内を知っておられたから、信用されなかった。はっきりそう書いてあります。すべての人間です。わたしたちのことです。ヨハネ福音書を書いた人も、東村山教会に連なるわたしたちも。弟子たちすらも。例外はないのです。わたしは、これまで多くのキリスト者との出会いが与えられてきました。その中でも、神学生であったわたしに、ある信仰の大先輩が話してくださった言葉が、今もわたしの心に深く残っています。「わたしは、自分にとってプラスのことがあれば、『神さま、あなたを信じてよかったです。』と感謝した。でも、マイナスの試練に襲われたときには、『いったいなぜ、これほどの試練を経験しなければならないのか?』と、神さまに文句を言い、神さまから心が離れたこともある。人間というのは、本当に弱いものだ。キリスト者らしく生きて行こう!と決意しても、なかなかそのように生きられない。でも、神さまは、そんなわたしを見捨てることなく、今まで生かしてくださった。だから、君にはぜひ自分の弱さを隠すことなく、そのようなわたしをも愛し、用いてくださる神さまの愛、イエスさまの赦しを語り続けて欲しい。」
わたしたちは、第1章1節から18節を繰り返し読みました。第1章1節は、このように始まりました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(1:1)」神さまの み子 主イエスは、肉体をもって地上に顕れてくださった神さまのご意志そのものであり、神さまです。ですから、主イエスはわたしたちの心の中に何があるかをよく知っておられるのです。わたしたちが、どれほど口で「信じる」と言っていても、すぐに神さまの愛を疑い、心を閉じてしまうこと。自分に都合のよい、望み通りの「しるし」が見えていれば信じても、「しるし」が見えないと動揺し、信仰がぐらつくことを。そのような、わたしたちのこれまでの歩み、あの日あの時の不信仰をよく知っておられます。そのように、どうにも救いようがない人間だからこそ、主イエスは、この闇としかいいようのない世に、天から降って来てくださいました。神さまの懐(ふところ)から飛び出して、わたしたちの間に、飛び込んで来られたのです。
 もしも、ヨハネ福音書が第2章でおしまいだったら。そのような想像は、無意味かもしれません。それでも、ご一緒に想像したい。もしも、カナでの婚礼、宮清め、そして今朝の厳しい審きの言葉で終わってしまっていたら。わたしたちは、神さまの愛を知らず、人を恐れ、死を恐れ、闇の中で死んでいく存在でした。それで終わりでした。しかし、終わりではなかったのです。続きがあるのです。主イエスは、まことの神さまとして、わたしたち人間の心の中に何があるかを知っておられました。同じようにわたしたちと同じ人間として、人間の心がいかに信用ならないか、惨めなものであるか、病んでいるか、ご自身が まことの人間となられたからこそ、よく知っておられました。ご自身が十字架で死ななければ誰の罪も赦されない、ということ。ご自身が三日目の朝、死に勝利しなければ、誰も永遠の命を得ることはできない、ということを、よく知っておられたのです。そして、ご自分の命を、わたしたちの救いのために献げてくださいました。
 これは来週の箇所の先取りとなりますが、主イエスは、ユダヤ人たちの議員であったニコデモに、はっきり言われました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」父なる神さまは、ご自分の大切な み子主イエスをわたしたちの代わりに十字架の上で審き、死なせるほどに、わたしたちを深く愛してくださいました。そして、主イエスを死の中から復活させて、復活を信じる者が一人も滅びないで、神の子として、永遠の命に生きる者としてくださいました。「一人も」です。すべての信用ならない者たちを、「一人残らず」です。どうしても、わたしたちを放っておけない、このまま、わたしたちを信用しないで終わりたくない、そういう神さまの燃えるような ご意志が肉体を持ち、わたしたちの元に降って来てくださいました。それが主イエスです。主イエスは、わたしたちの心の中に何があるかをよく知っておられる。いかに、わたしたちが信用ならぬ者であるかをよく知っておられる。だからこそ、ご自分が世に遣わされたのだということを、よく知っておられたのです。そして、十字架と復活への道を歩み通してくださったのです。
わたしたちは一人の例外もなく、信用に値しない者でした。それなのに神さまは、そういうわたしたちを諦めずに、救うために、主イエスに十字架の死を強いられました。主イエスも、十字架の死を受け入れて、完全に死んでくださいました。信用に値しないわたしたちの心を、十字架の上で打ち砕き、復活によって新しい心につくりかえて、三日目の朝、死の壁を打ち破り、復活してくださいました。わたしたちを父なる神さまのもとへ導いてくださるのです。十字架の死と、復活を信じて、洗礼を受けて、主イエスとひとつにしていただくとき、わたしたちは真新しく、神さまのもとで生きる新しい命をいただくのです。主イエスは、そのようにしてわたしたちを、「ここへ来なさい、ここが、あなたの居るべき場所だよ」と、神さまのもとへ連れて行ってくださるのです。神さまのもとで生きる命こそが、永遠の命です。十字架と復活こそ、わたしたちに与えられているまことの救いのしるし。わたしたちの喜びであり、希望です。これほどの神さまの愛に日々、立ち帰ることができますように。

<祈祷>
 天の父なる神さま、み子の甦りの勝利によって、あなたを「父」と呼べる幸いを感謝いたします。み子の信用に値しないわたしたちが、み子の十字架の死と、甦りの命による罪の赦しと永遠の命を信じる信仰を与えてください。確かな思いを込めて、新しく清い心に生きる者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、礼拝を慕いつつ、さまざまな理由によりここに来ることの叶わない仲間たちがおります。病床にあります友、痛みを抱えている友、あなたから心が離れてしまっている友、望みを失っている友、今日も働いている友に、あなたがその近くにいて、愛で満たし、聖霊を注いでください。家族のために祈ります。いつの日かまだ信仰を告白していない家族も、あなたの招きを信じ、信仰告白、洗礼へと導いてください。この国のために祈り、世界の平和のために祈ります。あなたを信じている者も、まだ疑っている者も、平和と愛と義を作らんとするあなたのみ心に生きることができますように。互いが互いの命を尊び、敬い合う社会を、つくっていくことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年4月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第2章4節b~9節、新約 ヨハネによる福音書 第20章19節~23節
説教題:「あなたがたに平和があるように」
讃美歌:546、147、153、Ⅱ-1、358、542

今朝は、いつもより少し早起きをしました。そして、教会学校の子どもたちと一緒に、信仰の先輩方のお墓の前で礼拝をまもりました。主イエスが十字架に架けられて死なれた次の週の初めの日、イースターの朝の出来事を心に刻むためです。
その週の初めの日の朝早く、マグダラのマリアは主イエスのご遺体が埋葬された墓に行きました。すると、墓の入口を塞いでいた大きな石がどかされていたのです。驚いたマリアは、シモン・ペトロのところ、また、主イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ大慌てで飛んで行きました。そして、彼らに告げたのです。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。(20:2)」
驚いたペトロともう一人の弟子は墓に向かって走り出しました。墓に到着すると、マリアの言う通り、石が取りのけてあったのです。先に到着したもう一人の弟子は身をかがめて墓をのぞきました。すると、主イエスの身体に巻かれていた亜麻布が置いてあるのが見えました。でも、墓の中には入りませんでした。少し遅れて到着したペトロは、墓の中に入りました。ペトロは、亜麻布と、少し離れた所には、主の頭を包んでいた覆いも、丸めて置いてあるのを見つけました。二人の弟子は、主の ご遺体がないことを確かめて、ようやくマリアが言ったことがほんとうであったと知りました。けれども、このときはまだ、主イエスが復活されたとは思っていませんでした。
二人は、この出来事を受け止めきれないまま、家に帰って行きました。ところが暫くすると、マグダラのマリアがまた、血相を変えて飛んで来て告げたのです。「わたしは主を見ました(20:18)」! そして、甦られた主イエスから言われたことを伝えました。けれども、弟子たちはユダヤ人を恐れて、一つの家に集まって、誰も中に入って来られないように、家の扉にも窓にも、鍵をガチャ、ガチャとかけて、閉じこもってしまったのです。
「弟子たちはユダヤ人を恐れ(20:19)」ました。主イエスのご遺体がなくなった。「これはもしかしたら我々を犯人に仕立て上げ、捕まえて殺すための陰謀かもしれない。」そんなふうに思ったのかもしれません。また、もしかすると弟子たちは、自分たちでも気づいていないような心の奥深くで、主イエスをも恐れていたのかもしれません。「わたしたちは、主イエスを裏切り、見捨て、見殺しにした。もしも、主イエスが復活されたというのがほんとうなら、裏切りの罪を裁かれるかもしれない。」弟子たちは、あらゆる恐れに心を閉ざし、家の中にたてこもって、ガタガタ震えていたのです。
わたしたちにも、弟子たちの気持ちは想像がつきます。わたしたちも心の戸をピシャッと閉じてしまうことがあります。犯してしまった罪の自覚が深ければ深いほど、あの日の過ちは、誰にも見せたくない。自分でも忘れてしまいたい。弟子たちが家の戸に鍵をかけて閉じこもった姿は、まさにわたしたちが自分の罪を隠そうとする姿と重なります。そこへ、甦りの主イエスがやって来られたのです。
今朝の教会学校の子どもたちとのイースター墓前礼拝でも、同じヨハネによる福音書 第20章19節から23節の み言葉の話をしました。わたしが小学生のときは、イースターの朝は毎年、鎌倉の源氏山という小高い山の上で礼拝をまもっていました。そして、復活のイエスさまの身体はどうなっているのか?と不思議に思っていました。復活されたイエスさまは透明人間みたいに入って来られたのかな?と考えたり、弟子たちは本当に驚いただろうな?などと思ったものです。弟子たちは戸に鍵をかけていました。鍵が開く音、ギーっと戸が開く音もしないのに、気がついたら、甦りの主イエスが立っておられた。それも、弟子たちの真ん中に、立っておられたのです。
弟子たちは、「イエスさまが化けて出てこられた!」と思ったかもしれません。「お前たちは、なぜあのとき、わたしを見捨て、見殺しにしたのか。」と、叱られてしまう。いや、呪い殺されてしまうかもしれない。血の気が引いて、真っ青になりました。けれども主イエスのひと言で、みるみるうちに血の気が戻ったのです。甦りの主は、こうおっしゃいました。「あなたがたに平和があるように(20:19)」。それは、毎朝、主イエスと交わしていた挨拶の言葉でした。「あなたがたに平和があるように」。
主イエスが実際に語られた言葉、アラム語で「シャローム」という言葉です。シャローム。皆さんもどこかで聞いたことのある言葉だと思います。シャロームとは、「平和があるように」という意味の、日常の挨拶です。そしてこの挨拶の言葉の根っこにあるのは、「神さまが共におられる時、その時こそが平和」という心です。弟子たちはこの言葉によって、幽霊などではない、紛れもなく甦られた主イエスがわたしたちと共におられる。今、わたしたちの真ん中に立っておられるのだ、と分かったのです。主イエスは、自分を見捨て、見殺しにした弟子たちに、何よりもまずただひと言「シャローム」と声をかけられました。「大丈夫。もう恐れなくていい。何も心配しなくていい。あなたがたの罪は赦された。神さまは決して、あなたがたをお見捨てにならない。わたしがあなたがたと共にいる。だからあなたがたは平和だ。平安だ。脅えることはない。恐れることもない。あなたの罪は赦されたのだ。」弟子たちは、主イエスから罪の赦しの宣言を受けたのです。
主イエスは、手とわき腹とをお見せになりました。手には釘の痕があり、わき腹には槍で刺された傷があります。弟子たちは、改めて、自分たちが見殺しにした罪に心の傷がうずいたことでしょう。同時に、だからこそ、「シャローム」という赦しの言葉が心に迫ってきました。「このお方は、幻ではない。幽霊でもない。わたしたちと共に生活してくださり、祈ってくださり、励ましてくださり、慰めてくださった わたしたちの主、イエス・キリストだ!イエスさまは、十字架で死なれた。そして今、わたしたちを呪う言葉でなく、生かす言葉、平安を与える言葉、罪の赦しの宣言『シャローム』を告げてくださっているのだ。」
これは弟子たちが経験した出来事ですが、すべてのキリスト者に訪れた救いの瞬間の出来事と相違ありません。キリスト者とは、立派な人たちの集まりなどではありません。主の十字架によって罪を赦していただいた。「シャローム。あなたがたに平和があるように。あなたの罪は赦された。大丈夫、わたしがいつも共にいる。安心して行きなさい。」と言っていただいた者たちです。主イエスはすべての人を招いておられます。まだ洗礼を受けておられない方、小児洗礼を受けて信仰の告白を終えていない方。主イエスは「シャローム。あなたがたに平和があるように。あなたの罪は赦された。安心して行きなさい。」と、釘の痕のある手と わき腹の傷をお見せになりながら、赦されて生きる平安の中へと招いておられます。「わたしを信じて欲しい。わたしの仲間になって欲しい」と呼んでおられるのです。
主イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。(20:21)」そして続けて言われました。「父がわたしを お遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。(20:21)」
加藤常昭先生の説教集には、こう書かれていました。「『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』という言葉は、私どもすべてに当てはまります。ここに用いられている『遣わす』という言葉から英語のエンジェルという言葉が生まれました。私どもは、主イエス・キリストの罪の赦しの恵みを告げて歩く天使になるのです。」神さまがわたしたちを赦すために主イエスを遣わしてくださったように、わたしたちも、誰かを赦すために天から遣わされているのです。わたしたちは罪を赦していただいたから、今度は、周りの人々への天使となって、赦しを届けに行くのです。
主イエスは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われてから、弟子たちにフ~っと息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。(20:22~23)」毎週の執り成しの祈りの冒頭で「わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。」と父なる神さまに祈るのは決して決まり文句ではないのです。本当にそうなのです。甦りの主イエスは、互いに赦し合うことができないわたしたちのことをよくご存知です。だから言われるのです。「聖霊を受けなさい。」と。自分の力であの人、この人を赦そうと思っても、それは無理。聖霊の助けが必要なのです。
甦りの主イエスは、今日も明日も、永遠に、わたしたちにフ~っと息を吹きかけてくださる、聖霊を注いでくださる。そのとき、わたしたちは、罪の赦しを告げる天使になれるのです。
今日も甦りの主イエスは、「シャローム。わたしはあなたを赦した。いつも、あなたと共にいる。あなたに平和があるように。そして聖霊を受けなさい。」と命の息を吹き入れてくださいます。そして、今日も、あの人、この人のもとへと遣わしてくださるのです。そのとき、たとえ相手が苦手だなと思う人であっても、聖霊の働きを信じて、まず「シャローム」と挨拶を交わす。それから互いに肩を並べて座る。甦りの主イエスを見上げて。わたしたちの真ん中に、甦りの主イエスが立っておられます。わたしたちの罪は赦されました。だから、わたしたちは平安です。互いの罪を裁き合う者から、互いの罪を赦し合う者として用いてくださる主イエスを、吹きかけてくださる聖霊の力を、信じきることができますように。
只今から聖餐の食卓に与ります。聖餐に与る時、甦りの主イエスが弟子たちに吹きかけてくださった同じ息が、わたしたちにも吹き入れられます。わたしたちの罪は赦され、永遠のいのちに生きているとの確信が与えられます。驚くばかりの恵みをいただいた者として、甦りの主イエスが命じられたように、罪の赦しを告げて歩く天使として、ここから歩み出して行きましょう。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる御神、甦りの主イエスが、今日も、わたしたちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と語ってくださいましたから感謝いたします。あなたの平和、平安を知っている者として、互いの罪を裁き合う者ではなく、互いの罪を赦し合う者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、教会から離れ、罪の思いに縛られている者がいましたら、甦りの主イエスが「あなたがたに平和があるように」と声をかけてくださり、手を差し伸べてくださっていることを、しっかりと信仰の心をもって受け入れることができますように。病床の闘いの中にある者に、人生の闘いに疲れている者に、「恐れることはない。甦りの主は共にいてくださる」との確信を与えてください。主よ、兄弟姉妹たちのために祈り、赦す心を与えてください。理解されることよりも、理解し、受け入れることを学ばせてください。自分の強さを誇るより、弱さを嘆き、助けを求めている人の助けとなることを、自分の恵みとすることができますように。隣人に赦しを届け、平和をつくることができますように。とくに、国々の指導者たちの心を、あなたの みもとへと導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年4月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第69篇8節~16節、新約 ヨハネによる福音書 第2章13節~22節
説教題:「神の家に生きる恵み」
讃美歌:546、72、191、Ⅱ-1、Ⅱ-99、541

