2018年3月25日 日本基督教団 東村山教会 受難週礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第11篇1節~7節、新約 ルカによる福音書 第22章39節~46節
説教題「苦難の杯」
讃美歌:546、26、136、285、543
<受難週を迎える>
主イエスの十字架の死を心に刻みつつ、悔い改めの祈りを深くする受難週に入りました。今日は棕梠の主日。主イエスが、まだだれも乗ったことのない子ロバにまたがり、エルサレムに入城された日です。続く洗足の木曜日、十字架の死を翌日に控えた主イエスは、弟子たちの足を洗い、最後の晩餐に与ったのです。その後、主イエスは弟子たちを従え、「いつものように」オリーブ山に行かれました。
<いつものように祈る>
39節以下。イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。「いつものように」とは、慣習に従いという意味です。主イエスは、慣習に従って、オリーブ山に行き、「いつもの場所」に到着したのです。「いつもの場所」とは、オリーブ山のふもとにあるゲツセマネです。静かなゲツセマネの園で、主イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と命じられました。この頃の人々は、立って祈るのが通例であったようです。今でも、祈ろう!と言うと自然に立ち上がる習慣のあるところも多い。しっかりと両足を踏ん張って、天を仰いで祈るのです。その祈りの姿勢は、誘惑と戦う姿勢であったかもしれません。
<苦難の杯>
41節以下。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心(みこころ)のままに行ってください。」主イエスは弟子たちに「祈りなさい」と命じ、御自分も石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいて祈り始めたのです。「石を投げて届くほどの所」とは、神がイスラエルの民のために定めた「石打ちの処刑」を想起させる表現です。かつてイスラエルの民は、神に対して冒瀆の言葉を吐く人を石打ちにして処刑するよう命じられました。つまり、「石を投げて届くほどの所」との表現は、主イエスが弟子たちから離されて、あたかも石打ちの処刑を受けるかのような御受難をこれから重ねられることを暗示しているのです。
主イエスはひざまずいて祈りました。主イエスの祈りは、立って自信満々に祈ったファリサイ派の祈りとは対照的です。主イエスの祈りは、「御心なら、神が用意した杯を飲まないですませたい」という苦難の祈りです。「杯」とは、主イエスの血による新しい契約を象徴し、私たちに罪の赦しを与える杯ですが、主イエスにとっては、十字架の血によって実現される「苦難の杯」なのです。
主イエスの祈りの後半に「しかし」があります。この「しかし」こそ、絶大な神の愛の奇跡、恵みの頂点にほかなりません。「しかし」、そう祈られた瞬間、悪魔の計画は全て滅ぼされました。主イエスを裏切る弟子たちが滅びるのではなく、悪魔が滅ぼされたのです。私たちは、主イエスの「しかし」に支えられ、今朝も祈ることが許されたのです。
<主イエスの苦悶>
続く43節以下。〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
43、44節は後代の加筆と見られていますが、年代的に古く、重要な個所なので括弧がついております。44節に「イエスは苦しみもだえ」とあります。神が支えてくださらなければ耐えられない「苦しみもだえ」。「苦しみもだえ」と訳された原語は、αγωνια(アゴゥニア)です。「苦悶」という意味の言葉です。新約聖書ではここにしか登場しません。主イエスの「苦悶」は、主イエスだけのものとルカは言いたいのかもしれません。アゴゥニアは、競技場を意味する言葉から生まれ、競技場で苦悶する人々を表す言葉となったのです。
いずれにしても、主イエスの「苦しみもだえ」は、神様から送られた天使の激励がなければ耐えることは出来なかったはずです。主イエスの苦悶は、勝利を得るための汗みどろの苦悶です。このとき、主イエスは立っておられません。ひざまずいておられる。そうせずにおれなかった。徹底的に身を低くし、へり下って、父なる神に懇願したのです。
<詩篇第11篇より>
今朝は、ルカ福音書に加え、詩篇第11篇を朗読して頂きました。改めて、朗読させて頂きます。主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦(つる)に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。世の秩序が覆(くつがえ)っているのに/主に従う人に何ができようか」と。主は聖なる宮にいます。主は天に御座(みざ)を置かれる。御目(おんめ)は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。主は、主に従う人と逆らう者を調べ/不法を愛する者を憎み/逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔(みかお)を心のまっすぐな人に向けてくださる。
詩篇第11篇は神への信頼を歌った詩篇です。この詩篇の背景になっているのは、神を信じる者と信じない者との対決です。神を信じない者たちの暴力的な行為によって信仰共同体の土台が揺すぶられ、この詩篇の作者ダビデの生命が脅かされている、これが詩篇第11篇の背景です。ダビデの友人たちは、彼の身を案じ、逃亡を勧めました。しかし、ダビデは少しも恐れず、友人たちに、「主を、わたしは避けどころとしている(1節)」と答えるのです。ダビデは、安全に保護してもらえる隠れ家を知っておりました。ダビデは、自分が逃れるべき避け所はただ一つしかないと信仰の目で見据えていたのです。ただ一つの避け所とは、神の懐なのです。
6節に、「逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる」とあります。神に逆らう者への神の怒りと、硫黄の注がれる杯があります。その苦難の杯を、神の御心に従って生きた唯一の義なる御方である主イエスが飲み干さねばならない。主イエスの苦難の杯、十字架の死によって、私たちの罪が完全に赦されるのです。
主イエスがオリーブ山で苦しまれたのは、単に諦めをもって死の運命を甘受すべきかどうかというようなことではありませんでした。不当な死の苦しみを受けるべきかどうかと悩んだのではないのです。主イエスが直視していた罪人としての審きの死、それは厳しいものだったと思います。ルターは、主イエスこそ誰よりも死を恐れた方だと言いました。従容(しょうよう)として死に赴いたのでもなく、確信をもって殉教したのでもなく、罪人としての死を恐れたのです。罪を犯していなかったのにです。私たちと歩む主イエスの歩みはここにまで至るのです。
主イエスは、愛する人を失い、厳しい痛みの中にある者を憐れみ、私たちに先んじて、もっと深く死の中に踏み込んでくださる。その結果、私たちは死を恐れなくてすむようになるのです。主イエスが私たちの代わりに死を深く恐れ、罪人の死を成し遂げられたからです。その結果、神の愛が勝利する。神の支配が貫徹される。主イエスの「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに」はそのための祈りです。この主イエスの祈りがペトロを立ち直らせ、私たちを立ち直らせるのです。
<葬儀、納骨式を終えて>
先週の木曜日の午後、K兄弟の葬儀が執り行われました。国語科教諭としてたくさんの教え子に愛されたことが伝わりました。葬儀の翌日、お疲れのK姉妹、次女
Yさんを御自宅に訪ね、お祈りをさせて頂きました。当然のことですが、K姉妹、Yさんも相当にお疲れのようでした。懸命に介護し続けておられた。3月末まで介護等の予定を綿密に立てておられた。それなのに、主よ、なぜですか!という思いが溢れてくる。当然だと思います。主イエスの「しかし、御心のままに」がなければ、立ち上がることができないと思います。また、昨日の午後は他教会員の納骨式も担わせて頂きました。御遺骨が暗いお墓の下に納められる。やはり、どうしても死を恐れてしまいます。けれども、主イエスが死を、それも罪人の死を成し遂げてくださった。天使が天から現れて、主イエスを力づけたように、K兄弟の御遺族を、昨日の納骨式を担わせて頂いた御遺族を、そして、死に恐れと深い痛みを抱いている私たちを力づけてくださるのです。
<起きて祈り続ける>
ルカ福音書に戻ります。45節以下。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」弟子たちは悲しみの果てに眠り込みました。単なる怠惰ではなく、悲しみの果ての眠りです。弟子たちが睡魔に陥り眠り込むのは、悲しみのためですから、主イエスが弟子たちに尋ねるのは、「なぜ、悲しくて眠っているのか」という問です。私たちも、主イエスが天使に力づけられ、神の御心を受け入れ、十字架の死の後に待っている復活と再臨を信じるなら、死を悲しむだけでなく、永遠の生命を喜ぶことができるはずです。私たちキリスト者が成すべきことは、いつの日か死の悲しみから立ち上がり、父なる神に感謝の祈りをささげつつ、再臨の主イエスが栄光を帯びてこの世に到来する日を待ち望むことなのです。
主イエスも神に支えられ祈り続けました。そして、神の御心は変わらないと分かったのです。「私は、罪人の罪が赦されるために罪人の一人として十字架に磔になって死ななければならない。罪人への神の罰を、真正面から受けなければならない。」御心が分かった主イエスは苦難の杯を飲み、永遠の生命へと立ち上がりました。45節で「立ち上がり」と訳された原語はαναστας(アナスタス)という言葉ですが、時に「復活」の意味で用いられる言葉です。受難週が終わると復活日を迎えます。K兄弟も洗礼を受けたことで復活の主イエスと同じ永遠の生命が約束されたのです。私たちキリスト者は一人の例外もなく、全ての者が復活の主イエスと共に死から立ち上がり、主イエスによって深い悲しみから立ち直ることができるのです。共に復活の喜びを忘れることなく、受難週の日々を悔い改めの祈りを深めていきたい。聖金曜日の午後6時、一人でも多くの方々と共に聖餐の恵みに与り、悔い改めと感謝の祈りを主に献げたいと願います。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・3月17日に召されたK兄弟の御遺族を慰め、励ましてください。
・手術をなさられた兄弟姉妹、手術を控えている兄弟姉妹、療養を続けている兄弟姉妹、また献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2018年3月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章1節~12節、新約 ルカによる福音書 第22章31節~38節
説教題「罪人の中の罪人」
讃美歌:546、18、138、497、542
<シモン、シモン>
主イエスと使徒たちの最後の晩餐が終わろうとしています。葡萄酒を飲んだ使徒たちは、自分たちのうちで誰がいちばん偉いだろうか、と議論したのです。その中で、余裕の態度を示していたのはペトロでした。事実、主イエスが十二使徒を選んだとき、最初に選ばれたのはシモン・ペトロでした。主は言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。(5:10)」シモン・ペトロは主イエスから深く愛され、期待されていた。だから、自分がいちばん偉い!と思っていたのです。
主イエスは、愛するペトロに呼び掛けました。31節。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」サタンが戦いを挑(いど)み、使徒たちが試練に襲われるのです。「ふるいにかける」とは、どういう意味でしょう?釧路時代、園児たちは砂場でカラフルなふるいで遊んでおりました。ふるいに砂を入れ、フリフリする。ふるいには、たくさんの穴があいていますから、小さな砂は落ち、石が残る。サタンがふるいにかけるのですから、ふるってみて、自分の手元に残るもの、神のものでなく、悪魔のものになるものをふるい出すと読むこともできますし、あるいは、ふるってみて、下に落ちたものだけをかき集めるのかもしれません。
いずれにせよ、はっきりしていることは、主イエスへの信仰をふるいにかけ、ゆすってみると、隠されていた罪が見えてくるということです。私たちの罪、弱さが残る。ペトロの信仰もサタンのふるいにかけられた。その結果、信仰がザーッと下に落ち、すべて無くなるということが起きたのです。
ユダの接吻を合図に主イエスが捕縛されました。裁判の間、大祭司の屋敷の中庭に腰を下ろしたペトロは、ある女中に、「この人も一緒にいました」と言われたとき、慌てて打ち消した。「わたしはあの人を知らない」。思わず口に出た言葉は戻りません。そこに「罪」が現れるのです。
<主イエスの祈り>
ルカは、そのシモンが立ち直れたのは、主イエスが祈っておられるからだと言うのです。32節以下。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
シモン・ペトロは、今こそ自分の偉さを示す時である!と知ったかのように、「わたしはあなたと共に死ねる、だから心配なく」と言った。主イエスの執り成しの祈りは無用だと言うのです。けれども、実際はペトロが主イエスを三度否むまで鶏は沈黙を続けるのです。
ペトロは信仰を失いました。主イエスの「信仰が無くならないように」との執り成しの祈りがなければ、主を裏切った事実に押しつぶされ、自滅したはずです。だからこそ私たちは、ペトロに親近感を抱くのかもしれません。「あの日、私も信仰を失った。そのような私を、誰よりも深くご存じの主が『信仰が無くならないように』と日々、執り成しの祈りを祈り続けてくださった。その結果、ペトロのように私も立ち直り、今朝も礼拝に招かれたのだ」と。
<しかし今は>
続く35節以下。それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣(つるぎ)のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」
主イエスは続けて、これまで弟子たちに命じたこととは逆のことを命じて、事態が急変することを教えます。つまり、財布や袋を持っている人は、それを携行し、剣のない人は服を売って買うようにと命じるのです。主イエスがこのような命令を出したのは、十字架刑に至るまで父なる神の計画を着実に進めるためです。こうして弟子たちは、これまでは霊の剣である神の言葉を主イエスから与えられていましたが、これからはこの世の剣を持つことで、いつの日か自分たちも剣によって滅ぼされることを主は教えたのです。
<イザヤ書第53章より>
続く37節以下。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
「その人は犯罪人の一人に数えられた」は、イザヤ書第53章12節の引用です。「犯罪人」と訳されている言葉は、本来は、「律法を持たない者」という意味の言葉です。まるまる罪の存在。神の掟からはずれてしまっている罪人の中の罪人。「その人の中に掟なし」としか言いようがないような、罪そのものになっているという意味の言葉です。
イザヤ書第53章は、ただひとりしか生まれてこないような「苦難の僕」を描いています。旧約聖書学者の雨宮慧(あめみや・さとし)先生は第53章に登場する「苦難の僕」について解説しております。「新約聖書はこれをイエスに当てはめ、イエスの苦しみと死の意味を明らかにする歌と受けとっていますが、第二イザヤ(無名の預言者の言葉)の意図はどこにあったのでしょうか。最初からイエスを予告しようとしたのでしょうか。そうではなく、結果的に予告となったのではないかと思います。(中略)第二イザヤは捕囚民には無視され、バビロニア人からは迫害されました。神の言葉に従って生きようとすると、このような苦しみが襲ってきますが、この苦しみから逃げずに、それを担うために、第二イザヤはこの歌をつくったのではないかと思います。(中略)このような第二イザヤに対して、神はイエスによって答えたのではないでしょうか。だとすれば、第二イザヤ自身はイエスを予告するつもりはなかったでしょうが、結果的にそうなったのだといえます。」なるほど!と思います。
イザヤ書第53章における「苦難の僕」は主イエスを預言していると信じることはキリスト者にとって大切ですが、第二イザヤが最初から主イエスを予告したのではなく、神が主イエスによって「苦難の僕」を成就したと理解するとスッキリすると思います。第二イザヤは語ります。「あの人は、どうしてあんなひどい目に遭っているのだろう。神によほど悪いことをして、神にたたかれているに違いない。そう初めは思った。ところが何ということであろうか。実は、あの人は、私の罪のため、私たちの罪のために、たたかれているのだ」。
第53章12節。「彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」
主イエスは第二イザヤの預言を成就されました。主イエスは罪人の中の罪人として処刑され、全人類の救いを成し遂げられたのです。
<大胆な罪人に>
最後に、ドイツの改革者ルターの手紙を紹介して終わります。ルターと共に宗教改革に乗り出したメランヒトンへの手紙があります。私がまだ献身する前、自分の罪、弱さに悩んでいたとき、鎌倉駅から母教会に向かう途中にある書店のキリスト教書のコーナーにこの手紙が収録されているルターの書物を発見、その場で読み、この手紙を心に刻みたいと願い、その場で購入した書物です。ルターはこのように書いております。あなたが恵みの説教者であれば、つくりものの恵みではなく、ほんものの恵みを説教しなさい。もしそれがほんものの恵みであれば、つくりものの罪でなく、ほんものの罪を負いなさい。神はつくりものの罪人をお救いになりません。罪人でありなさい、大胆に罪を犯しなさい。しかしもっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。彼こそは罪と死とこの世との勝利者です。私たちがこの地上にいるかぎり、罪を犯さざるをえません。この地上での生は、義がわがものとなるようなものではありません。ペトロが言うように、私たちは、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望むのです。この世の罪を取り除く小羊キリストを神の大きな恵みによって、私たちが知るに至ったことで十分です。たとえ日に千度と殺人を犯しても、どんな罪でも私たちをこの小羊から引き離すことはないでしょう。これほど偉大な小羊によって私たちの罪の贖いのために支払われた代価が少なすぎると、あなたは思うのですか。大胆に祈りなさい。もっとも大胆な罪人になりなさい。
1521年 使徒ペトロの日に(「メランヒトンへの手紙」1521年8月1日)
私は書店でこの手紙を立ち読みし、涙が溢れました。とくに、衝撃を覚えたのは、「たとえ日に千度と殺人を犯しても、どんな罪でも私たちをこの小羊から引き離すことはないでしょう。」の箇所です。もちろん、一日に千人もの人間を殺すことはないと思います。しかし、そのとき私が悩んでいた罪は、私の中で本当に重く、心の底に沈んでいたのです。けれども、ルターからメランヒトンへの手紙を読んだ瞬間、高3の秋に洗礼を授けられた私は、ありがたいことに、真の小羊キリストによって罪を贖われたということを改めて心に刻んだのです。もちろん今も、自分の犯す罪に深く落ち込みます。しかし、そのような弱さを抱えている私のために、主イエスは、これまでも、今日も、そしてこれからも永遠に祈り続けてくださる。それも、罪を犯さないようにではなく、信仰が無くならないように祈り続けてくださるのです。ペトロも立ち直ったとき、あの聖霊降臨の日に、自分の弱さを隠すことなく、それこそ大胆にキリストによる罪の赦しの福音を説教したのです。その結果、主イエスが期待されたように、大いに、兄弟姉妹たちが励まされ、慰められ、何とその日に3000人ほどが洗礼を受け、キリスト者の仲間に加えられたのです。本当に驚くべき主イエスの恵みです。主イエスは、それほどまでして日々、私たちが立ち直るよう祈り続けてくださるのです。つまり、私たちは自分の力で自分の罪を克服しようと思う必要はないのです。むしろ、自分の罪、弱さを大胆に認め、悔い改めつつ、「主よ、どうか今日も信仰が無くならないよう祈ってください。どうか、聖霊を注ぎ続けてください。弱さを抱えている私だからこそ、立ち直ったら、兄弟姉妹を力づける者として用い続けてください!」と祈り続けるのです。
確かに、主イエスの時代は混乱の時代でありました。けれども、現代こそ、何が真実で何が嘘で何を信頼してよいのか、わからない時代に入っております。まして、核兵器がいつ用いられてもおかしくない時代です。そのような時代、剣二振りでは何もできません。けれども、私たちキリスト者には、主イエスの祈りと御言葉という武器が備えられている。その武器は、相手を倒す武器ではなく、相手を悔い改めに導き、立ち直らせ、勇気づける武器なのです。
今週の木曜は、K兄弟の御葬儀が執り行われます。私も祈りつつK姉妹、また御遺族の皆さまを御言葉によって力づけたいと願っております。同時に今、厳しい病と闘っている人、大きな手術を控えている人がおられる。ご一緒に執り成しの祈りを主イエスと共に祈り続けたいと願います。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・K兄弟が召されました。深い悲しみの中にあるK姉妹、御遺族の皆さまを深く憐れみ、励まし続けてください。
・手術を控えている方々、療養を続けている方々、また献身的に介護しておられる方々を強め、励ましてください。
・4月1日のイースター礼拝にたくさんの兄弟姉妹を招いてください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2018年3月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第11章1節~4節、新約 ルカによる福音書 第22章24節~30節
説教題「仕える愛」
讃美歌:546、72、142、537、541、427
<主イエスの嘆き>
主イエスは、新しい契約である杯を与えられた後、「人の子を裏切るその者は不幸だ。」と嘆かれました。使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めたのです。しかし、その議論はすぐに終わりました。そして、次の議論になったのです。次の議論とは、主イエスの後継者問題です。過越の食事は、葡萄酒の杯を互いに回して飲みます。十二使徒も酔い、相手に絡む。「俺が後継者だ!」「いや、俺こそ後継者だ!」議論がエスカレートする。主イエスの、十二使徒への思いはどうだったでしょうか?主イエスはイスカリオテのユダを憐れみつつ、十二使徒の議論を嘆かれたはずです。同時に、そのような情けない十二使徒だからこそ、「私の思いを心に刻んで欲しい!」と使徒たちに言われたのです。
<仕える者のようになりなさい>
25節以下。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」私たちも使徒の一人です。主イエスを私の救い主!と信仰告白し、洗礼を授けられた。だからこそ、私たちも主イエスが十字架の死を前に、嘆きつつ、使徒たちにこれだけは心に刻んで欲しい!と命じられた言葉を本気で信じ、本気で実行することが大切なのです。
25節に「異邦人の間では」とあります。「世間では」という意味です。主イエスの時代、また私たちの時代も、世間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が「守護者」と民に呼ばせていると主イエスは指摘するのです。いつの世も、権力を振るう者は、民から「守護者」と呼ばれることで満足する。しかし、主イエスは命じられる。26節。「あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」いちばん若い者のようになり、仕える者のようになることは、なかなか難しいことです。主イエスはさらに続けます。27節。「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」わかりやすい譬えです。当時の食事は、ゴロンと横になって食べる。食べる人は横になって給仕されるのを待てばよい。給仕する者は、横になっている人に身をかがめて給仕するのです。誰が判断しても、偉いのは食事の席に着く人。けれども、主イエスはここでも「しかし」と語るのです。「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」確かに、過越の食事も全ての段取りを主イエスが備えられました。次に、聖餐の食卓を給仕してくださった。しかも聖餐は、主イエスが自らの体を裂いた肉と、流される血による食卓です。「だれがいちばん偉いだろうか」を議論する私たちの罪を贖うため、主イエスは、自らを給仕してくださる。だからこそ、主イエスの使徒である私たちも、キリストのように神と隣人に仕えることを期待されているのです。
<神の愛とは>
今朝は、旧約聖書 ホセア書も朗読して頂きました。第11章1節以下。まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎(あご)から軛(くびき)を取り去り/身をかがめて食べさせた(ホセア書
11:1~4)。
ここには、神の愛の深さと私たちの罪の深さが語られております。ここでは神が、幼い子どもであるイスラエルに歩くことを教え、自らかがんで食べ物を食べさせる父親として示されております。まさに、主イエスが食事の席に着く人ではなく、身をかがめて給仕する者であるのと同じです。父なる神は、深い愛を抱いて語ります。「エジプトの奴隷として苦しむイスラエル(エフライム)を救い出し、愛のきずなで荒野を導き、豊かに農作物が実るカナンの地に導き返したのは、父である私だ。私は子としてイスラエルを愛し、日毎の糧を与え続けた。それなのに、どうしてお前たちは、私から離れたのか。どうしてこの世の利益をむさぼり、この世の神々に香をたき、『バアルさま、ばんざい』と叫ぶのか。無力なあなたに乳を与え、よちよち歩きのあなたに歩くことを教え、辛いときには祈り、慰め、癒したことをもう忘れたのか」と、苦しみの中から絞り出すような声で、神が深く嘆いておられる。まさに使徒たちに主イエスが嘆いておられるようです。イスラエルの民は、深く、深く父なる神から愛されました。それなのにイスラエルの民は目先の富を求め、この世の利益を与える神々を礼拝するようになった。父なる神の愛を忘れ、隣人を愛することも忘れ、ただただ自分の利益になる人におもねり、「あなたこそ、私の守護者さま」とほめたたえる。本来であれば、神の怒りの炎に私たちは燃やされてしかるべきです。けれども、燃やされていない。今もこうして生かされている。主イエスが私たちの罪を背負ってくださったからです。自分よりも弱い立場に人の前に立つとふんぞりかえり、自分よりも強い立場の人の前に立つとペコペコして、「あなたこそ、私の守護者さま」と叫んでしまう私たちを本気で憐れみ、給仕してくださる。だからこそ主イエスは使徒たち、私たちにいつまでもそのままでいてほしくない!あなたも神と人に仕える者として歩める!と期待を込めて命じるのです。28節以下。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
29節で「ゆだねる」と訳された原語には、「遺言として処理する」という意味があります。つまり、十字架の死を目前にした主イエスが使徒たちに遺言として命じられたのが、「父がわたしに与えられた支配権を、わたしもあなたがたに託す」なのです。続く30節に「イスラエルの十二部族を治めることになる」とあります。イスラエル民族は、ヤコブの十二人の子を祖先とする十二の部族から成っておりました。新約聖書では、十二使徒を指導者とする教会が、新しい意味のイスラエルとなる。つまり、主イエスはここで、自らが十字架で処刑され、三日目に復活し、昇天した後の聖霊降臨によって誕生したキリスト教会を治めなさい!と遺言するのです。つまり、現代を生かされている私たちキリスト者にも主イエスは命じておられる。「わたしはあなたがたに教会形成を託す。神と人に仕えなさい。」そうです。私たちは食事の席にゴロンと横になり給仕される偉い人ではなく、給仕する者となることを期待されています。確かに年を重ねると、かつてのように奉仕することが困難になる。肉体労働も難しい。主イエスはそれではダメだ!とはおっしゃっておりません。むしろ、肉体労働が難しいからこそ、若い人のために祈り、教会の子どもたちに笑顔をプレゼントする。それが、キリストのように給仕することだと思うのです。主イエスは語る。28節。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。」慰めに満ちたお言葉です。教会生活が長い方の一言は、本当に重みがあります。「私も今まで色々なことがありました。本当に、『もうダメだ!』ということばかり。教会から離れたこともありました。でも、私は離れたと思っていても、神は私から離れなかった。キリストは、そんな私に毎日給仕してくださった。だから、今も私は生かされているのです。感謝ですね。あなたは今、試練の中にありますね。でも、キリストがあなたと一緒に踏みとどまってくださる。私もあなたが試練から解放されるよう、毎日、キリストと共に祈り続けます。」私たちはたとえ肉体労働が出来なくても、祈りによって隣人に給仕することができるのです。
<隣人を助ける>
ドイツの改革者ルターの代表作に『キリスト者の自由について』があります。1520年に、信仰の基本を著したのが、『キリスト者の自由について』です。第1から第30までありますが、第27を紹介いたします。ルターは語ります。「私たちの隣人が(今)困窮し、私たちが余分にもっているものを必要としているように、私たちも(かつては)神の前で困窮して、神の恵みを必要としていた。それゆえ、神がキリストをとおして無代価で私たちを助けてくださったように、私たちも身体とその行いとによって隣人を助けることのみを努めるべきである。このようにして私たちはキリスト教的生活がいかに高貴な生活であるかが分る。」驚くのは、「隣人を助けることのみを努めるべき」と語ることです。私たちは「自分には今、余分はない」と考えます。仮に余分があっても、「今、これを用いたら、いざというとき私が困る」と考える。しかしルターは、「隣人を助けることのみを努めるべき」、それが「高貴な生活」と語るのです。最後に、「だが残念なことには、このような生活は全世界で下火となっているばかりでなく、もはや知られていもせず、また、説教されてもいないのである。」と語るのです。まるで、主イエスの嘆きをルターが繰り返したようです。では、2018年3月11日に生かされた私たちは、今、助けを必要としている隣人を助けることのみに努めているでしょうか?
<3月11日>
今日は3月11日。あの日から7年の記念日です。ここにおられるほとんどの皆さんは東京で生活され、金曜日の午後2時46分を迎えられたはずです。私は釧路で午後2時46分を迎えました。あれから7年。私たちは主イエスが使徒たちに遺言として伝えた言葉、またルターも嘆いたように、今、困窮し、私たちが余分にもっているものを必要としている方々に、寄り添い、共に嘆き、共に涙を流しているでしょうか?被災された方々に加え、私たちの周りにも、厳しい試練に襲われ、困窮し、私たちの祈り、具体的な支えを必要としている方々が大勢おられるはずです。
<キリストに仕え、隣人に仕える>
最後に、東神大パンフレット24竹森満佐一先生の著書『教会と長老』から牧師、長老、そして教会員に求められる大切なことを確認したいと思います。竹森先生は牧師も長老も「威張るということはあってはならない。キリストに対して謙遜であると同時に一般の信者に対して謙遜であること」が大切であり、「これでなければ決してすぐれた長老ということはいわれない」と指摘します。その上で、竹森先生は印象深いエピソードを語るのです。明治の時代に、高知教会に片岡健吉という有名な長老がおりました。衆議院の議長であった人で、名前はよく知っていることでしょう。片岡さんが日曜日ごとにいつでも玄関番をしていたということです。下足番であります、そして訪れて来る高知の青年達にぞうりを揃えてあげたというのであります。それが高知の町では大変な評判になりまして、片岡先生があそこではぞうりを揃えるといって大勢の信者が集まりました。(中略)この世的には大変に偉い人です、しかし教会では一番貧しい仕事を喜んでする、しかも知恵も力もないのではないのです。けれどもどのようにしたらこの教会が盛んになるかということを考えて、しかもただ盛んになるということは、人間的な意味での盛んになるというのではなくて、どうしたらキリストの
み旨にそうか、どのようにしたらここで聖霊がほんとうに働くようになるか、ということだと思うのです。したがって謙遜ということが絶対に大事なことと思うのです。だから謙遜であることと、治めるということが矛盾するように考えるとしたら間違いであります。
竹森先生が長老の基本的な姿勢として教えられたことは、まさに主イエスが使徒たちに語られた、仕えつつ、治めることに通じる。またルターが心に刻むように求めた、今、助けを必要としている人に「かわいそうですね」と上から目線で接するのではなく、並んで座り、神を仰ぎ、互いの慰めを祈り合うことだと思うのです。その意味で私たちは今朝の御言葉を教会形成の要にしたいと思います。今、時代は驚くほど変化しています。もちろん、私たちキリスト者はこの世に迎合してはなりません。けれども、「今、神から教会に求められていることは何なのか?」と主の御心を問い続けたい。たとえば、ご高齢の方々がどうすれば、礼拝に通い続けることができるのか?将来の不安を抱えている青年や子育て世代の方々、そして将来の教会を担う子どもたちに福音の喜びをどうすれば伝えることが出来るのか謙遜に問い続けたい。間違っても、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」でなく、「どうすれば、神に仕え、人に仕える者となれるのか」、真剣に問い続けていきたい。心から願います。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは御霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに御霊を注ぎ続けて下さい。
・東日本大震災が発生し、今日で七年となりました。現在も深い喪失感の中で嘆いておられる方々、七年が経過しても、2011年3月11日午後2時46分から時が止まったままの方々に深い慰めと励ましを注ぎ続けてください。
・様々な病と闘っている方々を励まし、慰め続けてください。
・求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、励まし続けてください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2018年3月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第31章31節~34節、新約 ルカによる福音書 第22章14節~23節
説教題「新しい契約の血」
讃美歌:546、86、167、21-81、Ⅱ-179
<説教と聖餐>
今日は第一主日、説教後に聖餐に与ります。また、礼拝後に臨時教会総会を開き、教会形成にとって重要な長老選挙を行います。先週の月曜、2月26日は東村山教会の創立記念日でした。1956年2月26日に最初の礼拝を神に献げ、以来、聖餐に与り続けたのです。55年記念誌の「目で見る教会史」に聖餐に与っている兄弟姉妹の写真が掲載されておりますが、今朝も聖餐に与る。
二代目牧師として25年間、牧会を担われた芳賀力先生の著書に『洗礼から聖餐へ』があり、その巻末に「本書を要約した命題集」が掲載されております。命題10。「聖餐は、見える仕方で主の犠牲を表すが、それは説教のもとで初めて有効に用いられる。求道者への気兼ねから真理の伝達を避けることは、洗礼を必要としている求道者に、一番必要なものを隠してしまうことになる。」恵みの聖餐も説教を省略してしまったら、その聖餐は無効となる。実際、私たちの会堂は説教壇と聖餐卓を取り囲んで椅子が配置されています。やはり、説教と聖餐は私たちにとって非常に重要なのです。創立以来、62年与り続けた聖餐。その原点が、今朝の御言葉です。早速、14節から読んでまいりましょう。
<過越の食事>
時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。(14~18)」
ルカは、17節から18節と、続く20節で二つの杯について記しています。最初に、主イエスが取り上げ、感謝の祈りを唱えてから「これを取り、互いに回して飲みなさい」と言われた杯は、過越の食事における杯です。
イスラエル人の過越の食事は、通常3、4回 杯が回されたようです。その後、小羊を食べる。15節に「わたしは切に願っていた」とある。原文は、「望みに」という言葉に、「私は望んだ」という言葉が続く。直訳すると、「過越の食事を私は望みに望んだ」となる。主イエスは、受難と十字架の死を目前にし、使徒たちとの過越の食事を心の底から望んでおられたのです。
<聖餐制定>
続いて主イエスは、今朝も私たちが与る聖餐を制定されました。19節以下。それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」
主イエスから使徒たちに、パンと杯が与えられる。私たちも聖餐の杯から、主イエスが流された十字架の血に与る。その結果、主イエスと一体とされるのです。それは、私たちが主イエスと一体とされるほど偉くなったのではありません。主イエスが、私たちへの愛と憐れみにより、罪人である私たちのもとに来てくださった。私たちが主イエスと一体とされるのではなく、主イエスが私たちと一体となってくださるほど、御自分を低くしてくださったのです。
<聖餐の意味(『ウェストミンスター大教理問答』から)>
先週は、全国連合長老会 宣教協議会に出席いたしました。「長老教会の伝統とウェストミンスター信仰告白」を主題に、『ウェストミンスター信仰告白』を学んだのです。『ウェストミンスター信仰告白』は、イングランドでの教会改革のため、1643年に召集されたウェストミンスター会議で起草された長老派の信仰告白です。講演に耳を傾けていると、『ウェストミンスター大教理問答』で聖餐に言及している問答が耳に入りました。問169。キリストは、主の晩餐の聖礼典において、パンとぶどう酒がどのように与えられ、受けられるように指示しておられますか。答
キリストは、彼の御言葉に仕える牧師たちが、主の晩餐の聖礼典を執行するに当たり、[第一に]そのパンとぶどう酒を、制定の言葉と感謝と祈りによって日常の用途から区別し、[第二に]それからパンを取って割き、[第三に]パンとぶどう酒の両方を陪餐者に与えるように、指示しておられます。また同じ指示により、陪餐者は、自分たちのためにキリストの体が裂かれて与えられ、キリストの血が流されたことを感謝のうちに覚えつつ、パンを取って食べ、ぶどう酒を飲まなければなりません。(松谷好明訳)
私たちが心に刻むべきは、主イエスが「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き」の「裂き」がキリストの体が裂かれたことに繋がることです。主イエスが御自分の体を裂き、私たちに与えてくださる行為は、やはり驚くべき出来事です。実際、私たちが与る聖餐のパンはすでに小さく切られております。しかし、「聖餐とは、主イエスが御自分の体を裂いた肉と、手足を貫いた釘から流れる血に与ることである」とウェストミンスター大教理問答は伝えるのです。
<新しい契約(エレミヤ書から)>
今朝は、ルカ福音書に加え、旧約聖書エレミヤ書第31章を朗読して頂きました。31節。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」ある旧約聖書学者は、31節から34節について「エレミヤ書中もっとも重要な単元の一つであり、旧新約聖書を結ぶ架け橋となった。(関根清三)」と解説しております。実際、今朝のルカ福音書第22章20節後半で主イエスは、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」と語っておられます。神はモーセと契約を結んだとき、イスラエルの民が生活して行くための規律を授けました。それに対して、「神が新しい契約を結ぶ日が来る」とエレミヤは預言、主イエスも預言したのです。旧約聖書学者
浅野順一先生は、『真実―予言者エレミヤ』に記しました。「エレミヤの新しい契約は、イエス・キリストによらずしては、完結したものとはなり得ない。しかし、旧約における神と人との契約の関係につき、新約のイエス・キリストを的確に指さしたというその点において、エレミヤは、まことに偉大な予言者である。彼の全生涯、全思想はまさに神の独子を予告している。」いずれにしても、エレミヤ書における「新しい契約」は、主イエスによる「新しい契約の血」と結びつくことは心に刻んでおきたいと思います。
<主イエスとユダ>
ルカ福音書に戻ります。21節。「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
新しい契約の食卓に主イエスを「裏切る者」がいる。だからこそ主イエスは、主の食卓を続けるのです。なぜか?主の食卓に与り続けることは罪人である私たちにとって非常に大切だからです。注目したい言葉がある。22節の最後に、「不幸だ」と訳された言葉。原語はουαι(ウアイ)です。教文館から発行されている新約聖書ギリシア語小辞典には、このように書かれておりました。「間投詞。悲嘆、悲痛を表わす『ウェッ!』。何と悲しいことか、悲しいことよ(『あなたたちのことを考えると、私の胸は張り裂ける!』の意味、『禍(わざわい)あれ』ではない)。」実際、いくつかの聖書翻訳を確認しました。私の中でしっくりした翻訳は、塚本虎二訳。「しかし(人の子を)売るその人は、ああかわいそうだ!」。次に、柳生直行訳。「だが、『人の子』を裏切るその人は、ほんとうに悲惨だ。」です。塚本訳、柳生訳からは主イエスの「ウアイ」を感じる。では、なぜ、主イエスはユダに同情し、呻くほどに悲しまれたのでしょうか?ユダが悲惨なのは、ユダを通して人の子イエスの引き渡しが父なる神の定めた救いの御業として実行されるからです。先週も触れましたが、ユダは十二人の弟子たちの中で会計係を任せられるほど主イエスから信頼されておりました。だからこそ、父なる神と御子イエスはユダに引き渡しの実行を任せたと考えることが出来ます。つまり、ユダが主イエスを裏切らなければ主イエスは十字架で処刑されなかったかもしれないのです。その意味でユダは主イエスから深く同情され、「ウアイ」と呻かれる者となったのです。
<議論好きな使徒たち>
続く23節。そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。使徒たちのそのままの姿が記されております。主イエスがユダに対し、「ウアイ」と憐れみの眼差しを注いでいるにもかかわらず、使徒たちは、自らの不信仰を悔い改めることなく、大好きな議論に熱中している。23節は最後の晩餐の御言葉の中ではそれほど目立たない御言葉かもしれません。しかし、使徒たちの姿をじっと見つめると、私たちの罪、弱さが浮かんでくる。議論になると熱くなり、自分の罪、弱さを疑うことなく、隣人を疑ってしまう。そのとき、主イエスは「ウアイ」と呻き、悲しむ。だからこそ主イエスは、悔い改めることなく、議論に熱中する私たちのために苦難の僕となることを神の御心と信じ、使徒たちとの食事を切望し、聖餐の食卓を制定されたのです。
主イエスから聖餐のパンと杯を与えられているのは、主イエスを引き渡し、結果として死刑の手助けをするユダ、主イエスを三度も否認するペトロを含む使徒たちです。主イエスからドキッ!とする発言を伺っても、悔い改めることなく、議論している。そのような使徒たちだからこそ、主イエスは聖餐を制定されました。そして、聖餐の恵みに与る私たちを主イエスの血による神の家族とされたのです。私たちキリスト者は、聖餐の食卓を囲む神の家族です。家族の中には弱さを抱えている者がおります。その代表がユダであり、ペトロです。使徒と呼ばれても、実際は弱さを抱えている罪人です。決して立派な人間ではありません。主イエスは罪深い使徒たち、私たちのために苦しんでくださった、体を裂いてくださった、血を流してくださった。そのことによって、私たちを新しい主の民イスラエルとする新しい契約を結んでくださったのです。
<神の国の到来を信じて>
この後、主の食卓に与ります。聖餐式では制定語を朗読いたします。「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。その後、主イエスの体と血に与る。やはり、驚くべき恵みの食卓です。そのような恵みに与る私たちは今のままで良いはずがありません。神から求められること、期待されることがある。それは、教会形成です。私たちは信仰を告白し、受洗すると、十字架と復活、そして再臨の主イエスと結ばれる。だからこそ、私たちは主イエスの十字架を背負い、主に従い続けるのです。礼拝後に行われる臨時教会総会(長老選挙)は重要です。父なる神が、この人に長老として十字架を背負って欲しい!と望んでおられる方々を選ぶ。私たちの思いでなく、父なる神の御心を問いつつ投票したい。ぜひ、教会員の皆さんにお残り頂き、驚くべき聖餐の恵みへの応答として4人の長老を選んで頂きたいと願います。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは御霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに御霊を注ぎ続けて下さい。
・臨時教会総会、長老選挙の上に聖霊を注ぎ、御心をお示しください。
・様々な自然災害で苦しんでいる方々を深く憐れみ、励まし続けてください。
・内戦が激化するシリアを深く憐れんでください。2月18日以降、爆撃により死亡した住民は、子ども147名を含む602名(3月1日)と報じられております。どうして生まれたばかりの乳飲み子が酸素マスクをつけ、震えなければならないのでしょうか。どうか、シリアのみならず今も紛争が続いている地域を深く憐れみ、平和へと導いてください。
・療養を続けている兄弟姉妹、また献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2018年2月25日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第22章1節~14節、新約 ルカによる福音書 第22章1節~13節
説教題「主が備えてくださる」
讃美歌:546、85、257、296、539
<第22章(受難週)に入る>
今朝からルカによる福音書も第22章に入ります。ここから受難週が始まり、主イエスに十字架の死が迫っております。なぜ主イエスは十字架で死ななければならなかったのでしょう?私たちが主イエスを引き渡してしまう罪人だからです。実際、今朝の御言葉の前半は私たちの中にあるドロドロした罪がルカにより暴露されております。悔い改めつつ、御言葉に耳を傾けたい。1節。さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。
<過越祭、除酵祭とは>
過越祭と言われていた除酵祭は、イスラエルの民が誕生し、救われたことを記念する祭りです。過越祭は狩猟民族、除酵祭は農耕民族と、起源については諸説あるようですが、旧約聖書の出エジプト記には、除酵祭、過越祭ともエジプト脱出の前夜に祝われたことが記されており、主イエスの時代はそれぞれが一緒に祝われたようです。その一週間は、各地のユダヤ人がエルサレムに集結するのです。
<民衆を恐れる人々>
そのとき、民衆を恐れていた人々がおりました。祭司長と律法学者たちです。2節。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。早速、私たちの罪が暴露された。神を畏れず、民衆を恐れる罪。「私はそんなことない」と言いたいですが、一日の行動や言動を振り返るとき、主の眼差しを意識していれば、出来ないこと、言えないことを平気で行い、平気で語っている私がおります。今朝の御言葉も、民衆を恐れ、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えているのは、祭司長と律法学者たちです。子どもでもわかる「人を殺してはならない」を教える立場の人々。その人々が民衆を恐れ、主イエスを殺そうとしている。私たちは実際に殺人を犯すことはないかもしれません。しかし、言葉で相手の存在を消してしまうことはある。「あの人さえいなければ!」この瞬間、恐ろしいことですが、私たちも隣人を殺しているのです。つまり、祭司長と律法学者の罪は私たちの罪なのです。
<サタンが入った>
続く3節。しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
イスカリオテと呼ばれるユダが登場します。今まで主イエスが十二人を選び、使徒と名付けられたときに登場しただけです。第6章16節。後(のち)に裏切り者となったイスカリオテのユダである。最初から「裏切り者となった」と紹介されております。そのユダにサタンが入った。結果、ユダは祭司長たちを喜ばせることになったのです。私たちにもサタンが入ると、自分の感情を制御できなくなります。ユダも同じ。サタンに入る隙を与えてしまった。その結果、自分の感情を制御することができなくなり、サタンのとりこになったのです。
ユダを極悪非道な男と思う人はいないはずです。ルカも「十二人の中の一人」と記す。「十二人」とは、主イエスが選ばれた最初の使徒たち。その一人がユダ。確かに十二人にはそれぞれ弱さがあったことは間違いありません。なぜならば、私たちキリスト者も人には言えない様々な弱さを抱えているからです。しかし、だからこそ私たちは主イエスに選んで頂いた。まして、ユダは最初の十二人に選ばれた使徒です。極悪非道な男であるはずがない。しかし、主イエスと生活を共にしているうち、主イエスに対する期待と、実際の主イエスとのギャップに苦しんだのかもしれません。「私はイエス様に会計を押し付けられた。目立つことなく、地味な仕事。でも、会計は大変。イエス様と私たち十二人、さらにイエス様の世話をする婦人たちを含めると大所帯。その集団が食事をし、生活を共にする。その金庫番が私。明日は大丈夫。でも来週は厳しいぞ。そろそろ献金を集めないと苦しくなる。」そんなことを考えているユダにサタンが囁いた。「イエスは、本当にお前が求めている救い主か?十字架で殺されるようだな。どうせ殺されるなら、イエスから手を引いたほうがいい。ボヤボヤしていると金庫番のお前も殺されるぞ!簡単だ。ただ合図をすればいい。いつものように接吻する。これは裏切りではない。愛の行為だ。だって接吻だからな。」
ユダには隙があった。実際、金庫番には不満があった。だからこそ、ヨハネ福音書に書かれているようにユダは「金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた(ヨハネ福音書12:6)」のだと思います。ユダは不正を重ね、懐にへそくりを貯めていた。これはユダの罪であると同時に、私たちの罪でもあります。非常に高価なナルドの香油を大量に用いるマリアを叱責するユダ。そのようなユダにサタンがスッと入ったのです。
私たちも神を畏れず、自らの正義で隣人を裁くとき、そのときは危険です。スッとサタンが入る。内容に詳しく触れることは出来ませんが、先週の礼拝後、皆さんと鑑賞した『灯籠流し』を通して強く感じたのは、正義の戦争はないということです。内容に一言だけ触れると、広島に投下された原爆により日本人に加え、米兵捕虜十二人も被爆死した。その十二人の遺族を探し出し、真実を伝えた森重昭さんの活動を紹介するドキュメンタリー映画です。森さんは涙を浮かべ訴えておられた。「戦争に勝ちも負けもない。だから絶対に戦争をしてはならない。」しかし、今も戦争は終わらない。私たちの罪の深さに愕然とします。そのような私たち、祭司長、律法学者、神殿守衛長、ユダの罪を贖うために、主イエスは行動を起こしてくださった。それが過越の食事です。
<主が備えてくださる>
7節。過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。「小羊を屠る」とあります。「屠る」とは、単に小羊を殺すことではなく「焼き尽くす献げ物」として屠ることを意味します。また、「屠るべき」とある。この「べき」にも、深い意味があります。「べき」には、「私たちの罪を神が過ぎ越してくださるために、真の小羊として主イエスが屠られるべき時が来た」と悔い改めつつ心に刻むのです。まさに、神が定めた「時」です。主イエスが屠られなければ、サタンの誘いに負け、繰り返し罪を犯す私たちの罪は赦されない。だからこそ、過越の食事、聖餐の食卓はユダを含む十二人の弟子、今を生かされている私たちキリスト者、そしてこれから罪を悔い改め、信仰を告白し、洗礼を授けられる全ての求道者にとって与るべき極めて重要な食卓となるのです。その意味からも、第22章冒頭に私たちの罪を記したルカは、「だからこそ、私たちには主の晩餐、聖餐の食卓が必要」と示しているのだと思います。では、そのような過越の食事は、どのように備えられたのでしょうか?
