2019年度メッセージ



2020年3月29日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第14章9節~10節、新約 マタイによる福音書 第7章15節~20節
説教題:「本物と偽物」
讃美歌:546、27、252、334、544        

今日は、2019年度 最後の礼拝です。新型コロナウィルスの流行により、礼拝の縮小を余儀なくされ、限られた讃美歌のみを賛美する状況が続いております。だからこそ感じるのです。日々の生活、毎週の礼拝も当たり前なのではなく、神さまから頂いている大きな恵みであると。
2020年度は、受難週礼拝からスタートします。困難の中でも、十字架を仰ぎ、新年度を迎えることが許されております。困難の中だからこそ、偽りの福音ではなく、真の福音に生かされる群れとして歩み続けるために、主イエスの警告を大切に聞きたいと思います。
主イエスは言われました。「偽(にせ)預言者を警戒しなさい。」弟子たち、そして私たちに警戒宣言を発令しておられます。緊急事態なのです。もっともらしい言葉にまんまとひっかかって、滅びに至る広い門を くぐって行く人が 多いのです。おそろしいことです。
19節以下、またそのあとに続く来週の み言葉を読みますと、暗い気持ちになります。けれどもまた、それは、よく警戒していれば避けることができる、との主イエスからの励ましでもあるのです。
「警戒しなさい。」と訳されている元の言葉は、目を覚ましていること、心を集中し、じっと目を凝らし、対象となるものを見つめる、との言葉です。「騙されないように、よくよく見極めなさい」ということです。集中して、よくよく見つめていないと、コロッと騙されてしまうのです。誰に騙されるのでしょうか?偽預言者です。
「預言者」とは、神さまの言葉を預かる者です。大切な働きを神さまから託されている存在。だからこそ、神さまの前に どこまでも謙遜に、弱く 小さな者として神さまに委ね、神さまに従い、神さまからの警告も、励ましも、一言も割り引くことなく、また一言も足すことなく、人々の心に届けるのです。
一方、偽預言者は、「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来る」と書いてあります。それくらい、真の預言者との見分けがつきにくい、ということです。モーセ、イザヤ、エレミヤ等、旧約聖書の時代より、多くの預言者が神さまの言葉を預かり、人々を諫(いさ)め、励ましてきました。しかし、多くの場合、彼らは迫害されました。主イエスの前に現れた真の預言者 洗礼者ヨハネも殺されました。偽預言者の語るもっともらしい、耳触りのよい言葉の方が重んじられたのです。
偽預言者は熱心です。忠実なのです。聖書に精通し、誰よりも真面目に自分が正しいと信じる道を慎重に歩んでいる。そして多くの人の尊敬を集めているのです。羊の群れのリーダーに見えるのです。本人も自分は正しいことをしていると思い込んでいる。自分の正しい行いこそが神の み心と信じて疑わない。
しかし、その生き方は、いつの間にか 神さまが不在になっている。神さまをどこかにすっ飛ばし、自分の良い行いが一番大切になっている。その致命的な違いのゆえに、「それは羊の皮を被った狼だ」と主イエスは言われるのです。

主イエスは、第21章33節以下で「ぶどう園と農夫」のたとえを話されました。あらすじはこうです。
ある家の主人が、ぶどう園を農夫たちに貸して旅に出ました。収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕(しもべ)たちを農夫たちのところへ送ったのです。けれども、何と農夫たちは最初に送られた僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺したのです。
主人は諦めずに、続いて前よりも多くの僕たちを農夫たちのところへ送りました。しかし、農夫たちは同じように僕たちを殺してしまいました。それでも主人は諦めない。最後に、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と何と自分の息子を農夫たちに送ったのです。さすがに主人の息子ですから、敬意を表して、収穫を預けると信じていた。けれども、やはり農夫たちは息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して、殺してしまったのです。
このたとえ話の ぶどう園に送られる度に袋叩きにされた僕たちは、モーセやイザヤやエレミヤなどの預言者たち。そして、「最後の切り札」として送られた主人の息子が、神さまの独り子 主イエス・キリストです。神さまが預言者の中の預言者として最後に遣わされた主イエス。主イエスこそ 真の預言者なのです。
人々は、その主イエスの言葉を疎んじ、偽物の語る言葉を重んじて、神さまに頼らず、自分の行いを愛する余りに、「神の御子など必要ない」と叫び、とうとう十字架へと追いやりました。その姿は、自分のする良いことをすぐに誇りたがる私たちの姿そのものです。神さまを愛し、主イエスを愛しているつもりでも、いとも簡単に、偽物に変質してしまう私たちだからこそ、真の預言者 主イエスは、「滅んで欲しくない!」と み言葉をくださったのです。
主イエスは、「あなたがたは その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、
あざみから いちじくが採れるだろうか。」と言われました。問題は、実を実らせる枝が、最後にして真の預言者であられる「キリストという木」にちゃんとついているのか、ということです。


ヨハネによる福音書 第15章で主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたは その枝である」と言われました。私たちという木は、そのままでは良い実を実らせることができません。主イエスという真のぶどうの木に接ぎ木していただいて、キリストという木に繋がっていれば、自(おの)ずから、良い実が実るのです。キリストを離れて良い業をしようとしても、それは自己実現のパフォーマンスでしかありません。その行いは自己の欲求を満たすものでしかないのです。

ご存知の方が多いと思いますが、先週、宮城まり子さんが召されました。調べてみると、プロテスタントのキリスト者であったようです。宮城さんの経歴を詳しく語る必要はないと思いますが、「泣いている子にやさしくしよう」との一心で、1968年に私財を投じて、静岡県浜岡町に体の不自由な子どもたちの養護施設「ねむの木学園」を設立し、生涯をささげられました。当初は俳優の道楽と批判され、苦労の連続だった。汚物の付いた何十枚もの下着を素手で泣きながら洗った。干し終えたとたん、ロープが外れて全部落ちた。「神様、私は うそつきです。やさしくなんかありません。」逃げ出したくなる日もあったといいます。女優として成功していた人ですから、人々から ちやほやされる道もあったのに、愛することから逃げなかったのです。何度も何度も、宮城さんの心の中で偽預言者が囁いたことでしょう。「もうやめにしたらどうだ。自分で事業をやらなくたって いくらでも社会に役立つ方法はあるだろう。」
けれども、それが偽物の声であることをしっかりと見きわめ、闘い続けた方だったと思います。神さまに、「もうダメです。私の力ではできません。神さま、助けてください。」というところに立つとき、私たちは そこでやっと 主イエスと出会い、主イエスに繋がることができるのです。やさしくしたいと思った。でも、自分の力ではできないと気づく。「神さま、私はうそつきです。やさしくなんかできません。」そのように神さまに告白し、助けを求めたとき、はじめて、強く闘い抜く力が与えられたのではないかと思います。
主イエスの警告に耳を澄まし、目を凝らし、私たちは私たち自身の中に見え隠れする偽預言者を監視するのです。互いに監視し、批判し合うのではありません。私たちは誰もが偽物になってしまう危険があります。私たち自身の中に響いてくる偽預言者の声が、主イエスの み声なのか、そうでないのか、本物か、偽物か、見きわめるのです。
 真の預言者であられる主イエスという木に繋がり、日々、み言葉という養分を頂きましょう。そうすれば必ず、私たちも、私たちの教会も、良い実を結ぶことができます。だから、この み言葉は警告であると同時に大きな希望であり、慰めなのです。
伝道者パウロは、コリントの信徒に「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたは もはや 自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(コリントの信徒への手紙一6:19~20)」と語りました。
私たちは、自分自身のものではなく、キリストのものなのです。自分の思いでなく、神さまの栄光を現すために、主イエスによって用いて頂けさえすれば、良い実がなります。自分の実ではなく、キリストの実です。共に、真の預言者、真の救い主であられるキリストを仰ぎ続けましょう。励ましの み言葉をいつも心に灯しつつ、主イエスの背中を見つめてついていきましょう。
2020年度、不安に押しつぶされている世の人々に、教会からたくさんのキリストの実を届けたい。罪の赦しと永遠の命を語り続ける本物の群れであり続けたい。主イエスにおいて、心を一つに、祈り求めてまいりましょう。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、2019年度の歩みを導いてくださり深く感謝いたします。どうか、2020年度も真の預言者であられる主イエスの愛と赦しと憐れみを信じ、共に主を仰ぎ続ける信仰を与え続けてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。主よ、新型コロナウィルスにより、世界が先の見えない不安に陥っております。私たちも4月以降、どのように礼拝を、また各集会を持つべきか、悩みの中にあります。礼拝後に臨時長老会を招集し、協議いたします。どうか、あなたのみ心をお示しください。今日の礼拝から電車 バス等を利用して礼拝に集われる兄弟姉妹の礼拝出席、体調を崩しておられる方々、持病を抱えておられる方々の礼拝出席の自粛を お願いしております。この決断があなたの み心なのか、悩みます。しかし主よ、一人一人の命を大切に!とのあなたの み心を反映した決断と信じますから、どうか今、それぞれの場所で祈っておられる兄弟姉妹の上に聖霊と祝福を注ぎ続けてください。主よ、新型ウィルスの終息を祈ります。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

2020年3月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第30章15節~17節、新約 マタイによる福音書 第7章13節~14節
説教題:「狭い門から入れ」
讃美歌:546、4、461、298、543        
 
主イエスは言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。(マタイによる福音書7:13~14)」
この み言葉から思い起こすのは、神学生時代、四国での実習で厳しくご指導くださった牧師の一言です。「決断しなければならないとき、私は、どちらの道が自分にとって大変な道かを考えるようにしている。楽な道ではなく、厳しい道をこれまで選んできた。」
学部4年の夏、ギラギラと照りつける暑さを感じつつ、「牧師は、そのような道を歩む者だ」と喝を入れられたことを思い起こします。人生における決断の判断基準、人生の道標として、今朝の み言葉を大切にされている方が皆さんの中にもおられるかもしれません。「今、神さまは私に何を期待しておられるのか」、「主イエスなら、このようなとき どうなさるだろう」と思案し、祈りつつ歩むことは大切です。「どちらが私にとって狭い門、細い道だろう?」と考え、祈り、行動する。それは、主イエスに結ばれた生き方の実りのひとつと言えます。

その上で、今朝の み言葉に隠れている主イエスの心からの願いに思いを巡らせたい。そうでなければ、ひとつ間違うと「努力しなさい。安易な道を選ぶな。イソップ寓話の『アリとキリギリス』のように、夏(若い時)、せっせと働けば、冬(老後)を安心して歩める。反対に、夏に怠けると冬に飢え死にする。」とか「若いときの苦労は買ってでもしなさい」というような人生訓に終わってしまう危険があります。そのような「努力すれば必ず報われる」という人生訓であれば、主イエスがわざわざ語られる必要はありません。それでは、主イエスは今朝の み言葉で何を私たちに願っておられるのでしょうか。

私たちの前に狭く、小さな門が備えられております。狭く、小さな門。けれども、父なる神さまが特別に備えてくださった門です。その門を通らなければ、「永遠の命」には至らない。逆に言えば、狭く、小さな門から入り、細い道を歩き続ければ、必ず「永遠の命」に通じている、と主イエスは言われます。
ご一緒に想像したい。私たちの目の前に広く、大きく、立派な門がそびえています。大勢の人々が、急ぎ足で立派な門に入っていきます。
一方、広い門の近くに狭い門があるようです。誰も行こうとしない 人の通りの少ないところにひっそりとある小さな門。確かに、そこにあるはずなのに、人通りが少ないため藪に覆われている。求め続け、探し続け、たたき続けなければ門を見つけることも、開いてもらうこともなかなか難しい。
 それでも、主イエスの み言葉を頼りに、諦めずに狭い門を探し続けるのです。その間にも、広い門には続々と人が入って行きます。相当の根気と勇気が求められます。まるで旧約聖書に登場する箱舟を黙々と作り続けたノアのように、嘲笑や陰口の対象となるかもしれません。狭い門を見つけるだけでも大変です。
それでも、何とか狭い門を見つけることができた。あとはすんなり入れると思うと、今度は入るのが難しい。狭い門から入るには、まず狭い門を叩いて、叩いて、叩き続けないと開かない。結果、「もう叩くのを諦めよう」と、門から立ち去ろうとする。しかし、あと1回叩こう!いや、あともう1回叩こう!と諦めないで叩いていると、神さまが備えてくださる時に、門が開かれるのです。
開かれれば大丈夫!あとはまっすぐ歩くだけ!と思う。しかし、永遠の命に通じる道は細い。しかも不思議な道。自分の足でがんばって歩き続けよう!と頑張れば、頑張るほど、どんどん道が狭まり、歩きにくくなるのです。

ある聖書学者は、こう語っております。「せまい門とは己をすてることにほかならない。(中略)己をすてる、とはいかなることか。簡単に言えば、自分の罪を知ることである。自分をほんとうに神に委ね切ってしまうことである。(中略)われわれはせまい門から、一回は入らなければならない。しかも、われわれは愚かであって、少し調子が良くなると傲慢になってしまう。(中略)だから、その意味ではせまい門を何回も入り直さなければならないのである。おさな子の如く ちいさく、ちいさくなること。その門を通れば、ひらけるのはよろこびと自由の世界である。」

私たちは、努力し、自分の力を信じ、頑張って、独力で門に入り、細い道を歩こうとしてはいないでしょうか?しかし、それでは狭い門から入れません。なぜか?自分が大きいから。自分の信仰を誇り、大きくなるからです。たとえ、一時、様々な試練によって打ち砕かれ、幼子(おさなご)のように小さくなり、狭い門に入ることができたと思っても、歩いていると、「私もまんざらではない」と思ってしまう。自分の経験やら、何やら、抱えるものが大きくなり、自由がきかなくなる。そのとき私たちは、すべてを導いておられる神さまを見失っています。細い道を歩けなくなるのです。というよりも、細い道の幅は変わっていないのに、私たちが大きくなっている。傲慢という荷物が増え、自分が太り、自分で窮屈にしている、と言った方がよいかもしれません。
太り過ぎてしまう。信仰においてすら、富んでしまう。その意味で私たちは、何度でも、己の罪を知り、幼子(おさなご)のように自分を神さまに委ね切り、小さく、低くなって、繰り返し狭い門から入り、先を歩いてくださる主イエスの後ろ姿に励まされながら歩き続けることが大切なのです。

主イエスの地上での歩み、いったい どのような道を歩まれたでしょうか?主イエスは、十字架への道を歩まれました。極めて困難な道です。本来であれば、罪の私たちこそ歩むべき道。けれども、その針の穴のような困難な道を私たちに代わって主イエスが歩き通してくださった。主イエスが十字架への道、滅びの道、死に至る道を私たちの代わりに歩いてくださったことにより、私たちは滅びを免れたのです。さらに、十字架の死の三日目の朝、主は甦られました。そして今も生きて、私たちに聖霊を注いでくださる。「あなたがたも、永遠の命に通じる狭い門から入り、細い道を歩ける。あなたがたは孤独ではない。私は、いつもあなたがたと共に歩いている。」と、主は み言葉を通して励ましてくださるのです。

主イエスは、「私は道であり、真理であり、命である。(ヨハネによる福音書14:6)」と宣言されました。十字架の死に至る道を歩き抜かれた主イエスこそ、狭い門であり、細い道であり、永遠の命へと私たちを導く救い主です。主イエスこそ、血を流し、倒れつつ、永遠の命に通じる狭い門、細い道を、切り拓き、先頭を歩いてくださいました。主イエスこそ、天の国の門、永遠の命に通じる道となってくださいました。そのように、私たちのために全てを備え、父なる神さまに至る道を切り拓いてくださった主イエスの前で、血を流し、肉を裂かれ、狭い門となり、細い道となってくださった主イエスの前で、私たちはどうして大きくなれるでしょう。どうして己にしがみつくことができるでしょう?どうして己の大きさを誇ることができるでしょう?
「主よ、罪の私だから、あなたは命じられたのですね。罪の私だからこそ、狭い門から入らせてください。どうか、導いてください。すぐに滅びに通じる広い門に入ろうとする私だからこそ、しっかりとお支えください。」と祈りつつ、私たちは、主イエスが切り拓いてくださった道を主と共に歩けるのです。ただただ父なる神さまに頼り、己を捨てて小さくなり、幼子のように主イエスに導かれ歩む道には喜びがある。御子の足跡に自分の足を重ねる平安があるのです。
多くの人が広い門から入って行きます。ほとんどの人が通るのを見ていると、自分だけ行かないのは不安に思えてくるかもしれません。みんなが堂々として立派に見える、「皆が行くから、同じように行かなくては。」「皆がしているから、自分も負けてはいられない。」
そのような心には自由がありません。たとえ、門は広々としていても、門に入ると、たくさんの人と競い続ける。負けられない!としゃかりきに歩き続ける。しまいには、何処へ向かっているのか わからなくなる。わからないから不安になる。思い煩う。「我先に!」と歩き、隣人を顧みない。自分の力を頼み、他の人に負けじと 奉仕を誇り、献身ぶりを誇り、祈りの生活まで誇る。そして同じようにできない人を裁く。懸命に主に仕えているつもりでいるのに、それではキリスト不在の悪い実りです。主イエスは「それは広い門を行く歩みであり、その先にあるのは滅び」とおっしゃる。「しゃかりきに歩いても、あなたの努力は地上の命と共に終わる」と深く嘆いておられるのです。
主イエスは、すべての者を招いておられます。「必要なものは備えてある。私が茨に覆われた道を、傷つき、血を流し、切り拓いた。だから、あなたはただ、すべてを捨て、何も持たずに、私に従いなさい。」
私たちは、永遠の命に通じる主イエスという門をくぐり、主イエスの背中を見つめて歩める 恵まれた者たちです。その恵みは、地上の命を終えても続く。いつまでも、永遠に、主の平安にとどまり続けることができるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、日々、み言葉を お与えください。永遠の命への道を見失う罪を悔い改めつつ、「狭い門から入りなさい。」を恵みの み言葉として心に刻むことができますよう お導きください。今、不安を抱えながら、路頭に迷っている方々が狭い門を求め、狭い門を探し、狭い門を見つけ、狭い門を叩き、狭い門から入り、永遠の命への道を歩むことができますよう お導きください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。主よ、新型コロナウィルスがいつ頃 終息するのか、まったく先が見えません。全世界で毎日、たくさんの死者が発生している報道を通し、重い心になります。お年を召した方々が家に引きこもり、体調を崩している報道もあります。また卒業式に続き、入学式も中止とし、新学期の開始を延期する学校があるなど、様々な影響が続いております。主よ、世界の人々を憐れんでください。特に、病と闘っている方々、愛する家族を失った方々、外に出られず、孤独を感じている方々、今日を生きることで大変な方々を強め、励ましてください。不安を抱えている方々に、「どのようなときも、神さまが必要を満たしてくださる」と信じる心を与え続けてください。どうか、絶望することなく、主にある希望を抱いて歩むことができますよう お導きください。今日の礼拝後、婦人会総会を行います。この一年の婦人会を導いてくださり感謝いたします。主よ、新年度の歩みも お導きください。今、体調を崩している方々、施設で生活している方々、あなたを見失っている方々を憐れみ、聖霊を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年3月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 箴言 第24章10節~14節、新約 マタイによる福音書 第7章12節
説教題:「黄金の言葉」
讃美歌:546、52、265、Ⅱ-195、542        
 
主イエスは、一つの罪もない神さまの独り子であるにもかかわらず、罪人を処刑する十字架によって殺されました。私たちの罪を一つ残らず、私たちの代わりに背負い、死なれました。そのことにより、神さまが 分け隔てなさることなく、すべての人を愛し、赦してくださるという 聖書に預言された救いが成就したのです。主イエスこそ、私たちの喜びであり、希望です。その主イエスがおっしゃる。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。(マタイによる福音書 7:12)」旧くから、「黄金律」と呼ばれ、大切にされてきた み言葉です。

私たちは今、主イエスの 十字架の み苦しみを心に刻む レント(受難節)を過ごしております。「レンテンローズ」という花があります。レントの頃に咲くので、「レンテンローズ」。木陰に うつ向いて咲く くすんだ紫の花は、「レントの花」という名が似合います。けれども日本では、同じ種の よく似た花、クリスマスローズと混同され、この名で出回っております。そのような 些細なことにも、悔い改めを急ぎ足で通り過ぎようとする私たちの心が見え隠れしているように感じます。
クリスマスやイースターの華やかさを喜び、自分の罪を見つめようとしない。初めから無いもののように錯覚してしまう。自分の過ちが見えないから、人の過ちをあげつらい、責め立て、神さまに成り代わって裁くのです。勘違いしてはなりません。主イエスは そのような私たちの罪を「まあいいよ」と見逃してくださるのではありません。審きの日は必ず来るのです。けれども、私たちの罪は、一つ残らず主イエスと共に十字架の上に磔にされ、死んだ。そのことのゆえに、私たちは その日を 希望をもって待つことができるのです。その恵みは、全ての人に対するものです。公平なのです。私だけの恵みではないのです。

主イエスは、「だから」と言われます。「要するに」ということです。主イエスに従う生き方として、私たちは山上の説教から、多くを教えられましたが、要するに、主イエスが私たちに求めておられることは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」ということです。人が共に生きていくときに、要(かなめ)となる言葉です。

 主イエスの み声が聞こえます。「難しく考える必要はない。眉間に皺(しわ)を寄せ『どうすることが正しいのか』と悩む必要もない。あなたにも、人に『こうしてもらいたい』という思いがあるだろう。たとえば、『あのときの過ちを赦してほしい』、『これ以上、私を責めないでほしい』、『ダメな奴と決めつけないでほしい』、『ただ私を愛してほしい』たくさんあるはず。特別なことではない。難しいことでもない。あなたの心に たずねてごらん。あなたは何が善いことであるか、よくわかっている。私が切り拓いた道を私の後について来なさい。」
「律法と預言者」、すなわち聖書は、他の何ものも求めておりません。ただ、「自分がして欲しいと思うことを互いにしあう」、そのことだけです。ところが、ことは そう簡単に運ばない。「ああして欲しい」、「こうして欲しい」との思いは無尽蔵に溢れてくる。それなのに、「私がして欲しいこと」で止まってしまうことがしばしば。悲しいかな、「人にする」ところまで思い至らない。その意味でも、私たちは「悪い者」なのです。
新型コロナウィルスによる混乱が続いております。マスクの転売、トイレットペーパーの買い占め等、主イエスの教え「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」と反対の論理が働いています。
今回の騒動を通して感じるのは、私たちは危機のとき、「何とか、自分と自分の家族をまもらなければ!」と思ってしまう。「他人のことなどどうでもいい、まず自分!」と考えてしまう。そして、私たちはそのとき、日用の糧、日々の必要を満たしてくださる神さまが見えなくなるのです。そうした罪は、日用品のことにとどまりません。感染症の際に最も恐ろしいのは、病に対する人々の差別と偏見です。
先週の金曜、東京新聞の五面に「若者の声」として13歳ですから、中学1年生でしょうか?悲痛な訴えがありました。花粉症のため、ある日、学校からの帰りのバスで くしゃみが止まらなくなった。マスクはしていたし、手で押さえ周囲に迷惑が掛からないようにしていたが、前に座っていた高齢男性に「そんなにくしゃみするの、コロナなんじゃないの?次のバス停は病院だから降りろ」と言われた、というのです。
私はこの記事を読み、高齢男性に対し、「何と愛のない発言!」と悲しくなりました。しかし、暫くすると、私もその場にいたら同じ思いを抱いたかもしれないと思わされたのです。さすがに後ろを向いて、「次のバス停で降りなさい」と命じることはしないまでも、心では「早く降りて欲しい!」と願ったかもしれない。あるいは、そっと席を移動したかもしれません。異質な人間を差別し、排除する。この心は、主イエスの時代から今に至るまで続く私たちの罪です。差別の心、排除の心は、主イエスの み言葉から大きく 大きく離れた正反対の心です。
 私たちが人にしてもらいたいこと、心から望んでいること。それは「皆さんとなかよく、平和に暮らしたい!」という心ではないでしょうか?はじめから、「皆さんから離れ、周りに高い壁を作り、誰とも会話することなく生きたい!」と思う人はおりません。そう思う人がいるならば、何かとても傷つく出来事が引き金になっているに違いありません。誰が「偏見にさらされて生きたい!」と願うでしょうか?誰が「差別されたい!」と望むでしょうか?

「あなたがいないと悲しい!あなたがいてくれてよかった!」と言われると、本当に嬉しくなります。自分という存在が認められ、心から喜んでくれる人がいると、私たちは「ああ、生きていてよかった!」と喜べる。お互いが笑顔になれる。平和になれるのです。主イエスが望んでおられる 人と人との関係は、そのような関係です。お互いの心と心の間にキリストの風が吹く。キリストの風、それは愛であり、憐みであり、赦しなのです。
父なる神さまは、最愛の御子イエスを私たちに与えてくださいました。一点の染みもない、罪のない御子イエスが、罪人として処刑された。私たちの罪を一身に背負い、十字架で死なれた。この真実を、この驚くべき恵みを求め続け、探し続け、門を叩き続けて、ついに見つけることができたとき、御子の十字架が、「何でも 自分中心にしか考えることのできない 私のためであった」という真実に打ち砕かれ、目の中の丸太が、主の愛によって取り除かれるのです。
その出来事は、言い換えれば、「主の十字架によって、自分中心な自分が死ぬ」ということです。恵みは、それだけではありません。主は、甦ってくださった。死なれたままではありません。父なる神さまは、御子を復活させられたのです。
 
罪の自分が死に、復活の主イエスが、私たちと一緒に生きてくださるとき、そのとき初めて、私たちは「人にしてもらいたい」と思うことを何でも、人にすることができる。父なる神さまの愛に生きることができるのです。
 「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」この み言葉に生きたい!と願うなら、主イエスのパッション(熱情)が、私たちのパッションとなります。難しいことではありません。自分がしてもらいたいことがわからない人は いないからです。この み言葉に生きたい!と求め続けるなら、主イエスが私たちに働いてくださる。主イエスが、私たちを他者への愛、隣人への愛へと突き動かしてくださるのです。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」は、主イエスの十字架のゆえに、ただの道徳の標語ではなく、私たちを生かす知恵の言葉、命の言葉です。全てを与え尽くしてくださった主イエスご自身のような言葉。だから、黄金色に輝く「黄金律」なのです。
主イエスの、この み言葉「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」を、どんなときも、何をしているときも、口で唱え、心で反芻しつつ歩みたい。主イエスが今、私たちに語っておられる み声に耳を澄ましたい。「あなたが今、『あの人にこうして欲しい!』と思うことがあるだろう。それをすべて、今すぐ、その人に、してあげなさい。」
私たちを愛し、赦し、どこまでも憐れんでくださる主の み声に従いたい。何をするにせよ、何を語るにせよ、黄金色の掟を心に刻んで歩み続けるのです。 
主イエスが私たちの道を切り拓いてくださいました。険しい、細い、滑りやすい山道も、誰かのつけた足跡を辿れば歩くことができます。主イエスの道を一歩一歩、主イエスの背中をみつめ、主の足跡に自分の足をのせて、歩める喜びが、私たちに与えられているのです!