今日は棕梠の主日です。今日与えられております み言葉は、「主イエスによる宮清め」と呼ばれる出来事を伝える記事ですが、ヨハネ以外の福音書は、これを棕梠の主日の翌日のこととして記しています。2023年度最初の礼拝、また受難週礼拝の日に、この み言葉が与えられたことに、神さまのお導きを感じます。
主イエスは、カナでの婚礼に出席された後、母、兄弟、弟子たちとガリラヤ湖畔のカファルナウムに幾日か滞在されました。その後、ユダヤ人の過越祭が近づいたので、エルサレムへ上って行かれたのです。過越祭とは、ユダヤ教の三大祭りの一つで、モーセが、エジプトの奴隷状態にあったイスラエルの民をエジプトから救い出した出エジプトの出来事を記念する重要な祭りです。ユダヤ人は、この祭りに合わせてエルサレムに上り、神殿に詣でることを大切にしていました。
エルサレム神殿は、柱廊に囲まれており、その内側は広い庭になっておりました。この庭は、異邦人でも入ることができたので、「異邦人の庭」と呼ばれていました。そこには、神さまへの献げ物とする羊や鳩などを売っている者たちや、両替をしている者たちがおりました。祭りのためにエルサレムに上ってくるユダヤ人たちは、遠い土地から何日もかけて旅をして来ます。その人たちが献げ物にするための羊や鳩などを運んで来るのは大変です。また、外国在住のユダヤ人にとっては、通貨の両替が不可欠。そのような人たちのために便宜をはかっていたのです。そこに、主イエスがやって来られました。そして、商売をしている者たちに鋭い眼差しを向けられたのです。主イエスは、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われ」ました。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
商売人たちは皆、許可を貰って商いをしていたのでしょうから、訳が分からなかったに違いありません。また弟子たちも、主イエスの行動に、度肝を抜かれたことでしょう。わたしたちも、何もそこまでしなくても、という思いを抱きます。
スイスの改革者カルヴァンは、主イエスの行動をこのように註解しています。「キリストには別の思惑があったのだ。(中略)すべてのひとたちが かれの教えに注意深くなるためには、なにかあたらしい思いがけない行為によって、錆びつき眠りこけているかれらの精神を、目ざめさせなければならなかったのである。」確かに、わたしたちも、今までの慣習に従って行動することがほとんどです。日曜日に教会へ行くことが、習慣になっていることは悪いことではありません。けれども、主イエスの十字架の恵みが当たり前になっていないだろうか?十字架の恵みに慣れ、心が錆びつき、眠りこけていないだろうか?今朝、わたしたちは問われています。なぜ、主イエスはこんなにも激しくお怒りになられたのだろう?教会が神さまの家であることをわきまえているだろうか?信仰が錆びつき、心の目が眠りこけていないだろうか?わたしたちは、主イエスからの問いに立ち止まり、思い巡らさなくてはなりません。
弟子たちは、ある み言葉を思い出しました。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」。これは、今朝の旧約聖書 詩編第69篇からの引用です。改めて10節を朗読いたします。「あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲(あざけ)る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。」もしかすると、弟子たちがこの詩編の み言葉を主イエスと重ねて思い出したのは、主イエスが人々から嘲られ、十字架で死なれ、三日目に甦られた後だったかもしれません。そのときになって初めて、主イエスの、神殿に対する熱情が、祭司長たち、ファリサイ派の人々の敵意に火をつけ、十字架の死をもたらしたのだと、主イエスのこのときのご様子を詩編の み言葉に重ねて、思い至ったのではないかと思います。「食い尽くす」とは、文字通り「食べてなくしてしまう」ことです。「殺す」と訳す場合があれば、「焼き滅ぼす」と訳す場合もあります。主イエスは、父なる神さまの家である神殿を、ご自分の命をもって建て直そうとされました。それは、父の家である神殿が商売の家のままであるなら、誰も救われないからです。羊や鳩を屠り、献げても、あるいは高額な献金を献げても、礼拝にふさわしい、打ち砕かれた魂がないのであれば、意味がないのです。
主イエスは、カナでの婚礼で母マリアに言われました。「わたしの時はまだ来ていません。(2:4)」この時、すでに主イエスは、ご自分の時、つまり十字架の死と復活の時を見据えて、歩み始めておられました。主イエスは、心が眠りの中にある人々の目を覚まさせ、神殿とは、建物ではなく、主イエスご自身であることを人々に伝えるために、このような激しい行動をとられたのです。後の伝道者パウロは、「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。(コリントの信徒への手紙一12:27)」と言いました。教会は、神さまの家であり、キリストの体です。主イエスの十字架と甦り、罪の赦しと永遠の命を信じる者の群れです。一人一人が、心の目を開き、キリストの体の部分として、祈りの家を形作っていくのです。
けれども、エルサレムに住むユダヤ人たちは、ナザレの大工の息子イエスを見下して、こう言いました。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」。完全に上から目線で「しるし」を求めたのです。
ヨハネによる福音書には、「しるし」という言葉が、要所要所に登場します。皆、目に見える「しるし」を求める。その「しるし」次第では、「ナザレのイエス、お前をメシア、救い主、キリストと認めてやってもよい。お手並み拝見といこうじゃないか」、というわけです。
ヨハネによる福音書 第12章には、棕梠の主日に、主イエスがろばの子を見つけてお乗りになり、エルサレムに入城され、「多くのしるしを彼らの目の前で行われた(12:37)」とあります。それでも、「彼らはイエスを信じなかった。(12:37)」のです。さらに、その先にはこう書いてあります。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。(12:42~43)」わたしたちの罪がはっきり示されている箇所の一つです。この世の権威を振りかざし、「どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と見下す心は、わたしたちと無縁ではありません。こんなに祈っているのに答えが与えられない。「しるし」が与えられない。そう言って、主イエスを疑う。また、この世の誉れを求める。見えない神さまに褒めてもらうより、ひとから称賛されたい。重んじられたい。大切にされたい。そのようなわたしたちの罪を、主イエスはご存知であられます。だからこそ、まことの救いの「しるし」をわたしたちに与えるために、主イエスは、十字架の死と三日目の甦りに向かって、歩みを進められるのです。主イエスは、まことの救いの「しるし」である十字架の死と甦りを見据えつつ、答えて言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
ユダヤ人たちは、主イエスが御自分の体のこと、死者の中からの復活について語っておられるとは思いもせず、こう反論しました。「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」。彼らにとって神殿とは、目の前にある壮麗な神殿でした。しかし、主イエスが三日で建て直すとおっしゃっているのは、そうではありませんでした。主イエスは宣言してくださったのです。「『わたしの時』が来れば、あなたがたはわたしを十字架の上で壊し、食い尽くす。しかし、わたしの体は、三日目の朝、父なる神によって復活させられる。そして、このことを信じてわたしの名のもとに集められた者たちによって、わたしの体である教会が形作られるのだ。」
わたしたちはそのように集められて、今朝、受難週礼拝をささげております。わたしたちの罪のために、主イエスが担ってくださった み苦しみをおぼえ、イースターに備えます。わたしたちは、ひとからの誉れに心を奪われていないだろうか?また、主イエスの眼差しを忘れ、ひとの視線に気を取られていないだろうか?何より、わたしたち自身がキリストの体であることを忘れ、互いに裁き合っていないだろうか?互いのためにどれだけ祈っているだろうか?自分自身に問いつつ、この大切な一週間を過ごしていきたいと思います。この問いの前に、わたしたちは皆、うなだれるしかない者たちです。しかし、だからこそ顔を上げ、主イエスの十字架を仰ぐ。すると、十字架で食い尽くされた主イエスのお姿が迫ってまいります。主イエスは十字架に架けられながら、「わたしは、わたしの命をもってあなたがたを赦したのだ。だからわたしの元に来なさい。わたしの体を共に作って欲しい」と、わたしたちを招いておられます。このあと、主の血潮によって示された救いの「しるし」である聖餐に与ります。赦しの「しるし」である主の食卓です。主イエスは、「これは、あなたのための祝いの食卓だ。ぜひこの食卓を一緒に囲んで欲しい。」とすべての人を招いておられます。主イエスの十字架による救いを信じ、洗礼を受ける者は誰でも、この食卓につくことができます。誰もが、キリストの体の部分となるために招かれています。もしも今、洗礼を受けることをためらっている方がいましたら、どうぞ、わたしたちと一緒に主の体をつくる者となっていただきたい。そして、神の家に生きる恵みを共に喜びたい。心から願います。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、今朝の み言葉を通して、主イエスが十字架で死ななければならなかった理由を心に刻むことが許され、感謝いたします。あなたは み子を十字架に架けるほどに、熱情を持ってわたしたちを愛し、あなたの家に生きる恵みをお与えくださいましたから感謝いたします。主よ、あなたの家に生きる恵みを知らない者が、聖霊の注ぎにより、信仰告白、洗礼を決断し、共に聖餐に与ることができますよう導いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。ここに来ることができない人びとのために祈ります。誰もが、教会の祈りに支えられ、あなたに支えられていることの確信を得、力を得ますように。共に祈り合う群れをここに作らせてください。その祈りが、世界の教会、この国の教会のためのものとなり、共に生きる多くの人びとのためのものとなりますように。裁きではなく、赦すことから、共に生きる歩みが始まることを学ばせてください。わたしたちの愛の手が及ばないでいる人びとのためにも、それでも祈り続けることを止めることがありませんように。来週のイースター礼拝に、心身の健康が守られ、愛する仲間たちが礼拝に出席できますよう、聖霊を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年3月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第124篇1節~8節、新約 ヨハネによる福音書 第2章1節~12節
説教題:「神が、ここにいてくださるから」
讃美歌:546、79、121、296、540