主イエスが全てを備えてくださいました。しかも、愛する弟子たちを用いておられる。これが主イエスの備えです。主イエスの備えを忘れてはなりません。確かに、主イエスが全てを備えてくださる。それと共に、ペトロとヨハネとを使いに出しておられるのです。
8節から読みたいのですが、まず主イエスはペトロとヨハネに言われます。「行って過越の食事ができるように準備しなさい」。ある意味、ぶっきらぼうな指示です。どこに行けば良いのかわかりません。もしも私が弟子の一人として命じられたら、「えっ?」と思い、戸惑うはずです。しかし、ここで大切なのは、すぐに応答することです。素直に主イエスに尋ねることです。ペトロとヨハネも尋ねました。今までの経験や知識で勝手に判断するのではなく、声をかけてくださった主イエスを信頼して素直に尋ねればよいのです。二人は尋ねました。「どこに用意いたしましょうか」。主イエスは丁寧に、「時」、「場所」、「出会い」、さらに「語る言葉」をも示してくださる。10節。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」
10節に「水がめを運んでいる男」とあります。サラッと書いてありますが、珍しい表現です。普通、水がめを運ぶのは女性であり、男性は革袋を利用する。つまり、水がめを運ぶ男を探すのはそれほど難しくないのです。早速、ペトロとヨハネは主イエスの言葉を信じ、行動しました。それでも、ペトロとヨハネには疑いの心があったかもしれません。エルサレムの都にはたくさんの人々がいる。確かに、水がめを運んでいる男は珍しい。それでも、本当にそのような男がいるだろうか?私たちも時に、主イエスのご命令に躊躇したくなることがあります。だからこそ繰り返し祈る。同時に、繰り返し祈っても、確信を持てないこともある。
私事になりますが、釧路を去る直前、ちょうど今の時期、幼稚園の卒園式の準備も始まる。いよいよあと一ヶ月で釧路を去る。一年半も東村山の皆さんに待って頂いた。後任の牧師も決まっている。それなのに、不安だらけ。本当に東村山教会で主任牧師として歩んでいけるのか。けれども今、こうして講壇に立たせて頂いている。まさにペトロとヨハネに主イエスが言われたように、日々、「今日は何をしたらよいでしょうか?」と祈り続けると、主イエスは様々な「時」、「場所」、「出会い」、そして「語る言葉(御言葉)」を用意してくださるのです。これは本当に驚きであり喜びです。先週は、病と闘っておられる方々を病院に訪問させて頂きました。そのとき、不思議と「時」、「場所」、「出会い」、そして「語る言葉(御言葉)」が備えられたのです。私は、主イエスの使いとして指定された場所に行っただけ。あとは、主が備えてくださった。ペトロとヨハネも何度もこのような経験を重ねたはずです。だからこそ、「水がめを運んでいる男」に不安を抱きつつ、それでも、「今回も必ず主が備えてくださる」と信じ、行動した。その結果、水がめを運んでいる男と出会った。そして、主イエスが用意してくださった言葉を語った。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』すると、主イエスの語られた通り、席の整った二階の広間を見せてくれたのです。本当に主イエスの語られた通り。ペトロとヨハネは、主イエスに感謝し、主イエスへの信頼を深めつつ、黙々と過越の食事を準備したのです。
<主の山に、備えあり>
旧約聖書にも、黙々と神の言葉に従い続けた男がおります。アブラハムです。今朝は、ルカ福音書と共に創世記第22章を朗読して頂きました。2節。神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」アブラハムはどうしたでしょう。3節にあるように、何と、次の朝早く、ろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪(たきぎ)を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって出発したのです。やはり驚くべき行為です。どんなに親を苦しませ、悩ませる子であっても、「その子を屠りなさい」と言われ、「はい。わかりました。」と素直に行動する親がいるでしょうか?しかも、神はこう命じておられる。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて」。神はアブラハムがイサクを愛し、イサクが独りの子であることを認識しておられる。それにもかかわらず、「愛する独り子を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じておられる。
アブラハムは愛する独り子イサクの質問を受けました。7節。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪(たきぎ)はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」イサクの声はアブラハムに突き刺さった。しかし、アブラハムは答えます。8節。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムは祭壇を築き、薪(たきぎ)を並べ、息子を縛って祭壇の薪の上に載せた。そして、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。アブラハムが、「はい」と答えると、御使いは言った。12節。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回しました。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげたのです。
何度読んでも、神を畏れることの大切さと厳しさを感じる御言葉です。その上で、今朝のルカ福音書から感じるのは、アブラハムはイサクを屠らずにすみましたが、「その子に手を下すな。何もしてはならない」と命じられた神が、愛する独り子イエスを十字架で屠られた事実の重さです。それほど、私たちの罪は重い。同時に、そこまでして私たちの罪を赦してくださる神の愛を感じるのです。それなのに、罪を赦された私たちが神を畏れず、民衆を恐れ、サタンの誘惑に負け、主イエスを引き渡してしまう。
私たちは今、神から、悔い改めの祈りを真剣に求められております。同時に、私たちの罪は主イエスが屠られたことによって、本当に赦された。その恵みを心に刻むとき、私たちは悔い改めの祈りに続けて、感謝の祈りへと導かれるのです。私たちキリスト者は、主の命令に耳を傾け、行動することを求められております。たとえ、厳しい命令であっても、それが主イエスの命令なら、主が全てを備えてくださると信じ、行動する。その結果、試練に襲われても、主による愛の鍛錬として忍耐し続けるのです。しかし、忍耐の先には、主の備えてくださる過越の食事が待っている。イスカリオテのユダも主の食卓に与った。確かに、ユダの最期は厳しいものでした。しかし、ユダのためにも、主イエスは十字架の上で屠られた。私たちも、ユダと同じ弱さを抱えています。だからこそ、主イエスはペトロ、ヨハネのように私たちを深く憐れみ、主イエスの手として、足として存分に用いてくださるのです。これからも主イエスの備えを信じ、悔い改めつつ、主の僕として誠実に歩み続けたい。心から願います。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・主よ、オリンピック後の世界情勢を平和へと導いてください。戦争は絶対にしてはいけない!と戦争の悲惨を経験された方々が繰り返し、繰り返し語っておられるのに、今も武器を求め、核兵器の数を誇り、相手を威嚇し続けております。主よ、どうか殺しあいではなく、許しあい、罵りあいではなく、神を畏れ、賛美する心をお与えください。特に、戦争により、今も心身が深く傷つき、苦しんでおられる方々を深く憐れんでください。
・主よ、来週の主日は祈り続けてまいりました臨時教会総会、長老選挙が行われます。どうか、一人でも多くの教会員と共に長老選挙を行うことができますようお導きください。
・今、体調を崩し、病と闘っておられる兄弟姉妹が多くおられます。どうか、あなた様が共におられ、癒し、導き、励まし続けてください。
・4月からの新しい生活を控え、不安を感じている方々に「あなた様はどこにいても必ず備えてくださる」との信仰を与え続けてください。
・熱心に求道生活を続けているお一人、お一人に聖霊を注ぎ、いつの日か信仰告白の言葉と受洗の喜びと聖餐の恵みを備えてください。お願いいたします。
・今朝も、病や様々な理由のため、礼拝に集うことの出来なかった兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ
我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2018年2月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第55章6節~11節、新約 ルカによる福音書 第21章29節~38節
説教題「主に立ち帰るならば」
讃美歌:546、23、226、239、545B
<十字架の死を目前にして>
主イエスは、十字架の死を目前にして、惜別説教を語り続けました。37節。「イエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。(37〜38)」
主イエスは、早朝から民衆に、神殿の崩壊、終末の徴、エルサレムの滅亡、そして「終末の時、私は雲に乗って再臨する」と預言されたのです。民衆は、主イエスの言葉に戸惑いつつ、確信に満ちた預言に、熱い心を感じたはずです。すると、主イエスは一つの譬えを話されました。
<最後の譬え>
29節以下。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
パレスチナでは、突然、季節が変化するようです。夏はほとんど雨が降らず、気温は日中35度を超える。その気候が11月頃まで続く。そして、12月になると突然、寒くなる。そのようなパレスチナで、いちじくの木は春になると葉が出始め、初夏と夏の二回実がなるようです。主イエスは、いちじくの木や、ほかのすべての木から葉が出始めると、既に夏の近づいたことが分かるように、神の国が近づいていると悟りなさいと語るのです。
<終末の到来>
ところで、主イエスが「神の国が近づいている(31)」と、「天地は滅びる(33)」を続けて語っておられることに深い意味があります。主イエスが意識しているのは、終末の滅びです。神が造られたものであっても、永遠ではない。いつの日か終わりの日が来る。「滅びる」とは、「過ぎゆく」ことです。天地が滅びる、天地が過ぎゆく日が来る。しかし、主イエスは「まことに(アメィン)私は言う(レゴゥ)あなたがたに(ユミン)」と強調して語ります。32節後半。「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。」
「時代」と訳された原語は、γενεα(ゲネア)というギリシア語です。辞典には「①生まれ、一族、②世代、同時代の人々、③一世代が生きる期間、時代」とあります。英語ではジェネレーション(同時代の人々)です。つまり、「この時代は決して滅びない」は、「ここに生きている人々は滅びない、世の終わりがくるまでは」と読むことも可能です。そうすると、「ここに生きている人々」はどんな人々か気になります。注解書には様々な解釈が書かれておりました。一つは「ユダヤの民は、神に背き、私を十字架につけようとするが、滅びない」と主イエスが言われたとする解釈。また「今の時代に生きている全ての人々は滅びない」と主イエスが約束されたとする解釈等がありますが、大切なことは、この時代を生きている人々が滅びるかどうかの決定権は私たちにはないということです。滅びの日は神がお決めになられる。だから、私たちが慌てふためく必要はないと主イエスは語っておられるのです。つまり、私たちを滅ぼすのは、神様だけなのです。
主イエスは続けます。33節。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」この預言は、決定的な救いの言葉です。主イエスが、「わたしの言葉は決して滅びない」と預言されたことで、主イエスの言葉を信じる者も滅びない。つまり、信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者も「決して滅びない」のです。
<イザヤ書 第55章から>
今朝は、ルカ福音書に加えて、イザヤ書を朗読して頂きました。7節。「神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。」「神に立ち帰る」とは、「神の言葉に聞き従う」ことです。預言は続きます。8節。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出る
わたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。(8~11)」
神の赦しの「言葉」が「空しく」反古(ほご)になることはないという意味に加え、ある聖書学者(関根清三)の解釈によると、神が望むこと(罪の贖い)は必ず成し遂げられるという意味が隠されているようです。実際、神の言葉には命がある。命があるからこそ、むなしく消え去ることなく、必ず救いの出来事をもたらす。まさに、神の言葉の成就として主イエスが生まれた。そして、この後、私たちの罪の贖いを成し遂げるべく十字架で死んでくださる。つまり、主イエスこそ、神が望むことを成し遂げてくださる永遠の言葉であり、永遠の命なのです。
<私たちの弱さ>
主イエスは、「わたしの言葉は決して滅びない」で、説教を終えてもよかったかもしれません。しかし、最後の最後まで私たちに警告を与えられる。34節。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。」放縦は、勝手気ままな思いに走ろうとする生活です。新共同訳は「放縦」と訳しますが、原語は「心(複数)」が「酔う」という意味です。「酔う」はクライパレーで、頭(クラス)が揺れる(パロー)ほど酒を飲む。つまり二日酔いの状態です。その言葉に「深酒」と訳されたメセィが続く。ちなみにメセィの意味は泥酔。
アルコールに依存するのは、男性も女性も同じ。「キッチンドランカー」という言葉もあります。男性も女性もストレスに襲われ、そこから逃避するべく、アルコールによって心を鈍くする。私たちの世には生活の煩いがあるのです。「生活の煩い」と訳された原語はメリムナですが、意味は、あれやこれやの色々な部分(メリス)に自分の心が分けられる(メリゾマイ)こと、つまり「思い悩むこと」。その結果、「心が鈍くなる」のです。
心が鈍くなるとは、心が重くなること。心が重くなると、繊細な感覚が麻痺する。主イエスは、「繊細な感覚を失わず、心を鋭く保ちなさい」と警告するのです。鋭くとは、硬くて鋭いことではありません。軟らかく、繊細な心を持ち続けるよう意識するのです。
<最後の預言>
では、なぜ主イエスは、泥酔や生活の煩いで、心を鈍くするな!と警告するのでしょうか?繰り返し語っておられるよう、神の国が近づいているからです。泥酔して、マグロのように眠るな!と語るのです。34節後半。「さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。(34~36)」
泥酔や生活の煩いで、心が鈍くなると、終末の時、私たちはフラフラして主イエスの前に立てません。では、何をしたら、主イエスの前に立てるのか? 主イエスは語ります。「いつも目を覚まして祈りなさい。」そうです。滅びることのない主イエスの言葉「いつも目を覚まして祈りなさい」を信じ、祈り続ける。それ以外に、私たちキリスト者のなすべき業はないのです。
私たちは、最後の法廷があることを忘れてはなりません。法廷には人の子、主イエスが立っておられます。私たちの罪のために十字架に架かり、三日目に復活された主イエス。主イエスが終末の時に立たれる。だからこそ私たちは、信仰の目を覚まして祈り続けることが大切なのです。
<祈りに求められる感情『ジュネーヴ教会信仰問答』より>
スイスの改革者カルヴァンは、祈りに求められる感情について、『ジュネーヴ教会信仰問答』にこう記します。問243 祈りには、どのような感情があるべきでしょうか。答 第一に、われわれの悲惨と貧しさとを意識することであって、この意識は
われわれの中に残念な思いと苦悶(くもん)をひき起こします。次に、神の み前に恵みをえようとする熱烈な願いをもつことで、この願いが われわれの心を燃やし、祈る熱情を
われわれの中に生み出すのであります。
カルヴァンは、「祈る熱情」についてこう釈義する。「恵みを獲得しようとする激しい・ひたむきな願いに燃えること。これは必ず聞かれるとの確信、また神が父としての愛をもって受け入れたもうとの信頼から来る。」主イエスによる「いつも目を覚まして祈りなさい」をカルヴァンも語るのです。
<『祈る―パウロとカルヴァンとともに』から>
ここで、一冊の神学書を紹介させて頂きます。タイトルは『祈る―パウロとカルヴァンとともに』。著者は加藤常昭先生と親しいルドルフ・ボーレン先生。ボーレン先生が使徒パウロによる「テモテへの手紙二」を導きとし、この書簡を重んじたカルヴァンの言葉に照らしつつ、祈りの修練を教える指南書です。
扉を開くと、パウロとカルヴァンの言葉に挟む形で、ボーレン先生の祈りが記されております。その中から「夜は永遠には続かない」を紹介いたします。テモテへの手紙二第4章18節。「主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」パウロの祈りを受け、ボーレン先生も祈る。「あなたは私を生涯にわたって助け起こされた。常にあなたは私にあなたの奇跡を贈られ/疲れた霊を強めてくださった。あなたは私を倒れたまま放ってはおかなかった。今もあなたは私を助け起こしてくださる、私が老いを感じ/もはや欲することを/為しえぬこの時にも。私が死ぬとき、私はあなたに顔を向けて死ぬ、そして私に備えられた地の床に入っても、あなたは私をそこに倒れたままで放ってはおかない。あなたご自身がその中途で助け起こされたのだから、死はもはや、『死ほど確かなもの』ではなくなった。」最後にカルヴァンの言葉が続く。1549年4月2日に亡くなった夫人イドレットの終焉についての言葉です。「彼女の精神の力はまことに大きく、すでに世を越えた高みに立っているかに思われた。彼女がその魂を主に委ねたその日、我々の兄弟ブルゴワは6時頃、彼女に心のこもった言葉を語りかけた。そのとき彼女は、すでに彼女の心がこの世を越えて遙かな高みに昇っていることが誰にも分かる一言を語った。『おお、栄(は)えある復活よ。おお、アブラハムの神、我らが父祖の神よ、すでに幾世紀も前から信者たちは皆、あなたに希望を寄せてきましたが、失望を味わった者はおりません。私もあなたを待ち望みます』。それは、彼女が語るというより、途切れ途切れの言葉が彼女の口をついて出るというものであった。そして、それは他の誰かの言葉をなぞるようなものではなく、彼女の心を動かす思いのようであった・・・・。」カルヴァンの伝記によると、1540年8月にイドレットと結婚。けれども、誕生後まもなく、1542年に長男ジャックが死に、イドレットも産後の回復ができぬまま病気がちとなり、1549年に死んだ。結婚生活は僅か9年。それこそ、深酒で悲しみを紛らわしたくなったはずです。しかし、深い悲しみの中でイドレットの祈りを思い起こし続けた。再臨の主を待ち望みつつ、最期まで祈り続けたイドレットの祈りを。
<『祈禱の戦場』より>
最後に、高倉徳太郎牧師の説教から「祈りに求められる心」を確認したい。高倉先生は植村正久牧師より受洗、牧師として歩みつつ、東京神学大学の前身、東京神学社、日本神学校の校長も担われました。高倉牧師が、1929年6月25日、『祈禱の戦場』と題して説教しておられます。その説教からいくつかの言葉を紹介させて頂きます。「主の十字架の前になさるる祈禱は戦場であることを考えたい。(中略)十字架の聖前(みまえ)をただ恵みの座とのみ考えてはならない。これは恵みの座であると共に、我ら罪人にとっては、新たなる戦場となるのである。(中略)主の名において祈ると言う事は、十字架の前に引き出されて、そこに新しき戦場を見出す事である。(中略)真の祈禱は気分や感情でなされるべきでなく、強き意志をもってなさるべきものである。(中略)力強き祈りは永遠に屠(ほふ)られ給いつつある活(い)ける羔羊(こひつじ)の御前においてなさるるものである。屠られし羔羊(こひつじ)を仰ぐ信仰から、戦いとしての祈りが生まれ出(い)で、またこの祈りがしぶとく続けられる所にますます力ある信仰はあたえられるのである。信仰から祈禱が生まれ、また真の祈りから強き信仰は培(つちか)われる。信仰によって祈り、祈りによって信じてゆく。ここに信仰生活の真のすがたがあると思う。」
高倉牧師の祈祷への姿勢は、非常に厳しく感じます。同時に、「祈禱は戦場」との指摘に「アーメン(その通り)」と思う。「心の鈍さ」との戦いを求めた主イエスご自身が、私たちの罪と十字架の死に至るまで従順に戦ってくださった。その驚くべき御業を心に刻むとき、私たちは悔い改めの祈りへ導かれるのです。生活の煩いで、心を鈍くしたいときこそ、まどろむことなく、熱情をもって神に祈り続けたい。そのとき、十字架と復活、また再臨の主イエスは血潮の滴る御手をひろげ、「生命をうけよ」と永遠の命へと招いてくださるのです。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。主イエス・キリストの父なる神様、私たちは御霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに御霊を注ぎ続けてください。
・3月4日の臨時教会総会における長老選挙を導いてください。
・まだまだ寒さが続きます。特に、大雪で大変な被害を受けている方々を深く憐れんでください。
・受験や新しい生活を控えている方々を強め、励ましてください。
・礼拝後は、世界の平和を祈る映画を鑑賞します。御心ならば一人でも多くの皆さんと映画を通し、世界の平和を祈ることができますよう導いてください。
・様々な依存症で苦しんでいる方々を憐れんでください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集うことの出来なかった兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2018年2月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第24篇1節~10節、新約 ルカによる福音書 第21章20節~28節
説教題「栄光に輝く王が来られる」
讃美歌:546、10、173、453、545A、Ⅱ-167
<レントに入る>
今週の水曜日は、灰の水曜日です。この日、額に灰をつける習慣から、灰の水曜日と言われます。なぜ額に灰をつけるのか?悔い改めの象徴だからです。灰の水曜日からイースター前の主日を除く40日を四旬節と言い、悔い改めの祈りを深める期間となります。大切な四旬節を控えた朝、私たちに与えられた御言葉も私たちを悔い改めへと導く非常に重要な主イエスの言葉となりました。
<歴史の中に立つルカ>
主イエスは、神殿で説教しておられます。壮麗かつ、壮大な神殿。今もその威容の一端を見ることができるエルサレム神殿。そこで主イエスは語るのです。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」民衆はおびえていました。特に、民衆の中にいるキリスト者は震えていたはずです。さらに主は続けます。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退(の)きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」
一言で纏めると、神殿のみならず、エルサレムが滅亡するという主イエスの預言です。ルカが生きていたとき、その元に生きていた巨大なローマの軍隊によってエルサレムは崩されます。ルカは、神からたくさんの賜物を与えられておりました。ルカは医者であり、歴史家でした。そのようなルカが様々な資料を用いて福音書を記したのです。ルカが福音書を記したのは、西暦70年代と言われております。その根拠の一つが今朝の御言葉です。紀元69年にローマの大軍が皇帝ウェスパシアヌスの子ティトゥスに率いられてエルサレムを包囲、城内にいたキリスト者たちは脱出して危機を逃れ、エルサレムが陥落したのが翌紀元70年のことでした。歴史家の伝えるところによるとユダヤ人の死者は110万とも言われます。もちろん、誇張された数のようです。しかし、城壁も崩れ、見る影もなくなったエルサレムの滅亡は、ユダヤ人にとって決定的な意味を持つとともに、キリスト者にとっても、衝撃的な出来事であったのです。ルカは、このエルサレム陥落の大事件を何らかの形で経験した後に、それほど遅くはないときにルカ福音書を記したと言われております。
<エルサレムから逃げなさい>
御言葉に戻ります。21節に「ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退(の)きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」とあります。皆さんの中で、不思議に思われた方がおられるかもしれません。先週の御言葉で主イエスはこう語っておりました。「人々はあなたがたに手を下して迫害し、(中略)わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。」主は、キリスト者に、逃げずに迫害され、殉教することを求めておられた。しかし、ここでは「逃げなさい」と語っておられる。説教の途中で主イエスの思いが変わったのでしょうか?そうかもしれません。その上で、私たちが心に刻むべきことは、主イエスは私たちが神の怒りに滅ぼされることを望んでおられないという事実です。主イエスは、「神を畏れず、悔い改めることなく、呑気に暮らしているとあなたがたは神に滅ぼされる!」と私たちの罪を深く憐れみ、「逃げなさい」と言われたのです。同時に主は、神殿の再興を約束されませんでした。「私は滅んでしまったエルサレム、また神殿を再興する」とは語らなかったのです。
私たちは目に見えるものによって心が大きく左右されます。エルサレムの人々も壮麗な神殿、また祭儀こそ、救いの根拠と考えておりました。しかし、主イエスの救いを信じ、洗礼を受けたキリスト者は、そこに疑問を感じるようになった。神殿や祭儀に救いを求めた人々とは違う生き方を始めていたのです。それと同時に、胸を張ってキリスト者として生きようとしても、神殿の境内に立つと、やはり身を縮めるような思いになったかもしれません。だからこそ、初代のキリスト者は、悔い改めつつ、心に刻み続けたはずです。「キリスト者は、神殿や祭儀によって救われるのではない。神の言葉によって救われるのだ」。そうです。私たちを救う神の言葉は神殿の豪華さとは全く関係がないのです。初代のキリスト者は神殿や祭儀から解放されていたはずです。私たちの礼拝も祭儀ではありません。ひたすら神の言葉に耳を傾け、悔い改めの祈りと賛美によって神の招きに答えることが真の礼拝なのです。
伝承によると、初代のキリスト者は、同胞を捨てエルサレムから逃げて非難されたようです。エルサレム教会の人々は、エルサレムの陥落以前に都を出て、テラという山へ逃げたと記されています。おそらくその時、エルサレム教会で議論があったに違いありません。「私たちもユダヤ人、祖国を愛し、エルサレムを愛するなら、都に留まるべきだ」。繰り返しになりますが、ユダヤ人の死者は110万人だったようです。その中に、ユダヤ人キリスト者もいたはずです。23節に、「身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」とあるように、そのような女性も都に留まり、殺されたようです。しかし、多くの教会員は逃げたのです。その一つの根拠が、今朝の主イエスの御言葉にあったと思われます。
いずれにしても、主イエスは20節から24節で、「神の審き」を語っておられます。では、私たちは「神の審き」を常に意識しているでしょうか?私自身、日々の生活で「神の審き」を常に意識しているか?と問われると、残念ながら忘れております。神は私を愛し、罪を赦して下さるということは意識している。しかし、「神の審き」を忘れてしまう。その結果、神の赦しが遠くなるのです。本来、神の怒りによって滅ぼされる罪人であることを忘れ、神を畏れつつ祈る、悔い改めの祈りを疎かにしてしまうのです。
ある伝承によれば、キリスト者が、エルサレムの都をさっさと捨てて逃げたことによって、その後、様々な非難を浴びたことであろうと言われています。実際、使徒言行録に、あれほど、人を集めたと記されているエルサレム教会の歴史は残っていません。その後に続くのは、24節にあるよう、「異邦人の時代」です。ルカが使徒言行録に「キリストの福音が、ユダヤ人でないギリシア人、ローマ人に伝道された」と記す通りです。ルカの先生であるパウロは、やがて、その事実によって、再びユダヤの人々が悔い改めに導かれる時が到来する!と信じたのです。
<主イエスの再臨>
主イエスは説教を続けます。25節。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」
主イエスは、「太陽と月と星に徴が現れ」人々は「恐ろしさのあまり気を失うだろう」と預言します。「気を失う」と訳された原語は、アポプシュコーというギリシア語です。意味は「気を失う」に加え、息をするのを止める、さらに、恐怖によりショック死するという意味もある。それほどの出来事です。大袈裟でなく、太陽や月が暗くなり、星が天から落ちることは、天地創造以来の前代未聞の大惨事です。その上で、主イエスは続けるのです。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」
「人の子」とは主イエスを意味する言葉です。主イエスは復活されたあと、使徒言行録にあるように、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった(1:9)」のです。そのとき、白い服を着た二人の人が「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。(1:11)」と預言したよう、「大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と主イエス自ら預言しておられるのです。しかも、主イエスが天に上げられたときは、使徒たちしかおりませんでしたが、主イエスが再び来られるとき、「人々は見る」のです。つまり、「使徒が見る」ではなく、すべての「人々が見る」と主イエスは語るのです。私たちは、ペトロの手紙にあるよう「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており(ペトロの手紙一1:8)」ます。しかし、見ればわかる時がくるのです。
さらに主イエスは、深い慰めを語ります。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」私たちが悔い改めを祈りつつ、身を起こして頭を上げることができるのは、「神の審き」を確信している時です。「私たちを生かす神の真理こそ正しい!」とわきまえている時なのです。28節に「解放の時」とあります。解放とは、解き放たれることです。私たちを束縛する恐れ、不自由、不信仰、弱さ、臆病があります。その全てから主イエスの再臨の時、審きの時、私たちキリスト者は完全に解き放たれるのです。
<詩編 第24篇>
今朝は、ルカ福音書に加えて、詩編第24篇を朗読して頂きました。ダビデは主を賛美します。「城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい王、雄々しく戦われる主。(24:7~8)」なぜ、「城門」や「門」は身を起こし、頭を上げるのか?「栄光に輝く王が来られる」からです。栄光に輝く王は、強く雄々しい王です。雄々しく戦われる主です。キリスト者は、ダビデが語る王を再臨の主イエスと信じる者です。実際、主イエスはエルサレムの滅亡を預言されたとき、私たちの罪と雄々しく戦われる覚悟を決めておりました。本来ならば、私たちが都にとどまり、滅ぼされるべきところ、主イエスは私たちを逃がし、エルサレムにとどまってくださった。その結果、十字架で殺されるのです。
<永遠の慰め>
今朝も、私たちは使徒信条を告白しました。「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)き たまはん。」主イエスによる最後の審判について、ハイデルベルク信仰問答は、こう問います。問52「生ける者と死ねる者とを、さばくための再臨は、どのように、あなたを、慰めるのですか。」答「わたしが、あらゆる患難や迫害の中にも、頭を挙げて、この審判者を待ち望むことができるためであります。主は、わたしのために、すでに、神のさばきに対して、ご自身を与え、すべての呪いを、わたしから取り除いて下さり、また主とわたしのすべての敵を、永遠の罰の中に、投げ入れ、しかも、わたしは、すべての選ばれた者らとともに、み許に召し、天の喜びと栄光のうちに、入れて下さるのであります。(竹森満佐一訳)」。驚くべき問答です。最後の審判は、キリスト者であっても、恐れを抱きます。それなのに、「再臨は、どのように、あなたを、慰めるのですか」と問い、「患難や迫害の中にも、頭を挙げて、この審判者を待ち望むことができる」と答える。つまり、最後の審判は、邪悪な者たち、悔い改めをしない者たちには審判の時となるが、悔い改めに生き、主イエスに忠実なキリスト者にとっては解放の時、救出の時、そして永遠の慰めの時となるのです。私たちが、真実の悔い改めに生き続けるなら、私たちは自分の罪の代価を支払う必要はありません。なぜなら、主イエスが十字架の死によって完全に私たちの代価を支払ってくださったからです。最後の審判では、私たちも主に審かれます。そのとき、私たちキリスト者は永遠の慰めを頂けるのです。
私たちの罪を誰よりも恐れた主イエスが、血の汗を滴らせて説教されました。終末の日の「神の審き」と「あなたがたは滅ぼされないよう逃げなさい!」というお言葉を。主イエスは、私たちに悔い改めの祈りを真剣に求めつつ、永遠の慰めを与えたいと本気で願っておられるのです。私たちの罪の赦しのために全存在を賭ける決意をされた主イエスが命じてくださった「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」この主イエスの元以外に、私たちの逃れの場、解放の場は無いのです。
(祈祷)
主イエス・キリストの父なる御神。まことに弱い歩みしかできない私たちであります。すぐにうなだれ、頭が上がらなくなります。自分の弱さを恐れます。人々の、確信に満ち、正義に生きているかと思われる姿が私たちを脅かします。力に満ちている者が、結局は勝利するのではないかと、不信仰の幻を抱きます。すべてのものがやがて揺らぎ、あなた様の審きのもとに立たされるべきものであることを、今ここに、もう一度はっきりとわきまえることができますように。そして、そこに見えてくる御子の救いの御業の確かさに日々、立ち帰ることができますように。御霊をもって私たちの信仰の目を開いてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは御霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに御霊を注ぎ続けて下さい。
・全国の豪雪で苦しんでいる方々を深く憐れみ、励まし続けてください。
・台湾東部で地震が発生、17名の方々が犠牲になられました。深い悲しみの中にある方々を慰め、困難な生活を強いられている方々を励ましてください。
・大きな手術をなさられた兄弟姉妹、療養を続けている兄弟姉妹、また献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2018年2月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第18章30節~32節、新約 ルカによる福音書 第21章10節~19節
説教題「忍耐によって、命をかち取りなさい」
讃美歌:546、8、291、Ⅱ-1、333、544
皆さんは、「忍耐」という言葉から何を想像するでしょうか?素直に考えると、歯を食いしばり、じっと何かに耐え忍ぶ姿が思い浮かびます。先週の主日礼拝の後、婦人会、壮年会合同の新年会が行われました。K長老とS長老が丁寧に準備をしてくださり、心に残る発表をしてくださいました。K長老は『人生の後半戦とメンタルヘルス』という本の紹介。S長老は東日本大震災の津波により、突然、愛する両親を奪われた女性の証言等を紹介してくださいました。K長老の報告から、私たちは一人の例外もなく、人生の後半に入ると、体力の衰えに加え、心も様々な危機に襲われることによって、パリン!と音を立てて割れてしまうことを痛感しました。またS長老の報告では、どこで生活していても様々な災害に襲われ、それまでの生活が崩れ、愛する家族と突然の別れを強いられることがあることを感じたのです。私たちも、肉親との別れを突然強いられると、「あのとき、ああしておくべきだった!」との自責の念を抱え、忍耐し続けることになる。「忍耐」は私たちに厳しい思いを与える言葉です。
それでは、主イエスは「忍耐」についてどのように考えているでしょうか?主イエスは、民衆また弟子たちに言われました。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。(ルカによる福音書21:19)」わかるようで、わからない御言葉です。「主よ、わかりました」と申し上げたくても、主イエスの思いがスッと心に入らない。なぜでしょう?すでに命を頂いているからかもしれません。それなのに、「命をかち取りなさい」と命じておられる。そこで考える。「主イエスが語る命は、私たちが考える命と違うのか?なぜ『命をかち取りなさい』と命じられたのか?しかも『忍耐によって』?どういうことだ?」正直に告白すると、私自身19節の御言葉「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」をあまり深く考えたことがありませんでした。しかし今朝、19節の御言葉を「一所懸命に語りなさい!」と神様に命じて頂いた。それならば、聖霊の導きを信じ、一所懸命に「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」を主イエスから私たちへの慰めと励ましのお言葉と信じ、語らせて頂きたいと思うのです。
皆さんは、「忍耐」からどの御言葉が与えられますか?私はおそらく皆さんと同じ。使徒パウロが記したローマの信徒への手紙第5章3節以下「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(5:3~5)」
パウロは語る。「苦難に襲われれば、忍耐を強いられる。歯を食いしばり、心も体もボロボロになり、涙もカラカラに渇いてしまう。それでも、忍耐するとすべてが壊れるのだ。その結果、歯を食いしばって頑張っても、耐えられない痛み、苦しみ、悲しみがあることを嫌というほどわかるようになる。そして、自分の力だけで忍耐することから解放されるのだ。あのヨブのように、「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに/死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。(ヨブ記3:11)」と生まれた日を呪いながらも、どこまでも神に頼り、どこまでも神に祈るようになるのだ。あなたは、苦難に襲われる前も日々、神に祈っていた。しかし、苦難によって日々、忍耐を強いられたことで、全てを神に委ねる者となった。それが『忍耐は練達を生む』ということなのだ。『忍耐は練達を生む』は修行ではない。むしろ、忍耐によって神に立ち帰るのだ。預言者エゼキエルを通して神は言われた。『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ(エゼキエル書18:32)』。どうか、忍耐によって神に立ち帰り、復活の命をかち取って欲しい。」
火で精錬され、不純物が取り除かれ、純度の高い金が精錬されるように、私たちも忍耐によって、キリスト者の純度が高くなる。純度の高いキリスト者は、自らの弱さ、罪を骨身にしみるほど知っている者たちです。つまり、「神抜きで、自らの業によって、希望を生みだすことは不可能」と知ることが大切なのです。キリスト者の忍耐は、自らの努力だけで希望を生むことは不可能と知った者が、どんなに弱く、愚かな者であっても、神は最後まで私を支えて下さると信じ、神から絶対に離れない。それがキリスト者の忍耐なのです。ヨブのように神に文句を言うことがあっても、神から絶対に離れない。いや、神から離れない!と頑張るのでもなく、試練に襲われても、神は常に私に御目を注いでくださる!と信じ、神の子ども、いや、神の赤ちゃんとして「アッバ、父よ」と神を呼び続ける。それが、キリスト者の忍耐だと思うのです。
先程、讃美歌291番を賛美しました。「主にまかせよ、汝が身を、主はよろこび/たすけまさん。しのびて/春を待て、雪はとけて/花は咲かん。あらしにも/やみにも/ただまかせよ、汝が身を。主にまかせよ、汝が身を、主はよろこび/たすけまさん。なやみは/つよくとも/みめぐみには/勝つを得じ。まことなる/主の手に/ただまかせよ、汝が身を。」私の愛唱讃美歌の一つです。讃美歌の歌詞からも、主イエスの「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」は、「歯を食いしばり、苦難にも負けず、自分の足で歩きなさい」ではないことがわかります。その反対。「あなたは神の子ども、いや、赤ちゃんだ。だから、神を信頼し、どんなに厳しい試練に襲われても、神から離れず、ただ神の救いを信じて欲しい」なのです。
主イエスは今朝、私たちにこそ語っておられる。「たとえ、この世が終わるのではないかと思われる様々な出来事、試練に襲われても、これだけは忘れるな。神は私たちの髪の毛の数をきちんと知っておられるということを。あなたが今、どれほどの苦しみ、試練の中にあるのかをご存知なのだ。神は、あなたに試練からの逃れの道を必ず備えてくださる。だから、自暴自棄にならないで欲しい。前もって弁明の準備をしないで欲しい。たとえ、無実の罪で法廷に引っ張って行かれても、どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなたに授ける。どうか、私の言葉と知恵を求め続けて欲しい。それでも私の言葉と知恵を求める気力すらなくなる日が来るかもしれない。大きな地震によって、戦争によって、暴動によって、飢饉によって、疫病によって、あなたがたは、これからも試練に襲われる。そして、辛いことだが、あなたを産み、育てた親、共に成長した兄弟姉妹、親族、そして友人にまで裏切られる。裏切られるだけでなく、殺される者もいる。また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。でも、諦めないで欲しい。私を捨てないで欲しい。『神を信じた私が馬鹿でした』と弁明しないで欲しい。繰り返す。私がどんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、あなたに授ける。どうか、思い起こして欲しい。私の言葉を。『五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(ルカ12:6~7)』そうだ。たとえ、苦難の中にあっても恐れるな。小さな雀さえ、神がお忘れになることはないのだ。だから、赤子のように『主よ、憐れんでください!』と叫んで欲しい。一回ではなく、毎日、叫び続けて欲しい。祈り続けて欲しい。毎日、私の門を叩き続けて欲しい。そうすると、永遠の命に至る門が開かれる。神は、あなたの叫び、あなたの祈りに耳を傾け、必ず御心を示してくださる。神は、地上の命に加え、永遠の命をかち取って欲しいと本気で願っているのだ。すでに信仰告白し、洗礼を受けたキリスト者は永遠の命が約束された。だからこそ、今朝、礼拝に招かれた全ての者に、永遠の命をかち取って欲しいのだ。どうか忍耐して欲しい。そして、もう耐えられない!とわかったら、安心して父なる神にあなた自身を委ねなさい。求道を続けているあなたも信仰告白し、洗礼を受けると、永遠の命が約束される聖餐の恵みに与ることが出来るのだ。たとえ、たった一人になっても、たとえ、迫害され、殺されることがあっても、あなたにも永遠の命が約束されるのだ。」
今、私たちの前に十字架と復活、そして再臨の主イエスの食卓が備えられております。パンは主イエスが十字架で裂かれた肉。杯は十字架で流された血潮です。聖餐の恵みに与るとき、私たちは十字架と復活、そして再臨の主イエスと一つになる。結ばれる。私たちの中に入ってくださる。そのとき、私たちの体は、聖霊が宿ってくださる神殿となり、たとえ大地震に襲われても、たとえ王や総督の前に引っ張って行かれても、たとえ肉親から裏切られ、殺されても、たとえ主イエスの名のために、すべての人に憎まれても、私たちの罪のために十字架で死なれ、復活によって死に勝利された主イエスと一つにされた私たちは、主イエスの再臨の日、永遠の命の冠を授けて頂けるのです。
この後、讃美歌333番を賛美いたします。私の愛唱する讃美歌の一つです。今朝も礼拝に出席しておられる加藤常昭先生に結婚式の司式をお願いしたとき、新郎と新婦それぞれ一曲、愛唱讃美歌を選んで下さいと言われました。小学生から讃美歌に親しみ、中高大とミッションスクールで讃美歌を歌い、大学では聖歌隊に所属し、讃美歌によって慰められ、励まされ、生き方を示された私に一曲だけ選曲が許された。そのとき選んだのが333番でした。泣き虫の私は333番を賛美しながら、溢れる涙を抑えることが出来ませんでした。銀行員としての苦難は戦争、地震、飢饉、疫病、さらに迫害や家族や親友の裏切り、そして「死」とは比較にならない小さなものだったかもしれません。しかし、常に成果を求められ、他者と比較され、笑顔を見せるな!と怒鳴られ、最後は教会に通っているだけで机を蹴飛ばされた。私にとっては、迫害でした。毎週、歯を食いしばり、祈り続けた。だからこそ、通勤電車の中でも、上司に怒鳴られているときも、安酒に酔って苦しみを忘れようとしたときも、軽自動車にポツンと座り、涙を流しているときも333番を賛美し続けたのです。
「わがすべては/主のものなり、主はわが喜び、また幸なり。主よ、みたまを/満たしたまえ、さらば永遠(とこしえ)の/安きを受けん。」
333番を賛美するたび、心に刻み続けました。「そうだ!私は信仰を告白し、洗礼を授けられた。その結果、十字架と復活、そして再臨の主イエスと結ばれたのだ。どんなに苦しくても、どんなに辛くても、私は忍耐することができる。一人で踏ん張って忍耐するのではない。だって、弱い私がたった一人で忍耐し続けることなど不可能。本当に私は弱い。だから、私に代わって、主イエスが耐えておられる。主イエスが十字架で私のために耐えておられる。主イエスが私のために肉を裂いておられる。主イエスが私のために血を流しておられる。だから、どんな試練の中でも心から神を喜べる。心から神を誇ることができるのだ。主よ、どうか私に聖霊を注ぎ続けてください。どうか永遠の命、永遠の平安、永遠の祝福を注ぎ続けてください。」
銀行を退職し、転職。そこでも挫折し、その結果、献身。そして今、東村山教会で御言葉を語り続けている。本当に様々な苦難のとき、神から離れないで良かった。教会から離れないで良かったと今、心から思っています。そうです。私たちの心を覆う苦難の雪も、忍耐の氷も必ず溶けるのです。私たちの努力によってではありません。主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりによって必ず溶けるのです。今から与る聖餐の食卓にここにおられる全ての皆さんにいつの日か与って頂きたい。皆さんが抱えている苦しみを父なる神に委ねて頂きたい。そのとき神は、子どもである私たちに喜んで手をさしのべ、永遠の命を与えてくださるのです。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・今、人生の後半に入り、様々な衰えの中で生きる希望を見失っている方々を支え、導いてください。特に、全国、全世界の被災地で今も「あのとき、ああしておくべきだった」と今も自分を責め続けている方々の心を解放し、自分に向かう心をあなた様へと向けることが出来るよう導いてください。
・体調を崩している兄弟姉妹を支え続けてください。どうか、あなた様から離れないよう導き続けてください。
・今朝の奏楽は、久し振りにN姉妹に担って頂いております。感謝です。主よ、どうか奏楽者お一人お一人を強め、励ましてください。
・来月4日には臨時教会総会(長老選挙)を予定しております。本日の長老会ではそのための協議を行います。主よ、今から長老選挙をおぼえて祈り続けることができますよう導いてください。とくに、8名の長老の尊い働きを祝し、励まし続けてください。
・今、熱心に求道生活を続けている方々を強め、励ましてください。
・今朝も病のため、様々な理由のため、礼拝に集うことの出来なかった方々の上に、私たちと等しい祝福と慰めを注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ
我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2018年1月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 列王記上 第8章27節~30節、新約 ルカによる福音書 第21章5節~9節
説教題「惑わされないように気をつけなさい」
讃美歌:546、70、318、385、543
主イエスは、今日も神殿の境内で語っておられます。聞いているのは民衆、そして弟子たちです。主イエスは説教中にもかかわらず、ある人たちが話していることに気がつきました。内容は、神殿の見事な石と奉納物について。「おお、あの石は見事だな」。「確かに見事だ。おい、こっちも見てくれ!この奉納物はピカピカだ。金の奉納物を納めたヘロデは凄いな!」。私も説教中に皆さんが、会堂の飾りについて話し出したら、残念に思うはずです。しかし、東村山教会には見事な石も奉納物もない。木の十字架と青を基調としたステンドグラスがあるだけです。けれども、主イエスが語っておられる神殿には見事な石と金の奉納物がこれでもかと飾られていたのです。
奉納物は領主ヘロデが納めた物のようです。金で作られたぶどうの木、あるいは、ぶどうの枝といったほうがよい細工物。それらが神殿奥の礼拝所の入口に飾られていました。この世の権力が神殿にも現れる。見事な石と金の奉納物を見れば圧倒され、いつの間にか、神殿が永遠に建ち続けていくような錯覚を起すようになるのです。
私たちも荘厳な礼拝堂に座り、大きな天井画や七色に輝くステンドグラスを目の当りにすれば、「おお!」と興奮するはずです。私も新婚旅行で行ったパリのノートル・ダム大聖堂では、大きなステンドグラスに圧倒され、ずっと上を向いておりました。ですから、神殿で主イエスの説教に耳を傾けている人々の中には、当然のように見事な石や奉納物に感嘆の声を上げる人々がいるのです。そのとき、主イエスは言われました。6節。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他(た)の石の上に残ることのない日が来る。」
ドキッ!とする発言です。私たちも、「主イエスこそ、真の救い主」と信じていないと、今朝の第21章5節から次のページ下の段28節までを読み飛ばしたくなるはずです。小見出しだけ読んでも震えます。5節「神殿の崩壊を予告する」。7節「終末の徴(しるし)」。次のページ上の段20節「エルサレムの滅亡を予告する」。そして25節「人の子が来る」。さらに主イエスのお言葉には、「ここまで語ってよいのか?」と思うほどのお言葉ばかり。たとえば、24節「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。」26節「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」実際、先週は東京にも大雪と大寒波が襲い、6年間、生活した釧路の冬を久し振りに味わいました。またハンセン病の療養所があるため、家族で何度も遊びに行った群馬県の草津白根山も噴火。さらに世界情勢も混沌としている。私たちこそ主イエスのお言葉を読むと震え、「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴(しるし)があるのですか(21:7)」と尋ねたくなります。
主イエスは言われました。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。(21:8~9)」
正直に告白すると、それでも不安は残ります。確かに世の終わりはすぐには来ない。しかし、「戦争とか暴動は起こるに決まっている」と主イエスは語っておられる。やはり不安は残る。けれども、確実なことがある。それは、語っているお方が主イエス・キリストであるという事実です。私たちの罪を赦すため十字架で処刑され、三日目の朝、復活によって全ての死に勝利された主イエス。偽りの救い主が「惑わされないように気をつけなさい」、「おびえてはならない」と語ったのではありません。真の神でありながら、真の人となられた真の救い主が「惑わされないように気をつけなさい」、「おびえてはならない」と明確に語って下さったのです。
繰り返しになりますが、先週は大雪、大寒波に加え、白根山噴火、インフルエンザの猛威等、様々な不安が私たちを襲いました。そのような中、主イエスの「惑わされないように気をつけなさい」を聞き続けたのです。説教準備では、「惑う」の意味を小学館『日本国語大辞典』で調べました。こう書いてある。「①どの道を進んだらよいかわからなくなる。道に迷う。あちこちする。②考えが定まらずに、思案する。分別に苦しむ。途方に暮れる。③どうするという考えもないうちに、まごつきながら行動する。あわてる。狼狽する。④あれこれ難儀する。苦労する。苦しむ。なやむ。」その後、神様から御言葉が示されました。ヨハネによる福音書第14章6節。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
十字架の死を翌日に控えた主イエスが弟子の足を丁寧に洗い、最後の晩餐で「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と語り、一番弟子ペトロにも「あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と語った。弟子たちは激しく狼狽し、どの道を進んだらよいか途方に暮れたのです。そのとき、主イエスは宣言されました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。(ヨハネ福音書14:1)」。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ福音書14:6)」
私たちも知っています。次々と試練に襲われるときがあることを。そのとき、途方に暮れ、ヘナヘナと座り込む。しかし、神によって追い込まれたことで、私たちは自分の努力だけで、惑わされない者になることが不可能ということがわかるのです。老いの現実があり、愛する者の死がある。もっとも辛いのは、自分より長く生きるべき子や孫に先立たれる。そのとき、私たちは希望を失う。けれども、徹底的に追い込まれたときこそ、十字架と復活の主イエスが語ってくださるのです。「惑わされないように気をつけなさい。おびえてはならない。世の終わりはすぐには来ない。」さらに主イエスは語る。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
そうです。どんなに立派な人、どんなに財産を蓄えた人も、主イエスを通らなければ、だれも父なる神のもとに帰ることができないのです。反対に言えば、どんなに貧しさの中にあっても、弱さの中にあっても、嘆きの中にあっても、ヨタヨタであっても、石に躓いて倒れても、主イエスの道を歩き続けていれば、誰でも、確実に、父なる神様の懐へと帰ることが出来るのです。
今朝は旧約聖書の列王記上第8章27節から30節も朗読して頂きました。この御言葉はソロモンの祈りです。エルサレム神殿をソロモン王が建てたとき、ソロモンは両手を天に伸ばして、祈りました。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なお
ふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕(しもべ)の祈りと願いを顧みて、今日 僕(しもべ)が御前(みまえ)にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目(おんめ)を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕(しもべ)がささげる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。(列王記上8:27~30)」
ソロモンが祈ったように、天も、天の天も神をお納めすることができない。それほどの大きな神。そのような神が深い憐れみによって「わたしの名をとどめる」と言って下さるからこそ、私たちの神殿が真の祈りの家となるのです。
私たちも神殿と同じです。見事な石と奉納物で飾っても、いつの日か地上の命を終える日が来る。だからこそ、「わが神、主よ、夜も昼もこの私に、赦しの御目を注ぎ続けてください」と祈り続けるのです。回心したパウロも語ります。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(コリント一6:19~20)」
確かに、どんなに立派な神殿もいつかは崩れます。しかし、信仰告白、洗礼によって復活の主イエスと結び合われたキリスト者の体は聖霊が溢れるほどに宿ってくださり、罪の体が神殿になる!とパウロは確信を持って語るのです。そのような私たちは見事な石や奉納物で飾られた神殿とは比較にならないほど価値ある神殿となるのです。だからこそ、私たちは厳しい試練に襲われても、極めて困難な状況にあっても、将来の不安があっても、突然の病に襲われても、今夜、地上の命が終わることになっても、何も恐れることなく、おびえることなく、与えられた地上の命を感謝して全うすることが出来るのです。それほどの喜びを知ったとき、私たちはパウロから命じられなくても、心から神の栄光を現したくなる。今、惑わされている方々に、心を込めて何時間でも語りたくなるのです。「主イエス・キリストは素晴らしいお方です。私たちの苦難、痛み、孤独を経験し、十字架の死をも経験されたのです。そればかりか、復活により全ての死に完全に勝利されたのです。復活の喜びを与えられた私たちは、豪華な神殿ではないけれど、神から与えられた賜物に感謝し、終わりの日まで共に神の栄光を現し続けることができるのです!」どうか、ここにおられるすべての皆さんが日々襲ってくる試練や様々な情報に惑わされることなく、おびえることなく、主イエスの十字架と復活、また再臨の約束を信じ、与えられた地上の生命を用いて、神の栄光を現し続けて頂きたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
主イエス・キリストの父なる御神、主イエスの語られる御言葉の確かさのなかにとらえ、あなた様の慈しみの眼差しの中に、生かし、導いていてくださることを、心から感謝いたします。ひとりひとりの歩みも、まことに惑い多く、おぼつかないものであり、教会の歩みもまた、あやまち多きものであることを御前に恥じます。恐れをすら抱きます。けれどもどうぞ、謙遜にこの滅びの世に生きていながら、もはや滅びの命だけを生きているのではないことを確信することができるように、私たちひとりびとりの心を開いてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・大雪により困難な生活を強いられている方々を憐れんでください。
・受験を控えている方々を導いてください。
・インフルエンザ等で健康を害している方々を憐れんでください。特に、病の不安の中にある方々を強め、励まし続けてください。
・愛する者の死を経験し、今も深い悲しみの中にある方々に慰めを注ぎ続けてください。
・御葬儀のために一時帰国されたS姉妹を強め、励ましてください。帰国された後もS兄弟とのアメリカでの生活を導き続けてください。
・本日の礼拝に初めて出席された姉妹を強め、励ましてください。今、熱心に教会に通い続けている求道者を深く憐れみ、聖霊を注ぎ続けてください。
・今朝も病や様々な理由により、礼拝に集うことの出来なかった兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2018年1月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第61篇1節~9節、新約 ルカによる福音書 第20章45節~第21章4節
説教題:「やもめの献身」
讃美歌:546、93、348、527、541、427
今朝のルカ福音書にはたくさんの人物が登場します。主イエス、民衆、弟子たち、律法学者、金持ちたち、貧しいやもめ。
聖書の時代、やもめは、もっとも無力な存在でした。よって、やもめを大事にしなければならない!との律法があります。律法の専門家である律法学者も、やもめの権利を守るべく
やもめの家を出入りするのです。やもめの悩みに耳を傾けることは、やもめを守っているように思えますが、貧しいやもめから報酬を受け取る。また、やもめも律法学者に逃げられたら困る!と必死に律法学者をもてなす。そのとき、律法学者はニンマリと微笑むのです。
主イエスが指摘しているように律法学者は長い衣をまとって歩き回りたがる。そして、律法学者として尊敬されること、広場で挨拶されることを好む。また会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。主イエスは、「このような律法学者は、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」と弟子たちに言われたのです。なぜ、弟子たちに言われたのか?「あなたがたにも律法学者の心が潜んでいる。だから、彼らのようになっていないか気をつけなさい」と指摘なさるのです。
続けて主イエスは目を上げて、じっと見ておられた。何を見ておられるのか?金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。もしも、私たちが礼拝での献金の様子を誰かにじっと見られたら、嫌な気分になるかもしれません。それでも献金袋があり、東村山教会で用いている黒い布製の献金入れならば、大きな音はしませんからいくら献げているかわかりません。しかし、賽銭箱の場合、たくさんの500円玉ならジャラジャラ音がする。お札なら音がしない。100万円の束ならばボトッと音がするかもしれません。いずれにせよ、聖書の時代も現代も賽銭箱や献金箱に献金を入れるのを誰かにじっと見られたら、やはり自分の懐を見られているような気持ちになるかもしれません。まして、主イエスにじっと見つめられたらどんな気持ちになるでしょうか?
主イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に有り余る中から献金したのを見ておられました。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を賽銭箱に入れるのを見つめられたのです。
わざわざ「貧しいやもめ」と福音書記者ルカは記す。言われなくても やもめは貧しい。それなのにわざわざ「貧しい」と記すのですから、よっぽど貧しいやもめだったのでしょう。つまり、その日食べていくので精一杯。何一つ贅沢は許されない。もしかすると微妙な表現ですが、献金させて頂くことが唯一の喜びであり、贅沢だったかもしれません。献金が贅沢とは許されない表現かもしれません。けれども、自分を喜ばすことよりもはるかに贅沢な喜び、神様に喜んで頂ける、これほど贅沢なこと、これほど感謝なことはない!とやもめは本気で信じていたと思うのです。
さて、再び律法学者に思いを巡らしたいのですが、主イエスは言われました。「会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。」なるほどと思います。律法学者だけでなく、私たちも席を気にします。顔にも言葉にも出さないよう気をつけますが、自分よりも若く、経験の浅い者が有力な人物の隣に座っていて、楽しそうに会話をしていると、おもしろくないと思うのが私たちです。まして自分こそ尊敬されるべき学者!と思っている律法学者にとって席は極めて重要なのです。
さらに主イエスは律法学者の罪を指摘しておられます。「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」マタイ福音書の「主の祈り」の導入部分に主イエスによる祈りへの言葉があります。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(6:5)」、「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(6:7~8)」
ルカとマタイの違いはありますが、どちらも主イエスの言葉です。その意味ではどちらも大切であることは間違いありません。律法学者、偽善者、異邦人による見せかけの長い祈り、人に聞かせる祈り、「ああ、ありがたい!」と思わせる祈り、それは祈りではない!と主イエスは語っておられる。だからこそ、律法学者は人一倍厳しい裁きを受けることになり、偽善者は既に報いを受けており、くどくどと祈る異邦人は、父なる神への真の信仰がないと指摘しておられるのです。なぜなら、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」だからです。
神は私たちが願う前から私たちに必要なものをご存じであると本当に信じていれば、貧しいやもめのように、明日の生活費のために、レプトン銅貨二枚を持っていなくても、必ず明日もまた神様が私に必要なものを与えて下さる!と信じ、喜んで今日はもう必要のないレプトン銅貨二枚を献げると思うのです。ちなみに、レプトン銅貨とは、当時、流通していたギリシアの貨幣の中で一番小さなものでした。銅貨ですから、日本では10円玉。やもめは、僅か20円を喜んで神に献げたのです。
主イエスは律法学者について丁寧に語っておられます。一方、貧しいやもめについてはあまり語っておられない。語っているのは、3節後半「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」4節後半「この人は、乏(とぼ)しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」のみ。「貧しいやもめは、ジャラジャラと貨幣を献げる金持ちたちへの引け目を感じつつ、あっと言う間に音が消える、それも軽い音の僅か二枚のレプトン銅貨を献げた」とは語っていない。その反対。「貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」、「この人は、乏(とぼ)しい中から持っている生活費を全部入れた。」驚くべき主イエスの言葉です。主イエスは貧しいやもめの献金をまさに手放しで喜んでおられる。感謝しておられる。もしかすると、涙を流しているかもしれません。それほど、やもめが喜んで、明日のことまで思い悩むことなく、「その日の苦労は、その日だけで十分。今日も貧しいながらこうして生かされたことは本当に感謝です!」とまさに感謝と献身のしるしとして、今日はもう必要のないレプトン銅貨二枚を喜んで神様にお返しした。そのようなやもめを主イエスも手放しで喜んだのです。「銅貨二枚であっても、明日、何がおこるかわからない。だから、神様にお返しするなんて考えられない。無駄使いをするわけではないから、貯金箱に入れておこう」ではない。「神様、今日の恵みを感謝いたします。確かに今日も律法学者に食い物にされました。悲しいこと、苦しいこともありました。でも、今日も生かされました。献金も賽銭箱に入れることが出来ました。そして今、祈ることも出来ました。今日もこんなにも大きな喜びを与えて下さった。その感謝の祈りです。本来ならば、私自身をあなた様に献げたい。しかし、私には祈ることしか出来ません。でも、あなた様が与えて下さった地上の命。この命を最後まで全うしたいのです。必要なものをご存じのあなた様が明日も日用の糧を与えて下さい。今日はレプトン銅貨二枚を喜んでお返ししました。心から感謝いたします。アーメン。」
神への祈りとはこのようなものではないでしょうか。見せかけの長い祈りを主イエスはお嫌いになられます。たとえ短い祈りであっても、神に向かう真の祈りを主イエスは大いに喜ばれるのです。また主イエスは私たちがどのような思いで与えられた恵みを神様にお返しするのかを目を上げてじっと見ておられます。想像すると、金持ちたちの献金は、ジャラジャラと音が鳴るのを楽しみ、人々から「おお、あの人はあんなに多く献金している!」と驚かれるのを喜ぶ。そこには神様への感謝より、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。(ルカ18:11~12)」と祈った人のように、「神様、わたしはあの貧しいやもめのように、僅かレプトン銅貨二枚を献金するような者でないことを感謝します。わたしはやもめの何十倍、いや、何百倍、何千倍、何万倍も献金しております。」と祈っているかもしれません。義とされて家に帰ったのは、徴税人であって、ファリサイ派の人ではなかったように、やもめの献金こそ、真実の献金であると、主は語っておられるのです。
改めて、今朝の御言葉を心に刻みたい。主イエスは私たちがどのように心に刻むことを喜ばれるでしょうか?「献金は額ではないのだな。心が大切なのか。だったら心を込めていれば、僅かな額の献金でも大丈夫」と思うことを喜ぶでしょうか?あるいは、「今まで精一杯の金額を献げていたけれど、レプトン銅貨二枚がこんなにも評価されるなら、額を減らそう」と思うことを喜ぶでしょうか?あるいは、「やもめが生活費を全部献金したと評価されるなら、あの銀行とあの証券会社に預けている全財産を解約し、来週の礼拝で全額献金しよう」と思うことを喜ばれるでしょうか?私はすべて違うと思います。もちろん、自分のために富を積むより、神の前に豊かになることは極めて重要です。その上で、主イエスがもっとも喜ばれるのは、私たちの存在そのものを神様に献げることだと思うのです。存在そのものを神に献げることを「献身」といいます。実際、第21章4節で「生活費」と訳された原語は、「ビオス」というギリシア語です。辞典には、生活費よりも強い意味で「人生、生涯」とある。つまり、やもめは、自分の人生を全部、神様に献げた。委ねた。つまり献身したのです。
残念ながら今、東村山教会には神学生が一人もおりません。しかし、この間までS神学生がおりました。Rさんと結婚され、今は、米国で生活しておられます。私が東村山教会に着任した少し前にそれまでの働きをやめ、自分の人生を神様に献げる決断をなさった。あとは全て神様の御心を信じて、与えられた地上での生涯を祈りつつ歩んでいるはずです。それが「献身」です。その意味で、私は神学生、伝道者だけが献身者であると思いません。確かに、伝道者を志すことは特別な献身かもしれません。しかし、信仰を告白し、洗礼を受けた全てのキリスト者はその瞬間、これからの生涯を神に委ね、献身するのです。主日だけキリスト者ということはあり得ない。木曜の御言葉と祈りの会だけ祈るということもない。日々、神に祈り、日々、聖書を読み、日々、神に献身し続ける。もちろん、楽しい時間もあります。食事をする、風呂に入る、寝る、語り合う、遊ぶ、学ぶ、働く、読書をする、その全てを通して、日々、神に献身し続ける。そのとき、この世では僅かレプトン銅貨二枚でも、今日の恵みを感謝し、明日も父なる神の支えを信じ、与えられた恵みを喜んでお返しする献金ならば、神は大いに喜んで下さるのです。
私たちは一人の例外もなく、神によって地上での命を与えられました。そのような私たちは常に神の眼差しを感じていることが大切です。眼差しを感じていれば、やもめの家を食い物にすることなどないはず。上席、上座に座ることに血眼になることや、見せかけの長い祈りを祈る必要もなくなるのです。ただ神の導き、神の支え、神が私に必要なものをご存じであると信じ、「主の祈り」を祈り、与えられた恵みを感謝し、喜んで献げる。そのとき、私たちはたとえ伝道者という人生でなくても、皆が献身者となるのです。共に、神から頂いた命を喜んで主に献げ続けたい。心から願うものであります。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。今、東村山教会には伝道献身者がおりません。主よ、御心なら私たちの群れに伝道献身者、神学生をお与え下さい。また、伝道献身者として真剣に学びを続けている神学生を強め、励まして下さい。そして、あなた様から与えられた召命を信じいつの日か全国、全世界の教会で御言葉を宣べ伝えることが出来ますようお導き下さい。先週の火曜日、小金井西ノ台教会の青戸歌子先生の葬儀が執り行われました。司式、説教を担われた青戸宏史牧師の悲しみをあなた様が包み、聖霊によって慰めて下さい。青戸宏史牧師は東村山教会が困難の中にあるとき、大切な総会議長を担って下さった先生でもございます。どうか今、深い悲しみの中にある青戸宏史牧師、御遺族の皆さま、そして小金井西ノ台教会、青山教会、和歌山教会、焼津教会等、青戸先生御夫妻が牧会してこられた諸教会の皆さまの上にあなた様の慰めと祝福を豊かに注いで下さい。お願い致します。全国各地で大雪の被害が報告されております。除雪等でクタクタになっている方々、そのような中でも今日も主の日の礼拝を誠実にまもっておられる方々、また様々な被害を受け、困難な生活を強いられている方々を憐れみ、慰めと励ましを注ぎ続けて下さい。今、求道生活を続けているお一人、お一人に聖霊を注ぎ、それぞれにいつの日か信仰告白、洗礼のときを備えて下さい。お願い致します。今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。どうか、それらの方々に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン主よ、我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2018年1月7日 日本基督教団 東村山教会 第1主日・新年礼拝・聖餐式 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第110篇1節~7節、新約 ルカによる福音書 第20章41節~44節
説教題:「まことの神よりのまことの神」
讃美歌:546、2、411、21-81、Ⅱ-95、540
主の年2018年1月7日の朝を迎えました。東村山教会に連なる 愛する皆さんと共に、新年礼拝をまもることが許され、心より嬉しく思います。主の年2018年の皆さんの歩みが、主の祝福と励ましに満ちたものとなりますよう、心よりお祈り申し上げます。
主は、新年礼拝に招かれた私たちに尋ねます。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。(ルカ20:41)」。「人々」を「あなたがた」にするとこうなる。「どうしてあなたがたは、私をダビデの子と言うのか。」主は、私たちキリスト者にこそ尋ねる。「あなたは『メシア』と『ダビデの子』の関係をきちんと理解していますか?」
まず「メシア」から確認しましょう。メシアはヘブライ語で「油注がれた者」を意味する言葉です。昨年のクリスマス礼拝で共に味わったルカ福音書第2章11節「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と同じメシア。メシアに対応するギリシア語は、クリストス。つまり、メシアはキリストを意味する言葉です。
次に「ダビデの子」ですが、「ダビデの子」は旧新約聖書に頻繁に登場します。新約聖書1頁を開きますと、「アブラハムの子ダビデの子、イエス•キリストの系図。(マタイ1:1)」とあります。さらに群衆も、「この人はダビデの子ではないだろうか(マタイ12:23)」と、主を「ダビデの子」と表現しています。それには理由があるのです。ダビデ王がイスラエルを目覚ましい王国に導いたように、「キリストはイスラエルを回復してくださる!」という大いなる期待があったからです。しかし主は、そのような意味で「ダビデの子」であることを否定されました。なぜか?「ダビデの子」に含まれる民衆の期待とは全く違う次元に私はある!と示すためです。パウロも、ローマの信徒への手紙の冒頭に「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス•キリストです。(1:3〜4)」と記す。つまりパウロは、御子を肉によればダビデの子孫と認めつつ、聖霊によれば死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたと定義するのです。
ルカ福音書に戻ります。主は語る。42節。「ダビデ自身が詩編の中で言っている。」詩編とは、ルカ福音書と共に朗読して頂いた詩編第110篇のことです。1節に「ダビデの詩。賛歌。」とあります。ダビデ王が旧約の時代に、救い主の到来を信じ、救い主を賛美したのが詩編第110篇。主はその詩編を引用して語るのです。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで』と。(ルカ20:42~43)」
「主は、わたしの主に」とあります。最初の「主」は父なる神を指し、次の「わたしの主」はキリストを指しています。つまり父なる神は御子キリストに、「私がキリストの敵たちをキリストの足台として置くまでは、私の右に座っているように」と告げたとダビデは詩編で預言するのです。
預言者イザヤも、神が「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。(イザヤ42:1)」と預言したように、ダビデやイザヤは、御子が単にダビデの子であるだけでなく神の子であり、神の子であるからこそ、「まことの神よりのまことの神」と預言するのです。
今朝は第一の主日。私たちはニケア信条をもって、主イエスへの公同の信仰を言い表しました。「わたしたちは、唯一の主、神の独(ひと)り子、イエス・キリストを信じます。主は
すべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものは この方によって造られました。」
主イエスは、「まことの神よりのまことの神」です。だからこそ真の神である主は語るのです。「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。(ルカ20:44)」
ダビデがメシアを主と呼ぶのは、キリストが真の神よりの真の神であり、父なる神と同質だからです。つまりキリストは、ダビデの子という意味で真の人ですが、真の神から生まれた神と同質な御方なのです。全世界のキリスト者が2000年以上もの間、礼拝し続けているのは、真の人であると同時に、真の神であられる主イエス・キリストです。私たちキリスト者は、主イエスはどのような御方なのかをニケア信条、使徒信条等で告白し続ける必要があります。間違っても、私たちにとって都合の良いイエス・キリストを告白してはなりません。
私たちの教会の主の日の礼拝では「礼拝のしおり」を用いております。その5頁を開きますと、「信仰の告白」とあり、その下にこのように書かれています。「全世界の教会が土台にしている基本信条を共に告白します。これによって、いつでも、どこでも、誰によっても、同じ信仰が言い表され、私たちの教会も公同の教会に連なる群れであることが明らかにされます。」簡潔な解説ですが、非常に大切なことが書かれております。私たちの信仰は、すぐに歪んでしまう危険があります。その結果、対立が生まれ、教会が分裂し、異端が生まれる。聖書の真理から離れると、自分にとって都合のよい神、キリスト、聖霊を語り出す。それが私たちの罪です。だからこそ、今朝の御言葉は非常に大切であり、主の年2018年をスタートした私たちにとって相応しい御言葉なのです。
父なる神と御子キリストが同質であるという教えは、古代教会で4世紀以降に「三位一体論(父なる神、子なる神<キリスト>、聖霊なる神が一体である)」として形成されていきました。その中で、今朝の御言葉のように、ダビデ自身がメシアを「主」と呼ぶことは「三位一体論」との関係で非常に大切なのです。だからこそ、古代教会において正統的な「三位一体論」は、キリストが父なる神と同質ではなく、父なる神に従属していると理解した異端に対し、神と御子の同質性を強調したのです。その根拠こそ、主の御言葉「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」なのです。
簡潔にまとめると、御子が44節で語っているように、ダビデは父祖としてダビデの子孫より偉大ですが、ダビデの子孫であるキリストは、ダビデから主と呼ばれるほどダビデより偉大です。つまり、神が御子の父として御子よりも偉大であるように、御子はキリストとして神よりも偉大です。従って、父なる神と子なる神は同質である。だからこそ、私たちキリスト者が救い主と信じる御子は「まことの神よりのまことの神」なのです。
真の神と同質であられる御子が、私たちの罪を赦して下さるために十字架の死を成し遂げて下さいました。そのときに裂かれた肉と流された血潮が、今、私たちの目の前に主の食卓として並べられております。主の年2018年も、第一主日に加え、イースター礼拝、ペンテコステ礼拝、クリスマス礼拝で主の食卓に与ります。本当に感謝なことであり、大きな恵み、大きな喜びです。
芳賀力先生の著書『神学の小径Ⅱ』にキリスト者の喜びが記されております。「ニケア信条は、子なる神は父なる神と同質である(ホモウーシオス)ことを高らかに宣言した。しかしその内容を引き継いでさらに明確化したカルケドン定式には、もう一つのホモウーシオスがある。それは、子なる神が私たち人間と同質であるということである。『御子は神性においては御父と同質であり、人間性においては私たちと同質である』。私たちはこのことを真剣に受け止めなければならず、幸いなことにそうすることが許され、命じられている。」
非常に重要な指摘であり、私たちキリスト者の喜びです。真の人であり、真の神であられるキリストと私たちが同質となる。今、目の前に並べられている主の食卓。私たちのために裂かれた主イエスの体であるパンと、私たちのために流された主イエスの血潮である杯からなる主の食卓に与る私たちは、御子と同質な存在とさせて頂くのです。そのような驚くべき恵みを真剣に受け止め、感謝し、喜ぶとき、私たちは無理に年頭の抱負を考える必要がなくなる。この一年もただ主を愛し、ただ主に従い、ただ主の復活と再臨を信じ続ける。そのとき、どんなに世界が騒がしく、大きな不安や死の闇に襲われるとしても、主の年2018年も「まことの神よりのまことの神」であられるキリストと共に平安に歩み続けることが許されるのです。
聖餐式の後、讃美歌第2編95番「わがこころよ、いま」を共に賛美します。4節「主はいのちの糧/わがなぐさめなり。とうときみまえに/したしくみちびき、めぐみの糧もて/ゆたかにやしない/ちからをあたえて/やすきをたまえや。」主の年2018年も、主の御前に自らの罪を悔い改め、全てを主に委ね、聖餐の恵みに感謝し、礼拝から礼拝への歩みをキリストと共に真摯に続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の年2018年の新年礼拝にお招き下さり心より感謝申し上げます。主よ、新しい年もただ主を愛し、ただ主に従い、ただ主の十字架と復活そして再臨を信じ続けるものとして導いて下さい。主よ、私たちは礼拝から新年を迎えることが許されました。しかし、全世界にはまだあなた様のこと、そしてあなた様と同質であられる御子のことを知らない方が大勢おられます。どうか、クリスマスは終わりますが、この一年も伝道のスピリットを忘れることなく、一人でも多くの方に主の十字架と復活、そして再臨の喜びを宣べ伝えるものとして私たちを存分に用いて下さい。これらの貧しき願いと感謝、真の救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・主の年2018年も、東村山教会に連なるお一人お一人にあなた様の祝福を溢れるほどに注ぎ続けて下さい。
・昨年も様々な自然災害が全国、全世界を襲いました。今も困難な生活を強いられている方々が希望を失うことなく、歩み続けることが出来ますよう聖霊を注ぎ続けて下さい。
・世界の情勢が緊迫しております。どうか、自国の利益ばかりを求めるのではなく、それぞれの国が支え合って歩むことが出来ますよう導いて下さい。
・1月から3月は大きな節目を迎えるときでもあります。特に、受験を控えている方々、卒業を控えている方々にあなた様が聖霊を注ぎ、御心なら希望する道を歩むことが出来ますよう導いて下さい。
・熱心に求道生活を続けている方々を引き続き導いて下さい。特に、勇気を出して教会の門を叩いた方々をこれからも力強く導いて下さい。
・今朝も病のため、様々な理由のため、新年礼拝に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。どうか、私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年12月31日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第146篇1節~10節、新約 ルカによる福音書 第20章27節~40節
説教題「すべての人は、神によって生きている」
讃美歌:546、14、107、266、539
主の年2017年、最後の主日となりました。今年は1月1日が主日でしたので、礼拝から一年が始まり、礼拝で一年が終わることになります。この一年、それぞれに様々な経験をなさられたはずです。先週のクリスマス礼拝において受洗した二人の姉妹、信仰告白した二人の姉妹は初めての聖餐の恵みに大いに感激したはずです。反対に、愛する人を失った方は、やはり厳しい一年だったと思います。それぞれに様々な思いを抱えつつ、今年最後の礼拝へ招かれた私たちに、主イエスは、「すべての人は、神によって生きているからである。」と語りかけて下さるのです。
ところで、皆さんも人から尋ねられたことがあるはずです。道を尋ねられる。「東村山教会にはどういったらよいですか?」簡単なようで説明するのはなかなか難しい。それでも何とか答えることが出来ます。それに対し、複雑な問題について「あなたならどう思う?」と尋ねられるとどのように答えてよいのか悩むことがある。それでも私たちは相手が真剣に、何かヒントが欲しい!との切実な思いを感じれば、出来るだけ丁寧に誠実に答えるものです。
今朝の御言葉に登場するサドカイ派の人々も複雑な問題を抱え、「先生なら、何らかの道を示して下さるに違いない」と、主に尋ねたと思いたい。けれども、ルカ福音書を読み続けた私たちは、これまでと同じ空気を感じる。つまり、主の言葉じりをとらえ、総督の支配と権力に主を渡そうとした祭司長や律法学者のように、サドカイ派の人々も真実に主に尋ね求めたのではなく、やはり主の言葉じりをとらえようと企んでいたのです。根拠は27節。「復活があることを否定するサドカイ派」です。
サドカイ派の人々は、現状維持を好む裕福な祭司長や長老たちから構成され、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のみを権威ある書として認め、天使も復活も否定するのです。だからこそ、三度も自らの死と復活を予告した主イエスに対し、サドカイ派の人々は復活を否定するべく、主に尋ねたのです。
サドカイ派の人々が主に尋ねた内容を語り直す必要はないと思います。まず感じたのは、「よくもまあ、こんなにも手の込んだ質問をぶつけたものだ」です。その上で、サドカイ派の人々には、隣人の悲しみに共感する心を感じられない。少しでもそのような心があれば、質問の途中で言葉が詰まるはずです。たとえ悪意の質問であっても。なぜなら、ある女性が7人兄弟の長男の妻になった。妻は周囲から大いに子ども期待された。しかし、子を産むことが出来なかった。しかも、その理由は、夫が先に召されたから。女性は、律法に規定されているように次男の妻となった。けれども、子を産むことが出来なかった。兄と同じ理由。それではと三男、四男、五男、六男、七男の妻となった。しかし、子を産むことが出来なかった。しかも夫が7人とも先に召された。想像するだけで胃がキリキリ痛む悲しみであり苦しみです。これほどの悲しみ、苦しみを経験したやもめはいるでしょうか?やもめの気持ちを全く考えることなく、復活を否定したいために、このような質問を主にぶつけた。もしも、同じ質問を私にぶつけられたら、相手の罠に引っ掛かり、感情的になったはずです。しかし、主イエスは違いました。サドカイ派の人々にこそ、復活にあずかる者になって欲しい!と祈りつつ、死者の復活を語って下さったのです。
説教の冒頭でも触れましたが、クリスマス礼拝では、二人の姉妹の洗礼式が執り行われました。洗礼はキリストと結ばれることです。洗礼式、信仰告白式の後、私たちは聖餐の恵みに与った。洗礼を受け、キリストと結ばれたことを、目に見える形で味わうのが聖餐式。悔い改めつつ、主の裂かれた肉と流された血潮を目で見、口で味わう。その瞬間、神に感謝しつつ、本気で信じるのです。「私は誰が何と言おうとキリストのものとなった。キリストと共に永遠の生命が約束された。だからこそ、私たちキリスト者は、キリストの復活の力を知り、キリストの苦しみにあずかり、おりを得ても得なくても、御言葉を宣べ伝え、一人でも多くの方々が洗礼に導かれて欲しい!と祈り続けるのです。
当然ですが、洗礼によってキリストと結ばれるためには、それまでの自分が生きていては不可能です。罪の私が洗礼によって死ぬ。その上で、全く新しい生命に生きるものとされる。受洗し、信仰告白したキリスト者はキリストと共に死にキリストと共に生きるものとされるのです。私たちは様々な知識を駆使して復活を科学的に証明する必要はありません。なぜか、主イエスが三日目に復活された。そして婦人たち、弟子たちに出会って下さった御言葉があるからです。私たちキリスト者は生涯、御言葉をまっすぐに信じ続けるのです。
主の年2017年、3名の教会員が召されました。一緒に新年を迎えた神の家族が今朝は座っておられない。だからこそ主は、死者の復活を語るのです。34節。「この世の子らは
めとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。(20:34~37)」
今朝は、ルカ福音書と共に、詩編第146篇の御言葉を朗読して頂きました。慰めと励ましに満ちた御言葉です。5節。「いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人」そうです。ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人は幸いなのです。改革者カルヴァンは5節の註解でこう語ります。「人間の希望が確かなものとされるのは、唯一の神を頼みとするときである」。私たちキリスト者も、ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人です。よって、私たちは幸いなのです。主イエスも、出エジプト記第3章6節から、私たちが頼みとする神を語っておれます。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
主イエスは、「死者が復活することは、モーセも「柴」の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。」と語っております。素朴な疑問ですが、なぜ「神をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ぶことが死者が復活することに繋がるのでしょうか。一言で表現するなら、アブラハム、イサク、ヤコブは過去の人物ではないということです。どういうことか?主イエスはアブラハム、イサク、ヤコブは神との交わりにおいて、今も生かされており、神によって復活させられ、今も神と共に生きていると宣言しているのです。主は続けます。38節。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。(20:38~39)」父なる神が私たちの救いのために御子を世に遣わして下さったと信じ、信仰告白し、洗礼を受けたキリスト者は、天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子であると主は語られた。だからこそ、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、そして私たちキリスト者の神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神であり、すべての人は、神によって生きていると主は語るのです。
ここで、38節の後半、今朝の説教題でもある「すべての人は、神によって生きている」を丁寧に味わいたいと思います。原文を忠実に訳すとこうなる。
「なぜなら、皆、彼(神)によって生きるから」となります。次に口語訳は「人はみな神に生きるものだからである」と訳されている。さらに新改訳では「というのは、神に対しては、みなが生きているからです」と訳されています。それぞれ微妙にニュアンスが違います。いずれにしても、私たちキリスト者は洗礼によってキリストに結ばれた。その驚くべき恵みによって、罪の私が死に、キリストと同じ神の子となった。その結果、私の生涯は神のものであることに気がついた。洗礼を受けるまでは、ただ自分のため、親のため、伴侶のため、子のために一所懸命に生きてきた。それが、洗礼を受け、キリストと結ばれたことで、神の子とされた。その瞬間、私たちは神に生きる者となったのです。神によって創造されたすべての人は、神を信じる、神を信じないに関わらず、神を仰ぎつつ歩むべきです。それは決して窮屈な生き方ではありません。その反対。主なる神様の愛に包まれ、御子の復活を信じ、与えられたたった一度の地上の生涯をインマヌエルの主と共に神を仰いで歩み続ける。何と、喜ばしい生涯でしょうか。しかも、キリストと結ばれた私たちの地上の生涯は、死で幕を閉じるのではない。神の子とされたすべての人は、一人の例外もなく永遠の生命が、復活の生命が約束されているのです。
説教の後に賛美するのは讃美歌266番です。実は、最初の讃美歌14番、説教前の107番、そして説教後の266番は全てパウル・ゲルハルトによる讃美歌です。ルター以後、ドイツの最も偉大な讃美歌作者といわれるパウル・ゲルハルト。彼の生涯は悲惨な30年戦争と重なっており、個人的にも子どもや妻に先立たれるなど、多くの悲しみに襲われました。そのような試練の中にあって、ひたすら神の恵みを信じ、十字架と復活、また再臨のキリストによる慰めを賛美し続けたのです。だからこそ、多くの人々がゲルハルトの讃美歌に励まされ、慰めを与えられたと思います。晩年は、讃美歌作者からベルリンに近いリュッベンの牧師として残された生涯を主に献げたのです。
ゲルハルトの讃美歌には、たくさんの聖句がちりばめられています。主の年2017年はルターの改革から500年という節目の年でしたが、その最後の主日にルターの信仰を受け継いだゲルハルトの讃美歌を賛美することが許されたことは大きな喜びです。讃美歌266番は、ローマの信徒への手紙第8章を通して父なる神の愛、子なるキリストの愛、聖霊なる神の愛を高らかに賛美しております。まさに聖書を歌うという改革者ルターの伝統を引き継いだ慰めに満ちた讃美歌です。
最後に、パウロによって記されたローマの信徒への手紙第8章38節以下を朗読させて頂きます。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他(た)のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(8:38~39)」
(お祈りを致します)
主イエス・キリストの父なる御神、十字架の苦しみを見据えつつ、その彼方に甦りの勝利をすでに望んでおられた主イエスのみ言葉を、私たちもまた、私たちに投げかけられた、主からの言葉として聞き取ることができますように。私たちもまた、天使のごとくあなたに仕え、主イエスのごとく甦りのいのちに生きることができ、さまざまな思いわずらいから解き放たれて、与えられたままのいのちをいきいきと生きる。これが主の私たちに与えてくださった道であることを確信して、鮮やかに生きることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。主イエス・キリストの父なる神様、私たちは御霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに御霊を注ぎ続けて下さい。主の年2017年を終えることが許されました。心より感謝申し上げます。
・クリスマス礼拝の恵みを感謝(二人の受洗。二人の信仰告白)
・この一年、様々な悲しみ、苦しみ、痛みを経験されたお一人お一人をあなた様がしっかりと抱きしめ、新しい年もずっと支え、導き続けて下さい。
・明日から始まる主の年2018年も、御子の十字架の死によって罪赦され、御子の復活によって永遠の生命が約束された恵みを感謝し、与えられる一日一日を大切に歩むことが出来ますよう私たち一人一人を力強くお導き下さい。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集うことの出来なかった兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年12月24日(日)日本基督教団 東村山教会 クリスマス讃美夕礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:新約 ルカによる福音書 第2章15節~21節
説教題:「さあ、ベツレヘムへ行こう」
讃美歌:98、111、115、112
主の年2017年12月24日の夜となりました。今日はクリスマスイブ。同時に、24日が日曜となりましたので朝はクリスマス礼拝をたくさんの兄弟姉妹と共に守ることが許されました。教会の方々はご承知のようにクリスマス礼拝ではIさん、Mさんの洗礼式。Tさん、Mさんの信仰告白式を執り行うことが許されました。主なる神によって釧路の春採教会から東村山教会に遣わされ、私にとって3度目のクリスマス。その喜びの日に御子主イエスを私の救い主キリストと信じます!と信仰告白したキリスト者が新しく生まれたことは、大きな喜びです。
また午後2時からは教会学校こどもクリスマスも行われました。こどもたち、また今年は大人の方々もそれぞれに衣装を身に着け、天使、マリア、ヨセフ、宿屋、羊飼い、そして3人の博士を一所懸命に演じて下さいました。その後、美味しいケーキをご馳走になり大人も子どもも共にクリスマスの喜びをわかちあったのです。そして夜7時。私たちは東村山教会に招かれ、前奏に導かれてクリスマス讃美夕礼拝を始め、約束、預言、告知、成就の御言葉に耳を傾け、讃美歌98番、111番、115番を共に賛美したのです。
クリスマス讃美夕礼拝に出席している皆さんの中で今夕、初めて教会にいらした方がおられるかもしれません。緊張しつつもクリスマスイブの夜、しかも日曜となったので思い切って教会に行ってみよう!と決断された方もおられるかもしれません。本当に良かったと思います。なぜか?教会に行くと、大きな喜びに満たされるからです。教会に行くと、救い主イエス・キリストに出会うことが出来るからです。だから、羊飼いたちが「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合ったように、私たちも羊飼いのように「さあ、教会へ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と決断し、行動することを神は今か今かと待っておられるのです。
皆さんにとって教会とはどのようなところでしょうか?楽しいところ?退屈なところ?温かいところ?冷たいところ?緊張するところ?リラックスできるところ?堅苦しいところ?柔らかいところ?