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、今朝も私たちを愛し、赦してくださり、深く感謝いたします。自分中心の罪を お赦しください。聖霊を注ぎ、あなたの命に溢れる存在に変えてください。私たちを黄金色の掟に生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。主よ、新型コロナウィルスの脅威が世界を揺るがしております。差別と偏見を受けている方々、病と闘っている方々、自らも感染するリスクがありながら、懸命に治療にあたっている医療従事者、学校や施設が閉鎖され、大変な状況にある方々を強め、励ましてください。一日も早く、ウィルスを終息へと導いてください。イースター礼拝での洗礼を願い、今、受洗準備の学びを続けている姉妹がおります。どうか、4月5日に予定している洗礼試問会で明確に信仰を告白することができますよう お導きください。み心ならば、イースター礼拝で洗礼と聖餐の恵みをお与えください。様々な理由で礼拝から遠ざかっている方々を強め、励ましてください。病と闘っている方々、心が塞いでいる方々に、私たちと等しい祝福と慰めをお与えください。主よ、世界にある教会と信仰の兄弟姉妹を覚え、そのひとつの枝として私たちも生かされている恵みを感謝し、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、礼拝をささげることができますよう お導きください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年3月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第29章11節~14節a、新約 マタイによる福音書 第7章7節~11節
説教題:「祈り求めるなら」
讃美歌:546、80、306、338、541、427        

愛する皆さんと、山上の説教を読み進めておりますと、不思議な感覚を覚えます。それは、「山上の説教」という山を、皆さんと一緒に登っている感覚です。私たちは、「山上の説教」という山を、どのように登ってきたでしょうか?
第5章では、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。(5:4)」との み言葉に 慰めを頂きました。また、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(5:44)」、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(5:48)」との大いなる使命を頂いたのです。
 続く第6章では、「主の祈り」の恵みを心に刻みました。父なる神さまが、私たちの必要を 私たちが求める前から知っておられ、与えてくださる恵みです。そのような、父なる神さまの日々の備えを信頼し、思い煩うことなく、その日一日の労苦を誠実に生きよう!と心に決めました。
そして第7章に入り、主イエスから「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(7:1)」と命じられました。そのように、「山上の説教」という山を登っていると、私たちが主イエスの み言葉に生きること、主イエスから与えられた使命に生きることは、片手間ではできない、とわかったのです。
信仰を告白し、洗礼を受け、キリストの者として生きることは、「自分自身か、キリストか」という選択を24時間、365日、問われます。平日は、この世の論理で生きる。日曜日だけは神さまの論理で生きる。日曜大工ならぬ、日曜キリスト者のような生き方は、あり得ません。キリストの者は、職場で働いていても、家庭で家事をしていても、いつもキリストの者なのです。
私事になりますが、サラリーマン時代、もっとも苦しんだのはこのことです。日曜日、礼拝を終えた私は、「今週もキリスト者として誠実に歩もう!」と祈る。けれども、ふと悪魔が囁く。「銀行では、銀行の論理に染まらないと生きていけないぞ!」日曜日の夕方になると、明日からのことで思い煩う。結果、月曜日は一日、心のバランスが崩れ、営業の軽自動車の中でうずくまるのです。
人生は、晴れの日ばかりではありません。曇りの日、雨の日、嵐の日もある。「敵を愛せよ」との み言葉を心に刻み、敵を愛します!と祈っても、敵を愛せない。「人を裁くな」との み言葉に従います!と祈っても、裁く言葉を呟く。み言葉から目を逸らし、仕方がないと諦め、楽な生き方に流されるのが私たち。私たちは日々、どうせ無理!という自分との闘いの中で、諦めてしまいそうになるのです。
それでも 父なる神さまは、預言者エレミヤを通し「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは 平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(エレミヤ書 29:11)」と約束してくださいます。私たちが自分の弱さが嫌になり、「どうせ、私はダメ人間。神さまが望んでおられる姿とは正反対」と呟き、父なる神さまに背を向けても、神さまは、私たちを諦めておられない。み言葉によって励まし、語り続けてくださるのです。「それは違うよ。本来のあなたではない。私はあなたを『平和をつくる者』として創造した。あなたも喜べる。軽やかになれる。」
父なる神さまは、うなだれている私たちを み言葉によって、立ち上がらせてくださる。み言葉によって、将来と希望を与えてくださるのです。そのような父なる神さまの ふところへ 私たちを立ち帰らせてくださる 励ましの み言葉が、今朝の「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(7:7)」なのです。
父なる神さまは、主イエスによって日々、私たちを励ましてくださいます。これは本当のことです。たとえ突然の試練に襲われても、私たちが神さまから期待されている使命に生き続けよう!との思いを失うことのないよう、犯してしまった過ちに絶望しないよう、今朝も、私たち一人一人に心を込めて語ってくださるのです。

試練に襲われると、私たちは混乱します。その結果、神さまが「良い者」として創造してくださった私、神さまが「良い者」として創造してくださった隣人を見失う。さらに、何をどう祈り求めればよいのか?わからなくなる。聖書には「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(6:33)」と書いてあります。けれども、そもそも何が「神の国」で、何が「神の義」か わからない。どのように「神の国」と「神の義」を求めたらよいのか わからなくなるのです。
 隠されている真理が見つからなければ、十字架はただのアクセサリーで、主イエスは処刑されたただの男です。私たちと何のかかわりもないまま、私たちは救われないまま、思い煩い続ける他ありません。
 そのような私たちのために、神さまが なさられことは何だったでしょうか?主イエスがくださった恵みはどのようなものだったでしょうか?門は閉ざされています。宝も隠されています。けれども、実は すでに備えられているのです。その宝を探し続けて欲しい!そして見つけ出して欲しい!と主イエスは心の底から願っておられます。私たちは主イエスの み声に従い、真剣に探さなければなりません。真剣に見つけ出さなければなりません。そうでなければ、天の父は心を痛め、大いに嘆かれるに違いありません。

教会学校では毎年、イースターの朝、小平霊園に行き、教区墓地の前で礼拝を献げます。その後、恒例の卵探しを行います。中高生が隠した卵を、小さい子どもたちが探します。いつも不思議に思うのですが、毎年、なぜか、あるはずの最後の一つが見つからない。大いに苦労します。それでも、諦めずに探し続けると、「あった!」と見つかるのです。大喜びです。

主イエスは、そのような恵みを 譬えを用いて話されました。「あなたたちは、簡単に諦め、望みを失う。父なる神の愛まで見失う。そういう『悪い者』だ。しかし、よく考えなさい!柔らかなパンを欲しがる子どもに、硬い石を与える親はいない。美味しい魚を欲しがる子どもに、毒を持つ蛇を与える親もいない。そうであるなら、あなたがたを『平和をつくる者』として創造し、実の子どもとして愛され、将来と希望を与えられる父なる神さまが、あなたがたを諦め、絶望の中に見捨てておかれることなどあり得ないではないか。」
実際、私たちは捨て置かれたままではありません。神さまは、主イエスを世に遣わしてくださいました。「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。(7:11)」と励まし続けてくださる御子イエスこそ、私たちの救いとなってくださったのです。
神さまの愛を見失い、自分に絶望する私たちの そのような罪のために、主イエスは ご自身を与えてくださった。与え尽くしてくださった。私たちすべての者の罪を、一人で背負い、十字架で完全に滅ぼされた。そして三日目に甦ってくださり、私たちの救い主 勝利者キリストとなってくださったのです。驚くべき恵み。驚くべき喜びです。
私たちの思いを遥かに超えています。どこまでも高く、どこまでも深い。どこまでも尊い宝です。あまりにも高すぎて、深すぎて、よく見えないことがあります。繰り返し聖書を読み、あるとき「わかった!」と思っても、福音の真理を求め続けていると、また「ハッ!」と新たな宝に気づくことがあります。また、「わかった!」と思っても、突然の試練が、神さまからの宝を覆い隠すこともある。私たちの罪によって、最後の一つの卵のように 見失う日もあるかもしれません。だからこそ、求め続け、探し続け、門をたたき続けなければなりません。それは、十字架の主イエスと共に 罪の私たちが死に、甦りの主イエスの命が私たちを生かしてくださるためです。
その意味で私たちは、生涯 求道者。救いの道を求め続ける者たちです。求めることは祈ること。たとえ試練に襲われても、祈り求めるなら、既に備えられている大いなる宝であられる主イエス・キリストご自身が 私たちと共に祈ってくださっている お姿が見えてまいります。

主イエスご自身が、血の汗を滴らせ、私のために、あの人のために、父なる神さまに罪の赦しを求め、永遠の命を探し、神の国に到る門をたたいてくださっています。その主の お姿がはっきりと、鮮やかに私たちの目に見えるようになるのです。特別な能力はいりません。主イエスが語られた み言葉を信じ、祈り求めていれば、誰でも、今も私たちと共に生きておられるキリストと出会うことができるのです。
ご自身の命を与え尽くされた主イエスを信じ、主イエスを宝とし、主イエスと共に永遠の命を祈り求めるなら、私たちはだれでも、明日のことを思い煩うことなく、生きることができます。愛に生きることができます。平和に生きることができます。私たちの中に、キリストが生きて働いてくださるからです。
神の国、神の義を求め続ける私たちの山登りは、一日一日、一歩一歩、続きます。永遠の命に至る道です。なだらかな道ばかりではありません。「不安」という霧で まったく前が見えない日もあるでしょう。凍える日もあるでしょう。しかし、永遠の命に到る道こそ、主イエス・キリストです。私たちは安心して、父なる神さまを賛美しつつ、神の国と神の義を祈り求めたい。祈り求め続けるなら、必ずキリストは 私たちの内に働いてくださり、私たちは職場であれ、家庭であれ、学校であれ、今日、今、生かされている場所を神の国として生きることができる。神の義を生きることができる。キリストの命に生かされ、生き生きと、思い煩うことなく、隣人との間に愛と平和を築くことができると約束されているのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたが、良い物を与えられる天の父であられることを深く感謝いたします。あなたは、御子の死と復活によって良い物である「永遠の命」をすべての者に約束してくださいましたから、深く感謝いたします。主よ、私たちは生涯、求め続けます。探し続けます。門をたたき続けます。どうか、これからもあなたの子どもとして愛し、育んでください。どうか、あなたの恵みの支配のうちに歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。主よ、新型コロナウィルスから世界をおまもりください。主よ、疫病を恐れる心ではなく、神さまのみを畏れ敬う心を私たちにお与えください。先週の臨時教会総会で、4名の長老が選ばれました。深く感謝いたします。どうか、選ばれた4名、1年の任期を残す4名、合計8名の長老を強め、励まし、存分に用いてください。主よ、出席教職のE先生を奏楽者として与えくださり感謝いたします。E先生の賜物を存分に用いてください。E先生に加え、N姉妹、K姉妹、Y姉妹、I姉妹、4名の奏楽者の働きをこれからも祝福してください。主よ、アメリカから帰国され、奏楽を担われたS姉妹が先月をもって、暫くの間 お休みに入りました。これまでの働きを労ってください。そして、これからもS姉妹の健康をおまもりください。今週の水曜、3月11日を迎えます。東日本大震災から9年の記念の日です。被災地で今も時が止まったままの方々、前を向き、与えられた命を懸命に生きておられる方々の上にあなたの慰めと聖霊を注ぎ続けてください。私たちも被災された方々の心に寄り添い、泣く人と共に泣き続けることができますようお導きください。主よ、心身の痛みを抱えている方々、体調を崩している方々、入院している方々、新型コロナウィルスの影響で私たちの知る限りでもいくつもの教会が閉鎖を余儀なくされ、礼拝をまもれずにいます。それらの方々の上に、私たちと等しい祝福と慰めをお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年3月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第19篇8節~15節、新約 マタイによる福音書 第7章1節~6節
説教題:「十字架を見つめよう」
讃美歌:546、11、121、21-81、Ⅱ-182、540       
  
主イエスは弟子たちに、心を込めて語られました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(マタイによる福音書 6:33)」
この主イエスの み言葉は、私たちへの強いメッセージです。み言葉を聞き、み言葉に生かされたい!と願い、今日、ここに集う私たちも、主イエスの弟子だからです。私たちも朝、目が覚めたら 何をするよりもまず先に、神の国と神の義を求めたい。何度も何度も反芻しながら、今日一日の労苦と向き合いたい。
主イエスが世に来てくださったことで、神の国はすでに始まっています。私たちは、神の国に属する国民です。あれこれ思い煩う必要はありません。神の国の完成の日のヴィジョンを目の前に描きつつ、その光を目に映し、生き生きと望みに溢れ、空の鳥のように、野の花のように、主に任せ、神さまに従って歩むのです。
しかし、そのような生き方は 決して楽ではありません。のほほんと能天気で、気楽にいれば何でもいい、というような安易なものではないからです。神の国の国民である私たちが仮住まいをしているこの世は、不義で溢れかえっているからです。いくら「赦そう、優しくしよう」と思っても、相手がこちらの思いに応えてくれない現実があるからです。流されて、隣人を愛する務めを「どうせ無理!」と放棄して生きる方が、ずっと楽なのです。
けれども、主イエスは言われました。「あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイによる福音書 5:48)」神の国の国籍を持ちつつ、罪の世の国籍もある、などという生き方はあり得ないのです。

今日から「山上の説教」の最後の章、第7章に入ります。まず語られるのは、そのように神の国の国民である私たちが世で生きようとするときに陥りがちな過ちへの警告です。真面目に主に従って生きようとするときにも、私たちは罪を犯す危険があるのです。
主イエスの時代の「ファリサイ派」と呼ばれる人々が、そうでした。自分の正しさ、正しい行いに惚れ惚れと見とれて、同じようにできない人々を厳しく裁き、見下し、断罪したのです。
主イエスの弟子たちの中にも、「ファリサイ派」と同じ罪が入りこもうとしていたのでしょう。主イエスは言われました。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(マタイによる福音書 7:1)」それは、そのまま、私たちへの警告となります。教会と言えど例外ではありません。むしろ教会の中でこそ、あらわれる罪かもしれません。真面目にキリスト者として生きようとするがゆえに、同じようにできない人を裁き、呟くのです。「あれでも、キリスト者か?」
私たちは自分の目の中の丸太(罪)に気づかないのに、人の目の中のおが屑(罪)に敏感です。そのとき、私たちは自分自身が見えていません。自分も、神さまから厳しく審かれるべき罪人であることを忘れているのです。
「梁(はり)」。家の屋根を支える太くて長い材木が、自分自身を見つめる瞳を塞いでいる。しかも、そのような状態なのに、自分だけは神さまのように何でも見えていると思い込み、「お前は罪人!」と裁く。とんでもない過ちです。
 実際のところ私たちは、自分の罪を正確に量る秤(はかり)、物差しを持っておりません。それなのに、人が自分を傷つける些細な言葉に目くじらを立て、「私はそのようなことは生まれてから、ただの一度も言ったことがない!」というような大きな顔をし、やたらと目盛りの細かい秤(はかり)を振り回している。しかも、神さまの み前で。
恐ろしいことです。私たちは審き主ではありません。真の審判者は、神さまのみ。私たちが神さまになることなどあり得ない。それなのに、いつの間にか神さまのお座りになられる席、裁判官の席に座っているとしたら、これ以上の恐ろしい罪があるでしょうか?私たちは皆、審き主ではなく、終わりの日、主イエスの再臨の日、神の国の完成の日に、審かれる者なのです。
私たちの目にあるのは太く、長く、大きな梁(はり)、丸太です。他人の目にあるのは小さな小さな おが屑、塵です。自分の目にある罪の方が遥かに大きい。なぜなら、一つ一つの罪より、自分の罪を見ようとせず、裁判官の席に座っている罪の方が遥かに大きいからです。そのとき私たちは、自分が他人に対して振りかざしている秤(はかり)と同じ尺度で量られることになる。その結果、私たちの秤(はかり)は罪の重さに耐えられず、ガクンと振り切ってしまう。だからこそ主は、深い憐れみの眼差しを私たちに注ぎつつ、求められるのです。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(マタイによる福音書 7:1)」

私たちの審判者は、十字架と復活、再臨の主イエスです。互いに裁くのではなく、私たちは皆、真なる審判者、主イエスによって審かれる。しかし、今や、神の国はすでに始まっていることもまた、真実です。主イエスが世に来てくださったことによって、神さまの私たちへの愛と憐れみは、私たちの世に現実のものとなって現れたのです。
主イエスは、審き主として君臨することより、むしろ弁護者となることを選んでくださいました。私たちの罪、全ての罪を赦すために、ご自分が身代わりとなり、神さまと私たちの間に割り込んで、立ちはだかって、神さまのお怒りをその身に全て受けてくださった。驚くべきことに、父なる神さまがそれを望まれたのです。
だから終わりの日、審きの日、私たちは顔を上げ、喜んで、神さまの み前に立てる。そのような、審判者であり、また弁護者ともなってくださった主イエスが言われるのです。「人を裁いてはならない。」
私たちは皆、主の十字架によって、赦しへと招かれております。永遠の赦し。完璧な赦しです。私たちは、互いに裁き合う者から、愛し、赦し、支え合う者へと大きく変えていただいたのです。私たちにできること。それは、人を裁くことではなく、主イエスによる赦しの しるし である十字架を互いに指し示すことなのです。

 伝道者パウロは、ガラテヤの信徒への手紙に記します。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。(ガラテヤの信徒への手紙6:1)」

「十字架につけろ!」との群衆の裁きの叫びに沈黙を貫き、私たちの罪を背負い、十字架で死なれた主イエス。その十字架を、主イエスの愛の心、柔和な心に導かれ、互いに指し示す。「十字架を見つめよう」と、日々、励まし合うのです。
主イエスは このように、「神を礼拝し、神に従い、神の国と神の義に生きよう」とする熱心さに潜(ひそ)む罪を教えてくださいました。神さまの代弁者として立ち、神さまのように審きの席に座ろうとする罪です。熱心さが一途であればあるほど、人を裁かずには おれなくなるからです。その上で、主イエスは、このように言われました。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直って あなたがたに かみついてくるだろう。(マタイによる福音書7:6)」
「犬」、「豚」との激しい言葉が並んでおります。当時、ユダヤの指導者たちの間で「犬」は、神さまを信じようとしない外国人、また「豚」は、泥の中を好むことから、一度 信じても またぞろ信じることをやめてしまう者の譬えとして使われてきた表現です。一読すると、5節までの御言葉と矛盾しているように感じます。しかし、このような激しい言葉にも、主イエスの愛、真実が、隠されているのです。
例えば、熱心に教会生活を続けている皆さんも、これまで、両親、伴侶、子ども、友人を教会に誘い、断られた経験があると思います。礼拝で聞いた話を、「ぜひ、夫にも聞いてもらいたい!」と思い、喜んで伝える。けれども、「ああ、ハイハイ。教会ね」と、ろくに聞いてもらえない、うるさがられる。そのとき私たちは落ち込み、涙が溢れる。悲しみが強いほど、やっきになる。「あなた、何でわからないの!」と叫びたくなる。聖なる宝、真珠のような恵みをわからない者、わかろうとしない者に失望するのです。
そういう私たちの嘆きを、主イエスは誰よりもご存知なのです。なぜなら、主イエスご自身が聖なる宝、真珠だからです。主ご自身が、人々から打ち捨てられ、足でめちゃめちゃに踏みにじられ、噛みつかれ 死んで行かれた方だからです。 
主イエスがそうであったように、私たちの宝なる真珠(十字架の愛と赦し)を受け入れてもらえないときがある。主イエスは、「そういうときは無理しないように」と言われているようです。自分の手に余ることをしてはならない、とおっしゃる。力づくで、どうすることもできないからです。首根っこを掴まえ、 教会に連れて来ることが、仮にできたとしても、その人の心を神さまに素直に向けさせるのは、私たちにはできないことなのです。
私たちの聖なる宝、尊い真珠である主の十字架が軽んじられ、馬鹿にされることは耐えられない痛みです。しかし主は、「あなたの痛みは、私が引き受ける」とおっしゃる。ご自分は踏みにじられながら、「あなたたちはそこまでする必要はない」とおっしゃっている。それも、「犬や豚は放っておきなさい、終わりの日に審き、思い知らせてやるぞ!」ではありません。踏みにじる者のためにも、最後まで聖なる宝、真珠であり続けようとしてくださる。審きが、神さまの業であるように、救いもまた、神さまの大いなる業。だからこそ、続く7節以降の み言葉、「求めなさい。」に繋がっていくのです。
私たちが、頑なな、でも愛してやまない両親、伴侶、子ども、友人のためにできる たった一つのこと。それは 十字架を見つめつつ、「主よ、愛する者たちも神さまのご支配のもとに置いてください。頑なな心に あなたの道を お示しください。あなたの恵みの中に入れてください。」と祈り続けることなのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、自分の目の中にある丸太に気づかない、愚かな罪から私たちを解き放ってください。今、私の隣りにいる人に、愛する者に、あなたの恵みの素晴らしさを証しうるために、私たちの目を きよくしてください。兄弟の目にある おが屑を取り、あなたを父と仰ぎ見ることができる、目にしてあげることができますように。人を裁くためではなく、人を、あなたの み前に導くことができるように、私たちの目を、私たちの口を存分に用いてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。主よ、新型コロナウィルスから世界の人々をおまもりください。主よ、3月に予定されていた様々な集会が中止、または延期になっております。世界が今、強い不安に襲われています。どうか、このようなときこそ、世界のキリスト者が主において一つとなり、主の憐れみと導き、聖霊の注ぎを祈り続けることができますようお導きください。主よ、礼拝後に開催される臨時教会総会、長老選挙を導いてください。4名の長老を 主の御心を問いつつ選ぶことができますように。新型コロナウィルスに加え、様々な病で苦しんでいる兄弟姉妹を深く憐れんでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2020年2月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第94篇18節~19節、新約 マタイによる福音書 第6章25節~34節
説教題「ゼロになろう」
讃美歌:546、93、291、303、539    
    
 早いもので、2月最後の主日となりました。今日は礼拝後に冬のコイノニア・ミーティングを開く予定でした。けれども、新型コロナウィルスによる死者が発生している状況を鑑み、中止することにしました。年に4回の貴重な語らいのときを中止にするのは残念ですが、「狭い空間での語り合いは避けた方がよい」と判断しました。昨年末から騒がれていた このウィルスが、2ヶ月を経過してなお じわじわと広がっており、不安に感じます。
 今、不安は次第に社会全体を覆っていくように感じられます。町からマスクが消えました。今回のウィルス騒動に限ったことではありません。はじめは、小さな点のようなものだったのに、不安はだんだん大きくなり、頭の中をグルグルと回転するようになるのです。それは、ウィルスが体を蝕(むしば)んでいく様子に似ています。頭の中は不安でいっぱい。他のことなど考えられなくなる。その不安だけを「ああでもない」、「こうでもない」と思い悩む。病気になるほど悩んでしまうのです。
そんなとき、友人から、「気にするな!あしたは あしたの風が吹く!大丈夫!悩む暇があったら、今、できることを一所懸命にがんばれ!」と励まされても、耳に入らない。むしろ、「そんなこと、言われなくてもわかってる。でも、あのこと、このこと、悩みがいっぱい。それなのに、『あしたは あしたの風が吹く!』とは、とても思えない」と、励ましてもらったにも拘わらず、友人に反発する。友人から注がれる愛まで、見えなくなってしまうのです。
しかし私たちは、主イエスから「父なる神さまは、私たちが願う前から必要なものをご存知である」との恵みを教えていただきました。主イエスは、真の神さまでありながら、無力な人として生まれ、私たちの悩みをご自身の悩みとして経験してくださり、十字架の死によって私たちの罪を赦してくださった方です。そのような救い主が私たちに語ってくださったのが今朝の御言葉です。悩んでばかりいる私たちを腹の底から深く憐れんでくださり、神さまの愛に生きる喜びを教えてくださる いのちの御言葉に生かされたいと願います。

 主イエスは、「空の鳥をよく見てごらん、野の花を注意して観察してごらん」とおっしゃいました。空の鳥、野の花々から、私たちは何を学ぶのでしょうか?それは、「無力さ」です。全能なる神さま、父なる神さまの御前に自分の無力を潔く認めるのです。
鳥は種を蒔きません。刈り入れも、刈り取ったものを倉に納めることもしません。野の花も働けない。しかし 父なる神さまは空の鳥、野の花をどこまでも慈しんでくださいます。「何もできない」無力さを学ぶのです。「無力」、「何もできない」と言うと、他の人と引き比べての劣等感であったり、諦めや失望であったり、呟きや不平不満が付きまといますが、鳥や花の無力さはそのような無力さとは違います。鳥は、雨風の強い日には木陰に休んで嵐が去るのをただじっと待ちます。自分の力で何とかしようとはしません。嵐の日には無理せず、晴れた日には楽しげにさえずっている。また花は、雨風に倒れ、しおれることがあっても、土にしっかりと根を張っていれば再び立ち上がる。穏やかな日は、日の光に応えるようにニッコリと咲いている。その姿は、劣等感や弱音を吐くこととは無縁な無力さです。無力な私たちこそ、逆境の日には、神さまという大きな木の葉陰に隠れたい。十字架の主イエスに根を張り、天の水脈から水を吸い上げるのです。
鳥や花の無力さこそ、私たちの手本です。「神の御前に無力であることを喜び、賛美する姿を真似てごらん」と主イエスはおっしゃるのです。ある意味、拍子抜けするほどのあっけらかんとした朗らかな無力さで、「父なる神さまが神さまの働きを行ってくださることを、ただ祈りながら待ってごらん。」とおっしゃる。私たちが求める前から、私たちの必要を私たち以上に知っておられる神さまが、天の父としての働きを行ってくださることを、ただ信じて待つ。祈って待つ。主イエスが「よく見なさい。(マタイによる福音書 6:26)」とおっしゃったのは、鳥や花の無力の中に働いてくださる神さまの限りない愛、限りないご配慮なのです。

伝道者パウロは コリント教会の信徒に宛てた手紙に記しました。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(コリントの信徒への手紙二12:9)」
私たちは、自分の無力を神さまの御前に認めるとき、主イエスによって強いのです。もしも、いつまでも劣等感に襲われ、ウダウダと弱音を吐き、自分の無力を嘆いているのなら、そのとき私たちは、力を捨てきっていない。ゼロになっていないのです。「自分にもそれなりに力がある」と思っている。27節にあるよう「寿命を延ばすことができる」と思い込んでいる。それでいて、「私はあの人より弱い。あの人より劣っている」と弱音を吐いている。明らかに、神さまが抜けています。あの人との比較ばかりで、父なる神さまの慈愛に満ちた眼差しを忘れているのです。
劣等感は傲慢へと繋がります。神さまの御前にゼロになっていないからです。私たちはゼロになって初めて、私たちの必要を全てご存知の父なる神さまへの信頼に徹することができるのです。
父なる神さまの思いは、私たちの思いを遥かに超えています。だからこそ、主イエスは恵みの御言葉を語るのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイによる福音書 6:33)」父なる神さまのご支配を求め続ける。たとえ今、不義があり、悪があり、「主よ、なぜですか!」と叫ばざるを得ない現実があっても、いつの日か、神さまが神の国と神の義を完成してくださると信じ、祈り続けるのです。

神さまが私たちに備えてくださる道は、思い描いていた道と違うはずです。私たちが「ことがうまく運ばない」と呟き、あれこれ思い悩む。ああでもない、こうでもないと病気になるほど悩むのは、神さまが私たちに相応しい道を必ず備えてくださると信頼していないからです。そのとき、私たちの心を支配しているのは、自分の計画ばかり。やはり、明日のことばかり心配しているのです。
心身の健康がまもられ、新しい朝を迎えられた恵みを感謝する祈りを忘れている。苦労もあったけど、一日まもられた恵みを神さまに感謝する祈りを忘れ、明日のことばかり思い悩む。考えてもどうにもならないことを思い悩むのです。
父なる神さまは、そのような私たちを深く深く憐れみ、語ってくださいます。「あなたがたを導くのは、父である私だ。あなたがたは、私の腕の中で、小さな赤ん坊のように思い悩むことなく、スヤスヤと休みなさい。逆風のときは、私の腕の中に逃げ込み、楽しいときは野の花のように満面の笑顔で、鳥のように楽しんで賛美しなさい。」
私たちは、明日のことまで思い悩まなくてよいのです。悩みも、苦しみも、嘆きも、主イエスに任せ、ゼロになって、自分の弱さを喜び、誇り、空の鳥のように、野に咲く花のように、父なる神さまを賛美し続けるのです。
ご一緒に今日の命を神さまに感謝しましょう!神の国と神の義を求め続けましょう!神さまは、もっとも相応しい時に、もっとも必要なものを必ず備えてくださいます。それは、何でもかんでも神さまに丸投げし、私たちはボーっと何もしないことではありません。今日 神さまから与えられた働きは、一所懸命、誠実に励む。与えられた課題には、「主よ、知恵を与えてください!」と、祈りつつ励むのです。今日の苦労も、神さまが必ず良い方向に導いてくださると信じ、精一杯、心を尽くして、力を尽くして、苦労するのです。そして、どうにもならないときは、神さまの木陰に隠れ、安心して休めばよいのです。「強い風に根っこを持っていかれないように、しなって低く倒れなさい。それで十分!」と主イエスは慰めと励ましに満ちたお声で語っておられます。
神さまにすべてを委ね、ゼロになった私たちの苦労は、神さまの御心が行われるため、神さまのご支配が世界にあまねく行き渡るための苦労です。恵みの御言葉を心に刻みましょう。「『足がよろめく』とわたしが言ったとき/主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。わたしの胸が思い煩いに占められたとき/あなたの慰めが/わたしの魂の楽しみとなりました。(詩編 94:18~19)」
私たちは、すべてを神さま、主イエスに委ね、神さまから与えられる今日の苦労と誠実に向き合いたい。けれども、明日のことまで思い悩むことはありません。私たちも、空の鳥のように羽ばたき、野の花のように微笑み、主イエスと共に二度と戻ることのない「今日」という日を感謝して歩めるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、私たちに日々、さまざまな苦労を与えられます。時に途方に暮れてしまいます。時に耐え難く思います。その上、明日のことを思い悩み、あなたの御手が不確かであるような思いがするのです。疑いと迷いの中に生きてしまいます。信仰を薄くする罪を犯すのです。主よ、憐れんでください。主の恵みの中で、私たちを捕らえ、慰めてください。愛する者のための苦労を喜んで担い、今日の苦労をあなたの御心によるものと信じ、一日一日を、望みをもって生きうる者として導いてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。主よ、新型コロナウィルスの脅威から全世界の人々をおまもりください。特に、今、病で苦しんでいる方々、医療に従事している方々を深く憐れみ、これ以上、感染者が拡大しないようお導きください。教会も、不特定多数の方々が集まるところであり、高齢者もおられます。主よ、毎週の礼拝、諸集会をこれからも続けることができますようお導きください。来週の主日礼拝後、臨時教会総会を予定しております。新型コロナウィルスの脅威を感じつつ、御心ならば予定通り開催することができますようお導きください。長老選挙が行われます。4名を選びます。主よ、祈りをもって長老選挙に備えることができますように。献身的に奉仕しておられる長老一人一人の心身の健康をおまもりください。主のご受難と甦りを覚える季節に入ります。私たちの日々の歩みと、聖なる主の日の歩みとをお支えください。様々な病と闘っている方々、入院している方々、家族との関係に悩んでいる方々、在宅で介護を受けている方々を深く憐れみ、思い悩むことなく、主の慈しみによって今日の苦労をも感謝し、望みをもって生きることができますようお導きください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年2月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第115篇1節~16節、新約 マタイによる福音書 第6章19節~24節
説教題「心の在りか」
讃美歌:546、3、164、513、545B    
    