ヨハネによる福音書を1月22日から読み始めて2ヶ月、今日から第2章に入ります。第2章の最初の み言葉は、主イエスが公に最初になさった奇跡を伝える「カナでの婚礼」です。結婚式。人生の中でいちばん華やぐ一日と言ってもよいかもしれません。その華やかな喜びの席に主イエスが出席なさっていました。主イエスの母マリアもいたといいますから親戚の婚礼であったかもしれません。
結婚式の主役は、一般的には花嫁と言われます。けれども、このエピソードに花嫁は登場しません。花婿が出てくるのも1回だけ。主イエスによって水がぶどう酒に変えられたことを知らない婚礼の世話役が花婿を呼び、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。(2:10)」と言った場面で「花婿」が登場するだけです。ここに描かれているのは、華やかな祝宴を表とするならば、その裏側で起こった出来事です。祝宴の、言ってみれば裏方として、花嫁も花婿も知らないところで、主イエスが神さまの み力を現されたのです。何だか不思議な感じがいたします。主イエスが公に初めてなさった奇跡が、病気を治すのでもない。歩けない人を立ち上がらせるのでもない。少々当てが外れるような気がしないでもありません。もしかしたら、わたしたちはそんなふうに、何か悲しいとき、苦しいときこそ主イエスが必要だと思っているのかもしれません。けれども主イエスは、わたしたちの喜びのときにも共にいてくださり、わたしたちの喜びも守ってくださる方です。
わたしも、結婚式の司式を行ったことがありますが、たいへん緊張いたします。失敗がないようにと普段以上に気を遣う。このカナでの婚礼を催した家でも、細心の注意を払って準備し、十分な量のぶどう酒を用意していたに違いありません。ところが、見込みが外れてしまったのです。結婚式の祝宴という新しい門出の席で、思いがけず躓きそうになっている。けれどもそこに、主イエスがいてくださいました。
この時代、女性は祝宴に出られませんでした。ですから主イエスの母マリアは、この祝宴の手伝いをしていたのでしょう。ぶどう酒が足りなくなりそうなのに気がついて、息子を呼び、困っていると伝えました。「ぶどう酒がなくなりました。あなたなら、何とかできるでしょう。」マリアも、今、聖書を読んでいるわたしたちも、期待する主イエスの返事は、このようなものだと思います。「愛するかあさん、わかりました。なんとかしましょう」。ところが、主イエスは、わたしたちがまったく予想もしない言葉を返されたのです。「婦人よ、わたしと どんなかかわりがあるのです。わたしの時は まだ来ていません。」ずいぶん冷たい返事です。もしわたしなら、あまりのショックに言葉を失うでしょう。「どうして、こんな子になってしまったのか。」しかし、マリアはそうではありませんでした。息子のつれない言葉に、一瞬「エッ?」とは、思ったかもしれません。けれどもマリアの次の行動は、揺るぎない信頼に満ちています。
マリアは召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、その とおりにしてください」と告げたのです。ヨハネによる福音書は、マリアについて多くを語っていません。ここにはただ、マリアの信頼だけが語られています。信仰と言ってよいと思います。息子に不思議な力を授けておられる神さまを信じていたのです。期待していた返事が返ってこなくても、息子の言葉の意味がよくわからなくても、揺るがない、まっすぐに信じるマリアの心を、わたしたちの心としたい。祈っても祈っても、自分の期待するような答えを神さまからいただけないとき、マリアのようにただ信じて待つ者でありたいと願います。
主イエスはおっしゃいました。「わたしの時はまだ来ていません」。「わたしの時」とは、父なる神さまが定められたとおりに、主イエスが「神の小羊」としての務めを果たされるとき。十字架で息を引き取られる時です。主イエスは天の神さまの独り子として神さまの懐(ふところ)におられたのに、争い悩むわたしたちすべての者の罪を赦すために地上に降(くだ)り、人間として生まれてくださいました。人の罪をすべて背負って十字架に架けられて死ぬ。それが、神さまによって定められた時であり、ミッションであったのです。だから、マリアの息子として穏やかに暮らして人生を全うするわけにはいかないのです。主イエスはここで、その覚悟を示しておられるのです。
母マリアは召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いました。主イエスは召し使いたちにおっしゃいました。「水がめに水をいっぱい入れなさい」。召し使いたちは、ユダヤ人が清めに用いる六つの石の水がめの縁(ふち)まで水をなみなみと満たしました。そこで主イエスは召し使いたちに言われたのです。「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」。召し使いたちは、言われた通りに、それをくんで宴会の世話役のところへ運んで行き、世話役が味見をすると、今まで一度も味わったことのないほどの良いぶどう酒でした。六つの水がめは、「いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。」と書いてあります。1メトレテスは、約39リットル。一つの水がめに2ないし3メトレテスですから、少なくとも78リットル。それが六つで、468リットル。一升瓶は1.8リットルですから、一升瓶にして、260本以上になります。当時の婚礼の祝宴は一週間も続いたのだそうですが、飲み切ることは不可能だったことでしょう。細かい計算はさておき、これは、主イエスから頂く恵みが、とんでもない量であることを示しています。表面だけ読むと、主イエスは母マリアに対し、何て冷たいのか、と思ってしまう。けれども、実際には、母の願いも叶えられ、幸せな祝宴は何事もなく進行したのです。
主イエスは、この「最初のしるし」をガリラヤのカナで行われました。水を良いぶどう酒に変え、「その栄光を現された」と書かれています。この奇跡を見た弟子たちは、主イエスを信じる者とされました。わたしたちは、タイムマシーンに乗って、主イエスが水をぶどう酒に変えられた婚礼に出席することはできません。けれども、これまでのわたしたち自身の歩みを振り返るとき、主イエスの「しるし」、驚くばかりの恵みを、繰り返し、見せて頂いてきたのではないでしょうか。あるいは見えていなくても、守っていただいてきたのではないでしょうか。花嫁も花婿も招待客たちも、この出来事を知りませんでした。知っていたのは母マリアと召し使いたち、そして弟子たちだけです。花嫁も花婿も、気づいていないところで、神さまの力に守られていたのです。神さまは、わたしたちが「もう駄目だ」と思うときにも、気づかないでいるときにも、いつも一緒にいてくださるのです。信仰とは、そこで働いてくださる神さまのご栄光のしるしを見る目です。また、神さまなんかいないんじゃないかと思われるような現実の中でも、マリアのように信じて待つ心です。
結婚式は、そのようにいつも一緒にいて新しい家庭を導き、支えてくださる神さまを礼拝するときです。結婚式では、牧師として結婚の誓約を新郎新婦に求めますが、そのたびに、自らの結婚生活を振り返ります。「健やかな時も、病む時も、愛し、敬い、慰め、助け、いのちのかぎり、堅く節操を守ります。」その誓約を日々、どれだけ心に留めて生活しているだろうか?うなだれるしかありません。そのようにわたしたちは、自分の生活を自分の力で立派に生ききることはできません。結婚式の祝宴ひとつとっても、何が起こるかわからないのです。そこから始まる夫婦の生活も、思い通りに行かないことの連続です。愛しているはずの人を、深く傷つけてしまうことが起こる。ぶどう酒がなくなってしまったように、なくならないと思っていた愛の力が、気づいたら互いを赦せず、責め合い、枯れ果てていた、ということが起こりかねない。でも、そのときに、主イエスは水をぶどう酒に変えるように奇跡を行ってくださる。愛を与え、守ってくださるのです。主イエスはそのために、天の父なる神さまの懐(ふところ)から、わたしたちの世に来てくださいました。そして神さまは、主イエスにわたしたちの罪をすべて背負わせ、十字架に架け、主イエスの命と引き換えに、わたしたちを赦してくださったのです。すべては、わたしたちが互いに赦し合うために。愛し合うために。そのようにして神さま、主イエスは、わたしたちの喜びの生活を守ってくださる。いつでも、わたしたちの間にいてくださるのです。わたしたちの愛を守り、導いてくださる神さまに信頼する心を、神さまの栄光のしるしを見る目を、日毎に求め続けたいと思います。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、み子 主イエスが、婚礼の席で、「わたしの時はまだ来ていません」と語られた覚悟を忘れることのないようにしてください。み子は、どんなときも十字架の死を覚悟して、あなたの御心に従ってくださいましたから、感謝いたします。この主イエスの救いを信じ、主の ご栄光をわたしたちの心にはっきりと映すことができますように。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。2022年度、最後の主日を迎えることが許され、深く感謝いたします。今年度の歩みを振り返るとき、教会から遠ざかっている者たちを思います。主よ、愛する者たちがどこにあってもあなたが共におられる喜びを忘れることのないよう聖霊を注いでください。家族を顧みてください。友人たちを祝福の中に置いてください。今もいたるところで争いが続いています。どうか、世界から憎しみの心を取り去ってください。怒りの心を和らげてください。誰もがあなたの み子の十字架によって罪赦された存在と信じ、わたしたちもあの人、この人の過ちを裁くのではなく、共に十字架の赦しに生きることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年3月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第32篇1節~5節、新約 ヨハネによる福音書 第1章43節~51節
説教題:「主に知られている恵み」
讃美歌:546、72、Ⅱ-83、249、539

先週は、ヨハネの弟子であった二人と、そのうちの一人アンデレの兄弟シモンが主イエスの弟子となり、シモンが主イエスから「岩」という意味の名前をいただいた箇所を読みました。その翌日、主イエスはガリラヤへ向かおうとしておられました。ちょうどそのとき、フィリポという名の青年に出会いました。フィリポは、アンデレとシモン・ペトロ兄弟と同じベトサイダの出身であった、とありますから、噂を聞きつけて朝一番に訪ねて来たのかもしれません。主イエスはフィリポに出会っておっしゃいました。「わたしに従いなさい」。主イエスから声をかけていただいたフィリポは、早速、ナタナエルのもとへ向かいました。主イエスが出会ってくださったことで、伝道が始まったのです。「出会って」と訳されている言葉は、「発見した」という意味の言葉でもあります。主イエスが弟子たちを発見し、出会ってくださったところから伝道が始まりました。主イエスがわたしたち一人一人を発見し、出会ってくださったそのルーツを辿っていくと、今日の み言葉に辿り着く。そう思うと、わくわくしてきます。
まず洗礼者ヨハネから「見よ、神の小羊だ」と主イエスを示された二人の弟子。そのうちの一人、アンデレから兄弟シモンへ。そしてアンデレとシモン・ペトロ兄弟と同郷のフィリポも主イエスから「わたしに従いなさい」と招かれて弟子となり、今度はフィリポからナタナエルへ。その経緯は詳しく書かれてはおりませんけれども、フィリポは喜んで、「イエスさまちょっと待っててください。今、もう一人呼んで来ますんで!」そう言ってイエスさまの返事も待たずに飛び出して行ったのではないか。想像が膨らみます。
フィリポは、ナタナエルに出会って言いました。45節。「『わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。』」フィリポはナタナエルに、主イエスを「預言者たちも書いている方」、つまり旧約聖書が到来を預言している「救い主」として紹介しました。その人は「ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と。しかし、ナタナエルの反応は、これまでの弟子たちとは明らかに違うのです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。偏見に満ちた呟きです。ナタナエルという名前は、ヨハネによる福音書にのみ登場しますが、主イエスの12人の弟子の一人の、バルトロマイと同一人物だと言われております。他の福音書がバルトロマイと呼ぶ人物を、ヨハネ福音書だけがナタナエルという名前で呼んでいるのです。ナタナエルは、ヘブル語の「ナータン」と「エル」が結びついた名前です。「ナータン」は「与える」という動詞。「エル」は「神」を表わすので、「神さまが与えてくださる」という意味になります。ヨハネによる福音書は、「神さまが与えてくださる」という意味をもつこの名前をわざわざ用いているのです。
その理由を探しながらヨハネ福音書を読み進めてまいりますと、第17章に行き当たります。主イエスが、最後の晩餐を弟子たちと一緒になさったときの祈りの み言葉です。主イエスが、弟子たちの足を洗って、互いに愛し合うことを教えてくださったあとで、神さまに祈られたのです。そこに、「わたしに与えてくださった人々(17:6)」あるいは「ゆだねられた人(17:2)」という言葉が出てきます。これらは原文では同じ言葉で、弟子たちのことを指します。弟子たちのことを主イエスは、神さまが「わたしに与えてくださった人々」と呼んでおられるのです。「神さまが与えてくださる」即ち、ナタナエルの名前の由来です。主イエスは、十字架の死を目の前に見据えながら、ナタナエルを始めとするすべての弟子たちのために「神さま、あなたがわたしに与えてくださった者たちを守ってください」と祈られたのです。ヨハネによる福音書を書いた福音書記者は、わたしもナタナエル。福音書を読むあなたがたもナタナエル。そのような思いで、あえて、この名前で記したのではないかと思います。
 とは言っても、ヨハネ福音書において、ナタナエルの名前が繰り返し登場するのかと言うと、この後に登場するのは、ずっと先、主イエスがお甦りになった後、ガリラヤ湖畔でもう一度弟子たちに出会ってくださった時、そこに居合わせた者として登場するだけです。第21章冒頭を朗読いたします。どうぞ、そのままお聞きください。「その後(のち)、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。(21:1~2)」
福音書の最後の最後にナタナエルがガリラヤのカナの出身であることがわかります。カナと言えば、来週ご一緒に読む予定にしております み言葉、カナでの婚礼が行なわれた場所です。カナもナザレもエルサレムから直線距離にして100㎞以上離れたガリラヤ地方の小さな村でした。そしてガリラヤ地方からは、熱狂的な狂信者や、ニセモノの自称「救い主」が何人も出ていたと言われています。だからナタナエルは、「あんな所から救い主が出るはずない」と呟いたのかもしれません。
さて、フィリポの伝道の情熱はそのようにナタナエルに水を差されましたが、消えることはありませんでした。「まあそう言わず、わたしと一緒に来て見て欲しい。来て見ればわかるから」と熱心に誘いました。ナタナエルは半信半疑でしたが、フィリポと一緒に歩き始めました。すると、そこには、主イエスのまなざしが待っていました。主イエスは、ナタナエルが ご自分の方へ来るのをご覧になり、驚くような言葉を発せられました。「見なさい。まことのイスラエル人(じん)だ。この人には偽りがない。」
ナタナエルは、初めて主イエスに出会うのに、主イエスは、ナタナエルのすべてをご存知のように、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と評されました。ナタナエルはびっくりして、言いました。「どうしてわたしを知っておられるのですか」。主イエスは答えて言われました。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。いちじくの木の下にいる。そこに座る。というのは、み言葉を学ぶということや、平安をも意味したと言われています。ナタナエルが全く罪を犯したことのない人であった、ということではないと思います。自分の心の貧しさをよく知っていたからこそ、神さまの み言葉を慕い、学び、そこに平安を見出していたのでありましょう。このとき、ナタナエルは、主イエスを疑う者から、主イエスを信じる者へと変えられました。「この お方は、人知れず み言葉を慕うわたしを知っていてくださった。」その喜びの中で、ナタナエルは言いました。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
主イエスも、ナタナエルの信仰告白に応え、祝福に満ちた約束を告げられました。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降(くだ)りするのを、あなたがたは見ることになる。」
主イエスからナタナエルへの約束です。そしてこれは、主イエスから、わたしたちへの約束でもあります。その根拠は、「あなた」から「あなたがた」への変化です。50節で、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」と主は言われました。それが、続く51節では、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降(くだ)りするのを、あなたがたは見ることになる。」と「あなた」から「あなたがた」に変化しているのです。今、わたしたちも、ナタナエルと共に、主イエスに知っていただいている喜びの中で、主の約束の言葉を聞かせていただいているのです。
東海道線の保土ヶ谷駅からバスで2~30分ほどという少々不便な丘陵地に、英連邦戦死者墓地があります。広々とした芝生が広がり、季節には一つ一つの墓碑に添えて植えられたバラの花が美しい公園墓地で、第二次世界大戦時に日本軍の捕虜となり、そのまま収容所で亡くなった1,873人の兵士の墓が並んでいます。名前が掘られた墓碑もあれば、いわゆる無名戦士の墓も、たくさんあります。けれども、その無銘の墓の一つ一つには、「KNOWN UNTO GOD(神に知られている)」と彫られているのです。誰に知られていなくても、神が知っていてくださる。神から主イエスにゆだねられている。慰めに満ちた言葉です。この恵みから漏れる人は一人もいません。それなのに、人は相変わらず敵味方に分かれて戦っている現実があります。そのように、神さまの愛を受け入れないわたしたち人間の罪が、主イエスを十字架に追いやりました。それでも、主イエスは、「平安の中へ帰っておいで」と招いてくださるのです。罪を犯したわたしたちではなく、主イエスご自身が、十字架で血を流され、その み手をのべて、招いてくださるのです。主イエスが、ナタナエル、そして、わたしたちにしてくださった約束は、夢や幻ではありません。主イエスは約束のとおり、ご自分の死によって、神さまとわたしたちとの間を隔てる壁を打ち砕いてくださいました。主イエスの十字架によって、天が開けたのです。この約束を信じて、神さまの愛を受け入れて、主イエスに従うとき、わたしたち神さまの子としていただいて、いつも主と共に在る平安の内を歩ませていただけるのです。
主イエスを知る前のナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と呟いたように、わたしたちもまた、すぐに神さまの救いの約束を疑い、呟く者です。「そんな約束は、夢や幻にすぎない」と呟く。しかし主イエスは、わたしたちを知っていてくださり、諦めることなく、どこまでも探し求め、出会い、救ってくださいます。誰に知られていなくても、主が知っていてくださいます。疑い、呟く者をも、神さまから与えられた者として、神さまからゆだねられた者として、主イエスはわたしたちを受け入れ、本来、わたしたちが受けるべき審きをわたしたちに代わって十字架で受けてくださいました。そして「わたしに従いなさい」と招いてくださっています。天の神さまといつも繋がっている、その平安の中へ導いてくださるのです。

<祈祷>
天の父なる御神、わたしたちに注がれている主イエスのまなざしに、すべての者が気づくことができますように。み子は、呟くナタナエルにも、あなたを慕い、救いを求める信仰を見出し、「あなたには偽りがない。」と認めてくださいました。誰に知られていなくても、自分で自分を見失うようなときでも、あなたがわたしどもを知っていてくださいます。その深い恵みと慰めを、日々、思い起こし、あなたに立ち帰る者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、この地上、この世界を顧みてください。誰もが争うこと、殺し合うことの愚かさをよく知っていながら、争いが続き、争いの準備に多くの富を費やしています。主よ、一日も早く武器を捨て、すべての者があなたの愛に生きる者、あなたの平和に生きる者となることができますように。主よ、病のため、争いのため、自然災害のため、健康を損なっている者、心に深い傷を負っている者を特別に み心のうちに置いてください。誰一人、わたしのことなど祈ってくれていないと思わざるを得ない中にあって、それでも、神さまはわたしのことを知っておられる。イエスさまは、日々、わたしのために執り成して、祈っていてくださると信じる信仰を日々、お与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年3月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第31章27節~34節、新約 ヨハネによる福音書 第1章35節~42節
説教題:「キリストのまなざしの中で」
讃美歌:546、71、164、243、545B、427