私が最初に教会に通い出したのは小学1年の春でした。東村山教会の皆さんは何度も同じ話で恐縮ですが、私が教会に通い出したきっかけは人生に疲れてであるわけがなく、ただマクドナルドのハンバーガーが食べたかったからです。どういうことか?通い続けた鎌倉の教会の目の前に支店があった。当時(私は50歳なので40年以上前)マクドナルドが日本に上陸した直後。その珍しいハンバーガーを教会に行くと、ご褒美として母が食べさせてくれた。よって、教会に通い続けたのです。教会に通い続けると、今度は教会の方が食いしん坊の私の顔を見ると、「たかおちゃん、これあげる」とお菓子をくださる。教会の行事では美味しい食事、お菓子、ケーキがなぜか私のテーブルの前にたくさん並んでいる。それが嬉しくて教会から離れることなく、ずっと通い続け、とうとう今、牧師として歩むことになったのです。そのような私にとって教会とは本当に美味しいところ。嬉しいところ。楽しいところでした。
しかし今、伝道者として9年目となりましたが、教会にも様々な課題があります。教会の外には課題どころか、主イエスがお生まれになったベツレヘムで争いが激化している。「イスラエルの首都はエルサレム!」と米国大統領が発表したことで今、世界情勢はとんでもないことになっています。そのような中、ルカ福音書に記されているクリスマス物語を読むと、クリスマスの喜びは特定の民だけではなく、第2章10節にあるよう「民全体に与えられる大きな喜び」です。しかし、現実には民族対立があり、血が流され、子どもが犠牲になり、憎しみと嘆きの叫びが聞えるのです。
朝の礼拝でも触れましたが、主の年2017年、東村山教会に連なる教会員が何人も召されました。また教会員でなくても、家族、親戚、友人、ペットが亡くなった方がおられます。私に報告して下さった方だけでも相当数おられる。そうです。当然ですが、教会に通えば全てがバラ色ということはあり得ない。信仰告白し、受洗すれば、全ての苦しみから解放され、ハッピーな毎日が約束されるということもないのです。では、なぜ私たちは教会に通い続けるのか?それは、主の十字架を信じるからです。しかも、十字架の上に主はおられない。復活されたからです。十字架と復活の主が教会で待っておられる。そして神の言葉である聖書が朗読され、共に主を賛美し、聖餐の食卓に与り、特別な日は洗礼式、信仰告白式も執り行われる。それらを通し、「御子はクリスマスの夜に生まれて下さり、今も私たちに聖霊を注ぎ、生きる力を与えて下さる」と主に感謝するようになるのです。
そのためには、「さあ、教会へ行こう。」と日々、心に刻み続けることが大切です。確かに、教会に通い続けることは忍耐を強いられることかもしれません。子どもから大人まで、忙しい日々を過ごしている。ようやく時間が与えられたと思ったら、親の介護が待っている。ようやく親の介護が終わったら、自分の身体が弱くなり教会に通う気力も萎えてしまった。それが現実かもしれません。
しかし、羊飼いたちこそ虐げられ、その日暮らしの集団。誰にも評価されず、報われない日々を過ごしていた。そのような羊飼いに、天使は力強く宣言したのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。(2:10~12)」
天使は宣言して下さった。「恐れるな」と。その上で、「民全体に与えられる大きな喜びこそ、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子である」と。神は、御子を立派な宮殿ではなく、冷たい風が吹く、飼い葉桶の中に寝かせて下さったのです。なぜか?馬小屋ならば誰でも行けます。飼い葉桶の中に寝ているなら、何の遠慮もいりません。馬やロバ、牛も羊も御子を覗き込むことが出来るのですから。その意味で教会の敷居は決して高くないのです。教会こそ馬小屋です。幸い、東村山教会は床暖房がありますので、足から暖かくなり、温風も吹く。けれども、気持ちとしては何の囲いもなく、誰でも自由に入れる究極のバリアフリーな場所なのです。
お手もとのプログラムにはかわいいイラストが描かれております。馬小屋の様子です。行こうと思えば、誰でも御子を拝むことが出来る。しかも、御子は立派なベッドに寝かされ、二重、三重のカーテンで隠されているのではない。本当に誰でも抱くことが出来るよう、誰でも触れることが出来るよう、貧しい場所に、冷たい場所に、低い場所に生まれて下さったのです。
本日のクリスマス礼拝に向けて、いくつかの説教集を読ませて頂きました。その中の一冊に日本キリスト教団出版局が発行した『日本の説教』シリーズの一冊を読むことが出来ました。説教者は自由学園の創設者
羽仁もと子先生です。羽仁先生は『キリストの犠牲』という説教で、こう語ります。「世の中にお生まれになった、謙遜なイエスを見ましょう。彼は何を持っていたでしょう。この世の人の欲するものを、その身辺にたった一つも持っていませんでした。彼を王宮にお下しにならなかったのは、神様のありがたい思召(おぼしめし)です。彼が王宮に生まれたならば、そういうところがたやすくすべての人にありがたがられたでしょう。決して十字架にはかけられなかったでしょう。ユダヤの馬小屋でなくローマの宮殿に生まれたら、すぐと世界中に、イエスの存在が知れ渡ったでしょう。東方の三人の博士でなく智者も学者も雲の如く
その膝下(しっか)にひれ伏したでしょう。しかし最初に み子を拝したような牧羊者(ひつじかい)たちは、玄関にも行かないうちに追い払われたでしょう。癩病人(らいびょうにん)や税吏(みつぎとり)は、威勢に恐れて近づこうなどとは、思いにも浮かばなかったのでしょう。大勢の働く人たちは彼に親しむことが出来なかったでしょう。そうして世界は依然として古いままであったでしょう。人の罪は依然としてもとのままであったはずです。」
それこそ小さい頃からルカ福音書のクリスマス物語を読んでいたはずですが、今回、羽仁先生の説教を通して、主イエスが宮殿ではなく、馬小屋で産まれて下さったことが本当に大きな恵みであることを強く心に刻むことが出来ました。そうです。私たちはどんなに罪深いものであっても、どんなに弱さを抱えていても、どんなに教会の敷居が高く感じても、主が馬小屋で産まれて下さったのですから、私たちも「さあ、教会へ行こう。」と叫んでよいのです。羽仁先生が指摘して下さったように、この世から隔離された人々、虐げられた人々こそ、まっさきにベツレヘム、いや、教会へ行って、主の十字架の愛と赦しと招きを頂き、どんなときも共に歩んで下さるイエス様の愛を信じて歩み続けて良いのです。このあと聖歌隊の賛美、希望の御言葉に耳を傾け、最後は讃美歌112番を通して主を賛美します。教会員の皆さん、求道者の皆さん、そして、勇気をもって初めて教会にいらした皆さんの上にインマヌエルの主の祝福が豊かに注がれますよう祈ります。(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる神様、今夕も私たちの名を親しく呼んで下さり、クリスマス讃美夕礼拝にお招き下さり、心より感謝致します。私たちの世には今も闇があります。そして私たちの心にも闇があることをあなた様はご存知です。だからこそ、あなた様は今日、私たちのために真の光として御子主イエス・キリストを与えて下さいましたから、重ねて感謝致します。どうか、どんなに辛い夜も、あなた様が独り子を世に遣わして下さった真の愛を信じ、地上での生命を誠実に歩む者として下さい。お願い致します。これらの願いと感謝とを、私たちの救い主インマヌエルの主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げ致します。アーメン。
2017年12月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第9章1節~6節、新約 ルカによる福音書 第2章1節~14節
説教題「大きな喜び」
讃美歌:546、100、102、Ⅱ-1、114、545B
たった今、Iさん、Mさんの洗礼式、さらにTさん、Mさんの信仰告白式を執り行うことが許されました。大きな喜びです。主の年2017年、東村山教会では色々なことがございました。喜びがあり、悲しみがあった。悲しみは3名の教会員が召されたことです。昨年のクリスマス礼拝に出席しておられたK兄、K姉、さらにM姉が5月、7月、8月にそれぞれ召されたことは厳しい出来事でした。K家、K家、M家の方々以外にも、家族、親戚、友人の死を経験された方々、また家族のように生活したペットの死を経験された方々にとって、「クリスマスは大きな喜びの日」と言われても、もしかすると、大きな喜びに浸ることの出来ない方もおられるかもしれません。
私たちが経験する悲しみ、苦しみ、痛みを一言で表現すると、「闇」かもしれません。闇の中で、もっとも深い闇は「死」です。私自身、今年は3月、5月、7月、9月と葬儀の司式を担わせて頂きました。葬儀では永遠の生命を語る。しかし葬儀が終わり、火葬が終わり、共に礼拝を守っていた兄弟姉妹が遺骨になると何とも言えない気持ちになる。それが私たちです。つまり愛するものの死を経験するとき、私たちは羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていたときと同じ気持ちになるのかもしれません。
周囲は暗闇。人々は眠っている。そのような時間に働かねばならない。当時の羊飼いは、自分の羊を飼っていたわけではなかったようです。つまり、羊の所有者に雇われている。しかも、仕事の内容は肉体的にも精神的にもきつい。日中は、照りつける太陽の光を避けることができず、夜は、冷たい空気で手足が痛くなる。そのような手で羊を襲う狼を杖や鞭、また石を投げて追い払う。さらに羊泥棒もいたはずです。常に緊張を強いられる。また彼らは住所不定。よって、住民登録の必要がない。皇帝アウグストゥスから見れば無価値な存在です。またユダヤ人からも、「律法を遵守しない罪人」と烙印を押されていた。つまり羊飼いは、神様にも人にも見捨てられた存在と思われていたし、彼らもそれが運命と諦めていたのです。そのような羊飼いたちの闇に、人生の大逆転が起きた。何と、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたのです。
私たちは皆、様々な働きを神から託されています。受洗したIさんは家庭の主婦。Mさんは高校生。信仰告白したTさん、Mさんは中学生として学んでいます。しかし、そのような日々の中、羊飼いのように手足が冷たくなり、心が折れてしまうことがある。真面目に努力し、頑張っているのに人々から評価されず心が暗闇に支配されてしまう。そのようなとき、私たちも羊飼いのようにボロボロになり、惨めになり、ヘナヘナと座り込み、動けなくなるのです。けれども、主の天使は、そのようなヘナヘナの羊飼い、私たちに真っ先に近づいて下さる。しかも、近づいて下さるだけでなく、主の栄光がヘナヘナの羊飼い、私たちの周りを照らして下さるのです。
皆さんの中でスポットライトを浴びる舞台に立ったことのある方はおられるでしょうか?演劇、演奏、踊り等をなさっている方はスポットライトを浴びた喜びを忘れることが出来ないようです。素敵な衣装を身に着け、舞台に立ったとき、眩しい光に照らされる。そして、最後は聴衆の拍手。その瞬間、大きな喜びに包まれるのです。しかし、クリスマスの夜の舞台に立ったのはボロを身に纏った羊飼いたち。目の下にはクマがあり、睡魔に負けそうになっている。しかも、神にも人にも見捨てられたと思い、生きていても意味がないと本気で自らの人生を諦めていたかもしれません。つまり、ほんの一瞬でも眩しい光を浴びることなどどう逆立ちしても考えられない羊飼いたち。そのような彼らを私たちが作り出すことの出来ない圧倒的な光が照らした。当然ですが、彼らは突然の出来事に腰を抜かし、非常に恐れたのです。
そのときです。天使が語りかけた。「恐れるな。わたしは、あなたがた羊飼いを含む全ての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、誰にも顧みられない羊飼いを含む全ての民のために救い主がお生まれになった。この方こそ、あなたの救い主メシアである。あなたがたも見つけることができる。乳飲み子を。この乳飲み子こそ、あなたを死の闇、惨めさ、悲しみ、そして罪から救ってくださる御方である。さあ、ベツレヘムへ行きなさい!間違えるな。メシアが寝ているのは宿屋ではない。乳飲み子はあなたがたが着ているボロにくるまれ、飼い葉桶に寝ている。その方こそ、あなたがたの救い主メシアだ。」
彼らが震えていると、突然、天の大軍が加わり、神を賛美して言ったのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」彼らは人工的なスポットライトでなく、主の栄光に照らされ、天の大軍の賛美をSS席の最前列で観ることが出来たのです。しかも、天の大軍から「あなたも主の御心に適う人になり、主イエスと共に、闇の世に主の平和を実現するのだ!」との招きの言葉を頂いたのです。
さて、ルカ福音書第3章に主イエスの受洗の様子が記されております。民衆が皆 洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(3:21~22)。そうです。御子が洗礼を受けて祈っておられると、天の大軍が賛美した「地には平和、御心に適う人にあれ。」と同じ御声が聞こえたのです。つまり、受洗し、信仰告白した4人の姉妹も「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」となったのです。神は宣言します。「あなたがたは洗礼を受け、信仰を告白した。その結果、聖霊が降ったのだ。あなたがたは永遠に『わたしの愛する子ども』であり『わたしの心に適う者』なのだ。だから喜べる。これからどんなに辛いことがあっても、死の闇に襲われても喜べる。それもメガサイズの喜びなのだ。」実際、第2章10節「大きな喜び」と訳された原語は、χαραν(カラン・喜びを)μεγαλην(メガレィン・大きな)となる。つまり、「大きな喜び」とは御子の誕生であると同時に、受洗し、信仰告白したものが御子と結ばれ、御子のように神の子とされる喜びなのです。
神はMさん(高2)、Tさん(中3)、Mさん(中1)の年齢だったかもしれない10代のマリアを御子の母として選びました。マリアも信じたのです。天使ガブルエルの言葉を。「神にできないことは何一つない。(1:37)」
神は、御言葉を信じるマリアを選んで下さった。これが神の選びです。本日、受洗し、信仰告白した4人もIさんは家庭の主婦、Mさん、Tさん、Mさんは普通の中高生。しかし、そのような4人が受洗し、信仰告白したことで、聖餐の恵みに与ることが許された。聖餐の恵みは有名になることより、財産を所有することより、地位や名誉を得ることより遙かに大きな喜びです。
御子は、生まれたときから十字架を背負っておりました。真の人であり真の神であるにもかかわらず、布というよりボロにくるまれ、つめたい飼い葉桶の藁の上に寝かされたのです。私たちが藁の上に寝かされることはありません。新生児用ベッドに敷かれた清潔なシーツの上に寝かされたはずです。しかし、御子は違った。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからです。父なる神は、皇帝アウグストゥスを用い、住民登録の勅令を出させ、ヨセフと身重のマリアに長旅という鍛錬を与えた。しかも、マリアはヨセフを男として知らなかった。それなのに身重になってしまった。当時の法律では未婚の母は姦淫罪ですから石打ちの刑です。よってヨセフもマリアへの複雑な心を抱えつつ旅を続けたのです。父なる神からのこれでもか、これでもかという鍛錬に思える。しかし、そのことがあったので、主イエスは宿屋ではなく、冷たい飼い葉桶の藁の上に寝かされたのです。
私たちも罪の自分が嫌になり、生きるのが辛いときがある。突然、自然災害に襲われ、全てを失うときがある。難病の宣告を受け、目の前が真っ暗になるときがある。愛する人を失い、激しい痛みに襲われ、うずくまるときがある。そのとき、乳飲み子キリストが私たちですら寝たことのないつめたい飼い葉桶の藁の上に人々から排除され寝かされたことを思い起こしたい。キリストこそ、私たちの救いを成就するため、世に遣わされ、つめたい飼い葉桶に寝かされ、弟子たちに裏切られ、生まれたときと同じ姿でつめたい十字架の上で私たちの罪を赦すために、父なる神からも見捨てられ、真の死を成し遂げて下さったのです。御子が生まれて下さらなければ、パンと杯を配餐して下さらなければ、十字架で死んで下さらなければ、復活して下さらなければ、私たちはこの世の暗闇に絶望し、罪の自分に耐えられず、他者の罪を赦せず、地上の死をもって滅んでしまうのです。だからこそ、御子は真の神であるにもかかわらず、真の人として世に遣わされた。そして、私たちが経験する痛み、悲しみ、苦しみ、嘆き、死をも経験して下さり、復活によって死の闇に完全に勝利して下さったのです。
受洗した二人、信仰告白した二人、そして全てのキリスト者は一人の例外もなく、洗礼を受けた瞬間、御子に結ばれた。その結果、罪の私が死に、新しい生命が与えられたのです。パウロはエフェソの信徒へ語ります。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(5:8)」そうです。私たちは受洗、信仰告白によって真の光である御子に結ばれ、闇の子から光の子へと変えられたのです。惨めなときも、自らの罪にうなだれるときも、不安なときも、主に結ばれた私たちはキリストの栄光に照らされるものとなったのです。父なる神は、愛する独り子にボロをまとわせ、皇帝の権力を利用し、最後の最後に御子を裏切る弟子たちを用い、十字架で御子の身体を裂き、流される血潮を求められた。そこまでして私たちとの和解を真剣に求めて下さったのです。大きな喜びであり慰めです。熱情の神の愛が示されたのがクリスマス。御一緒に主の食卓に与りましょう。
(祈祷)
主よ、主の食卓に初めて与る姉妹方に祝福を注いで下さい。姉妹方と共に主の食卓に与る全ての兄弟姉妹に祝福を注いで下さい。特に、クリスマス礼拝への出席を祈り続けたにもかかわらず、主の食卓に与ることの出来なかった方々に祝福を注いで下さい。インマヌエルの主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も私たちに聖霊を注いで下さい。本日、Iさん、Mさん、Tさん、Mさんが東村山教会の現住陪餐会員に加えられ心より感謝申し上げます。共に祈り合って歩むものとして導いて下さい。先週も世界中で争いがありました。血が流され、嘆き、憎しみ、悲しみの声が響きました。主よ、深い悲しみの中にある方々、嘆きの中にある方々に主の慰めを注ぎ続けて下さい。主よ、愛する人を失った方々、病に冒されている方々、希望を失っている方々に、クリスマスの喜びを届けて下さい。今朝も様々な理由のためクリスマス礼拝を欠席された兄弟姉妹が大勢おられます。どうか、それらの方々の上に私たちと等しいクリスマスの大きな喜びをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年12月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第10章12節~22節、新約 ルカによる福音書 第20章20節~26節
説教題「神のものは神に返しなさい」
讃美歌:546、97、190、357、545A
律法学者たちや祭司長たちは、主イエスに手を下そうとしましたが、民衆を恐れました。そこで、彼らは頭を使ったのです。「どうしたら、合法的にイエスの命を奪うことが出来るか?」浮かんだのが20節にあるように「正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエス」を渡すことでした。自分たちの手を汚すことなく、総督の支配と権力によってイエスを合法的に殺すことが出来る。彼らはニンマリと不気味な笑みを浮かべ、行動を開始したのです。
回し者らは主に尋ねました。21節。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適(かな)っているでしょうか、適っていないでしょうか。」誠実なようで、極めて不誠実な質問です。主が「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っている」と言われれば、ローマの軍隊を追い払い、ユダヤの独立を成し遂げたい人々が腹を立て、主を殺すかもしれない。反対に、「律法に適っていない」と言われれば、律法学者たちや祭司長たちの期待通り。「イエスがローマに反逆した!」と総督に渡すことができる。彼らの思う壺。しかし、主イエスは真の人であると同時に、真の神であられる。すぐに彼らのたくらみを見抜いた。主はどんなに愚かな質問であっても、誠実に質問すれば、誠実に応えて下さる御方です。しかし、私たちが不誠実だと私たちを否まれる。つまり主は、テモテへの手紙二に書かれている通りの御方なのです。「キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。(2:12〜13)」
主は、彼らのたくらみを見抜いて言われました。24節。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
キリストは常に真実。だからこそ彼らに言われたのです。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」実際、デナリオン銀貨には、皇帝の肖像に加え「神に列せられるアウグストゥスの子、ティベリウス」との銘が彫ってあります。唯一の神を信じるユダヤ人はデナリオン銀貨の肖像と銘は許せない。しかし、現実は皇帝の肖像と銘が刻まれている。よって、彼らは「皇帝のものです」と応えた。すると主は「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われたのです。
常に真実であられるキリストは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。私たちキリスト者も当然ですが、税金を納めます。その意味では、私たちも皇帝のものは皇帝に返しているのです。しかし、税金を納める国民、また税金を用いる国家も常に神の眼差しを意識し続けることが大切です。改革者カルヴァンは、キリスト教綱要第4篇
第20章「国家の行政について」13節で税金について、このように論じています。「その金はむしろ民衆の血のようなものであって、これを惜しんで節約しないのは最も冷酷な非人道行為であること、また課税その他の種類の税は公的必要を支える手段に他ならず、正当な理由なしに悲惨な民衆をこれによって疲弊させるのは暴君的略奪であることを思わなければならない。上記のことは(中略)様々な要件に関わる時に神の前における清き良心をもってするのでなければ何事も敢えてせず、不敬虔なる自己過信によって神を侮(あなど)ることがないよう、自分に許されているのはどこまでかを学び知らせるためである。この教えは、私人としての各々にとっても余計なことではない。君主の支出が通例の市民生活の程度を越えているとしても、軽率にまた厚かましく侮辱を浴びせてよいと思わぬためである。」カルヴァンによる国家、市民への警告は、もしかすると今朝の御言葉がベースにあるのかもしれません。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」やはり、国家も市民も神の眼差しを意識し続けることが大切なのです。
御言葉に戻ります。26節。彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。律法学者や祭司長の回し者は、主の答えに驚いて黙りました。しかし、この場では黙りましたが、最後は御子を総督の支配と権力によって十字架で処刑したのです。
主イエスの十字架の死の責任は総督にあります。同時に、私たちにも責任があることは間違いありません。なぜなら、総督の心は私たちもあるからです。自分が皇帝になってしまう。夫が妻の、親が子の、上司が部下の暴君になる。自分よりも力のあるものと思えば、正しい人を装う。反対に、自分よりも力が劣ると思えば、正しい人を装う必要がない。その結果、本能のままに振る舞う。そのとき、まさに先週の御言葉のように神の眼差しを忘れている。ぶどう園を借りている立場にもかかわらず、自分がぶどう園の主人だと勘違いしてしまう。その結果、主人から送られた僕を袋だたきにし、最後は主人の愛する息子までぶどう園の外にほうり出し、殺してしまった。農夫こそ、私たちそのものです。
主イエスは、真実の心で最後の譬えを語りました。何としても、私たちの目を覚ましたい!偽善を悔い改めに導きたい!決して、ファリサイ派、律法学者、さらに祭司長が憎いから語ったのではありません。これも先週の御言葉ですが、隅の親石である主イエスが私たちの上に落ちることで、頑なな心が打ち砕かれ、押しつぶされる。その結果、私たちの生命、全てが神のものであると気がつく。そして、神のものを託されている事実を喜び、主に感謝し、謙遜に歩むようになる。その意味で、今朝の御言葉も私たちを打ち砕くと同時に、「私の愛する子として、喜んでたった一度の地上での生命を全うして欲しい!」と神の招きを感じるのです。
創世記には、私たちがどのような存在であるか、丁寧に書かれております。創世記第1章26節。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』」私たちは神にかたどられ、神に似たものとして創造されたのです。しかも、神が「見よ、それは極めて良かった。」と高く評価された全てのものを私たちに託して下さったのです。それほど私たちは神から期待され、信頼され、愛されている存在なのです。しかし、そのような私たちが神の眼差しを忘れてしまう。そのとき、あっと言う間に暴君になってしまう。自分にとって目障りな存在はすぐに抹殺したくなる。もちろん、私たちは隣人を殺すことはないと思います。しかし、集団である人を無視すれば、それは、その人を殺すことになる。その意味で、私たちも主イエスを「十字架につけろ!」と叫んだ群衆の一人になるのです。だからこそ、主は命じる。「神のものは神に返しなさい。」
カール・バルトはルカ福音書の並行箇所であるマタイ福音書第22章15節から22節の説教において「神のものは神に返しなさい」をこう語る。
「『神のものは神に返しなさい!』。あなたがたは、『そのことは正しいか、正しくないか』という偽善者の問いを提出する偽善者とはならないにちがいない。偽善者となってはならない。あなたがたは真理に対して逆らうべきではない。そのような反抗をやめなさい。真理に来なさい。真理を行ないなさい。真理に生きなさい。皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。愛する友よ、これが、このテキストが私たちに語っている招きである。私たちはこの招きに、偽善から真理に来るこの招きに応ずるであろうか?ここで語っているお方が、イエス・キリストであり、私たち貧しい肉を、光と闇を持つ私たちの生活を取り、引き受けてくださった神の子であることが、はっきりとするなら、私たちは真理に従うであろう。このお方こそ真理であり、真理に来るよう私たちを招いているお方である。」
アドベント第3の主日となりました。いよいよ来週はクリスマス礼拝です。先週の午後、伝道委員会の皆さんが祈りつつポスティング、ポスター貼り等を担って下さいました。闇の世に真の光として生まれて下さった御子の御降誕を喜ぶクリスマス。昨日の午前はいづみ愛児園の園児たちがページェントを通し、立派に御子の御降誕の喜びを表現しておりました。皆、大きな声で主を賛美し、神から頂いた笑顔を神に返しておりました。午後は東京バロック・スコラーズの方々が礼拝堂から天に届く大きな声で御子の御降誕の喜びを良い意味で爆発させておりました。最後はスコラーズの方々と集まった皆さんで主を賛美したのですが、本当に主において一つとなることが出来ました。そして、思ったのです。「そうか、『神のものは神に返しなさい。』は難しいことではない。いづみ愛児園の園児たち、スコラーズの皆さんも心を込めて御子の御降誕を喜んだ。神に感謝し、御子の御降誕を喜ぶ。それが、神のものは神に返すことなのだ。」
私たちもそれぞれ、大切な賜物を神から頂いております。その賜物を自分が皇帝になるために用いるのではなく、主を賛美するために用い続けたい。神の愛の眼差しを感じつつ、皇帝のものは皇帝に返しつつ、神のものは喜んで神に返し続けたい。心から願うものであります。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。
・全世界に主の平和を実現して下さい。
・全国、全世界の被災地を憐れんで下さい。
・クリスマス礼拝では信仰告白式、洗礼式が行われます。祝福して下さい。
・昨日は、いづみ愛児園クリスマス礼拝、東京バロック・スコラーズのバッハ・クリスマス・オラトリオ演奏会が祝福の中で行われました。感謝申し上げます。それぞれの礼拝、演奏会に招かれた方々を祝福し、豊かにお導き下さい。
・体調を崩している方々、病と闘っている方々をお支え下さい。
キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
2017年12月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第5章1節~7節、新約 ルカによる福音書 第20章9節~19節
説教題「わたしの愛する息子を送ってみよう」
讃美歌:546、96、120、495、544、Ⅱ-167
主イエスは民衆に「ぶどう園と農夫」の譬えを話し始めました。主は、神と私たちの関係をぶどう園の主人と農夫に譬えておられます。主人は農夫たちにぶどう園を貸して長い旅に出ました。それでも、ぶどう園を支配しているのは主人であり、農夫ではありません。それなのに、農夫は勘違いしてしまった。ぶどう園を借りている身分なのに、「主人は俺たち!」と思ってしまったのです。その結果、農夫たちは収穫を納めさせるために、農夫たちのところへ送られた僕を袋だたきにしました。確かに、汗も流さず、収穫の一部を徴収しに来た僕に日頃の怒りを爆発させたことはそれなりに理解出来ます。けれども、当時は収穫の三分の一、または四分の一を、主人に支払うのが決まりだったのです。それなのに僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返す行為は、主人への冒瀆であり、絶対に赦されない行為なのです。
私は、今朝の説教題を悩みましたが「わたしの愛する息子を送ってみよう」にしました。本当はその前の「どうしようか」も加えたかったのですが、長くなるので「どうしようか」は省きました。けれども、このときの主人の言葉である「どうしようか」はしっかりと心に刻みたい。農夫たちのところへ最初に送った僕は、袋だたきにされ、何も持たないで帰って来た。本来なら、主人は激しく怒り、農夫たちを厳しく罰するはずです。けれども、主人は農夫たちを信じ続けた。だからこそ、次の僕を送ったのです。しかし、農夫たちはこの僕も袋だたきにし、何も持たせないで追い返した。いくら何でもここで終わりのはず。けれども、主人は農夫たちを信じ続けた。だから、三人目の僕を送ったのです。しかし、二度あることは三度ある。三人目の僕にも、農夫たちは傷を負わせてほうり出した。ペトロが三度も「あの人を知らない」と主イエスとの関係を否定したように、三人が限度。だからこそ、主人は悩むのです。三人が同じ結果なら、次の僕も同じはず。でも、このままでは農夫たちは救われない。このままでは農夫たちの罪は赦されない。だから、主人は「どうしようか」と悩むのです。
主人は決断しました。「確かに、愛する息子を手放したくない。農夫たちに送りたくない。身体がまっぷたつに裂かれるような痛みだ。でも、この子なら、あの農夫たちも敬ってくれるはず。」そのような主人の祈りと大いなる期待を込めて、農夫たちのところへ愛する息子が送られたのです。
農夫たちは驚きました。「おお、これは僕とは違う。大切な跡取り息子だ。さすがにまずいぞ、こいつを殺してしまうと主人がどれだけ嘆き、悲しむか。どれだけ俺らに対して怒り狂うか。観念して収穫の三分の一、いや、これまでさんざん袋だたきにしたのだから、半分は持たせないとまずいだろ。詫び状も添えよう」となれば、まだ良かったかもしれません。しかし、恐ろしいですが、私たちの罪はどん底まで落ちる。主人が農夫たちを救いたい!と願い、真剣に悩みつつ、決断してくれたにもかかわらず、息子を見て、互いに論じ合った。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまったのです。これが私たちの罪です。論じ合うときに、主の眼差しを常に意識していないと、自分の正義、繁栄を追い求め、恐ろしい決断を下してしまう。聖書に「互いに論じ合った」と書いてありますが、結論ありき。「俺たちが儲かればいい。俺たちが腹いっぱいになればいい」。そのとき、主の眼差しをいとも簡単に無視してしまう。それが私たちの罪なのです。
今朝はルカ福音書に加え、イザヤ書も朗読して頂きました。第5章1節から7節にもぶどう畑が登場します。イザヤ書では、イスラエルの民がぶどう畑にたとえられております。神がイスラエルの民のためにあらゆる準備をしたにもかかわらず、良いぶどうが実らなかったという表現を通し、イスラエルの民が神の意図したようには成長しなかったことが強調されています。実際、2節に「実ったのは酸っぱいぶどうであった。」とあります。「酸っぱいぶどう」を直訳すると、「悪臭がする実」です。神様は、甘いぶどうが実るのを期待しておられた。けれども、実ったのは酸っぱい、いや、悪臭がするぶどうでした。神は怒りました。4節。「わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」全人類への神からの問いです。神は私たちを丁寧に耕し、石を除き、良いぶどうを植えてくださった。しかも、真ん中に見張りの塔を立て、岩を掘ってぶどう酒の桶を用意してくださった。祈りつつ、良いぶどうが実ると信じ、待っておられた。けれども、育ったのは悪臭がするぶどうばかり。神は悪臭を放つぶどうを見捨て、枝を刈り込まず、畑も耕すことなく、茨やおどろが生(お)い茂る。しかも、雨まで禁じられた。これが神の怒りです。私たちは神の期待を裏切ることで神に見捨てられる存在なのです。7節に、「主が楽しんで植えられたのはユダの人々」とあるように、神は心から楽しみ、喜び、期待して、ぶどうを植えられたのです。けれども、神の楽しみは裏切られ、深く傷ついた。神は公正な裁きを待っておられたのに流血が繰り返される。正義を待っておられたのに叫喚(きょうかん・泣き叫ぶ声)ばかり聴こえるのです。本当に厳しい現実です。ぶどう畑の罪が主イエスの時代、また主の年2017年のアドベントにも繰り返されている現実から目を背けてはなりません。
そのような私たちに主イエスは非常に重い言葉を語られました。15節後半。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」そうです。主が語られたように、イザヤが預言したように、農夫たちは殺されたはずです。もしかすると、十字架で処刑されたかもしれません。それほどの重罪。だからこそ、民衆は怖くなり否定したのです。「そんなことがあってはなりません」。
そこで主は、憐れみに満ちた表情で彼らを見つめて言われました。「確かに、『そんなことがあってはなりません』だろう。しかし、あなたがたの罪は重い。創造主なる神の眼差しを忘れ、自分が神になってしまう。だからこそ、詩編の御言葉を心に刻んで欲しい。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』あなたがたが神の怒りの炎によって滅ぼされないよう、私が隅の親石となる。どう逆立ちしても、私が十字架で処刑されなければ、あなたがたの罪は赦されない。その真理を今、心に刻んで欲しい。父なる神が私を暗闇の世に送り出すとき、どれほど嘆かれたか想像して欲しい。神の嘆きの極みが十字架の死だ。私も辛い。悲しい。逃げたい。でも、私と同じように辛く、悲しく、嘆かれたのは父なる神である。父なる神は私を本当に愛しておられるのだから。よく聞いて欲しい。息子である私を世に遣わすほど、神はあなたがたを愛しておられる。赦しておられる。慈しんでおられる。憐れんでおられる。このまま世界が滅びてしまうこと、人類が憎しみ合い、殺し合い、罵り合い、その結果、血が流され、大地が汚れ、空が汚れ、海も汚れることは本当に辛く、悲しい。じっと、私の十字架を見つめて欲しい。そのとき、あなたがたは捨てられた石である私に押しつぶされ、打ち砕かれるはずだ。あなたの上に、私が落ちれば、私の愛によって本当に押しつぶされるのだ。押しつぶされたとき、罪のあなたは死ぬ。そして、聖霊が注がれるのだ。そのとき、あなたは心の底から真実の悔い改めの祈りをささげるのだ。『主よ、罪の私をお赦し下さい。主よ、繰り返し過ちを犯し続ける私ですが、御子の十字架の死によって、罪の私を赦し、憐れんで下さるのなら、これからも私を生かして下さい。罪の私だからこそ、どうかこれからも聖霊を注ぎ、憐れみ、愛を注ぎ続けて下さい』と祈るはずだ。」
主の御声に耳を傾けていた民衆は心を打たれました。けれども、自分たちの権威、他者の評価に縛られている律法学者たちや祭司長たちは、主の愛、主の赦しを感じることが出来なかった。19節にあるよう「自分たちに当てつけてこのたとえを話された」と本気で思ってしまった。確かに主は当てつけてこのたとえを話されたはずです。しかし、語っておられるのは真の人であり、真の神である主イエスです。愛と赦しと憐れみの御子です。けれども、主の恵みに気がつくことが出来なかった。心が本当にかちかちに固くなってしまっている。もう少し柔らかであれば、主の譬えの奥にある神の愛、赦し、憐れみを感じることが出来たはず。結果、彼らは神を畏れることなく、民衆を恐れたのです。
先週の主日礼拝直後、四人の方々の試問会が行われました。それぞれの信仰告白に耳を傾けたとき、心から思ったのです。四人の方々にも隅の親石である主が落ちた。非常に痛い経験であった。押しつぶされてしまう経験もあった。実際にバタッと倒れてしまった。動けなくなった。そのとき、隅の親石である主が私に入って下さった。崩れかけた私に御子がピタッとはまって下さった。その結果、バランスを失った私が主によって立てるようになった。御子が私の両足、両腕となって、しっかりと立って下さった。驚くべき恵みに打ち砕かれ、包まれたとき、これからの生涯を御子と共に歩ませて頂きたい!と心から願うようになった。私は四人の信仰告白を伺い、そのように感じたのです。どうか、四人に続けて、求道生活を続けておられる方々が隅の親石である主を受け入れる時が与えられるよう祈ります。同時に、信仰を告白し、洗礼を受けている私たちは、主の期待を裏切り続ける罪を悔い改めつつ、罪の私だからこそ御子が隅の親石として落ちて下さった恵みに感謝し、闇の世に、主の平和が実現するよう祈り続けたい。心から願う者であります。
(祈祷)
主イエス・キリストの父なる御神。御言葉に耳を傾け、御言葉によってどんなに多くの人々がたじろぎつつも生かされてきたか、審かれつつも慰められたか思わずにはおれません。「ぶどう園と農夫」の譬えをもって、死に赴かなければならなかった主の悲しみと苦しみは、私たちにとって計り難いものであります。しかし、そこで私たちは生かされています。どんなに疲れている時も、どんなに病み衰えている時にも、自分を大切にし、共に生きる人々を大切に受け取り直し、この世のために、そして、かの世においても、あなた様の栄光のために生きるために、聖くあなた様の者としての歩みを作って生きることができますよう導いて下さい。そして、全てのことにおいてあなた様の栄光をほめたたえさせて下さいますように。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。
・全世界に主の平和を実現して下さい。
・全国、全世界の被災地を憐れんで下さい。
・先週の試問会では2人の受洗、2人の信仰告白が承認となりました。12月24日のクリスマス礼拝、信仰告白式、洗礼式、聖餐式を祝福して下さい。
・今週の土曜日は、午前はいづみ愛児園のクリスマス礼拝と祝会、午後は東京バロック・スコラーズのバッハ・クリスマスオラトリオ演奏会が行われます。それぞれの礼拝、演奏会を主の祝福で満たして下さい。
・体調を崩している方々、病と闘っている方々をお支え下さい。
キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
2017年12月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第9章5節~6節、新約 ルカによる福音書 第20章1節~8節
説教題「神からの権威」
讃美歌:546、94、Ⅱ-96、Ⅱ-1、Ⅱ-195、543
主の年2017年のアドベント(待降節)に入りました。先週は逝去者記念主日礼拝、その前は加藤常昭先生による説教でしたので、3週間振りにルカによる福音書に耳を傾けることになります。11月12日、第19章41節以下の御言葉に耳を傾けました。主イエスが神殿から商人を追い出した場面です。主が怒り、商売をしていた人々を追い出し、宣言された。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」
境内を追い出された人々は困惑したはずです。なぜなら、祭司長、律法学者、民の指導者の許可を得て、持ちつ持たれつの関係で商売を続けていた。それが、主イエスによって突然追い出されてしまった。さらに、主イエスに対してブチ切れた人々がいる。権威を侮辱された祭司長、律法学者、民の指導者たちは、主に「あなたたちはそれを強盗の巣にした。」と侮辱されたことに激怒し、主を殺そうと謀ったのです。
主イエスは、真の人であると同時に真の神です。つまり、ユダヤ教指導者の称号「ラビ」の資格は必要ありません。しかし、この世の権威に縛られている祭司長や律法学者たちは許せない。「いったい何様のつもりだ!無資格で伝道し、やりたい放題!このままだと、俺たちの権威が危うくなる!民衆の心がいかに変わりやすいか、俺たちは知っている!だって、ついこの間まで俺たちの話を熱心に聴いていた民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っている。これでは皆、イエスの弟子になってしまう!そうなると、我々の権威は失墜する。もう我慢ならない!行動しよう!」
祭司長や律法学者たちは主の権威を失墜させ、合法的に処刑する作戦を立てました。単独で主に近づくことをせず、長老たちと一緒に近づく。もしも自分たちの権威が失墜するようなら逃げる。そのような作戦を立て行動を開始した。ある日、主が神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、世の権威を振りかざし、威圧したのです。2節。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」
バプテスマのヨハネが登場します。ヨハネは罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。ヨハネこそ地上の王も権威も恐れずに戦った。一方、祭司長や律法学者たちは地上の王や権威に弱い。また民衆の不平不満を気にする。それは、民衆の訴えに真摯に耳を傾けるという姿勢ではありません。自分の地位の安定を第一とする自己保身です。
主が、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」と尋ねたのは、「ヨハネの洗礼は神の業か、それとも、人の業か。神の権威による洗礼と、あなたがたは考えるか」と、確認しているはずです。彼らは相談し、「天からのものだ」と言えば、「なぜヨハネを信じなかったのか」と言われ、「人からのものだ」と言えば、ヨハネを預言者だと信じ込んでいる民衆に殺されることを恐れ、作戦通り「どこからか、分からない」と逃げたのです。この姿勢こそ罪です。神の権威に従わず、世の権威者として神を避けて生きる。神の前に全てをさらけ出し、自らの罪、弱さを悔い改める。そのとき主は、私たちに真実に向き合って下さいます。けれども、神の権威ではなく、この世の権威を保つために、曖昧な態度をしていると、主は語って下さらないのです。8節。イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」私たちが神の権威を避け続ける限り、主も口を閉ざされる。このことを忘れてはなりません。私たちは世の権威ではなく、神の権威の前に崩され、自らの罪を告白し、主に全てを委ねることを求められます。そのとき主は、罪人の私たちを憐れんで下さり、私たちに心を開いて下さるのです。
今朝の御言葉は、アドベントに相応しい御言葉です。なぜか?私たちの罪が示されているからです。神の権威より世の権威を優先してしまう罪。その罪を赦せるのは主の十字架のみです。主イエスは十字架で処刑されるため馬小屋で生まれて下さった。クリスマスこそ私たちの罪が明確に示される時です。なぜ、真の神である主が、真の人として世に生まれなければならなかったのか?そのことを考えるとき、私たちは真剣に罪を告白しなければなりません。けれども、「なぜ、罪を告白しなければならないのか?私は罪人なのか?」と考える人もいる。「私は誰にも迷惑をかけず、コツコツ努力し、この世の権威である大学に入学し、この世の権威である企業に就職し、働き続けた。私の何が悪い?」と。しかし、主の年2017年、あの老舗の大企業が粉飾の決算発表をする。権威ある大学を卒業し、エリートと言われる人々が不正を繰り返し、謝罪を続ける。そのとき、私たちは今朝の御言葉を読む恵みを与えられたのです。「えっ、今朝の御言葉が恵みの御言葉?」そのように思うかもしれません。しかし、私たちは今朝の御言葉を通して、いかに自分がこの世の権威に弱いか、いかに民衆の声にビクビクしているか、権威者ぶっても、実はこの世の権威に縛られている。この世の権威から解放されていない。そして、自分の権威を脅かす存在を排除することしか考えられない。たとえ今、目の前におられる御方が真の人であり真の神であられる主イエス・キリストであっても、主イエスの前で自分を隠し、取り繕う。ボロを出さないようにとぼける。まさに演じ続ける。そのとき、私たちは自分を見失い、何のためにこの世に生まれたのかわからなくなる。非常に厳しいことですが、権威から失墜した途端、誰からも声をかけられなくなる。まさに放蕩息子のように、あれだけの莫大な財産を抱えていても、財産がなくなると、誰一人、声をかけてくれる人がいなくなる。しかし、この世の権威、この世の財産、この世の地位、この世の名誉を主によってはぎとられたとき、私たちは御子がボロボロの馬小屋で、私たちですら寝たことのない家畜の唾液まみれの飼い葉桶に裸で寝かされたことが言葉に出来ないほどの恵みであると感じ、その御子が最後は同じく裸で処刑されたことが、驚くべき恵みであると頭でなく、全身で感じる者となるのです。
今朝は、旧約聖書イザヤ書も朗読して頂きました。やはりアドベントに相応しい御言葉です。イザヤ書にも「権威」が登場します。5節。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(9:5~6)
預言者イザヤは、無力な「みどりご」の肩に「権威」があると宣言します。御子の権威。それは、財産や権力を後ろ盾にしたこの世の権威とは違います。この世の権威は、財産や権力が奪われると消えてしまう。つまり、権威というより権力です。「みどりご」の肩にある権威は、「神からの権威」。つまり、この「みどりご」こそ、私たちの救い主、主イエスであると信じるのです。
イザヤは続けます。「神からの権威」に基づく支配が行われる限り、「平和は絶えることがない」と。「平和(シャローム)」とは、単に、戦争がなく、社会が繁栄しているというようなことではありません。ヘブライ語のシャロームは物事の充全性を表す言葉で、傷ついた部分のない状態を意味します。国や民族の大多数の人が幸せに暮らしているとしても、少数であっても、威圧されたり、差別されたり、軽んじられたりしている人々がいる限り、平和とは言えません。家族が5人いるとして、そのうち4人が健康に恵まれていても、1人が重病の床にあるなら、その1人が回復の兆しを見せるまでは、家族全員が気掛かりで、落ち着かないのと同じです。「平和」とは、社会の底辺に立つ民に解放がもたらされ、自由と喜びを味わうことが出来るようになることなのです。
主イエスに注がれている神の権威は、単なる軍事的な権威や政治的権威ではなく、地上で罪を赦し、汚れた霊に対する権威です。つまり、暴力によって人の命を奪う権威ではなく、愛に基づいて隣人の罪を赦し、汚れた霊から隣人の命を守る権威であり、地上で実現するようにと天の父なる神から与えられた天と地におけるすべての権威なのです。以上より主イエスの権威は、私たちに真の自由を与える権威です。束縛から解放する権威です。どうだ!まいったか!と他者を威圧する権威ではないのです。私たちを押さえつけて、不自由にする権威ではなく、自由にする権威なのです。
今朝の礼拝後、試問会が執り行われます。2人の信仰告白と2人の洗礼志願の試問会です。4人が試問会で信仰を告白することは、まさに主イエスの権威、神からの権威を、心から感謝して受け入れると誓約することです。それは、私もキリスト者!と相手を威圧することではありません。偉ぶることでもない。反対です。十字架の死に至るまで「おのれを低くして」神に仕え、私たちに仕えてくださる主イエスの歩みに従うことです。聖餐式のあとに賛美する讃美歌第2編195番「キリストにはかえられません」を信仰告白の心で生涯、賛美し続けることです。相手を見下す権威ではない。十字架の死に至るまで従順であられたキリストのように、私たちも神に従順であり、主イエスに従順であり、聖霊に従順であり、さらに隣人にも従順であり続けたい。そのとき、真の意味で主イエスが十字架で裂かれた肉と流された血潮に与る聖餐の恵みがどれほど大きな喜びであり、どれほど大きな権威を授けられるのか、心に響き続けるのです。礼拝後、試問会を控えている4人の方々が主の御前に膝をかがめ、真の悔い改めと、真の感謝を抱きつつ信仰を告白することが出来るよう祈ります。そして今日は与ることの出来ない聖餐の恵みに12月24日のクリスマス礼拝で与り、キリスト者として歩む恵みと喜びに満たされるよう祈ります。相手を威圧し、負け組でなく、勝ち組みになることを求めるのではなく、主の御前に膝をかがめ、「神からの権威」を自らの権威として受け入れたい。そのとき、私たちも他者の評価で一喜一憂する者から「キリストにはかえられません、世のなにものも。」と真実に主を賛美する者へと変えられるのです。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。
・全世界に主の平和を実現して下さい。
・全国、全世界の被災地を深く憐れんで下さい。
・本日の試問会において4人の方々が信仰を告白し、12月24日に信仰告白、洗礼式を執り行うことが出来ますよう導いて下さい。
・体調を崩している方々、病と闘っている方々をお支え下さい。
キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
2017年11月26日 日本基督教団 東村山教会 逝去者記念主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第121篇1節〜8節、新約 ヨハネによる福音書 第10章22節~30節
説教題:「わたしは彼らに永遠の命を与える」
讃美歌:546、54、151、332、542
今朝は、皆さんと一緒に「永遠の命」に思いを巡らしたい。「永遠の命」とは?と質問されたら、皆さんはどのようにお答えになるでしょう?広辞苑を開き、「永遠」を調べると、こう書いてあります。「始めもなく終りもなく果てしなくながく続くこと。永久。」つまり一つの答えは、「永遠の命」とは「果てしなくながく続く命」と言えます。では、主イエスが今朝のヨハネ福音書でユダヤ人たちに答えられた「永遠の命」も、「始めもなく終りもなく果てしなくながく続く命」なのでしょうか?主は、ユダヤ人たちの「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」に答えられました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(10:27〜28)」主は、信仰告白し、洗礼を受けたキリスト者を「わたしの羊」と呼んでおられるのです。
先週は、加藤常昭先生が「今も後も、あなたは神の子!」と題し、キリスト者に約束された喜びを語って下さいました。主は、「今も後も、あなたは神の子であり、わたしの羊である」と宣言して下さる。さらに主は、驚くべき恵みを宣言されたのです。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」そうです。主は信仰告白し、洗礼を受け、主に従う者となったキリスト者に永遠の命を与えて下さる。その結果、キリスト者は決して滅びず、主の御手から奪われることはないのです。
改めて、「永遠の命」に思いを巡らしたい。どんなに熱心に礼拝生活、祈りの生活を続けても、私たちは必ず地上の命を終えます。つまり、命の始めがあり、命の終りも神によって定められているのです。旧約聖書コヘレトの言葉は語ります。「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時/殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時/泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時(3:1~4)。」確かに、生まれる時、死ぬ時、泣く時、笑う時も定められている。子どもが生まれる。孫が生まれる。嬉しくて、躍り上がる人もいる。しかし、愛する人を奪われる時もある。昨日も大きなテロが報道されました。エジプト北東部シナイ半島で武装集団が爆弾と銃でイスラム教徒の礼拝堂であるモスクを襲撃、235人が死亡、少なくとも109人が負傷したようです。まさに、死ぬ時があり、破壊する時がある。愛する人が殺されれば、深く嘆き、泣き崩れるのです。
ところで、私は10月29日に石巻山城町教会で説教をさせて頂きました。ヨハネ福音書「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(16:33)」を聖霊の助けを頂き、語ったのです。皆さん真剣に主の御言葉に耳を傾けておられましたが、ある方の表情が硬かったことを忘れることができません。その方は津波によって愛する家族を奪われたのです。私が感じたのは、どんなに十字架と復活、そして再臨の主が「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と宣言されても、なかなか主の御言葉に心の底から「アーメン!(その通り)」とは言えないとの心の声を聴いたのです。
今朝は逝去者記念主日礼拝。御遺族の席を用意し、礼拝委員の皆さんが祈りつつ備えてまいりました。私自身、昨年の逝去者記念主日礼拝までは、東村山教会ではI兄の葬りの業を担いましたが、この一年、納骨式を含めると6名の兄弟姉妹の葬りの業を担うことになったのです。昨年12月はI兄の葬儀。年が明け、3月は教会員のM兄のお母様の葬儀。4月はS姉の納骨式とI兄の納骨式。5月はK兄の葬儀。7月はK姉の葬儀。8月はK姉の納骨式。9月はM姉の葬儀。そして11月はM姉の納骨式を担うことになったのです。昨年の11月20日の逝去者記念主日礼拝から僅か1年で6名もの兄弟姉妹の葬りの業を担うことになったのです。葬りの業で語ることはただ一つ。主イエスを私の救い主と信じます!と信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者には、永遠の命が約束されているということです。M兄のお母様は洗礼を受けておりませんでした。しかし、お母様がM兄に愛を注ぎ、育てられた。そのM兄がキリスト者のS姉と結ばれ、未陪餐会員のKさん、Hさんが生まれたのですから、お母様の葬りを御言葉によって執り行うことが許されたことは感謝でした。しかし、共に礼拝を守り続けた兄弟姉妹が次々と召されたことは、「永遠の生命を信ず」と告白した私たちも淋しく思うのです。
主イエスは、「永遠の命」をヨハネ福音書第17章でこう定義しておられます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(17:3)」主は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と弟子たちに語って下さいました。この直後、天を仰ぎ、十字架の死を翌日に控え、父なる神に祈りを献げたのです。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(17:1〜3)」十字架で処刑される直前、主は父なる神に祈られた。その結果、私たちは「永遠の命とは、父なる神と子なるキリストを知ることです」と教えられたのです。では、「父なる神と子なるキリストを知ること」とはいったい何を意味するのでしょうか?