主イエスは、私たちに教えてくださいました。それは、「父なる神さまは、私たちが願う前から、私たちに必要なものをご存じであられる。」という大切な、そして素晴らしい恵みです。神さまに 必要なものを知って頂いている私たちは、「主よ、今日、私たちに必要なものをお与えください。」と安心して祈り続けてよいのです。これは、大きな 大きな恵みです。
 神さまが必要なものとして備えてくださり、与えてくださるもの、ですから、今日 与えられるものは全て 私たちの「宝」。ギリシア語では「セィサウルース(θησαυρους)」という単語です。現在、私たちが用いている新共同訳では、第6章19節~21節で「富」と訳されていますが、口語訳、また 最近出版されました聖書協会共同訳では「宝」と訳され、24節の「富」、ギリシア語では「マモゥナ(μαμωνα)」という単語と区別されております。
 私たちも今朝、区別して読みたいと思います。それぞれの言葉の間には、天と地ほどの違いがあるからです。24節で「富」。ギリシア語で「マモゥナ(μαμωνα)」と訳された言葉は、「マモン」といって、単に お金や物を意味するだけでなく、金品に宿る魔力的な物神(ぶっしん)、偶像神を指すのです。
富(マモン)は、私たちを物欲の奴隷にします。人の欲の恐ろしさ、私たちも知っています。けれども、ここで気をつけるべきは、お金を多く持つことがマモンなのではありません。お金、財産そのものに罪はありません。多くを神さまから与えられたなら、お金、財産を存分に用いて、神さまに仕え、隣人に仕えることもあり得(う)る。反対に、僅かなお金しかないために、かえって貪欲になり、富(マモン)のとりことなることもある。
つまり、お金持ちであれ、貧乏であれ、そこそこであれ、常に富(マモン)の誘惑はあるのです。具体的には、多く持っていれば、あれもこれも!もっともっと!と際限なく欲しくなり、反対に、貧しければ 不安になり、あさましくなって、「神さまが まことの与え主であられること」、「私たちが求めないうちから、私たちに必要なものをご存じであられること」を忘れてしまう。神さまから必要なものとして頂く宝を、私たちは喜んで、神さまの栄光を現わすために用いるべきなのに、いつの間にか、与え主であられる神さまを忘れ、隣人を押しのけ、「自分だけは損をすまい」と、金や物に振り回され、結果として金や物の奴隷になってしまう。物神(マモン)のとりことなってしまうのが、悲しいかな、私たちの現実なのです。
銀行員時代、富(マモン)の怖さは痛いほど経験しました。不動産投資、株式投資からゴルフ会員券まで、投資に走ったことで資金繰りに行き詰った方々から受けた激しい非難は忘れられません。「あんたの銀行が『借りろ!損はしない!』としつこく勧誘したから借りてやったのに、どうしてくれる!」と怒鳴られる。借りた方も貸した方も、物神(マモン)に踊らされた操り人形でした。
地上に有り余るほど蓄え、にんまりと眺めることのできる金品に心を奪われ、天上に蓄える宝など考えもしない。私たちも、「宝は、父なる神さまから与えられる恵み」という思いを日々、新たにしていないと、溢れる恵みを見失ってしまうのです。
私たちの王は、富(マモン)ではありません。私たちの王は主イエスです。富(マモン)は、主イエスの家来と考えてみたらどうでしょうか?王さまに従っていれば、最後は、王さまが責任を担ってくださるのに、家来ばかりに気をとられ、家来ばかりを大切にして、家来を主人として生きているとしたら、王さまは怒るに決まっています。被造物が 創り主なる神さまに勝るはずがないのです。
確かに、お金は全く無くては生きていけません。けれども、もっとも大切なものではないのです。まことの王であられる主イエスに仕えていれば、必要なものは与えられるからです。主イエスに仕えること、それは、私たちの必要を知っていてくださる神さまから与えられる宝を、感謝して神さまの栄光のために喜んで使うこと。用いることです。そのように、神さまから頂く宝を上手に使うことで天に宝を積むことができるのです。
主イエスは、このような恵みの真理を、目と体(からだ)の関係によって示されました。今、私たちの目はどこを見ているでしょうか?神さまのおられる天でしょうか?それとも、富(マモン)でしょうか?
22節に、「目が澄んでいれば」とあります。この「澄む」と訳された単語「アプルース(απλους)」には、「単純」とか「素朴」とか「健全」とか「一途」という意味があり、元々はダブル(二重)に対する、シングル(単一)を意味する言葉だったようです。
それに対し、23節の「濁っていれば」の「濁る」と訳された単語「ポネィロス(πονηρος)」には、「悪い」とか「邪(よこしま)な」とか「悪意を含んだ」という意味がある。つまり、まっすぐでない、色々な思い、それも「こっちの方が得か?こっちの方が損か?」そのような邪(よこしま)な心に支配されてしまっているのです。実際、私たちの目は二つありますが、左眼と右眼で別々なものを視ることはまずありません。二つあっても一つのものを見る。もしも、見つめているものが重なって、ぼんやりしてダブル(二重)に見えるなら、焦点が合っていない、目が濁っているのです。
それに対し、澄んだ、シングル(単一)の目は、単純であり、素朴であり、健全であり、一途である。主イエスが信仰者に期待しておられる目は、ダブル(二重)ではなく、シングル(単一)な眼差しです。単純なのです。ただ天を仰ぐ。創造主なる神さまのみを仰ぎ見る目には、天の光が常に映し出されます。目が澄んでいれば、天の光が映し出されていれば、全身が天の光に包まれる。天の光に照らされ、全身が明るく輝くのです。
反対に、天を見ない、天におられる父なる神さまを仰がない目は、どんなに高価なダイヤモンドを身に着けていても、どんなに高級な車に乗っていても、どんなに高価な邸宅に住んでいても、真の光を宿すことはできません。
旧約聖書続編に『ダニエル書補遺 スザンナ』という短編があります。短編の中に、邪(よこしま)な考えを抱いた二人の長老が登場しますが、この二人について次のように書かれています。「二人は理性を失い、天から目を背けて仰ぎ見ることもせず(傍点 説教者)、正しい裁きに心を用いることもしなくなった。(9節)」
天を仰ぐことを忘れた目は、天の光を宿すことはできません。まことの王、まことの主人であられる主イエスを見失い、内に燃えていたはずの信仰の炎は消え、神さまから頂いた宝で、神さまの栄光を現わすのではなく、自分の欲望を満たすことに必死。「その暗さは どれほどであろう。」と主イエスは言われるのです。
誰も、父なる神さまと、富(マモン)の両方に仕えることはできません。両方を見る目は すでに濁っているからです。私たちの目は、今、何を見つめているでしょうか?目は、自分の心のあるところに向かいます。今、心はどこにあるでしょうか?天でしょうか?それとも お金や ものでしょうか?
私たちの必要を全て知っていてくださり、求める前から備えていてくださる神さまに喜んで仕えましょう。神さまから頂いた大切な「宝」をケチケチ貯め込んで、物神(マモン)に心を囚(とら)われてはなりません。
逆に、「私のお金、何に使おうと勝手でしょ!」とパーッと使い、スッカラカンになって、「宝」を思い煩いの種にすることも、主が望まれることではありません。神さまから与えられた「宝」ですから、神さまに感謝し、神さまの栄光を現わすために使いましょう。大切に、賢く、「宝」を使いましょう。
天を仰ぎ、主イエスを見つめ、頂いた「宝」、「賜物」を感謝して用いる。天の光を目に映し、「宝」をどう用いれば神さまに喜んで頂けるか?日々、問い続けたい。天の光を灯とし、主に導かれ、主に従って歩み続ければ、暗い道に迷うことはないのです。私たちは皆、神さまがくださる宝、賜物を 天を仰いで用いるとき、天に「宝」を積むことができます。天に積む「宝」。人によって異なります。神さまから与えられる「宝」、「賜物」は皆、違うのですから。人助け、福祉活動、献金ばかりが天に積む「宝」ではありません。賛美、祈り、小さな奉仕、「おはようございます」、「どうもありがとう」との声も、天に積む「宝」です。父なる神さまを愛し、隣人を愛し、助け合い、思いやる、そのような心、貧しくとも喜んで、生き生きと感謝して生きることも、天に積む「宝」となるのです。そのようにして積んだ天の「宝」は、神さまの国、御国の栄光を世に輝かせる。私たちの目も、天の光を映して生き生きと輝き、私たちの心は、益々安心して 天の国に憩うのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは今朝、二人の主人に仕えることができないことを改めて心に刻むことができました。感謝いたします。どうか、富ではなく、あなたのみに喜んで仕えることができますよう導いてください。主よ、私たちをどんなときも天を仰ぐ者として導いてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
先週、東京神学大学において、2月入試が行われました。また、合格者が発表されました。お召しくださったあなたが、神学生として歩み出す一人一人を支え、導いてください。来月は卒業式も行われます。全国の諸教会、学校、施設等に遣わされる一人一人をこれからも支え、導いてください。主よ、東京神学大学の歩みをこれからも力強く導いてください。主よ、私たちの国のために祈ります。富を増やすことに親しみ、あなたに仕える心を軽んじてしまう歩みから、あなたに立ち帰る歩みへと転換することができますよう導いてください。疲れている者がたくさんおります。子育てに疲れた者たち、家族の看病、介護に疲れ、「なぜ、私ばかり大変な思いをしなければならないのか」と嘆いている者があります。痛み、苦しみ、嘆きを抱いている者の傍らに立ち、嘆きに耳を傾け、祈り、癒された主イエスの歩みを、私たちの歩みとさせてください。
キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になる
ごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2020年2月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第30篇12節~13節、新約 マタイによる福音書 第6章16節~18節
説教題「主の光に照らされて」
讃美歌:546、61、296、453、545A、Ⅱ-167   

Ⅰ.先週まで、「主の祈り」の御言葉に耳を傾けてまいりました。思い起こしたいのですが、「主の祈り」も主イエスによる「山上の説教」として語られました。第5章からスタートしている「山上の説教」が続いているのです。
 腰を下ろされた主イエスの近くに 弟子たちが座っています。さらにその周りを大勢の群衆がとり囲み、「イエスさまは、次に何を語られるのだろうか?」と耳を傾けています。主は、語り続けられる。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。(マタイによる福音書6:16)」
今朝のテーマは「断食」です。主イエスの時代、ユダヤ教では施しと祈りに並ぶ3大宗教行為として、毎週 火曜日と木曜日、つまり 週に二度、断食することを大切にしていました。ルカによる福音書に記されている「ファリサイ派と徴税人のたとえ」でも、主イエスは語っておられます。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』(ルカによる福音書18:10~12)」
日本では、自分を鍛え、高めるための修行の一環として「断食」が行われる、ということがあります。また ダイエットは、若い女性のみならず、幅広い世代で関心のあるテーマです。飽食の時代にあって、プチ断食とか、断食道場とか、心身の健康のために断食が行われるという話を耳にします。しかし、私たちがキリスト者として断食する習慣はありません。では、今朝の断食の御言葉は、読み飛ばしても良いのでしょうか?

Ⅱ.断食の心は「悔い改め」です。満腹では まどろんでしまうので、食を断つことで、心を神さまのみに向かわせ、自らの罪を悔い改めるのです。「する」こと、「しなくてはならない」ことばかりの生活の中、私たちの心は自分で何とかしなければと考え、いつの間にか神さまに祈ること、神さまに頼ることを忘れてしまう。だから、信仰生活では 神さまがどんなときも共に生き、共に働いてくださることを心に刻むために「何もしない」こと、進退窮まったときに ただ静かに「何もしない」で神さまが闘ってくださるのを待ち続ける心が必要なのです。そのような「何もしない」ときとして、断食をするのです。
本来、断食は神さまの御前に ただ一人でひざまずき、自分の無力を心に刻み、全能なる神さまを信頼し、全てを委ねることを学ぶものです。これは、私たちが週に一日、日曜日を聖なる日として仕事を休み、「しなくてはならない」ことから離れ、神さまを礼拝することと相通じるところがあります。また、日々の祈りも、「しなくてはならない」ことから離れ、神さまに「より頼む」行為ですから、ある面、断食に通じるものです。けれども、いずれの行為も「父なる神さまに心を向けるため」という目的が習慣化され、宗教行事の一つとなると、そこに偽善という悪が入り込む。神さまの御前に一人ひざまずき、ただ神さまを仰ぎ、ただ 神さまへの信頼と 神さまの栄光を現わしているはずのところにこそ、悪がスーッと入り込むのです。

Ⅲ.主イエスが、今朝の御言葉で語られた「偽善者」は、裏で悪いことをしているのに表だけは取り繕って、いい顔をしている人たち、というのではありません。むしろ真剣に神に仕え、誠実に神の民であろうとしていた人たち。譬え話に登場した徴税人を見下したファリサイ派の人も、詐欺師でも悪人でもない。真面目に、一所懸命に信仰の伝統を遵守し、神さまを神さまと仰ごうとしない人間中心の世にあって、「せめて、私だけは神の民として生きよう!」と生きている人たちです。悪魔は、そうした一所懸命な信仰者を罠にはめようと落とし穴を掘る。何とかして、神さま以外の何かを支えにさせようとする。その結果、「週に 二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈らせるのです。
 今を生きる私たちにも、同じ誘惑が襲います。その一つは、人に良く見られようとする思いです。「あの人は毎週の礼拝をきちんとまもり、立派な信仰者だ」と見られようとする。そのような人からの視線、称賛の声が生きる支えになる。さらに、私たちを惑わすのは、人を裁く思いです。ファリサイ派の人の、「神様、わたしは ほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」という祈りは、他者を裁く思い以外の何ものでもありません。人の前に自分の熱心さを見せつけ、「私は、あなたたちとは違う」という思いが支えになる。
私たちと無縁な姿ではありません。神さま以外を支えとする そのとき、熱心な信仰が偽善となる。神さまの御前で、ただ一人で献げているはずの悔い改めの断食が、いつの間にか、ショーウィンドー越しの見世物になっている。それどころか、自分自身も硝子の向こうの観客の一人になっているのです。自分もなかなか立派なものだと見とれて、内なる生活であるはずの断食が、祈りが、天に積まれるはずの宝が、人からまる見え。まる見えになった信仰生活は、主イエスがご覧になられると偽善でしかないのです。

だからこそ、主イエスは言われるのです。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。(マタイによる福音書6:16)」ここで大切なのは、主イエスは「断食」を否定しておられないことです。「断食のような無駄なことはするな!」とは言っておられません。祈りや断食という行為の本当の目的は、神さまのみに悔い改めの心を献げることだからです。
けれども、断食自体が目的となり、いかにも「私は今、断食しております」と髪の毛はボサボサ、顔も見苦しくし、「私はこんなにもフラフラ」という顔、姿を見せるならば、それは人に自分の行いの立派さを見せるための偽善に変質してしまう。だから主イエスは、「誰からも断食中だと悟られないように、頭に油をつけ、顔を洗って、いつもどおりにしていなさい。」とおっしゃるのです。
主イエスは、父なる神さまに心を向けることを求めておられます。父なる神さまは、私たちの悔いる心、神さまに委ねる心、神さまに向かう心を侮られることなく、きちんと見てくださる。喜んでくださるのです。

Ⅳ.一方で、主イエスは、「何が何でも、無理をしてでも、明るい顔でいなさい!」と命じておられるのでもありません。私たちは、顔を見苦しくしようとしなくても、顔が歪む日があります。誠実に対話しても、相手に思いが届かず、落ち込む日がある。「何もしたくない」と髪の毛もボサボサ、家の中もゴミだらけになる日もある。そのことを主イエスが否定しておられるとは思えません。礼拝に行く直前、家族と口論になる日がある。笑顔で教会に行きたいと願っても、落ち込んだ顔で礼拝に出席する日もあるのです。
 「山上の説教」を語っておられる主イエスは、ご自分が何のために父なる神さまから世に遣わされたのかをご存知であられます。だから、今朝も私たちに語ってくださる。「私は世に来た。あなたの罪を赦すために。だから、大丈夫。暗い顔も、卑屈な顔も捨てなさい。」
 断食は、神さまの御前に自分の罪を認め、悔いる心の表れです。ところが、主イエスは、その私たちの罪を赦すために 十字架に架かって、私たちの罪もろとも十字架で死んでくださり、三日目の朝 甦ってくださいました。だから、私たちが自分の罪を認めることは、もはや 悲しみではないのです。自分の罪を認め、悔いる者は、ただ静かに神さまの御前にひざまずき天を仰ぐ。そのとき、私たちは皆、主の光に明るく照らされ、知るのです。「ああ私は、主の十字架によって赦されている。」だから、私たちは 落ち込む日があっても、それぞれの十字架を背負って、主イエスに従う道を明るい顔で歩むことが出来る。断食をするにしても、しないとしても、天を仰いで主イエスに従う道は、天の故郷、父なる神さまの みもとへと続いているのです。

 今朝、皆さんの週報棚に「教会案内」が配布されました。ご覧になられたと思います。作成まで時間がかかりました。伝道委員を中心に何度も協議を重ね、写真を繰り返し撮影、地図も吟味し、ようやく出来上がりました。淡い紫色を基調としています。紫は悔い改めの色です。十字架を中心とした礼拝堂の写真に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイによる福音書11:28)」との招きの御言葉が記されています。この「教会案内」を用いて、赦しの光に照らされて、罪赦された恵みを愛する家族に、親しい友人に、近隣の方々に喜んで伝えてまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、御子の十字架によって、私たちの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいましたから感謝いたします。どうか、これからもあなたの光で私たちを照らし続けてください。どうか、永遠(とこしえ)にあなたに感謝を献げることができますよう お導きください。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。主よ、祈りつつ準備してまいりました「教会案内」が完成しました。私たちの教会が この街にあって、この国にあって、主の御業を 言葉と行いとをもって証し し続ける群れとなることができますよう お導きください。主よ、全国、全世界の諸教会を憐れんでください。特に今、迫害の中にある中国の諸教会を強め、励ましてください。筑紫教会 松谷曄介先生が『ぶどうの木』に寄稿してくださったように、日本と中国の教会がお互いに祈り合い、重荷を担い合い、「喜ぶ者と共に喜び、泣くものと共に泣く」ような関係を築くことができますよう お導きください。主よ、教会から遠ざかっている兄弟姉妹を顧みてください。どうか、今朝も あなたの愛、赦し、聖霊が注がれている恵みを思い起こすことができますように。主よ、体調を崩している兄弟姉妹、痛みと闘っている兄弟姉妹、様々な不安に襲われている兄弟姉妹を顧み、聖霊を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなれば
なり。アーメン。

2020年2月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第130篇1節~8節、新約 マタイによる福音書 第6章8節b~15節
説教題「神の恵みに生きる証」
讃美歌:546、23、324、Ⅱ-1、521、544   

Ⅰ.私たちの教会では、「礼拝のしおり」を用いて礼拝が進められております。「礼拝は、前奏と後奏に はさまれて、主の招き、悔い改め、御言葉、感謝の応答、派遣という五つの部分から成り立ちます。」と「礼拝のしおり」に書かれております。今、主の招き、悔い改めを終えました。悔い改めでは、詩編の御言葉をもって、悔い改めの思いを心に刻み、罪の赦しの御言葉を聞くのです。
 私は、毎週の礼拝で必ず、赦しの御言葉を朗読し、「この赦しの言葉のもとで、説教を聴きましょう」と語り、皆さんと一緒に「アーメン」と祈る。「アーメン」。「本当に、まことに、その通り」という意味です。私たちは毎週の礼拝で悔い改めを祈り、神さまの赦しを信じ、説教に耳を傾けるのです。
 今朝は第一主日。説教の後に、聖餐の祝いに与ります。残念ながら、ここにおられる全ての方が聖餐に与ることはできません。熱心に教会に通っていても、信仰を告白し、洗礼を受けていなければ聖餐に与ることができないからです。「主イエスの十字架は、私の罪を赦すためであると信じます」と告白することなく、聖餐に与ることはできないのです。
言い換えれば、信仰を告白し、洗礼を受けた者は聖餐に与ることが許される。むしろ 罪を犯し、神さまを悲しませた日々であったからこそ、私の罪のために、主が十字架で肉を裂かれ、血を流された出来事を心に刻みつつ、聖餐に与るのです。私たちは、どのようなときも主の十字架によって罪を赦された者として、感謝して、御言葉の説き明かしに耳を傾けるのです。
 けれども、たとえ罪の赦しを信じ、聖餐の食卓を前にしても、今朝の御言葉、とくに主イエスが語られた14、15節に耳を傾けたとき、どう感じられたでしょうか?改めて、朗読いたします。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」今も生きて働いておられる主イエスが、目の前で語っておられると信じ、御言葉を受け止めたい。 
しかし、もしかすると、「神さまは、私たちの罪を無条件に赦してくださるのではないのか。私たちの罪が赦されるためには、私たちが あの人、この人の過ちを赦すことが前提条件なのか。」と思い、呆然としている方がおられるかもしれません。
100%まったく黒いところなく、100%真っ白な心ですべての人の過ちを恨むことなく、怒ることなく、赦し、愛せる人がいるでしょうか?そう考えると、「主の祈り」が終わり、14、15節を飛ばして、16節以下の断食の御言葉に進みたい!と思う気持ちが無いわけではありません。けれども、今朝の説教箇所を決めるとき、それでも14、15節を主が語られた大切な御言葉と信じ、皆さんと耳を傾けたい!と思った。大胆に語るなら、主イエスが「主の祈り」を通し、何を第一に伝えようとされたのかと思い巡らすとき、もちろん、神さまを賛美することですが、私たちに期待しておられることは、やはり「赦し合いなさい」という一点ではないかと思うのです。それも、条件付きの赦しではなく、すでに赦されている者として互いに赦し合う人生に生きて欲しい!という願いだと思うのです。

Ⅱ.罪の赦しとは、神さまと私たちとの間に交通が拓かれることです。神さまが、ご自身と私たちとを繋ぐ道を切り拓いてくださいました。キリストの十字架によって。主の十字架によって初めて、私たちが神さまを崇めること、御心を成すことが可能となったのです。私たちは勘違いしてしまうのですが、歯を喰いしばって他者の過ちを赦すことが罪の赦しの前提条件となるのではありません。条件なのではなく、他者の過ちを赦すことで、自分も赦されていることがわかる。もしも、他者の過ちを赦せないなら、私の過ちも赦されていないのです。もし、他者を赦せないなら、「私は赦された」と思いこんでいるにすぎません。その状態ではまだ罪は死んでいないからです。心のもっとも深いところでしぶとく生き残っているのです。 
「赦されている」ということは、「罪が死んだ」こと。「罪の私が死に、キリストのいのちに生きている」ということです。伝道者パウロの言葉を借りれば、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤの信徒への手紙2:19~20)」ということ。
だから、私たちが他者の過ちを赦すことは、条件なのではなく、主イエスの十字架の赦しを実証すること、証することなのです。教会形成の意味もそこにあると思います。父なる神さまに赦された者どうしの関係を形成していく中で、「共に罪赦された私たち」ということが証明されてゆく。お互いの心に、共に罪赦された喜びが刻まれていくのです。
 私たちの内に今も生きて働いておられる主イエスの十字架による罪の赦しを信じているのに、他者の過ちを赦さないなら、「私は赦された。しかし、あなたは赦されていない」と他者を裁いているなら、私たちに与えられている主の十字架による罪の赦しを否定していることになる。なぜなら、「あなたがたの過ちをお赦しになる。」と語られた「あなたがた」には、私も、赦すべき相手も含まれるからです。
 もしも、神さまが私たちの過ちを赦してくださらないとしたら、すなわち、私たちが他者を赦していないのならば、神さまとの交通も拓かれない。従って、私たちは神さまに「天におられるわたしたちの父よ」と祈ることもできないのです。他者と仲直りせず、他者と和解せず、神さまに祈ろうとするなら、その祈りは、人に見てもらうための祈り、「偽善者」の祈りであると主は語っておられます。
私たちにとって、他者が私を赦したか、赦さないかは問題ではありません。主の十字架による罪の赦しを、私たちは皆、無償で頂いたからです。驚くべき恵みです。罪の赦しは神さまからの一方的な恵み。一方的な賜物なのです。
 私たちは、罪赦された者として、顔を上げ、主の十字架を仰ぎ続ければよいのです。主イエスは、自分を殺そうとする者たちを赦すために十字架に架かり、死んでくださった。大切な独り子の死を父なる神さまは成し遂げてくださった。そのことによって、神さまと私たちとの交通が拓かれた。神さまと私たちとの和解が実現したのです。
 
Ⅲ.キリスト者とは、主イエスの十字架によって罪の自分が死んだ者たちです。同時に、私たちの内には、復活の主イエスが今日も生きて働いておられます。しかも、今朝は聖餐の食卓も備えられております。主イエスが十字架で裂かれた肉と流された血潮に与るとき、罪の私も主イエスと共に死んだことを再確認するのです。そして、罪が死んだ者、罪を赦された者として、主イエスの復活のいのちに生きるのです。それなのに、私たちがいつまでも人を赦さないのは、神さまの この圧倒的な恵みを「私は要りません」と頑なに拒むことです。それはあまりにも もったいないことであり、何よりも父なる神さまの深い愛、深い憐れみを完全に無視することになってしまうのです。
 神さまは私たち皆を赦されました。主イエスの十字架によって。神さまが私たち皆に与えてくださった賜物である主イエスが「わたし」の内に働いておられ、あの人の内にも、この人の内にも働いておられる。だから、私たちも他者の過ちを主の十字架のゆえに赦せる。それは、歯を喰いしばってではなく、主の赦しに支えられ、「あなたも神さまに赦されているのですね」と互いに涙を流し、胸を叩きながら、お互いの罪の赦しを祈り合えるのです。
私たちは、主イエスのお言葉を感謝して心に刻みたい。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(マタイによる福音書18:22)」主の十字架によって罪赦された私たちが、お互いの過ちを赦し続けることは、神さまの恵みの中で生きる喜びを何よりも明確に証することなのです。

Ⅳ.主イエスは、「天におられるわたしたちの父よ」と、神さまにダイレクトに祈れる恵み、祈れる喜びを授けてくださいました。主イエスは今も生きておられます。そして今、主イエスが私たちすべての者の罪を完全に赦すべく十字架の上で裂かれた肉と流された血潮からなる聖餐の食卓に与ります。そのとき、私たちはただイメージだけでお互いの罪の赦しを信じるのではなく、舌で、喉で、全身で罪の赦しを味わうのです。私たちは自分の罪をいつまでも責め続ける必要はありません。同時に、「私は、どうしてもあの人を赦せない!」と呟く必要もなくなるのです。なぜなら、主イエスが父なる神さまに祈れる道を拓いてくださったからです。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。(マタイによる福音書6:12)」と祈れるようにしてくださったからです。赦すことは 赦されること。赦されることは 赦すことです。嬉しいことです。ありがたいことです。私たちは、主の十字架によって罪を赦された者たち。だからこそ お互いの罪をどこまでも赦し合えるのです。
私たちが喜んで、赦し、赦されて生きるために、神さまの溢れる恵みの中で生きるために、主イエスは「主の祈り」を恵みとしてプレゼントしてくださいました。私たちが他者を赦し始めるとき、私たちはすでに神さまの赦しの道を歩いています。恵みの道を歩き、生きているのです。神さまから頂くかけがえのない一日一日、一瞬一瞬を、「主の祈り」を祈りつつ、主の恵みを証する歩みを喜び 誇り、天に続く「キリストという道」を朗らかに歩んでまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、主イエス・キリストが、文字通り、その血をそそいで与えてくださった「主の祈り」を、そこでこそ、私たちが神の子として生まれかわる場所として、確かに受けとめることができますよう導いてください。私たちもまた、日ごとのパンを求めるように、あなたの罪の赦しの恵みを、日ごと求めて生きていくことができますよう導いてください。喜んで、赦し、赦されて生きる者としてください。主の御名によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
私たちはこうして礼拝に招かれ、聖餐の祝いに与る恵みを頂きました。同時に、この恵みをもっと必要としている方々のあることを思わざるを得ません。家に残してまいりました家族たち、心にかかりながら、あなたのもとに導くことのできない友人たち、あなたの恵みをもっとも必要としている人たちを顧みてください。年老いている者、転倒し治療を受けている者、節々の痛みを抱えている者、風邪をこじらせ、教会に来る力を失っている者に慰めを与えてください。それぞれの家庭にある悩みを顧みてください。病んでいる者を献身的に看取り続ける者を、年老いた人をいたわり続ける者の労苦をあなたが慰めてください。自分の小さなわざが、小さいだけでなく、虚しいのではないかと思ってしまう私たちの心を、あなたの豊かな報いをもって慰めてください。世界が揺れ動いています。富んでいる国も、貧しい国も、皆が愛し、赦しあいながら、世界を作っていく知恵を身につけることができないのです。そのような中にあって、真実の愛を証ししなければならない教会も無力です。教会にも悪は入ります。その結果、力を合わせてあなたの栄光のために働こうとする一致の思いが欠けています。互いを裁く思いが強く、互いのために赦し合う心が乏しいのです。教会を憐れみ、この世界をも憐れんでくださいますように。年老いた者も、年若き者も、疑いを抱いている者も、信仰の喜びにあります者も、人生の挫折を嘆いている者も、今、その歩みの順調なことを喜んでいる者も、そのすべての違いを超えて、互いのために執り成し合いながら、良き礼拝をささげることができますようお導きください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2020年1月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第62篇1節~9節、新約 マタイによる福音書 第6章13節
説教題「我らの救いは神にあり」
讃美歌:546、16、508、316、543    
     