 洗礼者ヨハネが二人の弟子と一緒におりましたところ、主イエスが歩いておられるのが見えました。ヨハネは主イエスをじっと見つめて言いました。「見よ、神の小羊だ」。それを聞いて、ヨハネの弟子であった二人は、ヨハネから離れ、主イエスに従いました。
 主イエスは、このヨハネの弟子であった二人の男が、従って来る気配を感じられたのでしょう。振り返り、二人をご覧になって、言われました。「何を求めているのか」。この一言が、ヨハネによる福音書における、主イエスの第一声です。「何を求めているのか」。第一声ですから、深い意味があるに違いありません。
今朝も、説教の後の「執り成しの祈り」に続いて、主イエスが教えてくださった「主の祈り」を祈ります。マタイによる福音書には、このように書かれています。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』(6:8~9)」そうです。父なる神さまは、わたしたちが願う前から、わたしたちに何が必要なのかご存知であられます。主イエスも、真の神さまであられますから、わたしたちが願う前から、わたしたちに必要なものをご存知でいらっしゃいます。けれども、主イエスは、「神さまはわたしたちが願っていることをすべてご存知だから何も祈る必要はない」とはおっしゃいませんでした。祈ることを教えてくださいました。言葉に出して、神さまに求めることの大切さを教えてくださいました。そしてその祈りに、神さまが耳を傾けてくださることを、教えてくださいました。それと同じように、主イエスは「何を求めているのか」と尋ねてくださるのです。ご自分に従いたい、と願うすべての者に、振り返って、まなざしを向けてくださるのです。
 二人は、主イエスからの質問に、質問で答えています。「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」。ラビとは、律法の「先生」という意味の言葉です。これまでは洗礼者ヨハネを「先生」と呼んでいた。しかし、「これからは、わたしたちの先生は、イエス先生。」そんな思いで、「先生」と呼びかけました。それにしても「何を求めているのか」という問いに対して、「どこに泊まっておられるのですか」との質問で返すのは、少々 間が抜けているようにも感じられますが、当時、律法の先生に教えを乞う者の通例の問い方は、「どこに泊まっておられるのですか」だったそうです。その心は、「わたしは、あなたを律法の先生とし、あなたのところへ泊まり、先生と生活をしながら、先生から律法を学びたいのです。」という思いを示しているのです。何となく興味本位で、あなたが宿泊している場所を教えて欲しいという軽いものではない。二人の弟子は、覚悟を持って、今日からわたしたちは、あなたに従っていきたいのですと、意志を示していることがわかります。
 主イエスは、二人に応えておっしゃいました。「来なさい。そうすれば分かる」。主イエスの「来なさい」には、圧倒的な力があります。単なる命令ではない、力ある招きです。そして二人は、主に従い、どこに主が泊まっておられるかを見て、主のもとに泊まりました。時刻は「午後四時ごろのことである。」と記されています。
 ところで、今朝の み言葉に繰り返し登場する大切な言葉があります。それは、「見る」という言葉です。36節では、ヨハネが歩いておられる主イエスを「見つめ」ました。そして、「見よ、神の小羊だ」と言いました。38節では、主イエスは振り返り、彼らが従って来るのを「見て」、「何を求めているのか」とお尋ねになりました。目と目を合わせて、聞いてくださったのです。そして、「どこに泊まっておられるのですか」と問う二人に、「来なさい。そうすれば分かる」とおっしゃいました。実はこの「分かる」という言葉にも「見る」という意味があります。「来て見れば、よく分かるよ」ということです。そして、二人の弟子は、主イエスがどこに泊まっておられるかを「見た」。そしてその日、主のもとに泊まったのです。このように福音書記者は繰り返し、「見つめて」、「見よ」、「見て」、「見た」と記しています。
 見ると言えば、先週、こんな光景を目にしました。ベビーカーを押している母親が、いわゆる「歩きスマホ」をしていたのです。もちろん、ベビーカーには赤ちゃんが乗っていました。お母さんの顔が見える向きに寝かされています。赤ちゃんはお母さんを見ているのに、お母さんはスマホの画面を見ていました。もしかすると、行き先を確認していたのかもしれません。それにしても、ベビーカーを押しながら、街の中での歩きスマホは危ない、と思いました。そして、赤ちゃんのひとみの行く先に、お母さんのひとみがないことに、悲しい気持ちになりながら、案外、わたしも似たようなことをしてしまっているかもしれないとも思いました。目と一緒に、心が他に行ってしまっている。別のことに気をとられている。実際の肉体の目だけでなく、心の目も、見つめて、見つめられて、わたしたちの信頼関係は深まるのではないでしょうか。弟子たちが、主に従った最初のきっかけは、ヨハネの「見よ、神の小羊だ」との声であったと思いますが、その直後、主イエスが振り返り、自分たちが従って行くのを見つめられたその眼差しが、この先の二人の人生を決めたのではないか、そのようにも思うのです。
 もうひとつ、主イエスと弟子たちのやりとりで、心にかかる言葉があります。それは、「泊まる」という言葉です。先ほど、ユダヤでは、先生の家に住み込み、律法を学ぶことは自然なことであると申しました。しかし、どうも、それだけの理由ではないように思う。もっと特別な意味が「泊まる」にはあるのではないだろうか。そう考えていたとき、心に浮かんできたのは、「徴税人ザアカイ」の物語でした。
 ザアカイの物語は、ルカによる福音書だけに記されていますので、ヨハネ福音書と直接は関係ありません。それでも、木の茂みに隠れて、遠くから主イエスが近づいて来られるのを眺めていたザアカイに、主イエスは近づかれ、木の真下で立ち止まり、ザアカイを見上げて、声をかけてくださいました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。(19:5)」ザアカイは、主イエスに泊まっていただくために急いで降りて来て、喜んで主を迎えました。悔い改めの言葉を述べるザアカイに、主はおっしゃいました。「今日、救いがこの家を訪れた。(19:9)」このように、「泊まる」という言葉には、ただ数日の宿を融通してもらうということに留まらない、もっと深い、もっと決定的な意味があるのではないかと思うのです。徴税人ザアカイは、主イエスを迎え、食事を共にし、泊まっていただいたことで、主の愛と赦しを知り、回心して、主に従って生きる者へ変えられました。言い換えれば、主イエスのもとに泊まり続ける者とされた、ということではないでしょうか。
同じように、二人の弟子たちも、主のまなざしの中で「来なさい。そうすれば分かる」と招かれ、主が泊まっておられる場所を見て、主のもとに泊まり続ける者とされたのです。同時に、弟子たちの中にも主が入って来てくださり、泊まり続けてくださることでもあったと思うのです。いつも、主が共にいてくださる。この信仰が、「泊まる」という言葉によって語られているのと思うのです。それはさらに「午後四時ごろのことである。」と書かれていることからも、わかると思います。わたしたちも、大切な出来事があった日は、時間も覚えているものです。わたしも、献身の思いを牧師に伝えたその日の場面は今もはっきり覚えています。
二人の弟子たちは、この日を境に、主イエスに従う者、主の弟子として生涯をささげる者となった。その生涯忘れることのない時間が、「午後四時ごろ」だった。日の傾きかけた、夕暮れの景色と共に記憶していたかもしれません。そのときの弟子たちの心の震えが伝わってくるような思いになります。
 そういう心震える思いの中で、二人の弟子たちの一人、シモン・ペトロの兄弟アンデレは、聖霊に促され、最初の業を行いました。それは、兄弟シモンに主イエスを紹介することでした。アンデレは、シモン・ペトロに会って、こう言いました。「わたしたちはメシアに出会った」。この「出会った」という言葉は、「発見した」、「ついに見つけた!」という歓喜の言葉です。「おいシモン、聞いてくれ!ついに見つけたぞ!わたしたちのメシア、救い主を!」
 尋常ではない兄弟のようすに、シモン・ペトロはアンデレについて行き、主イエスにお目にかかりました。主イエスの眼差しを受けた。主に見つめられたのです。もちろん、シモン・ペトロも主イエスを見つめ返したに違いありません。主は、ペトロを見つめ、言われました。「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする」。ケファ、ギリシア語でペトロス。つまり、「あなたは、ペトロ」と新しい名前をいただいたのです。
 ここに、主の弟子が三人生まれました。三人に共通するのは、主イエスに見つめて頂いたことです。わたしたちも、親であったり、先生であったり、兄弟であったり、友人であったり、誰かしらに「来て見てごらん、分かるから」と教会へいざなわれることが最初であることが多いと思います。あるいは、神さまから呼ばれた気がして教会の敷居をまたぐ、ということもあるかもしれません。いずれにしても、そこで、主イエスに見つめられている経験をするのです。主に見つけていただき、わたしのもとに泊まりなさい。あなたのところにも泊まらせてほしい、との み声を聞くのです。
 わたしたちは、問題を抱えていると、その問題しか見えなくなります。不安でたまらなくなります。主イエスのひとみ、まなざしが見えなくなる。主の「来なさい。そうすれば分かる」が聞こえなくなる。だからこそ、今朝の御言葉を通し、最初の弟子たちが生まれた恵みを心に刻みたいと思います。主イエスのひとみ、まなざしを受け、主のもとに泊まり、主に泊まっていただきたいと思います。
この後、讃美歌243番を賛美いたします。皆さんの中にも愛唱讃美歌の一つとしている方がおられるかもしれません。わたしたちの代表として、富める若人、ペトロ、そしてトマスが登場します。主イエスは彼らにひとみを向けてくださっています。そして4節「きのうもきょうも かわりなく、血しおしたたる み手をのべ、『友よ、かえれ』と まねきつつ 待てるはたれぞ、主ならずや。」これは、わたしたちすべての者への招きであり、赦しであり、愛の言葉です。「今、不安の中にあるなら、悲しみの中にあるなら、痛みの中にあるなら、わたしの招き、ひとみを感じて欲しい。どんなときもあなたに まなざしを注いでいるのだから。」とおっしゃってくださる主に、すべてを委ねることができますように。「そうだ、わたしは主に見つけていただいた。そうだ、わたしに主が泊まっていてくださる。そうだ、わたしも主に泊まっている。」その喜びに生きることができますように。

<祈祷>
主よ、どんなときも、あなたのみ子、主イエスを見ることができますように。主が私どもを見つめていてくださることを喜びとすることができますように。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。東日本大震災から12年が経ちました。今も後悔と悲しみの中に沈んでいる人がいることを、わたしたちが決して忘れることがありませんように。痛みを想い、祈ることができますように。神さまどうか、悲しみの中にあるひとりひとりに慰めを与えてください。わたしたちの群れの中にも、家族のこと、職場のこと、学校のことで重荷を抱え、疲れを覚えている者がおります。主の翼のもとに憩う安息を お与えください。力を与えてください。そのような力を必要としている者が、ここに来ることができないままに、家にあって、病床にあります。その願いにあなたが耳を傾け、主イエスの恵みをもって、主イエスのまなざしをもって、これに報いてください。あなたの名を呼ぶことを知らないまま、深く憂いの中にいる者がたくさんいることを思います。私どもの伝道の言葉、力の弱さ故に、それらの人びとの心を捉えることのできないことを申しわけなく思います。しかし、どうぞこの弱さを超えて、あなたの恵みがひとりでも多くの人を捉えてください。深い悲しみの中にある人に、憂いに閉ざされている人に、それに相応しい助けを与えてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年3月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章6節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第1章19節~34節(Ⅱ)
説教題:「神さまの救い」
讃美歌:546、68、Ⅱ-86、Ⅱ-1、257、545A

