2018年度メッセージ



2019年3月31日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第143篇7節~12節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第5章16節~26節
説教題「霊に導かれているなら」    
讃美歌:546、12、183、494、540       
  
<アッバ、父よ>
 私たちは、主の十字架による罪の赦しを信じ、洗礼を受け、キリストを着る者とされました。
 キリストを着たことにより、私たちの肉の業、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴も十字架につけられて、死んだのです。
 肉の業が死んだ。その結果、神さまは「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を私たちの心に送ってくださった。パウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(2:20)。」と語った通りです。
 私たちに送られた御子の霊、私たちの内に生きているキリストが、「アッバ、父よ」と神さまを呼ぶのですから、私たちも、「アッバ、父よ」と神さまを呼び求める。私たちも、神さまから「子よ」と呼ばれ、神さまを「父よ」と呼べる者となった。私たちは真の意味で神さまの子どもとされたのです。
 父なる神さまと、子である私たちの関係は真実です。それは、驚くばかりの恵みです。神さまの子とされた私たち。罪を犯す私たちの肉は死んだ。結果、私たちの内にキリストが満ち溢れ、私たちと共に永遠に生き続けてくださるのです。

<霊の導き>
 キリストが私たちの中で生き続けてくださるとは、決して、「私たちの身体がキリストに支配され、窮屈になる」ということではありません。そうではなく、キリストの霊が、私たちの霊となる。キリストが私たちを包み、一つとなる。そのことが幻想ではなく、本当に真実である!と言えるほど、洗礼によって、キリストと私たちはしっかりと、がっちりと、絶対に離れることがないように結び合わされたのです。キリストに結ばれ、キリストの霊が私たちの霊となり、生き続けてくださることは、決して窮屈な歩みではありません。その反対です。キリストの霊の望むところ、キリストの霊がしたいと思うことは、私がしたいと思うことになる。私がしたいと思うことは、キリストの霊に従い、霊の導きに従って歩み続けることになるのです。
 それでも、霊の導きに従って歩むことは、悲壮感を漂わせ、我慢して生きるイメージかもしれません。しかし、それは違います。自分の思いを捨て、自分を殺し、霊に黙々と従い続けることではない。そうしなければならないから、義務感で霊に従うことではない。「約束を守らなければ」、「正義を行わなければ」、「自分を捨て、キリスト者らしく生きなければ」ではない。そのような「ねばならない」から解放され、霊の求めるままに、「こうしたい」と霊が思うままに生きる。愛したいから愛する。喜びたいから喜ぶ。平和を愛したいから平和を愛する。そのように霊が欲するままに霊に生きる。そのとき、実(み)が実る。愛が実る。喜びが実る。平和が実る。寛容が実る。親切が実る。善意が実る。誠実が実る。柔和が実る。節制が実るのです。
 もしも、「そうしなければならないから愛する」なら、真の愛ではありません。「いつも喜んでいなければならないから喜ぶ」のなら、真に喜んでいることになりません。「平和にならなければならないから、とにかく我慢して、無理やり笑顔で生きる」なら、やはり真の平和とは言えないのです。
 愛すること、喜ぶこと、平和に生きることは、強制されてではなく、自分がそうしたいからするのです。まったく自由に、自分らしく愛し、喜び、平和に生きるとき、真の愛が実り、真の喜びが実り、真の平和が実るのです。

<肉と霊>
 ところがパウロは、現実のこととして、「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです(5:17)」と語る。十字架で死んだはずの肉が霊と対立し、霊の導きを邪魔する。だから、「自分のしたいと思うことができない」と語るのです。
 私の中、また教会の中で、肉のしたいことと、霊のしたいことが対立する。私らしく、柔和な心で生きたいのに、邪魔をする肉。この肉と霊の対立が、私たち、また教会を不自由にする。結果、キリストによって結ばれた神の家族であるにもかかわらず、うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりし、本来の私たち、本来の教会として生きられなくなっている。キリストの十字架によって頂いた自由、愛に生きる自由を失っているのです。

<十字架のキリスト>
 私たちキリスト者には何の望みもないのでしょうか。まるで、底なしの沼に足をとられ、ズブズブと沈んでいくように不自由の中に引きずられ、傷つき、落ち込み、絶望するしかないのでしょうか。神の国を受け継ぐことはできないのでしょうか。
 霊が肉に負けたときこそ思い起したい。自由を手に入れた日。キリストの者とされた日。洗礼を授けられた日。私たちの肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった日を。私の中に生きているのはキリストであるという真実を。
霊が肉に負けたとき、私たちは十字架の下に立つ。顔を上げると、キリストが磔にされている。「なぜ、真の神さまなのに、こんなにも苦痛に顔を歪めなければならないのか。なぜ、一度も罪を犯していないのに、議員たちにあざ笑われ、兵士たちから侮辱され、父なる神さまからも見捨てられ、呪いとなられたのか。そうだ。私の欲情や欲望もろとも滅ぼすためだ。キリストがこんなにも苦しみ、悶え、肉の業を滅ぼそうとしておられる。十字架で息を引き取られた瞬間、肉の業は滅びた。繰り返す過ちも赦された。それだけでない、キリストを復活させた霊が、キリストに結ばれた私にも注がれている。何と言う喜び。何と言う恵み。それなのに、罪赦された喜び、恵みを忘れ、ブツブツと呟いてしまう。だからこそ、日々、まっすぐに十字架のキリストを仰ぎ、しっかりと見つめ、思い起したい。私は、本当にあの日、キリスト・イエスに結ばれ、神さまの子とされた。キリストを着る者とされた。神さまを「アッバ、父よ」と呼べる者とされたことを」。

<霊に導かれているなら>
 今朝は旧約聖書詩編第143篇を朗読して頂きました。1節にダビデの詩とあります。詩編は、第1篇から第150篇までありますが、その80篇以上にダビデの詩とあります。詩編は祈りであり、賛美です。ダビデも神さまの霊の導きと救いを求め、悔い改めつつ、罪の赦しを祈り、主を賛美するのです。
パウロがガラテヤ書第5章18節で「霊に導かれているなら」と霊の導きを信頼するよう、ダビデも詩編第143篇10節で「霊によって/安らかな地に導いてください」と霊の導きを信頼し、祈っているのがわかります。
ダビデは罪を犯しました。その中でも最大の罪は、部下の妻バト・シェバを姦淫した罪だと思います。まさにパウロが記した肉の業である姦淫、わいせつ、好色です。
ダビデは、肉の業を犯したことにより、「私には霊の導きが不可欠である」と知りました。だからこそ、「神さまの恵み深い霊に導かれるように」との祈りを他のあらゆるものに優先させているのです。ダビデは、私たちを本来の姿へと生き返らせ、強めることのできる神さまの み前で、肉の業を認め、罪を告白し、霊の注ぎを祈り求めるのです。

<霊の結ぶ実>
私たちは、キリスト・イエスによって兄弟姉妹とされ、神さまの家族となりました。生まれも育ちも違う私たち。けれども、霊の導きに従って生きる者とされたのです。日々、心に刻み続ける。「私たちは、キリストの者とされた」。それにもかかわらず、私たちの心を肉の業が支配する日がある。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりする日がある。しかし、そのようなときこそ霊の導きを心の底から祈り求めたい。「どうせ、私は肉なる者。霊など私に似合わない」と開き直ることは、神さま、イエスさまに申し訳ないことであり、キリスト・イエスの者となった自分を偽ることになります。
もしも、「今、私の霊は肉に負けている」と感じたら、霊の導きを真剣に祈る。十字架を仰ぎつつ、「欲情や欲望は十字架で死んだ。本当に死んだ。私は自由になった。喜んで愛に生き、喜んで平和に生き、喜んで柔和に生きるのだ」と心に刻むのです。
今日で、2018年度の歩みが終わり、明日から2019年度の東村山教会の歩みが始まります。新年度も私たち一人一人、また教会において肉と霊とが対立することがあるかもしれません。しかし、恐れることはありません。なぜなら、神さまの霊、キリストの霊、聖なる霊が必ず導いてくださるから。霊の導きに従って前に進むなら、キリストの者とされた私たち、また東村山教会も終わりの日、キリストが再び世に来てくださる再臨の日、神さまの御国を受け継ぐことができるのです。共に励まし合い、霊の結ぶ実である愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制が必ず実ると信じ、喜んでキリストの道を歩み続けてまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたが私たちをどんなにおおらかな、どんなに深く、確かな自由に生かしていてくださるかを、今ここに正しく知ることができますように。その自由の中で、あなたは肉との戦いを命じておられます。自らとの戦いを命じておられます。人を愛することができない、仕えることを拒み続ける私たち自身との戦いを、望みをもってすることができるよう、霊によって導いてくださいます。霊の執り成しを、嘆きの執り成しを、いつも明らかにしていてくださいます。そこに喜んで生き続けることができますように。霊に生きるがゆえに霊に歩み、霊において進み続けることができますように。主イエス・キリストの み名によって、祈り願います。アーメン。


2019年3月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 レビ記 第19章17節~18節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第5章13節~15節
説教題「愛によって互いに仕えなさい」    
讃美歌:546、84、194、388、539          

<自由を得るために>
 私たちは今朝、神さまから「目に見えない招待状」を頂き、主の日の礼拝へ招かれました。教会員の方は受付で〇をし、他教会員、求道者の方は記名をし、いつもの席に座る方、今日はいつもと違う席に座る方、それぞれですが、共に礼拝を献げているのです。
 皆さんは、はじめて教会に行かれた日のことを覚えているでしょうか。私は母に連れられて、小学1年の春から鎌倉雪ノ下教会に通うようになりました。皆さんの中にはご両親がキリスト者で、生まれる前から、つまり母の胎にいるときから教会に通うようになった方がおられます。また、大きな試練に襲われ、救いを求め、勇気を出し教会に行かれた方もおられる。あるいは聖書への興味から教会に行かれた方、さらに聖書に基づく教育をしている学校に通うようになり、聖書科の授業の課題である「礼拝レポート」を記入するためにはじめて教会に行かれた方と人それぞれです。
パウロは、ガラテヤの信徒に加え、そのような私たちにも宣言します。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。」はじめて教会に行かれた日の理由は異なっても、「あなたがたは自由を得るために召し出された。教会へ招かれた」と宣言するのです。
パウロが伝えたいことは、「たとえ、それぞれ理由が異なっても、教会に通うようになったのは、あなたがたに神さまからの力である、聖霊が働いたから。それも、ただ「召し出された」のではなく、「自由を得る」という目的がある。その目的のために、ガラテヤ教会の兄弟姉妹、そして私たちも神さまに名前を呼ばれ、召し出されたと宣言するのです。
 皆さんの中に、信仰告白し、洗礼を受け、キリスト者としての生活が50年、60年、70年以上の方もおられます。今、熱心に求道生活を続けている方にとっては、雲の上の存在に思えるかもしれません。けれども、そのような方に直接お聞き頂けたら良いと思いますが、「私はベテランのキリスト者、求道者のあなたとは格が違います」とおっしゃる方は一人もおられないはず。その反対だと思います。神さまの召し出しには、ベテランも新人もない。召し出された理由は同じ。私たちは皆、「自由を得るために神さまから召し出され、主なる神さまを礼拝しているのです。今朝はその事実を心に刻みたい。私たちは、目的をもって神さまに召し出された。その目的こそ、「自由を得るため」なのです。

<キリスト者の自由>
 ところで、「自由」とは何でしょう。ガラテヤの信徒への手紙を昨年8月からコツコツと読み続けている私たち。すでにパウロが語る「自由」を心に刻んでおりますが、「キリスト者の自由」は、何でも思いのままに勝手気ままに過ごすことではありません。神さま抜きで、何でも自分の思いのまま、勝手気ままに過ごすために、神さまが私たちを召し出されたとは考えられません。そうした思いのままに過ごす自由と比較にならないほど大いなる恵みの自由。神さまが自由を得るために召し出してくださる「この自由」は、罪からの自由、罪からの解放なのです。
 勝手気ままに過ごす自由と、罪からの自由、罪からの解放、どちらが真実の自由でしょうか。どちらが、神さまが召し出してくださるほどに与えたい!と願われる自由なのでしょうか。キリスト者の自由とは、罪からの自由であり、罪からの解放であることは間違いありません。
 本来、罪深い私たちには罪からの自由、解放などありません。神さまの御子キリストが十字架にはりつけにされ、私たちの罪を赦すために死を成し遂げる以前は、神さまの掟「律法」を完璧に守らなければ、神さまの御前に義しいと認められることはありませんでした。
 もちろん、罪深い私たちは、律法を完璧に守ることはできません。その結果、罪の中に閉じ込められ、罪の鎖に繋がれ、「どうせ、律法など守れない」と開き直るか、反対に、「今日こそ律法を守る!と誓ったのに守れなかった。私はどうしようもなく意志が弱い。駄目な人間。生きていても誰からも必要とされない。そして、神さまからも『あなたは過ちを繰り返す、どうしようもない存在』と諦められているとしか思えない。もう生きるのが辛い。」と律法を守れない事実に落胆し、くよくよと気に病んで、自分で自分を赦すことができない。それが罪深い私たちの姿でした。
 けれども、主イエスが、全く何の罪もない神さまの独り子、主キリストが、世に来てくださった。さらに私たちに仕え、私たちの罪を全て背負い、私たちの罪ごと十字架にかかって死んでくださった。その結果、罪の私たちは、御子と一緒に十字架にかかって、本当に死んだのです。
 罪の私たちは、「主キリストの十字架の恵みを信じ、これからの歩みを御手に委ねます」と信仰告白し、洗礼を受けることで、罪の私たちは死に、新しい命に生きる者として、堂々と主の御前に立つことができる身となった。キリストの義しさによって、神さまの御前に義しい者、自由な者と認められたのです。
神さまは「この大きな恵みを受けなさい」と私たちを選び、召し出された。私たちの名前を呼んで、罪の呪縛から自由へと召し出してくださったのです。

<互いに仕える>
 だからこそ、愛をもってパウロは命じるのです。「この自由を、思い違いしてはなりません」。「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」
 「互いに仕える」と訳された元の言葉の意味を心に深く刻むことは大切です。元の言葉は、「互いに僕となり合え」。あるいは、パウロの時代に即して言えば、「互いに奴隷となり合え」と勧める言葉です。「お互いに僕となり合いなさい」。「お互いに奴隷となり合いなさい」そのような意味で、パウロが語る「互いに仕えなさい」という勧めの言葉を今朝、私たちは驚きつつ心に刻みたい。
「お互いに奴隷となり合いなさい」になぜ驚くのか。それは、自由と奴隷が結び合わされているからです。普通の感覚なら、「自由と奴隷」は反する言葉に思えます。奴隷に自由などない!と考える。けれども、主の十字架によって罪から解放された私たちに与えられた自由は、仕える自由、僕になる自由、奴隷になる自由とパウロは語るのです。
お互いに仕え合う自由、僕になる自由、奴隷になる自由、やはり驚きます。しかし、神さまが主イエスによって私たちに与えてくださった自由は、やはり仕える自由、僕になる自由、奴隷になる自由なのです。
 
<隣人を自分のように愛しなさい>
 その流れでパウロは、非常に重要な戒めを語ります。14節。「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」それこそ私たちも繰り返し耳にしている戒めです。
主イエスは律法学者、ファリサイ派の人たちと語り合いながら、今朝の旧約聖書の御言葉 レビ記 第19章18節「復讐してはならない。民の人々に恨(うら)みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」にもあるよう、律法全体は、ふたつの戒めに要約することができると言われます。全存在を傾けて父なる神さまを愛する。同じように自分を愛するように隣人を愛する。このふたつです。
パウロも14節で、言葉では神さまを愛することを記しておりませんが、神さまから自由を得るために召し出された私たちは神さまを真剣に愛し続ける。神さまから愛され、神さまを愛する私たちは、隣人を自分のように愛し続けると語る。パウロは、本当にこのことを大切にして欲しい!愛に生きて欲しい!神さまへの愛、自分への愛、そして隣人への愛に!愛するため、仕えるため、僕となるためにあなたがたは召し出され、自由を与えられたのだ!と全存在をかけて語るのです。
さらにパウロは続ける。「主の十字架を信じさえすれば全て赦される!と思い違いをし、仕え合うどころか互いにかみ合い、共食いしているのなら、主の道から大きく逸れ、互いに滅ぼされる。そうでなく、キリストによって赦されたのだから、キリストに倣って歩もう!」と励ますのです。
 主イエス・キリストが、十字架の死に至るまでとことん神さまと隣人に仕え、愛に生きてくださったのだから、私たちも喜んで互いに仕え合う。子どもが親や兄弟姉妹の真似から始めて成長していくように、私たちもキリストのまねをして歩み続けるのです。
 人々から、「イエス・キリストって どんな人?」と聞かれたときに、「私は、キリストのまねをして生きているから私を見てください」と言えるか?いつも、どんなときも、この問いを自分の心に問いながら歩みたいと願います。
 キリストによって互いに仕えましょう。キリストが仕えてくださったように、隣人を自分のように愛する。敵のために祈る。キリストが敵を赦されたように。キリストの愛が手本です。キリストの愛が、私たちの歩む道です。キリストの愛だけが私たちにとっての真の律法なのです。
愛であるキリストが必ず助けてくださる。聖霊なる神さまが必ず助けてくださる。日々、キリストが私たちを励ましてくださるのです。「必ず、あなたも愛に生きることができる!」と。今日も、キリストは私たちのために心を込めて祈っておられます。キリストの愛の中へ、自由の中へ召し出された者として、キリストの愛に依り頼んで、互いに仕え合う道を歩み続けてまいりましょう。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・入院し療養を続けている兄弟姉妹、手術を終え静養している兄弟姉妹、様々な病を抱え、心が萎えている兄弟姉妹に、主よ、御霊を注ぎ続けてください。
・年度末、年度始の中、不安を抱いている兄弟姉妹に御霊を注いでください。
・東京神学大学の歩みを新年度も力強く導いてください。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年3月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第112篇1節~10節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第5章7節~12節
説教題「主にあって信頼する」    
讃美歌:546、57、291、306、545B          

<苦闘するパウロ>
 パウロは今、苦闘しております。確かに、ガラテヤの人たちはパウロの教えに喜んで耳を傾け、主イエスを信じ、賛美し、宣べ伝える日々を送っていた。ただ一筋に、神さまの救いに至る 主イエスという道をひたすら走っていた。
ところがそこに、主イエスという真の道から外れる 偽りの道へと誘惑する者が現れた。真理である主イエスに従わない道を、さも救いへと至る唯一の道であるかのように教える偽預言者が現れた。そこでパウロは、滅びに至る道から救いに至る道に戻るよう、語調を変え、愛するガラテヤの人たちに心を込めて「福音の真理」を語り続けるのです。
 ガラテヤの人たちは信じていた。御子の十字架だけが、罪から抜け出せずにいる私たちを贖い出し、主の御前に 神さまの子どもとして安心して立てる資格を与えてくださると。だからこそ、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない(ヨハネ福音書14:6)」を信じ、主の道をひたすら走っていたのです。そのまま走り続けていれば、主の御前に 神さまの子どもとして立つことができた。しかし、「割礼を施してこそ、救いに至る」とのサタンの声に負け、真理に従わない道を走り始めたのです。
サタンは「私はサタンです」という顔では近づきません。さも天使のような穏やかな表情で近づく。だから惑わされてしまうのです。もちろん、サタンは天使ではありません。ガラテヤの人たちを誘惑する教えは、私たちの導き手、私たちをキリスト者としてお召しくださった父なる神さま、御子なるキリスト、聖霊なる神さまからのものではない。けれども、ガラテヤの人たちはサタンの誘惑に負けそう。いや、すでに負けてしまい、滅びに至る道を走り始めているのです。

<わずかなパン種>
 パウロはサタンの巧妙な手口を「パン種の譬え」で語ります。「あなたがたは、割礼の有無が大した問題でなく、小さなことだと思っている。しかし、大変な思い違いだ。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるように、偽りの教えはあなたがたの中で膨らみ、あなたがたを永遠の滅びに至らせるのだ」。
 確かにそうです。ほんのわずかなパン種。「わずかな」と訳された元の原語はミクロです。ミクロのパン種でも大きなパンになる。パンならば、美味しい!ですが、偽りの教えが教会に入ると、いずれ教会が滅びる。いや、滅びるだけでなく、異邦人伝道に生涯を献げたパウロは、このままでは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。(マルコ福音書16:15)」との御子による宣教命令に応えられなくなると真剣に悩んだ。大袈裟でなく、ここで間違った教え、惑わす教えを徹底的に潰しておかないと、主の十字架の死が何の意味も持たなくなる。救いの恵みが失われる。結果、主に頂いた自由を失い、再び罪の呪縛に苦しみ続けると本気で悩み、本気で嘆き、本気で祈りつつ、パウロは繰り返し「真の福音」を語り続けるのです。

<主にあって信頼する>
ユダヤ人にとって割礼は、「神さまに選ばれた特別な民」のしるしです。包皮に傷をつける。その傷に選ばれた誇りを感じるのです。ガラテヤの人たちも、惑わす偽預言者から「あなたがたも神の民ならば、救いのしるしである割礼を受けるのは当然でしょう」と誘われる。
繰り返しますが、サタンには、「なるほど!確かにそうだな!」と言葉巧みに信じ込ませる手口がある。ガラテヤの人たちも、主の十字架の贖いのみから、割礼にも救いの根拠を見出そうと動き始めた。それでも最初は、主の十字架の贖いを信じ、しっかりと心に刻んでいたはずです。しかし、いつの間にか主の十字架の贖い、救い、赦し、恵みがぼやけてくる。結果、目で救いを確認することのできる割礼を重視するようになる。そのとき、本当に悲しいことであり、情けないことであり、神さま、イエスさま、聖霊なる神さまに申し訳ないことですが、「割礼、律法に頼るものは主キリストとは縁もゆかりもない者となり、恵みも失ってしまう」とパウロは心を痛めつつ断言するのです。
しかしです。パウロは確信している。「このままガラテヤ教会が滅びることはない。このまま異邦人伝道が衰退し、復活のイエスさまによる宣教命令が頓挫することはない」と。パウロはどんなことがあっても諦めない。主にあって。自分の能力の故ではない。ガラテヤの人たちの素直な心の故でもない。パウロには、いつも「主にあって」がある。どんなに苦悩し、途方に暮れても、主にあって耐える。主にあって賛美する。主にあって祈る。主にあって喜ぶのです
 パウロは主をよりどころとしてガラテヤの人たちを信頼しています。「父なる神さま、御子キリスト、聖霊なる神さまがガラテヤの人たち、さらに全世界に福音が宣べ伝えられ、キリストに結ばれる者の足を強め、守り続けてくださる。」もちろんパウロは、ガラテヤの人たちの危うさを誰よりも知っていたはずです。「確かによく走っていた。確かに素直に信じていた。でも、すぐに惑わされる。すぐに誘惑に負けてしまう。すぐに不安になる。結果、しるしが欲しくなる。割礼に頼りたくなる。」パウロはガラテヤの人たちを楽観視していない。むしろ憂いている。だからこそ記す。「あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。」嘘ではありません。心から信頼するのです。主にあって。これが私たちキリスト者に与えられている主にある信頼、主にある喜び、主にある恵みです。どんなに厳しいところに立たされ、どんなに「なぜこのような現実があるのか」と嘆くときも、主にあって信じ続ける。いつの日か神の国が実現する。いつの日か間違った道から真の道へと皆が歩み始めると。
今朝の御言葉を通して、改めてパウロの伝道者魂を感じます。たとえ厳しい場面でも主にあって教会員を信じ続ける。確かに今は誘惑に負けているように思える。しかし、真の道である主イエスがガラテヤの人たちの足を強め、守り続けてくださる。たとえ、今は間違った道を歩んでいても、いつか必ず滅びに至る道から、永遠の命に至る道へ戻してくださると信じる。そして、正しい道に戻った後も、私たちが滅びに至る道に逸れることがないよう導いてくださる。それでも主の道から逸れることがあっても、聖霊が働き、主の道を歩み続けることができると。だからこそパウロは、様々な課題に苦闘しつつ、主にあってガラテヤの人たち、また私たちにも「真の道を走るよう」励まし続けるのです。
パウロは、ひたすら走り続ける教会員を惑わし、邪魔をし、真理から逸れるよう仕向ける者たち、かき乱す者たち、ひっかき回す者たちを許せない。だからこそ、「いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」、「あなたがたは神の民ではない、民どころか、神さまからバッサリ裁かれるサタンである」と激しい怒りをぶつけるのです。

<真の喜び>
 パウロはガラテヤの人たちに「私は『割礼を受けなさい!』と一言も発したことはない」と念を押しています。確かにそうです。今朝の御言葉の直前でも「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題にならない」と語る。「割礼の有無で一喜一憂するほど馬鹿げたことはない。しかし、あなたがたは一喜一憂し、惑わされている。それは、とんでもない間違い。御子の十字架の受難、嘆き、祈り、呪い、死にこそ、私たちの救いがある。御子の十字架こそ、ただ一つの救いである」とパウロは繰り返し語るのです。 
それでも、偽預言者は主張する。「パウロは割礼を受けている。」当然です。パウロもフィリピの信徒への手紙に記しています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。(フィリピ3:5)」
パウロはイスラエルの民の伝統に従った。しかし、そのパウロが宣言するのです。「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他(た)の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。(フィリピ3:7~8)」パウロが、主にあって語り続けた福音。これこそ、パウロが妥協せず、最後は殉教することになっても語り続けた御子を知り、御子から知られる恵み、喜びなのです。
 その恵み、喜びを骨身に沁みて知ったパウロだからこそ、心を込めて迷いの中にあるガラテヤの人たちに断言するのです。「もしも、私があなたがたに割礼を勧めるなら、私は十字架で贖いの死を成し遂げられた御子の救いを信じないことになります。信じないどころか、御子と縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みを失う。そんな馬鹿なことを私がすると思うのですか?あの日、私は主にあって180度 回心した。滅びに至る道から、救いに至る道を走るよう変えられたのです。これからもあなたがたと一緒に走り続けたい。ただ一筋に救いに至る主の道を。必ず走ることができる。あなたもキリストを着ている。あなたもキリストに結ばれているから。あなたは、割礼、律法から解放され、自由を与えられた。私は主にあってあなたがたを信頼している。だから、共に走り続けよう。共に神さまの栄光を現し続けよう。詩編にもある。『まっすぐな人には闇の中にも光が昇る/憐れみに富み、情け深く、正しい光が。憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。主に従う人は とこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している(詩編112:4~7)』。あなたがたも主の十字架にのみ従い続ければ、とこしえに揺らぐことがない。割礼に心を奪われるな。様々な出来事に惑わされるな。あなたがたはキリストに結び合わされたことで真の光である神の子とされたのだから。」
 私たちも主にあって信じ続けたい。主の十字架と復活、そして再臨の約束を。そのとき、誘(いざな)いの声、惑わす声が消え去る。そして、主の招きの声、赦しの声、憐れみの声、慰めの声が私たちを満たし続けるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、私どもすべてが、どれほど深く主の恵みの事実に捕らえられているかを感謝をもって確認することができますように。その恵みの事実から落ちるような愚かさに、常に勝つことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・ニュージーランドで大変な事件が起きてしまいました。主よ、私たちの罪をお赦しください。今、悲しみの中にある方々、怒りの中にある方々、嘆きの中にある方々に聖霊を注ぎ続けてください。
・季節の変わり目に入りました。年度末、年度始、それぞれの歩みを4月からスタートする方々に聖霊を注ぎ、これからの歩みを導いてください。
・体調を崩し入院している兄弟姉妹を強め、励ましてください。愛する家族を看取っている兄弟姉妹にも聖霊を注ぎ続けてください。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年3月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第9章24節~25節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第5章2節~6節
説教題「キリスト・イエスに結ばれていれば」    
讃美歌:546、28、269、296、545A、427      

<もし割礼を受けるなら>
先週の水曜日から受難節に入りました。受難節の間、私たちキリスト者は、御子が私たちの罪を完全に赦すために苦しみ、十字架の上で息を引き取られたことを憶え、悔い改めの祈りを重ねます。そのとき、私たちキリスト者が御子と縁もゆかりもない者とされることなど想像しません。しかしです。パウロは今朝のガラテヤ書に驚くべき言葉を記すのです。2節。「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」
驚くべき言葉です。冒頭の「ここで」と訳された原語は、「見よ」という意味の言葉です。参考に、昨年12月に新しく出版された聖書協会共同訳は「よく聞きなさい。私パウロがあなたがたに告げます」と訳しております。新しい訳の方がパウロの強い思いが伝わります。しかもパウロは、「わたしパウロは」とわざわざ名前を語る。ですから、このことは絶対に忘れないで欲しい!大袈裟でなく、あなたがたが生きるか死ぬかの大問題。だから、私の言葉をよく聞きなさい。少し乱暴な表現をするなら、耳の穴をかっぽじいてよく聞きなさい!との思いが伝わる。その重大な内容が、「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」なのです。
主イエスは真の神様でありながら、真の人として世に遣わされた御方です。パウロにとって御子に対して「何の役にも立たない方」になると記すことは、耐え難い痛みであったはずです。「御子が何の役にも立たない方になるなんて、絶対にあってはならない。息を引き取られる直前まで父なる神様に執り成しの祈りを続けられた御子が何の役にも立たない方になるなど神様、そして御子に本当に申し訳ない。でも、あなたがたが信仰を告白し、受洗しているにもかかわらずキリストのみに頼ることなく、割礼にも頼るならば、嘘でも、脅しでもなく、本当にあなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になる」と署名入りで告げるのです。
私たちは今朝、パウロの言葉をどう聞いたらよいのでしょうか。もちろん、ガラテヤの信徒のように耳を傾けたい。もしも、すべての皆さんが、「私は、主イエス以外に頼るべきものはありません」なら大丈夫。しかし、私も含めて、「主イエス以外に頼るべきものは持たない」と本当に言えるでしょうか。御子以外の何かにも頼ってしまうことはないでしょうか。割礼を受けることはなくとも、割礼のように何らかの安心のしるしにも頼るなら、私たちにとっても御子は何の役にも立たない方になると思うのです。
もちろん、パウロはガラテヤの人々が嫌いだから、脅しているのではありません。その反対。このままキリストの救いから漏れていくのを見ていられない。キリストとは縁もゆかりもない者とされ、せっかく頂いた罪の赦し、永遠の命という私たちの努力では手に入れることのできない恵みを失ってしまう。いや、失っているかもしれない。だからこそ、何としてもキリストのみに頼り続けて欲しい。キリストの恵みのみに浸かり続けて欲しいと告げるのです。
ドイツの改革者ルターも、恵みを失う危険を「難破船」を通して表現します。「船にいる者が、そのどの部分から海に落ちようと溺れてしまうように、恵みから落ちる者は滅びないわけにはいかない。それだから、律法によって義とされたいと思うことは、難破することであり、自らを永遠の死の最もたしかな危険にさらすことである。」言葉もありません。御子の十字架だけでは不安がある。だから割礼にも足をつっこみ、十字架の救いと割礼(律法)のダブルで安心と思っていたら、足どころか全身が海に落ち、溺れ死ぬ。それも永遠の命の反対、永遠の死が待っているとルターも警告するのです。

<キリストのみで歩む>
ところで、先週の金曜日は日本基督教団の予算決算委員会の第一回目の会議が西早稲田の教団本部で行われました。神様のお召しと信じ、予算決算委員を引き受けることにしました。朝10時から午後4時までお昼をはさんで教団のこれからの財政状況について様々な資料を通し確認したのです。閉会の祈祷を頼まれ、祈りましたが、今朝の御言葉を黙想している中での祈りでしたので、このように祈りました。「主よ、大変に厳しい予測(現住陪餐会員、経常収入等の2000年から2050年までの推移)に不安を感じる私たちですが、そのような時だからこそ、御子が最善の道を備えてくださると信じ、希望をもって教団の教会がこれから一年二年ではない、日本という国がある限り、日本基督教団に属する全国の諸教会が福音を語り続けていけるよう、御霊を注ぎ続けてください」と祈ったのです。
パウロが今朝の御言葉で告げたように、日本基督教団、また全国の諸教会がキリストのみに頼り続ける。自分の教会だけ安泰であればいい!でなく、無牧で苦しんでいる諸教会、また明日は3月11日となりますが、全国の被災地で借金によって会堂は新築されたものの、教会員の減少と多額の借金を前に途方に暮れている諸教会を祈りと具体的な愛の実践を伴う信仰によって支え続けることが大切であると強く感じ、金曜の夜、牧師室に戻ったのです。
今朝のパウロの厳しい勧告は、ガラテヤの信徒のみならず、これからさらに、キリスト者が減少するはずの日本でキリスト者として召し出された私たちが心に刻むべき極めて重要な御言葉だと思うのです。
私たちは突然の試練に襲われると、心も体もズタズタになります。その心と体を修復するには時間がかかる。被災地で愛する家族や大切にしていたものを突然もぎとられた方々の心の傷は簡単に癒えるものではありません。私たちも愛する家族の死を経験すると心に激しい痛みを負う。そして、何とかしてその痛みを癒したいと願うのは当然です。
ガラテヤの人々も願った。「洗礼は受けた。確かに救いを実感した。しかし今、迫害されている。洗礼を受けたのになぜこんなにも試練ばかりに襲われるのか。それならば、キリストのみにこだわるよりも、割礼を受け、ユダヤ化主義者に擦り寄れば楽になる。割礼を受け、律法を大切にすることは悪いことではない。何よりパウロ先生も律法が悪とは言っていないし、先生も割礼を受けている。ならば、私たちもキリストを信じ、神を礼拝しているのだから、割礼を受け、律法によって義とされることを求めることは悪くないはず。割礼は悪なのか、割礼で愛の主が何の役にも立たなくなり、縁もゆかりもない者とされ、頂いた恵みも失うとは明らかに脅しである」。しかし、パウロは譲らない。ガラテヤの人々を子どものように愛しているから。だから、嫌われても言わざるを得ない。そして今朝、父なる神様は東村山教会に連なる私たちにも愛をもって問われる。「あなたはキリストのみで歩むか、それともキリストを捨てるか」。その意味で、今朝の御言葉は、神様からの「踏み絵」なのかもしれません。

<心の割礼>
 さて、今朝は旧約聖書エレミヤ書第9章を朗読して頂きました。エレミヤが伝えるのは、形式的な割礼には意味がない。割礼があるだけでは救われないということです。実際、25節後半に「また、心に割礼のないイスラエルの家を/すべて罰する。」とあります。エレミヤが大切にするのは「心の割礼」です。「心の割礼」とは、包皮に施された割礼でなく、霊によって心に施された割礼のことです。割礼とは、神様の民とされたことを感謝し、包皮に施す印。その印が肉でなく心に施される、つまり神様の民とされた恵みを心に刻み、たとえ突然の試練に襲われても、神様の救いを信じ続ける、それが心の割礼なのです。
 私たちキリスト者も心の割礼とは無縁ではありません。私たちは一人の例外もなく罪人であり、神様の怒りを受けるしかない者です。自分の力で罪の支配から抜け出し、神様の御前に正しい者として立てる者はいません。そのような私たちのために、神様は御子を世に遣わし、十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって永遠の命を約束してくださったのです。その救いの恵みが私たちの心に、聖霊によって刻みつけられることが、心の割礼なのです。その意味で、パウロが語ることはエレミヤが語ることと重なる。形式的な割礼ではなく、ただ神様の救い、御子の救いを信じ続けることが大切なのです。

<キリスト・イエスに結ばれていれば>
ガラテヤ書に戻ります。第5章5節以下。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」
 パウロは、「愛の起源である信仰こそ大切」と語ります。ガラテヤの信徒への手紙で愛が語られるのは、この第5章6節が最初です。パウロは、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題でなく、愛が大切」と語っているように思ってしまう。しかし、「愛の実践を伴う信仰こそ大切」とパウロは語るのです。このこともパウロは「しっかり聞きなさい」と告げています。さらに、「義とされ、救いに入れられるのは、キリストのみによる」と告げる。だから、「キリスト・イエスに結ばれていれば」が決定的なのです。キリスト・イエスに結ばれる。それ以外では誰一人、最後の審判に耐えることはできないのです。
 ところで、6節の冒頭は「キリスト・イエスに結ばれていれば」です。なぜ、「キリストに結ばれて」でなく、「キリスト・イエスに結ばれて」なのか。そうです。パウロはここで、「キリスト(救い主)こそイエス」と信仰を告白するのです。信仰とは「主の名」を呼び続けること、キリスト・イエスを呼び続け、キリスト・イエスの恵み、キリスト・イエスの力に信頼し続けることなのです。
 信仰は、主イエス以外をキリストとしません。信仰は、御子を復活させた父なる神様のみを神様とするのです。ですから、肉の割礼には意味がない。必要なのはただ一つ。主イエスの足もとに身を置いて、主の御言葉を聞き続ける。それ以外のものは要らないのです。

<愛の実践を伴う信仰>
皆さんも経験があるはず。今日はあの人の話を聴いてあげよう。今日は病院のベッドで過ごしているあの人のお見舞いに行ってあげよう。そして実行する。すると、不思議なことですが、喜んでくれた相手の笑顔、感謝の言葉、そして祈りによって、溢れる恵みを頂ける。そこに聖霊が働く。その場所に十字架と復活、そして再臨のキリストがおられるからです。
だからパウロは命じる。「愛に生きて欲しい。そのとき、割礼に心を奪われることはなくなる。愛に生きて欲しい。そのとき、律法からも解放される。なぜなら、律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』によって全うされるから。愛の実践を伴う信仰を保ち続けていれば、御子と縁もゆかりもなくなることはない。なくなるどころか、私たちは永遠にキリストと共に生き続ける。それがキリスト者の希望であり、正義なのだ。」
御子が私たちの罪を赦すべく十字架で贖いの死を成し遂げられた前夜、御子は弟子たちの前にひざまずき、汚れた足を丁寧に洗ってくださった。さらに、足の水を手ぬぐいで拭ってくださった。その後、弟子たちに命じられたのです。「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。(ヨハネ福音書13:14~15)」。
御子は今、私たちに語ります。「あなたはあの日、あの教会で洗礼を受けた。あの瞬間、あなたに聖霊が注がれ、罪のあなたは死んだのだ。だから肉の割礼を施す必要はなくなった。どうか、私のみを信じ歩み続けて欲しい。あなたを罪から救い、赦したのは私だ。その私があなたの足を洗った。だから、あなたも自分の足だけでなく、隣人の足を洗い続けて欲しい。愛の業を行なえるよう神様はあなたに聖霊を注ぎ続ける。だから、互いに足を洗い続けなさい。痛みを共有し、涙を流して欲しい。祈りあって欲しい。『御国が来ますように』と。そのとき、私はあなたがたと共にいる。恵みがあなたがたから失われることはない。なぜなら私はあなたがたの友であり、神様はあなたがたの父だから。」
肉の割礼でなく、心の割礼を大切にしたい。十字架による御子の赦し、復活による永遠の命を心に刻みつつ、今もそして永遠に御子と共に歩み続けたい。心から願います。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・先週は臨時教会総会で長老選挙が主の御心によって執り行われたことを深く感謝致します。新たに選ばれた四名の長老に聖霊を注ぎ続けてください。一年の任期がある四名の長老と合わせ八名の長老を来年度も存分に用いてください。
・明日は3月11日です。被災された方々、諸教会への祈り。
・求道者への祈り。
・日本基督教団の歩みへの祈り。
・東京神学大学の歩みへの祈り。
・礼拝後、今年度最後の各委員会等が行われます。この一年のそれぞれの会の奉仕者をあなた様が労ってくださいますよう祈ります。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年3月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第21章9節~21節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第4章21節~第5章1節
説教題「この自由を得させるために」    
讃美歌:546、86、265、21-81、360、544          

<この自由を得させるために> 
今朝は、ガラテヤ書の第4章21節から第5章1節を朗読して頂きました。第5章1節に「この自由を得させるために」とあります。パウロは、「この自由」について、創世記とイザヤ書を用いて第4章21節から31節で語るのです。
今朝、皆さんと心に刻みたいことは、主イエスによる十字架での贖いの死によって、私たちキリスト者は罪から救われ、自由を与えられた恵みです。その自由を目と口で味わうのが、この後に与る聖餐の食卓なのです。
私たちは時に、「私には自由がない」と嘆きます。そのとき、私たちが考える自由はパウロが語る「自由」とは違います。「自由に時間を使いたい」。「様々なしがらみから自由になりたい」。中高生なら「校則から自由になりたい」。そうした自由は、極端な表現をすれば、「やりたい放題の自由」かもしれません。
 けれども、「やりたい放題の自由」は、もしかするとどこかで疲れてしまい、自由と思っていたのに、徐々に色々なことに縛られてしまうかもしれません。一方、パウロが語る「自由」は、「キリスト者の自由」を意味するのです。
ドイツの改革者マルティン・ルターの著作に「キリスト者の自由」がございます。ルターは、このように結びます。「キリスト者は自分自身においては生きないで、キリストと隣人とにおいて生きる。キリストにおいては信仰によって、隣人においては愛によって生きるのである。」確かに、信仰告白し、洗礼を授けられたキリスト者は、世を支配する諸霊に服する必要がなくなる。自由を得たからこそ、喜んで主に仕え、喜んで隣人に仕えるのです。

<対比を用いて>
 パウロは、福音の真理がガラテヤの人たちになかなか伝わらない状況の中、途方に暮れても、父なる神様が必ず良い方向に導いてくださると信じ、語調を変えて語り続けました。「わたしに答えてください。律法の下(もと)にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」
 21節でパウロは、律法という言葉を続けます。最初の「律法の下にいたい」の律法は十戒を代表する律法を意味する。続く「律法の言うことに」の律法は、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記からなる「律法の書」を意味します。よって、「律法の言うことに耳を貸さないのですか」は、「聖書の言うことに耳を貸さないのですか」という意味です。
 パウロは、「聖書の言うことに耳を貸さないのですか」と問いつつ、創世記、イザヤ書等の御言葉を語るのです。まず、アブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルと、妻サラとの間に生まれたイサクについて語り始める。ここでのパウロの語りの特徴は「対比」です。22節では、「女奴隷」と「自由な身の女」の対比。23節では「肉によって生まれた」と「約束によって生まれた」を対比する。さらに25節以下では、「今のエルサレム」と、「天のエルサレム」を対比した上で「女奴隷ハガルとイシュマエル」の歩みと「自由な身の女サラとイサク」の歩みを対比させるのです。

<アブラハムとサラの罪>
アブラハムとサラは罪を犯しました。神様の約束を信じられない罪です。私たちも神様の約束を信じたくても、信じられないことがある。そのとき、神様の約束を待つよりも、人間の知恵で厳しい局面を打開しようとする。むしろ、そのことを評価する心がある。祈って待ち続けるのは無意味とさえ呟く。そのとき私たちも罪を犯すのです。神様の約束を信じられない罪を。
100歳のアブラハムと90歳のサラ、世の常識で判断したとき、子どもが与えられない事実を前に、女奴隷ハガルを用いた。信仰の父アブラハムはサラの願いを聞き入れ、ハガルのところに入り、イシュマエルが与えられたのです。つまり、信仰の父アブラハムとサラも、神様の約束を信じられなかったのです。
 だからこそ、パウロがガラテヤ書第4章23節で「自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。」と言うとき、その言葉は大きな重みを持つのです。冒頭でも触れたように「自由な女」というと、自分の思い通りになる女性をイメージしますが、それは違います。確かにサラは自由な思いでハガルにアブラハムの子を産ませた。けれども、神様は約束を成し遂げてくださった。神様の約束を信じられなかったサラに、アブラハムとの子イサクを与えられた。そこにはサラの自由はなく、神様の選びと約束がある。パウロは、ガラテヤの人たちに神様の選びと約束を何としても刻んで欲しかったのです。
 サラの自由、さらに私たちキリスト者の自由は、すべて神様の約束に根拠があります。繰り返しになりますが、サラも私たちも神様の救いの約束が土台になければ子を産む自由はない。しかし、神様の救いの約束を信じ続ける者には、救いの約束が必ず成就するとパウロは今朝、私たちにも伝えるのです。
ところで26節に「天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」とある。「天のエルサレム」とは、天にある神の都を意味します。けれども、天にある神の都が私たちの世にはないとは言えません。神の都は地上にも建てられる。つまり、「天のエルサレム」を私たちの母とすることで、私たちも地上で神の都を味わえる。その根拠が聖餐の食卓です。
御子による救いと自由を目と口で味わう。そのとき、私たちの東村山教会が天のエルサレム、神の都となるのです。

<喜びの声をあげて叫べ>
 ところで、今朝のガラテヤ書でオヤッ?と思う御言葉がある。27節。「なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」最初この御言葉を読んだとき、意味が分かりませんでした。パウロはなぜ、この御言葉を引用したのか。これは、旧約聖書イザヤ書第54章1節からの引用です。イザヤ書にはこうある。「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。」この世の常識では素直に読めません。不妊の女性、また夫に捨てられた女性がなぜ多くの子を産めるのか?神様はイザヤを通し、私たちに何を伝えようとしているのでしょう?
「一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産む」の意味は、人の業で無理に道を開こうとするより、神様の約束を信じ、救いを待ち続ける人は、主によって多くの恵みを与えられると理解すると心にストンと落ちる。ここでパウロが意識しているのは、アブラハムとサラです。さらにガラテヤの人々に割礼と律法を繰り返し要求する律法主義者です。神様の約束を疑い、この世の知恵でハガルにイシュマエルを産ませた罪。また、主の十字架の贖いだけでは物足りないと迫害する罪。結果、激しく動揺しているガラテヤのキリスト者に、創世記とイザヤ書等の御言葉を通し、「神様の約束を信じ、祈って待ち続けよ!律法主義者の方に行かないように!」と忠告した。その上で宣言するのです。28節。「兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。」

<約束の子>
 アブラハムに対する神様の約束はイサクによって成就しました。同じようにガラテヤの人たちにも神様による救いの約束は成就していると宣言するのです。
 29節以下で「約束の子」は、迫害する者たちと対比されています。「約束の子」は「肉によって」ではなく、「霊によって生まれた」と。「肉によって生まれた者」は「律法」に縛られ「奴隷の身分」にある。しかし「霊によって生まれた者」は自由な身の女から生まれたとパウロは語るのです。
「霊によって生まれた」とは、霊によって神様との交わりに入れられ、その人の生きる力になっているということです。霊によって生きる人はキリストのものとされた人です。
他方「肉によって生まれた者」は、血の繋がりを誇りにし、人間的なものを土台にして生きる人です。神様の約束を土台にしない。神様の眼差しを避け、御子キリストの恵みから離れている人です。
だからこそ、パウロは繰り返し、語調を変えて語る。「あなたがたは、女奴隷の子ではない。自由な身の女から生まれた。肉ではなく、霊によって生まれた。あなたがたは霊的な者である」と。
 確かにガラテヤの人たちは、ユダヤ教の律法主義(割礼、律法遵守)を要求され苦しんでいる。だからこそパウロは語るのです。28節以下。「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。」
 「あのときと同じ迫害」とパウロは語る。「あのとき」とは、アブラハムに子が生まれると約束され、子が生まれた後の「あのとき」です。アブラハムと妻サラの間にイサクが生まれた後の様子を、今朝の旧約聖書 創世記 第21章は伝える。9節以下。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。』」。
 「からかっている」と訳された原語は「遊んでいる」との意味もありますが、ここでは「血を流す」という意味のようです。パウロもそのように理解します。「あのとき、ハガルの子イシュマエルがサラの子イサクをいじめ、激しく迫害した。同じことが今も行われている」と。肉により生まれた者から、霊により生まれた者への迫害は、旧約、新約の時代、また今もある。私たちもこの世でキリスト者として歩み続けるのは決して楽ではありません。しかし、パウロは迫害には終わりがあると語る。その根拠こそ、30節。「聖書に何と書いてありますか。女奴隷とその子を追い出せ。」なのです。
 「追い出せ」は、激しい言葉です。確かに、創世記第21章10節でサラはアブラハムに「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」と訴える。
 しかし、神様はアブラハムに言われたのです。11節。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」
 ここでも、神様は約束を与えておられる。イサクを迫害したイシュマエルと母ハガルを滅ぼす約束ではありません。イシュマエルと母ハガルを守り続けるとの約束です。神様はどこまでも私たちの面倒を見てくださる御方なのです。
 神様は、パウロを通して創世記 第21章9節から21節をガラテヤの人たち、また様々な不安や恐れを抱いている私たちに救いの御言葉として語り続ける。17、18節は心に響きます。「神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。』」神様は、ハガルとイシュマエル、そして私たちにも深い愛を注ぎ、「恐れることはない」と語り、救いを約束してくださる。サラに追い出されたハガルとイシュマエルが、「私たちは死んでしまいます」と声をあげてワンワン泣いているところまでついて行き、助けてくださるのです。これこそ、神様の恵みと憐れみです。
私たちも御子の十字架の贖いによって罪を赦され、聖餐の食卓が用意されている。それにもかかわらず、諸霊に誘われることがある。自由を誤解し、「何で窮屈な思いをしなければならないのか」と呟く。けれども、そのような罪の私たちのために御子は十字架で死なれ、神様と人に喜んで仕える自由を私たちに与えてくださったのです。

<しっかりしなさい>
 パウロは、ガラテヤの人びとにキリスト者に与えられた自由を心から感謝し、忘れないで欲しいと本気で願っている。だから語り続けるのです。第5章1節。「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。」
「軛」とは農耕用語で、家畜を拘束して耕作に用いるための道具です。軛を牛などの家畜にはめると、自由が奪われる。そこから、奴隷の軛は、人の自由を奪って拘束する、律法の遵守を意味すると思われます。異邦人キリスト者が割礼を受け、イスラエルの家に入り、律法を遵守することの耐え難い重荷こそ、奴隷の軛です。パウロは、「奴隷の軛に二度とつながれるな」と愛するガラテヤのキリスト者に心を込めて伝えるのです。
 「しっかりしなさい」とは、「堅く立ち続けなさい」という意味です。それも、自分の力で立ち続けるのではなく、主イエスによって堅く立ち続けるのです。パウロは、ガラテヤの信徒に加え、私たちにも語ります。「たとえ、突然の試練、悲しみに襲われても、父なる神様は、あなたがたを守り続ける。アブラハムとサラ、ハガルとイシュマエルを守られた。であるなら、あなたがたも忍耐し、神様の救いの約束を信じ、愛に生きて欲しい。あなたがたにも『キリスト者の自由』が与えられたのだから。」
私たちキリスト者は、堅く立つ場所をキリストの十字架の中に持っています。主の十字架に立ち続けるなら、奴隷の軛に繋がれない自由が与えられる。割礼の軛、律法の軛、また諸霊の軛からも自由にされるのです。「キリスト者の自由」を心に刻むとき、私たちは神様と隣人に仕える喜びと愛に満たされるのです。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる御神、御言葉を感謝いたします。どうか、主の約束を信じ、自由を与えられた者として、喜んで あなた様と隣人に仕える者としてください。主イエス・キリストの御名によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・今日の礼拝後、臨時教会総会において長老選挙が行われます。今年度で任期を終える4名の長老の労をあなた様が労ってください。そして選挙において、主の御心がなりますようお導きください。
・季節の変わり目に入っております。体調を崩している方々、手術を終えて、療養を続けている方々をどうぞお導きください。特に、先週の月曜日に大きな手術を終えたにもかかわらず、今朝もあなた様によって聖霊を注がれ、礼拝へ招かれた加藤常昭先生の心身のご健康をこれからも守り、導いてください。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年2月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ミカ書 第7章1節~7節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第4章12節~20節
説教題「途方に暮れても」    
讃美歌:546、Ⅱ-1、195、525、543          

<途方に暮れても>
パウロは今、途方に暮れております。20節で「途方に暮れて」と訳された原語には「通れない」という意味があります。つまり、「道を失い、どうすれば良いか分からない」という意味です。パウロは今、ガラテヤの人々と繋がったはずの道を失い、どうすれば良いか分からなくなり、途方に暮れているのです。
 皆さんも日々の生活で感じるはずです。夫婦、親子、親戚であっても、自分の言葉が相手に伝わらない悲しさ、切なさを。さらにもっと辛いのは、互いに心が繋がっていると思っていた相手から、突然、何の挨拶もなく去られたとき。そのとき私たちは相手を責めることもあれば、自分を責めることもある。「なぜ、良好な関係だったはずなのに、突然こんなことになったのか」と。そのとき、私たちも途方に暮れるのです。

<救いの神を待つ>
 今朝は、ガラテヤ書と共に、旧約聖書ミカ書を朗読して頂きました。預言者ミカは、第7章で私たちの罪を語る。パウロが途方に暮れているように、誰もお互いを信じることができなくなっている悲しみを語るのです。5節、6節を改めて朗読致します。「隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも/お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り/娘は母に、嫁は しゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。」
 ミカの言葉は心に刺さります。隣人を信じるな。さらに、愛する家族も信頼するなと。その上でミカは宣言する。7節。「しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。」この預言は驚きます。預言者の信仰の言葉です。はじめに、私たちの罪を認め、悲しむ。だからこそ、主を仰ぎ、救いの神を待ち続けるのです。
 伝道者パウロも、ミカの信仰を継承しているように思います。パウロは語る。「私は今、途方に暮れている。だからこそ、神様を仰ぎ、御子の救いを信じる。主は、わたしの願いを聞かれる。いつの日か、もう一度ガラテヤの人々が御子に倣うと信じ、キリスト者の真理、キリスト者の自由を語り続ける」。
実は、主イエスこそ愛する弟子たちに裏切られた。さらに十字架で、父なる神様からも見捨てられた。だから叫ぶのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
 主イエスも、十字架で途方に暮れてくださった。その結果、私たちが途方に暮れても、主の十字架と復活によって心を高くあげる勇気を頂けたのです。
主は十字架で処刑される前、説教をなさいました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」パウロも、心に刻んでいたはずです。「確かに今、途方に暮れている。しかし、主にあって勇気を出せる。主は、十字架の死によって世に勝利された。復活によって死に勝利された。だから、途方に暮れてもガラテヤの人々を愛し、我が子のように、兄弟姉妹のように、家族のように愛し続けよう」。その結果、ガラテヤ書は第4章20節で終わることなく、第6章18節「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」との祝福の祈りへと続くのです。

<神の使いであるかのように>
 ところで、第4章15節に「あなたがたが味わっていた幸福」とある。「幸福」と訳された原語は、マタイによる福音書 第5章にある山上の説教「心の貧しい人々は、幸いである」の「幸い」に通じる言葉です。主イエスが「幸いだ」と語られたように、ガラテヤの人々はパウロが語る福音で心が満たされたのです。「パウロ先生が、ガラテヤにいらしてくださった。心を込めて伝道の業に邁進してくださった。結果、私たちは洗礼の恵みへ導かれた。そのすべてが幸いだ」と心から主に感謝したのです。
 そのときのパウロは、どのような健康状態だったのでしょうか?13節に「体が弱くなった」とあるように病に苦しんでいたようです。パウロの病について様々な推測がありますが、15節後半に、「自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとした」とあるように、眼の病を患っていたと推測する人がおります。さらに、パウロはてんかん持ちであったとも言われております。しかし、推測です。その上で確かなことは、パウロを見ると人々がすぐ、「この人はひどい病を患っている」と分かるほど、重い病に侵されていたのです。
パウロの時代、病に侵されている人を伝道者として受け入れることは簡単なことではありません。今の時代も病弱な牧師を受け入れるのはなかなか難しい。どの教会も病弱な牧師より健康な牧師を求めます。さらにパウロの時代、「この人は、神様の恵みを語るが、自らの病ひとつ治せない。病に侵された肉体を、神様に清めていただくことすら求められない。こういうパウロを伝道者として用いる神様は真の神様なのか?」とつぶやくことは自由なのです。
しかし、ガラテヤの人々はまったくそのような顔をすることなく、「かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれ」たのです。
本来なら、肉体の病は神様から呪われていると思われてもおかしくなかった。神の使いでなく、悪魔の使いと疑われても仕方がなかったのです。だからこそ、パウロは当時を振り返り深く感謝しつつ、「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか」と途方に暮れているのです。
 
<語調を変える>
 そのパウロがガラテヤの人々に語りかける。12節でパウロは、「兄弟たち、お願いします」と語る。兄弟と言っても男性だけではありません。女性も含みます。そして19節、まるで母親のように語調を変える。「わたしの子供たち」と語りかけるのです。
ガラテヤの信徒への手紙を読み続けている私たちは、パウロが怒り、感情をむき出しにすることを知っています。実際、第3章冒頭で「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」と語りかけた。「物分かりの悪い」は穏やかな訳ですが、実際は「何て馬鹿なガラテヤの人たち」です。そのパウロが母親の愛をもって「わたしの子供たち」と語調を変えて語りかけているのです。
 私たちは心から隣人を愛し、「わかって欲しい!」と思わなければ「わたしの子供たち」とは言えないはずです。まして12節にあるよう「わたしのようになってください」と伝えたら、「あなた何様のつもり」と言われそうで、黙ってしまうかもしれません。しかし、パウロは本気で語るのです。「わたしのようになってください。あなたもキリストに結ばれ、キリストを着た。それなのに、キリスト以外の諸霊に仕えることはやめてほしい。私は諦めない。あなたの父、また母としてあなたがキリスト者として成長するよう、あなたを愛し続ける。確かに今、途方に暮れている。あなたに繋がったはずの橋が崩れた。しかし、崩れたら、また橋を造ればいい。その橋も私の努力だけで造るのでなく、主が働いてくださると信じている。そのために語調を変えてでも私は語り続ける。だって、あなたは私の子どもであり、私の家族だから。」
パウロだけでなく、伝道者は途方に暮れる日がある。なかなか福音の真理が届かない。伝道者だけではありません。皆さんも同じ。受洗してからこそ途方に暮れる日がある。しかし、福音の真理を信じ、語り続けるのです。「キリストこそ真の救い主」と。たとえ神様の愛を疑うような自然災害、悲惨な出来事が続いても、たとえ愛する人が召されても、たとえ手術を控え不安な夜を過ごしても、たとえ家族から見捨てられても、主キリストによって示された神様の愛から私たちは誰一人引き離されることはないのです。
 
<キリストが形づくられる>
さて19節に「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」とあります。パウロは、今の苦しみを「産みの苦しみ」と表現します。パウロが苦しむ時、その苦しみは何のためかというと、「キリストがあなたがたの内に形づくられる」ためと言うのです。
「形づくられる」と訳された原語には、「初めは形のなかったものが、形あるものになって行く」という意味があります。具体的には、母の胎内に子どもの姿がだんだんと形づくられていくことを表すための言葉です。妊娠した母親が、赤ちゃんの鼓動を感じ、神様から与えられた命がだんだんと形になり、やがて手足が動き始める。そして、出産の苦しみと喜びを味わう。パウロは、出産と同じように、キリストが産み落とされるために苦しむのです。
確かに、私たちも洗礼を受け、キリストに結ばれ、キリストを着た。しかし、途方に暮れる日がある。言葉が通じない日がある。諸霊に救いを求めてしまう日もある。だからこそ、父なる神様からキリスト者としての成長を期待され、今朝も礼拝へと招かれたのです。

<できることなら>
 途方に暮れているパウロ。そのパウロの願いは、「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい」です。途方に暮れているからこそ、「できることなら、手紙ではなく、直接、ガラテヤに行きたい。そして、語調を変えてあなたがたに話したい」と心から願っているのです。
「できることなら」が心に響く。パウロには、できるかどうか分からない。ガラテヤの人々の心を自由自在に扱えるという自信などないのです。パウロがまいっている。語調を変えようとするが、本当に人々に福音の真理が届くのか、再びガラテヤの人々と自分との間に橋を造ることができるのか、まったく自信がない。だから途方に暮れているのです。
パウロ自身も完成したキリスト者ではありません。カッとなり言葉がきつくなることもあった。持病に悩み、「伝道を諦めよう」と弱気になることもあったはず。私たちも完成したキリスト者ではありません。様々なことに悩み、途方に暮れる日がある。しかし、洗礼を受けた私たちは、常に御子の十字架と復活、そして再臨の光に照らされている。途方に暮れても、心を高くあげて、神様を仰ぎ続けることができるのです。
この後、讃美歌525番を賛美します。「めぐみふかき 主のほか、たれか
われを なぐさめん。わが主、わが神、恵みたまえ、ただ頼りゆく わが身を」。
たとえ誰一人、私たちを慰めることがなくても、父なる神様、子なる神様、聖霊なる神様が私たちから離れることは絶対にないのです。その恵みを信じ、ただ主を頼り続ける。そのときキリスト者は、一人の例外もなく、復活の命を約束された者として安心して終わりの日を迎えることができるのです。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・体調崩している兄弟姉妹、手術、検査入院を控えている方々を御手をもってお支え下さい。
・北海道で再び大きな地震が発生しました。不安な日々を過ごしておられる方々、今も震災、自然災害によって苦しんでいる全国、全世界の方々に聖霊を溢れるほどに注ぎ続けて下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年2月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第11章1節~4節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第4章8節~11節
説教題「神から知られているのに」    
讃美歌:546、73、Ⅱ-83、497、542          

<呼ばれています>
 今、ご一緒に賛美したのは、讃美歌第2編83番「呼ばれています」です。皆さんの中で初めて賛美なさった方がおられたかもしれません。作曲したのは、髙田三郎(たかた・さぶろう)先生。国立音楽大学で指導され、幼少の頃から教会に通い、カトリックの信仰を持たれた方です。改めて1節の歌詞を味わいたい。「呼ばれています いつも、聞こえていますか いつも。はるかなとおい声だから、よい耳を よい耳をもたなければ。」
 パウロが、ガラテヤ教会の人々に今朝の第4章8節以下で伝えたいことは、「呼ばれています」と同じ心かもしれません。「あなたがたは、神様からいつも呼ばれています。神様の御声を聞き続けていないと、すぐに無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りする」と。
 
<神から知られているのに>
 ガラテヤの人々は、「主イエスこそキリスト(救い主)」と信仰告白し、受洗する前、「神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」とパウロは語ります。パウロの献身的な伝道によって、ガラテヤの人々の心に神様の愛が触れ、洗礼へ導かれた。結果、聖霊が注がれ、キリストに結ばれ、キリストを着る者となった。しかしです。ガラテヤの人々は、再び不安に陥ってしまった。「やはり、目に見える救いのしるし『割礼』が必要ではないか。ユダヤの人が大切にしているよう、私たちも律法を遵守するべきではないか。さらに、いろいろな日、月、時節、年などを守ることを大切にするべきではないか」と。
 パウロは、「どうしたらわかってもらえるのか!」と嘆きつつ、語るのです。「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度
改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」パウロがここまで断言できるのは確信があるからです。あなたがたは「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」。
もちろん、私たちも神様から知られています。それなのに、私たちは神様の眼差し、御声を感じなくなるほどの不安に陥ることがある。結果、神様以外のものに頼り、この世の様々な法則に右往左往することがあるのです。

<あなたがたのことが心配です>
 今日は日曜日。当然ですが明日は月曜日。学生は学校に行く。働いている人は職場へ出勤する。家庭の主婦も子育て、親の介護、パート、地域の繋がり等、忙しい日々となる。年齢を重ねている方は、病院やデーサービスに通う。それぞれの場所で、様々なことを求められることがある。職場、学校、病院、施設、地域のルールに従わなければならない。日本の社会でキリスト者が歩むには、様々な闘いがあることは否定できません。
 パウロが日本社会で悪戦苦闘している私たちをご覧になったら、何と言うでしょうか。「あなたがたも大変だね」と同情するか、あるいはガラテヤの人々と同じように、「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」と指摘されるか。おそらく、様々な暦に縛られている私たちを嘆くはずです。
10節でパウロが指摘するのは、「ユダヤの暦」だと思います。ユダヤ人も、日々の生活を整えようと、色々な暦を持っておりました。そして、「今日は何々の日だ」とか、「今月は何々の月だ」と心に刻む。暦の定めを大切にしたのです。キリスト者でない方は、「暦を大切にして何が悪いのか」と疑問に思われるかもしれません。しかしパウロは、ユダヤの人々が暦を重んじる生活を続けていることを問題にするのです。繰り返し伝えたことが何も伝わっていないと嘆き、なぜ神様から知られ、キリストに結ばれているのに、ユダヤの暦に心惹かれ、そのことをまた守ろうとするのかと嘆くのです。
続く11節に「あなたがたのために苦労したのは」とあります。私たちにもわかります。色々と考え、出来るだけの準備をし、相手に伝える。その結果、自分の思いが伝われば、それまでの苦労も吹っ飛ぶ。
先週は、いづみ愛児園の年長さん、年中さんにザアカイの説教を致しました。驚きました。まもなく卒園する園児さんが、当番なので朝の会の司会を担っておりましたが、何と自分の言葉でお祈りをしたのです。「今日は田村先生が来てくれました」。その後、大人なら「感謝します」と続きますが、言葉が止まった。それでも、その子のお祈りに涙が溢れました。「ああ、小さかったあの子が、私のことを祈ってくれた」。月に一度の説教ですから苦労でも何でもありませんが、素直に嬉しくなり、毎月の説教は無駄ではなかったと、心から感謝したのです。
しかし、パウロは違うのです。11節の最後「あなたがたのことが心配です」とあります。「心配です」と訳された原語には、「恐ろしい」、「怯える」という意味もあるのです。今までの苦労は何だったのか!と落ち込み、身体に痛みが走るほど不安になり、怯え、恐ろしくなった。心を込めて伝道したガラテヤの信徒たちが次々と諸霊の下に逆戻りしている。礼拝は守っていても、心は唯一の神様、主キリストになく、諸霊、日、月、時節、年などに奪われてしまった!とパウロは嘆いているのです。