Ⅰ.主イエスが、「だから、こう祈りなさい。」と、私たちに ひとこと、ひとこと具体的に教えてくださった「主の祈り」の御言葉を大切に読んできました。そして今日、その最後の祈りを読みます。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」私たちが普段 祈る言葉では「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」です。
私は小学1年から教会に通っておりましたので、いつも神さま、またイエスさまを近くに感じておりました。けれども小さい頃、いや、小学6年の頃まで、夜になると怖くなりました。何が怖いのか?「死」です。死んだら どうなるか?お父さん、お母さん、妹が死んだら、どんなに悲しいか。今は美味しいものを食べ、暖かいベッドに寝て、お父さんは毎日 お土産を買って帰ってくる。でも、ぼくが死んだら、お父さん、お母さん、妹が死んだら、全部なくなってしまう。今夜こそ死んだらどうなるなんて考えないようにしよう!と思いベッドに入る。でも、妹が下に寝て 私が上に寝る二段ベッドですから、天井が私に迫ってくるように思え、やはりグルグル考えてしまう。そこで、「おまじない」のように「神さま、夜の間、怖い夢を見たり、怖いことが起きないよう、おまもりください。アーメン。」と手を組んで祈る。そうすると、知らないうちに寝ているのです。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」との祈りには、そうした ある意味 幼い、しかし まっすぐで素直な祈りも含まれるかもしれません。けれども、悪い者は、私たちが「主イエスが求めておられる生き方をしよう!」と心に決め、自分の十字架を背負い、一歩前へ歩み出そうとした途端に襲いかかってくるものです。ですから、むしろ、そのような「神さま、助けてください!」という真っ直ぐな祈りを邪魔しようとする、私たちの心が神さまに向かうことを妨げようと計る、忘れさせようとする、そういう悪い者から、私たちを救ってください、という祈りなのです。それは、主イエスが「主の祈り」の最後に「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」と教えてくださった そのことにも表れているように思います。主の深い慈しみを感じます。

Ⅱ.私たちの生活には いくつもの困難があります。小さな波に襲われることもあれば、大きな波に飲み込まれることもある。それは たいへん辛いものです。
しかし、そこからさらに十字架を背負って前進しよう!とするとき、神さまの御心に生きよう!とするとき、たとえば、私を攻撃するあの人を赦そう!と心に決め、愛に生きよう!主イエスに従って生きよう!と歩み始めるとき、信仰を持って生きよう!と歩み始めるとき、悪は、四方八方から立ち上がり、私たちをあの手、この手で誘惑してくるのです。だから、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りは、主イエスに従う歩みの中でこそ、必要不可欠な、「この祈りなくして生きていけない」ほどの切実な祈りなのです。
 悪は、このように囁くでしょう。「まあ、無理するな。神さまは不公平だよな。お前にばかり、次から次へ困難を与える。そうだ。お前は悪くない。あいつが悪い。だから「敵を赦します!」なんてかっこつけるな。そうだ。敵を憎んで何が悪い。こんなにも不公平で、理不尽な世のどこに神がいるのだ?どうせ、かっこつけたって、いつか必ず死ぬ。どうせ一度の人生、お前の好きなように生きればいい。理想は捨てろ!本当に楽になるぞ。」と迫ってくるのです。
悪の目的は ただ一つ。神さまから私たちを引き剥がし、丸腰にすることです。本当に恐ろしいことですが、悪は 神さまから私たちを引き剥がすためならば、どんな姿にもなります。攻撃の手を休めない。飢え、貧困、病気、怪我、悪口、争い、天災といった困難にとどまらず、本来、神さまがくださったよいもの、神さまの栄光を現すために用いれば素晴らしい働きをなすことのできる お金、地位、美しいもの、おいしいものまで利用するのです。それらが絶対的に大きく、力あるもののように信じ込ませ、神さまの支配に疑問を抱かせる。その結果、私たちは神さまを頭の隅っこへと追いやろうとしてしまう。神さまを仰ぐ心を失ってしまう。

Ⅲ.ところがです。後に伝道者パウロがローマの信徒たちに向けて書き送ったように、「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他(た)のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマの信徒への手紙8:38~39)」
先週、ある信仰の友と語らいの時が与えられました。その方は、職場で様々なご苦労があるようです。特に、その方がキリスト者であることを中傷されることが本当に辛いと嘆いておられました。同時に、その方はしみじみと語られました。「辛いこと、苦しいことがあると、祈らずにいられない。祈らないと損だと思って、朝と帰りの通勤電車の中で祈り続ける。そうすると、神さまから力を頂ける。確かに、今も苦しみはあります。今も中傷されています。でも、朝に夕に祈り続けていると、何とも言えない平安に包まれるのです。」
この世的には、どう考えても ひどい!と思うような汚い言葉を浴びせられている方です。けれども、そのことで、一日に何度も神さまに心が向き、何度も祈りを重ねる。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」との祈りを繰り返しささげることで、いつも神さまに心が向いているのです。
 父なる神さまは、悪と私たちの果てしない闘いに、主イエスの十字架を打ち込んでくださいました。悪い者が神の愛から私たちを引き離すことができないようにするため、果てしない闘いを見かねて、介入して、来てくださった。神さまの愛が真実であり、確かで、信頼に足るどころか 余りあるものであることを、主イエスが証明してくださった。主の十字架のもとでは、私たちの不信仰、私たちの弱さは問題になりません。
 主イエスは、私たちが味わうどんなに深い絶望より さらに深い絶望のどん底に飛び込んでくださいました。父なる神に見捨てられ、十字架の呪いを受けてくださった。それでも 神さまへの信頼を失わなかった。十字架の上で息を引き取られ、悪の力を滅ぼした。悪の力に完全に勝利されたのです。すべて私たちの救いのためです。何ものも、主イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。私たちが絶対!と思い込んでいた この世におけるあらゆる力は、主の十字架の前では小さな 小さな取るに足らないものとなるのです。伝道者パウロも、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」と祈り続けていたに違いありません。
父なる神さまは、私たちが祈る「主の祈り」に必ず応えてくださいます。神さまは、御子 主イエスを右に座らせ、日々、私たちに聖霊を送り、悪との闘いを導き、勇気を与えてくださいます。私たちは、ただ心を静め、「砦の塔」、「避けどころ」となってくださる神さまに祈り続ける。「天におられるわたしたちの父よ」。神さまの愛は 私たちに注がれています。必要なときに、必要なものが必ず備えられるのです。「それら全てを、神さまからいただく賜物として大切に受け取らせてください。悪い者から救ってください。困難は鍛錬として、喜ばしいことは神さまの栄光を現すものとして受け取らせてください。私をただ神さま のみに向かわせてください。」その思いを込めて、一日、一日、祈りつつ歩んでまいりましょう。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、御子が私たちを生かす恵みとして「主の祈り」を教えてくださったことを深く感謝いたします。罪深い私たちは自分の弱さを認めたくない日があります。人から「あなたは弱い人」と言われると感情が高ぶります。主よ、あなたの前で「私は弱い者です」と認めさせてください。同時に、神さまの愛、ご支配を疑う罪、また様々な誘惑に負けることがありませんようお導きください。どうか、悪魔の囁きに気がつきますように。どうか、主イエスが悪と戦われ、勝利されたことを、私たちの救い、砦の塔とすることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
Y姉が召されました。突然 愛する家族を失ったご遺族の上に、復活の主イエスの慰めを溢れるほどに注ぎ続けてください。今、若い人々が、また若い人を抱えている家族が、進学や就職のために心を砕いております。すでに4月からの歩みが決まっている者もおります。試験を前にして、抑えることのできない不安を抱えている者もおります。主よ、若き人々を顧みてください。また、彼らが生きていきますこの国とこの世界とを御心のうちにお導きください。「私は誰からも愛されていない、誰からも必要とされていない」と深い嘆きの中にいる方々に、生きる望みを与えてください。主よ、あなたが見捨てられる人間はこの地上にはひとりもいないことを信じさせてください。肉体の弱さをもつ者に、肉体は衰えても魂の火は燃え尽きてしまうことのないことを、永遠のいのちの火がともされていることを固く信じさせてください。お願いいたします。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年1月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第51篇1節~19節、新約 マタイによる福音書 第6章12節
説教題「我らの罪をも、赦したまえ」
讃美歌:546、10、Ⅱ-3、Ⅱ-99、542    

Ⅰ.主イエスが私たちに「こう祈りなさい」と授けてくださった「主の祈り」を、ひとこと、ひとこと、大切に心に刻んでおります。先週、ご一緒に読んだのは、「わたしたちに必要な糧を 今日 与えてください。」でした。
「主の祈り」を祈るとき、「天にまします我らの父よ、」から、「我らの日用の糧を 今日も与えたまえ。」までは、父なる神さまに素直に祈れます。けれども、その次の祈りに入ると、途端に口ごもってしまう。もちろん、今朝の礼拝でも「主の祈り」を皆で祈りますが、そのときに、口ごもるわけにはいかないので、皆と同じリズムで、口に出して祈ります。けれども、心の中では、素直に祈れないという方もおられるのではないでしょうか。どうしても赦せない人がいる。それなのに、神さまに「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、」とは祈れない。全てをご存知の父なる神さまに「私を苦しめている あの人を赦す」とは祈れない。ひとこと、ひとことを大切に祈れば祈るほど、最大の壁になるのが、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」の祈りではないでしょうか。
実際、「私は、この祈りは声に出せない」という方に出会ったことがあります。声には出して祈るが、どうしてもモゴモゴと歯切れが悪くなるという方もおられるでしょう。あるいはまた、声には出すが、この祈りだけは、サラッと早口で通りすぎたいような、何ともスッキリしない方も おられるかもしれません。

Ⅱ.改めて、マタイによる福音書の御言葉を読みましょう。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」 
日本語訳のニュアンスは、私たちが祈る「主の祈り」と若干異なりますが、神さまとの約束が、不誠実な口約束で良いわけがありませんから、「赦すごとく」、「赦しましたように」との祈りは、いずれにせよ「私たちは赦しました。そのように、私たちのことも赦してください」という祈りなのです。
主イエスは ここで、私たちの罪を神さまに赦して頂くことと、私たちが誰かほかの人の罪を赦すことが別々のことではなく、切り離すことのできない一つのものであると告げておられます。
私たちが神さまに対して犯す罪。それは 神さまから注がれている愛を無視し、裏切ることです。神さまの眼差しを感じつつも、心を閉ざして 感じないふりをして、やりたい放題、言いたい放題、自分の好き勝手に振舞うことです。
神さまは私たちを、平和に、美しく生きる者として創造してくださいました。一人一人に命の息を吹き入れてくださった。この命を、いがみ合うこと、憎み合うことに費やすことは、神さまへの裏切りです。神さまの愛を無視すること。まさに罪です。その罪を、神さまは「あなたたちの罪を赦そう」と、ひとり子主イエスを 私たちの世に遣わしてくださいました。赦しへの道は、主イエスによって拓かれたのです。天の国の扉は、すでに開かれております。だからこそ、私たちが誰かほかの人の罪を赦すことと、神さまに罪を赦していただくことは、切り離せない ひとつのことなのです。他者を赦す。そのとき初めて、私たちは本当の意味で「罪」の呪縛から解放される。自由になれるのです。けれども、「私を苦しめる あの人を 絶対に赦さない!」と心を閉ざしているなら、たとえ神さまに罪を赦していただき、罪の牢屋から解放していただいて いても、足にはまだ 重い鎖が繋がれているような不自由さの中にいるようなものなのです。

Ⅲ.先週、一つの映画を観ました。韓国で制作された『赦し その遥かなる道』です。重たい内容と 真っ赤なパッケージに気後れし 長い間 本棚に眠っていたDVDをようやく観ることができました。稀にみる連続殺人犯罪の被害者たちを追った ドキュメンタリー映画です。
その中で、ある男性は 愛する家族、母と妻、さらに息子を殺害されました。突然 襲われた激しい痛みの日々の中、主イエスと出会い、カソリックの信仰を与えらた。そして 何年も苦しんだ末、殺人者を赦してから自ら命を絶つことで「私の人生に整理をつけよう」と決心した。ところが 不思議なことに「赦そう」と心に決めた その日の夜、事件後初めてぐっすりと眠ることができ、「生きる望みが心の中に生まれた」と語るのです。
けれども、「赦そう」と決めたその日から、彼の孤独な、厳しい闘いが始まりました。犯人の助命嘆願書を書き、死刑反対運動のシンボルとして祭り上げられますが、殺害されずに生き残った娘たちからは全く理解してもらえず、さらに他の殺人被害者の家族からも激しく批難されます。その中で、自分自身の中に、なおも根強く残る「赦せない」気持ちと闘うのです。途中、カソリック教会の聖堂で涙を流しながら、「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」と祈っているシーンがありました。映画を観ている私も本当に胸が苦しくなり、涙が溢れました。
 映画は100分です。けれども、この人の闘いは100分では終わらない。これからも苦しい日々が続く。しかし、この一人のキリスト者は、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」と、存在をかけて祈り、おそらく今日も、心の中の赦せない思いと闘い続けているに違いありません。
男性が「赦そう」と心に決めたところから、自分自身の十字架を背負って主イエスについて行く歩みが始まった。キリストの僕としての歩みが始まったのです。

Ⅳ.私たちが他者と共に生きようとするとき、誰かに苦しめられることがあります。そして、「主よ、私は あの人に苦しめられています。主よ、どうかこの杯を取り除けてください。」と祈る。しかし、祈りがそこで終わってしまったら、とても厳しいことですが、神さまから課せられている自分の十字架を背負って、主イエスに従って歩んでいることにはなりません。御子の十字架とは無関係なところで生きていることになるのです。
もしも今、心に引っかかっている人がいるなら、一日も早く仲直りしたい。一日も早く和解し、お互いを「赦そう」と心に決めようではありませんか。
確かに、色々なケースがあると思います。相手が自分をなかなか赦してくれないことがあるでしょう。相手の表情がいつまでも厳しいこともあるでしょう。しかし、だからこそ 主イエスは「主の祈り」を私たちにくださったのです。主イエスに導かれて、支えていただいて、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」と毎日、朝に夕に、苦しいときに、祈るのです。苦しい闘いです。しかし、そのような祈りを授けてくださった主イエスこそ、逃げることなく 苦い杯を飲み干されました。十字架に上げられつつ、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ福音書23:34)」と、自分を殺そうとする者たちを神さまに執り成してくださった。私たちは、そのようにして 赦された者たちです。主イエスが一緒に闘ってくださっています。一緒に祈ってくださっているのです。
 「主よ、私の杯は苦すぎます。私の十字架は重すぎます。けれども、主よ、十字架を背負うことが御心ならば 背負います。御心ならば 赦します。だから主よ、心から他者を赦せない私を助けてください。どうか、まことに赦す者となれるよう、ひたすら務めることができますよう、導いてください。十字架を背負い続けることができますよう 主よ、助けてください」と祈り続けるのです。
私たちは、主イエスの確かな赦しの中で、他者を赦せない思いと闘うのです。神さまから与えられた十字架の前を早口で通り過ぎるのはやめましょう。うつむいて モゴモゴと通り過ぎるのもやめましょう。それぞれの十字架をしっかり背負い、今日、ここから、「赦しの道」を主イエスと共に歩み出しましょう。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、主の十字架によって今日も生かされていると思いながら、すぐに私たちはその恵みを忘れてしまいます。主の恵みの故に赦されているのに、そのことを忘れ、私にあの人の罪を赦すことができる力があるか ないか ということにこだわります。繰り返して主の恵みのなかに立ち帰ることができますように。主の十字架を心に刻みつつ、「私に罪を犯した者を赦したように、あなたが私たちの罪をも赦してください」との祈りを真実に祈らせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
主よ、厳しい寒さのため、心身の痛みを抱えている方がたくさんおられます。どうか、一人一人を深く憐れんでください。主よ、この国のために、この世界のために、全国の被災地で今もなお困難な生活を強いられている方々のために祈ることができますように。今も世界では争いがあり、無益な血が流れております。どうか、世界のただ中において、私たちの教会、全世界の教会が、平和をつくるために立たされていること、そこにあなたから与えられた使命があることを思い起こすことができますように。
 あなたの愛が私たちの頑なな心を溶かしてください。あなたが柔らかな心を私たちに取り戻させてください。あなたの平安が心を満たし、一人一人の魂を満たしてください。主よ、十字架の主イエスと共に「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈りつつ、今週も歩む者としてください。どうか、全ての者を主の平安と祝福の中に置いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

2020年1月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第145篇14節~16節、新約 マタイによる福音書 第6章11節
説教題「今日、生きるための必要を」
讃美歌:546、6、287、294、541、427    
       
Ⅰ.皆さんとご一緒に、主イエスが「だから、こう祈りなさい。」と教えてくださった「主の祈り」を味わっております。今日から、その第二部とも言うべき後半の祈りに入ります。先週までの祈りを第一部 とするなら、その祈りは、「神さまに向かう生活を整えるための祈り」です。神さまのお名前、御名が崇められますようにとの祈り、続いて神さまの国、御国の完成への祈り、そして、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。まず神さまに向かう生活を整えるのです。そして、後半は 私たち人間に対して、神さまはどのように生きてゆくことを求めておられるのか、そのことを導いて頂く祈りです。
 主イエスは、その後半 最初の祈りを「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈り続けるよう求められた。教えられた。今朝は、この事実をまず心に刻みたいと思います。
 「日用の糧」の「日用」は、日用品、日用雑貨に用いられる「日用」です。「糧(かて)」は、食糧(しょくりょう)の糧(りょう)の字を用います。食べものです。私たちが今日一日を生きていくために必要な食べもの、それが糧(かて)です。食べなければ死んでしまう命の糧。だからこそ主イエスは、私たちの生活に関わる祈り、私たちの人生に関わる祈りの冒頭に「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りなさいと教えてくださったのです。

Ⅱ.ところで、我が家の子どもたちが幼い頃、食前の感謝の祈りへの疑問が話題になったことがあります。「どうして、神さまに『ごはん』を感謝するのか」、という素朴な疑問です。「だって、この『ごはん』お母さんが作ったんでしょ!」と言うのです。確かに私たちは、日々の糧(朝ごはん、昼ごはん、夕ごはん)を食べるために食材を求め、料理し、頂きます。そのために働き、稼ぐのです。
「神さまに感謝するより、外で働き、お金を稼ぎ、そのお金で買いものをし、大好きな料理を食卓に並べてくれる人に感謝するならわかる。でも、神さまに感謝するのはおかしい!」子どもの素朴な疑問です。いや、むしろ、私たちは大人になればなるほど、このような思いが強くなるかもしれません。「私が稼いだお金で何を食べ、何を飲み、何を買っても文句はないでしょう」と。 
けれども、私たちは知っています。働くこと、食べること、もちろん生きること、そのすべてを神さまが祝福してくださらなければ、どのような労働も、心遣いも、意味を失うということを。
働くことができること、食卓を整えるために心を尽くすことができることも、神さまの祝福があってのことなのです。ですから、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」との祈りは、「私たちが必要とし、私たちが働いて、自分で調理するものはすべて、もともとは神さまのもの」ということを認める祈り。確かめる祈りと言えます。もともとは神さまのもの。きよいもの。尊いもの。その意味で私たちは、きよいもの、尊いものに囲まれている。食べものも、食べものを得るための労働も、食卓を整える働きも、すべて神さまのもの。そのような神さまのものを、「私たちのもの」として、感謝して頂くことができるようにしてくださるのが、神さまの祝福なのです。
 そのように、私たちが私たちのものと思い込んでいるものを、元々はすべて、神さまのもの、きよいものとして改めて頂戴する思いに立つとき、たとえ毎日同じことの繰り返しであっても、つまらない仕事、意味のない仕事などありません。豪華な食卓、贅沢な食事でなくても、きよい尊い食事なのです。神さまは、そのような誰が目に止めるでもない、毎日の生活も、その日、その日の私たちの労苦すらも、きよいものとしてくださるのです。
毎日の生活というものは、大抵の場合、単調なものです。「私の願い、理想とは反対の このような毎日の繰り返しが いったい何になるのか?」と投げ出してしまいたくなることが あるかもしれません。また、「自分のやってきたことは間違いではなかったか?」と不安になるときもあります。さらに、「私の人生、すべてが無駄であった。」と思うような煩いの中にあっても、「主の祈り」を祈り続ける。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」そのとき、神さまは私たちの日々の労苦、悩み、憂い、苦しみ、悲しみ、不安をも、今日、生きるための必要として祝福してくださり、きよめてくださり、私たちのものとして与えてくださるのです。一日、一日を与えてくださるのです。
私たちは、もしかしたら、次の瞬間には倒れるかもしれません。明日、命が続いているかどうか、私たちにはわからない。だからこそ、「神さまの祝福の中、神さまのまなざしの中においてください」と祈り続けるのです。

Ⅲ.また、「主の祈り」で大切なのは、「主の祈り」は「私」の祈りではなく、「私たち」の祈りということです。「主の祈り」の冒頭、「天におられるわたしたちの父よ」です。「天におられるわたしの父よ」ではない。「わたしの日用の糧」でもない。私たちすべてのものへの祝福を求める祈り。私だけでない。あの人も、この人も、世界のすべての人々を、死も滅びもこえて、父なる神さまの祝福の中においてください、と祈るのです。
 『世界がもし100人の村だったら』という本があります。旧い本なので、統計が今とまた違うかもしれませんが、世界の人口を100として考えたら、20人は栄養が十分でなく、内1人は死にそうなほど。けれども、15人は太り過ぎ、というデータがあります。世界の全ての富のうち、59%をたった6人で占め、39%を74人が、残りのたった2%を20人で分け合っている。恐ろしいことです。「我らの日用の糧を」と祈るとき、決して忘れてはならない私たちの現実です。

Ⅳ.今朝は、旧約聖書 詩編 第145篇を朗読して頂きました。「主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。ものみなが あなたに目を注いで待ち望むと/あなたは ときに応じて食べ物をくださいます。(145:14~15)」
 神さまは、倒れようとする人を、ひとりひとり、支えてくださる御方です。神さまは、うずくまっている人を、ひとりひとり、起こしてくださる御方です。父なる神さまは、低く低く かがみこみ、子である私たちを支えてくださる。神さまは、そのように 私たちの必要のために低く低く なってくださった御方であることをいつも覚えていたい。
 主イエスは、貧しい馬小屋に生まれ、十字架という これ以下は ないほどに低いところに降りてくださいました。私たちは、その神さまに目を注ぎ、一日また一日と、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るのです。神さまに支えて頂き、立たせて頂いて、一日また一日、一歩また一歩と与えられた瞬間、瞬間を歩む。
 このような まことの神さまへの信頼、平安の中で、「父なる神さま、我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と、世界中の「我ら」の糧のため、必要のために祈り続け、私の小さな働きなど無駄と思わずに、主が与えてくださる一日、一日を歩み続けるのです。そして、その歩みが終わるときが来ます。倒れたままになるときが来る。そのときもまた、私たちに必要な糧です。それで終わりではないからです。神さまが定められたときに、「起きなさい、甦りの朝だよ!」と、手を取って私たちを起こしてくださるのです。

<祈祷>
 天の父なる御神、日用の糧、必要な糧を、毎日、あなたに願うことができる幸いを感謝いたします。主イエスの恵みが、肉の糧、霊の糧を常に新しく与えてくださることを感謝いたします。たとえ明日、あなたに召される日が来ても、それを、のぞみをもって受け入れることができますように。世界では今も多くの方々が、肉の糧に飢えております。また魂の水を求めて渇いております。主よ、分かち合う祈りをさせてください。分かち合う喜びを味わわせてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
主よ、本日、私たち東村山教会に連なる神の家族としてE兄弟を加えてくださり心より感謝いたします。どうかE兄弟、E牧師、ご家族の歩みの上に聖霊を注ぎ続けてください。これまで所属され、またE牧師が心を込めて牧会してこられた越生教会の歩みを お導きください。主よ、私たちの中に愛する家族が召され、悲しみの中にある兄弟姉妹がおられます。どうか、深い慰めをお与えください。今、イースター礼拝での受洗に向けて準備の学びを続けている姉妹がおられます。主よ、どうかそのときを導いてください。どうか、明確に信仰を告白し、洗礼の恵み、聖餐の祝いに与ることができますよう おまもりください。主よ、病の中にある者を慰めてください。肉体は元気であっても、少しも幸いではない者を憐れんでください。地上の幸せの中で、傍らにいる友、苦しみの中にある友を忘れ去っている者を御心のうちに置いてください。私たちの国を、私たちの世界を、なお あなたの御手のうちに支えてくださいますよう お願いいたします。世界の政治に責任をもつ者が、何が最もよく御心を示す道であるかを、あなたに導かれて知ることができますようお願いいたします。そして、ひとりでも多くの人が、この世界は神さまによって創造された良き世界であって、悪魔の支配するところではないのだ!との確信を抱くことができますようお導きください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2020年1月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第103篇17節~22節、新約 マタイによる福音書 第6章10節b
説教題「御心が成りますように」
讃美歌:546、12、411、21-81、413、540           

Ⅰ.新しい年が明けました。年の始めにあたり、主が私たちに与えてくださいました御言葉は、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」という、「主の祈り」の御言葉となりました。マタイによる福音書を続けて読んでおりますので、たまたま この御言葉が巡って来た とも言えますが、新年に相応しい御言葉が与えられたと思います。
 神さまの御心が、天においてくまなく行われている。この真実は、私たちにとって大きな、また確かな慰めです。私たちの祈りを支えるのは、天の平和、天の確かさです。神さまの思いがどこにあるのかわからない、どこにもないのではないか、神さまはいないのではないか、と疑いたくなるような地上の世界にあって、それでも、天には確かに神さまがおられ、そこでは神さまの御心が行われている。この真実が、地上に生きる私たちを支え、私たちの祈りを支えているのです。
 「神さまの御心」の反対は、「私の心」、「私の意志」です。キリストの者として誠実に生きようとするとき、そこには必ず闘いがあります。なぜなら、私たちは、私たちだけでは神さまの御心を生きることなどできないからです。私たちの世は罪深く、私たち自身も世の罪に飲み込まれてしまう存在なのです。
 「神さまの御心を生きたい!」と願う。けれども、次の瞬間には自分のことを中心に考えている。「私の意志」は、どんなに神さまの意志に近づくことができたとしても、やはり、神さまの意志に逆らってしまうものです。富や名誉を求めます。人から何か言われればカッ!となって言い返したくなります。敵を愛することができません。祈りにおいてすら、「私の心」、「私の意志」は、「ああしてください」、「こうしてください」、と神さまに私の意志を押し付け、丁寧な言葉であっても、結果として私の心、私の意志を神さまに強要している。神さまの意志に従うためには、どうしても、私の意志、私の思いを綺麗サッパリ捨てなくてはならないのです。
「主の祈り」の今朝の御言葉は、私の心、私の意志ではなく、「神さま、あなたの御心、あなたの意志が成りますように」という祈りです。だから この祈りを口にすること、祈り続けることは、私たちにとって自分との闘いを始めることに他なりません。私の心が、神さまの御心に服従することを求める祈りです。神さまの御心に屈服すること、敗けることを求める闘いです。そして、自分の意志を捨て、抵抗をやめて、白(しろ)旗を掲(かか)げ、両手を上げて、神さまに降参する。神さまに私の心も体も全部明け渡し、私のすべてを支配するまことの王として入城して頂く。そのような祈り、それが「御心が行われますように」なのです。「御心が行われますように」と祈り、神さまの御心に敗けを認めて従うとき、敗北した私たちは 主イエスによって、私の思いに勝利するのです。

Ⅱ.「御心が行われますように」の祈りによって、皆さんの心に浮かぶのは、十字架前夜、ゲツセマネでの主イエスの忘れ難い祈りではないでしょうか。まことの神であられる主イエスが、私たちと同じように、自分の思いを父なる神に告白しておられます。「父よ、できることなら、この杯(十字架の死)をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ福音書26:39)」
私たちにもそれぞれ、父なる神から与えられる杯があります。その杯を思い浮かべたい。「この杯を私から過ぎ去らせてくだされば、どれだけ心が軽くなり、どれだけ幸せに生きられるか。」私たちには誰にも言えない杯があるのです。神さまに、「父よ、できることなら、杯を過ぎ去らせてください!」と願うことは許されます。なぜなら、私たちに杯を与えられるのは神だからです。けれども、その次に闘いの祈りをささげるのです。たった三文字の「しかし」が闘いの証です。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。(マタイ福音書26:39)」杯を持ちながら、「しかし、御心のままに」と祈ることは、決して簡単なことではありません。非常に難しいことです。主イエスの支えなくしては、すぐに挫折し、崩され、あっけなく終わる闘いです。
 だからこそ改めて、主イエスの祈り、主イエスの闘いを心に刻みたい。主は、ご自分の願いだけでなく、私たちの諦めの心、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈ることのできない心とも闘ってくださった。血の汗を流し、ご自分の心、意志、望みを捨てる闘いに勝利され、ご自分の思いではなく、神さまの御心に服従され、十字架の死を遂げられた。この世に敗北したように見える死が、勝利となり、神の御心を生きる、貫き通す道をこじ開けてくださった。私たちも神の御心を生きる、貫き通す道を歩めるように、御心が行われている天に通じる道を拓いてくださったのです。
その上で主イエスは、私たちの方を振り向いてくださいます。一人で、スタスタ行ってしまうことなく、闘いに勝利された主イエスは、天に通じる道を拓かれ、私たちの方を向いてくださり、日々、招いてくださるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ福音書16:24)」「あなたも自分の杯、十字架を背負って、自分の思いではなく、父なる神さまの御心を生きる道を歩むべく、わたしについて来なさい。」
年が明け、皆さんの中には、今、様々な不安を抱えている方がおられるかもしれません。身体の不安、新しい働きの不安、家族関係の不安、今まで自分が良かれと思ってやって来たことが、実は間違いだったのではないか、との不安。不安の種類はそれぞれ違います。「新しい年2020年を迎えた。しかし、私の心は不安に押し潰されそう。新しい年になり、皆が希望に溢れているように思えば思うほど、時代の変化について行けず、時代に乗り遅れ、一人ぼっちに思える。そのような私が、自分の願いではなく、『神さまの思いが成りますように』と祈るのはとても難しい。やはり、自分の願いが優先してしまう」と祈る前、闘う前から諦めてしまう。
けれども、私たちの闘いは孤独ではありません。クリスマス礼拝で共に喜び、感謝したように、私たちにはどんなときも 父なる神さま、御子キリストが共にいてくださいます。しかも、父なる神さまは 私たちが祈る前から、闘う前から、私たちに必要なものをご存じでおられる。そのような安心の中、私たちは「主の祈り」、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈れるのです。
私たちは一人ぼっちで「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈り続けるのではありません。切り込み隊長として先頭に立ち、闘われ、自分の思いに勝利され、神の御心に十字架の死に至るまで従順に従われた御子イエス・キリストの後ろにぴったりくっついて闘い、祈り続けるのです。