先週は、月曜から水曜まで加藤常昭先生が主宰しておられる説教塾のシンポジウムに参加させて頂きました。たくさんの恵みを頂きました。また木曜から金曜は西東京教区の伝道協議会に出席させて頂きました。講師はナグネ先生。東神大の先輩、日本基督教団韓国派遣宣教師、韓国の長老会神学大学の助教授、セムナン教会の協力牧師として主に仕えておられる先生です。二日間、中身の濃い講演を担って下さいました。その中で、先生がゆっくりと、確信を持って「永遠の生命」を語って下さったのです。「永遠の生命とは何でしょうか。それは、肉体の死後、霊魂が時間的に無限に生き続けるというようなことではありません。それについて、聖書はイエス・キリストの言葉として全く異質の答えを提示しています。すなわち、ヨハネ福音書によれば『永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること(ヨハネ福音書17:3)』であって、それは死ぬ前に、しかし信仰においては死んだ者として(コロサイ書3:3~4)、今ここで、『知ること』を通して、部分的に経験されることとして開かれています。こう述べるとき、『知ること』とは何かが問題となるでしょう。ここではごく簡単に、それは究極的には『神とキリストと交わること、そして一つになること』とだけ申しておきましょう。」ナグネ先生は、「父なる神と子なるキリストを知ること」とは、「神とキリストと交わること、そして一つになること」と教えて下さったのです。
主も今朝の御言葉を通して語ります。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。(10:28~30)」そうです。主イエスは真の神であり、真の人です。父なる神と子なる神であるキリストは一つなのです。よって、信仰告白し、洗礼を受け、キリストと結び合わされたキリスト者は、一人の例外もなく、キリストを着る者とされ、御子と一つになる。つまり、神とキリストを知る者となり、結果として永遠の命を与えられるのです。それは、いつまでも肉体が生き続けるというものでなく、滅びることなく、いつまでも父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神と共に生き続けるという驚くべき永遠の命なのです。
今朝の説教準備では、矢内原忠雄(やないはら・ただお)先生のいくつかの言葉に触れることが許されました。矢内原先生について丁寧に紹介することは困難ですが、加藤常昭先生が『自伝的説教論』の冒頭に「預言者・矢内原忠雄」と題して記しておられますので、紹介させて頂きます。「1942年5月24日、当時13歳であった私が通っていた日本基督教団代々木教会は、矢内原忠雄先生を説教者として招いて礼拝を行っている。当時東京帝国大学教授の席から追われ、無教会の一伝道者でしかなかった先生は不遇であった。(中略)後年、説教とは預言であるということを、説教者として自覚するようになったが、その説教理解が生まれたのは、この矢内原先生の説教聴聞が根源の経験になっていたからでもあろうと思う。言ってみれば、若くして預言者の言葉を全身をもって聴いたのである。(中略)この年の降誕祭礼拝において、姉を含む他の5名の人びとと共に洗礼を受けた。そのひとつのきっかけとなったのが、矢内原先生の言葉とひととに出会ったことであったことは確かである。」
加藤先生にとっても極めて重要な先生である矢内原先生が、『愛する者を天に召されし人々におくる』という慰めと励ましに満ちた言葉を記しております。全文を紹介することは難しいので、冒頭と最後を紹介させて頂きます。「愛する夫を妻を、子を親を、天に召されし兄弟、姉妹よ。先ず第一に申上げたいことは、あなた方の大切な宝をあなた方からもぎ取った者は、悪魔ではなくて、父なる神様だということです。若しもそれが悪魔の仕業ならば、それはあなた方に害を与える為めの悪意から出た事であり、奪われた宝の行方についても不安と危険が伴わざるを得ません。併しそれは父なる神様がみもとに召されたのでありますから、あなた方にはどんなにつらく感ぜられる事でありましても、神様があなた方の為めに悪く
はかって居られるのではないという事だけは、先ず以て知って頂かねばなりません。神様の為さる事ですもの そのすべてが今直(ただち)に私共に解る筈はありません。ただ私共の益を計って下さって居るのだという事だけはかたく信じて、神の為さる事に順うて生きて往きますと、自然にその意味も解らせて頂けるのであります。」そして最後、こう語ります。「愛する兄弟姉妹よ、あなた方の大切な宝が天に召されました。併し決して死滅したのではありません。地上に居た時よりも更に盛な生命で、キリストの中に生きつづけて居るのです。(中略)悲しみの中から神に呼ばわり求めなさい。神様を信頼しなさい。そうすればあなた方の深い悲しみも、朝には必ず歓喜に化するでありましょう。」
私は矢内原先生の言葉から、キリスト者であることの恵みを強く感じました。同時に、矢内原先生の長男、矢内原伊作先生が執筆された『矢内原忠雄伝』の「あとがき」を通し、矢内原忠雄先生こそ、悲哀の人であったことを知ったのです。あとがきを記したのは矢内原忠雄先生の弟子、東大名誉教授
川西進先生ですが、こう書いております。「矢内原伊作の言うとおり、矢内原忠雄は悲哀の人であった。19歳の時に母を亡くし、その一年後に父と中学時代の最大の友人の死に遭う。そして結婚後6年を経ずして妻愛子を亡くした。二年四ヶ月の単身でのヨーロッパ留学から帰国して二十日も経たぬうちのことであった。しかしこの悲哀が彼を神に近づけた。それは彼が慰めを求めて神に縋(すが)ったというだけではない。人の死によって彼は自分の罪の意識に打ちひしがれた。その悲嘆のどん底にあった時、神は彼にもっとも近くあったのかもしれないと矢内原伊作は書いている。悲しみを癒すものは他にもあろうが、罪から救うものは神以外になかったのである。」
矢内原忠雄先生は、自らも深い悲しみ、嘆きを経験しながら、確信を持って語るのです。「私共は神様のなさる事には、解っても解らなくても、ただ従順にしたがう外に道はありません。それが私共の益になろうがなるまいが、神は神御自身の必要の為めにすべての事を為し給います。」そうです。十字架と復活、そして再臨の主は語るのです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」
信仰を告白し、洗礼を受けた者は、父なる神、子なる神、聖霊なる神と一つとされるのです。最後に、パウロの言葉を紹介させて頂きます。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他(た)のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38~39)」
この一年に召された兄弟姉妹、東村山教会で共に礼拝を守り続けた兄弟姉妹、また今年の2月6日に89歳で召された初代牧師 川合喜四郎先生、さらに洗礼には導かれることはなくても、御言葉によって葬りの業を執り行った方々が、今、復活と再臨のキリストと共に神の懐で安らかに憩っておられると信じたい。そして今、地上での命を許されている私たちも、主の御言葉を信じ、羊飼いであられる主にどんなときも従い続けたい。そのとき、真の慰め主は宣言されるのです。「わたしはあなたに永遠の命を与える。あなたは決して滅びず、だれもあなたをわたしの手から奪うことはできない。」
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、逝去者記念主日礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。日々、様々な試練が襲ってまいります。特に、愛する者の死の痛みは、私たちを日々、襲い続けます。主よ、私たちの痛みに寄り添い続けて下さい。主よ、逝去者記念主日礼拝にあなた様が深い愛を持って招いて下さった方々を聖霊で満たし、信仰告白、洗礼へとお導き下さい。主よ、いつの日か、永遠の命の食卓である聖餐に与ることが出来ますようお導き下さい。これらの願いと感謝を、復活と再臨の主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。御在天の主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。今朝は逝去者を記念する主の日の礼拝に招かれています。どうか、愛する者を失い、今も深い痛みを抱えておられる方々に主の慰めと聖霊を注ぎ続けて下さい。主よ、悲惨なテロが発生してしまいました。どうか、平和の祈りを諦めることなく、真摯に祈り続ける者として下さい。主よ、全世界の被災地を守り、導いて下さい。今朝も病のため、様々な理由のために、教会に通うことの出来ない兄弟姉妹がおります。どうかそれらの方々の上にも私たちと等しい祝福をお与え下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年11月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第56章6節~8節、新約 ルカによる福音書 第19章41節~48節
説教題「わたしの家は、祈りの家でなければならない」
讃美歌:546、Ⅱ-78、121、196、540、427
子ろばに乗った主イエスは、エルサレムに近づき、都が見えたとき、その都のために泣いて、言われました。42節。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁(ほうるい)を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪(おとず)れてくださる時をわきまえなかったからである。」
主が泣いて、絶句しておられる。「泣いて」と訳された原語(εκλαυσεν エクラウセン)は、涙を流すことではなく、嘆き、むせび泣くことを意味します。主は、都のために嘆き、むせび泣いて、言われるのです。「私は今、あなたを訪(おとず)れた。私こそ、あなたの救い主。それなのに、なぜ私が見えない。なぜ見ようとしない。このままだと、都エルサレムは武力によって崩壊する。あなたがたは地にたたきつけられる。私は、真の神、平和の王として、ここにいるのだ。それなのに、なぜ私が見えない。このままでは、都は崩れ去る。」
先週の報道を通し、少なくとも日本と米国は平和への道をわきまえていないように感じる。米国大統領が日本の首相に米国製防衛装備品の『大量購入』を要求、米国大統領はツイッターに「訪日と日本の首相との友情が、我々の偉大な国に多くの利益をもたらす。軍事とエネルギーで莫大な発注があるだろう」と呟いたのです。主は、私たちにも同じ言葉で嘆き、むせび泣いておられる。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」
実際、米韓両海軍は昨日、朝鮮半島近海で米原子力空母ロナルド・レーガン、セオドア・ルーズベルト、ニミッツの計3隻等が参加する合同軍事演習を始め、明後日まで実施する予定です。当然、北朝鮮は軍事演習を激しく批判。軍事的な衝突をめぐる懸念が高まっています。11日付の北朝鮮労働新聞には「理性を失ったトランプらの無分別な戦争に
はやる気持ちが、いつ侵略核戦争に火を付けるかわからない」と訴えています。主が都に近づいた日と変わっていない。いや、変わっていないどころか、核戦争になれば、神がお造りになったすべてのものが本当に崩れ去ってしまうのです。
今朝は家族礼拝。先程まで幼児から小中高生が共に礼拝を守っておりました。子どもには将来がある。だからこそ、主の愛に包まれ、主の赦しと、憐れみを賜り、平和に歩んで欲しい!と願う。しかし、現実の世界は御心からドンドン離れている。主は、私たちに今朝、御言葉を通して激しく迫っておられます。「あなたは平和への道をわきまえているか?世を嘆いているか?本気で祈っているか?主の平和を。私たちは今朝、主から真剣に問われているのです。
主イエスによるエルサレム崩壊の預言は、現実となりました。私たちも同じ。平和への道をわきまえていなければ、いつの日か世界が崩れ、全人類が滅んでしまうのです。しかし、私たちは平和への道よりも、利益への道を突き進む。だからこそ、主イエスは境内に入るのです。利益を貪り、他者を軽んじ、自分に味方する者は優遇し、敵対する者は潰す。そのような道を突き進む私たちを滅びから救うため、主は十字架と復活への道を進み続けるのです。45節。
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
今朝の御言葉は41節から48節迄のわずか8節ですが、主イエスは泣いて、嘆いて、憤っておられる。その事実を心に刻みたい。主イエスは真の神であると同時に真の人です。私たちの罪を嘆き、感情を抑えることなく涙を流される。その直後、神殿の境内で真の祈りが献げられていないことに憤り、言われたのです。46節。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」
神殿で商売をしている人々は、どこにでもいる商売人です。日本でも、浅草、鎌倉、京都、奈良等には商売をしている人々がおります。しかし、主イエスはイザヤ、エレミヤの預言を用い、「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」「ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」と、激しく憤ったのです。ルカは、主の憤りを抑えて記していますが、マタイ、マルコ、そしてヨハネは主の憤りを激しく記しております。マタイは、「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。(21:12)」マルコは、「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。(11:15)」ヨハネがもっとも激しい、「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し(2:15)」とあります。
今日はこれからバザーが行われます。もちろん、主の日の礼拝を献げてから僅か2時間のバザーです。商売ではありません。よって、主も喜んで下さると信じております。しかし、もしもバザーで金儲けしよう!と思ったなら、その瞬間、主は激しく憤られる。教会行事の全てに言えることですが祈りによって始まり、祈りによって終わらなければ、教会の業になりません。もう少し踏み込んで言うなら、真の礼拝、真の祈りなくして、バザーもチャリティー演奏会もないのです。今朝はそのことも心に刻みたい。
小さな子どもから大人まで、東村山教会に連なる全ての者が、真の礼拝、真の祈りを祈りの家である教会で続けることを主は求めておられます。私たちは教会で祈り続けることは当然であると思っています。しかし、本気で平和への道を祈っているだろうか?礼拝の間も、バザーの段取りに心を奪われていないだろうか?このことは私も含めてのことですが、午後の長老会で難しい協議が控えているときは、礼拝中もそのことが気になることが無いと言えば嘘になるのです。それでは、私たちの心が真の祈りから離れてしまっている。そのとき、主は本気で憤られる。「あなたは、本気で悔い改めているか?平和への道を本気で祈っているか?『あの人より私の方が上!』と思っていないか?」主の鋭い眼差しを感じます。
エルサレム神殿も同じ。確かに、人々は巡礼に熱心。神殿は人々でいっぱい。しかし、真実の祈りが聴こえない。「祈りの家」は、イザヤ書第56章7節からの引用です。預言者イザヤが語るのは、神の民に属さない異邦人も、「救いから漏れる」ことはない。誰でも神に祈れる。小さな子どもから大きな大人まで、年齢、性別、人種を超え、誰でも神に真実の礼拝を献げることが許されているということです。改めて、イザヤ書第56章6節以下を朗読させて頂きます。
また、主のもとに集(つど)って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚(けが)すことなく/わたしの契約を固く守るなら/わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。」
祈りの家の門は常に開かれています。しかし、無条件ではない。主に連なる決心(信仰の告白)を求められるのです。6節に「主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら」とありますが、これは、異邦人に対し、主に連なる覚悟を促す言葉です。キリスト者も同じ。主に仕え、主の名を愛し、主の僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく歩み続ける覚悟を求められるのです。
主の日の朝、私たちは神に祈ります。「主よ、今日こそあなた様に真実に仕え、あなた様を真実に愛し、あなた様の僕として、真実の礼拝を守り、あなた様の名を汚すことなく、主の掟をしっかりと遵守させて下さい。」しかし、私たちはすぐに掟を破ってしまう。すぐに平和への道ではなく、怒りの道、高慢の道、自己保身の道、裁きの道を歩んでしまうのです。だからこそ主は、主の教えに夢中になって聞き入っている人々の中に留まっているわけにはいかない。一歩一歩、十字架への道、復活への道を進まねばならないのです。47節。
毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀(はか)ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
今朝の御言葉を通し、私たちが問われていることは明確です。「あなたの家は、祈りの家となっているか?」「東村山教会で献げられている礼拝は、真実の礼拝となっているか?」「あなたは、平和への道をわきまえているか?」「教会から子ども、弱い立場の人々を排除していないか?」
確かに、都エルサレムは、目に見えるかたちでは崩壊しました。けれども、主イエスを十字架で処刑した私たちは、今も生かされている。なぜか?主が、本気でこの世の平和を祈り続け、十字架と復活、そして再臨の道を全うされたからです。真の神である御子が、私たちの罪を嘆き、むせび泣き、憤られた。真の人として。そして、十字架で処刑され、三日目に力強くよみがえられた。その驚くべく恵みにより、私たちは今も滅びることなく、永遠の生命をも約束されたのです。これほどの恵みを頂いた私たちは、黙っているわけにはいきません。一人でも多くの子どもが、生命を大切にし、たった一度の人生を喜んで歩むことが出来るよう、本気で祈り続けたい。そして、いつの日か主の平和が全世界に実現すると信じ祈り続けたい。祈りつつ準備したバザーが行われます。バザーも祈りによって始まり、祈りによって終わります。主から、「良いバザーだった。私に仕えるよう皆が喜んで奉仕した。子どもから大人まで神の家族が心を込めて私に仕えた。お疲れさま。」主に喜んで頂けるバザーになったら感謝です。準備は整いました。笑顔でバザーを楽しみたい。心から願います。
(子どものための祈り)→子どもたちを覚えて共に祈りましょう。
御在天の主イエス・キリストの父なる神様、今日は、年に一度の家族礼拝に、教会学校の子どもたちを招いて下さり、心より感謝申し上げます。子どもたちにも日々、様々な試練が襲います。どうか、子どもたちの歩みを深く憐れんで下さい。先週は、米国大統領が来日されました。色々なことが協議されたようです。将来、子どもたちが大人になったとき、武器を持ち、他国の人々を殺す時代が来るかもしれません。どうかそのような国にならないようお導き下さい。しかし、現実には全世界の子どもたちの中に、武器を持ち、大人と同じように争いを経験している子どもがおります。日本の子どもたちも武器を持つことはありませんが、子どもたちにも大きな格差があり、受験、就職等、様々な争いを経験していることは否定できません。どうか、私たち大人が日々、悔い改め、これからの世界を担っていく子どもたちに何を伝え、何を残すべきか、真剣に祈り続ける者となさしめて下さい。どうか、東村山教会の子どもたち、また、全世界の子どもたちがお互いの存在を認め、愛し合い、赦し合い、祈り合う子どもとして健やかに成長することが出来ますようお導き下さい。そして、教会学校に通っている子どもたち、また、かつて教会学校に通っていた子どもたちも、いつの日かあなた様の招きに応え、心を開き、信仰告白、洗礼へと導かれますよう、心よりお祈り申し上げます。これらの貧しき願いと感謝、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
2017年11月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ゼカリヤ書 第9章9節~10節、新約 ルカによる福音書 第19章28節~40節
説教題「見よ、あなたの王が来る」
讃美歌:546、11、130、21-81、531、539
「ムナ」のたとえを話された主イエスは、弟子たちの先に立って進み、エルサレムに上(のぼ)って行かれました。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われたのです。30節。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」真の王、平和の王であられる主イエスは、子ろばを必要とされるのです。
今朝は、ルカ福音書の御言葉と共にゼカリヤ書第9章9節から10節を朗読して頂きました。9節。娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌(め)ろばの子であるろばに乗って。
ゼカリヤが預言しているのは、神に従い、勝利を与えられた真の王の姿です。高ぶることなく、子ろばに乗って王が来る。子ろばですから、ヨタヨタ歩いたかもしれません。そのような子ろばに乗って来る王こそ、「勝利を与えられた者」となるのです。平和の王は、戦車、軍馬を絶つ。10節。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。
現代は、相手の軍事力に対し、それを上回る力で相手を威圧する時代です。だからこそ、ゼカリヤの預言をしっかりと心に刻みたい。ゼカリヤが預言するのは、イエスマンに囲まれ、軍事力を誇り、ニタニタ笑う王ではありません。戦車も、軍馬絶ち、ヨタヨタ歩く子ろばに乗って来る王です。そのような真の王、平和の王が、主イエスによって実現したのです。
ルカ福音書に戻ります。改めて、主が二人の弟子に命じた内容を確認したい。30節。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
主が弟子たちの歩むべき道を備えておられる。弟子たちは命じられた通りに行動すれば良い。この事実も心に刻みたい。私たちも同じです。先の見えない試練に襲われ、立ち尽くす日々であっても、主はそのような試練をも用いて、良い方向へと導いて下さる。つまり、「私は孤独に歩んでいる」と嘆くときも、主は私たちと共におられ、私たちの歩むべき道をきちんと備えて下さるのです。
先週は東日本連合長老会の講壇交換でした。私は石巻山城町教会で御言葉を語らせて頂いたのですが、午後の愛餐会に出席して下さった兄弟姉妹から様々な証言を頂いたのです。その全てを紹介することは不可能です。しかし、これだけは皆さんに伝えたい。震災により、たくさんの受洗者が与えられた事実を。
大きな悲しみ、全てをもぎとられ、何もなくなってしまったとき、今まで目の前にあったにもかかわらず、隣にあったにもかかわらず、目に入らなかった十字架が被災された方々を捕えた。そして、真の慰めと永遠の生命を約束して下さる平和の王、主イエスと出会った。その結果、信仰告白、洗礼へと導かれ、15年も祈り続けた奏楽者が二人も与えられた。私は愛餐会に出席された兄弟姉妹の証言を通し、本当に胸が熱くなりました。もちろん、愛する家族、仕事、財産を津波によってもぎとられた痛みはいつまでも続くことになる。しかし、主はそのような激痛を通して、驚くばかりの恵みを一つ、一つ、きちんと用意しておられたのです。苦難のときこそ、試練のときこそ、真の王、平和の王であられる主を仰ぎ続けたい。
主はオリーブ山の下り坂にさしかかりました。37節。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」弟子の群れはこぞって、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
前半「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。」は、詩編第118篇26節「祝福あれ、主の御名によって来る人に」からの引用。後半の「天には平和、いと高きところには栄光。」はクリスマスの夜、羊飼いたちに現れた天の大軍の賛美「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。(ルカ2:14)」を思い起こします。
まず、前半の「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。」を確認したいのですが、詩編第118篇は「メシアの詩」と呼ばれる詩編です。22節には「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。」との御言葉もあります。まさに無力な石ころが、非常に重要な隅の親石になると言うのです。だからこそ、23節で「これは主の御業(みわざ)/わたしたちの目には驚くべきこと。」と続くのです。そして、26節で「祝福あれ、主の御名によって来る人に。」となるのです。けれども、弟子たちの賛美と違うところがある。弟子たちの賛美には「王に、祝福があるように。」ですが、詩編は「祝福あれ、主の御名によって来る人に。」なので、「王に」という言葉がない。つまり、福音書記者ルカが弟子たちの賛美に「王に」を追記したと思われます。しかし、だからと言って詩編の御言葉とずれることはない。むしろ、ルカがゼカリヤ書の預言「見よ、あなたの王が来る。」を詩編に追記したと思いたい。
次に後半の「天には平和、いと高きところには栄光。」を確認すると、ルカ福音書第2章の天の大軍の賛美と違う箇所があります。天の大軍はこのように賛美した。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」しかし、弟子たちの賛美は「天には平和、いと高きところには栄光。」です。天の大軍は「地には平和」と賛美し、弟子たちは「天には平和」と賛美した。なぜ、弟子たちは「地には平和」と言わなかったのか?色々と想像することが出来ます。
毎週、私たちと共に礼拝を守って下さる加藤常昭先生は、鎌倉雪ノ下教会でこのように語っておられます。「世間的にはまったく困難、不利と思われるところにおいても、天の平和に揺るぎはないと信じる者は、地には平和と言い続けることができる。神は平和の神、私にとって悪いことなどはない、悪魔はすでに滅んだと言い続けることができるのであります。直接には、地には平和が見えない時があります。今それを体験している方があるでしょう。家庭の生活が地獄だと思っている人もあるでしょう。会社に行くのも、学校に行くのも、もういやだと思っている人さえあるでしょう。そのように地には平和が見えない時に、『天には平和がある、いと高きところには栄光があるように』、神が神とされることをのみ私は願うと歌い続け、耐え続けるならば、人生の冒険に必ず勝つことができる。弟子たちが歌った歌はそのような歌なのです。そして、主イエスが絶対にこの歌を止(や)めるわけにはいかないと、からだを張って守ってくださった歌がこれなのであります。このことを私どもは忘れてはなりません。」
「アーメン。本当にその通り。」と思います。先週の様々な報道を通しても、「いったい私たちの地は、どうなってしまったのか?」と落胆する。石巻では改めて厳しい思いが与えられた。しかし、そのような中で石巻山城町教会に、受洗者が与えられ、奏楽者も与えられ、若い長老も与えられた。その事実に、間違いなく天には平和があり、主イエスの愛、赦し、復活、再臨を信じ続けることで、いつの日か必ず地にも平和が実現すると賛美することが出来るのです。
最後に39節。すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
ファリサイ派の人々は怒って群衆の中から叫びました。「先生、お弟子たちを叱ってください」。しかし、子ろばに乗った主はこうおっしゃったのです。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」まさに、相手を威嚇し、無理に黙らせても、小さな石ころが真の王、平和の王を高らかに賛美する!と「隅の親石」である主イエスは宣言するのです。
只今から聖餐の恵みに与ります。今朝の御言葉を味わった後に、主イエスの裂かれた肉と流された血潮を味わう。本当にありがたく思います。主イエスがなぜ、子ろばに乗られたのか?二人の弟子がなぜ、「主がお入り用なのです」と言ったのか?弟子たちはなぜ、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」と賛美したのか?共に神の懐に帰る日まで問い続けたい。今も言葉にすることも難しい、あの激しい津波、震災、原発事故により、深い痛みを経験された方々が本当に厳しい生活の中で何を信じ、誰に救いを求めるべきか?真剣に考え、祈り続けておられる。その中で、今も深い穴に沈んだままの方々がいつの日か真の王、真の救い主、平和の王に出会って頂きたい!と心から祈る。失意の底から、全てを奪われた私だからこそ、主は無力な私を用いて下さる!と一日も早く気がついて欲しい。震災により全てを奪われ、その痛みの中から主の御声「あなたが必要である」を聴き、石巻山城町教会の門を叩いた。そして、洗礼に導かれた姉妹方が今、奏楽者として復活と再臨の主を高らかに賛美しておられる。驚くべき恵みです。
東村山教会に連なる私たちも、石巻山城町教会の兄弟姉妹と共に、そして、全国、全世界の兄弟姉妹と共に、平和の王を高らかに賛美し続けたい。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」と。十字架と復活、そして再臨の主は平和の王です。子ろばである私たちも、喜んで主にまたがって頂きたい。そして復活と再臨の主と共に、永遠の生命を信じ、地上での歩みを全うしたい。心から願う者であります。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。
・全世界に主の平和を実現して下さい。
・来週の家族礼拝、ミニバザーを祝福して下さい。
・全国、全世界の被災地を深く憐れんで下さい。
・愛する家族を失い今も時が止まったままの方々を深く慰めて下さい。
・求道者の方々を信仰告白、洗礼へとお導き下さい。
・体調を崩している方々、病と闘っている方々をしっかりとお支え下さい。
キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
2017年10月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 箴言 第28章19節~22節、新約 ルカによる福音書 第19章11節~27節
説教題「忠実な人は多くの祝福を受ける」
讃美歌:546、13、235、297、545A
今朝のルカ福音書の御言葉は、このように始まります。11節。人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
主イエスは「人々」に一つのたとえを話されました。「人々」とは、素直に読めば、直前の御言葉「徴税人ザアカイ」の周囲にいる「人々」です。同時に、主イエスのたとえは、どの時代の「人々」も耳を傾けるべきたとえです。実際、今朝の「ムナ」のたとえは、神の国はすぐにも現れるものと思っていた「人々」のために、主が語られた激しいたとえです。人々は、「神の国はすぐにも現れるなら、私たちは何もしないでじっとしていよう」と考えていたかもしれません。私たちも、「信仰告白し、洗礼を受けたのだから安心して、御国の到来を静かに待とう」と考えることがあります。しかし、今朝の「ムナ」のたとえを読むと、何もせず、御国の到来を静かに待ち続ける行為はキリスト者には相応しくない歩みのようです。早速、「ムナ」のたとえに耳を傾けてまいりましょう。12節。
イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位(くらい)を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後(あと)から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。
ムナとは、ギリシアの銀貨の単位です。諸説あるようですが、日本のお金で換算すると、一般の労働者の3ヶ月分の賃金のようです。1ヶ月分の賃金を、20万円とすると60万円。つまり、少額ではないが、商売をやろうとなると少し足りない。そのような額です。いずれにしても、10人の僕に10ムナの金が渡された。10人で10ムナですから、1人1ムナ。つまり日本のお金で換算すると、1ムナが60万円なので、王は60万円で商売するよう10人の僕に命じられたのです。
ところで、主イエスは1ムナを何と結びつけているのでしょう?皆に平等に与えられる恵み。それは、主イエスの十字架と復活、そして再臨の恵みです。それらの恵みを一言でまとめると、「主イエスの福音」と言えます。私たちは皆、「主イエスの福音」に与っているのです。その恵みを心に刻みつつ、たとえを読みたい。15節。さて、彼は王の位(くらい)を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。
「彼は王の位を受けて帰って来ると」とあります。しかし14節には、「国民は彼を憎んでいたので」と書かれています。王の位を受けて帰って来るにもかかわらず、王の位を喜ばない国民がいる。喜ばない以上に、国民は王を憎んでいた。今朝のたとえに登場する、王の位を受けて帰って来た「ある立派な家柄の人」は、人々から侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられ、鞭打たれ、十字架の上で処刑される主イエスであることは間違いありません。なぜなら、主イエスこそ真の王であり、主イエスこそ福音だからです。
真の王、主イエスは、世の終わり(終末)に再臨し、私たちが「主イエスの福音」にどれだけ忠実な人であるか問われます。16節。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
最初の者も、二番目の者も冒頭の言葉は全く同じです。「御主人様、あなたの一ムナで」「あなたの一ムナで」という感覚がとても大切です。10ムナも5ムナも、その原資は「あなた一ムナ」なのです。つまり、自分の1ムナではなく、あなたの1ムナを一所懸命運用したことで、10ムナになり、5ムナになったと二人はしっかりと心に刻んでいる。この姿勢こそ、忠実な良い僕です。私たちも平等に「主イエスの福音」を与えられております。その福音を感謝し、一所懸命に宣べ伝え、「主の福音があの人、この人に届きますように!」と日々、祈り続けていると、私たちの祈りに聖霊が働いて下さり、1ムナが5倍にも、10倍にも増えるのです。
しかしです。そのような聖霊の働きを無視し、主の審判を恐れ、せっかくの素晴らしい福音を自分だけの福音として封印し、布に包んだ不忠実な悪い僕もいたのです。20節。また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』
大変に厳しい御言葉です。だからこそ、主イエスの熱い想いをしっかりと心に刻みたい。今朝の「ムナ」のたとえで大切なことは、いわゆる成果主義ではないということです。確かに、表面だけ読むと、1ムナを原資に運用し、10ムナの成果をあげた僕、同じく1ムナを原資に5ムナの成果をあげた僕は高く評価されている。けれども、丁寧に読むと、王が評価している理由は「お前はごく小さな事に忠実だったから」と書かれている。その意味で60万円なのかもしれません。60万円、運用する金額としてはそれほど大きな金額ではありません。しかし、その60万円も神様から頂いた驚くべき福音と信じ、祈りつつ運用する。祈りつつ宣べ伝える。そのような忠実な僕を真の王、主イエスは高く評価なさるのです。ですから、極端なことを言えば、1ムナがほとんど増えなくても、一所懸命に運用していれば、一所懸命に祈りつつ主の福音を語り続ければ、やはり10ムナの成果をあげた僕と全く同じように主は高く評価して下さると思うのです。
けれども、「私には財力も、体力も、気力も、能力もない、私のような罪人が、主の福音を語ると、主イエスに迷惑がかかる、主がお怒りになられる」と主を勝手に判断し、聖霊の働きによって、驚くべき成果をあげる福音を布に包んで隠してしまうと、本当に残念ですが、聖霊は全く働かない。働かないどころか、布に包んだことで、隠した場所を忘れ、再臨のとき、主は私を厳しく審かれるに違いない!と主イエスの福音ではなく、主イエスへの恐怖だけが心に残ってしまうのです。主は、このような僕を大変に激しく嘆かれる。だからこそ、主は「その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。」と命じるのです。
僕たちは、驚きつつ主に訴えます。25節。僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。
「持っている」とは、何を持っているのでしょう?それは、主の福音を信じ、聖霊の驚くべき働きを信じる柔らかな心です。自分の弱さ、罪、無力さを痛感しつつも、主が与えて下さった1ムナを心から感謝し、「主よ、ありがとうございます。罪の私にもあなた様は与えて下さるのですね。私に託して下さるのですね。それならば、言い訳けはしません。だって、あなた様が与えて下さった1ムナです。本当に感謝です。主よ、一所懸命に福音を語り、福音を祈り続けます。どうか、小さな事に日々、忠実であらせて下さい。主よ、どうかこれからも忠実な僕として導いて下さい。」
反対に、ただただビクビクし、心を頑(かたく)なにし、勝手に主は厳しい方、恐ろしい方と思い込み、じっとしていると、本当に持っていた主を信じる心、信仰までも硬直し、いつの日か死んでしまうのです。これは本当に厳しいことですが、真実だと思うのです。だからこそ、真の王である主はこのように命じるのです。27節。ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。
言葉もありません。真の王である1ムナをこの私にも与えて下さると心から信じ、その1ムナを一所懸命に運用しようとしない僕は、本当に主の御前に引き出され、主の御前で打ち殺されてしまう悪い僕なのです。では、私たちは、今、主の御前に引き出され、打ち殺されたでしょうか。違います。今も生かされている。確かに、いつの日か地上での生命が終わるときがくる。しかし、今はまだ打ち殺されていない。なぜか。私たちがいつも小さな事に忠実な僕だからでしょうか。残念ながら違います。確かに朝、今日こそ、主の忠実な僕として歩もう!と祈る。しかし、すぐに小さな事に躓き、毎日、毎日、こんなことをしていて何の意味があるのか、もう疲れたと与えられた1ムナを隠してしまうことがある。本来であれば、「悪い僕だ!」と主に裁かれ、主の御前で打ち殺されるべきものです。けれども、今も生かされている。なぜか。そうです。主が自ら予告されたように、主イエスが私たちの代わりに「異邦人の手に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。(ルカ18:32〜33)」からです。本当に感謝なことです。同時に、改めて私たちがこれほどの恵み、これほどの赦し、これほどの愛を自分だけの恵みとして隠すことはいかに罪深いことか痛感する。
主は、それほどまでに私たちを信頼し、私たちに平等に主イエスの福音を与えて下さる。あとは私たちが行動するだけです。運用のノウハウ本を購入し、どうしたら1ムナを10ムナに増やすことができるか、何も悩むことはない。なぜなら、1ムナは神の1ムナ。10ムナに増やすのも聖霊の働き、そして、一所懸命に忠実に与えられた1ムナを増やそうと祈り続ければ、たとえ結果が1ムナのままであっても、あるいは運用に失敗し、1ムナがある時期、0.5ムナになったとしても、何も恐れることはない。なぜなら、主の福音、聖霊の働き、主イエスの十字架と復活、そして再臨の約束を信じていれば、本当に驚くべき恵みが約束され、再臨の日には、本当に神の国が完成するからです。どうしても私たちは成果が気になる。教会であれば、私自身もああ、今日は台風の影響がある。礼拝出席者は少ないだろう。10月の平均礼拝出席者は昨年に比べ、マイナス間違いなしと悩んでしまう。その考えこそ、悪い僕です。神様は、そのような礼拝出席者の数で私たちの教会を裁きません。むしろ、どのようなときも、台風のときも、雪のときも、猛暑の夏も、コツコツと礼拝を守り続ける。そして与えられた御言葉を感謝し、語り続け、祈り続ける。そうすると、私たち全ての者が「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だった」と終わりの日に溢れる祝福を頂くことが出来るのです。クリスマスに向けて、共に主から与えられる1ムナを本当に感謝し、忠実に主の福音を語り、一人でも多くの方に十字架と復活、そして再臨の喜びが届くよう祈り続けたい。心から願うものであります。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。
・衆議院選挙において主の御心がなりますように。
・台風の影響が少しでも小さなものとなりますように。
・来週の東日本連合長老会の講壇交換をどうぞお守り下さい。
・石巻等の全国の被災地にある教会を導いて下さい。
・求道者の方々を信仰告白、洗礼へとお導き下さい。
・病と闘っている方々を力強くお支え下さい。
キュリエ・エレイゾン主よ憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年10月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第118篇22節~25節、新約 ルカによる福音書 第19章1節~10節
説教題「今日、救いがこの家を訪れた」
讃美歌:546、72、168、339、544
今から三年前、2014年10月26日、私は「秋の特別伝道礼拝」の説教者としてこの講壇に初めて立たせて頂きました。語ったのは、ザアカイの物語。そして今朝、再びザアカイの物語を語らせて頂ける恵みを主に感謝いたします。三年前と今を比較すると色々な変化があります。三年前、私は皆さんのことをほとんど知りませんでした。しかし今は、少しは知るようになった。つまり、同じ御言葉であっても三年前と全く同じ説教になることはありません。同時に、三年前も今朝も変わらない救いの真理がある。それは「今日、救いがこの家を訪れた。」です。2014年10月26日も「今日、救いがこの家を訪れた。」2017年10月15日も「今日、救いがこの家を訪れた。」つまり、真の救いである主イエスは、過去も、現在も、将来も、永遠に東村山教会、全世界の諸教会、そして全ての民を訪れて下さるのです。その確信を持って、ザアカイの御言葉を味わいたい。1節以下。イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭(かしら)で、金持ちであった。
エリコは、エルサレムまで約30キロの町で、交通の要衝(ようしょう)でした。当時、世界を支配していたローマ帝国は、徴税事務を希望者に請け負わせておりました。ザアカイはユダヤ人。それにもかかわらず、信仰の敵であるローマのために税を取り立てるザアカイを、ユダヤの人々は軽蔑したのです。しかも、ザアカイは不正な取り立てをしていた。自分の地位を利用し、税金をむさぼる。その結果、人々から軽蔑され、ザアカイは心を閉ざす。ザアカイが信じるのは、地位、名誉、財産。ザアカイは不正な取り立てを続ける。そんなある日、主イエスがエリコの町にやって来る!との噂がザアカイの耳に入ったのです。3節。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮(さえぎ)られて見ることができなかった。
「背が低かった」とあります。私たちは「ザアカイは背が低い男」と考える。間違いではありません。私も背の低いザアカイをイメージする。しかし、「背が低かった」にはもう少し踏み込んだ意味があるようです。今回、ある説教黙想を読むことが出来ました。芳賀力先生が、ハイデルベルク大学に留学なさったときの指導教授ローター・シュタイガー先生の黙想です。加藤常昭先生が翻訳して下さいました。その中に、ドイツの改革者ルターの翻訳を取り上げている箇所があります。新共同訳で「背が低かった」と訳された箇所をシュタイガー先生はこのように黙想しています。「ルターは、『ひとそのものが小さかった』と適切に訳したが、実際、この小ささは、そのからだの大きさというよりも、公にどのように顧みられていたかを語るものであった。そのひとが
ひととして、この有名な預言者〔イエス〕によって重んじられたのである。」なるほどと思いました。「背が低い」という身体的な特徴を示すだけでなく、「ひとそのものが小さかった」のです。原語は、ηλικια(エィリキア)μικρος(ミクロス)「身たけが低く」となりますが、μικρος
(ミクロス)には、「(人、物、大きさ、量、距離、地位、勢力等について)小さい、少ない、少し、低い、若い、僅かな」という意味がある。「ミクロの世界」という言葉があるように、背丈が低いという以上にエリコの町で小さな存在。徴税人の頭ではあるが、人々から嫌われ、避けられ、馬鹿にされ続けた男、それがザアカイなのです。
ザアカイは人々に加え、神からも見捨てられたと思っていました。ザアカイの孤独は深い。だからこそ、徴税人と食卓を囲んで下さった主イエスがどんな人か見ようとしたのです。しかし、群衆に遮られて見ることができない。いつもなら、諦めて帰宅する。ところが、帰宅しなかった。自分でも何であの日、あのように行動したのかわからない。聖霊に導かれるままに走り出したのです。4節。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑(ぐわ)の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
ザアカイは走りました。「今日、イエスという方を見逃すと、二度と会えない。」ザアカイは、主が間もなく十字架で殺されることは知らないはずです。まして、三日目に復活することは想像すらしておりません。しかし、何かがザアカイを動かした。徴税人の頭という立場を忘れ、ただイエスという方を見たい!その一心で、いちじく桑の木を目がけて走り、木の上まで一気に登ったのです。
当時のユダヤ人社会では大人が走り、木に登ることは、非常に恥ずかしい、無礼な行為でした。しかし、ザアカイは走り、木に登った。何としてもイエスという方を見たい!だけど、自分の姿は見せたくない。見たいけど、見せたくない。見つけて欲しいけど、見つけて欲しくない。複雑な心境。ザアカイは葉の茂みに隠れ、「救い」が近づくのをドキドキしながら待ったのです。
ついに「救い」が訪れた。5節。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
最高の場面です。ザアカイは主イエスの「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」で失われた人生を取り戻したのです。それほど、主イエスの呼びかけは決定的なのです。
5節の御言葉を直訳するとこうなる。「ザアカイ、急いで下りよ、今日あなたの家に私は泊まらなければならないから」。ザアカイは急いで降りて来て、主を我が家に迎え、盛大にもてなしたのです。ザアカイは「夢かもしれない!」と考えたかもしれません。しかし、主が食事をなさり、ワインを飲んでおられる。夢ではない。ザアカイは喜びに浸りました。同時に、ザアカイは溢れる喜びに浸ったことで、自分のこれまでの歩みはどうだったのかと真剣に考えるようになった。特に、主を我が家に迎えるときの、人々の冷たい視線とつぶやきが頭から離れない。7節。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
人々は皆つぶやく。「あの人は何で罪深いザアカイを選び、私を選ばない。少なくとも、ザアカイより俺の方が上。ザアカイは腹黒い。あの人は騙されている。なぜ、ザアカイの家に泊まるのだ。噂には聞いていたが、あの人は旨い料理、旨いワインに釣られているだけではないか。もしかすると高価な土産を期待しているかもしれない。こんな男のために、仕事を抜け、待ち続けていたのかと思うとムシャクシャする。結局、あの男はザアカイの金が欲しいのか。」あくまでも想像ですが、人々はこのようにつぶやいたかもしれません。私たちも同じ。期待した結果が得られないとき、努力が報われないとき、つぶやく。7節で注目するのは「皆」という言葉です。意地の悪い人だけがつぶやいたのではない。「皆」つぶやくのです。しかし、ザアカイは立ち上がった。8節。しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
なぜ、ザアカイは立ち上がったのか?食事の席で主はザアカイの話しに耳を傾けて下さった。その上で、主はザアカイに問う。「ザアカイ、あなたは今、幸せか。」「ザアカイ、あなたは今、悩みがあるか。」「ザアカイ、何で木に登ったのか。」「ザアカイ、何で私を見たいと思ったのか。」
主が語るより、ザアカイに自分の気持ち、自分の願いを語らせようとされたはずです。宴会は、深夜まで続いたかもしれません。徴税人仲間も集まった。しかし、仲間たちは次々と寝てしまう。最後は主イエスとザアカイだけが話をしている。ザアカイも最初は興奮していた。「イエス様、この肉料理、旨いでしょう。」「イエスさま、このワインも美味しいでしょう。」「そうでしょう。最高の肉料理とワインを用意したのですから。」そのような会話も楽しんだ。その上で、ザアカイは、これまでの人生を語り出した。「イエス様、私は今、エリコの町の徴税人の頭です。こんな私でも今、人の上に立って働いているのです。しかし、私は徴税人。今日も少しだけでもあなたを見たいと思い、場所を開けて欲しい!とお願いしたのですが、誰一人、開けてくれない。私の顔を見た瞬間、みんな無視。お金はうなるほどある。地位もある。それなのに、誰も私を評価してくれない。誰も私の名前を呼んでくれない。こんな惨めな人生ってありますか。ねえ、イエスさま、教えて下さいよ。どうすれば私はもっと豊かに生きていけるのですか。どうすれば、皆から評価してもらえるのですか。」主は応える。「ザアカイ、何で皆から嫌われているのか、その理由はあなたが一番よく知っているはずだ。今まで何をしてきた。貧しい人々に何をしてきた。」ザアカイは黙るしかない。主の言葉、主の眼差し、さらに「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まらねばならない。そうしないと、あなたは失われたままだ。そして、死を待つだけになる。」がザアカイの心の奥に届いた。だからこそ、ザアカイは立ち上がったのです。ザアカイは食事の席でしたから横になっていた。当時のユダヤの食卓は、横になって食べるのが正しい。だから、ザアカイは立ち上がって、主に悔い改めを告白したのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
ザアカイの信仰告白です。小さな自分、無力な自分がこれからの人生、何に頼って歩んでいくのかを告白する。ザアカイは、「主よ」と信仰を告白したのです。「主よ、私は財産でも、名誉でも、地位でもなく、あなたのみに従い、あなたのみを愛し、あなたのみを見つめ、あなたのみを頼って歩んでいきます。主よ、懺悔致します。財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。主よ、あなたは『ザアカイ』と私の名を呼んで下さった、『今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』と声をかけて下さった。驚くべき恵みを心から感謝いたします。主よ、溢れる恵みに応えるために立ち上がり、罪を告白し、あなたにひれ伏し、神と隣人に仕える者になりたい。そのとき私は、あなたから溢れる愛を注がれ、あなたの赦しを受け、あなたによって生きる真の自分に戻るのです。」
主の瞳とザアカイの瞳に大粒の涙が溢れています。ザアカイは、主の足元に崩れている。主もザアカイと同じように身を屈めておられる。主イエスの両腕が小さなザアカイを包み込み、主は搾り出すように御声を発せられたのです。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
時が止まったようです。今日という日が過去から将来へと永遠に続く一日のように。主イエスの御腕に抱かれるとき、ザアカイのみならず、私たち全人類に永遠の救いが訪れるのです。神様から素晴らしい賜物が与えられているにもかかわらず、他者と比較し、つぶやき、嘆いたりすることですぐに自分を見失ってしまう私たちに、主が語り続けて下さる。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」そうです。主イエスは悔い改め、「主よ」と信仰告白した私たちを昨日も今日もそしてこれからもずっとずっと捜し続けて下さるのです。しかも、必ず救い出して下さるのです。これは毎日の御業です。同時に永遠に続く驚くべき御業なのです。本当に有難い。本当に嬉しい。本当に大きな喜びです。どんなに不正に不正を重ねても、どんなに自分で自分を赦すことが出来なくとも、主はザアカイと呼び続けて下さる。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」。ザアカイのところに、御自分の名前を入れて頂きたい。「○○。急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
そうです。主イエスは毎日、私に泊まろうとして下さる。私に入ろうとしておられる。葉の茂みに逃げ、隠れようとする私を見つめておられる。私たちが葉の茂みで何を考えているか、その全てをご存知であられるからこそ、主は私たちの真下から、私たちを見上げ、大声で名前を呼んで下さるのです。だからこそ、私たちも日々、急いで降り続ける。木の上から主を眺めているうちは、救いは訪れません。永遠の生命も、罪の赦しも与えられない。せっかく、主が私たちの真下に立って下さり、毎日、「○○」と名前を呼んで下さっているのに、耳を塞ぎ、主の御声を無視するなら、主は通り過ぎてしまう。求道者の皆さんを脅しているのではありません。やはり、主の招きに応えて頂きたいのです。
洗礼を受けたキリスト者も日々、悔い改めの祈りをささげつつ、主の招きに応え続けるのです。信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者こそ、主の御前で祈り続ける。「主よ、あなたに喜ばれる一日だったでしょうか。だれかから何かだまし取った恵みはなかったでしょうか。独り占めした恵みはありませんか。与えられた恵みを貧しい人々に施したでしょうか。主の十字架と復活、さらに再臨の約束を心に受け入れたでしょうか。」日々の祈りを忘れたくない。
主がザアカイの家を出られた後、ザアカイは行動したはずです。貧しい人々を訪問し助け、不正によって苦しめた人々に赦しを乞い、償いをしたはずです。やがてザアカイは、主が十字架で死に、三日目に復活されたことを知りました。その結果、ザアカイは伝道者として歩むようになったかもしれません。私たちキリスト者が皆、伝道者になることは難しい。しかし、ザアカイの物語を家族、また親しい友に語ることは出来るはずです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」との主イエスの招きがあなたにも、あなたにも日々、与えられていると確信を持って語り続けたい。そのとき、その人にも主は語って下さるのです。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。
・ 全世界の被災地等で困難な生活を強いられている方々をお支え下さい。
・ 愛する家族が召され、悲しみの中にある方々を慰めて下さい。
・求道者の方々を信仰告白、洗礼へとお導き下さい。
・体調を崩している方々、病と闘っている方々を力強くお支え下さい。
キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
2017年10月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第35章1節~10節、新約 ルカによる福音書 第18章35節~43節
説教題「主よ、目が見えるようになりたいのです」
讃美歌:546、55、301、321、543、Ⅱ-167
今朝のルカ福音書の御言葉はこのように始まります。イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。ある盲人。つまり、名がわからない。しかし、並行箇所マルコ福音書第10章に、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。(10:46)と書いてある。それに対しルカは、ある盲人とした。ルカは名を伏せることで、読者が盲人と自らの人生を重ね易くしたのかもしれません。確かに、肉眼は見える。しかし、見るべき御方をきちんと仰いでいるだろうか?と考えるようになる。その意味で、今朝の御言葉も主イエスから私たちへの問いであり、招きの言葉となるのです。
盲人は群衆が通って行くのを耳にした。36節。「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
盲人は叫ぶ。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。先に行く人々は、「うるさい!黙れ!」と叱る。それでも盲人は叫ぶ。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。「やもめと裁判官」の譬えのやもめと同じです。やもめは、昼も夜も叫び求めた。「相手を裁いて、わたしを守ってください」。叫び求めなければ死んでしまうからです。盲人も同じ。このチャンスを逃すと、盲人のまま生涯を終えることになる。だから叫び続ける。決してスマートではない。泥臭い。冷静な人々は叱りつけて黙らせたくなる。しかし主は、盲人を憐れんでくださったのです。40節。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
盲人は言いました。「目が見えるようになりたいのです。」「見えるようになりたいのです。」と訳されたギリシア語αναβλεψω(アナブレプソゥ)を忠実に訳すと「再び見えるようになりたいのです。」になる。つまり、盲人は生まれながら全盲だったのではない。いわゆる中途失明。大変な苦難です。中途失明の苦難を語ること、「再び目が見えるようになりたいのです」と叫び続けた盲人の心境を語ることは難しい。そこで、母教会の神の家族の証言を紹介させて頂きたい。名前はT兄。たまたま大学の先輩でもあったので、私をかわいがって下さいました。T兄は、42歳になったとき視力を失いました。ラジオのアナウンサーとして活躍していた頃に失明したのです。私はT兄の歩みを紹介した教育テレビ『こころの時代』を視聴することが出来ました。その放送を文字にされた方がおられ、その方のホームページを参考に、T兄の証言を紹介させて頂きます。
「そう、あの時、悪い状態ではあったんですけども、まあ四十越えて、手術もままならないほど、緑内障が進んで、眼圧が高くて、手術がなかなか出来なかった。で、あれどのくらいだったかなあ、一ヶ月位手術が出来ない状態が続くんですよ。
それは非常に良くない状況の筈なのに、そんな中で、ある日、これは不思議なことなんですけども、何とも言えない落ち着いた平安な気持になったんですよ。だから、『心がこんなに落ち着く平安な気持になる、ということが人間ってあるんだ』というのを、その時初めて体験したんです。身体が、心が、頭が。「ああ、人間てこんなに平安な思いでいられるんだな」という。何故そうなったか、となかなかわからないんですけどもね。年齢的なものもあったかも知れないけれども。
信頼できるあの先生にお任せしていれば大丈夫だ、というね。委ねる、といいますかね。(中略)『自分が、自分が』と思っているうちは、やっぱり心配なんですよ。『自分が』と言ったら、相手のことはそれほど信頼していないことですからね。その時はやはりいろいろなストレスを人は感じるんじゃないですかね。だから信頼して、『お任せする。委ねる』というのは、凄くゆったりするんですよ。心が平安になる。」
キリスト者のT兄だからこその証言だと思います。つまり、中途失明の皆さんがT兄と同じ心境ではないと思う。しかし、中途失明の方々の中に、T兄のような方がおられることは事実です。T兄御夫妻は、私が献身したことを大いに喜んで下さいました。今日は神学校日、伝道献身者奨励日。その日に、T兄御夫妻の笑顔を思い起こし、説教させて頂いている恵みに胸が熱くなります。『こころの時代』が放送されたのは、2003年の2月。その2年後の2005年4月に私は東京神学大学に編入させて頂いたのです。あれから12年半が経過し、私こそ、牧師である自分が何とかしなければならないと考えてしまうことがある。しかも、なかなかうまく出来ない自分を責め、落ち込むことばかり。けれども、今朝の御言葉から信仰者の姿勢を示された。信頼して主に叫び続ける。「何をしてほしいのか。」と問い続けて下さる主を100%信頼し、100%委ねて、求めていることを祈り続ける。叫び続ける。すると、主はもっとも相応しいとき、もっとも相応しい仕方で私たちの祈りを成し遂げて下さるのです。
神を賛美した盲人は、たちまち見えるようになりました。何が見えるようになったか?主の瞳であり、主の眼差しです。だからこそ、「イエスに従った」のです。繰り返しになりますが、今日は伝道献身者奨励日。献身とは神の国のために、全てを捨て、主に従い続けることです。主がペトロに語られたように「家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後(のち)の世では永遠の命を受ける。(ルカ18:29~30)」のです。
今、礼拝をまもっておられる皆さんの中に全盲の方はおられません。しかし、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と叫び続けなければ、すぐに主の十字架、主の復活、主の再臨が見えなくなってしまう。その結果、肉の視力があっても、神をほめたたえることが疎かになり、神に不平を言うようになる。キリスト者でありながら、主に従わない。私も献身の志が与えられ、神学校に編入。毎日、大勢の方々に祈って頂き、卒業。その後、釧路で6年、東村山で2年半。主の深い憐れみにより牧師として歩んでおります。にもかかわらず、目が塞がれるときがある。そのとき、心の何処かで主のお召しを疑っているのだと思います。だからこそ、主は今朝の御言葉を用意して下さった。たとえ、この世が信じられない事件や事故で溢れていても、主の十字架と復活、そして再臨の約束を信じ、終わりの日まで神をほめたたえながら、主に従い続ける。これが私たちに期待されている信仰なのです。
最後に、東京神学大学で学長を担われた左近淑(きよし)先生の説教を紹介して終わりたいと思います。左近先生は学長の時、くも膜下出血で倒れられ、1990年9月7日、59歳の若さで急逝されました。亡くなられた後、説教集が出版されましたが、1984年、おそらく阿佐ヶ谷教会で今朝の旧約聖書イザヤ書第35章の説教をしておられます。5節以下「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」をこう語られる。「ここには、目も耳を足も口も使えない、この世の重荷を背負った人が『目が開かれ』『耳はあけられ』『しかのように飛び走り』『喜び歌う』姿をうたいます。この、ため息をもらすような苦しみの連続の人を、歓喜の渦の中にさそい込みます。ベートーヴェンが耳の聞こえなくなった苦悩の中でうたいあげた第九交響曲の合唱のように、Freude’(フロイデ)喜べとうたいます。ミルトンが晩年、目が見えなくなった後『楽園回復』を書いたような希望が波うっています。」
ベートーヴェンの「歓喜の歌」はすぐに浮かぶ。しかし、ミルトンのことはほとんど知らない。すぐに色々な資料をパソコンで確認すると、皆さんに紹介したい言葉が与えられたのです。京都大学の宮西光雄教授による『ミルトンの失明をめぐる問題』という論文を発見。そこに、中途失明したミルトンによる『イングランド国民のための第二弁護論』が紹介されております。ミルトンの言葉に耳を傾けたい。
「私の盲目は、事物の色どりした表面だけを私に見せないでおくが、美徳と真理との美しさや安定性を、ほしいままに眺めさせてくれるのである。かつまた、私が進んで見たいとは思わぬものが、なんと多いことであろう。そして私が不本意ながら見なければならないものが、なんと多いことであろう。しかも、私が多少なりとも見たい気のするものは、なんと少ないことであろう!あの使徒(聖パウロのこと)が言ったように、弱さによって力強くなるみちがあるのである。だから私を、生きているもののなかで、もっとも弱い生きものにせよ、その弱さが、私の理性的な不滅の魂の気力を活気づけるのに役だつかぎりは。私がつつまれている闇のなかで、神性をおびて実在するものの光がひとしお冴えて輝くかぎりは。そうすれば、私が弱ければ弱いほど、私は無敵に強くなるであろう。そして私が盲目であればあるほど、私はいよいよはっきり見えるであろう。ああ!私がそのようにして、弱さによって完成され、闇によって照らされますように!しかも実際に、私は盲目であることで、神の恩寵にすくなからず浴しているのである。私が神そのもののほかはなにも見ることができないだけに、神はそれだけにひとしお愛情と憐れみをもって、私を見て下さるからである。あわれなるかな!私を侮辱する人、誹謗して公衆の呪いに値する人は!神のおきては私を危害から庇護するばかりでなく、ほとんど私を、攻撃することのできない不可侵なものにするからである。それは私の視力の喪失によるものではなくて、むしろ、この闇をつくりだしたとも思われるような、あの天来の聖翼が影を投ずるからである。しかもそうした闇がつくりだされるときには、神はさらに尊い、さらに清らかな、霊の光でいつもその闇を照らすのである。」
まるでミルトンが今朝のルカ福音書とイザヤ書の説教しているように感じる。ミルトンについて岩波キリスト教辞典には「イギリスの詩人、政治家、キリスト教思想家。盲目詩人として文学史に残る傑作を残した。」とあり、オックスフォード
キリスト教辞典では「詩人、論争家。早くからその学識と文才で高い評価を得ており」とありました。そうした盲目詩人ミルトンが「私は盲目であることで、神の恩寵にすくなからず浴しているのである。私が神そのもののほかはなにも見ることができないだけに、神はそれだけにひとしお愛情と憐れみをもって、私を見て下さるからである。」と語っていることは忘れたくない。
暗闇に覆われてしまったかのような事件、事故が国内、国外と続く今こそ、私たちキリスト者は、しっかりと信仰の目を開き、十字架と復活、また再臨の主をほめたたえ、主に従い続けたい。たとえ突然の苦難に襲われても、「主よ、目が見えるようになりたいのです。あなたの十字架、復活、再臨を信じ、あなたの瞳を感じたいのです」と叫び続ける。すると、主は必ず応えて下さる。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」これからも、全能なる神をほめたたえながら、復活と再臨の主イエス・キリストに従い続けたい。心から願うものであります。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。
今日は神学校日、伝道献身者奨励日です。今、私たちの教会には神学生がおりません。主よ、どうか私たちの群れの中から伝道献身者をお与え下さい。また、今、伝道者として立つ日を祈りつつ一所懸命に学んでいる神学生、また指導して下さる先生方、さらに神学校の職員、一人一人を支え、導いて下さい。私たちも神学校の働きをおぼえて祈り、また具体的な献金によって支え続けることが出来ますようお導き下さい。全国、全世界の被災地で今も困難な生活を強いられている方々を深く憐れみ、希望を失うことのないようお導き下さい。先週も信じられないような事件、事故が国内、国外で発生しました。主よ、突然、愛する家族を失い、深い悲しみの中にある方々を深く憐れみ、お支え下さい。今、クリスマスでの信仰告白、洗礼に備えて祈りつつ準備している方々を支え、導いて下さい。また熱心に教会に通い続けている求道者を支え、導いて下さい。今、体調を崩している兄弟姉妹、病と闘っている兄弟姉妹、入院している兄弟姉妹、そのような家族を看取っておられる兄弟姉妹を力強くお支え下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
2017年10月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第22篇1節~32節、新約 ルカによる福音書 第18章31節~34節
説教題「預言者が書いたことは みな実現する」
讃美歌:546、28、257、Ⅱ-1、331、542
主イエスと12弟子は旅を続けております。目的地はエルサレム。そこで、何が実現するのか。すでに二度、主は語っておられる。最初は第9章22節。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」主は長老、祭司長、律法学者、つまりユダヤ人から排斥されて殺されると語られた。次は第9章44節。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」人々ですから、限定されていません。そして、今朝の御言葉。「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。」確認すると、最初は「長老、祭司長、律法学者たち」、次に「人々」、そして「異邦人」に変化しています。主は、エルサレムで何が実現するのか12弟子に語りつつ、主の受難と十字架の死の責任は全人類にあること、同時に、十字架の死による罪の赦しと復活による永遠の生命が全人類に約束されていると語っておられるのです。
さて、主イエスは今朝の御言葉でこのように宣言しておられます。31節。「人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」「預言者」とは旧約聖書を意味する言葉です。つまり、「預言者が書いたことはみな実現する。」とは、「旧約聖書に書かれた救いの約束を、私が実現する。」と宣言されたのです。では、何が実現するのでしょうか?32節。「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。」繰り返しになりますが、主の受難と十字架の死の責任は私たち全人類にあります。そこで、改めて御言葉を読み直す。「人の子は私たちに引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。私たちは人の子を、鞭打ってから殺す。」御言葉を前に「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と胸を打つしかありません。主がクリスマスにお生まれになられたのは、鞭打たれ、殺されるためであった。この事実を、悔い改めつつ心に刻みつけることが大切です。
今朝は、ルカ福音書に加え、旧約の御言葉である詩編第22篇が与えられました。主は語る。「預言者が書いたことは みな実現する。」では、詩編第22篇、ダビデの詩にも主の受難、十字架の死、そして復活が書かれているでしょうか?ここで二つの御言葉を二人の改革者の言葉を通して確認したいと思います。
はじめに第22篇7節。「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。」ドイツの改革者ルターはこのように語る。「キリストがこの世でどのように見なされ、扱われていたかは、文字に表された神のことばにも当てはまる。それは他の書物と比べると、書物には勘定されず、虫けらである。なぜなら、それには、人が学び、読み、考察し、保存し、使用するという名誉が、他の文献のようには与えられないからである。ベンチの下にでも落したままにされていれば、それにとってはまだよい方である。他の人々は、それを引き裂き、十字架に付け、鞭打ち、あらゆる拷問にかけ、彼らは自己流に、それが異端であるとまで勝手に誇張して解釈し、それがこの世から追放され、忘れ去られるように、最後には討ち滅ぼして殺し埋葬した。しかし、また再びそれは出て来るにちがいない。そこでは警戒も防御も役に立たない。それゆえに、聖書を愛し好み、それを喜んで読み、気高い貴重なものと見なす人には
かけがえのない賜物が与えられるということが、その良いしるしなのである。その人を、神はきっとまたお認めになるであろう。」
次に第22篇17節。「犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。」新共同訳では「わたしの手足を砕く」と訳されているので、御子とダビデの手足を重ねるのは難しい。しかし、スイスの改革者カルヴァンは、こう訳しております。「犬はわたしを取り巻き、邪悪な人々の群れがわたしを囲んだ。彼らはわたしの手と足を刺し貫いた。」
カルヴァンは、新共同訳が「手足を砕く」と訳した原語を、「手と足を刺し貫いた」と意訳したのです。カルヴァンは語る。「もしユダヤ人が、ダビデはけっして十字架につけられたわけではない、と言うとしても、答えは容易である。すなわち、彼は比喩的に自分が、実際に十字架にかけられて、手と足を釘で刺し貫かれた者と同じくらい、その敵によって圧せられ・押し包まれた、と嘆いているのだからである。」二人の改革者が、「ダビデの預言が主において実現した」と証言していることは覚えておきたい。
その上で、私たちの慰めが御子によって語られていることを心に刻みたい。「そして、人の子は三日目に復活する。」主は死に勝利する。しかし12人は主の言葉が分からない。34節。十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
12人は、御子の受難、死、そして復活について何も分かりませんでした。もちろん、表面的な言葉の意味は分かっていたに違いありません。主が、人々によって殺されるらしい。なぜ、殺されなければならないのか?12人はその意味を知ることを避けた。怖いからです。意味を知ってしまうと、自分たちも殺されてしまうことがわかるから。だから、主の言葉を知ろうとしない。主の言葉の表面に触れても、本質を知ろうとしない。知ってしまうと、これまでの生活を続けることが難しくなるから。
私たちも12人と同じときがある。今朝のルカ福音書の御言葉、また詩編の御言葉を深く読むことを避けたくなる。まして「私たち」を入れて、御言葉を解釈することを拒む。私たちを入れると、主がどのような思いで私たちに引き渡され、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられ、私たちに鞭打たれ、殺されたかを考えないわけにはいかなくなる。しかし主は、そのような私たちにこそ、今朝の御言葉を心に刻んで欲しい!と望んでおられるのです。確かに辛い。確かに厳しい。けれども、次に何が書かれているか。人の子は三日目に復活すると書いてある。そうです。きちんと自らの罪を認め、悔い改め、主の赦しと憐れみと聖霊の注ぎを祈り求める。すると主は、私たちにも復活の生命を約束して下さるのです。
先週の主日礼拝後、私はK兄弟の埋葬式に東村山教会を代表して出席させて頂きました。多磨霊園のI教会の墓地に兄弟姉妹が集まり、埋葬式を兼ねた墓前礼拝が執り行われました。朗読されたのは、コリントの信徒への手紙一第15章の御言葉。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。(15:20~22)」
埋葬式。やはり涙が溢れます。明るい部屋に安置されていた骨壺が暗い墓地に埋葬されるのは本当に辛い。しかし、パウロは語る。「大丈夫。キリストは死者の中から復活された。だから、信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者は皆、復活の生命に与るのだ。」
私たちは、主の復活宣言をどのようなときも忘れてはなりません。「人の子は三日目に復活する。」今、言葉にすることもできないほどの悲しみ、痛み、苦しみを抱えている方々、唾をかけられることはなくとも、信じていていた人から裏切られ、ペッと唾をかけられるようなどん底を味わっている方々、上司から、「だからお前はいつまでもダメなんだ!」と罵られた方々、そのときの屈辱、涙、歯ぎしりは忘れない。そうした、死んでしまいたい!と思うような出来事に襲われたときこそ、私たちは今朝の御言葉に慰められる。「そうだ!主イエスこそ、最後の最後まで全人類の唾を受け、殺された。そして、自分で自分が嫌になってしまう罪に、神から愛され、赦されているにもかかわらず、神を愛せない、自分を愛せない、他者を愛せない。そのような罪に主は復活によって勝利して下さった。それならば、犯した罪にウジウジすることはない。自分の弱さにうなだれることもない。自分よりも強い人に脅えることもない。自分よりも弱い人を蔑(さげす)むこともない。もっと、十字架と復活の主を賛美し、証ししたい!」と変えられるのです。
只今から聖餐の食卓に与ります。ダビデは預言した。詩編第22篇27節。「貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。」ダビデによる永遠の生命を求める祈りが御子の復活によって実現したのです。改革者カルヴァンも、27節について、このように宣言している。「今日イエス・キリストの聖餐に与る者が、心から・また真実をもって主を求めるならば、この力はいっそう豊かに示されるであろう」。そうです。私たちキリスト者こそ聖餐の恵みに与るとき、心からの真実をもって十字架と復活の主を求める。そのとき、罪の私たちにも聖霊が注がれ、預言者ダビデの言葉が実現するのです。「わたしの魂は必ず命を得/子孫は神に仕え/主のことを来るべき代(よ)に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を民の末(すえ)に告げ知らせるでしょう。(詩編22:30~32)」10月を迎えました。いよいよ、伝道の秋から御子の御降誕を喜ぶクリスマスへ続きます。11月は家族礼拝、バザー、逝去者記念礼拝、12月はバッハの演奏会も予定されております。私たちもそれぞれの賜物を用いて、主に仕え、主の十字架と復活、そして再臨の約束を力強く語り続けたい。心から願うものであります。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。
・全世界に主の平和を実現して下さい。
・全国、全世界の被災地を深く憐れんで下さい。
・愛する家族を失い今も時が止まったままの方々を深く慰めて下さい。
・衆議院選挙において主の御心がなりますよう祈ります。
・求道者の方々を信仰告白、洗礼へとお導き下さい。
・体調を崩している兄弟姉妹、病と闘っている兄弟姉妹を力強くお支え下さい。
キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
2017年9月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第18章1節~15節、新約 ルカによる福音書 第18章18節~30節
説教題「人間にはできないことも、神にはできる」
讃美歌:546、80、125、294、540
主イエスは、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われました。聖書の時代、子どもは価値の無い存在でした。一方、議員は重んじられた。つまり主は、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」を子どもと議員の対比により、今朝も私たちに伝えているのです。18節。
ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
ある議員は大変な金持ちでした。しかも、掟に対し、非常に厳格であった。誰からも文句を言われることのない議員。本人も「私は完璧」と信じていた。だからこそ、主イエスに「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と即答したのです。けれども、主には議員の欠けがはっきりと見える。確かに、掟を遵守している。しかし、「自分を愛するように隣人を愛する」ことが疎かになっている。自分の業のみを愛している。いや、自分の業に酔っている。業績、地位、名誉、財産に満足している。さらに議員は「永遠の命」を欲したのです。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」主の回答は「乳飲み子になりなさい」でした。乳飲み子は何も所有していません。丸裸。だからこそ、主イエスは莫大な財産を所有している議員に命じるのです。
「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」当然ですが、主イエスは議員を招いておられます。いじめているわけではない。だからこそ、指摘するのです。「あなたに欠けているものがまだ一つある。」欠けているもの、それは「隣人への愛」です。
私の大好きな映画に「男はつらいよ」がある。寅さんは気前よく振る舞う。だから、財布の中はいつもすっからかん。それなのに、釣りはいらないよ!と言ってしまう。その気前よさに映画を見ている私たちはハラハラする。そして、いつの日か真面目にお金を蓄え、良い女性と結婚して欲しいと思う。しかし、寅さんは変わらない。寅さんは大人になっても子どものままなのです。一方、金持ちの議員は反対。掟を遵守。財産もある。あとは「永遠の命」を受け継ぐだけ。ところが、主イエスから「全財産を貧しい人々に分けてやりなさい」と言われた。議員は「財産を手放すことはできない」と判断。非常に悲しんだのです。主は続けます。24節。
イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。
私たちも試練に襲われ、非常に悲しむことがあります。そのとき、前にも後ろにも動けなくなる。先週もミサイル発射のニュースが流れた。世界の平和は実現不可能と思ってしまう。地球温暖化の問題も深刻です。日々の報道を通し、子や孫の時代はどうなるのかと不安になる。教会も同じです。今のまま受洗者の数と逝去者の数が推移していけば統計では確実に厳しい時代に入る。東村山教会もそうです。今日は礼拝後に敬老感謝のときを持ちますが、今年度に入り、K兄、K姉、M姉が召されました。一方、今年度の受洗者は0。転入会者は与えられておりますが、日本基督教団全体としては受洗者が与えられなければ教団を維持することが困難になる。やはり不安になります。けれども、真の人であり、真の神であられる主イエスが宣言するのです。「人間にはできないことも、神にはできる。」
宗教改革者ルターは、1525年に『奴隷的意志について』を出版しました。『ルター著作選集』の解説には、「『奴隷的意志』というタイトルは、非常に刺激的、挑発的であるが、内容もタイトルのように、刺激的、挑発的である。」と書かれています。ルターは指摘する。「私が神の働きと力とを知らないなら、私は神そのものを知らないことになる。神を知らないなら、あがめることも、讃美することも、感謝することも、仕えることもできない。私自身にどれほどのものを帰すことができ、また、神になにを負うているのか、知らないからである。だから、信仰をもって生きようと思えば、神の力と私たちの力、神の働きと私たちの働きとのあいだにもっとも明瞭な区別をつけるべきである。」