<キリスト者の喜び>
 私たちも今朝、神様から知られている恵みを心に刻みたい。私も洗礼準備会では、繰り返し語ります。「私たちの歩みは、良いことも悪いこともすべて神様から知られている。あの日、罪を犯してしまった。汚い言葉を吐いてしまった。でも、だからこそ神様は罪の私たちを教会へと招いてくださった。神様から知られていることは、神様から常に監視されているように感じるかもしれない。しかし、それは違う。本当に感謝なことである。なぜなら、私たちの罪だけでなく、私たちが経験している試練、悲しみ、そのすべてをご存知であるから。誰も自分のことを認めてくれなくても、すべてをご存知の神様はあの日の事をきちんと認めてくださる。憐れんでくださる。喜んでくださる。つまり、神様から知られていることは監視されているというより、すべてをご存知の上で、常に見守られている喜びなのである」と。
パウロの心も同じではないでしょうか。「あなたの弱さも罪も喜びも悲しみもすべて神様は知っておられる。だから、御子を世に遣わし、十字架で贖いの死を成し遂げられ、あなたの罪をすべて赦してくださった。そしてあなたもそのことを信じ、信仰を告白し、洗礼を受けた。そのとき、聖霊が注がれ、神様の子どもとなった。キリストを着るものとなった。だから、どんなに辛い試練に襲われても、どんなに過去の過ちが深いものであっても、もうあなたは神様の子ども、キリストを着る者となったのだから何も恐れることなく、安心できる。」パウロは繰り返し、キリスト者の福音、喜びを語り続けた。
それなのにガラテヤの信徒たちは、キリストの十字架だけでは物足りない。やはり割礼が必要ではないか、律法を大切にすることは無視できないと考える。さらに日、月、時節、年は大切な暦だから、これからも大切にしても何の問題もない!と考えてしまったのです。
 
<わたしは愛した>
 今朝は、ガラテヤ書と共に旧約聖書ホセア書 第11章を朗読して頂きました。ある旧約学者は、ホセア書第11章を「ホセア書だけでなく全預言書の中でも、この章は、旧約聖書が神の愛について語った最も偉大で最も美しい詞章である」と記しておりました。改めて1節以下を朗読いたします。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。わたしは人間の綱(つな)、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎(あご)から軛(くびき)を取り去り/身をかがめて食べさせた。」
父と子の比喩で神様の愛が語られています。さらに預言者ホセアは、神様の愛を語りつつ、神様の愛を忘れ、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた子の罪を語るのです。
ところで、偶像礼拝とは何でしょうか?偶像礼拝とは、像を神様として礼拝することではなく、人間の想いを神様とすることです。つまり、私たちは偶像を拝むことはありませんが、様々な場面で神様の思いではなく、自らの思いを拝んでいることがあると思うのです。
私たちは様々な試練に襲われると、「なぜ私ばかり、試練に襲われるのか」と神様の愛を疑うことがあります。また、今の生活に不満を抱き、もっと豊かに、もっと快適にと思うとき、頭が欲望でいっぱいになる。そのときも、幼いときから頂いている神様からの溢れるほどの恵みを簡単に忘れてしまうのです。
けれども、父なる神様はどんなに子である私たちが偶像に心を奪われても、愛する我が子は必ず私の懐に帰って来ると信じ、待ち続けてくださるのです。特にホセア書第11章4節には、父なる神様が私たちの前で身をかがめてくださり、必要とする糧を与え続けてくださることが書かれております。ホセアの神様への理解は、「神様は子である私たちをとことん愛し、とことん思いやり、頑なな心の私たちだからこそ、その頑なな心を何としても赦したい!と真剣に願っておられる」と理解するのです。

<御声を聞き続ける>
神様は、東村山教会に連なる皆さんの過去の歩み、現在の歩み、そして将来の歩み、そのすべてご存知。だからこそ、今朝も私たちに語りかけてくださるのです。「色々なことが気になるだろう。不安もあるだろう。だから、私以外の諸霊に頼りたくなるかもしれない。ホセアの時代もそうだった。しかし、私はあなたを見捨てない。何があっても愛し続ける。なぜなら、あなたがたは私の子ども。あなたがたはキリストを着ているから。だから、辛いときは『アッバ、父よ』と祈って欲しい。必ずあなたに相応しい道を備える。だからもう、無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、奴隷として仕えるな。私の子として歩み続けて欲しい。これからもあなたがたを『子よ』と呼び続ける」。
礼拝を終えると、私たちは様々な課題のある世に遣わされます。早速、世の諸霊との闘いが待っています。しかし、私たちは神様の子とされた。キリストに結ばれ、キリストを着ているのです。諸霊の下への逆戻りはあり得ません。キリスト者の喜びに生き続けてよいのです。
神様の御声を聞き続ける「よい耳」、神様に祈り続ける「よい口」、神様と共に歩み続ける「よい足」を与えられた者として地上の命を誠実に歩み続けたい。心から願うものであります。

<祈祷>
天の父なる御神、今朝も私たちを「子よ」と呼び、命の御言葉をお与え下さり心より感謝いたします。どうか、あなたさまの御声を いつも聞き続けることができますよう お導きください。たとえ厳しい試練に襲われても、あなたさまの愛、御子の愛を信じ、諸霊の下に逆戻りすることのないよう お支えください。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
先週の主日は、共に礼拝をまもっておられる加藤常昭先生が心を込めて説教を担って下さいました。心より感謝いたします。健康が快復されたと感謝しておりますが、明日の月曜日に武蔵野赤十字病院で心臓の病の現状を改めて把握するため、シンチ検査、放射能による心臓の撮影をすることになったと伺いました。4月に90歳を迎えられるお身体には大変なご負担になると思います。主よ、どうか明日の検査の初めから終わりまで加藤先生と共におられ、守り、導いて下さい。どうか心臓の病が悪化することなく、御心ならば再び、東村山教会で説教を担って頂くことができますようお導き下さい。
 加藤先生に加え、たくさんの兄弟姉妹が病と闘っておられます。入院しておられる方、検査を控えている方、体調を崩している方、それぞれに不安を抱えておられます。主よ、それらの方々を御手をもって支え、導いて下さい。
 今日の午後は壮年会、婦人会を予定しております。良き交わりのとき、良き学びのときとなりますようお導き下さい。
 今朝、初めて礼拝に招かれた方々、熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、いつの日か信仰告白、洗礼へとお導き下さい。
今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年2月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第63章15節~16節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第4章1節~7節
説教題「『アッバ、父よ』と呼び続ける」    
讃美歌:546、16、314、Ⅱ-1、239、540          

<御子によって>
2月第1の主日となりました。今朝も、私たちの前に主の食卓が備えられております。当然ですが、父なる神様が御子を世にお遣わしにならなければ、主の食卓に与ることはなかった。そればかりか、「アッバ、父よ」と御子のように神様を呼ぶことも許されなかったのです。
主イエスは、私たちも神様を父と呼べるよう、地面にひれ伏し、祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。(マルコ福音書14:36)」
父なる神様と子なるキリストは、真なる親子です。本来、罪の私たちが御子のように神様を父と呼ぶことは絶対に許されません。しかし、信仰を告白し、洗礼を受けたことによって、私たちもキリストに結ばれ、神様の子とされた。結果、私たちも神様を父と呼べるようになったのです。
ガラテヤの信徒たちも、安心して神様を父と呼んでいた。それなのに、「洗礼を受けただけでは救われない。割礼を受け、律法を遵守しなさい」と惑わされ、信仰がぐらついている。だからこそ、パウロは手紙を記すのです。
第4章に入っても、パウロが伝えたいことは変わりません。それは、「父なる神様は、御子を通してすべての者に罪の赦し、永遠の命を約束しておられる。御子を通して全財産を相続させたい!と希望しておられる」ということです。 パウロは、そのことを具体的にイメージし易いよう、未成年、後見人、管理人等の言葉を用いるのです。

<世を支配する諸霊>
3節に注目すべき言葉があります。「世を支配する諸霊」。皆さんも何となく想像することができると思います。パウロの時代も現代も、世には諸霊がウヨウヨしております。先週の悲惨な報道を通しても、世が諸霊に惑わされていることがわかります。
「世を支配する諸霊」と訳された原語には、「諸々の原理、原則」という意味があります。具体的には二つの意味がある。一つは「盗むな、殺すな」という律法の支配。もう一つは性別、年齢、宇宙を構成する自然界の支配という意味です。つまり、「世を支配する諸霊」とはこういうことでしょう。
私たちが御子を知らない間は、「我が家は方角が悪いから不幸が続く」、「今年は厄年だから不幸が続く」、「私の手相は短命」と、世の諸霊に縛りつけられている。つまり、パウロの時代も現代も同じ。朝の情報番組で伝えられる星占い、今日のラッキーカラーを信じ、行動する人が大勢いる。パウロは、このような人は人間として未発達の「未成年」と告げるのです。
私たちは占いや血液型で一喜一憂することはありません。しかし、律法主義の心が潜んでいることを否定することはできません。「私は、年に数回しか礼拝に来ない落ちこぼれクリスチャンではない」と安心し、反対に「心身の衰えにより、きちんとあのこと、このことが出来なくなった。これでは、神様の子ではない」と呟いてしまう。やはり、御子が世に遣わされることがなければ、私たちも世を支配する諸霊に奴隷として仕えていたはず。神様が、全財産を相続させたい!と願っているにもかかわらず、未成年のまま死んでいたはずです。しかし、パウロは宣言する。「そのような時は終わった。神様の時が満ちた」と。
神様の時が満ちるまで、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていた未成年の私たちが、神様の時が満ち、御子が私たちに遣わされたことで、成人への道が拓かれた。日本では20歳になると成人式となります。けれどもパウロは、「私たちが成人となるのは、主イエスに出会い、信仰告白し、受洗し、キリストに結ばれ、神様の子とされるとき。そのとき、諸霊に奴隷として仕えていた状態から解放され、神様の子ども、相続人とされる」と宣言するのです。

<時が満ちると>
4節に、「時が満ちると」とあります。直訳すると、「時の充満が来たとき」となる。時の充満が来ると、虚しい時は終わるのです。なぜ終わったか?御子が生まれたからです。神様は、虚しい時を終わらせるべく、御子をお遣わしになられたのです。
細かいことですが、4節の「お遣わしになりました」は、ただ一度の出来事を表す動詞が用いられております。神様は、ただ一度の出来事として、「女から、しかも律法の下(もと)に生まれた者として」御子を世にお遣わしになったのです。
御子は、律法の下に生まれました。「律法の下」は、十字架の死を意味します。私たちが律法を含む諸霊の支配から解放されるべく、御子は十字架での贖いの死を成し遂げてくださったのです。

<贖いとは>
 5節に、「贖い出して」とあります。「贖い出して」と訳された元の言葉には、「買い戻す」という意味があります。
パウロは、「贖い」を、「御子の十字架の死による買い戻し」と語る。御子がお生まれになった目的は、「父なる神様が、世の諸霊に奴隷として仕えていた私たちを買い戻し、神様の子とすることにある」と語るのです。
御子が十字架で肉を裂かれ、血を流しつつ贖いの死を成し遂げられたことで、私たちは世を支配する諸霊に仕える奴隷の状態から解放された。さらに、御子と同じように、神様を「アッバ、父よ」と呼び続ける神様の子とされたのです。
神様の子とされるとは、私たちが神様にとってかけがえのない存在、神様の宝物にされるという意味です。父なる神様が私たちを常に見守ってくださり、私たちの存在を大きな喜びとしてくださるのです。
では、私たちが神様の子とされた事実は、どうすれば分かるのでしょうか?パウロは記す。6節。「あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」

<アッバ、父よ>
「アッバ」とは、生まれて何ヵ月か経過した乳児が、言葉にならない言葉で「ママ」、「パパ」とも聞こえる「アッバ」と声を発する。その「アッバ」を、神様を父と呼ぶ声、祈りの声とパウロは記します。
 赤ちゃんは一人では生きていけません。一人だと、すぐに死んでしまいます。だから、「お腹が空いた!」と泣き、「おむつを取り替えて!」と泣き続ける。赤ちゃんには遠慮がありません。だって、泣き続けないと死んでしまうから。私たちも、死なないよう、遠慮することなく「アッバ、父よ」と叫び続けたい。そうすれば父なる神様は、子である私たちの飢え渇きを必ず満たしてくださるのです。
それでも私たちは、神様の愛を疑うとき、信じられないときがある。「もしも、神様がおられるなら、何でこんなことが起きたのか!」と嘆き、怒りに震えることがある。そのとき、神様に祈れない。しかし、そのようなときこそ、神様の愛と憐れみを信じ、「アッバ、父よ」とうめきたい。「父よ」に抵抗があれば、ただ「アッバ」とうめくのです。
私たちが、「アッバ」とうめく。その「アッバ」は、天に届きます。たとえ、蚊の鳴くような小さな声で「アッバ」とうめいても、父なる神様には私たちの叫びとして伝わる。結果、父なる神様は、子である私たちを助けてくださるのです。
 
<あなたはわたしたちの父です>
 今朝はガラテヤ書に加えて、旧約聖書 イザヤ書 第63章を朗読して頂きました。15節に「どこにあるのですか/あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしに示されません。」とある。
「あなたのたぎる思い」とは、「あなたの腸(はらわた)の痛み」という意味です。イザヤは、「神様は、腸の激しい動きと痛みをもって、私たちを憐れみ、愛してくださる」と信じる。だからこそ16節に続くのです。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠(えいえん)の昔から あなたの御名(みな)です。」
 たとえ先祖たちが私たちを認めない!と言っても、神様は「わたしたちの父」、「わたしたちの贖い主」であると告白するのです。私たちも、父なる神様から見捨てられたように感じ、厳しい孤独に襲われても、神様を父と呼び続けたい。そのとき、私たちも世を支配する諸霊から解き放たれ、占いも迷信も恐れずに歩み続けることができるのです。

<あなたはもはや>
ガラテヤ書に戻ります。パウロは第4章7節で「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」と語ります。
「オヤッ?」と思われた方がおられるかもしれません。そうです。ここまでパウロは、「あなたがた」と語っていた。次の8節でも「あなたがたは」と語る。それなのに、7節だけ、「あなたはもはや奴隷ではなく」と「あなた」と語る。たまたまではないでしょう。パウロの思いがグッ!と入ったから「あなた」と語ったと思うのです。
洗礼を受け、キリストに結ばれたあなたも、あなたも、あなたも皆、「アッバ、父よ」と神様を呼ぶことができる。そう記しながらパウロは、ガラテヤ教会の一人一人の顔を思い浮かべたはずです。だからこそ、「あなたがた」ではなく、「あなたはもはや奴隷ではなく、神の子」と心を込めて記したのです。そして今朝、父なる神様は私たち一人一人にも語ってくださる。
「あの日、あなたは洗礼を受けた。心の底から喜んだ。それなのに、悩みの中にある。ようやく世を支配する諸霊から解放されたのに、また奴隷のように諸霊に仕えている。あなたは解放された。自由になった。もう奴隷ではない。御子によって、私(神様)の子どもとなったのだ。だから、心から私を信頼し、『アッバ、父よ』と呼び続けて欲しい。私は、大切な独り子をクリスマスの日、世に遣わした。そして、受難週の金曜日。十字架の上で、御子の肉が裂かれ、血潮を流し、息を引き取られた姿を腸(はらわた)がちぎれる思いで見届けた。そこまでして私(神様)と御子はあなたの罪を赦し、永遠の命を約束したのだ。あなたにとって、これ以上の財産があるだろうか。その驚くべき財産を今から目と口であなたは味わえる。聖餐の祝いにおいて。」
 そうです。私たちは聖餐に与るとき、神様の子どもとされた喜びに包まれる。そして、「アッバ、父よ」と神様に感謝の祈りを献げるのです。

<祈祷>
アッバ、父よ。洗礼により、御子の霊である聖霊を注ぎ、あなた様の子としてくださり深く感謝致します。世にウヨウヨしている諸霊に負けてしまう惨めな私たちだからこそ、あなた様は私たちを子としてくださったと信じます。主よ、これからもあなた様を『アッバ、父よ』と呼ばせてください。祈れないほどの試練に襲われても、ただ一言、「アッバ」と呼び続ける者としてお導きください。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・来週の主日は、共に礼拝を守ってくださる加藤常昭先生が説教を担われます。どうか、加藤先生の心身の健康を守り、溢れるほどに聖霊を注いでください。
・昨日は西東京教区 伝道部主催の教誨師の働きを支援する会が中野の更正教会で行われました。西東京教区には4人の先生が教誨師の働きを担っております。どうか、教誨の働きを担っておられる全国の先生を強め、励ましてください。また受刑者の方々が教誨師を通し、あなた様の愛と赦しを知ることが出来ますようお導きください。
・進路を選択する季節に入りました。新しい歩みを控えている方々を守り、助けてください。また東京神学大学も2月、3月入試を控えております。どうか、一人でも多くの献身者が与えられますよう聖霊を注いでください。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年1月27日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第61章10節~11節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第3章27節~29節
説教題「キリストを着ている喜び」    
讃美歌:546、54、Ⅱ-95、Ⅱ-136、539          

<惨めな私たち>
 一年でもっとも寒い季節を迎えております。今朝、多くの皆さんがコート等を着て教会に来られたと思います。今はコートよりも軽いダウンジャケットが好まれるかもしれません。いずれにせよ、コートを着ると東京の寒さはしのげます。しかし、コートではしのげない寒さがある。たとえ厚手のコートを身にまとっても己の惨めさをしのぐことはできません。
これまでの人生を振り返るとき、堂々と神様の御前に立てる人はいないはずです。「あの日、カッとなって、取り返しのつかない言葉をぶつけてしまった。あの日、『どうにでもなれ』と罪を犯してしまった。あの日、隣人の涙に本当の意味で寄り添えなかった」等、次々と惨めな私たちが吹き出してくる。真冬の寒さも辛いですが、それとは比較にならない惨めな姿に立ちすくむのが私たちの現実ではないでしょうか?
 私たちは裸のままでは生きられません。なぜか?裸になると、己の惨めさが暴露されるから。つまり、裸で神様の御前に立つことは難しい。それなのに、今朝も神様の御前に立ち、主の日の礼拝をまもっております。神様を父と呼び、主を高らかに賛美し、救いの約束を頂いている。何と言う恵みでしょうか。
パウロは語ります。27節。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」この宣言は、キリスト者にとって大いなる恵みです。己れの惨めさに耐えられないとき、夜になると繰り返し襲ってくる孤独に涙が止まらないとき、「こんなに頑張っているのに、誰も私を認めてくれない」と嘆くとき、「そうだ!私も洗礼を受けてキリストに結ばれた。この私もキリストを着ている!」と心の底から信じて良いのです。

<キリストを着るとは>
「キリストを着ている」という表現は、初代教会の洗礼式と関係があります。初代教会では洗礼を受けた人は、新しい白い衣をまとったと言われる。よって、洗礼を受けてキリストに結ばれた者は皆、「キリストを着ている」となるのです。その上で、「キリストを着ている」には、もう一つの意味もあります。
実は「着る」という原語には、「役者が役になりきって演じる」という意味があるのです。すなわち、役者がその人物を身につけ、その役を生きぬく。この姿勢をキリスト者は神様から求められている。つまり、キリストのように考え、キリストのように祈り、キリストのように歩む。この「キリストのように」を神様から期待されているのがキリスト者なのです。
しかし どうでしょう。神様の期待に応えているでしょうか。キリストを着ている者として、キリストのように歩んでいるでしょうか。「キリストのように」は、本当に難しい。では、なぜキリストのようになれないのでしょうか?
パウロは続けます。28節。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」パウロの主張は単純です。皆、新しい白い衣であるキリストを着ている。だから、私はユダヤ人、私はギリシア人、私は奴隷、私は自由人、私は男、私は女、はあり得ない。皆、キリスト・イエスを着ているのだから一つである。
 確かにそうです。それなのに、私たちはどうしても自分と他者を比較する。たとえ、皆がキリストを着ていても。パウロの時代のキリスト者、そして現代のキリスト者も、弱さは変わらないはず。どうしてもキリストを着て、一つとされている事実が薄れ、他者と比較し、少しでも自分に劣ることがあれば卑屈になり、少しでも自分に優位になることがあれば高慢になる。特にユダヤ人とギリシア人の対立は想像を絶するものであったと思います。
ユダヤ人は、「私たちは神様に選ばれた神の民。救いに与るべき者。私たちは、ギリシア人のような汚れた民ではない」と本気で思っている。ギリシア人も、「私たちは高い文明を持った民である。ユダヤ人は野蛮人」と本気で思っている。しかしパウロは、共にキリストを着た以上、そのような違いは何の意味もなくなった!と宣言する。奴隷か自由人か、男か女かも同じ。確かに社会的な立場の違いはある。けれども、救われるべき罪人という意味では全く同じなのです。
その意味で、私たちキリスト者が、キリストを着ているという大いなる恵みを心に刻み続けることは大切です。慰めを頂きたいとき、キリストを着ていると心に刻む。自分はあの人に比べて劣っていると落ち込むとき、反対に自分はあの人よりも優れていると高慢になるとき、上も下もない。皆、同じキリストを着ていると心に刻む。さらに、どちらを選択すべきかと悩むとき、そうだ!私はキリストを着ている。キリストならば、どちらを選択なさるだろうか?と祈りつつ問い続ける。その結果、聖霊によって与えられた思いを、主の御心と信じる。そのとき私たちは、キリストを着ている者として「キリストのように」生きることを大切にしたくなるのです。

<救いの衣、恵みの晴れ着>
 今朝はガラテヤ書に加え、イザヤ書第61章を朗読して頂きました。改めて10節を朗読致します。「わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿(むこ)のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。」
印象的な御言葉です。実は、旧約聖書において「着る」ことは、すでに重要な表現として用いられていました。預言者イザヤは、神様に対し徹底して受け身になり、救いの衣を着せて頂いた喜びと、恵みの晴れ着をまとわせて頂いた喜びを語っております。今までは嘆きの衣を着ていた。その衣に代えて、「救いの衣」、「恵みの晴れ着」を神様はイザヤにまとわせてくださったのです。
 私たちも同じです。洗礼を受けてキリストに結ばれた。その結果、キリストという名の「救いの衣」を着せて頂いた。神様が私たちに「恵みの晴れ着」をまとわせてくださったのです。キリストを「救いの衣」として着た私たちは、キリストと結ばれ、神様の子どもとされた。よって、私たちキリスト者こそ「主によって喜び楽しみ、神にあって喜び躍る」のです。

<約束による相続人>
パウロは、さらに恵みを語ります。29節。「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」パウロは断言する。「キリストを着たあなたがたは、アブラハムの子孫であり、約束による相続人である」と。「神様の約束」とは何でしょうか?それは、私たちが洗礼を受けたことでキリストに結ばれ、神様の子どもとされ、一つとなり、永遠の命が与えられることです。もっと言えば、神様のすべてを相続させて頂ける約束です。子が親のすべてを受け継ぐのは当然の権利です。私たちは、主キリストを着せて頂いたことで、神様の愛、赦し、平安、喜び、永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
神様がアブラハムに与えられた祝福は、すべての民に約束されました。そこには何の差別もありません。ユダヤ人もギリシア人も、もちろん日本人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男と女もありません。洗礼によってキリストに結ばれ、キリストを着るものとされた私たち。私たちはキリストにおいて一つとされ、神様の子どもとされた。その結果、神様のすべてを受け継ぐ相続人となった。この事実は、私たちキリスト者にとって本当に驚くべき恵みであり、大いなる喜びなのです。

<キリストを着ている喜び>
今日は、週報にもあるように、礼拝後に婦人会・壮年会合同の新年会を行います。テーマは葬儀について。長老会で昨年10月から協議してまいりました「葬儀のガイドライン(案)」と「信仰の遺言書」を元に葬儀について学びます。
 洗礼を受けてキリストに結ばれた私たちは、キリストを身にまとい死に臨みます。私たちは洗礼を受けたとき、キリストという名の恵みの晴れ着を着せて頂きました。その結果、たとえ今夜 召されたとしても大丈夫。惨めな私たちが神様の御前で審かれても大丈夫。なぜなら、私たちは皆、キリストという名の死装束を着ているから。それほどの恵みを頂いた私たちが地上の命を終えた後、主によって一つとされた神の家族と共に教会で葬儀を行えることは、深い慰めであり、大きな励ましとなるのです。
 この後、讃美歌 第2篇の136番をご一緒に賛美します。「キリストを着ている喜び」を神様に感謝するのに相応しい讃美歌を祈り求めました。示されたのは「われ聞けり かなたには」でした。3節の歌詞はこうです。「われ聞けり『みかむりと/ましろき衣をつけ/主をほむる民あり』と、われもともにうたわん。『ハレルヤ』とさけびつつ/みこえ聞きてよろこび、み国へとのぼりゆかん、わが旅路 終わらば。」そうです。私たちは洗礼によって神様から「ましろき衣なるキリスト」を着させて頂いた。もう惨めな裸ではないのです。しかし、やはり私たちは繰り返し罪を犯す。その結果、自分の惨めさに打ちひしがれる。でも、そのようなときこそ、神様に心からの悔い改めと感謝の祈りを献げるのです。「アッバ、父よ。今日も私は罪を犯しました。深くみ前に懺悔いたします。主よ、もしもキリストを身にまとっていなければ、『アッバ、父よ』と祈ること、罪の赦し、神様の約束による相続、永遠の命を頂くこともできませんでした。それなのに、洗礼によってキリストに結ばれ、神様の子となり、キリストを着させて頂き、安心して死を迎える者とされたのです。主よ、感謝致します。」
 洗礼を受けた私たちは皆、キリスト・イエスにおいて一つとされた。さらに、東村山教会に連なる兄弟姉妹と共に「ハレルヤ」と主を賛美し続ける喜びまで永遠に与えられたのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、パウロの語る言葉に、改めて大きな驚きを覚えます。私たちの常識を越える確かで、大いなる恵みの事実が語られているのです。すべての審き、差別の心を捨てることができますように。差別をもってしか、己の心を支えることができない、惨めな自分を恥じることができますように。また、キリストを着ている者として、安心して死を迎えることができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・主よ、手術を控えている方々、手術を終えて療養している方々、病と闘っている方々、病と闘っている家族を祈り続けている方々、心に不安を抱えている方々を強め、励まし、聖霊を溢れるほどに注いでください。
・全国、全世界で大型災害により、嘆きの中にある方々、今も困難な避難生活を強いられている方々、それらの方々を支援している方々、被災地の諸教会に慰めを注ぎ続けて下さい。
・主よ、熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ続けて下さい。そして、それぞれに相応しい時に信仰告白、洗礼へとお導き下さい。
・礼拝後に行われる、「婦人会・壮年会合同の新年会」を祝福して下さい。共にキリストを着ている者として、一つとなって意見を交換し、キリスト者として相応しい葬儀について祈りつつ学ぶことができますようお導き下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年1月13日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第27篇7節~10節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第3章23節~26節
説教題「信仰がやって来た」    
讃美歌:546、21、266、358、545A、427          

<発想の転換>
 私たちは今朝、発想の転換を神から求められています。「信仰」という字は、信じて仰ぐと書きます。たとえ突然の試練に襲われても、ぶれずに神を信じ、仰ぎ続ける。そのような立派な心こそ「信仰」と私たちは考えてしまいます。だからこそ呟く。「私は礼拝に通い続けています。それにもかかわらず、信仰が深くならない。そんな私と違い、あの人の信仰は深い。私は願う。信仰が深くならないかと。」そのように考える方がおられるはずです。そのような私たちに、パウロは驚くべき御言葉を発するのです。「信仰が現れる」。

<信仰が現れる>
 もしも、皆さんの中で「信仰が現れる」に何の違和感もなく、心にスーッと入った方がおられたら、「信仰」がわかっておられます。反対に、「えっ?信仰が現れる?」と驚いた方がおられたら、本当に良かったと思います。なぜなら、驚いた方は、今日から「信仰」についての考えが180度変えられるからです。「そうか!『信仰』って、そうなのか!」と、心が穏やかになる。もう、「これからどうやって、次の世代に『信仰』を継承しなければならないのか」と悩む必要もなくなる。それほどの御言葉をパウロは語る。その御言葉こそ「信仰が現れる」なのです。実は、ガラテヤ書 第3章23節冒頭で「信仰が現れる」と訳されたギリシア語は、「信仰が来る」という言葉です。そこで私は、説教題を「信仰がやって来た」にしたのです。

<信仰がやって来た>
私はこれまで、無難な説教題を付けておりました。もちろん、説教題は毎回悩みます。そして、御心と信じて決めるのです。だからこそ、そのほとんどが御言葉を説教題としておりました。しかし、今回は冒険したつもりです。「信仰がやって来た」。
毎週の説教題を記してくださる姉妹方に、心から感謝しておりますが、本日の説教題はS姉妹が記しておられます。記したとき、どう感じたでしょうか?「あれっ?」と思われたか、「その通り!」と思われたか。たとえどちらでも、信仰がやって来たのです。律法の下で監視され、閉じ込められていた私たちに。どうせ私はダメな親、ダメな夫、ダメな妻、ダメな子どもと落ち込む私たちに。
 私たちは誰一人、律法を完璧に遵守することは出来ません。それなのに、「私はダメ人間」と落ち込み、へたり込んでしまう時がある。そのような私たちに、信仰がやって来たのです。しかも、ただやって来て、終わりではない。何と、やって来た信仰によって、罪の私が、自分で自分が嫌になってしまう私が義とされる。私たちが犯した罪を一つ残らずご存知の神の御前で義とされ、正しい者とされる!とパウロは断言するのです。こんなに有難い話が世の中にあるでしょうか?
現代は、常に何らかの不安を煽られている時代に思えます。「あなたの年金が危ない。」「あなたの子育ては危険。」そのとき、私たちは混乱する。確かなしるしが欲しくなる。そのような心はガラテヤ教会の人々に通じるかもしれません。洗礼を受けた。もうこれで安心。そう思って主を賛美していた。しかし、それだけでは足りない。律法を守ることで本当の意味で私たちは救われる。無割礼など考えられない。目に見える救いのしるしである割礼を受けることが大切と煽られ、動揺しているキリスト者がいる。そのようなあなたに、信仰がやって来た!信仰が現れた!何を動揺しているのだ!とパウロは語るのです。

<神の子なのです>
さらに、パウロは語る。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」またまた驚きの言葉です。しかし、もしかすると皆さんの中でほとんどの方が、「田村先生、何を驚いているのですか?私たちが神の子であることは当然ですよね。」と思われた方が多いかもしれません。確かに、信仰を告白し、洗礼を受けた私たちキリスト者は皆、神の子となった。しかし、よく考えて頂きたいのですが、本当に神の子となったのです。皆さんの中で、親子でキリスト者の方、夫婦でキリスト者の方、兄弟で、姉妹でキリスト者の方がおられる。今、並んで座っているかもしれません。お互いに顔を見つめて、「あなたは神の子。私も神の子」と照れずに言えるでしょうか?本当に神の子となったのです。それも、律法を遵守しているからでも、優しいからでもなく、ただキリストを信じ、洗礼を授けられ、キリストに結び合わされたから。ただその一点のみにおいて、私たちは一人の例外もなく、神の子とされたのです。
 牧師として10年目を歩んでいる私も今朝の御言葉の恵みは驚きです。まず、信仰が現れる。やって来た。与えられるものであるとパウロは宣言している。しかし、それでも「ああ、何て私の信仰は弱く、情けないものなのか」と落ち込むことがある。今でも「牧師としてこんなことでよいのだろうか」と自らの信仰の貧しさを嘆くことがある。しかし、今朝の御言葉で、私も変えられた。もちろん、皆さんも同じです。すぐに「私の信仰はダメだ!」と呟いてしまう私たちだからこそ、キリストという名の信仰がやって来た。
激しく語るなら、私たちの中にキリストという名の信仰が介入した。しかも、信仰の介入は、今朝の礼拝に招かれた皆さん、受洗した方々に加え、求道者の皆さんにも現実となった。あとは、「ただキリストを信じます!」と信仰を告白するだけでよいのです。「罪の私だからこそ、神が送ってくださったキリストを、ただ信じます」と信仰を告白し、洗礼を授けて頂く。その瞬間、私たちは皆、キリスト・イエスに結ばれ、神の子となるのです。キリストと結ばれるということは、そうです。キリストと結婚する。キリストの花嫁となる。その結果、私たちは皆、神の子となるのです。何となく、神の子となるではありません。パウロが「あなたがたは皆」と語るよう、あなたも、あなたも、もちろん私も皆、神の子となる。いや、なったのです。だからこそ私たちは皆、何の遠慮も、何の言い訳もなく、「天の父なる神様」と祈ることが許されているのです。

<アッバ、父よ>
日々の祈りにおける神への呼びかけは、形式ではありません。皆が「天の父なる神様」と祈り始めているから、そのように祈らねばならない、ではなく、心から、「天の父なる神様、アッバ父よ」と呼びかけてよい。むしろ父なる神は、子である私たちの「アッバ、父よ」との祈りを日々、待っておられるのです。
それでも、このように思ってしまうかもしれません。「神の子として、『父よ』と神を呼べるのは、やはり御子キリストだけだ」。しかし、それは違う。洗礼によってキリストに結ばれた私たちは皆、心から「父なる神様、アッバ父よ」と呼べるのです。そのとき、私たちは信じる。キリストという名の信仰がやって来たことを。主に救われたことを。律法によって監視され、ビクビクしていた歩みから救われた。あの日、あの時、犯した罪に今も夢でうなされる日々から、主は私を救ってくださった。主は、「あなたの罪はすべて私が背負い、十字架の上で赦した」と宣言してくださった。私たちは、ただキリストのみを信じ歩み続けるのです。

<あなたは私の子どもなのだ>
父なる神は今朝、子である私たちに語りかけてくださいます。「あなたがたは『私は、キリストを救い主と信じます』と信仰を告白し、洗礼を受けた。そのとき、あなたがたはキリストに結ばれた。そのとき、あなたがたは死んだのだ。『洗礼を受けたのに、何も変わらない』と思っているかもしれない。でも、私は思わない。あなたがどう考えても、私はあなたを赦した。キリストの故に。あなたを赦したからには、あなたをキリストと全く同じように『私の子よ』と呼び続ける。だからあなたも、悩みも、苦しみも、痛みも、嘆きも、不安も、もちろん喜びも、父である私に遠慮することなく、ドンドン喋り続けなさい。私は、あなたの罪も弱さも痛みも知っている。だって、あなたを創造したのは私だから。あなたが弱く、罪深い者だから、独り子を送ったのだ。だからもう何も心配しなくていい。監視カメラのような、鞭で叩く養育係のような律法にビクビクしなくていい。もうあなたは自由だ。もうあなたは私の子どもなのだから。」

<愛する者を鍛える主>
 私たちにとって、キリスト・イエスは、生涯を決定する存在であり、喜びであり、驚くべき恵みです。私たちは御子を賜ったほどに父なる神から愛され、赦されている。そのような驚くべき恵みを心から感謝し、喜ぶとき、私たちは笑顔になるのです。確かに、子育ての疲れ、介護の厳しさ、仕事の悩み、友人関係の難しさ、すべての世代に悩みはあります。
それでも、日々の疲れ、悩み、将来への不安を感じている私たちも、すでにキリストに結ばれたのです。誰が何と言おうとキリストに結ばれた。その結果、私たちは神の子どもとなったのです。神に出来ないことはありません。もしも今、私たちを襲っている試練があるのなら、それは神からの試練です。
「神の子」というとき、大切な御言葉があります。私自身も何度も励まされ、何度も涙を流した御言葉です。ヘブライ人への手紙 第12章5節以下。「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。(12:5~7)」
そうです。私たちは洗礼によってキリストに結び合わされた。結果、神の子となったのです。だからこそ神は、時に、私たちを鍛えられる。父なる神は「何でもいいよ!」ではない。「あなたは私の子。キリストも十字架の上で忍耐した。でも、そのことであなたも、私の子となった。キリストはどうなった?そう。この世に勝利した。復活によって。あなたにも御子と同じ永遠の生命を与えたのだ。」
 「私の信仰は貧しい」と呟くのは今日で終わりにしましょう。謙遜な言葉のようですが、私たちと結婚してくださったキリストを貶めることに繋がるからです。私たちはどんなに身体が弱っても祈ることができます。病院のベッドの上でも、父なる神に祈ることができるのです。それも遠い存在の神に「天の父なる神様」と形式的に祈るのではない。目の前におられる父に、それも怒鳴り散らす父でなく、反対に何でもいいよ!の父でもない、本当に私たちを愛し、慈しむが故に、時に厳しい試練を与え、けれども、その心には火傷するほどの熱情のある神を「父よ」と呼べるのです。であるなら、子が親に泣きじゃくりながら、「何でわかってくれないのか!」と訴えるように、今の苦しみ、嘆き、試練をストレートに神にぶつけてよいのです。そのとき父なる神は、私たちをギュッと抱きしめ、共に泣いてくださる。そして、「もう何も恐れなくてよい。あなたのことは、これからどんな試練が襲っても私が守り続ける」と約束してくださるのです。

<祈祷>
天の父なる御神、信仰を感謝いたします。また私たちを子としてくださり感謝いたします。どうか、これからも父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神を信じ、あなた様の子として歩ませてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。教会の奉仕者の労を労ってください。長老、執事、奏楽者、教会学校の教師、礼拝当番、音響担当者、清掃奉仕者、説教題を筆で記してくださる方々、聖餐の係、お花の係、礼拝委員、伝道委員、財務委員、奉仕委員、「ぶどうの木」の編集委員、婦人会、壮年会の役員の方々、図書係、園芸係、バザー係、送迎を担ってくださる方々、チャイルドファンドジャパンの係、まだまだ目に見えるところ、見えないところでたくさんの方々があなた様に仕えておられます。主よ、お一人お一人の献身的なご奉仕を新しい年も存分に祝し、用いてください。
主よ、一年でもっとも寒い季節に入りました。体調を崩しておられる方々、心が萎えている方々を深く憐れんでください。それぞれの場所に聖霊を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年1月6日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第6章4節~9節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第3章19節~22節
説教題「律法に優る神の約束」    
讃美歌:546、3、411、21-81、Ⅱ-191、544        

<新年の祝福>
 主の年2019年が始まりました。東村山教会に連なる皆さんの歩みの上に、新しい年も主の祝福が豊かに注がれますようお祈りいたします。新年が始まり、すでに色々なことを私たちは経験しております。熊本では、大きな地震が発生しました。また週報に記載されているように、Ⅿ姉妹が召されたのです。新しい年を迎え、まだ6日であっても、色々なことがありますと私たちの心はざわつきます。私も、Ⅿ姉妹が突然召されたことはやはり心がざわつき、大きく乱れたことは否定することができません。しかし、昨日の葬儀や今朝の礼拝に与えられた御言葉を通して感じたのは、たとえ突然の出来事が私たちを襲うことがあっても、神の救いの約束は変わらない。たとえ、暗闇のような死、そして律法も主イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないとの確信を与えられたのです。

<律法とは>
 パウロは、ガラテヤ書 第3章19節で律法を定義します。「律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。」
興味深い定義に思えます。まず「約束を与えられたあの子孫」ですが、16節で「『子孫』とは、キリストのことです」とあるように、キリストを指します。パウロは、キリストが到来されるまで、いかに私たちが弱く、罪深い者であるかを心に刻みつけるために律法が与えられたと語る。さらに、律法は天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたと続けるのです。
実は、律法が「天使たちを通し」与えられたという表現は、「律法がどんなに優れているか」を表現しようとしたユダヤ教の伝統的な言い方でした。しかしパウロは、「天使たちを通し」は、優れた点にならない、むしろ劣った点であるとし、理由として、「神の約束は、神ご自身によって与えられたから」と語るのです。パウロは、「仲介者」が誰か具体的に記しておりません。しかし、十戒が授けられた御言葉を思い起こせば、仲介者がモーセであることは間違いないでしょう。いずれにしてもパウロは、神が直接、アブラハムに与えた約束が律法に優ると断定しているのです。

<神はひとり>
パウロは続けます。20節。「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要(い)りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。」
「神はひとりで事を運ばれた」と訳された原文は、「神は唯一」、「神のみが神」という文章です。それを「神はひとりで事を運ばれた」と訳したのです。「神のみが神」。この言葉にパウロの神への絶対的な信頼、また神の約束は、律法さえ無効にし、反故にすることはないとの信仰が込められているように感じます。
 「神の約束」は、「唯一の神」から私たちへの自由な愛によって結ばれました。ですから、神の約束は神以外の何ものにも依存しません。天使にも仲介者にも依存せず、約束の相手とされた私たちの業、つまり律法にも依存しないのです。唯一の神が、自由な愛と恵みと憐れみによって約束してくださり、約束されたことを時満ちたときに成就してくださるのです。
 それなのに、ガラテヤの反対者たちは、律法主義に凝り固まっている。律法を重視することをガラテヤの人々に求め続けるのです。だからこそパウロは、今朝の旧約聖書 申命記 第6章4節「主は唯一の主である」から、「神はひとり」と述べるのです。申命記 第6章は、ゴシックの小見出しに「唯一の主」とあるように、神以外のものを神とすることを戒める教えです。パウロはそのような律法を用いて、唯一の神がお決めになられた救いの約束を、私たちの業である律法が反故にすることはないと繰り返し語るのです。
 
<律法に優る神の約束>
但し、私たちは勘違いしてはいけません。パウロは一言も「律法を軽んじなさい」とは語っていません。むしろ21節でこのように語るのです。「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。」そうです。パウロは、神の約束と律法は反しない。いや密接に結び合っていると伝えるのです。ですから、やはり律法は大切なのです。
けれども、神の約束は律法に優る。パウロが21節以下で語るよう、律法は人を生かし、義とすることはできません。21節後半に「人を生かす」とあります。私たちキリスト者に神から与えられた約束の一つは、永遠の生命です。本来なら罪の私たちに永遠の生命が約束されることは難しい。それなのに約束されているのは、神の深い憐れみと主の十字架での贖いの死があるからです。決して、私たちが律法を遵守しているからではないのです。

<閉じ込められた私たち>
 パウロは、続く22節で本来の私たちの姿をこう述べております。「しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。」
この箇所だけ読むと心が騒ぎ、私たちはうなだれるしかないように思えます。実際、そうなのです。キリスト抜きですべてを判断し、歩むならば、私たちはどんなにもがいても、罪の支配下から抜け出すことの出来ない存在なのです。
パウロは、「閉じ込めた」と訳された原語を、第3章22節と23節で用いる外は、ローマの信徒への手紙 第11章32節「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」で用いております。閉じ込める主体は、ローマの信徒への手紙 第11章では「神」ですが、ガラテヤ書 第3章では、「聖書」が主語になっております。パウロの思いが込められて「聖書」が主語になっていると思いますが、やはりここでも、「聖書」イコール「神」と理解して間違いないと思います。
 いずれにせよ、神そのものである聖書が「すべてのものを罪の支配下に閉じ込めた」事実を私たちは無視することはできません。つまり私たちは誰一人、キリスト抜きで神の救いの約束を受ける資格はないのです。そこでパウロは、私たちが今のままでは救われない、今のままでは罪の支配下に閉じ込められ、まるで密室に詰め込まれた罪人により酸素も薄くなり、呼吸困難でバタバタと倒れ、死なないように、「密室から抜け出したい!神に吹き入れて頂くキリストという空気を吸い続けたい!」と私たちに思わせるために律法を用いていると思うのです。それほどまで神から私たちへの愛、救いの約束は徹底しており、くどいようですが、どんなものも神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。

<キリストの真実>
ところで、昨年の12月に日本聖書協会から31年ぶりに新しい翻訳の聖書「聖書協会共同訳」が発行されました。早速、ガラテヤ書がどう変化しているのか確認したところ、大きく変化していたのが第3章22節でした。新共同訳は「神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」と訳しておりますが、新しい共同訳は、「約束がイエス・キリストの真実によって、信じる人々に与えられるためです。」と訳しているのです。違いがお分かりでしょうか?これまでの新共同訳では「キリストへの信仰によって」と訳しておりますが、新しい共同訳は「キリストの真実によって」と訳しております。「キリストへの」が「キリストの」になると意味が大きく変化します。さらに「信仰」と訳された原語が「真実」と訳されている。31年ぶりの翻訳ですから、今までの聖書学の研究を踏まえての変化だと思いますが、皆さんの中には戸惑いを覚える方がおられるかもしれません。
しかし、これまでパウロが語ってきたことを読み続けている私たちは戸惑うことはないはずです。いや、戸惑うどころか、その通りと納得されるはずです。なぜでしょう?そうです。神の約束には、私たちの業は一切関係ないからです。律法を遵守したから、ご褒美として永遠の生命を約束されるということはない。まして、どんなことがあってもぶれない主イエスへの信仰を保ち続けるならば、神がご褒美として、「よく信じ切った。よくがんばった!」と救ってくださるのではないからです。
確かに、「あの日、あのとき、私の霊は燃えた」という瞬間は私たちにもあります。それは、洗礼を授けられた時かもしれませんし、恵みを頂いたときかもしれません。しかし、今朝の御言葉を通して痛感するのは、自らの弱さであり、罪の深さです。私たちが律法を旧約の民のように家に座っているときも、道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、耳にし続けることは難しい。
しかしパウロは、だからと言って律法は単なるお飾りとは語っておりません。確かに律法は、神の約束に劣る。けれども、神がモーセを通し私たちに与えた掟であることは間違いないのです。その上で、やはり律法は私たちを自由にはしない。私たちを生かすこともない。むしろ私たちは、律法を通して自らの罪と弱さと痛感する。パウロは、「それこそが律法の意味であり、律法が私たちに与えられた理由」と語るのです。
 確かに、私たちには罪から救う力はありません。どんなに一所懸命に教会に通い、祈り、賛美し続けても、自らの努力で救われることは不可能です。律法という壁を前にすると私たちはうなだれるしかなくなる。しかし、そのようなうなだれた私たちに「顔をあげなさい」と語りかけてくださる方がおられるのです。キリストは今朝も語ります。「あなたの罪も弱さもすべて知っているから私はあなたに律法を与えた。あなたが律法の前に崩れることも知っている。罪のあなたのために私は神から世に遣わされた。私は神の愛、神の約束に真実である。たとえあなたが不誠実であっても、たとえあなたが罪のままであっても、神の約束を成就するべく、十字架で贖いの死を成し遂げ、三日目の朝に甦り、天に昇り、聖霊を注ぎ、いつの日か再びこの世に臨む。だから心配することはない。『律法が守れないから神に見捨てられる』と考える必要はない。なぜなら、私は真実だから。あなたは『キリストを信じます』と信仰告白し、受洗した。そして今朝も聖餐の祝いに与る。そのとき、律法を守れない罪を悔い改めればよい。そして今月も、私の愛、赦し、憐れみを受け、私にすがっていればよい。たとえ、今朝の聖餐が地上での最後の聖餐になったとしても大丈夫。だって、あなたには罪の赦しと永遠の命が私の真実によって約束されているのだから。」

<約束は成就する>
冒頭でも短く触れましたが、1月2日、M姉妹が召されました。毎回思います。死は突然に私たちを襲ってくる。しかし、昨日のご葬儀で朗読したヨハネの黙示録の御言葉と今朝のガラテヤ書の御言葉を通して、私も慰められ、励まされたのです。たとえ、突然の死が私たちを襲っても、神の約束は決して揺らぐことがないからです。
ヨハネの黙示録 第21章3節以下にこう書いてあります。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」そうです。真の神でありながら、真の人となってくださったキリストが私たちの流す目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる日が私たちには約束されている。主イエスが再臨するとき、神の約束が成就する。そのとき、信仰を告白し、洗礼によってキリストに結ばれたすべての者に甦りの朝が来る。神から「起きなさい。甦りの朝だよ」と死の眠りから起こして頂ける。それこそが、神の私たちキリスト者への約束であり、約束は律法によって反故にされることはないのです。それほどの驚くべき約束を頂いた私たちは、むしろ律法を大切にしたくなる。少しでも神に喜んで頂ける歩みを続けたい!と思うようになるのです。これは強制ではありません。少しでも神に喜んで頂きたくなる。そこにも律法の意味があるのです。主の年2019年、いつどのような試練に襲われるか私たちにはわかりません。しかし、私たちは何も恐れる必要がない。なぜなら、甦りの朝は、主の真実によって私たちに約束されているからです。共に罪赦された者として、甦りの朝の到来を信じ、この一年も主と共に歩んでいきたい。心から願うものであります。

<祈祷>
天の父なる御神、御言葉を感謝いたします。どうか、主の年2019年も、神の愛、キリストの真実、聖霊の注ぎ、神の約束を信じ、主と共に歩み続ける者としてお導きください。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・Ⅿ姉妹が1月2日の夜、天に召されました。主よ、明日の火葬も含め、厳しい痛みの中にあるご遺族お一人お一人を深く慰め、憐れんでください。
・全国、全世界で大型災害により、嘆きの中にある方々、とくに強い不安の中で歩んでおられる熊本の方々、今も避難生活を強いられている方々、それらの方々を支援している方々、被災地の諸教会に慰めを注ぎ続けてください。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年12月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第12章1節~9節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第3章15節~18節
説教題「神の約束の充実」    
讃美歌:546、15、120、290、543         

<喜びと悲しみ> 
先週の主日は、クリスマス礼拝をご一緒にまもりました。礼拝ではH姉妹とⅯ姉妹の洗礼式を行うことが許されました。礼拝が終わると、クリスマスを記念して集合写真を撮影。その後は、たくさんの皆さんのご奉仕によって祝福に満ちた愛餐会が行われました。愛餐会には、イースター以降に教会員となられた方々が招待されたのです。しかし、その中にM兄弟はおりませんでした。
M兄弟は5月19日の土曜日に入院しておられた緑風荘病院で病床洗礼を受け、その直後に聖餐の祝いに与りました。けれども、3ヶ月後の8月21日の未明に召されたのです。この一年を振り返るとき、M兄弟に加え、3月にK兄弟、4月にM兄弟、5月にT姉妹が召されたことは私たち教会員にとって深い悲しみとなりました。その上で、K兄弟、K姉妹のご次女、H姉妹が受洗へと導かれ、さらにM兄弟の介護のために礼拝出席が難しかったM姉妹が礼拝に戻られたことは、神の愛と深い憐れみを感じるのです。

<信仰の遺言書>
さて、この一年に召されたK兄弟、M兄弟、T姉妹、そしてM兄弟の葬儀は、私が司式をさせて頂きました。葬儀で朗読する御言葉と賛美する讃美歌を選ぶときに確認したのは教会制定の「信仰の遺言書」でした。信仰の遺言書には愛唱聖句、愛唱讃美歌に加え、家族に対する葬儀の希望、教会に対する葬儀の希望を記す欄があります。その内容は、まさに遺言です。信仰の遺言書ですから、この世の遺言書よりもある意味、重要な書類であると思います。
キリストへの信仰を告白し、洗礼を授けられた。その結果、永遠の命が約束された。しかし、いつの日か地上での命を全うする日が来る。そのとき、どのような葬儀を希望するかを信仰の遺言書に残すことは、極めて大切なことです。信仰の遺言書に「教会での葬儀を希望」と書いてあると、ご遺族もその希望を尊重してくださる。それくらい遺言の重みは誰もが知っている常識であり、誰も遺言を無効にしたり、追加することはできないのです。
パウロもガラテヤの信徒たちに、「何としても、神の約束を伝えたい!律法は救いの条件ではない!」を伝えるために、この世で誰もがその効力を重んじる「遺言」を用いたのです。パウロは、私たちが残す遺言が誰も無効にしたり、追加したりできない力を持つならば、神がアブラハムとその子孫に与えられた約束は、この世の遺言より確かな、揺るがない、圧倒的な力のある「神の約束」であると記すのです。

<神の約束>
 さて、ガラテヤ書と共に朗読して頂いた創世記第12章に、アブラハムへの神の約束が記されています。まず2節に「わたしはあなたを大いなる国民にし」との「子孫繁栄」の約束。さらに7節に「あなたの子孫にこの土地を与える」との「土地贈与」の約束がなされております。これら神の約束は、アブラハムが完璧な人間で、かつ立派な神殿を建設したからなされたものではありません。
アブラハムは何の手柄も立てないのに、神がアブラハムを自由に選び、お与え下さった約束です。つまり、神の約束は、私たちの側のあらゆる事に先立っているのです。
パウロも、ガラテヤ書第3章16節で「アブラハムとその子孫に対して約束が告げられました」と創世記第12章の御言葉を引用しております。その上でパウロは、16節後半で「その際、多くの人を指して『子孫たちとに』とは言われず、一人の人を指して『あなたの子孫とに』と言われています。この『子孫』とは、キリストのことです。」と大切な指摘をしております。ここは今朝のガラテヤ書が語る福音の急所かもしれません。
聖書を読むとき、おやっ!と驚く御言葉があります。実は、驚きの御言葉にこそ深い意味が隠されていることが多いように思われます。もちろん、聖書を素直に読むことは大切です。同時に、「えっ、何で?」と驚きの御言葉があるとそれは神から私たちへの重要なメッセージであり、そこにこそ神の熱い思いが込められているように思えるのです。
私たちキリスト者は神の約束はすべての者、つまりユダヤ人に加え、異邦人も含めたアブラハムとその子孫たちに与えられると理解しております。しかし、パウロは創世記をこのように解釈するのです。「『神の約束』を告知する子孫は、キリストのみ」であると。パウロの指摘は驚きであると同時に、確かに当然のことです。「神の約束」を受け取ることのできる御方は、罪を犯さないキリストのみです。だからこそ、パウロは創世記第12章7節にある「あなたの子孫にこの土地を与える。」の子孫を「キリストのことです」と記したのです。
 御子が真の神であるにもかかわらず、真の人として世に生まれ、アブラハムの子孫となられた。結果、神の約束が私たちキリスト者にも与えられたのです。
 つまり、「キリストの救いを信じます!」と信仰告白し、洗礼を受けた者は、たとえ罪を犯し続けても、キリストに結び合わされた者として、「神の約束」を相続させて頂けるのです。「神の約束」は、財産分与で揉めることはありません。なぜなら、「神の約束」は全てのキリスト者に約束されているから。また、「神の約束」を頂く上で、莫大な相続税を支払う義務もないのです。なぜでしょう?キリストが自らの生命という尊い代価を神に支払っているからです。それほどの恵みをキリストへの信仰によって私たちは神から一方的に与えられているのです。これは驚きであり、喜びであり、恵みです。

<430年後の律法>
さらにパウロは念を押すように続けます。「神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故(ほご)にすることはないということです。(3:17)」
パウロは、「神の約束」が律法に対して優っている理由を具体的に記しました。パウロは、「神の約束が律法より先にあった」と宣言します。約束の方が先だというのは、律法は約束の「430年後に」できたからと説明するのです。なぜ430年後なのでしょうか?それは、出エジプト記 第12章に「イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は430年であった。(12:40)」との御言葉があり、そこからきているようです。
いずれにしても、律法に先立つのは「神の約束」です。その「神の約束」を相続する私たちに神が求める姿勢は、「私は律法を遵守します!」ではなくて、「私は罪を重ね、弱さを抱えております。『神の約束』を頂くに相応しくない者です。だからこそ、主の救いを信じ、洗礼を受けた者として、これからも主を信じ、主にすべてを委ね、主と共に歩ませて下さい」との謙遜な信仰だと思うのです。

<神の真実>
私たちキリスト者に神が求めておられることは難しいことではありません。ただ「神の約束」を信じ続けること、罪の私が救われたのは、「神がキリストにおいてあなたを救う」と約束して下さったからと信じ、主の十字架にすべてを委ね続けることです。つまり、私たちの業は関係ないのです。神がキリストにおいて「あなたを救う」と約束して下さった。その恵みを感謝して信じること以外、神は私たちに何も求めていないのです。
神は真実な御方です。神は嘘をつかれません。神は約束を反故にすることはないのです。神は一度為された約束をお忘れにはならない。たとえ、私たちが約束を忘れても、神は忘れないのです。神は真実な御方ですから、私たちは、安心して神の約束を信じ、私たちの全生涯を神の約束により頼んで歩み続けて良いのです。

<神の約束の充実>
今朝は主の年2018年 最後の礼拝。明日は31日。そして主の年2019年を迎えます。一年が終わる今、「ああ、いい年だった」と思える方はどれだけいらっしゃるでしょうか?確かに、この一年も溢れる恵みを神から頂きました。しかし、ただ仕事や子育てに追われ、体調を崩し、病院に通い、入院し、手術を受け、体力と気力の衰えを痛感した等、マイナスのことを考えてしまいます。けれども、どんなに私たちが落ち込んでも、どんなに罪の自分が嫌になっても、どんなに神の期待に応えられなかった、いや応えられないどころか、神の期待を裏切り続けた日々であっても、キリストによって、「来年こそ頑張ろう!」と宣言しなくてよいのです。
神の約束は充実しております。神は、約束の相続人としてキリストに遺言を託しておられます。神からキリストへの遺言書を開くと、はっきりと記されている。「キリストの十字架、キリストの復活、キリストの再臨を信じるものは皆、必ず救われる」と。だからこそ、私たちはただキリストの救いを信じ、自分の弱さを嘆きつつ、しかし、そこでもなお望みを持って、与えられる一日、一日を主と共に歩むことができるのです。そこには私たちの行いも能力も関係ありません。神の恵みがキリストを通して私たちに満ち溢れている。しかも、信仰告白し、洗礼を受けたキリスト者の中に、キリストが生きておられる。だからこそ、私たちも神の相続人として「神の約束」という相続財産を頂けるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、この一年、あなた様の御前で一日を生きることは、一日の罪を増やすような生き方をしてまいりましたことを御前に懺悔いたします。しかも、そのような私たちの歩みを、キリストにおいて示されたあなた様の恵みが、いつも明るく覆ってくださいましたから感謝いたします。いつでも私たちの闇の衣を白い衣に変えてくださいました。あなた様の恵みを一年の終わりに深く感謝するものであります。その事実ゆえに、望みをもって新年を迎えることができることを感謝するものであります。どうか、すべての者に、あなた様の約束に信頼するがゆえに、自分を愛するように隣人を愛する力をお与え下さい。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
主よ、一年の歩みを振り返るとき、世界中にある嘆きへの憐れみを祈ります。今、この瞬間も争いがあります。貧しさがあります。憎しみがあります。罪の隠蔽があり、迫害があります。そのことで苦しんでいる方々、嘆いている方々がいるのです。孤独を感じている方々、死の恐怖と闘っている方々、何を信じ、何に頼ってよいのかわからない方々に聖霊を注ぎ、あなた様への信仰へお導きください。今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹、特に、病を抱えている方々に、あなた様の恵みと祝福を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年12月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第130篇1節~8節、新約 マタイによる福音書 第1章18節~25節
説教題「クリスマスの喜び」    
讃美歌:546、98、102、Ⅱ-1、114、542    

<クリスマスの喜び>
クリスマスの喜び。それは、真の神であられる主イエスが、真の人となって闇の世に生まれて下さった喜び。さらに主が、私たちの罪や死の闇の中で真の光として永遠に輝いて下さる喜びです。 
マタイによる福音書 第1章23節に「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」とあります。
福音書記者マタイが記したように、「インマヌエル」とは、「神は我々と共におられる」という意味。つまり、インマヌエルの主イエスこそ、クリスマスの喜びなのです。主の天使は宣言しました。「この子は自分の民を罪から救うからである。(1:21)」これは、今朝の旧約聖書 詩編 第130篇8節「主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。」に由来する表現です。
贖いには、「買い戻す」という意味があります。つまり主イエスは、私たちを罪の状態から買い戻して下さる。尊い命を代価として父なる神様に支払い、罪の状態から買い戻して下さるのです。私たちが今、神を礼拝し、神を「父」と呼べることは、当たり前のことではなく、主イエスの命と引き換えに許されているのです。
それでも私たちは、繰り返し罪を犯します。罪を犯せば、私たちの全てをご存知の神が審かれるはず。けれども、私たちは生かされている。なぜでしょう?神が私たちを深く憐れみ、何としてもあなたを生かしたい!赦したい!と心底願っておられるからです。そのような神の愛、熱情が具体的に示されたのが、クリスマスの出来事なのです。

<ヨセフの苦悩と決心>
さて、今朝のマタイによる福音書 第1章18節に「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。
ヨセフにとって、「主よ、なぜですか!」と叫ばざるを得ない事実だったはずです。マリアもヨセフに対して、「私は、あなたを裏切ってはおりません。天使から『聖霊によって神の子を産む』と言われました」と主張したはず。しかしヨセフは、マリアの主張を簡単に受け入れられない。「マリアが私を裏切った」としか考えられない。マリアも、身の潔白をヨセフが信じてくれない痛みの中、ヨセフはついに決断したのです。19節。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。
ヨセフとマリアは婚約しています。当時の婚約は、結婚と同じ責任が伴う。つまり、婚約中に別な異性と関係を持つことは姦通の罪となる。そうなれば、マリアは石で打ち殺される。そこで、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。「表ざたにする」とは、マリアを姦通の罪で訴えること。それをせずに婚約を解消しようとしたのは、婚約していなければ、マリアが出産しても姦通の罪に問われることがないからです。 
しかし、そこからが茨の道。マリアが出産する。そうすると、ヨセフの子に違いないと噂になる。反対に、ヨセフの立場が厳しくなる。子を宿らせた上でマリアと離縁したとすれば、ヨセフはとんでもない男だと非難されることは間違いありません。けれどもヨセフは、たとえ自分が何と言われようと、マリアとお腹の子の命を守りたい!と決心し、婚約を解消しようとしたのです。そこで神は、ヨセフに天使をお遣わしになりました。天使は言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(1:20~21)」

<ヨセフの信仰>
ヨセフがもっとも気にしているマリアの胎の子について、天使が言いました。「ヨセフ、恐れるな。胎の子は聖霊によって宿った。安心して妻マリアを迎え入れ、生まれてくる子をイエスと名付けなさい」。ヨセフの思いを想像すると、「主よ、突然そんなことを言われても困ります!なぜ、邪魔をするのですか?なぜ私たちの子が聖霊によって宿るのですか?なぜ子どもの名前まで指定するのですか?」と訴えそうです。しかし、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。(1:24~25)」のです。
日々、深い恐れに苦しみ、「どうすればよいのか?ひそかにマリアと縁を切るしかないのか?縁を切ることが最善の道なのか?」と悩み続けたヨセフ。そのヨセフが、夢に現れた天使の言葉をまっすぐに信じ、これからの歩みを託した。ヨセフは、天使が命じられたとおり、妻マリアを迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはありませんでした。
ヨセフこそ、真の信仰者です。なぜか?ただ天使の言葉を信じたから。神はそのような男だから、ヨセフを主イエスの父、マリアの夫として選んだに違いありません。神の思いはこのようなものかもしれません。「ヨセフは正しい男。だからこそ悩む。困惑する。でも私はヨセフを信じる。どんなに悩み、葛藤し、動揺しても、最後は必ず私の命じたとおり行動する。だからマリアの夫としてヨセフを選ぶ。ヨセフには特別な能力はない。権力もない。それでも、ヨセフにはただ神の言葉を信じるという信仰がある。ヨセフは、天使が命じたとおり、マリアを妻として迎え入れ、マリアと関係することはない。そして、子どもをイエスと名付けるだろう」。
実際ヨセフは、「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」を信じ、神の命令に従った。結果、マリアは姦通の罪で裁かれることなく、主イエスは神のご計画の通り、世にお生まれになったのです。そのように考えると、ヨセフが「ただ天使の言葉を信じた」ことがどれだけ大切なことであるかわかります。ヨセフの信仰によって、イザヤの預言「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ書7:14)」がついに実現したのです。