今朝も先週に続き、ヨハネによる福音書第1章19節から34節まで朗読していただきました。今朝は、29節以下を中心に耳を傾けてゆきたいと思います。29節は、「その翌日」という言葉で始まります。実は、少し先35節にも「その翌日」とあり、さらにその先43節にも「その翌日」とあります。そして第2章1節に「三日目に」とあります。「その翌日」、また「その翌日」、「その翌日」と三日数えて、そのあと更に「三日目に」ですから、これで六日です。ということは、29節の前、つまり先週までご一緒に読んできました第1章1節から28節までを第一の日と理解するなら、第1章1節から、カナでの婚礼が終わる第2章11節までが、七日間の出来事として記されていることに気がつくのです。読んでおりますと「一日」と数えられている記述でも必ずしも時系列で書かれているわけではありません。ですが、むしろそうであるからこそ、この福音書の始まりが七日間という期間に重きを置いて書かれていることがわかります。
七日間と言えば、一週間です。そして、一週間がなぜ七日間に定められているかと言えば、神さまが、六日間をかけて天地を創造され、第七の日に、ご自分の仕事を離れ、安息なさったと、聖書に記されているからです。天地創造の みわざが記されている創世記の第1章1節は、こう始まります。「初めに、神は天地を創造された。」そして、まだ混沌としていて、その上を神さまの霊が漂っていた、濃く、深く、果てしない闇の中、静まりかえっていた世界に突然、神さまの言(ことば)が響き、その言によって、天地が創られていった。その様子が、次のように記されています。「地は混沌であって、闇が深淵(しんえん)の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。(1:2~3)」その様子をなぞるように、ヨハネによる福音書はこう始まります。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(1:1~3)」創世記の冒頭と、ヨハネによる福音書の冒頭が重なります。そしてそのあとも、創世記が第一の日、第二の日、第三の日、と数えながら天地創造の みわざを描いていくのをなぞるように、ヨハネによる福音書も、その翌日、その翌日、と日を数えながら、主イエスが救い主として世に顕れてくださる、そのための備えの日々を描いているのです。今朝は、その「二日目」にあたる29節以下をご一緒に味わってまいりましょう。
29節。「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」ヨハネは叫ぶのです。「神さまが救いのわざをお始めになる。いや、もう始まっている。見なさい。わたしたちの罪を取り除くために、神の小羊がここに来てくださった。それは今、まさに、わたしの方に近寄ってきてくださっている、この方だ!」と。ヨハネの心の中には、旧約聖書イザヤ書 第53章の み言葉があったかもしれません。「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。(53:6~7)」
洗礼者ヨハネは、罪に罪を重ねているような世に、「世の罪を取り除く神の小羊」が来られる日が近いと信じ、祈り続けていました。だからこそ、ヨハネは、「お前はメシアなのか」と尋問する者たちに、証言しました。第1章26節。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」けれどもヨハネはここで、「あなたがたは知らないけれども、わたしだけは知っている」と得意になっているのではありません。わたしもついこの間まで、「この方を知らなかった。」と証言するのです。それも、31節、33節と、2回、「わたしはこの方を知らなかった。」と繰り返しています。
 ヨハネは、死海にほど近い荒野を拠点として声を上げ、人々に悔い改めを促してヨルダン川で洗礼を授けていました。次第に、その説教に耳を傾ける者、洗礼を受ける者たちが増えていきました。でも、そのときはまだ、ヨハネは主イエスを知らなかったのです。そんなある日、遠くナザレから、「洗礼を授けて欲しい」と一人の若者がヨハネを訪ねて来ました。そして、ヨハネが洗礼を授けたそのとき、霊が鳩のように降って、その人の上にとどまるのをヨハネは見たのです。そのとき、初めて知った。知ることができた。神さまが教えてくださったのです。その喜びを、ヨハネは証言しました。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。(1:32~34)」
そのように神さまが示してくださったから、ヨハネは、「この方を見なさい。この人こそ、世の罪を取り除く神の小羊である。この方は、神そのものであられる。何と、神さまがわたしの方へ近づいて来られた。わたしはこの方を知らなかったのに、神さまの方から近づいてきてくださって、ご自分がどのような方であるかを顕してくださったのだ!」と、ヨハネは証言することができたのです。
わたしたちの信仰も同じです。最初からナザレのイエスが救い主、世の罪を取り除く神の小羊である、と知っている者はいません。わたしも、幸いにもキリスト者の母のもとに生まれ、幼少から教会に通いましたが、信仰告白に至ったのは、ようやく高校3年生の秋でした。なかなか信仰告白に至らないわたしの方へ、甦りの主イエスが近づいて来てくださり、「わたしに委ね、わたしと共に生きよ!」と迫ってくださったから、信仰告白、洗礼の恵みへ導かれたのです。わたしたちは皆、そうして導かれ、今朝もここへ招かれております。そのように、主を知らない者から、主を信じる者へ変えられる喜びは、ヨハネを筆頭に、すべてのキリスト者に共通する恵みです。
わたしたちは今、受難節の日々を過ごしております。わたしたちの罪のために、主イエスが世の罪を取り除く神の小羊として十字架を負ってくださったことを心に刻むときです。罪に罪を重ねる歩みを続けているわたしたちです。それなのに、そういうわたしたちに向かって、主イエスは近づいて来てくださいました。父なる神さまのふところから飛び出し、わたしたちの代わりに罪を背負うために来てくださいました。そして、それだけではなくて甦ってくださったことをわたしたちは知っています。知らせていただいています。だから、わたしたちは、混沌へと逆戻りするかのような時代にあっても希望を失わずに、ヨハネが「見よ」と指さす方(かた)を仰ぐことができます。どんなにダメな自分に嫌気がさしても、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(16:33)」という、主イエスの勝利宣言を信じることができます。かつては知りませんでした。でも主が近づいて来てくださって、知らせてくださったのです。洗礼者ヨハネは、主イエスが自分の方へ来られるのを見たとき、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と証言しました。わたしたちも、かつては知らなかったのに、今はキリスト者として生きる幸いを知っています。ですから、わたしたちも洗礼者ヨハネのように、すべての人に向かって、「この方が、世の罪を取り除いてくださった神の小羊、主イエス・キリストです。この方が、死に勝利してくださり、良い羊飼いとして、世のすべての者を父なる神さまの元へと導いてくださる、わたしの主、イエス・キリストです!」と、主を指し示すのです。
今、わたしたちの前に聖餐の食卓が用意されています。主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」として、わたしたちのために十字架で裂かれた肉と流された血潮です。神さまの方から、赦しと恵みをたずさえて近づいて来てくださり、恵みの食卓を備えていてくださるのです。主の死によってわたしたちの罪が取り除かれたことを、そして、主のお甦りによって約束されている永遠のいのちを、確信する喜びの食卓です。洗礼者ヨハネは、このあと捕らえられて、処刑されたと伝えられています。わたしたちがどのような死を迎えることになるのか、それはわかりません。けれども、必ず、神さまのみもとへと召されます。もしかすると、今日が地上での最後の聖餐になるかもしれません。でも、恐れる必要はないのです。なぜなら、わたしたちは「世の罪を取り除く神の小羊」によって罪を赦され、み子を知らない者から、み子を信じる者とされ、神さまを「父」と呼び、神さまから「子よ」と呼ばれる者としていただいたからです。わたしたちは、この神さまのお約束を信じてよいのです。もしも今、自分の至らなさ、ふがいなさに苦しみ、自分で自分を赦せない思いの中にあるとしたら、その自分とは何者でしょう。主が「赦す」とおっしゃっているのに、主の履物のひもを解く資格すらない者が、主の約束を否定するなど、あり得ないことです。主イエス・キリストが自分の方へ来てくださり、やさしく抱きしめてくださり、「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と立ち上がらせてくださるのです。ただ、主の み声を信じる、そのとき、すでにわたしたちは、神さまの救いの中にいるのです。
<祈祷>  
天の父なる神さま、あなたの深い愛のゆえに、み子を世の罪を取り除く神の小羊としてお遣わしくださり、深く感謝いたします。すでにその大いなる恵みを知っている者として、勇気を持って、大胆に、み子の救いを指し示す者として用いてください。主よ、罪に苦しむ者を救い、主の平安に生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。3月を迎えました。学び舎を巣立ち、新しい生活に不安を抱えている者がおります。主よ、それらの者に寄り添い、これからも、これまでと同じように支え、導いてください。今も、争いが続いております。主よ、世界の指導者に武器を捨て、平和に生きる勇気を お与えください。わたしたちも諦めることなく、望みをもって、主の平和を祈り続けることができますように。主よ、真の救い主を知らず、さまよい続けている者がおります。真の救い主を信じ、信仰を告白し、洗礼を受けたにもかかわらず、あなたから離れている者もおります。たとえ、わたしたちがあなたに背を向けても、あなたはわたしたちに近づいてくださり、「立ち帰れ!」と語り続けてくださいますから、感謝いたします。どうか、さまよい続いている者を憐れみ、あなたへ立ち帰ることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年2月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第40章1節~11節、新約 ヨハネによる福音書 第1章19節~34節(Ⅰ)
説教題:「あなたは誰か」
讃美歌:546、10、139、266、544

ヨハネによる福音書を少しずつ読み進めております。今日から第1章19節に入ります。先週もご一緒に読みましたように、第1章17節になって、ようやく主イエスのお名前が登場。「これから、主イエスの物語が始まるぞ」とワクワクしますが、19節に入り、最初の言葉は、「さて、ヨハネの証しはこうである。」です。ヨハネが悪いわけではありませんが、いつになったらイエスさまの物語が始まるのか。ジリジリした気持ちの方もいらっしゃるかもしれません。それでも、19節から34節を省き、35節に飛ぶことはできません。なぜなら、19節から34節に書かれている洗礼者ヨハネの証しは、わたしたちにとって忘れてはならない大切な証しだからです。
 カトリックの作家、遠藤周作の著作に、『イエスの生涯』があります。小説家の視点で語られる聖書の世界が興味深い本ですが、今朝の み言葉の前半に書かれているユダヤ教の主流派であった祭司やレビ人たちの、洗礼者ヨハネに対する質問についても書かれています。そのときの雰囲気を思い描くための助けになるかと思いましたので、少し紹介いたします。「主流派は ただちに共同委員会をつくり、調査団を洗者ヨハネのところに送った。当時、ヨハネはヨルダンの彼方、ベタニアで布教していたので調査団とヨハネとはここで出会った。調査団の訊問は洗者ヨハネが救い主(メシヤ)を詐称しているか、いないかにあった。もしヨハネが自分を救い主(メシヤ)だと言っているならば、彼等は ただちに衆議会の緊急会議をひらき、ヨハネを裁判にかけるつもりだった。訊問にたいしてヨハネは 自分はメシヤではないと巧みに主張した。この訊問の模様はヨハネ福音書に記載されているが、調査団の追求はきびしく、彼等は洗者ヨハネがいかなる権利と資格で洗礼を人々に授けるのかと問うた。洗者ヨハネは あくまで自分がメシヤの伝達者であることを言いつづけ、ようやく難をまぬがれた。」
 マタイによる福音書には、洗礼者ヨハネは、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。(3:4)」と書かれています。彼は荒れ野に住み、徹底して禁欲的な生活をしていました。そして、ユダヤの民に、罪を悔い改めて洗礼を受けることを求めました。だから洗礼者ヨハネと呼ばれたのです。当時、ユダヤの民は、洗礼を受ける必要はないと思っていました。なぜなら、生まれながらの神の民だからです。一方、神の民でない異邦人が、ユダヤの神を信仰するには、洗礼を受けなければならないとされていました。しかし、洗礼者ヨハネは、ユダヤの民にも洗礼を勧めた。むしろ、ユダヤの民こそが洗礼を受けるべき!と勧めたのです。そして、これに多くの人びとが感銘を受け、従いました。
 このことは、エルサレムのユダヤ教の指導者にすれば、青天の霹靂でした。新共同訳は「あなたは、どなたですか」と訳していますが、実際は、「お前は誰だ」という訊問です。ヨハネは、はっきり答えました。20節。「わたしはメシアではない」。当たり前のように、サラッと読んでしまいますが、「わたしはメシアではない」。キリストではない。救い主ではない。そのように はっきり公に言い表すことは、わたしたちにとっても、たいへん重要なことです。胸に手を当てて、よく考えてみたい。「わたしはメシアではない」という真理を、わたしは、しっかりわきまえているだろうか。心のどこかで「自分の正しさによって、自分を救える」と思っていないだろうか。自分は正しい、自分は間違っていないという思いに取りつかれて、他人(ひと)を裁いていないだろうか。エルサレムのユダヤ教の指導者が、まさにその過ちの沼に足をとられていました。「自分たちは、自分たちの正しさゆえに、救われている」と信じていました。そのため、神さまによって遣わされたヨハネを罪に定めようとして問い詰めているのです。そしてやがては、キリストをも罪に定めました。「わたしはメシアではない」。「わたしは、自分の正しさで自分を救うことなどできない」。大切な言葉です。ひとつ間違えば、指導者たちの姿は、わたしたちの姿と重なってしまうのです。信仰者として神さまに喜ばれる生活をしたいと思う。それは自然なことです。けれども、自分の行いの清さによっては決して救われないのです。「わたしはメシアではありません。わたしは、自分の正しさでは自分を救えません。神さま、わたしを救ってください。」そのように祈り、心の中に救い主をお迎えすることこそが信仰です。そして、それを公に言い表すことが、信仰告白です。「わたしはメシアではない」というヨハネの言葉は、わたしたちの信仰の背骨なのです。
 ユダヤ教の指導者たちによるヨハネへの訊問は続きます。21節。「では何ですか。あなたはエリヤですか」。旧約聖書の預言者エリヤの名前が、エルサレムの祭司やレビ人から出てくるのは、旧約聖書の最後の書、マラキ書第3章の み言葉があるからです。「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。(3:23)」エリヤは、死なずに火の車によって天に移されたと、旧約聖書に書かれています。そして、み国の完成のときには、再び地上にやって来ることが期待されていました。けれどもヨハネは、ここでも「違う」と証言したのです。
祭司、レビ人たちは更に続けます。「あなたは、あの預言者なのですか」と訊問した。「あの預言者」とは、エジプトの奴隷状態であったユダヤの民を解放したモーセのような人物を指します。旧約聖書 申命記 第18章に、モーセの語ったことばが記されています。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。(18:15)」
エリヤ、モーセ、どちらも、ユダヤの民にとっての決定的な救いの時に現れるべき人物と信じられ、今か今かと待望されておりました。しかし、これも、ヨハネは否定しました。調査団は再び尋ねます。22節。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
調査団としては、ヨハネの答えを本部に報告しなければならないのに、このままでは子どもの使いになってしまいます。「それじゃあ お前はいったい何者なのだ!」と言ったのです。ヨハネは、今朝の旧約聖書の み言葉、イザヤ書 第40章を用いて答えました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
ヨハネは、自分を「叫ぶ声」だと言いました。イザヤ書 第40章には、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。(40:3)」と記されています。その「呼びかける声」がわたしであると答えたのです。調査団の面々は、ジリジリしていたかもしれません。メシアではない。エリヤでもない。あの預言者でもない。叫ぶ声だとお前は言うが、いったい何の権限があって叫び、洗礼を授けているのか!どんな資格があってのことか!越権行為ではないか!と問いつめました。25節。「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」。
ヨハネは答えます。26節。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」ヨハネは、はっきり言うのです。「わたしは、メシアではない。エリヤでもない。モーセでもない。わたしは、わたしの後に来られる方のために道をととのえる声であるが、わたしにはその方の履物のひもを解く資格もない。」履物のひもを解くのは僕(奴隷)の仕事です。「わたしには僕の資格もない」とヨハネは言うのです。わたしは何者でもない、と公言することは何と難しいことかと思います。わたしたちは、自分と他人(ひと)を比べます。誰でも、他人(ひと)から一目置かれたいものです。「いやいや自分など」と、謙遜して見せたとしても、いざ、他人(ひと)に見下され、馬鹿にされると、ムッとするものです。そうであればこそ、このヨハネの証言はわたしたちが日々正さなくてはならない信仰の姿勢です。
福音書に記されている洗礼者ヨハネの証しを繰り返し読み、心に刻みたいと思います。「卑屈になれ」というのではありません。ただ心を神さまに向ける。神さまを仰ぐのです。他人(ひと)ではなく、神さまを仰ぐとき、わたしたちは自分が何ものでもないことを知るのです。主イエスの「履物のひもを解く資格もない。」者であることを知るのです。わたしたちは皆、主イエスの僕となる資格すらないのです。それなのに、主イエスは、十字架の死によって、僕どころか、神の子となる資格を与えてくださいました。その恵みが、迫ってくるのです。主イエスは、十字架で死なれる前の夜、弟子たちの履物のひもを解くどころか、「たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで(13:5)」ふいてくださいました。何ということでしょう。本来、僕がやるべき行為。それなのに神さまである主イエスが弟子たちの足を洗ってくださり、手ぬぐいで丁寧に水をふきとってくださり、ついには、その お命までも、差し出してくださったのです。
ヨハネは、メシアがいらっしゃる道をまっすぐにするため、叫ぶ声として神さまから遣わされました。ヨハネは言うのです。「荒れ野のようなこの世に、真の王が来られる。そのために、まず道を作らなければならない。だからわたしは、『メシアが来られる。悔い改めて、洗礼を受けよ』と叫ぶ。その声として生きる。『主の道をまっすぐにせよ』、あなたがたの心を、神さまにまっすぐに向けなさい、メシアにまっすぐ、入って来ていただけるように。」
 ヨハネは、指をまっすぐに伸ばし、今自分のすぐ後ろに来ておられる方を指し示し、「もう救いは始まっている」と語りました。わたしたちもまた、主イエスが再び来てくださる日のために、主の道を整える声になれと、召し出されました。主の「履物のひもを解く資格もない」者が、主に仕えていただいて、互いに仕え合う者に生まれ変わったのです。主の愛と恵みを指し示すために、主が、用いてくださるのです。感謝して、主を見あげ、主の み声に聴き従うことができますように。