Ⅲ.今朝は、詩編 第103篇を朗読して頂きました。改めて、20節から朗読いたします。「御使いたちよ、主をたたえよ/主の語られる声を聞き/御言葉を成し遂げるものよ/力ある勇士たちよ。主の万軍よ、主をたたえよ/御もとに仕え、御旨を果たすものよ。(20~21節)」皆さんは、この詩編からどのような思いが与えられるでしょうか?私は、神の御心を成し遂げた天使たちが勝鬨を上げ、主を力強く賛美しているように思えます。続く22節を朗読いたします。「主に造られたものはすべて、主をたたえよ/主の統治されるところの、どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ。」まさに、「神に造られたあなたたちも、こぞって神の支配の元で、迷うことなく大いに主を讃えよ、自分の意志との闘いを最後まで闘い抜け、あなたの勝利は、キリストによって約束された」という応援歌に思えるのです。
 最後に、『ハイデルベルク信仰問答』を紹介いたします。問答124は、「主の祈り」の第三の祈り「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」について、こう記します。問:第三の求めは、何ですか。答:みこころの天になるごとく 地にもならせたまえ、です。それは、われわれおよび すべての人間が、自分の意志を捨てて、聞き従う者となり、かくて、すべての者が、自らの持ち場と職を、天にいる み使のごとく、喜んで また忠実に、つとめる者とならせて下さい、ということであります。(竹森満佐一 訳)
 私たちは、「み使のごとく」、つまり天使のような者として生かされています。「天使」と言われると、何だか照れくさい思いを抱かれるかもしれません。けれども、私たちは誰が何と言おうと、天の神さまから地上に遣わされた者たちなのです。天の思い、御心がこの世、また私たちの中にも、実現するように、心を込めて、日々、祈り続ける使命に生きるのです。
 それぞれが遣わされているところで、職場で、家庭で、施設で、学校で、そして教会で、神さまの意志、神さまの思い、御心に喜んで従い、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神を永遠に賛美する者とならせたまえ!と祈り続けるのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。(ルカ福音書2:14)」と高らかに主を賛美した天使たち、天の大軍と一緒に、神さまの願いよりも自分の願いを優先する心と闘い続ける。勝利者キリストと一緒に。皆さんと一緒に思い浮かべたい。天の大軍と一緒に主を賛美している光景を。何と、ワクワクする素敵な光景でしょう。
 新しい年2020年がスタートしました。そして今朝、私たちは聖餐の祝いに与れる。私たちの杯は、主キリストが復活によってすべての死に勝利された杯、主キリストが私の願いを優先してしまう心に勝利された杯なのです。共に、「主の祈り」を、新しい年も日々の祈りとして喜んで祈り続けたい。「みこころの天になるごとく/地にもなさせたまえ。」「どうか、父なる神さま、今日も、天使の一人として生きさせてください。どうか、父なる神さまの御心を生きることを得させてください」と祈りつつ、この一年も歩んでまいりましょう。

<祈祷>
天におられる私たちの父なる御神、御子イエス・キリストを通し、「主の祈り」を教えてくださり、深く感謝いたします。とくに今朝は、新年礼拝に相応しい、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」を教えてくださり重ねて感謝いたします。主の年2020年も、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」と天にいる み使と共に、喜んで また忠実に、祈り続ける者とならせてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
 主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。主よ、私たちの国を顧みてください。国の政治を司る者、国や市町村の歩みにそれぞれの務めをもって貢献しなければならぬ者、日本の経済を担う者、日本の教育を担う者、日本の医療、介護を担う者、これらの人びとを、あなたさまの御心を行う器として用いてください。主よ、急速に変化する社会から、「私は取り残された」と思っている方々。人格を否定される言葉により、深く心が傷つき、病んでしまった方々。年を重ね、身体の衰え、気力の衰えにより外出する気力を失っている方々。さらに、そのような伴侶、親を看取り続けているため、新年らしいことを何一つ行うことができず、今日も看取りの労を担っている方々、また重い障害を抱えている家族への看取りの労を担っている方々を、神さまの特別な御心のうちに慰め、励まし続けてください。主よ、被災された方々のために祈ります。屋根の修理を待ち続け、原発事故による過疎化に悩み、それぞれ先の見えない不安を抱えつつ新年を迎えられました。主よ、今も困難な生活、孤独な生活を続けている方々、「あのとき、なぜ助けられなかったのか」と今も自らを責め続けている方々を憐れみ、慰めを注いでください。私たちも被災された方々の深い痛みをこの年も忘れずに祈り続ける者としてお導きください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2019年12月29日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ダニエル書 第3章32節~33節、新約 マタイによる福音書 第6章10節a
説教題「御国が来ますように」
讃美歌:546、120、228、234A、539           

Ⅰ.先週のクリスマス礼拝、私たちは 父なる神さまの御(おん)ひとり子、
イエス・キリストの御降誕を喜び、賛美いたしました。御子イエスがお生まれになられた喜びは、クリスマス限定ではありません。すでに神さまのご支配、救いのご計画は 御子イエスによって成就されました。それは、今日も、そしてこれからも、私たちの喜びであり、永遠の希望です。さらに私たちは、御子の再臨を祈りつつ待っている者たちです。その意味で、「既に」と「未だ」の「時」に生きている。既に御子がお生まれになられた。既に救いが実現した。同時に、未だ御子は再臨しておられない。未だ御子の救い、神さまのご支配は完成していない。だからこそ主イエスは、「主の祈り」の二つ目の祈りとして「御国が来ますように。」を祈り続けて欲しい!と命じられたと思います。
一年を振り返るとき、神さまは今も生きて働いておられるのか?と疑いたくなるような出来事が続きました。台風の被害。国と国の対立。同じ国民であっても、ある考えを支持する人々と反対する人々の対立があります。私たちの間はどうでしょうか?一年の自分の心のありようを静かに振り返るとき、御子イエスを まことに主として歩んで来られた日ばかりではなかったことを、御前に恥じずにおれません。そのような2019年の最後の礼拝で神さまが私たちにお示しくださった御言葉が、「御国が来ますように。」なのです。
 
Ⅱ. 「御国が来ますように。」と訳された原文を直訳すると、こうなります。「あなたの国が来ますように」。「あなた」とは、「天におられる わたしたちの父。」つまり、「天におられる お父さま、あなたの国が来ますように」との祈りです。
私たちは「国」と聞くと、国境があるように考えてしまうかもしれません。「私は、信仰を告白し、洗礼を受けた。だから、神の国の国民である。」と考えたり、反対に、「あなたは まだ信仰を告白し、洗礼を受けていない。だから、まだ神の国の国民とは言えない。」とも考えたりして、勝手に国境線を引いてしまう。
けれども主イエスは、マタイによる福音書 第7章で、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。(7:21)」と語っておられます。「天の国」と訳されている言葉も、「神の国」、「御国」と同じです。つまり、「主よ、主よ」と熱心に祈っているから、「天の国」に入るわけではないのです。そして 第19章では、主イエスのところに子供たちを連れて集まってきた人々を、弟子たちが叱ったのをご覧になり、心を痛め、弟子たちに「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。(19:14)」とお叱りになられました。
主イエスは、弟子たちが、心の中に勝手な国境線を引き、「私たちは『神の国』の国民である。それに対し、『神の国』について何の知識もない子供たちは、『神の国』とは無関係。『神の国』に子供たちが入れるわけがない」と裁いた、その裁きの心を否定されたのです。また福音書を読むと、主イエスが「神の国」の完成のため、どれほど 心を砕いておられたかがわかります。
 主イエスは、「私は 両親、兄弟、姉妹、隣人から見捨てられ、神さまからも見離されている」、「私は 神の国とは無縁の存在」と諦めていた足の不自由な者、重い病を患っている者、目の不自由な者、金はあっても同胞から白い目で見られている徴税人、さらに娼婦たちのところへ出かけ、憐れみの眼差しを向け、声をかけられました。「あなたも『神の国』の国民になれる。あなたのためにも、『神の国』はある。私が世に来たのは そのような『神の国』をもたらすためだ。ここに私がいる。だから、『神の国』、『神の支配』は始まっている。」と「神の国」、「神の支配」を全ての者に運んでくださったことを、忘れてはなりません。御子が お生まれになられたそのとき、間違いなく「神の国」、「神の支配」が始まったのです。それなのに、「あなたは、『神の国』の国民ではない」と勝手に国境を設けることは許されません。御子イエスは、全ての人を「神の国」へ招いておられます。ある特定の人々、ある特定の地域にだけではなく、全ての人に、「神の国」、「神の支配」が完成することを祈り、行動してくださったのです。
弟子たちが、裁きの心で子供たちとの間に引いた国境線を消すために、またファリサイ派や律法学者たちが「律法を遵守して、良い行いを積み上げたから、『神の国』に入れる」と言って、ユダヤ人の歴史の中で 長い長い年月をかけて築き上げてきた 高い高い国境の壁を崩すために、御子は激しく戦ってくださいました。そして最期には、十字架の死をもって その戦いに勝利をおさめられたのです。御子の十字架によって、私たち全ての者は「神の国」に招かれ、主ご自身が ご自分の祈りとして、生涯をかけて何よりも切実に祈ってくださった「御国が来ますように。」との祈りを、私たちの祈りとして祈ることができるようになりました。何か立派な行いをしたとか、律法を遵守したとか、「神の国」に入るのに、そのようなビザはいらないのです。主イエスは今朝も 全ての者に、「あなたがたも毎日、祈り続けて欲しい!」と求めておられるのです。

Ⅲ.けれども 私たちは、「神の国」の完成をどこか現実離れしたことのように考えていないでしょうか?「御国が来ますように。」と祈るとき、忘れてはならない大切な「時」があります。御子の復活と御子が再び世に来てくださる再臨の時、「神の国」の完成の時です。
主イエスは、十字架の死の三日目、父なる神さまによって甦らされました。死んだらおしまい、ではない。死に勝利された。全ての暗闇に、「本当に神は今も生きて働いておられるのか?」との疑いの声に、「『神の国』の到来?あなたがたは本気でそんなことを信じているのか?」との嘲りの声にも、主は復活によって勝利されたのです。だからこそ、私たちは日々 主イエスの十字架と復活、そして再臨を信じ、御国の完成を信じ、「御国が来ますように。」と祈る。主が再びいらしてくださる再臨の日、終わりの日、終末の日に備えるのです。
もしかすると、私たちはその日、つまり再臨の日、終わりの日は、ずいぶん遠い、先のことのように思っているかもしれません。「少なくとも、私が生きている間は御子キリストが再び世に来られることはない」と思い込み、「御国が来ますように。」との祈りを、御子が最期まで示してくださった 切実さをもって祈ることを怠っていないでしょうか。けれども、主イエスは今朝、私たちに、裁く心を捨て、幼な子のように祈ること、「神の国」の完成を信じ、ただひたすら「御国が来ますように。」と祈り続けることを示してくださいました。
繰り返して申します。「神の国」は、主イエスによってすでに始まっています。そして、「天の国はこのような者たちのものである。」と、自分では何一つできない、全てを父なる神に委ねるだけの子供を、天の国の国民とされた。私たちは皆、一人も漏れることなく主イエスの十字架によって、神を父と呼べる者とされ、天の国の国民とされているのです。私たちは、天の国の国民として、「御国が来ますように。」と祈る使命を与えて頂いております。主の御業が、地上に あまねく行き渡るために、主イエスの切実さに倣って歩むことは、私たち天の国の国民の使命です。
誰一人、神の救い、神の支配から漏れることのないよう、「私など『神の国』に入れない」と決めつけている人々に、主イエスのように、「神の国」の喜び、恵みを運びたい。「私は、『神の国』に属する者。私を見てください!私は神の王国人(びと)。」と、神の支配に生かされ、神に突き動かされ、キリストの恵みを運ぶつとめを与えて頂いていることを誇り、喜びましょう。
新しい年も、「御国が来ますように。」と祈りつつ、主イエス・キリストの愛と赦しと憐れみを皆さんと共に語り続けたい!心から願います。

<祈祷>

天の父なる神さま、毎日、「御国が来ますように。」と祈り続けることがいかに大切であり、同時に、まことの希望であるか、今朝、私たちに教えてくださり感謝いたします。どうか、これからも、「御国が来ますように。」と心を込めて祈る者としてお導きください。主の御名によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。主よ、2019年 最後の礼拝を愛する兄弟姉妹と共にまもることがゆるされ、深く感謝いたします。この一年、1月にM姉妹、6月にY姉妹、9月にM兄弟が召されました。また、兄弟姉妹の中にはそれぞれのご家族、ご親族が召された方もおられます。まことの慰め主であられるあなた様が深い悲しみの中にある方々を慰め、励ましてください。クリスマス礼拝には一名の新来者が与えられました。深く感謝いたします。さらに久し振りに礼拝に戻られた兄弟姉妹もおられます。同時に、クリスマス礼拝にもかかわらず、様々な事情により、礼拝を欠席された教会員がおられることをあなた様はご存知です。どうか、あなた様が備えている「時」にまた教会に帰ってくることができますよう その場、その場で聖霊を注ぎ続けてください。主よ、バレなければ大丈夫!法に則っている!と言えば、うやむやになるとの空気が世界に蔓延しています。主よ、まことの審判者であられる あなたさまの御前に額づき、「御国が来ますように」と世界の為政者が祈ることができますよう、お導きください。特に、激しい弾圧、迫害を受けている中国の諸教会をまもり、あなた様を礼拝できる自由を お与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年12月24日(火)日本基督教団 東村山教会 クリスマス讃美夕礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:ヨハネによる福音書 第1章1節~5節、説教題:「恵みの光」、讃美歌:102、107、114、112

Ⅰ.この一年、様々な出来事がありました。全国の被災地からの報道は、胸に刺さります。台風により屋根が吹き飛び、河川の氾濫で尊い命が奪われました。世界では多くの地域で紛争がある。地球温暖化の問題も深刻であるのに、経済最優先。核の脅威もそのままです。
クリスマス讃美夕礼拝にいらした皆さんも、この一年、順風満帆の日々ではなかったかもしれません。試練に襲われた方、病に苦しんでいる方、家族との関係に悩んでいる方。「街のイルミネーションはキラキラ輝いている。けれども、『イエスさまは、「恵みの光」としてお生まれになり、今もあなたの中で輝いている』と言われても信じられない!」「2000年も前にベツレヘムの馬小屋に生まれたキリストが、今の日本に生きる私と どんな関係があるのか?いったい何が クリスマスの喜びなのか?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

Ⅱ.「初めに言(ことば)があった。」とヨハネによる福音書は、語り始めます。ヨハネは、神の御子キリストを「言」と表しました。そこで、第1章1節以下に「言」と書かれている箇所を「キリスト」に入れ替え、改めて朗読したいと思います。
「初めにキリストがあった。キリストは神と共にあった。キリストは神で  あった。このキリストは、初めに神と共にあった。万物はキリストによって  成った。成ったもので、キリストによらずに成ったものは何一つなかった。」
よく知られた「クリスマスの物語」の馬小屋で生まれた赤ちゃん イエスさま。その赤ちゃんが、もともとは どのような御方なのかを教えてくれる御言葉です。もしも、「クリスマスの物語」を語るとき、また聴くとき、このヨハネ福音書の御言葉を忘れているなら、私たちの世を覆うのは空しい暗闇のままです。
主イエスは、天地万物が創造される前から、父なる神と共にあり、まことの神さまなのです。「えっ?イエス・キリストは、クリスマスの夜、母マリアから『オギャー!』と生まれたはず!それなのに、天地万物が創造される前から、父なる神と共にあり、神である!とはいったいどういうことか?」と不思議に思われた方もいらっしゃるかもしれません。

Ⅲ.確かに、神さまの業は不思議、神秘(ミステリ)です。そのような神さまの神秘(ミステリ)の中で、非常に大切なのは、神さまは、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神からなる「三位一体の神」であるということです。
聖書の神さまは、単独で存在されるのではなく、いつも、互いに向き合い、愛し合い、語り合って、存在しておられる。父なる神だけでもない、子なる神(キリスト)だけでもない、聖霊なる神だけでもなく、それぞれの神が一体となって、「三位一体の神」として存在しておられるのです。その三位一体の内の、子なる神(キリスト)が天を離れ、地上に人として生まれてくださった。この驚くべき神秘(ミステリ)が、どこかに置き去りにされているとしたら、馬小屋で生まれた赤ちゃんも、十字架で磔(はりつけ)にされ、それでも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ福音書 23:34)」と祈りつつ、息を引き取られた主イエスも、「昔々あるところに」で始まる「おとぎばなし」になってしまう。私たちとは関係の無い、一人の男の空しい死になってしまうのです。
だからこそ、ヨハネは語る。「万物は言によって成った。(ヨハネ福音書1:3)」すべてのものは、キリストによってできた。キリストによらないでできたものはない。」万物。全てのもの。花も、鳥も、獣も、私も、愛する者も、顔もみたくない あの人さえ、キリストによって成った。キリストによって創られた。この愛の言、全てのものの存在の根本(こんぽん)、根っこがキリストである。父なる神と共にあり、聖霊なる神と共にあり、神であられる御子キリストが、神であることを捨て、神と共にあることを捨て、私たちと同じ人間となられた。無力な赤ちゃんとして暗闇の世に生まれてくださった。父なる神にとっては、一体ですから、ご自分の一部をもぎ取って渡す思いで、子なる神(キリスト)を世に遣わされたのです。
御子は、粗末な馬小屋に お生まれになられました。家畜の独特な臭いがした。ベビーベッドは固くて、冷たい馬の餌箱。布団は藁。ほとんど真っ暗で、動物の体温で暖(だん)をとるような寒さと、貧しさの中でキリストはお生まれになったのです。

Ⅳ.説教の冒頭でも触れましたが、クリスマスが近づいて来ると、街にはイルミネーションが輝く。パーティーを開き、ワインを呑み、ケーキを食べ、プレゼントを交換する。
一方で、街がキラキラと華やぐほど、寒空の下(もと)、孤独であることが身に沁みて 暗い気持ちでクリスマス、年末年始を過ごしている人も少なくない。楽しんで見える人も、実は孤独が怖くて、無理をしてキラキラと輝いているのかもしれません。しかし、ヨハネは語るのです。「光は暗闇の中で輝いている(1:5)。」と。
父なる神さまは、「あなたがたは一人も滅んではならない。誰一人、恵みから漏れてはならない。」と、子なる神(キリスト)をお与えくださいました。子なる神(キリスト)は、父なる神と共にあることよりも、偽りの光のまぶしさに耐えかねている私たち、華やかさの陰で孤独を抱え どうにか生きている私たちと一緒にいてくださることを選び、暗闇を照らす灯(ともし)火となってくださいました。
主イエスが十字架で死なれたとき、この灯(ともし)火が消えたのではありません。暗闇が勝利したかのように見える十字架は、光が勝利した証なのです。ここにも 神の神秘(ミステリ)があります。父なる神は、御子キリストの命を 私たちの命と引きかえにしてでも、私たちをご自分の子として、暗闇の中から取り戻すことを望まれたのです。
御子は暗闇の力に屈して十字架から降りたりは なさいませんでした。父なる神さまの望まれたとおり、私たちの身代わりとなって 十字架の死を成し遂げてくださったのです。最期まで、私たちへの愛を貫いてくださった。最期まで、神さまへの まことを貫かれた。そして、父なる神さまの御心を成し遂げられた御子キリストを、神さまは そのまま放っておかれることはなさいませんでした。御子は、三日目に死の中から甦らされ、再び 天の栄光の中へと昇られたのです。
私たちは皆、神さまから「御子キリストの光、まことの光、恵みの光に照らされて欲しい!父なる神の子として生きて欲しい!」と、招かれております。 旧約聖書 詩編にこのような御言葉があります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯(ともしび)。(119:105)」まさに、まことの光となられたキリストによって、詩編の御言葉も成就されたのです。
今夕も 光の道は、暗闇に迷っている私たち 一人一人に降り注いでおります。もう、孤独ではありません。私たちは皆、暗闇から御子キリストによって救い出されたのです。顔を上げ、御子キリストの光を受け、神の子として、ご一緒に父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神を賛美し続けましょう!

(お祈りを致します)
天の父なる神さま、今夕も私たちの名を親しく呼んで下さり、クリスマス讃美夕礼拝にお招きくださり、心より感謝致します。この世には暗闇があります。私たちの心にも暗闇があることを 神さまはご存知です。だからこそ、まことの光として御子を お与えくださいましたから、感謝致します。どうか、暗闇の中にあっても、恵みの光なる御子を信じ、与えられる一日、一日を感謝して歩む者としてください。各被災地で今も困難な生活を強いられている方々、孤独を抱えている方々、差別と偏見に苦しむ方々、争いの中にある方々、寒さと飢えに苦しんでいる方々に愛と祝福を注ぎ続けてください。これらの感謝と願いを、私たちの救い主 インマヌエルの主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げ致します。アーメン。


2019年12月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第9章1節~6節、新約 ルカによる福音書 第2章1節〜14節
説教題「恵みの光」
讃美歌:546、100、108、Ⅱ-1、115、545B   

Ⅰ.御子イエス・キリストが世に来られた 世界で はじめのクリスマスは、闇に覆われた世界の片隅で 静かに 静かに始まりました。
 福音書の作者 ルカは、クリスマスの出来事を静かに、この世の現実から語り出します。時の権力者 ローマ帝国の皇帝アウグストゥスの命令がくだりました。ローマ帝国の支配下にある全領土の住民に「住民登録をせよ!」との勅令です。税金の取り立て、あるいは兵士の徴用など、支配する者が支配される者たちを管理するための住民登録です。ユダヤ民族にとっては、屈辱的な命令でした。それぞれの出身地に戻り、登録するのが当時のやり方だったようで、たくさんの人々が一斉に 旅に出たと考えられます。その中に、聖霊が降ったために神の御子を みごもったマリアと、神のお告げを信じ、マリアとの婚約を受け入れ、のちに「イエス」と名付けられるマリアのお腹の子の父となることを決心したヨセフのカップルがいたのです。
彼らの住んでいたガリラヤ地方のナザレという町は、ユダヤのベツレヘムの北120kmのところにあります。開くことが可能でしたら、お開き頂きたいと思いますが、巻末の聖書地図6「新約時代のパレスチナ」を開きますと、瓢箪の形の湖が真ん中にございます。ガリラヤ湖ですが、その西側一帯がガリラヤ地方です。そのガリラヤ地方の南にナザレという町がございます。そのナザレからユダヤ地方のベツレヘムまで、ヨセフとマリアは旅をするのです。
ガリラヤ湖から流れるヨルダン川は死海に流れ込むのですが、その死海の西にベツレヘムがございます。直線距離で120㎞ですが、当然、山あり谷あり。身重のマリアにとっては なおさら大変な旅、危険な旅でありました。
何日も何日もかかってヨセフとマリアは、ようやくベツレヘムの街に たどり着きました。けれども、宿は人々であふれ返って泊めてくれない。途方に暮れつつ一軒一軒、端から尋ね歩き、とにかく頼みこんで、馬小屋に どうにか落ち着くことができたところで、マリアは男の子を産んだのであります。聖書は、そのときの様子を「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と語るのです。
 神さまの独り子が、ユダヤの民のみならず すべての民の救い主として世に来られたというのに、泊まる場所がなかった。しかも、馬の餌箱がベッドだった。 
後の世の私たちは思います。「そんなバカな!ローマ教皇 フランチェスコの来日は 大歓迎されたではないか?」「なんて心ない仕打ちだろう!」「わたしが宿の主人なら自分が馬小屋に寝てでも部屋を空けたに違いない!」
ヨセフとマリアを馬小屋に案内した宿の主人も、後(あと)になってから羊飼いたちがゾロゾロ訪ねて来たり、見たこともない格好をした外国の博士たちが高価な宝物をささげ持って来たのを見て、慌てて後悔したかもしれません。「あのとき、『神の御子がお生まれになる!』と教えてくれたら、貧しい身なりでなくて 誰が見ても それとわかるような『しるし』でもあれば、どんな無理をしても部屋を用意したのに!」と言い訳したかもしれません。

Ⅱ.一方、その「しるし」を見た者たちがおりました。野原で羊の群れの番をしていた羊飼いたちです。これら遊牧の民は、ローマ帝国から ものの数にも数えられていなかったかもしれません。住居がなく、生まれ故郷もわからない。住民登録のしようのない無用の存在として無視されてきた人々。蔑(さげす)まれてきた人々です。
 けれども 主の天使は、神さまの言を聞く耳を持つ者として、羊飼いたちを見出した。羊飼いたちも天使を見た。さらに天の大軍による賛美の大合唱「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」を聴いたのであります。夜空が、パーッと明るく 光り輝き、響き渡る大合唱です。
実は、宿の主人や他の者たちにも、天使は現れていたかもしれません。いや、現れたに違いない。けれども、見えなかった。天使よりも、日々の生活に心が奪われ、天使に気がつかない。神の言よりも金になること、目先の利益に心が奪われ、神の言への無関心に目が曇っていた。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」との恵みが見えず、「あなたがたの泊まる場所は ここにはない!」と隅っこの汚(よご)れた場所へ追いやってしまったのです。
 ところがです。父なる神さまは、それを良し!となさった。神さまは、私
たちの神さまを必要としない心、救い主への無関心の心に、神さまの独り子、恵みの光なるキリストを お遣わしくださったのです。
神さまの正しさより、自分の正しさに心を奪われている者にとって、キリストの恵みは無用のもの、無いに等しいもの。だから、「しるし」が見えなかった。恵みが見えなかった。しかし、この世に居場所のない、この世から無視されている者、無用な存在と見られている者には、「救い主がお生まれになった」との救いの宣言は、「大きな喜び」となった。暗闇を照らす「恵みの光」となった。このことを私たちは忘れてはなりません。

Ⅲ.クリスマスは、神の御子イエスが、私たちの救い主(キリスト)と なるために、地上に人として生まれてくださった日です。
 「主イエス」と私たちは呼びます。「イエスは、わたしの『主』。主人です。」という、信仰の告白です。しかし私たちは、どんなときも心の真ん中にイエスさまを迎えているでしょうか?宿屋の主人と同じ失敗を私たちも繰り返してはいないでしょうか?イエスを「主」として迎え入れる生き方とは、いったい
どんな生き方なのでしょう。
 トルストイの童話『くつやの まるちん』をご存知でしょうか?主人公マルチンは、夢の中で 主イエスから「明日、お前のところへ行くよ」と告げられます。マルチンは、そわそわと窓から見える外の様子を気にしながらいつものように靴づくりをしていましたが、窓から見えるのは、疲れて 立ったまま ぼんやり休んでいる 雪かきの おじいさん。赤ん坊をかかえた 若い母親。おばあさんのリンゴをとろうとして、ひどく おこられている男の子。いっこうに主イエスはおいでにならない。
 けれどもマルチンは、老人を暖かい部屋に招き入れて お茶を振舞い、朝から何も食べていない若い母親には パンとスープを食べさせ、自分の上着まで渡しました。おばあさんと男の子には 優しく諭して、和解させてあげました。そうこうしているうちに 日は暮れ、「イエスさまは おいでにならなかったなぁ」と少々気落ちしながらも、いつものようにランプをともし、道具をかたづけ、棚から聖書を取り出し、昨日の続きを読もうとしたとき、「雪かきの老人も、若い母親も、おばあさんと男の子も、みんな わたしだったのだ。」とおっしゃる主イエスの声を聞くのです。

Ⅳ.クリスマス礼拝の今日だけでなく、私たちはいつも覚えておきたい。「天におられる神さまは、私たちと共におられる」ということを。そして、暗い闇のような世界に在って、目を覚まして見つめていたい。父なる神さまの右に座っておられる主イエスが、天に昇られたときと同じ姿で再び地上に来られ、最後の審判をくだされる その日のヴィジョン(まぼろし)を。
その日、もしも宿屋の主人と同じ後悔と言い訳をしなければならないとしたら、それは どんなに もったいないことでしょう。同時に大切な真理は、再臨のとき、審判のときをビクビクして待つ必要はないということです。なぜなら、日々の生活に追われ、「しるし」の見えない無関心な者のためにも、御子は生まれてくださったからです。「お前の居場所などない!」と馬小屋へ追いやり、十字架へ追いやった者のために、父なる神さまは「子よ、お前の罪を赦す!」と御子イエスを世に お遣わしくださった。御子イエスも、「父なる神は、すべての人を愛しておられ、すべての人の罪を赦してくださる!」という救いの「しるし」として、十字架に架かり、死に、三日目の朝、甦られたのです。
 であるなら クリスマスの今こそ、「主よ、私を治める王として、闇を照らす恵みの光として、お入りください」と祈りつつ、御子を「わたしの主」として、心の まん中に、迎え入れたい。そうすることによって、私たちの心はどんなに明るく、平和な王国となるでしょう。そして、迎える新しい年を、一日、一日、主イエスに従い、私たちに与えられている家族や友人の間で、職場で、靴職人マルチンのように、主イエスの光を配る つとめに励んでいきたい。心から願うものであります。

(祈祷)
主イエス・キリストの父なる神さま、今年もクリスマス礼拝を愛する兄弟姉妹、また、今日 勇気を出して初めて教会にいらした方々と共にあなたさまにささげることが許され、深く感謝いたします。自然災害が続き、悲しい事件が続き、心の真ん中に御子を迎えることを拒む私たちの世に、御子はお生まれくださいました。主よ、クリスマスの喜び、恵みが世界を包みますよう 心から願います。世界を、そして私たち一人一人を治めてください。怒りでなく、嘆きでなく、まことの平安を、光を、まわりの人に運ぶ者としてください。御子 主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。どうか今週も私たちに聖霊を注いでください。主よ、あなたが創造された地球が今、悲鳴を上げております。空も海も山も川も、儲けたい!もっと、もっと!そのような欲望によって汚れ、富めるものはますます富み、貧しいものは ますます貧しくなっております。クリスマスの光が暗闇を照らすように、貧困、飢え、差別、暴力によって苦しんでいるお一人、お一人を深く憐れんでください。私たちの近くにも、孤独を感じている方々、絶望している方々がおります。愛する人を失い、深い悲しみを抱えている方々、いじめに悩み、「私など生きている価値がない」と本気で考えている方々もおります。主よ、そのような方々にこそ、恵みの光を お届けください。クリスマス礼拝に行こう と祈り続けていたにもかかわらず、天候のため、病のため、今日も仕事をしなければならないため、欠席となった兄弟姉妹の上にも、私たちと等しいクリスマスの祝福をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年12月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第36章22節~32節、新約 マタイによる福音書 第6章9節b
説教題「御名をあがめさせたまえ」
讃美歌:546、96、318、Ⅱ-95、545A           

Ⅰ.先週から「主の祈り」を通し、神さまが私たちに与えてくださった祈りの恵みを味わっております。主イエスが「こう祈りなさい」と教えてくださった祈りです。
 「天にまします われらの父よ」。「天にいらっしゃる 私たちの お父さま」。私たちは、まことの父の み前に立ち、祈り始めます。私たちの必要を すべて知っておられる まことの父の み前に立ち、私たちは子どもとして、まず何を父に祈ったらよいのでしょうか?それは今朝の御言葉「御(み)名が 崇(あが)められますように。」です。
 「御名」とは、父なる神さまの名前です。旧(ふる)くから、世界中の至るところで「名前」は、その名を持つ者の人格を含むものとして位置づけられてきました。神話や歴史や おとぎ話のような物語の中でも、身分証明はもちろん、祝福、命令、呪い、何をするにも名前によって行われたのです。現代における「名前」のもつ意味よりも、その人自身を表す意味が強い言葉。つまり、「御名」、「神の名」それは すなわち、「父なる神 ご自身」なのです。
 また、少々古くさい日本語「崇(あが)め られますように」と訳されている言葉は、あなたの名が「聖なるものと されますように」と訳すことができます。
「御名が聖なるものと されますように」の方が、原文のニュアンスにも近い
ようです。ちなみに、昨年11月に31年ぶりに訳し直された日本聖書協会
共同訳も「御名が聖と されますように。」と訳されております。
 「八百万(やおよろず)の神ではなく、ただ、まことの父であられる神さま、あなたこそが、聖なる方と されますように。」神さまに、決定的に聖なる神であることを求める祈りです。なぜ、そのような祈りが必要なのでしょうか?神さまは聖なる お方。だから神さまなのでは ないでしょうか?