<インマヌエルの主イエス>
インマヌエルの主イエスは、「神は我々と共におられる」を実現されました。それは、ただ「イエスさまはどんなときも私たちと一緒だよ!」とは違います。私たちの誰にも告白できない罪、恐れ、不安と共におられるということです。主イエスは、信仰告白し、洗礼を受けた者の罪を完全に赦して下さる御方です。なぜか?主イエスが罪人の中の罪人として十字架の上で処刑されたからです。
主イエスは真の光として私たちの世に遣わされました。それにもかかわらず、主イエスの歩みはまさに十字架への道、呪いへの道でした。弟子に裏切られ、最後は神に見捨てられ、十字架の上で神の呪いを受けられた。 
本来であれば、私たちが呪われ、処刑されるべきところ、主イエスが私たちの罪をすべて引き受けて下さり、十字架で孤独の死を成し遂げられたことで、私たちは罪の呪縛から完全に解放されたのです。しかも、私たちの弱さも罪もすべてをご存知の主イエスが、インマヌエルとなった。つまり、どんなときも私たちと共におられる。私たちが地上の命を終えても、甦りの主が私たちと共に歩み続けて下さるのです。
甦りの主は、弟子たちにお命じになりました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイによる福音書28:18~20)」
 そうです。甦りの主は、弟子たちにお命じになりました。「私は天と地の一切の権能を授けられている。だから命じる。『すべての民を、わたしの弟子として欲しい。心の底から皆が救われて欲しい。皆が神の愛に生きて欲しい。私は、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。あなたがたの罪も弱さも知り、あなたがたの罪のため、弱さのため、クリスマスの日に生まれ、十字架で処刑され、復活し、また再び世に臨む。その私が生まれたのがクリスマス。だからあなたがたは喜べる。十字架の死によってあなたがたの罪を完全に赦した私がいつもあなたがたと共に歩み続ける。もう誰の言葉もあなたがたを苦しめない。たとえ、誰かがあなたがたを叱責しようと、あなたがたが自分の罪を赦せなくても、神があなたがたの罪を赦したい!と願い、私を遣わしたのだ。だから、クリスマスは喜びの日、クリスマスは感謝な日、クリスマスは恵みの日なのだ。」
 
<聖餐への招き>
今朝、クリスマス礼拝に招かれた全ての皆さんは父なる神から救いの道へと招かれました。確かに、皆さんは今朝、それぞれに決断して教会に来られた。しかし、マリアの胎に御子が聖霊によって宿ったように、皆さんも聖霊なる神の招き、導きによって、東村山教会のクリスマス礼拝で共に主の御降誕を喜び、賛美しているのです。そこには神様から皆さんお一人お一人への熱情があり、「何としても、あなたを罪から救いたい!」との深い愛があるのです。
 只今から聖餐の祝いに与ります。本日、受洗されたH姉妹、M姉妹、そして9日に受洗されたY兄弟も初めての聖餐の祝いに与ります。残念ながら聖餐は信仰を告白し、洗礼を受けた人しか与かれません。なぜか?神の愛を感謝し、自らの罪を認め、しかし、その罪を主イエスが十字架の上で裂いて下さった肉と流して下さった血潮によって赦された!と心から感謝し、その救いを信じます!と信仰を告白し、洗礼を受けることが大切だからです。
 聖餐の祝いに与るとき、私たちは今も生きて働いておられるインマヌエルの主イエスを目で見、口で味わい、喉から頂きます。その結果、私たちは本当にインマヌエルの主イエスと一つにされ、主が私たちと共に生きて下さることを具体的に実感するのです。私たちは何も恐れる必要がありません。もちろん、それでもビクビクすることがあるでしょう。他者の言動で傷つくこともあるでしょう。でも、もう恐れなくてよいのです。なぜなら、どんなときも私たちの罪、弱さをご存知の主イエス・キリストが私たちの罪の代価として自らの命を献げて下さったから。さらに三日目の朝、復活によって全ての罪と死に完全に勝利されたから。どうかクリスマスの喜び、またキリスト者の喜びに一人でも多くの方々が、気がつきますように。また、その喜びをすでに頂いた私たちが与えられた命をインマヌエルの主イエスと共に喜んで歩むことができますよう祈ります。

(祈祷)
インマヌエルの主イエス・キリストの父なる御神、今朝のクリスマス礼拝に招かれたお一人、お一人にクリスマスの祝福を溢れるほどに注ぎ続けて下さい。特に、クリスマス礼拝への出席を祈り続けたにもかかわらず、礼拝を欠席され、聖餐の祝いに与ることの出来なかった方々を深く憐れんで下さい。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も私たちに聖霊を注いで下さい。本日、H姉妹、M姉妹が受洗され、東村山教会に連なる神の家族に加えられ心より感謝申し上げます。共に祈り合って歩むものとして力強くお導き下さい。主よ、深い悲しみの中にある方々、深い嘆きの中にある方々に、インマヌエルの主の慰めを注ぎ続けて下さい。特に、愛する人を失った方々、病に冒されている方々、希望を失っている方々に、クリスマスの喜びを届けて下さい。今朝も様々な理由のためクリスマス礼拝を欠席された兄弟姉妹が大勢おられます。どうか、それらの方々の上に私たちと等しいクリスマスの喜びをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年12月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ハバクク書 第2章1節~4節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第3章10節~12節
説教題「信仰によって生きる」    
讃美歌:546、Ⅱ-112、270、Ⅱ-1、285、539           

<アドベント礼拝の恵み>
アドベントに入りました。教会暦では、新年最初の主日を迎えたことになります。そのような節目のアドベント第一主日の礼拝に、私たちは、聖霊の導きによって招かれました。礼拝では神に祈り、神を賛美し、聖書の御言葉と説教に耳を傾けます。さらに今朝は、聖餐の祝いにも与る。そのすべてによって、私たちは神の祝福に満たされるのです。
同時に、忘れてならないことがあります。神から私たちへの祝福の背後には、父なる神から御子キリストへの呪いがあることを。もし、御子が呪いを受けて下さらなければ、十字架の上で私たちが神に呪われていた。呪われるとは、神に捨てられ、神を父と呼べず、神との関係が切れることです。
このような神の呪いから、私たちは解放された。その結果、神を父と呼べるようになった。その背後に、父なる神から御子キリストへの呪いがある。御子が私たちの身代わりとして、十字架の上で神に捨てられ、父と子の関係を切られた。そこまでして神は、私たちが呪われ、見捨てられるのを御子の十字架を通して回避して下さったのです。

<律法と呪い>
パウロは、ガラテヤの信徒への手紙 第3章10節で「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。」と語ります。
パウロはここで、「律法」と「呪い」を語ります。まず「律法」を確認したいのですが、私たちは「律法」を誤解してはなりません。パウロは「律法」そのものを否定しておりません。なぜなら、「律法」は神が私たちに与えられた重要な掟だからです。実際、私たちも「十戒」を神の「掟」として礼拝で唱和しております。よってパウロは、ガラテヤの人々に加え、私たちにも語るのです。
「律法の実行に頼るなら、あなたがたは皆、呪われる」と。これは驚くべき言葉です。神の掟である律法を実行することで神の祝福を得ようとするなら、神から呪いを受けることになると断言するのです。冒頭で触れたように、聖書における「呪い」は、神の「呪い」です。具体的には、神に捨てられること、神との関係が切れてしまうことを意味します。つまり、神に呪われることは、神の祝福が取り去られること。よって私たちは神に祝福されるか、あるいは、神に呪われるか、そのどちらかしかない!とパウロは断言するのです。
 パウロは、自分の考えを押し付けているのではありません。御言葉を根拠に、神に祝福される人生を歩むか、それとも、神から関係を切られる呪いの人生を歩むかと問うているのです。パウロが根拠としたのは、申命記の御言葉「『この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。』民は皆、『アーメン』と言わねばならない。(27:26)」です。
私たちは、申命記の時代ではなく、キリストの時代に生かされていることを主に心から感謝します。なぜなら、キリストへの信仰を告白し、洗礼を受けた私たちは誰も呪われていないからです。今朝も礼拝の最後に十戒を唱和します。毎回、思います。何一つ守ることができていない。しかし、私たちは呪われていない。神を礼拝し、神を父と呼び、賛美することが許されている。つまり、私たちは神に捨てられていないのです。 
もちろん、私たちも律法の重みを知っています。絶えず、律法を守るなら、御心に適う者となる。しかし、律法を守るならば、絶えず守らなければ意味がない。フッと気が抜け、一瞬でも律法を破れば、呪われてしまうのです。「この程度の罪なら神は赦して下さる」はありません。絶えず律法を守らなければ、神から容赦なく呪われ、捨てられるのです。
神は、私たちのすべてをご存知です。だからこそ、私たちの心の奥に潜んでいる闇がいかに深いかを痛いほどご存知です。私たちは取り繕っているように思えても、神は私たちの罪をご存知である。私たちがいかに律法に従い得ない者であるか、よくよくご存知なのです。
神は、パウロの罪もご存知です。またパウロも、キリスト者を迫害し続けた罪の重さに神の呪いを覚悟したはずです。パウロは、復活のキリストに出会い、回心する前は、律法の業に熱心に努めた人でした。自ら、「律法の義については非のうちどころのない者でした(3:6)」とフィリピの信徒への手紙で語っております。
しかし、神の御前で義とされるのは、律法によってではなく、信仰によると知らされたのです。復活のキリストに出会い、目から鱗が落ちた。その結果、パウロは「律法の人」から「信仰の人」へ、キリストの十字架にすがりつく者とされました。パウロは、律法の呪いから解放された。またキリストの十字架にすがり続けることで神の御前で義とされたのです。

<信仰によって生きる>
パウロは続けます。「律法によっては だれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。律法は、信仰を よりどころとしていません。『律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる』のです。(ガラテヤ書3:11~12)」
 パウロは、呪いから解放され、義とされました。だからこそ、ガラテヤの人々、またアドベント第一の礼拝に招かれた私たちにも「律法の実行に頼るのはやめよう。キリストが十字架の上で呪われたことによって、私たちは呪いから解放された。もう神に捨てられることはない。何と驚くべき恵み。この恵みを主に感謝し、キリストの十字架にすがり、神に祝福された人生を歩み続けよう」と呼びかけるのです。
 パウロは語る。「正しい者は信仰によって生きる」。パウロの確信は、私たちキリスト者の確信であり、喜びです。パウロは、11節の「正しい者は信仰によって生きる」を旧約聖書から引用しております。それが、ガラテヤ書と共に朗読して頂いたハバクク書 第2章4節の御言葉「しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」なのです。
 ハバククは、紀元前7世紀頃の南王国ユダの預言者と考えられております。ハバククは、「義なる人は、自らの能力や財産によって生きる者でなく、神への信仰によって生きる。また神は、『信仰によって生きる』者を欺かない」と預言した。その預言を、パウロは自らの信仰を補うものとして引用したのです。
パウロは、「私たちが義とされるのは、キリストの十字架への信仰によるのであり、呪われる者ではなく、義なる者、正しい者として歩める」と語るのです。
 
<呪われたキリスト>
私たちキリスト者にとって、信仰とはキリストへの信仰です。十字架の上で私たちの代わりに神の呪いを引き受けて下さったキリスト。神から捨てられたキリスト。だからこそ、キリストは大声で叫んだ。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(マタイ福音書27:46)」。まさに、十字架の上で神に捨てられ、我々の罪の代価として自らの命を差し出された。そのようにして十字架の上で裂かれたキリストの肉、流された血潮によって私たちは、呪われることなく、生かされている。さらに、義なる者、正しい者とされたのです。 
だからこそ、呪われた者から、祝福された者への大転換を信じ、キリストの十字架にすがり続ける。そのとき、律法を破り、罪を犯し続けても、私たちは皆、一人の例外もなく、正しい者、義なる者として歩むことができる。いや、すでに信仰告白し、洗礼を受けた私たちはキリストによって正しい者、義なる者とされている!とパウロは喜んで語るのです。

<驚くべき大転換>
 私たちは今、生きている。呪われてはおりません。本来であれば、十字架の上で肉を裂かれ、血を流し、神に呪われ、捨てられるのは私たちです。律法を絶えず守れず、神への愛を忘れ、自分を愛するように、隣人を愛せない私たち。それでいて自分を迫害する者を呪い、迫害する者のために祝福を祈ることなど出来ない!と主張する私たち。その時、私たちは律法を破り、神に捨てられ、呪われるはずです。しかし、どうでしょうか?私たちは今朝も、呪われることなく生かされている。何方によって?そうです。十字架のキリストによって。しかも、私たちキリスト者の命は地上で終らない。永遠の命が約束されている。何と驚くべき喜びでしょう。この驚くべき恵みを目に見える形で味わうのが、聖餐の祝いなのです。
 今日は礼拝後に、三人の洗礼試問会が行われます。先週まで、受洗準備会を通し、三人と祈りを深めてまいりました。その祈りは、受洗日までに完璧な人になることを求めての祈りではありません。律法の実行ではなく、父なる神に呪われたキリストにすがって歩み続ける。結果、私たちも神に呪われる者から、神に祝福して頂ける者となれるよう、祈り続けたのです。
改めて感じます。私たちの信仰はいかに弱く、もろいものであるか。だからこそ、私たちはキリストの十字架によって罪を赦され、正しい者、義なる者とされたことを心に刻みつつ、聖餐の祝いに与り続けるのです。
 アドベントを迎え、私たちは律法の実行によっては義とされないことを素直に認めたい。だからと言って、私たちは神に呪われ、捨てられた者として歩むことはないのです。なぜか?十字架のキリストがおられるから。真の神であると同時に真の人としてお生まれになったキリストが神に呪われ、捨てられた。結果、驚くべき大転換が実現した。キリストが呪いを引き受け、十字架の上で頭を垂れた時、神の呪いはキリスト者にとっては呪いではなく、祝福となった。そのような神の祝福の歴史が、クリスマスから始まったのです。

<祈祷>
天の父なる御神、アドベント第一の礼拝を、呪われる者ではなく、祝福された者として迎えることが許され、心より感謝致します。主よ、どうか深い悲しみの中にあっても、厳しい試練の中にあっても、「キリストに結ばれた私たちは呪われていない」と信じ続ける信仰をお与え下さい。主よ、アドベントの期間、御子の十字架での呪いによって祝福された恵みを心に刻みつつ、祈りの日々を過ごすことが出来ますようお導き下さい。主の御名によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・アドベントに入りました。クリスマスに向け、祈りを深め、クリスマス礼拝、クリスマス讃美夕礼拝に一人でも多くの方々が招かれますようお導き下さい。
・洗礼を志願している方々、熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に御心をお示し下さい。礼拝後に洗礼試問を控えている 三人の方々を聖霊で満たし、明確に信仰を告白することを得させて下さい。
・皆で祈り続けておりました加藤常昭先生の心身のご健康が快復されたことを改めて感謝致します。さらに、12月16日の主日礼拝で説教を担って頂けること、本当に嬉しく思います。主よ、どうか加藤先生の心身のご健康を守り、予定通り、説教を担うことが出来ますよう聖霊を注ぎ続けて下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年11月25日 日本基督教団 東村山教会 逝去者記念主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第12章1節~3節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第3章6節~9節
説教題「祝福の継承」    
讃美歌:546、11、191、294、545B    
       
<逝去者記念主日礼拝>
パウロは、ガラテヤの人たちへ「信仰によって生きる人々は、アブラハムと共に祝福されています。(3:9)」と伝えます。パウロは確信しているのです。「初めに、アブラハムに神の祝福が与えられた。さらに、信仰によって生きるガラテヤの人々にも神の祝福が与えられた」と。  
私たちは今朝、アブラハム、さらに、信仰によって生きるガラテヤの人々に与えられた祝福が、信仰によって生き、御国へと凱旋された信仰の先達を思い起こし、逝去者記念主日礼拝をささげております。キリストの十字架による罪の赦し、復活による永遠の生命を信じ、信仰によって生きる人々は、アブラハム、さらに、ガラテヤの人々のように義と認められ、祝福されるのです。

<旅立ったアブラハム>
ガラテヤの信徒への手紙第3章6節に「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」とあります。これは、旧約聖書 創世記 第15章6節からの引用です。今朝の第3章6節から9節のすべての節に、アブラハムの名前が登場します。そこで、アブラハムについて確認したいと思います。
アブラハムの出発点は、創世記 第12章の神がアブラハムに語りかけた召命の出来事です。創世記第12章1節以下「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。』(12:1〜3)」。
神は、すでに75歳のアブラハムに、「生まれ故郷を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と命じました。同時に、神が宣言されたのは、アブラハム、またその子孫を祝福するとの約束であったのです。アブラハムは、神の言葉に従いました。ただ神の言葉、神の祝福の約束を信じ、命じられた通り、神が示す地に旅立ったのです。やはり、驚くべき旅立ちです。アブラハムは、神の言葉、神の祝福を信じた。そして、妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、カナン地方へ向かって出発したのです。アブラハムは生まれ故郷へと戻ることは考えておりません。「神が示す地に行けば、必ず神が祝福して下さる」と信じたのです。
大切なことは、アブラハムは律法が与えられる前に、神の言葉、祝福の約束を信じたという事実です。神の言葉、祝福の約束を素直に信じ、出発したことによって、アブラハムは義なる人と認められたのです。
私たちは、このような考えに縛られることがあります。一所懸命に努力し、神に喜ばれると祝福される。逆に、神を悲しませてばかりだと祝福されない。このような考えは間違いです。神の言葉、祝福の約束を信じ、生きる人々を義と認め、祝福されるのです。
今朝は、逝去者記念主日礼拝です。礼拝堂の後ろに逝去された信仰の先達の写真がございます。逝去された信仰の先達は、「信仰によって生きた人々」です。「信仰によって生きる」とは、歯を食いしばって、がんばって神を信じ続けるという生き方ではありません。喜びの日も、悲しみの日も、試練の日も、嘆きの日も、キリストが私の内に生きておられると信じ、すべてを神に委ね、祈りつつ、感謝しつつ、悔い改めつつ、神の言葉、祝福の約束を信じ、歩み続けるのです。

<祝福はすべての民に>
ところで、8節冒頭の表現にパウロのこだわりを感じます。なぜなら、聖書が主語になっているからです。「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。」「聖書は、アブラハムに福音を予告する」という表現は、パッと読むと、不思議に思えます。ここで引用された創世記 第12章3節には、「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」と福音を予告したのは、神であり、聖書はまだ成立していなかった。けれどもパウロは、聖書を人格化して表現するのです。理由は、「聖書が、神の福音を語っている」と信じたからです。パウロは、旧約聖書 創世記を引用しつつ、創世記に記されている神の祝福が今、異邦人であるガラテヤの信徒にも注がれている。創世記に記されている祝福が旧約の時代も今も変わらずに注がれていると信じ、ガラテヤの人たちに語る。だからこそ、聖書を主語にしたと思うのです。
続く8節の後半に、「異邦人は皆 祝福される」とあります。異邦人ですから、ユダヤ人以外にも神の祝福は及ぶのです。かつて用いていた口語訳聖書では、「すべての国民は祝福される」と訳されております。「異邦人」、また「すべての国民」と訳された元のギリシア語は、「集団」を意味する言葉です。そこから「国民」と訳されることもあれば、「異邦人」と訳されることもある。いずれにしてもパウロは、神の祝福は異邦人を含むすべての国民に及ぶと信じ、説教し続けるのです。
パウロは語る。「アブラハムのゆえに異邦人を含むすべての国民が、神に祝福される」と。パウロは、なぜそのように語るのでしょうか。ユダヤの人々は、「血においてアブラハムに繋がる、よって私たちは祝福されて当然」と信じていた。さらに、アブラハムの血を自分たちが信仰において受け入れた「律法」を遵守することによって、神の祝福を、いつでも確かめ、証明できると信じていた。その結果、ユダヤの人々は神の祝福を独占していると思い込んでいたのです。周りを見まわすと、ギリシア人が目に入る。ギリシア人は異邦人。文化的ではあるが神の祝福はない。次にローマ人が目に入る。ローマ人も異邦人。権力はあるが神の祝福はない。アブラハムにおいて祝福されているのは我々ユダヤ人のみと信じて疑わない。
実は、「律法の義については非のうちどころのない者(フィリピ書2:6)」であったパウロ自身がそのように信じて疑わなかったのです。けれども、そのパウロに復活のキリストが出会って下さった。信仰を告白し、洗礼を受けた。その結果、聖霊が注がれ、驚くばかりの福音の真理に気がついた。福音の真理、それは「アブラハムのゆえに祝福されるのは全世界の人々」です。それまで、神に祝福されるのは、アブラハムと肉の血に繋がっているユダヤの民と信じて疑わなかったパウロ。その確信がキリストによって崩された。これは、パウロにとって天地がひっくり返るような驚きであったはずです。あの人も、この人も、神の祝福から遠いと思っていた。けれども、そうではなかった。キリストへの信仰によって生きる人々、つまりユダヤの血筋でなくても、キリストの血によって生きる者であれば神の祝福が注がれているとの喜びを知ったのです。誰もが神に祝福して頂ける。「私は、主の十字架と復活、また再臨を信じます。私はキリストの血によって罪赦され、永遠の生命が与えられたのです」と信仰を告白すればよい。「私は神の祝福を信じます」と言えばよい。その瞬間、神の祝福があらわな姿をとって来るのです。パウロは、「ユダヤ人も異邦人にも神の祝福がある。神の祝福は、特定の民族に限定されない、すべての民に注がれる」と語っているのです。神が祝福を注いで下さるのは、私たちの世であり、歴史であり、すべての民です。私たちの歴史の中に、そのいちばん奥深いところで、私たちの世を支えて下さる神の祝福があるという恵みを感謝し、私たちは礼拝をささげているのです。
ところで、パウロがもうひとつ祝福と同じ意味で使っている言葉は、「義」という言葉です。祝福を受けることは「義」と認められることだと語る。「義」と認められるとは、正しい者とされることです。正義に生きる者とされ、真理に生きる者とされることです。つまり、「キリストへの信仰によって生きる人々は、すべて正しい者とされ、正義に生きる者とされ、真理に生きる者とされる」とパウロは確信を持って語るのです。

<キリストの「道」を歩み続ける>
アブラハムが、神の祝福の言葉を信じ、旅立ったよう、私たちキリスト者は、聖書が語るキリストの福音を信じ、召される日まで地上の命を歩み続けます。 
信仰告白し、洗礼を受けたキリスト者は、キリストと共に十字架につけられ、死にました。しかし、キリストが復活されたように、私たちにも永遠の生命が与えられ、地上での歩みを終えると、父の家である御国へと凱旋するのです。
復活のキリストは、今朝も私たちに語りかけて下さいます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。(ヨハネ福音書14:1~2)」、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ福音書14:6)」そうです。キリストは「真理」であり、「命」である。だから、父の家である御国に至る唯一の「道」なのです。
キリストのお言葉を信じ、信仰告白し、洗礼を受けた者は、キリストの道を通り、父のもとに行くことができる。父の家である神の国に入ることができる。さらに、キリストが用意して下さった住む所があるのです。
キリストの「道」の終わりに、神が立っておられます。まるで、放蕩息子の帰りを、今か今かと待ち続ける父のように、神は御国へと凱旋されたすべての者を深く憐れみ、走り寄って首を抱き、接吻して下さるのです。神に抱擁して頂ける驚くべき喜びは、御国へ凱旋しなければ味わえないものではありません。主イエスの愛、赦し、永遠の生命を信じた私たちが礼拝に招かれ、共に復活の主を賛美するとき、すでにその喜びの前触れを味わっているのです。
私たちは、愛する人が召されたとしても、動揺したり、心を騒がせる必要はありません。道であり、真理であり、命であるキリストが、私たちを義として下さったからです。私たちは安心して、キリストの道を、御言葉に耳を傾け、復活のキリストを賛美し、説教で語られるキリストの福音を信じ、神の祝福を頂きつつ、礼拝から礼拝への歩みを誠実に続ければよいのです。

<お祈りを致します>
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、今朝は逝去者記念主日礼拝をご遺族の方々と共にあなた様におささげすることが許され、心より感謝致します。愛する者の死の痛みは、私たちを日々、襲い続けます。主よ、私たちの痛みに寄り添い続けて下さい。主よ、逝去者記念主日礼拝に招かれた私たちを聖霊で満たし、いつの日か、永遠の生命の食卓である聖餐に与ることが出来ますよう導いて下さい。これらの願いと感謝とを、復活と再臨の主イエス・キリストの御名によって御前におささげ致します。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・今朝は逝去者を記念する主の日の礼拝に招かれています。どうか、愛する者を失い、今も深い痛みを抱えておられる方々に主の慰めと聖霊を注ぎ続けて下さい。
・今朝も病のため、様々な理由のために、教会に通うことの出来ない兄弟姉妹がおります。どうかそれらの方々の上にも私たちと等しい祝福をお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年11月18日 日本基督教団 東村山教会 秋の特別伝道礼拝 説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第42篇1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第4章6節~26節
説教題「主よ、命の水をください」    
讃美歌:546、13、217、352、545A        

<命の水>
私たちは今朝も、霊と真理をもって父なる神を礼拝しております。まことの礼拝には、「命の水」であるキリストの愛が注がれます。今朝は、秋の特別伝道礼拝をまもっております。皆さんの中には、初めて東村山教会にいらした方もおられるようです。緊張しているかもしれません。でも、安心してください。今朝、初めて教会にいらした方の上にも「命の水」であるキリストの愛、聖霊が注がれているのです。ご一緒に、「命の水」であるキリストの愛に感謝して、ヨハネによる福音書 第4章の御言葉を味わってまいりましょう。

<サマリア人とユダヤ人>
主イエスは旅に疲れておりました。3節に「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」とあります。主は、ユダヤ地方からガリラヤ地方への旅の途中です。歩き続ければ喉が渇くのは当然。今朝の御言葉に季節を示す言葉はありません。ですから、断定することは難しいですが、仮に夏であれば楽な旅ではなかったと思います。しかも、時刻は正午ごろ。お腹も空いている。主イエスは井戸のそばに座って休まれ、弟子たちは食べ物を買うために町に行ったのです。
主イエスは、水をくみに来たサマリアの女に声をかけられました。「水を飲ませてください」。女は言いました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。「サマリア」という地名は、聖書に何度も登場します。実は、サマリアとユダヤは、もともとはイスラエル王国という一つの国でした。けれども、長い歴史の中で対立するようになったのです。かつては、同じ民族であっただけに一度対立すると、溝が深くなる。特に、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑していたのです。ですから、サマリアの女に「水を飲ませてください」と言われたユダヤ人である主のお言葉は、まさに腰が抜けるほどの驚くべきお言葉なのです。
9節後半に、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」と書かれております。「交際する」と訳された言葉ですが、原語のギリシア語では、「器を一緒に用いる」という具体的な意味を持っています。同じ器を一緒に用いる。食事を共に楽しむことは、互いの存在を認め合い、自分と相手との間に差別を感じない喜びの姿勢です。主は、「水を飲ませてください」に「ユダヤ人もサマリア人も私は必要である」との具体的な思いを示しておられるのです。
サマリアの女は言います。「あなたはくむ物をお持ちでない」。確かに主は、ご自分の器で水を飲むことは考えておられない。本来、ユダヤ人であるならば、「サマリア人と同じ器で水を飲むと汚れてしまう」と考える中、全く自由に、サマリアの女の器を借りて、「私は、あなたと同じ器で水を飲みたい」と望んでおられるのです。
主は、サマリアの女の渇きをご存知です。だから、声をかけられた。主は、女の渇きを癒すため、全力を注がれる。五人もの男と結婚し、今は、別な男と同棲しても、決して癒されない心の渇きを深く憐れみ、女が抱えている渇きをご自分の渇きとして強く感じておられるのです。

<生きた水>
主は、サマリアの女の「どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」にお答えになりました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
女は、主の言葉の意味がわからず、キョトンとしたかもしれません。「生きた水」は、当時の言葉で「こんこんと湧き出る水」を意味したようです。よって、井戸の水とは違います。肉体の渇きを癒す水ではなく、「生きた水」を飲むと、サマリアの女を潤し、彼女の内で泉となり、永遠の命に至る水としてこんこんと湧き出る。そのような驚くべき水が「生きた水」である。つまり、「生きた水」とは、主イエス・キリストの愛であり、秋の特別伝道礼拝へ私たち一人一人を導いてくださった「聖霊」なのです。
主イエスは、サマリアの女を深く憐れみ、愛に渇いている女に『生きた水』である私の愛を与え続けたい」と望んでおられます。そのとき、キリストの愛が女の心に届いた。結果、主の表情やお言葉から、「この方は、単なるユダヤ人ではない」と感じたはず。だからこそ、「主よ」と呼び掛けたのです。「主よ、あなたは くむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
 確かに、サマリアの女は「主よ」と目の前の男性に敬意を表しております。けれども、まだ「キリストと呼ばれるメシア」と気づいておりません。さらに、「生きた水」に関心を示しつつ、「生きた水」はやはり「ヤコブの井戸の水」と思っているのです。実際、サマリア人にとって、父ヤコブは偉大な先祖でした。そのヤコブが与えてくれた井戸と、その井戸からくむ水が、サマリアの人々を支えていた。だから、サマリアの女は語るのです。「この井戸の水をヤコブも、その子供や家畜も飲みました。それなのに、ユダヤ人のあなたが、「生きた水」を与えるのですか。しかも、あなたはこの井戸(30㍍の深さだったようです)から水をくむ物をお持ちでない。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。あなたの方が偉いとは思えません。」これが、サマリアの女の率直な思いでしょう。

<魂の渇き>
今朝は、ヨハネによる福音書に加え、旧約聖書 詩編を朗読して頂きました。詩編は、150篇からなる神への賛歌であり、祈りです。その詩編 第42篇2節にこう書かれております。「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。」ここでは、神の愛に飢え、からからに喉の渇いている魂を「涸れた谷に鹿が水を求めるように」と譬えております。何としても水を得なければ生きられない!という危機的な状況にある鹿に、魂の渇きを重ねているのです。鹿が水を求め谷に来たとしても水が涸れていたらどうでしょう?喉の渇きは一段と増すはずです。そのような、生きるか死ぬかの切羽つまった危機的な状況です。続く3節で「わたしの魂は渇く」と訳された原語も、喉が渇くだけでなく、魂の激しい渇きを意味する言葉です。 
詩編の作者のように、魂の渇きが癒されることは、私たちの祈りの中で最も切実なものかもしれません。子どもから年を重ねた者まで魂の渇きは克服されなければなりません。しかし、井戸の水のように私たちの愛には限界がある。私たちの愛は、暫くの間は隣人を癒すことができたとしても、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水をわき出させることは難しいのです。

<ありのまま>
サマリアの女は、永遠の愛を男に求めた。しかし、五人の男との結婚生活は長く続かなかった。繰り返し男を替えても、彼女の魂は渇いている。その結果、六人目の男と同棲しているのです。そうしたサマリアの女の渇いた魂に向って、主イエスは言われました。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水は その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」確かに、井戸の水を飲むと喉の渇きは癒される。でも、すぐ渇く。つまり、「この水を飲む者はだれでもまた渇く」は納得します。その上で、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水は その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」は、丁寧に読みたいと思います。
すでに、10節で主は、「生きた水」に触れておられます。私も「生きた水」は、主イエスの愛であり、秋の特別伝道礼拝へ私たちを導いた「聖霊」と語りました。つまり主は、「生きた水」を「永遠の命に至る水」として語り直されたのです。
サマリアの女は、「生きた水」、「永遠の命に至る水」を主に語って頂きました。それでもなお、主が語られる「水」を井戸の水と思い込んでいる。その上で、人目を避けて、正午ごろに井戸まで水をくみにいくことから解放されるなら、しかも、その水を飲めば、決して渇くことなく、永遠の命に至る水がわき出るのであれば、こんなに嬉しいことはない!と主に感謝し、主のお言葉を信じ、まっすぐに「命の水」を求めたのです。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
主イエスは、サマリアの女に自らの「渇き」を思い起こさせるかのように、言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。女は、驚いたはずです。しかし、主の表情は穏やかに感じた。問い詰めるでもなく、高い所に立って説教するでもなく、倫理的要求を突きつけるでもない。主から「何も隠さなくていい。あなたの『渇き』をありのままに打ち明けなさい」と優しく命じられたように感じたのです。
主イエスは、「ありのまま」を愛してくださる御方です。「ありのまま」ですから、率直な思い、正直な祈りを受け入れてくださる。つまり私たちは、主の御前で良い人を演じる必要はないのです。素直に、今の渇き、悲しみ、痛み、怒りすらも「ありのまま」に伝えることを主は、大いに喜んでくださるのです。
サマリアの女は、「ありのまま」に答えました。「わたしには夫はいません」。そうです。サマリアの女に、夫はいないのです。主は、言われました。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
 このときのサマリアの女の驚きは、今まで生きてきた中で最大の驚きだったはずです。なぜなら、一言「夫はいません」と告白しただけで、五人の男との婚姻歴があること、さらに今、連れ添っている男とは婚姻関係を結んでいないと主が言い当てたからです。サマリアの女は、驚きつつ、この御方は、今まで出会ったどの男性とも違う、特別なものを持っているに違いない、まさに神の賜物、神の力を持っておられると確信したのです。

<わたしを信じなさい>
突然、サマリアの女が言い出しました。まさに突然です。主イエスは、夫を問題にしておられるのに、女は、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」そう言って礼拝の話を始めたのです。
サマリアの女は、この御方は預言者(預言者とは、神の言葉を預かり、人々に宣べ伝える者)であると確信した。さらに、この御方こそ、私が追い求めていた愛の渇きを永遠に癒してくださる御方に違いない!と思ったはずです。
主イエスも、サマリアの女の心の変化を強く受け止められた。だからこそ、ずばり言われたのです。「婦人よ、わたしを信じなさい」。これほどまっすぐなお言葉はありません。決して、信仰を強要しておりません。むしろ、「婦人よ、わたしを信じてよい。もう真実の愛を求めて、右往左往する必要はないのだ。私を信じ、私が与え続ける永遠の命に至る水を飲み続ければよい。そうすれば、あなたは決して渇くことはない。なぜなら、私が与える水はあなたの内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出るから。あなたと出会ってから私はあなたの渇きを憐れんでいた。もう、安心してよい」なのです。

<まことの礼拝>
主は、さらに続けます。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
 サマリア人は、ユダヤのエルサレム神殿で礼拝することをやめておりました。エルサレム神殿ではなく、サマリアにあるゲリジム山に神殿を築き、礼拝している。もちろんユダヤ人は、シオンの山に建てられたエルサレム神殿で礼拝し、そこに神がおられると信じていたのです。主イエスは、そのことをご存知の上で言われました。「あなたがたは、エルサレムの神殿がほんとうの神殿か、サマリアの神殿がほんとうの神殿かと争っているが、その争いが無意味になる時がくる。まことの礼拝、真実の礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。父なる神は、サマリア人の渇き、ユダヤ人の渇き、またすべての人の渇きを癒す御方である。いや、まことの神、すべての者の父であられる神を礼拝する時がもう既に来ている。今、来ている。」と、宣言しておられるのです。

<メシアの到来>
サマリアの女は感謝して言いました。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
女の表情は、一気に明るくなったはずです。彼女の声が聴こえます。「主よ、私は待っておりました。キリストと呼ばれるメシアの到来を。私は常に渇いておりました。五人もの男と結婚した。しかし、私は満たされない。渇きは深くなるばかり。私をまことの意味で解放してくれる男はいなかった。でも、霊と真理をもって父を礼拝する時が来たのですね。何にも縛られることなく、神の霊、神の真理によって礼拝する時が来たのですね。」そのように喜びながら、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神を求めていたことに気づいたのです。
その上で、「私の渇きが癒される時、それは『キリストと呼ばれるメシア』が来られる時と信じております」と主に告げるのです。その瞬間、キリストは、真実の救いを宣言されたのです。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」主の御声が私たちにも聴こえます。「あなたの前にわたしが来ている。父である神を礼拝する、まことの礼拝が今すでに始まっている。あなたも礼拝に生きている。五人もの男を替えてもあなたの渇きは癒されない。ほんとうの神を、神ご自身の霊と真理をもって礼拝する以外、あなたの人生にほんとうの幸せ、祝福はないのだ。わたしを信じ、わたしが与える水を飲み続けて欲しい。わたしが与える命の水を注がれる時、それは礼拝である。その時、あなたの魂の渇きが本当に癒されるのだ。」
サマリアの女は、主イエスによって救われました。主の「水を飲ませてください」から始まった救いの出来事が、真実の救いとして私たちに示されました。さらに今朝、秋の特別伝道礼拝に招かれた私たちの渇きも、「まことの礼拝」を続けることによって永遠に癒されるのです。
私たちは今、父なる神を礼拝しております。なぜ礼拝をささげるのか。命の水が溢れるほどに注がれるからです。私たちは毎週の礼拝において、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神から決して渇くことのない永遠の命に至る水を注がれ続けるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、あなた様は毎週の礼拝を通し、「生きた水」、「永遠の命に至る水」を注ぎ続けて下さいますから、心より感謝申し上げます。主よ、これからも日々の生活で心がカラカラに渇いてしまう私たちを、御言葉によって癒し続けて下さい。特に、「命の水」を知らず、さまよい続けている方々を「まことの礼拝」へ招き、いつの日か「命の水」を信じ、信仰告白、洗礼へ導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・今朝は、秋の特別伝道礼拝をまもることが許され、心より感謝申し上げます。主よ、礼拝に招かれたお一人お一人に命の水である聖霊を注ぎ続けて下さい。主よ、御心ならば、来週からも永遠の命に至る水を注がれる礼拝に通い続けることができますようお導きください。
・クリスマスに向け洗礼を志願しておられるY兄弟、H姉妹、M姉妹に聖霊を注ぎ、信仰告白、洗礼へとお導き下さい。
・全国、全世界で大型災害により、深い嘆きの中にある方々、避難生活を強いられている方々、それらの方々を支援している方々、被災地の諸教会に慰めを注ぎ続けて下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年11月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第31章1節~3節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第3章1節~5節
説教題「主イエスの十字架、わがためなり」    
讃美歌:546、Ⅱ-78、121、Ⅱ-185、427        

<家族礼拝の恵み>
先ほどまで、教会学校の子どもたちが礼拝堂の特等席に座っておりました。いつも思います。教会に子どもたちの声が響くことは大きな恵みであると。
同時に、どうすれば神の愛、キリストの愛、聖霊の注ぎを子どもたちの心に植え付けることができるのか。そのことを日々、主に問われているように思います。もちろん、私たちは「主が万事を益として下さる」と信じております。だからこそ、子どもたちが「主イエスの十字架、わがためなり」と信仰告白し、洗礼を授けられ、聖餐に与る日を信じ、祈り続けるのです。

<パウロの愛>
パウロは、生涯独身を貫きましたので、血の繋がった子どもはおりません。けれども、ガラテヤの諸教会の多くはパウロによって歩み始めたこともあり、ガラテヤの人たちに、我が子のような愛を注いでいたと思われます。つまり、パウロにとってガラテヤの人たちは、「神の家族」である。だからこそ、言葉が強くなったのかもしれません。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で はっきり示されたではないか。(3:1)」
パウロにとって、ガラテヤの人たちは愛する我が子。我が子が、惑わされているのを見過ごすことはできない。我が子が、「洗礼を受けて本当に良かった」と神に感謝し、地上の生涯を歩んで欲しい!と祈る。だからこそ、本音が出てしまった。その本音が、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」なのです。

<「災いだ」と嘆かれる神>
私たちは、主イエスの十字架によって、罪から救われました。今、私たちの目の前に、木の十字架があります。教会によっては、礼拝堂に十字架のない教会もありますが、東村山教会には礼拝堂の正面に十字架が掲げられております。私たちはプロテスタント教会ですから、十字架にキリストのお姿はありません。なぜなら、キリストはよみがえり、天に昇り、私たちに聖霊を注いでおられるから。けれども、聖餐に与るとき、私たちは十字架で裂かれたキリストの肉と流された血潮に与かり、「私の罪を赦し、義とされるのは、主の十字架のみ」と神に感謝するのです。
それでも、私たちは弱さを抱えております。愛する人を喪ったとき、突然の試練に襲われたとき、心を惑わし、不安になることがある。結果、父なる神、子なる神、聖霊なる神からなる唯一の神ではなく、目に見えるものに頼ろうとしてしまう。そのような私たちを神は「災いだ」と深く嘆かれるのです。
今朝はガラテヤ書に加え、旧約聖書イザヤ書第31章を朗読して頂きました。1節のみ朗読いたします。「災いだ、助けを求めてエジプトに下り/馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く/騎兵の数がおびただしいことを頼りとし/イスラエルの聖なる方を仰がず/主を尋ね求めようとしない。」
 イザヤの時代もそうですが、私たちは不安の中にあるとき、聖霊なる神ではなく、目に見えるもの、また数に頼る者かもしれません。しかし、目に見える被造物、まして「数」は私たちを救うことができません。なぜなら、被造物は神ではなく、「数」は私たちを生かすことがないからです。私たちを、救い、永遠に生かす御方は十字架につけられ、三日目によみがえり、天に昇り、神の右の座から聖霊を送り続けて下さる主イエス・キリストなのです。

<“霊”によって始めたのに>
ところで、ガラテヤ書 第3章3節後半に「“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」と書いてあります。明らかにパウロは肉と霊を対置させております。実は、肉と霊を対置させることは、旧約の時代にも行われていたのです。その一つがイザヤ書 第31章3節です。「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。」確かに、肉と霊を対置させております。
パウロは断言します。「信仰告白、受洗、聖霊の注ぎによって始めたキリスト者の歩みを、肉によって(律法の遵守、割礼を救いの根拠とする生き方)仕上げようとすることは、キリスト者であることを放棄することに繋がる」。やはり、キリスト者にとって、聖霊の注ぎを祈り続けることは非常に重要なのです。
実際、ガラテヤ書 第3章1節から5節で繰り返し用いられる大切な言葉は、「“霊”」であります。確認すると、2節「あなたがたが“霊”を受けたのは」。3節「“霊”によって始めたのに」。そして5節「あなたがたに“霊”を授け」で用いられております。「“霊”」とは、「聖霊」のことです。目に見える馬でも、戦車でも、騎兵でもない。どんなに目を凝らしても肉の目で見ることは難しい。けれども、私たちが今、礼拝をまもっていることも決して当たり前ではない。聖霊なる神の導きであり、大袈裟ではなく、神の奇跡であるとさえ思うのです。その意味で、パウロが「“霊”」の働きに良い意味でこだわっていることは大切だと思うのです。

<「主イエスの十字架、わがためなり」>
私たちは、このような言葉を用いることがあります、「あの人は、霊的な人である」。「霊的な人」を一言で纏めると、「どんなときも、神に依り頼んで生きる人」だと思います。
どんなときも、神に依り頼み、神に従い続ける。そのとき神は、聖霊を注ぎ、御心のままに私たちを導いて下さるのです。あの痛み、あの悲しみ、もちろん、今も残っている。けれども、あの出来事があったことで奇跡のような出会いが用意された。痛みの中だからこそ、主の癒しを求め、悲しみの中だからこそ、聖霊の注ぎを求め続けた。その結果、信仰告白、受洗へ導かれ、聖餐の恵みに与ったのです。
私たちは、律法を行ったから、ご褒美として聖霊を注がれたのでしょうか?そんなことはありません。むしろ、悲しみの中で途方に暮れていたとき、悩みの中でうずくまっていたとき、神様の息である聖霊が私たちに吹き込まれた。そのとき、間違いなく大きな力が注がれた。さらにその力がどんどん強くなり、ついには、洗礼を受けたい!と心から願うように導かれたはずなのです。
皆さんの中には今朝の教会学校の子どもたちのように、小さい頃から教会に通っていた方がおられると思います。そのような方々に特徴としてあるのは、パウロのような劇的な回心の出来事、「あの日、あのとき、私に聖霊がドッと注がれた」という体験がない人が多いように思えます。だからといって、そのような人には聖霊が注がれていない。いや、注がれてはいるが、聖霊の注ぎは少ないということはないと思います。それこそ、全能なる神様から私たちへの聖霊の注ぎに多いも、少ないもないはずです。今、この瞬間も神様の霊である聖霊は、私たち一人一人に尽きることなく、こんこんと注がれているのです。だから、私たちは今朝も力を頂き、午後からのバザーもそれぞれに力を合わせ、協力しながら楽しみつつ、近隣の皆さんに「東村山教会には、こんなにも聖霊が溢れています!聖霊は、キリストの福音を聞いて信じる人には、必ず注がれます!」と様々な奉仕を通して皆さんに告知するのです。
バザーの時間は僅か2時間。2時間ですから、あっと言う間に終わります。しかし、それで私たちの伝道は終わりません。もちろん、聖霊の注ぎが終わることもない。来週は「秋の特別伝道礼拝」が待っています。すでに伝道委員会の皆さんが一言を添えて、多くの求道者に祈りつつ案内状を郵送しております。ある求道者から「一言が添えられていたので、とっても嬉しかった」とすでに反応を頂いております。私は、その案内状にも聖霊が注がれていると信じます。そして、聖霊の注がれた案内状を御覧になった求道者の方が久し振りに東村山教会に行ってみよう!と思ったら、やはりその心にも聖霊が働いていることは間違いないと思うのです。
来週の主日18日は、秋の特別伝道礼拝。25日は逝去者記念礼拝。さらに12月23日にクリスマス礼拝、24日はクリスマス讃美夕礼拝と続きます。聖霊の導きにより、勇気を出して教会に来られるとき、信仰生活が始まります。求道者の方々も私たちと同じように礼拝において、祈りをささげ、説教に耳を傾ける。説教とは、十字架に磔にされたキリストを指し示す指です。その説教に耳を傾けるとき、私たちに注がれている聖霊が求道者の方々にも注がれる。その結果、主が決めておられるときに、洗礼へと導かれるのです。これこそ、神さまから一人一人に与えられる「あれほどの体験」であり、私たちの間で行われた神の「奇跡」なのです。
この後、ご一緒に讃美歌 第2編185番を賛美いたします。何度賛美しても心に響く愛すべき讃美歌の一つです。大袈裟でなく、「カルバリ山の」という讃美歌を東村山教会に連なる神の家族と共に賛美することが許されることも、決して当たり前のことではなく、本当に奇跡のような出来事だと思うのです。そのとき、「はい。あなたは先週、律法を遵守したから賛美して宜しい。はい。あなたは先週、律法を蔑ろにしたから賛美することは認められない」は絶対にないのです。「カルバリ山の」を心から主に感謝しつつ、主イエスの十字架は、ほかの誰でもない、物分かりが悪く、惑わされ、目の前に、主イエスが十字架につけられた姿ではっきり示されたにもかかわらず、主を見失う私だからこそ、主は十字架で死んで下さり、今も、そしてこれからも私に聖霊を溢れるほどに注ぎ続けて下さると信じ、賛美するのです。そのとき、私に注がれた聖霊は、私だけでなく、今朝の家族礼拝に招かれたすべての人に注がれ、さらにバザーに来られる人に注がれ、さらに秋の特別伝道礼拝、逝去者記念礼拝に来られる人に注がれ、さらにクリスマス礼拝、クリスマス讃美夕礼拝に来られる人にも確実に注がれるのです。
いよいよ伝道の季節が本番となりました。共に、東村山教会の子どもたち、また私たちの家族、さらにキリストの福音をご存知でない方々が、いつの日か「主イエスの十字架 わがためなり」と信仰告白し、受洗へと導かれるよう祈り続けたい。心から願います。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、あなた様は主イエス・キリストを、十字架に磔にされた罪人としてお示し下さいますから心より感謝致します。主よ、私たちがどんなときも惑わされることなく、望みをもって主の十字架を仰ぎ見ることができますようお導き下さい。午後にもたれますバザー、来週の秋の特別伝道礼拝、その翌週の逝去者記念礼拝の上にも聖霊を豊かに注ぎ続けて下さい。主イエス・キリストの御名によって、祈り願います。アーメン。

(子どものための祈り)→子どもたちを覚えて共に祈りましょう。
御在天の主イエス・キリストの父なる御神、年に一度の家族礼拝に、教会学校の子どもたちを招いて下さり、心より感謝申し上げます。子どもたちにも日々、聖霊を注ぎ続けて下さい。子どもたちの将来は、聖霊の注ぎなくしては到底、耐えられるものではありません。技術革新により私たちの生活は限りなく便利になりました。けれども、人のぬくもりを感じることが少なくなり、目に見えない聖霊の力に頼ることを私たち大人も含めて疎かにしているように感じます。主よ、今日だけでなく、日々の祈りの中で子どもたちへの祝福を祈り続ける者として下さい。主よ、東村山教会の子どもたち、また、全世界の子どもたちが互いの存在を認め、愛し合い、赦し合い、祈り合う子どもとして健やかに成長することが出来ますようお導き下さい。そして、教会学校に通っている子どもたち、また、かつて教会学校に通っていた子どもたちも、いつの日かあなた様の招きに応えて、信仰告白、洗礼へと導かれますよう、心よりお祈り申し上げます。これらの貧しき願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。


2018年11月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 民数記 第6章22節~27節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第2章17節~21節
説教題「神の恵みを拒まない」    
讃美歌:546、6、199、21-81、Ⅱ-195、543        

<洗礼の恵み>
先程、T姉妹の洗礼式とH姉妹の転入会式が執り行われました。続けて、讃美歌199番を高らかに賛美しました。讃美歌199番は、洗礼の恵みを心に刻む上で大切な讃美歌です。3節で「つみのこの身は/いま死にて、きみのいさおに/よみがえり」と賛美したよう、洗礼によって、罪の私が死に、キリストと結び合わされる。私の罪がキリストの十字架によって完全に赦され、神の子どもとして新しい命が与えられる。それが洗礼の恵みです。
パウロは、ローマの信徒への手紙で洗礼の恵みを次のように語っております。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父(おんちち)の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(6:3~4)」洗礼によって、キリストに結び合わされた者は、キリストと共に葬られ、新しい命に生きる者となるのです。

<キリストと共に生きる>
新しい命に生きるパウロは、ガラテヤの信徒への手紙 第2章19節で、ハッとする言葉を記しています。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」ドイツの改革者ルターは、19節の御言葉について、「律法に対して生きることは神に対して死ぬことであり、律法に対して死ぬことは神に対して生きることであるという定義は、すばらしく、かつ、前代未聞のことである」と高く評価しております。
パウロは、これまでの歩みを振り返って語る。「律法はわたしを救えなかった。だから、キリストと共に十字架で死んだ。そして今、私は生きている。なぜ?キリストが復活されたから。律法に対して死んだ私は、復活のキリストと共に神に対して生きる者とされた。生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられる。」
20節で、パウロが語った「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」についてルターはこう語る。「キリストは私にくっつき、固定されて、私のうちにとどまっておられる。私が生きているこの生は、彼が私のうちにあって生きておられるのである。いや、私が生きているこの生はキリストご自身である。だから、こうしてキリストと私とは一つなのである。」
キリストと一つにされたパウロの喜びが伝わります。まさに、先程 受洗したT姉妹、転入会されたH姉妹、そして全てのキリスト者に共通する喜びです。パウロは、神の恵みへの応答として宣言します。「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(2:21)」
パウロは、どのような思いで語ったのでしょうか。激しく興奮していたかもしれません。声が震えていたかもしれません。涙が溢れていたかもしれません。いずれにせよパウロは、「神の恵みを拒まず、キリストと共に生きる」と語り、「キリストと共に歩む人生こそ、キリストの死を無意味にしないもっとも神に喜ばれる生き方」と宣言するのです。

<主の御顔>
ところで、キリスト者にとって神の恵みとは何でしょう?今朝の主日礼拝は、たくさんの神の恵みが溢れております。T姉妹の洗礼式、H姉妹の転入会式、聖餐の恵み、さらに神の祝福を頂く。今朝は、第一の主日ですから、アロンの祝福も頂きます。今朝の旧約聖書の御言葉、神の恵みを祈るアロンの祝福が記されている民数記第6章25節に「主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。」とあります。
 「御顔(みかお)」とは、神の顔を意味しますが、祝福において重要な意味を持っているのが「主の御顔」です。アロンの祝福における「神の恵み」は、主が御顔を向けて、私たちを照らして下さることです。神が、遠く離れた所から「あなたがたもよくやっている。今日もここから祝福しよう」ではなく、神が私たちの近くまでいらして下さり、私たちを御覧になり、神の御顔と私たちの顔が向かい合うようにして祝福を注いで下さる。これが「神の恵み」です。
 神が、眩(まばゆ)い御顔を私たちに向けて下さるとき、神の光に包まれる。たとえ今、どこを歩いているのかわからなくなり、闇の中でうずくまるときも、神が御顔を私たちに向け、真の光で照らして下さる。そのとき私たちは、神の恵みに包まれ、神に対して生きる者とされるのです。
ところで、キリスト者にとって「真の光」とは何方を意味する言葉でしょう?そうです。キリスト者にとって真の光とは御子イエス・キリストを意味する。キリストこそ、私たちを罪の闇から救い、真の光として私たちが歩むべき道を照らし続けて下さる御方です。
つまり、キリスト者の恵みは、洗礼によってキリストと結ばれ、キリストが私たちを永遠に照らし続けて下さることです。それなのに、神の恵みである「真の光なるキリスト」を拒むなら、神を深く悲しませることになると思うのです。

<神の恵みを拒まない>
スイスの改革者カルヴァンは、21節の「神の恵み」についてこう記します。「神の恵みを、軽視するとしたら、それは何という忘恩であり、怖るべきことであろうか」。その通り。もしも私たちが神の恵みを軽く視るなら、極めて残念なことであり、神は深く嘆かれる。またルターも、「神の恵み」について記す。「キリストにより われわれに たしかに差し出されている恵みと罪の赦しとを斥けるという、罪の中の(最大の)罪を犯すことになる。(中略)それなのに
われわれは容易に この罪を犯してしまう。」
カルヴァンとルターが語っていることは同じ。神が私たちを救おう、義なる存在にしようと、御子キリストを世に遣わし、十字架と復活によって私たちを救おうと手を差し伸べておられるのに、神の御手を拒み、斥けるなら、罪の中の最大の罪を犯すことになるとそれぞれ断じているのです。
 洗礼を受け、信仰生活を続けている者であっても、心のどこかに、「せめて、このことは自分の力によって何とかしなければ」と思うことがあるはずです。しかし、今朝の御言葉を通してパウロが私たちに伝えることは、「『自分の力で何とかしなければ』という思いに、フッとサタンが入る。受洗し、聖餐に与る者は、『自分の力で』がなくなるはずだ。なぜなら、神があなたを愛し、赦し、慈しみ、復活の命へと導いて下さるから。すべてキリストに委ね、キリストと共に歩む人生こそ、神の恵み。キリストと共に歩む人生こそ、キリストの死を無意味にしない、もっとも豊かな人生なのだ」。

<聖餐の恵み>
 これから、聖餐に与ります。洗礼を受けてから繰り返し与っている者から、今朝、初めて聖餐に与るT姉妹まで、聖餐に与るとき、十字架と復活のキリストと一つにされている喜びを身体全身で味わいます。パンに与るとき、キリストの体を味わう、杯に与るとき、キリストの血潮を味わう。実際に喉を通り、キリストが私の中に入り、キリストと一つにされる。キリスト者でない方から見ると、不思議な儀式に思えるでしょう。しかし、私たちキリスト者は、聖餐に与るとき、あの日に犯した罪も、この日に犯した罪も、そしてこれから犯してしまう罪も、すべてキリストによって赦された恵みを、心から味わう。キリストの肉と血潮が喉を通るとき、今、この瞬間もキリストが私の内に生きておられると感謝し、これからもキリストと共に生きていけると喜ぶのです。
 今朝、信仰を告白し、洗礼を受けられたT姉妹は、まさに神の恵みを拒むことなく、差し出された手を感謝して掴んだ。そして今、初めての聖餐に与るのです。けれども、もしかすると今、不安を感じているかもしれません。差し出された手をいつか離してしまうのではないか?神から差し出された手をギュッと握り続ける自信がない。そのように考えているかもしれません。でも、安心して頂きたい。なぜなら、パウロが語っているように、T姉妹の手は、洗礼を受け、聖餐の恵みに与った瞬間、聖霊が注がれ、すでにキリストの手になっている。つまり、T姉妹の内にキリストが生きて働いておられるのです。だからもう何も恐れる必要はない。ただ神から与えられた一日一日を感謝し、与えられた賜物を用いてまっすぐに歩めば良いのです。
T姉妹だけではありません。今朝、転入会をなさられたH姉妹、また東村山教会に連なるすべてのキリスト者も同じ。私たちの内に今、この瞬間も生きて働いておられるキリストの鼓動を感じつつ、時に悩み、時に躓きながら、キリストが今の試練も、困難も必ず良い方向に導いて下さると信じ、キリストと共に歩み続ける。そのような生き方こそ、キリストの死を無にしない生き方であり、神の恵みと喜びに満ち溢れる生き方なのです。
T姉妹に加えて、三人の兄弟姉妹とクリスマスに向けて、コツコツと受洗準備の学びを続けております。今朝も三人は聖餐に与ることは出来ませんが、もうすぐ聖餐に与れる。また、今まで数えられないほど聖餐に与った私たちは、聖餐に与るとき、犯した罪を悔い改め、キリストの十字架によって罪赦された恵みを感謝しつつ、キリストと共に生きる喜びを一人でも多くの方に届くよう祈り続けたい。心から願うものであります。

<祈祷>
大いなる恵みをもって私たちを待ち伏せ、私たちを捕らえ、私たちを導き、支えて下さる父なる御神。あなた様が、御子を私たちのところにお送り下さり、唯一の義の道を確立して下さったことを、心から感謝いたします。「わたしは、神の恵みを無にはしません」と言い続けることができますよう、導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・今朝、受洗されたT姉妹、転入会をされたH姉妹を祝福し、これからの歩みもお導き下さい。また洗礼を志願している三名の兄弟姉妹の上にも聖霊を注ぎ、信仰告白、受洗へとお導き下さい。
・全国、全世界で大型災害により、嘆きの中にある方々、避難生活を強いられている方々、それらの方々を支援している方々、被災地の諸教会に慰めを注ぎ続けて下さい。
・来週の主日は家族礼拝とバザーを予定しております。どうか、祝福に満ちた家族礼拝とバザーとして下さい。また18日は秋の特別伝道礼拝、さらに25日は逝去者記念主日礼拝と続きます。それぞれの礼拝を祝し、導いて下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年10月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第143篇1節~2節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第2章15節~16節
説教題「信仰のみが義とする」    
讃美歌:546、10、304、354、542          

<信仰義認>
 今週の水曜日、10月31日は宗教改革記念日です。プロテスタント教会にとって大切な日となります。1517年10月31日、ドイツの改革者ルターがヴィッテンベルク城(しろ)教会に95箇条の提題を貼り出した日と言われております。そのルターが、ガラテヤの信徒への手紙第2章16節の御言葉を説教するとこうなります。「あなたは惑わされないように、信仰から逸れて行(おこな)いへと流されてしまわないように気をつけなさい。人はよい行いをすべきであるが、よい行いにではなく、キリストの行いに信頼すべきであり、罪や死や地獄をわたしたちの行いによって減らそうとするのではなく、それらを私たちから、義としてくださる救い主、シオンの王へと向けなければならない。」
 ルターは「信仰義認」を語ります。「信仰義認」とは、「ただ信仰によって義と認められる」という教理。この教理を示している御言葉の一つが、ガラテヤの信徒への手紙第2章16節なのです。
 私たちは、祈りと黙想を積み重ねることで義と認められることはありません。どんなに真剣に祈りと黙想を積み重ねても罪人です。しかし神は、そのような私たちを、キリストの十字架によって完全に赦し、義しい者と認めて下さるのです。ルターが95箇条の提題を貼り出した理由の一つは、「信仰義認」を破壊することへの怒りであったと思います。キリストへの信仰と悔い改め抜きに、罪の償いを軽減する証明書である贖宥状の購入によって罪の赦しが与えられるという教えは、キリストの死を無意味にするもので、ルターには耐えられないものだったのです。
 パウロも、ペトロの行為を見過ごすことはできませんでした。エルサレムでの使徒会議でそれぞれの働きを認め、割礼を受けた人々はペトロ、異邦人にはパウロが中心となりキリストの福音を宣べ伝えることを決めた。それなのに、ペトロがアンティオキアに来たとき、割礼を受けている者たちを恐れて食事の席から身を引こうとした。しかも、一緒に伝道していたバルナバさえも彼らの見せかけ行いに引きずり込まれてしまったのですから、パウロの怒りは頂点に達した。そこでパウロは、キリスト者の恵み、キリスト者の救いの根拠を定義したのです。
 16節「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」
パウロの全存在をかけたメッセージです。私たちも誰かに何かをどうしても伝えたい!と思うときは、同じ言葉を繰り返します。相手から「しつこい」と言われようと、「もうわかった」と言われようと、本当にこのことを心の奥底にしっかりと刻みつけて欲しい!と真剣に求めるからこそ、繰り返すことがある。 
パウロは16節で「律法の実行ではなく」を二度繰り返し、さらに念を押すように「律法の実行によっては」と続ける。また「キリストへの信仰によって義とされる」を繰り返す。つまりガラテヤ書の一つの山が第2章16節であり、ルターも16節の御言葉に大いに支えられて、改革を行ったと思うのです。
 パウロは確信しております。「私たちは律法を全うすることは不可能。よって、律法の実行によっては、だれ一人として義とされず、救われない。けれども、キリストが十字架で死なれたことで、私たちは義とされた。キリストの義こそ、私たちの恵みであり、救いだ。それなのに、なぜ割礼の有無にこだわるのか?ユダヤ人でありながら、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのか」と、ペトロを叱責するのです。

<キリストの信実によって>
今朝の御言葉15節、16節、来週の御言葉17節〜21節はガラテヤ書の中で特に大切。なぜなら、キリスト者の恵み、救いが丁寧に記されているから。私たちの行いによってではなく、キリストが十字架で成し遂げられた贖いの死によって救われ、キリストによって義とされると語られているからです。
 その上で今朝、しっかりと心に刻みたいのは、やはり16節の御言葉です。特に、新共同訳で「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」と訳された御言葉について丁寧に釈義したいと思います。少し細かい話しになりますが、原文のギリシア語では、「イエス・キリストへの信仰によって」は、「δια(ディア)πιστεως(ピステオゥス)ιησου(イエィスー)χριστου(クリストン)」ですが、直訳は、「イエス・キリストのピスティスによって」となる。「ピスティス」をどう訳すかは色々な意見がありますが、ここでは「信仰」ではなく、「誠実」または「信実(まじめ、正直)」と訳すとぴったりかもしれません。
実際パウロは、テモテへの手紙二でこう語っております。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである(2:13)。」そうです。パウロが若き伝道者テモテに記したよう、キリストは常に誠実であり、信実であり、まじめで、正直であられる。そのようなキリストの信実によって、私たちも義と認められるのです。念のため、英訳も味わいたいのですが、16節をこのように訳している聖書があります。「through faith of Jesus Christ」。日本語に訳すと「イエス・キリストの信実、誠実によって」となります。
つまり、大切なことは、私たちの行いには義とされる根拠はないということです。キリストへの信仰であっても、「今日は信仰が弱いから義とされない」や、「今日はたっぷり祈り、たっぷり聖書を読み、たっぷり賛美した。よって義とされた」ではない。そうではなく、ただキリストが私たちを愛し、憐れみ、赦して下さったそのキリストの誠実、信実によってのみ私たちは神から義しいと認められるとパウロは繰り返し語るのです。だからこそ、割礼の有無、律法の遵守にこだわり続けるペトロをパウロは許せない。ルターも、贖宥状の有無によって罪の赦しに一喜一憂する人々を許せないのです。
改めて、16節を原文に沿って訳します。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストの信実によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストの信実によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(大柴譲治訳)」この訳だと、すっと心に入ると思います。

<だれ一人として義とされない>
 さて、今朝はガラテヤ書と共に詩編 第143篇1節、2節を朗読して頂きました。改めて朗読致します。「主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって/わたしに答えてください。あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません。」
詩編第143篇は、悔い改めの実践を教え、導く「悔い改めの詩編」と言われます。ダビデが神に敵からの救いを祈り求める賛歌です。
実は、詩編第143篇が今朝のガラテヤ書の御言葉にとって、非常に大切な詩編となる。なぜなら、詩編第143篇は、私たちに共通する「不義」を告白しているからです。つまり、私たちの行い(割礼、律法)では、私たちは義と認められないとダビデが歌う。それが2節の「御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません」なのです。よって、律法の実行に基づく義認はありえないというパウロの主張の根拠として詩編第143篇は非常に大切な詩編となるのです。
 パウロは断言します。「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」。ちゃらんぽらんに生きてきたパウロではありません。自ら告白しているように「律法の義については非のうちどころのない者(フィリピ3:6)」であった。しかし、そのパウロが復活のキリストに出会い、キリストの信実、キリストの誠実、キリストの恵みを知る者とされた。結果パウロは、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他(た)の一切を損失とみています(フィリピ3:8)。」と告白、「キリストの信実によって義とされた」とキリストの福音を宣べ伝える者とされたのです。