<祈祷>  
天の父なる御神、洗礼者ヨハネのように、日々、「わたしはメシアではありません」と言い表し、あなたへの道をまっすぐに歩む者としてください。み子の履物のひもを解く資格もないわたしたちを、み子の十字架のゆえにあなたの子としてくださり、感謝いたします。恵みに応え、裁き合う者ではなく、仕え合う者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、わたしたちの世は、嘆きの声におおわれています。戦争や地震によって愛する者を失った者、家族の安否を心配しながら途方に暮れている者がおります。どうか、あなたの愛で包み、慰め、憐れんでください。わたしたちが今すぐ武器を置き、隣人と握手することができますように、勇気を与えてください。国々の指導者たちの心を、あなたに向かわしめてください。年を重ね、自らの衰えを痛感している者がおります。若さゆえに、様々な不安を抱えている者がおります。働き盛りでありながら、虚しさを抱えている者もおります。たくさんの後悔を抱えて眠れぬ夜をすごしている者もおります。子育てに疲れ、頼る人もなく不安に押し潰されそうな者もおります。それぞれの悩み、苦しみ、痛みをあなたはすべてご存知であられますから、それぞれの心に寄り添い、これからも「大丈夫。わたしは、いつもあなたと共にいる」と語り続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年2月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第33章18節~23節、新約 ヨハネによる福音書 第1章1節~18節(Ⅲ)
説教題:「押し寄せる恵み」
讃美歌:546、16、140、Ⅱ-15、543

ヨハネによる福音書 第1章1節から18節までの み言葉に繰り返し耳を傾けております。今日は、16節から18節を中心に味わいたいと思います。
スイスの改革者カルヴァンは、1542年、『ジュネーブ教会 信仰問答』を出版しました。カルヴァンは信仰問答について「牧師が問い、子供が答える対話の形式で作られた、子供たちをキリスト教に教育する文言集」と紹介しています。今朝、わたしたちも子どもに戻って、答えたいと思います。問1 人生の主な目的は何ですか。答 神を知ることであります。問3 では人間の最上の幸福は何ですか。答 それも同じであります。問1から問373までの問答で、問1は特別な意味を持ちます。問1が土台となり、問373まで続く。すべての問いに貫かれるのは、人生の主な目的は、神を知ること。さらに、最上の幸福は、美味しいものを食べたり、財産を蓄えたりすることではなく、神さまを知ることに尽きる。神さまを知るなら、たとえ、どれほど苦難の多い人生であっても、それは「最上の幸福」です。それは、ここにいるわたしたち皆が、証人でありましょう。今朝のヨハネによる福音書の み言葉は、主イエスを通して神さまを知る恵みへと、わたしたちを導きます。18節、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
わたしたちが、神さまを知るには、最上の幸福をいただくには、どうすればよいか、そのことが記されています。わたしたちが自分の力で神さまを見ることはできません。同じように、わたしたちが自分の力で神さまを知ることもできません。けれども、そのようなわたしたちのために、神さまは、父のふところにおられた独り子である神、主イエスを遣わしてくださいました。ですから、わたしたちは、主イエスによって、神さまを知ることができます。主イエスによって、わたしたちの人生は、かけがえのない、まことに幸せな人生となるです。
改めて18節を読みますと、「神を示された」とあります。「示された」と訳された言葉には、「外へ導く」という意味があります。大河ドラマなどを見ておりますと、位の高い人物の役の俳優さんが御簾(みす)の中にいて、姿が隠されていることがあります。そのように、神さまのお姿はわたしたちには隠されていた。けれども、その隠されていた神さまのお姿が、あたかも御簾(みす)の外へと現れ出るかのように、主イエスによってわたしたちの目の前に明らかにされた。神さまの お心が、わたしたちにわかるように、主イエスが示してくださったのです。
ヨハネによる福音書は第1章1節から始まり、17節になってようやく、言(ことば)は、主イエスであると明かしました。初めからおられ、神と共におられ、神であった言(ことば)が、わたしたちの世に人間の姿でいらしてくださり、神さまを示されたのです。わたしたちは、聖書を読み、主イエスの お言葉に触れ、十字架への道をたどり、甦りの喜びへと導かれていきます。そのすべてを通して、神さまを見る。神さまの み声を聴く。神さまを知っていく。それこそがわたしたちの人生の主な目的であり、最上の幸福です。
さて、この み言葉に先立って、モーセが登場します。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」律法は、神さまから、モーセを通してわたしたちに与えられました。十戒です。人間が、お互いを大切にして、平和に生きるために、神さまが与えてくださった大切な戒めです。ところが、人間は、戒めを重んじるあまりに、何のために神さまがこの戒めをくださったのか、という肝心なところを見失っていってしまいました。律法を守っていれば救われる。いつの間にか、戒めを守ることが目的になってしまいました。では、戒めを守れなければ救いはないのか?守れない人間を裁き、救いの中から締め出すことが、神さまの み心であるのか?主イエスは、明確に「それは違う。」と、神さまの み心を示してくださったのです。神さまは、わたしたちがどんなに神さまの み心に背を向けようとも、わたしたちをお見捨てにはなりません。わたしたちが、戒めを守ることができず、罪を重ねるばかりであっても、神さまは、何とかして救いたい。どうにかして平安の中を、神さまの愛の中を歩んで欲しいと願っておられる。その神さまの思いが、神の言(ことば)が、ご自分の恵みと真理を示してくださるために、人間の姿をとり、主イエス・キリストとして、わたしたちのところへいらしてくださいました。そして、十字架に磔(はりつけ)にされ、裁かれるべきわたしたちの罪をすべて背負い、わたしたちの代わりに裁きを受けてくださった。その上、甦ってくださり、そのことを信じさえすれば、わたしたちも主イエスの甦りの命をいただくことができる。そのようなわたしたちがまったく思ってもみなかったなさり方で、主イエス・キリストは、神さまの み心を示してくださったのです。このようにして、わたしたちにはまったく見えていなかった神さまの恵みと真理が、主イエス・キリストを通して現れました。まるで、御簾(みす)の中から出てくるかのように、出現したのです。
「いまだかつて、神を見た者はいない。」と記されているように、主イエスが来られるまで、神さまの恵みと真理が、人間には見えていませんでした。神さまの愛が、わかっていませんでした。神さまは、ただ遠い存在、おそろしい存在のように思っていました。神さまは、「それは違う。わたしはあなたがたを愛して止まない、あなたがたの父なのだ」と、わたしたちに教えるために、主イエスを差し出されたのです。「この方は、父なる神さまが、ふところに入れ、大事に大事に慈しんでいた独り子である神なのだ」と福音書はわたしたちに告げます。
幼少の頃、両親のふところに抱かれ、語りかけられることは、子どもなりに「ああ、わたしはこんなにも大事にされ、こんなにも愛されている」と安心できる大切な「時」であります。主イエスも、父なる神さまのふところに抱かれ、神さまの心臓の鼓動を聞いておられた。神さまが人間の罪に心を痛め、苦悶しておられるのをふところで感じておられた。それでもなお、神さまは人間を愛し、子として大切に思っておられる姿を肌で知っておられた。そして、とうとう神さまは、いつまでもふところに抱き、手放したくない愛する独り子を人間のために手放されました。そのときの、苦渋に満ちたお心も、それほどまでの人間への愛も、父のふところにおられた 独り子である主イエスだけが、知っておられたのです。その父なる神さまのふところにおられた主イエスが、わたしたちに示してくださいました。「父のふところに抱かれる平安は、わたしだけのものではない。あなたがたのものだ。わたしがあなたがたの罪をすべて背負う。だからあなたがたは安心して父なる神さまのふところへ、愛の中へ、飛び込んでよい。父なる神さまは、あなたがたの父でもあるのだ。」そのようにわたしたちを招いていてくださるのです。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」と16節にあるとおりです。主イエスの満ちあふれる豊かさは限りがありません。罪を重ね、神さまに背を向け、こんな世の中、神さまなどおられないと望みを失うわたしたちを、ご自分の死と甦りにより、父なる神さまの子として生きる者としてくださるのです。12節に、「しかし、言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」とあるように、主イエスは、過ちばかりを繰り返しているわたしたちを、神さまの愛の中へ、神さまのふところの中へと招いておられるのです。
今週の水曜日は、灰の水曜日です。主イエスのご受難をおぼえ、悔い改めつつ歩む受難節に入ります。愛する独り子を十字架に磔(はりつけ)にしてまで、わたしたちの罪を赦そうとされた神さまの愛を知るために、十字架の死を心深く刻む日々を、大切にしたいと思います。
この後、讃美歌第2編15番を賛美します。もしかすると皆さんの中には、あまり馴染みのない方もおられるかもしれません。この讃美歌は、中世の東方教会の修道院でつくられた讃美歌です。作詞者は、聖テオクティストゥスですが、19世紀イギリスの古典賛美歌学者ジョン・М・ニールが英訳したものを松山昌三郎牧師が日本語に訳しました。1節は、このような歌詞です。「いとしたわしき主イエスの み名を/呼べばあふるる めぐみのいずみ。みむねにこたえて み前にささぐるすべてを/きみのものとしたまえ。」主イエスの み名を呼べば、湧き出る泉のように、恵みがドンドンと湧いて、溢れる。わたしたちキリスト者には、食べればなくなり、死んでは所有することのできない財産とは次元の違う、真実の恵みが泉のように湧き出し、溢れています。次から次へと枯れることなく、恵みが湧き出して押し寄せてきます。主イエスは、神さまのふところに留まることなく、わたしたちのために苦しみを受けてくださいました。2節はこのように歌います。「いばらのかむり おおしくうけて、むちとあざけり  しのびし主イエス。その みくるしみは/われらを罪より あがなうためぞ」。ただただ、主イエスをわたしの主、わたしの神と信じて、主イエスの み名を呼ぶとき、それがたとえ死の間際であっても、わたしたちは幸福です。わたしたちは神さまの子どもであり、主イエスが共にいてくださるからです。受難節の日々、一日一日を、主のみ名を呼びながら、主が示してくださった神さまの愛に感謝しつつ、祈りつつすごしてまいりましょう。

<祈祷>  
天の父なる御神、本来なら、独り子なる主イエスにしか許されないあなたのふところに憩う恵みをお与えくださり、心より感謝いたします。そのあふれる恵みには、主イエスの み苦しみと十字架の死があることを忘れることのないように導いてください。あなたを知ることを生涯の目的、最大の喜びとする者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主のご受難と甦りを覚える季節に入ります。わたしたちの日々の歩みと、聖なる主の日の歩みとを整え、支えてください。主よ、大地震があり、戦争があり、疫病があります。日々の暮らしに困っている人々がいます。いったいどうすれば良いのか、途方に暮れる思いでおります。主よどうか、世を憐れんでください。私共に互いに仕え合う心を与えてください。痛みに苦しむひとの傍らに寄り添う「良きサマリヤ人」の歩みを、わたしたちの歩みとすることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年2月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第30章18節~19節、新約 ヨハネによる福音書 第1章1節~18節(Ⅱ)
説教題:「光を証しする者」
讃美歌:546、12、326、502、542、Ⅱ-167

ヨハネによる福音書 第1章1節から18節を ご一諸に読んでいます。天地が造られる前から、もちろん言うまでもなく、人間が、「言(ことば)」ロゴス、という単語をつくるよりずっとずっと前から、「言(ことば)」は神と共にあられました。それは、人間の考えるどんな言葉でもとても言い尽くせない恵みに溢れた神の思いであり、愛であり、神そのものであられました。神そのものであられる力ある「言(ことば)」が、神の愛を わたしたちに示してくださるために、人間となって、わたしたちのもとへ降って来てくださいました。わたしたちが神の み心に生きるために、わたしたちが迷わないですむように、わたしたちを照らす光となってくださいました。そういう宝のような み言葉を、繰り返し読んでいます。
新約聖書に収められている4つの福音書は、どれも、人間となって世にいらしてくださった神の み子、主イエス・キリストの地上における歩みを証しする書物ですが、ヨハネによる福音書に主イエスの名前が記されるのは、17節です。それに先立って、「神から遣わされた一人の人」「ヨハネ」の名前が登場します。ヨハネについて、ヨハネによる福音書は、このように紹介します。7節以下。「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」
わたしたちは、ヨハネと聞くと、すぐに「洗礼者」という肩書を思い浮かべます。洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネと呼ばれる人物です。実際、マタイによる福音書では、「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え(3:1)」。と紹介しています。マルコによる福音書も、第1章4節で「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」と紹介しています。ルカによる福音書は、第3章2節で「ザカリアの子ヨハネ」と紹介し、3節で「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とあります。このように、ほかの3つの福音書では、ヨハネを「洗礼を授ける者」として紹介しているのに対して、ヨハネによる福音書だけが、「光を証しする者」として、ヨハネを紹介しています。天地が造られる前から神と共にあり、神の言であり、世を照らす光であり、神そのものであり、信じる者には神の子となる資格を与えてくださる主イエスを、「この方こそが主、キリストである」と証言する者として、ヨハネが登場するのです。
 ヨハネによる福音書を読み始めました1月の第4主日の説教で、ヨハネによる福音書の著者は誰であるのかわかっていない、と申しましたが、この福音書を生んだ教会は、もしかしたらですが、「我々は、キリストの証し人であったヨハネと、同じ思いを持ってキリストを証しする。この福音書は、すべての人がキリストを信じて、神の子となる資格を得るために、著(あらわ)すものだ」という決意表明のような思いで、証言者ヨハネの名前を借りて、「ヨハネによる福音書」という題にしたのかもしれない。そのように考えるのは想像力がたくましすぎるでしょうか。でも少なくとも、ヨハネ福音書の み言葉は、証言者ヨハネのようにキリストを証しし、わたしたちをキリストのもとへと導くものであります。心の耳をすまして、その福音の み言葉を聞きとっていきたいと願います。
ヨハネは、主イエスの証人として、「声を張り上げて」証言しました。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 
「声を張り上げて」とは、突然、大声を張り上げたというより、預言者の語り口を伝える聖書の表現です。ヨハネは神さまから遣わされた預言者として、主イエスについて証言したのです。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
このヨハネが歴史の中に登場してきたとき、「ヨハネこそが待望していた救い主かもしれない」と考えた人々が、少なからず、いたようです。ヨハネはそれをはっきりと打ち消して、「主イエスこそが救い主である」と指し示したのです。その証言者ヨハネが張り上げる声に唱和するように、ヨハネ福音書も、はっきり証言します。16節。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(1:16)」
「わたしたちは皆」とあります。大切な言葉です。主イエスの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けたのは、証言者、預言者として神に立てられたヨハネだけではない。この福音書を生んだ教会に連なる者たちだけでもない。証言者ヨハネを筆頭に、あとに続くすべてのキリスト者である。そのような思いが、ここにはあります。今、この み言葉を読んでいるわたしたちすべてのキリスト者に、キリストの恵みは降り注いでいる。恵みが次々追いかけてくるように注がれている。わたしたちもまた、その恵みの証言者として、この福音書の中に、今、立っているのです。「わたしは光ではなく、光について証しをする者である」と、預言者として証言したヨハネは、わたしたちキリスト者たちの群れのトップバッターとして、立てられたのです。
わたしには、「証し」について苦い経験があります。それまで勤めていた銀行を中途退職し、転職したキリスト教ラジオ放送局での経験です。正式に採用の契約を交わした後、突然、当時の代表から「田村さん、証しを書いてください」と言われたのです。それまでのわたしは、「証し」を書いたり、話したりした経験がほとんどありませんでしたので、何となくピンときませんでしたが、それまでのキリスト者としての歩みを書いて提出しました。ところが、その数日後、代表から大変に厳しい言葉を頂いたのです。「あなたの証しは、まったく証しになっていない。」その時、わたしの頭は真っ白になり、なぜ、証しになっていないのか、理解することができませんでした。今になって考えてみれば、当時のわたしが書いた文章は、「自分のような弱い者がこうして神さまに用いられる、銀行でお荷物の自分を神さまは用いてくださる」と、欠けている自分、弱い自分をどこか誇っているような、自分中心のものでした。キリストの光を指し示していなかったのです。
証人とは、自分を語るのではなく、ただ神さまの み手の中に立ち、暗闇を歩くわたしの光となってくださった主イエスの恵みを証しする者です。神さまの憐れみにより主イエスとの出会いを与えられ、主イエスの光に照らされ、恵みの上に恵みを受けた者として、ただ光であられるキリストを「この方こそ、救い主」と、指し示すのです。
ヨハネによる福音書の記者が、「洗礼者ヨハネ」ではなく、「証しをするために来たヨハネ」と紹介したのは、わたしたちへの強いメッセージではないでしょうか。証し人ヨハネだけでなく、わたしたちは皆、キリストによって、神の子とされています。神が、キリストが、その道を拓いてくださいました。わたしたちも皆、その証人のひとりとして、神さまから数えていただいています。すべての人が神さまの救いの中に入れられるために。キリストが与えてくださる喜びは、人に分けて減るものではありません。惜しまずに分かち合うほど、豊かに溢れる恵みです。
先週の金曜日、芳賀 力先生の東京神学大学での最終講義をオンラインで聴講することが許されました。先生は講義の後半でこのように語っておられました。「しかし その救いの歴史に神は人間を、聖霊の力の下(もと)で、その証言の業を用いて参与させてくださるのです。私たちは、人間の滅びの歴史の中に神の救いの歴史が始まっており、成就へと向かっていることを証言するために、特別に選ばれた民なのです。」
わたしは、「証し」と言うと、自分の経験を語るものと思っていました。しかし、それは間違いでした。主イエスの十字架の死によって、わたしたちの罪は赦されました。主イエスの甦りによって、わたしたちの命は死で終わりません。神の愛が、この救いを成し遂げてくださいました。キリストが、神の愛をわたしたちに示してくださいました。主イエスは、わたしたちを照らす光です。この光の中に飛び込んで生きることが、そのまま、「キリストを証しする」ということではないかと思います。何か立派なことを話さなければと頑張るのではない。恵みの光の中で、恵みを受けていることを喜んで、朗らかに、恵みを歌い、感謝して生きる。わたしたちはそのために、先に選ばれた民です。共に喜んで、主イエス・キリストの証人の群れとして仕え合い、赦し合って歩む、その一足一足が、まだこの救いを知らない人々への証しとなるのです。