Ⅱ.神さまは、預言者エゼキエルの言葉を通して、御心を示しておられます。預言者とは、神さまのお言葉、神さまの思いをお預かりし、神さまに代わって私たちに伝えてくれる存在です。ですから、私たちは預言者の言葉を通し、神さまの思いを知ることができるのです。
 今朝、朗読して頂いた旧約聖書エゼキエル書 第36章22節以下の御言葉を改めて朗読致します。旧約聖書1,356頁、上の段 4行目からです。

 「それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしは お前たちのためではなく、お前たちが行(い)った先の国々で汚(けが)した わが聖なる名のために行(おこな)う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚された わが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。(36:22~23)」
 神さまは、唯一の神であられます。神さまは、聖なる方であられます。ただそれだけで崇(あが)められるべき お方です。尊ばれ、敬われ、高められ、
広められるべき お方です。
 ところが、エゼキエルが語るのは、聖なる御名を汚す「わたしの民」への神さまの嘆きです。神さまは、「わたしの民であるはずの お前たちが、わたしの名を汚した」と嘆いておられる。つまり、わかりやすく言い換えると、東村山教会に属する私たちだけが栄光を受け、神さまの栄光は忘れられ、地に落ちる。そのような本末転倒が起こっている、ということです。
 イスラエルの歴史が そのことを証明しております。神さまは、エゼキエルを通し、私たちの罪を赤裸々にあぶり出しておられます。深刻なのは、神さまを知らない、信じない人々が 聖なる御名を汚したのではないということです。神の民として忠実に掟に従っている!と自負している民のおこない。そのおこないを、神の御名ではなく 私の名の誉れとし、私の所属する家の誉れとしている。そのことを神さまは、「私の名を地におとしめた裏切り行為」と言われるのです。
 私たちは教会で様々な奉仕を担います。神さまは、皆さんの献身的な奉仕を喜んでおられるはずです。けれども、その奉仕が いつのまにか神さまの名ではなく、私たちの名のためになっていないか?神さまの栄光ではなく、私たちの栄光のためになっていないか?行いをよく吟味しなくてはなりません。
 私たちは どんなに善行(ぜんこう)を積んでも、どんなに奉仕に励んでも、私たちの行いのゆえに救われることはありません。なぜなら、神さまの掟に
忠実に従っているつもりでも、どうしても御名が聖とされるより、己の誉れを求めてしまうのが私たちだからです。
 ところがです。神さまは 民の裏切りにもかかわらず、ご自分の名にかけて、神の名にかけて、「あなたたちを救う!」と言われます。同じくエゼキエル書 第36章28節。「お前たちは わたしの民となり わたしは お前たちの神となる。わたしは お前たちを、すべての汚れから救う。(36:28〜29)」驚くべき救いの御業です。
 クリスマスに神の独り子イエス・キリストが世に遣わされたのは、神の救いの約束、この御(み)言葉の成就に他なりません。
 エゼキエルを通して語られた神さまの御(み)言葉、汚れからの救いを成し遂げるために、主イエスは汚れと罪に満ちた世に生まれてくださった。神 ご自身が、私たちの行いとは全く関係なく、完全に聖なるお方であることを証明するために、御子イエス・キリストを世に送ってくださった。それも、神さまの名が聖とされることよりも、己の名誉を求めてしまう汚れた私たちを、自分の子どもとして御手の中に取り戻すために、御子イエス・キリストを十字架によって犠牲にされたのです。それほどの恵み、父なる神の底知れぬ愛に触れたとき、私たちは エゼキエルが預言したように、「自分の悪い歩み、善くない
行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。(36:31)」のです。

Ⅲ.そのような私たちが礼拝をまもり、神さまを「天におられるわたしたちの父よ」と呼び、祈りをささげることが許されている。そこには、神さまの愛と、主イエスの祈りがあるのです。
十字架の死を翌日に控える夜、主イエスは弟子たちと共にゲツセマネというオリーブの園に行かれ、うつ伏せになり、呻くように祈りの言葉を発せられました。
「父よ、できることなら、この杯を わたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。(マタイによる福音書26:39)」
私たちは、主イエスの「御心のままに。」との祈りを心に刻み続けたい。
 主イエスご自身が苦しみ、暗く深い闇にうずくまるようにして、神さまの
御前に、ご自分の思いを注ぎ出されました。しかし その上で、神を神として崇
(あが)め、聖なる神の子として御心に従い、十字架に架(か)けられた。「主の祈り」を真実のものとしてくださったのです。
本当は死にたくなかった。けれども、神が御子の命と引き換えてでも汚れた私たちの父となられることを望まれた。どうしようもない私たちを「子よ」と呼ばれることを望まれたのです。
 神さまは、私たちが良い行いをしたからとか、神さまを崇(あが)めるから神さまとなられるのではありません。神さまは、ご自身で神さまであられる。聖なる方であられる。そのような神さまが、自由に、御心のままに、私たちの父となってくださった。その意味で、「御名をあがめさせたまえ」という翻訳は、本来の意味を曲解しているかもしれません。「あがめられるのは誰によってか?私たちによって」という意味をはらんでいるからです。しかし私たちが、「御名が崇(あが)め られますように。」と祈るとき、「私たちが神さまを忘れることのないよう、神さまを裏切ることのないよう、神さまを汚すことのないよう、私たちに聖霊を注ぎ、神さまを父として尊び、敬うことを得させてください。」と、「主の祈り」を口にするとき、他の誰でもない 父なる神ご自身が私たちに新しい心、新しい霊を授けてくださるのです。
私たちは皆、主イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、「お前たちは
わたしの民となり わたしは お前たちの神となる。わたしはお前たちを、
すべての汚れから救う。(エゼキエル書36:28~29)」との神さまの救いの約束が成就した!と信じてよいのです。

<祈祷>
 天の父なる神さま、今朝の御言葉を通し、私たちがあなたさまの名前を汚し続けている者であること、あなたさまの名が聖とされることより、己の誉れを求めてしまう者であることを知りました。深く懺悔いたします。主よ、「御名が聖とされますように」と祈り続ける者としてください。主よ、苦難のときこそ、あなたさまの救いの宣言「お前たちは わたしの民となり わたしはお前たちの神となる。わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。」を思い起こすことができますようお導きください。これらの感謝と願いを御子 主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。 
主よ、礼拝後に伝道委員会が主催する茶話会が行われます。出席されるのは、求道生活を続けている姉妹、東村山教会への転入を終えた姉妹、また希望している兄弟、さらに来春のイースターに受洗を希望している姉妹です。あなたが生まれる前から愛してこられた兄弟姉妹ですから、どうか、良い交わりのときとして、聖霊を注いでください。主よ、来週の主の日はクリスマス礼拝です。暫く教会から遠ざかっている方々、いつか教会に行ってみたい!と思いながら、なかなか教会に入ることの難しい方々にも 聖霊を注いでください。そのような方々を迎える私たちも、父なる神さまが招いてくださるお一人、お一人と信じ、愛餐会の準備、子どもクリスマスの準備で心を乱すことなく、初めて来られた方々、久し振りに来られた方々と心を一つにして、御子の御降誕を喜び、賛美することができますようお導きください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年12月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第63章15節~16節、新約 マタイによる福音書 第6章9節a
説教題「天にまします われらの父よ」
讃美歌:546、94、308、309、544、Ⅱ-167    

Ⅰ.今朝もこの礼拝堂で、教会学校の礼拝がささげられました。小学生から高校生まで、皆で聖書を読み、賛美し、祈り、み言葉に耳を傾けました。先週の金曜日には、教会員のS姉妹が園長を担っておられる いづみ愛児園の子どもたちがクリスマスページェントの練習のため教会に集まり、大きな声で「主はきませり、主はきませり、主は、主はきませり」と賛美の声を響かせておりました。子どもたちの歌声が響くと私たちは笑顔になります。同時に、父なる神さまにこれからの時代を生きる子どもたちへの祝福と平安を祈るのです。
 「天にまします われらの父よ、子どもたちに祝福と平安を注いでください。子どもたちの心が柔らかなうちに、苦しみ、悲しみを告白できるまことの父に出会うことができますように。子どもたちが『主の祈り』を祈り続けることで、厳しい試練に襲われても『私は一人ではない。どんなことがあっても見捨てず、愛を注いでくださる まことの父がおられる』と信仰を告白することができますよう、お導きください。」
また先日は、ローマカトリック教会のフランシスコ教皇が来日されました。教皇は、長崎でのミサで、このように語られました。「これまでの戦争によって踏みにじられた犠牲者たちは、さまざまな場所で勃発している第3次世界大戦によって、今日もなお苦しんでいます。今ここで、一つの祈りとして、わたしたちも声を上げましょう。今日、この恐ろしい罪を、身をもって苦しんでいるすべての人のために。自ら声を上げ、真理と正義、聖性と恵み、愛と平和の み国を告げ知らせる者が、もっともっと増えるよう願いましょう。」この願い、祈りを、私たちの祈りとして祈ることにもっともっと真剣でありたい。

Ⅱ.本日から「主の祈り」をご一緒に学びます。救いの確かさを心に刻むだけでなく、この祈りを今、必要としている全ての方たちと共に祈りたいのです。そして、アドヴェントのこのときを、主イエスが私たちに与えてくださった「主の祈り」に導かれて私たちの祈りを深め、クリスマス、さらに「最後の審判者」として主が再び来られるときに向かって、備えるときとしてまいりましょう。 
主イエスは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だからこう祈りなさい。」と教えてくださいました。あれも心配、これも不安、問題山積みの世の中。けれども、父なる神さまは私たちに必要なものを知っておられる。どんな状況にあっても、絶望してはいけない。いや、絶望しなくてよい。いつでも、この祈りに戻っておいで、と示してくださっておられます。そしてまず、どこに心を向けるのか。主イエスはこのように教えられました。「『天におられるわたしたちの父よ、』」。
 ここには二つの真理があります。一つは、神さまは天におられるという真理。もう一つは、神さまは私たちの父であられるという真理です。
「天」とは、私たちの手の届かない空間です。けれども、その天におられるのが私たちの父であられる。一見矛盾した二つの真理が、祈りの冒頭にあるのです。父なる神さまは、どんなときも私たちと共におられる。だから、近くにおられると考える。しかし、私たちの父は天におられる。この事実を私たちは心に刻むのです。
私たちは、災いが自分を避け 通り過ぎれば「天の神さまが守ってくださった」と胸をなでおろし、いざ災いが自分の身にふりかかると、「神さまがおられるのなら、なぜこんなことが!」と、神さまのまことを疑う者です。しかし、「天」とはそのようなご都合主義のものではありません。「天の采配」とか、「運を天に任せる」とか、そのような、目に見えない、手に負えない大きな力が天なのでもないのです。
「天にまします われらの父よ」と祈る呼びかけは、「私たちが、どのような状況にあろうとも、私たちを支配しているのは天におられる私たちの父。天の父の愛だ。」と言い切る宣言です。自然災害が続き、理不尽な事件が続き、親が子を虐待し、子が年老いた親を虐待する時代の中で、神さまの存在を疑い、悪の力を天と仰ぎ、諦め、絶望したくなる心との戦いの末の宣言。信仰の戦いの勝利宣言と言ってもよい信仰告白が「天にまします われらの父よ」なのです。
 けれども、この勝利は 私たちに先立って主イエスが戦い、勝ち取られたものです。十字架の死を目前に「父よ、できることなら、この杯(十字架の死)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく御心のままに。(マタイによる福音書26:39)」と祈られ、父なる神さまへの信頼を貫かれ、絶望に勝利してくださった主イエスが、私たちと一緒に戦ってくださるからこそ、私たちは、「天にまします われらの父よ」と祈れるのです。
 だから、私たちは絶望しなくてよい。たとえどのような状況に陥ろうとも、私たちには仰ぐ天がある。天地を造られ、私たちを造られた父が天におられる。訴え続ける天に、父がおられる。父は死んでいない。生きて、働いておられる。そのような天におられる私たちの父に向かって祈り始めるのです。
 「われらの父よ」です。「私の父よ」ではない。私たちの父。良い子だけの父ではない。悪い子の父、過ちを繰り返す子の父でもあられる。つまり、私たちすべての者の父なのです。

Ⅲ.改めて、「主の祈り」を主イエスが与えてくださるに至った経緯を思い起こしたい。すぐに復讐を企てる。敵を愛することができない。何をするにも人の目を気にする私たち。「だから」こう祈りなさい、と教えてくださった。「暗い、奥まった、どうしようもない自分の心の奥のすみっこから、天を仰ぐのだ。天は、真っ暗な部屋を突き抜け、光の射してくる源。そして、そこにおられる
のは、すべての者の父だ」と教えてくださった。私だけではありません。敵にとっても、苦手な あの人にとっても、私たちすべての者の父。私たちを包む「光」の源である天にいらっしゃる 私たちすべての者のお父さんなのです。
「お父さん」と言っても、地上の父親に希望を見出せない方がおられるかもしれません。しかし、まことの父は神さまだけ。決して、地上の父親に似ているから神さまを父と呼ぶのではありません。家庭を築くにあたって、神さまというまことの父、そのような存在となることを託された者、家庭を任された者が、地上の父なのです。
 
Ⅳ.今朝も9時30分から3階 会議室で信仰入門講座を行いました。テキストは、アメリカ合衆国長老教会が認定した『みんなのカテキズム』。その問1は、シンプルな問答です。問い1「あなたは誰ですか。」答え「わたしは神さまの子どもです。」
私たちは、天におられ、遠い存在であるはずの神さまをもっとも近い存在として「父」と呼ぶのです。カテキズムは続けます。問い4「神さまに愛されるためには『良い子』にならないといけないのですか。」答え「いいえ。わたしがどんな子であっても、神さまは愛してくださっています。」 
本来、私たちは天におられる神さまに対し、親しく「父よ」と祈れる者ではありません。自分の都合で神さまを利用しているだけかもしれません。しかし、神さまはたとえ、どうしようもない放蕩息子であっても、愛し、慈しみ、時に涙を流して心を寄せてくださる御方。私たちが父よ!と祈る前から、子よ!と呼び続けてくださる御方なのです。
その み心を私たちに示してくださるために、神さまは み子を世に お遣わしくださいました。もしも み子がお生まれにならなかったら、私たちは神さまを「父よ」と呼ぶことは許されませんでした。けれども、み子はお生まれになられた。たとえ、理不尽な試練に襲われ絶望のふちにあっても、たとえ、犯した過ちに苦しみ、「私など神さまを『父よ』と呼べる者ではない」と思っても、主イエスは十字架の死によって罪を帳消しにしてくださり、ご復活によって死を超え、永遠に私たちを主イエスの者、神さまの子どもとしてくださったのです。
 たとえ光が見えなくても、なお顔を上げ、主イエスの与えられた祈りの言葉を口にするとき、そこに光はある。主イエスご自身が まことの光だからです。 
光なる主イエスが「だから、こう祈りなさい。」と一言一言 口伝えで教えてくださった。主イエスの み声に続き、私たちも祈る。「天にまします われらの父よ、」そのとき私たちは、救いの光の中にいるのです。この驚くべき恵みを、自分だけの恵み、喜びで終わらせてはなりません。今も、路頭に迷っている方々、「私は、誰からも必要とされていない」と本気で思い込んでいるすべての方々、生きづらい現代に生きる子どもたち、そして、人の世の罪に苦しめられている方々、すべての人のために、私たちのなし得ることを探し求め、祈り求めたい。そして、「あなたも神さまを父と呼べる。たとえ、あなたを必要とする人が誰もいなくても、神さまはあなたを子として愛し、必要としておられる。」この驚くべき恵みを生涯 語り続けたい。心から願うものであります。

<祈祷>
 天にまします私たちの父なる神さま、今朝も命の み言葉、さらに「主の祈り」を教えてくださり感謝いたします。あなたさまを「父よ」と呼べる恵みを今、深く感謝いたします。同時に、そのためにあなたさまの御子 主イエスを世にお遣わしくださり、十字架の死と復活を成し遂げてくださったことを心より感謝いたします。どうか、これからも「主の祈り」を大切に、感謝して祈り続ける者としてください。そして、まだ「主の祈り」を知らないたくさんの方々に私たちも喜んで「主の祈り」の恵み、あなたさまを「父よ」と呼べる恵みを語り続ける者として私たちを存分に用いてください。これからの感謝と願いを御子 主イエス・キリストの み名によって み前におささげいたします。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。 
主よ、あなたさまへの信仰を告白し、洗礼を受けた一人のキリスト者の医師 中村 哲(てつ)先生が、異国の地で襲撃され命を落とされました。深い悲しみの中にあるご遺族の上に、落胆している方々の上に慰めを注いでください。
主よ、報復ではなく、「ペシャワール会」の方々が中村先生の志を引き継ぎ、これからも良い働きを継続していくことができますようお導きください。
主よ、私たちも教皇の祈りを自分自身の祈りとすることができますように。世界で唯一の被爆国に生きるキリスト者として、自ら声を上げ、世界の平和を祈る者としてください。
 主よ、礼拝後、伝道委員の方々が恩多町を中心にクリスマス礼拝のチラシを1,000枚 配布されます。事故や怪我のないようにおまもりください。
主よ、クリスマス礼拝に一人でも多くの方が招かれ、恵みの光である み子のご降誕を共に喜ぶことができるよう聖霊を注いでください。愛する家族、友人、知人に伝道する勇気をお与えください。
主よ、東京神学大学 学長として就任された芳賀 力先生の任職式が火曜日に執り行われます。すでに重責を担っておられる芳賀先生の上に、祝福と聖霊を注いでください。これからも、東京神学大学の歩みを力強くお導きください。
キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になる  ごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年12月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第62篇1節~13節、新約 マタイによる福音書 第6章5節~8節
説教題「祈りの報い」
讃美歌:546、Ⅱ-112、310、Ⅱ-1、314、543   

Ⅰ.主の年2019年のアドベントに入りました。御子主イエスの誕生を祈りつつ待つアドベント。そのような祈りの時に示されたのは、主イエスが「祈り」を教えられる御言葉となりました。
「祈り」は、神さまとの1対1の対話。他者の評価を意識する必要がない。しかし、私たちは祈りにおいても罪を犯す。どのような罪か?偽善の罪です。神さまの前でありのままの自分でいるより、格好をつけ 他者の評価を気にする。
そのような私たちをご存知の主イエスが教えました。5節。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
「あの人は、祈りに熱心な人」と周りの人たちから評価されることにひそむ罪です。信仰生活においてもっとも大切な「祈り」においても、私たちは偽善の罪を犯してしまうのです。
繰り返しますが、本来「祈り」とは、神さまと私が1対1で対話する「時」です。ところが、祈りにおいても他者の評価を意識してしまう。神さまだけを見ることなく、よそ見をしてしまう。祈りの体(てい)をとりつつ、心はよそを向いてしまう。「天の父なる神さま」と祈りつつ、神さまの前に立っていない。祈りつつ、祈りの評価が気になるのです。
主イエスは、そのような私たちに、「人々の前に祈りの姿を見せびらかすなら、それは偽善!」と戒める。そのような祈りが受ける報いは、神さまからの報いではありません。偽善者の「祈りの報い」は、他者から受ける称賛。「あなたの祈りは素晴らしい!あなたこそ祈りの人!」と高く評価されることで、すでに「祈りの報い」を受けてしまっているのです。
 さらに主イエスは続けます。7節。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」
 「異邦人」とは、「ユダヤ以外の人」という意味ですが、ここでは、神さまを信じない人、真の神さまがわからなくなっている人と とらえることができます。
 今の時代、祈りの貧しさは深刻です。子どもから大人までスマートフォンの画面に釘付け。流れていく日常の中、「祈り」を忘れてしまう。くどくどと祈るならまだまし、祈りの熱心さを失っている。
 「神さまに祈る暇(ひま)があるなら、あらゆる方法を駆使し、一日も早く解決策を見つけるべき」と考えてしまうのです。
 そのように考えてしまうのは、「祈りの報い」が真の意味で理解されていないからではないでしょうか?「祈りの報いなどない。神に祈っても何もいいことない。祈っても無駄。私の祈りが神に聞かれるはずがない。」
 なぜ このように考えてしまうのか?そうです。私たちの祈りが願いばかりになっているからです。主イエスがおっしゃるように、「あなたは、くどくどと、『ああして欲しい!こうして欲しい!』と ご利益(りやく)ばかり求めている。くどくどと祈り続けるのは、神さまの力を利用したい!という傲慢な思いの表れでしかない!」と教えられる。さらに私たちの罪が深いのは、自分の願いが聞き入れられないと、「何度も祈ったのに、私の祈りを無視された!これ以上、神さまに祈っても無駄!」と祈りの熱心さまで失ってしまうのです。

Ⅱ.では、どうすれば、真実の祈りをささげることができるのか?どうすれば、父なる神さまが報いてくださるのでしょうか?主イエスは、6節で真実の祈りを教えてくださいます。
「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」。主イエスは、「戸を閉め、真っ暗な部屋、自分の姿も見えない部屋で祈りなさい。」と命じられました。
ところで、「奥まった自分の部屋」とは、どのような部屋でしょうか?当時のパレスティナ地方の農家にはよくあった納屋、物置のように用いられた部屋、貯蔵室。閂(かんぬき)をおろすことができる唯一の部屋。窓が一つも無く、内側から戸を閉めると、真っ暗になる部屋。そのような「奥まった自分の部屋」で祈るのです。
ご一緒に真っ暗な納屋をイメージしましょう。窓がない。電灯もない。当然、真っ暗なので何も見えない。祈りの手が見えないように、外からも見えない。納屋に入ろうとしても閂がかけられているので入ることができない。その結果、他者の評価を気にする必要がなくなる。他者からは、「熱心に祈っておりますね」と評価され、自らも「私は熱心な祈りの人」と満足することもない。奥まった部屋、真っ暗な部屋に入ると、そのような偽善を断ち切ることができるのです。
しかし、勘違いしてはいけません。ただ奥まった部屋で祈れば真実の祈りになるわけではないのです。たとえば、大勢の人がいるところで、「これから私は奥まった自分の部屋に入り、徹夜で祈ります」とアピールして部屋に入るなら、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈るのと全く同じ罪を犯す。

人に見てもらおうと、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、祈るなら、その祈りも偽善者の祈りとなるのです。
 私たちは口癖のように呟きます。「あの人の祈りは素晴らしい。それに対し、私の祈りは幼い。私は祈りが苦手、いや苦痛。だから人前では祈りたくない。」一見、謙遜なようで、そう呟く心も、評価を気にする罪に陥っている。
 そうではなく、誰にも何も伝えることなく、奥まった自分の部屋に入り、戸を閉め、隠れたところにおられる父なる神さまに祈る時、他者の評価、さらに自分の評価からも解放されるのです。
父なる神さまの前で1対1になり、しっかりと心を神さまに向けて立つことができるのは、隠れたところだけです。真っ暗な自分の部屋は、どんなに取り繕っても繕いきれない私をさらけ出せる部屋。格好をつけずにすむ部屋。その部屋は物理的に奥まった部屋であるというよりも、むしろ心の中の奥の奥です。
 私たちは、自分自身の心の奥の奥に立ち、そこにこそおられる父なる神さま、私たちの惨めさ、情けなさ、他者の評価を気にする私たちを憐れみの眼差しで見つめてくださる神さまに、祈りの言葉、言葉にならない呻きを届けるとき、私たちは父なる神さまの報いに与っているのです。こんなにありがたいことはありません。飾ることなく、偽ることなく、ありのままの姿を父の前でさらけだす。そのとき神さまは私たちを見つめ、憐れみのまなざし、赦しのまなざしを注いでくださる。神さまの赦しのまなざしの中で祈るひとときの平安、恵みこそが真なる「祈りの報い」なのです。

Ⅲ.さらに主イエスは教えられます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」
 主イエスは、私たちを諦めない。偽善者のまねをしてはならないと命じつつ、驚くべき恵みを宣言されたのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」
 私たちに本当に「必要なもの」。それは奥の部屋で心の奥の奥を注ぎ出す悔い改めの祈りへの応答、「報い」です。それは、主イエスによる赦しです。
 只今から与る聖餐の祝いもそうでしょう。昨年のクリスマスに洗礼を受けた方々、ずっと前に洗礼を受けた方々、それぞれに聖餐の恵みに与り続けている。主イエスが十字架で裂かれた肉と流された血潮に与る。繰り返し聖餐の祝いに与り続けていると当たり前になっている恵みかもしれません。しかし、聖餐の祝いこそ、驚くべき恵みであり、偽善の罪を犯し続ける私たちにとって、また祈りを諦め、いや忘れている私たちにとって必要な糧、必要な赦し、必要な命、必要な愛として備えられた恵みなのです。

これほどの恵みに与る私たちが祈りで格好をつける必要はありません。偽る必要もない。まして他者の評価を気にしながら祈ることは、神さまを他者よりも低くする傲慢な態度です。もっと神さまに素直に祈りたい。
確かに、手を組んで、跪いて祈ることは大切。しかし、私も通勤電車の中でつり革につかまりながら、何度も祈りました。「主よ!今日一日を何とかお守りください。」「主よ!私に必要なものを今日お与えてください。」すると、不思議と心が穏やかになるのです。それでも祈れないときは、主イエスが教えられた「主の祈り」をゆっくりと祈るのです。 
通勤電車も、奥まった部屋になります。私たちに必要なものを私たち以上にご存知の神さまにすべてを委ね、自分の弱さも、罪も、悲しみも、惨めさも、汚さも、いやらしさも、すべてさらけだして神さまと1対1で祈る。そのとき神さまは、主イエスの十字架と復活、また再臨の約束を示しつつ、「これからも主イエスに従って歩みなさい。あなたは何も恐れることはない。」と語りかけてくださるのです。
 アドベントに入りました。「神さま!」と口では祈りながら、いざ救い主がお生まれになったときには馬小屋へ追いやり、十字架へ追いやった罪を心に刻むときです。「主よ どうぞ来てください。私の心に住んでください。」そのように祈り続けたい。心から願うものです。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたさまが私たちにどれほど近くにいてくださるか、私たちの願いをどんなに深く知っていてくださるか、私たちの祈りにどんなに確かに答えてくださるかを、よくわきまえることができますようお導きください。そして御子イエスが、命を注いで教えてくださいました「主の祈り」を、日々の生活の中で大切にしていくことができますようお導きください。主イエスの御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・全国、全世界の被災地で今も困難な生活を強いられている方々を強め、励ましてください。
・今、様々な悩みの中にある方々の声に耳を傾けてください。子育てに悩む母の声、仕事に追われ、疲れ果てている方々の声、争いの中にある方々の声、絶望の中にある方々の声にどうか耳を傾けてください。そしてそれぞれに必要なものをお与えください。お願いいたします。
・今朝も礼拝に出席することのできなかった方々の上に、特に病を患い、痛みに襲われている方々、体調を崩している方々の上に私たちと等しい祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2019年11月24日 日本基督教団 東村山教会 逝去者記念 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ヨブ記 第1章21節、新約 マタイによる福音書 第9章18節~26節
説教題「神に在る いのち」
讃美歌:546、Ⅱ-1、312、534、542             