ルターが指摘したように、私たちは神の圧倒的な力に屈服することが大切。別な言葉で表現するならば、御言葉に屈服する。つまり、御言葉を本気で信じ続けるのです。それでも、混迷の時代に突入している私たちは、主の御言葉に疑問を抱いてしまう。確かに、人間にはできないことも、神にはできるだろう。それなら、何でこんなに悲惨な出来事ばかり続くのか!何ですぐに平和な社会を実現してくれないのか!いつになったらこの世から悲しみがなくなるのか!御言葉は矛盾している!そのように私たちキリスト者であっても御言葉を疑い、「フフフ」と笑ってしまうのです。
実際、今朝の旧約聖書の御言葉、創世記には、このように書かれています。第18章13節以下「主はアブラハムに言われた。『なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。』サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。『わたしは笑いませんでした。』主は言われた。『いや、あなたは確かに笑った。』」
東京神学大学教授と千歳船橋教会牧師を兼務しておられた北森嘉蔵先生は、『創世記講話』でこう語っております。「信仰というのは見ることのできないことを信じるから信仰なのです。つまり神の言葉と現実とが、すんなり調和しないで食いちがうというところに、信仰の戦いが生まれるのです。」
その通り。アブラハムもサラも信仰の戦いを続けた。しかし、アブラハムはひれ伏しながらも、笑って、ひそかに言ったのです。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。(17:17)」アブラハムは神の約束を笑った、いや、馬鹿にしたのです。サラも同じ。どんなに後から打ち消しても、主は言われるのです。「いや、あなたは確かに笑った。」主は怒っておられる。「あなたがたは私を笑えるのか。」信仰の父と言われるアブラハムでさえ、自分の目、頭で確かめることのできない神の約束を信じることが出来なかった。やはり、人間の常識で判断している。それこそが私たちの罪です。神の言葉を笑ってしまう。いや、馬鹿にしてしまう。
しかし神は、御子を通して、宣言するのです。「人間にはできないことも、神にはできる」あとは、この御言葉を私たちがどこまで笑うことなく、乳飲み子のようにまっすぐ信じることができるかです。
今朝のルカ福音書の御言葉には最後にもう一つ大きな山があります。28節。
するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後(のち)の世では永遠の命を受ける。」
ここにも、神の真理が書かれています。御言葉を馬鹿にしてはなりません。私たちは家族を大切にします。先週の金曜日、いづみ愛児園の敬老礼拝で語らせて頂きました。そのときに心に刻んだのはテモテへの手紙一第5章の御言葉です。パウロは語る。「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。(5:3〜4)」パウロは「あなたの父母を敬え(出エジプト20:12)」と十戒にあるよう、「まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだから」と語る。ということは、主の宣言「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後(のち)の世では永遠の命を受ける。」はどういう意味なのか?やはり家、妻、兄弟、両親、子供を捨てるのです。「捨てる」は自分で何とかしようではない。自分の手から離す。別な言葉で表現するなら神に委ねる。確かに、家のこと、妻のことも、兄弟のこと、両親のこと、子供のことを自分で何とかしようとすることは、責任感が強く、素晴らしいことに思える。しかし、それでは金持ちの議員と同じになる。自分の家、自分の妻、自分の兄弟、自分に両親、自分の子供は自分で対応する。しかし、今、目の前で困っている人は無視。だって、私には関係ないと考えてしまう。それでは、神の祝福、永遠の命を受け継ぐことは不可能。その結果、神の国に入ることはできないのです。
確かに、ペトロや弟子たちは家族や仕事を捨てて、主に従いました。しかし、ペトロも死を恐れた。だからこそ、主を三度も否んだのです。主を否むことは神を否むことになる。アブラハム、サラのように神を笑った。その意味で本気で自分を、また愛する家族を主に委ねていなかったのです。
今朝の御言葉、敬老感謝に相応しい御言葉となりました。100歳のアブラハムと90歳のサラに驚くべき祝福が与えられた。人間にはできないことも、神にはできると心に刻んだ。また、御言葉を笑うことは神の怒りを招くことも教えられた。たとえ掟を遵守し、莫大な財産を蓄えても、それらによって神の国、永遠の命へのパスポートにはならない。むしろ、裸になる。蓄えた財産も全て神様から与えられたもの。それならば、困っている人、貧しさに苦しんでいる人々に喜んで分け与える。そのとき、溢れる恵みを神から頂けるのです。様々な不安の中にある私たち。しかし、今朝の御言葉を通し、どんなに厳しい試練の中にあっても「人間にはできないことも、神にはできる」を本気で信じ続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
主イエス・キリストの父なる御神、将来への不安に襲われ、信仰のみに生きるのではなく、財産、地位も必要としがみつく私たちの弱さを憐れんで下さい。すべてのものを、この世において生きるために、あなた様が与えてくださったものであることを心に刻み、これらは、あなた様のものであると受け取り直すことができますよう導いて下さい。自分が生んで育てていると思い込んでいる子どもも、自分が愛し抜いていると思っている夫も妻も、自分の努力によって獲得したと思っている地位も名誉も財産も、あなた様が与えてくださったものです。厳しい試練のときこそ、「人間にはできないことも、神にはできる」との御言葉を信じ、大胆に歩むことが出来ますよう導いて下さい。これらの願いと感謝、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。
・秋の特別伝道礼拝を導いて下さい。
・求道者の方々を信仰告白、洗礼へとお導き下さい。
・体調を崩している兄弟姉妹、病と闘っている兄弟姉妹を力強くお支え下さい。
キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
2017年9月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第51篇1節~21節、新約 ルカによる福音書 第18章15節~17節
説教題「子供たちをわたしのところに来させない」
讃美歌:546、16、Ⅱ-5、461、539、427
今朝の御言葉のテーマは子供です。東村山に遣わされる前、釧路での6年は、常に子供たちの声が響いておりました。主日は教会学校の子供たち。月曜から金曜は園児たちの声が教会、幼稚園、牧師館、どこにいても響いておりました。子供の声、人によって感じ方は違います。微笑ましい!と感じる人もいれば、うるさい!と感じる人もいる。幸い、園児たちの声がうるさい!とのクレームはありませんでした。しかし、地域の方々の理解がなければ幼稚園を運営することは非常に難しいと感じておりました。
乳飲み子はお腹が空いたら泣きます。おむつが汚れても泣く。眠くなったら手がつけられません。本能のままに泣き叫ぶ。なぜ、このタイミング!と思う場面で泣き出す。喋ることの出来ない乳飲み子は泣くことで「ママ、こっちを向いて」とサインを送る。そして、ママが赤ちゃんを見つめ、愛情が伝わると安心してスヤスヤ眠る。そうした乳飲み子に主イエスに触れていただくために、母親たちは乳飲み子までも連れて来たのです。15節。
イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
ルカ福音書は「乳飲み子」と書き換えました。ちなみにマルコは「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た(10:13)。」マタイは「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供を連れて来た(19:13)。」と「子供」を用いている。ルカだけが「子供」を「乳飲み子」と書き換えていることがわかります。繰り返しですが、乳飲み子は本能のまま。それでいて無力。放置しておけば本当に死んでしまうのです。
弟子たちは、ファリサイ派とのやりとりで疲労困憊の主を思いやり、母親を叱りました。「主はお疲れだ!明日の朝、出直しなさい!非常識も甚だしい!」私たちは弟子たちを笑えません。相手が多忙な方ならば、アポイントをとってから面会する。これが常識。だからこそ、弟子たちも世の常識に則って叱ったのです。むしろ、叱らなければ、後で、主イエスに怒られるとさえ思ったかもしれません。
20世紀最大の神学者カール・バルトは、今朝の御言葉の説教で母親を高く評価しています。「この女たちは、単純ではあったが自分たちが思っているよりはるかに賢かったので、勇気を奮い起こし、イエスに触ってもらうために、ただちょっと触ってもらうために子供たちを彼のところに連れて行ったのである。ああ、彼女らは生きることと喜ぶことと愛すること以外何も知らず何も望まないこの子供たちこそまさしく、その時
口を開けた神の日光のまんなかに置かれるべきで、それが重要だということを実によく分かっていたのだった。」
バルトは興味深い表現「子供たちこそまさしく、その時 口を開けた神の日光のまんなかに置かれるべきで、それが重要だということを実によく分かっていたのだった」と女性たちを高く評価するのです。実際、主イエスこそ、乳飲み子を神の光のまんなかに置き、日陰ではなく、溢れる光で照らし続けたい!と本気で乳飲み子を招いたのです。16節以下。
しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
主イエスによる招きです。主は「はっきり言っておく」と語る。ギリシア語では、「アーメン(まことに)レゴー(私は言う)ヒューミーン(あなた方に)」。わざわざ「アーメン」と語ってから伝えるのですから、主イエスの熱い思いが伝わります。改めて、乳飲み子について考えたい。乳飲み子である0歳児から1歳児、2歳児、3歳児になると知恵が増す。すると、不安になることも多くなる。「子供は天真爛漫」と表現することもありますが、幼稚園で働いた6年。心が不安定な園児は、ほぼ間違いなく家庭に何らかのトラブルがありました。やはり、親の愛が注がれていなければ、心がカラカラに渇いてしまうのです。
児童精神科医、また無教会の信仰者である佐々木正美先生が福音館書店から出版した『子どもへのまなざし』という書物があります。佐々木先生は、6月28日に81歳で召されたようですが、子育てに悩む親から絶大な支持を受け、累計80万部のロングセラーが『子どもへのまなざし』全3巻です。その中にキリスト者らしいメッセージがある。タイトルは「条件つきでない親の愛を」。一部を紹介させて頂きます。「たいせつなことは、子どもの望むことを望んだとおりに、どれくらいしてあげられるかということです。子どもが望んだら、そのとおりにしてあげればいいのです。それは子どもをあまやかすことだし、その結果、過保護にしてしまう、子どもを堕落させてしまうと心配している人がいます。子どものいうことを聞いてあげすぎたら、子どもは依頼心が強くなって、自立しないのではないかという誤解というのは、非常に根深いものがあります。そんなことはぜったいないのです。おんぶとかだっこというから、そのたびにしてあげたら、子どもが歩けない子になったなんてことは、けっしてありませんね。おんぶといったとき、おんぶしてもらえる、だっこといったとき、だっこしてもらえた子どものほうが安心して、自分を信じて自立していくのです。」なるほど!と思いました。つまり、子供は、親に徹底的に甘えたい。親は子供の希望に出来るだけ応えればよい。そのように書かれています。勿論、子どもに贅沢三昧をさせてあげればよいというのではありません。けれども、ああ、親は本当に私のことを愛してくれているとわかったら、安心するというのです。そのような感情は子供だけではありません。人生経験を重ねた方こそ、「自分は誰からも愛されていない」と思った瞬間、生きる気力を失う。どうせ自分なんていてもいなくても誰も困らないと本気で思ってしまう。そのとき、私たちを創造し、どんなときも共にいて下さる神の愛が見えない。その意味で、大人も子供も神の愛から離れてしまうと本当に死んでしまうのです。
だからこそ、主は「アーメン」と語ってから伝える。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」主は語る。「あなたも子供になりなさい。あなたも乳飲み子になりなさい。そして大きな声で泣きなさい。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』神は、愛する子供のために、どんなに疲れていても授乳し、おむつを替え、寝かせてくれた母のように、あなたをしっかりと抱きしめ、聖霊を注いで下さるのだ。」
今朝の御言葉は子供を招く主の物語です。同時に、無力な乳飲み子であった私たちにこそ、主は神の招きを伝えたかったはずです。ルカが「子供(παιδιαパイディア)」でなく、「乳飲み子(βρεφηブレフェィ)」を用いたことにも深い意味がある。もちろん、マルコもマタイも重要。しかし、ルカの「乳飲み子」に共感するのは私だけではないと思います。乳飲み子は、本当に無力。だからこそ泣き叫ぶ。そして、自分の要求が満たされたら、安心して眠ってしまう。満足した我が子の寝顔に母は全ての疲れが吹っ飛ぶのです。私たち大人こそ、日々の歩みを主に感謝しつつ、無力な罪人であることを懺悔し続けたい。無力な罪人だからこそ、主の愛を注がれると、本当に安心するのです。たとえ愛する者が召されても、たとえ突然の病に倒れても、そのとき、無力な私たちの現実を突きつけられる。ああ、私たちは主の御前では乳飲み子である。いや、乳飲み子で良いのだ!とわかる。そして、乳飲み子が一心に母を見つめるよう、私たちも神の眼差しだけをじっと見つめるようになるのです。そのような乳飲み子である私たちを、神は最後まで諦めることなく、見捨てることなく守って下さる。さらに、神の国へ私たちを招いて下さるのです。
私たちキリスト者こそ、御言葉の前に裸になり、自らの罪を曝け出すことが重要です。「立派な大人として」でなく、神に創造された者として主の御前に裸で立つ。そのとき、自らの弱さ、罪を隠せなくなる。けれども、そのことは決して悲しいことではない、むしろ、ヨブが語ったように「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。(ヨブ1:21)」のように裸の乳飲み子こそ、神の国に帰る姿です。裸になった瞬間、私の罪は自分の努力で克服できないことを知る。また自分の生命もどんなに努力しても必ず神が定めたもう「時」に召されることを知るのです。だからこそ、自らの罪を隠すことなく神に伝え、その全ての罪を完全に赦して下さる主の十字架を信じ、永遠の生命を約束して下さる復活の主に委ね、苦しいとき、孤独を感じるとき、犯してしまった罪に愕然とするとき、「主よ、憐れみたまえ」と祈り、「罪深い私だからこそ、あなたは私を招いて下さった」と本気で感謝し、本気で悔い改め、本気で神の懐に飛び込むのです。
今朝はルカ福音書と共に詩編第51篇の御言葉を朗読して頂きました。詩編第51篇のテーマは悔い改めです。7節に書いてある。「わたしは咎(とが)のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」驚くべき御言葉です。それほどまでダビデの悔い改めは深い。いかに自分が弱く、罪深い存在であるか、犯した罪を通して「私は罪人である。いや無なる存在である。それでも今、こうして生かされている。ということは悔い改めによって犯した罪は必ず赦される。神は喜んで罪を赦して下さる」と本気で信じたのです。乳飲み子のように。だからこそダビデは続ける。15節。「わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御(み)もとに立ち帰るように。」そうです。ダビデのように罪の乳飲み子でありつつ、主の十字架の贖いによって罪赦され、こうして生かされている者として喜んで次の世代の子どもたちに主の愛と赦しと永遠の生命を喜んで語り伝えることを主は私たちに求めておられるのです。
9月24日は秋の特別伝道礼拝です。伝道委員会の方々がデザインを考え、チラシをプリントして下さいました。乳飲み子たち、子供たち、また子育てに疲れている母親、父親たちが一人でも教会に招かれたら本当に嬉しく思います。もしかしたら、礼拝中に乳飲み子が泣き出すかもしれません。しかし、私たちこそ乳飲み子。泣き声こそ、主の赦しと憐れみを一心に求める祈りなのです。私たちも無力な乳飲み子として主を賛美し続けたい。心から願うものです。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。主よ、自ら犯した罪を悔いる心において、まことに真実な乳飲み子の姿と心を深く学ばせて下さい。乳飲み子のようにあなた様の眼差しを一心に求め、重ねた罪を御子の十字架によって、永遠の生命を御子の復活によって、また神の国が御子の再臨によって完成すると信じる心を与え続けて下さい。年若い時、年盛んな時、年老いた時、その時、その時にあなた様が与えてくださる生活を大切にし、これを受け入れ、乳飲み子の心をもって生きていくことができますよう導いて下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、真の救い主、十字架と復活、そして再臨の主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。
・教会学校の子どもたちをこれからも招き、祝福して下さい。
・9月24日の秋の特別伝道礼拝を導いて下さい。
・各委員会で心を込めて奉仕しておられる兄弟姉妹を強め、励まして下さい。
・国内、国外の被災地で困難な生活を強いられている方々を励まして下さい。
・求道者の方々を信仰告白、洗礼へとお導き下さい。
・体調を崩している兄弟姉妹、病と闘っている兄弟姉妹を力強くお支え下さい。
キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
2017年9月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第130篇1節~8節、新約 ルカによる福音書 第18章9節~14節
説教題「神様、罪人のわたしを憐れんでください」
讃美歌:546、71、250、511、545B
主イエスは、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、次の譬えを話されました。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
主イエスの時代、人々から尊敬され、大きな影響力を持っていたのがファリサイ派の人々。彼らは律法を遵守し、「私は正しい」と胸を張り、掟を破る人々を見下し、罪人と食事をなさる主イエスをも見下していたのです。そのようなファリサイ派の人々に対して、主は「真実に謙遜な者として歩んで欲しい」と祈りつつ、厳しく接しました。実際、ルカ福音書第16章で、主をあざ笑ったファリサイ派の人々に対し、主はこのように言われたのです。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。(16:15)」
主は、ファリサイ派の人々を厳しく批判しておられる。そして、今朝の譬えに登場するファリサイ派の人も、人々に自分の正しさを見せびらかすのです。譬えに登場するファリサイ派の人、確かに民衆から尊敬されるに相応しい完璧な人に思える。奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でない。また週に二度も断食をし、全収入の10分の1を献金している。民衆は、素直に思うのです。「あの人は凄いな。私は週に二度の断食、全収入の10分の1の献金は難しい。そればかりか、私は時々、不正を犯す。奪い取る。他人の妻をみだらな思いで見てしまう。それに対し、ファリサイ派の人は完璧。」確かに、ファリサイ派の人は完璧に思える。けれども、主は語る。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」神はなぜ、ファリサイ派の人々の心を忌み嫌うのでしょうか?改めて、ファリサイ派の人の祈りを確認したい。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
「神様」と呼びかけております。しかし、皆さんも感じておられるように、言葉では「神様」と祈っておりますが、祈りの中身は自分の正しさの自慢大会。お飾りに「神様」と呼んでいるだけで、ファリサイ派の人には神は必要ないのです。なぜなら、私は完璧だとうぬぼれているから。神は必要ございませんと喋り続けているだけ。同時に「ファリサイ派の人と徴税人」の譬えを読むとき、常に感じるのは、私にもファリサイ派の心があるという思いです。もちろん、完璧な人間だと思ったことはありません。しかし、心の何処かに「少なくとも、あの人よりはましだ」と思ったことは何度もあるのです。
先週の主日、夏期休暇を頂き、御殿場市駿河療養所の神山教会の主日礼拝に出席させて頂きました。療養所に入所している元ハンセン病患者さんが教会員です。東海教区に属する静岡県東静分区の先生方が説教を担っておられます。よって、主日礼拝は午後2時30分開始。私は家族と共に、主日の昼前、温泉で富士山を眺めつつのんびりしておりました。不思議な感覚でした。午後には主日礼拝をまもった。だから問題はないのですが、主日の昼前に温泉にいる。何となく申し訳ない気持ちと、「ここにおられる方々はおそらく誰一人、教会に行かないのだな」と悲しい気持ちになった。そして「神様、私はこの人たちと違うことを感謝します。少し遅い時間になりますが、私はきちんと神山教会で礼拝を守ります。」と心の中でうぬぼれて祈っていたように思うのです。
ドイツの改革者マルティン・ルターは『卓上語録』の中で「偽善者の傲慢」についてこう語っております。「偽善者のもっとも不遜なのは、謙虚な態度をとるときである。これはファリサイ人に見られる。『わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』と言ったとき、すべての自分の謙虚さを汚物で塗りたくったのである。」『卓上語録』とは、ルターが食卓を囲み、客人や友人と楽しんだ語らいの「語録集」です。しかし、偽善者の傲慢について語っているルターは激しく怒っている。とても食卓で楽しく語らっている雰囲気ではありません。それほどルターも「偽善者の傲慢」を嫌うのです。
続けて主は、徴税人の祈りを語る。13節。
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
徴税人とは、外国人であるローマ人のために税金を集める人々です。中には不正を犯し、私腹を肥やす者もいた。同時に、今朝の譬えに登場する徴税人もいたのです。「俺は、何でこんなことをしているのか。確かに、税金を集め、ローマに届ける仕事は誰かがやらなければならない。でも、『これくらいならいいかな』と思い、規定より多く税金を集めた。そして、騙し取った金を懐に入れてしまった。最初は胸がチクリと痛んだ。でも、人々から嫌われる仕事をやっているのだから、これくらいの特典がなければやれん!と思うようになり、嫌われれば嫌われるほど、懐に入る金が膨らんだのだ。自分でも悪いと思う。でも、一度味わった蜜の味は忘れられない。そして、今回が最後と思いながらズルズルと罪に罪を重ねたのだ。でも、今日はそんな自分と決別したいと本気で思った。だから、勇気を出して神殿に行ってみよう。でも、この俺が神殿の真ん中であのファリサイ派の人のように堂々祈ることはできない。どうしよう、戻ろうか、いや、それではいつまでたっても罪のままだ。どうしよう、でも、今日で過去の自分とサヨナラしたい。とにかく上ろう。神殿に。」徴税人は、広い神殿の遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」
「胸を打ちながら」は、愛する者の死に襲われ、その死を我がことのように悲しむ行為と言われます。徴税人は祭壇にも近づかず、胸を打ちながら、嘆き、悲しむように言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」徴税人は自分の罪を知っていた。だから、目を天に上げることなどできない。ただただ胸を打ち続けるしかない。「俺は死ぬべき罪人である」と涙を流し、膝を折り、言葉にならない言葉を絞り出し、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とようやく言い、あとはただただ胸を打ち続けたのです。私たちも「私は罪人です」と言います。けれども、本気でこのように胸を打ちながら祈ったことがあるでしょうか?罪のない御子が血を流し、渇き、死に、陰府(よみ)にくだるほど、私の中にもファリサイ派の罪も含め、ドロドロとした闇があると本気で悔い改めて祈っているだろうか?不安になる。心のどこかに、「あの人よりはまし!」と自分と他者を比べ、安心しているところがあるように思う。やはり、神が中心でなく、自分が中心の祈りになっている。つまり、罪の自分が死んでいないのです。
主イエスは続けます。14節。
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
驚くべき主の言葉です。義なる存在であると胸を張っていたファリサイ派は、神によって低くされ、へりくだっているなどと考えず、胸を打ち、涙を流して「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言った徴税人が高められ、義とされ、家に帰ることが許された。私たちの家、それは神の懐です。
昨日の午後1時から、共に礼拝を27年間まもり続けたM姉妹の葬儀が執り行われました。毎週の礼拝を整える礼拝委員として御奉仕下さると共に、溢れる賜物を用いて様々な奉仕を担って下さったM姉妹が、突然でしたが、先週の水曜の夜に召されたのです。木曜の朝、本日の礼拝に御夫婦で出席しておられる御次男さんから「昨晩、母が召されました」と連絡を受け、頭が真っ白になりました。そして御言葉と祈りの会が終わったあとに御自宅に伺い、2階の和室に上がると、眼を閉じたM姉妹がおられた。そして、姉妹の隣に座り、お祈りをさせて頂いたのですが、意識することなくM姉妹の頭に手を触れていた。すると、頭が冷たくなっていた。その瞬間、「召されたのだ」と肌で感じたのです。昨日の葬儀には教会員の皆さんも大勢いらして下さり本当に心強く感じました。そこで読まれたのは、M姉妹の愛唱聖句、詩編
第55篇23節でした。今朝は詩編第130篇を朗読して頂きましたが、昨日の葬儀で朗読した詩編第55篇を朗読させて頂きます。「あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。」
木曜の午後、金曜の夜、そして昨日とM姉妹の御遺族、御親族様からM姉妹の喜びと重荷について色々と伺うことが許されました。昨日の御葬儀では御長男さんがM姉妹の病状について詳細に語って下さった。M姉妹は脳梗塞により召されたのですが、生かされたとしても長期のリハビリが待っていたようです。姉妹の願いは「無理な延命は望まない」でした。実際、長期のリハビリに耐えるだけの体力も残っていなかったようです。つまりM姉妹は、召される直前まで様々な重荷を抱えておられた。だからこそ、詩編第55篇の御言葉を信じた。「あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。」
詩編の御言葉を実践するべく、M姉妹は日々の重荷を主に委ね、「主は必ず支えてくださる。確かに、動揺すること、『主よ、なぜですか!』と訴えることがあっても、最後には主が必ず私を、また愛する家族を、友人たちを支え続けて下さる」と信じ抜いたのです。
今朝の詩編は第130篇でしたが、3節以下にこう書かれています。
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
詩編の詩人は、自らの罪深さと共に、そのような罪の私も主なる神を信じ、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈り続ければ、主は必ず赦して下さると信じたのです。
只今から聖餐の恵みに与かります。主が十字架の上で裂かれた肉、流された血潮を頂く。昨日の葬儀でも語りましたが、M姉妹が最後に聖餐の恵みに与ったのは4月16日のイースター礼拝でした。こんなにも早く召されるなら、徒歩10分ほどの御自宅に伺い、訪問聖餐を行うべきであったと後悔しております。けれども、後悔する以上に今、大きな希望が与えられている。それは、今朝の礼拝に御次男さん御夫妻が出席しておられることです。御長女さん、御長男さんも本日の礼拝に出席の予定でしたが、御長女さんは過労、御長男さんはお子さんが発熱のため、今日は欠席となりました。しかし、いつの日かM姉妹の御家族がM姉妹と同じように信仰告白し、洗礼を受け、主の食卓に与る日が来ると信じ、祈り続けたい。
聖餐の恵みに何度も与っている私たちも、聖餐に与るときこれが最後の聖餐になるかもしれないと思いつつ、このパンと杯を頂くことは驚くほどの恵みであると同時に、この恵みがなければ私は生きることはできない滅ぶべき存在であると胸を打ちつつ聖餐に与りたい。十字架と復活、また再臨の主は、ここにおられる全ての方々を聖餐の食卓に招いておられます。主の招きを信じ、真のへりくだりの祈りを祈り続けたい。心から願うものであります。
2017年8月20日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第88篇1節~19節、新約 ルカによる福音書 第18章1節~8節
説教題「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」
讃美歌:546、73、304、526、544
主イエスは、神の国また自らの再臨についてお語りになられました。続けて主は、祈り続けることの大切さを弟子たちに教えられたのです。第18章1節。
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
「気を落とさずに」と訳された原語には、「怠(なま)けずに」という意味があります。私たちも日々の祈りを怠(おこた)ることがある。なぜか?祈りの力を疑うからです。広い世界で、小さな私が祈っても無力ではないか?そう考えてしまう。もちろん、祈りの声は神に届いていると信じる。しかし、日々の悲惨な報道を通し、祈りの声が神に届いていないように思ってしまう。その結果、祈りを怠り、祈りを諦めてしまう。主は、そのような私たちにも祈りの心を伝えるべく、譬えを語られたのです。2節。
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後(のち)に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
一人のやもめが登場します。やもめは大きな試練に襲われていました。当時、夫に先立たれたやもめは、非常に弱い立場にありました。その時、頼りになるのは裁判官。しかし、さらなる試練がやもめを襲った。正義を期待して裁判所に赴くと、待っていたのは「神など畏れないし、人を人とも思わない」裁判官。不正な裁判官は神を畏れない。人を人とも思わない。本来なら裁判官失格です。なぜ、主イエスは不正な裁判官を譬えに登場させたのでしょうか?深い意味があるはずです。
私たちも色々な場面で不正な裁判官になっていることに気がつく。親を裁く。伴侶を裁く。子どもを裁く。そのとき、私たちは、神の眼差しを忘れています。私も他者を裁くとき、神の眼差しを忘れている。つまり、神の言葉、神の裁き、神の赦しを心に刻んでいれば、簡単にあなたは○、あなたは×と裁けなくなる。しかし、自分を神とする心が私たちの中に潜んでいる。親が子を裁く。子が親を裁く。夫が妻を裁く。妻が夫を裁く。そのとき、私たちの心から神の眼差しが消えている。そのような私たちの代表として不正な裁判官が登場するのです。
やもめは、しばらくの間、不正な裁判官に相手にされませんでした。しかし、気を落とさずに絶えず裁判官に「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訴え続けた。その結果、不正な裁判官も考えた。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」
何と、不正な裁判官がやもめを恐れ、やもめのために裁判を行った。いつも、たっぷりと賄賂をくれる側の味方をする不正な裁判官が、正義の判決を下したのです。ところで、「さんざんな目に遭わす」と訳された原語には、「くたばらせる(ヒュポー
ピアゾー)」という意味があります。「くたばらせる」とは、「目(オープス)」の「下(ヒュポ)」を「圧迫する(ピエゾー)」ことであり、相手の目の下にくまができるほど相手をくたばらせるという激しい言葉なのです。
私たち、やもめの激しさをどのように判断するでしょう?自分勝手!と裁くかもしれません。弱い立場であっても、他にも裁判官に訴えたい人がいるはず。順番があったかわかりませんが、静かに順番を待って、さあ、次は私の番!と思ったら、突然、やもめが割り込み、大声で裁判官に殴りかかるほどの迫力で「わたしを守ってください」と叫び求めている。自分のことしか考えていない。やもめは必死なのです。人にどう思われても、叫び続けないと死んでしまう。だからこそ、相手をくたばらせる激しさで、不正な裁判官であろうと、裁判官を信じ、叫び続けるしかないのです。主は続けます。6節。
それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
「選ばれた人たち」とあります。主語は神。神が選ばれた人たち。私たちが神を選んだのではない。神が私たちを選ばれた。そこにやもめもいるのです。長年連れ添った夫を失い、これまで一度も味わったことのない喪失感を抱えているやもめ。社会的にも厳しい立場にある。だからこそ神は、やもめを選んで下さったのです。選びの根拠は神にある。私たちにはないのです。良いことをすれば神が選んで下さると私たちは考えてしまう。しかし、やもめの態度は、私たちの常識では、とても神に選ばれる態度ではない。もの静かで、でしゃばることなく、試練にも耐え、黙々と祈り続ける人こそ神に選ばれるべき!と考える。しかし、神が選ばれたのは「昼も夜も叫び求めている人たち」です。この事実を今朝はしっかりと心に刻みたい。
ドイツの牧師、神学者のハンス・ヨアヒム・イーヴァントは、今朝の譬えについて、このような黙想を記しております。
この譬が、教会への教訓として与えられたとき、教会は、自らが最も深く試みられていることを知ったのである。教会が、神を心情も感情も欠如した概念のようなものに代えてしまい、〝そのことによって〟、「昼も夜も神を呼ぶ」ということを断念してしまい、叫ぶことにも疲れてしまったのである。神をもはや感じとれなくなっていたのである。以上のような対照が崩れる瞬間にこそ、〝神〟は、登場されるのである。しかも、〝神〟の選ばれた人々のところに、登場されるのである。天からの光のように、不安と圧迫のもとで道を見失っている群れのうえに、たちまちに、登場されるのである。この道を見失っている群れこそ、神の選びの民なのである。心から「アーメン!」と叫びたい。東村山教会に連なる私たちも神に選ばれた民です。立派な民ではなく、不安と圧迫のもとですぐに道を見失ってしまう群れだからこそ、神は私たちを選び、グイと迫って下さるのです。
最後に主イエスは、再び、自らの再臨について語っておられます。8節。
「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
主が再臨する時、地上に信仰を見いだすだろうかとの主の言葉です。確かに、主の嘆きのように感じる。しかし、主は私たちに期待しておられる。私たちに「からし種一粒ほどの信仰があれば!」と祈っておられる。つまり、主イエスによる信仰への招きです。「あなたがたにも、信仰を見いだすことができる」と言って下さるのです。主の心を黙想したい。「父なる神が、あなたの祈りに黙り続けるなら、殴りかかるほどの激しい心で朝も昼も夜も叫び求めなさい。私は、再び世に来る。だから、安心して私の再臨を待ち望みなさい。」
今週の水曜は、私たちと一緒に主日礼拝を守り続けて下さった敬愛する加藤さゆり先生が召されて3年となる記念の日です。2014年8月23日。私はまだ釧路におりました。さゆり先生が召されたとのメールが届いた。私の率直な感想は「間に合わなかった!」約半年後には春採教会を離れ、東村山教会へ赴任する。さゆり先生がお元気になられ、不思議なことですが、小学生の私に御言葉を取り次いで下さったさゆり先生に、牧師として私が御言葉を取り次ぐことが許される。その日を楽しみにさゆり先生の快復を祈っておりましたが、神は、これ以上さゆり先生に舌癌の痛みを負わせること、献身的に介護された加藤常昭先生にこれ以上過酷な介護を担わせることをなさらなかった。そして、神が決められた時
2014年8月23日 土曜日 午前9時50分。神の懐へと凱旋されたのです。8月26日に前夜の祈り、27日に葬りの礼拝が母教会である鎌倉雪ノ下教会で執り行われましたが、釧路での働きがありましたので、出席することは叶いませんでした。しかし、今も私たちはさゆり先生が語って下さった旧約聖書の説き明かしを心に刻んでおります。
さゆり先生は日本FEBCのラジオ放送で、今朝の旧約聖書の御言葉、詩編第88篇について丁寧に語っておられます。今年の2月、東京説教塾の例会で、さゆり先生の声を久し振りに伺うことが出来ました。決して大きな声ではない。けれども、伺っている私たちの心の奥にグイと響く低い声。まるで、目の前でさゆり先生が語りかけて下さっているように感じた瞬間でした。さゆり先生は、詩編第88篇の御言葉を朗読して下さいました。詩編第88篇2節。
主よ、わたしを救ってくださる神よ/昼は、助けを求めて叫び/夜も、御前に
おります。わたしの祈りが御(み)もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください。さゆり先生は、このように語る。
この詩編を読んで分かりますように、この詩を歌っている人は、死に直面して苦悩している人であるということです。人間の苦しみにはいろいろなものがあります。しかし、その中で一つの大きな苦しみは、それは病苦ではないかと思います。その病気が重ければ重いほど、死の力に脅かされます。肉体の病は、肉体をむしばむだけでなく、その人の心をもむしばんでいきます。心が、気持ちが、押しつぶされていきます。時には生きる気力を失ってしまします。傍らにいる者たちも、どのようにこれを支え励ましてよいのか途方にくれます。この詩人はその病苦の中で祈ります。昼も夜も祈ります。
『祈りが御もとに届きますように。わたしの祈りに耳を傾けてください。
わたしの魂は苦難を味わい尽くした。命は陰府(よみ)にのぞんでいます。』死が近づいているほどに、この人の病気が重いのです。
私は、さゆり先生の声に耳を傾け、先生が舌癌の痛みの中で主の救いを信じ、叫んでいるように思えた。同時に、さゆり先生を一所懸命に介護しておられる加藤先生のことも、また東村山教会、鎌倉雪ノ下教会のたくさんの兄弟姉妹のことも覚えて祈っておられるように感じたのです。そのさゆり先生に、また私たちに十字架と復活、そして再臨の主イエスは語るのです。「あなたがたは皆、私が選んだキリスト者。だから安心して嘆いてよい。朝も昼も夜も叫んでよい。私を信頼して欲しい。私を信じて欲しい。私は必ずいつの日か再び世に来る。しかも、すでにあなたがたの間に神の国は実現している。だから、たとえテロがあっても、たとえ死が迫っても、何も恐れることはない。あなたがたは皆、永遠の生命が約束されているのだから。」
私たちは、主から言われました。「もしあなたがたにからし種(だね)一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」驚くべき御言葉です。私たちは主が再び世に来て下さるとの再臨の信仰を保ち続ければよい。そのとき、主イエスの平和がこの世に実現するのです。その日を信じ、希望をもって昼も夜も叫び続けたい。「マラナ・タ(主のみくにがきますように)。主の平和が実現しますように。」
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。主よ、祈りを与えて下さい。あなた様が与えて下さらなければ、祈りの言葉が一言も出ない私たちです。私たちの心を奮い立たせて下さい。あなた様の慈しみが見えなければ、あなた様の正義が見えなければ、すぐに祈りに疲れ、祈りを怠る私たちです。主よ、どうか疲れることなく、飽きることなく、怠ることなく、失望することなく、この世の現実にも逆らい、望みがなくなったと見える現実にも逆らって祈り続ける勇気を、望みを与え続けて下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、真の救い主、十字架と復活、そして再臨の主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
2017年8月13日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第6章5節~8節、新約 ルカによる福音書 第17章22節~37節
説教題「主の再臨を待ち望む」
讃美歌:546、61、171、453、543
先週は、「神の国が私たちの間にある」という喜びを共に心に刻みました。今朝の御言葉は、「人の子の日」がテーマです。「人の子」は主イエスを意味する。つまり「人の子の日」は主イエスの日。主イエスの日とは、主の再臨を意味するのです。主は、ファリサイ派の人々から弟子たちに顔を向け言われた。22節。それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。
『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後(あと)を追いかけてもいけない。
「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」は、原文では21節の「ここにある」「あそこにある」と同じ言葉です。つまり主は、21節と同じ言葉を用いて、神の国の到来と、主の再臨を結びつけているのです。主は弟子たちに警告する。「ここに行けば主の再臨を見ることが出来ると言う人々を信じてはならない!なぜなら、その言葉は全て偽りだから。」
では、主の再臨は幻なのでしょうか?それは違います。なぜなら主は、自らの再臨と、その前に味わうべき苦しみについて弟子たちに語っているからです。
24節。稲妻がひらめいて、大空の端(はし)から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
7月は各地で集中豪雨や雹(ひょう)が降りました。東村山でも突然、黒雲に覆われ、稲妻がひらめいて雷の音が鳴り響きました。雷は気象現象ですが、全ての人に稲妻と雷鳴(らいめい)が示される。結果、雷が落ちたとわかる。そのように、人の子である主イエスの再臨も明確に示されると主は語るのです。同時に主は、再臨の時は父なる神様にしかわからないと語る。主は、マルコによる福音書で、再臨についてこう語っております。その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである(13:32)。
つまり、主の再臨は、だれにでも分かる形で示される。しかし、「その日、その時はだれも知らない。」のです。その上で、心に刻むべき御言葉がある。それは、主イエスの受難予告。25節の御言葉です。人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
「今の時代」。それは、主イエスの時代であると同時に、私たちにとっての「今の時代」でもあります。主イエスの真剣さ、厳しさはいつの時代も嫌われ、排斥されるのだと思います。現代も、真剣な生き方を軽んじる時代に思える。まして中高生が「私は神を信じ、主の十字架と復活、また再臨を信じます」と、学校の友人に伝えるなら、もしかすると、「お前、本当に信じているのか?」と馬鹿にされるかもしれません。しかし、いつの時代も主は生きておられる。今朝も主は、様々な試練に襲われ、困難な生活を強いられている方々と一緒に苦しみ、嘆いているのです。
続けて主は、ノア、またロトの時代について語っておられる。26節。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁(とつ)いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
ノアの時代とロトの時代の人々に共通することがあります。それは、両方とも「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」、「買ったり売ったり、植えたり建てたりしていた」。つまり、日常生活を楽しんでいた。私たちも同じです。食べて飲み、結婚する。そして、生活を維持するために働くのです。しかし、主は語る。ノアの時代は「洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」ロトの時代は「火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった」。厳しいですが、神はノアとその家族やロトと二人の娘を除いて、「一人残らず滅ぼしてしまった」のです。この事実を、しっかりと心に刻みたい。私たちは、どこかのんびりしているところがある。そして考える。「ノアやロトの時代は終わった。だから、神が一人残らず滅ぼすことはない。」しかし、改めて30節を読みますと、こう書いてある。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。
激しい御言葉です。つまり、主イエスの再臨の日、ノアやロトの時代にあった「一人残らず滅ぼされることが起こる」と警告しているのです。主の御言葉はたんなる脅しではないと思います。本当に、最後の審判が起こる。だからこそ、主は愛する弟子たちに言われるのです。33節。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
深い御言葉です。主の思いを黙想すると、「自分の命は自分のもの。だから、どう生きようと誰からも文句を言われることはない!そのように考える人は、地上の命が終わると、それでおしまい。反対に、自分の命は神から与えられた大切なもの。その命に感謝しつつ、十字架と復活、そして再臨の主に出会い、主イエスを私の救い主と信じます!と信仰告白し、洗礼を受ける。そのとき、罪の命が死に、新しい命を与えられる。しかも、その命は、復活の主イエスと同じ永遠の命となる。だから、主イエスを信じるキリスト者は、洗礼によって罪の命に死に、永遠の命を約束される」と主は弟子たちに伝えているようです。
つまり、私たちキリスト者は、洗礼によって主の名によって罪の命を失った。同時に、復活と再臨の主と結ばれ、永遠の命を約束されたのです。主はさらに続けます。34節。言っておくが、その夜(よ)一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他(た)の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。
厳しいですが、二人の男性が一つの寝室で寝ていても、二人の女性が一緒に臼をひいていても、再臨の日、「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」。「連れて行かれ」とは、再臨の主によって神の国に連れて行かれるという意味です。つまり神に国に連れて行かれる人と残される人が再臨の日に分けられる。やはり厳しい御言葉です。不安になった弟子たちは、主に質問します。37節。そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」
主イエスの回答。謎に思える。しかし、主が語っているのは当然のことです。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」主の時代の諺(ことわざ)のようです。諺の意味は、当たり前のことを示す。つまり、24節で主が語っているように、稲妻がひらめいて、誰もが雷だ!とわかるように、主の再臨も、誰の目にもわかるように、当然のこととして必ず到来すると伝えているのです。
今朝の御言葉はここまで。来週から第18章。次に主は何を語るのか?1節。イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。そうです。私たちは「今の時代」に生かされているキリスト者として主から期待されていることがある。それは、祈り続けること。主の再臨を待ち望み、気を落とさずに絶えず祈り続けることが大切です。
先週の報道の中で心に残ったのは、米国と北朝鮮の緊張が高まったことです。米国大統領の声明。皆さんもご存知だと思います。北朝鮮に対して、北朝鮮が米国をこれ以上脅かせば、「世界がこれまで目にしたことのないような炎と怒りに直面することになる」と威嚇した。これは主イエスの29節の言葉「ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。」を意識しているように感じます。米国大統領の発言を主はどう思っているでしょうか?米国大統領また北朝鮮最高指導者が主の御言葉に真摯に耳を傾けたら、相手を威嚇することなど出来ないはずです。そのような「今の時代」。主の年2017年8月。私たちキリスト者には希望がないのでしょうか?第三次世界大戦が勃発し、私たちは滅びるだけなのでしょうか?
それは違う。主イエスは、いつの時代の人々も救いたい。悔い改めて欲しい。そして気を落さずに絶えず祈り続けて欲しいのです。主の平和を、主の御国を、そして、主の再臨を。主は私たちに期待しておられる。いつ火と硫黄によって滅ぼされるかわからないとビクビクして生きるのではなく、信仰告白し、洗礼を受け、キリストと結ばれて欲しい!そして、キリスト者として、主の栄光を現わすべく、ただ一度の地上の命を全うして欲しい。主の御国が私たちの間に実現しつつあると信じ、主の再臨を待ち望んで欲しい!と。
主の審判、再臨について何となく怖いイメージを抱いていたかもしれません。しかし、信仰の基本を伝える信仰問答には、主の審判、再臨について希望に満ちた言葉が記されています。スイスの改革者カルヴァンは、『ジュネーブ教会信仰問答』にこう記す。問86
イエス・キリストがいつの日にかこられて、世をお裁きになるにちがいないということは、われわれに何か慰めを与えますか。答 はい非常な慰めであります。彼が現われなさるのは、われわれの救いのためにほかならないことを、われわれは確(かた)く保証されているからであります。問87
それゆえ、われわれは最後の審判を、恐れおののくべきではありません。答 まったくです。われわれの出頭すべき審判者は、われわれの弁護人であり、われわれの訴訟を弁護するために引き受けて下さった、そのお方以外ではないのでありますから。
カルヴァンによる再臨への問答は心に深く響きます。さらにカルヴァンは、キリスト教綱要にこう記す。「我々の出頭するのが確かにそこに救いを期待すべき贖い主の法廷であるということは、並々ならぬ安心である。そればかりでなく、今福音によって永遠の幸いを約束しておられる方が、その確かなその日に審判によって成就して下さる。それ故『御父が御子に全ての裁きを譲渡する』との栄誉を与えた目的は(ヨハネ5:22)、こうして裁きの恐ろしさに戦慄する民らの良心を慰めることにある。(キリスト教綱要第2篇第16章18)。」
そうです。私たちキリスト者にとって、主イエスの再臨は、慰めなのです。だからこそ主は、私たちのために神の御心に従い、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥され、十字架で死に、陰府(よみ)にくだり、三日目に復活され、天に昇り、いつの日か私たちを審いて下さるのです。そのとき、私たちはビクビクする必要がありません。なぜなら、私たちを審かれる御方は、私たちが一体とされたキリストであり、私たちと共に永遠に生き続けて下さる御方だからです。だからこそ私たちは祈り続ける。主の再臨が一日も早く実現するように。一人でも多くの方が信仰告白し、洗礼を受け、キリスト者として再臨のとき、神の国に連れて行って頂けるように。世界平和が脅かされている「今の時代」だからこそ、私たちは日々の報道に気を落すことなく、主の再臨を信じ、絶えず主の御国が来ますように、主の平和が実現しますようにと祈り、主の再臨が一日も早く実現するように祈り続けたい。主の再臨は、慰めであり、喜びのときなのです。
最後に、『ハイデルベルク信仰問答』を朗読致します。問52 生ける者と死ねる者とを、さばくための再臨は、どのように、あなたを、慰めるのですか。答 わたしが、あらゆる患難や迫害の中にも、頭を挙げて、この審判者を待ち望むことができるためであります。主は、わたしのために、すでに、神のさばきに対して、ご自身を与え、すべての呪いを、わたしから取り除いて下さり、また主とわたしのすべての敵を、永遠の罰の中に、投げ入れ、しかも、わたしは、すべての選ばれた者らとともに、み許に召し、天の喜びと栄光のうちに、入れて下さるのであります。
(祈祷)
天の父なる神様、今朝も私たちの名前を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。どうか、主の再臨を待ち望み、気を落さずに絶えず祈り続ける者として下さい。お願い致します。これらの願いと感謝、十字架と復活、そして再臨の主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
2017年8月6日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第29篇1節~11節、新約 ルカによる福音書 第17章20節~21節
説教題「実に、神の国は あなたがたの間にあるのだ」
讃美歌:546、1、227、Ⅱ-1、Ⅱ-24、542
今日は8月6日。広島に原爆が投下された日。また9日は長崎に原爆が投下された日です。今から72年前の8月。広島、長崎の方々に加え、戦争を経験された方々は、「神の国はあなたがたの間にある」との主イエスの言葉を素直に信じることは難しかったはずです。
先週、広島県にある特別養護老人ホームからホームの近況を報告する冊子が送付されました。12頁からなる冊子の最初のページに『被爆体験談』とあり、「今年も8月6日がやってきました。今回は○○さんの体験談をご紹介いたします」とありました。満12歳のとき爆心地から約20キロメートルの場所で被爆された84歳の女性です。体験談の一部を紹介させて頂きます。「ある女性の方からは、『空襲警報が解除されたのに、一機だけ飛行機が飛びよるわ。えらい派手に動かんと行きよるのぉ』と思い、手を目の前にかざして飛行機を見ていた。そこから、ひろひろ~っと何か落ちてきたら、ピカーッ!!と光って、ドーン!!いうたら、皆その場でやられてしもうた。手をかざしていたから、手の影になっていたところは大丈夫だったけど、影でない手の背の指や両唇が全部ひっついてしまった。手術でメスを入れて、開けてもらって、両端を縫い合わせ、ようやく口から物が食べられるようになった。べっぴんさんだったのに、真っ黒けになって、首やその他は全部ケロイド!!ケロイドって知ってる?皮膚がめくれ上がって、引きつる。傷が盛り上がるんよ。何年か経つと、ある程度は皮も伸びてくるけれど、当分の間は長く病院に通いよった。だけど、たくさんの人が焼けてしまったので、病院も間に合わんよね。薬もないし。それから、『体に毒が入って調子が悪い』と皆言っていた。内臓や色んなところが悪くなり『やれ、あそこが悪い、ここが悪い』と・・・。でも、何の毒かは分からない。今なら分かるけど、あれは『放射能』よね。(中略)ようあんな国と戦争をした。恐ろしい。こりごりよ。あんな爆弾があるようでは、人類は滅亡する!やられてしまう!そういう話もでとった。」当事者の証言ほど力のある言葉はありません。そして、2017年8月もこの状況が続いている。原発事故が収束していない。核兵器がある。内戦、テロも含めて様々な争いがあるのです。そのような今を歩む私たち、また広島、長崎、そして悲惨な戦争を経験された方々に、主は宣言する。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」今朝は、この主イエスの宣言に御一緒に思いを巡らしたい。
ファリサイ派の人々が、主に尋ねました。「神の国はいつ来るのか。」主は答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」主イエスの時代は争いがなかったかと言えば、違います。争いはいつの世にもある。結果、嘆きがあり、悲しみもあるのです。だからこそ、主は語る。「神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
「神の国」とは、「神の支配」を意味します。神の支配は永遠です。しかし、私たちの目には見えない。なぜか?悪魔によって世が覆われているからです。実際、世界は混乱している。経済最優先、保護主義の蔓延、環境破壊により温暖化が加速。結果、気象状況も変化した。発生から一ヶ月が経過した九州北部豪雨も、温暖化の影響と言われております。神の支配より悪魔の支配を感じる。しかも、永遠に悪魔の支配が続くように思える。だから嘆く。「主よ、いったいいつになれば、神の支配が成就するのですか?」主は宣言する。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
ここで、21節後半「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」を確認したいのですが、新共同訳は「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と訳しますが、岩波訳(佐藤
研 訳)はこう訳す。「なぜならば、見よ、神の王国は、あなたたちの〔現実の〕只中にあるのだ」。ギリシア語を確認すると、新共同訳で「実に」と訳されたのは、ιδου(イドゥー)、これは命令形動詞なので、「見よ」が正しい訳だと思います。実際、前田護郎訳も、「見よ、神の国はあなた方のうちにある」と訳しています。次に、新共同訳で「あなたがたの間」と訳されたのは、εντος υμων(エントス
ユモゥン)ですから、「あなたがた(ユモゥン)の間(エントス)」で間違いありませんが、岩波訳の解説には、「『あなたたちの現実のど真中に』と解した。一つ一つの現実が、神の王国の活ける『譬』そのものである、という主旨。それは心の眼を開かぬ限り、客観的に『観察』してわかるものではない」と書いてありました。今朝も主は語る。「心の眼を開いて欲しい。そして見て欲しい。あなたにも神の国、神の支配はある。今は悪魔の支配を感じるだろう、しかし、悪魔の覆いを取れば、覆いの下で神の国、神の支配があなたにも、またあなたにもあるのだ。」
主の御言葉をイメージするため、空を見上げて頂きたい。曇りの日、雨の日、太陽は見えません。けれども、飛行機に搭乗するとわかりますが、空港は曇り空であっても、離陸し、雨雲を抜けると、驚くほどの青空と燦々と輝く太陽がある。つまり、太陽が滅びたのでなく、雲に隠れている。そのように神の国、神の支配をイメージして頂くと、分かり易いかもしれません。確かに、いつの世も悪魔の支配を感じる。神の支配を感じるのは難しい。しかし、悪魔の黒雲が強風によって完全に吹き払われるときが来る。「神の国」が完成する時。その時こそ、主イエスの再臨の時なのです。
ファリサイ派の人々は、神の国の完成より、ファリサイ派の完成を確認したかった。だから「神の国はいつ来るのか」と主に尋ねた。彼らは、「ファリサイ派は律法を遵守しているから安泰、それ以外は滅亡」との言葉を主に求めたのです。しかし主は、そうした根拠を与えない。ある派閥に救いがあり、行いに救いの根拠があると語ることはなかった。神の国、神の支配は、私たちの現実のど真ん中にあると言われた。確かに、今は悪魔の黒雲しかなくても、雲の上には、神の国、神の光が輝いている。その光があなたにも、あなたにも、またあなたにも輝いている。その光を信じる信仰において、私たちは神の国、神の支配を見ること、感じることが出来るのです。
私たちの信仰。それは、御子を救い主と信じる信仰です。確かに、私たちは無力。目に見えるものに頼る。しかし、無力な私たちだからこそ、神は御子を世に遣わして下さった。御子は無力な赤子として馬小屋に生まれ、無力な姿で十字架の死を成し遂げて下さった。そのとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂けたのです。御子は三日目の朝、死に勝利し、復活した。さらに主は、天に上げられる直前こう宣言した。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録1:7〜8)」この後、御子は天に上げられ、雲に覆われ、彼らの目から見えなくなったのです。彼らは天を見つめました。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。(使徒1:11)」私たちはこの御言葉を信じます。またヨハネ黙示録にも「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。(1:7)」私たちは、御子の再臨を本気で信じるのです。
ここで、熊野義孝先生が武蔵野教会で語られた説教を紹介させて頂きます。1969年11月16日の主日礼拝です。「神の国は華やかなものでなく、神の国の主は常勝の王者のごとくには現われたまわない。なんの華やかさもなく旅の途中の馬小屋で貧者の児童として生まれ、貧しい人々の友、しいたげられた人々の友となりたもうた。いくじのない人に志を与え、失望した人に責任を与え、貧しい人々にあなたがたのほうが富んでいるではないかと言って励ました。これを迎えた人々も決して優等生でなく、弱い貧しい人々であった。神の国はこの世にある限りは栄光を現わしていないが、それでも我々の中にある。この世の国が立ったり倒れたりする間に神の国は続いている。我々がイエス・キリストの名を呼ぶ時に神の国はそこにひそんでいる。だから我々はこれを多くの人々に発表しなければならない。(中略)神の国はキリストのおいでになるところにある。イエス・キリストが我々のうちにある限り、神の国は我々のうちにある。このことがなくしては我々は世間に語るべき物を持たぬ。私たちはこのことから生ずる喜びとそして責任とを共に分かち合いたいと願う次第である。」
東京神学大学で教鞭を執りつつ、妻である清子牧師と共に武蔵野教会の牧会を担われた熊野先生が「イエス・キリストが我々のうちにある限り、神の国は我々のうちにある」と語り、「その喜びを私たちの喜びで終わらせてはならない。喜びを伝道する責任がある」と語っておられることを忘れてはなりません。
確かに、神の支配より悪魔の支配ばかり報道され、私たちキリスト者も悪魔の支配に諦めてしまいそうになる。しかし、どのような厳しい現実にも、いや、厳しい現実の只中にこそ、もっとも貧しく、もっとも悲惨な死を経験された主が立っておられる。その主が、三日目に全ての死に勝利して下さり、天に昇り、再び世に来て下さる。だからこそ、私たちは主の十字架と復活、そして再臨を本気で信じ、本気で語り、本気で祈り続けるのです。
最後に、カール・バルトが1915年2月7日、ザーフェンヴィルで語った説教を紹介して終わります。前年1914年に勃発した世界大戦をきっかけに、今後、時代がどのように変化するのか?若きバルトは不安を抱えていました。しかし翌年になると、不安な心を語る以上に、どんなに厳しい時代であっても、「神は生きておられる」と本気で信じ、「生ける神」を語るようになったのです。
「見よ、神の国は、あなた方の間にある!のである。然り、到来しようとしているものをあなた方は ほんの少ししか信頼していないのだが、それはもう既に、あなた方の間にあるのである。あなた方はそのような人間である以外ではないのである。神のご支配ということは、あなた方が考えるような青白い
疎遠な不思議といったことではないのである。輝く天からの閃光のように突入して来る、珍しい怪奇な出来事ではないのである。それが力と栄光に満ちて到来するのを見たいと望むなら、それがひそやかに目に見えぬ仕方で秘められた形で働いているところをまず見なければならない。神と、我々を助けようとしていてくださるその愛と、神のご支配を実現する力とを、あなたがたは拒否することなどできるであろうか?できはしないし、しようともしないというのが真実ではないか。あなた方の中で、神のご支配という静かな秘められた一角がすでに打ち立てられていない魂の人はいないはずである。」バルトは力強く「神の国、神の支配を見ることが出来る」と第一次世界大戦の現実の
ど真ん中で語るのです。
その上でザーフェンヴィルの会衆に勧める。「さあ、いま我々は傍観者であることをやめて、到来している神の国の生きた参加者となろうではないか。なぜなら、見よ、神の国は我々の間にあるからである。神の国が我々にもたらしてくれる一切のもの、すなわち諸民族の平和、諸民族の解放、真実と正義、喜びと祝福。我々はこれ以外ではあり得ないであろう。我々はそう信じ、そのことに力を入れるのである。我々は我々の冷たい不信仰な本性をなお長く保ち続けようと思っても、我々の魂はくり返しあの豊かなものに向かって身を置くのである。まさに神が我々に対して遙かな存在とか疎遠な存在であるのではなく、我々の父でありたまい、我々の故郷(ふるさと)でもありたもうということこそ我々の人生の最初の、そして最後の真実なのである。アーメン」
共に、主の平和が全世界に実現するよう祈り続けたい。その上で、神の国、神の支配が只今から与る聖餐の食卓においても実現していると信じ、感謝して聖餐に与りたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
主イエス・キリストの父なる御神。信仰を増し加えることができますように。私たちが好き勝手な願いによって、あなた様の支配が、始まっているかどうかと確かめてしまう、その不信仰から私たちを解き放ってください。主イエスの愛の事実に堅く踏みとどまる信仰に生かしめてください。主の慰めを必要としている方々が私たちの隣りに、被爆地に、被災地に、争いの地におられます。今、すぐに神の国の現実を見たい、味わいたいと願っている人々がおられます。そうした人々を忘れずに祈り続けることができますよう導いて下さい。そして、いつの日か世界の人々が、私たちの只中に神の支配が始まっていることを信じ、主イエスの再臨を待ち続けることが出来ますようお導き下さい。これらの願いと感謝とを、十字架と復活、そして再臨の主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
2017年7月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第146篇1節~10節、新約 ルカによる福音書 第17章11節~19節
説教題「大声で神を賛美しながら戻って来たサマリア人」
讃美歌:546、20、224、Ⅱ-59、541
主イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通り、ある村に入りました。村では、重い皮膚病を患っているユダヤ人とサマリア人が生活しておりました。ガリラヤは、外国と境を接しているので、異邦人がいる地域。一方サマリアは、かつて外国に占領されたため、色々な民族の血が混ざり、血を重んじるユダヤ人から嫌われている地域です。つまり、ガリラヤとサマリアはどちらもユダヤ人が住んでいますが、歴史的、信仰的な対立によって厳しい状況にありました。主は、そのような場所を通って、ある村に入ったのです。
東村山には国立療養所多磨全生園があります。元ハンセン病患者さんが生活しておられます。新共同訳はλεπροι(レプロイ)を「重い皮膚病」と訳していますが、口語訳は「らい病人」と訳しておりました。つまり、ハンセン病患者さんのように肉体の痛みに加え、心の痛みを抱えつつ生活していた村に主イエスが入って下さったのです。多磨全生園は久米川駅から近い。しかし、私が毎年のように訪問していた群馬県草津町にある国立療養所栗生楽泉園は車がなければ温泉街から遠く、やはり隔離された場所です。重い皮膚病を患っている10人も隔離された。10人は、重い皮膚病を患っただけで汚れている!と偏見を受け、故郷を追われた。また自分だけでなく家族まで偏見を受ける。よって、家族と縁を切る覚悟で遠い村に入る。サマリアとガリラヤの間の村でひっそりと、肩を寄せ合って生きていたのです。
10人の詳しい背景は書かれていませんが、皆、重い皮膚病を患っている。そして、その中の少なくとも1人がガリラヤ人でなく、サマリア人なのです。常に対立しているガリラヤ人とサマリア人。しかし、10人は同じ境遇のため、励ましつつ歩んでいたのです。10人は重い皮膚病でない人に話しかける時、口に手を当て「私は汚れた者!」と言わなければなりませんでした。10人の姿を想像しただけで心が重くなります。まさに、拷問のような日々。しかし、そのような屈辱も、繰り返しているうちに、本気で「私は汚れている」と思い、「重い皮膚病を患ったことは、運命だった」と受け止めるようになるのです。しかし、そのような10人に、驚くべき情報が届きました。
「イエスという方が驚くべき力によって様々な病を癒しておられる」。10人は今まで何度も騙され、何度も悔しい思いを重ねたはずです。その意味では、その噂もどこまで信じていたかわかりません。しかし、10人は重い皮膚病が癒されるのを諦めなかった。どんな手段でも用いて、癒して欲しかったのです。10人は、主に近寄れないので、遠くの方に立ち止ったまま、声を張り上げた。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください。」主は、重い皮膚病を患っている人たちを見て下さいました。そして、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたのです。10人は主を信じた。結果、10人は「清くされ」たのです。
カルヴァンの『キリスト教綱要』を翻訳し、日本キリスト教会 東京告白教会を開拓伝道された渡辺信夫(のぶお)先生が今から49年前に婦人之友社から発行された『聖書の人びと』に清くされた10人についてこう記しております。「十人のこれまでの不幸の中での結び合いは、癒しと同時に解体した。自分の肉体がきよめられたことを悟ったとき、かれらは
おのがじし道(みち)を疾走(しっそう)しはじめた。喪失した人生を急いで取り戻しはじめた。生存競争のルートに乗りはじめた。群像は もはやない。そして、かれらの心では神への讃美も、イエスへの感謝も、片すみに押しやられてしまった。群像が解体したあと、中の一人、宗教的にはユダヤ人よりも数段劣っているとされていたサマリア人が、神への讃美に立ち帰った。かれは大声に神をほめたたえながら、イエスのもとに
はせ戻る。」
喪失した人生を取り戻すため、主イエスの足もとにひれ伏すことなく、祭司たちのところに行く9人を批判することはできません。なぜなら、9人の行動は私たちの社会では当然だからです。それほど、律法に権威があり、祭司にも権威がある。10人は、この世の律法によって汚れた者と言われ、隔離された。だからこそ、重い皮膚病が癒されたとき、主を賛美するより、祭司の証明書を欲したのです。過酷な人生を強いられた10人ですから当然の行為です。私も10人の1人なら、まず祭司に証明書を頂き、証明書を持って、主の足もとにひれ伏して感謝するかもしれません。あるいは、証明書を頂いたら満足して、主の足もとにひれ伏すことを忘れてしまうかもしれません。しかし、サマリア人は違った。彼は、祭司の証明書を入手する前に、主の足もとにひれ伏して心の底から神に感謝したのです。しかも、戻る途中、「神様は素晴らしい!」と大きな声で神を賛美し続けたのです。
ご承知のように、K姉が7月21日(金)の未明に召されました。先週の月曜の葬儀でK姉の愛唱聖句テサロニケの信徒への手紙一第5章18節「どんなことにも感謝しなさい(新共同訳)」を語らせて頂きました。K姉は、信仰の遺言書に「すべての事
感謝せよ(口語訳)」と記した横に括弧でこう書いております。(なかなか思うように感謝の出来ない自分自身を嘆いております)。私はK姉の信仰を感じました。
私たちも祈る。「神様、今日も一日、事故や怪我のないようお守り下さい。」しかし、夜になると疲れ果て、祈りを忘れることがある。いや、忘れることがなくとも、今日は辛いことがあった!なぜ、あのようなことを経験しなければならなかったか!と文句タラタラの祈りになることもある。先週も様々な報道がなされました。その中でも心に刺さったのは、相模原の事件から一年が経過したことです。先週の御言葉が痛い。私の愛する子が突然殺されたら、殺人を犯した青年を赦すことは出来ない。まして、そのような出来事に対しても感謝することは絶対に出来ないと思います。
想像力を働かせたい。「私は重い皮膚病です。近づかないで下さい」と叫び、故郷から隔離され、家族からも死んだと思われ、家族だけでなく神からも見捨てられたと思っていたところ、皮膚病が癒されたら、すぐに神に感謝するべく主の足もとにひれ伏すことは難しいと思うのです。まずは祭司に証明して頂く。その上で、「神に感謝しよう!」なら100点に思える。しかし、主は厳しい。「それではダメ。それでは本当の意味で救われたことにならない。一時的には病は癒され、平安な人生を回復したように思えるだろう。けれども、それでは本当の意味で平安な人生にはならない。祭司の証明書、確かに嬉しいだろう。確かにこの世では価値のあるものだ。しかし、祭司だっていつかは召される。もちろん、あなたも召される。しかし、あのサマリア人は重い皮膚病の癒しにより、神と出会い、神を賛美し、神を礼拝する者となった。その結果、信仰を告白し、洗礼を受け、私と結ばれ、十字架と復活、そして再臨の私に続く者となったのだ。」
主の足もとにひれ伏して感謝するか、祭司たちの証明書を求めるか、大きな違いです。いや大きな違いというより本当に救われたか滅びの中にあるかの決定的な違いです。まさに先日の御言葉のように召された後、アブラハムの懐で安らかに憩うラザロになるか、最後は陰府(よみ)でさいなまれながら、炎の中でもだえ苦しみ続けることになるかもしれないほどの決定的な違いなのです。
先週の月曜に葬儀が終わりました。翌朝、教会に出勤したのですが、やはり緊張が続いたのか、何となく力が抜けてしまいお昼には牧師館に戻りました。水曜、木曜も緊張感が抜けず、金曜、そして土曜と歩むことになった。先週もあっと言う間の一週間でした。そのような日々の中で、たくさんの恵みがあり、たくさんの憐れみがあり、たくさんの慰めを頂いた。何よりもこうして今朝も健康が守られ、皆さんに説教させて頂いている。誰が何と言おうと私は恵まれている。それでもイライラすることもあり、神への感謝を忘れることもあった。重い皮膚病を癒されたサマリア人のように主の足もとにひれ伏し、大声で神を賛美しているだろうか?と先週の歩みを振り返ると、9人の重い皮膚病の人々と同じ。日々の恵みに感謝し、大声で神を賛美することを忘れているのです。そのような私にも主は語っておられる。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、主はその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
「あなたの信仰」とある。先週の御言葉を思い起こして頂きたいのですが、「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』」と主に頼んだ「信仰」と同じ。つまり、からし種一粒ほどの信仰を主は今朝も求めておられるのです。「私は、信仰告白し洗礼を受けた。だから毎日、大声で神を賛美し続ける必要はない。大声で神を賛美すると近所の人に迷惑をかけてしまう。私は主日礼拝の賛美で満足。」主はこのような姿勢を悲しむ。悲しむどころか、信仰告白し、洗礼を受けた私たちだからこそ、サマリア人のように日々、大声で神を賛美し、主の足もとにひれ伏して感謝し続けるのです。
渡辺信夫(のぶお)先生は、さらに続ける。「十人の一団はどんなに深い憐れみのまなざしで受けいれられ、どんなに切なる叫びをあげたにせよ、イエスとの本格的な出会いは成り立たない。一団が解体し、ばらばらの個人になり、個人として我に還って
はせ戻るときにのみ、イエスとの出会いは起こる。『あなたの信仰があなたを救ったのだ』との み言葉は、そのような状況においてこそ、語られる。信仰によって救われた人が、新しい人として新しい交わりを作るのは、そこからである。」その通りだと思います。
私たち、今朝の御言葉を知っているつもりです。実際、今月のいづみ愛児園での年長・年中礼拝では、今朝の御言葉を保育室の壁が割れそうな大きな声で、重い皮膚病を患っている10人になって叫び、主イエスの足もとにひれ伏した。そのとき、「私は、日常生活で主を高らかに賛美していない」と我に還った。K姉も、グランダ国分寺に教会の姉妹方と問安すると、「神への感謝を忘れてしまう」と嘆いておられた。だから私たちこそ、この世のお墨付きを頂くことに右往左往する人生から、試練にあっても、悲しみにあっても、これからどう歩んでいくべきか?悩みにあっても、主の足もとにひれ伏し、十字架と復活、また再臨の主を大声で賛美し続けたい。そのとき主は、からし種一粒ほどの信仰を評価され、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と語り続けて下さるのです。
「立ち上がって、行きなさい」。この御言葉のギリシア語原文を確認しますと、αναστας(アナスタス)「立ち上がる」と、πορευου(ポリュウー)「行きなさい」という二つの命令形となっています。「立ち上がって」は、一回限りの命令。そして「行きなさい」は、継続して行きなさい、という命令です。つまり、「行き続けなさい」になる。よって、新共同訳では、「立ち上がって、行きなさい」ですが、原文は「立ち上がって、歩み続けなさい」になるのです。
そうです。主イエスは、どんなに躓くことがあっても、どんなに私はダメだ!と思うことがあっても、「立ち上がっていい。しかも、あなたの力で踏ん張って立ち上がるのではない。私があなたを立ち上げる。死からも立ち上げる。そう。復活の生命を約束したのだ。だから、歩み続けて欲しい。キリスト者として、通い続けて欲しい。キリスト者として礼拝に。主において感謝し続けて欲しい。罪赦され、永遠の生命を約束された者として。絶えず祈り続けて欲しい。主において。そしていつも喜んで欲しい。大声で神を賛美しながら。」たとえ色々な人から『あの人、非常識』と言われても、『あの人、悲しみの中で、よく大声で賛美するはね』と陰口を叩かれても、主は喜んで下さるのです。神様、十字架と復活の主イエス、聖霊なる神様、そして、神の懐で安らかに憩っておられるK姉にも聞こえるよう、大きな声で讃美歌第2編59番を賛美したい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、感謝申し上げます。どうか私たちに常にあなた様を賛美し、感謝する心を与え続けて下さい。これらの願いと感謝、真の救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
2017年7月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ネヘミヤ記 第1章4節~11節、新約 ルカによる福音書 第17章1節~10節
説教題「わたしどもは取るに足りない僕です」
讃美歌:546、26、285、316、540
主イエスは、金に執着するファリサイ派の人々に語りました。「神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」さらに主は、金持ちとラザロの譬えを語りました。続けて主は、非常に厳しいことを弟子たちに言われたのです。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。」
「つまずき」とは何でしょう?「つまずき」と訳されたのは、σκανδαλα(スカンダラ)というギリシア語。さらに「スカンダラ」から派生した言葉が「スキャンダル」。以上より「スカンダラ」は、敵のために仕掛けた罠(わな)を指す。つまり主が「つまずきは避けられない」と語った心は、「人々を罪に陥れるような者が襲って来る。その代表こそファリサイ派の人々」なのです。
では、「これらの小さい者」とは誰のことでしょう?それは、弟子たちです。この世では無力で、小さい弟子たちの一人をつまずかせる者は、「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」と主は語るのです。非常に厳しい言葉です。さらに、主は続ける。「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
私たちにとって、「赦すこと」は難しい。しかし、主は語る。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」どうでしょう?皆さんの中で「はい。私に対して罪を犯した人を何度でも赦し続ける自信があります」と宣言出来る人はいないはずです。たった一回の過ちを犯した人であっても私たちは徹底的に審き続ける。それが私たちです。しかし、主は語る。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」本当に難しい。
ところで、なぜ七回なのか?聖書で「七」という数は、完全数を意味します。つまり、七回でなく、永遠に赦してやりなさい!と命じるのです。主の言葉はいつも真剣。だから、私たちも真剣に耳を傾けるべきです。しかし、この命令は難しい。だからこそ弟子たち、また主イエスに従っている使徒たちは、真剣に主に願ったのです。
「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。』」「わたしどもの信仰を増してください」は、真剣な祈りです。人を赦せない。他者だけでなく、自分をも赦せない。「なぜあのとき、あんなことを言ったのか」と悔む。反対に、「なぜ、私だけこんな悲惨な経験をしなければならないのか。不公平ではないか」と神を恨む。だからこそ、試練に襲われても動じない信仰、全てを赦せる信仰を増してください!と祈る。しかし、主は言われた。「からし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。
「からし種」の丁寧な説明は必要ないと思いますが、一言だけ説明しますと、からし種は僅か一ミリの小さな種。そのような小さな種ですが、生長が早く、数メートルの大きさになることで知られています。つまり、からし種一粒ほどの信仰があれば、信仰を与えて下さる神が、からし種一粒ほどの信仰を用いて桑の木を動かす!と語っておられるのです。
改めて、主の御言葉に真摯に向き合いたい。なぜ主は、常識ではどう逆立ちしてもあり得ないことを語られたのか?当然、主の意図があることは明確です。主は、「信仰」について使徒たち、また私たちに教えて下さっていると思います。皆さんは「信仰」をどのように考えておられるでしょうか?毎日、祈りを献げ、きちんと聖書を読み、一所懸命に教会の奉仕を担い続ける。その努力によって、信仰が深められていくと考えているかもしれません。また求道者の方々に多いのは、信仰告白、洗礼を受けるにはまだ信仰が弱い、「もうこれで大丈夫!」となれば、洗礼を考えるが、今の信仰では洗礼は考えられないという御意見です。私は誠実な御意見であると思います。しかし、このような考えでは主イエスの「からし種一粒ほどの信仰」と完全に矛盾します。では、主イエスが間違っているのでしょうか?そんなことはありません。主イエスは真の神であり、真の人だから。そうすると、「信仰」とはいったい何なのでしょうか?