<祈祷>  
天の父なる神さま、暗闇の中でさまよっていたわたしたちに光をくださり、平安の中へと招き入れてくださいましたあなたの溢れる恵みを感謝いたします。恵みの上に、更に恵みを受けた者として、あなたの愛を、あなたのみ子を証しする者として用い続けてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。わたしどもの国、わたしどもの世界を顧みのうちに置いてください。人が人として世界を作り続けていくということが、人間らしい生活を作っていくということがどんなに困難であるかを思い知らされる日々であります。争いがあり、憎しみがあり、自然災害もあります。このまま滅びるより他ないのではないかと思ってしまいます。どうぞ、そのような中で教会を支えてください。わたしどもの教会もあなたの平安によって生かされ、平安を告げることのできる教会として、立ち続けることができますように。皆で祈り、奉仕の手を差し伸べ合い、互いに助け、慰め、祈り合って生き続けることができますように。病の中にある者、教会から遠ざかっている兄弟姉妹をみ手のうちにおき、信仰を おまもりください。今週の火曜日、東京神学大学で2月入試が実施されます。主よ、受験を控えている者を強め、献身の思いを明確にしてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年2月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 箴言 第8章22節~36節、新約 ヨハネによる福音書 第1章1節~18節(Ⅰ)
説教題:「恵みと真理を示す言」
讃美歌:546、1、190、Ⅱ-1、334、541

今朝は、ヨハネによる福音書第1章1節から18節までを通して朗読して頂きました。来週も、またその翌週も1節から18節までを朗読して頂こうと思っています。たくさんの恵みに溢れている み言葉です。何度も何度も読み、恵みを心にしっかりと刻みたいと思うのです。
今から14年ほど前、2008年の夏に、教文館から『説教黙想集成 2 福音書』という分厚い書物が発行されました。その頃、わたしは東京神学大学の大学院2年生でしたが、少し背伸びして購入しました。ドイツで著(あらわ)された説教のための黙想集から、加藤常昭先生が精選し、編集翻訳なさった書物です。その中のハンス・ヨアヒム・イーヴァントの黙想の一部を紹介します。「ヨハネによる福音書 第1章1─14節に書き記されていることを、説教の言葉として語る準備をするときに、われわれが まずわきまえていなければならないことがある。それは、ここで語られているのが、われわれの信仰の中核にある事柄であるということである。ここで語られていることは、キリスト者の信仰が、これによって、立ちもし倒れもするような重要なことなのである。」この一言だけでも、説教者にとって、もちろん会衆にとっても、ここに著(あらわ)されている み言葉がどれほど大切であるかがわかります。
ヨハネによる福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」 と語り始め、14節でこのように言います。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちは その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
天地を創り、すべての命を創られた神さまのことばが、肉体を持って、わたしたちのところへいらっしゃった。わたしたち人間が、日々、悩みながら、明日のことを思い煩いながら、またたくさんの後悔を抱えながら生きている。その生活のど真ん中へ、わたしたちと一緒に生活するために人間となっていらしてくださったのだ、というのです。「どれどれ、どんな生活をしているか覗いてみよう」、というのではないのです。わたしたちの喜びも悲しみも、楽しみも痛みも、一緒に味わってくださるということです。神さまのことばの中に命があり、わたしたちの悩みの日々をあわれに思ってくださった。聖書でよく用いられている「あわれみ」と訳される言葉ですが、これは何度か説教の中で触れたことがありますが、「腸(はらわた)」という単語が元になっています。腸(はらわた)がちぎれるほどの痛みをもって、思いを寄せてくださる余り、ついに、肉体をもった人間となって、わたしたちの生活の中に入って来てくださったのです。
 わたしたちの教会の中には、年を重ねてきて一人で生活をしている人が少なからずいます。それぞれに努力をしながら、一人の生活を続けている。そのとき、大きな支えになるのは、家族や、ホームヘルパーの働きであると思います。けれども、ある時間になれば、その人たちもそれぞれの家へ帰ってしまう。夜になればまた一人。そのとき、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とのみ言葉は、夜の闇を照らす光です。「そうだ。神さまが、人間となって、わたしの生活の中におられる。今、ここにおられ、共に生活していてくださる。たとえ今、神さまから頂いた命を再び神さまにお返しすることになっても、わたしは一人ではない。」そう信じることができる。それがわたしたちキリスト者の慰めであり、暗闇を照らす光です。それは、福音書が、「わたしたちはその栄光を見た。」と言っているとおりです。
福音書は続けます。「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」「恵み」とは、相手の条件や資格にかかわらず一方的に、どこまでも追いかけてくる愛です。わたしたちが神さまを信じられないときにも、神さまの愛はわたしたちを追いかけてくる。神さまの わたしたちへの思いが、愛が、積りに積もって、あふれ出して、肉体をもって、神の独り子イエス・キリストとしてわたしたちに真理を示してくださいました。
「真理」とは本当のことです。嘘、偽りのない、本音とたてまえのようなおもてうらのない、まじりっけもない、義しいことです。わたしたちは、嘘のない生き方をしたいと願います。けれども、それはとてつもなく難しい。いつのまにか、この世の論理に流され、あきらめ、自分をあざむき、ごまかして生きている。いつも、真理に触れないように、まともに向き合わないようにして逃げて生きています。それでいて、自分以外の誰かの不正や嘘には非常に敏感になる。そういうわたしたちにとって、「真理は恵みだ」とはとても言えるものではありません。追いかけてきてもらっては困る。神の愛が、うるさいのです。だからキリストは十字架で殺されました。「暗闇は光を理解しなかった。」「世は言を認めなかった。」と書かれているとおりです。
そのように、わたしたちにとっては、なかなか結び付かない「真理」と「恵み」ですが、聖書においては、「真理」と「恵み」はいつも表裏一体、二つで一つです。主イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。(14:6)」
主イエスは、真理そのものとして、真理を避けて通ろうとするわたしたちの罪を、罪として審かれます。けれども、バッサリと切り落として、立ち直れないようにし、立ち去ってしまう お方ではありません。罪に気づかせてくださり、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。(8:11)」と立ち上がらせてくださる お方です。真理から逃げ、罪に陥る わたしたちのために、主イエスは十字架への道を歩まれました。弟子たちから見捨てられ、父なる神さまからも見捨てられる孤独の中で、本来 審かれるべき わたしたちの身代わりとなって十字架で死んでくださいました。そこまでして、わたしたちが真理に生きる道を備えてくださったのです。わたしたちのすべての罪を赦してくださり、これからは清い、聖なる神の子として生きなさい、これからは、あなたは一人ではない、キリストと共に生きる者となったのだ、と立ち上がらせてくださいました。主イエスこそ真理です。主イエスこそ恵みです。主イエスこそ命です。主イエスこそ、神さまの救いに至る道、神の国へ至る道です。そのような主イエスと結ばれたわたしたちは皆、誰が何と言おうと、16節にあるように、「この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」者たちです。
わたしは教会に育てられました。教会に通い始めてからずっと、讃美歌が大好き。今朝も、教会学校の子どもたちと一緒に「こどもさんびか」を賛美しました。いくつもの愛する「こどもさんびか」がありますが、その中で、今朝の み言葉から思い起こされたのが「しゅイェスのみちを」でした。ご存知の方が多いと思います。「主イェスの道を歩こう まっすぐに/真理の道を 歩こう まよわずに/主イエスは 道です 真理です 命です/命の道を 歩こう 終わりまで」
1966年に作詞、作曲された古い「こどもさんびか」ですが、今もわたしの心に刻まれています。真理を避け、真理に向き合おうとしない、弱く、欠けの多いわたしたちです。わたしたちの生きているこの世も、真理とはほど遠く感じられる。しかし、それにもかかわらず、神さまのことばが肉体をもち、わたしたちの暗闇を照らす光として お生れくださいました。わたしたちの道となり、真理となり、命となってわたしたちの中に宿ってくださいました。そのことを信じるなら、わたしたちは終わりの日まで、主イエスと一緒に、一歩一歩、迷わずに、まっすぐに、真理の道を歩くことができます。これが、わたしたちに与えられている恵みであり、喜びなのです。
今から聖餐の祝いに与ります。聖餐は、主イエスがわたしたちの間に宿られた証しです。何度も失敗してくじけてしまうわたしたちが、主イエスと一緒に、一歩一歩、迷わずに、まっすぐに、真理の道を歩くために、真理に生きる力と喜びが、まるでわたしたちを追いかけてくるように、今日も備えられています。この恵みを感謝して頂き、今日から、また一歩を踏み出していきましょう。

<祈祷>  
天の父なる神さま、あなたの独り子をわたしたちの間に宿してくださり感謝いたします。主イエスこそ、わたしたちの恵みです。主イエスこそ、わたしたちの真理です。主イエスこそ、わたしたちの喜びです。これからも主イエスの道、真理の道、命の道を終わりまで歩む者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。
アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、あなたの恵みを必要としている者たちを顧みてください。病と闘っている者を励ましてください。年老いて、教会に来る力を失っている者に慰めを与えてください。それぞれの家にある悩みを顧みてください。自分の小さなわざが、虚しいのではないかと思ってしまう心を慰めてください。世界の各地で争い、対立が続き、嘆きの涙が流されています。主よ、それらの地にも、あなたの み子が宿っておられるとの確信を お与えください。指導者たちに、平和への道を選んで進む勇気を お与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年1月29日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第1章26節~31節、新約 ヨハネによる福音書 第1章1節~13節
説教題:「神の子となる資格」
讃美歌:546、21、288、360、540