Ⅰ.説教を始めるにあたり、逝去者記念主日礼拝に招かれた皆さまの上に、死に勝利された主イエス・キリストの慰めと励ましを お祈り申し上げます。 
 今朝、私たちに与えられたのは、新約聖書マタイによる福音書第9章18節以下の物語です。この物語の特徴は、二つの出来事が同時に進行することです。 
最初の登場人物は「ある指導者」。主イエスの前にガバッとひれ伏し、お願いするのです。
 彼は大切な娘を失いました。福音書記者マタイは「わたしの娘がたったいま死にました。」とだけ記しますが、ルカ福音書には「12歳ぐらいの一人娘」と書かれております。愛する一人娘が、何らかの病でたったいま死んだ。もしも私であれば、ショックのあまり立つこともできないかもしれません。しかし、彼は行動した。走り出した。向かったのは主イエスの足元。彼は主の前にひれ伏し、お願いしたのです。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
 驚きます。心から主イエスを信じているように思える。たったいま死んだ娘。呼吸がなくなった。段々と冷たくなっている。しかし、主イエスなら、娘を死から解放してくださる!手を置いてくだされば娘は生き返る!そう信じ、ひれ伏し、お願いした。そのとき主は、立ち上がり、彼について行かれたのです。
 私たちは、祈りを諦めることがあります。どうせ、祈っても無駄と。しかし神さまは、どのようなときも私たちの祈りに耳を傾けてくださる。しかも、耳を傾けてくださるだけでなく、立ち上がり、行動してくださる御方なのです。
 
Ⅱ.さて、今朝の御言葉にはもう一人、苦しみの中にある女性が登場します。この女性に関しては、マタイも一言だけ描写しております。「十二年間も患って出血が続いている女」。彼女も主イエスに近寄り、主の服の房に触れたのです。
 12年、それなりの期間です。「出血が続いている女」とあるように、一種の婦人病のようですが、どうにもこうにも出血が止まらないのです。旧約聖書によると、信仰的な意味で「汚れた病」と理解されていたようです。出血により貧血で苦しむ。さらに汚れた女性として差別される。12年も出血で苦しみ、体に加え、心もボロボロになった婦人は、文字通り「藁にもすがる思い」で、主イエスの服の房に触れたのです。
 この婦人も、特別なことをしたのではありません。彼女は12年間、毎日、神さまに祈り続けたとはどこにも書かれておりません。むしろ12年間、四方八方、色々な手を尽くしたはずです。時には、新興宗教のようなものに頼ったかもしれない。しかし、何をしても血が止まらない。もう治療を諦め、いっそ死んでしまいたい!とまで思ったかもしれません。そのとき、噂が彼女の耳に入った。「イエスという人は不思議な力を持っている。」その噂を信じた。それでも人から汚れた者として扱われている自分が正面から主イエスに「私の病を癒してください」とは言えない。だから、後ろから主に近づいた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と信じ、そっと、服の房に触れたのです。
そうです。これだけです。でも、これが大切なのです。イエスさまなら必ず治してくださるに違いない!そう信じ、行動した。特別なことではありません。ただ信じ、行動する。それも真正面でなく後ろから、直接、主イエスに触れるのではなく、服の房に触れただけ。ほんの一瞬。それなのに、主イエスは振り向かれた。そして、彼女を見つめられたのです。
驚きます。娘に手を置いて欲しい!と願った指導者の案内によって人混みを移動しているときです。無意識に、色々な人が主の服に触れたかもしれない。しかし主は、ほんの一瞬であっても、「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と祈りつつ触れた者であれば、どんな状況であっても振り向いて、向き直って、見つめてくださる。そして声をかけてくださるのです。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」何とイエスさまは、ただ服の房に触れた行為を「あなたの信仰」と表現されたのです。
私たちは信仰について誤解しているかもしれません。信じて仰ぐと書きますから、信じ、仰ぎ続ける。熱心に祈り続ける。信仰を持ち続けねば!と考える。しかし、12年も出血が続いている女が、毎日の祈りを大切にしていたとか、信仰深い女だったとはどこにも書いてない。「『治してもらえる』と思った」と書いてあるだけ。しかし主は、そのような女を見つめ、「元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と宣言。すると、12年間も苦しんだ女の病は治ったのです。もちろん病が治ったことは大きな恵みです。でも、その恵みと同じくらい、いや、もしかすると それ以上に大きな恵みは、信仰的に汚れた者としてさげすまれ、自分でも「汚れた者」と思い込んでいた女に対して、振り向いて、見つめて、「あなたの信仰があなたを救った。」と、言ってくださったことではないでしょうか。
 繰り返しますが、私たちはこれだけのことをしたから、救われたと考えます。反対に、こんな私は救われるはずがない。こんな病、こんな悲しみに襲われたのは私の行いが悪いからと考える。けれども主イエスは、後ろからすがりつく私たちの求める心をしっかりと真正面から見つめてくださる御方なのです。

Ⅲ.さて、主イエスは指導者の家に到着しました。そこには、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆がつめかけていました。当時、葬式などで笛を吹いたり、泣いたりするいわゆる「泣き女」のような人がおりました。ある指導者、会堂長ですからその土地で尊敬されている人。会堂長は、それぞれの土地にありますユダヤの人々が礼拝をささげる会堂の管理者。信仰の熱心さに加え、資産家が選ばれたようです。そのような会堂長のわずか12歳ほどのひとり娘が死んだのです。いつにも増して大声で泣き、大きな音で悲しみの笛を吹き鳴らした。その群衆に対し、イエスさまは先ほどまでとは違う表情で命じられたのです。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」
 もしかすると一瞬、時が止まったかもしれません。皆、「えっ、この人は何を言っているのか」と口を開けてしまった。あざ笑う者もいたのです。私たちは群衆を非難することはできません。私たちも愛する家族が、今この瞬間 死んだ。体も冷たくなっていく。もちろん呼吸も止まっている。それなのに「死んだのではない。眠っているのだ。」と言われたら、どう思うか。
 主イエスは、そのような私たちの あざ笑う声、諦めの声を知っておられる。だからあえて、あちらに行きなさい!と言われたのかもしれません。あるいは奇跡を見せたくなかったのかもしれません。
ここのところは深い箇所だと思います。なぜか?主イエスの目的は奇跡ではないからです。もっと先にある。もしもイエスさまの目的が奇跡ならば、笛を吹く者たち、騒いでいる群衆の目の前で生き返らせれば良かった。そうすれば、「イエスは凄い!死んだ娘を生き返らせた!」と群衆は騒いだはず。その結果、奇跡を求めて、次から次へと人々が集まり、イエスさまを信じる人々はあっと言う間に広がったはずです。しかし、イエスさまはそのようなことはなさらなかった。群衆を外に出してから、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がったのです。
ところで指導者の娘、また出血が続いた女はその後、どうなったでしょう?主イエスに手をとって起こして頂いた娘はもちろん、出血が続いた女にとって、元気な体で生きるいのちは全く新しいものだったはずです。主を賛美する日々を過ごしたことでしょう。しかし、彼女たちもそのときは病が治り、再び命が与えられましたが、今も生きているわけではない。当然、死んだのです。例外はない。私たちは一人の例外もなく、確実に地上の命を終える日が来るのです。
 けれども決定的なことは、指導者の娘も、出血の続いた女性も、主イエスと出会った。主イエスから「新しい命を生きよ!」と言っていただいた。神さまを知った。命を頂き、命を返す御方を知ったのです。だから、後に地上の命を終えたときには、喜んで神さまの元、自分の帰るべきところへ帰って行ったに違いありません。
私たちが今、共に偲んでいる信仰の先達も、この地上において十字架と復活の主イエスと出会い、自分の創り主を知り、信じた。信仰によって新しい命を得て、地上で家族、友人、信仰における兄弟姉妹と出会い、愛し、愛されて、そのつとめを果たし、神の元へと帰って行った。そして今も、そこで安らかに眠っているのです。

Ⅳ.私たちもやがて一人残らずそこへ帰ります。地上に残る者との別れは辛い、寂しい。けれども、信じる者にとって、先に行くにしても、地上に残り、尚、生きるにしても、私たちは神さまのもの。神さまの元に在る「永遠のいのち」を生きているのです。
 生きているときも、地上の命を終えてからも、主が振り返り、慈しみ、眼差しを向けてくださる命。神さまの元に死はありません。それが私たちの慰め。そして、世の終わりの日、主イエスが手をとって、眠りから起こしてくださる。「目覚めなさい。甦りの朝だよ。」それが私たちの希望なのです。
今朝、逝去者記念の礼拝に招かれた私たち、洗礼を受けている者、まだ洗礼を意識していない者、すべての者にイエスさまは「私の前で苦しみ、悲しみをストレートに訴えて欲しい!」と願っておられます。
「今、私は辛い。今、私は悲しい。今、私は涙が溢れる。どうか私の苦しみ、痛み、悲しみ、病を癒して欲しい!」と訴える。きちんと手を組んで、跪いて祈ることも大切ですが、激しく、強く、「主よ、何としても助けてください!」と祈る。そのときイエスさまは、立ち上がり、私たちと一緒に来てくださる。そのときイエスさまは、振り向き、私たちの目を見て、言ってくださるのです。「あなたは元気になっていい!安心していい!すべてを委ねなさい。あなたに新しい命を与えよう。だから泣くな。自分を責めるな。大丈夫。私はあなたのすべてを知っている。だからすべてを私に委ね、私をどこまでも頼って欲しい。」共に、すべてをキリストに委ね、歩み続けたい。心から願うものであります。

<お祈りを致します>
御在天の主イエス・キリストの父なる神さま、今朝は逝去者記念の主日礼拝をご遺族の皆さまと共にあなたにおささげすることが許され、深く感謝致します。愛する者の死は、私たちから望みを奪おうとします。しかし、あなたの元に死はありません。求める者に、あなたは新しく永遠に続く命をくださるからです。この慰めと希望を求める心、信じる心を与えてください。これらの感謝と願いを、復活と再臨の主イエス・キリストの御名によって御前におささげ致します。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・世界の平和を祈ります。紛争地域があります。内戦があります。テロがあります。虐げられている少数民族があります。難民がおります。今、このときも嘆き、悲しみ、怒りに震えている人々がおります。主よ、どうか世界の平和を実現してください。
・全国、全世界の被災地で困難な生活を強いられている方々を強め、励ましてください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年11月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第17章9節~11節、新約 マタイによる福音書 第6章1節~4節
説教題「神さまとの秘密」
讃美歌:546、55、254、266、541      
   
Ⅰ.先週は家族礼拝をまもり、午後はバザーを皆で楽しみました。奉仕された皆さんはそれぞれお疲れになったと思いますが、神さまは皆さんの働きに存分に報いてくださったと信じます。
牧師として今までたくさんの方々と面談の機会が与えられました。具体的な内容を語ることは控えますが、皆さんに共通する悩みがある。どういう悩みか?それは、「良かれと思って伝えたのに、こちらの思いが伝わらない」という悩みです。親子であったり、夫婦であったり、友人であったりしますが、こちらの思いが伝わらない。そのとき、「何でわからないの!」と感情的になってしまう。愛するゆえの言葉だから、つい感情的になり、親に、子どもに、夫に、妻に、激しい言葉をぶつけてしまう。その結果、相手から反発され、関係がこじれてしまう。そのような話を伺いながら、「私も同じです」と慰め合うのです。
私たちは良かれと思って伝えたことがきちんと相手に伝わり、感謝されると安心します。相手から嫌われるかもしれないと思いつつ、このことは伝えねば!と思い伝える。その結果、相手から「大切なことを伝えてくれて、ありがとう」と感謝されると、嬉しくなる。けれども、反発されると、「なぜ、わかってくれないのか!」と相手を責める。さらにやっかいなのは、他者と比較する心です。「あの人は、たくさんの人に愛され、評価されている。それなのに、私を評価してくれる人は誰もいない。」私たちはできることなら、たくさんの人に認めてもらいたい。幼稚園、保育園では子どもがそう思う。学校では学生がそう思う。家庭、会社、学校、さらに教会でも、皆が、「たくさんの人に認めてもらいたい、評価されたい!」と考えてしまうのです。
 牧師である私も同じ。昨年のクリスマスは複数の受洗者が与えられた。ある教会員に言われました。「田村先生、素晴らしいですね。先生がいらしてから、受洗者が毎回、与えられていますよ。」私は「いえいえ、私が頑張ったからではありませんよ。神さまが聖霊を注いでくださったからです」と語りつつ、内心、「確かに、私も頑張った!」と思ったことを否定できません。しかし、今年のイースター、ペンテコステ、来月のクリスマス、受洗者はゼロ。罪深い私は、なぜ受洗者が与えられないのか?と悩んでしまうのです。
 そのような私が今朝の御言葉を読むと、主イエスの掟は深いと思う。なぜか?主は、私たちの弱さをご存知。だから、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」「自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」と戒めておられるのです。
 よく考えると、見てもらおうとして、人の前で善行をするとき、自分の前でラッパを吹き鳴らすとき、たくさんの人に認めてもらいたいと考えるとき、神さまが頭から抜けています。頭では神さまはいつも私を愛し、見ておられると信じているはずなのに、たくさんの人から「素晴らしい」と言われれば喜び。別な人が「素晴らしい」と言われればやっかむ。受洗者が複数与えられれば、神さまを喜び、誇るより、自分の手柄と考えてしまう。反対に、受洗者が与えられないと、頭では「受洗者は神さまが与えてくださる」と理解しつつ、「なぜ、私なりに努力しているのに、受洗者が与えられないのか?」と落ち込む。そのとき、主の眼差しを忘れている。頭と心がバラバラになっている。そのとき、私たちは善い行いをしているようで、大きな過ちを犯しているのです。
 
Ⅱ.ところで、今朝の御言葉で印象深いのは3節です。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」主は、人の前で善行をしないよう戒めつつ、自分の体の他の部分にも善行を知らせないよう戒めるのです。なぜ、ここまで徹底しているのか?主は本当に深いところまで私たちの弱さをご存知だからです。繰り返しますが、私たちは人に評価されると喜ぶ。さらに自分で自分の善行にニンマリする。反対に、自分の善行が認められず、誰にも評価されないと落ち込み、誰も私を評価してくれない。愛する親も、愛する子どもも、愛する妻も、愛する夫も私のことをわかってくれないと嘆く。だから、主イエスは右の手のすること(善行による自己陶酔、善行が認められないことによる自己否定)を左の手に知らせてはならないと戒めるのです。
 改めて、先週のバザーを振り返りたい。本当に皆さん、事前の準備も含めて、それぞれが貴重な時間を割き、伝道のため、親睦のため、会堂修繕献金のため、見えるところ、見えないところで奉仕してくださいました。もしかすると、皆さんの中にはご自宅でバザーの準備をなさった方がおられるかもしれません。そのとき、誰にも気がつかれないと、ちょっぴり寂しく感じたかもしれません。反対に、誰かに気がつかれ、「○○さん、ありがとう!」と褒められると嬉しくなり、「今日は、あの人からも評価された!」と喜ぶのです。しかし主は、そのような思いにこそ、私たちの罪を感じるのです。
 私たちはこう思うかもしれません。「私は、あらゆる奉仕を頑張った。だから、評価された。それなのに、あの人は何もしていない!」と呟く。バザーに限りません。日常生活では誰もが呟いてしまう。
 反対もある。「どうせ、何をやっても誰も見てくれない。評価してくれない。神さまも私を諦めているに違いない。だって、あの人は豊かな賜物が与えられ、家族も素晴らしい。それに比べて私は何をやってもダメ。私を必要とする人は誰もいない。」と本気で考えてしまうのです。
 だから、主イエスは愛をもって戒めるのです。「どんなときも、神を見つめて欲しい。どんなときも、神との秘密をまもって欲しい。どんなにあなたがこれまで誠実に歩んできたか!どんなにあなたが一所懸命に歩んでいるか!父なる神は知っている。たとえ誰一人、あなたに『ありがとう!』と言わなくても、誰一人、あなたのことを認めなくても、神はいつもあなたを見ている。あなたの涙、喜び、不安、悲しみ、怒りを。だから、偽善者のようにアピールするな。神はあなたの悩み、苦しみを知っている。だから自分を責めずに、父なる神があなたに与えた賜物を用い、あなたらしく、日々の働きを誠実に続けて欲しい!そのとき神は、私(イエス・キリスト)によって、あなたの罪を赦し、永遠の命を与えてくださる。」

Ⅲ.最後に、三年前に亡くなった渡辺和子シスターの〝神さまのポケット〟を紹介させて頂きます。渡辺シスターは、『置かれた場所で咲きなさい』に、こう書いております。「30代の後半で四年制大学の学長に任命された私は、教職員や学生から、あいさつされるのが当たり前と考え、そうしない相手に、〝いきどおり〟を感じる傲慢な人間でした。その私が、ある日『ほほえみ』という詩(信仰詩人といわれ、若くして亡くなった八木重吉の詩)に出合って変わったのです。その詩の内容は、自分が期待したほほえみがもらえなかった時、不愉快になってはいけない。むしろ、あなたの方から相手にほほえみかけなさい。(中略)というものでした。(中略)私はやがて、これこそキリストが求める『自分がされて嬉しいことを、他人にしなさい』という愛の教えなのだと気付いて、実行したのです。ところが、私からのほほえみを無視する人たちがいました。そんな相手に〝いきどおらず、美しいわたしであるために〟、私はこう考えることにしたのです。『今の私のほほえみは〝神さまのポケット〟に入ったのだ』と。そう考えて、心の中でニッコリ笑うことができるようになりました。」
 〝神さまのポケット〟。いい表現です。神さまのポケットに入ったほほえみ、善行は神さまと私だけしかわからない。神さまと私との秘密。でも、神さまは私のほほえみ、善行をポケットに入れてくださる。そうであるなら、人に評価されて喜び、評価されずに落ち込む必要がなくなる。与えられた賜物を信じ、ただ神にのみ栄光を帰する歩みを誠実に続けたい。そのとき、知らないうちに神さまのポケットには私たちのほほえみ、喜び、涙、汗、そのすべてが入っていく。神さまは、そのすべてを心から愛し、深く憐れんでくださるのです。
私たちは、良いこと、悪いこと、何をしているときも、神さまの前に立っています。その事実をどんなときも忘れずに歩み続けたい。すると、見えてくる。私たちが自分のものと思っているものは、すべて神さまから与えられたもの。心も体も住まいも日々の食事も家族も友人も。神さまを信じ、愛する心も日々、神さまから与えられるのです。
 そうであるなら、神さまから与えられたものを神さまの前で独り占めできるわけがない。神さまの前に立つなら、神さまからの頂きものを さも自分のものであるかのように「善いことをしております!」とアピールする必要もない。喜んで、神さまと人に仕える。神さまは、どんなときも私たちを見ておられる。神さまとの秘密こそ、私たちの喜びであり、慰めなのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・全国の被災地で困難な生活を強いられている方々を励まし、慰めてください。
・病を患っている方々、痛みに耐えている方々、心が塞いでいる方々がおられます。主よ、それらの方々を癒し、聖霊を注ぎ続けてください。
・今日はこれから秋のコイノニア・ミーティングが行われます。一人でも多くの方が参加し、よき交わりのときとなりますようお導きください。
・今朝も礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2019年11月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教(家族礼拝)  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第118篇22節~25節、新約 マタイによる福音書 第5章43節~48節
説教題「神の子となるため」
讃美歌:546、121、Ⅱ-78、452、540、427             

Ⅰ.先週の火曜日、横浜市戸塚区にある明治学院大学横浜キャンパスで説教の機会が与えられました。駅から大学まで教職員用のマイクロバスで移動したのですが、ふと小学生の頃を思い出したのです。
私は戸塚区の団地に小学1年から中学2年の夏まで住んでおりました。小学1年の春、その団地から母に連れられて鎌倉の教会に通うようになったのです。先ほどまで小さな子どもから中高生が座っておりました。ちなみに、私が教会学校の生徒だった頃、家族礼拝は一度もなかったと思います。もしも家族礼拝があったら、小学生の私はどんな態度だったか?緊張していたかもしれません。あるいはふざけていたか、どちらかわかりませんが、小学生の頃に家族礼拝がなかったのは神さまのご配慮だったかもしれません。それくらい小学生の頃の私は教会でやりたい放題でした。
 戸塚駅からキャンパスまでバスに揺られながら、「もう小学生の私ではない」と思いました。小学生の頃、52歳の牧師なら、御言葉を忠実に生きる人!と考えていたかもしれません。しかし、今朝の御言葉を繰り返し読み、大袈裟でなく、息が詰まりそうになった。なぜか?主イエスの要求が厳しいからです。
先週は、主イエスによる「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」に驚いた。そして今朝は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」に言葉を失う。先週は、主の教えが頭で鳴り続けた。結果、毎晩、変な夢が続くのです。何だか主イエスから脅迫されているように思えてならない。さらに主は、究極の戒めを語るのです。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
天の父とは神さま。つまり、「神さまが完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と主は命じておられる。そのとき私たちは、「完全な者なんて無理。完全な者になれるわけない」と考えるはずです。
実際、第5章43節から48節を語るよう神さまから託された説教者は皆、どのように語るべきか、苦悩するに違いありません。もしもスラスラ語れたら、主イエスが考えている福音を伝え損ねたかもしれないと不安になるに違いありません。もちろん、説教に耳を傾けておられる皆さんも、今朝の御言葉は非常に厳しく感じたはずです。主イエスの命令だから厳守したい。でも、どんなに逆立ちしても、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れない。さらに、天の神さまが完全であられるのはわかるが、この私が完全な者となるのは不可能。たとえ、礼拝後、バザーの2時間限定でも完全な者となることは難しい。それほど完全な者、何の欠けもない者となることは非常に難しいのです。

Ⅱ.ところがです。繰り返し聖書を読み、黙想を重ね、ある事実に気がついた。それは、御言葉を語ったのはどなたか?ということです。すでに語ったように、主イエス・キリストです。教会の子どもたちに語ったように、オギャーと泣くだけの赤ちゃんや、鼻水を垂らし、兄弟喧嘩ばかりの子どもを抱き上げ、「天の国はこのような者たちのものである。」と語り、子どもたちを祝福された。そのような主イエスが命じておられることに気がついたのです。
つまり、主イエスが私たちの前に座り、私たちを見つめて命じておられる。主イエス抜きで敵を愛し、迫害する者のために祈るのではない。主イエス抜きで完全な者となるのでもない。主イエスによって敵を愛し、主イエスによって迫害する者のために祈り、主イエスによって完全な者となるのです。
なぜ、最初に今朝の御言葉を読んだとき「脅迫」と感じたのか?理由は明確。主イエス抜きで、自分だけの力で、自分の思いを封印し、ただ命じられたから、歯を食い縛って完全な者とならなければ!と考えたからです。だから、私には難しい!と知りつつ、そのように生きなければ!と思うから夢にうなされたと思うのです。しかし、自分だけの力で敵を愛する!でなく、主イエスによって愛する!となったとき、主イエスの愛、主イエスの赦し、主イエスの憐れみによって敵を愛するなら、もしかすると、この私でも、敵を愛し、迫害する者のために祈れる!この私でも完全な者となれる!と思うようになったのです。
整理すると、こういうことです。主イエスが「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と命じられたことをまず受け止める。そのとき、「私には無理」と感じる。冒頭でも申し上げたように、私は小学生ではない。52歳ですから大人です。子どもの頃、「50代になれば、主の教えに従って歩める」と考えていたかもしれません。しかし、様々な経験を重ねたことで、自分の弱さ、罪に打ちのめされる。そのような私が敵を愛し、迫害する者のために祈ることなどできない。神さまのように、完全な者となれないと思った。その上で、今朝の御言葉を語ったのがどなたなのか思い起こすのです。
繰り返しますが、主イエスは子どもを愛し、祝福されました。当時、子どもは数に入らない。いてもいなくても関係ないと思われていた。実際、子どもは誰かに頼らざるを得ない者。完全ではありません。しかし主は、弟子たちに命じたのです。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」

今朝の御言葉で「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と命じた主が、「無力な子どもこそ、天の国に入る」と語った。正直、私たちは混乱します。いったいどっちなのか?しかし、よくよく考えると、どちらも主イエスの心からのお言葉であることがわかります。
主イエスは、私たちに完全な者となりなさいと命じられた。それは、本気で神さまを求めて欲しい!主の救いを求めて欲しい!という心からの願いです。完全な者となれない。自分を愛してくれる人なら頼まれなくても愛し、祈る。でも、私の悪口ばかり言い続ける人、私をいじめ、仲間外れにし、執拗に攻撃する人を愛せないことを認める。祝福を祈れないことを認める。そのとき、私たちは途方に暮れる。前にも後ろにも行けない。その結果、天の神さまに心が向く、そして「主よ、完全な者としてください」と祈る者とされるのです。
 私たちは、主イエス抜きで敵を愛することは難しい。主イエス抜きで自分を迫害する者のために祈ることもできません。まして、主イエス抜きで完全な者となることなどあり得ない。しかし、主イエスがおられる。どんなときも。私たちを抱き上げ、頭に手を置き、日々、祝福を祈ってくださる主が。私の頭に手を置いてくださるのですから、敵である あの人の頭にも手を置いてくださる。私を迫害する あの人の頭にも手を置いてくださる。その恵みを心の奥に刻むのです。
 「そうか!神さまは、あの人のためにも太陽を昇らせ、あの人のためにも雨を降らせてくださる。柔らかな日差しには善人も悪人も喜ぶ。豪雨では善人も悪人も苦しむ。であるなら、主イエスが無力な子どもを抱き上げ、祝福されたように、罪の私が完全に罪を赦されたように、敵としか思えないあの人の罪も赦され、私の悪口ばかり言い続けるあの人のためにも主イエスは十字架で祈り、死なれ、三日目に復活された。主イエスの恵みは、主を信じる者、信じない者、すべての者に注がれている。であるなら、私も敵を愛せる。主イエスによって。であるなら、私も迫害する者のために祈れる。主イエスによって。であるなら、私も完全な者となれる。主イエスによって。」私たちは主イエスから大いに期待され、必要とされ、祝福されているのです。
 私たちは、自分の努力で敵を愛し、迫害する者のために祈ることは難しい。自分の努力で完全な者となることはできません。本当に難しい。しかし、己の弱さを認め、敵を愛せない私だから、迫害する者のために祈ることのできない私だから、完全な者となれない私だから「主よ、日々、聖霊を注ぎ、祈る心、赦す心、愛する心をお与えください」と祈り続ける。
 そのとき主は、祈りに応え、私たちに手を置き、祝福してくださる。語ってくださるのです。「あなたへの祝福が敵としか思えない人にも注がれ、迫害する者にも注がれている。あなたがどんなに赦せない!と思っても、私があなたの罪を赦したように、あの人の罪も赦した。だから あなたも敵を愛せる。あなたも迫害する者のために祈れる。あなたも完全な者となれる。」
 私たちは本当に恵まれています。なぜか?主イエスに愛され、赦され、祝福されている。であるなら、これからも主イエスにすがり続けたい。そのとき、主に排除されることはありません。子どもを抱き、膝を屈め、祝福された主は、私たちがいくつになっても、私たちを抱き締め、手を置き、大いに祝福なさるのです。そのような溢れる恵みを日々、心に刻み続けたい。そのとき、私たちも天の父が完全であるように、主の十字架と復活によって完全な者とされるのです。

(子どものための祈り)→子どもたちを覚えて共に祈りましょう。
御在天の主イエス・キリストの父なる神さま、子どもも大人も一緒にささげる家族礼拝に、教会学校の子どもたちを招いてくださり、心より感謝いたします。毎日、痛ましい事件が報道されております。またか!と思ってしまうほど、親が子を虐待するニュースが流れます。主よ、これからも私たちに日々、聖霊を注ぎ続けてください。主の年2019年も、あと2ヶ月を切りました。時代がドンドンと変化し、皆がスマホの画面に支配されているようです。だからこそ、どんなに時代が変化しても、どんなに古いものが廃れても、絶対に滅びることのない、絶対に変わることのない真理、聖霊の注ぎ、主の愛と赦しを信じる心を子どもたち一人一人にこれからも与え続けてください。私たちも今日だけでなく、日々の祈りで子どもたちへの祝福を祈り続ける者としてください。主よ、東村山教会の子どもたち、また、世界の子どもたちが互いの存在を認め、愛し合い、赦し合い、祈り合う子どもとして健やかに成長することが出来ますようお導きください。主よ、教会学校に通っている子どもたち、また、かつて教会に通っていた子どもたちが、いつの日か神さまの招きに応え、信仰告白、洗礼へと導かれますよう お祈りいたします。これらの願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。


2019年11月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 レビ記 第24章16節~22節、新約 マタイによる福音書 第5章38節~42節
説教題「命をかけて平和に生きよう」
讃美歌:546、68、257、21-81、Ⅱ-164、539       