先日、共に礼拝を守って下さっている加藤常昭先生が一冊の書物を出版して下さいました。書物の名は『自伝的伝道論』。すでに出版された『自伝的説教論』の続編とも言える書物です。帯には「この時代に改めて、伝道の大切さを問う!」と書かれています。伝道の様々なヒントが書かれておりますので、いつの日か『自伝的伝道論』を用いて学びの機会を設けたいと願いますが、そこに、加藤さゆり先生による「信仰」についての印象的なエピソードが記されております。そのまま引用させて頂きます。
「鎌倉雪ノ下教会のある女性会員が、こんな話をしてくれました。若いときから、いわゆるキリスト教学校で育ったこともあり、聖書に親しんできたけれども、洗礼を受けることなどは考えず、つかず離れずの関係にありました。たまたま頼まれて同窓会の礼拝の奏楽を引き受け、そこで私(加藤常昭牧師)の説教を聴き、惹(ひ)きつけられ、その後、鎌倉雪ノ下教会の礼拝、そして加藤さゆり(伝道師)が指導する金曜日の求道者会にも出るようになりました。あるとき、なかなか自分が信仰を持つことができないで悩んでいる、と訴えたそうです。そうしたら、さゆり(伝道師)がびっくりした顔をして言ったそうです。『あら、あなた、自分で信仰を持つつもりなの?そんなこと無理よ。信仰というのは、自分で獲得するものではなくて、神さまから頂くものなの!』。ああ、そうかと思いました。それから間もなく洗礼を受けたのです。今も熱心な信仰と愛に生きています。」
東村山教会で「旧約聖書を学ぶ会」を熱心に御指導下さり、今から約3年前2014年8月23日に天に凱旋された加藤さゆり先生の「信仰」の理解は、深いものであると教えられます。もしかすると、さゆり先生は今朝の主イエスの御言葉を心に刻み続けていたのかもしれません。「からし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」
そうです。信仰は努力によって獲得し、増やすものではない。さゆり先生が語られたように、「神さまから頂くもの」です。だから、「からし種一粒ほどの信仰があれば」いいのです。それなのに、私たちは自らの信仰の弱さを嘆く。しかも、そのように嘆くことこそ真の信仰者のように勘違いする。そのような「信仰」理解に主は明らかに「否」と語るのです。
第17章に入り、主の厳しさはさらに鋭くなったように感じます。第16章では金に執着するファリサイ派の人々を審いておられた。第17章に入ると、愛弟子、そして使徒たちにも、厳しい言葉を語っておられる。決して主イエスがイライラしていたからではありません。刻一刻とエルサレムが近づいている。十字架の死が近づいている。そのような緊張感の中で血の汗を滴らせるほどの真剣さと、深い愛情を持って戒めているのです。「そのような考えでは、弟子は務まらない。そのような考えでは、使徒とは言えない」と。
使徒たち、また私たちは、その眼差しを、信仰の対象である神に向けるべきです。「私の信仰は小さい!」と呟くのではなく、「犯された罪を赦せない私にこそ、からし種一粒の信仰を神は与えて下さる。だから今朝も教会に招かれた。だから今日も生かされた。このような私に、信仰という種を蒔いて下さった神に僕として仕え続けたい!」このような、どこまでも主人に服従する僕の姿を主は私たちに求めておられるのです。
続けて主は、譬えを語られた。「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
スイスの改革者カルヴァンは、譬えの目的について、こう語っております。「このたとえ話の目的は、私たちはすべてを神から受けており、また、私たちは私たちの体も富も全く神のものであるから、神に対していかに義務を果たすことができようとも、私たちが何らかの報いに値するものとして神に恩義を感じさせることはできないということを示すことである。」
「なるほど」と思います。さらにカルヴァンは「僕(しもべ)」について、このように定義する。「キリストはここで、今日、金銭で雇われて、私たちのために働く下僕(げぼく)のことではなく、自分自身のものは何も持たず、彼らの労働も勤勉さも、さらに血まで、すべてが全く主人のものであったそのような身分の、昔の奴隷について語っておられる。キリストはここで、私たちは非常に厳重な隷属の絆で神に結びつけられているということを示しておられる。」カルヴァンの考えを一言で纏めると、「私たちはこの世では、どんなに完璧にことを成し遂げても、神の前では全くの奴隷である」ということです。
私たちが常に意識しておくべきこと、それは、どんなことがあっても主人は神であるという事実です。たとえ、命じられたミッションを完璧に成し遂げた!と思っても、主の眼差しから見れば神から託されたことを神の憐れみによって成し遂げただけである。同時に、その事実を心に刻んだとき、私たちは神の僕としてこれからも存分に用いて頂けるのです。
今日の午後は、教会学校サマー・フェスティバルが行われます。子どもから中高生が集い、楽しいときを過ごします。子どもたちは神から託された小さな存在です。その小さな子どもを躓かせることは許されません。勿論、主イエスは「子どもたちに迎合しなさい!」と命じているのではない。しかし、大人である私たちが主の憐れみによって今日まで生かされているという事実を忘れ、「うるさい!」と子どもを審き、躓かせるなら、やはり首にひき臼を懸けられ、海に投げ込まれてしまうのです。私自身、今朝の御言葉を読み続け、本当に胃が痛くなりました。自分の三人の子どもを何度も躓かせている。子どもだけでなく、今日まで出会ったたくさんの方々に牧師として、園長として、神学生として、銀行員として、様々な躓きを与えてしまった。それなのに、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれていない。今朝もこうして説教を許されている。しかも今夜と明日は信仰の大先輩、K姉妹の葬りの業も託して頂いた。驚くべき事実です。だからこそ、主なる神に申し上げたい。「わたしこそ、取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」
今日の午後は教会学校の子どもたちに御言葉を語り、夕はK姉妹の御遺族、御親族に前夜棺前祈祷会で御言葉を語り、明日の午後は御葬儀で御言葉を語る。その全てが僕としての働きです。主の僕として歩むとき、罪を犯す者を赦せない自分を悔い改めつつ、そのような者をも用いて下さる主を地上での命ある限り信じ続けたいと願う。たとえ、からし種一粒ほどの信仰であっても、そのような信仰を与え続けて下さる神をどこまでも信じ、歩み続けたいのです。
からし種一粒ほどの信仰、ここにおられる全ての皆さんに与えられています。なぜなら、今朝も共に礼拝を守り、共に主を賛美し、共に祈りを合わせているから。今、深い悲しみの中にあるK姉妹の御遺族、また神の家族である私たちを十字架と復活の主が必ず慰めて下さると信じ、明日の葬儀に一人でも多くの兄弟姉妹と共に復活の主を賛美したい。心から願う者であります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、私たちをあなたの僕として召して下さり、僕として生きるに足るだけの力を、与えていて下さいますことを感謝いたします。人の罪は、なかなか動きません。心の頑なな人の心を動かすのに、途方に暮れる思いがいたします。私の心も頑なです。けれども、どんなに深く根を下ろしている桑の木も、からし種一粒ほどの信仰で動くと、主は約束してくださいましたから心より感謝いたします。そして、その素晴らしい主の恵みの奇跡の業に携わることができるよう、私たちを僕として贖い取ってくださいました。この恵みの事実に、何度でも立ち返ることができますようお導きください。これらの願いと感謝を、復活の主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
2017年7月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第4章25節~31節、新約 ルカによる福音書 第16章19節~31節
説教題「神の憐れみによってのみ生きる」
讃美歌:546、4、244、361、539
主イエスは、金に執着するファリサイ派の人々を悔い改めに導くため、譬えを語りました。登場するのは、ある金持ちとラザロ。また、天使たちとアブラハムです。ある金持ちは「いつも紫の衣や柔らかい麻布(あさぬの)を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らして」いました。そのような金持ちの門前に、貧しいラザロが横たわっている。しかも、ラザロの顔、手足はできものだらけである。その「できもの」を犬がなめる。できものから流れる膿を犬が求めたかもしれません。誰からも相手にされず、できものをペロペロなめる犬だけがラザロの友。惨めな男の代表ラザロ。しかし、ラザロは生きている。だから腹が減る。できものだらけのラザロ。よって誰も雇ってくれない。働けないので収入ゼロ。しかし、放蕩息子の弟のように腹は減る。犬にできものをペロペロなめられる。人間としての誇りも失った。でも腹は減る。よって、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たすしかない。食べるだけの人生。悲惨な人生。苦しみだけの人生。やがて、ラザロは死んだのです。そのとき、驚くべきことが起こった。何と、ラザロを天使たちが囲んだ。囲んだだけでなく、ラザロを持ち上げ、天の宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行ったのです。
今朝の御言葉は、主イエスの譬えです。つまり、ラザロは架空の人物である。しかし、譬えを語るのは十字架と復活、また再臨の主です。だから、譬えにも力がある。語る方が真実であるから、譬えも真実の言葉となるのです。
ラザロは、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれました。新共同訳で「すぐそばに」と訳された原語は、κολπον(コルポン)。意味は「懐に」。つまり、ラザロは天使たちによってアブラハムの懐に入れられたのです。驚くべき出来事です。
今朝の譬えのポイントは、「ラザロは信仰者であった」と書かれていないことです。「できものだらけの貧しい人」としか書かれていない。また、できものを犬にペロペロなめられ、空腹を満たすことだけに時間を費やした。そのようなラザロがアブラハムの懐に入れられた。
アブラハムはイスラエルの民の先祖であり、信仰の父です。そのアブラハムの「すぐそばに連れて行かれた」のですから、最高の喜びであり、誇りです。ラザロは天使たちによって本当にアブラハムの懐に入れられたのです。
改革者ルターは、ルカ福音書第16章22節に登場する天使たちについて、こう語っています。「いとしい天使たちのように、親切で、真心からあらゆることに仕える準備がいつもできている人間はどこにもいない。だから、私たちは、自分の最もよい信頼できる友は目に見えないものたちであることを学ぶべきである。彼らは忠実で好ましく、あらゆることに役立ち、本当に親密な友情をもっており、私たちの目に見える友よりはるかに優れているのである。私は自分の家へ帰ってベッドに横たわり、よい天使はきっと私の世話をするように命じられているのだと確信しよう。すると、私が地下の虫のわいた墓へ向かって最後の歩みをするときには、いとしい天使もまたそこにいて私を導き、私の魂をアブラハムのふところへ送ってくれるということも、ますます強く確かに約束されるはずなのである」。
改革者ルターによる、慰めと励ましに満ちた言葉です。ルターは天使たちを「自分の最もよい信頼できる友であり、忠実で好ましく、あらゆることに役立ち、本当に親密な友情をもっており、私たちの目に見える友よりはるかに優れている」と語る。しかも、「地下の虫(蛆?)のわいた墓へ向かって最後の歩みをするときには、いとしい天使もまたそこにいて私を導き、私の魂をアブラハムのふところへ送ってくれる」と語るのです。
実際、ラザロは天使たちによって蛆のわいた墓からアブラハムの懐に連れて行かれた。一方、金持ちはどうなったか?死んで葬られたあと、陰府(よみ)でもだえ苦しんだと主は語るのです。23節以下「金持ちは陰府(よみ)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵(ふち)があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』」
アブラハムの答えは厳しいものでした。金持ちは動揺したのです。しかし、すぐに気持ちを切り替え、「兄弟は救って欲しい!」と訴えました。27節、「金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
金持ちは、地上に生きている兄弟の救いを一所懸命に求めました。「愛する兄弟が私のように燃える炎の中でもだえ苦しむことは耐えられない。だから、ラザロを父親の家に遣わしてください」。しかし、アブラハムは言うのです。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」
先週の御言葉でも主イエスは語りましたが、父なる神は私たちの心をご存じです。だからこそ、「モーセと預言者」、つまり旧約の御言葉を通して全ての者を神の国へと招き続ける。しかし、ほとんどの民は金に執着するように神に執着しない。素敵な衣服や余暇を楽しむことに執着しても、「モーセと預言者」、つまり旧約の御言葉に耳を傾け、神を礼拝することを軽んじる。そこで主は、「御言葉に耳を傾けないなら、神の懐で憩うことは困難」とアブラハムの口を通して語るのです。さらに、「御言葉を通しての悔い改めがなければ、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と語るのです。
繰り返しになりますが、主が語っている相手は金に執着するファリサイ派の人々です。律法は完璧に遵守している。しかし、主イエスの眼差しから見ると、ファリサイ派の人々は、自分の正しさを見せびらかすことは重視するが、真の意味で旧約聖書の御言葉に打ち砕かれていない。それでは、天使たちによってアブラハムの懐に入ることは難しい。金持ちのように、ゴウゴウと燃える炎の中でもだえ苦しむことになると主は語るのです。やはり、大変に厳しい御言葉です。そして、今朝の御言葉は、私たちと無関係ではない。いや、密接に関係するのです。
では、私たちは召された後、神の怒りの炎の中でもだえ苦しむのでしょうか?ラザロのように貧しく、全身にできものがないと、アブラハム、いや神の懐で憩うことが出来ないのでしょうか?それは違います。冒頭でも触れたように、ラザロは熱心な信仰者であるとか、尊い業を成し遂げたとはどこにも書かれていない。ラザロは貧しく、惨めな生涯であったとしか書かれていない。では、なぜラザロは天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれたのか?なぜラザロは宴席にいるアブラハムの懐に招かれたのか?それは、「神の憐れみによってのみ生き」、「神の憐れみによってのみ死に」、「神の憐れみによってのみアブラハムの懐に招かれた」からです。つまり、私たちが今、こうして生かされているのも、またいつの日か召されるのも、そして神の懐に招かれ、安らかに憩えるのも、全て神の憐れみなのです。反対に言えば、神の憐れみがなければ、神の赦しがなければ、私たちは皆、一人の例外もなく、神の怒りの炎の中でもだえ苦しむしかない惨めな存在なのです。地上においてどんなに豪華な生活を営んでも、地上では人々に尊敬され、特別な地位を手に入れても、結局は神の憐れみがなければ、炎の中でもだえ苦しむ存在なのです。そのことを真剣に心に刻んだとき、「ラザロを遣わしてください!」ではなく、「主イエスを遣わしてください!」になり、神が主を遣わしてくださったことを感謝し、御子が私たちに代わって神の怒りの炎が燃える陰府にまでくだり、三日目に復活されたことを信じ、信仰告白し、洗礼を受ける者となるのです。
31節の最後に、「たとえ死者の中から生き返る者があっても」とあります。
19節からの文脈で判断すれば、「死者の中から生き返る者」は、ラザロであることは間違いありません。けれども、主イエスの復活と再臨を信じる私たちは、「たとえ死者の中から生き返る者があっても」は、主イエスと理解することは当然のことです。いずれにしても、旧約の御言葉を軽んじる者が、復活の主を語る新約の御言葉を信じることは難しい。私たちキリスト者は新約を重んじるのと同じように、旧約の御言葉も重んじる。なぜなら、主イエス御自身が旧約の御言葉を大切に読み、大切に語り、大切に心に刻み続けていたからです。
今朝の旧約聖書の御言葉は申命記第4章25節以下です。29節以下を朗読致します。「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。これらすべてのことがあなたに臨む終わりの日、苦しみの時に、あなたはあなたの神、主のもとに立ち帰り、その声に聞き従う。あなたの神、主は憐れみ深(ぶか)い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもないからである」。
まさに旧約の御言葉を軽んじることなく、どこまでも信じ、どこまでも心に刻み続けることが大切であることがわかります。旧約の神も、新約の神も同じ。申命記は「神は憐れみ深い」と語り、主イエスも「憐れみ深い神を信じ、旧約の御言葉に耳を傾けなさい!」と語るのです。
私たちはどうしても目に見えるものに安心を求めます。その結果、目に見えない存在を忘れてしまう。金持ちは炎の中でもだえ苦しみつつ、「ラザロをよこしてください!」「ラザロを遣わしてください!」と叫び続けた。それほど陰府から見えたアブラハムの懐で宴会を楽しんでいたラザロの姿は衝撃だった。結果、ラザロ!ラザロ!と叫びつつ、悔い改めの言葉を発することはなかったのです。私たちはこの金持ちを笑えない。確かに私たちは己の罪を認め、悔い改め、「主イエスこそ真の救い主」と信仰告白し、洗礼を受けた。けれども、そのような私たちの心にも、どこかに自分より下と思う人を見下し、「あの人より私の方が神に仕えている」と誇り、「あの人は地獄に落ちて当然」と裁くことがあるのです。そのとき、非常に厳しいですが、私たちもファリサイ派の人々と同じ心になっているのだと思います。
そのような私たちが大切にしたい言葉は、「神の憐れみによってのみ生きる」です。今日、こうして息をして、健康が守られ、礼拝に出席し、高らかに主を賛美し、午後は婦人会に参加し、それぞれの時を有意義に過ごせるのは、全て神の憐れみがあるからです。誰が何と言おうと神の憐れみがなければ、私たちは一日たりとも、一分たりとも、いや一秒たりとも生きることは出来ない存在です。同時に、その真理を心に刻み、与えられた一日一日を誠実に生き続けていれば、どんなに苦しい人生であっても、「なぜこんな目に遭わなければならないのか」という嘆きの人生であっても、突然、集中豪雨により愛する家族を失う人生であっても、ただ食卓から落ちる物で腹を満たし、自分に近寄るのはできものに興味を示し、ペロペロとなめる犬だけの人生であっても、天使たちによって宴席にいるアブラハム、父なる神の懐で憩うことが出来るのです。
私たちも今、それぞれに様々な思い煩いを抱えております。しかし、今朝の御言葉から、私たちの墓にも天使たちが遣わされると信じたい。その天使こそ、御子として世に遣わされ、十字架という炎の中でもだえ苦しみ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちより復活された主イエス・キリストなのです。
十字架と復活、そして再臨の主イエスが「大きな淵」に十字架という永遠の橋を渡して下さいました。その結果、罪の私たちも陰府(よみ)から神の懐へ安心して渡ることが出来るようになった。この驚くべき神の憐れみを信じ、主から与えられた一日一日を感謝して歩み続けたい。心から願うものであります。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。
主よ、九州北部豪雨災害から一週間以上経過しました。現段階で32名の方々が犠牲になり、790ヵ所の道路が被害を受けております。猛暑の中、避難所に横たわり、配給される食事で飢えを満たしつつも、愛する家族を失った痛みと様々なものを失った悲しみを抱え、失意の中にある方々を憐れんで下さい。九州各地の被災地のみならず、全国、全世界の被災地で今も困難な生活を強いられている方々を忘れることなく、祈り続けていく心をお与え下さい。主よ、中高生を含む求道者を信仰告白、洗礼へと導いて下さい。今朝も病のため、様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。主よ、その場にあって聖霊を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年7月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第17章9節~13節、新約 ルカによる福音書 第16章14節~18節
説教題「神は あなたたちの心を ご存じである」
讃美歌:546、70、194、493、545B、427
主イエスが語る、不正な管理人の譬えを聞いたファリサイ派の人々は、主をあざ笑いました。そこで、主は言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」
ファリサイ派の人々は律法を遵守し、人々から尊ばれ、権威もある。しかし、その心はお金に執着していました。そこで主は、ファリサイ派の人々の信仰を、「人に尊ばれるだけの偽りの信仰」と切り捨てたのです。15節を原文に忠実に訳すと、「あなた方は人々の前であなた方自身を義しい者と見せようとする者らである。しかし神は、あなた方の様々な心を知っている。なぜなら、人々に高くされているものは神の前で忌み嫌われるものであるから」。「神の前で忌み嫌われる」とは、神は人々の前で尊ばれるものを嫌うという意味。つまり、人々の前で尊ばれるものは、神の前で意味を持たず、神の前で崩れると語るのです。
今朝はルカ福音書と共に、旧約聖書エレミヤ書第17章の御言葉を朗読して頂きました。9節以下「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業(わざ)の結ぶ実に従って報いる」。まさに主が指摘しておられる通り。私たちは自分の心であってもそのはらわたを究めることは出来ません。「なぜあのとき、あのようなことを考えてしまったのか」と後悔する。それほど私たちの心は病んでいる。同時に、そのような心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なる神である。この真実をしっかりと心に刻みたい。
ルカ福音書に戻りますが、16節に興味深い記述があります。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」
主イエスは、「律法と預言者は、ヨハネの時まで」と語ります。ヨハネとは、主イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネのことです。では「律法と預言者」とは何を意味するのか?「律法と預言者」とは、旧約聖書を意味します。旧約には、救い主の到来が約束されている。そして、ついに主イエスが世に遣わされた。その瞬間、救い主の到来の約束は旧い約束となり、主イエスによる新しい救いが成就したのです。「神の国」とは、「神の支配」を意味する。神が、世を支配しておられる。つまり「神の国の福音が告げ知らされ」は、「神の支配の喜びが告げ知らされる」ということです。
そして「だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」。主は何を伝えたいか?口語訳聖書では、「人々は皆これに突入している」と訳されている。新共同訳で「力ずくで入ろうとしている」と訳されたβιαζεται(ビアゼタイ)は、「暴力を振るう、強制する、無理に押し入る、激しく襲う」という意味の言葉です。「そこに入ろうとしている」の「そこに」は、神の国、神の支配である。では、私たちは無理に押し入るように、神の国に入ろうとしているでしょうか?私自身、正直に告白すると、強制的に神の国に入れるような伝道をしているか?と主から問われたら、ヘナヘナとなってしまいます。もちろん、今朝も真剣に御言葉を語り、熱く伝道しているつもりです。しかし、自分の家族、たとえばまだ信仰を告白していない父、そして三人の子どもたちに、強制的に信仰告白、洗礼を促すことは出来ません。
そこで、発想を変えて16節後半の主語を、新共同訳のように「だれもが」でなく、「神」を主語にすると意味がスッと頭に入るように思えます。つまり、私たち「だれもが」力ずくで神の国に入ろうとしているではなく、私たちの心をご存じある神が、何としても神の国に入って欲しい!福音に浸って欲しい!信仰告白、洗礼を受け、全ての罪を赦されて欲しい!だから、私は御子を世に遣わした!遣わしたからには、皆が神の国の福音に入って欲しい!と読める。
実際、聖霊の助けを頂かなければ、神の国に入ることは難しい。それでも、信仰を深める努力は大切です。けれども、先週の九州北部豪雨のような災害に襲われると、私たちの信仰はもろくも崩れる。インタビューでは90歳の女性が声を震わせ、嘆いておられた。「90歳になりましたが、こんな経験は一度もなかった」。90歳の女性のみならず、皆さんもご承知のように、親子三世代の家族も犠牲になった。しかもお母さんのおなかには二人目の生命が宿っていた。召された一歳の保育園児さんは、あと八日で二歳の誕生日を迎えるはずだった。言葉もありません。愛する家族が召され、ヘナヘナと座り込んでしまった者に、神の国に力ずくで入る気力はありません。
その反対もある。金さえあれば人生薔薇色。かつてそのような時代があった。いわゆるイケイケドンドンの時代は、猛烈社員は出世し、給与も増え、超高級時計を身につけ、高級車に乗り、株やゴルフ会員権も上がる。つまり、金さえあれば、何でも手に入ると本気で思っていた時代。人々の心はまさに金に執着していた。
神は、私たちの傲慢な心、貧しい人を馬鹿にし、真面目に汗を流して働く人をあざ笑う心、反対に豪雨によって愛する家族を失い、茫然としている人の心、その全てをご存じである。だからこそ神は、傲慢な心を打ち砕き、茫然とした心を慰めるために神の国へ導きたい。そのように激しく願っているのです。
そこで、17節以下の御言葉を心に刻みたい。「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。妻を離縁して他(た)の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
主イエスは、ファリサイ派の人々が合法的と考えた離縁を審いております。主は、「律法は神の恵みの中で鋭さを失い、鈍くなるものではなく、むしろ鋭くされる」と語る。主は、平気で配偶者を捨て、律法によって離縁を正当化する、そうした私たちの罪を指摘するのです。但し、主は「離縁はどのような理由があっても認められない」と審いているのではないと思います。主が審いているのは、己(おの)が道を正当化し、結局は己(おのれ)の身勝手さを貫こうとするファリサイ派の人々の心を厳しく審いているのです。
今朝の説教準備で、改革者ルターによる『結婚生活について』のある部分を読むことが出来ました。心に深く響いたので、皆さんに紹介させて頂きます。「配偶者が病気で、結婚生活ができなくなったとき、ほかの人と結ばれてよいだろうか。断じてそうあってはならない。むしろ、この病人において神に仕え、看取り、神があなたの家に、天を得るためのものをお恵みになったのだと思うがよい。このような賜物と恵みを認め、神のゆえに配偶者に仕えるならば、さいわいである。いや、私は身を持(もた)すことができない、と言うならば、あなたは偽っているのである。真剣に病気の配偶者に仕え、神があなたに彼を送ってくださったことを認め、神に感謝するならば、心配することも神に委ねてしまうがよい。神はあなたに恵みを与えて、耐えうる以上のことは耐えないでよいようにしてくださるにちがいない。神御自身が結婚をお定めになった。したがって、結婚生活はそのありよう、働き、苦難、そこにあるすべてのものともども、神のみこころにかなうのである。」
ルターの厳しさと共に、慰めと励ましに満ちた言葉です。特に後半の「真剣に病気の配偶者に仕え、神があなたに彼を送ってくださったことを認め、神に感謝するならば、心配することも神に委ねてしまうがよい。神はあなたに恵みを与えて、耐えうる以上のことは耐えないでよいようにしてくださるにちがいない。」は、皆さんの中にも今、病気の配偶者、病気の家族に仕えている方がおられますが、その不安、痛み、苦しみの全てを主に委ねる。そうすれば主は必ず支えて下さるとルターは語るのです。
主は、ファリサイ派の人々の離縁を審く。魅力的な女性が目の前に現れたら、律法を盾に、今までの配偶者を捨て、ヒョイと乗り換える。その行為を「姦淫の罪」と厳しく審くのです。
繰り返しになりますが、主イエスはファリサイ派の人々の自分へのあざ笑いに潜んでいる心をご存じです。私たちは学歴、経歴、家柄に弱い。名刺を頂く。すぐに肩書に目が行ってしまう。肩書がないと、「ああ、この人はこの年齢になっても何の肩書もない。かわいそうな人だな」と言葉に出しませんが思う。逆に若い営業マンだと思って見下していると、ずらずらと肩書が書いてある。名刺の裏には色々な組織の役職が書いてある。途端にその人への態度が変わる。本当に自分が嫌になりますが、そのようなことを、サラリーマン時代は何度も経験しております。その意味ではファリサイ派の人々が主イエスを馬鹿にした。あざ笑ったのは当然だと思います。「何を偉そうにほざいている。お前は、俺たちが人々から尊敬されていることを知らないようだな。俺たちはエリートだ。人々に律法を教え、俺たちも律法を完璧に守っている」。
そのようなファリサイ派が、自分の地位、名誉、財産によって、妻を自分の奴隷のように扱い、魅力的な女性がいれば、妻を捨て、新しい女性を妻にする。しかも合法的に。誰からも文句を言われないように。そうしたファリサイ派の人々を主は徹底的に審くのです。「それは違う。神はあなたたちの心をご存じである。神はあなたたちの罪を放置しない。なぜなら、あなたがたの中に姦通の罪を犯している者がいる。人々の目はごまかせても、神の目はごまかせない。」
では、私たちは律法を遵守出来るだろうか?申すまでもありません。難しい。今日も十戒を唱和します。どの戒めも遵守することは難しい。その事実をまず認める。私はいかに神の掟を守ることが出来ない存在であるかをまず認める。その上で、そのような私たちのために父なる神が御子を世に遣わして下さったと信じるのです。
主イエスは、律法と預言者が告げ知らせた真の救い主です。十戒を遵守することの出来ない私たちの罪を赦し、神の国の福音へと招き続けて下さるメシアなのです。あの日、神の前に永遠の愛を誓った配偶者を、様々な事情により、愛し続けること、赦し続けること、共に生き続けることが困難になり、本当に厳しい選択でしたが、離縁せざるを得なかった。深い傷を負った私の心、ボロボロになった私の心、自分を責め続ける私の心を常に憐れみの眼差しで見つめ続けて下さる主に全てを委ねて生きようとする私たちを、神は絶対に見捨てることはないのです。なぜなら、主イエスが十字架で死んで下さった。主イエスが復活して下さった。主イエスが再臨を約束して下さった。天から今も聖霊が注がれているから。だからこそ、私たちはファリサイ派のように主をあざ笑う者ではなく、本気で悔い改め、本気で主の憐れみを求め、本気で神の国の福音がこの世に実現するよう祈り続けるのです。「天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」いつの日か必ず、嘆きの涙を流している方々に、神の国の福音が突入すると信じ、本気で主の祈りを祈り続けたい。心から願う者であります。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。
主よ、また大きな災害が発生してしまいました。今も余震の不安の中にある大分、福岡、また九州北部豪雨災害により現段階で、18名の方々が犠牲になりました。また被災地から川でつながる有明海では5名の方々の御遺体が見つかり、この5名を含めると23名の方々が犠牲となっております。山が崩れ、家も流され、今も行方不明の方々が大勢おられます。主よ、今、被災地で眠れぬ夜を過ごし、大きな不安を懐いておられるお一人お一人に寄り添い続けて下さい。特に、愛する家族、しかもまだ小さな子ども、妻、その母、さらにおなかから生まれる日を楽しみにしていた小さな生命を一瞬で失った方をどうか生涯、支え続けて下さい。心からお願い申し上げます。本当に今も九州の被災地のみならず、全国、全世界の被災地で困難な生活を強いられている方々を忘れることなく、祈り続けていく心をお与え下さい。私たちの群れの中にも愛する者を失い今もなお悲しみの中にある方々がおられます。どうぞ慰めを与え続けて下さい。今月の第4主日23日に教会学校のサマーフェスティバルが行われます。主よ、一人でも多くの子どもをお招き下さい。そして、共に主を賛美し、共に楽しいときを過ごすことが出来ますようお導き下さい。今朝も病のため、様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。主よ、その場にあって聖霊を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年7月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第52篇1節~11節、新約 ルカによる福音書 第16章1節~13節
説教題「不正にまみれた富で友達を作りなさい」
讃美歌:546、10、121、21-81、358、545A
「不正にまみれた富で友達を作りなさい」。この御言葉を説教題にするまで、相当に悩みました。後半の「友達を作りなさい」だけなら、素直に「アーメン」と言えます。けれども、「不正にまみれた富で」が加わると、「教会の掲示坂にこのような言葉を1週間とは言え掲示して良いのだろうか?」と不安になったのです。そこで、「この御言葉を説教題にして宜しいでしょうか?」と主に祈り、最終的に「主の御心」と信じ、説教題とさせて頂きました。
スイスの神学者トゥルンアイゼン牧師は今朝の御言葉をこのように語ります。「私どもはまず最初、これを『理解する』べきではありません。聖書のなかに書かれていることすべて、あまりにも素早く理解しようと、いつも思っているものですから、まさにそのために、私どもは最も大切なことを理解することは稀だということになってしまうのです。(中略)私どもが『理解する』と呼んでいるものは、結局は自分自身の人間としての思想を聖書のなかに読み込むことを意味します。つまり、聖書のなかに自分が既に以前からずっと考えてきたものだけを見出そうとするのです。つまり、聖書に対して、聖書が歩むべき道を自ら指し示してあげるというわけです。しかしながら、そこで突然聖書が抵抗いたします。私どもの邪魔をいたします。『主はこの不正な管理人をほめられた。このことを理解できるかね』。(中略)(聖書は)私どもが人間の思想で何度でも『理解』し得るようなものとは違うのです。聖書は神の思いを内容としているものです。神の思いは、賢いやり方で『把握する』ことができるようなものではありません。神の思いそのものが私どもを捕えようとするものなのです!この神の思いを、私どもの思想や考え方、さまざまな概念の世界へ引きずり込むべきではありません」。
今朝の御言葉を読む上で、トゥルンアイゼン牧師が語る聖書への姿勢を心に刻みたい。つまり、御言葉を読むとき、すぐに「よくわかった」と思わなくて良いのです。むしろ、「エッ?」と驚いて良い。その上で、「神の思いは、どうなっているのだろう?」と、神に問い続けることが大切なのです。早速、今朝のルカ福音書の御言葉を読んでまいりましょう。
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文(しょうもん)だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる(16:1〜9)。
福音書記者ルカは冒頭で、この譬えが「弟子たちにも」言われたことを強調します。「弟子たちにも」ということは、私たちキリスト者にも言われたことは間違いありません。主イエスが、この譬えで語るのは、抜け目なく、賢くふるまう、世渡り上手な男です。男は、主人の財産を自分の財産のように使い込み、それがばれて、首を覚悟したとき、まだ暫く残された地位を利用し、主人への借財を減額することにより、主人の負債者に恩を売ることを思いついたのです。本来であれば、罪に罪を重ねたのですから、とんでもない男です。けれども、主人は男のやり方を褒めたのです。「主人」と訳されたギリシア語はκυριος(キュリオス)なので、「主」とも訳せる。つまり、男を褒めたのは、主イエスであると理解することが出来るのです。驚くべき譬えです。
では今朝の譬えを通し、主イエスは何を伝えたかったのでしょう?それは、「神に忠実に仕えなさい」だと思います。主は語ります。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(ルカ16:10〜13)」
「神と富とに仕えることはできない」。心にズシンと響く御言葉です。皆さんも思い浮かんだのは、この御言葉ではないでしょうか。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい(ルカ18:24~25)。」この御言葉は金持ちの議員が「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたことに対し、主イエスが「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われたが、金持ちの議員は非常に悲しんだので、さらに主が語られた言葉です。ヒトコブラクダの体高(たいこう)は約2メートル。体重は約700キロ。そのようなラクダが約1ミリの針の穴を通る方が、金持ちが神の国に入るよりも易しいと主は語る。それなのに主は、今朝の譬えでは、不正な管理人を高く評価している。驚きます。
それでは、主は弟子たち、また私たちに不正にまみれた富を蓄えなさい!と命じておられるのでしょうか。それは違います。改めて、今朝の御言葉に耳を傾けたい。主は「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」と語ります。ここから、マタイ福音書の御言葉が思い浮かぶ。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(25:40)。『この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである(25:45~46)。」マタイにおける主の御言葉と今朝の主の譬えは同じ響きがします。なぜか?どちらも「永遠の命」が語られているからです。主イエスは、弟子たち、また私たちに本気で求めておられる。「全ての者に永遠の命を授けたい。全ての者を永遠の住まいに迎え入れたい」。だからこそ、「私は不正にまみれた富に触れたくない」と友達を作ることを怠る人に、主は本当に価値あるものを任せることはないのです。
神に仕えることは、綺麗で美しいことばかりではないと思います。なぜなら、神に仕えることは、神の求めに忠実であり続けることだからです。己の利益を第一とする人生から、神の利益を第一とする人生に方向転換する。そこには、主の懲らしめがあり、主の鍛錬が用意されている。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるから(ヘブライ12:6)」です。主イエスが弟子たち、また私たちキリスト者に求めるのは「忠実な僕」です。「忠実」と訳されたギリシア語は、πιστος(ピストス)です。辞典には受動的な意味は「信頼に耐える、忠実な」。能動的な意味は「信じている、信仰を持っている」です。私たちキリスト者は、「光の子」と言われます。使徒パウロはエフェソの信徒への手紙でこう命じております。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい(5:8)」。主イエスを「私の救い主と信じます」と信仰告白し、洗礼を受けたキリスト者は主と結ばれ、主と一つとされ、暗闇ではなく、光とされる。だから私たちは光の子なのです。光の子に求められること、それは真の光なる主の忠実な僕になることです。己の判断で「これはいい。これは違う」ではない。どこまでも主に従い続ける。つまり、主が命じた「不正にまみれた富で友達を作りなさい」を真摯に受け止めるのです。
「不正にまみれた」と訳されたギリシア語は、αδικιας(アディキアス)というギリシア語です。「不正、不義」という意味があります。スイスに生まれ、ドイツで活躍した神学者シュラッターは、金銭が不義の富との理由としてこのように語ります。「(金銭)は、偽って私たちの幸福だと自称する。私たちの目をくらまして、そのために神を捨てさせ、しかもそれ自体は、死んだ空虚なものである。私たちを死と裁きから解き放つことのできないものである。(金銭)の約束を信じるな。(金銭)は決して約束を守りはしない。それがあなたの目に幸福のように映し出して見せるものは、まっかな嘘だ。私たちがイエスの原則に従って金銭と財宝を用い、それで友人たちを獲得し、愛に服従し、仕えざるをえなくなる時のみ、この嘘つきも忠実な下僕(げぼく)に変わって、私たちに永久の利益を得させてくれるのである」。
強烈な言葉です。私たちも金銭の怖さは痛いほどわかります。主が指摘したように、私たちは神と富に仕えることはできないのです。どうしても富に目が行ってしまう。あの教会の謝儀は高い、あの教会の謝儀は低い。そんなことを考えてはいけないのですが、そのように考えた瞬間、牧師こそ、神に仕える者から、富に縛られ、富に服従する者になってしまうのです。
今朝の旧約の御言葉、詩編第52篇にも書いてある。「神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。お前を天幕から引き抜き/命ある者の地から根こそぎにされる。これを見て、神に従う人は神を畏れる。彼らはこの男を笑って言う。『見よ、この男は神を力と頼まず/自分の莫大な富に依り頼み/自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。(52:7~9)』」富に仕える者の最期が記されております。だからこそ、私たちも不正にまみれた富とは無縁でいたいと考える。しかし、現実はそうはいかない。銀行員のとき、中小企業、零細企業、個人事業主等を担当させて頂きました。不正にまみれた富とは言いたくありませんが、富には、どこかに不正があるのだと思います。どんなにクリーンな帳簿を目指しても、どうしても不正が入り込んでしまうのです。私たちの心も同じ。今日は完璧な人間として歩みたいと思っても、ふと、不正な心が入ることがある。友達との関係、家族との関係にも不正が入る。だから、「私は誰ともかかわらない。私は洗礼に導かれた。それで満足。あの人と付き合うと、私まで汚れてしまう」と考えるなら、まさにファリサイ派、律法学者の心になってしまうのです。
主イエスが私たちに求めておられること、それは、「神を信頼し、神に忠実に仕える」ことです。主の求めを無視し、「私は不正にまみれた富と無縁でいたい!」と主張することは神を軽んじることになる。主イエスは、「不正にまみれた富を用いて、私の友、神の家族を増やして欲しい」と命じるのです。
只今から、主イエスが十字架で裂かれた肉と流された血潮に与かります。主は大声で叫びました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます(ルカ23:46)。」不正にまみれた叫び「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。十字架につけろ」により、死刑宣告を受けた主イエス。ピラトは三度目に言ったのです。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。(ルカ23:22)」ピラトは「この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった」と言った。それにもかかわらず、人々は叫ぶ。「十字架につけろ」。その結果、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下したのです。不正にまみれた判決です。しかし主は、「十字架の死に至るまで従順でした(フィリピ2:8)。」父なる神に仕えた。本来なら、ピラトを論破出来る。しかし、十字架の死が御心なら、不正にまみれた判決であっても御心を重んじる。そのような主が命じるのです。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」。私たちも主イエスのように、真摯に神に仕えていきたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、感謝申し上げます。主よ、私たちはあなた様に仕えることを忘れ、富に仕えてしまう愚かな者です。今、御前に懺悔致します。どうか、あなた様が与えて下さる富を感謝しつつ、主の御栄光を現すために、神の家族を作るために、隣人の重荷を軽くするために、用いることができますようお導き下さい。これらの願いと感謝、真の救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。昨晩は、北海道と熊本で震度5弱の地震が発生しました。どうか、今、不安の中にある方々をお守り下さい。特に、全国の被災地で今も困難な生活を強いられているお一人お一人が希望を失うことなく、地上での歩みを全うすることが出来ますようお導き下さい。主の年2017年も半分が過ぎました。たくさんの恵みに感謝しつつ、この半年の間に愛する家族を失った方々、突然の試練を経験された方々、大きな病に襲われた方々を深く憐れんで下さい。今、熱心に求道生活を続けている方々をどうか力強く導いて下さい。そして、御心ならば、信仰告白、洗礼の恵みをお与え下さり、共に聖餐の恵みに与ることが出来ますようお導き下さい。今日は都議会議員選挙の日です。祈りつつ投票することが出来ますようお導き下さい。今朝も病のため、様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。主よ、その場にあって聖霊を注いで下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年6月25日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ゼファニヤ書 第3章14節~17節、新約 ルカによる福音書 第15章11節~32節
説教題「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる」
讃美歌:546、6、298、517、544
今朝のルカ福音書の御言葉は「放蕩息子」の譬えです。既に、6月11日に11節から24節を読みました。そこには、弟息子の放蕩と回心、さらに回心した息子を抱き締める父の喜びが記されています。弟息子は放蕩の限りを尽くした。結果、身も心もボロボロになり、回心に導かれ、父のもとに帰ることになった。父も息子を信じ、息子の帰りを待ち続けた。その結果、まだ遠く離れていたのに、父は息子を見つけ、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻したのです。
私には4つ下の妹がおります。今も良い関係を築いております。けれども、もしも妹でなく弟だったら、状況次第で関係がこじれたかもしれません。兄と妹だと、たとえ妹がずるい場合でも、「お兄ちゃんなんだから」と言われ、妹と喧嘩するのを諦める。しかし、兄と弟だと話は違います。状況次第では取っ組み合いの喧嘩になるのです。兄は兄の論理、弟は弟の論理で怒る。腕力が拮抗していれば、殴り合いが続きます。そのとき、父の一言は重い。父がどちらの味方になるか。それによって兄の怒り、弟の怒りが収まるか、反対に、怒りの炎が燃えてしまうか決まるのです。一つの父のパターンは、最初の子である兄を期待する。兄も父の期待に応えようと頑張る。それに対し、弟を甘やかす。とくに末っ子を溺愛する傾向がある。兄は腹が立つ。「なぜ、親父は弟ばかりかわいがる。損をするのは俺ばかり」。
兄は、自由な弟が嫌いです。さらに、弟を溺愛する父を許せない。もちろん、父は兄も弟も平等に愛している。しかし、兄はそうは思えない。「弟が生まれなければ、俺はもっと幸せだった。あいつが生まれたことで父は弟を溺愛するようになった。あいつさえいなければ」。すると、兄の願い通り、弟が遠い国に旅立ったのです。兄はニンマリ。「あいつは、財産を使い果たすに違いない。ざまあみろ。あいつなんか、俺の弟ではない。俺の弟なら、親父に『今すぐ、財産を分けてください』なんてお願いしない。ようやく、弟がいなくなった。俺の記憶からも弟は消えたのだ。」
弟がいなくなり、兄はホッとしたはずです。それほど弟が嫌い。さらに弟を溺愛する父を許せなかった。「ようやく、親父も弟から俺に目を向けてくれる。」しかし、父は弟の帰りを待ち続けた。兄の怒りも頂点に達します。「親父は弟のことしか考えていない。俺は親父にとって何なのか。俺は黙々と働いている。その俺に「お疲れさま」の一言もない。それどころか、親父は俺を見ていない。頭は弟のことばかり、親父は深い溜息ばかり。『今日も弟は帰らない』と嘆く。そして弟の帰りを待ち続ける。いい加減
弟を諦めて欲しい。早く、風の便りに『弟が死んだ』と伝わらないか。」
兄の怒り。皆さんも理解できるはずです。中高生の皆さんも、よくわかる。朝早くから兄は畑で働き続けた。汗びっしょり。顔は土埃で真っ黒。クタクタになって家に戻ろうとした。すると、いつもと違う。兄はすぐにわかりました。「弟が帰って来た」。いや、「帰って来てしまった」。実際、家からは陽気な音楽と踊りのざわめきが聞こえる。本来なら、弟が戻ったのですから、「お前、何をしていた!」と叱り、「よく帰った!」と泣きながら、ハグすればいい。しかし、そんなに単純ではない。私たちは当事者でないので何とでも言える。「いいじゃないか、意地を張らなくて。親父がこんなに喜んでいるのだから。兄も喜んでご馳走を食べ、旨いワインを飲み、一緒に歌い、一緒に踊れば。」
しかし、兄と弟の関係はこじれていた。兄と弟だけではありません。私たち愛する家族だからこそ、一度、関係が崩れると、関係を修復するのは難しい。それほど私たちの心には何層もの闇があるのです。「一番上の闇を剥がせば、綺麗な層になる」ではない。一番上の闇を剥がせば、さらに深い闇が見える。では、「その闇を剥がせば大丈夫か」と言えば、もっと深い闇がある。それが私たちの心です。実際、兄は怒りまくった。
第15章25節以下「ところで、兄の方(ほう)は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕(しもべ)の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠(ほふ)られたのです。』兄は怒(おこ)って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊(こやぎ)一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの
身上(しんしょう)を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠(ほふ)っておやりになる。』朗読している私にも兄の怒り、ワナワナが伝わります。皆さんも兄の怒りを理解することが出来ると思います。私も兄と同じ立場なら、同じ言葉を父親にぶつけるはずです。
私たちも怒りに襲われることがある。今はメール、ラインの時代。手紙なら、ポストに投函する前に読み直し、「これは感情的になっている」と投函を控えることもある。しかし、メールだと怒りのまま送信を押してしまう。だからこそ、メールの攻撃は相手を深く傷つけ、弱い者なら心が病み、強い者ならばさらに強い言葉で相手を傷つける。その結果、怒りの炎は消えることがないのです。父への怒りが頂点に達したとき、兄は弟を「あなたのあの息子」と吐き捨てた。これは凄い言葉です。
主イエスは、「放蕩息子」の譬えを通して、誰の話をしているのでしょうか?第15章の冒頭に、ファリサイ派の人々や律法学者たちが登場しております。ファリサイ派や律法学者は、主イエスの時代のユダヤ人のなかで、信仰的にも道徳的にも立派な生活をしていた人たちです。つまり、弟の罪を審き、父親の愛を許せない兄の姿は、徴税人や罪人を審き、主イエスの愛を許せないファリサイ派や律法学者の姿と全く同じです。
ファリサイ派や律法学者は呟く。「私は間違いを犯したことがない。誰からも非難されない生活をしている。それなのに、あの人は、罪人たちと食事をしている。信じられない。いや、許せない。罪人と食事をするなんて」。だからこそ、主イエスは放蕩息子の譬えを語るのです。ファリサイ派や律法学者のために。そして今、正義の怒りに燃えている私たちのために。親を審き、子どもを審き、最後は自分まで審いてしまう私たちのために、主は語る。「あなたは、そんなに完璧な人間か、そんなに義なる者か、違うはず。あなたも罪を犯す。あなたも兄が弟を心で殺したように、弱い存在を審き、最後に何層もの闇を抱えている自分をも殺しているのだ。それは本当に悲しい」。
父は、弟を愛するように、兄を愛します。だからこそ、兄をなだめるのです。叱ってはいない。もしも私が父親なら、兄を怒鳴るはずです。「なぜ、私の愛がわからない。なぜ怒っている。お前の弟だろ、たった一人の弟だろ。なのに、何で喜んで迎えることが出来ない。『あなたのあの息子』という言い方は許せん。私への侮辱だ。そんな言い方をするなら、お前は私の息子ではない。外で頭を冷やせ!」と怒鳴りちらすかもしれません。父親としての権威を振りかざして。
しかし、放蕩息子の父親は怒鳴らない。兄にも弟にもぶれない。父の思いは、「誰が何と言おうと兄も弟も私の子ども。どんなに駄目な弟、怒りの兄でも、私の息子なのだ。だから、子どもたちが争い、対立しているのは本当に辛い。私がそれぞれの存在を認めているのに、子どもたちが互いを愛せない。互いを許せない。互いを信じられない。その結果、父親の私にまで文句を言い、怒り続けている。深呼吸して欲しい。そして、私が誰なのか、あなたにとって弟はどんな存在か、もう一度、思い巡らして欲しい」。
父は憐みに満ちた眼差しで兄を見つめ、さらに続けました。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
この瞬間、兄は解放された。頑張り続ける兄、優等生な兄から解放されたのです。父から「子よ」と呼ばれた瞬間、目から大粒の涙が溢れた。「そうだ。俺は子なんだ。弟の兄ではあるが、親父の子なんだ。子ということは、親父の言う通り、俺はいつも親父と一緒。しかも親父のものは全部俺のものだ。それほど、親父は俺に任せてくれた。それほど、親父は俺を信頼してくれた。俺に畑を任せ、たった一人の弟の帰りを信じ、俺の分も真剣に祈り続けてくれた。俺は今まで気がつかなかった。俺は弟を殺していた。しかし、弟は生きている。そうだ。戻って来た。親父の懐に戻った。俺も死んでいたのだ。怒りの中で、親父の愛を見失った。弟への愛も、弟への赦しも、全て忘れていた。だから、俺は死んでいたのだ。でも、弟は戻った。親父は喜んだ。つまり、俺も親父の懐に飛び込んでいいのだな。弟への怒り、いや、自分への怒りをも全て親父に委ね、私も祈ればいいのだ。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」。親父に言おう。「どうか、あなたの息子でいさせて下さい。弟を受け入れたように、怒りの炎を燃やし、弟を審くだけでなく自分をも審く私を闇から救って下さい。私にも宣言して下さい。『お前は、死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかった』と。」
兄の怒りが溶け出した。ようやく涙を流すことが出来た。それまで兄だからと我慢し、兄だからと弟を審き、兄だからと父まで指導しなければ、と頑張り続けた。けれども、父の驚くべき愛と赦しと憐れみを注がれた瞬間、堅い氷が暖かい日差しによって溶け出すように、兄の堅い心が溶け出した。その溶けた心から涙が溢れ、兄の眼から流れ出した。私はそのように思うのです。
主イエスはファリサイ派や律法学者にも愛を注ぎ、変わって欲しいと祈り、放蕩息子を待ち続けるように、私たちが父なる神に立ち帰る日を昨日も今日もそしてこれからも待ち続けて下さるのです。だからこそ私たちも神の愛に触れ、涙を流し、己(おのれ)の罪を知ったとき、今朝の御言葉に戻りたい。父親は言ったのです。正義の怒りに震える私たちへの言葉を。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。
先週は、春の特別伝道礼拝でした。4人の新来者が与えられました。さらに今、求道者がたくさん与えられております。朝の信仰入門講座に加え、個別に聖書を学び続けている方々がおられます。そのような求道者を覚えて祈り続けたい。なぜなら、そのような方々はこの世を彷徨い続けていた。いなくなっていたのです。それが、父なる神の招きによって、東村山教会の門を叩かれた。叩くだけでなく、今朝も礼拝に出席し、高らかに主を賛美しておられる。その方々も、すでに洗礼を受けた私たちも、いつの日か、共に聖餐の食卓を囲めるのです。共に主の食卓、主の祝宴を開いて主なる神を喜び、誇る。これほどの喜びはありません。主に名を呼ばれた罪人として、互いに審くのではなく、主の十字架と復活、そして再臨の約束を信じ、互いに愛し、互いに赦し、互いに祈り、互いに励まし合って歩んでいけたら素晴らしいと思います。そのとき、私たちは死んだ者から永遠の生命を約束された者として喜んで生きる者となるのです。
2017年6月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第35章1節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第9章1節~12節
説教題:「神の業が この人に現れるためである」
讃美歌:546、15、216、344、543
主イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。主イエスは、真の神であると同時に真の人です。つまり主イエスは、私たちの痛みを神として、また人として深く憐れんで下さる。しかし、主の弟子たちは生まれつき目の見えない人を憐れむことなく、主に尋ねたのです。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』」。
「因果応報」という言葉があります。岩波書店の『哲学・思想事典』を開きました。「因果応報」欄にはこう書いてある。「善行(ぜんこう)が幸福を招き、悪行(あくぎょう)が不幸を招くという思想・信仰。広く世界に見られるが、特に仏教において過去世(かこぜ)や来世(らいせ)をも視野に入れたものを意味することが多い。すなわち、過去世(かこぜ)の行為により、現世(げんせ)の境遇が決まり、現世(げんせ)の行為によって来世(らいせ)の境遇が決まり、こうして永遠に輪廻(りんね)を繰り返すというものである。その輪廻の苦しみから脱することが解脱(げだつ)である」。つまり、「因果応報」は、一つの思想、信仰として認められています。実際、主イエスの弟子も旧約聖書出エジプト記第20章の御言葉を根拠に「因果応報」を認めています。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える(20:5~6)」。
許せないのは「因果応報」を悪用した「霊感商法」です。「霊感商法」とは、人々の不幸を巧妙に聞き出し、霊能者を装った売り手が、「この商品を買えば、祖先のたたりは消滅する」と効能を訴える、あるいは「このままだととんでもない悪いことが起きる」と不安を煽り、相手の弱みに漬け込み、法外な値段で様々な商品を売りつける行為です。実際、霊能者を装った売り手が、苦しんでいる方々を食い物にしている。主イエスは、弟子たちに加え、今を生かされている私たちにも宣言されるのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。
主イエスは弟子たち、また私たちに語ります。「犯した罪にいつまでも留まることをやめなさい。むしろ、犯した罪を積極的に悔い改め、神の業を賛美して欲しい。その上で、あなたにとって、私がどのような存在であるか、常に私を感じ、私からあなたへの熱情を心の目で感じ続けて欲しい」。
今朝の礼拝は、春の特別伝道礼拝です。初めて教会にいらした方もおられるかもしれません。あるいは、救いを求め、教会に通っている求道者がおられる。そのような方々の中に、過去に犯した罪に呪縛され、息が苦しい方もおられるかもしれません。だからこそ主なる神は、救いの業として、皆さんを伝道礼拝へと招いて下さったのです。
さて、6節に書かれているように、主イエスは不思議なことをなさりました。唾で土をこねて生まれつき目の見えない人の目にお塗りになった。そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じたのです。彼はすぐにシロアムの池に行って洗いました。どうでしょう。生まれつき目の見えない男です。目の見えない状況を嘆き続けた。それこそ霊能者にも祈ってもらったはずです。しかし、全てダメ。無駄だった。目は見えない。心まで暗闇の中にある。しかし、彼は感じたのです。主イエスに真の神を、主イエスに真の人を。「今、目の前にいる方は、不思議な言葉を語られた。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』。よし、この人の言葉を信じてみよう。この人に従ってみよう。だって、この人の言葉を聞いた瞬間、不思議な力を感じた。この人の言葉を信じよう」。
彼は、主イエスが命じられた通り、シロアムの池に行ったのです。シロアムとは、「遣わされた者」という意味です。遣わされた者、まさに主イエスこそ、父なる神によって救い主としてこの世に遣わされた真の救い主、キリストです。私たちを因果応報の呪縛から解放するため、父なる神が私たち一人一人に御子を遣わして下さった。そう考えますと、「シロアムの池に行って洗いなさい」は深い意味があるように思えます。シロアム、つまり父なる神から遣わされた私を信じ、私の水で目を洗って欲しいと。洗礼の「洗」は、「洗う」と同じです。ということは、今朝、初めて教会に招かれた方、熱心に求道生活を続けている方にも主は語っておられます。「父なる神から遣わされた私を信じ、いつの日か信仰を告白し、水の洗礼を受けて欲しい」。
ところで8節以下に、癒された男を見て、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言ってざわざわしたときの本人の言葉が記されております。「わたしがそうなのです」。この言葉は原文ギリシア語で読むと、第8章58節に主イエスが「わたしはある」と言われたとありますが、主イエスの「わたしはある」と同じ言葉です。目が見えるようになった男が、主イエスと同じ言葉「わたしがそうなのです」と言えたことは大きな救いです。皆、自分の弱さ、身体的なハンデをどこかで卑屈に感じています。しかし、弱さも、ハンデも、すべて神の業の現れであり、自分の弱さ、身体的なハンデを通して、神の愛、主イエスの憐れみが人一倍、男に注がれた事実は私たちにも理解できます。
生まれつき目の見えない男は、目が見えるようになった喜びに満たされた。しかし、目が見えるようになったことで、主イエスがファリサイ派の人々から嫌われ、生命を狙われていることを知ったのです。男は感じました。「主イエスに癒して頂いた。素直に嬉しい。しかし、主イエスが生命を狙われているなら、癒された私の命も狙われるかもしれない」。第9章34節に書いてある。「彼らは、『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出した」。そうです。目が見えるようになった男もファリサイ派の人々から嫌われ、目が見えるようになったのに祝福されず、尋問を受け、最終的に外に追い出されてしまった。つまり、隔離されたのです。
群馬県草津町にハンセン病の国立療養所があります。そこに、私たち家族にとって大切な信仰の友が生活しておりました。妻が恵泉女学園園芸短期大学に在学していたときワークキャンプで療養所を訪問。そこで出会いが与えられた桜井哲夫さんです。カトリックの信仰を持っておられた方ですが、私も結婚し、妻と二人で桜井さんを訪問することになりました。訪問する前に、妻から桜井さんの写真を見せてもらいました。写真を見た瞬間、言葉が出ませんでした。正直に告白しますと、怖かった。しかし、激励に行くことは大切であると思い、妻と草津の療養所を訪問した。桜井さんとの面談が実現したのです。その瞬間、不思議ですが、目の見えないはずの桜井さんの目が開かれており、目の見えるはずの私の目が塞がれていたことがわかったのです。
私は、サラリーマンとして日々のノルマしか見えていなかった。つまり、目が塞がれていた。一方、桜井さんは、肉の目は見えませんが、私と妻との面談に笑顔で応じて下さった。そして、私の心の目が塞がれていることを見抜いたのです。「旦那さん、ノルマが達成できないからといって落ち込むことはありませんよ。旦那さんみたいな人が銀行には必要です。それでいいじゃないですか。さあ、お酒を呑みましょう」。
声帯がないので、かすれる息のような声です。しかし、桜井さんの暖かい心がビンビン伝わる。その瞬間、私の心が回転したのです。面談の直前まで、私が桜井さんを憐れに思っていた。しかし面談では、桜井さんに憐れんで頂いた。桜井さん、妻、私の三人でワンカップを飲みながら、お土産のヨコハマのシウマイとサキイカをしゃぶりつつ三人は共に笑い、共に泣いたのです。若い女性が好きで、底抜けに明るい桜井さん。桜井さんは草津の国立療養所
栗生楽泉園で結婚したのですが、当時は子孫を残さないよう断種することが結婚の条件。この断種の手術が不完全だったため、妻は妊娠。そのため、人工妊娠中絶を強いられ、生まれた娘はその日の夜に召された。さらに7年後に奥さんも白血病で召されたのです。これでもか、これでもかと厳しい試練が桜井さんを襲った。しかし、私の心には、今も桜井さんの底抜けに明るい笑顔が刻まれています。
桜井さんは、青森県北津軽郡鶴田村に生まれ、ハンセン病を発病したため、17歳のとき、群馬県草津町にある国立療養所に強制隔離されました。その後、神様の深い御計画により61歳でカトリックの信仰が与えられた。あるとき、桜井さんは本気で語って下さった。「旦那さん、私は幸せです。だって、こんな立派な施設で何不自由ない生活を与えられた。好きな詩も書いた。詩集も出版。奥さんには、旦那さんと結婚する前、津軽までタクシーで連れて行ってくれた。ローマ法王の謁見まで許された。私は本当に幸せ。だから旦那さんも、銀行で辛いことがあっても、安心して生きて欲しい。旦那さんならば大丈夫。どうかこれからも明るく、神様と共に歩んで欲しい」。
草津から横浜に帰る。すると夏休みが終わり、翌週から仕事が再開となる。毎年のように感じました。「私は目が見えているつもりだった。桜井さんは目が不自由。心にも肉体にも大きな傷がある。けれども、私は神様の招き、赦し、愛が見えておらず、肉の目が見えない桜井さんは神様の招き、赦し、愛を確実に見ておられる。また、私が桜井さんを励ますつもりが、桜井さんに励ましと慰めを頂いた。桜井さんに、ハンセン病を通して、神の業が間違いなく現れた」。
今朝は旧約聖書のイザヤ書第35章も朗読して頂きました。5節以下には、このような御言葉があります。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う(35:5~6a)」。預言者イザヤを通して約束されたことが主イエスにおいて成就した。桜井哲夫さんにおいて成就し、今朝、春の特別伝道礼拝に招かれた皆さんにも間違いなく神の業が現れるのです。
主イエスには「因果応報」はありません。なぜなら、全ての者を「因果応報」から解放するために、主は十字架で死なれ、陰府に下り、三日目の朝、力強く復活されたのです。だからこそ、主の十字架と復活、さらに再臨を信じる者は、それぞれの賜物を用いて、神様の御栄光を現わすことが本当に許されるのです。洗礼によって、すべての罪を赦され、生かされた私たちは、お互いを尊重し、どっちが上とか、どっちが下ではなく、共に励まし、共に祈り続けるのです。今朝、勇気を出して、東村山教会にいらした皆さん。来週も東村山教会に安心していらして下さい。そして、共に礼拝を守り続けることによって、皆さんに注がれている神の愛と憐れみをゆっくりと感じて頂けたら本当に嬉しいです。どうか、神の業を信じ、共に主イエスの道を歩み続けたい。心から願うものであります。
2017年6月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第31章15節~22節、新約 ルカによる福音書 第15章11節~24節
説教題:「もう息子と呼ばれる資格はありません」
讃美歌:546、68、252、312、542、Ⅱ-167
「放蕩息子」の譬えに登場する父親には、二人の息子がおりました。そこで今朝は、弟息子の心の変化を通して、父親から弟息子への慈しみ深き愛を共に味わいたいと思います。
弟は兄に対してコンプレックスを抱いていたはずです。なぜなら、兄は父親の言いつけに背いたことが一度もない優等生だから。同時に弟は、父親の愛にある種の窮屈を感じていたかもしれません。悪い父ではない。愛に加え、財産もある。しかし、贅沢な悩みですが、父の愛、眼差しから、父親に監視されているように思えてしまう。父の愛、眼差しが鬱陶しくなる。その結果、早く、父から独立したい!と考えた。弟はついに父親に直訴した「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」。父親は弟息子の要求を丸呑みし、財産を兄息子と弟息子に分けてやったのです。
弟息子は、数日後、生前贈与された全財産を換金し、遠い国に旅立ちました。聖書には換金した額は書かれておりません。しかし、それなりの額だったはずです。銀行員時代、3億円の新券の入った布鞄を運んだことがあります。現金輸送車から金庫に運ぶ。それなりの重さがあります。しかし、自分のお金ではないので、私にとってはただの荷物です。同時に、サラリーマンが会社に忠誠を尽くして得る生涯賃金は、この鞄に入っているお札と同じと思ったとき、何とも淋しく感じました。3億円。確かに大金である。けれども、豪遊したら、いつかは無くなると思ったのです。実際、弟息子は放蕩の限りを尽くし、財産を無駄使いした。私たちの人生も同じですが、何で、このタイミングで次々と試練が襲うのか?と嘆くことがある。弟息子も同じでした。何もかも使い果たしたとき、弟息子が生活していた地方にひどい飢饉が起こった。その結果、彼は食べるにも困り始めたのです。私たちにとって、もっとも厳しい試練は何か?やはり飢えだと思います。私たちは食べなければ死んでしまう。だからこそ、飢えは本当に惨めで、辛いことなのです。