先週から、ヨハネによる福音書を読み始めました。皆さんとご一緒に、一回、一回、ヨハネによる福音書に溢れる神さまの愛と恵みに触れ続けたいと願います。
 福音書は、このように語り始めます。「初めに言(ことば)があった。」言、即ち、主イエス・キリストは人間に命をもたらす光でした。命の光が暗闇の中に照ったのです。それなのに、「暗闇は光を理解しなかった。」また、10節以下には、「世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」とあります。主イエスがユダヤの民から拒絶され、苦しみを受けられた お姿が迫ってまいります。今、わたしたちもまた、主イエスのように愛し合い、赦し合い、祈り合うことを、軽んじてあざけるかのような世に生きています。そして、一つ間違えば、わたしたち自身でさえ、キリスト者として生きることに疲れ、世に迎合しそうになる。そのようなわたしたちに今朝、福音書は「しかし」と呼びかけるのです。励ますのです。12節。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」今朝、ご一緒にしっかりと心に刻みたい み言葉です。
 わたしたちは、先週も色々な思いを抱きながら生きてきました。喜びの日もあれば、嘆きの日もある。恵みの日もあれば、自分が嫌になる日もある。わたしたちの思いは、刻一刻と変化する。いつも穏やかでいることは難しいことです。突然、大きな不安に襲われる日もある。すべてを投げ出したいと思う日もある。キリスト者だからと言って、いつも泰然自若としていられるわけではありません。
しかし、です。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」のです。たとえ、どんなに心が沈んでも、主イエスを「わたしの救い主」と信仰を告白し、洗礼を受ける人々には、「神の子となる資格」が与えられるのです。もしかすると、福音書記者も、迫害にさらされている教会の現実に深く傷つき、心が暗闇に覆われる日もあったかもしれません。しかし、です。心を覆う暗闇が濃いものであればあるほど、その心の底にも、キリストの光が確実に届いているとの信仰に救われてきたのです。そして、キリストの光を知らずに暗闇の中でさまよっている者、望みを失っている者に何とかして、この光を伝えたい、その一心で、「しかし」と記したのではないでしょうか。たとえ、迫害にあっていても、主イエスを、「わたしの救い主、わたしの光、わたしの命」と信じ、受け入れるなら、神の子となる資格が与えられる。この事実こそ、わたしたちの喜びであり、希望である、と記すのです。
「資格」というと、国家資格のように、コツコツ勉強し、試験を受け、合格すると頂ける資格が思い浮かぶかもしれません。牧師も、正教師試験を受け、合格しなければ牧師の資格は得られません。では、「神の子となる資格」も、コツコツ勉強し、試験に合格しなければ頂くことができない資格なのでしょうか。様々な事情で教会に通えなくなり、献金をささげることが困難になった途端、神の子の資格は剥奪されてしまうのでしょうか。ヨハネ福音書は、ただ「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と語ります。ある意味、拍子抜けするような言葉に思えます。「神の子となる資格」です。本来なら、み子イエスだけが持つ、特別な資格。それが、主イエスの名を信じるだけで、誰にでも与えられるとは、驚くべきことです。
新共同訳は「神の子となる資格」と訳していますが、口語訳は「神の子となる力」、聖書協会共同訳は「神の子となる権能」、新改訳2017は「神の子どもとなる特権」とそれぞれ訳しています。辞典で調べると、最初に「(何々する)自由」、「(何々してもよい)権限」、「(許容された)権威」とあります。どんな邪魔が入ろうとも、迫害にあっていても、わたしたちは神の子。キリストを信じ、キリストに委ね、キリストと生きる者。何者も、わたしたちを神の愛からひきはがすことはできない。わたしたちは、そのように胸を張って言うことができる。そういう自由を持っている。力を持っている。特権が神さまによって与えられている。そのように福音書は宣言しているのです。
それでは、キリスト者すなわち神の子は、何によって生まれたのでしょうか。13節。「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」福音書は、「血」、「肉の欲」、「人の欲」を打ち消して、わたしたちの出自を明らかにします。ユダヤの人々は、「ユダヤ人である」という血統を大事にしていました。けれども、キリスト者は、ユダヤ人であるなしにかかわらず、ただ、神の恵みによって、子とされるのです。もしも、「血」にこだわるなら、わたしたちにとって必要不可欠な血は、キリストの血です。わたしたちは、キリストの十字架の血によって罪を赦され、清められ、神の子となる資格を与えていただいたからです。また、「肉の欲」。「人の欲」とあります。これはほぼ同じ意味といってよいと思います。キリスト者は、男の欲によって生まれるものではない。女の欲によって生まれるものでもない。人間の欲は、キリスト者を生まないのです。ただ、神さまの愛だけが、キリスト者を生むのです。わたしたちの闇がどんなに深く、救いようがないように思えても、神さまの愛が、わたしたちをとらえてくださる。神さまが、「キリストの血によって、あなたがたは清い、あなたがたはわたしの子」と言ってくださるのです。
少し先の第3章16節を朗読します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」神さまの愛は、わたしたちを見捨てられません。たとえ、わたしたちの心身が衰え、教会に通えなくなっても、たとえ、神さまに背を向けようとも、主イエス・キリストによって示された神さまの愛が、わたしたちから離れることはないのです。わたしたちには、自分が、日本が、世界が、これからどうなるか分かりません。けれども、不安になって思い煩ったり、絶望したりしなくていいのです。なぜなら、わたしたちは皆、世の初めから終わりまでを見通し、救いのご計画に置いてくださる神さまの子どもとされているのですから。また、神さまの愛によって与えられた「資格」には、有効期限がありません。運転免許証の更新のように適正検査を受ける必要もない。ただ神さまの愛に感謝し、キリストこそ、わが喜び、わが救いと賛美し続けてよいのです。
この後、讃美歌360番を賛美します。作詞は、ジョージ・マセソンという、スコットランドの牧師です。マセソンは、裕福な商人の子として生まれましたが、幼い時から極度の弱視で、いずれ失明するであろうとの宣告を受けていました。けれども彼はくじけず、エディンバラ大学で法律を学び、最優秀の成績で卒業します。その頃、彼は既に失明していましたが、さらに4年間神学を学び、牧師となり、2年間グラスゴーの教会で働いた後、イネランという海辺の保養地の小さな教会で18年、さらにエディンバラの教会で13年働きました。細やかな牧会と、熱情を込めた説教は、多くの人に感銘を与えたといいます。
この讃美歌が書かれたのは1882年。彼が40歳の年の、ある夜のことでした。その夜「自分だけが知っているある激しい苦しみ」に襲われ、無我夢中でわずか5分ぐらいの間に、内なる声に促されるようにこの讃美歌を書き上げた、と日記には記されています。「疲れしこころを なぐさむる愛よ」と始まる歌詞ですが、恵泉女学園で教鞭をとられ、賛美歌についての著作も多数残された大塚 野百合先生は、ここを直訳すると「私を決して手放すことがない『愛』よ、疲れた魂を あなたのうちに憩わせます。」となる、と書いておられます。「神から離れたい、よそへ行きたいと願っても、神の愛は決してお許しにならない。それほどに、わたしを愛してくださる神の愛よ。」マセソンは、そう歌い始めるのです。
神さまは、わたしたちが離れて行ってしまうことが、「心が引き裂かれるほど辛く、耐えられない」と言ってくださる。それほどに強い神さまの愛によって、わたしたちは神さまの子としていただいたのです。神さまからいただいた神の子としての命を、日々、神さまの愛の中にお返しすることで、わたしたちは平安を得、わたしたちの命はよりいっそう豊かなものとされてゆきます。先のことは誰にもわかりません。この世にあって日々、キリスト者として生きていくことは闘いの連続です。でも、心配しなくてよい。わたしたちは神によって生まれた神の子なのですから。わたしたちの命は、わたしたちを絶対に手放されることのない神さまの愛によって、生まれました。わたしたちは痛みも、涙も、すべて抱えたまま、この神さまの愛の中に飛び込んでよい。「お父さん、疲れました」と泣いてよい。み子の十字架の血がわたしたちを清め、その資格をわたしたちに与えてくださいました。これがわたしたちの光です。まことの光です。光を信じて、今週もここから歩み出してまいりましょう。

<祈祷>
天の父なる神さま、驚くべきあなたの愛に圧倒されます。どうか、あなたの愛を信じ、あなたの愛にすべてを委ねて生きる、幼子のような心を与えてください。それでも、あなたの愛を疑いそうになるとき、ただ、主の十字架を思い起こす者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。日々の報道を通して、あなたを畏れることを忘れてしまった世を思います。ただ、あなたの愛によってあなたの子としていただいたわたしたちも、本当にあなたはすべての者を愛しておられるのだろうか?と疑ってしまいそうになります。主よ、わたしたちの頑なな心を、あなたの愛で溶かしてください。柔らかな心をあなたがわたしたちに、世界の指導者に取り戻させてください。あなたの平安で世界を満たし、ひとりひとりの魂を満たしてください。そして、主と共にある、そのことだけに根ざす平安と喜びと望みを、あなたからいただいて、この場所から家族や共に生きる人びとのところへと出かけて行くことができますように。今、すべての者をあなたの愛の中に、平安の中に置いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。
天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年1月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第9章1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第1章1節~5節
説教題:「暗闇を照らす光」
讃美歌:546、24、187、453、539

 本日から、ヨハネによる福音書に耳を傾けてまいります。ヨハネによる福音書を、はじめから通して説教していくのは わたしにとって初めての経験です。少し緊張もしていますが、皆さんと一緒に読めることを嬉しく思っております。
さて、新共同訳聖書には、ゴシックの小見出しがあります。またその下に、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書と共通する部分がある場合、他の福音書の箇所が記されています。たとえば、第1章19節以下の小見出し「洗礼者ヨハネの証し」には、マタイ第3章1節~12節、マルコ第1章2節~8節、ルカ第3章15節~17節とありますので、すべての福音書に共通して書かれているエピソードであることがわかります。しかし、第1章1節~18節までの み言葉は、ヨハネ福音書にしか書かれておりません。そして読めば読むほど味わい深く、また、この福音書全体を貫く芯のような み言葉であると感じます。そこで、本日から暫くの間は、この1節から18節までを何回かに分けてお話しすることにして、毎主日、1節から司式者に朗読して頂くことにしました。心を開いて、大切に読んでいきたいと思います。
 今日は、最初ですので、皆さんと一緒にいくつか確認しておきたいことがあります。まずは、誰がこの福音書を書いたのか、ということです。ヨハネによる福音書ですから、ヨハネという人物が書いたのだろうと考えます。ヨハネと言えば、6節から登場する洗礼者ヨハネが思い浮かびますが、早い時期に殉教していますから、違います。次に思い浮かぶのは、主イエスの12弟子の一人、ゼベダイの子ヨハネです。かつては、このヨハネが書いたものと考えられていましたが、研究が進んだ今日(こんにち)では、その可能性もないようです。
では、いったい誰が書いたのでしょう。読み進めていくと、第 13章に「裏切りの予告」とゴシックの小見出しのある23節に、「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。」とあります。この主イエスの愛しておられた弟子が書いたのではないか、という説があるようです。しかし、名前は出てきません。福音書記者が誰であるのか、不明なのです。ヨハネという名であったかどうかも定かではない。けれども、この福音書の作者が、主イエスが深く愛しておられた弟子のことを書いたとき、この弟子こそが、わたしである、そのような思いで登場させたのではないかと想像することができます。本当に直接その場にいた人なのか、そうではなかったのか、ということが問題なのではなく、わたしも主に愛されている、読み手のあなたも主に愛されている、その確信をもって作者は、この人物に自分自身を、そして読み手をも、投影しているのではないかと思います。そのように、わたしたち自身も主から愛されている者として、福音書の中に立ちたい。主の愛を感じながら、福音書の中に立つようにして み言葉を味わっていきたいと願うのです。
 さて、加えて確認しておきたいのは、この福音書はどのような時代に、どのような背景があって書かれたのか、ということです。紀元95年に、ドミティアヌスという皇帝の名による大迫害がありました。ヨハネ福音書が執筆されたのは、紀元80年代末から90年代にかけての頃と考えられておりますので、大迫害に苦しみながら書かれていたか、その直前に書かれたのか詳しいところはわかりませんが、いずれにしても、ヨハネ福音書を生んだ教会は、命の危険を覚えるほどの厳しい状況に置かれていたのです。またローマ帝国による迫害だけでなく、同胞であるユダヤ人たちからも、異端者として激しい憎しみの対象とされていたと考えられています。どこにも居場所がない。まさしく暗闇のどん底のような時代です。その暗闇の中から、光を指し示す福音書が生まれたのです。
今の日本では福音書が書かれた時代のような迫害こそありませんし、教会に行っているからといって同胞からあからさまにつまはじきにされることもありませんが、社会全体を包んでいる闇は深く、わたしたちの心も、うっかりすると暗闇に支配されてしまいそうになります。それでも、わたしたちを照らす光は来たと、ヨハネによる福音書は宣言します。ヨハネ福音書が語る光を見つめながら、光に導かれながら、進んでいきたいと願います。
福音書はこのように語り始めます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」皆さんも気づかれたように、わたしたちが一般的に用います言語の言(げん)に葉っぱの葉(は)という字を書く、言葉という表記ではなく、言語の言(げん)という文字だけを用い、ふりがなで「ことば」と読ませる形をとっています。ちなみに、岩波訳は「はじめに、ことばがいた。」と訳していますが、漢字ではなく平仮名で「ことば」と表記し、「いた」という表現を用いて、ことばが持つ命を表しています。そういうところからも、この「言」はわたしたちが普段コミュニケーションの手段として用いる「言葉」とは、まったく違う次元のものであることがわかります。口から出てすぐに消えてしまうような、まるで葉っぱのような、そういう軽いものではない。重さがある。確かさがある。初めから永遠に至る、時空の無限の広がりを持っている。そして「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とあるように、「言」には創造の力がある。すべてのものが造られる以前から、神さまと共に存在し、神自身でもあり、すべてのものはこの「言」によって造られた。元のギリシア語は「ロゴス」という単語です。神のことば、みことば、ひいてはキリストの福音と訳されることもあります。神さまの力ある「言(ロゴス)」が神さまから発せられたとき、「言(ロゴス)」は、すべてのものを造り、すべての命を造ったのです。
ヨハネ福音書の冒頭の この不思議な み言葉と響き合うように、旧約聖書冒頭の天地創造の物語が聞こえてくる気がいたします。創世記 第1章1節から3節。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」神さまの「言」の力、「言」の命が、ほとばしるような、躍動するような み言葉です。そうして「言」によって造られた光が世の初めを照らしたように、「言」が肉体をもって主イエス・キリストとして世に降って来てくださった。命を宿した神の「言(ロゴス)」が、ヨハネ福音書の時代の暗闇にも、わたしたちの世の暗闇にも、人間を照らす光として来てくださった。そう、ヨハネ福音書は告げるのです。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」神の「言」の内に命があり、人間を照らす光として、わたしたちのもとに来てくださったのです。生きた神の「言」が、すぐに暗闇の中に落ち込んでしまうわたしたちを神の子とし、生き生きと生かすために、人間の姿をとって、主イエス・キリストとして、世に来てくださったのです。
ヨハネ福音書は続けます。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」実は、後半の「暗闇は光を理解しなかった。」という部分は、訳によってだいぶ趣が変わってきます。新共同訳に似ている訳としては、文語訳があります。「光は暗黑(くらき)に照る、而(しか)して暗黑(くらき)は之(これ)を悟ら ざりき。」意味が少し違ってくるのは、岩波訳。「その光は闇の中に輝いている。闇はこの光を阻止できなかったのである。」聖書協会共同訳。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」口語訳も「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」となっていました。まったく反対の意味ともとれるくらい違う響きを持つ、二通りの訳があるのです。どう考えたらよいのでしょう。「悟る」「理解する」と、「勝つ」「阻止する」と、それぞれ翻訳されている元のギリシア語は、「捕える」という意味の単語です。一方は、闇は光を理解できなかった、頭で、あるいは心で、捕えることができなかった。また一方は、両方の手で、ガッチリ捕らえることができなかった。摑まえそこねた。征服することができなかった。そういう解釈の違いがあるようです。どちらの訳がいいのか、言語と聖書に精通する先生方ですら意見の分かれるところですけれども、違うことを言っているようで、実は違うからこそ、一つの真実を語っていると言っても良いのではないか、とも思います。暗闇は光の本質を理解することができなかったから、光を、キリストを、殺したのです。ところが、光を殺して勝ったつもりでいた暗闇ですが、キリストは復活なさいました。そして、キリストの光は2000年後の今なお、わたしたちの光として、輝き続けているからです。
イザヤ書に、このような預言の み言葉があります。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。(55:11)」暗闇が光を理解しなくとも、神さまの「言」の内には命があり、人間を照らす光として、神さまの み心を成し遂げ、神さまからの使命を果たし、暗闇に勝利したのです。どんな暗い闇のような世にあっても、わたしたちには、この神の「言」、キリストの光が与えられており、勝利が約束されているのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、命の み言葉を感謝いたします。
主よ、この世は暗闇に覆われているようです。まことの光として み子を世に遣わしてくださり、感謝いたします。暗闇の中で輝いている主イエスへの望みを日々、お与えください。
主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、あなたの恵みを最も必要としている者たちを顧みてください。病床にある友を励ましてください。年老いて、ここに来る力を失っている者に慰めを与えてください。それぞれの家にある悩みを顧みてください。病んでいる者を看取り続ける人を、年老いた者をいたわり続ける人の労苦をあなたが慰めてください。
争いがあり、憎しみがあり、もはや この世は滅びるよりほかないのではないかと望みを失いそうになります。どうぞ、そのような困難の中でなお、キリストの光を映して立つ教会を、支えてください。
わたしどもの教会をあなたの光で満たし、皆で祈り、互いに助け合い、慰め合う群れとし、平和を告げることのできる教会として用いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。
天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。