<ただ、キリストの償いと義と聖とが>
 最後にドイツ改革派教会の教理問答『ハイデルベルク信仰問答(竹森満佐一訳)』問61の問と答えを紹介します。問61 なぜ、あなたは、ただ、信仰によってのみ、義とせられる、というのですか。答 それは、わたしが、自分の信仰のゆえに、神によろこばれるのではなく、ただ、キリストの償いと義と聖とが、神に対する、わたしの義となるのであって、わたしは、ただ、信仰によるのほか、これを受け、自分のものとすることはできないからであります。
今朝の御言葉でパウロが伝えたい福音は、ただ一つ。私たちは、行いで救われるのでなく、キリストの信実によって義とされるという圧倒的な恵みです。義とされるとは、「救われる」ということ。別の言葉で言うと「認められる」ということです。「あなたは正しい」と神に認めて頂けるのです。
現代は誰もが「認められたい」と願っている時代だと思います。そのことを「承認欲求」と言いますが、そのことの一つがツイッターやフェイスブック、インスタグラム等で「いいね!」の数や、フォロワーが増えると喜び、減るとがっくりすることに繋がるように思います。だから、少しでも「インスタ映え」する写真を撮ろうと必死になる。「承認欲求」は若い世代だけではありません。たとえツイッターやインスタを知らない世代であっても、承認欲求は同じはず。承認欲求が満たされると満足しますが、満たされないと落ち込む。その結果、最悪のケースは「私は誰からも必要とされていない」と本気で思ってしまう。
けれどもパウロは、宣言するのです。ただキリストの信実によって、私たちは義とされ、救われ、認められる。しかも、神に認められると。そうです。「私は誰からも必要とされない」と落ち込んでも、創造主なる神が「あなたが必要である。あなたという存在を認めている。あなたを救う」と宣言されるのです。それこそが私たちキリスト者の福音、恵み、喜びなのです。
ハイデルベルク信仰問答 問61の答えを心に刻み続けたい。自分はダメだ!と落ち込み、また同じ過ちを繰り返してしまったとうなだれるとき、「ただ、キリストの償いと義と聖とが、神に対する、わたしの義」と心からキリストを賛美したい。そのとき、私たちはキリストの恵みに包まれ、喜んで地上の命を生きる者とされるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、御子の贖いによって救いに入れて下さったことを感謝いたします。どうぞ御恵みのうちに生きる者として下さい。私たちの業によって、御子の死を無駄にすることがありませんように導いて下さい。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・先週の火曜から木曜まで第41回 日本基督教団総会が行われました。主よ、私たち東村山教会が属している日本基督教団をこれからも力強く導いて下さい。
・全国、全世界で大型災害により、深い嘆きの中にある方々、避難生活を強いられている方々、それらの方々を支援している方々、被災地の諸教会に慰めを注ぎ続けて下さい。
・洗礼を志願している方々、求道生活を続けている方々に聖霊を注いで下さい。礼拝後に転入試問会を控えているH姉、来週の主日に洗礼を控えているT姉を聖霊で満たし、来週、主の祝福の中で洗礼式、転入会式を執り行うことが出来ますようお導き下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年10月21日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 レビ記 第11章1節~8節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第2章11節~14節
説教題「神のみを恐れる」    
讃美歌:546、12、252、Ⅱ-99、541          

<常に何かを恐れる>
 私たちは、常に何かを恐れている存在かもしれません。子どもの頃は両親や先生の顔色が気になる。中高生になると仲間の視線や、将来への不安を感じる。就職すると、益々他者の評価を恐れるようになる。結婚すれば自分だけでなく、家族のことが気になる。年を重ねると、病や死を恐れる。そのような地上での歩みにおいて、様々な試練に襲われることがある。年配の方であれば、戦争は大きな試練であったと思います。病に襲われることや、愛する人の死、さらに災害や事故等によって、それまでの穏やかな日常が試練の日々になる。結果、心が深く傷つき、常に何かを恐れるようになる。
皆さんも色々な方とおしゃべりすることがある。数人の仲間とのおしゃべりでは深い話しになることはありませんが、一対一でおしゃべりをすると、それまで感じなかった深い傷を感じることがあるはずです。最初はそれぞれの近況からおしゃべりが始まる。その後、段々とお互いの悩みになる。その後も会話を重ねていくと、悩みの源は、それぞれが生まれてから今日まで育った環境が大きく影響していることがわかる。その結果、おしゃべりをしている二人が、それぞれに生まれてから今日まで、様々なことに縛られ、何かを恐れつつも、神から与えられた地上での命を誠実に歩んできたことを知り、時に、涙を流しながら、「よくがんばったね」とお互いを労うことがあると思うのです。

<パウロとペトロ>
 パウロとペトロ(ケファ)も、エルサレムでの使徒会議では、お互いの過去を語り合ったと思います。パウロは、ユダヤ教のエリートとして真面目に生きていた過去。律法を遵守しなくても、キリストを信じる信仰によって救われると説いたキリスト者を、「律法を馬鹿にする愚か者!」と迫害した過去。あの日、復活のキリストに捕らえられ、回心へ導かれた喜び。異邦人への伝道者として歩む喜びと厳しさを語り続けた。
 ペトロも同じ。ガリラヤの漁師として歩んでいた日々。キリストから「人間をとる漁師にしよう」と言われ、網を捨て、主に従った日の喜び。今も心の傷として疼く、キリストを三度 否んだ日の涙。十字架の死の知らせが届いた日の苦しみ。復活のキリストから「わたしを愛しているか」と三度も問われた日の悲しみ。聖霊降臨の日に説教し、三千人ほどが受洗した日の喜びを語り続けた。結果、エルサレム教会のペトロと異邦人教会のパウロが一致の握手を交わし、それぞれの地で、割礼を受けた人々にはペトロ、異邦人へはパウロが、福音の真理を伝道することを約束し、使徒会議は終了しました。
 
<身を引こうとしたペトロら>
 その後、今度はペトロ(ケファ)がパウロを訪ね、異邦人伝道の拠点であるアンティオキア教会にやって来たのです。アンティオキア教会は、パウロ等を異邦人伝道に遣わした教会。この教会には異邦人キリスト者が大勢おりました。ペトロは、食物規定に縛られることのない異邦人の食事を異邦人キリスト者と一緒に楽しんでおりました。
ところがです。そこに、エルサレム教会からユダヤ人キリスト者らがやって来たのです。彼らはキリストを救い主と信じますが、割礼を受け、律法を遵守しなければ救いは完成しないと考え、主の兄弟ヤコブを中心としたグループを作っておりました。エルサレム教会では、彼らが力を持っていたのです。結果、主の一番弟子であるペトロでさえ、ヤコブ派の面々には色々と気を遣うことが多かったと思います。
そのようなヤコブ派の面々が、アンティオキアの教会に到着すると、今まで異邦人キリスト者と一緒に食事を楽しんでいたペトロが、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだした。また、アンティオキア教会に属するほかのユダヤ人キリスト者も、ペトロのように身を引こうとしだした。しかも、パウロと共に異邦人伝道に邁進していたバルナバさえも、身を引こうとしだした。パウロは、大変に大きなショックを受けたのです。
なぜペトロらは、「割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こう」としたのか?「心にもないことを」行ったのでしょうか?それは、幼少期から心に沁み着いている「恐れ」が邪魔をしたからだと思います。割礼を施され、律法の遵守を求められたユダヤ人キリスト者は、心で信じていることと、実際の行動が乖離してしまうことがあったと思うのです。

<引きずり込まれる私たち>
 日本人キリスト者である私たちも、同じような経験があります。田舎に帰省する。自分だけがキリスト者であると、主日であっても教会に行くことができない。家族、友人、知人が召されたとき、仏式の葬儀がある。そのとき、キリスト者としてお焼香を上げるべきか悩む。ペトロも、異邦人と食事を楽しんでいたのですから、律法に縛られない福音に生きていた。けれども、律法を軽んじていると思われることを恐れ、ヤコブ派を恐れ、背後にいる大勢のユダヤ人キリスト者を躓かせることを恐れ、食事の席から身を引こうとしたのです。
 私たちもその場の空気を読んで行動することがあります。会議等で意見を述べようと思っても、誰も意見を発しない。そのとき、黙ってしまうことがある。下手に意見を発し、突っ込まれるのは嫌。また、波風を立てるより、「この程度のことなら目くじらを立てるのも」と考え、採決で挙手をしてしまう。特に、力のある人が発言をすると、その人に同調するのが賢明と判断するものです。 
 ペトロが身を引こうとした。そのとき、ほかのユダヤ人キリスト者も、それまではペトロと一緒に食事を楽しんでいたのに、「おい、ペトロが身を引こうとしだした、私たちも身を引こう」となった。さらに、バルナバはパウロと共に伝道していたのですから、せめてバルナバだけでも食事を続けてくれていたら、パウロもここまで怒りを表すことはなかったと思うのですが、「バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれて」しまったのです。
 パウロは、一連の出来事にショックを覚え、怒りに震えています。ペトロの周りにはたくさんの人々がいる。もちろん、ヤコブ派の面々もいる。しかし、黙って見過ごすことは、キリスト者として許されない行為であり、福音の真理をねじまげることは罪になると判断、面と向かってペトロを叱責したのです。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」

<ペトロの弱さ>
パウロの言葉に、ペトロは何も言えなかったはずです。まさに、主イエスを「私は知らない」と叫んだ直後、鶏が鳴いたときの衝撃だったかもしれません。異邦人伝道者パウロとついこの間、一致の握手を交わした。その握手の余韻が残るうちに、ペトロはアンティオキア教会を訪問した。パウロも大いに喜び、ペトロも大勢の異邦人キリスト者から歓待されたはずです。友好の食卓には、レビ記で「汚れたもの」と規定された蹄(ひづめ)の割れた動物の肉も並んでいたと思われます。異邦人キリスト者にとっては美味しい豚肉が厳格なユダヤ人キリスト者にとっては躓きとなる。エルサレム教会からやって来たヘブライ語を話すユダヤ人キリスト者らが、割礼や食物規定を遵守するのは当然です。しかしペトロは、異邦人と一緒に豚肉も美味しく食べていたと思うのです。
それなのに、ヤコブ派の面々が到着した瞬間、ペトロの心が大きく動揺した。湖の上を歩き、主イエスの方へ進んだ。しかし、突風を恐れた瞬間、ズブズブと湖に沈みかけた。主イエスが逮捕され、尋問を受けている間、今度は自分も尋問を受け、殺されてしまうと死が恐くなり、三度もキリストを否んだ。そのようなペトロの弱さが露呈されてしまったのです。
ペトロは、パウロが指摘したように、福音の真理にのっとってまっすぐ歩くことを諦めてしまう時があるように思います。私たちもそのような経験があります。もちろん、今朝も礼拝に集う。それこそご自宅から教会までの道には色々な誘惑があったかもしれません。しかし、主日は教会と心に決めているので、それこそまっすぐ教会にやって来た。けれども、様々な理由で礼拝から離れることがある。離れないまでも、福音の真理にのっとってまっすぐ歩くことより、別なことを優先することがあるのではないでしょうか?
 
<完全な道を歩む人は救われる>
旧約聖書 箴言にこのような御言葉があります。「完全な道を歩む人は救われる。二筋の曲がった道を歩む者は直ちに倒れる(箴言28:18)。」心に刺さります。まさに福音の真理にのっとって完全な道をまっすぐ歩いていると救われる。しかし、二筋の曲がった道をフラフラ歩いていると、いずれではなく、直ちに倒れる(岩波訳は、「穴に落ちる」)と箴言は語るのです。
パウロが14節で語った「まっすぐ歩いて」と訳された原語は、非常に稀な動詞です。この動詞には、「直線的に歩く」とか「正しく生きる」という意味が込められている。よって箴言の「完全な道を歩む」に通じる言葉です。
確かに、言葉と行動が伴わないと信用を失います。最悪の場合は地位を失い、どん底の生活を余儀なくされる。パウロがそこまで考えていたかわかりません。しかし、ペトロの言行不一致に、そのような危うさを感じたはずです。そして、その危うさはペトロだけの問題ではなく、ガラテヤの諸教会の問題でもあると考えた。言行不一致による信仰の揺らぎ、福音の真理が捻じ曲げられる。その結果、キリストの十字架の死による罪の赦し、復活による永遠の生命の約束、再臨の希望からなる福音の真理が、霞んでしまい、キリストの死が、キリストの復活が、キリストの再臨が、無意味になってしまう、そのことを神が赦して下さるはずがないと、心から神の怒りを恐れたと思うのです。

<神のみを恐れる>
パウロは、自らも語っているように、「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした(フィリピの信徒への手紙3:5~6)。」パウロは、誰よりも聖書(旧約聖書)を熟読し、律法を遵守した。パウロは、旧約聖書コヘレトの言葉の最後「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう(コヘレトの言葉12:13〜14)。」を心に深く刻んでいたはず。だからこそ、ペトロの言行不一致を目の当たりにしたとき、ペトロを叱責したのです。
「ペトロ、あの日、エルサレム教会で私たちは一致の握手を交わしましたね。あれは何だったのでしょう?私たちは神を畏れることを大切にしているのではないでしょうか?それなのに、なぜ、豊かな食事の席から身を引こうとするのですか。神は、あなたの心をすべてご存知の上で、裁きの座に引き出されるのですよ。でも、私たちはキリストに出会った。真の裁き主であるキリストが、私たちの罪をすべて引き受けて下さり、十字架で死んで下さり、私たちを罪の束縛から解放して下さったではありませんか。洗礼を受けた私たちは他者の目、他者の評価を恐れる必要がなくなったのです。それなのに、なぜあなたは今も、そんなにビクビクしているのですか。何を恐れているのですか。私たちの目の前には御国に至るキリストの道が備えられているではありませんか。ただただ私たちはキリストの道をまっすぐ歩き続ければ良いのです。確かに、それでも疲れてしまうときがあるかもしれません。横道に逸れてしまうときもあるかもしれません。しかし、私たちにはいつでも、主の道に戻ることが許されている。どうか、異邦人キリスト者を巻き込まないで欲しい。あなたこそ、過去の自分とサヨナラして欲しい。あなたは伝道者。エルサレム教会の指導者です。もう裏切り者のペトロではありません。湖でおぼれたペトロではありません。主によって罪赦され、永遠の生命を約束された使徒なのです。どうか、福音の真理にのっとってまっすぐ歩いて下さい。神を悲しませないで欲しい。キリストの死を無意味にしないで欲しい」。

<まっすぐ歩く>
私たちも色々な出来事に引きずり込まれることがあります。大きな悲しみに襲われたとき、自分の弱さを突きつけられたとき、過去の過ちに縛られるとき、どうしても福音の真理が霞んでしまうことがある。主の十字架の死による罪の赦しを信じている心と、それでも、過去の過ちは赦されないと思う心が闘ってしまう。そしてビクビクしてしまうことがある。しかし、そのときこそ、福音の真理を思い起こしたい。キリストの声を思い起こしたい。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない(ヨハネによる福音書14:6)。」そうです。福音の真理そのものであるキリストを見つめていると、様々な恐れから解き放たれる。しり込みし、身を引こうとすることもない。他者の言動に引きずり込まれることもなくなる。信仰告白し、洗礼を受けた私たちキリスト者は、ただ神を仰ぎ、ただ神のみを恐れ、備えられるキリストの道を歩み続ける。そのとき、これまで歩んできた道が、まっすぐに変えられ、最後は、父なる神の懐へと繋がるのです。今週もただ神のみを恐れ、備えられる主の道をまっすぐ歩んでいきたい。心から願うものであります。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、あなた様は、御子の死と復活によって、私たちに福音の真理を示して下さり深く感謝いたします。私たちは、他者の目を恐れる者でございますが、どうか、あなたのみを恐れる者とならせて下さい。いかなる時も、福音の真理にのっとってまっすぐ歩き続けることができるよう、お導き下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・本日から礼拝に戻られた加藤常昭先生の心身のご健康をお守り下さい。
・被災され、冬を前に嘆きの中にある方々、避難生活を強いられている方々、それらの方々を支援している方々、被災地の諸教会に慰めを注ぎ続けて下さい。
・洗礼を志願している兄弟姉妹、転入を志願している姉妹、熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に御心をお示し下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年10月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第10章17節~19節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第2章6節~10節
説教題「交わりの握手」    
讃美歌:546、26、224、385、540、Ⅱ-167        

<交わりの握手>
私は今、伝道者として10年目の日々を歩んでおります。伝道者として歩むようになり、銀行員の頃と違うなと感じる瞬間があります。その一つは「握手」です。確かに、銀行員時代も握手をすることがゼロではなかったと思います。けれども、ほとんど記憶にありません。支店長から「田村、頑張れ!」と激励されても、握手はありません。しかし、伝道者として歩んでおりますと、色々な場面で握手をする機会が増えたように思うのです。
 釧路にいたとき、帯広、新得、北見、置戸、釧路、中標津と広い道東地区で毎年講壇交換を行いました。秋に行うことが多かったです。なぜなら、春、夏は教会、幼稚園と行事が重なる。もちろん、秋は秋で様々な行事が入り、説教準備は土曜日の夜からという自慢にもならない状態でした。なぜ、秋に色々な行事が集中するかと言えば、11月になると雪が降り始める。そのため、秋に色々な行事を行うのですが、2012年10月28日、北見望ヶ丘教会で講壇交換を行いました。その日の礼拝は、私にとって大袈裟かもしれませんが衝撃でした。なぜなら、礼拝の途中で「平和の挨拶」が行われたからです。
 北見望ヶ丘教会では、教会学校の子どもたちと共に主日礼拝をまもりますが、子どもへの説教を行い、献金・感謝が終わると「平和の挨拶」が始まります。子どもも大人も立ち上がり、礼拝堂を歩きながら、たくさんの人と握手をして、「主の平和がありますように」と挨拶をするのです。初めての経験だったので、少し照れてしまいましたが、その後の説教は、主にある平和、主にある一致を感じつつ、いつもにも増して大胆に御言葉を語らせて頂きました。

<一致への確信>
回心したパウロは、三年後にエルサレムに上りました。さらに、十四年後、バルナバとテトスと一緒に再びエルサレムに上ったのです。バルナバは、エルサレム教会が異邦人教会に派遣したユダヤ人伝道者。テトスは、パウロによる異邦人伝道によってキリスト者とされた異邦人伝道者。パウロは、そのようなバルナバとテトスと一緒にエルサレムに上り、エルサレム教会の柱と目されるヤコブ、ケファ(ペトロ)、ヨハネ等と「使徒会議」を行うことで、エルサレム教会と異邦人教会が一致して、割礼を受けたユダヤ人に、割礼を受けていない異邦人に、それぞれの地域でキリストの福音を伝道することを願ったのです。
パウロを「使徒会議」へと突き動かした確信は何でしょう?パウロは6節で、「神は人を分け隔てなさいません」と宣言しております。パウロは信じている。「神は人を分け隔てなさいません。だから、ユダヤ人か、異邦人かは問題ない。たとえ、会議の相手がエルサレム教会の中心人物であっても、キリストの福音を伝道するために必ず一致できる!」
確かに、エルサレム教会のヤコブ、ケファ(ペトロ)、ヨハネは、主イエスと共に伝道し、復活の証人であり、原始キリスト教会の柱です。一方パウロは、キリスト者を徹底的に迫害した過去がある。けれども、パウロには確信がある。「迫害者だったからこそ、キリストが私を捕らえ、福音を宣べ伝える者として下さった。それならば、たとえ会議の相手がエルサレム教会の柱であろうと、一致して伝道に邁進するのは当然である」。
しかし、パウロも人間。使徒会議を控え、不安もある。会議の結果、もしも、ヤコブ、ケファ(ペトロ)、ヨハネから、十四年ただひたすら伝道したキリストの福音を否定されたら、どうすればよいのか?と悩んでいたかもしれません。伝道者も弱さを抱えた罪人。一致への確信を抱きつつ、悩むこともあるのです。
実際、パウロが異邦人伝道に邁進した十四年は、平坦な歩みではなかった。徐々に、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の緊張が高まっていたのです。けれども、パウロはその緊張をも神が良い方向に導くために備えてくださった苦難であると信じた。ローマ書に記したよう、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです(5:3~5)」を信じ、ユダヤ人キリスト者、異邦人キリスト者、それぞれ分け隔てなく聖霊によって、神の愛が注がれているからこそ、一致に導かれ、最後は「交わりの握手」で一つになると信じた。だからこそ、期待も不安も御手に委ね、バルナバとテトスと共に再びエルサレムに上ったのです。

<成功した「使徒会議」>
 気になるのは「使徒会談」の結果。9節に「彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。」とあります。
「右手を差し出し」は、「交わりの握手」を意味します。握手は、信頼と平和のしるし。「交わりの握手」によって、エルサレム教会は、パウロとバルナバが担っている異邦人伝道に対し、何の問題もないことを明らかにし、エルサレム教会と異邦人教会が一致して伝道に邁進することを確認したのです。
改革者ルターは、エルサレム教会の柱と目されるおもだった人たちのパウロへの真摯な思いを以下のように代弁しております。「パウロ、われわれはあなたとの全くの一致において福音を宣べ伝えている。だからわれわれは教えにおいて仲間であり、教えにおいて交わりをもっている。つまり、同じ教えをもっているのだ。われわれはあなたと同じ福音、同じ洗礼、同じキリストと信仰とを宣べ伝えている。だからわれわれはあなたになにも教えたり、命じたりできない。われわれのあいだではすべてに関して一致しているからである。われわれはあなたとちがうこと、あなたよりすぐれたこと、まさったことを教えているわけではない。むしろわれわれがもっているのと同じ賜物をあなたのうちに見ている。ちがいは、あなたには割礼のない者への福音が委ねられ、われわれには割礼ある者への福音が委ねられているということである。だが、われわれの福音とあなたの福音とが同一である以上、割礼のないことと割礼があることとは、われわれの交わりを妨げるものではないと、われわれはここで結論する」。
そうです。ルターが代弁したよう、エルサレムでの「使徒会議」は成功した。パウロの伝える福音は、エルサレム教会の指導者たちの認めるところとなったのです。そこでパウロは、割礼の有無は救いとは関係ない、神が割礼の有無で人を分け隔てなさることは決してないと、異邦人キリスト者をあの手この手で惑わしている偽の兄弟たちの主張には「何の根拠もない」と糾弾するのです。

<キリスト者の一致>
キリスト者の一致は、私たちの知恵によっては実現しません。キリスト者の一致は、同じ御子によって罪を赦され、救われ、永遠の生命が約束されたとの信仰によってのみ実現します。キリスト教会の歴史において、教会が分裂し、キリスト者同士で争い、破壊し合うことがある。それぞれのメンツにこだわり、共に罪人であることを忘れ、相手の欠点を指摘し、己の正義を振りかざすとき、教会はキリストの教会でなくなる。そのとき、他者を裁くことにエネルギーを吸い取られ、神を仰ぐこと、神の御前にひざまずくこと、神に祈ること、神に感謝することを疎かにしてしまう。そのとき、他者と共に歩むことが出来なくなるのです。「交わりの握手」など夢のまた夢になってしまう。
けれども、共に神を仰ぎ、神の御前にひざまずくとき、十字架で処刑される直前に御子が弟子たちの足を丁寧に洗い、ぬぐい、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない(ヨハネ福音書13:14)」との御声に耳を傾けると、私たちの怒り、他者を裁く心は和らぎ、「私は罪人。あなたも罪人。罪人同士が、御子の贖いによって罪赦され、御子の復活によって永遠の生命を約束された」とがっちりと「交わりの握手」を交わすことが出来ると思うのです。
今月の23日から25日まで日本基督教団の総会が行われます。どうしても東村山教会の中だけにおりますと、全体教会の課題に触れる必要がないように感じてしまう。しかし、先日の説教でも触れたように、私の最初の任地は合併となった。無牧師の教会も増加している。受洗者の減少により、教団の財政も今のままではいずれ破綻する。そのような危機的な状況の中、日本基督教団も信仰による一致を果たせずにいる。これが教団の現状です。だからこそ、今朝の御言葉を心に刻みたい。私たちを一致させるのは、キリストの福音である。十字架と復活、そして再臨のキリストの御前では皆が足の汚れた罪人。罪の足をひざまずき、丁寧に洗い、手拭いで水が一滴も残らないように拭い、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と告げられたキリストの姿を心に刻むとき、私たちもすべてのキリスト者と握手し、主において一つとなれると信じたい。そのとき、忘れてならないのは、貧しい立場の方々、社会的弱者への祈りです。

<貧しい人たちを忘れない>
今朝は、ガラテヤ書と共に、申命記第10章の御言葉を朗読して頂きました。朗読して頂いたのは、17節から19節ですが、少し前の15節にこう書いてある。「主は あなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日(こんにち)のようにしてくださった。」何を伝えたいのか?主なる神がすべての民の中から神の民を選ばれたのは、「あなたの先祖」つまり、アブラハム、イサク、ヤコブに心引かれて彼らを愛したから、子孫である神の民を選んだという事実です。つまり、神の民が努力し、良き業を成し遂げたから、そのご褒美として神の民に選ばれたのではない。神の民に選ばれたのは、ただ神が一方的に愛し、選ばれたからなのです。
さらに申命記は、神のこころを語る。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦(かふ)の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった(17~19節)」神は、社会的弱者を愛し、守る神です。確かに、「出エジプト」の出来事は、神のこころを具体的に物語っております。「人を分け隔てなさらない」神はこの世にあって無きに等しいイスラエルの民に心を引かれて選び、イスラエルの民の神となられた。その神がイスラエルの民に示した律法の中で、大切な戒めが、「孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えなさい」との戒めなのです。
いったいなぜ、社会的弱者の保護が大切なのでしょう?それは、イスラエルの民もエジプトの地で寄留者だったから。それなのに、出エジプトにより「自由と解放」を与えられたイスラエルの民が、寄留者を保護しないことは自らの「自由と解放」の歴史を否定することになる。このように申命記はイスラエルの民に社会的弱者の保護を強く促しているのです。
パウロも、この戒めを繰り返し教えられたはずです。だからこそ、使徒会議の「交わりの握手」を思い起こしつつ、「わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないように」との戒めは、「わたしも心がけてきた点です」と語るのです。10節で「忘れないように」と訳された原語には、覚えて、執り成し、助けるようにという意味が込められています。パウロが意識している貧しい人たちは、エルサレム教会の人々、中でも経済的に貧しい人たちのことであるようです。その中には孤児がおり、寡婦もいたはず。パウロは異邦人伝道に邁進しつつ、エルサレム教会のために行く先々の教会で支援を訴え、献金を集めたのです。 
パウロは、エルサレム教会と異邦人教会の一致を会議によって獲得し、満足して終わりではない。伝道の使命に向かって一致したからには、異邦人教会がエルサレム教会を支援するのは当然の愛の業として献金の協力を呼び掛けたのです。であるならば、私たちも、伝道のために一致協力し、被災地等で助けを必要としている兄弟姉妹を忘れず、執り成しを祈り続けることは当然の業です。東村山教会も異邦人教会の一つです。であるならば、パウロの祈り、パウロの心を大切に、互いに足を洗い合い、いつの日か全世界の教会が一致し、「交わりの握手」を交わす日を信じて、大胆にキリストの福音を語り続けたい。心から願います。

<祈祷>
父なる御神、あなた様は御子の十字架の贖罪と復活による生命を与えることによって、キリストの福音を与えて下さいましたから、感謝いたします。しかし、教会の中にすら、偽(にせ)の福音が表われ、教会を混乱させてまいりました。けれども、あなた様は偽の福音を滅ぼし、教会を潔め、恵みの器として立たせようとしておられることを心に刻むことが許され、深く感謝いたします。主よ、全世界の教会をキリストのみを土台とする交わりとして堅く立たせ、キリストの福音を世に宣べ伝える器とならしめて下さい。主の御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・ご自宅で療養しておられる加藤常昭先生の心身のご健康をお守り下さい。
・被災され、嘆きの中にある方々、避難生活を強いられている方々、それらの方々を支援している方々、被災地の諸教会に慰めを注ぎ続けて下さい。
・洗礼を志願している方々、熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に御心をお示し下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年10月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第61章1節~4節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第2章1節~5節
説教題「福音の真理に生きる」    
讃美歌:546、7、71、Ⅱ-1、344、539        

<二種類のキリスト者>
回心し、キリストの僕とされたパウロは、福音の真理を異邦人に語り続けました。その結果、聖霊が注がれ、異邦人キリスト者が続々と生まれたのです。異邦人キリスト者は、割礼の有無、律法の遵守は救いとは無関係と信じる人々。たとえ無割礼で、律法の遵守が難しくても、「信仰による救い」を信じるのが、異邦人キリスト者です。反対に、「無割礼で、律法を遵守しない者の救いは完成しない」と考えるのがユダヤ人キリスト者。彼らは「割礼と、律法の遵守こそ救いを完成する」と主張するのです。
それでも、パウロが異邦人伝道を開始した頃、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者はそこそこの関係だったはずです。しかし、十四年の間に「信仰による救い」を信じる異邦人キリスト者が続々と生まれ、さらにテトスのような無割礼の伝道者も生まれた。結果、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の緊張が高まったのです。 
 さらに、異邦人キリスト者の中に、「無割礼だと不安。『信じれば救われる』と言われても、救いの実感がない。だから、割礼を施し、律法を遵守したい」と考える者が生まれてしまった。そこでパウロは、最初のエルサレム訪問から十四年を経て、バルナバやテトス等と共に、エルサレムに再び上ったのです。

<使徒会議の実り>
パウロ等がエルサレムに再び上った時に行われた「使徒会議」については、使徒言行録 第15章に書かれております。紀元50年の会議です。バルナバは、エルサレム教会がアンティオキア教会に遣わした伝道者であり、異邦人伝道の専門家。彼はユダヤ本土ではなく、キプロス島出身のユダヤ人です。テトスは、パウロの異邦人伝道によって生まれた異邦人キリスト者。さらに伝道者として召されたのです。 
パウロは、バルナバとテトスを連れて行くことで、異邦人伝道の恵みと課題をエルサレム教会に伝え、それぞれの教会の課題を担いつつ、共に福音の真理に生きることを願い求めた。その結果、「使徒会議」は実りをもたらしました。パウロの伝える福音を、エルサレム教会の指導者等も認めた。パウロは福音の真理から逸れ、割礼と律法の遵守に確かな救いを感じる人々に、偽りの福音に屈服して譲歩することのないよう、祈り、励まし続けたのです。

<割礼と律法の遵守>
私たちも、割礼と律法の遵守に確かな救いを感じる人々の心を知っています。私たちも不安に襲われる。確かに、あの日、あの時、あの教会で洗礼を受けた。あの日から罪赦されたキリスト者として歩んでいる。それなのに、何も変わらない。受洗直後は「私の罪が赦され、救われた」と信じ、聖餐の恵みも喜んだ。それなのに、徐々にその喜びも弱くなり、キリストへの「信仰による救い」に何となく物足りなさを感じている。でも、ようやくその不安からも解放される。まず割礼を受けよう。さらに律法を遵守しよう。酒も煙草も止めよう。今まで大好きだったことも全て止めよう。そうすると清められる。結果、私の救いは完成すると冗談ではなく、考えることがあるのです。
もちろん、ここまでストイック(禁欲的)に考える人はおりません。しかし、私を含め、こう考えることはあるでしょう。あの人はキリスト者として失格。だって礼拝に来ない。祈祷会も来ない。献金も未納。清掃奉仕も一度も行っていない。それ比べ、私はこれもやり、あれもやり、礼拝も、祈祷会も、献金も、清掃奉仕も完璧。でも、あの人は皆ダメ。あれではキリスト者とは言えないと口には出しませんが、心で思うことがあるはずです。少なくとも、私は信徒のとき、そのように考えていました。働きつつ、青年会リーダー、教会学校教師として奉仕をしている。もちろん、礼拝は休まない。平日は銀行でスレスレの仕事をしているから、せめて日曜は穏やかに、模範的なキリスト者になろうと考えた頃もありました。それでいて青年会を引っ掻き回す青年に怒りの感情を抱き、「私が青年会をリードしているのに、何でわかってくれないのか」とその青年が来週から教会に来ないよう本気で祈ったのです。もちろん、その青年もキリスト者。その意味で私たちは割礼や律法の遵守が救いの条件とまで考えませんが、割礼のように目に見える徴に救いの根拠を見つけ、自分で決めた約束、たとえば礼拝、祈祷会は雨の日も雪の日も絶対に休まない。それを達成すると救いを実感し、達成できないと救いに不安を感じることがあるのです。
神学校で学んだ四年間も己の罪、弱さを痛感しました。講義を休んだことはありません。全出席。大教室での講義は全部、一番前の席に必ず座りました。さらにチャペルの時間も一番前に必ず座りました。チャペルの正面には大きな十字架がありますが、正面右の最前列は当時の山内眞学長、正面左の最前列は私が座りました。そのことを大切にしていた。しかし、大学院二年の修士論文の指導を近藤勝彦教授から受けたとき、こう言われたのです。「修士論文に集中して欲しい。長い人生の中で一度は、一つのことに集中するときが必要。修論執筆中は、チャペルも休みなさい。主日には礼拝を守っているのだから。」私は、大きなショックを受けました。守り続けたチャペルの出席が途絶える。そこで痛感したのです。チャペルの最前列に座り、礼拝を守り続けることを私の割礼、律法にしていたと。行いばかりで、心から祈っていたのだろうかと。神学校の四年間、知らないうちに悪魔が潜(もぐ)り込んで来た。結果、伝道者としてキリストによって得ている自由を語るべく神学の研鑽に励んでいたにもかかわらず、その私が様々な掟に縛られ、キリストへの信仰より行いを重視、行いが出来ないと神学生として失格と判断し、福音の真理を見失っていたのです。

<捕らわれ人には自由を>
 今朝はガラテヤ書に加え、イザヤ書第61章の御言葉を朗読して頂きました。1節のみ朗読致します。「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」
イザヤ書第61章1節以下は、後代の人々に大きな影響を与えていきました。主イエスは、この御言葉を引用し、自らの使命と存在の意義を人々に示されたのです。ルカ福音書第4章に記されています。その時、キリストは故郷ナザレに帰り、会堂で「この聖書の言葉(イザヤ書第61章)は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(4:21)」と話し始められた、とルカは伝えます。 
このキリスト証言は決定的な意味をもっております。主イエスが神から遣わされてこの世に来られたことにより、イザヤの預言が現実になった。つまり、キリストによって私たちはあらゆる束縛から解放され、自由にされたのです。それなのに、いつまでも割礼や律法の遵守に捕らわれているのなら、いったい何のために受洗したのか、聖餐の恵みに与り続けているのかとなるのです。
私たちは割礼や律法の奴隷ではありません。キリストの僕です。キリストの教えに縛られる僕ではなく、自由にキリストの僕として歩む、そうした自由がキリスト者には与えられているのです。
それなのに、神学生時代の私は、自由どころか、色々なことに縛られていた。そして、伝道者として10年目を迎えた今も、キリスト・イエスによって得ている自由を見失い、牧師だから、こうでなければならないと自分を縛り続けていることに今朝の御言葉を通して気が付かされたのです。

<十四年は無駄ではない>
パウロもおそらく、様々な不安を抱えていたはず。パウロほど自らの弱さを深いところで知っている伝道者はおりません。だからこそ、十四年たってから、バルナバとテトス等と共にエルサレムに上ったのです。パウロはこの十四年後のエルサレム行きについて、それは「啓示によるものでした」と語る。確かに、自分で決断して上った。けれども、背後には神の導き、つまり啓示があったと振り返る。それほど、パウロにとって十四年後のエルサレム行きは決定的な旅になったのです。十四年間、パウロはまっすぐに異邦人伝道に邁進しました。それなのに、偽の兄弟たちによって惑わされ、キリストによって得ている自由を失い、割礼と律法に縛られていくキリスト者が増えてきた。そこでパウロは、福音の真理を確認するために、エルサレムに上ったのです。不安だからこそ、すぐに確認しました。「わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。」 
「おもだった人たち」とは、ペトロ、ヨハネ、主の兄弟ヤコブと思われます。パウロはこのように確認した。「ペトロ先生、私たちは、キリストを信じる信仰によってのみ救われます。割礼の有無、律法の遵守も救いには関係ありません。私が語り続けた十四年は無駄ではないですね」。結果は、パウロが記した通り。パウロの伝道は無駄ではありません。伝道献身者テトスが生まれた。しかも、テトスは割礼を強制されなかった。つまりパウロが語る福音の真理が間違っていない。救いに割礼の有無は関係ない。キリスト者は、キリストへの信仰以外何も問われることなく、ただ神の憐れみによって救われるのです。

<福音の真理に生きる>
最後に、改革者ルターの言葉を引用して終わります。ルターは、1535年の『ガラテヤ大講解』に「福音の真理」についてこう記しています。「福音の真理は、主があなたを罪と悪魔と永遠の死から贖ってくださったと言う。だから信仰は、あのかた、イエス・キリストにおいて罪のゆるしと永遠のいのちを
もつことを認識する。この対象から逸れる者は真の信仰をもたず、見せかけと妄想をもち、眼を約束から律法へと移して、恐れをもち、絶望に導かれることになる。」しっかりと心に刻み続けたい言葉です。
只今から聖餐の恵みに与ります。聖餐こそ、割礼でもなく、律法の遵守でもなく、目に見える福音の真理です。十字架で罪の贖いを成就されたキリストの肉と血潮に与るとき、私たちはあらゆる束縛、また死の恐怖からも解放され、自由になるのです。私たちが努力し、獲得した自由なら、すぐにまた縛られる。けれども、キリスト・イエスによって与えられた自由は十字架と復活、そして再臨のキリストへの信仰によって得た自由。だから朽ちることのない真の自由なのです。共に、福音の真理に生き続けたい。心から願います。

<祈祷>
天の父なる御神、パウロが啓示によって、異邦人伝道の業に邁進したことを心から感謝いたします。どうか、私たちに福音の真理に生き続ける知恵と勇気をお与え下さい。キリスト者の自由を土台とした感謝と希望の日々を送らせて下さい。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・加藤常昭先生が昨日退院となりました。主よ、完全なる快癒を祈り願います。
・全国、全世界で大型災害により、嘆きの中にある方々、避難生活を強いられている方々、それらの方々を支援している方々、被災地の諸教会に慰めを注ぎ続けて下さい。
・洗礼を志願している方々、熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に御心をお示し下さい。礼拝後に洗礼試問を控えている Tさんを聖霊で満たし、明確に信仰を告白することを得させて下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年9月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 レビ記 第19章11節~12節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第1章18節~24節
説教題「パウロの誓い」    
讃美歌:546、61、93、357、545B        

<パウロの三年間>
「三年間」。長いようで短い期間かもしれません。中学生なら、入学して卒業するまでが三年間。入学の日は小学生の面影が残る少年、少女が、卒業の日は身長も伸び、青年になりつつある。中学の三年は、心身が成長する大切な時期です。
 パウロも様々な三年を経験しました。ユダヤ教徒として徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていた三年。先祖からの伝承を守るのに、人一倍熱心に歩んだ三年。同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとした三年。様々な経験を重ねたパウロを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出して下さった神が、御心のままに、御子を示し、キリストの福音を異邦人に告げ知らせるようにされたのです。
 そのときパウロは、エルサレム教会のケファ(ペトロ)や使徒のお墨付きを頂くことなく、ただ復活のキリストのお召しを信じ、アラビアの地に飛び出し、そこから再びダマスコに戻ったのです。それからの三年、パウロは異邦人伝道の業を黙々と担い続けました。

<春採教会での三年間>
 私も37歳で脱サラ、献身の道が与えられ、四年間の神学校での学びを終え、41歳で釧路の地に遣わされてからの三年間は、あっと言う間の三年でした。
 伝道者として四年目の2012年9月18日、飯田橋にある富士見町教会で行われた改革長老教会協議会 全国牧師会で発題の機会が私に与えられました。テーマは『希望を宣べ伝える主の教会』。私は、「春採教会の歴史」、「春採教会と湖畔幼稚園の関係」、「釧路ブロック三教会(釧路、春採、中標津)の関係」、「北海教区(道東地区)の中にある春採教会」等を語りました。
2009年4月から釧路の地に福音の種を蒔き続けておりましたが、発題の機会を与えられ、三年間を振り返った。また、久し振りに東京の9月の暑さに汗を掻きつつ、神学校でご指導を頂いた芳賀先生との再会も許されたのです。記憶では三日間、横浜の実家に宿泊しましたが、本来であれば、同級生の牧師からそれぞれの教会の様子を食事でもしながら伺うべきだったかもしれません。しかし、私は会議が終わると、まっすぐに横浜の実家へ向かった。あえて他の教会の様子を伺わないようにしたのです。
 私の気持ちはこうです。「今、私が遣わされているのは釧路である。確かに、同級生の教会の様子は気になる。しかし、私に託されたのは、釧路、道東地区の伝道を担い続けることである。」
あの頃を振り返ると、今朝のパウロの言葉はうそでないことがわかります。パウロはわざと三年間もエルサレム教会のリーダー ケファ(ペトロ)に挨拶をしなかったのではない。あっと言う間に三年が経過しただけ。それくらい真剣に異邦人伝道に邁進していたのです。私も釧路では教会と幼稚園の働きに加え、地域との繋がりも深く、東京に行くことは難しかった。だからと言って、東京で伝道している牧師を批判することなど有り得ない。その意味でパウロが三年後にケファにようやく挨拶に行ったのは納得できます。同時に、地方の教会の課題を全国の牧師に知ってもらい、反対に、先輩牧師から東京の教会の課題を伺うことは大変に意味のあることだと感じたのです。
 東村山教会から招聘の話しがあったとき、釧路教会で牧会しておられるベテラン牧師に相談をしました。すぐにこのように言われました。「東京の教会にも色々な課題がある。むしろ、地方より深刻かもしれない。だから、よく祈って、今回の招聘の話しを決断したらよい」と。驚きました。当然、「田村先生は按手を受け、春採教会の牧師としてスタートしたばかり、しかも園舎の建て替え、耐震化工事、さらに認定こども園への移行等、たくさんの課題があるのだから、東京の教会へ赴任することなど有り得ない」と叱られると思っていたのです。しかし、「東京の教会こそ課題がある。よく祈って、決断しなさい」と示されたことは、本当に驚きました。結果、主の御心と信じ、東村山教会の招聘を受け、釧路を去ることになった。そして今、その春採教会が釧路教会と合併となり、今、春採教会では礼拝が守られていない。これからもう二度と、あの礼拝堂で礼拝が守られることはないと思うと、本当に胸が痛みます。

<15日間の恵み>
パウロも回心し、伝道者として歩み出した最初の三年間はエルサレムに上る余裕が無かったはず。挨拶に行く時間があるなら、一人でも多くの人々に伝道したい。いや、しなければならないと考え、語り続けていたはずです。そして、ふと気がつくと、あっと言う間に三年が経過。そこでパウロは、ケファから様々な証言を伺いたいと願い、エルサレムに上ったのです。
 パウロにとって、復活のキリストも十字架で殺される前のキリストも、全く同じキリストですが、祈り、語り、赦し、癒し、食事をし、笑い、涙を流したキリストと共に生活したケファとの15日間は恵みの日々であったと思います。ケファもパウロとの出会いを楽しみにしていた。回心したパウロに自らの罪、そして赦された喜びを余すところなく語ったはずです。
「パウロ、あなたも苦労しているだろう。でも、あなたの評判はエルサレムにも届いている。本当によく頑張っているね。キリスト者から罵られることがあるだろう。かつての仲間からの迫害は本当に辛いだろう。でも、その痛み、苦しみを全て担い、背負い、慰め、癒して下さる御方は今も生きて働いているキリストだ。私はキリストを三度も否んでしまった。いや、否んだだけでなく、呪ってしまった。それなのに、パウロ、私は赦されたのだ。しかも、こうしてエルサレム教会の責任まで担わされている。だから安心して欲しい。たとえ、殉教することになっても、異邦人への伝道に邁進して欲しい。エルサレム教会もあなたを応援し、祈り続ける」。ケファの声が聞こえます。もちろんパウロもケファに「挨拶が遅くなりました。しかし、挨拶に伺う余裕がなかったのです。でも、あなたとの15日間、生涯忘れません。本当に恵みでした。キリストは今も生きて働いておられるのですね。あなたに会えて本当に良かった。エルサレム教会と異邦人教会、我々に託された教会は違いますが、共に祈り、励まし合って、キリストの福音を宣べ伝えてまいりましょう」と語ったはずです。
 パウロは、ほかの使徒に挨拶する必要がなかった。たまたま主の兄弟ヤコブがケファを訪ねてきたのかもしれません。そのとき偶然、会ったかもしれない。パウロはキリストの兄弟であろうとなかろうとケファ以外、挨拶の必要を感じなかった。エルサレム教会の使徒たちを敵視したということではありません。そうではなく、伝道の現場にすぐに戻りたい一心だったはずです。
 ケファから多くの証言を伺い、異邦人伝道への使命を新たにされたパウロは、早速、シリアおよびキリキアの地方へ行きました。パウロは異邦人にケファとの15日間の恵みを感謝し、少し興奮して熱く語り続けたはずです。「皆さん、聴いて下さい。私はかつてキリスト者を迫害していたパウロです。でも、安心して下さい。私は迫害者サウロではなく、キリストの僕(しもべ)パウロです。私は復活されたキリストによって回心へと導かれ、今はシリアの皆さん、またキリキアの皆さんに『キリストこそ、真の救い主であり、私たちの罪を赦し、永遠の命を与えて下さる真の神である』と語り続けているのです。私は回心してから三年間、我武者羅に異邦人にキリストの福音を語り続けました。そして、ようやく時間がとれたので、キリストを裏切ったにもかかわらず、キリストに赦され、今、エルサレム教会を指導しているケファに挨拶に行くことが出来ました。それは、ケファのお墨付きを頂くということではありません。キリストの御前では上も下もありません。皆が罪人であり、皆が罪赦された者であり、皆が永遠の生命を約束された者です。ケファを通してキリストの御言葉を伺いたかった。異邦人伝道の課題をケファに伝えたかった。また、エルサレム教会の課題も伺いたかった。ただそれだけの理由で15日間、ケファのもとに滞在したのです。その結果、多くの恵みを頂きました。実は、キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。当然です。キリストの教会を徹底的に迫害したのですから。それなのに、神の家族として接してくれた。彼らは、心から励ましてくれたのです。『かつて我々を迫害した者が、あの当時 滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている。先生、これからも異邦人伝道に邁進して下さい。エルサレム教会のことも祈り続けて下さい』。私は本当に嬉しかった。そして、エルサレム教会に連なる神の家族と共に全能なる神、復活のキリストを賛美したのです。異邦人もユダヤ人も皆、神から愛されています。皆、キリストの愛と赦しと永遠の命へ招かれているのです。信じて欲しい、キリストの愛を。信じて欲しい、キリストの赦しを。信じて欲しい、キリストの復活を」。
パウロは、元迫害者という事実を隠すことなく、嘘をつくことなく、誠実に伝道し続けた。私たちもキリストの僕です。洗礼を受けてから罪を犯しても、洗礼を受けてから死を恐れても、洗礼を受けてから落ち込んでも、嘘をつかず、自らの罪をさらけ出し、自らの弱さを隠すことなく、罪を赦され、永遠の命を約束された者同士、涙を流しながら、復活のキリストを賛美し続けるのです。

<病床での祈り>
 礼拝の最後に詳しく報告させて頂きますが、先週の木曜の朝、加藤常昭先生から教会に電話が入りました。心不全により緊急入院となりました。明朝9時に心臓にステントを入れる手術を予定しております。昼には終わる予定ですが、厳しい手術になると思われます。私も金曜の夕方に伺いましたが、加藤先生は祈っておられました。そして、「くれぐれも東村山教会の皆さんに宜しくお伝え下さい。大袈裟に報告しないで欲しい」と気遣って下さいました。加藤先生は満身創痍。「痛い」と何度も呟かれ、「寂しい」と何度も呟かれました。そして、あの加藤先生が大きな身体を小さいく曲げ、本当に苦しそうに、寂しそうに、悲しそうに、ポツンとベッドに横になっておられる。私は「ああ、これが先生の真実なお姿である」と感じました。同時に、そのような痛みの中で先生は「今、武蔵野日赤には私と同じ痛み、嘆き、悲しみ、孤独、寂しさを抱えている人が入院しているんだな」とポツリと呟かれた。私は加藤先生の背後に、神の声、キリストの声を感じたのです。先生の心の叫びは、こうです。「私は、今すぐにでも皆さんの病室を訪ねてキリストの福音を語りたい。私も弱さを抱えている。あなたも弱さ、痛みを抱えていますね。でも、キリストはあなたのベッドにも、もちろん私のベッドにも共におられるのです。だから泣いていい。嘆いていい。ただ「アッバ、父よ」と呻(うめ)いていいのです。何も取り繕う必要はないのです」と伝えたいはずです。金曜にお見舞いに行かれたある牧師はお帰りのとき、加藤先生と握手をしながら祈られたようです。帰宅すると、その牧師の手の甲の部分が鬱血していた。どうしたのかと思い、奥様と握手をされたら、握手の跡であることがわかったようです。私も金曜のお見舞いで失礼するとき、加藤先生と握手して別れましたが、とても強い力で驚きました。そして、涙を浮かべておられました。甲の部分に鬱血した跡がついている牧師は加藤先生と共に大きな声で祈られた。加藤先生はそのときに、手をギュッと握り、様々な痛み、不安、寂しさをそのまま神に差し出されたと思います。明朝、加藤先生は手術を控えておられる。大きな不安を抱えておられる。パウロもそうだったはずです。かつて迫害していたキリスト者からはなかなか信じてもらえない。反対にかつての仲間からは裏切りものと罵られる。しかし、そのような日々の中でエルサレム教会のケファとの15日間は、大きな支えになったはずです。なぜなら、ケファこそ、皆から裏切り者と言われ続けた。非難の目、蔑みの目に常にさらされていた。だからこそパウロに寄り添えた。パウロも同じ痛みを抱えている仲間としてケファとの出会いを本当に感謝したと思うのです。
 加藤先生も語っておられました。キリストに結ばれた兄弟姉妹の祈りが心の支えになると。皆さんの日々の祈りに加藤先生の手術の成功と御快復を加えて頂けたら有難く思います。

<祈祷>
父なる御神、この世の権威や物にも束縛されることなく、ただあなた様にのみ向って生きる自由な信仰をお与え下さい。信仰の生活を通し、あなた様の栄光を現わすことが出来ますようお導き下さい。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・愛する加藤常昭先生が深刻な病と闘っておられます。そして、明日の朝、難しい手術を受けられる予定です。主よ、どうか痛みや苦しみを和らげ、主の御心のままに手術を導いてください。そして、どうか御心ならば、再び、共に礼拝を守ることが出来ますようお導き下さい。
・全国、全世界で大型災害により、嘆きの中にある方々、避難生活を強いられている方々、それらの方々を支援している方々、被災地の諸教会に慰めを注ぎ続けて下さい。
・洗礼を志願している方々、熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に御心をお示し下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年9月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第3章1節~10節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第1章13節~17節
説教題「迫害者から伝道者へ」    
讃美歌:546、18、246、339、545A

<語りたくない過去>
 今朝のガラテヤ書の御言葉は、パウロが過去の自分を振り返っている大変に貴重な資料です。パウロは証言します。「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。(1:13~14)」
 パウロは、過去をほとんど語りませんが、ここでは「迫害者」であった過去を語っております。当然ですが、誰にでも、人には語りたくない過去がある。かつて説教でも触れましたが、昨年の秋、高校を卒業してから初めて、同期会に出席しました。土曜の午後、翌日の説教準備もあり、出席を躊躇していたのですが、幹事から「田村、開会のお祈りをお願い!」と頼まれ、出席が御心と信じ、横浜まで行ってまいりました。懐かしい仲間と32年振りの再会。それぞれ中高時代の面影を残しておりましたが、恩師と仲間たちの前で祈りました。その後、数名の仲間から「田村、本当に牧師なのか?」と驚かれつつ、「田村から鞄に変なものを入れられた」と言われたり、「田村に弁当を食べられた」と言われたりと、恥ずかしい過去を次々と暴露され、「今日だけ、牧師という肩書を隠したい!」と本気で思ったのでした。

<迫害者パウロ>
しかしパウロは、ガラテヤの信徒に堂々と語るのです。「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」。サラッと書かれていますが、丁寧に読むと、とんでもないことが書かれています。あの日、何となくむしゃくしゃして、教会に通っている人々を罵(ののし)ったというレベルではない。徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていたのです。神の教会を迫害し、滅ぼすことに妥協はない。一人残らずキリスト者を滅ぼす!という狂気です。まさにアドルフ・ヒトラーがユダヤ人などに対する組織的な大虐殺を主導し、殺害した狂気と同じです。
使徒言行録 第7章にステファノの殉教が記されております。御子の昇天後、弟子の数が増えたことで、霊と知恵に満ちた評判の良い七人の弟子が選ばれた。その一人がステファノです。ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを行っていたので、捕らえられ、裁かれることになったのです。 
しかし、ステファノは動じない。ステファノは最高法院の席で殉教の直前に説教をしたのです。説教の最後はこのような語りです。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。(使徒言行録7:51〜53)」
説教を聞いた人々は激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりし、大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。そのとき、人々は自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いたのです。結果、サウロの目の前でステファノは、御子のように「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫び、殉教したのです。
使徒言行録 第8章1節に、「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」と書かれています。石を投げられても、迫害者への祈りを貫いたステファノの殉教を見つめていたサウロ。確かに、聖書にはサウロが直接ステファノに石を投げたとは書かれておりません。けれども、殺害に賛成していたのですから、サウロも同罪。だからこそ、ガラテヤの信徒に「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」と罪を告白するのです。
神は、迫害者サウロを罪の赦しと永遠の命を告げる伝道者として選びました。世の常識では まず選ばれることのない罪人の頭が、恵みによって召し出されたのです。さらにパウロは告白します。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みよって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」。

<母の胎内にあるときから>
何と、パウロが選ばれたのは、母の胎内にあるときであった。驚くべき事実です。胎児は良い業など出来ません。つまり、神の選びにはパウロの良い業は無関係ということです。神の恵みによる選びが、パウロを迫害者から伝道者へ回心させた。パウロが神を選んだのではなく、神がパウロを選び、キリストの救いに与らせて下さったのです。
昨日は いづみ愛児園の運動会でした。私も綱引きに飛び入り参加で、今朝は腰が少し重いのと手の指が少し痛いですが、運動会を楽しませて頂きました。運動会では、「母の胎内にあるとき」を黙想し、子どもを眺めておりました。妊娠中のお母さんはおそらくおられなかったと思いますが、それでも、小さな赤ちゃんを抱っこしているお母さんはおられました。「そうだった。生まれたばかりの赤ちゃんは足も手もプニプニしていた。首もグラグラしていた」と今はそれぞれ大きくなった3人の子どもたちの赤ちゃんの頃、幼稚園、保育園の運動会を思い起こしておりました。
申すまでもありませんが、母の胎内にある子は、何もできません。神様から選ばれるよう大きな声でワンワンと泣き叫ぶ。だから神が選ばれたとは書いていない。ただ、「母の胎内にあるときから選び分け」とだけ書いてある。これこそが神の選びです。選ばれる者には何の根拠もない。神に選びの根拠がある。 
私も冒頭で申し上げましたように、中高時代の6年間を知っている仲間は、「田村、お前、本当に牧師になったのか、驚いた!」と感想を語ってくれます。中学2年の頃、サウロがステファノを迫害したように私も同級生の悪友と一人の同級生、いや一人だけではありません。複数の同級生を徹底的にいじめた。言葉を慎重に用いなければなりませんが、私も迫害したのです。間違いなく。
けれども、神が母の胎にあるときから私を選び分け、恵みよって召し出して下さった。私のみならず、全キリスト者は、神がそれぞれの母の胎にあるときから選び分け、恵みよってキリスト者として召し出して下さったのです。結果、皆さんもそれぞれに復活のキリストとの出会いが用意された。もちろん、肉眼で復活のキリストと出会うことは難しい。けれども、それぞれに聖霊の働きにより、復活のキリストが聖書を通し、説教を通し、牧師を通し、文学を通し、音楽を通し、皆さんお一人お一人に語りかけ、出会って下さったと思うのです。

<神がモーセを選ばれた>
今朝は、ガラテヤ書に加え、出エジプト記第3章1節以下を朗読して頂きました。出エジプトの物語は、イスラエルの民が重い苦役に苦しめられた状態を背景にしています。イスラエルの民は、ヤコブとその子らの時代にエジプトに寄留し、数を増やしました。けれども、イスラエルの民に対する圧制が始まり、民は苦難に襲われたのです。
そこで神が召したモーセは、イスラエルの民をエジプトから導き出します。 神は、モーセの良い業に召命の根拠を見ていません。モーセを捉えた神に召命の根拠があると語るのです。
モーセにも、語りたくない過去があります。エジプトで重労働に苦しむ同胞を助けようとし、エジプト人を殺害してしまった。結果、モーセは命を狙われ、他国に亡命した。野心も理想も失い、羊の群れを飼う生活。モーセは羊に餌を与えるため、荒れ野の奥に羊の群れを追って行ったのです。  
サウロが復活のキリストに出会うと考えもしないときにダマスコへの途上で出会ったように、モーセも神に出会うと考えもしなかったはずです。つまり、モーセもサウロも神に選ばれる根拠がない。神にのみ選びの根拠がある。神がモーセを求め、サウロを求めた。しかも、モーセはエジプト人を殺害した過去があり、パウロはキリスト者を迫害した過去がある。にもかかわらず、いや、そのような深い傷があるからこそ、神はモーセとパウロを選んだと思うのです。  主はモーセに言われました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。(3:10)」
神との出会いは、神に知られ、神に近づいて頂く経験です。 神が聖なる神であると共に、神が私たちに近づいて下さる。神との出会いはすべて神の選びが根拠です。パウロは徹底的にキリスト者を迫害した。しかし、それ以前に神はパウロを選び、復活のキリストとの出会いを備えて下さったのです。

<キリスト者の使命>
ところで、神に選ばれた私たちの使命は何でしょうか?キリストの福音を地の果てに至るまで、宣べ伝えることです。もちろん、お年を召した皆さんに、今からパスポートを申請し、海外に宣教師として赴任して下さいと無茶苦茶なお願いをしているのではありません。けれども、「年を重ね、足も腰も痛みがあり、とても私に伝道など」ではないのです。年を重ね、様々な痛みがあればあるほど、パウロのように証言が出来る。「たくさんの過ち、痛みを経験した私も、パウロのように母の胎内にあるときから神によって選ばれ、恵みよって召し出された。そして復活のキリストに出会って頂き、今があるのです。」と。その嘘、偽りのない証言が洗礼を躊躇している求道者に、どれだけの励ましになるか、私はそのように思います。

<正直に伝道する>
先週の月曜、火曜と横浜指路教会を会場に改革長老教会協議会と全国牧師会が行われました。お祈りを頂き、ご心配を頂きました父の見舞いも兼ねることが出来ました。父も先週の木曜に退院となり、皆さまのお祈りに深く感謝しております。改革長老教会協議会の主題講演は、富山鹿島町教会の小堀康彦牧師が『共に担おう 地域伝道~わたしたちに今できること~』と題して、ご自分の経験も交えて熱く語って下さいました。その全てを紹介することは控えますが、一つだけ紹介させて頂きますと、こういう話しです。「伝道は、『私はイエス様に救われて嬉しい』『私は神様に愛されている』『神様はなんてすばらしいお方なのか』等々ということを伝えることです。これは説明することではありません。証言することです。(中略)最も大切なことは、嘘をつかないということです。ちっとも楽になっていないならば、その人が いくら体が楽になったと言っても、近しい人には嘘であることはすぐに分かってしまいます。ですから、何より大切なことは、証言していることと、私共の生きている姿が一致しているということです。」
「なるほど」と思いました。まさに今朝の御言葉におけるパウロのようです。パウロは、本当に心の底から証言しているのです。嘘をついていない。正直に、「私は迫害者であった、罪人の中の罪人であった。しかも、過去形ではない。今も罪を犯してしまう。しかし、そのような私を母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって神が召し出して下さった。であるならば、ユダヤ人でない異邦人の皆さんも神に招かれています!」と確信を持って語るのです。
実際、パウロは血肉に相談することもせず、回心したことによって、待っているのはかつての仲間からの迫害と、キリスト者からも、「お前は、かつてのサウロだろ!」と罵られるダブルの苦しみです。けれども、相談するよりも即行動。パウロはアラビアで伝道し、そこからダマスコに戻った。これが伝道者の姿です。確かにパウロは迫害者であった。中途半端な迫害者ではありません。徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとした。けれども、回心したパウロは、過去を隠すことなく、嘘をつくことなく、正直に犯した罪を語り、「罪の私のために、また皆さんのために、キリストは罪人の中の罪人として十字架で本当に死なれた」と語り、さらに、「キリストは、全ての死に復活によって完全に勝利された」と宣べ伝えたのです。私たちも正直に、嘘をつくことなく、大胆に犯した罪を語り続けたい。その上で、「罪の私をも選び、救い、生かす神の愛、主イエスの赦し、聖霊の注ぎが私にも注がれているのだから、あなたにも、またあなたにも注がれないわけがない!」と心を込めて伝道したい。そのとき、本当に聖霊が働き、それぞれの心に福音が届き、続々とキリスト者が生まれるのです。私たちの教会も11月18日に秋の特別伝道礼拝を予定しております。当日の説教は、加藤常昭先生が気持ちよく引き受けて下さいました。今日は、国分寺教会で説教を担っておられますが、加藤先生を通して語られるキリストの福音に一人でも多くの方々が触れ、いつの日か信仰告白、洗礼へと導かれるよう今から秋の特別伝道礼拝を覚えて祈り続けたい。心から願います。

<祈祷>
主よ、主の選びと召しの恵みはあまりにも不思議で、私たちは、感謝と畏れをもって、恵みを頂く者でございます。どうか、私たちに示された御子の恵みに、心から感謝する者とならせて下さい。今も、恵みに応えるすべを知らない者に、応えるべき道を見出す信仰と知恵をお与え下さい。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・全国で大型災害により、嘆きの中にある方々、避難生活を強いられている方々、それらの方々を支援している方々、被災地の諸教会に慰めを注ぎ続けて下さい。
・洗礼を志願している方々、熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に御心をお示し下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年9月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第6章1節~5節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第1章11節~12節
説教題「イエス・キリストの啓示」    
讃美歌:546、66、265、353、544       

<霊の父>
いきなりの質問ですが、皆さんには、今も忘れることの出来ない大切な先生がおられるでしょうか?幼稚園、小学校の先生から、中学、高校、大学の先生まで「今の私があるのは、あの先生との出会いがあったから」と感謝する恩師が少なくとも一人はいらっしゃるはずです。私にもおります。小学時代の先生は複数のお顔が浮かびます。厳しく怒って下さった先生、応援団長に選ばれた私に早朝から熱心に指導して下さった先生、内緒でスイスのハーブキャンディを下さった先生、今でも感謝しております。さらに中学、高校時代の恩師は、50歳になった今も「田村!」あるいは「田村君!」と中高時代と同じように愛をもって私を呼び、励まして下さいます。今、中高時代の6年を振り返ると、本当に偉そうにしていたことを恥ずかしく思います。そのような私に忍耐強く指導して下さった先生がおられるからこそ、「今の私がある」と心から思います。
特に私にとって、教会学校で指導して下さった先生や受洗に導いて下さった加藤常昭先生、また献身に導いて下さった東野尚志先生には、霊の父として心から感謝しております。実際、東村山教会の牧師就任式では、公私共に幼少期から愛をもってご指導を頂いております加藤先生がご挨拶で、「田村先生の説教を毎週 聴くことになるとは。心配でまだまだ死ねません」と笑わせて下さり、さらに、「私は田村先生の霊の父(スピリチュアル・ファーザー)です」と挨拶して下さった。そのとき、「本当にそうだな」と感謝したのです。皆さんも同じだと思います。「あの日、あのとき、あの教会で、罪の赦しと永遠の生命を約束される受洗へと導いて下さった何々先生には感謝しかありません」と、思っているはずです。けれども、パウロは兄弟たちにはっきり言うのです。「わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。(1:11〜12)」