弟息子は食べるために、どんな仕事でも引き受けることにしました。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せることにしたのです。その人は彼を畑にやって豚の世話をさせたのです。豚ということは異邦人です。ユダヤの民は豚を食べません。弟息子はユダヤの民です。つまり、ユダヤの民が異邦人に頭を下げた。その結果、辛うじて生きることはできる。けれども、与えられた仕事は豚の世話をすることでした。ユダヤの民にとって、汚れた家畜の代表である豚の世話をすることはまさにどん底の仕事です。しかも、弟息子は足元を見られているので、給料は貰えなかったはずです。心も体もボロボロ、しかも、「豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった」。
いなご豆とは、豚を養う青豆のことで、人間が食べるものではありません。つまり、「いなご豆を食べてでも」とは、貧困の極みです。それにもかかわらず、誰も弟息子に青豆すら与えないのです。肉体の飢えに加え、誰も自分を必要としていないという心の飢えにも襲われた。もう限界です。これ以上ない屈辱と孤独に襲われ、弟息子は倒れたのです。ボクシングの選手がノックダウンされ、床に倒れたとき、何が見えるでしょう?そうです。天井です。私たちも同じ。この世の試練に襲われ、ノックダウンし、床に倒れたとき、天を仰ぐのです。
弟息子も天を仰いだ。すると、天から微笑む父親の顔が見えた。はっきりと。母親の顔も浮かんだ。いや、父の顔ではなく、母の顔が見えたかもしれません。毎朝、早起きし、朝食を用意。それから座ることなく、昼の弁当を用意。午後になれば、夕食を用意してくれる母の味は忘れられない。弟息子も同じです。飢え死にしそうなギリギリのところで、父の顔、母の顔が見えたのです。その瞬間、弟息子は我に返った。目から涙をボタボタ流し、額は泥だらけ。衣服はボロボロ。そんなグチャグチャの中で天に叫んだ。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と」。
今朝はルカ福音書に加え、旧約のエレミヤ書第31章も朗読して頂きました。20節、「エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる」。エフライムと弟息子の姿が重なる。同時に、弟息子を慈しみ、深く愛する父親と「わたしは彼を憐れまずにはいられない」と言われる主の姿が重なります。
ルカ福音書に戻りますが、17節に「父のところでは」とありますが、原文は「わたしの父のところでは」と書かれています。18節の「ここをたち、父のところに行って言おう」も「わたしの父のところ」と書かれているのです。細かいことですが、父親は、どうしようもないわたしの父親なのです。
弟息子の叫びはどん底を経験したものなら心に響くはずです。私も今までの約50年の人生で、どん底を経験したことがあります。その全てを語ることは控えますが、私の最初のどん底は中学2年の時でした。集団で一人の同級生を徹底的にいじめた。この罪は今でも私の心の深い傷です。小学1年から教会に通い、小学5年から教会学校でたくさんの聖書のお話し(それこそ放蕩息子の譬え)を聞き続けた。それなのに集団で一人の同級生を、とんでもない仕方でいじめ続けた。幸い、学校の先生に見つかり、徹底的に叱られ、恩師に殴って頂き、目が覚めました。教会学校でも同じ経験をした。やはり、中学2年の時。身体は大きくなった。しかし心はまだ幼い。心身のバランスが崩れ、教会でもいじめに近いことをし、礼拝をなめていた。その時、当時の神学生から徹底的に叱って頂いた。「もう、田村は来週から教会学校に来なくていい」と。一度も「教会学校に来なくていい」と叱られたことがない私はショックでした。その結果、翌週からは静かに礼拝を守りました。学校で同級生をいじめ、教会学校でも、「来週から教会に来るな」と叱られた。そのとき、本当に惨めになった。「俺はどうしようもない男だ」と心の底から思ったのです。そして、弟息子のように叫んだ。「幼い時から両親の愛を注がれ、教会でも、たくさんの方々から『たかおちゃん』と声をかけて頂き、愛を注がれた。それなのに俺は、いじめられるのが怖くて、集団で同級生を徹底的にいじめた。こんな俺は、神の子、光の子として呼ばれる資格はない。本来なら教会学校は退学。中学校も退学。でも、中学校の先生は私を殴ってくれた。教会学校の先生も翌週、静かにしていたら、楽しく接して下さった。その瞬間、『こんな俺も赦された』とわかった。神様、本当にありがとうございます」と叫んだことを、改めて思い出しました。
悲しいですが、中3から私は完璧な人間になったかと言うと、そんなことはありません。中3の時、高校時代、大学時代、サラリーマン時代、神学生時代、釧路での6年、そして東村山での2年も、己の罪、己の惨めさに襲われ続けた。その意味では年齢を重ねるたびに、「もう息子と呼ばれる資格はありません」との思いが深くなる。しかし不思議です。私は今、全ての罪を赦され、こうして放蕩息子の譬えを語らせて頂いている。私自身、本物の放蕩息子だからこそ、今までの数々の放蕩と重ねて語ることが許されているのではないかとさえ思う。つまり、父なる神様は、私の帰りをも、祈りつつ待っておられるに違いない。私の帰りをも、待っておられる父なる神様は、ここにおられる皆さんの帰りを待っておられないわけがないと心の底から思うのです。
弟息子は、犯した罪の深さと孤独に襲われ、「もう息子と呼ばれる資格はない」と本気で悔い改めた。そして、飢え死にするよりは、雇い人として働き、罪を償おうと決心し、父の住む家、懐かしい我が家へ歩き出したのです。
その時です。「おーい!おーい!」。声が聞える。「誰かが呼んでいる。まさか?遠くに見えるのは誰だ。まさか親父じゃないよな。あの姿、あの声。『おーい!』。親父だ。そうだ。親父の姿だ。親父の声だ。俺に向かって走って来た。親父は泣いている。喜びの涙。でも、何で俺を見つけたのだ。まさか?毎日、親父は立って、俺の帰りを待っていたのか?よし。親父に言おう。『もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と」。
何と父親は息子を見つけただけでなく、憐れに思い、息子のところまで走り寄って首を抱き、接吻したのです。「憐れに思い」は、腸(はらわた)を痛める愛です。新約聖書では主イエスの愛にしか使われない言葉です。腸がねじれ、キリキリとした激痛を伴う激しい熱情。やはり父親は、雨の日も晴れの日も、「今日こそ息子は帰って来る」と信じ、遠くの道を毎日、眺めていた。だからこそ、息子が父親を見つける前に、父は息子を見つけ、走り寄って首を抱き、接吻したのです。
息子は驚きつつ、覚悟を伝えました。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」。続けて、決めていた覚悟「雇い人の一人にしてください」を告げようとした、その瞬間。父親は弟息子の言葉を遮るように大きな声で僕たちに命じたのです。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。そして、祝宴が始まったのです。父親は弟息子に「雇い人の一人にしてください」と言わせなかった。遮ったのです。そして、こう言った。「罪深いあなただからこそ、あなたは私の息子でなければならない。日々、私の家に帰り続けなさい。そうすれば、あなたは毎日、主の愛と赦しと憐れみを飢えることなく食べ続けることが出来る」。
今朝は、放蕩息子の譬えの前半を味わいました。来週は「春の特別伝道礼拝」なので、ヨハネ福音書の御言葉を味わいますが、その翌週は、放蕩息子の後半を中心に味わいます。いずれにしても私たちは「息子と呼ばれる資格のない」弟息子になることもあれば、怒りに震えて、家に入ろうとしない兄息子になることもある。それほど罪深い存在です。だからこそ孤独を感じるとき、犯した罪に息が詰まり窒息しそうなとき、私たちは繰り返し、放蕩息子の譬えを読み続けるのです。
私たちも日々、「私こそ放蕩息子」と心に刻み続けたい。そして、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてくださいと」と祈り続けたい。そのとき主は、最後の一言「雇い人の一人にしてください」を封印されます。繰り返し罪を犯し、放蕩の限りを尽くしても主は招き続けて下さる。「あなたは私の愛する子であることに変わりない。いや、変わりようがない。だから私は、あなたを待ち続ける。祈りつつ、帰って来ると信じ、毎日あなたを待ち続ける」。
父なる神の覚悟。それは、赦し続ける覚悟。粘り強く祈り続ける覚悟です。弟息子が悔い改め、懐に帰ったとき、悔い改めの祈りに耳を傾け、「我が子よ」と呼び続ける覚悟。私たちも、どんなに罪の自分に耐えられなくても、一人も自分に声をかけてくれなくても、「主イエスだけは私の帰りを待ち続けて下さる。主イエスは私の罪のために十字架で死んで下さる。主イエスは罪の私にも永遠の生命を約束して下さる」と信じ、主を賛美し続ける。その時、私たちに聖霊が注がれる。神の愛、主イエスの愛、聖霊の炎に包まれる。その結果、私たちは放蕩の限りを尽くす必要がなくなる。娼婦に慰めを求める必要もなくなる。なぜなら、真の愛に包まれるから。そのとき、私たちは死んでいた者ではなく、永遠の生命を約束された者として、神の子として生きることができるのです。この喜びこそ、悔い改め、信仰を告白し、受洗した全ての者に約束される喜びです。父なる神にとって、子である私たちが父の懐で溢れる涙を流し、憩っている姿こそ、最高の喜びであると信じます。だからこそ、私たちも罪の自分を隠すことなく曝(さら)け出したい。そして、そのような罪の私だからこそ、主の愛と赦しに包まれている!と証し続けたい。その時、父と弟息子と関係者だけの祝宴ではなく、全人類の祝宴が本当に始まるのです。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。放蕩息子の譬えを与えて下さり、重ねて感謝申し上げます。繰り返し読み、繰り返し涙を流した譬えです。そして今朝も、改めてあなた様の愛の大きさと赦しの真実を心に刻みました。どうか日々、悔い改めを祈り、あなた様の懐に帰り続ける者として下さい。お願い致します。これらの貧しき願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。先程は、東村山教会の新しい神の家族として池田聡兄弟の転入会式を執り行うことが許され、心より感謝申し上げます。今まで池田聡兄弟を導いて下さった御家族、清水ヶ丘教会の兄弟姉妹をどうぞこれからも祝福して下さい。そして、これからは東村山教会に連なる神の家族として共に主の福音を語り続けていくことが出来ますようお導き下さい。先週も信じられないような事件や事故が発生しました。皆、私たちの罪の出来事です。私たちは誰一人、評論することが出来ません。なぜなら、私たちもそのような心を持っているからです。どうか今、とんでもない罪を犯し、自暴自棄になっている方々を冷静にして下さい。そして犯してしまった罪を深く悔い改め、あなた様の赦しを祈り求める者へと生まれ変わらせて下さい。お願い致します。来週は祈りつつ、備えてまいりました、春の特別伝道礼拝が行われます。どうか一人でも多くの方々を教会へと招き、あなた様の愛と赦しをお示し下さい。今日はこの後、全体での草取りが行われます。どうぞ事故や怪我のないようにお導き下さい。今朝も病のため、様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。主よ、その場にあって聖霊を注いで下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年6月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第11章1節~9節、新約 ルカによる福音書 第15章8節~10節
説教題:「一緒に喜んでください」
讃美歌:546、2、Ⅱ-97、Ⅱ-1、324、541
今朝のルカ福音書の「無くした銀貨」の譬えを、一言で纏めると、こうなります。10枚の銀貨を持っている女性が、1枚を無くしてしまった。そこで、ともし火をつけ、家を掃き、念を入れて捜した。その結果、ついに1枚を見つけた。女性は大いに喜び、友達や近所の女性たちを呼び集めて、「一緒に喜んでください」と叫んだ。非常に明快な譬えです。
皆さんも、「確かに、明快な譬えだ。ただ、この女性は騒ぎ過ぎではないか」と思われたはずです。銀貨一枚ですから、それなりの価値はある。けれども、大掃除するほどのことでしょうか?まして、見つかったからと言って、友達や近所の女性たちを呼び集め、「一緒に喜んでください」と叫ぶのは大袈裟です。見つかったら、「ああ、よかった」と呟き、その一枚を財布に戻しておしまい。それが私たちの常識です。しかし、そうではなかった。私たちの常識とは違い、驚くほど、いや、呆れるほど、女性は大喜びしたのです。
この女性は、無くした1枚の銀貨を見つけるまで、必死に捜し回りました。銀貨1枚のために家中を掃いたのです。銀貨なので、銅貨よりは値打ちがある。しかし、考えようによっては、単なる銀貨1枚です。「無くした一枚は諦める。いずれ見つかると信じて」。1枚の銀貨はスパッと諦め、次の行動に移る。そうした気持ちの切り替えは大切です。ところが、この女性は違う。見つけるまで、念を入れて捜し続けたのです。
主イエスの時代の習慣として、女性が結婚するとき、持参する財産の一つに、貨幣を首飾りのように繋いで、身に着けていたようです。つまり、想像すると、女性がドラクメ銀貨を10枚持っていたのは、結婚の持参金だったかもしれません。ドラクメはデナリオンと同じ。1デナリオンは、当時の一日の賃金ですから、仮に1万円とすると、ドラクメ銀貨10枚は10万円。その銀貨を首飾りのように繋いで、身に着けていた。その1枚が、糸がほころんだか何かして、どこかに転がり落ちてしまったのです。銀貨10枚は、結婚の持参金としては相場よりも低かったかもしれません。それでも、コツコツと貯めたお金が銀貨10枚になった。それを首飾りにして、結婚式に持参したのです。派手な女性ではない。真面目に働き、与えられたものを感謝して用いる。貧しいけれど、卑屈ではない。物が溢れているわけではないが、豊かな心を持っている。そのような女性を想像します。
家もシンプルだと思います。窓もありますが小さな窓。よって、晴れの日は、柔らかい日が家に入りますが、曇りや雨の日は薄暗い。ですから、何かを捜すときは、ともし火をつけるのです。女性は、家を掃き、無くした一枚の銀貨を見つけるまで念を入れて捜し続けました。そのような女性の一所懸命な姿に、もしかすると、主イエスはご自分の姿を重ねたかもしれません。
ところで、1匹の羊を捜した羊飼い、1枚の銀貨を捜した女性は、なぜ最後まで捜し続けたのでしょうか?理由は単純です。羊飼いは100匹の羊を所有しており、その1匹を見失ったから。女性は銀貨10枚を所有しており、その1枚が無くなったからです。決して、見失った羊が血統書付きの羊だった訳でなく、また無くした銀貨が、いわゆるお宝の銀貨だったわけでもないのです。つまり、羊飼いが見つけ出すまで捜し回ったのは、1匹の羊が羊飼いの所有物であり、女性が見つけるまで念を入れて捜したのも、その銀貨が女性の所有物だからなのです。もう少し別な角度から思い巡らすなら、すぐに迷い出る羊、99匹と一緒に草を食(は)むことのできない一匹狼、いや一匹羊だからこそ、羊飼いは一匹を見つけ出すまで捜し回るのです。おそらく、この一匹の羊は、同じ過ちを繰り返すでしょう。またフラフラと群れから逃げ出す。それでも羊飼いは「私のもとに来なさい。あなたを休ませてあげよう」と、繰り返し捜し、繰り返し戻し、繰り返し休ませ続けて下さるのです。
銀貨を無くした女性も同じです。銀貨もそれなりの価値がある。約1万円。でも1万円ですから、スパッ!と諦めてもよいかもしれません。しかし、コツコツ貯めた持参金の一部。見つけるまで念を入れて捜し続ける。諦めることは絶対にない。闇に隠れ、誰からも声をかけられず、神に背を向けた罪の銀貨を、女性はありとあらゆる手段を用い、最後まで諦めずに捜し続けるのです。
そう考えますと、先週の「見失った羊」と今朝の「無くした銀貨」の譬えは、私たちの心に迫ってくる。私も今年で50歳になりますが、今も打たれ弱い。すぐに落ち込み、弱音を吐く。溢れるほどに聖霊を注がれ、神から深く愛され、主イエスに全ての罪を赦され、たくさんの方々に真剣に祈って頂いているのに、「俺は駄目だ」と呟き、罪の1匹、罪の1枚として、群れから離れたくなる。そのような情けない1匹の羊、1枚の銀貨が弱く、罪深い私なのです。
改めて、先週の御言葉に注目したい。見つかった羊は、何をしたでしょう?何と、見つけてくれた羊飼いに担(かつ)いで頂いたのです。小さい頃の記憶、皆さんにもあると思いますが、誰かにおんぶされたり、抱っこされたり、膝の上に座った記憶は、ぼんやりと憶えているはずです。母だったり、父だったり、おばあちゃんだったり、おじいちゃんだったり、保育園、幼稚園の保育者かもしれません。先週の金曜は、いづみ愛児園の「花の日礼拝」で説教しましたが、小さな赤ちゃんもおりました。その赤ちゃんは、保育者に抱っこされ、何とも言えない安心した表情で微笑んでおりました。その無垢な表情を通し、色々と感じた。「ああ、私は50歳を前にして、今でも真の羊飼い主イエスから離れることがある。99匹から迷い出ることもある。どうしようもない一匹だ」。また、「10枚の銀貨を結ぶ主イエスに背を向け、首飾りから落ち、9枚は再び糸で結ばれるのに、私は転がり、誰からも見られない闇に隠れ、闇の中で神の愛に背を向け、うずくまるときもある。つまり、見失った一匹、無くした一枚は、どちらも罪の私である!と本気で感じるのです。
もしかすると、こうした感覚は私だけではないのかもしれません。そうです。私たち信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者であっても、一人の例外もなく、見失った一匹の羊であり、無くした一枚の銀貨なのです。そのような罪の自覚があるからこそ、教会に救いを求めて通い続ける。いや、それも少し違うかもしれません。私たちが自分の力で教会に通い続けるのではない。まさに、真の羊飼いである主イエスに名前を呼ばれ、礼拝へと招かれ続けるのです。
真の羊飼いである主イエスは、今朝も罪人の私、1匹の羊の私、一枚の銀貨の私を招いておられます。「おーい。どこにいるのか!あなたは私の大切な羊!あなたは私の大切な銀貨!あなたは私の愛と赦しと憐れみを知っているはず!戻って来なさい!あなたの弱さ、あなたの罪、あなたのどうしようもない心を私は全て知っている。だから、あなたを放っておくことは出来ない。だって、このまま私があなたを捜し回らないで、放っておけば、あなたは死んでしまう。だから、言い訳けしないで、罪のまま私の肩に乗りなさい。背中に乗りなさい。そして、私の懐に戻って来なさい。それから、私の懐で、安心して悔い改めるのだ。私は何度でもあなたを赦し続ける。私は十字架で贖いの血を流し、肉を裂いた。そして、あなたを赦すために十字架で殺されたのだ。見失った一匹の羊であるあなたが救われるために死んだ。糸から離れ、暗闇に隠れてしまった一枚の銀貨であるあなたが救われるために死んだのだ。あなたは、信仰告白し、洗礼を受けたことで、私の懐に戻ったはずだ。だから、これからも毎週の礼拝、毎週の祈祷会を大切に、日々の悔い改めの祈りを怠らないで欲しい。それでも、また私の懐から迷い出ることがあれば、私はいつまでもあなたを捜し続ける。だって、あなたは私の者、私はあなたを必要としているのだ。だからあなたも私を求め続け、捜し続け、門を叩き続けて欲しい。そのとき、真の意味でこの世に御国が実現し、この世に御心が示され、この世に真の平和が実現するのだ。さあ、罪赦された恵みを共に喜び、共に祝おう。罪のあなたが私の懐に戻った。友達や近所の女性たちも集まっている。皆、あなたと同じ罪人だ。繰り返し、繰り返し、罪を犯し、いじけて隠れてしまう罪人だ。でも、罪を悔い改め、私の懐に戻ったのだ。だから、友達や近所の人も一緒に喜ぼう。皆で罪赦された喜びを共にするのだ。皆、あなたと同じ罪の赦しを感謝し、喜びの涙を流した神の家族だ。だからこそ、大きな喜びが天にあり、神の天使たちの間にあり、この私にもあるのだ。さあ、一緒に喜ぼうではないか!」。
先週と今朝の御言葉、そして放蕩息子の譬えは、やはりルカ福音書の大きなハイライトであることは間違いないと思います。第15章を読むときに大切なことは、「私は、それぞれの譬えに登場する誰なのか」という視点です。先週の御言葉で言えば、自分は迷い出た1匹の羊と考えるか、99匹の中で迷い出た1匹を「あいつはどうしようもない!」と非難する1匹と考えるか、あるいは今朝の御言葉だと、女性から離れ、床をゴロゴロ転がり、闇の中に隠れている1枚の銀貨と考えるか、自分はあの1枚の銀貨のように悔い改める必要のない9枚の銀貨の1枚と考えるか、あるいは父から頂いた財産を自分の欲望のためだけに浪費し、破産した娼婦好きの弟と考えるか、あるいは真面目に働きつつ、心は父から離れ、「弟」と呼ばず、「あなたのあの息子」と呼ぶ兄と考えるかによって、第15章の三つの譬えが、多角的に私たちの心に迫って来るのです。
私自身、今朝の御言葉を黙想しながら、そのことの大切さを痛感しました。今朝の御言葉であれば、私たちは1枚の銀貨であることは間違いありません。今朝の譬えを読むと涙が溢れます。なぜなら、いじけて薄暗い闇に隠れていた私たちを、主イエスが、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜し続けて下さるから。「念を入れる」とは、「落度がないように深く注意する」という意味ですが、まさに主は、心を尽くし、思いを尽くし、魂を尽くして、罪の私たちを捜し続けて下さるのです。捜して頂いた私たちも主の愛に応える。だからこそ、今朝も悔い改めの祈りを献げるために教会に招かれた。神の愛、神の招き、神の赦し、神の憐れみに応えるべく、神の天使たちと共に救われた喜び、罪赦された喜び、聖霊を注がれた喜びを主に感謝するのです。
喜ばしいことに、私たちはこの後、聖霊降臨の恵みを主に感謝しつつ、聖餐の食卓に与ります。すぐに神から逃げ出す一匹の羊であり、すぐに神から離れ、コロコロと転がり、闇に隠れてしまう一枚の銀貨である私たちが、おのおのの罪を悔い改め、信仰を告白し、洗礼を受けたことで、私たちの上に炎のような舌がとどまった。すると私たちは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、主を賛美し、主に感謝し、主を喜び、主を誇る者とされたのです。聖霊を注がれた私たちキリスト者は、一人の例外もなく、神の御声「あなたは私のものだ」を聴き続けることが許された。そのとき、私たちも日々、悔い改めを祈りつつ、神の愛を喜び、神を誇り続ける者となるのです。
私たちこそ、神の愛、主イエスの赦し、聖霊の注ぎを忘れてしまう罪人です。だからこそ神の愛、十字架と復活、また再臨の主イエスの赦し、聖霊の注ぎがなければ、私たちは1日、いや1分、いや1秒も生きることは出来ないのです。大袈裟でなく、私たちの罪は深刻です。そのような罪の私だからこそ、すぐに群れから逃げてしまう1匹の羊だからこそ、9枚から離れてしまう1枚の銀貨だからこそ、主は私たちを捜し続け、見つけ出し、聖霊の働きにより、教会に招き続けて下さるのです。
今朝も東村山教会に招かれた教会員の皆さん、求道生活を続けている皆さん、初めて東村山教会に招かれた皆さん、そして私は、何かあると、すぐに神から逃げてしまう罪深い存在です。子どもも同じ。創世記にも書かれている。洪水が終わった後、主はこう語る。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ(8:21)」。そうです。私たちは子どもも大人も罪人であり、十字架の出来事がなければ、一瞬たりとも生きることの出来ない惨めな存在なのです。だからこそ神は、私たちがさまよい続けることに耐えられない。荒野でのたれ死ぬこと、闇の中で誰からも見つけられずに、孤独死することは耐えられないのです。今朝の旧約聖書ホセア書が心に響く。「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる(11:8)」。裁きを超えてまで救いの契約を全うされる神の決意、それは熱情的であり、私たちの常識とは全く違う超越的な神の憐れみなのです。
6月18日は春の特別伝道礼拝です。伝道委員の皆さんが今日の午後、近隣のマンションにポスティングをして下さいます。今日が仕事の伝道委員の方は、先週、貴重なお休みを用いて、お一人でポスティングを担って下さいました。その姿は、一枚の銀貨を捜し続ける女性であり、一匹を捜し回る羊飼いのようです。マンションで生活している方々も彷徨っている罪人です。主イエスこそ、一枚、一枚のチラシをポストに投函するように、ともし火をつけ、家を掃き、罪人を見つけるまで念を入れて捜し続けたのです。共に、罪赦された者として、主に捜して頂いた者として、聖霊を日々、注がれている者として、これからも、悔い改めと感謝の祈りを祈り続けたい。そして、この私に注がれた聖霊の炎が、東村山の地に、東京の地に、全国に、全世界に、益々、熱く注がれ続けるよう祈り続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神様、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。私たちはあなた様から愛され、赦され、聖霊を注がれているにもかかわらず、繰り返しあなた様から逃げ、隠れ、いじけてしまう惨めな存在です。今、御前に懺悔致します。しかし、そのような私たちをどこまでも愛し、どこまでも赦し、どこまでも憐れみ、どこまでも聖霊を注いで下さいますから、重ねて感謝申し上げます。どうか日々、悔い改めを祈り、あなた様に戻り続ける者として下さい。これからも日々、私たちに聖霊を注ぎ、教会へ招き続けて下さい。お願い致します。これらの貧しき願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。今日は、ペンテコステ礼拝、聖餐式を守ることが許され、感謝申し上げます。全世界にあなた様の愛と赦しと憐れみが宣べ伝えられるために、聖霊が注がれましたから重ねて感謝申し上げます。けれども、現実の世には、争いがあり、悲しみがあり、憎しみがあり、嘆きがあり、怒りがあります。本当にこれから、私たちの世はいったいどうなってしまうのか?と大きな不安に襲われています。だからこそ祈ります。主よ、深い悲しみの中でうずくまっている方々を御手で包んで下さい。今、自分でも何をしているのかわからず、荒れ野をさまよっている方々を捜し、見つけて下さい。そして、ギュッと抱き締めて下さい。お願い致します。18日は春の特別伝道礼拝が守られます。今、たくさんの求道者が与えられております。しかし、まだまだあなた様の福音を知らない方が大勢おられます。どうか、すでに喜びの福音を知っている者として、春の特別伝道礼拝に一人でも多くの求道者が招かれ、あなた様の御言葉に触れ、罪の赦しと永遠の生命が約束されていることを知り、信仰を告白し、洗礼へと導かれますよう心よりお祈り申し上げます。そして、いつの日か全ての方々と一緒に聖霊降臨を喜び、聖餐の恵みに与ることが出来ますようお導き下さい。今朝も病のため、様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。主よ、その場にあって聖霊を注いで下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年5月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第34章11節~16節、新約 ルカによる福音書 第15章1節~7節
説教題:「天にある大きな喜び」
讃美歌:546、8、249、Ⅱ-95、540
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとして主イエスに近寄って来ました。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、不平を言いだした。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」。
愛する人と一緒に食卓を囲む。大きな喜びです。今、一緒に座っている人と同じ時、同じ空間で、美味しい食事を頂く。やはり嬉しいものです。釧路時代、園児とのカレーパーティがありました。小さな園児椅子に園長も一緒に座る。そして、美味しいね!とニコニコしながら同じカレーを頂く。味が園児向けに甘口であっても最高の味です。一瞬で、園児たちと同じ気持ちになるのです。園長と園児という関係を超え、同じカレーを食べると、私も園児と同じになる。一つの家族になる。皆が大きな喜びに満たされる。幼稚園のカレーパーティは大きな喜びの食卓でした。
食卓を囲むことは、隣人を愛することに繋がる。主イエスは、徴税人や罪人と食卓を囲むことにより、彼らを隣人として受け入れたのです。その姿を見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちは呟いた。「お前は、奴らと飯を食うのか。信じられん。俺たちは絶対に食べない。奴らと飯を食うと、俺たちまで汚れてしまう」。徴税人は、ローマ帝国や領主へ税金を納めるために、人々から税金を取り立てる役人です。彼らは税金を必要以上に取り立て、私腹を肥やしたので、神に見捨てられた罪人と見なされていたのです。
そこで、主イエスは次の譬えを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担(かつ)いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。
4節で「見失った」と訳されたギリシア語απολωλος(アポロゥロス)は、深刻な言葉です。「見失った」に加え、「滅ぼす」、「殺す」という意味もある。先週、私は赤ちゃんを語りました。赤子のように裸にならないと主の弟子になれない。角度は違いますが、親と赤子の関係が切れると、赤子は死ぬ。当然です。親がミルクを与えてくれなければ赤子は死ぬ。親から離れ、親との関係が切れると赤子は死ぬのです。だからこそ主は、自分の持ち物に頼らず、裸になり、全てを私に委ね、私と共に歩みなさい!と命じておられる。
それでも、一匹の羊のように主から離れるときがある。確かに、主から離れても、呼吸をし、食事をし、生きているように思える。けれども、生き生きと生きていない。やはり死んでいるのです。主は語る。「私のもとに帰って来なさい。私から離れ、私に背を向けて生き続けるのは辛いだろう。だから、私の懐に戻りなさい。そのとき、あなたは真の意味で生きることになる。そして、私への信仰を告白し、洗礼を受けると、永遠の生命を約束される。そのとき、あなたは大きな喜びに包まれる。同時に、天にまで、あなたが救われた喜び、あなたが神の懐に帰った喜びがこだまするのだ」。
九十九匹と一匹の羊の譬えは、私たちの常識とは違います。九十九匹を野原に残し、群れから迷い出た一匹を血眼になって捜し続ける人はいません。自己責任という言葉があるように、群れから迷い出た責任はその人にある。口では「そんな社会では駄目だ!」、「皆で助け合いましょう!」と言う。しかし、現実は非常に厳しい社会です。一度、「犯罪者」というレッテルを貼られると、死ぬまで「犯罪者」というレッテルが消えない。主イエスの時代も同じです。誰かが引き受けなければならないので徴税人になった。しかし、徴税人というだけで世間から白い眼で見られる。食卓を囲むのは、徴税人と罪人しかいない。そのような現実に、主イエスは明確に「ノー!」と言うのです。主は、不平を呟く人々に譬えを語り、最後に「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と告げるのです。
確かに、主イエスの譬えで、一匹の羊を見つけた羊飼いは、「友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言う」。そして、一匹が見つかった喜びを大勢の人々と分かち合うために宴会を催した。もちろん、会費はただ。最高の料理とお酒が並べられたはずです。招待された人々は、迷い出た一匹が見つかり、大いに喜ぶ羊飼いの姿に呆れたかもしれません。申すまでもありませんが、群れが新しく増えたので、一緒に喜んでください!ではありません。群れに一匹が戻っただけ。プラマイゼロ。それなのに、信じられないほど喜ぶ。しかも主は、「大きな喜びが天にある」と宣言されたのです。
教会にも大きな喜びがある。それは、受洗者が与えられることです。受洗によって全ての罪が赦され、永遠の生命を約束される。こんなにも大きな喜びに包まれるときはありません。けれども、教会も本人も大きな喜びに満たされたにもかかわらず、教会から迷い出る人がいる。牧師に躓き、教会員に躓き、御言葉に躓き、教会から迷い出る。そのようなとき、私たちは血眼になって迷い出た教会員を捜し回ることは控えます。主の「時」が必ず来ると信じ、教会に戻るよう祈り続ける。けれども、今朝の御言葉を読めば読むほど、それでいいのかと不安になります。特に、牧師である私は、現住陪餐会員122名、他住会員15名、未陪餐会員8名、不陪餐会員38名、別帳会員4名の計187名の羊の羊飼いとしての働きを神から託されている。教会に通い続ける羊は神に委ね、教会から迷い出た羊を捜し回る必要があるのではないか。迷い出たあの人、この人が再び、教会に戻るよう祈り続ける。その大切さを今朝の御言葉は私に、また私たちに告げていると思うのです。
そして、一匹の羊が東村山教会に戻ったら、手放しで喜びたい。今まで何処に行っていたのか!と詰問することなく、「よく戻ったね」と涙を流して喜ぶ。そのとき、私たちの喜びが天に届き、いや、天にある喜びが私たちにも注がれ、天の喜びと私たちの喜びが一つになる。そして、教会に戻った一匹も、教会に留まり続けている九十九匹も、一緒に心の底から神を喜ぶのです。
私たちは皆、神から生命を与えられました。だからこそ、私たちは神と共に生きるのが自然です。しかし、教会生活が長くても、突然の試練に襲われると、神に背を向けてしまうことがある。「主よ、あなたはなぜ、誠実に教会に通い続けている私に、こんなにも辛い、こんなにも厳しい試練をぶつけたのですか。ひどいじゃないですか。もう祈れません。もう信じません。構わないで下さい。私はあなたから去ります」。このように神に背を向けることが私たちにもある。だからこそ主は、神から迷い出た私たちを全力で捜し続けて下さる。そして、必ず見つけて下さる。見つけ下さったら、二度と群れから迷い出ないように、その肩に私たちを担いで下さる。二度と私たちを一人で歩かせないために。神に背を向けた結果、手も足も心もボロボロになった私たちに、「あなたの足で歩け!孤独な心で歩け!」と命じるのではなく、ボロボロの手、ボロボロの足、ボロボロの心を担いで下さる。そして、地上の生命が終わると、主は神の懐に私たちを戻して下さるのです。
真の羊飼いである主イエスは、神から迷い出る私たちを赦して下さるために、十字架で死に、永遠の生命を約束して下さるために復活され、いつの日か再びこの世に来て下さる。つまり、百匹のために祈り、迷い出た一匹を捜し続けて下さる御方は、私たちの真の救い主、イエス・キリストなのです。
今朝は、旧約のエゼキエル書第34章も朗読して頂きました。11節以下、「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う(34:11~13)」。
エゼキエル書第34章における「イスラエルの牧者たち」とは、南王国ユダの王をはじめとする指導者階級を指しています。彼らは自分自身を養うことに懸命で、民に細やかな配慮をせず、力で、過酷に群れを支配した人たちです。指導者が牧者の職務を果たさないので、民はちりぢりになり、さまよっている。それでも、指導者たちは民の保護と指導を怠り、むしろ私腹を肥やしている。そこで神は、悪い指導者に宣告を下し、牧者の務めから彼らを退け、神自ら、群れを取り戻し、指導者たちが私腹を肥やすことができないようにすると宣言された。その宣言が11節以下に記されているのです。
神は、南王国ユダの指導者たちを解任し、民の保護のために介入されました。11節で「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し」と訳された表現を直訳すると「見よ私、私が。そして私の群れを探し出し」となる。「見よ私、私が」は、南王国ユダの指導者たちに代わって羊の群れの世話をしようとする神が「今まさにそこに存在すること」を強調する表現です。つまり、旧約のエゼキエル書においても、真の牧者の使命は、神から迷い出た羊を探し、養い続けることなのです。「ちりぢりになっている自分の羊を探す」牧者こそ、ルカ福音書の譬えに登場する真の羊飼い、主イエス・キリストなのです。
今朝、礼拝に招かれた私たちは、全員が罪人でした。神に背を向けていた。だからこそ、主イエスが十字架で死なれ、復活され、再臨を約束して下さった。罪人だからこそ私たちは、「主イエスを我が羊飼い、我が牧者と信じます!」と信仰告白し、洗礼を授けて頂いた。その瞬間、私たちの罪は赦され、永遠の生命を約束され、神の懐に帰る者とされたのです。
真の羊飼い、主イエスの声が聞えます。「あなたは、私が捜し続ける羊だ。たとえ耐えられない試練に襲われても、もう私から逃げるな。傷ついた手足、心を私に差し出しなさい。あなたは安心して、私におんぶされればいい。私と共に歩き続けるのだ。神の懐に向かって。あなたにも地上の生涯を終える日が来る。でも、そのときこそ永遠の生命の始まりの日だ。神の懐に帰り、御国で安らかに憩うのだ。羊飼いである私から詩編第23篇を贈る。詩編の御言葉を信じ、地上での生涯を全うして欲しい。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行(ゆ)くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう(詩編
23:1~6)」。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主日礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。私たちも今朝、大きな喜びに満たされています。あなた様の愛がどれほど大きなものであるか知ったからです。同時に、私たちは今朝、御前に懺悔致します。私たちがあなた様から迷い出ると、あなた様が深く嘆き、悲しまれることを知ったからです。主よ、私たちの群れから離れている羊が大勢おります。主よ、どうか私たちが、愛する神の家族を忘れることがないよう導いて下さい。そして、いつの日か、あなた様の愛と赦しと憐みを思い起こし、教会に帰ってくるよう祈り続ける者として下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。先週も各地でテロが発生しました。主よ、どうか私たちの世を憐れんで下さい。主よ、今日と明日、西東京教区総会が阿佐ヶ谷教会で執り行われます。三役、常置委員選挙も行われます。主の御心が示されますよう祈ります。日本基督教団の歩みをこれからも力強く導いて下さい。主よ、来月6月18日は、春の特別伝道礼拝が行われます。伝道委員会の兄弟姉妹が、それぞれの賜物を生かして様々な準備を担っておられます。主よ、その労を労って下さい。春の特別伝道礼拝が年間行事の一つとして終ることなく、この世をさまよっている羊があなた様によって教会へ導かれ、信仰告白、洗礼へと導かれるよう祈りをもって備えることが出来ますようお導き下さい。主よ、今、心が塞いでいる方々、一匹の羊としてあなた様から離れてしまっている方々を憐れみ、溢れるほどに聖霊を注ぎ続けて下さい。主よ、加齢のため、病のため、看取りのため、主日礼拝に集うことの困難な兄弟姉妹を憐れんで下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年5月21日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第50章4節~11節、新約 ルカによる福音書 第14章25節~35節
説教題:「弟子として御声に聞き従う」
讃美歌:546、12、259、Ⅱ-37、539
主イエスは安息日の食事を終え、エルサレムへ向かって進んでおられます。大勢の群衆も一緒について来ている。すると主は、突然足を止め、振り向いた。主の視線は弟子に加え、大勢の群衆に向かっています。主は言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。大勢の群衆は驚きました。予想もしない主の御発言。当然、弟子たちも驚いた。「食事を終え、水腫の男を癒され、主の御機嫌は良いはずだ。それなのに、なぜ、このようなことを言われたのか」。
私たちも主の御言葉を聞き続けておりますが、今朝の御言葉はひっかかる。なぜなら、「主の弟子になるには、愛する家族、また自分の命さえ憎まなければならない。そうしないと弟子になれない」と主が語っておられる。「隣人を自分のように愛しなさい」と命じておられる主が、「汝の父母(ちちはは)を敬え」と十戒で戒められている父母を憎まなければ、弟子になれない。素直に読めば、これほど混乱する御言葉はありません。
26節で「憎まないなら」と訳された原語は、μισει(ミセイ)というギリシア語です。辞典には、「憎悪する、嫌悪する、忌み嫌う」との意味に加え、ヘブライ的対照表現として、「(他のものに比べて)軽視する、大事にしない、斥ける」とありました。そう考えると、主イエスの言葉の意味が理解出来る。主イエスは父母を憎悪しなさいと命じているのではない。「私と比べて父を選ぶ、私と比べて母を選ぶ、私と比べて妻を選ぶ、私と比べて子を選ぶ、私と比べて兄弟姉妹を選ぶ、私と比べて自分の命を選ぶようでは私の弟子ではありえない」と言われるのです。さらに主は命じる。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。
「自分の十字架を背負う」とは、主の十字架の死による罪の赦しと、復活による永遠の生命を信じ、主の御心を問いつつ歩むことです。主のために生き、主のために死ぬ。そのような生き方こそ、自分の十字架を背負って、主に従うことなのです。
さらに主は、二つの譬えを語られる。最初は「塔建築の譬え」。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう」。
この譬えのテーマは「賢さ」です。「賢さ」とは、計算が出来るということ。計算は、「まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」と語られたように、腰をすえて落ち着いてするものです。繰り返し計算をする。勢いだけで進めない。じっくりと最善の計画を立てる。そうすれば、突然のハプニングに襲われても、慌てることなく、一歩、一歩、塔の完成に向けて進むことができるのです。
さらに主は、「王の戦いの譬え」を語られる。「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう」。
この譬えのテーマも「賢さ」です。敗北が明らかになれば、速やかに敗北を認め、講和を申し出て、敵と和解することは賢い王の姿です。確かに、敗北を認めることは、王にとって恥となる。しかし、面子(めんつ)にこだわって、一万の兵を死なせることは賢い選択ではありません。主は続ける。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」。
26節で、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と語った主が、ここでは、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と語る。愛する家族、自分の命、そして自分の持ち物を一切捨て、まさに丸裸にならなければ、主の弟子になれない。もっと言えば、無力な赤ちゃんにならなければ、主イエスの弟子になれないのです。つまり、様々な鎧(よろい)を身に着け、主イエス以外のものに頼り続けるなら、主の弟子になれない。とても厳しいようで、不思議ですが、ホッとする言葉です。なぜ、ホッとするのか?主の弟子の条件が無力な赤ちゃんだからです。お腹が空いたとき、「お腹が空いた!」と泣き叫び、困ったとき、「助けて!」と泣き叫ぶと、主の弟子になれるのです。
自分を頼り、他者を頼り、財産を頼るのではなく、負けることがわかれば、無理に敵と戦うことなく、費用が足りないと計算すれば、主の時が備えられるまで無理に塔を建てることもない。良い意味で、主イエスに丸投げする人生。主に全てを委ねる人生を全うする。そのとき、たとえ、主を信じる者であるがゆえに迫害を受け、地上での命が絶たれても、主が私と共に死んで下さる!と信じ、主が私にも復活の生命を与えて下さる!と信じる。そのような信仰こそ、主の弟子になる唯一の条件なのです。
実際、福音書記者ルカが、ルカ福音書を書いた時代、紀元100年前後は、キリスト教会が大きくなるに従って、迫害が厳しくなった時代です。皇帝ネロの大迫害(紀元64年)を経験した。そのような大迫害が続くところで信仰を告白することは、覚悟を求められる。ルカは、そのような大迫害の時代だからこそ、一切の思い煩いを捨て、主の弟子として最後まで生き抜いて欲しい!と今朝の御言葉を記したと思うのです。
主イエスは続けて「塩の譬え」を語られる。「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい」。
主の弟子になるとは「地の塩」になること。「地の塩」であり続けることです。塩はどのような調味料か?塩は、塩のための調味料ではありません。塩が自己主張し「私は、どんな食材にも負けずに塩であり続ける!」と塩がいつまでも塩であれば、料理のある部分を食べると、ガリッ!と塩辛い味になり、最悪の料理になってしまう。塩は、料理の途中で姿を消すのです。食材に溶け、姿を消し、料理の味を引き立てる。私たちキリスト者も塩と同じ。「私こそ、最高の塩!」と自己主張するなら、主イエスの福音を宣べ伝えることは難しくなる。主イエスの福音ではなく、「私こそ最高の塩!」と自分を宣べ伝えることになる。その結果、自分だけでなく、主の福音まで嫌われ、外に投げ捨てられるのです。
主イエスが、私たちに弟子となることを求められるとき、自己主張の塩ではなく、食材の中で姿を消す塩を求めておられる。実は、主ご自身が、真の塩になって下さった。芋だったり、人参だったり、玉葱だったり、肉だったり、魚である私たちの世に遣わされ、十字架の上で死んで下さり、真の塩になられた。その結果、私たちの味、つまり賜物は、塩である主イエスによって引き立ち、美味しくなった。だからこそ、私たちキリスト者も、自己主張の塩ではなく、主のために生き、主のために死ぬ「地の塩」として歩み続けるのです。
私たちキリスト者は、地の塩、世の光として生きることを主から求められています。だからこそ、自分の十字架を背負って主に従い続ける。どんなに将来に不安があっても、この世の何かに頼りたくなっても、全てを捨て、ただ主の御手に抱かれ、ただ主の十字架と復活、再臨を信じ、主に従って歩み続ける。そのとき、主がねんごろに養って下さる。私たちに全てを備えて下さるのです。
私も36歳で銀行を退職。主のお召しと信じ、東京神学大学に編入学。不安しかありませんでした。しかし、主が備えて下さった。私自身、ピリッとした塩でなく、甘い砂糖のようにベトベトのときもありました。そのようなとき、「無力な私だからこそ、主は召して下さった!」と心に刻み続けた。そのとき、私に与えられた十字架がフッと軽くなった。三鷹で、釧路で、そして東村山で主が与え賜う十字架は、決して一人で背負っているのではない。主が共に背負って下さり、ほんの少しを私も背負わせて頂く。これこそ、主の弟子の恵みであり、喜びです。主の弟子になることは、本当に喜ばしいことです。十字架と復活、そして再臨の主と共に生きる。こんなにも素晴らしい人生はありません。だからこそ、私たちは主の御言葉を聞き続ける。主は、献身した弟子を終わりの日まで養い続けて下さいます。真の塩である主が、私たちに入って下さり、私たちと共に生きて下さるのです。
今、私たちの群れに、熱心に求道を続けている兄弟姉妹が与えられている。嬉しいことに中学生、高校生の求道者も与えられています。求道者の皆さんにとって、今朝の御言葉は、ドキッとしたかもしれません。しかし、ぜひ、心に刻んで頂きたい。今朝の御言葉を語っておられるのは誰なのか。十字架と復活、そして再臨の主イエス・キリストです。私たちが背負うべき十字架を背負い、本当に死んで下さった。そして陰府(よみ)にくだられた後、復活によって、死に勝利された。その主イエス・キリストに全て委ねて生きることが出来る。こんなに喜ばしい、こんなに嬉しい、こんなに感謝なことはありません。
使徒パウロは語ります。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい(エフェソの信徒への手紙5:8)」。そうです。主イエスを信じ、洗礼を受けた者は、主に結ばれ、罪の身は死に、光の子として歩むのです。
今朝の旧約の御言葉、イザヤ書にも書いてある。「お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が(50:10)」。
主の十字架と復活、そして再臨を信じるキリスト者は、どこまでも主を畏れ、どこまでも主の僕イエス・キリストの御声に聞き従う。これは苦しい歩みではありません。全く逆。全ての束縛から解放され、闇としか思えないときも、真の光である主イエスと共に生きる恵みの歩みなのです。求道生活を続けている皆さんが、「地の塩、世の光」としてたった一度の地上での生命を主イエスと共に歩みます!と信仰告白し、洗礼を受ける日が与えられるよう祈り続けます。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。主の弟子として歩む人生は大きな覚悟を求められます。同時に、主の弟子として歩むことは大きな恵みですから、重ねて感謝申し上げます。私たちは様々な言い訳をします。「畑を買ったので、見に行かねばなりません。牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と御国への招きを断ります。主よ、私たちの罪をお赦し下さい。主よ、あなた様の招きに全てを捨てて、赤子になって、あなた様の子として歩む志を与え、主の僕としての生涯を全うさせて下さい。これらの願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。主よ、私たちの世は今、混沌としております。これからどのような時代になるのか?あなた様しかわかりません。主よ、もしも今、私たちの世の進む方向が間違っているのであれば、間違いに気が付く謙遜な心と賢い心をお与え下さい。そして、無力な私たちではございますが、あなた様の御子、主イエスの名によって祈るときは生まれながら足の不自由な男も癒され、躍り上がって立ち、歩きだした事実を信じ、どのようなときも、主イエスの名によって祈り続ける心を忘れないようお導き下さい。特に今も困難な生活を強いられている被災地の方々、愛する家族を失い、深い悲しみの中で苦しみ続けている方々、真の救いを知らずに彷徨い続けている方々を覚えて私たちも祈り続けることが出来ますようお導き下さい。今、私たちの教会には本当に嬉しいことですが、子どもから中学生、高校生、また様々な人生の悩み、苦しみを重ね、真の救いを求めて教会に招かれたたくさんの求道者が与えられております。主よ、それらの方々がいつの日か主イエスの僕として生きることがどんなに素晴らしく、どんなに喜ばしく、どんなに慰めに満ちたものなのかに気づくことが出来ますよう力強くお導き下さい。そして私たちも終わりの日まであなた様の僕としてあなた様に従い、御言葉を聞き、地の塩、世の光として歩み続けることが出来ますようお導き下さい。今朝も病のため、様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。主よ、深く憐れんで下さい。お願い致します。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
2017年5月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ネヘミヤ記 第8章1節~12節、新約 ローマの信徒への手紙 第14章7節~9節
説教題:「主を喜び祝うことこそ、力の源」
讃美歌:546、7、179、338、545B、427
今朝は、2017年度の年間主題「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」が記されているネヘミヤ記第8章を御一緒に味わいましょう。
ペルシア宮廷に仕えていた高官ネヘミヤは、アルタクセルクセス王から許可を得て、エルサレムに帰国しました。ネヘミヤは、バビロン捕囚から解放され、エルサレムに戻ったユダヤの民を律法の書、つまり神の御言葉によって再教育することに力を注いだのです。
バビロン捕囚とは、紀元前586年から538年の約50年間、ユダ王国が新バビロニアに征服され、イスラエルのユダヤの民が新バビロニアのネブカドネザル王によってバビロニアに捕囚となった事件です。約50年の捕囚生活が終わり、エルサレムに戻ると、国土は荒廃し、神殿は破壊され、人々は気力を失っていました。そこで、祖国に戻った人々は、破壊されたエルサレム神殿を再建、次に城壁を築いたのです。それまでに約100年の歳月がかかりました。そうして、城壁が完成した第七の月の一日。日本では元旦の朝。城壁の完成を祝うべく集まった人々は、新しく出来た聖書正典の朗読を聞きに水の門の前にある広場に集まったのです。
「民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた(8:1)」。「水の門」とは、町に水を流すために作った出入口の門です。この水門から、町に水が流れ、人々の喉を潤し、生活用水を供給した。水門の前にある広場を集会の場所としたのは意味がある。集会に集まる人々の水源としての聖書の言葉。命の源、力の源である御言葉が渇いた心に注がれる場所であることがわかります。
彼らは、書記官エズラに律法の書、つまり聖書を持って来させ、夜明けから正午まで律法の書に耳を傾けました。「律法の書」は、旧約聖書の一部である創世記から申命記までの、いわゆる「律法の書」です。夜明けから正午なので、約7時間。つまり創世記から申命記の全部を朗読することは不可能ですから、その一部だったと思われます。
民は皆、聖書の御言葉に耳を傾け、神を礼拝しています。書記官エズラは、木の壇の上に立ち、律法の書(創世記から申命記の一部)を朗読したのです。壇の中央にエズラ。左右に六人ずつ長老が立ちました。広場に集まった民から、エズラと12人の長老の顔が見える。エズラは中央の少し高い壇の上に立っています。そして、会衆が見守る中、律法の書を開くと、民は皆、立ち上がった。そしてエズラが、神をたたえて「ハレルヤ」と叫ぶと、一人の人のように心を一つにした民も両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主なる神を礼拝したのです。
次いで、御言葉の説き明かしの「説教」がなされました。祭司であり書記官であるエズラ一人で、夜明けから正午まで約7時間、説教することは困難です。そこで、13人のレビ人(神殿に仕える役人)が交代で、律法の書を翻訳し、その意味を説き明かしたのです。13人のレビ人の説教により、人々は律法の書を理解することができたのです。
説教に耳を傾けた人々の心に神の思いが届いた。その結果、人々は自分たちが今まで、神を神とせず、神に背を向けていたことに気がついた。そのために神の懲らしめを受け、バビロンまで追放された。しかし今、故郷に戻り、エルサレム神殿の再建が許され、城壁も与えられた。何という恵み、何という喜び。神は我々を見捨てなかった。両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、感謝の応答として神を礼拝するのだ。民は皆、溢れる涙を流しつつ、律法の書、創世記から申命記の御言葉に約7時間、耳を傾けたのです。
犯した罪を嘆きつつ、罪の自分を救い、再び、御言葉を与えて下さることに喜びの涙を流した民全員に対して、総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは励ました。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない(8:9~11)」。
イスラエルの民は、礼拝の間、これまでの苦しかった日々を思い起こした。彼らは神殿崩壊と、生まれた故郷を離れる捕囚を経験したのです。愛する家族との別れを経験した。一人ではどうする事も出来ない、他国の圧倒的な武力の前に、呆然と立ち尽くす経験を重ねたのです。生き別れた者、死別もあった。愛する者との別れの痛みは、時が経てば経つほど厳しくなる。時の経過では、別れの痛みは解消しない。だから涙が溢れる。そして、悔い改めの涙も溢れる。しかし今、悲しみの涙、悔い改めの涙が喜びの涙へと変わった。彼らは、神の言葉を聞いて、理解したのです。何を理解したのか。神の熱情を理解した。愛する者の死を受け止められない。神を神として礼拝しなかった自分の罪を私は赦せない。しかし神は、そうした私を見捨てなかった。罪の私にも拘わらず、主は深い憐れみをもってエルサレム神殿と町を再建して下さった。主の恵みと慈しみが民の心に刻まれたのです。
総督ネヘミヤ、祭司であり書記官であるエズラ、そしてレビ人は言いました。「嘆いたり、泣いたりするな。今日は聖なる日。悲しんではならない。あなたがたは大いに喜べる。良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。今日は悲しみの日ではなく、喜びの日だ。主なる神を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源なのだ。過去の罪にいつまでもこだわっていてはならない。過去の苦しみにいつまでも留まってはならない。主なる神は勝利した。だから、共に喜ぼう。これからは救いを成し遂げて下さる主を仰ぎ望み、真の神を礼拝し、力の限り讃美し、感謝を持って主なる神に仕えて行こう」と民を励ましたのです。
先週の月曜、火曜と故 K兄弟の葬りの業が執り行われました。今朝の礼拝には奥様 Y姉妹と御長男 Hさんが先週に続けて出席しておられます。深い悲しみの中にあるからこそ、主の日の礼拝、神の御言葉から力を頂きたいと願っておられる。深い悲しみの中にある御遺族に加え、今朝、様々な痛みを抱えつつ、礼拝に出席しておられる方もいらっしゃるはずです。そのような方々にもネヘミヤ、エズラ、さらにレビ人は語り続ける。「悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と。私たちはいつの日か必ず地上での命を終えます。一人の例外もありません。しかし、私たちには、永遠に続く慰めと希望がある。私たちの罪を赦し、永遠の生命を約束する主の十字架と復活です。先週の御葬儀でも、ヨハネ福音書第3章16節の御言葉を語った。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。K兄弟の棺を囲んでの最後の礼拝で、私たちは、主イエスの御言葉が与えられている事実に深い慰めと大いなる力を頂いたのです。
最後に「ハイデルベルク信仰問答」問1を、心に刻みたい。「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」。「ただ一つの慰め」です。あの慰め、この慰めの一つではない。私たちキリスト者にとってただ一つの慰め。愛する者を失い、深い嘆きの中にある者にとって、ただ一つの慰めは何か。答「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払って下さり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守って下さいますので、天にいますわたしの御父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪も落ちることはできないし、実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の生命を保証し、わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることのできるように、して下さるのであります」。涙が溢れる。信仰告白し、洗礼を受けた者はどんなに深い悲しみの中にあっても、どんなに辛い痛みがあっても、自分のものでなく、キリストのものであるがゆえに、大いに喜べる。もう、自分で自分を心配する必要はない。自分で自分を悲しむ必要もない。愛する夫の死を超え、愛する父の死を超え、信仰告白、洗礼を受けることで、神の国で復活の主イエスと愛する兄弟姉妹と共に、永遠の交わりが約束されている。その事実こそ、私たちの力の源である。だからこそ、私たちは命のある限り、主なる神を賛美し、主なる神を喜び、主なる神を礼拝し続けるのです。
今朝の新約聖書の御言葉は、故 S姉妹、故 I兄弟の納骨式で朗読した、ローマの信徒への手紙第14章7節から9節の御言葉です。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。心の底から「アーメン」と唱和したい。まさに祭司エズラと長老たちが律法の書、つまり聖書を開いたとき、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝したように、私たちもパウロの言葉に「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、十字架と復活、そして再臨の主イエス・キリストを礼拝し続けたい。
故 K兄弟の肉体が火葬により御遺骨となった瞬間、Y姉妹、Hさんは厳しい痛みにより涙が溢れた。しかし今朝、神に名を呼ばれ、主の日の礼拝に招かれた。そしてネヘミヤ記の御言葉が与えられた。「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」。
復活の主イエスはY姉妹、Hさん、また私たちに語っておられます。「十字架と復活の主を救い主と信じます!と信仰を告白したあなたがたは皆、私のものである。私が死に、そして復活させられたのは、死んだ人にも生きている人にも救いとなるためだ。だから涙を流すな。確かに涙が溢れるだろう。悲しいだろう。泣きたいだろう。それはわかる。でも、どうか私を見て欲しい。どうか私を礼拝して欲しい。そのとき、あなたにも復活の私が見えるはずだ。そのとき、あなたは大いに喜べる。だってあなたは私のものだ。その事実こそ、あなたの唯一の慰めだ。どうか、私を喜んで欲しい。私を誇って欲しい。私を祝って欲しい。そのとき、あなたはたとえ動けないほどの悲しみ、嘆きの中にあっても、永遠の生命、永遠の力が与えられるのだ」。
礼拝後、「コイノニア・ミーティング」で今朝の御言葉を共有します。主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源になっているか、共に主の前にひざまずき、顔を地に伏せて語り合いたい。そして、嘆きの中にある方と共に、「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものである」との恵みを共有したい。そのとき、私たちの力の源は、毎週の礼拝であることが心に刻まれるのです。先週の主日、2017年度の定期総会も主の祝福の中で全議案が承認されました。この一年、色々な計画がありますが、何よりも、主の日の礼拝を大切にしたい。主を喜び祝うとき、私たち一人一人に聖霊が注がれ、力と慰めが与えられる。新しい神の家族、M姉妹が与えられた2017年度も、インマヌエルの主と共に力強く歩み続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。今朝は年間主題の御言葉をお与え下さり、重ねて感謝申し上げます。私たちのただ一つの慰めは「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものである」です。主よ、悲しみの中にあるときこそ、嘆きの中にあるときこそ、わたしが、主イエスのものであるとの信仰を失うことのないよう聖霊を注ぎ続けて下さい。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、復活の主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。主よ、深い悲しみの中にある故
K兄弟の奥様 Y姉妹、御長男 Hさんに溢れるほどの慰めを注いで下さい。Y姉妹とHさんが、主を喜び祝うことで、溢れる力を頂くことが出来ますようお導き下さい。今朝はM姉妹の転入会式が執り行われ、心より感謝申し上げます。月寒教会
石垣弘毅牧師、月寒教会に連なる兄弟姉妹、また月寒キリスト教学園しののめ幼稚園の歩みをこれからも力強くお導き下さい。今朝はM姉妹の御家族も礼拝に出席しておられます。主よ、御家族の上にも溢れるほどに聖霊を注ぎ続けて下さり、御心なら、いつの日か信仰告白、洗礼へお導き下さい。またM姉妹が洗礼を授けられた猪苗代教会の歩みもどうぞお導き下さい。特に、原発事故によって、バビロン捕囚のように住むところを追われ、今も困難な生活を強いられている福島の方々、また東北、熊本、大分、全国、全世界の被災地の方々が、主を喜び祝うことによって、溢れる力を得ることが出来るよう、これからもお導き下さい。今朝も病のため、また様々な理由のため教会に集うことの困難な兄弟姉妹が大勢おられます。主よ、それらの方々を憐れんで下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年5月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第25章6節~8節、新約 ルカによる福音書 第14章15節~24節
説教題:「すべての民の祝宴」
讃美歌:546、53、239、21-81、502、545A
先週の水曜、5月3日は東村山教会に連なる私たちにとって大きな出来事が同時にございました。一つは、S兄弟とS姉妹の結婚式が主の祝福の中で執り行われました。式後の祝会にもたくさんの方々が出席され、嬉しく思いました。様々な奉仕を担って下さった教会の皆さんに深く感謝致します。もう一つは、週報に書かせて頂きましたが、だいたいあの席にY姉妹と共に座り、主日礼拝を忠実に守り続けたK兄弟が、結婚式と同じ日の未明に召されたのです。教会員の結婚式当日に、教会員が召されたことは牧師として9年目の私にとって初めての経験となりました。明日の午後6時から前夜棺前祈祷会、明後日の正午から葬儀が執り行われます。K兄弟とこの礼拝堂で守る最後の祈祷会と礼拝です。一人でも多くの皆さんに出席して頂き、Y姉妹、御長男Hさん、御遺族の上に復活の主の慰めを共に祈りたいと思います。
さて、今朝のルカ福音書の御言葉は、主イエスによる大宴会の譬えです。第14章の冒頭にこう書いてあります。「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた(14:1~2)」。つまり、今朝の御言葉の15節「食事を共にしていた客の一人」の食事は、安息日のファリサイ派の議員の家での食事です。先週の御言葉も同じ。主は、こう語っております。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる(14:12~14)」。
主の招きを聞いた客の一人は言いました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。そこで主は、譬えを語るのです。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた」。
家の主人は、盛大な宴会を計画した。大勢の招待客からも「出席させて頂きます」と嬉しい返事が届く。そこで主人は、脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒を用意した。あとは、大勢の招待客がやって来るのを待つのみ。しかし、「出席」と返事をくれた招待客が、次々と宴会への出席を断ったのです。
最初の人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません」と言った。ほかの人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」と言った。また別の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言った。つまり三人は、主人の招待を土壇場でキャンセル。三人は、盛大な宴会よりも自分たちの生活を優先したのです。
僕は帰って、このことを主人に報告しました。主人は激しく怒った。そして僕に命じたのです。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」。主人に招待されたのは、「まさか私が宴会に招かれるはずがない」と思っていた人たちです。この人たちは、三人のような言い訳の理由がない。「えっ、私ですか」と驚いた。しかし、僕の招きを信じ、主人の家に入り、主人が用意してくれた食事を感謝して頂いたのです。主人の家には、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人がたくさん座っている。皆、笑顔で美味しい食事を楽しんでいる。しかし、主人の家にはまだまだ席がある。不思議ですが、主人の家の席はたくさんの人が座っても、座っても、席が完全に埋まることはないのです。僕は、主人に言いました。「まだ席があります」。
主人は言いました。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」。主人は真剣にすべての人を我が家へ招いている。当時、通りや小道には、ホームレスや、物乞いの人が溢れていました。主人は、そのような弱さを抱えている人々を我が家へと真剣に招いているのです。
ところで、今朝の旧約の御言葉は、イザヤ書第25章の御言葉となりました。「万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供(きょう)される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである(25:6~8)」。慰めと励ましに満ちた御言葉です。6節で「えり抜きの酒」と訳されたのは、葡萄酒が作られるときにその過程で生じる最上の部分を意味します。同時に、ここでは、よくこされて長い年月の間に熟成された葡萄酒を指すかもしれません。いずれにしても、よくこされた最高の葡萄酒と脂肪に富む良い肉が供される盛大な祝宴です。その祝宴の主人は万軍の主であるとイザヤは語る。万軍の主は、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださるのです。
先週の水曜、5月3日の朝9時、私は結婚式の準備を教会の皆さんに委ねて、清瀬の東京病院の霊安室にまいりました。到着すると、K兄弟の優しいお顔が白い布に覆われていたのです。万軍の主は布を滅ぼし、K兄弟の死を永久に滅ぼしてくださった。主イエスの復活によって。さらに万軍の主は、Y姉妹、御長男Hさん、霊安室に集まっておられたY姉妹の御遺族の顔から溢れる涙をぬぐい去ってくださるのです。
再び、ルカ福音書に戻りますが、今朝の大宴会の譬えで重要な働きをしているのは「僕(しもべ)」です。僕と訳された原語は、δουλον(ドゥーロン)で単数。つまり僕は一人。しかも「僕」と訳された原語の本来の意味は「奴隷」なのです。
主人は、奴隷を用いて、広場や路地にいる人々を招き、さらに通りや小道にいる人々を無理にでも連れて来させたのです。こうした無茶苦茶な命令を奴隷として担うことの出来る人は、私たちの世にはおりません。つまり、真の人であり、真の神である主イエス御自身が主人の僕であり、家の主人は父なる神であることは間違いない。当然、主人の家は「神の国」となり、盛大な宴会は「神の国の祝宴」であり、「正しい者たちが復活するとき」に報われることになる「神の国の食卓」です。そうであるならば、招待されたにもかかわらず次々に断った三人は、律法の専門家やファリサイ派の人々に違いありません。つまり「自分は正しい者」と思っている人たちです。彼らは神の招きを断ったが故に、誰一人「神の国の食卓」を味わうことができない。厳しい御言葉です。
さきほどは、F長老の長老任職式が執り行われました。牧師である私の責任こそ重大であると背筋がピンと伸びました。同時に、F長老も牧師の私をこれからもずっと支えて下さると強く感じることが許されました。そしてこのあと聖餐の食卓に与る。礼拝後は教会総会、長老会も控えている。先週の大きな出来事を経て、今日があり、明日、明後日はK兄弟の葬りの業が控えている。そのような主の日に相応しい御言葉が今朝、私たちに与えられたと主に感謝しております。
新約では、主なる神がすべての人を神の国に招いていることが御子によって語られている。旧約では、シオンの山の祝宴の様子がイザヤによって語られている。「万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」。「死を永久に滅ぼす」との御言葉と共に、「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい」と、特別な人の涙はぬぐうが、罪人の涙はぬぐわないではなく、すべての顔から涙をぬぐうと宣言されたのです。
S兄弟とS姉妹は8月になりますと、淋しいですが、アメリカに旅立ちます。当然ですが、コロラドの地にもインマヌエルの主イエス、十字架と復活の主イエスがおられる。またY姉妹、御長男Hさんも先週は怒涛の一週間であったことは間違いありません。明日、明後日の葬りの業を控え、涙を封印しておられると思いますが、主なる神は語る。「死を永久に滅ぼし、すべての顔から涙をぬぐう」と。その根拠が主の食卓である聖餐の恵みです。父なる神の僕、神の奴隷として主イエスは、十字架の上で尊い血潮を流され、肉を裂かれた。そして、息を引き取られた。しかし、三日目の朝、死を永久に滅ぼすべく、復活させられたのです。その瞬間、私たちはもう涙を流す必要がなくなった。たとえ涙を流しても、復活の主がしっかりと私たちの顔から、私たちの頬から涙をぬぐってくださる。私たち信仰を告白し、洗礼を受けた者は一人の例外もなく永遠の生命を約束されたのです。もちろん、K兄弟もそうです。だからこそ、十字架と復活の主はすべての人を神の国へ熱く招いておられる。どうか、主の招きに素直に応えて頂きたい。主の招きを感じたら、ぜひ、信仰告白し、洗礼を受けて頂きたい。その結果、永遠の命が約束される聖餐の食卓、神の国の祝宴に与ることが許されるのです。
(お祈りを致します)
主よ、今、愛する者を失い、深い嘆きの中で涙を流しておられる兄弟姉妹の顔から涙をぬぐって下さい。主よ、今朝の礼拝に招かれたすべての人が、あなた様の招きを信じ、信仰告白、洗礼へと導かれ、聖餐の恵みと永遠の生命に与る者となるようお導き下さい。これらの貧しき願いと感謝を、私たちの救い主、復活の主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。先週の水曜の未明、ついこの間まで共に礼拝を守っていたK兄弟が召されました。すべてにあなた様の時があると信じておりますが、私たちもまだこの事実を受け止めるのが難しいのが正直な心です。まして、共に笑い、共に泣き、共に祈り続けたY姉妹の嘆きは、あなた様しか理解することの出来ないほど深い嘆きであると思います。主よ、Y姉妹の深い嘆きをしっかりと受け止めて下さい。また御長男Hさんは、先週の木曜、初めてこの教会にいらして下さいました。主よ、どうかHさんがお父様、S兄弟の死を通し、あなた様への信仰を育むことが出来ますように、どうかいつの日か信仰告白、洗礼へとお導き下さいますようお願い致します。また、その日の午後、S兄弟とS姉妹は明確に結婚をあなた様に誓約致しました。主よ、新しい御家庭の上に祝福を注ぎ続けて下さい。そして今日は、F長老の長老任職式を執り行うことが許され、重ねて感謝申し上げます。どうか、F長老のこれからの歩みを支え、導いて下さい。午後は、定期教会総会も控えております。2017年度の東村山教会の歩みを力強くお導き下さい。今朝も、病のため、様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。主よ、それらの方々を憐み続けて下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年4月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第57章14節~19節、新約 ルカによる福音書 第14章7節~14節
説教題:「打ち砕かれて、へりくだる者は報われる」
讃美歌:546、11、524、525、544
今週の水曜日、5月3日午後1時30分から、私たちの教会で信仰を告白し、洗礼をお受けになられたS兄弟とT姉妹の結婚式が執り行われます。170名以上の出席を予定しており、大変に嬉しく思います。当日は、結婚式の後に、2階の集会室で茶話会も予定されております。立食形式となりますが、教会員の皆さんにはぜひ茶話会にも出席して頂けたら嬉しく思います。
お二人の結婚式は手作りの茶話会ですので席次はありませんが、主イエスは今朝の婚宴の譬えで、席次について語っておられます。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる」。
当時のユダヤの食卓は、長椅子にゴロンと横になって座り、食事は上半身を起こし、手を伸ばして頂いたようです。婚宴の食卓も同じ。長椅子が並べられ、その中央か、端に主賓が座った。しかも主賓は最後に登場。つまり主イエスの譬えのように、主賓の席に間違って座ったら恥をかくのです。では主イエスは、招待客が上席を選ぶ様子が気になり、食卓マナーを指導されたのでしょうか?食卓マナーは、律法の専門家たちやファリサイ派の人々は知っていたはずです。ではなぜ主は、このような常識を話されたのでしょう?主は続けます。「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目(めんぼく)を施すことになる」。
もしも、招いた人から「さあ、もっと上席に進んでください」と言われたら、私たちは得意になります。「そうだ。私はあなたがたより上席に座るべき者だ。招いた人は私を高く評価した。だからこそ末席から上席に進むよう促したのだ」。主イエスは、この世の処世術を律法の専門家たちやファリサイ派の人々に伝えたのでしょうか?改めて、主が命じられた言葉「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい」に思いを巡らしたい。
主イエスの心はこうです。「ポーズで末席に座るのは駄目。とりあえず末席に座っても何の意味もない。そうではなく、末席に座り続けて欲しい。そして、真実に低くあって欲しい!」。真実に低くなる。簡単なようで難しいことです。どうしても私たちは、相手によって驕り高ぶることがある。だからこそ主は、命じるのです。「驕り高ぶるな。真実に低くあって欲しい。そのとき、高い場所からは見えなかったものが見えるようになる。真実に低くなったとき、この私を強く感じるはずだ。最も低い末席にこそ、私がいるのだ」。これは、主イエスの命令ではなく、主イエスの招きの言葉です。
実際、10節後半で婚宴に招いた人は「さあ、もっと上席に進んでください」と招いている。ここで、「さあ」と訳された原語φιλε(フィレ)の意味は「友よ」です。婚宴に招いた人は招待客に近づき、「私の友よ、さあ、もっと上席に進んでください」と手を引いています。先週の御言葉に登場した水腫の男を深く憐れみ、ギュッと抱き締めて下さる主イエスのようです。
主は続けます。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。主の熱い心が伝わります。主は「友よ」と末席に座る招待客を上席に進むよう招いておられる。つまり主が水腫の男を抱き締めたよう、あなたも驕り高ぶることなく、私と共に真の低みに立ち続けて欲しい!と望んでおられるのです。具体的に言うなら、「あの人よりも上席」と喜び、「あの人よりも末席」と怒る人生ではなく、低みの中でうずくまっている人に寄り添い、驕り高ぶっている人に真に謙遜になるよう導きつつ、私たちこそ、主イエスの低み、主イエスの慈しみ、主イエスの憐れみに立ち続けたいと思うのです。
譬えを語り終えた主イエスは、食事に招待してくれたファリサイ派の議員に言われました。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」。心に響きます。主はすべての人を宴会、神の祝宴に招いておられる。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人こそ祝宴に招きなさいと命じておられる。そのとき、祝宴に招かれた人だけでなく、祝宴に招いたあなたも幸せになると主は語られるのです。しっかりと心に刻みたい主イエスの御言葉です。
今朝は、旧約聖書イザヤ書の御言葉も朗読して頂きました。第57章14節以下に、神から主の民への恵みに満ちた配慮が丁寧に述べられています。特に15節は、心に深く響く。「わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる」。前半「わたしは、高く、聖なる所に住み」は、神の偉大さと超越が述べられ、後半「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる」は、神の真の低さと、私たちと共におられるインマヌエルの主が述べられています。
前半「わたしは、高く、聖なる所に住み」と後半「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる」は矛盾しません。なぜなら、私たちの神は偉大で、絶対に触れることの出来ない領域におられる御方である。同時に、虫けらに等しい私たちを選び、選ぶだけでなく、命を得させ、「弱り果てることがないように(16節)」導き、「いやし、休ませ/慰めをもって回復させ(18節)」、「平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす(19節)」と言われるのです。「平和、平和」は、岩波訳では「平安、平安」と訳されています。神が私たち、また私たちの世に「平安あれ!平安あれ!」と祈っておられる。神の憐れみの深さがダイレクトに伝わります。
15節の「打ち砕かれて」は、何らかの重荷や逆境によって「砕かれた」という意味。同じく15節の「へりくだる霊の人」は、人生において低くされてしまうことを意味します。人生において低くされてしまうとは、自分の評価、また他者の評価において、低くされることです。そのような「へりくだる霊の人」を神は見捨てることなく「命を得させ」、嘆く人々のために「いやし、休ませ/慰めをもって彼を回復させよう」とするのです。これこそ、神の真実の愛であり、神の深い憐れみです。
主イエスも神と等しい身分でありながら、打ち砕かれて、へりくだる霊の人になられました。新約聖書フィリピの信徒への手紙第2章に有名な初代教会の信仰告白が記されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(2:6~8)」。
私たちキリスト者が信じるのは、このような主イエスです。主は最も高い所、つまり天におられる神であるのに、低い所である地に降りて下さった。さらに、地の中で最も低い所である十字架の上で処刑された。そして、隠府(よみ)にまでくだられた。真の人であると同時に、真の神である主イエスは、全ての人を神の国に招くため「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」だったのです。
主イエスは、この世の末席で一所懸命に生きている人々に寄り添い、「私の友よ、さあ、上席である神の国で喜びの食卓を囲もう!」と招き続けて下さる御方です。また先週の御言葉のように、安息日だからこそ、水腫の男を喜んで癒して下さる御方です。「触れると汚れる」と人々から避けられた男を優しく抱き締めて下さった。この姿こそ、真実にへりくだる姿です。そのような主の愛の業が、結果、主を十字架の死に追いやってしまった。主イエスが神の御心に従い、憐れみに生きれば生きるほど低くされ、十字架で殺されてしまった。その瞬間、百人隊長は「本当に、この人は正しい人だった(ルカ23:47)」と打ち砕かれて、へりくだる者となり、神を高らかに賛美したのです。
神は、従順な主イエスを高く引き上げ、三日目の朝、復活させられました。主は、今朝も全ての人を招いておられます。他者の評価が気になる人。あの人より上と満足し、あの人より下と落ち込む人を。今、主の御声が聴こえます。「あなたを救いたい。あなたをあらゆる束縛から解放し、父なる神に心を向けさせたい。神の前では皆が罪人だ。だからこそ真実に悔い改め、十字架と復活、そして再臨の主イエスへの信仰を告白すれば、皆、罪を赦され、あらゆる束縛から解放されるのだ。だから、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、子育てに疲れている母親、同じく子育てに疲れている父親、仕事に忙殺され自分を見失っている人、子どもたち、赤ちゃんも招いて欲しい。そして、いつの日か全ての人が信仰告白し、洗礼を受け、聖餐の祝宴に与る日を信じ、伝道に邁進して欲しい」。
私たちも、お返しを期待して伝道してはなりません。たとえ、様々な伝道の労苦が無駄になったとしても、主が全ての人を招いておられると信じ、救いを求めておられるあの人この人、また「私には福音は無関係」と考えている人にこそ、福音の喜びを伝えたい。そして信仰を告白し、洗礼を受けた私たちも、主の十字架の赦しと復活さらに再臨の約束を信じ、打ち砕かれて、へりくだる者は報われると信じ、主の道を歩み続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。私たちは、どうしても他者の評価が気になります。高く評価されると喜び、低く評価されると落ち込む。けれども、あなた様はこの世の評価に一喜一憂することなく、御子のように真実に低くなりなさい!と私たちを招いておられると信じます。どうか私たちも高ぶる者ではなく、御子のように打ち砕かれて、へりくだる者として主の道を歩ませて下さい。お願い致します。これらの貧しき願いと感謝、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。私たちの教会で信仰を育まれ、信仰告白、洗礼へ導かれたS兄弟とT姉妹が今週の水曜日にあなた様の御前に結婚の誓約をなさいます。主よ、お二人の新しい御家庭の上に溢れるほどの祝福を注いで下さい。そして、たくさんの証人の前であなた様に明確に結婚の誓約をすることが出来ますようお導き下さい。昨日は、昨年12月5日に御国へと凱旋されたI兄弟の納骨式が執り行われました。悲しみの中にある御遺族の上に、特に最愛の夫をあなた様にお返し申し上げたM姉妹の上に溢れるほどの慰めを注いで下さい。お願い致します。来週の主日は新しく長老に選ばれたF長老の長老任職式、また礼拝後には定期総会が行われます。どうか、全てが備えられ、たくさんの兄弟姉妹と共に主日礼拝、また定期総会を行うことが出来ますようお導き下さい。主よ、各国の為政者を導いて下さい。驕ることなく、打ち砕かれて、へりくだる者として下さい。主よ、深い嘆きの中にある方々を憐れんで下さい。今朝も病のため、様々な理由のため、教会に集えない兄弟姉妹が大勢おられます。主よ、お一人お一人をその場で深く憐れんで下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年4月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第21章9節~21節、新約 ルカによる福音書 第14章1節~6節
説教題:「抱き締めてくださる主イエス」
讃美歌:546、54、238、269、543
金曜の日没から土曜の日没までの安息日、ユダヤの人々は仕事を休み、会堂に集まり、礼拝をささげます。しかし、安息日の掟が一人歩きすると、人々を束縛することになる。「安息日には仕事をしてはならない、休みなさい」は、私たちを束縛する掟ではなく、解放するために神から与えられた掟なのです。
その安息日に、主イエスは食事のためにファリサイ派の議員の家にお入りになられました。皆、主イエスに注目している。状況次第では、「律法違反者」として訴えようとしている。和やかな食卓とはほど遠い雰囲気。御言葉の通り「人々はイエスの様子をうかがっていた」のです。
そのとき、主の前に水腫を患っている人がいました。なぜ、ファリサイ派の議員の家に水腫を患っている人がいるのか?聖書には何も書かれていません。もしかすると、ファリサイ派の人々が罠として水腫の男を招待したのかもしれません。彼らの心は、「イエスは、水腫の男を放っておくことはしない。彼なら必ず癒す。つまり、安息日の掟を破るだろう」。
水腫とは、むくみが出る病です。顔が青白くなる。両手、両足がグローブのようにパンパンに膨らむ。呼吸はゼーゼーする。少し運動しただけで呼吸困難に陥る。さらに水腫は、律法の専門家たちは、「不倫の報い」と考えたのです。旧約聖書民数記第5章に、不倫の罪を犯した女性に対し、報いとしての呪いの言葉が書かれています。「もしお前が夫ある身でありながら、心迷い/身を汚し、夫以外の男に体を許したならば、(祭司は女に呪いの誓いをさせてこう言う)主がお前の腰を衰えさせ、お前の腹を膨れさせ、民の中で主がお前を呪いの誓いどおりになさるように。この呪いをくだす水がお前の体内に入るや、お前の腹は膨れ、お前の腰はやせ衰えるであろう(5:20〜22)」。この御言葉から、律法の専門家たちは、水腫を不倫の呪いである性病の一種と信じていたのです。つまり、潔癖を求めるファリサイ派の議員の家に、水腫の男がいることは理解できません。ですから、主イエスへの罠として水腫の男を招いたと考えるのは理解できます。
なぜ、議員の家に水腫を患っている人がいるのか?別な考えは、主イエスが水腫を患っている男を深く憐れみ、「共に食事をしよう!」と招いて下さったというものです。先週は、イースターでしたので愛餐会が行われました。洗礼をお受けになられたF兄弟を囲み、和やかな食事を楽しみました。加藤常昭先生によるイースターの思い出も心に響きました。神の家族と共に、礼拝後に食事を楽しむことは大きな喜びです。主イエスの時代も同じ。礼拝後、礼拝の責任者であるファリサイ派の議員が、「イエス様、今日も説教を有難うございました。我が家にいらして下さい。共に食事を召し上がって下さい」と招待した。そのとき主は、会堂にいた水腫の男に心が動き、「あなたもいらっしゃい、共に食事をしよう」と招かれたかもしれません。
水腫の男。不倫の代償とはいえ、誰からも同情されず、誰からも声をかけられず、孤独にうずくまっていた。男にとって、主から「共に食事をしよう」と招かれたことは、本当に大きな驚きでした。男は考えた。「この人はなぜ、俺に声をかけて下さるのか、罠ではないか?」と議員の家に入るのを躊躇したはずです。しかし、主はファリサイ派の議員と違う。真の人であり、真の神である。水腫の男の嘆きを全てご存知である。だからこそ主は「私について来なさい」と男に声をかけ、彼の手をグイと引っ張って下さるのです。
主イエスは、水腫の男を100%受け入れておられる。主は、水腫を患っている男をじっと見つめ、「あなたこそ、私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いておられるようです。だからこそ、律法の専門家たちやファリサイ派の人々に問うのです。3節「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」。口語訳は、「安息日に人をいやすのは、正しいことか。正しくないことか」と訳されています。新共同訳で「許されている」、口語訳では「正しいこと」と訳されたのは、εξεστιν(エクセスティン)で、「自由にできること」という意味の言葉です。つまり主は、「安息日に、病を癒すことは、自由ではないか」と問うているのです。ファリサイ派の人々は黙っている。すると主は、病人の手を取り、病気を癒してお帰しになったのです。
4節で、「イエスは病人の手を取り」の「取り」と訳された原語は、επιλαβομενος(エピラボメノス)。意味は、「つかまえる」、「握る」ですが、「(しっかりつかまえて)助けてやる」という意味も辞典にありました。 また英訳the
New Revised Standard Version(新改訂標準訳)聖書には、HAVING TAKEN HOLD[OF HIM] ([彼を]抱き締める)と訳されていました。
主は、水腫の男をギュッと抱き締めて下さった。まるで、小さな子どもが母の腕でギュッと抱き締められているようです。今朝はルカ福音書と共に、旧約聖書創世記第21章の「ハガルとイシュマエルの物語」を朗読して頂きました。アブラハムの妻サライに、なかなか子どもが生まれなかった。そこで、サライの女奴隷ハガルに子を産ませることになったのです。その10年後、ハガルは身ごもり、男の子イシュマエルを産みました。アブラハム86歳のときでした。そして、アブラハムが100歳のとき、妻サラが男の子イサクを産んだのです。つまり、サラは女奴隷ハガルと息子イシュマエルが邪魔になる。そんなある日、イシュマエルがイサクをからかっているのを見たのです。サラはアブラハムに訴えます。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」。イシュマエルも、イサクも父アブラハムにとって大切な息子。しかし、サラは怒っている。アブラハムは非常に苦しみました。神は、アブラハムに告げる。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい」。聞き従うとは、ハガルとイシュマエルを荒れ野に追放することです。小さな息子イシュマエルと母ハガルが荒れ野をさまよう。そのような厳しい行為を、神はアブラハムに命じられた。アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋をハガルに与え、背中に息子イシュマエルを負わせて荒れ野へと追放したのです。
想像して頂きたい。男の子を背負い、僅かなパンと革袋の水だけで荒れ野をさまよっているハガルの姿を。あっと言う間に、パンと革袋の水が無くなる。喉はカラカラ。息子イシュマエルもグッタリ。母と子は荒れ野で死を待つのみ。ハガルは瀕死の息子を藪の下に投げ込み、自分はそこから矢の届くほど距離を置き、子どもの死を待つことにしたのです。息子イシュマエルは、お腹はペコペコ。喉はカラカラ、さらに母親からも引き離される。息子は最後の力を振り絞り、ワンワンと声をあげて泣いたのです。すると、息子イシュマエルの泣き声が神に届いた。その結果、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言われたのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」。
神は、ハガルに命じた。「藪の下に投げ込んだ息子イシュマエルを抱き上げなさい。そして、あなたの腕でギュッと抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」。
すると、ハガルの目が開き、今まで見えなかった水のある井戸が彼女の目に飛び込んできた。彼女は井戸に向かって走り、こんこんと湧く冷たい水を革袋に満たし、息子イシュマエルに飲ませたのです。イシュマエルは死から救われました。イシュマエルはグングン成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。イシュマエルは、死の直前で母ハガルに抱き締められ息を吹き返した。ハガルも息子イシュマエルを抱き締めたことで目が開かれ、命の泉を発見したのです
水腫の男も小さい頃、母の腕でギュッと抱き締められたはずです。しかし、罪を犯し、水腫を患ってしまった。その結果、水腫を患ったことで汚らわしい男として忌み嫌われ、誰も声をかけなくなった。当然、握手する人、ギュッと抱き締めてくれる人もいない。男は、「一生、誰からも抱き締められることなく死を待つだけ」と本気で思った。そうした水腫の男に、主は「食事をしよう」と声をかけて下さった。そして、手をグイと引っ張って家に招いて下さった。さらに主は、憐れみの眼差しで男を見つめ、ギュッと抱き締めてくれた。その瞬間、水腫は癒されたのです。男は泣き崩れました。小さな子どものように。男は喜びの涙を流しつつ、我が家へと帰ったのです。
水腫の男は主イエスに抱き締められた瞬間、むくみをもたらす水ではなく、永遠の生命をもたらす泉が身体全体に溢れた。その結果、男の罪、汚れは清められ、病は完全に癒されたのです。そのとき男は、ただ「ラッキー」と喜ぶのではなく、心から悔い改めたはずです。男は誓った。「罪の私にもかかわらず、いや、罪の私だからこそ、主は憐れんで下さった。何も言わず、何も聞かず、ただギュッと抱き締めて下さった。こんなに嬉しいことはない。涙がドンドン溢れる。私は癒された。私は清められたのだ。この救われた喜び、この赦しの喜びを、安息日ごとに会堂で語り続けたい。罪の赦しと、この世に誰一人、主イエスの愛から漏れる人はいないという喜びを語り続けたい」。
私たちも水腫の男と同じです。たった一度の過ちで深い傷を負い、他者から責められ、自分で自分を責め続ける。しかし主は、そのような私たちを黙ってギュッと抱き締めて下さるのです。こんなに嬉しいことはありません。主から溢れるほどの愛を頂き、ギュッと抱き締められた私たちは、黙っていることが出来ない。語りたくなる。伝えたくなる。主イエスの愛、赦し、癒し、招きを。
私たちも主イエスのようになりたい。今、目の前に打ちひしがれている方がいれば、その人に寄り添う。今、目の前に渇いている方がいれば、「私にとってあなたは大事な存在」と思いながら、ギュッと抱き締める。主イエスのように。そのとき、皆が主の平和に包まれる。その結果、いつの日か必ず全世界に主の平和が実現すると思うのです。私たちも、主イエス・キリストのように水腫の男を、母ハガルのように泣き叫ぶ子どもイシュマエルをギュッと抱き締めたい。また私たちも、辛いとき、死にそうなときは、イシュマエルのように大声で泣き叫びたい。神は私たちの泣き声を確実に聞いておられる。神はどんなときも、私たちと共におられるから。この喜びの福音を信じ、全世界に主の平和が実現するよう祈り続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝致します。今朝は、御子が私たちの罪をご存知であるが故に、抱き締めて下さることを知りました。主よ、私たちも他者の罪を攻撃する者でなく、他者の罪を憐れみ、他者に寄り添い、他者を抱き締める者として下さい。また私たちも嘆きのときがありますから、ギュッと抱き締めて下さい。お願い致します。これらの貧しき願いと感謝とを、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。主よ、テロがあります。悲しみがあります。憎しみがあります。嘆きがあります。痛みがあります。主よ、私たちの世を深く憐れんで下さい。私たち、復活の主の喜びに包まれていると信じておりますが、それでも、この世の偽り、争い、災害に心が折れてしまうことがあります。主よ、私たちをギュッと抱き締めて下さい。特に今、衰えを感じつつ、あなた様から与えられた生命を懸命に生きておられる方々、与えられた時間を全部献げて、愛する家族に寄り添い、懸命に介護をしておられる方々、礼拝を慕いつつ様々な理由で礼拝への出席が叶わない方々を深く憐れんで下さい。5月7日に定期教会総会が行われます。昨年度の恵みを共有し、今年度の計画、予算等を協議致します。主よ、多くの教会員が総会に出席することが出来ますようお導き下さい。主よ、東村山教会の歩みを力強くお導き下さい。お願い致します。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。
天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年4月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第43章1節~7節、新約 マタイによる福音書 第28章1節~10節
説教題:「恐れることはない」
讃美歌:546、153、156A、Ⅱ-93、5
受難週の金曜、午後3時頃、主イエスは大声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。その後、主イエスは再び大声で叫び、息を引き取られました。
主が息を引き取られたとき、大勢の婦人たちが遠くから見守っておりました。この婦人たちは、ガリラヤから主に従い、自分の持ち物を出し合って、一行の世話をしていた人々です。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいました。
夕方になり、アリマタヤ出身のヨセフという金持ちがピラトに「主イエスの遺体を渡して欲しい」と願い出ました。そこでピラトは、ヨセフに遺体を渡すよう命じ、ヨセフは遺体を受け取ることが出来たのです。ヨセフは主の遺体をきれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去りました。しかし、遺体を墓の中に納める間、じっと見守っていたマグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていたのです。
マグダラのマリアは、ルカ福音書に登場する「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア(8:2)」と思われます。七つの悪霊ですから、自分で自分をコントロールすることが困難な婦人。そのような婦人に主が触れ、七つの悪霊を追い出してくださった。だからこそ、彼女は誓ったのです。「私は生涯、主イエスに仕える」。けれども、仕えるべき主が、先に息を引き取られた。頭では「主は死なれた」と理解しても、心と身体がついていかない。まさに、放心状態で主の遺体が納められた墓に行き、主の死を受け入れようと努力した。けれども、どうしても主の死を受け入れることが出来ず、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、もう一人のマリアと共に、主の遺体が納められた墓を見に行ったのです。
すると、グラグラと大きな地震が起こった。次に、主の天使がヒラヒラと天から降って石に近寄り、大きな石をヒョイとわきへ転がし、その上に座った。その姿は稲妻のようにピカピカ輝き、衣は雪のように白かった。
番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。マグダラのマリアともう一人のマリアも震えている。そこで天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。
「かねて言われていたとおり」は、「主御自身が言われていたとおり、復活なさった」という意味です。実際、マタイ福音書第16章に「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた(16:21)」と書かれています。つまり、婦人たちは主と弟子たちと行動を共にしていたのですから、主の復活予告を伺っていたはず。しかし、婦人たちは復活まで心がいかなかった。それほど主の叫び「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と十字架の死が重かった。
私たちも婦人たちと同じ。死の闇に襲われ、主の復活まで心がいかないときがある。さっきまで手を握れば、あたたかいぬくもりがあった。それが、死によって冷たくなり、弾力のある身体が硬直してしまう。さらに、火葬により骨になり、小さな骨壺に納められてしまう。共に食べ、共に笑い、共に祈った者の死は、血管の中に鋭いトゲが入り、身体中を走り回るような激痛です。激痛に襲われると、主イエスの復活まで心がいかない。いくら、「主は復活された」と語られても、心の奥まで復活の喜びが届かないときもある。これが現実です。
主の天使は、婦人たちの心の奥を知っている。だからこそ婦人たちに告げた。「恐れることはない」。天使の「恐れることはない」には根拠がある。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」。
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走ってガリラヤに行ったのです。すると、主イエスが婦人たちの行(ゆ)く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、主の足を抱き、その前にひれ伏したのです。
主は言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。主イエスも婦人たちに天使と同じ言葉をかけて下さった。「恐れることはない」と。婦人たちは、天使の「恐れることはない」に勝る、深い安心に満たされたのです。
復活なさった主イエスは「おはよう」と婦人たちに言われました。新共同訳は「おはよう」となっていますが、口語訳では「平安あれ」と訳されています。どちらの訳も間違いではないのですが、ギリシア語を確認すると、χαιρετε(カイレテ)であり、意味は「喜びなさい」です。「おはよう」、「平安あれ」、そして「喜びなさい」。それぞれ意味が違う。私は、「喜びなさい」がぴったりだと思います。つまり「おはよう」と訳されていますが、「おはよう」とか「こんにちは」ではなく、復活の主イエスは婦人たち、また全キリスト者に「喜びなさい。もう死を恐れる必要はない」と言われたのです。ある翻訳は、「やあ、お前たち、喜べ、喜べ、喜べ!(山浦玄嗣訳)」と「喜べ」の3連発でした。婦人たちのみならず、私たちも喜べる。そして、主の足をギュッと抱き締めて良いのです。
福音書記者マタイが重視しているのは、「主イエスにおいて旧約聖書の預言が実現した」ということです。今朝は旧約聖書イザヤ書第43章を朗読して頂きました。1節「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。5節「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」。これほど励ましと慰めに満ちた呼びかけはありません。
イスラエルの民と同じように、現代を生かされている私たちキリスト者も、死に勝利された主イエスから、真の励ましと慰めを頂いた。たとえ地上の命が終わっても、洗礼によりキリストと結ばれた私たちは、永遠の命を約束された。信仰を告白し、洗礼を受けた私たちキリスト者は死を恐れる者から、永遠の命を喜ぶ者へと変えられたのです。
ここで、信仰問答を御一緒に味わいたい。加藤常昭先生がお書きになられた鎌倉雪ノ下教会教理・信仰問答『雪ノ下カテキズム』です。問134「あなたも復活するのですか」。答「そうです。主イエスの復活が、肉体は滅びても霊は不滅の姿を現したというのではなくて、からだを持つ甦りであったように、私も復活するのです。ただ単に私の霊が不滅であるというのではないのです。私の全存在が有限のものであったのに、主イエスの復活のいのちに捕らえられて、その主に似て永遠の神との交わりに生きることができるようになったのです。私どもの復活の先駆者、初穂として主が既に甦られたように、私どももいつの日か甦る時がくるのです。死の力に捕らえられてはいないのです。それ故に、死もまた眠りであること、しかも決して永遠の眠りではないということを、私は知っているのです。このいのちの信仰に生かされて、私は、地上のいのちの歩みを全存在をもって大切に生きることができるようになったのです」。非常に深い慰めと励ましに満ちた問答です。
昨日の午後、故 S姉妹の納骨式を執り行うことが許されました。教会員の皆さんもたくさんいらして下さり、大いに励ましを頂きました。納骨式で私は、ローマの信徒への手紙第14章7節から9節の御言葉を朗読致しました。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。私は、こう語りました。「十字架と復活、そして再臨の主イエスへの信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者は、主イエスのものとされます。S姉妹も、主イエスのものとされたのです。確かに主は、受難週の金曜、十字架で息を引き取られました。しかし、三日目の朝、復活なさられた。だからこそ、私たちは死を恐れる必要がなくなった。パウロは語る。『生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです』。いつの日か、私たちも主イエスの栄光のために死にます。けれども、死が終りではない。死からこそ、復活の主イエスのように、永遠の命が始まるのです」。
そして今朝、熱心に求道生活を続けてこられたF兄弟が信仰を告白され、洗礼をお受けになった。受洗されたF兄弟も、S姉妹と同じように永遠の命が約束されたのです。パウロは語ります。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです(ローマ6:23)」。そうです。「主イエスこそ、私の救い主」と信仰告白し、洗礼を受けた者は、罪赦され、永遠の命が約束されるのです。只今から聖餐の恵みに与ります。主の復活の喜びに満たされたときだからこそ、深く悔い改め、主の裂かれた肉と流された血潮に与りたい。そして今朝、初めて聖餐の恵みに与るF兄弟に続き、熱心に求道生活を続けておられる方々が一日も早く、聖餐の恵みに与ることができるよう祈り続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、イースター礼拝にお招き下さり、心より感謝致します。死を恐れる者ではなく、永遠の命を信じ、永遠の命を喜ぶ者へ力強くお導き下さい。お願い致します。これらの貧しき願いと感謝を、私たちの救い主、復活の主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注いで下さい。今朝、東村山教会に連なる神の家族となられたF兄弟の上に祝福を豊かに注いで下さい。F兄弟が心で信じ、口で言い表した信仰を、その言葉を、聖霊をもって強め、御言葉をもって導き、終生変わらざるものとして下さい。主よ、あなた様の御言葉を聞かせてください。あなた様の御言葉を聞きたいと願っている者がたくさんおります。厳しい病床の中にある者、肉体は健康でも人生の闘いに疲れている者に、「恐れることはない。復活の主が共にいて下さる」との信仰を与え続けて下さい。主よ、地上での歩みが全うされるまで、希望を抱いて歩むことを得させて下さい。日々の報道を通し、恐れを抱く私たちです。主の平和がなりますように!と祈っているところに、なお一層の憎しみの炎が燃えるような報道が届きますと、激しく心が痛みます。そのために何もなし得ない無力を覚える私たちです。しかし、復活された主への希望を捨てることがないようにお導き下さい。イースターの朝だけでなく、主は復活なさったとの喜びを生涯、与え続けて下さい。愛する者の死に直面しても、恐れることなく、復活の主と共に立ち続ける信仰をお与え下さい。悩みと嘆きの中にある方々のために祈ります。主の復活の喜びが全世界に届きますよう祈ります。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年4月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第62章1節~12節、新約 マタイによる福音書 第21章1節~11節
説教題:「見よ、あなたの救いが進んで来る」
讃美歌:546、86、140、Ⅱ-99、541、Ⅱ-167
受難週を迎えました。中世から、受難週には四つの福音書における主イエスの受難の記事が読まれる習慣がありました。棕梠の主日である今日はマタイ、火曜はマルコ、水曜はルカ、受難日の金曜はヨハネ福音書が読まれたようです。そこで今朝は、マタイ福音書第21章の御言葉を通して主イエスのエルサレム入城の記事を心に刻みたいと思います。
1節以下、「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、「主がお入り用なのです」と言いなさい。すぐ渡してくれる。』それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった」。
主イエスは、真の人であり、真の神であります。つまり主は、一人で何でもお出来になられる。けれども主は、弟子たちを用いて下さる。この場面でも、二人の弟子を使いに出して下さった。しかも、主イエスの素晴らしいところは、弟子たちに命じただけでなく、どこに行き、何をして、万が一の場合は何を言えばよいのか、適格に指示を出しておられる。本当に頭が下がります。つまり、弟子たちは主が命じられた通り行動すればよいのです。だからこそ私たちも日々、主に従い続けることが大切なのだと思います。
ところで4節に、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とあります。預言者とは、将来を予言する者ではなく、神様から言葉を預かり、人々に語り続ける者です。5節には、旧約聖書の預言書が引用されております。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」。
この預言は、イザヤ書第62章「見よ、あなたの救いが進んで来る(62:11)」と、ゼカリヤ書第9章「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌(め)ろばの子である
ろばに乗って(9:9)」が結び合わされたものです。
特にマタイは、「イザヤとゼカリヤの預言がその通り実現した」ことを丁寧に考え、「ろばに乗り」と「子ろばに乗って」を、並べて書いたのです。6節以下に書いてある。「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった」。
念の為、三つの福音書を確認しました。まずマルコ。「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て(11:7)」。次にルカ。「子ろばをイエスのところに引いて来て(19:35)」。最後にヨハネ。「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった(12:14)」。マタイ以外は子ろばです。マタイだけ「ろばと子ろばを引いて来て」となっている。実際、主が母ろばと子ろばのどちらに乗られたのか分かりません。けれども、マタイは「ろばと子ろば」にこだわる。理由は明確。主が父なる神の御心に従い続けたことを示したかったからです。では、御心とは父なる神から子なるキリストへのどのような心でしょうか?
今朝、マタイ福音書と共に朗読して頂いたのは、イザヤ書第62章の御言葉です。1節に、こう書かれていました。「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず/エルサレムのために、わたしは決して黙さない」。まさに、御心です。「私は、エルサレムを救うため、沈黙することなく、一所懸命に働き続ける」。こうした父なる神の御心に従うべく、子なるキリストも、立ち止まることなく、エルサレムへ進み続ける。では、主イエスの表情はどうでしょう?神の御心に従うなら、柔和だったはずです。ゼカリヤ書に「彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る(9:9)」とありますが、口語訳は「彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る(9:9)」と訳しています。つまり主イエスは、柔和な表情でろばに乗っておられるのです。
マタイ福音書に戻りますが、5節で「柔和な」と訳された原語は「πραυς(プラウス)」です。意味は「柔和な」に加え、「やさしい」、「素直な」ですが、ギリシア語辞典に興味深い記述がありました。「ここに(マタイ21:5)に引用されていると見られるゼカリヤ書9:9ではプラウスは『貧しい、哀れな』を表わす形容詞の訳語として使われ、ろばの子に乗った王の「みすぼらしさ」が間接的に表現されている。訳者は『柔和な』、『へりくだった』という訳語を使いながら、ヘブライ語本文にある『貧しい』王を解釈しなければならない。ゼカリヤ書9:9「たかぶることなく(新共同訳)」をマタイにも適用するか、「みすぼらしさを柔和の中に包み」と理解するのがよい(新約聖書ギリシア語小辞典、織田昭編、教文館、2002)」。
なるほどと思いました。御子の表情は、穏やかな柔和とも違う、高ぶることなく、貧しく哀れな表情でろばに乗り、脚も地面にこすれていたはず。つまり、白馬にまたがったナポレオンの有名な肖像画と対極にあるのが、ろばにまたがった御子のみずぼらしい姿なのです。
ところで、この頃からろばは、「愚か者」という意味を持つ、人々に卑しめられる存在の代名詞だったようです。英語でろばをdonkey(ドンキー)と言いますが、ドンキーには
ろばに加え、ばか者、まぬけという意味もあります。「彼は、ろばのような男」というと、「ばかで、まぬけな男」になる。つまり、真の王が乗るには ろばは相応しくない。しかし、そうしたろばにも評価すべき特徴がある。それは、「人を裏切らない」ということです。どんなに重い荷物を背負わせても、じっと忍耐し、重荷を背負い続ける。愚鈍のようでありながら、実は、多くの人々に頼りにされるのがろば。さきほど、ナポレオンの肖像画に触れましたが、現実には白い軍馬でのアルプス越えは不可能で、実際は重荷を忍耐して背負い続けるろばにナポレオンは乗っていたのです。
全人類の罪という想像を絶する重荷を黙々と背負い続けて下さる主が、忍耐強いろばに乗られた事実は重く、真の救いだと思います。主のエルサレム入城を待っていた大勢の群衆は、「自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた」のです。そして群衆は、主の前を行く者も後(あと)に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。
「ホサナ」には、「救って下さい」、「助けて下さい」という意味があります。「主よ、救って下さい」、「主よ、助けて下さい」と叫んだ大勢の群衆に対し、主はどのような態度をとられたか?聖書には何も書かれていません。しかし、これが大切。主は、「ホサナ」と叫んでいる群衆に叫ばしている。間違っても、「今は『ホサナ、主よ、救って下さい』と叫ぶが、いずれ『十字架につけろ』と叫ぶ。だから、あなたの叫びを許さん」と群衆の叫びを制止しておられない。主は、その場その場でコロッと態度を変える私たちを憐れみつつ、全人類の罪、全人類の重荷を背負い、刑場エルサレムへ進み続けるのです。
私たちも、自分の十字架を背負って主に従い続けたい。どんなに「愚か者」と人から馬鹿にされても、主イエスは子ろばである私に乗って下さる。しかも、「あなたが必要」とまで言って下さる。主は言われる。「確かに、あなたは罪である。しかし、あなたも私の愛する子ろば。だから、私はあなたにまたがる。でも、大丈夫。私の重さでつぶれることはない。あなたにまたがりつつ、私が歩く。あなたは私と共に歩けばよい。ヨタヨタで大丈夫。立ち止まらず、歩くのだ。私は、まもなく子ろばのあなたから下りる。そして、あなたのために、激しく群衆から『十字架につけろ』と叫ばれ、総督ピラトの兵士から『ユダヤ人の王、万歳』と侮辱され、十字架につけられる。そして、あなたの罪を赦したいから、私は十字架で死ぬ。あなたに永遠の命を授けたいから、三日目に復活するのだ。だから、人から馬鹿にされても、死にたい!と思っても、生き続けて欲しい。あなたも私の愛する子ろば。私には、子ろばが必要なのだ」。
再びマタイ福音書に戻りますが、10節以下に「イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ。そこで群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ』と言った」とある。私たちキリスト者は、預言者イエスを次のように告白したい。
この方は、子ろばの私に乗って下さる真の王である。罪の私でも、この方は、「あなたが必要」とおっしゃって下さる。しかも、洗足の木曜は私たちの罪の足を跪(ひざまず)いて洗って下さる。受難日の金曜は、私たちの罪を完全に赦すために十字架で死んで下さる。そして来週の主日は、復活により死に完全に勝利し、死を恐れる私たちに「恐れることはない、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言して下さる。つまり、主の天使がマリアに約束した「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」を成し遂げた。
この後、讃美歌第2編99番「ひとよ、汝(な)がつみの」を賛美します。今回、この讃美歌を通して様々な発見が与えられました。まず、この讃美歌はヨハン・セバスティアン・バッハの『マタイ受難曲』で賛美されていることを知りました。『マタイ受難曲』の詳しい解説は避けますが、短く説明しますと、マタイ福音書第26章1節から、第27章66節に記されている主の御受難を題材にした受難曲で、全体の演奏時間は約3時間。受難曲は二部に分けられ、第一部と第二部の間で説教が行われました。第一部の最後のコラール(ルター派の礼拝での会衆賛美)、つまり説教へと導く重要なコラールが、讃美歌第2編99番「ひとよ、汝(な)がつみの」なのです。讃美歌第2編99番の左上に小さく書かれておりますが、S.ハイデンによって詞が書かれています。第2編では、深津文雄先生が訳しておりますが、悔い改めへと導く心震える歌詞であることは間違いありません。今回、もう少し粘って調べると、大きな発見がありました。ご存知の方もおられるかもしれませんが、『マタイ受難曲』は初期版(1729年、最近は1727年の説もある)
と改訂版(1736年ごろの後代の版。これが今日一般的に用いられている)が存在しているのです。知りませんでした。しかも、興味深いのは『説教者としてのJ.S.バッハ(ロビン・A.リーヴァ―著、荒井章三訳、教文館、2012)』で論じられていますが、初期版
第一部最後のコラールは別なコラールだったのです。どういうことか?第一部最後のコラール直前のレチタティーヴォ(叙唱)で、エヴァンゲリスト(福音史家)が甲高い声で「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった(マタイ26:56)」と弟子の裏切りを告げる。その弟子の裏切りを受け、初期版では、コラール「イエス
共にあらん(カンタータ第124番)」が賛美されたのです。歌詞は「イエス 共にあらん わがため その身を 与えたまいぬ 主に 従いゆかん いのちの
光(第1節)対訳 大村恵美子」。歌詞を通して会衆に求められることは、「弟子たちは主を裏切った。しかし、私たちは主の忠実な僕だ。主は、常に私たちと共におられる。そのことを信じ、主から逃げることなく、いのちの光なる主に従い続ける」。確かに、主の裏切りを受けるコラールとして間違いないと思います。しかし、『説教者としてのJ.S.バッハ』では、こう論じられているのです。「しかしながら、バッハは、『マタイ受難曲』の第一部をこのような仕方で終えることに落ち着きを見出すことができなかった。おそらく、彼は、これではむしろ表面的で、陳腐だと感じたのかもしれない。弟子たちが逃げ去る。そこに『わたしたちはそうはしない』というコラールが続くほうが効果的ではないか。しかし、バッハは熟慮の末、彼の世代の人々も、最初の弟子たちと異なってはいないことを認識した。したがって、1736年ごろの後代の版では、壮大なコラール・ファンタジア(人と、お前の罪の大きさを嘆け)を挿入したのである。(中略)ここでバッハは、第一部の終わりに変化を与え、修辞的により強力なものとし、この後に続く言葉による説教への道を準備する説教者のような働きをしている。『マタイ受難曲』の第一部の終わりは、聖金曜日(受苦日)の晩課において説教者が話を進めるであろう悔い改めについての適切なキーを叩いているのである。十字架を畏れることのなかに、新しい始まり、赦しの喜ばしい確信、そして復活の希望に対する可能性があるのである(50頁)」。
驚きました。バッハのような天才も、神の栄光を現すために、改訂を行う。そして、御言葉の説教へどう導くかを祈りつつ考える。主に仕える者の姿勢を示されました。最後に、改訂した第一部最後のコラールをバッハ・コレギウム・ジャパンによる昨年の『マタイ受難曲』演奏会のプラグラムに記載された対訳で紹介致します。「おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け、汝が罪ゆえにキリストは父のふところを捨て去りて 地へと降り、清く優しき乙女より/我らのため
地上(ここ)に生まれて、神と我らの仲保者(なかだち)たらんと欲し給えり。死せる者には命を与え/あらゆる病を除き給えり。やがて時 迫り来(きた)ると/我らに代わりて犠牲(いけにえ)として捧げられ/我らの罪の重荷をば
負い給えり、まこと 長き十字架の苦しみもて(対訳:藤原一弘)」。
確かに、改訂前の「主に従い続ける」という決意のコラールも重要ですが、改訂後の、「汝が罪ゆえにキリストは父のふところを捨て去りて」は、心の底に突き刺さり、また後半の「死せる者には命を与え、あらゆる病を除き、我らに代わりて犠牲として捧げられ、我らの罪の重荷をば負い、長い時間、十字架の上で苦しみを担われた」は、悔い改めによって罪が赦され、だからこそ、主に従い続けたい!との信仰へと導かれるのです。私たちも弟子たちと全く同じ。コロッと態度を変える。いざというとき、主を十字架に磔(はりつけ)にしたまま、サッと逃げ去る。つまり、子ろばである私たちに、主がどっかり座って下さらなければ、主に背を向けて、逃げ出す罪人なのです。だからこそ主は、私たちの背に座り、旧約聖書の預言書を実現して下さるべく、平和の王としてエルサレムに進み、十字架で死に、三日目に復活されるのです。来週の主の日、イースター礼拝では、御一緒に、主の御復活を高らかに賛美したい。そして、喜びの日に受洗し、主の聖餐に初めて与る兄弟と共に、私たちも喜びの食卓を囲みたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を呼んで下さり、受難週礼拝に招いて下さり、深く感謝致します。主よ、子ろばである私たちは御子にまたがって頂き、御子の死がなければ罪のままでした。けれども主よ、御子の死によって私たちの罪は赦されましたから深く感謝致します。どうか、あなた様に黙々と従う者として下さい。お願い致します。これらの貧しき願いと感謝、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは御霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか、御子の御受難をおぼえ、悔い改めを祈り続ける受難週も、私たちに御霊を注いで下さい。先週、私たちは衝撃的な映像を観ることになりました。若いお父さんが、双子の赤ちゃんを抱いて泣き崩れる映像を。シリアでの内戦によって、愛する家族を猛毒ガスによって失う悲しみ。そして、すぐにアメリカ軍がシリア軍にミサイルを59発も発射したことにより、悲しみの連鎖、憎しみの連鎖が生まれています。主よ、私たちの世を深く憐れんで下さい。真の平和の王であられる御子は命じました。「隣人を自分のように愛しなさい」。いかにこの掟が難しいか。主よ、どうか、悲しみの中にある方々、怒りの中にある方々、憎しみの中にある方々、ヘナヘナと座り込んで、立つことのできない方々を深く、深く憐れんで下さい。主よ、世界がこのまま戦争に突き進むことのないよう、力強くお導き下さい。また私たちも諦めることなく、全世界に真の平和が実現するよう祈り続ける者としてお導き下さい。主よ、来週のイースター礼拝に、一人でも多くの方々を招いて下さい。また、信仰を告白し、洗礼を受ける決意を与えられたF兄の信仰を強め、来週の洗礼式で明確に信仰を告白し、洗礼へと導かれますようお導き下さい。不安の中、新しい生活をスタートした方々を強め、励まして下さい。今朝も、病のため、様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。主よ、深く憐れんで下さい。キュリエ・エレイゾン
主よ 憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。
2017年4月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第61篇1節~9節、新約 ルカによる福音書 第13章31節~35節
説教題:「自分の道を進まねばならない」
讃美歌:546、93、254、494、540
主イエスは今日も明日も、その次の日もエルサレムへ向かって進んでおられます。ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、言ったのです。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。
ヘロデとは、古代イスラエルの領主ヘロデ・アンティパスのことです。彼は、主イエスを殺したい!と本気で思っている。だからこそ、ファリサイ派の人々が主に近寄って来て、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と言ったのです。その瞬間、主イエスの表情は険しくなり、語り出した。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」。
「あの狐(きつね)」とは、ヘロデのことです。「狐につままれる(狐にばかにされるという意味)」、あるいは「狐と狸(たぬき)の化かし合い(ずるがしこい者どうしがだましあうことのたとえの意味)」という言葉があるように、狐はずるがしこい動物と考えられています。主イエスも、「ヘロデは、目障(ざわ)りな獲物を捕まえて放そうとしない。狐そのものだ!」と言われるのです。
主は続ける。「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」。重い言葉です。主イエスには、「進まねばならない」道がある。誰が主の道を決めたのか?父なる神です。神がお決めになった「進まねばならない」主の道がある。主の道はエルサレムに続く。つまり十字架への道、処刑への道です。だからこそ主は嘆く。「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣(つか)わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛(ひな)を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」。
34節に「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」とある。石で打ち殺される預言者たちは、何をしたのでしょうか?「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」、神から離れた人々を羽の下に集めることです。預言者は、そのために遣わされた。
今朝の旧約聖書の御言葉、詩編第61篇5節に「あなたの翼を避けどころとして隠れます」とある。つまり、ルカ福音書の「めん鳥が雛を羽の下に集める」とは、無力な雛である私たちが、めん鳥である神の守りの中で、賛美の喜びに生きることを願って、神は悪が支配する世に預言者たちを派遣するのです。
主イエスの願いは、神の羽、つまり御翼(みつばさ)に入ろうとしない民を、御翼に集めることです。けれども、イスラエルの民は、主の切なる願いに応じようとしない。実際、旧約聖書に記されているのは、預言者殺しの歴史です。神の都において、御言葉が殺されている。これは、遠い昔の話ではありません。私たちも日々の生活の中で、御言葉を殺すこと、無視することがある。そして、めん鳥である主イエスの切なる招きに応えようとしない。
私は高3の秋に洗礼を授けて頂きました。しかし、洗礼を受けてからこそ、色々と考えた。「洗礼を受けていなければ、もっと楽に生きることが出来たはず」と考えることもありました。なぜか?神の視線が気になるからです。しかし、今年で50になると心から思う。「高3で信仰を告白して本当に良かった」と。神様に「私は弱い雛です。どうしようもない男です。だから、いつもあなたの羽の下にいないと死んでしまうのです」と告白し、洗礼を授けて頂いた。その瞬間、自分を良く見せる必要がなくなる。自分の力だけで頑張り続ける必要がなくなる。実際、主が語っておられる。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」。主は、私たちを繰り返し、繰り返し、羽の下に集めようとしておられる。だからこそ、私たちは素直に、何も恐れることなく、主の羽の下に「ピヨ、ピヨ」、「アッバ、アッバ」と鳴きながら、感謝して入ればよいのです。
では、主イエスの羽は、どのような羽でしょうか?フカフカした温かい羽か?違います。主イエスが広げておられる羽、御翼は、十字架に磔(はりつけ)にされた御腕です。主の御腕から、ポタポタと尊い血潮が流れている。掌(てのひら)から、細い御腕に血潮が流れ、痩せ細った御身体に伝わり、さらに釘を打たれた御足から流れる血潮と混ざり、ボタボタ流れ落ちている。当然ですが、主イエスの広げられた御腕、羽、御翼の下に集まる私たちも、真っ赤になる。その結果、私たちのどす黒い罪は真っ赤に染まり、清められる。その結果、私たちの罪は完全に赦されるのです。何と幸いなこと、何と祝福に満ちたことか。それなのに、私たちは信仰を告白すること、洗礼を受けることを拒み続ける。あるいは、信仰を告白し、洗礼を受け、聖餐に与ったにもかかわらず、神の羽から遠ざかり、神の招きを無視することがある。主イエスにとって、これほど悲しいこと、悔しいこと、辛いことはありません。だって主は、今日も明日も、その次の日も自分の道、十字架の道、処刑の道を進まねばならない。私たちが処刑されないために。私たちがヘロデのように武力で自分を守り、自分に反対するものは全て処刑し、それでも、いつ、自分が暗殺されるかとビクビクして歩まなければならない。そのような生き方ではなく、安心して生きて欲しい。だからこそ、主イエスはエルサレムへの道を進み、私たちの罪のために死んで下さるのです。
牧師である私も預言者です。御言葉を神から預かり、愛をもって悔い改めを迫り、愛をもって慰めを語り続ける。この二年間、東村山教会の預言者として、主の思いを割り引くことなく語ることが出来ただろうか?と考えると、やはり胸を張れません。けれども、そのような弱さを抱えている雛だからこそ、主は用いて下さる。そして、私たちがどんなときも主の道を進むことが出来るよう、聖餐の食卓まで用意して下さるのです。今朝も、礼拝に招かれた全員が聖餐に与ることはできません。残念です。出来れば、皆さんに聖餐の恵みを味わって頂きたい。しかし、信仰を告白することなく、洗礼を受けることなく、誰でも、聖餐の恵みに与ることになると、主イエスがボタボタと流して下さった血潮、主イエスが裂かれた肉が無意味になってしまう。だからこそ、座っておられる皆さんに、素直に主イエスの招きに応えて頂きたい。主イエスの十字架の死は、私のための出来事であると信仰を告白し、洗礼を受けて頂きたい。そのとき、主イエスは、本当に喜んで下さる。それだけでなく、私たちには、永遠の生命、永遠の住まいも用意されるのです。こんなに嬉しいことはない。こんなに安心することもない。だからこそ私たちは、たった一度の地上における自分の道を主イエスに従って歩み続けるのです。
主から与えられる自分の道、平坦な道ではありません。凸凹があり、落とし穴もある。頂上に届かない道もあれば、ストーン!と谷底に落ちる道もある。谷底ですから真っ暗、一体、どこに向かって進めばよいのかわからなくなる。しかし大丈夫。なぜか?キリスト者の道は、主が必ず備えて下さる。どんなに孤独と思っても、雛である私たちは、めん鳥である主イエスの羽の下で確実に守られているのです。だからこそ、主から示された自分の道を進み続けたい。確かに自分の道を進まねばならない。しかし、主の羽の下で進める。どんなに自信がなくても、どんなに不安の中にあっても、主が与えて下さる道と信じ、主の赦しと憐れみを頂き、主の聖餐に与りながら、自分の道を進めるのです。
今も、この世の罪を父なる神がもっとも嘆いておられる。私たちも、自分に与えられたキリスト者の道を歩むより、世の罪に染まった道を知らず知らずに歩んでしまっている。だからこそ、日々、罪を悔い改め、主イエスに「狐」と言われないように、自分に与えられた道を今日も明日も、その次の日も誠実に歩み続けたい。
聖餐式後の讃美歌。迷わず494番にしました。愛唱讃美歌にしている方も多いのではないでしょうか。この方も494番「わが行くみち」に希望を与えられた。『こころに響くさんびか(日本キリスト教団出版局、2006年)』に歌人の三浦光世(みうら みつよ)氏の494番への思いが綴られております。「私は父の結核を幼児感染した。4、5歳の頃リンパ腺結核に罹(かか)った。それだけですまず、17歳の時に腎臓結核を発病、右腎臓の摘出手術を受けた。手術後しばらくは、まあまあの体調で、徴兵検査も丙種合格だった。『合格』がついたということは、召集令状が来て戦争にも行けるかも知れないということであった。私は大いに張り切った。自分も天皇陛下のために一命を捧げ得ると思ったわけである。で、戦地に行った時の、敵前上陸の予備演習等に率先参加した。無謀もいいところ、これで腎臓結核の後遺症の膀胱結核が悪化し、戦後2、3年経った頃は、拷問のような苦痛に喘ぐことになった。苦しさのあまり、母の持っていた聖書を本棚からおろして読み始め、それを見た兄が牧師先生をわが家に呼んで来てくれた。おかげで一年、家にいながら聖書を学び得た。その頃によくうたったのが、494番の讃美歌であった。わが行くみち/いついかに/なるべきかは/つゆ知らねど、主はみこころ/なしたまわん。そなえたもう/主のみちを/ふみてゆかん/ひとすじに。この「讃美歌」494番は、闘病中の私には、実に大きな力になり、希望を与えられた。聖書の『あすのことを思いわずらうな』(マタイ6:34)の言葉と共に、この讃美歌によって、忍びぬくことができたとも言える」。
三浦光世さんも祈った。主イエスの救いを信じ、今日も明日も、その次の日も拷問のような痛みを抱えつつ、自分以上の拷問を受けて下さった主イエスの羽の下での永遠の安息を信じ続けたい。主の羽の下で、主が備え、主が導いて下さる自分の道をただ一筋に歩み続けたいと。
2017年度の歩みをスタートさせた私たちも、主から示された自分の道を誠実に進み続けたい。そして今朝、共に礼拝を守っている方々の中で信仰告白、洗礼を願いつつ、まだその決心に至らない方々を覚えて本気で祈り続けたい。どうか、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と嘆かれた主イエスの招きに一日も早く応えて欲しい!と。そして、主の食卓をこの礼拝堂で共に与る日が必ず来ると信じて祈り続けたい。心から願うものであります。
(お祈りを致します)
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちの名を親しく呼んで下さり、主の日の礼拝にお招き下さり、心より感謝申し上げます。主よ、雛である私たちは恐れによって凶暴な狐になります。そしてヘロデのように預言者を石で打ち殺します。深く懺悔致します。主よ、どうか罪の私たちを憐れんで下さい。私たちも無力な雛であることを心に刻みつつ、めん鳥であるあなた様の羽の下から飛び出すことのないようお導き下さい。真の救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて
下さい。2017年度の歩みが始まりました。昨年度の溢れる恵みを感謝致します。今年度も、今朝の御言葉のようにあなた様が示して下さるそれぞれの道を今日も明日も、その次の日も誠実に歩む者としてお導き下さい。新しい道を歩む者がおります。期待と不安の中にあることはあなた様が全てご存知であられます。だからこそ、今朝の御言葉を用意して下さったと信じます。どうか、不安の中にある方々をあなた様の羽の下に集めて下さい。そして、ねんごろに育んで下さい。主よ、長老会において、洗礼試問を受ける兄弟を力強く導いて下さい。そして、明確にあなた様への信仰を告白し、4月16日のイースター礼拝で洗礼と聖餐の恵みに与ることが出来ますようお導き下さい。また、信仰告白、洗礼に向けて祈りつつ備えている求道者を強め、励まして下さい。今朝も病のため、また様々な理由のため、教会に集うことの困難な兄弟姉妹がおられます。主よ、癒しの御手を差し伸べて下さい。お願い致します。
キュリエ・エレイゾン 主よ 憐れみたまえ。
天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。