<パウロの回心>
使徒言行録第9章1節から19節の「パウロの回心」を確認すると、パウロは、主の弟子アナニアから洗礼を受けております。パウロにとって、アナニアは恩師であることは間違いありません。しかし、パウロにとってアナニアはあくまでも洗礼を授けた先生であり、「キリストこそ、霊の父」と宣言するのです。
改めて、パウロの回心を確認しましょう。復活のキリストは、幻の中で弟子のアナニアに呼びかけます。アナニアは、「主よ、ここにおります」と答える。主は命じます。「タルソス出身のサウロを訪ねよ」。アナニアは抵抗する。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています」。アナニアは、主の命令を拒みます。しかし主は、アナニアに再び「行け」と命じるのです。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。
大切なのは、パウロを使徒として選ばれたのはアナニアではなく、キリストであるということです。アナニアは、「サウロはキリスト者を迫害し、今も迫害している」と伝えた。それにもかかわらず、「サウロはわたしの名を伝えるため、わたしが選んだ器」とキリストは宣言された。しかも、忘れてはならないのは、「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に示そう」という主のお言葉です。アナニアは、迫害を重ねたサウロが、「これからは主の僕として迫害される」とのお言葉でキリストの本気を感じた。結果、アナニアはダマスコに向けて出発し、ユダの家にいるサウロの上に手を置いたのです。
アナニアは言いました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」。すると、サウロの目から鱗(うろこ)のようなものが落ち、元どおり見えるようになった。そこで、身を起こしてアナニアから洗礼を受け、食事をして元気を取り戻したのです。
天からの光に照らされ、地に倒れ、目が塞がれたサウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかったのですが、アナニアに手を置いて祈られた瞬間、目から鱗(うろこ)が落ち、元どおり見えるようになった。そこで洗礼を受け、食事をし、元気を取り戻したのです。
以上よりパウロは、ガラテヤ書で「わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」と語るのです。
 ところで、神から直接に信仰を得るということは、パウロに限ったことではありません。確かに、パウロほどダイナミックな回心は、誰もが経験することではないでしょう。しかし、信仰を与えて下さるのは神である。よって、牧師から信仰指導を受け、また信仰の先達から信仰指導を受けても、信仰は日々、神から与えられるのです。 
 回心したパウロは、「キリストの福音」を宣べ伝えた。そのため、割礼と律法を重んじるキリスト者から攻撃され、ガラテヤの諸教会からも誤解を受けた。だからこそ、「私がキリストの福音を得たのは、人からでなく、キリストの啓示によってである」と語るのです。

<キリストによって神を知る>
実際、私たちが努力しても神を知り尽くすことは困難です。では、私たちは神を知り、理解することを諦めるのでしょうか?違います。神を知り、理解しようとすることは大切です。実は、私たちが神を知り、理解できるときがある。それは、神が私たちにも分かるよう、ご自分を示して下さるとき。神が、「私はこのようなものである」と啓(ひら)いて下さるときです。そのとき私たちも神を知ることができる。つまり、神が私たちにも分かるよう、ご自分を示し、啓いて下さることを「啓示」と言います。啓示には「隠されていたもの」を神が「明らかにして下さる」という意味があるのです。
 私たちは、見えざる神の救いを求めております。けれども神は、私たちよりもはるかに熱心に、私たちの救いを求めておられるのです。ですから、私たちが求める以前に、神は、私たちにご自分をお示しになられた。それが、「イエス・キリストの啓示」なのです。
実際、主イエスは、ヨハネ福音書で語っておられます。「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである(14:9~10)」。
福音書記者ヨハネは、主イエスの宣言を受け、第1章18節に記す。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。そうです。独り子なる神(キリスト)が神を示されたのです。つまり、私たちはキリストによって、神を知ることができるのです。けれども、一つだけ条件があります。キリストの前で己れの罪に徹底的に打ち砕かれることです。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神抜きで、徹底的に打ち砕かれることは難しい。真の光なる神、真の救い主キリストの愛と赦しと憐れみに包まれたとき、いかに己の心が闇に支配されているか、まさにパウロがキリスト者を徹底的に迫害していたとき、復活のキリストの光に捕らえられ、回心へと導かれたよう、私たちも己の罪に徹底的に打ち砕かれなければ、神を求めること、キリストを求めること、聖霊を求めることはないと思うのです。
命の危機に襲われたときも同じ。それまでは健康と信じていた。それがひとたび大きな病に侵され、命の危険に襲われると、召された後のことが気になる。あるいは、私はまだ元気!と思っても、愛する人が召され、友人、知人が一人、また一人と召されると、次は私ではないかと本気で考えるようになる。すると、「私はいったい何のために生まれ、何のために生き、何のために死ぬのか」と真剣に考えるようになる。そのとき、私を知ること以上に大切なことは、罪の私に「子よ」と呼び、御自分に似た者として創造された神を知ることなのです。だからこそ、私たちはキリストを愛し、知識としてキリストを通して神を知るにとどまらず、キリストに救われたい!と祈り、キリストによって永遠の命を約束して頂きたい!と祈り求めるようになるのです。

<わたしは滅ぼされる>
カルヴァンは、ジュネーヴ教会信仰問答の問1にこう記します。問1:人生の主な目的な何ですか。答:神を知ることであります。シンプルな問答であると同時に重要な問答です。私たちは何のために生まれ、何のために生き、何のために死ぬのか。それは、神を知るためであるというのです。
カルヴァンは、問1の釈義にこう記します。「神を知る、とは、何かを知る、ことと同列には扱えない。いろいろなことどもを知った上に なお一つ神を知ることを加えるというわけには行かない。(中略)このことを素朴に言い表しているのはイザヤのこの言葉であろう。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。(イザヤ書6:5)」。神を知ることは、神に知られることから始まり、それに基礎付けられねばならない。」
今朝、ガラテヤ書と共に朗読して頂いたイザヤ書第6章5節の御言葉です。イザヤは、神殿で礼拝をしていた時、聖なる神との出会いを経験されました。イザヤは聖なる神に出会った時「災いだ。わたしは滅ぼされる」と絶望の叫びをあげています。カルヴァンは、『キリスト教綱要』に記します。「聖書は到るところで、昔の聖徒らが神の現臨を実感した時はいつも衝撃を受け、また打ち砕かれたと述べている。(中略)そこから結論されるのは、人は自己を神の尊厳と対置してみない限り、自らの卑(いや)しさについての自覚にさほど感銘させられたり動揺させられたりはしないということである。(第1篇 創造者なる神の認識についての第1章3)」
カルヴァンが伝えたいことは、こういうことです。私たちは真の光なる神に出会うことがなければ、己の闇の深さを知ることができない。つまり、聖なる神を目の当たりにした者は、神によって鮮明に照らし出された己れの罪に絶望する。反対に、光なる神に出会って頂ければ、自分の闇の深さに絶望するが、必ず、神が罪の闇から救い出して下さる。つまり、罪の闇に徹底的に絶望した者は、闇から神の愛と憐れみを知り、主によって歩む者へと変えられるのです。つまり、聖なる神との出会いが預言者イザヤの原点となったのです。
 パウロも同じです。真の光なる復活のキリストに出会って頂いたことで、己が罪であることを徹底的に知らされ、目もふさがれ、最後はアナニアによって洗礼へと導かれましたが、やはり真の人であると同時に、真の神である復活のキリストとの出会いが、パウロを回心へと導き、伝道者として立たせたのです。よって、パウロが告げ知らせる福音(罪の赦し、永遠の命、再臨の約束)は、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。
 
<イエス・キリストの啓示>
最後に、改めてキリストに思いを巡らしたい。キリストとはどのような御方でしょう?今朝も使徒信条を唱えました。共に唱えた通り、キリストは苦しみを受け、十字架につけられました。そこまでして私たちを救いたい!と本気で願い、十字架の死に至るまで神に従順であられました。結果、キリストの僕である私たちも、罪の赦しに加え、永遠の命まで約束されたのです。そのような福音そのものであるキリストを通し、私たちは神の愛、赦し、憐れみを頂く。だからこそパウロは、「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」と伝えるのです。
私たちも、パウロの信仰を継承することが大切です。どうしても私たちは「何々先生にお世話になった」、「何々先生に洗礼を授けて頂いた」と考え、何々先生に感謝します。もちろん、何々先生への感謝は大切です。私も「田村先生に洗礼を授けて頂き、心から感謝しております」と言われれば、悪い気はしません。けれども、そのとき、私たちは大切な真理を忘れています。キリスト者の今があるのは、キリストによって、神から与えられた恵みであり、キリストを通して、神が罪の私に出会って下さったことで、今の私が存在するのです。であるならば、やはり私たちが生涯、大切にすることは、「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神を(日本基督教団信仰告白)」礼拝し続けること、キリストを通して神を知り続けること、それこそが私たちの最上の幸福なのです。

<祈祷>
父なる御神、私たちの信仰を、常に 主イエス・キリストにもとづかせて下さい。キリストの救いが、常に ただ一つの救いになりますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・大型災害により、深い嘆きの中にある方々、避難生活を強いられている方々、それらの方々を支援している方々、被災地の諸教会に慰めを注ぎ続けて下さい。
・今日は礼拝後に敬老感謝のときを持ちます。キリストの僕として歩んでおられる信仰の先達をこれからも御手を持って祝福し、御霊を注ぎ続けて下さい。
・洗礼を志願している方々、熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に御心をお示し下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年9月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 サムエル記下 第7章18節~29節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第1章10節
説教題「キリストの僕を貫く」    
讃美歌:546、20、235、338、543、427       

<キリストを着る>
 主イエスへの信仰を告白し、洗礼を受けた者は皆、キリスト者と呼ばれます。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙第3章でこう語ります。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている(3:27)」。興味深い表現です。そうです。洗礼を受けると、私たちは一人の例外もなく、キリストに結ばれる。「結ばれる」ですから、キリストと結婚するのです。さらに、洗礼を受けると、「キリストを着ている」と表現する。それも、風呂に入るときや、暑いときに簡単に脱げるような下着でなく、常に、着続ける服、すっぽりと、私たちを覆い続ける皮膚のようにキリストを着続けると言う。そのようなキリスト者を、今朝の御言葉では、ずばり「キリストの僕」と表現するのです。

<「キリストの僕」の原点>
 パウロは、「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか」と問います。なぜ、このようなことを言うのでしょうか?恐らく、パウロを批判する人々が「パウロは異邦人に取り入ろうとして、割礼や律法を語らない」と呟いていたからではないかと思います。
 「人に取り入ろう」、そのような思いを全く持たない人はいないと思います。「私は一匹狼」と強がる人はいるかもしれません。でも、私たちは人から認められたい存在です。けれども、「何とかして人の気に入ろうとあくせくして」神ではなく、「今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」とパウロは語るのです。
 そうです。パウロもかつては人に取り入ろうとしていた。人の気に入ろうとすることを最優先にしていたのです。信仰熱心からの行動と信じ、神ではなく、人を優先していた。人を優先することは悪いことではないように思うかもしれません。しかし、「それは間違い」とパウロは語る。なぜなら、神に取り入ろうとせず、人に取り入ろうとすることは、結局は、自分が人から良く思われたいという気持ち以外の何ものでもないからです。
 パウロの指摘は、他人事ではありません。私たちの日常生活において、自分の都合で信仰を用いることがある。信仰熱心という大義名分により、自らの罪を棚に上げ、他者の罪を厳しく指摘、結果、人に取り入ろうとすることがしばしば起こり得るのです。
 パウロは、そうした「人に取り入ろう」とする生活に、キリストとの出会いによって決別させられた。パウロが望んで決別したのではありません。自由な神の選びにより、人の気に入ろうとあくせくする人生から、神に喜ばれる人生へと回心させられたのです。
 パウロは、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光に照らされ、復活のキリストから「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける御声を聞きました。結果、律法の遵守、つまり行いによって救われようとする人生から、キリストを信じる信仰によって、神を誇り、神を喜ぶ人生へと変えられた。この回心こそ、パウロの「キリストの僕」の原点となったのです。

<「僕」とは>
 今朝のキーワードは「僕(δουλος ドゥーロス)」です。新共同訳では「僕」と訳されておりますが、ギリシア語辞典には「奴隷」とあり、丁寧に「自由人の身分を持たず主人に所有される」と書かれておりました。つまり、僕とは、全てを主人に捧げ尽くした奴隷です。当然、毎日の生活が自分のためではなく、ただ主人のために用いられる。考えることも、体を動かして働くことも、ただ主人のためなのです。
旧約聖書で「僕」という言葉が繰り返し登場する箇所の一つとして、今朝は、サムエル記下 第7章の御言葉を朗読して頂きました。少し長いですが、「僕」を意識して改めて耳を傾けて頂けたらと思います。18節以下。
ダビデ王は主の御前に出て座し、次のように言った。「主なる神よ、何故(なにゆえ)わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。主なる神よ、御目には、それもまた小さな事にすぎません。また、あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。主なる神よ、このようなことが人間の定めとしてありえましょうか。ダビデはこの上、何を申し上げることができましょう。主なる神よ、あなたは僕を認めてくださいました。御言葉のゆえに、御心のままに、このように大きな御業をことごとく行い、僕に知らせてくださいました。主なる神よ、まことにあなたは大いなる方、あなたに比べられるものはなく、あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません。また、この地上に一つでも、あなたの民イスラエルのような民がありましょうか。神は進んでこれを贖って御自分の民とし、名をお与えになりました。御自分のために大きな御業を成し遂げ、あなたの民のために御自分の地に恐るべき御業を果たし、御自分のために、エジプトおよび異邦の民とその神々から、この民を贖ってくださいました。主よ、更にあなたはあなたの民イスラエルをとこしえに御自分の民として堅く立て、あなた御自身がその神となられました。主なる神よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに守り、
御言葉のとおりになさってください。『万軍の主は、イスラエルの神』と唱えられる御名が、とこしえにあがめられますように。僕ダビデの家が御前に堅く
据えられますように。万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です。あなたは僕にこのような恵みの御言葉を賜りました。どうか今、僕の家を祝福し、とこしえに御前に永らえさせてください。主なる神よ、あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。(サムエル記下 第7章18節~29節)」

<主の僕 ダビデ>
ダビデは、30歳にして国家を統一し、王となりました。サウル王が召され、ダビデには、敵らしい敵もいなくなったのです。それまではサウル王に追われ、逃げ回っていた人生でした。それが今は、その心配もなく、我が家に安心して住むことが可能になった。ダビデは心の底から神に感謝したのです。そして、ふと気がついた。「私は、安心して住むことができるようになった。それなのに、神はどうなのか?」そこでダビデは、信仰の指導者である預言者ナタンに相談したのです。第7章2節。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。」預言者ナタンは、それを聞き「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます」と伝えた。そこで二人は、神のために喜んで神殿を造ろう!と決めたのです。
 ところがです。神は言われたのです。「私は、イスラエルのために家を造り、彼らを、約束の国に定着させたいと願っている。私は彼らの父である。あなたがたに私のために家を建てよ!と命じたことはない」。この真実をダビデは気がついておりませんでした。私たちも同じ。神さまのために頑張ろう!と考える。そのとき、神と私たちの立場が同じになってしまう。そんなことはありません。ダビデはどこまでも僕。神は、僕ダビデに王国の永続を約束するのです。その結果ダビデは、イスラエル、また自分に対する神の恵みに感謝し、熱狂的とも言える長い祈りによって神に感謝の応答を献げているのです。
 ダビデは、朗読した祈りの中で、己を指すのに「僕」という言葉を10回も用いております。ダビデは決して完全な者ではありません。この後、己の欲望に負け、人妻と床を共にした。しかし、彼は自分自身について一番重要な真理を理解していた。叱責に対し敏感であり、一線を踏み外した時には心の底から悔い改めたのです。ダビデは己の名誉を保つより、主に栄光を帰すことに残りの生涯を献げた。このような悔い改めと献身によって、ダビデは赦しと回復を与えられたのです。ダビデは、神の僕として仕える最大の方法は、ひたすらに「神の恵みによって生きる」ことだと悟ったのです。

<私たちの罪>
 回心したパウロも同じ。キリストを主人とし、全てをキリストに献げ、ただ福音を語り続ける僕として生まれ変わった。しかし、私たちはなかなかパウロのようにはいかないことを認めざるを得ません。自分の力で頑張ろうとしたり、神に取り入ることより、人に取り入ろうとしてしまう。
私も釧路に赴任した直後、前任者の大ベテランの牧師、園長に負けないよう、何としても頑張らねば!と力が入りました。けれども、何度も申し上げているように、力が入れば入るほど、大ベテランの先生との差にうなだれつつ、どうすれば教職員に気に入られるか?と真剣に考えました。たとえば、金曜午後の教師会では全教職員のケーキを差し入れる。その瞬間は喜んでもらえますが、タイミングが悪いと、ケーキで買収したような感覚になったこともあります。結果、釧路での6年は、自分の無力さを痛感した日々となりました。確かに、神学校で学んだと言っても僅か4年の学び、しかもキリスト教保育や、幼稚園経営については、ほとんど、いや全く学んでいないのだから最初から勝負ありなのに、何とか努力して、いわゆる小手先で何とかしようと思ってしまった。けれども、神様はきちんと私を打ちのめして下さった。いかに無力な存在かをわからせて下さった。同時に、その先に、そのような者にもかかわらず、主は私を生かし、用いようとしておられるということに大きな喜びを感じるようになった。そしてパウロのように、ただ召して下さったキリストを信じ、本気でキリストの僕として歩み続けることが、無力な私に求められているとようやくわかったのです。
 
<台風と地震による痛み>
 先週はあまにもたくさんのことがありました。特に、6年間お世話になり、自分の弱さを徹底的に学んだ北の大地が大変なことになってしまった。釧路、中標津には毎日、私と家族を祈り続けて下さる、愛する神の家族がおられます。酪農を営みつつ、キリストの僕として誠実に歩んでおられる兄弟姉妹の停電による困難を思います。また札幌の地にもお世話になった方々がおられる。また、台風等により、いかに私たちの生活基盤が脆く、あっと言う間に崩れることを改めて教えられました。そのような中で「語りなさい」と示された御言葉が、今朝の御言葉なのです。
 私個人もそうでしたが、日本という国、いや、世界が行き詰っているように感じます。3Dプリンターでピストルまで簡単に作れてしまう。さらに生命倫理を無視すれば、クローン人間を生み出すことも可能になっている。そのような、神の眼差しを忘れてしまっている私たちに、今回の大型災害は、「あなたがたはいったいどこをみているのか?」と神から問われたように感じます。その神は、決して私たちをいたぶり、ボロボロにして喜ばれる神ではありません。全く逆。本気で私たちの弱さをご存じであるからこそ、私たちに憐れみの眼差しを注ぎ、無力な存在だからこそ、我々の叫びを待ち続け、本気で私たちが主の僕として生きることを今か今かと待っておられる。無力にもかかわらず、それでも神に委ねることなく、人の気に入ろうとあくせくしている私たちに、「キリストの僕として歩みなさい」と招き続けて下さるのです。
では、神の愛、キリストの愛に応えるには、いったいどうすればよいのか?それは、加藤先生が説教で語って下さったように、無力な赤子として「アッバ、アッバ」と父なる神の名を呼び、赤子が無心で母に依り頼むように、私たちも人でなく、神に全てを委ね切る。その大前提は、自らの罪を心から悔い改める。キリストの僕に徹しきれない私を丸ごと委ねる。そのとき神は、私たちを深く憐れみ、キリストの僕として歩む私たちを真の父として導いて下さるのです。
 大型災害が続き、多くの方々が不安に襲われた今、信仰を告白し、受洗し、罪の赦しと永遠の命を約束された私たちがなすべきことはただ一つ。キリストの僕を貫くことです。皆が東京神学大学に入学し、伝道献身者になることではありません。もちろん、皆さんの中から献身者が与えられたら嬉しいことです。けれども、家庭の主婦もキリストの僕。会社員もキリストの僕。さらにお年を召された方々もキリストの僕として歩むことが可能。それぞれの賜物を用いて、キリストの僕として主を賛美し続ける。そのとき、この世がどうなるかと不安に襲われることがあっても、この世の支配者、真の審判者であられるキリストの僕ですから、何も恐れることはないのです。

<僕となりて仕えまつる>
この後、何度も涙し、励まされた讃美歌338番を賛美します。それこそ、人の目ばかり気にし、人の評価ばかり気にし、気にしてもどうにもならないと知りつつ、「今度こそ!」と期待したにもかかわらず、何度も裏切られ、最後は人の目、人の評価に心が支配され、神の眼差し、神の評価がわからなくなり、心が病んでしまった。その私が338番から励ましと慰めを頂いた。一つ一つの歌詞をかみしめながら賛美すると、気持ちがそのまま神に届くような祈りの讃美歌として賛美し続けたのです。いつも讃美歌の選曲は苦労するのですが、今朝の御言葉を読み一発で決まりました。それは4節「主よ、今ここに 誓いを立て、僕となりて 仕えまつる。世にある限り この心を常に変わらず持たせたまえ」があるから。人の目、評価が気になる私も、キリストの僕として、主に仕え続けたい。ストレートな歌詞が私を励まし、献身の道が拓かれたのです。
 もう少し讃美歌338番について申しますと、作詞したジョン・E・ボードは、19世紀のイギリス国教会の聖職者で、彼の子どもたちの堅信礼のためにこの歌詞を書いたようです。讃美歌338番は多くの人々に愛され、様々な教派の讃美歌に採用され、今も賛美されております。私たちもキリストの僕として、終わりの日まで十字架と復活、そして再臨の主を賛美したい。心から願います。

<祈祷>
父なる御神、信仰告白、また洗礼によって御子キリストの僕となった私たちは、歩みの全てを通して、あなた様の救いの御業を指し示したいと願います。それにもかかわらず、そのことを十分に為し得ない私たちを憐れみ、助け、導いて下さるよう、お願い申し上げます。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・大型災害により、深い嘆きの中にある方々、避難生活を強いられている方々、それらの方々を支援している方々、被災地の諸教会に慰めを注ぎ続けて下さい。
・洗礼を志願している方々、熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に御心をお示し下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年9月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第32章1節~14節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第1章6節~9節
説教題「福音はキリストのみ」    
讃美歌:546、68、166、21-81、242、542         

<長崎古町教会での恵み>
9月、第一主日となりました。先週は夏期休暇を頂き、長崎の地で主日礼拝をまもりました。主の導きにより、11年前の夏期伝道実習でお世話になった長崎古町教会で説教の恵みを与えられたのです。御言葉はマタイ福音書第6章25節以下、説教題は「だから、明日のことまで思い悩むな」。私は説教の冒頭で、「11年前の神学生時代、明日のことに加え、翌年の修士論文のこと、任地のこと、補教師試験のこと、正教師試験のこと等、様々な思い悩みに襲われていました」と語り、「伝道者として10年目を迎えた今も、様々な課題に日々、思い悩んでおります」と語ったのです。
私たちは御子の十字架の死による罪の赦し、復活と再臨による永遠の生命を信じております。けれども、心の何処かに不安を抱いてしまう。「あの日、私が犯した罪は本当に赦されたのだろうか?」「あの日、信仰告白し、洗礼を受けた結果、私にも永遠の生命が約束されたと信じるが、今はあのときのように熱心に教会に通っていないし、毎日、真剣にお祈りもしていない。そんな私が罪の赦しと永遠の生命を信じても大丈夫か?」と不安になることがある。つまり、私たちの信仰は何らかの出来事によって、簡単にぐらつき、思い悩んでしまうことは否定できません。
実は、長崎古町教会は4月から無牧となり、教会創立100周年という節目の年に無牧という試練に襲われています。そのような試練の中、礼拝には大勢の方々が招かれ、高らかに主を賛美しておりましたので、励ましと慰めを頂きました。けれども、教会の皆さんの本音は、主任牧師不在という現実を前に、「私たちの教会に相応しい牧師が本当に与えられるだろうか?」との不安を抱えているように感じたのです。

<ガラテヤの信徒たちの不安>
ガラテヤ地方の諸教会も、パウロが去り、大きな柱を失いました。もちろん、教会の柱は神であり、キリストです。けれども、頼れる指導者がいなくなると、途端に不安に襲われる。また、新しい指導者の考え方によって、人々が大いに混乱することは少なくありません。
実際、パウロが去った後、ガラテヤの諸教会にやって来たのは、パウロとは違う立場の集団でした。もちろん、彼らもキリスト者です。しかし、いわゆる「ユダヤ人キリスト者」と言われる集団で、ユダヤ教的色彩を強く持った人々でした。彼らのスタンスはこうです。「福音を心から実感するには、キリストの福音を信じるだけでは弱い。律法を尊重し、割礼を受けるべき」と主張したのです。絶対的な指導者パウロが去り、不安を抱えていたガラテヤの信徒たちは、ユダヤ教的色彩を強く持った彼らに従いはじめた。キリストの福音のみに不安を感じていた人々は、「律法を尊重し、割礼を受けるべき」との勧めに、素直に応じ、キリスト者でありつつ、ユダヤ教に改宗する信徒まであらわれたのです。しかも、そのことに罪の意識がない。「ユダヤ教に改宗し、割礼を受け、律法を尊重してもキリストの十字架と復活を信じているのだから問題ない。むしろ、キリストは私たちの改宗を喜んでいる」と本気で信じていたかもしれません。だからこそ、パウロはオブラートに包むことなく、はっきりと伝えるのです。

<あきれ果てています>
「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆(くつがえ)そうとしているにすぎないのです。(1:6~7)」
パウロの落胆、嘆き、怒り、悲しみ、全ての感情がミックスされた言葉です。「あきれ果てています」と訳された原語は、「不思議でならない」、「驚いている」と訳すことのできる言葉です。パウロは「あなたがたがキリストの恵みに招いて下さった方からこんなにも早く離れ、ほかの福音に乗り換えようとしていることに心底、驚いている!」と嘆くのです。
確認するまでもありませんが、キリスト者は、御子の十字架と復活を信じる信仰によって救われました。私たちの行いではなく、一方的な神からの恵み、自由な愛の贈り物によって救われたのです。それなのに、いつの間にか自分の行いによって信仰を維持しなければ!と考えてしまう。「あの人のように礼拝をさぼり、たまに出席すれば居眠り、祈りも自分の願いだけ、そんなゆるい信仰では救われない」と考えてしまう。ガラテヤの信徒たちも同じ。「こんなゆるい信仰では駄目、よし、誰からも認められるようにまず包皮に傷をつけ、割礼を受けよう。さらに、きちんと律法を尊重しよう。そうすれば、神も私の信仰を認めてくれる」とガラテヤの信徒たちは、本気で考えるようになったのです。

<背信の民>
 パウロは、モーセを通して神から掟を授かったイスラエルの民が早々と金の子牛の像を拝んだ罪を意識しているはずです。今朝の旧約聖書 出エジプト記 第32章には、私たちの罪が記されております。1節に「モーセが山からなかなか下りて来ない」と書かれています。モーセは「十戒」の書かれている二枚の石の板を受け取るために山に登った。「モーセは四十日四十夜(や)山にいた(24:18)」と書かれています。40日ですからそれなりの時です。人々は、モーセの兄アロンに泣きつきました。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです(32:1)」。願いに応え、アロンは金の子牛の像を造った。すると人々は、祭壇に献げ物を供え、祭りを行ったのです。
イスラエルの民はモーセしか見ていません。よって、モーセがいなくなると激しく動揺した。結果、モーセを見失った民は金の子牛の像を礼拝したのです。主はモーセに仰せになりました。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる(7~8)。」
 さらに主は、背信の民への裁きを宣言された。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする(9~10)。」モーセは神をなだめて言いました。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか(11)。」「どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください(12)。」モーセの執り成しのゆえ、「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された(14)」のです。
 父なる神は、子である私たちが滅びることを求めているわけがありません。父なる神から「子よ」と呼ばれ、子である私たちも神を「父」と呼べる関係を互いに喜ぶ。だからこそ、神はモーセの願いに耳を傾け、私たちにくだす災いを思い直されたのです。しかも、それでも悔い改めない私たちのために、神は御子を世に遣わされた。父なる神は、子である私たちを最後まで諦めません。私たち罪の子等が、「アッバ、父よ。目に見えるものに頼ってしまう罪をお赦し下さい」との祈りを大いに喜んで下さるのです。

<キリストの福音のみ>
 冷静に考えたい。もしも、割礼を受け、律法を遵守することによって救いが完成するのなら、主イエスの十字架の死、さらに復活は無意味になります。何のために御子が世に遣わされ、何のために十字架で死なれ、何のために復活によって全ての死に完全に勝利されたのか分からなくなります。
過去も、現在も、そして将来も永遠に働き続けて下さるキリストの福音のみを信じ続ける。これがキリスト者の恵みであり、喜びです。たとえ犯した罪がどんなに重くても、たとえ愛する人の死に今も苦しみ続けても、罪の重荷、死の痛みを十字架で経験し、復活によって、全ての罪、苦しみ、悲しみ、痛みに完全に勝利して下さったキリストこそ、私たちの揺るぎない恵みであり、喜びであり、福音なのです。それなのに、「キリストの福音とは違う福音がある」と人々を揺さぶり、覆(くつがえ)そうとする人々をパウロは許せない。だからこそ、激しい言葉を使うのです。

<呪われるがよい>
「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。(1:8~9)」   
私たちは日常会話で「呪う」という言葉を用いることはほとんどありません。しかし、パウロはガラテヤ書の本文が始まった途端、キリストの福音に反することを告げ知らせる者は「呪われるがよい」と繰り返し語るのです。「呪われるがよい(αναθεμαアナセマ)」は安易に発する言葉ではありません。アナセマは「最後の審判」に関わる言葉と言われます。もしも、最後の審判で主に呪われれば、永遠に滅ぼされるほかありません。滅びを告げる非常に重い言葉「アナセマ」を繰り返し語るパウロの激しさに私たちは圧倒されます。
パウロは主張する。「『キリストの福音のみでは不安』と手を加えることは、とんでもない罪だ。キリストの福音とは、罪の赦しと、永遠の命の約束である。このような驚くべきキリストの福音以外の福音とやらに人々を煽動することは、悪魔の働き以外あり得ない。その悪魔を呪い、滅ぼさねばならない」と呪いの言葉を繰り返すのです。

<聖餐の恵み>
 ところで、先週の主日、週報を御覧になり驚かれたと思います。Ⅿ兄が召されたとの報告を記載させて頂きました。従来であれば電話連絡網で連絡しておりましたが、ご遺族のみによる、自宅での葬儀を希望されたこともあり、電話連絡は遠慮させて頂きました。Ⅿ兄は、ペンテコステ礼拝の前日5月19日の土曜日に病床にて洗礼と聖餐の祝いに与りました。その後、療養を続けておりましたが、いつの日か退院され、共に礼拝をまもれる日が与えられると信じておりました。しかし、8月21日の火曜日の朝7時14分、Ⅿ姉から「主人が召されました」と連絡を受け、本当にショックでした。けれども、8月22日の水曜日に前夜棺前祈祷会、23日の木曜日に葬儀を執り行い強く感じたのは、「Ⅿ兄が洗礼を受けてから地上での命は3ヶ月であったけれど、キリスト者として地上の命を全うされたことは本当に良かった」と主に感謝の祈りを献げたのです。しかも、車椅子に座っておられたⅯ兄は洗礼式直後、御子の裂かれた肉であるパンと流された血潮である葡萄の液に与られたのです。
Ⅿ兄は、キリストの福音を目で見て、鼻で感じ、舌で味わい、最後は聖霊に包まれた。その恵みをⅯ兄と共に喜ばれたのが父なる神であり、子なるキリストであると思う。私たちもこれから聖餐の恵みに与ります。父なる神が、目に見えるものに頼ってしまう私たちを憐れみ、目で見ることのできる救いのしるしとして食卓を用意して下さった。まさに、福音はキリストのみです。
 今朝も、主の食卓に与ることの出来ない方がおられますが、その中に、コツコツと受洗準備の学びを続けている方々もおられる。そう遠くない日に4人の方々が信仰告白し、洗礼を受け、聖餐の恵みに与ると確信しております。洗礼を受け、キリスト者として歩んでいる方々、またこれから洗礼を受ける方々も含め、礼拝に招かれた全ての方々が「福音はキリストのみ」と証し続けることが出来るよう祈り願います。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・8月21日の未明、90歳の地上での生涯を終え、御国へと凱旋されたⅯ兄弟のご遺族の上に、特に、献身的に介護を担われたⅯ姉妹の上に復活の主の慰めが豊かに注がれますよう、心よりお祈り申し上げます。
・長崎古町教会のみならず、全国の諸教会で今、主任担任教師が不在の教会に牧師が与えられますよう祈ります。
・先週は、加藤常昭先生が心を込めて説教を担って下さいましたから、感謝をいたします。明日からの説教塾セミナー等、秋も様々なご奉仕を担って下さいます。加藤先生の心身の健康をお守り下さい。また11月18日には秋の特別伝道礼拝の説教も担って下さいます。ご準備の上にも主のお導きを祈ります。
・芳賀 力先生ご夫妻がドイツのジーゲンから帰国されました。感謝いたします。どうか、ドイツでのお疲れをあなた様が癒して下さり、これからも一緒に主を賛美することができますようお導き下さい。
・各地の被災地で嘆きの中にある方々、避難生活を強いられている方々、それらの方々を支援している方々、被災地の諸教会に、慰めを注ぎ続けて下さい。
・洗礼を志願している方々、熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に御心をお示し下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年8月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章4節~6節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第1章3節~5節
説教題「ただ神の栄光のために」    
讃美歌:546、13、Ⅱ-105、267、540     

<わたしたちは神さまの子ども>
 先週から、皆さんと共にガラテヤの信徒への手紙を読み始めております。今、大変に感謝なことですが、クリスマスの受洗に向け、四人の求道者と洗礼準備の学びを進めております。テキストは、アメリカ合衆国長老教会Presbyterian Church(U.S.A.)が発行した『わたしたちは神さまのもの ~ はじめてのカテキズム』を用いております。翻訳監修は東神大で親身にご指導下さったトマス・ジョン・ヘイスティングス先生です。先週は火曜日、木曜日、そして金曜日と三人の求道者とそれぞれ約2時間の学びを行いました。つい、力が入り、長くなってしまうのですが、やはり最初が肝心と思い、求道者の皆さんには忍耐を強いることになりますが、丁寧に指導させて頂いております。特に、問1は、カテキズムのタイトルにも用いられている非常に大切な問いと答えになります。
 問い1「あなたは誰ですか」。答え「わたしは神さまの子どもです」。問答の参考になる御言葉として、ガラテヤ書第4章6節以下の御言葉が記されております。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたは もはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです(4:6~7)」。
 実は、今朝の御言葉、第1章3節から5節でも、繰り返し書かれているのは、「わたしは神さまの子どもです」に通じる御言葉です。3節「わたしたちの父である神」、4節「わたしたちの神であり父である方」、5節「わたしたちの神であり父である方」、パウロは「神は私たちの父であり、私たちは神さまの子である」と語るのです。求道者の皆さんが今、神を父と呼べる喜びを心に刻んでいるように、信仰告白し、洗礼を受けている私たちも、もっとも大切な喜びを心に刻みつつ、ガラテヤ書を読み進めてまいりましょう。

<キリストの恵みと平和>
 キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロは、ガラテヤ地方の諸教会の人々に心からの祈りを献げました。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(3節)」パウロが祈るのは、父なる神と、子なるキリストの恵みと平和です。無病息災、家内安全、商売繁盛等を祈るのではありません。では、「キリストの恵みと平和」とは、具体的に何を意味するのでしょうか?
 パウロは続けます。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から わたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。(4節)」
パウロが語る福音は、私たちが日々 心に刻むべきキリストの恵みと平和です。御子は、私たちの身代わりとなって、十字架で処刑されました。私たちが悪の世から救われるためです。悪の世とは、私たちの心が、父なる神でなく自分にばかり向けられる世のことです。何らかの判断を迫られるとき、「これは、神が喜ぶことか、それとも悲しむことか」という基準ではなく、「これは、私の利益になるか、それとも損失になるか」という基準だけで判断する世、私利私欲の奴隷になっている世のことです。

<悪の世>
今朝は、旧約聖書イザヤ書 第53章も朗読して頂きました。改めて4節以下を朗読いたします。「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」
イザヤ書 第53章は、悪の世に簡単に浸ってしまう私たちを悔い改めの祈りへと導く大切な御言葉です。私たちの多くは、この世にある主の僕、軽蔑され、人々から無視されて生活している人々がもがき、苦しむのは自業自得と考える。けれども、そのような考えは聖書の心から離れています。貧困、差別に苦しむ人々がいるのは、彼ら自身の罪ではなく、「わたしたちの背き」、「わたしたちの咎」が原因と、イザヤは民の指導者たちに告白させるのです。
5節で「背き」と訳された原語には、正義と真実の神の掟を、「逸脱する」という意味があり、「咎」と訳された原語には、他人の権利を強引に「折り曲げる」という意味があります。利潤追求と能力主義が徹底されているこの世において、利をもたらさない人々を切り捨てることに何の罪も感じない悪があることを私たちは否定することができません。まさに、先週の土曜日に当教会で行われた宋 富子(ソン・プジャ)さんによる平和集会のテーマ、在日朝鮮人の方々への差別と偏見が現代では益々、深刻な問題になっていることに言葉を失いました。このような社会は明らかに病んでいます。
預言者イザヤの時代、使徒パウロの時代、そして現代、主の僕が苦しむのは、「わたしたちの病」、「わたしたちの痛み」を主の僕に負わせているからです。羊の群れのように、己の利益に向かって走り続けても、誰も文句を言わない。間違っている!と勇気を出して声をあげるより、黙認するのが賢明と考える。そのような体制志向が争いを悪化させ、社会的弱者を切り捨てる。このような私たちの罪をすべて主なる神から負わせられ、十字架の上で処刑されたのが、私たちの罪を赦し、真の平和を与えて下さる御子イエス・キリストなのです。
父なる神は、能力のある人、いわゆる勝ち組だけを救うと約束されたのではありません。勝ち組も負け組もない、すべての人を悪の世から救い出したい、悪の支配から神の支配に生きるよう本気で願っておられる。しかし、私たちは神の熱情に気がつかない。結果、悪を繰り返し、神に背を向け続けてしまう。本来なら、父なる神から匙を投げられて当然です。けれども、神は私たちの父であられる。子である私たちを放っておくことができない。「どうすれば、罪の子等を救えるだろうか?」と真剣に悩んでくださる。その結果、父なる神は、御子を悪の世に遣わしてくださった。御子は、私たちが罪の赦しに与るよう、父なる神の御心に従い、御自身を犠牲(いけにえ)として献げてくださった。だからこそパウロは、「キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と祈るのです。

<パウロの怒り>
 さて、先週からガラテヤ書を読み始めておりますが、ここで基本的なことを確認しておきたい。パウロがガラテヤ地方に伝道したのは、第2次伝道旅行のときでした。この手紙は、それからさほど時間が経っていない第3次伝道旅行の旅先で語られたと言われております。
パウロが伝道した後、ガラテヤ地方の諸教会に「キリストの福音」から人々を引き離そうとする集団がエルサレムから続々と流れ込んで来ました。彼らは、「ユダヤ人キリスト者」と言われる人たちで、ユダヤ教的色彩を持った伝道者集団です。彼らは、このように伝道したのです。「愛する皆さん、あなたがたが信じているキリストの福音は素晴らしい。けれども、パウロが伝えた福音だけでは不十分。確実に救われるためには、神がモーセに授けられた律法を遵守し、目に見える徴である割礼を受ける必要があります。まず、ユダヤ教に改宗し、その上でキリストの福音を信じればよいのです。ユダヤ教への改宗こそ、神の救いを確実に受けられる完璧な福音です」。
パウロは、偽りの福音に惑わされ、ユダヤ教に改宗した人々を嘆くと同時に、人々を惑わすユダヤ教的色彩を強く持った伝道者たちに激しい怒りをぶつけ、ガラテヤ書を記したのです。だからこそ、パウロは祈り続ける。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」この祈りなくして、ガラテヤ書を書き始めることは出来なかったのです。

<ただ神の栄光のために>
 パウロの祈りは続きます。「わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。(5節)」パウロは、キリストの恵みと平和を祈るとき、父なる神の栄光を賛美せずにはいられなかった。ルターも「ただ神の栄光のために」と祈り、ヨハン・セバスティアン・バッハも全ての作品に、「ただ神の栄光のために」と書き記さなければ書き終えることがなかった祈りをパウロも神への畏れと深い感謝を抱き、書き記したのです。
日本福音ルーテル東京教会のウェブサイトに、「もっと知るバッハ」というページがあります。そこに、青年時代のバッハの苦悩が書かれていましたので、紹介させて頂きます。バッハは18歳のとき、アルンシュタットの教会オルガニストになりました。しかし、聖歌隊の指導等でトラブルが続き、また、当時としては斬新過ぎる和音や技法で作曲、演奏し、評判が悪かった。その結果、バッハは強いストレスに襲われ、ミュールハウゼンの教会オルガニストに転職することになったのです。しかし、ミュールハウゼンでも厳しい試練が待っていた。上司から礼拝音楽での華麗な表現を制限されたのです。結果、転職後、約1年で辞表を提出することになった。辞表には、「整った教会音楽を築き上げたい」と書かれていたようです。バッハは、御心のままに演奏することが神の召しと信じた。そこでバッハは、楽譜の末尾に「Soli Deo Gloria」(ただ神の栄光のために)というサインを書き込み続けたのです。
バッハ研究の権威で音楽学者の礒山雅(ただし)先生は、著書『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』にルターとバッハの音楽へのとらえ方を記しています。「ルター自身が、音楽は神のすばらしい賜物であって、本来神に発するものであり、すぐれた音楽は様式のいかんを問わず神を讃え得る、と考えていた(中略)。よい音楽を書くことはそれ自体神への讃美でもあると、バッハは考えていたにちがいない。(中略)バッハの音楽が、人の耳のみをめざすのではなく、つねに神を見据えつつ作曲されている」。つまりルターもバッハも「すべての音楽が、神への讃美になる」と信じ、作詞、作曲、演奏したのです。
今朝の礼拝で、説教前に賛美した第2編105番、説教後に賛美する267番はどちらもルターの作品です。第2編105番はルターが1541年に作詞した作品、267番はルターが1529年に作詞、作曲した作品です。説教後、ご一緒に賛美する267番は、バッハもカンタータ80番で高らかに賛美しております。「ただ神の栄光のために」生涯を献げたパウロ、ルター、バッハの信仰を私たちも保ち続けたい。
 私たちの礼拝、そして日々の生活も、キリストの恵みと平和を告げる祝福と、神の栄光のみを賛美する頌栄によって形づくられます。パウロの二つの祈り、「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」「わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。」は、凝縮されたキリストの福音そのものなのです。転入会式を終えて、東村山教会に連なる神の家族に加えられたY姉妹も含め、神の栄光のためにそれぞれの賜物を用いて、高らかに神を賛美したい。心から願うものであります。

<祈祷>
父なる御神、主の御業と御言葉に鮮やかに示されたキリストの恵みと平和から、絶えず落ちてゆく私たちの罪故の弱さを深く憐れんで下さい。ただ、あなた様の御旨に根ざす、恵みと平和の中にのみ捕らえ続けて下さいますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・本日、東村山教会に連なる神の家族に加えられたY姉妹のこれからの歩みの上に、これまでと同様の主の恵みと平和と祝福を与え続けて下さい。
・各地の被災地で嘆きの中にある方々、避難生活を強いられている方々、行方不明者を捜索している方々、ボランティアに従事している方々、全国の被災地の諸教会に、慰めを注ぎ続けて下さい。
・洗礼を志願している方々、熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に御心をお示し下さい。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年8月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第1章5節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第1章1節~2節
説教題「御子と、御父によって使徒とされたパウロ」    
讃美歌:546、14、86、332、539、Ⅱ-167       

<戦いの手紙>
 今日から、ガラテヤの信徒への手紙をご一緒に読んでまいります。共に礼拝をまもって下さる加藤常昭先生は、ガラテヤ書の講解説教で、こう語っておられます。「ガラテヤ書は戦いの手紙と言われます。(中略)戦いは たいへん困難なものであった。容易でないものであった。そのことをまず私どもはよく理解しなければならない」。
パウロの戦い、それは福音のための戦い。パウロが伝道した福音(十字架による罪の赦し、復活による永遠の生命の約束、再臨による救いの完成)が歪められる危機との戦いです。実際、主の福音だけでは不十分!と主張し、律法の遵守や割礼を加える伝道者が出現、そのような伝道者に惑わされる人々がガラテヤ地方の諸教会にも現れてきた。パウロは、その状況を見過ごすことができない。だからこそ、キリストの福音を明確にし、語り続けるのです。今日から、ガラテヤの信徒への手紙を読むことによって、私たちもキリストの福音を心に刻み続けたい。
<人々からでもなく>
 パウロは手紙の冒頭から万感を込めて、もっとも重要なことを伝えます。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」。
パウロの思いはこうです。「私は使徒パウロ。私は自分が望んでこの働きをしているのではありません。キリストと、キリストを死者の中から復活させた父なる神から『使徒』としての使命を与えられ、ここに送り出されたのです。私はキリスト者を徹底的に迫害していた。だから私は神の御心を語り、救いを宣べ伝えるに相応しくない者。この世の常識では絶対に選ばれない私。そんな私が使徒として選ばれた。だから私は、『人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた』のです。」
 もう少し、「人々からでもなく」に思いを巡らしたい。「人々からでもなく」とは、人間から出たのでない、という意味で、人間の権威から出たのではない、ということです。神の業である伝道を担う人を、人が人の力や権威で生み出すことはできません。有能な人を捕らえ、「私の力で伝道者にしてやろう、使徒にしてやろう」と考えるなら、それは大きな誤り。御心ではありません。使徒にとって大切なのは、本人が神の召しを受けていることです。同時に、他の人はその人が神から召されたことを認めることが大切なのです。

<献身への道>
 さて、私の献身については、ほとんどの皆さんがご存知であると思います。14年半のサラリーマン生活を経て、御心と信じ、日本FEBCに転職。けれども、僅か40日で退職。そのとき、御心を問い続けました。「主よ、あなたは私に何を望んでおられるのでしょう?ラジオ伝道の働きを担いなさい!との御声を信じ、転職したのは間違っていたのですか?主よ、御心をお示し下さい」繰り返し祈り続けた。その結果、主の御心と信じ、神学校を受験したのです。
 合格発表の朝、横浜から三鷹の神学校までドキドキしながら向かいました。掲示板の前に立ち、私の名前を発見。その瞬間、喜びより、「献身は主の御心だった。これから4年、学びについていけるだろうか?また牧師として歩んでいけるだろうか?」という不安に襲われたのです。しかし、主の憐れみにより神学校を卒業。釧路で6年、東村山で3年4ヶ月、使徒としての歩みを続けております。だからこそ私も信じたい。パウロのように。私を使徒として選んで下さったのは人ではない、キリストであり、父なる神である。だから、あの人に比べ語学が弱い、神学の知識が劣る、そのような重圧に襲われても、弱く、罪深い私を選ばれたのはキリストであり、父なる神である。だからこそ、主のお召しを信じ、使徒として御言葉を語り続けるのです。

<母の胎内に造る前から>
 パウロは、第1章15節でこのように語ります。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」。「母の胎内」で思い浮かぶのは、今朝の旧約聖書エレミヤ書の御言葉「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。(1:5)」です。これは、神がエレミヤを召し出すとき、最初に語りかけた言葉です。
エレミヤの使命は、母の胎から生まれる前に定められていました。エレミヤは「諸国民の預言者」と呼ばれています。アッシリア帝国から新バビロン帝国へ移行する転換期に、神の民イスラエルの行方を指し示すことが彼の使命です。また、その使命は政治的であると同時に、信仰の根本的な理解にかかわるものでした。それゆえに、エレミヤの使命は、母の胎から生まれる前に定められていたのです。
 パウロは、エレミヤ書を繰り返し読み、使徒としての召命をエレミヤの召命に重ねたはずです。私も同じ。脱サラして転職、それが40日で挫折。しかし、母の胎にあるときから、キリストと父なる神は私に使徒になるよう定められた。その確信がなければ、説教を語り続けることは難しい。パウロも今では誰もが認める使徒ですが、当時は、主の愛弟子12使徒と比較されると、格下と言われた。つまり、パウロの使徒としての権威は、第二級と言われたのです。以上より、第一級の権威を持つのは、キリストと地上の歩みを共にした12使徒であり、パウロは彼らの下と評価された。だからこそ、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と宣言し、語り始めるのです。

<福音とは>
 さて、吉祥寺教会牧師、また東京神学大学 学長も担われた竹森満佐一先生は、ガラテヤ書の説教で福音の真髄を語っておられます。「福音のもっとも大切なことは、神がお与えになった救いには、何の条件もいらない、ということであります。その福音を受け入れる人がどんな人であれ、どこの人間であれ、救いを受けるにふさわしい人であるとかないとかいうことには、何も関係がないのです。救いは、むしろ、それにふさわしくない人にこそ与えられるべきものでありましょう。しかし、実際には、そういう外の条件が、福音を伝える人の方でも、それを受ける人にも気になるものであります。その時に、福音を曲げることなく伝えることができるためには、神から、これを伝えるようにとつかわされたという確信がなければならないのです。」
重要な指摘です。私たちは、力のある○○先生の説教を高く評価し、無名の○○先生の説教を軽視することがある。けれども、無名の説教者であっても、説教者を召したのはキリストであり、神であると福音を伝える側(説教者)も、受ける側(会衆)も信じるとき、説教者が語る福音に心から「アーメン(その通り)」と言えると思うのです。

<御子と、御父によって使徒とされたパウロ>
 ところで、パウロは決定的な福音を1節後半で語ります。「キリストを死者の中から復活させた父である神」。パウロを生かす福音は、ダマスコへの途上で出会って下さった復活のキリストであり、キリストを死者の中から復活させた父である神です。パウロが神を表現するとき、「キリストを死者の中から復活させた父である神」と語る。つまりパウロがキリストを語るとき、キリストの復活から、御子と御父の関係を知ることができると伝えるのです。パウロは十字架と復活のキリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神によって使徒とされた。また全ての使徒もキリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神によって使徒とされた。決して人の力によってではなく、御子と、御父によって使徒とされたのです。

<わたしと一緒にいる兄弟一同から>
 パウロは続けます。2節、「ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。」スッと読み飛ばしてしまう箇所かもしれません。しかし、重要な御言葉です。なぜか?ガラテヤ書の発信者はパウロ一人でないということがわかるから。つまり、この手紙は使徒パウロと一緒にいる教会の人々が書いた手紙となる。そうすると、この手紙は、「使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から」とあるように、一つの教会からガラテヤ地方の諸教会宛ての手紙、教会から教会に送られた手紙となるのです。この事実を心に刻んでガラテヤ書を読み続けたい。
 時に、伝道者は孤独と言われます。確かに、孤独であることも大切。一対一で神と対話することは重要。しかし、パウロはこう伝える。「伝道者は、インマヌエルの神に加え、「わたしと一緒にいる兄弟一同」に常に支えられている。伝道者は孤独に伝道するのではない。主に感謝し、教会員と共に伝道する」と伝えるのです。
 当然ですが、伝道者として9年4ヶ月、私だけで伝道した!と思ったことは一度もありません。釧路では5人の役員、教会員、求道者、また幼稚園 教職員が私と共に伝道を担って下さった。東村山でも8名の長老、教会員、求道者、共に礼拝をまもっておられる皆さんが私と共に伝道を担っておられると心から感謝しております。やはり、伝道者である私は孤独ではないのです。
 先週も猛暑の中、数名の兄弟姉妹と面談。木曜は御言葉と祈りの会で創世記を学び、8月9日だったので、長崎の平和、全世界の平和を出席者と共に祈りました。また昨日は、教区の平和集会で50名の皆さんと主の平和を祈った。そのような中、牧師室で説教準備をする。そのとき、「使徒は孤独ではない。教会に連なる皆さんと共に神に仕え、キリストに仕え、教会に仕える者である」と感じた。だからこそ、もしも教会が真の福音から逸れてしまうなら、それを正すのが使徒の大きな使命であることは間違いありません。
 ガラテヤ地方の諸教会は、間違いなく大きな危機を迎えています。パウロが伝えた福音から、人々が離れてしまった。そのとき、パウロに対し、攻撃する人々がいた。「第二級の使徒パウロが伝道したから、ガラテヤの諸教会はガタガタになった。パウロは所詮、わけのわからない復活を語る偽預言者」。現代の伝道者もオウム事件以降、厳しい逆風を受けていることは否定出来ません。「宗教は、若者を洗脳するだけ。洗礼を受けると、とんでもないことになる。」こうした悲しむべき逆風が吹いている。預言者エレミヤ、使徒パウロ、そして現代の使徒、すべて神に召された者は、常に御子と御父からの召命を確認していないと、すぐに抵抗勢力にボロボロにされてしまう。だからこそ、ガラテヤの信徒への手紙は多くの使徒に力を与える。たくさんのキリスト者を真の福音へと立ち返らせる。使徒として歩むのが難しいと深く落ち込んだ伝道者を救い続けるのです。

<ルターとガラテヤ書> 
 救われた伝道者の中でもっとも有名な人物は、ドイツの改革者ルターです。ルターは、ガラテヤ書に二種類の注解書を書きました。それほど、ガラテヤ書を愛した。ルターは「ガラテヤの信徒への手紙は、私の信頼する手紙である。私のケート・フォン・ボール」と言ったと伝えられています。ケート・フォン・ボールとは、ルターの妻の名前、ケート・フォン・ボーラのことです。
 ルターは「ガラテヤの信徒への手紙は、私の愛妻」と言った。それほどまでルターはガラテヤ書を愛し、信頼したのです。ルターがなぜ、この手紙を愛し、信頼したのか?理由の一つは、御業を伝えるために召された者の生活をお召し下さった主イエス、父なる神が必ず支えて下さると宣言しているからです。
ルターは、たいへんよく聖書を読みました。中でも、ガラテヤの信徒への手紙を深く愛した。信仰の戦いにおいてこの手紙を読み続けた。そうであるなら、私たちもガラテヤの信徒への手紙を繰り返し読むことは重要であることは申すまでもありません。
同時に、使徒として召された者なら、一度はガラテヤの信徒への手紙を説教することは必要と思うのです。母の胎から生まれる前に預言者として召されたエレミヤ。同じく母の胎につくられる前に使徒として召されたパウロ、さらに、母の胎につくられる前に説教者として召された私。その確信をもって、東村山教会に送られたガラテヤの信徒への手紙をご一緒に読み続けてまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神。あなた様が、人々を立て、御業をなさせて下さることを感謝いたします。どうか御言葉に仕えるために選ばれました者が喜んであなた様の召しに応えることができますよう導いて下さい。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・昨日は、東村山教会を会場に西東京教区の平和集会を行うことが許され、心より感謝いたします。講師の宋富子(ソン・プジャ)さんの働きを祝福して下さい。主よ、どうか主の平和が在日朝鮮人の方々、激しい差別を受けている方々、そして全世界に実現しますよう祈り願います。
・西日本豪雨災害等で愛する人、住まいを喪い、嘆きの中にある方々、避難所での生活を強いられている方々、行方不明者を捜索している方々、ボランティアに従事している方々、全国の被災地の諸教会に、慰めを注ぎ続けて下さい。
・洗礼を志願している兄弟姉妹、転入会を志願しておられる姉妹に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に御心をお示し下さい。
・猛暑の中、体調を崩され、今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹、礼拝への出席は許されても、心身の疲れをおぼえている方々の上にあなた様の祝福と慰めを注いで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年8月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第84篇1節~13節、新約 ルカによる福音書 第24章50節~53節
説教題「絶えず、神をほめたたえる」    
讃美歌:546、79、196、Ⅱ-1、Ⅱ-194、545B       

<主を賛美するために>
今から3年4ヶ月前、2015年4月12日、ルカ福音書を読み始めました。その日の礼拝出席者82名。そして今朝、ルカ福音書を読み終わります。先週は前夜の台風、また猛暑の影響もあり、礼拝出席者62名。3年前より20名も礼拝出席者が減少していることに、厳しい思いを抱いております。事実、私が着任してから9名の教会員が逝去されました。また記録的な猛暑の中、年配の方々が無理に礼拝に出席なさることは命の危険を伴います。その意味でこれからこそ、礼拝出席者の減少を覚悟する必要があると思います。
一方、3年4ヶ月、溢れる恵みも与えられております。主の憐れみにより、受洗者10名、信仰告白者2名、転入会者11名が与えられたことは喜びです。今まで、多くの皆さんと面談させて頂きました。お一人、お一人、喜びの日もあれば、悲しみの日もある。主を賛美する日もあれば、賛美しにくい日もある。しかし、キリスト者はどんなときも、主を賛美することを求められる。なぜか?主を賛美するために私たちは創造されたからです。
大切な御言葉があります。「主はすべてを喪失した者の祈りを顧み/その祈りを侮られませんでした。後の世代のために/このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。(詩編102:18~19)』」そうです。神によって創造された民は、どんなときも、主を賛美する。まして私たちは、復活と再臨の主イエスを信じる民です。たとえ、苦難と試練の中にあっても、主が必ず良い方向に導いて下さると信じ、主を賛美し続けるのです。
改革者カルヴァンも、「主を賛美するために民は創造された」を受け、祈る。「いかなる荒廃も、神が無から世界を創造されたと全く同様に、教会を死の暗闇から引き出すことが、神に固有のわざであるというこの望みを、われわれが失うことのないように」。カルヴァンの祈りを私たちも祈り続けたい。たとえ、礼拝出席者が減少し、これから東村山教会はどうなっていくのだろう?と不安を感じても、私たちを創造し、教会を死の暗闇から引き出す御方は神であると信じ、創造主なる神を賛美し続けるのです。

<大喜びでエルサレムに帰る>
さて、復活された主イエスは、弟子たちをべタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福されました。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられたのです。弟子たちは主を伏し拝んだ後(のち)、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていたのです。
 52節「大喜びで」と訳された原語は、御子がお生まれになった時の天使の言葉に登場します。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(2:10~11)」。
羊飼いたちは、大きな喜びを告げられました。その喜び、つまりクリスマスの夜、天使が告げた大きな喜びの約束が、御子の復活と昇天によって、ついに実を結んだのです。救い主キリストは、十字架で処刑され、三日目に復活し、弟子たちに現れ、「平和」を宣言し、弟子たちを祝福しながら天に挙げられた。弟子たちも絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていたのです。

<神をほめたたえる>
ところで、神を「ほめたたえていた」と訳された原語ευλογουντες(ユーロ グーンテス)は、主が手を上げて「祝福された」ευλογησεν(ユロゲィセン)と「祝福しながら」ευλογειν(ユーロ ゲイン)彼らを離れと訳された「祝福しながら」と同じ原語です。
「祝福された」、「ほめたたえていた」と訳された原語には、「良い言葉を語る」という意味があります。つまり、主イエスが弟子たちに「良い言葉」を語って下されば「祝福」となり、弟子たちが神に「良い言葉」を語るなら、「ほめたたえる」となるのです。
私たちは今朝も猛暑の中、教会へと招かれました。何をするためか?礼拝をささげるためです。礼拝では御言葉に耳を傾け、神に祈り、神をほめたたえる。冒頭でも触れたように、主を賛美するために私たちは創造された。そのような私たちが教会で礼拝をささげることは極めて重要です。主の弟子たちも、主が昇天されてから、「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」のです。「絶えず」παντος(パントス)とは、「全てのことを通じて」という意味。弟子たちも、全てのことを通じて神殿の境内で、神をほめたたえていたのです。 
全てのことを通じてですから、どんなときも、つまり、良いときだけでなく、試練のときも、悲しみのときも、神をほめたたえていた。
 私たちは、弟子たちの罪を忘れることはありません。ペトロを筆頭に一人の例外もなく、御子を裏切ってしまった。ですから、あの頃の弟子たち、つまり十字架の主の赦しと、復活の主の祝福を頂く前の弟子たちならば、試練のとき、悲しみのとき、神をほめたたえることは困難だったはずです。たとえ形式的に神をほめたたえることが出来たとしても、そこには魂を感じることができない。表面的な賛美です。しかし、罪深い弟子たちが復活の主に出会って頂き、祝福を頂いたことで、明らかに変えられたのです。
 これが父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神の力です。三位一体の神の力に覆われた弟子たちは、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。そのとき、弟子たちは色々なことを言われたはずです。「お前たち、喜んで神を賛美しているが、肝心なときに逃げただろう。そんなお前たちの神を、我々は信じられない」。弟子たちは迫害され、罵られたはずです。しかし、弟子たちは変えられた。十字架と復活の主の祝福を頂いたことで、迫害され、罵(ののし)られても、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていたのです。

<おお み神を ほめまつれ>
 今朝はルカ福音書と共に、詩編第84篇を朗読して頂きました。この詩編は、主の家に住む喜びと、主を信頼し続けることの幸いを歌います。「いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら(5節)。」「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです(11節)。」このように、コラ族の神殿聖歌隊の隊員は、神を賛美する。であるなら、私たちキリスト者も詩編第84篇を通して、絶えず、神をほめたたえるのです。
今朝は第一の主日、この後、聖餐の祝いに与ります。また、聖餐に与った後、讃美歌第2編194番を賛美し、神をほめたたえます。今朝、3年4ヶ月の間、コツコツと読み続けたルカ福音書の講解説教を終えるにあたり、どの讃美歌を賛美することが御心なのか祈りました。結果、主なる神に示されたのが、第2編194番「おおみ神をほめまつれ」だったのです。この讃美歌は、私の愛唱讃美歌の一つです。
この讃美歌を作詞したのは、フランセス・ジェーン・クロスビーという女性です。彼女は目の治療が失敗し、6歳で視力を失いました。けれども、祖母や母親の愛情ある教育、育成によって、彼女の賜物が花開き、ニューヨーク市立盲学校を卒業後、母校の教師となったのです。クロスビーが作詞を始めたのは44歳の時でしたが、生涯6,000以上と言われる讃美歌を作詞したのです。
彼女は、1915年に95歳で召されました。身長145㎝と小柄なクロスビーでしたが、彼女は復活と再臨の主イエスの者とされた喜びに包まれていた。結果、クロスビーの顔は輝き、クロスビーに近づくと、彼女の喜びが「感染」すると言われたようです。
聖餐式の直後に賛美する「おおみ神をほめまつれ」は、私たちに与えられた大きな喜び、御子の御降誕が賛美されます。「おおみ神をほめまつれ、つきぬ生命(いのち)あたえんと、ひとり子をも惜しみなく/世びとのためくだしたもう。ほめよ、ほめよ、神の愛を、うたえ、うたえ、主のみわざを、その
みわざにあらわれし/父なる神のめぐみを。」
 只今から与る聖餐も、父なる神から与えられる大いなる喜びです。聖餐への招詞の一つは、ヨハネ福音書第3章16節の御言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」聖餐への招詞と聖餐後の賛美が重なります。たとえ厳しい試練に襲われても、深い悲しみに襲われても、私たちには父なる神、子なる神、聖霊なる神の愛が注がれている。さらに、驚くべき恵みである永遠の生命まで約束されているのです。
来週からも生命のある限り、この礼拝堂で皆さんと共に神を礼拝し続けたい。そして、どんなときも、神を賛美し続けたい。そのとき、私たちキリスト者は聖霊に覆われ、祝福を注いで頂けるのです。そのとき、父なる神も私たちの心からの賛美を喜び、いつの日か必ず、私たちの世に御国を完成してくださるのです。確かに、3年4ヶ月前の礼拝出席者と先週の出席者を比較すると、心が痛みます。しかし、そのような時だからこそ、私たちはこれからも絶えず教会に通い、神を賛美し続けるのです。今、四人の方々が受洗準備の学びを始めております。また一人の姉妹が転入を志願しております。試練のときも、喜びのときも、絶えず神をほめたたえたい。そして、四人の求道者が主の祝福を受け、クリスマスの日に信仰を告白し、洗礼を受け、永遠の生命が約束される聖餐の祝いに与ることが出来ますよう共に祈り続けましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神。私たちに真に豊かな「良い言葉」が与えられておりますことを、心から感謝致します。主の祝福があります。永遠の生命があります。主の愛があります。その美しい「良い言葉」を、私たちの醜い心、汚れた言葉で消してしまうことなく、「良い言葉」で造り変えられ、聖められる体験をすることができますよう導いて下さい。どうぞ東村山教会をあなた様の「良い言葉」で満たし続けて下さい。絶えず教会で、神をほめたたえることを得させて下さい。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・西日本豪雨災害等で愛する人、住まいを喪い、嘆きの中にある方々、避難所での生活を強いられている方々、行方不明者を捜索している方々、ボランティアに従事している方々、全国の被災地の諸教会に、慰めを注ぎ続けて下さい。
・洗礼を志願している兄弟姉妹、転入会を志願しておられる姉妹に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に御心をお示し下さい。
・猛暑の中、体調を崩され、今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹、礼拝への出席は許されても、心身の疲れをおぼえている方々の上にあなた様の祝福と慰めを注いで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


聖書箇所:旧約 ホセア書 第6章1節~3節、新約 ルカによる福音書 第24章44節~49節
説教題「心を開いてくださる主」    
讃美歌:546、15、183、513、545A
        
<あなたにとって「聖書」とは>
今日は礼拝後に「コイノニア・ミーティング」が行われます。4つの分団に分かれ、長老の祈りに導かれ、共に御言葉に思いを巡らすひとときです。ぜひ、一人でも多くの皆さんに出席して頂けたら嬉しく思います。
今朝は、「コイノニア・ミーティング」に相応しい御言葉が与えられました。なぜか?今朝の御言葉の主題が聖書だからです。私たちキリスト者にとって、聖書は極めて重要です。そこで、皆さんに伺いたいのですが、聖書から、何を思い浮かべるでしょうか?求道者であれば、「聖書は難しい」と思うかもしれません。また、キリスト者として聖書を読み続けている方は、「聖書は奥が深い」と思うかもしれません。またキリスト教主義学校の生徒さんであれば、「聖書は授業で学ぶ書物」と思うかもしれません。
私も幼い頃から聖書は身近にありました。当然ですが、聖書は文字ばかり。ですから、聖書は読むものと素直に思っていました。しかし、説教の準備や様々な経験を重ねた今、聖書は読むものではなく、聞くものと思うようになったのです。では、聖書からいったい何を聞くのでしょうか?聖書を通して私たちに語りかけてくださる神の声です。つまり、聖書を読んで、神の声が聞こえないときは、本当の意味で聖書を読んだことにはならないと思うのです。
では、どうしたら神の声を聞くことが出来るのでしょうか?それは祈りです。祈りとは神様と対話すること。つまり、聖書を読むときは、祈りの心を持って「主よ、お話しください。僕は聞いております(サムエル記上3:9)」の姿勢が大切なのです。

<必ずすべて実現する>
復活された主は、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。さらに、復活を信じられない弟子たちのために、焼いた魚を食べて下さった。その上で主は、大切な言葉を発せられたのです。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
「モーセの律法と預言者の書と詩編」とは、旧約聖書を意味します。主は、「わたしについて聖書に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と言われたのです。新共同訳で「必ずすべて実現する」と訳されたπληρωθηναι(プレィロゥセィナイ)というギリシア語は、「必ず成就されなくてはならない」という意味の言葉です。主は、「神が定めたことは、必ず成就されなくてはならない。神の必然性こそ、あなたがたと共にいたころ、言っておいたことである」と弟子たちに言われたのです。
主は毎日、聖書を語り続けた。それなのに、弟子たちはなかなか聖書を悟ることが出来ない。もちろん、聖書の知識は蓄積されていたはずです。けれども、聖書の言葉が弟子たちを突き動かすまでにはなっていない。つまり、弟子たちの心は塞がれたまま。そこで、復活の主は、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて下さったのです。

<もう一度、「聖書」とは>
ここで、もう一度、聖書に思いを巡らしたい。芳賀 力先生が『神学の小径1 啓示への問い』で改革者ルターとカルヴァンの聖書の定義を紹介しております。芳賀先生はルターについて、「聖書の中心は、ルターによればキリストである」と定義し、ルターの言葉を引用しています。「聖書からキリストを取り除いてみよ。ほかに何が残っているというのか。それゆえに、たとえ聖書のある個所が、言葉がいまだ理解されていないために、なお不明であっても、聖書に含まれている<内容である>事がらは明白なのである。」
次に、カルヴァンの言葉も引用しています。「聖書は、そこにキリストを見出すという意図のもとに、読まれなければならないことになる。この目的からはずれるひとはだれでも、生涯心を悩ましながら学びつづけても、決して真理を知るにはいたらないだろう」。ルターとカルヴァンの聖書論を心に刻みたい。ルターとカルヴァンは、キリスト抜きに聖書を読み、学びつづけても、真理を知るにはいたらないと断言するのです。

<聖書を悟らせるために>
ルターとカルヴァンが聖書の中心とした復活のキリストが、聖書を悟らせるために弟子たちの心の目を開いて下さいました。
キリストは、聖書を知るために弟子たちの心の目を開いたのではありません。聖書を悟らせるために弟子たちの心の目を開いたのです。どうしても私たちは、聖書を知るという意識が強い。しかし、聖書は知るための書物ではありません。悟るための書物です。悟るとは、「ああ、そうだ!」と納得すること。納得するということは、聖書を読む人の心に、聖書の真理が入り込むことです。つまり、聖書が私たちの心にグイと入り込む。そのとき、遮られていた目からウロコがパラパラと落ちるように、神に向けて目が開かれるのです。
私たちは、どのようなときも聖書に触れていたい。しかし、私たちは弱い。悲しみのとき、試練のとき、聖書を開けない。そのようなとき、私たちは祈る。「主よ、聖書を悟らせて下さい。塞がれてしまった心の目を開き、復活と再臨の主を仰ぎ続けたいのです」。そのとき、私たちの祈りに耳を傾けて下さる主が、私たちの心の目を開いて下さるのです。

<心の目を開いて>
ところで、新共同訳で「心の目」と訳された原語νουν(ヌーン)には、「知性」、「理性」という意味があります。ちなみに、福音書でヌーンが用いられるのは、ルカ福音書第24章45節のみですが、使徒パウロが好んで用いた言葉です。教文館『ギリシア語 新約聖書釈義事典』には、ルカ福音書におけるヌーンについて、「<理解/把握>の意味で用いる。復活者は なお無理解のままの弟子たちに対し、正しく完全な<理解>を明け開く」と解説しています。
私たちは聖書を理解すること、聖書が語る神の救いを正しく理解することが大切です。だからこそ、復活の主は、私たちの心の目が開かれることを真剣に願っておられる。しかし、心の目を自分の力で開くことは難しい。なぜなら、自分の力だけで開いた心の目は、すぐに塞がれてしまうからです。そこで、私たちにとって大切なことは、主に全てを委ね、どんなときも「主よ、心の目を開いて下さい」と祈り、語り始めるまで聖書に聞き続けることなのです。そのような謙遜な心がなければ、聖書を理解し、福音を宣べ伝えることは難しいのです。聖書を自分勝手に解釈し、語るのではなく、真摯に御言葉に耳を傾け、聖書が語り出す救いの喜びを割り引くことなく、また付け加えることなく宣べ伝えることが大切なのです。

<次のように書いてある> 
心の目を開き、聖書を正しく理解させて下さる主は、自らの使命を語ります。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。 
復活の主は、天に上げられるまでの限られた時間で、地上で語り続けた聖書を凝縮して語って下さいました。今、大変に嬉しいことですが、クリスマスに向け、複数の求道者が洗礼への思いを告げて下さいました。早速、洗礼準備の学びを初めておりますが、最終的に求道者の方々が、主が語られた「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」に「アーメン(本当にその通り)」と告白するなら、洗礼を授けられるに違いありません。
 主は、「メシアは苦しみを受け」と言われます。一言で表現するなら、旧約聖書に受難記事があるということです。実際、主の受難が預言されているのは、イザヤ書第53章「苦難の僕」の御言葉です。

<三日目に、立ち上がらせてくださる>
 続けて主は、「三日目に死者の中から復活する」と言われます。では、主の復活は旧約聖書のどこで預言されているでしょう?
 今朝、ルカ福音書と共に朗読して頂いたホセア書第6章に預言されています。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる(1~2節)」。
 紀元前8世紀の北イスラエル王国の預言者ホセアは、「神は罪に陥ったイスラエルの民を引き裂かれたが、いやし、三日目に、立ち上がらせて下さる」と預言しました。この預言をキリスト者は、このように理解します。「まず神は、キリストを三日目に、立ち上がらせて下さる、それから、私たちキリスト者を立ち上がらせて下さる」と。以上より、御子の受難と復活は、旧約聖書に預言され、神の必然として、主イエス・キリストによって成就されたのです。

<あらゆる国の人々に>
続けて主は、「罪の赦しを得させる悔い改めが、主の名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と語ります。私たち、あらゆる国の一つである日本に生きるキリスト者として、主の言葉に「アーメン(その通り)」と言えますが、当時の弟子たちは、「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」には、非常に驚いた。なぜか?この時点では、聖霊降臨の出来事が起きていないからです。その後、ペンテコステの日、聖霊が降臨し、全世界の人々への宣教が開始されました。つまり、「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」も、聖霊降臨日に成就されたのです。聖霊降臨日、最初にペトロが説教を始めました。結果、一日に約三千人が受洗へと導かれたのです。
 復活の主は、心を込めて語ります。「私は苦しみ、三日目に死者の中から復活した。十字架の死と復活によって、罪の赦しと永遠の生命が約束された。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。聖書に書かれていることは、必ずすべて私によって成就され、私を信じる人々の喜びとなるのだ」。

<「罪」とは>
 ここで、改めて「罪」を確認したい。聖書における「罪」は、神に背を向け、全てを自分のものにすることです。私の生命、私の財産、私の神。私のイエス。私たちは、何でも自分の手で操ろうとします。キリスト者である私たちこそ、「神がおられるなら、こんなことをなさるはずがない。御子がおられるなら、こんなことが起こるはずがない」と私たちの論理で神と御子を裁いてしまう。そういう意味で私たちは皆、罪人。そのような私たちの罪を赦して頂くために、私たちは日々、「主よ、憐れみたまえ」と胸を繰り返し打ち叩き、悔い改めを祈り続けるのです。
 「罪の赦しを得させる悔い改め」とは、人生の方向転換です。自分を向き、自分のために生きていた者が、神を向き、神のために生きるように回心する。パウロも復活の主に出会って頂いたことで罪を悔い改め、人生の方向転換をし、復活の主を「あらゆる国の人々に宣べ伝える」使徒とされたのです。

<高い所からの力>
さらに主は、弟子たちに命じます。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
 「高い所からの力」とは、聖霊の力のことです。人々の救いのため、御子を十字架につけ、復活させ、天に挙げられた神が、聖霊降臨日、弟子たちに聖霊を注がれた。神は、復活の次に聖霊降臨を成就されたのです。
使徒言行録の聖霊降臨の御言葉にあるように、御子の命令を忠実に厳守した弟子たちは、高い所からの力に覆われるまで都エルサレムにとどまりました。その結果、炎のような舌が弟子たちの上に降り、聖霊が注がれた。すると、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で語りだした。その結果、あらゆる国の人々に主の福音が宣べ伝えられたのです。
 今、私たちにも聖霊が注がれています。だからこそ、いつまでも座っていることはできません。主によって立ち上がり、罪赦され、永遠の生命を約束され、聖霊を注がれた者として、喜んで主の福音を語り続けるのです。
そうです。どんなに自然災害が続き、どんなに驚くべきニュースが続いても、また、どんなに自分で自分を信じられなくても、十字架と復活、そして再臨の主が宣言してくださった「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」をまっすぐに信じたい。そのとき、私たちは真実の意味で心の目が開かれ、聖霊が注がれ、ビクビクせず、聖霊の力を頂きつつ、主イエスの福音を証し続けることができるのです。

<祈祷>
教会の頭なる主イエス・キリストの父なる御神。教会は、甦りの主が弟子たちと共に開いて下さいました、主の食卓を繰り返し、繰り返し、祝い続けることによってのみ生きてまいりました。御言葉を読み耽(ふけ)り、御言葉に心を開くことによってのみ生きることができました。常に繰り返し、新しい時代を迎えることができました。同じ新しい生命の中で、私たちを生かして下さい。私たちの心の頑なな思いを、あなた様が打ち砕いて下さいまして、主の御業と聖書の御言葉とに、大きく心を開かせて下さいますように。不幸と思う時にも、痛みを覚えている時にも、心を開き続けて生きることができますよう、お導き下さい。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・西日本豪雨災害、台風等で愛する人や、住まいを喪い、嘆きの中にある方々、避難所での生活を強いられている方々、行方不明者を捜索している方々、ボランティアに従事している方々、全国の被災地の諸教会に、聖霊と慰めと祝福を注ぎ続けて下さい。
・洗礼を志願している兄弟姉妹、転入会を志願しておられる姉妹に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に御心をお示し下さい。
・猛暑の中、体調を崩され、今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹、礼拝への出席は許されても、心身の疲れをおぼえている方々の上にあなた様の祝福と慰めを注いで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年7月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 民数記 第14章11節~12節、新約 ルカによる福音書 第24章36節~43節
説教題「どうして心に疑いを起こすのか」    
讃美歌:546、53、271B、529、544          

<思い出の焼き魚>
今日は礼拝後に「サマーフェスティバル」が行われます。子どもたちが集い、共に礼拝をささげ、ペトロの生涯を学びます。その「サマーフェスティバル」の楽しみは、子どもからスタッフの大人が汗をかきつつ食事を楽しむことです。実は、私が教会に繋がった理由は食事なのです。特に、教会学校時代の様々な食事は忘れることができません。
今も鮮明に記憶に残っているのは、小学6年の夏期学校での食事です。2泊3日でしたが、鎌倉から丹沢のヤビツ峠までバスで移動、さらに山荘まで徒歩で移動したのです。中学受験を控え、家庭教師、夏期講習という日々から解放され、教会学校の仲間、先生とほおばったおにぎりの味も最高でしたが、忘れられないのは、掴み取りを楽しんだ後に夕日を眺めながらかぶりついた炭火で焼いたニジマスの味です。私は、復活の主イエスが焼き魚を食べられた御言葉を読むと、仲間と共に「うまいな~!」と食べたニジマスの味を思い起こすのです。さらに、大きなやかんにキンキンに冷えたカルピスを振舞って下さった加藤さゆり先生の表情も忘れられません。優しい笑顔で「はい。たかおくん」と冷たいカルピスをコップに注いで下さった。今日の「サマーフェスティバル」で食べる流し温麺やソーセージの味を通し、参加した子どもたちの心に「教会学校は楽しくて、美味しい!」と刻まれたら、本当に嬉しく思います。

<「あなたがたに平和があるように」>
クレオパともう一人の弟子も、復活の主イエスとの食事は心が燃えるときとなりました。だからこそ二人は、時を移さずエマオを出発して、エルサレムに戻ったのです。すると、「11人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れた」と語り合っていたので、二人も、エマオの途上での出来事や、パンを裂いて下さった御方が主イエスだと分かった次第を話したのです。そのとき、「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」のです。
新共同訳は「平和があるように」ですが、口語訳は「やすかれ」、柳生直行訳は「安心せよ」、岩波書店訳は「平安〔あれ〕」と訳しております。原語は、 Ειρηνη(エイレーネー)ειρηνη(ヒューミーン)というギリシア語です。直訳すると「あなた方に平和」。つまり新共同訳のように、「あなたがたに平和があるように」との主イエスの祈りと理解することも出来ますが、「あなたがたは平和である」との主イエスの「平和宣言」に思えます。御子が十字架の死と復活によって造り出して下さったものは、神と私たちとの「平和」です。御子の十字架の死と復活の生命なくして、また復活の主イエスへの信仰なくして、私たちに真の平和はないのです。

<真の「平和」と偽りの「平和」>
先週の木曜日の「御言葉と祈りの会」で、エレミヤ書第8章を味わいました。大変に厳しい御言葉がありました。「彼らは、おとめなるわが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに『平和、平和』と言う。(11節)」主イエスによる「あなたがたに平和があるように」を黙想していたとき示された「平和がないのに『平和、平和』と言う」が心に深く刺さりました。
エレミヤは、繁栄を謳歌している宮廷の賢者「律法書記」を痛烈に批判しました。エレミヤは、自分たちの体制の外の政治的危機に無関心なまま「平和、平和」と自己満足に陥っている「律法書記」の態度を欺瞞的と断定したのです。そのような偽りの「平和」に対し、復活の主イエスが宣言される「平和」は、真の平和です。

<キリストはわたしたちの平和>
実はパウロも、エフェソの信徒への手紙で宣言します。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(第2章14~16節)。」
パウロが宣言したように、主イエスは私たちの平和です。やはり、復活の主が弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と宣言されたことで、平和が実現したのです。けれども、弟子たちは復活の主にうろたえ、亡霊(幽霊)と思った。そこで、主は言われました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」

<「どうして心に疑いを起こすのか」>
主は、言葉に加え、弟子たちの目にも訴えて下さった。御子の手と足には、私たちの罪のために、木に打ちつけられた傷跡がそのままある。主の傷跡こそ、たくさんの痛み、悲しみ、苦しみで傷ついた私たちの慰めです。 
私たちの傷の中で、もっとも深い傷は、もしかすると「不信」という傷かもしれません。父なる神を信じられない。子なる神(キリスト)を信じられない。聖霊なる神を信じられない。隣人を信じられない。また自分をも信じられない。そのような不信の傷に覆われている私たちに復活の主は、愛と赦しと憐れみを抱き、こう語って下さるのです。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。確かに今のあなたならうろたえるだろう。今のあなたなら心に疑いを起こすだろう。だって、これまでのあなたの痛み、苦しみ、悲しみ、挫折、嘆きを私は知っているから。だからこそ、私の手と足を見つめて欲しい。他のことが気になるだろう。でも、見なくていい。ただ私の手と足を見つめて欲しい。そうすると感じる。私の愛、赦し、憐れみを。あなたのためにこそ、私は十字架で死んだ。あなたのためにこそ、私は復活した。今、あなたに宣言する。あなたは私の平和に包まれている。あなたは私の平安に包まれている。だから、うろたえる必要はない。心に疑いを起こす必要もない。それでも神を疑い、私を疑い、聖霊を疑い、隣人を疑い、自分を疑うなら、私に触れなさい。亡霊には肉も骨もない。でも、私には肉も骨もある。」
今、私たちの肉の目には、復活の主イエスの手と足は見えません。また、私たちの指で復活の主に触れることもできません。しかし、今、私たちは復活の主の御言葉に触れている。目と耳で、そして今、私たちは聖霊の導きにより、心でも復活の主に触れているのです。
弟子たちは、肉の目で復活の主を見ることが許された。さらに触れることも許された。そのとき弟子たちは、主の復活を喜んだ。けれども、弟子たちの心には疑いがある。喜んでいるが信じられない。目で見ながら不思議がっている。処刑された主が、言葉を発し、手と足に傷跡がありながら、生きておられる。たとえ喜んでも、心の何処かで主の復活を疑うのは当然だと思います。

<ねじ曲がった狂気の頑迷>
スイスの改革者カルヴァンは、38節以下の御言葉をこのように論じます。「キリスト御自身がなお残る若干の疑念を引き受けたもうた。弟子たちが彼を見たのは一度どころではなく、手や足にも触れたのである。彼らの不信は我々の信仰を固くするのに少なからず役立った。」さらにカルヴァンは、復活の主の昇天、パウロがダマスコの途上で復活の主によって回心させられた出来事等を記し、非常に厳しい言葉を続けるのです。「このように多くの権威ある証拠に信を置かないのは、不信仰どころか ねじ曲がった狂気の頑迷である。(ジャン・カルヴァン、『キリスト教綱要』改訳版509頁以下、渡辺信夫訳、新教出版社、2008年)」
カルヴァンは、数々の御言葉に権威ある証拠があるにもかかわらず、復活を信じないのは、不信仰どころか、狂気の頑迷と糾弾する。カルヴァンが、復活を非常に大切にしていることが伝わります。その意味で、御言葉に触れ続けている私たちの復活信仰が揺らぐことがあってはなりません。その上で、御子の十字架の死を目の当たりにし、失意の中にあった弟子たちの真ん中に、復活の主が現れ、いくら手と足に触れさせて頂いても、弟子たちに疑いが残ることはやむを得ないと思うのです。だからこそ、復活の主は言葉を続けられました。「ここに何か食べ物があるか」。

<魚を食べられた主>
復活の主が、空腹を覚えて食べ物を求めたのではありません。そうではなく、言葉を発し、傷跡のある手足を見せ、触れなさいと命じても、まだ疑い、恐れ、おののき、不思議がっている弟子たちに食べる姿を見せ、「私は、共に食卓を囲んでいたイエスである」と伝えて下さったと思うのです。ガリラヤ湖の畔で育った弟子たちにとって、焼いた魚は日常のおかずでした。当然、主イエスも弟子たちと共に焼いた魚を繰り返し召し上がっていたはずです。魚の食べ方の上手な人がおります。骨から身を綺麗にとって食べる。主イエスがどのように召し上がったかはわかりませんが、弟子たちはじっと見つめていたはずです。「主が魚を召し上がっておられる。」「あの召し上がり方は、主に間違いない。」
しかし、まだ弟子たちの心には疑いがあったはずです。実際、来週の御言葉となりますが、弟子たちの心の目が開かれたのは、主イエスが聖書の御言葉について語って下さった後、45節「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とあるように、焼いた魚を召し上がった段階では、まだ弟子たちの心の目は塞がれていたのです。これが私たちの現実です。疑い深い。うろたえる。たとえ、目の前に復活の主がおられ、焼いた魚まで召し上がって下さっても、心の何処かに疑いがある。これが弟子たち、また私たちなのです。

<主を侮り、信じない民>
今朝は、ルカ福音書に加えて、旧約聖書 民数記第14章の御言葉を朗読して頂きました。心に刺さります。11節以下、「主はモーセに言われた。『この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは、疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう。』(11~12節)」
「しるし」とは、モーセが紅海を渡った出来事、また食物(マナ)を与えた奇跡等を意味しますが、そのような「しるし」を示しても、民が神を無視し、侮り続ける。まさに冒頭で触れたエレミヤ書に記された偽りの「律法書記」が神の御心を無視し、平和がないのに、平和、平和と言い続ける姿と重なります。神を信じるとは、神が言われた全てを受け入れ、御心のままに行動すること、すなわち神の約束を信頼し、神の命令に従い続けることです。その意味で旧約の民も、新約の民も神から求められることは同じなのです。

<復活の主に従い続ける>
私たちも、たとえ突然の試練に襲われても、どこまでも神を信頼し、復活と再臨の主イエスに従い続けることが大切です。確かに、私たちは今、肉の目で復活の主を見ることはできません。この指で復活の主の手と足に触れることはできません。また、復活の主が食べている魚を共に食べることもできません。しかし、礼拝後に、復活と再臨のキリストを信じるものが、小さな子どもから信仰を告白し、洗礼を受けた中高生も交え、流し温麺やソーセージ等を楽しむとき、「ああ、今も復活の主が私たちと共に生きて働いておられる」と信じることができるのです。
私も、小学6年の夏に丹沢で食べたニジマスの味は忘れません。あのとき、復活の主が共におられ、ニジマスを召し上がって下さったと信じます。そして、今日の午後も復活の主は教会学校の子どもたちと共に流し温麺を食べて下さる。そして、いつの日か教会学校の子どもたちが「あのとき、復活の主が私と共におられた。そして今も私と共におられる」と信仰告白し、洗礼へ導かれ、主の食卓に与る日を祈り願います。神の家族と共に主の食卓に与るとき、私たちの心から疑いが消え、鮮やかに復活の主の手と足を見ることができるのです。

<祈祷>
父なる神よ、御子の甦りを信じさせて下さい。主よ、様々な疑いを取り去って下さい。亡霊を恐れる心、占いに一喜一憂する心、人を恐れる心をあなた様が滅ぼして下さい。主よ、ただ御言葉を信じさせて下さい。ただ御子の手と足を見つめさせて下さい。愛と望みと信仰とに生きることができますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・西日本豪雨災害、また全国の被災地で愛する人、住まいを喪い、深い嘆きの中にある方々、猛暑の中、避難所での生活を強いられている方々、今も懸命に行方不明者を捜索している方々、ボランティアに従事している方々、被災地の諸教会の上に、聖霊と慰めと祝福を注ぎ続けて下さい。
・熱心に求道生活を続けている方々、洗礼を志願している方々に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に信仰告白、受洗へとお導き下さい。
・猛暑の中、体調を崩され、今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹、礼拝への出席は許されても、心身の疲れをおぼえている方々の上にあなた様の祝福と慰めを注いで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年7月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第18章1節~8節、新約 ルカによる福音書 第24章28節~35節
説教題「主よ、ともに宿りませ」    
讃美歌:546、9、39、359、543       

<「エマオのキリスト」との出会い>
 私は1995年6月10日、母教会である鎌倉雪ノ下教会で結婚しました。当時、私は銀行員。中央線 豊田駅にある日野支店で働いておりました。教会は鎌倉なので、職場と教会に通うべく、町田市にアパートを借りました。しかし、結婚式の直前、浅草支店へ転勤。結婚を10日後に控えての転勤でした。浅草支店に配属された日、支店長室に数名の転勤者と一緒に呼ばれました。支店長の喝が入り、再び、支店長が口を開いたのです。「結婚を控えているのは誰だ」、「はい。私でございます」。すると、支店長は「田村、ちゃんと新婚旅行に行け。仕事は大切。しかし、新婚旅行は一生に一度。新婚旅行をキャンセルしたら、奥さんに死ぬまで恨まれるぞ」と笑顔で命じて下さった。結果、10泊11日という贅沢な新婚旅行が実現したのです。行先はドイツ、スイス、フランス。ハイデルベルク、ジュネーブ等を楽しみ、最後はフランス。妻は、ベルサイユ宮殿を楽しみにしていましたが、私は、ルーブル美術館を楽しみにしていた。お目当ては、レンブラントの『エマオのキリスト』です。 
転勤となり、一度は新婚旅行を諦めましたが、支店長の鶴の一声で新婚旅行が実現。結果、いつか観たいと願っていた『エマオのキリスト』に出会えたのです。私の記憶では、『エマオのキリスト』は誰もいない部屋にひっそりと展示されていました。第一印象は「小さい!」。確認すると、高さ68㎝、横65㎝のほぼ正方形の小さな絵。しかし、本物の力でしょうか?『エマオのキリスト』を通して、復活されたキリストに出会ったような何とも言えないじんわりした気持ちになったのです。そして、「できるなら、この絵の前にずっといたい!」と願ったことを忘れることができません。そして今朝、伝道者として10年目の年に、結婚式の司式を担って下さった加藤常昭先生が座っておられる礼拝で『エマオのキリスト』の御言葉を先週に続けて皆さんに語ることが許され、心より嬉しく思います。

<先へ行こうとされる主>
クレオパともう一人の弟子は、主イエスの死の哀しみに支配されていました。そのため、復活の主が近づかれ、共に歩き始められても、二人の目は遮られ、イエスだと分からず、暗い顔のままでした。そこで御子は、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と嘆き、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されたのです。
三人は、エマオの村に近づきましたが、御子はなおも先へ行こうとされる。私は戸惑いました。あれっ?御子はどんなときも私たちと共に歩んでくださるのではないか?確かに、御言葉に書いてある。「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」。私たちは、「たとえ私たちの目が遮られ、復活の主に気が付かなくとも、主は私たちに近づかれ、共に歩んで下さる」と心に刻んだ。それなのに、「イエスはなおも先へ行こうとされる」と書かれている。私たちは、主イエスの行動をどのように理解したらよいのでしょうか?
実は、今までも主イエスは通り過ぎ、先へ行こうとされたことがあるのです。記憶に新しいのは、ルカ福音書第19章の徴税人ザアカイの物語。4節にこう書いてある。「それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」ザアカイは、主が通り過ぎようとしておられたので木に登った。その結果、主はザアカイに声をかけて下さり、ザアカイに救いが訪れたのです。また、マルコ福音書第6章の湖上を歩く主イエスの物語。48節にこう書いてある。「夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」マルコも通り過ぎようとされた主を記します。この物語も、弟子たちは行動した。いや、行動したというより、湖上を歩かれた主イエスを幽霊だと思い、大声で叫んだ。しかし、主は弟子たちの叫びにより、通り過ぎることなく、すぐに弟子たちと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われたのです。 
ザアカイの物語、湖上を歩く主イエスの物語、そして今朝のエマオの物語に共通するのは、主が私たちを試していることです。ザアカイは木に登り、弟子たちは「幽霊」と叫び、クレオパともう一人の弟子は、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めた。その結果、主は通り過ぎ、先へ行くことをやめられたのです。
私たちの人生でもそのような「時」があります。主が近づいて来て、一緒に歩き始めて下さる。残念ですが、そのときは気がつかない。しかし、主が通り過ぎようとされるとき、「主よ、行かないで!」と叫ぶ。そして、「これからも私と一緒に歩き続けて下さい」と祈り、信仰を告白する。その結果、主は通り過ぎることなく、私たちに宿り、永遠に歩き続けて下さるのです。

<主よ、ともに宿りませ>
 先ほど、讃美歌39番を共に賛美致しました。この讃美歌は、今朝の御言葉「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」から生まれた讃美歌です。賛美しておわかりのように、夕暮れとなり、日も傾いた情景と、人生の黄昏(たそがれ)を重ねております。
 人生の黄昏を迎え、自らの最期を意識するとき、中高生として、漠然とした将来への不安を抱えているとき、さらに求道生活を続けているとき、私たちは日々「主よ、ともに宿りませ」と祈り続けたい。クレオパともう一人の弟子も、先へ行こうとされる主に、「ともに宿りませ」と無理に引き止めた。その結果、主はともに宿るため家に入られ、食事の席に着いて下さった。つまり、神から備えられた「時」にぐずぐずしていると、主は通り過ぎ、先へ行こうとされる。だからこそ、私たちは日々、「主よ、ともに宿りませ」と祈り続けるのです。

<通り過ぎないでください>
さて、ルカ福音書と共に朗読された創世記第18章で、アブラハムも三人の旅人を引き止めました。3節、「お客様、よろしければ、どうか、僕(しもべ)のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来(こ)させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調(ととの)えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕(しもべ)の所の近くをお通りになったのですから。」
ここで、三人の旅人の一人が主なる神と暗示されていますが、アブラハムは、通り過ぎようとされる主に、「ともに宿りませ」と訴える。結果、主は「では、お言葉どおりにしましょう。」と言い、アブラハムの願い通りに、木陰で食事を楽しむことになったのです。さらに主は、アブラハムの妻サラに男の子が生まれると告げ、宣言されました。14節、「主に不可能なことがあろうか」。実際、アブラハム100歳、サラ90歳のとき、息子イサクが誕生したのです。そう考えると、アブラハムがひれ伏して、願わなければ、救いの宣言「主に不可能なことがあろうか」や、イサク誕生の喜びを知ることはなかったのですから、通り過ぎる人を無理にでも引き止めることは大切であると強く感じるのです。
ドイツの神学者ヴェスターマンは、創世記第18章1節から8節の御言葉を「ここでは客人たちの到着、及び彼らへの招待と接待の場面が、名人芸的な筆さばきで描かれる」と評価しています。その上で、1節から3節をなぞります。「見知らぬ人たちは、暑い昼のさなかにやって来る。(中略)彼らは何の前ぶれもなくアブラハムの前に立っていた。(中略)アブラハムは、急いで彼らを招き入れる。彼は彼らの前に身を屈める。彼はその人々が何者であるかを知らない。ことによると彼らは、敬意を表すべき人々であるかもしれないのである。そこで彼は、三人のうちの一人に『わが主よ!』と呼びかける。」
新共同訳は、3節冒頭を「お客様」と訳しております。しかし、口語訳では「わが主よ」と訳している。つまり、アブラハムは身を屈め、「わが主よ!」と引き止めた。その結果、主は「お言葉どおりにしましょう」と木陰での食事を楽しまれたのです。この場面とエマオの食卓が重なります。

<エマオのキリスト>
 ルカ福音書に戻ります。クレオパともう一人は、一緒に歩かれた方が復活の主イエスと知らず、無理に引き止め、共に食事の席に着きました。そこで主が、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」のです。
冒頭で紹介したレンブラントの『エマオのキリスト』は、まさにこの場面が描かれております。ルーブル美術館 公式ウェブサイトには、学芸員による解説が掲載されております。その一部を紹介いたします。「一人の召使いが料理を運んでいるところだが、場面のもっとも重要な点は、眼を天に向かって上げたキリストのしぐさにある。キリストはパンを割く…超自然的な輝きが彼の顔面に光輪を作り出す一方、左側の見えない窓から注がれる一筋の光が、真っ白なテーブルクロスを照らしている。(中略)この瞬間に、二人の弟子はそれがイエスだと分かり、一人は畏敬の念で後ずさり、もう一人は両手を合わせて祈りのしぐさを見せている。胸を打たれるような写実性によって描かれたキリストの顔は、蒼白(そうはく)で苦しげであり、言葉に言い尽くせない苦しみとその死に打ち勝ったばかりであることを想起させる。」
 出来ることなら、レンブラントの『エマオのキリスト』をこの場で御覧頂きたいのですが、本当に素晴らしい絵です。この絵について、青山学院大学経済学部在学時からご指導を頂いている東方敬信先生は、こう論じておられます。「『エマオの晩餐』におけるキリストの超越性は、あたりを圧倒するバロック的なものでなく、静謐(せいひつ)な場面でありながらキリストの眼差しに聖性を感じさせる人間的優しさを持っている。キリストの超越性が人間的優しさを持っているというのは形容矛盾かもしれないが、内的善を重んじているレンブラントの特徴でもある。(海津忠雄、東方敬信、茂牧人、深井智朗著『思想力 絵画から読み解くキリスト教』、2008年、キリスト新聞社、60~61頁)」確かに、食卓の中央に座っておられる復活の御子の表情は蒼白です。しかし、穏やかな表情。まさに死に勝利された直後のキリストの慈愛を感じるのです。二人の弟子は心の底から驚いた。しかし、復活の主と分かった瞬間、御子の姿は見えなくなったのです。

<心が燃えていたではないか>
二人は再び語り合いました。32節、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。そうです。二人の心は燃えていた。そして今も燃えているのです。二人の心の炎は、激しい炎というより、後になって気がつくほどに穏やかな燃え方をする炎です。しかし、この穏やかな炎は、確かな炎です。主が共にいて下さるということは、そのように穏やかな、しかし、一生燃え続ける炎を私たちの心に燃やし続けて下さるのです。
釧路時代、夏の教会学校のキャンプの夕食はジンギスカンでした。まず炭火をおこす。これが大変。時間がかかる。しかし、火が燃え出すと、風を送れば燃え続ける。確かにガスバーナーの火力は強い。けれども、ガスがなくなると火は燃えない。もしかすると、二人の心は、炭火のように燃えていたかもしれません。ガスバーナーの火は一気に燃える、しかし、ガスがなくなると消えてしまう。そのような炎ではなく、主が共にいて聖霊の息を吹き続けてくださる。炭火もうちわをパタパタしていないと燃え方が弱くなる。だから、火の担当は大汗をかいてパタパタするのですが、信仰の炎も、復活の主が「ふ~、ふ~」と聖霊の息を吹き続けてくださることによって、赤々と燃えるのです。やはり、私たちに必要な祈りは、「主よ、ともに宿りませ。主よ、聖霊の息を吹き続けてください」なのです。

<主の食卓に与り続ける>
私たちは主日礼拝、また主の食卓を通して、主が私たちと共に歩いて下さり、聖霊の息を吹き続けて下さる喜びを心に刻み続けます。その喜びは信仰告白し、洗礼を授けられた者にしか味わうことの出来ない喜びです。しかし、主は通り過ぎる御方であることを忘れてはなりません。その行為は、私たちを見捨てることではありません。通り過ぎるとき、主は私たちを試しているのです。新約学者のシュラッターは、「イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」について「イエスは彼らを試したのである。彼らはイエスを行くがままにさせるだろうか、それともイエスのこの奉仕に感謝して、自分たちのところにとどめたいと願うであろうかと」解説しております。なるほどと思いました。本当にその通りです。この姿勢に、主の愛を感じます。私たちに信仰告白を強制することはない。しかし、私たちに近づかれ、共に歩いてくださることに安心して、悔い改めの祈りを怠ると、主は先へ行こうとされるのです。そのとき、「主よ、ともに宿りませ」と無理に引き止めたい。そのとき、主は喜んで私たちと共に宿ってくださる。そして主の食卓を整えて下さる。さらにいつの日か再臨して下さるのです。
今、復活された主は天に昇り、神の右に座っておられます。しかし主は、神の右の座から日々、聖霊を注ぎ、私たちを見守っておられる。その恵みを信じ、聖霊の注ぎを祈り続けるとき、主は私たち一人一人に宿って下さる。その結果、私たちの心は聖霊の息吹によって赤々と燃え続けるのです。どうか今、熱心に求道を続けている皆さん、主を無理に引き止めて頂きたい。そして、「主よ、ともに宿りませ」と祈って欲しい。復活の主は、私たちの祈りを喜んで下さる。だからこそ、聖霊を注ぎ、主の食卓を調えて下さるのです。主の食卓に与ると、暗い顔から聖霊の炎に満たされた喜びの顔へと本当に変えられるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神。どうか、復活と再臨の御子が、我らと共に生きていてくださるとの確信が、その喜びが、私たちキリスト者にとどまらず、この光を今、最も必要とする、世の多くの方々の光となりますよう祈ります。私たちもクレオパともう一人の弟子のように、時を移さず出発し、真の救いを、真の望みを必要としている方々に燃える心を持って御子の復活と再臨の喜びを宣べ伝えることができますよう導いて下さい。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・西日本豪雨災害から一週間が経過しました。NHKの報道によると、昨日の夜7時の段階で、201名の命が奪われ、3名の方々が心肺停止、さらに30名の方々の安否が不明となっております。愛する人、住まい等を喪い、深い嘆きの中にある方々、猛暑の中、避難所での生活を強いられている方々、今も懸命に行方不明者を捜索している方々、ボランティアに従事している方々、被災地の諸教会の上に、聖霊と慰めと祝福を注ぎ続けて下さい。
・熱心に求道生活を続けている方々、洗礼を志願している方々に聖霊を注ぎ、それぞれに相応しい時に信仰告白、受洗へとお導き下さい。
・猛暑の中、体調を崩され、今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹、礼拝への出席は許されても、心身の疲れをおぼえている方々の上にあなた様の祝福と慰めを注いで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年7月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第18章15節~22節、新約 ルカによる福音書 第24章13節~27節
説教題「主と共に歩む喜び」    
讃美歌:546、28、153、Ⅱ-103、542、427       

<エマオへ向かう二人>
 主イエスが復活なさった日、クレオパともう一人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオに向かって歩いていました。1スタディオンは、約185メートル。よって、60スタディオンは11.1キロ。徒歩の場合、1時間で約4キロ進むので、11.1キロだと約3時間。それなりの距離です。
二人は歩きながら、先週の金曜日から今日までの出来事について論じ合っています。「二人は暗い顔をして」と17節にあるよう、主の弟子である二人にとって、主が処刑されたのですから当然です。けれども、主は復活なさった。そのような情報も二人の耳には入っている。しかし、二人は自らの目で復活の主を確認したわけではない。よって、クレオパともう一人の心には処刑された御子の姿が刻まれたまま。そこで、二人の弟子はエルサレムから離れることを決め、二人の生活拠点であったエマオという村へ帰ることにしたのです。

<お互いに語り合う>
このときの二人について、20世紀最大の神学者カール・バルトは、説教でこのように語ります。「われわれはとりわけ一つのことをエマオの弟子たちに倣いたいと思う。それは、われわれを悩ますものについてお互いに語り合うということである。われわれは、彼らがお互いに自分たちの考えを交換し合ったということを聞くが、これは良いことだった。もし彼らが沈黙したなら、もし各々が自分の悲しみを黙ってがまんするだけであったら、その時に彼らの失望は辛いものになった(中略)。われわれの悲しみを、重苦しい、死のような沈黙の中に埋めてはならない。(中略)われわれは語るべきである。そしてそのような状況において、心の中を打ち明けることのできる人をわれわれは探さなければならない。」
1914年に28歳のバルトが、スイスのザーフェンヴィルの教会で語った説教です。「グリーフケア」という言葉があります。「グリーフ」とは、深い悲しみを意味する言葉ですが、身近な人と死別し、悲嘆に暮れる人が、悲しみから立ち直れるようそばにいて支援することを「グリーフケア」と言いますが、同じ悲しみを抱えた者が、それぞれの悲しみを語り合うことで悲しみが和らぐことはあると思います。二人の弟子は、御子が処刑され、埋葬された悲しみを共に語り合い、それぞれの悲しみに寄り添いながらエマオへの道をゆっくりと歩いていたのです。

<近づかれる主イエス>
すると、主イエスが近づいて来て、一緒に歩き始められたのです。暗い顔の二人に、復活の主がスッと近づかれ、共に歩いておられる。しかし、悲しみを抱えている二人の目は遮られ、主イエスだと分からない。激しい悲しみは心の目を塞いでしまう。たとえ、復活の主が憐れみの眼差しを注いで下さっても、主の眼差しを感じることができない。これが悲しみの怖さです。さらに主は、声をかけて下さった。本来なら、「あっ、この声は主イエス」と気がつくべき。もしかすると、主もそのことを期待しておられたかもしれません。けれども、主が「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われても、二人は暗い顔をして立ち止まり、クレオパは復活の主に言葉をぶつけたのです。 

<クレオパの言葉>
「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」主は、努めて冷静に「どんなことですか」と言われました。すると、二人で言ったのです。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
二人の弟子は、声を揃え、主の復活を伝えています。しかし、心は塞がれたまま。言葉では復活を伝えても、心は十字架の死で時が止まっているのです。よって、表情は暗く、途方に暮れ、光が見えない。そこで、主は言われました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」。

<深く嘆いておられる主>
「ああ」と訳された原語は、ギリシア語のω(オゥ)という感嘆詞。まさに「オゥ」と嘆く言葉です。復活の主の感情が高まり、深く嘆いておられるのが伝わります。私は、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」との主の深い嘆きを読んだとき、パウロによるガラテヤの信徒への深い嘆きを思い起こしました。パウロも嘆いた。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか(ガラテヤ3:1)」パウロは、嘆きの前にこう語っています。「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(2:21)」つまり、信仰を告白し、洗礼を受け、キリスト者になったにもかかわらず、信仰でなく、律法によって神との正しい関係を完成しようとする罪を深く嘆いているのです。
「物分かりが悪く」と訳されたのは、ανοητοι(アノエィトイ)とのギリシア語。この形容詞は、「知性的でない、頭の回転がのろい」という意味で、「賢い」と対比される言葉です。主は、二人を深く嘆きました。「あなたがたは、私が処刑されたことを知っている。だから、丁寧に語ることができた。そして今、あなたがたの目の前に復活させられた私がいる。それなのに、なぜ暗い顔をするのか?どうして笑顔になれないのか?本当に、聖書を読んでいますか?聖書を読んでいるなら、預言者の言葉を信じなさい。愚かであって欲しくない。聖霊を求め、祈り続けて欲しい。霊的な洞察力を磨いて欲しい。そうすれば、いつもあなたがたと共にいる『私』を感じることができる。どうか、預言者の言葉と私の復活を信じて欲しい。」
主イエスと同じように、使徒パウロも一所懸命に伝道し、ガラテヤの信徒を与えられた。けれども、信徒たちが信仰ではなく、行いによる義に戻ったので、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と嘆くのです。ガラテヤの信徒を愛するがゆえに、憤ったパウロは、このとき、エマオへの途上の主イエスの嘆きを思い起こしたに違いありません。どちらも、相手への深い愛情を抱くからこその憤りであり、嘆きです。

<聖書全体を説き明かす主>
ガラテヤの信徒だけでなく、現代を生かされている私たちも、預言者たちの言葉、聖書で約束された救いに心が鈍くなることがあります。よって、今朝、私たちはエマオへの途上の物語を、「ああ、そのような出来事があったのですね」と読むのではなく、ルカを通し、復活の主が信仰の鈍い私たちに愛を抱きつつ、語りかけて下さる物語として心に刻みたい。主は、私たちの鈍さを嘆くだけでなく、鈍さを克服して欲しい!と祈り、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体を説き明かしてくださるのです。
主は続けます。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。(24:26)」弟子たちは、主が苦難を経て、栄光に入ることに思いが至らなかった。主の圧倒的な力はわかる。しかし、主が処刑された瞬間、心が塞がれてしまった。たとえ、主の復活を知らされても、立ち直れなかった。二人の弟子にとって、御子が処刑された事実は、非常に大きな痛みなのです。だからこそ主は、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。27節に「説明された」という言葉があります。これは、「通訳する」、「翻訳する」という意味の言葉です。復活の主は、私たちにわかるよう、通訳するように、神の言葉を説き明かしてくださるのです。

<わたしのような預言者>
ところで、ルカ福音書と共に朗読された申命記第18章15節に「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」とあります。「わたしのような預言者」の「わたし」とは、モーセのことです。主なる神は、神と民との間に立ち、民に御言葉を伝える預言者としてモーセを立て、イスラエルの民を導きました。預言者とは、神の言葉を預かり、民に伝える者です。つまり、預言者に聞き従うことが神に聞き従うことになる。預言者によって語られる神の言葉を信じ、聞き従うことによって、イスラエルは神の民として歩むことができる、と申命記は教えるのです。
その上で、私たちキリスト者は、申命記 第18章15節「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」の「わたしのような預言者」を、主イエスと信じるのです。主イエスこそ、神と私たちの間に立ち、私たちに神の言葉を伝える御方、私たちが聞き従わなければならない御方なのです。

<主と共に歩む喜び>
長い人生の旅路では、試練に襲われ、暗い顔の日もあります。しかし、復活の主イエスは、そのような私たちに近づいてくださり、共に歩み始めて下さる。しかも、主イエス自ら、真の預言者として御言葉を説き明かして下さる。本当に有難いことです。私たちキリスト者も、愛する者との別れ、悲しみ、悩み、痛み、また日々の様々な報道に心が乱れることもある。しかし、どんなときも主は、私たちと共に歩んで下さる。そのとき、私たちの暗い心も、主によって慰めを与えられ、勇気を与えられるのです。共に、御言葉に耳を傾け続けたい。それも同じ痛み、同じ悩み、同じ悲しみを抱えている神の家族と共に。
私たちは、復活の主によって結び合わされた神の家族です。家族ですから、それぞれの悲しみ、悩み、痛み、苦しみを語り合い、共に嘆き、共に涙を流し、共に祈り合うことが出来るはずです。私たちがお互いの悲しみを共有し、祈るとき、今も生きて働いておられる復活の主が私たちに近づいてくださり、共に歩み、共に祈って下さると信じたい。そのとき、暗い顔をしていた私たちも真の喜びに包まれるのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・大雨による被害が各地で発生しております。堤防が決壊、土砂が崩れ、午前7時の段階で、51名の命が失われ、46名の安否が不明となっております。厳しい自然災害により、困難な生活を強いられている方々、愛する人を喪い、嘆きの中にある方々に聖霊と慰めを注ぎ続けて下さい。
・熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、いつの日か信仰を告白し、洗礼を受け、共に聖餐の恵みに与ることができますようお導き下さい。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年7月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第16篇1節~11節、新約 ルカによる福音書 第24章1節~12節
説教題「思い起こせ、主の復活を」    
讃美歌:546、82、152、21-81、303、541    

<復活を信じられない?>
今から10年前の春、私と家族は最初の任地、春採教会に遣わされました。期待と不安の中、桜が開花した横浜から自家用車で東北道を北上。深夜、雪の八戸からフェリーで北の大地へ。早朝に苫小牧に到着、東に向けて走り続ける。釧路に到着したのは夜6時頃でした。役員の姉妹が手料理でもてなして下さり、それから向かったのは春採湖の正面にある民宿でした。驚いたのは、湖が凍結していたことです。しかし、それ以上に驚いたのは、民宿のご主人である教会員の率直な呟きでした。「牧師さん、私は復活だけはどうしても信じられない」。 
赴任直後のバタバタも落ち着き、教会員の訪問を開始。最初に訪問したのは、引っ越しの荷物が到着するまで宿泊した民宿を経営するご夫妻でした。二人は、教会設立時からの教会員であり、役員として教会、幼稚園を支えて下さった。豪快なご主人でしたが、真顔で「復活だけはどうしても信じられない」と呟かれたのです。今でもあのときの何とも言えない思いを忘れることができません。

<ある者はあざわらい、ある者は>
今日は第一主日、共にニケア信条を告白しました。最後に「わたしたちは、死人のよみがえりと、来るべき世の命を待ち望みます」と告白しました。第一主日はニケア信条、それ以外の主日は使徒信条を通して「身体のよみがえり、とこしえの命を信ず」と告白し続ける。私たちキリスト者は、復活と永遠の生命を信じる者です。しかし、全ての人が復活を信じることは、なかなか難しい。
使徒言行録第17章に、パウロがアテネで説教した記事があります。初めは、パウロの言葉に耳を傾けていた知識人たちも、パウロが復活を語り始めると、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらう」と言って、帰ってしまったのです。「いずれまた聞く」は、体の良い断わり文句。実際には、「二度と聞かない」という意味。復活を語る言葉は、「たわけた話」、「くだらない話」となるのです。
私たちキリスト者も、主の復活を語ることを、遠慮してしまうことがある。クリスマスの喜び、十字架の赦しは喜んで語る。けれども、御子の復活はつい遠慮してしまうことがある。しかし、復活を避けるなら、キリスト者とは言えない。だからこそ、輝く衣を着た二人の人が言った「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」を信じ、語り続けることは、非常に重要なのです。

<途方に暮れる婦人たち>
さて、婦人たちは、安息日には掟に従って休みました。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行ったのです。婦人たちの望みは、御子のご遺体に触れ、香料を塗ること。つまり、婦人たちの望みは、復活ではなかった。だからこそ、石が墓のわきに転がされ、墓の中に入っても、主イエスのご遺体が見当たらないと、途方に暮れてしまったのです。

<「復活」とは>
ところで、私たちキリスト者は「復活」をどう理解すればよいのでしょうか?今年3月に発行された『新キリスト教組織神学事典(東京神学大学神学会[編])』の「復活」の項目で、神代真砂実教授がこう記しております。「復活は心理的・精神的なものにすぎないのではなく、身体を持つものだということである。復活において人間の存在は全体として刷新される。そこには魂や理性や精神などといった内面的なものだけでなく、外的なもの、つまり、身体も含まれる」。
ポイントは、「復活は身体を持つ」。つまり、身体は朽ちるが、霊は天に向かうと考えてはなりません。主の復活は霊だけでなく、身体を含む復活なのです。しかし、婦人たちの頭には「身体を持つ復活」がない。よって、途方に暮れたのです。4節で「途方に暮れている」と訳されたのは、απορεισθαι(アポレイッサイ)というギリシア語で、当惑する、悩む、どうしたら良いか分からない、疑い迷っているという意味の言葉です。

<あの方は、復活なさったのだ>
私たちも、愛する人が召され、葬りが終わると、途方に暮れ、当惑し、悩み、どうしたら良いか分からなくなり、心が病んでしまう。その結果、「愛する人がいないなら、生きている意味がない。私も死んで、あの人のところに行きたい」と本気で考えてしまう。もしかすると、婦人たちもそのように考えたかもしれません。そこで神は、輝く衣を着た二人の人を婦人たちに遣わしたのです。
二人は言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
 7節に、「人の子は必ず」とあります。「必ず」と訳された原語は、δει(デイ)。「必要である」という意味の言葉ですが、実は、神の意志を表わす言葉なのです。つまり御子は、神の意志によって、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活させられたのです。

<思い出した婦人たち>
さて、婦人たちはどうしたでしょう?聖書に書いてある通り、「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」のです。思い出したと言っても、ただ記憶が甦るとは違う。もっと積極的な意味がある。「思い出した」というよりも、「思い当たる」に近い。「あの日、主が言われたのは、今朝の出来事なのか!本当に主は甦られた。主の預言が実現したのだ!」と素直に納得したのです。
実際、主はエルサレム入城の前、目の不自由な人を癒し、徴税人ザアカイを回心へと導きましたが、エリコに近づく前、十二人を呼び寄せて言われました。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。(18:31~33)」十二人はこれらのことが何も分からなかった。しかし、彼らの周りには婦人たちがいたはず。だからこそ、主の言葉に思い当たり、納得した。結果、途方に暮れていたにもかかわらず、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせたのです。

<婦人たちを信じない使徒たち>
しかし、使徒たちの態度は冷たい。使徒たちは、婦人たちの証言をたわ言のように思われ、信じなかったのです。「たわ言」と訳された原語は、ληρος(レィロス)というギリシア語ですが、様々に訳すことが出来ます。口語訳は、「愚かな話」と訳し、他の聖書は「空っぽの話」、「くだらない話」と訳します。つまり、使徒たちは婦人たちの証言を妄想と決めつけたのです。ギリシアの都アテネでパウロが御子の復活を説教したにもかかわらず、「二度と聞かない」という態度をとった知識人の姿と重なります。
ルカは、弟子たちに馬鹿にされた婦人たちの名前を記します。「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア」。マグダラのマリアは、主と出会う前は七つもの悪霊に取りつかれていた婦人です。悪霊に支配されていた。よって、人々と交わることが困難。皆がマリアを避け、近づこうとしない。けれども、主は違った。皆が避けるマリアに近づいてくださった。結果、マリアは自分を取り戻していったのです。主がマリアを深く憐れみ、大胆に近づかれ、愛してくださった。マリアにとって、主は唯一の救い主であり、希望であり、人生の全てであったことは間違いありません。そのような主が、十字架で処刑され、肉体が朽ちていく。耐えられない苦しみです。それこそ、「主がおられないのなら、私も死にます。だって、あの人がいないなら、生きていても何の喜びもない。七つもの悪霊に苦しんだ日々に戻ってしまうなら、早く死にたい!」と本気で考えたかもしれません。しかし、輝く衣を着た二人の人の言葉を通して、主の言葉を思い起こした。その瞬間、マリアは主の復活を語ろう!と決心したはずです。ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちの中で、マグダラのマリアが心を込めて、主の復活を証言したと思うのです。
しかし、使徒たちは馬鹿にしている。「マリア、悪霊に取りつかれたのか。頭を冷やしなさい。そうしないと、本当に悪霊に取りつかれるぞ」。マリアは悲しくなったはずです。共に生活していた使徒たち。主イエスのように大切に仕えた使徒たち。それなのに、私を馬鹿にし、主の復活を信じない。マリアは使徒たちから馬鹿にされればされるほど、語り続けたはずです。たとえ罵られ、馬鹿にされても、「信じて下さい。輝く衣を着た二人が『あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ』と言われたのです。私は、復活を信じます」。
マリアが繰り返し語っても、使徒たちは信じません。しかし、ペトロだけは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰ったのです。
 
<ペトロのように>
 ところで、週報に記載されているように、今月22日の礼拝後、教会学校のサマーフェスティバルが行われます。駐車場で流しそうめんを楽しみ、お腹が満たされた後、礼拝をまもり、聖書を学ぶ。今回のテーマは、ずばり「ペトロ」。教師会で決めたのは、ペトロの出来事をすごろくにし、サイコロを振りつつ、ペトロの生涯を心に刻むことにしました。今朝の御言葉は、すごろくの最後の方になると思いますが、印象的な場面です。婦人たちの証言を馬鹿にした使徒たち。その中にペトロもいます。しかし、ペトロはマグダラのマリアの悲しい瞳を通し、マリアの声に耳を傾けなかったことを後悔したはずです。その結果、ペトロは立ち上がって墓へ走った。到着すると、証言通り、亜麻布しかない。その瞬間、主の復活を確信したなら、まだかっこいい。しかし、ルカはそうは書かない。「この出来事に驚きながら家に帰った」と書くのです。やはり、主の愛弟子ペトロですら、空の墓を確認しても、復活を信じることは難しかった。ペトロは、復活の主に出会って頂くまで徹底的に信仰の弱さを味わい続けた。でも、それがペトロの力となり、生涯、主の十字架と復活、そして再臨の約束を語り続けたのです。

<聖餐によって説教が救われる>
 只今から聖餐の恵みに与ります。毎月、皆さんと共に聖餐の祝いに与るとき、心から感謝するのですが、今朝は特に、聖餐の恵みを深く思える。実は、先週の火曜日の午後、加藤常昭先生が主宰しておられる説教塾 読書会が国分寺教会で行われ、私も出席させて頂きました。コツコツと読んでいるのは加藤先生の著書『説教論』ですが、先週は第一章 説教の神学的基礎 五「説教と聖餐」を学んだのです。その中で、慰めに満ちた言葉に出会いました。「説教がどんなに正しい教えを述べてみても、何事も起こらないような空しさの中に立つときに、これを救うのは、この聖餐の現実である。キリストは、その約束の言葉を通じて、パンとぶどう酒と共にご自身を私どものものとしてくださり、われわれの身体性の中にまで、恵みの交わりにあずからしめ、ご自身が救いの現実であることを示してくださるのである。(122頁)」
一言で纏めると、「聖餐によって説教が救われる」と先生は解説して下さいました。「なるほど」と思いました。聖餐の現実が説教を救う。主の十字架と復活の喜び、また再臨の約束を語り続けても、現実の世には争いがあり、自然災害があり、愛する人の死がある。そのとき、説教がどんなに正しい教えを述べてみても、何事も起こらない空しさに説教者も説教の聞き手も襲われる。しかし、その空しさを聖餐のパンとぶどうの杯が救うのです。なぜなら、聖餐の恵みに与るとき、私たちの身体の中にまで、復活のキリストが入ってくださるから。
その瞬間、復活の主が永遠に私たち、また全世界の諸教会と共に生き続けてくださることを目と口と心で味わう。そのとき、私たちもペトロのように立ち上がり、永遠の生命に向かって走り続けることができるのです。どんなときも、御子の復活を忘れないでいたい。試練のときこそ、悲しみのときこそ、復活を思い起こしたい。熱心に求道生活を続けている皆さんがいつの日か信仰告白し、洗礼と聖餐の恵みに与って頂きたい。心から願います。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神。今、御子が復活された事実を信じることができます。共に励まし合いながら、御子の復活を信じ、この世の闘いの中で愛に生きることができるよう導いて下さい。私たちに与えられた賜物を感謝し、日々、復活の喜びに生きることができるよう導いて下さい。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・梅雨が明けました。これから猛暑の日々が続きます。どうか私たちの心身の健康をお守り下さい。特に、大阪府北部地震、集中豪雨、竜巻等の自然災害により、困難な生活を強いられている方々、愛する人を喪い、嘆きの中にある方々に復活と再臨の主の慰めを注ぎ続けて下さい。
・22日は、教会学校サマーフェスティバルを開きます。多くの子どもたちと共に礼拝をまもり、ペトロの生涯を学ぶことができますようお導き下さい。
・熱心に求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、いつの日か信仰を告白し、洗礼を受け、共に聖餐の恵みに与ることができますようお導き下さい。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年6月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第21章22節~23節、新約 ルカによる福音書 第23章50節~56節
説教題「望みの墓」    
讃美歌:546、11、280、502、540     

<半年で三回の葬儀>
 6月第4の主日となりました。早いもので、主の年2018年も半分が経過したことになります。この半年、東村山教会では三人の兄弟姉妹の葬儀を執り行いました。ご遺族から「召されました」と連絡が入る。祈りつつ、ご遺体が安置されている場所に駆け付ける。すると、共に礼拝をまもっていた教会員が目を閉じておられる。その瞬間、永遠の生命を信じていても、やはり動揺し、様々な思いが込み上げる。だからこそ、大きな声で祈る。「主よ、この祈りから始まる葬りの業を終わりまで導いてください。主よ、厳しい悲しみの中にあるご遺族お一人お一人に復活と再臨の主の慰めを溢れるほどに注いでください」。
今朝、私たちに与えられたルカ福音書にも、厳しい悲しみに襲われたヨセフと婦人たちが登場します。

<善良な正しい人、ヨセフ>
ヨセフは、最高法院の議員でした。しかし、同僚の決議や行動には同意しなかったのです。ルカは、ヨセフについて「ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた」と記します。アリマタヤは、ユダヤ地方とガリラヤ地方の境にある小さな町ですが、アリマタヤのヨセフが「神の国を待ち望んでいた」のです。神の国を待ち望んでいたということは、ヨセフは信仰深い男であることは間違いありません。実際、ヨハネ福音書に「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。(19:38)」とあります。ヨセフは、主の弟子であることを最高法院では隠していたのです。ルカは、ヨセフを「善良な正しい人」と高く評価しております。善良ですから、全ての人に誠実に接し、憐れみ溢れる態度を心掛けていたと思います。しかし、そのように願っても議員という肩書に負ける日もあったはずです。だからこそ、神の国を待ち望み、いつの日か神の支配が成就すると信じ、可能な限りの正義と優しさに生きようとしたのです。
ヨセフについて、福音書記者マタイは「金持ち」、マルコは「身分の高い議員」と記しております。つまり、金銭的に余裕があった。実は、主イエスの埋葬者になるには条件があります。まず、総督ピラトに交渉することが出来る地位が求められる。ヨセフは「身分の高い議員」ですから最適。そのヨセフが、日没と同時に始まる安息日の直前に、「主のご遺体を十字架から降ろし、用意した新しい墓に納めたい!」と、ピラトに願い出たのです。主の十字架刑に責任を持つピラトにとって、ヨセフは「身分の高い議員」ですから断る理由もなく、主のご遺体の引き取りを委ねることになりました。

<木にかけられた死体>
ここで確認したいのは、遺体を十字架から降ろすときの掟のことです。主のご遺体の埋葬は急いで行われました。本来、遺体を埋葬する場合、香料と香油を塗ってから、布に包んで埋葬します。けれども、主の埋葬においては香料と香油を塗ることができませんでした。理由は、安息日が始まる直前だったからです。主は、午後3時頃に息を引き取られました。ユダヤの暦では一日は日没から始まります。つまり、主が息を引き取られてから、翌日の安息日が始まるまでの間は、午後3時から日没までの僅かな時間しかなかったのです。安息日が始まってしまうと、埋葬等の仕事をすることができません。しかも、今朝の旧約聖書の御言葉、申命記の掟「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない」もある。ヨセフは安息日の掟と、木にかけられた死体への掟を厳守するべく、急いでピラトと交渉し、正式に許可を得て、愛する主を十字架から降ろし、亜麻布で包み、心を込めて真新しい墓の中に埋葬したのです。

<ウェイデンの「十字架降下」>
ところで、主イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、主の埋葬に立ち会っておりました。今朝の説教準備で、日本聖書協会発行の『アートバイブル』を開きました。『アートバイブル』には御言葉と共にいくつもの絵画がカラーで印刷されていますが、「十字架から降ろされる」、「イエスへの哀悼(あいとう)」、「埋葬されるイエス」のページを開きました。その中で、特に心に響いたのは、初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「十字架降下」でした。1435年頃に描かれ、スペインのプラド美術館が所蔵しております。詳細な解説は控えますが、十字架から降ろされた主のご遺体を抱えている二人の男性はヨセフとニコデモ。主の腕は広げられたまま硬直し、足の甲には釘跡から流れる真っ赤な血潮が描かれております。そのような主イエスを中心に、左に紫の衣を身に着けている婦人が崩れ落ちています。気絶した母マリアです。何と、母マリアも御子と同じように両腕を広げ、十字架で磔にされているようです。また右端には、目を開き、無表情に手を組み、うなだれているマグダラのマリアが描かれております。視線の先は、主の足の甲があります。
ウェイデンが克明に描いたように、婦人たちは、御子の死を目の当たりにし、これまで一度も経験したことのない喪失感に襲われ、その場に崩れ、手を組み、泣き続けました。しかし、いつまでも座り続けていることはできません。婦人たちも安息日の掟を知っている。婦人たちはヨセフの後について行き、墓と、主のご遺体が納められている有様とを見届け、家に帰り、安息日があける週の初めの日の本格的な埋葬に備え、香料と香油を準備したのです。
改めて確認したいのですが、主イエスの十字架の死は金曜日の出来事であり、復活は三日目の日曜日の出来事です。その間の土曜日のことが、56節後半に書かれています。「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」。実は、安息日のことが記されているのは四つの福音書でルカだけです。ルカは、婦人たちの信仰を丁寧に記しているように思えます。婦人たちは、主の十字架の死を遠くから見つめています。さらに、主のご遺体がヨセフに渡され、墓に納められるまで見届けました。婦人たちは安息日の一日を、御子の死を悼み、祈り続けた。そのとき、婦人たちの心を支配したのは、暗闇だったはずです。「主は死なれ、埋葬された。大きな石で塞がれた墓も暗闇が支配している。私を愛し、慰めてくれた主が、暗闇の中で横たわっている。そう考えただけで涙が止まらない」。そのような婦人たちの心を支えたのは、安息日があけ、週の初めの日の明け方早く、墓に行き、主のご遺体に香料と香油を塗り、心を込めて葬ることでした。

<陰府(よみ)にくだり>
ところで、今朝の礼拝でも「使徒信条」を告白しました。その中で、「死にて葬られ、陰府にくだり」と告白しましたが、「死にて葬られ」は、ヨセフによる埋葬、「陰府にくだり」は、安息日の主イエスを告白する言葉です。婦人たちが泣き崩れていたとき、主は墓でじっと横になっていたのではなく、陰府にまでくだられたのです。
主の「陰府くだり」を、もしかすると私たちキリスト者も疎かにしているのかもしれません。主は十字架で死なれ、三日目の朝、復活されました。十字架の死と復活はすぐに頭に浮かびます。同時に、主の「陰府くだり」を忘れてはなりません。つまり主は、十字架の死から復活にいきなりジャンプしたのではなく、十字架の死の金曜日から、「陰府くだり」の土曜日を経て、復活の日曜日を迎えたのです。
陰府とは、死んだ人の行く所です。加藤常昭先生は陰府について、ある日の説教でこう語っておられます。「陰府というのは闇であります。光がないのです。この場合の光とは何か。神の光です、神のいのちです。神と結びついたところから出て来る望みです。その望みの光の射していないところであります。」
先生は、「陰府は、望みの光の射していないところ」と定義しておられます。十字架で父なる神から見捨てられた御子が、神の光からシャットアウトされた暗闇である陰府にまでくだられた。その陰府から、主は復活させられました。この恵みを心に刻むとき、私たちは、復活の喜びに加え、主の「陰府くだり」の希望、慰めを与えられるのです。
御子が死んだ人の行くところ、望みの光からシャットアウトされたところにくだられた。誰も行きたくない死の暗闇にまでくだられたのです。あくまでも仮の話ですが、御子が陰府を避け、死から復活へと一気にジャンプされたら、復活の喜びは半減したかもしれません。しかし、ジャンプすることなく、陰府にくだられた。そして、復活により、すべての死に完全に勝利されたのです。

<『ハイデルベルク信仰問答』より>
 ここで、『ハイデルベルク信仰問答』を味わいたい。問44「何故、その次に、『陰府にくだり』、と書いてあるのですか。」答「わたしが、自分の最もはげしい試みの中にも、わたしの主キリストが、十字架およびそれ以前に、その魂において、苦しまれた、いい難い、憂い、苦痛、恐れによって、わたしを、地獄の不安と苦しみから、救って下さったことを、確信するためであります。(竹森満佐一訳)」。御子の「いい難い、憂い、苦痛、恐れによって」、私たちの「地獄の不安と苦しみ」からの救いが実現した。その事実を、「最もはげしい試みの中にも」確信し続けるために、御子の「陰府くだり」を「使徒信条」を通して、告白し続けるのです。                                                                                                        

<望みの墓>
 婦人たちにとって、安息日の土曜日は暗闇の一日でした。主イエスを愛し、ガリラヤからエルサレムまで一緒にやって来た婦人たちが、主の十字架の死を嘆き悲しむのは当然です。私たちも、愛する者が召されると、激しい喪失感に襲われます。そのような私たちも、いつの日か必ず死を迎え、陰府にくだる。しかし、主イエスはそのすべてを経験され、すべてに勝利されたのです。
私たちの希望は、御子の復活と再臨の約束です。同時に主の「陰府くだり」も希望となる。主が死から復活へジャンプすることなく、陰府にまでくだり、陰府から復活されたことが私たちの慰めであり、喜びであり、希望なのです。
私も、釧路そして東村山で納骨式を執り行う。墓の蓋を閉めた直後、何とも言えない気持ちになります。先ほどまで、明るい部屋に骨壺を安置していた。しかし、納骨式が終わると、墓の中に骨壺が納められる。想像しただけで涙が溢れます。しかし、そのような墓にこそ望みがある。なぜか?主は墓におられない。おられないどころか、陰府にまでくだられた。神の光が届かない暗闇である陰府に、真の光を届けてくださった。さらに御子は、日曜日の朝、眩しい光を輝かせ、すべての死に勝利し、復活させられたのです。そのとき、嘆きの墓は望みの墓へ、悲しみの涙は喜びの涙へと変えられるのです。

<祈祷>
父なる御神、御子の復活の望みを、主の十字架の死と「陰府くだり」に感謝しつつ、心に刻むことが許され、深く感謝いたします。私たちに与えられた地上の生命と永遠の生命を、日々、感謝することができますよう導いてください。愛する者を喪い、深い嘆きの中にあるお一人お一人に復活と再臨の主の慰めが溢れるほどに注がれますように、主のみ名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・大阪府北部地震、また直後の大雨により、困難な生活を強いられている方々、愛する者を亡くし、嘆きの中にある方々に復活と再臨の主の慰めを注ぎ続けて下さい。
・礼拝後は、「バザー準備会」を行います。今年度のバザーも皆で力を合わせ、主のご栄光のために喜んで奉仕し、実施することが出来ますようお導き下さい。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年6月17日 日本基督教団 東村山教会 春の特別伝道礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第35章3節~10節、新約 マルコによる福音書 第2章1節~12節
説教題「突き破る愛」    
讃美歌:546、6、249、333、539    

<ようこそ、東村山教会へ>
 今朝、神様から私たちに与えられたのは、主イエスによって中風の人の罪が赦され、床を担いで家に帰った物語となりました。この物語は、マルコによる福音書が書かれた頃の初代教会において、深く愛され、多くの人々が繰り返し語り、繰り返し耳を傾けた物語と言われております。私たちも小さな頃の記憶がよみがえります。大好きな絵本がある。結末もわかっています。それなのに、「ママ、絵本読んで!」とお気に入りの絵本をねだる。ママも、「またこの絵本?」と苦笑いしつつ、繰り返し絵本を読み聴かせる。私たちが心を躍らせる物語は、繰り返し語り、繰り返し聴いても、そのたびに驚き、嬉しくなり、慰められる物語かもしれません。つまり、今朝の物語は、初めて教会にいらした方は当然ですが、繰り返しこの物語に耳を傾けている皆さんにとっても、心を躍らせる物語なのです。

<主イエスの定宿>
 1節に、主イエスが「家におられることが知れ渡り」とあります。ガリラヤ湖の北西岸にある町カファルナウムに主イエスが「ご自分の家」と定めていた家がありました。主イエスが定宿(じょうやど)とされた家ですから、親しい関係にある人の家に違いありません。カファルナウムの人々にとって、「あの家に行けば主イエスに会える。説教を伺える」ことは、大きな喜びであり、慰めであったはずです。だからこそ、主イエスが伝道の旅に出かけ、僅か数日でも、家におられないと、何とも不安になるのです。そこに、主が帰って来られた。今か今かと主イエスの帰りを待っていた人々はワーッと一斉に主イエスの定宿を訪ねた。人々は、主イエスが語る御言葉に熱心に耳を傾けたのです。

<「御言葉」とは>
 2節に「イエスが御言葉を語っておられると」とあります。「御言葉」と訳された原語には定冠詞がついています。つまり「御言葉」というより、主イエスがどこに行ってもお話しなさる「あの話」という意味の言葉です。では、「あの話」とは、どの話でしょうか?主イエスが宣べ伝えた神の福音です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(1:14~15)」。これが、主イエスによる「あの話」です。主がどこに行っても語るのは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」なのです。
 
<「神の国」とは>
 ここで、確認しておきたい言葉があります。「神の国」という言葉です。「国」と訳された原語は「バシレイア」というギリシア語ですが、王「バシレウス」という言葉の派生語で、王の支配、統治という意味があります。つまり、「神の国」とは、真の王である神の支配、統治という意味なのです。主イエスが繰り返し語るのは、こういうことです。「すでに、神のご支配が始まっている、神の国が間近に来ている、だから、罪を悔い改めて福音を信じなさい」なのです。

<四人の男と中風の人>
 主イエスが定宿にしている家に戻り、いつものように「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」を語っていると、とんでもない音が家の屋根から響きました。「ベリベリベリ、バリバリバリ」。主イエスの説教に耳を傾けていた人々の視線が一斉に屋根に注がれた。すると、屋根がはがされ、そこから病人の寝ている床がつり降ろされたのです。たとえ、パレスチナの家の屋根の修復は比較的容易だったとしても、いきなり人様の家の屋根をはがし、穴をあけ、そこから病人の寝ている床をつり降ろす行為は決して許されません。
主イエスが定宿にしていた家は、もしかすると主イエスが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう(1:17)」と最初に声をかけたガリラヤの漁師シモンの家かもしれません。シモンの家なら、質素な家でしょう。当然、家の中から戸口の辺りまで人が溢れ、家の外にも大勢の人が集まっていたはずです。想像して頂きたいのですが、主イエスは家の中ではなく、戸口に立ち、外にいる人々に向かって語っていたと思います。そうしないと、外にいる人々には何も聴こえないからです。
「ベリベリベリ、バリバリバリ」。熱心に語っていた主イエスは凄まじい音に驚き、一斉に天上に注がれた群衆の視線に二度驚き、さらに振り返ると、天上から病人の寝ている床がつり降ろされたことで三度驚いたのです。
なぜ、屋根がはがされたのでしょう?四人の男が中風の人を何としても癒したかったからです。3節に「中風の人」とありますが、脳卒中とは限りません。元の原語は、「体が動かない人」という意味の言葉です。体が麻痺しているから、主に癒して頂きたい!しかし、一人ではどうすることもできない。そこで四人の男が(中風の人の子どもたち、あるいは友人でしょうか)、中風で苦しむ人の願いを叶えてあげよう!と集まり、中風の人を運んで来たのです。
しかし、群衆に阻まれ、主イエスに癒して頂くどころか、主のもとに連れて行くことすらできない。四人は考えた。「何としても病を癒してあげたい。よし、乱暴だが、階段を上がり、屋根に上ろう。そして、主イエスが語っておられる戸口の近くの屋根をはがし、穴をあけよう」と決めた。そして、屋根をはがし、穴をあけ、主のもとに病人の寝ている床をつり降ろしたのです。

<子よ、あなたの罪は赦される>
常識で判断すれば、これはやりすぎです。確かに、中風の人を助けたい!という気持ちは評価できます。しかし、あまりにも乱暴。それこそ現代であれば、ネットに動画が投稿され、閲覧した人々から「あまりにも身勝手、有り得ない!」と叩かれるはずです。けれども、主イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。
 主イエスは、中風の人に「子よ」と言われました。主イエスの子ですから、中風の人は主の家族とされたのです。中風の人は、四人の男に、寝ている床をつり降ろされただけ。それなのに、「子よ」と呼ばれ、主の家族とされた。驚きます。さらに、もっと驚くのは「あなたの罪は赦される」との罪の赦しの宣言です。「あなたの病は癒される」でなく「あなたの罪は赦される」と罪の赦しを宣言されたのです。現場にいた人々は屋根がはがれ、穴があき、床がつり降ろされたことで驚き、続けて主が怒ることなく、「子よ、あなたの罪は赦される」と告げたことに心の底からびっくりしたのです。
 
<因果応報の否定>
 ここで、気をつけたいのは、主イエスは中風の人の病は「罪の結果」と告知しているのではないということです。実際、他の福音書にはこのようなことが書かれております。生まれながら目の不自由であった人を、人々が「誰の罪でこうなったのですか?」と主イエスに問うた時、主は「誰の罪の結果でもない」と明確にお答えになられたのです。つまり主イエスは、因果応報の理解を断ち切る。主はここで病と罪の関係を語っているのではありません。そうではなく、誰にでもある根源的な罪を問うておられるのです。だからこそ、中風の人に罪の赦しを宣言なさった。「子よ、あなたの罪は赦される」。主イエスは、中風で苦しむ人をさらに痛めつけるために罪を指摘しているのではありません。その反対。「子よ」と呼びかけ、その上ですぐに「あなたが苦しみ続けた罪の重荷を私が解放する。私はあなたの罪を完全に赦す」と宣言されたのです。確かに、屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした四人の男の信仰は激しい。しかし、それ以上に主は、激しい愛をもって中風の人の罪を打ち砕き、苦しみ続けた罪の殻、閉じこもっている心の殻を突き破って下さったのです。中風の人は諦めていました。「中風で苦しみ、自由に動けないのは、罪のせいだ。運命と諦め、死を待とう」。けれども、主イエスは中風の人を諦めない。諦めるどころか、「十字架で処刑されても、中風の人、いやすべての人の罪を赦すため、私は世に遣わされたのだ」。

<律法学者の考え>
 ところが、主イエスによる罪の赦しの宣言を許せない律法学者が数人座って、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」主は、彼らが心の中で考えていることを、霊の力ですぐに知って言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」すると、その人は起き上がり、床を担いで、皆の見ている前を出て行きました。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を高らかに賛美したのです。

<イザヤ書 第35章より>
 今朝は、新約聖書マルコによる福音書と共に、旧約聖書イザヤ書第35章の御言葉に耳を傾けました。神の言葉を預かった預言者イザヤによって記されたのがイザヤ書です。第35章にこう書いてあります。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。(5~6)」これは、イザヤが神から預かった言葉です。この御言葉の情景が、マルコ福音書第2章12節と重なります。「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。」そうです。中風の人が、主の「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」によって、鹿のように踊り上がった。つまり、主イエスによる罪の赦しの宣言によって、イザヤの預言が成就したのです。

<突き破る愛>
 今朝、初めて教会にいらした皆さんも、もしかすると、何らかの罪の重荷で苦しんでおられるかもしれません。心では、こうするべきと考えていながら、そのようにできない。子育てもこのようにすべきと考えながら、実践できない。両親の介護も丁寧に行いたいと願いつつ、現実的には仕事もあり、思うようにならない。そのとき、私たちは罪の重荷に苦しみ、「こんな私が神から愛されるはずがない」と本気で思ってしまう。その意味で私たちは中風で苦しむことはないかもしれませんが、心の殻を閉ざし、中風の人のように寝たきりの病人になってしまうのです。しかし、主イエスは今朝、そのような私たちにこそ、罪の赦しを宣言してくださる。「あなたの罪は赦される」。しかも、「子よ」と呼びかけてくださる。そのとき、罪の重荷は解き放たれ、起き上がり、床を担いで、真の希望、真の喜びへと突き進むことが許されるのです。
 今朝、初めて教会にいらした皆さん、驚くべきことですが、信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者は、一人の例外もなく罪を赦されました。そのような罪の赦し、また永遠の生命が、悔い改めて福音を信じることによって、初めて教会にいらした皆さんにも約束されているのです。
神は、すべての人を愛しておられます。神の愛は、私たちの愛とは違います。私たちは自分にとって都合の良い人は愛します。しかし、都合が悪くなれば、その愛は冷めてしまう。けれども、神の愛は違う。優等生だから愛し、劣等生だから愛さないではない。むしろ、罪人だからこそ、神は私たちに真の救い主イエス・キリストをプレゼントしてくださり、最後は、十字架で私たちの罪を赦すために、主イエスの肉を裂き、血潮を流された。その結果、父なる神と私たち罪人の和解の道が開かれたのです。
主イエスは語ります。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(2:17)」。罪である私たちが、主イエスに「子よ」と呼ばれ、神の国へ招かれた。それほどまで私たちは神に愛され、大事にされているのです。主イエスこそ、激しく、十字架へと突き進まれた。そのような主イエスの激しさにくらべれば、屋上に人を引っ張りあげ、屋根に穴をあけ、床をつり降ろした行為はかわいいものかもしれません。私たちも、罪を突き破る神の愛にどっぷりと浸かりたい。そのとき、私たちも起き上がり、鹿のように踊り上がることができるのです。
<祈祷>
 父なる御神、主イエス・キリストの地上の日々が、どんなに豊かで、しかもどんなに激しいものであったか、今ここに新たに思い起こすものであります。私たちも今、主の御言葉と、主の御業の中に、全身を浸す信仰に生きることができますように。私たちもまた健やかな思いで、自ら横になっていた罪の床を払い、立って、父である神に子として帰ることができる喜びを知ることができますように。自らの罪を深く覚えている私たちを顧みてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・今朝、初めて教会にいらした方々にこれからも聖霊を注ぎ、御心なら教会に通い続けることができますようお導き下さい。
・日々、痛ましいニュースが報道されております。どうか、悲しみの中にある方々、嘆きの中にある方々を慰め、励まして下さい。
・礼拝後は壮年会、婦人会が予定されております。どうか良き交わりのとき、良き学びのとき、そして良き祈りのときとなりますようお導き下さい。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年6月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第31篇1節~7節、新約 ルカによる福音書 第23章44節~49節
説教題「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」    
讃美歌:546、16、Ⅱ-16、361、545B、Ⅱ-167  

<復活から御子の死を捉える>
今朝は、主イエスが十字架で息を引き取られた場面をご一緒に味わいます。私たちが、今朝の御言葉を読むとき、忘れてならないことがあります。それは、十字架のキリストは、三日目にお甦りになったという事実です。
私たちは、御子の受難から十字架の死、そして復活を考えます。もちろん、その通り。けれども、復活から御子の死を捉えることが大切なのです。つまり、復活抜きで御子の死を考えると真の意味で御子の死を捉えることが難しくなる。下手をすると、「イエス様は可哀相」と考える。そうではなく、御子は私たちの罪の故に十字架で死なれた。その結果、御子は私たちの罪、私たちの死に勝利してくださった。そのとき、「イエス様は可哀相」と同情することはあり得ない。むしろ、「主よ、我らを憐れみたまえ。日々、聖霊を注ぎ続けて下さい。私は、あなたを真の救い主と信じ、洗礼を受けました。その瞬間、私の罪は赦されたと信じます。また永遠の生命も約束されたと信じます」との祈りへ導かれるのです。早速、ご一緒に御言葉を読んでまいりましょう。

<太陽は光を失っていた>
44節。「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。」太陽が光を失いました。人々が、「世の光」である主イエスを処刑したからです。それゆえ、世は光を失うことになった。そのとき、闇が光に勝ったように感じる。しかし、聖書の告げる真理は、敗北ではない。その証拠に、闇が支配した時、かえって恐れが人々の心を支配したのです。嘲笑(ちょうしょう)、軽蔑の声も消えた。ただ黒一色が全面を覆ったのです。 
旧約聖書アモス書第8章には、御子の死の場面がアモスによって預言されています。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに/喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え/どの腰にも粗布をまとわせ/どの頭(あたま)の髪の毛も そり落とさせ/独り子を亡くしたような悲しみを与え/その最期を苦悩に満ちた日とする(8:9〜10)。」
アモスの預言が的中しました。私たちの罪の贖いのために独り子が処刑され、罪の闇が全地を支配したのです。そのとき、人々は、自分の罪に気づきはじめました。「主イエスが、十字架で処刑されたのは、私の罪のためであった。私が、私の罪を負うことはできない。何も悪いことをしていない独り子が、私の罪を負われたのだ」。私たちには誰にも言えない闇があります。私たちは、己の闇を見るに堪えません。私たちの闇の極みが、独り子の十字架による処刑なのです。
先週も痛ましい事件が続きました。5歳の女の子が虐待され、衰弱死した。秋葉原での無差別殺傷事件から先週の金曜日で10年を迎えた。そして昨夜は東海道新幹線の車中で無差別殺人があり、22歳の男性が逮捕された。動機は、「むしゃくしゃしていた。誰でもよかった」という理由のようです。私も明日から全国連合長老会の会議が北陸金沢であるので明日、明後日と新幹線を利用します。車中で本を読みたいと思っていますが、そのような空間で無差別殺人が起きてしまったのです。言葉もありません。

<神殿の垂れ幕が裂けた>
45節後半に「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」とあります。「垂れ幕」とは神殿の「聖所」と最も奥にある「至聖所」を隔てる幕のことです。神殿の幕が真ん中から裂けたことは、神が十字架の主イエスを通してご自身を現した、しかも神の民イスラエルだけでなく、異邦人にも現したことを意味するのです。つまり神は、御子の死によって全ての人の罪を赦し、全ての人の神になろうとしておられる。至聖所に至る神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたことによって、全ての民が罪の赦しへと招かれたのです。

<父よ、わたしの霊を御手にゆだねます>
その瞬間、主イエスは、大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取りました。主イエスの最期の祈りは、今朝、ルカ福音書と共に朗読して頂いた詩編第31篇6節「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」と同じです。これはユダヤの人々が愛した、夕べの祈りの言葉です。一日のわざを終えるとき、この詩篇の御言葉をもって祈りとしたのです。
特に、主イエスが息を引き取られたのは午後3時。これは、夕べの祈りの時。夕べの祈りの時は、一日の終わりの時である。それはまた新しい時への備えを意味します。午後3時に夕べの祈りは早いと思うはずです。しかし、ユダヤの人々は、日が暮れると新しい一日が始まると考えたのです。
 主イエスの十字架と復活、また再臨を信じる私たちも、夕べの祈り、就寝前の祈りで、詩篇第31篇6節「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」と祈ることは大切です。寝ている間に何がおきてもおかしくない時代。だからこそ、父なる神をどこまでも信頼し、主よ、と呼び、わたしの霊を御手にゆだねます、と日々祈り続けるのです。

<本当に、この人は正しい人だった>
主イエスは、最期まで父なる神を信頼し、祈り続けた。だからこそ、最期の祈りが百人隊長の心にズシンと飛び込みました。百人隊長、つまり主イエスを十字架につけた当事者が、「『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」のです。
 百人隊長は、十字架の下にずっといて、主イエスの祈りを聞き、主イエスと犯罪者たちとの対話を聞き、主イエスの最期の祈りを聞きました。その全てを通して、主イエスが与えようとしている「救い」は、この世の罪を赦すことにあると知った。そして、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美したのです。
 主イエスが罪人の中の罪人として、十字架で処刑されることに神のご意志があり、父なる神のご意志に御子主イエスが従う。罪を犯したことのない御子が、罪人の罪を背負って十字架で死ぬ。その理不尽さに、神の「正しさ」があり、主イエスはその正しさに従順になった。そこに主イエスの「正しさ」があるのです。

<胸を打ちながら帰って行った>
 続く48節に「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。」とあります。「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた群衆です。彼らは、主イエスの十字架の死を見物に来たはずです。「世間を騒がせたイエスが、十字架で殺される。当然の結果だ!」と自らの罪を棚に上げ、主イエスの十字架の死を眺めている。
しかし、主イエスを裁いていた群衆が主イエスの最期を目撃したことにより、自らの罪を認め、悔い改めざるを得なくなった。このまま主イエスの十字架を傍観していられなくなった。主イエスの十字架が他人事でなくなった。だからこそ、罪を認め、悔い改め、胸を打ちながら帰って行ったのです。
 私たちも同じ。群衆の一人として、皆でワーワーと叫んでいるときは自らの罪を自覚しなくても良いのかもしれません。けれども、群衆が解散し、一人に戻るとき、神から見捨てられたにもかかわらず、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と神を父と呼び、神にすべてをゆだねますと祈った御子の祈りに打ち砕かれ、私たちも胸を打ちながら神の懐へと帰る者となるのです。

<婦人たちの見守り>
 百人隊長に続いて登場するのは、「イエスを知っていたすべての人たち」と、「ガリラヤから従ってきた婦人たち」。人たちは、「遠くに立って、これらのことを見て」いた。誰も、主イエスのために何かをした訳でも、出来た訳でもありません。でも、婦人たちは、主イエスの埋葬や復活の証人となるのです。弟子たちではなく、婦人たちが用いられる。御子の十字架の死と埋葬、そして復活の証人は婦人たちなのです。

<今、光は見えないが>
 御子の十字架の死、厳粛な場面です。けれども、復活の光が備えられていることは間違いありません。私たちの世は、主イエスの時代も現在も全地は暗く、太陽は光を失っているように思える。しかし、先週の木曜日の御言葉と祈りの会で共に学んだヨブ記にはこう書いてある。「今、光は見えないが/それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと/北から黄金の光が射し/恐るべき輝きが神を包むだろう。(37:21〜22)」これは、神に対し、これでもかとありったけの不満を吐き出し続けたヨブに対し、神のために弁明した若者エリフの言葉です。
 私は先週、エリフの言葉に出会えたことを主に感謝しました。先週、今朝のルカ福音書の御言葉を黙想し、月曜日のT姉妹の葬儀を終え、さらに数人の兄弟姉妹との面談を終え、私は感じたのです。確かに、今は救いの光が見えないかもしれない。なぜ、私ばかりこんな経験をしなければならないのか!と思うかもしれない。けれども、御子は十字架で執り成しの祈りを祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」さらに、最期に祈られた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」ならば、私たちも祈ってよい。「父よ、わたしにも父と呼ばせてください。主イエスがわたしのためにも死んでくださったのですね。どうか、いつの日か復活の光で私を抱き締めてください。どうか、再臨の約束を信じさせてください。十字架の死の先にある、黄金の光、恐るべき輝きで私をも包んでください。」
 今、不安の中にある方々、悲しみの中にある方々、犯した罪に縛られている方々が、御子の十字架の死に差し込む復活の光に包まれ、少しでも力が抜け、本当の意味で、すべてを神に委ね、安心して地上での生涯を、インマヌエルの主イエス・キリストと共に歩んでいくことができるよう祈ります。

(祈祷)
御子を甦らせたあなたが、その御子の死を私たちのためと、明確に告げていてくださることを心から信ずることができますように。闇の中に深く立たれた主イエスが、既に甦りの光をそこでともし、死の力も、またもはや闇の力ではないことを、また信じる者にとっては父の名を呼ぶ、よき機会であることすら教えてくださいますことを感謝いたします。やがて、どんなに長生きをしている者も、死の闇を迎えます。しかし、その闇がもはや闇ではないことを、主の光の中で知り続けていくことができますように。それゆえに、今望みをもって、あなたを賛美することができますように。教会を、どうぞ、甦りの勝利を信じ、それ故に、愛の苦しみの十字架を担い続け得る集団として、あなた様がいつも導いてくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・先週の月曜日、T姉妹の葬儀を執り行うことが許されました。主よ、悲しみの中にあるご遺族を復活の光で包んでください。お願いいたします。
・悲しい事件が続きます。悲しみの中にある方々に復活の主の慰めを祈ります。
・来週は春の特別伝道礼拝を予定しております。どうか闇が支配しているような世でさまよっている方々をあなた様が教会へと招き、平安と慰めを注いでくださいますよう祈ります。
・今朝の奏楽はアメリカから一時国されたS姉妹が担っております。今、オルガニストの姉妹方は、月に一度の奉仕を担い、葬儀でも奉仕しておられます。主よ、どうかオルガニストの姉妹方を祝福してください。そして、御心ならば奏楽を担われる兄弟姉妹をさらにお与えください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年6月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第51章1節~3節、新約 ルカによる福音書 第23章39節~43節
説教題「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」    
讃美歌:546、54、Ⅱ−15、Ⅱ−1、334、545A

<二人の犯罪人>
主イエスは、人々によって十字架につけられました。二人の犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけられました。二人は主イエスの祈り「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」を、主のもっとも近くで聞いたのです。
 福音書記者ルカは、二人の犯罪人の名を記していません。書いてあるのは、人生の最期に発した言葉のみ。ルカはあえて名を記さなかったかもしれません。なぜか?神は私たちに「あなたはどちらの罪人として最期の言葉を発するか?あなたは御子をののしって死ぬか?それとも、罪を認め、回心し、御子に罪の赦しを求めるか?」と問いかけているようです。
 実際、二人の最期の言葉は対照的です。一人は、最期の言葉にもかかわらず、主イエスに対し、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と発した。非常に残念な言葉です。もしも、次のように発したら、彼も楽園に行けたはずです。「あなたはメシアではないか。メシア、キリストなら、私の罪を赦して欲しい。私はどうしようもない罪人。しかし、悔い改めます。主よ、あなたと、私たち罪人を救ってください。」
 それに対し、もう一人の犯罪人は主イエスの祈り「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」に衝撃を覚えたはずです。今まで一度も聞いたことのない祈り。「父よ」に主イエスこそ、真の救い主!と確信したと思うのです。だからこそ、主に畏れを抱き、もう一人の犯罪人をたしなめたのです。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
その上で、この犯罪人は人生の最期に信仰を告白することができたのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。主イエスは、私たちのすべてをご存じです。どのように生まれ、どのように育ち、どのような人生を歩んできたのか。私たちはすぐに判断します。「ああ、ついていない人生だ」とか、「ああ、何て私はダメな人間なのか」と。確かに、周囲の人々と比較すると、そのように感じることは否定できません。そのような感情は中学生や高校生であっても感じるはずです。しかし、真の神であり、真の人である主イエスは、私たちを諦めることはないのです。それも、人生の最期まで期待して待っておられる。何を期待しておられるのでしょう?そうです。己の罪を認め、犯した罪を悔い改め、真の救い主である主イエスに罪の赦しを祈り求めることです。さらに期待しているのは、主の十字架による罪の赦し、主の復活による永遠の生命、また主の再臨を信じて、信仰を告白し、洗礼を受け、聖餐の恵みに与る日を本気で期待しておられるのです。

<今日わたしと一緒に楽園にいる>
犯罪人の回心、また信仰告白を最後まで待ち続けた主イエスは、宣言されました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。原文に忠実に翻訳すると、こうなります。「アーメン、心からあなたに伝えます。今日わたしと共に楽園、パラダイスにあなたはいる」。驚くべき救いの約束です。十字架の主イエスは、犯罪人の祈りに、喜んで、すぐに応えてくださるのです。 
「楽園」と訳されたπαραδεισω(パラデイソゥ)という原語は新約聖書で三回しか使われない言葉です。今朝のルカ福音書第23章43節、コリント信徒への手紙二第12章4節、そしてヨハネ黙示録第2章7節のみです。いずれも地上を越えた世界を示しますが、ヨハネ黙示録第2章7節は、「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」とあります。罪を認め、回心し、悔い改めを祈り、信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者は、一人の例外もなく、罪の私が死に、勝利者キリストと結び合わされた者となる。そういう人間は、創世記第2章にある神の楽園で命の木から食べるようになり、永遠の生命が約束される聖餐の食卓に与る者となるのです。

<荒れ地を主の園に>
今朝はルカ福音書に加え、イザヤ書第51章1節から3節を朗読して頂きました。改めて、朗読いたします。「わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ。あなたたちの父アブラハム/あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び/彼を祝福して子孫を増やした。主はシオンを慰め/そのすべての廃墟を慰め/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。」
3節に「主はシオンを慰め」とあります。「シオン」とは、エルサレムを指します。イザヤの預言を耳にしていたのはエルサレムにいた人々です。彼らは、廃墟を目の当たりにしました。バビロン軍によりエルサレムの都も神殿も破壊されたのです。その結果、南王国ユダは滅び、主だった人々はバビロンに連行され捕囚となったのです。それから約五十年を経て、バビロニアからペルシャの時代へと移り変わりました。ペルシャの王キュロスは勅令を発布し、捕囚民がエルサレムに帰還し、都(みやこ)の再建を許可したのです。その時を待ち望んでいた人々は、希望に胸を膨らませエルサレムへと帰ったのです。しかし、 彼らを待っていたのは、崩れ落ちた城壁、瓦礫の山。彼らは荒れ野、荒れ地としか言えない現実に、言葉を失うのです。そこで神は、預言者イザヤを通し、慰めの言葉を語りました。「わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ。あなたたちの父アブラハム/あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び/彼を祝福して子孫を増やした。」
神はなぜ信仰の父アブラハムとサラに目を注げと命じたのでしょう。創世記第17章にあるように、アブラハムは笑って、ひそかに言ったのです。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。(17:17)」。しかし、神は約束通りサラを顧み、彼女は身ごもり、アブラハム百歳のとき、ついに息子イサクが生まれたのです。神はイザヤを通し、「この二人に目を注げ」と命じるのです。神が私たちに期待しているのは、人間の可能性でなく、どこまでも神を信頼すること。私たちの目で判断し、地上の死で生命の終わりのように思えても、神にとっては終わりではない。地上の死を、永遠の生命へと大転換することのできる神を信じることなのです。「主はシオンを慰め/そのすべての廃墟を慰め/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」のです。
<T姉妹逝去>
電話連絡網、また週報にも記載したように、先週の水曜の夜、東村山教会で二番目に高齢であった百歳のT姉妹が逝去されました。ちょうど午前に5月の問安委員会を行い、T姉妹の容態を確認、祈りを合わせた日の夜、全ての痛み、苦しみから解放され、T姉妹は天に凱旋されたのです。 
今日の夜6時からお身内だけで前夜棺前祈祷会、明日の午後1時から葬儀となり、T姉妹の御遺体は明日の夕刻には火葬され骨になる。御遺族の皆さま、また共に礼拝、祈祷会を守り続けた私たちも深い悲しみに包まれることは否定できません。けれども、復活と再臨の主イエスが十字架の上で約束された言葉を今朝、私たちは心に刻んだのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」 
そうです。すでにT姉妹は、復活の主イエスと共に楽園で安らかに憩っておられるのです。明日の葬儀ではT姉妹の百年の生涯のほんの一部を紹介させて頂きますが、まさに波乱万丈の生涯でした。やはり戦争を経験している方々の歩みは突然のことの連続だったと思うのです。「こんなはずでは」の繰り返しだったかもしれません。しかし、T姉妹も悔い改めの祈りを大切にしてこられた。私は、僅か3年間の交わりでしたが、それでも、私が祈ったあとに必ずT姉妹も祈ってくださったのですが、どちらが牧師なのかわからないほど、「ああ、悔い改めの祈りとは、このような祈りなのだな」と毎回、教えられました。己の弱さ、罪を徹底的に味わい尽くした姉妹。だからこそ、罪の赦し、永遠の生命を本気で信じ、本気で感謝しておられた。入所しておられた施設に伺いますと、「礼拝に行きたい」といつも訴えておられました。それほど教会、礼拝を愛しておられた。私たちの罪のために十字架で執り成しの祈りを祈り、死をもって罪を赦してくださった御子に本気で感謝し、十字架で流してくださった血潮、裂いてくださった肉である聖餐の恵みに与ることを本気で喜んでおられた。そして今、すべての痛み、苦しみから解放され、真の楽園である御国へと凱旋されたことを私たちキリスト者は、心から喜んで良いのです。
主イエスは、荒れ野でさまよい続ける私たちを赦すために、十字架で死なれました。しかし、死で終わりではなかった。三日目の朝 父なる神によって復活させられたことで、全ての死に完全に勝利してくださったのです。そして今も、私たち一人一人と共に生きてくださるのです。 
只今から聖餐の恵みに与ります。出来るなら、せめてもう一度、T姉妹と共にこの礼拝堂で聖餐の恵みに与りたかった。けれども主は、私たちの願いをはるかに超えたところで生きて働いておられる。主が定めた「時」として先週の水曜の夜、T姉妹の地上での生涯は全うされたのです。
皆さんと一緒に与る聖餐の恵み、本当に感謝です。聖餐の恵みに与るとき、私たちは荒れ地のような地上で生活しながら、楽園の前味を味わうのかもしれません。今朝も礼拝をまもっている皆さんの中に残念ながら聖餐の恵みに与ることのできない方々がおられます。信仰告白、洗礼も神の「時」があります。どうか、熱心に求道生活を続けている皆さんが、心から自らの罪を悔い改め、素直に、十字架と復活、そして再臨の主イエスに「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。御心なら、『信じます。信仰のない私をお救いください』との祈りを受け入れ、信仰告白から受洗へと導いてください。そして、罪の私にも、いや、罪の私だからこそ聖餐の恵みに与らせてください。私にも楽園での永遠の生命を約束してください」との祈りへと導かれますよう、心より願います。  

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・T姉妹の御遺族の上に復活と再臨の主の慰めを注ぎ続けてください。今夕の前夜棺前祈祷会、明日の葬儀を終わりまで導いてください。
・手術をなさられた兄弟姉妹、療養を続けている兄弟姉妹、また献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・熱心に求道生活を続けている兄弟姉妹がいつの日か信仰告白、受洗の決意が与えられるよう聖霊を注ぎ続けてください。お願いいたします。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年5月27日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第42章1節~4節、新約 ルカによる福音書 第23章32節~38節
説教題「神に選ばれた者なら」    
讃美歌:546、26、68、324、544  

<主イエスの祈り>
 主イエスは、重い十字架を背負い、ついに「されこうべ」と呼ばれている所に到着しました。主イエスのほかにも、死刑にされるために、二人の犯罪人もおります。人々は主イエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけたのです。そのとき、主の唇が動きました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(34節)」
 主イエスは十字架から、罪の赦しを祈っておられます。「赦す」と訳された原語には、「解き放つ」という意味があります。何から解き放つのでしょう?罪の重荷からです。皆さんも色々な重荷を抱えていると思います。その中でも深刻な重荷は、「なぜ、あのとき、あんなことをしてしまったのか」と自らの罪を悔いる重荷かもしれません。確かに、それぞれの重荷は厳しいものです。しかし、究極的な重荷は、主イエスを処刑した重荷ではないでしょうか。主は、自らの十字架刑を執行した私たちの罪を赦すために祈り、十字架の死によって私たちを罪の重荷から完全に解放して下さったのです。

<記者会見を通して>
 先週は、いくつもの記者会見が開かれました。皆さんも、テレビやネットのニュースを通し、謝罪会見を御覧になったと思います。色々なことを私も感じました。まだ二十歳の青年があれだけの報道陣の前で謝罪会見を開いた。大変なことです。翌日は大学の記者会見も開かれた。質問を繰り返す記者に、謝罪する側がイライラしていることは私たちにも伝わりました。いずれにしても、罪を糾弾することは大切なことではありますが、今回も感じたのは、私もあの現場にいたなら、彼のようにタックルをしたかもしれない、あるいは、絶大な力を持っている監督の指示なら、高校時代から指導している部員に監督の指示を伝え、相手を潰せ!と命じてしまうかもしれないという思いが与えられたのです。つまり、主イエスと一緒に死刑にされる犯罪人の一人や、くじを引いて、主イエスの服をワイワイと分け合った人々、さらに、「自分を救うがよい」とあざ笑った議員たち、また主イエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、「自分を救ってみろ」と罵り、主の頭の上に、「これはユダヤ人の王」と書いた札を掲げた兵士たちの一人、議員たちの一人に、私もなり得ると本気で感じたのです。
 大企業に14年半勤務していた私は、企業の論理に縛られていたことを否定できません。どう考えても、これはまずいかなと思うことがあっても、法律的に問題なければ、成果のために、上司から怒鳴られないよう、それこそ必死でライバル銀行を潰しにタックルしたこともありました。結果は、私の力不足でライバル銀行を潰すことはほとんどできませんでした。反対に、ライバル銀行から私はボコボコに潰されていたのかもしれません。しかし、だからと言って、私の罪が軽くなることはない。本当に、これはさすがにまずいと思うことも、潰せ!と命じられれば、「こうしたら、こうなるかもしれない」という想像力もなくなり、上司の指示に従い、タックルしていたことを思い起こしたのです。あのときの状況を思い起こすだけで今でも、あのお客様には二度と会うことはできない。あった瞬間にお客さまから怒鳴られ、「あなたが強引に売りつけた外貨預金、投資信託、投資型年金、すべてマイナスになった。どうしてくれる!」と怒鳴られるように感じるのです。まさに今もサラリーマン時代の呪縛がある。
 もちろん、牧師、園長として働き続けた釧路での6年、4年目を歩んでいる東村山での日々も、自分でもあのとき、何で、あのようなことを語ったのか、何で、あのようなことをしたのかということはそれなりにあるのです。よって、主イエスの十字架の上からの「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」は、まさに私のための祈りであり、間違いなく、ここにおられるすべての皆さんのための執り成しの祈りなのです。
 私たちも、苦しみの中で祈ります。しかし、その祈りは、苦しみから逃れることに集中する。それに対し、主イエスの祈りは、苦しみから逃れる祈りではなく、苦しみを背負い、私たちを罪の重荷から解放する祈りとなるのです。
私たちは、他者の罪を徹底的に非難します。記者会見を観ればわかります。しかし、主イエスは十字架の上で他者の罪を赦すのです。自らは非難されても。
そのような、赦しの主が父に祈る。「自分が何をしているのか知らないのです。」 
 主イエスの赦しは、「まあ、何でもいいよ!」という赦しではありません。主の赦しは、真の赦し。真の赦しは、罪を認識させることから生まれるのです。何をしているのか知らない私たちに、何をしているのかわかるようにされる。私たちは、罪を犯したことのない主が十字架で処刑された事実を通し、罪の私を知ることになるのです。罪の現実がわからないと、真の悔い改めの先にある、罪の赦しの喜びを味わうことは難しいのです。

<選ばれた者なら>
 主イエスが十字架の上で祈っている間、罪の現実を知らない人々は、くじを引いて、主イエスの服を分け合っています。その様子を民衆は立って見つめている。どのような思いで見つめているのか、色々と想像ができます。見つめていた民衆の中には、胸を打ち叩き、悔い改めの祈りを祈っていた人もいたはずです。しかし、主イエスの死を止めることはできませんでした。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。(35節)」
 「選ばれた者なら」とあります。「選ばれた者」という言葉は、今朝の旧約聖書イザヤ書第42章の御言葉を反映したものです。改めて、第42章1節を朗読いたします。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」「選び」という言葉が出てまいります。神に選ばれた者。福音書記者ルカは、イザヤ書第42章を意識し、議員たちのあざ笑いの中に「選ばれた者なら」を用いたに違いありません。なぜルカは、預言者イザヤの言葉をあざ笑いの中で用いたのでしょう?
イザヤ書第42章は、ユダヤの人々にとって忘れられない屈辱の体験である強国バビロンに征服され、主だった者が捕らえられ、バビロニアに連行されたときに語り出された苦難の僕の歌です。神が選ばれた僕です。その僕に、神の民の救い、解放、更には、私たちの解放のわざが託される。いわば、僕として仕えつつ、神の真理による支配の道を拓く王の到来の預言がなされたのです。神は、そのような王を自由に選びます。私たちが真の王を決めるのではない。主イエスは真の王として、神に選ばれた者として、僕になる自由、死刑になる自由、罪人に数えられる自由を貫かれたのです。そのような真の王が、私たちの王となってくださった。だからこそ、私たちも主の僕として歩み続けることができるのです。
 ところで、「選ばれた者」(εκλεκτος エクレクトス)という原語は、ルカ福音書には、今朝の御言葉を含めて二回しか登場しません。もう一回は、第18章の主イエスの譬話に登場します。やもめと、神など畏れない裁判官が登場します。その裁判官の所に、やもめがひっきりなしにやって来ては「自分のために裁判をしてくれ」と言うのです。裁判官は正義感からでも何でもなく、やもめを黙らせるために裁判を開きます。そこで主イエスはこう言うのです。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。(18:7~8)」
 主イエスは、神は「速やかに裁いてくださる」と言われます。つまり今です。今、救ってくださるのです。主イエスの十字架の「救い」は、この世の「救い」とは次元が違います。主イエスの十字架による救いは、「自分が何をしているのか知らない」私たちへの赦しであり、救いなのです。そのような赦し、救いを約束された私たちは、強制されてではなく、十字架のもとに立ち、「主よ、憐れみたまえ」と繰り返し胸を叩くしかないのです。そのとき、私たちの罪は赦され、神の愛を強烈に感じ、喜びの涙が溢れるのです。今週も、悔い改めの祈りを共に祈りつつ、主イエスの執り成しの祈りに導かれ、罪を悔い改めつつ、人を裁く言葉ではなく、人を立て上げる言葉を語ることができるよう祈ります。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・S兄、S姉御夫妻が一時帰国されました。10ヶ月の米国での生活が守られたことを感謝いたします。日本滞在中もどうぞお守りください。
・手術をなさられた兄弟姉妹、療養を続けている兄弟姉妹、献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年5月20日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第10章1節~8節、新約 ルカによる福音書 第23章26節~31節
説教題「十字架を背負い、涙を流せ」    
讃美歌:546、2、181、21-81、270、543  

<聖霊降臨の喜び>
 主イエスの弟子たちが聖霊に満たされた日の朝、ペトロは立ち上がり、声を張り上げ、説教したのです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。(使徒言行録2:38〜39)」
 ペトロは、悔い改めと主イエスの名による洗礼を勧めたのです。その結果、ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどがキリスト者の仲間に加わったのです。
 ペトロが説教したよう、聖霊は私たちにも注がれています。実際、三千人の受洗者は難しいですが、昨日はM兄弟が、今日はY姉妹が洗礼を受け、東村山教会に連なる神の家族に加えられました。M兄弟とY姉妹も、賜物として聖霊を受けております。聖霊だけではありません。M兄弟は聖餐の恵みに与り、Y姉妹もこの後、聖餐の恵みに与るのです。

<十字架を背負う>
 昨日は、M兄弟も聖餐の食卓に与り、とても嬉しそうでした。今年の2月8日に初めて病院に問安してからお声を伺ったことがありませんでしたが、昨日の洗礼式、聖餐式を終えた直後、大きな声で、「つかれた」と言葉を発したのです。ほとんどの時間をベッドに横になり首から点滴を受けておられるM兄弟ですから、洗礼式と聖餐式の間、車椅子に座り続けることは大変だったと思います。しかも、直前までリハビリを頑張っていたのですから、「つかれた」は当然です。けれども、聖霊を受け、御子が十字架で裂かれた肉であるパンと流された血潮である杯に与ったM兄弟は、「つかれた」とは反対に非常に満足した表情だったのです。
私たちには背負うべき十字架が与えられております。あまりの重さに肩から骨まで食い込み、一歩も前に進むことの出来ない十字架を背負わされることがある。M兄弟も檜風呂職人としてがっちりした身体だったにもかかわらず、今はほとんどの時間をベッドで横になり、首から点滴を受けている。その姿が十字架を背負っているようです。皆さんもそれぞれ、十字架を背負っています。「あのとき、ああすべきだった」とご自分を責め続けている方もおられるかもしれません。その意味で皆さんも、重い十字架を背負っているのです。実は、今朝のルカ福音書にも突然、十字架を背負わされた男が登場します。キレネ人シモンです。

<キレネ人シモン>
キレネ人であるシモンは、北アフリカから過越の祭りに出てきたユダヤ教に改宗した男かもしれません。人々は、主イエスが背負うべき十字架をシモンに背負わせ、ヨロヨロと今にも倒れそうな主イエスの後ろから運ばせたのです。シモンは十字架の見物人の一人でした。けれども、突然の指名によって、主と同じ十字架を背負うことになった。その結果、シモンの人生は大きく変化したことは間違いないと思います。シモンは、突然の試練に襲われたことによって、十字架の救いを信じる者になったはずです。
神は、理由なしに試練を与えることがあります。試練に襲われると、私たちは何らかの理由を見つけようとし、その理由によって自分を納得させようとします。けれども、その理由がどうしても見つからないときがある。そのとき、私たちは自分を責めてしまう。もしかするとシモンも十字架を背負っている間、「何でキレネ人の、ただの通行人の私が十字架を背負わなければならないのか」と繰り返し問い続けていたかもしれません。その結果、「あのとき、こっちの道を選んでしまった俺が馬鹿だった」と後悔し、自分を指名したローマ兵を恨むより、自分を責め続けたかもしれないのです。しかし、シモンは背負い続けた十字架こそ、主イエスの招きであり、罪の赦しであり、永遠の生命に至る恵みであると、後から気がついたと思うのです。

<エルサレムの娘たち>
 続く27節に入ると、嘆き悲しむ婦人たちが登場します。婦人たちは、いわゆる「泣き女」だったようです。悲しいことがあると、おいおい、わあわあと嘆き悲しんで見せながら、それを商売とする泣き女たちがいた。葬儀があればそこに行って涙を流して、報酬を得た。そのような泣き女が主イエスに従ったようです。しかし、ここで大切なのは主イエスの言葉です。主は、婦人たちの方を振り向いて言いました。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」主は裁判で、沈黙しました。群衆が「十字架につけろ」と叫び続けても、沈黙しました。そのような主が、遂に口を開かれた。十字架の死を目前に語られた私たちへの遺言のようです。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」忘れてはならない重要な言葉です。主イエスは、わたしのために泣くな。自分たちのために泣きなさいと語っておられる。つまり主は、「十字架への道を歩む私への同情の涙、泣き女の涙はいらない。そうではなく、悔い改めの涙、悲しみ、嘆き、痛みへの涙をしっかりと流して欲しい、本気で嘆いて欲しい、本気で祈って欲しい」と願っているのです。さらに主は続ける。29節「人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。」

<母の涙>
 先週の水曜日、5月16日の東京新聞の一面の見出しは、「なぜ」ガザ悲痛イスラエル軍と衝突 死者60人とありました。そこには表情を無くした母親が白い布にくるまれた乳児の遺体を抱いている写真がカラーで掲載されておりました。記事はこうです。「在イスラエル大使館をエルサレムに移転した米国に抗議する大規模デモで2014年以来最悪の被害を生んだガザ地区では15日、各地で葬儀が営まれ、悲しみと怒りに包まれた。犠牲者の一人は生後八カ月の女の子ライラちゃんだった。繰り返されるデモと、それを抑え込むイスラエル軍の応酬が幼子の命を奪った。ガザ市内の病院の遺体安置所。パレスチナの旗に包まれた小さな体が遺族に手渡されると、家族が泣き叫んで抱き締めた。『この子に罪はない。なんでこんな目に遭うのか』。母マリアンさん(18)が悲しみに暮れた。長男が生後一カ月で亡くなり、ようやく誕生したのがライラちゃんだった。」言葉もありません。記事によると、死因は催涙弾の煙を吸った窒息死のようです。これが現実です。主イエスが今日もエルサレムの娘たちの涙を心の底から嘆いておられると信じます。

<ホセア書第10章から>
主は続けます。30節。「そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。」ここに登場する山や丘は、旧約聖書ホセア書の引用です。ルカ福音書と共に朗読して頂いたホセア書第10章1節を朗読します。「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し/国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。」預言者ホセアは、神の愛を語ったと言われます。徹底的に人の罪を赦す神の愛を語った。しかし同時に、ホセアは罪をうやむやにしない。大変に厳しく罪を罪として語っているのです。第10章1節も罪を語り、神の審きを語る。1節を読むと、現代を生かされている私たちの罪と重なります。懐が豊かになるに従い、偶像礼拝も豊かになる。現代も偶像礼拝の罪が蔓延しております。権力者の顔色を伺い、間違っている行為も罪と認めず、認めないから悔い改めの祈りもない。そのとき、神は沈黙しておられない。必ず審かれるのです。そのとき何が起こるか。ホセアは語る。8節。「アベンの聖なる高台/このイスラエルの罪は破壊され/茨とあざみがその祭壇の周りに生い茂る。そのとき、彼らは山に向かい/『我々を覆い隠せ』丘に向かっては『我々の上に崩れ落ちよ』と叫ぶ。」
これが、主イエスが引用された御言葉です。私たちも試練のとき、山や海に向かって叫ぶことがある。私も試練に襲われたとき、月に向かって叫びました。預言者ホセアも、「何で、こんなに苦しまなければならないのか!」と嘆き、「山よ、丘よ、私を覆ってくれ、さもなければ私は、神の審きに耐えられない」と泣き叫ぶのです。ホセアは、神の審きにさらされている自分の民のために、涙を流しました。罪の象徴のような、自分の妻の不貞に苦しみながら、自分の十字架を背負い、泣き続けたのです。だからこそ主イエスは、ホセアの預言を引用されたのです。

<『生の木』と『枯れた木』>
ルカ福音書に戻ります。最後に31節を味わいたい。「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」火が「生の木」である主イエスを燃やすなら、「枯れた木」である私たちの罪はどうなるのか?主イエスは、主のためにオーバーに嘆き悲しむ婦人たちに、「あなたがた自身と子孫の歩みのために涙を流せ」と言われたのです。
主イエスの姿、それは正しい、一点の間違いもない神の子のお姿です。そのお方が、十字架にかかるとすれば、そこで考えなくてはならないのは、己の罪であり、私たちの子孫の罪です。エルサレムの罪は確認しました。それ以外に、昨日は米テキサス州の高校で銃の乱射事件があり10人が犠牲となりました。高校生まで健やかに成長した我が子が17歳の同級生が発砲した銃で殺される。想像しただけで気分が悪くなり、座り込んでしまいます。子や孫に先立たれる悲しみを抱えている両親、祖父母の悲しみは厳しく深いものです。だからこそ、私たちの罪を完全に赦すために十字架の死を成し遂げる主イエスへの悔い改めの祈りを本気で深める必要を感じるのです。悔い改めの祈りとは、罪深い私を見つめ、嘆きの涙を流すことです。私たちの罪により無抵抗な赤ちゃんの命が奪われた現実に正面から向き合い、嗚咽することは極めて大切だと思うのです。
十字架への道を歩む主イエスは今朝、私たちに「涙を流しなさい」と命じております。泣き女の涙ではありません。悔い改めの涙を求めておられる。主の御声が聴こえます。「あなたの罪に気がついて欲しい。罪であるあなたのために、私は十字架で死に、肉を裂き、血潮を流し、あなたの罪を赦し、あなたの涙をぬぐい続ける。」

<聖餐の恵み>
主イエスが裂いた肉であるパンと流された血潮である杯に今から与ります。洗礼を受けた矢野周子姉妹も初めて聖餐の恵みに与ります。そのとき、喜びの涙と共に、御子を十字架で処刑してまで私の罪を赦してくださる神の愛に心が震えるのです。私たちは、それぞれに背負っている十字架があります。しかし、最後まで十字架を背負い続ける必要はありません。確かに、主の十字架を背負うことがある。けれども最後は、再び主イエスが十字架を背負ってくださるのです。その結果、主は十字架で処刑され、三日目の朝、復活なさったのです。そして今も、私たちに聖霊を注ぎ続けてくださるのです。
昨日はM兄弟、今日はY姉妹が私たちの群れに加えられました。本当に感謝です。しかし今も、嘆きの涙、怒りの涙、悲しみの涙を流している方々が大勢おられる。だからこそ、そのような方々が信仰告白、洗礼によって聖霊を注がれ、聖餐の恵みに与ることができるよう共に祈り続けていきたい。心から願うものであります。


(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・昨日の午後、M兄弟の病床洗礼式、本日はY姉妹の洗礼式を執り行うことが許され、深く感謝いたします。主よ、M兄弟、Y姉妹のキリスト者としての歩みを祝福の中で導いてください。また御心ならば、それぞれの御家族にも聖霊を注ぎ続けてください。お願いいたします。
・教会員の中で手術を終えた方、療養を続けている方、献身的に介護している方々を強め、励ましてください。
・本日の礼拝を最後に、共に礼拝を守り続けて下さったY先生御夫妻が秋田の地へと旅立たれます。どうか秋田での新しい生活の上にも今までと同じ祝福を注ぎ続けてください。お願いいたします。
・T姉妹が体調を崩され、入院されました。昨日、お見舞いに伺い、教会の皆さんに祈って欲しい!と願っておりました。主よ、どうかT姉妹に聖霊を注ぎ、再び、元気になり、聖餐の恵みに与ることができますようお導きください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年5月13日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 マラキ書 第3章13節~21節、新約 ペトロの手紙一 第4章7節~11節
説教題「賜物を生かして互いに仕えなさい」    
讃美歌:546、1、340、388、542、427 

<ペトロの手紙一の時代背景>
 この朝、私たちに与えられましたペトロの手紙一は紀元90年頃に書かれたと言われます。紀元90年頃ですから、主イエスが天に昇ってからそれなりの年月が経過しております。その間、教会は力を持ってきたのです。それだけに、教会に反発する力も強くなる。よって、この手紙が書かれた頃には、教会への迫害が強まり、激しい弾圧が起こっていた。そこで、ペトロは勧めるのです。第4章1節。「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。」
 今朝は、ルカ福音書から離れておりますが、主イエスが「十字架につけろ、十字架につけろ」と群衆に叫ばれ、十字架の死が決定した迫害が、キリスト者にも起きているのです。私たちも強いストレスに継続的に襲われると、正常な判断が困難になります。その結果、人間関係は混乱し、迫害、弾圧の中にある教会は動揺するのです。洗礼を受け、聖餐の恵みに与り、溢れる喜びに浸っていたキリスト者が、迫害、弾圧に遭い、社会的にも軽蔑や差別の対象になれば、動揺するのは当然です。
私たちも、人生において信仰がグラついた時があります。キリスト者として誠実に歩んでいるがゆえに、厳しい試練に襲われることがある。そのとき、私たちはどちらかの道に進みそうになる。一つは熱狂的、狂信的な道。もう一つは試練に耐えられず信仰を捨てようとする。迫害によって殺され、家族も犠牲になる、それならば、信仰を捨て、ひっそりと歩むのが最善と判断するのです。そこで、ペトロは勧めます。「あなたがたも、キリストのように武装しなさい。信仰の筋道を通し、状況を理解し、歩むべき道を定めなさい。」そのとき、心に刻みたいのが、7節「万物の終わりが迫っています」なのです。

<万物の終わり>
 「万物の終わりが迫っています」という言葉が持っております意味は、大変に豊かです。明らかに、主イエス・キリストの再臨の信仰が語られています。十字架の死の三日目の朝に復活なさった主イエスは天に昇られ、今も私たちに聖霊を注いでおられます。その主イエスが万物の終わりの日に、もう一度来て、世を審いてくださると信じる信仰です。ペトロは、万物の終わりの日、再臨の日、審判の日が迫っているとわきまえることがキリスト者とって大切であると勧めるのです。
 私たち、現代を生きるキリスト者も心を確かにし、思慮深くふるまい、身を慎んで、祈ることが大切です。最初の教会への大迫害のような迫害を私たちは受けることはないかもしれません。けれども、現代の日本においてキリスト者として毎週の礼拝を厳守し、誠実に歩み続けるには、様々な困難があることも否定できません。教会に通えば、色々な恵みに満たされると信じ、信仰告白し、洗礼を受けた。確かに、たくさんの恵みを頂いた。しかし、人間関係に躓く。あるいは牧師に躓く、さらに説教に躓くということがある。結果、教会に通い続けても、何もいいことがない。むしろストレスが増すばかり。それならば、友人と登山をすると気分がスッキリする。美味しいランチで盛り上がりたいと思ってしまうのです。そのときペトロを通し、復活の主が語りかけてくださる。「試練のときこそ思慮深くふるまいなさい、心を確かにしなさい。理性を保ち続け、無分別にならず、分別を持ち続けるのです。万物の終わりの日、あなたがたは忍耐によって、永遠の命をかち取るのです。」

<説教塾「東京セミナー」の恵み>
 先週の月曜から木曜まで週報にも記しておりましたように、加藤常昭先生が主宰しておられる説教塾「東京セミナー」に出席いたしました。木曜の御言葉と祈りの会も休会にし、マルコ福音書の御言葉を学び、説教を作成したのです。今回は加藤先生を含め19名の参加でしたが、くじ引きにより、7名の牧師が説教をし、加藤先生と牧師たちから説教批評を受けたのです。私は、主の御心がなりますように!と祈っておりましたが、くじに当たり、説教批評を受けました。非常に厳しい批評でした。木曜の朝に批評を受けたのですが、その日の夜、これから牧師、説教者としてどのように歩むべきかと途方に暮れ、昨日もその思いを引きずっていたことは否定できません。そのとき与えられたのが、ペトロの手紙一の御言葉であったことは神様のご配慮であると感謝したのです。加藤先生、また説教塾の同労者が愛の鞭として指導くださった言葉によって、「説教者として歩み続けるのは難しい」と諦めたり、「説教塾には行かない」と開き直るならば、それこそ、自分の心を制御できていない。カーっ!となって我を忘れたり、「どうせ私は無能な説教者」と卑屈になっているようでは、万物の終わりが迫り、主イエスの再臨を物語る牧師として失格と痛感したのです。
 主の十字架と復活、そして再臨の約束を信じるキリスト者は、思慮深くふるまい、身を慎み(身を慎むとは、陶酔することなく、「しらふ」で生きるという意味)、神によく祈ることが大切です。万物の終わりが迫っているということは、万物が永遠ではないということ。世のすべてが、神によって創造されたものであり、神によって締め括られるものなのだということを心に刻み続けることが大切です。それなのに、神の眼差しを忘れ、万物の終わりが迫っていると本気で考えることがない。そのとき、私たちは思慮深くふるまうことを忘れ、身を慎むことを忘れ、祈りをも忘れてしまうのです。

<キリスト者の祈り> 
 木曜の御言葉と祈りの会、もちろん、出席することが可能な方と困難な方がおられることは認識しております。しかし、やはり出席者が少ないことは否定できない。平日の祈祷会はもう難しいのではないかと考えることもあります。それなら、主日礼拝の直後に、この礼拝堂で4、5名のグループになり、皆で祈り合う。これがいいのではないかと考えることもあります。なぜなら、それぞれの課題を共有し、共に祈り合うことは大切だからです。個人の祈りの課題に加え、東村山教会が抱えている課題を理解し、その課題をどのようにすればよいのか、先週の総会でも様々な課題を示されました。しかし、それらの課題を共有し、共に祈ることができていない現実は今朝のペトロの手紙を通しても反省するところです。私たちキリスト者が祈りを忘れたら、本当に悲しいことです。キリスト者にとって祈りは呼吸と同じ。呼吸が止まったら死ぬ。つまり、私たちが祈りを忘れると、それはキリスト者の死を意味することになる。では、私たちの日々の祈りの中心は何でしょうか?11節の後半に「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン」との祈りがあります。つまり、キリスト者の祈りは、主イエスを通して、ただ神にのみ栄光!と祈る。これがキリスト者の祈りなのです。この祈りを祈らずして私たちはキリスト者とは言えません。
 以前にもお話しした記憶がありますが、ヨハン・セバスティアン・バッハは自筆譜に「SDG(ラテン語のSoli Deo gloria)ただ、神にのみ栄光」と記し、祈り続けたと言われております。私たちも私の栄光ではなく、神にのみ栄光と祈り続けることが大切です。
 私たちは毎日、「主の祈り」を祈ります。前半は神様を祈る。後半は私たちの生活を祈る。主イエスもそのように教えておられる。それなのに、私たちの日々の祈りは、どうしても私のこと、私の隣人への祈りがメインになり、神の栄光を祈ることが疎かになっていることは否定できません。やはり、キリスト者は、まず、「神にのみ栄光」と祈る。その祈りから、8節以下の勧めを大切にするのです。栄光と力とが、永遠に神にあるために、私たちはキリスト者として歩み続けるのです。私は、説教者として御言葉を語りにふさわしく語る。皆さんも素晴らしい賜物を与えられているので、その賜物を自分が栄光を受けるために用いるのではなく、たとえ誰からも評価されなくても、神様が栄光をお受けになるために用いるならば、神様は私たちを心の底から喜んでくださるのです。

<年間聖句について>
 週報にも記載しているように、2018年度の年間聖句は、10節から11節としました。その中でも、心に刻みたいのは、「賜物を生かして互いに仕えなさい」です。今まで語ったように、「賜物を生かして」と、「互いに仕えなさい」の間には、大切な言葉が入る。「賜物を生かして、『神の栄光のために』、互いに仕えなさい」です。私が栄光を受けるためではない、皆から、さすが○○さんと言われ、ニンマリするためでもない、「ただ、神にのみ栄光」と祈り、賜物を生かして互いに仕えるのです。

<マラキ書より>
 今朝は、旧約聖書マラキ書第3章を朗読して頂きました。19節以下にこう書いてあります。「見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/踊り出て飛び回る。(19~20)」
マラキは神が正しい人と神に逆らう人とを裁き分ける日が来て、その日には、高慢な者はすべてわらのように炉にくべられて燃やされてしまうが、神を畏れる人には義の太陽が昇り、その翼によって癒されると述べ、「ひどい言葉(13)」に身を売らないようにと忠告するのです。なぜなら、神に仕える者は、雨の日に牛舎に閉じ込められていた子牛が、太陽と共に、牛舎を踊り出て飛び回るように、神の愛を身に受けることができるからです。私たちも「万物の終わり」をわらのように炉にくべられて燃やされる高慢な者でなく、神を畏れ、神から与えられた賜物を生かし、互いに仕える者として歩み続けたい。

<賜物とは>
 私たちは等しく、神の恵みを表す様々な賜物を与えられています。賜物と訳された原語は、χαρισμα(カリスマ)という言葉です。辞典には無償の賜物、恵みの賜物、授かり物とあります。賜物は、すべて神の恵みを表すために授けられました。よって、神の栄光のために賜物を生かし、互いに神の栄光のために仕えあうことはキリスト者として当然であり、それこそがキリスト者の最大の喜びであることは間違いないのです。
11節に「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい」とあります。説教者として10年目を迎えた私にとって、常に心に刻むべき御言葉であると思います。神の言葉を語るにふさわしく語っていなければ、厳しく批評されるのは当然です。さらに「奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」とあります。そうです。教会は神の言葉を語る。礼拝が終わると、それぞれの生活に戻る。日常生活でこそキリスト者として神の愛を語り、愛の奉仕にいそしむ。それが、私たちキリスト者の真実の姿なのです。

<竹森満佐一牧師の説教より>
 吉祥寺教会で長く牧会を担われた竹森満佐一牧師は、1975年頃にペトロの手紙一の講解説教を語っておられます。今朝の第4章10節、11節の説教で、こう語ります。「神の恵みです。それならば、無限に多いはずであります。また、あらゆる種類のものがあるはずであります。それならば、尽きることなく、神を崇め、神を拝するために、それを用いることができるのであります。」心から「アーメン」です。私たちに与えられている賜物は、神の恵みである。ならば、その恵みは無限に多いというのは間違いありません。では、神を崇め、神を礼拝するために、与えられた賜物を用いる生活は、どのようにしたら可能になるのでしょうか?竹森牧師はさらに語ります。「神の恵みは、自分の計画や力によって得られるものではありません。ただ、神がよしとされる手段によるほかはないでありましょう。神の手段とは何でしょうか。それは主イエス・キリストであります。キリストの救いによって、はじめて、神の恵みをいただくこともできるし、神を崇めるために用いることもできるのであります。主イエス・キリストを信じる時、はじめて自分の与えられているものがすべて恵みであることに気がつくのであります。」
 万物の終わりが迫っています。だからこそ、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈り続けたい。何よりもまず、心を込めて愛し合いたい。私たちに聖霊を日々、注ぎ続けて下さる御方は、十字架と復活、そして再臨の主イエスです。主の愛によって私たちの罪が完全に覆われ、赦された。だからこそ、私たちは罪赦された者として、互いに不平を言わずにもてなし合うことができるのです。共に神から与えられた恵みの賜物を生かして、神の栄光を現わすために互いに仕え続けたい。神の言葉をふさわしく語り、奉仕したい。そのすべてにおいて、神が栄光をお受けになるのです。今朝、Y姉妹を神の家族として加えられた2018年度の東村山教会の歩みが、ただ、神にのみ栄光と祈り続ける歩みとなりますよう祈ります。

(祈祷)
主イエス・キリストの父なる御神、驕(おご)ることなく真実に確かな思いで、自分の姿、人びとの姿を見定めることができますように。私たちが、罪の中にあることを、あなたの恵みなくして生き得ないことを、しかも、あなたの手によって、誰もが真にすばらしい恵みの器として、すでに造られていることを、望みをもって確認させてください。誰も、あなたに捨てられる者はありません。誰も、あなたにとって無益な存在であって、何の賜物も、与えられていないというような者はないのです。どうぞ、その賜物を生かして、あなたの望みの器となることができますように。そしてそのことによって、私たちの表すあなた様の力によって、一人でもよい、キリストの恵みによって、その罪が覆われる人が生まれますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・今朝、Y姉妹の転入会式を執り行うことが許され、心より感謝致します。これからもY姉妹、また御家族の歩みの上に主の導きをお願い致します。
・今週の土曜は、M兄弟の病床洗礼式を予定しております。主の祝福の中で、病床洗礼式を執り行うことが出来ますようお導きください。
・また来週の聖霊降臨日礼拝では、Y姉妹の洗礼式を予定しております。同じく主の祝福の中で洗礼式を執り行うことが出来ますようお導きください。
・手術をなさられた兄弟姉妹、手術を控えている兄弟姉妹、療養を続けている兄弟姉妹、また献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年5月6日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章4節~9節、新約 ルカによる福音書 第23章13節~25節
説教題「十字架につけろ、十字架につけろ」    
讃美歌:546、10、139、21-81、262、541 

<死刑に当たるようなことは何もしていない>
 5月、第一主日となりました。一年でもっとも爽やかな季節。昨日の土曜日、ゴールデンウィークでもあり、皆さんの中にはご家族と楽しく過ごされた方もおられるかもしれません。牧師室のある3階は午後になると気温が上がるので、冷房に頼らざるを得ないのですが、昨日は窓を大きく開け、気持ちのよい風を感じておりました。しかし今朝、私たちに与えられた御言葉は爽やかな風とは真逆の重苦しい空気に支配されております。早速、御言葉に耳を傾けましょう。ルカ福音書第23章13節以下。ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
 ピラトは明確に語る。「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。」それなのに、民の長老会、祭司長、律法学者、そして群衆はピラトを無視し、出鱈目な理由で主イエスを処刑するため、激しく訴えたのです。私たちは今朝の御言葉をよく知っているつもりになっております。映画を通しても「イエスを殺せ!バラバを釈放しろ!」と叫ぶ群衆の表情は心に刻まれている。しかし今朝、改めて御言葉を読むと、私たちはとんでもない罪を犯してしまったと胸が苦しくなります。現代も、冤罪(えんざい)ということが言われます。冤罪とは、無実なのに犯罪者として扱われることですが、無実なのに、裁判で死刑判決を受け、実際に殺されてしまった当事者、また家族はどんな思いであっただろうかと考えると言葉が見つかりません。激しい拷問によって無実にもかかわらず、「私が殺しました」と自白させる。そのような報道を聞くと、罪の闇を痛感するのです。そうした冤罪が今朝の御言葉の大きなテーマであることは間違いないと思います。だからこそ、福音書記者ルカは、ピラトの証言を繰り返し記すのです。
 最初は15節。「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。」次に20節。「ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。」そして22節。「ピラトは三度目に言った。『いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。』」そうです。ピラトは、三度も御子の無罪を主張しています。このことを私たちは忘れてはなりません。同時に、無実の御子を罪赦された私たち、聖餐の恵みに与る私たちは語り続ける義務があるのです。「私たちは、無実の主イエスを冤罪によって処刑してしまった」と。
 私は、小学校低学年から教会に通うようになりました。その結果、聖書物語に対し、色々なイメージを抱くようになりました。たとえば、ザアカイならば、紙芝居に描かれた背が低く小太りの男を思い浮かべる。同様に、今朝の御言葉であれば、困り果てたピラトと大きな渦潮のようにうねっている群衆、悪霊に取り憑かれたかのように「十字架につけろ!十字架につけろ!」と叫び続ける群衆を思い浮かべるのです。子どもの頃の私は思いました。「何でピラトは、『イエスは無罪』と結審しなかったのか。そうすれば、イエス様は死なないですんだのに。ピラトは情けない男。本当にローマ帝国の総督なのか。群衆より、ピラトの方が偉いはず、それなのになぜ群衆に負けたのか!」と怒りました。しかし、改めて今朝の御言葉を読むと、ピラトを責めるよりピラトに共感し、人間は束になると恐ろしい存在になると痛感したのです。暴動と殺人を犯し、投獄されていたバラバと御子を比較すれば、バラバが処刑されるべきは誰でも判断できる。それなのに、群衆の一人となった私たちは、「バラバを釈放しろ!」と叫び、「イエスを十字架につけろ!」と叫び続けてしまうのです。

<バラバとは>
 今朝の御言葉を心に刻む上で、バラバについてある程度の知識を持つことは大切です。バラバは、19節にあるよう、都エルサレムに起こった暴動と殺人のかどで投獄されていました。やはりピラトが死刑にすべき男はバラバです。バラバとは、元々バル アッバであり「父の子」という意味だそうです。また、マタイ福音書によると、バラバは「バラバ・イエス」とも呼ばれておりました。バラバは、当時「熱心党」と呼ばれた反ローマ勢力のリーダーだったようです。群衆はそのようなバラバを、「釈放しろ」と叫び、御子を「十字架につけろ」と叫び続けたのです。

<群衆心理>
群衆は考えていた。「俺たちは、バラバのようにローマに抵抗しない。バラバも馬鹿な男だ!」とバラバを馬鹿にしていたはずです。しかし群衆は、無実の御子ではなく、「バラバを釈放しろ」と叫び続けた。御子はそれほどまで群衆に嫌われていたのだろうか?私たちの頭は真っ白になります。けれども、ルカはそのように記す。信じたくないですが、群衆にとって御子は邪魔な存在だったはずです。「今が決して豊ではない。しかし、そこそこの生活が保障されている。それなのに、イエスという男が社会を引っ掻き回している。バラバは俺たちの仲間。確かに激しい男だ。でも、イエスよりはまし。イエスはいつも何か文句を言いたいような顔をしている。あんな男は目障り。なあ、そうだろ!」「おお、そうだ!バラバを釈放しろ!イエスを殺せ!」そのような声が聞こえます。

<ピラトの罪、私たちの罪>
 結果、ピラトはついに群衆の要求を受け入れたのです。22節以下。ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
ピラトはついに妥協しました。ピラトの罪は重い。同時に、群衆の罪も重い。私たちの心の奥底にある罪も全く同じです。後で振り返ると、何であのとき、あんなことをしてしまったのかと自分でも理解できない罪を犯したことがある。先週の様々な報道を通しても、私たちは大人になっても、有名人になっても、優秀な大学を卒業しても、立派な仕事をしていても、一瞬の心の隙によって、それまでの人生を棒に振るような罪を犯してしまうことが本当にあるのです。もちろん、キリスト者も例外ではありません。
今日の午後は教会総会を行いますが、この一年、皆さんのお祈りとご奉仕に深く感謝しております。しかし、そのすべての業は主イエスの冤罪の上に成り立っていることを忘れてはなりません。私が努力したから、このような結果になったと自慢したり、反対に努力不足により、こうなってしまったでもない。罪深い私にもかかわらず、十字架と復活の主は私を用いてくださり、憐れんでくださり、その結果、一年間、たくさんの恵みを与えられたのだと思うことが大切なのです。
私たちは、本当に馬鹿げたことをしてしまう罪人です。この事実を、謙遜な畏れをもって知っていなければなりません。私たちに「完全」とか、「100%」とか、「絶対」という言葉は相応しくありません。それは、教会形成にも言えることです。「私は絶対に正しくて、あの人は絶対に間違っている」ということはないのです。自分も罪人、あの人も罪人。そのような私たちのために主は群衆の叫びに耐え、最後はピラトの優柔不断な態度、また群衆の叫びによって処刑されたのです。群衆は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と連呼して御子を呪いました。神を呪うことは、人間がしてはならない、最も恐るべき行為です。群衆は神を信じていなかったわけではありません。神を信じていた。けれども、神を信じている者が、神を信じている者の名において、御子を神の祝福の外においた。その結果、御子は本当に処刑された。けれども、御子の死によって、私たちの罪は完全に赦され、共に礼拝を献げ、聖餐の恵みに与り、御子と共に歩む者となったのです。

<苦難のしもべ>
 今朝は、ルカ福音書に加え、イザヤ書第53章を朗読して頂きました。ある旧約学者はこのように語ります。「イエスはイザヤが預言していた『しいたげられても口を開かず、暴虐なさばきによって取り去られた』義人である。それを明らかに示すため、どうしてもピラトによる無罪証言は語られねばならなかったのです。イエスは『口を開かずに』取り去られた『苦難のしもべ』である。したがって、暴虐なさばきの間(ルカ23:8〜25)も、押し黙ったままである。」
言葉もありません。ただ御子の沈黙の前に私たちも悔い改めの祈りを献げるしかありません。改めて、イザヤ書第53章7節以下を朗読致します。「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠(ほふ)り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。」
 主イエスは、イザヤが預言した「苦難のしもべ」そのものです。そのような御子が、十字架の上で裂いてくださった肉と流してくださった血潮にこれから与ります。この後、教会総会が行われます。一年の恵みを共に振り返る大切な総会です。さらにその後、一人の姉妹の洗礼試問会、一人の姉妹の転入試問会が行われます。また、先週は一人の兄弟の病床洗礼試問も行われ、承認となりました。その事実を通し、神様は東村山教会を大いに期待しておられることがわかります。その溢れる恵みの土台に御子の忍耐があり、無実の死があることを私たちは忘れてはなりません。イザヤ書第53章5節で預言されたように、「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」を生涯心に刻み続けたい。そのとき、私たちに平和が与えられ、私たちの傷も、また東村山教会の傷もいやされるのです。新しい年度も、一人でも多くの方が信仰へと招かれるよう祈り続けたい。そして、共に、聖餐の恵みに与ることができるよう祈り続けてまいりましょう。

(祈祷)
主イエス・キリストの父なる御神。私たちの罪の深さをみ言葉に照らされて、心深く恥じるものであります。どうぞ私たちの罪を赦し、私たちの大声を消し、あなた様のささやかな、しかし確かな愛のみ声の中に立たしめてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・礼拝後に教会総会を行います。一人でも多くの兄弟姉妹と共に総会をまもることができますようお導きください。
・先週の礼拝後、M兄弟の病床洗礼試問を行い、病床洗礼が承認されました。感謝いたします。本日も総会後にY姉妹の洗礼試問とY姉妹の転入試問を予定しております。主の御心がなるよう祈ります。
・求道生活を続けている兄弟姉妹が自らの罪を悔い改め、あなた様への信仰を告白し、洗礼へと導かれ、聖餐の恵みに与ることができますよう祈ります。
・手術をなさられた兄弟姉妹、手術を控えている兄弟姉妹、療養を続けている兄弟姉妹、また献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年4月29日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第62篇1節~13節、新約 ルカによる福音書 第23章1節~12節
説教題「沈黙して、ただ神に向かえ」    
讃美歌:546、65、195、258、540 

<沈黙と喧騒(けんそう)>
 ルカによる福音書第23章は驚くべき言葉から始まります。そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」驚くべき言葉とは、「全会衆が立ち上がり」です。その場にいる全員が立ち上がり、御子をピラトのもとに連行した。驚きます。なぜなら、全員が同じ行動をとったからです。一人くらい座っている人がいてもおかしくないはずです。「私は、イエス様に病を癒して頂いた。そのイエス様が十字架刑を宣告されるのは耐えられない」と座り続ける人がいてもおかしくない。それなのに全会衆が立ち上がり、御子をピラトのもとに連れて行ったのです。
 全会衆とは、最高法院を構成する民の長老会、祭司長、律法学者たちです。当時、ユダヤ人の議会には裁判の権限はありましたが、罪人を処刑する権限はありませんでした。そのため、御子を処刑するにはローマ総督ピラトの判決が必須であり、だからこそ、御子をピラトのもとに連行したのです。
ピラトの前では、「この者は、神の名を汚した」という理由での、死刑判決はありえません。なぜなら、当時のローマ政府は、それぞれの宗教に干渉しない宗教寛容政策を基本にしていたからです。そこで全会衆は、主イエスを政治的な反逆罪、騒乱罪によって処刑しようとしたのです。けれども、2節の訴えは明らかに虚偽です。訴えられた第一の罪は「民族を惑わし」、つまり「治安妨害」の罪。第二の罪は「皇帝に税を納めるのを禁じ」たこと。そして、第三の罪は「自分が王たるメシアだと言っている」ことです。検証すると、第一の罪は何の根拠もありません。第二の罪は主イエスの態度は正反対。実際、ルカ福音書第20章で御子はこう語っております。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい(25節)」御子は、皇帝に税金を納めなさいと伝えているのです。そして第三の罪は、主イエスが「自分は王たるメシア」と言ったことはないのです。むしろ人々が、御子を王としようとした時、一人で山に逃れたのです。ヨハネ福音書第6章。「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた(6:15)」。御子は、真のメシアですが、その事実を一度も自分から口にされたことはありません。むしろそのことは、御子が私たちに問われる信仰であり、私たちが「主イエスをメシアと信じます」と告白するのです。それなのに最高法院は、御子の霊的な王権を、地上の王権にすりかえ、「御子は危険人物」と激しく訴えたのです。
そこで、ピラトが主に、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、主は「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。ピラトは、祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。けれども彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張ったのです。
 これを聞いたピラトは、「この人はガリラヤ人か」と尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、御子をヘロデのもとに送ったのです。ピラトは、全会衆の一歩も引かない訴えに困惑していました。なぜなら、御子に何の罪も見いだせないからです。そんなとき、御子がガリラヤの人と知り、ニヤッとしたはずです。「自分の手を汚さず、全会衆の訴えを鎮められる。しかも、ヘロデに御子の死の責任を取らせれば、私の罪は問われない。ヘロデは、イエスを殺したい!と思っていた。そうだ!ヘロデは今、エルサレムに滞在しているぞ!何というタイミング。早速、ヘロデにイエスを送ろう!」
 ヘロデとは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのことです。ピラトは、ヘロデがガリラヤ人であることが分かったので、ヘロデのもとに送ったのです。その頃、ヘロデはガリラヤ湖西岸のティベリアスからエルサレムに巡礼と監視を兼ねて来ていたようです。その絶妙なタイミングで、主イエスはピラトからヘロデに送られたのです。彼はイエスを見ると、非常に喜びました。なぜなら、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるし(奇跡)を行うのを見たいと望んでいたからです。
 けれども、主は沈黙を貫きました。主はヘロデの興味本位な質問に、何一つお答えにならなかったのです。ヘロデの表情が一変しました。ついさっきまで御子に興味を示し、子どものようにワクワク、ドキドキしていた。それなのに、何を聞いてもウンともスンとも答えない。しかも、祭司長と律法学者たちは主の沈黙に反比例して、これでもか!という大きな声で御子を激しく訴え続けている。
 ヘロデは顔を真っ赤にし、イエスへの怒りが込み上げる。とうとうヘロデの本性が暴露されました。「自分の手を汚さなくても大丈夫。ピラトがいるぞ。イエスをあざけり、侮辱し、派手な衣を着せて楽しもう。ピラトは嫌いだが、イエスこそ俺たちの共通の敵だ!」主は、ヘロデと兵士からあざけられ、侮辱され、派手な衣を着せられ、ピラトに送り返されても、沈黙を貫かれたのです。
 ピラトもヘロデも行動が全く同じ。自分では責任を取ろうとしない。絶大な権力をもっているようで群衆を恐れている。ピラトはヘロデにイエスを送り、ヘロデもピラトにイエスを送り返した。御子はたらい回しの状態です。「たらい回し」とは、物事を次から次へと送りまわすこと、面倒な案件などを押し付け合う責任逃れを意味する言葉です。私たちも、問い合わせの電話をしたとき、相手から「こちらの部署は違います。こちらに電話してください」と言われると困惑する。それでも、伝えられた部署に電話をする。するとまた、「こちらの部署は違います。この番号に電話してください」と言われると、さすがに怒りが爆発する。「『こちらに電話しろ』と言われたから電話したのに、『別な番号に電話しろ』だと!どうなっているのだ!」。私たちは沈黙などできません。
 ピラトとヘロデが御子にした行為は、もっとも罪深い「たらい回し」です。御子の生命を弄(もてあそ)んだ罪は重い。同時に、ピラトとヘロデのように罪深いのは、祭司長、律法学者、群衆も同じ。ピラトの「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」を全面否定したからです。もちろん、ピラトとヘロデの罪は重い。しかし、祭司長、律法学者、群衆の罪も重いのです。12節にあるよう、これまでヘロデとピラトは互いに敵対していました。しかし、ピラトの下心とヘロデのキリストへの侮辱によって、二人は仲がよくなった。私たちの罪の闇を痛感いたします。

<沈黙して、ただ神に向かえ>
今朝は、ルカ福音書に加え、詩編第62篇を朗読して頂きました。この詩編では、沈黙は神への信頼を意味する言葉として理解されております。ダビデは2節から3節で歌う。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」6節から7節で歌う。「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。」
繰り返しになりますが、詩編第62篇における沈黙は、自分一人で我慢して試練を耐えるという消極的な沈黙ではありません。その反対。積極的な沈黙。どんなに厳しい試練に襲われても、それこそ、神様からも見捨てられたとしか思えない状況でも、積極的に神を信頼し、ワーワー騒ぐのではなく、すべての思い煩いを創造主なる神に委ね切って、沈黙し続ける。すると、不思議ですが、どんなに厳しい試練の中にあっても、決して動揺せず、平静になるとダビデは本気で歌うのです。
詩編には、逆境から生み出された優れた詩が多くあります。その中でも詩編第62篇は非常に優れた詩編です。この詩編は、苦難の中で祈られた詩編です。けれどもダビデにとって、苦難の度合いが進むにつれて神への信頼と明瞭さが成長していく様子が私たちにも伝わるのです。私たちも知っています。本当の意味で神への信頼、神への信仰が深まるとき、それは順風満帆のときではなく、試練のとき、犯した罪に悩むとき、人々から罵倒され、欺かれたときであったことを。試練のとき、私たちは本当に自らの無力さを突きつけられます。その結果、自分の努力で何とかしようと思うことから、これまでも、今も、そしてこれからも常に私を導き、憐れみ、愛し続けてくださる神に試練、犯した罪、悩み、罵りの言葉、欺きの言葉、その全てを、丸ごと委ねるように導かれる。そして、一言、「主よ、わたしの魂は沈黙して、ただあなたに向かいます。主よ、どうか無力な私を憐れみ続けてください」と、積極的に沈黙し続けるのです。

<主の沈黙の破れる時>
 もう少し「沈黙」にこだわりたいのですが、カルタゴ(北アフリカ)の司教、キュプリアヌスは『偉大なる忍耐』という書物を256年に記しております。その第23章に、主イエスの「沈黙」と、その「沈黙」が破られる時を語っております。
「初めに黙っていたといわれたが、いつも黙ってはいられないこの人はいったいだれなのか。(中略)もちろん、それは、司祭や長老たちから告訴された時、何も答えず、ピラトも驚くほど 忍耐強く沈黙を守られた、あの人だ。かれは、ご受難の時には沈黙しておられたが、後の審判の日には黙ってはおられないだろう。(中略)この神は、明らかに再臨される時、沈黙されはしないだろう。(中略)親愛なる兄弟たちよ、この、われわれの審判者であり、報復者であるおかたを待ち望もう。」
 そうです。ピラトやヘロデ、また祭司長、律法学者、兵士や群衆の前で沈黙を貫かれた御子は、十字架の上で沈黙を破り、大声で叫ばれたのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます(23:46)。」御子は、死の直前において、全存在を神に委ねきった。その結果、御子は三日目の朝、全能なる神によって復活させられ、天に引き上げられ、いつの日か再臨されるのです。そのとき、御子は信仰を告白し、洗礼を受けた私たちの救いを完成してくださるのです。その意味で、私たちキリスト者はたとえ激しい試練のときも、迫害のときも、十字架と復活、そして再臨の主イエスを信頼し祈り続けることで、真の平安を得ることができるのです。

<讃美歌258番>
 最後に、説教の後に賛美する讃美歌を紹介して終わります。ドイツの改革者ルターはルター訳聖書や神学書に加え、讃美歌(コラール)も残しております。私たちが用いている讃美歌第一編で三曲(101、258、267)、第二編で五曲(94、96、100、103、105)です。この後、1523年に作詞、作曲した258番を賛美します。ルターは、詩編第130篇を「聖書の正しい師であり先生」「パウロ的詩編」と愛し、「詩編第130篇こそ、福音の基本的な真理を教える」と高く評価したのです。私たちも、第四主日の礼拝で詩編第130篇を朗読しております。1節、2節を朗読します。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」この詩編から258番を作詞、作曲したのです。資料では、ルターがヴィッテンベルクの墓地に埋葬されたとき、市民によって258番が賛美されたようです。ルターも市民も愛した讃美歌をヨハン・セバスティアン・バッハは、教会カンタータに組み込みました。
 ルターが作曲した翌年(1524年)、ルターの協力者ヨハン・ワルターが編曲したコラールが、教会カンタータ第38番《深みより 主を呼ぶ》の第1曲と第6曲に組み込まれたのです。第1曲の冒頭で、このように賛美されます。「深き苦しみの淵より 私はあなたに向かって叫びます、主なる神よ、私の呼びかけを聞き入れてください。」そして第6曲の最後で、こう賛美するのです。「たとえ 私たちのもとに多くの罪があっても、神のもとには さらに多くの恵みがあるのです。神の手は限りなく助けてくれます、どれほど その傷が大きいものでも。ただ 神だけが良い羊飼い、神は イスラエルを救うでしょう その  あらゆる罪から。『対訳 J.S.バッハ声楽全集(若林敦盛訳)』」
 ピラトやヘロデの尋問に対し、沈黙を貫いた主イエス、詩編第62篇の詩人ダビデ、この後に賛美する詩編第130篇の詩人、改革者ルター、J.S.バッハの信仰を私たちも大切にしたいと思います。真の信仰とは、自分の力を信じ、自分の足で踏ん張って神を信じ続けることではありません。罪も弱さもすべて神に委ね、「神は、御子の沈黙によって私の罪も弱さも赦してくださる」と心から信じ続けることです。たとえ、これ以上深い闇はないというところでも、相手が偽証によって私に襲いかかったとしても、復活と再臨の御子は必ず私を守ってくださると信じ、心を神に向け続けるのです。試練のときこそ、沈黙を貫かれた御子にすべてを委ねて歩んでまいりたい。十字架と復活、そして再臨の主イエスは、私たちを深い闇から永遠に救ってくださるのです。

(祈祷)
主イエス・キリストの父なる御神、まことの静けさを与えてください。御子の沈黙の姿の中に、あなた様を信じきって苦しみ、悲しみ、闘っている私たちのための僕としての主、主としての僕の姿を見ることができますよう導いてください。主よ、あなた様の御言葉の前に沈黙することを学ばせてください。沈黙から望みをもって生き始めることができますよう導いてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・本日の午後、M兄弟の病床洗礼の試問会を予定しております。どうか、主の御心が示されますように。祈りつつ懸命に介護しておられるM姉妹、またご家族を深く顧みてください。
・手術をなさられた兄弟姉妹、手術を控えている兄弟姉妹、療養を続けている兄弟姉妹、また献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・来週の主日は、教会総会を予定しております。主よ、どうか一人でも多くの教会員が出席することができますよう導いてください。
・教会総会後にはY姉妹の洗礼試問、さらにY姉妹の転入試問を予定しております。主よ、お二人の姉妹の上にもあなた様の御心が示されますよう導いてください。
・今朝の礼拝には、加藤常昭先生が久し振りに出席することが許されました。主よ、これからも加藤先生の心身の御健康を守り、お支えください。今年度も3回の説教奉仕を担ってくださいます。どうか、すべての説教のご奉仕を全うすることができますよう導いてください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年4月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第50章4節~11節、新約 ルカによる福音書 第22章63節~71節
説教題「見よ、主なる神が助けてくださる」    
讃美歌:546、12、162、250、539   

<第22章の最後>
私が東村山教会に着任した3年前から読み続けておりますルカ福音書も今朝の御言葉で第22章が終わります。来週から第23章に入ります。来週は、主イエスがピラトとヘロデから尋問される場面を読みます。その後、主イエスは死刑の判決を受け、十字架につけられ、息を引き取られるのです。そのような第23章に入る直前の今朝の御言葉は、あまり目立たない箇所かもしれません。けれども、今朝の御言葉も非常に重要なのです。早速、63節から読んでまいりましょう。

<お前を殴ったのはだれか>
 さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。
主イエスが激しい暴行を受けております。新共同訳聖書でも主の痛みを想像することは可能ですが、岩波書店訳(佐藤研訳)ですと、主の痛みが心に突き刺さります。「そして彼の番をしていた男たちは、彼を殴ってなぶりものにし続け、また彼に目隠しを巻きつけては彼にたずねて言うのであった、『予言して見ろ、お前を打ったのは誰か』。そして、冒瀆しながらそのほかの多くのことを彼に向かって言い続けた」。新共同訳と岩波訳で違うのは、新共同訳は、「侮辱したり殴ったりした」「イエスをののしった」と訳しておりますが、岩波訳では、「なぶりものにし続け」「彼に向かって言い続けた」と訳しているところです。つまり、岩波訳は連続の行為として訳しているのです。ただ一度、侮辱され、殴られたのではない。主はなぶりものにされ続け、ののしられ続けたのです。
見張りをしていた者たちは、主イエスに目隠しを巻き、叫びました。「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」主は沈黙を貫きます。主は真の人であると同時に真の神です。つまり、彼らに暴行をやめさせることは簡単なことです。しかし主は、彼らが殴り疲れるまで、ののしり疲れるまで抵抗することなく、忍耐し続けたのです。当然、主イエスの顔面は膨れ上がり、眼もただれたはずです。まさにボクシングでノックアウトを受けた選手のようになってしまった。いったい、主イエスを殴り続けたのは誰なのか?何と、御子を殴り続けたのは、父なる神なのです。もちろん、実際に殴ったのは見張りをしていた者たちです。けれども、そのような者を用いて殴り続けたのは、父なる神なのです。だからこそ、主は肉体の痛みに加え、ののしりという心の痛みにも耐えているのです。神は、御子に激痛を強いるほど、私たちの罪を本気で赦そうと願っておられる。さらに、私たちが経験する痛み、嘲(あざけ)りを神は御子に経験させているのです。

<主の僕>
今朝はルカ福音書に加え、旧約聖書イザヤ書第50章も朗読して頂きました。徹底的に侮辱された主イエスは、イザヤが預言した主の僕と重なります。6節と7節を改めて朗読いたします。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。
激痛と嘲りに顔を歪める主イエスの姿と重なります。御子はひたすら、神の義が成就されることを祈り、嘲りをいといませんでした。私たちキリスト者は、イザヤ書の「主の僕」が神の民イスラエルを指すからこそ、主イエスにおいて「主の僕」が成就したと信じるのです。今、苦しみの中にある人は、苦しみが永遠に続くように思うはずです。けれども、人は苦しみの中に置かれたとき、今まで見えなかったものが見えるようになる。そして、主の僕のように「見よ、主なる神が助けてくださる」との信仰が与えられるのです。何の苦労もなく、順風満帆なとき、今朝のイザヤ書、またルカ福音書を読んでも、「主の僕は辛い、主イエスはかわいそう、見張りをしていた者たちはとんでもない罪人」と思うだけかもしれません。けれども今、激しい痛み、苦難の中にあれば、主の僕である主イエスに慰められ、励まされ、すでに主は私と同じ痛みを経験しておられるとの確信が与えられ、主は私の痛みと共に苦しみ、共に争ってくださり、共に立ってくださる。主なる神が必ず助けてくださるとの信仰が与えられるのです。

<主イエス・キリストとは>
ルカ福音書に戻ります。66節。夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。
 冒頭で第22章の最後の部分も非常に重要と語りました。その根拠が66節以下です。最高法院での裁判は66節から71節の6節からなる短い箇所です。しかし、この6節に私たちが信じる主イエスはどのような御方なのか凝縮して書かれているのです。だから、私たちキリスト者にとって、第22章の最後は非常に重要なのです。丁寧に読んでいきたいのですが、まず67節に「お前がメシアなら」とあり、69節に「人の子」、さらに70節に「お前は神の子か」とあります。この「メシア」、「人の子」、「神の子」は、いずれも主の「称号」です。御子の名前はイエス。同時に、「メシア」、「人の子」、そして「神の子」とも呼ばれている。主イエスはこの世に何を実現するために生まれて下さったのか?それを「メシア」、「人の子」、「神の子」という三つの称号で言い表すのです。
「メシア」は、ヘブライ語の表記です。ギリシア語では、「キリスト」です。キリストは、油を注がれた王を意味します。神の民に決定的な救いをもたらす王です。今朝の御言葉では、主イエスが私たちに、神から送られた王としての務めをなさるということです。
次に「人の子」は、神が支配する永遠の世界において、神の支配を実現する担い手です。神の支配は、全能の神の右に座しておられる人の子を通じて実現するのです。神の真理、神の義が、永遠に世を支配するように働かれる御方が人の子、主イエスです。
また「神の子」は、真の支配者である神と人の子が、どのような関係にあるかを示しております。人の子は真の人であると同時に真の神です。主イエスをキリストと告白することは、主イエスを真の神、真の王として迎えることです。たとえ厳しい試練に襲われても、私たちの心にキリストを受け入れ続けたい。このような信仰が私たちキリスト者にとって非常に重要なのです。主イエスを裁いた民の長老会、祭司長、律法学者は、それが出来ませんでした。邪魔者は殺せ!と主イエスを処刑したのです。
主イエスを救い主と信じる信仰は、今、現在において信じるのは当然ですが、自分が生まれる前、また死んだ後も「私を支配するのは、主キリストである」と信じることが大切です。主をメシア、人の子、神の子と信じ続けることは、私たちキリスト者にとって非常に重要なことなのです。

<葬儀を終えて>
 先週の月曜日は、M兄弟の葬儀を執り行いました。葬儀ではMさんが愛された御言葉を読み、愛された讃美歌を賛美しました。葬儀が終わり、火葬も終わり、御遺骨になると、御遺族の悲しみは大変な厳しさだと思います。Mさんを約10年もの間、献身的に介護し続けたM姉妹の喪失感は言葉にすることのできないほど深いものであると思います。キリスト者のM姉妹は、主イエスの復活と再臨を信じておられます。もちろん、私たちも信じている。しかし、愛する者の死を経験したとき、改めて神から問われるのだと思います。「あなたは、心から永遠の生命を信じますか?」。そのとき、私たちは改めて主イエスとはどのような存在であるのかをしっかりと心に刻むことが大切だと思うのです。「主イエスはどのような方かわからないがただ何となく信じます」では、愛する者の死というもっとも厳しい人生の危機に立ったとき、私たちの信仰はグラグラし、最悪は信仰を保ち続けることが困難になるかもしれません。では、どうすれば私たちは信仰を保ち続けることができるのでしょう?それは、礼拝を守り続けることです。礼拝において同じ痛みを経験した兄弟姉妹と共に、御言葉に耳を傾け、十字架と復活そして再臨の主を賛美し、主の憐れみを祈り続ける。そのとき、私たちに聖霊が注がれ、どんなに弱く崩れそうになっても、主が支え、主が守り、主が私たちの全存在を永遠に助けてくださるのです。

<『獄中の朝の祈り』より>
 ドイツの神学者であり、牧師であったディートリッヒ・ボンヘッファーは、ヒトラー暗殺計画に参画したかどで投獄され、僅か39歳で処刑されました。ボンヘッファーの獄中の朝の祈りがあります。一部を紹介します。主イエス・キリストよ。あなたは私のように貧しく、みじめで、捕われ、見捨てられ給いました。あなたはあらゆる人間の困窮を知り給います。たとえ一人の人間も私の側にいなくても、あなたは留まり給います。私を忘れることなく探ね求め給います。私があなたを認め、あなたのもとに帰ることを、あなたは望んでおられます。主よ、あなたの呼び声をきいて御跡に従います。私に助けをお与え下さい。
ボンヘッファーが絞首刑になって僅か3週間後、ヒトラーが自ら命を絶ち、ナチス体制は崩壊しました。私たちの人生はいつ何が起きてもおかしくない。キリスト者も例外ではありません。しかし、主イエスは私たちの困窮をご存じであられる。それも主イエスが侮辱され、殴られ、目隠しをされ、ののしられ、最後は十字架の上で絞首刑のように一気に処刑されるのではなく、ジワジワと十字架刑で処刑されたのです。だからこそ、厳しい試練の中にあっても、深い喪失感に襲われ、茫然としても、メシアであり、人の子であり、神の子であり、今は全能の神の右に座し、日々、私たちに聖霊を注ぎ続けてくださる主イエスに祈り続けることができるのです。獄中のボンヘッファーのように。「主よ、あなたの呼び声をきいて御跡に従います。私に助けをお与え下さい。」
主は私たちの祈りを心から喜んでくださいます。そして、どんなに神様から見捨てられたように感じるときも、主は私たちを見捨てることなく、私たちを必ず助け続けてくださるのです。そのためにも、礼拝から礼拝への歩みを大切にしたい。主は、私たちの歩むべき道を必ず備えてくださるのです。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・M兄弟の奥様 M姉妹、御遺族の皆さまの上に主の慰めと励ましを溢れるほどに注ぎ続けてください。
・今朝も朝9時からこの礼拝堂で教会学校の礼拝が行われました。主よ、教会の子どもたちを祝福してください。また子どもたちのために朝早くから仕えている教会学校の教師を強め、励ましてください。
・今、洗礼を志願している姉妹、病床洗礼を志願している兄弟、転入会を志願している姉妹を強め、励ましてください。求道生活を続けているお一人お一人をこれからも守り、導いてください。
・手術をされた兄弟姉妹、入院、手術を控えている兄弟姉妹、療養を続けている兄弟姉妹、献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・本日、同じときに国分寺教会で説教を担っておられる加藤常昭先生の心身の御健康をお守りください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年4月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 民数記 第6章22節~27節、新約 ルカによる福音書 第22章54節~62節
説教題「まなざしを向けてくださる主」    
讃美歌:546、27、248、259、545B

<ペトロの涙>
主イエスを捕縛した人々は、主をオリーブ山から大祭司の家に連行しました。家には中庭があり、夜が明ければ長老や祭司長、律法学者が集まり、主イエスの裁判のために最高法院が開かれます。
ペトロは、自らも捕縛される不安を抱きつつ、主から遠く離れて従いました。そして、人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、共に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろしたのです。
 ペトロがいるのは、イスラエルの南に位置するユダヤ地方の首都エルサレムです。主イエスと弟子たちは、北のガリラヤ地方の出身のため、ガリラヤ訛りで喋ります。ペトロは、そのガリラヤ訛りで主イエスとの関係を全面否定したのです。そして三度目に「あなたの言うことは分からない」と言った瞬間、鶏が鳴き、主は振り向いてペトロを見つめられました。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出し、外に出て、激しく泣いたのです。
 では、ペトロはこの後、どうしたでしょう?おそらく、自宅に身を潜め、悶々としていたはずです。「私は、主の予告通り、主を三度も裏切ってしまった」と、日々、悔い改めの祈りを献げていたに違いありません。
では、主イエスはそのとき何をしておられたでしょう?十字架で苦しみつつ、ペトロの信仰が無くならないように祈り続けたはずです。主イエスの執り成しの祈りは、復活されてからも変わりません。主イエスは日々、私たちの信仰が無くならないように祈り続けておられるのです。

<ペトロの試練>
ペトロが立ち直るために、主イエスの執り成しの祈りは不可欠です。同時に、ペトロが立ち直る具体的なきっかけを作ったのは、婦人たちでした。 
ペトロは、主イエスの復活を証言したマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、また一緒にいた婦人たちの「主は甦られた」に心が震えたのです。裏切りの罪と真摯に向き合い続けたペトロだけが立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞきました。すると、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰ったのです。
 ペトロが主を三度も裏切った行為は重大な罪であることは間違いありません。同時に、その後のペトロを導いた神様からの試練であったことも間違いないのです。私たちは知っています。あの時、あのような試練がなければ、今の私はないという出来事を。私たちは、どんなに完璧に生きようと思っても神様ではないので、必ず失敗し、必ず罪を犯し、必ず挫折します。しかも、突然に罪を指摘されると大いに動揺し、「私は間違っておりました」と素直に言えない。「絶対にそんなことはしておりません。私は全く関係ありません」と平気で嘘をついてしまうことがある。私たちに絶対とか、全くとか、100%正しいということはないのだと思います。必ず隙がある。ペトロも大いに動揺しました。むきになったのです。女中のまなざしに震えたのです。元漁師のいかつい男が、当時の社会において、もっとも低い立場の女中にじっと見つめられ、「この人も一緒にいました」との証言に大いに慌てた。その結果、「わたしはあの人を知らない」と主イエスとの関係を全面否定したのです。こんなに悲しいことはありません。こんなに情けないことはありません。しかし、主イエスはすべてご存じです。ペトロは必ず私を知らないと言うだろうと。同時に、主イエスはペトロには徹底的に自分の弱さ、罪を心に刻みつけて欲しいと思ったはずです。中途半端な弱さではダメだ、中途半端な罪でもダメだ。徹底的に自分は弱い、徹底的に自分は罪深いと心に刻んで欲しいと。その意味で、ペトロにとって、主イエスを三度も否定した事実と、その瞬間に鶏が鳴いたこと、そのもっとも情けない瞬間に主イエスが振り向いて見つめられた眼差し、そして激しい涙はどうしても必要だったのです。

<ペトロの説教>
 ペトロは、聖霊降臨の日、神の赦しと憐れみによって、御子の復活の喜びを説教しました。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。(使徒言行録2:32)」説教に耳を傾けていた人々は、大いに心を打たれ、ペトロたちに尋ねました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」ペトロは彼らに命じました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。(使徒言行録2:38〜39)」どうでしょう。あの情けない、号泣したペトロが堂々と「悔い改めなさい」と語っている。決して上から目線ではありません。ペトロは、説教でこのように語ったかもしれません。
 「私は、主を裏切りました。しかも、三度も。主イエスに深く愛され、主に赦され、主に期待された私が、主が大祭司の家に連行されたとき、私は女中の『この人も一緒にいました』の一言で動揺し、主をあっさり裏切ったのです。一回なら、言い訳ができたかもしれません。しかし、少したってから、ほかの人から同じように言われたのです。『お前もあの連中の仲間だ』。すぐ裏切りました。『いや、そうではない』。さらに一時間後、また別な人が言うのです。『確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから』。私は、『ガリラヤの者だから』で頭が真っ白になったのです。ガリラヤ訛りは隠すことができません。皆さんもおわかりでしょう。でも、ガリラヤ訛りの私、ガリラヤの漁師に声をかけてくださったのは十字架と復活の主イエス・キリストでした。それなのに、私は『あなたの言うことは分からない』と言ってしまったのです。今も、その瞬間を忘れたことはありません。あの瞬間、私の裏切りを待っていた鶏(にわとり)が鳴いたのです。すると、主が振り向いて、悲しい憐れみに満ちた顔でまなざしを向けてくださったのです。主の瞳に捕らえられた瞬間、私は心の底から悔い改めました。『主よ、憐れみたまえ』と祈ったのです。だからこそ、私は語り続けます。私の裏切りを、私の涙を、主イエスの赦しと復活の生命を。皆さん、悔い改めて欲しい。『私は絶対に間違っていない』と言い張るのではなく、本気で悔い改めて欲しい。そして洗礼を受けて欲しいのです。すると、本当に罪が赦されます。私も赦されました。だからこそ、説教しているのです。赦されなければ、どうして説教することができるでしょうか?女中にまで嘘をついた私が。それほどまで主の十字架の赦し、復活による永遠の生命は大きな恵みなのです。」
 その日、ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、三千人ほどが仲間に加わりました。これが主イエスの御業です。情けないペトロを用いて、三千人の信徒を加えられた。そうです。私たちも弱さを誇ってよいのです。なぜなら、そのような者こそ、主イエスのまなざしの深さ、愛の深さ、赦しの深さ、憐れみの深さを強く感じ、心から主に感謝することができるからです。

<アロンの祝福>
 今朝の旧約聖書の御言葉は、「アロンの祝福」と呼ばれております。東村山教会では第一の主日に、「アロンの祝福」が祈られます。改めて、朗読させて頂きます。民数記第6章24節以下。主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。(6:24~26) 
アロンの祝福では、主の御名が三度繰り返されております。主の御名が三度繰り返されることの中に神学者たちは伝統的に三位一体の神、つまり父なる神、子なる神(キリスト)、そして聖霊なる神が示されていると指摘しております。主を御子キリストと理解することは私たちキリスト者にとって大切なことです。三度も主を否定したペトロのみならず、罪深く、弱さを抱えている私たちこそ、御子に祝福され、守られ、御顔を向けて光を照らされ、さらに、御顔を向けて頂き、平安を賜ることは本当に大切なことであり、永遠の喜びとなるのです。

<葬儀を控えて>
 明日は、午後1時からM兄の葬儀が執り行われます。昨日、納棺式を終えて教会に戻り、今夜の前夜棺前祈祷会、さらに明日の葬儀の準備をしていたとき、M兄が最後に主日礼拝に出席されたのはいつだったか気になり、出席名簿を確認しました。すると、2011年12月18日でした。残念ながら、翌週12月25日クリスマス礼拝には〇がありません。その後も、M兄の欄は空欄。つまり、6年4ヶ月も礼拝から離れていたのです。だからこそ、主はM兄に慈愛に満ちたまなざしを注ぎ続けました。大変な闘病生活であったことは皆さんの方がご存じであると思います。約10年間、懸命に介護し続けたM姉は心身ともに限界だったはずです。M兄は生命の危機を主のまなざしによって何度も乗り越えさせて頂いた。そして今、すべての痛み、苦しみから解放され、神の懐で安らかに憩っておられる。そのM兄を囲んでの最後の礼拝が執り行われます。もちろん、喪主としてM姉も6年4ヶ月振りに教会にいらっしゃいます。ぜひ、今日と明日と続きますが、体力の許される方は明日も教会にいらして頂けたら有難く存じます。そして、M兄が愛唱された聖句に耳を傾け、愛唱された讃美歌を共に賛美したいと願います。罪赦されたペトロが語り続けたのは、キリストの復活であり、魂の救いであったことは間違いありません。

<魂の救い>
最後に「ペトロの手紙一」の御言葉を共に心に刻みましょう。あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。(1:7~9)
 M兄も約10年間の闘病生活で厳しい試練に悩み続けたはずです。また、懸命に介護し続けたM姉も厳しい試練に悩み続けたはずです。そして今、厳しい痛みに襲われている。しかし、あの裏切りを三度も繰り返したペトロは宣言するのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。そうです。どんなに礼拝から遠ざかり、どんなに厳しい試練に襲われ、また、どんなに主を裏切ってしまっても、罪を悔い改め、十字架と復活、そして再臨の主イエスへの信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者は例外なく、魂の救い、永遠の生命が約束されているのです。私たちもペトロのように大胆に自らの罪、弱さを証し続けたい。それが今朝も私たちに憐れみに満ちたまなざしを向けてくださる主イエスの愛と赦しに応える唯一の道なのです。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・M兄弟が召されました。深い悲しみの中にあるM姉妹、御遺族をお支えください。慰めを注ぎ続けてください。明日の葬儀に一人でも多くの教会員が出席することができますようお導きください。
・手術をなさられた兄弟姉妹、手術を控えている兄弟姉妹、療養を続けている兄弟姉妹、また献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。特に、先週に引き続き、今朝も礼拝を欠席された加藤常昭先生の心身の健康をお守りください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年4月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第29章13節~16節、新約 ルカによる福音書 第22章47節~53節
説教題「闇を恐れず、神を畏れる」    
讃美歌:546、7、156A、523、545A、Ⅱ-167  

<主に近づくユダ>
先週はイースター礼拝でしたので、ルカ福音書から離れて、ヨハネ福音書の御言葉を共に味わいました。本日から、再びルカ福音書に戻ります。
主イエスは、いつものようにオリーブ山に行かれると、ひざまずいて祈りました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください(22:42)。」主は、苦しみもだえ、いよいよ切に祈られたのです。
主が祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいたのです。主は言われました。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。(22:46)」それからも、主は祈りについて話しておりました。その「時」です。群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、主に接吻をしようと近づいたのです。主イエスは言われました。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか(22:48)」。
 「接吻」と訳されたのは、φιληματι(フィレィ マティ)という原語です。「愛する」と訳されることの多い言葉です。アメリカのペンシルベニア州にフィラデルフィアという都市がありますが、ギリシア語のフィロス(愛)とアデルフォス(兄弟)から命名された地名です。このような愛、つまり「友愛」を意味する言葉が、「くちづけをする」という意味を持ったのです。ですから、主イエスの言葉をこのように訳すことができます。「ユダ、あなたは愛をもってわたしを裏切るのか」。大変に厳しいお言葉です。同時に、主イエスの憐れみに満ちたまなざしを感じます。
 ユダはユダなりに主イエスを愛していたはずです。しかし、ユダは死の恐れに取り憑かれているようです。主が殺される。そして、いずれ自分も殺される。死の恐れに取り憑かれた結果、ユダは祭司長たちの所に行き、主イエスを引き渡すことを相談し、オリーブ山の祈りの場、ゲツセマネの園に来たのです。

<闇を恐れる弟子>
 続く49節。イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。剣を振るったのは、ヨハネ福音書にはシモン・ペトロと明記されております(18:10)。この行為は、信仰的ではありません。主の御心に従わず、剣を振り回しただけです。それも、狙って切り落としたというよりも、わーっ!と叫び、剣を振り回したら、切り落としてしまったというのが正しいように感じます。つまり、ペトロもユダと同じように死を恐れた。剣は、自分たちが抱いている恐怖のしるしなのです。
主は言われました。「やめなさい。もうそれでよい」。主は、「彼らのやる通りにさせなさい」と命じた。主イエスの覚悟を感じます。主は死から逃げておりません。捕縛を意識しているからこそ、直前まで血の汗を滴らせ神に祈り続けた。主は祈りによって、十字架の死を御心として受け入れました。だからこそ、主は「やめなさい。もうそれでよい」と言われたのです。
この後、「その耳に触れていやされた」とありますから、主は弟子の行動を全面的には肯定されていないことは確かです。主の愛、主の憐れみは、大祭司の手下をも包み込むのです。主は、剣によって御国を建設することは反対です。同時に、弟子たちの剣を振り回す行為に、主イエスを命がけで守ろうとする心を感じつつ、実際は、弟子たちも闇を恐れる心に支配されていることを、主は強く感じているのです。

<闇を恐れる祭司長たち>
 続く52節。それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」 
恐れに支配されているのは、ユダを含む十二弟子に加え、御子を捕縛しようとする「群衆」や、彼らを引きつれてきた「祭司長、神殿守衛長、長老たち」も同じです。彼らは民衆を恐れています。だからこそ、エルサレム神殿の境内で主イエスの言葉尻を捕らえて、主を捕まえようとしましたが失敗したのです。しかし、ユダの裏切りによって、主を暗闇に紛れて捕縛する機会に恵まれた。彼らは群衆を引き連れ、ゲツセマネの園にやって来たのです。剣や武器になる棒を持って。そこで主は、「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」と言われたのです。
「闇が力を振るっている」は、ルカ福音書だけが伝える主イエスの言葉です。この言葉は意訳です。では、原文はどうなのか。直訳すると、こうなります。「これはあなたがたの時、そして闇の支配」。目の前に闇の支配がある。目の前に闇が満ちている。愛をもって、主である私を裏切るという行為が、私の目の前で起こっている。「闇の支配」そのものです。ここで、「闇」と訳されたのは、σκοτους(スコトゥース)という原語。意味は「暗闇の」となる。まさに、主イエスの目の前に暗闇がある。復活の光から遮断された空間がある。真の光である主イエスのお言葉と考えると、闇はより深く、より暗く感じます。
 ジェームス・デニーというスコットランド教会を代表する神学者がおります。デニーが『闇の中の歩み』という書物に、このような言葉を記しております。「心の中に、神からも、人間からも隠された何かがある時には、闇は可能な限り深く、恐ろしいものになっている。」確かにその通り。私たちはそのようなことは不可能であると知っていながら、犯してしまった罪を神に隠そうとします。今、さかんに「隠蔽(故意におおいかくす)」という言葉が様々な報道を通して登場します。実際、「隠蔽」で検索すると、「イラク日報隠蔽」、「防衛大臣『隠蔽にあたるか、厳密に調べる』陸自日報」と出てまいります。罪を「隠蔽」したいと思ってしまう心は、私たちすべてにある。私たちは皆、「私にも闇があります」と罪を認め、悔い改めなければなりません。反対に、罪を認め、悔い改めつつ、主イエスに信仰を告白すれば、私たちの罪は十字架と復活の主によって完全に赦されるのです。けれども、どこまでも隠し、どこまでも罪を認めなければ、私たちの闇は限りなく深く、限りなく恐ろしいものになってしまうのです。

<イザヤ書第29章から>
 今朝は、ルカ福音書に加えて、旧約聖書イザヤ書第29章を朗読して頂きました。改めて朗読させて頂きます。13節以下。主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別(ふんべつ)は隠される。」災いだ、主を避けてその謀(はかりごと)を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか/「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか/「彼には分別(ふんべつ)がない」と(29:13~16)。 
心の奥に突き刺さります。まさに神を畏れず、闇を恐れる私たちの心、隠蔽の罪を暴露される御言葉です。神は語ります。「神を畏れ敬うことに、真実の心が伴わなければ、真の礼拝ではなくなる。あなたは今、真実の心で私を礼拝しているか。ただ形式的に礼拝していないか。私があなたを創造した。当然、あなたの心をすべて知っている。だから隠そうとしなくていい。無駄な行為だ。それなのにあなたはまだ罪を隠そうとするのか、隠そうとすることがもっとも深い罪であり、闇なのだ。」

<闇を恐れず、神を畏れる>
 最後に、今朝の説教題を御一緒に心に刻んで終わりたいと思います。今回も悩みましたが、最終的に「闇を恐れず、神を畏れる」としました。私たちは様々なものを恐れます。失敗を恐れ、他者の評価を恐れ、病を恐れ、死を恐れる。それら恐怖の対象を強引ですが一言でまとめると「闇」になるかもしれません。けれども、インマヌエルの主イエスへの信仰を告白した私たちキリスト者は、闇を恐れる者から、神を畏れる者へと変えられたのです。
「神を畏れる」の「畏れ」は、「闇を恐れず」の「恐れ」という字ではありません。なぜなら、創造主なる神は、被造物である私たちにとって恐怖の対象ではないからです。神を畏れるの「畏れ」は、「畏怖」の「畏」、畏れ敬うという字を使います。この「畏怖」の「畏」には、神に心から信頼する、という意味が含まれているのです。私たちキリスト者は、ただ神のみを神として畏れ、敬い、礼拝する群れです。その意味で、礼拝を疎かにすると、途端に私たちの心は暗闇に覆われ、神の眼差しに鈍くなってしまうのです。すでに新しい年度がスタートしております。今年度も東村山教会に連なる私たちは、闇を恐れる者でなく、神を畏れる者として、神にすべてを委ねて歩み続けたい。そのとき、私たちの心から闇は去り、主イエスの復活の光に包まれるのです。


(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・今、様々な心の闇に悩み、苦しんでいる方々を守り、導いてください。特に、様々な困難を強いられている被災地の方々にあなたさまが寄り添ってくださり、生きる力を日々、注ぎ続けてください。
・新しい環境に必死に慣れようとしているお一人お一人を強め、励ましてください。また、色々なことが動き出す季節、思うように心も身体も動かすことができず、社会から取り残されたような思いに苦しんでいる方々がおられます。主よ、どうかそのような方々にこそ、復活の光を注ぎ続けてください。お願いいたします。
・手術をなさられた兄弟姉妹、手術を控えている兄弟姉妹、療養を続けている兄弟姉妹、また献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・5月20日のペンテコステ礼拝で洗礼を希望している姉妹、病床洗礼を希望している兄弟、転入会を希望している姉妹を導いてください。また求道生活を続けている兄弟姉妹を導いてください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年4月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第126篇1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第20章11節~18節
説教題「嘆きの涙を喜びの歌に」    
讃美歌:546、151、154、Ⅱ-1、522、544     

<マグダラのマリアの涙>
 愛する人の死。私たちはその痛みをいつの日か経験しなければなりません。
マグダラのマリアもその痛みを経験しました。心の底から愛した主イエスが、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られたからです。
マグダラのマリアは、私たちの想像力をかきたてる婦人です。ルカ福音書は、主イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人として、マリアを登場させます(ルカ福音書8:2)。そのこともあって、直前(7:36~50)に登場する「罪深い女」もマグダラのマリアではないかと推測されるようになったのです。そのマリアが、すべての福音書の十字架と復活の場面に登場する。以上より、初代教会に於いて、マグダラのマリアの存在がいかに大きかったかを、その事実は示しています。
マグダラのマリアは、主イエスの十字架のそばに立っていました。おそらく、主イエスが衰弱していく様子を見つめていたはずです。そして最期、主が頭を垂れて息を引き取られた。その瞬間、頭が真っ白になり、座り込んだかもしれません。私たちは大きなショックを経験すると、泣けないことがある。ある方から伺いましたが、愛する伴侶が召された。その直後は葬儀や相続の手続きに追われ、心の底から泣くことが出来なかった。数ヵ月後に、色々なことも落ち着き、ふと伴侶がいないことに気がつく。その瞬間、まるで津波のように一気に悲しみが押し寄せ、涙が溢れ、泣き続けた。すべての人がそうなのかわかりません。けれども、その方はそのように語ってくださいました。マリアの涙は、そこまで深い涙ではなかったかもしれません。それでも、主イエスの御遺体にいつまでも寄り添いたい!香油を注ぎ続けたい!そう願ったはずです。そこで安息日が明けた日曜の朝、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは香油を持って墓に行ったのです。
ところがです。墓の石が取りのけてある。動転したマリアは、走り出したのです。まず、シモン・ペトロのところへ、また、主が愛しておられたもう一人の弟子のところへ。マリアは告げたのです。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」マリアは、大いに動転し、何が何だか分からなくなっています。けれども、主イエスの墓へ再び向かっているのです。マリアは墓の外に立って泣いています。どのように泣いていたのか聖書に書いてありません。さめざめと泣いていたかもしれません。 
マリアは泣きながら身をかがめて墓の中を見ました。すると、白い衣を着た二人の天使が見えたのです。マリアはこの段階で相当に混乱していたはずです。石はない。主イエスの御遺体もない。泣きながら墓の中を見ると、見たこともない白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っている。本来なら、逃げ出すところかもしれません。しかし、マリアにはそのような気力もない。ただ、その場にへたり込んでしまったのです。
マリアの耳に、天使たちの声が響きました。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。マリアは言いました。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

<主イエスの声>
 そのときです。マリアは二人の天使とは違う人の気配を感じた。私たちにもあります。何となく人の気配を感じるとき。気になって後ろを振り向く。でも誰もいない。あるいは、人の気配を感じ、後ろを振り向く。本当に人が立っていることがある。しかし、深い悲しみの中でうずくまっているとき、人の気配を感じ、後ろを振り向いても、その人が誰だかわからないことがある。まして、泣いているときは、涙で目が滲み、目の前に立っている人が分からない。そのようなことは私たちも経験したことがあります。しかし、不思議なことですが、私たちはその人の表情より声でその人の心を強く感じるときがある。ときに、声にならない声で、その人がいかに自分のことを強く感じているのかが伝わるときがある。「呻き」が良い例です。「ああ、この人は呻くほどに私のことを強く憐れんでくれている」と感じるときがある。その意味で声は、文字や表情とは違う感覚を私たちに与えてくれるものだと思います。
 マリアは、まさにそのような声を聴いたのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」復活の主イエスの最初の声は、二人の天使の声と全く同じ。「婦人よ、なぜ泣いているのか。」もちろん、マリアも天使の声ではないことはわかったはずです。しかし、全く同じ質問ですから、まさか復活の主イエスの声だとは思いもしなかった。声の主は園丁だと思ったのです。しかし、声の主は言葉を続けた。「だれを捜しているのか。」マリアは、少しイラついたかもしれません。わかりきっていることを聞かれると私たちもイラつくことがある。しかも、色々な人から同じことを繰り返し問われる。我慢も限界!となることもある。嬉しい質問なら、何回でも答えるでしょう。喜んで。しかし、触れられたくない質問を不躾に繰り返し問われると、頭に血が上る。マリアは、少し相手を責めるような口調だったかもしれません。こう言ったのです。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
 その瞬間は、突然訪れました。「マリア」。マリアの胸はドキンとしたはずです。それまで色々な感情がごちゃ混ぜになり、泣いたり、イライラしたり、落ち込んだり、興奮したり、それが、主イエスの「マリア」で解き放たれた。それまで園丁だと思い、おそらく下を向いて、相手を責めるように答えていた。「わたしが、あの方を引き取ります。」それが、「マリア」によって、明確な意思によって振り向き、「ラボニ(先生)」と復活の主に答えたのです。
16節に「振り向いて」とあります。確かに、マリアは振り向いた。同時に、「振り向いて」は、単に行為としての「振り向いて」ではなく、自分を捨て、本当の意味で全てを主イエスに献げる。自分の全存在を主に委ねる。今までの罪を悔い改める。まさに方向転換。今まで「私は罪人、私は哀れ」と、自分にばかり向いていた心を、180度グルっと回転し、主イエスに全てを委ねる。そのような「振り向いて」なのです。
復活の主イエスもマリアの「ラボニ(先生)」を心から喜ばれたはずです。だからこそ、マリアに伝えなければならないことがある。罪人マリア、誰にも相手にされないマリア、誰よりも私を愛しているマリア、だからこそ、復活の主イエスは、マリアに深い愛情を持って告げたのです。

<わたしは上る>
17節。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
 主イエスは明確に言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。」
ここで「すがりつくのはよしなさい」と訳された言葉は、注目すべき言葉です。ヨハネ福音書では、ここだけに登場するαπτου(アプトゥー)という原語です。手で触るという感じではない。くっつくとかひっつくとかいう密着する感じの言葉のようです。では、いったいなぜ、すがってはいけないのでしょう?密着してはならないのでしょう?主イエスは神様だからです。すがりついて、抱え込んで、マリアだけの愛する男性にすることのできない御方だからです。主イエスはそのような愛を断ち切る。主イエスの聖さがここに現れています。
私たちも、主イエスの復活に慣れてしまったらとんでもないことになります。キリストが甦られたことは、畏るべき神の真実、出来事です。人類の歴史に、これほど明確に神の光が輝いたことはないのです。その認識がないと、復活を本当の意味で喜び、感謝することは出来ないのだと思います。 
では、主イエスはマリアに冷たく接したのでしょうか?反対です。「マリア」と名前を呼んでくださった。復活された主が最初に呼ばれた名前は、「マリア」なのです。母マリアでなく、マグダラのマリア。人々に虐げられ、馬鹿にされ、悪女の中の悪女と言われた「マリア」。そのマリアに、大きな使命を託された。それは、復活の証言者として語り続けること。復活の主が、今から何をなそうとしているのか、その大切な御業を宣べ伝えて欲しい!という使命なのです。
 マリアは、主イエスの言葉に深い愛と慰めと励ましを感じたはずです。そうでなければ、「ラボニ、なぜあなたはそのような言葉を私にぶつけるのですか!」と泣き続けたはずです。しかし、そうでなかった。むしろ、「そうなのか!」と心が熱くなり、「主は甦られました!私は復活された主イエスを見たのです!声を聴いたのです!『なぜ泣いているのか』と言われたのです!そうです。私はもう泣かなくてよいのです!泣かないどころか、喜んでいいのです!だって、主は本当に甦られたから!そして、もう私がギュッツと主の御足、御腕を抱え続けなくてよいのです!いつ私から去ってしまうか、いつ別な人に連れていかれるかとビクビクしなくてよくなったのです!だって、主は甦られ、これから父なる神のもとへ上っていかれるのですから。確かに、もう主の足の温もりを感じることはできなくなる。でも私の耳には、永遠に「マリア」が響くのです。主イエスの耳にも、私の「ラボニ」が永遠に残る。こんなに嬉しいことはない。こんなに喜ばしいことはないのです!」マリアの喜びは、信仰告白し、洗礼を受けた私たちすべてのキリスト者に全く同じようにおこるのです。

<嘆きの涙を喜びの歌に>
今朝、ヨハネ福音書と共に朗読して頂いた詩編第126篇には慰めに満ちた御言葉が記されております。5節。涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌を歌いながら帰ってくる。ドイツの神学者クラウス・ヴェスターマンは、5節、6節について、このように解説しております。個人の生活の断片が、深刻な危機(「涙をもって種を蒔くこと」)の中から開始する。だが、その最終点でその人を待っているものは、素晴らしい人生の大転換である。この数節には、単に可能性や願望が描かれているのではなく、そのような時が必ずや来るという確信が語られている。
旧約の民は、主イエスが甦られたことを知りません。けれども、いつの日か神によって御子が遣わされ、死から生を造り出すと信じ、御子の復活によって嘆きの涙を喜びの歌にすることができると信じ続けたのです。そうであるなら、復活の主イエスに名前を呼ばれた私たちは、たとえ復活の主イエスを目で見ることができなくても、たとえ復活の主イエスの足にすがりつくことができなくても、たとえ愛する伴侶、祖父母、両親、子ども、孫、隣人が召され、嘆きの涙がいつまでも渇くことがなくても、泣きながら、喜びの歌を賛美することができる。死の闇に復活の光を注ぎ、嘆きの涙を喜びの歌にするのは、甦られた主イエス・キリストなのです。
 主イエスは甦られました。そして、地上から神のもとへ上っていかれます。その時、悪霊の虜になっていたマリア、体を売っていたマリア、世の人々から見下され、捨て去られたマリアが、主イエスに名前を呼ばれ、「わたしは主を見ました!」と告げ、喜びと感謝をもって「主は復活されたのです!」と証言しているのです。新しい年度、2018年度がスタートしました。今年度も、礼拝から礼拝への歩みを大切に、復活の主イエスを喜び、誇りつつ共に歩んでまいりましょう。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、マグダラのマリアの物語が私たちの物語となり、私たちもまた、それぞれにマリアのように主によって生かされている、その喜び、さいわいを分かち合うことができ感謝いたします。甦りの信仰に生かされ、主の生命に生き続ける教会であることができますように。主はお甦りになられました。ここに私たちの信仰の確かさがあり、愛の確かさもそこに根ざすことをはっきり知ることができますように。主イエス・キリストの甦りの生命の光を、どうぞ私たちも心一杯に、身体一杯に受けることができますよう導いてください。み言葉を聞かせてください。人の言葉でなく、主の言葉が、私たちに分かりますように。そこに生まれる心燃える思いに生かしてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・新年度が始まりました。新しい環境で、その一歩をスタートする一人一人を強め、励まし、導いてください。
・大きな手術を行い、療養を続けている兄弟姉妹、これから手術を控えている兄弟姉妹、献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・受洗を志願している姉妹、転入会を志願している姉妹を強め、励ましてください。熱心に求道生活を続けている兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・今朝も病のため、また様々な理由のために、イースター礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。