Ⅰ.先ほど朗読して頂いた旧約聖書レビ記 第24章には、有名な戒めが書いてあります。19節以下、「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。(レビ記24:19~20)」
 「目には目を、歯には歯を」は、それ以上のやり過ぎを抑えるためのユダヤの仕組みであり、掟です。目をやられたら、目を奪うことは認める。しかし、目に加え、手を奪うことは認めない。歯をやられたら、歯を奪うことは認める。しかし、歯に加え、足を奪うことは認めない。なぜか?どちらか死ぬまで報復が続くからです。それほど、怒りをコントロールするのは難しい。だからこそ、「目には目を、歯に歯を」によって、お互いの怒りを抑えたのです。
 ところがです。今の時代、「目には目を、歯には歯を」では、お互いの怒りを抑えることが不可能になってしまった。「目には目を、歯には歯を」を都合よく解釈し、「悪を潰さねばならない!我々の戦いは正義の戦い!」と主張。「目には目を、歯には歯を」ではなく、一気にたくさんの命を奪っているのです。
先日、NHK総合「クローズアップ現代」で、「ドローン兵器の衝撃(新たなテロの時代)」と題して、報道されておりました。「ドローン」という無人飛行物体が敵国を攻撃。たくさんの命が奪われた。「目には目を、歯には歯を」から「ドローン兵器にはドローン兵器を」の時代です。非常に恐ろしいことですが、まるでゲームでモンスターを殺すように、手を汚すことなく、命を奪うことが可能になった。命を奪われた怒りは、憎しみとなって膨れ上がる。「やられたら、やり返す!先に手を出したのは向こうだ!だから復讐する!二度と先制攻撃をさせないため、我々は徹底的にやり返す!」
それぞれ憎しみ合い、復讐し合う。確かに、相手を倒すと、気分がスカッとする。けれども、倒した相手がさらに強力な憎しみで復讐してくる。憎しみの連鎖、復讐の連鎖。その結果、勝者はなく、皆がボロボロになり滅びるのです。
 私たちはテロリストではありません。ドローン兵器を利用することはないでしょう。しかし、私たちも家庭で、職場で、学校で、イライラすることがある。ある程度のイライラなら我慢できます。けれども、正統な理由なしに繰り返し攻撃されたら、我慢も限界。激しい怒りに震え、相手を攻撃してしまうのです。

Ⅱ.主は、怒りに震える私たちに語ります。39節、「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
「悪人に手向かってはならない」をサッと読むと、「悪人に手向かってはならない。歯を食い縛り、忍耐しなさい!」と読める。しかし、後に続く主の言葉に耳を傾けると、どうも違う。「復讐を忍耐せよ!」でなく、「愛に生きよ!」と感じるのです。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」そうです。右の頬を打たれた。頬が真っ赤になる。手の平のあとがつく。激痛です。レビ記は、「目には目を、歯に歯を」ですから、相手の右の頬をバチン!と叩いても問題ない。しかし主は、右の頬を打たれても我慢しなさい!でなく、何と、左の頬をも向けなさい!と命じられる。本当に驚きます。
その驚きは、いよいよ確実となる。40節。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」どうでしょう?下着を取られたら裸です。けれども主は、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、寒さから身を守る上着をも取らせなさい!」と命じる。はっきり言って無茶苦茶。あり得ない。どう考えても理不尽です。下着に加え、上着も取られる。その人はどうなるか?裸です。寒さに襲われ、人間の尊厳も奪われる。それでも主は、どこまでも愛に生きるよう求めるのです。 
主は続けます。41節。「だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。」ミリオンとは、ローマの単位で1,000歩を意味します。1ミリオンは、約1,500メートル。では、いったいだれが、どのように1,500メートル行くように強いるのでしょう?
実は、「強いる」と訳された原語は、ローマ兵の行動を表す特殊用語で、新約聖書では第5章41節ともう一箇所で用いられるだけなのです。ローマ兵は、占領した国で、一般市民を徴用する権利がありました。今、日本と韓国の間に「徴用工問題」があります。占領した国で、一般市民を徴用することはいつの時代もある。聖書の時代も、ローマ兵がユダヤの市民を運搬夫として徴用した。しかし、主は語るのです。「ローマ兵が、あなたに1,500メートルの運搬を強いるなら、歯を食いしばり、1,500メートルの運搬をしておしまい!でなく、倍の3,000メートルをローマ兵と一緒に運びなさい!」やはり驚きます。
最後に主は、念を押します。42節。「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」愛する我が子から「ママ、ご飯ちょうだい!」と求められたら、喜んで与えます。また我が子が突然の試練に襲われ、「お金を貸してください!」と頼まれたら、背を向けず、お金を貸すでしょう。
しかし、御言葉の流れで判断すれば、求める者は愛する我が子でなく、悪人であり、右の頬を打つ者。訴える者であり下着を取る者。さらに徴用する者。つまり、顔を想像しただけで復讐したくなる者。主は、そのような者にも与えなさい!背を向けてはならない!と命じるのです。
いったいなぜ、主はこれほどの愛を求めるのでしょうか?下着に加え、上着まで取られ、裸になっても、その人に与え続ける愛に、私たちが生きられる!と本気で信じているのでしょうか?
主イエスは、私たちが右の頬を打たれたら、左の頬を向けることなく、相手の右の頬を打ってしまう。せいぜい、右の頬を打つのを我慢するのが精一杯であることをご存知である。下着を取られたら、上着だけは勘弁してください!と訴えるのが私たちであることもご存知。一ミリオン行け!と命じられたら、我慢して一ミリオンは行く。けれども、二ミリオンは行けないことをご存知。求める者に与えるか否か、借りようとする者に背を向けるか否かは相手次第であることもご存知。つまり、私たちが主の命じた通りには生きられないことをご存知である。だからこそ主は、ご自分で命じられたことをその通りご自分で実践なさった。有言実行された。それも自分の名誉のためでなく、すべての人の救いのため、復讐の心から解放するために実行されたのです。
主イエスは、兵士たちに鞭打たれたとき、抵抗することはありませんでした。右の頬を打たれたら、左の頬も打たせた。下着を取られたら、上着も取らせた。自らの処刑の道具である十字架を背負い、ゴルゴタまで歩くよう、ローマ兵に強いられた。そのとき、シモンという名前のキレネ人が通った。ローマ兵は、衰弱した主の代わりにシモンに十字架を無理に担がせたのです。マタイによる福音書第27章32節の「無理に担がせた」と訳された原語が、先ほど触れた「だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。」の「強いる」と訳された原語と同じなのです。
 主は、救いを求める人に、愛を注いでくださいます。間違っても、「あなたは私の右の頬を打った。だから赦さない!」でなく、「右の頬を打った。それでも気が済まないなら、左の頬をも打ちなさい!」と両方の頬を与えてくださる。ローマの兵士が主を侮辱し、下着を奪い、赤い上着を着せ、茨の冠を頭に載せ、「ユダヤ人の王、万歳」と侮辱している間も、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈り続けた。主は、私たちの求め、私たちの祈りに背を向けることは絶対にないのです。

Ⅲ.私たちは皆、十字架で流された主の血潮によって罪を赦されました。それなのに、いがみ合い、復讐してやる!と息巻くのなら、主は大いに嘆き、深く悲しまれる。だからこそ主は、今朝も私たちを憐れみ、語ってくださるのです。
「あなたの痛み、すべて知っている。復讐の心を持ち続けるのは辛いだろう。確かに、右の頬を打たれたら頭に来るだろう。訴えられ、下着まで取られたら、情けなくなるだろう。徴用され、くたくたになるまで働き、これで終わり!と思ったら、もっと働け!と怒鳴られ、金銭まで要求されたら、激しい怒りで頭がおかしくなるだろう。でも、深く息を吸い、私を見て欲しい。私は十字架であなたの怒り、復讐、呪いをすべて引き受けた。だから、あなたはもう復讐に苦しむ必要はない。私が流した血によって、裂かれた肉によって、あなたの罪だけでなく、あなたが復讐したい人の罪も赦された。この真実こそ、驚くべき赦しの恵み。あなたは今、恵みを味わう。聖餐の祝いに与る。あなたが味わうのは私の血潮。あなたが味わうのは私の肉。しっかりと味わって欲しい。そのとき、『ああ、私の罪は赦された。あの人の罪も赦された。赦された者同士、手を繋ぎ、命をかけて平和に生きよう』となれるはず。あなたは、復讐から解放されねばならない。」
 主は私たちを聖餐の祝いに招き、喜んで語ります。「歯を食いしばり、復讐を我慢するのではない。あなたも私の愛と赦しに生きられる!」只今から聖餐の祝いに与ります。祝いに与るとき、主の愛と赦し、聖霊が注がれる。そのとき私たちも、キリストのように愛と赦しに生きる者とされるのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・全国各地の被災地で厳しい生活を強いられている方々、生きる希望を失っている方々を励まし、慰めてください。
・病を患っている方々、激しい痛みに耐えている方々、孤独に襲われている方々が大勢おられます。主よ、それらの方々をまもり、聖霊を注ぎ続けてください。
・来週の主日は、家族礼拝とバザーが行われます。さらに24日は逝去者記念主日礼拝が行われます。秋の特別な礼拝、またバザーを存分に用いてください。そのための様々な働きを担っている兄弟姉妹を祝福してください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2019年10月27日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 レビ記 第19章11節~12節、新約 マタイによる福音書 第5章33節~37節
説教題「主に従う」
讃美歌:546、28、284、290、545B             

Ⅰ.先週の主日は、秋の特別伝道礼拝を神さまにささげることが許されました。
加藤常昭先生が心を込めて説教を担ってくださり、10名もの新来者が与えられたことは大きな喜びでした。そして今朝も、転入会式を執り行うことが許された。本当に嬉しく思います。
 先週の金曜、来月発行される『ぶどうの木』第89号の編集委員会が行われました。編集委員の姉妹方と、皆さんから届いた原稿を一足早く読ませて頂きました。その中に、「転入会者紹介」もあります。いつも思います。『ぶどうの木』を読むと、教会員の皆さんがそれぞれに喜び、悲しみを重ね、今日まで生かされていることを。
人生では、様々な場面で「決断」を求められます。小さなことから、大きなことまで「決断」の連続かもしれません。キリスト者である私たちにとっての決断は、洗礼を受けること、結婚すること、さらに先ほどのように転入会することです。
転入会式で私はお二人にたずねました。「あなたがたは、日本基督教団の信仰告白を告白し、この教会の会員としてふさわしい生活を送り、主の栄光をあらわすことを約束しますか。」お二人は「約束します。」と誓約されました。さらに続けて教会員の皆さんにもたずねました。「あなたがたは、今この教会に入会する御夫妻を、主にある信仰と愛によって受け入れ、共に主の栄光をあらわすことを約束しますか。」教会員の皆さんも「約束します。」と誓約されたのです。

Ⅱ.私たちキリスト者は、洗礼式、結婚式等において神さまに誓約します。私も1985年に加藤常昭先生の司式により洗礼式を執り行って頂き、キリスト者として主に従うことを誓いました。さらにその10年後、1995年に同じく加藤先生の司式により結婚式を執り行って頂きました。加藤先生は私にこう問われました。
 「あなたは、真実にこのひとをあなたの妻とすることを心から願いますか。あなたは、この結婚が、神のみこころによるものと確信しますか。またあなたは神のみ教えに従い、夫としての道を尽くし、常にこのひとを愛し、敬い尊び、助け支えて、その健やかな時も、病める時も、堅く節操を守り、よき慰め手となることを誓いますか。」
私は大きな声で「誓います!」と答えました。もしかすると、加藤先生が担われた結婚式の新郎の誓いの中でもっとも大きな声だったかもしれません。
しかし、あの日から24年。正直に告白しますと、常に妻を愛し、敬い尊び、助け支えて、健やかな時も、病める時も、堅く節操を守り、よき慰め手となっていたか?と神さまに問われると、情けないほどに誓いを反故にしている日々であったと認めざるを得ません。子育てでストレスが溜まっているとき、妻がもっとも慰めを必要としているとき、私は慰めるより、慰められることを妻に求めておりました。また、妻が珍しく風邪で寝込んでいたとき、宿泊の研修会から帰宅した私は、寝こんでいる妻に食事の用意をするように求めたのです。あのときの妻の悲しい顔は忘れられません。
結婚式の「誓います!」が言葉だけであることを情けなく思います。東村山教会に着任してから、数組の結婚式の司式を担いました。そのとき、司式者である私が辛くなることがあります。新郎、新婦に誓約を求めている私が神さまから問われるからです。「あなたは新郎、新婦に誓約を求めているが、あなたは24年間、常に誓約に誠実であり続けていますか?」そのとき、何とも厳しい思いになるのです。
改めて思います。私たちの心は不確かであると。ほんの小さな風が吹いても、風車の向きがクルっと変わってしまうよう、私たちの心は定まらない。こっちの方向に進もうと決断したのに、もう不安に襲われている。この人!と信じ、結婚したのに、この人で良かったのだろうか?と疑いの心がある。つまり、私たちの誓い、約束は非常に危ういものであり、不完全であることを神さまはご存知なのです。
だからこそ神さまは、私たちにイエスさまを遣わしてくださった。そして、イエスさまの口を通し、命じられたのです。34節。「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。」私たちは、イエスさまの言葉を神さまの言葉として信じ、受け入れたい。
イエスさまは繰り返し、「しかし、わたしは言っておく。」と語っております。第5章22節、「しかし、わたしは言っておく。」28節、「しかし、わたしは言っておく。」32節、「しかし、わたしは言っておく。」34節、「しかし、わたしは言っておく。」すべて、直前には古い掟である律法の言葉、「十戒」が語られております。
イエスさまは、十戒、つまり旧約聖書の掟を否定しているのではありません。むしろ、本来の戒めの心、精神をよみがえらせ、その意味を弟子たちに伝え、神さまの心を知り、神さまに従って生きて欲しい!と願いつつ、イエスさまによる新しい掟を示しているのです。
イエスさまは、私たちの弱さを私たち以上にご存知です。私であれば、「誓います!」と結婚式に集まってくださった大勢の証人の前で大きな声で誓約した。そのとき、私は本気で誓った。けれども、その誓いはあっと言う間に崩れた。神さまに誓った。それなのに、神さまを忘れ、誓いを反故にした。そのような弱さ、罪をご存知であるから、イエスさまは「一切誓いを立ててはならない。」と命じられたと思うのです。
もしも、イエスさまの命令を軽く受け止め、「ラッキー」と思うなら、それは大きな誤解です。「おお、一切誓いを立てなくていいのか。ならば、好きな人と一緒になり、嫌いになれば、ポイと捨てても大丈夫。こんなラッキーな命令はない。」もしもそのようにイエスさまの命令を受け止めるなら、神さまは嘆かれ、本気でお怒りになると思います。
イエスさまが求めておられるのは、神さまに対し、自分に対し、さらに隣人に対し、誠実であること、真実であることです。神さまを愛することを一番にできない弱さを認め、赦しを祈る。自分を愛せず、時に自暴自棄になることを認め、赦しを祈る。隣人に対し、和解を祈るより、あの人さえいなければ!と思ってしまうことを認め、赦しを祈る。それが大切。自分の弱さを棚に上げ、神さまに「誓います!」は不誠実であり、神さまを自分のために利用しているだけではないか!とイエスさまは問うておられるのです。

Ⅲ.ところで、今朝の御言葉には興味深い表現があります。「神の玉座」、「神の足台」、「エルサレムにかけて誓ってはならない」、「頭にかけて誓ってはならない」、それぞれ独特な表現です。
実際、ユダヤの人々は、天をさし、地をさし、エルサレムをさし、自分の頭をさして誓ったようです。なぜ、そのようなことをしたのか?今朝の礼拝でもこの後、「十戒」を唱和しますが、十戒の第三戒に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」とあるように、誓いのたびに神さまの名を呼ぶことは、第三戒にそむくことになる。だから、神さまの名を口にせず、神さまに代わる天や地をさして誓ったのです。「神さまの名をみだりに唱えていないのだから、そのような誓いは認めてあげても良いのでは?」と思われるかもしれません。しかしイエスさまは、すべての誓いを禁じておられるのです。
先程、讃美歌284番を賛美いたしました。4節の歌詞はこうです。「老いの坂をのぼりゆき、かしらの雪つもるとも」
私も最近 髪の毛が薄くなり、白髪も増えました。今朝のイエスさまの御言葉であれば、「あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」は、まさに私たちが髪を染めても、染めるのをやめれば、すぐ白くなる。かしらの上に雪が積もる、髪の毛が薄くなる。髪の毛一本すら、あなたにはどうすることもできない。そのようなあなたが、頭にかけて誓うのか?とイエスさまは言われるのです。
繰り返しになりますが、私たちは誓いの危うさを深いところで知らなくてはなりません。天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて、己の頭にかけて誓っても、その誓いを全うすることの出来ない私たちを赦し、導いてくださる御方がいなければ、生きられない!という現実をしっかりと心に刻むのです。

Ⅳ.その上で、洗礼式、結婚式、転入会式の誓約にこれからも真摯に向き合いたい。Tさん御夫妻の転入会を御心と信じ、誓約した私たちは皆、神さまの家族として祈り合い、赦し合い、助け合うことを大切にするのです。
私もこれまで情けない経験を重ねてまいりました。己の決心、誓いが簡単に崩れる経験です。そのとき、自分が情けなくなる。次に情けない思いをさせた人を恨むようになる。そして最後、神さまをも恨むようになる。神さまの御心と信じ、決断し、誓約したことで、誓約の危うさ、己の弱さを痛感するのです。
しかしです。そのすべてに深い意味がある。己の誓いの不確かさを知った。隣人との約束を含め、私たちの誓いは絶対ではないということを知った。そのとき、頼れる御方はただ一人。十字架と復活のイエスさまだけである!と心の底から教えられたのです。そのイエスさまが命じる。「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」そうです。私たちは誓いを立てるのではなく、どこまでも神さまの導きを信じ、祈り続ける。どこまでもイエスさまの罪の赦しと愛を信じ、主に従い続けるのです。
イエスさまは、神さまが示された十字架に続く道を「はい。わかりました」と息を引き取るまで従われました。反対に、神さまのみ心でないことには徹頭徹尾「それは違う」と否定し続けたのです。イエスさまこそ、「然り、然り」「否、否」と最後まで生きられた。そうであるなら、神さまの赦しと憐れみにより、イエスさまと結ばれた私たちも、自分の弱さ、誓いの危うさを認めつつ、「然り、然り」「否、否」と最後まで主に従い続けたい。そのとき神さまは、弱い私たちだからこそ聖霊を注ぎ、私たちの祈りに必ず応えてくださるのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・全国各地の被災地で厳しい生活を強いられている方々、生きる希望を失っている方々を強め、励まし、慰めてください。
・病を患っている方々、手術を控えている方々、痛みに耐えている方々が大勢おられます。主よ、それらの方々をまもり、聖霊を注ぎ続けてください。
・秋の特別伝道礼拝に、たくさんの新来者が与えられ、深く感謝いたします。どうかそれらの方々にこれからも聖霊を注いでくださり、教会へと招き続けてください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2019年10月13日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 サムエル記下 第12章1節~15節a、新約 マタイによる福音書 第5章27節~32節
説教題「神を神として生きる」
讃美歌:546、15、246、511、544、Ⅱ-167             

Ⅰ.イエスさまによる「山上の説教」が続いております。説教は「幸いである」との御言葉から始まりました。続いて「地の塩、世の光」等が語られ、先週は「兄弟に腹を立てる者は皆、裁きを受ける。だから早く和解しなさい。もしも、兄弟に『愚か者』と言うなら、火の地獄に投げ込まれる」と戒めております。
 改めて想像したいのですが、火の地獄ですから、即死です。それほどまでにイエスさまは、兄弟に腹を立て、「愚か者」と言うことを厳しく戒めておられるのです。
 イエスさまは、さらに弟子たちの罪を戒めます。イエスさまの12弟子は皆、男性。だから、このように戒めたのでしょう。28節。「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
 非常に厳しい戒めです。もしもイエスさまの前に女性が座っていたら、このように戒めたかもしれません。「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の夫を見る者はだれでも、既に心の中でその男を犯したのである。」男性も女性もみだらな思いですでに伴侶のいる女性、男性を見るなら、見るだけで、姦淫したことになる。やはり、非常に厳しい戒めです。丁寧に語る必要がないと思いますが、男性も女性も肉欲があることは否定できません。食欲と同じで、生きるため、とくに肉欲は、種の存続のため神さまから与えられた生理的現象です。けれども、イエスさまは続けるのです。
 29節以下。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」 
 イエスさまの思いはこうでしょう。「あなたは生きて欲しい。火の地獄で死ぬのは悲しい。それでも、あなたはみだらな思いで他人の妻を見るだろう。それなら、右目をえぐり、右手も切り取って捨てなさい。あなたも辛いだろうが、私も辛く、悲しいのだ。」イエスさまの憐れみ深い眼差しが迫ってまいります。
 
Ⅱ.今朝は、旧約聖書サムエル記下第12章の前半部分を朗読して頂きました。小見出しには「ナタンの叱責」とあります。登場するのは、ユダヤの中で最大の王と言われたダビデ王。もう一人は、神さまからダビデのもとに遣わされた預言者ナタンです。神さまは、預言者ナタンを通して、ダビデ王の罪を指摘し、悔い改めの祈りへと導くのです。ダビデ王は、イエスさまが指摘するみだらな思いで他人の妻を見るだけでなく、姦通の罪を犯したのです。
 ある日の夕暮れのことでした。午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していたダビデ王は、一人の女性が水を浴びているのを見た。ダビデ王は豊かな肉体をもっているバト・シェバを自分のものにしたくなったのです。バト・シェバは他人の妻。ダビデ王の部下、ウリヤの妻でした。
 ダビデ王はバト・シェバと、肉欲を満たすため、ためらうことなく強引に床を共にした。結果、バト・シェバは子を宿したのです。ダビデ王も妊娠させたことで慌てた。しかも、部下の妻を妊娠させたのですから、いくらダビデ王であっても、まずい!と思ったのでしょう。そこで、合法的に夫のウリヤを殺すことを思いついたのです。いつも思います。嘘を隠すべく嘘を重ねると、人はどこまでも罪を犯し続けると。
 神さまはそれでもダビデ王を愛されました。地獄で焼かれることをギリギリまで我慢してくださった。だからこそ、神さまの言葉をダビデ王に伝える使者として預言者ナタンを遣わし、朗読して頂いた二人の男のたとえ話を語らせたのです。
 たくさんの牛と羊を持つ豊かな男が、一匹の小羊しか持たない貧しい男から小羊を奪ってしまった。ダビデ王は激怒しました。第12章5節。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。」
 そこでナタンは、ダビデに迫ったのです。7節。「その男はあなただ。」そのとき、ダビデ王はまだピンときていなかったかもしれません。「私は王である。絶大な権力を与えられている。王の私が美しい人妻と床を共にして何が悪い。ウリヤは不幸だった。彼は戦争の最前線で戦い、殺されたのだ。私は未亡人となったバト・シェバを養ってあげているのだ。」
 これこそ、神さまが指摘する罪。ダビデ王は肉欲を満たすためバト・シェバと床を共にし、妊娠させた。さらに罪を隠蔽するため、夫であるウリヤを戦場の最前線へ配置し、殺した。預言者ナタンを通し、神さまは「ダビデ王の罪は、死に値する」と断罪したのです。
 ダビデ王はようやく罪を認めました。13節。「わたしは主に罪を犯した。」そこでナタンは、ダビデに告げるのです。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」
 
Ⅲ.神さまは、罪を取り除く救い主としてイエスさまを遣わされました。そのイエスさま、肉の欲を否定しているわけではありません。やはり、種の保存のために肉欲は重要です。しかし、肉欲のために姦淫することは許さないのです。
 姦淫とは、つきつめて言うなら、愛によって築かれた家庭という小さな天の国に土足で上がり、踏みつけ、めちゃくちゃにする行為。愛を滅ぼす行為です。欲望を満たすために、夫婦という名の小さな平和の国に土足で侵入し、平和を滅ぼす。その罪は、男性も女性も同じ。罪の根にあるのは、自分本位、自分が神さまとなっている思い上がりの心です。
 今朝のマタイ福音書の後半、31、32節以下でイエスさまが戒める「姦通の罪」、不法な結婚でもないのに妻を離縁することの根も同じです。自己中心。神を神とせず、自分を神さまとする生き方の末路。自分勝手な思い、肉の欲が愛を滅ぼす。肉欲が満たされるとき、誰かの平和が壊れる。それなのに、自分が自分の神である限り、罪に気づくこともない。それが人間の罪なのです。
 それほど私たちの罪は強力。切っても、切っても「これですべての罪を切り落とした」とはならない。右の目をえぐり出して捨てたところで、左の目が罪を犯す。右の手を切り取って捨てたところで、左の手が罪を犯す。雑草を除くのに、根の上から切ったところでまた生えてくるのと同じです。
 私たちの欲望は、簡単にしずまるものではありません。もう大丈夫!と欲望を抑えたつもりでも、抑えなくては!と思えば思うほど、うずくのが欲望ではないでしょうか?
 イエスさまは、ダビデに対する神さまの深い憐れみを成就された救い主です。真の神さまであると同時に、真の人であるイエスさまが、欲望を抑えられない私たちの惨めさを理解せず、無視して戒めたとは思えない。むしろ、私たちの罪に寄り添い、私たちの欲望を深く憐れんだからこそ、「切って捨てた方がまだマシ」と語りつつ、切り捨てることのできない私たちに代わり、ご自身の身体の一部ばかりか、身体ごと全部、十字架に磔(はりつけ)にされたのです。
 イエスさまは、ご自身の身体を切り捨て、私たちに語っておられます。「さあ、あなたの罪を根っこから引き抜き、切り捨てた!だから、新しい命に生きよ!神を神として生きよ!愛の国、平和の国、天の国を私と共につくるのだ!日々、私を信じ、喜んで私に従いなさい。」
 私たちは、イエスさまの十字架の赦しにより、地獄に落ちることなく、今朝も生かされております。イエスさまの愛、赦し、憐れみに感謝し、犯した罪を背負い、イエスさまの元に届けに行く。そして、十字架の元に降ろし、イエスさまに従う。神さまを神さまとして生き続ける。そのとき、イエスさまの弟子とされた喜びに満たされるのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・台風により全国各地で甚大な被害が発生してしまいました。今、不安の中にあるお一人、お一人を強め、励まし、慰めてください。
・来週の秋の特別伝道礼拝を存分に用いてください。全身全霊を注ぎ、説教を担ってくださる加藤常昭先生のご準備の上にあなたさまのお導きを祈ります。
・今日は神学校日です。神学校の働きを導いてください。特に、芳賀力先生が学長代行を担っておられる東京神学大学を祝福し、導き続けてください。
・病を患っている方々、痛みに耐えている方々が大勢おられます。主よ、それぞれの場で祈っている兄弟姉妹を守り、聖霊を注いでください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年10月6日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第18章25節~32節、新約 マタイによる福音書 第5章21節~26節
説教題「アメイジング・グレイス!」
讃美歌:546、52、285、Ⅱ-1、Ⅱ-167、543              

Ⅰ.いきなりですが、皆さんに質問です。皆さんには、「この人だけは愛せない」という人がいるでしょうか?「一人もいません!」と言える人は素晴らしいと思います。しかし、ほとんどの皆さんは、「この人だけは愛せない」という人がいるのではないでしょうか?理由を伺えば、「なるほど、確かに愛せないですね」となるかもしれません。つまり、愛せない理由がある。そのことは子どもから大人まで同じだと思います。
突然、遊んでいたおもちゃを取られたら、子どもは叫びます。「〇〇ちゃんがとった!○○ちゃんのばか!」大人も同じ。突然、恵みを奪われたら、カッとなり、「絶対に許さない!」と訴える。仲の良かった兄弟姉妹に、父親、母親が亡くなったことで遺産相続が発生。兄弟姉妹、またそれぞれの伴侶も加わり、骨肉の争いになることはホームドラマの話でなく、現実にあります。私たちは、子どもから大人まで常に腹を立て続ける存在なのかもしれません。
 イエスさまは、そのような私たちに「仲直りしなさい」と求めておられます。理由がある。「『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれ」、「仲直りしないと牢に投げ込まれ、全員と仲直りするまで牢から出られない」からです。
 
Ⅱ.21節で、イエスさまが引用された旧約聖書の教えは、「十戒」の六番目の戒め、「殺してはならない」です。私たちも毎週の礼拝で唱えております。
小学生から教会で育てられた私は、「十戒」について色々な指導を受けてまいりました。「殺してはならない」は、人をナイフ等で殺すだけでなく、「あの人さえいなければ!」と思う心も殺人と同じと教えられました。しかし、「あの人さえいなければ、悲しい思いをしないですんだのに!」は、私たち誰もが経験する思いです。それでも、「あの人さえいなければ!」が怒りとなり、とんでもない行動を引き起こす恐ろしさも私たちは知っています。
 イエスさまは、そのような私たちの暴走する心を私たち以上にご存知です。だからこそ、弟子たち、また私たちに丁寧に語っておられる。「律法、旧約聖書の教えは、『殺すな』である。けれども、ただ物理的に殺さなければ良いのではない。よくよく心に刻んで欲しい!自分の兄弟(隣人)に腹を立てるなら、誰でも裁きを受ける。例外はない。兄弟に『ばか』と言うなら、最高法院に引き渡される。さらに、兄弟に『愚か者』と言うなら、火の地獄に投げ込まれる。 だから、もしも、あなたが神さまの前にひざまずくとき、兄弟が自分に反感を持っていることを思い出したなら、まず行って兄弟と仲直りをしなさい!それから帰って来て、神さまの前にひざまずきなさい。」とイエスさまは言われるのです。
 皆さんはイエスさまの厳しいお言葉をどのように受け止めるでしょうか?「兄弟と仲直りできないから、すがるような思いで礼拝しているのです!」と言いたくなるかもしれません。あるいは、「あの人の顔だけは見たくない。思い出したくもない。あの人と仲直りすることは無理。仲直りできない私だから、神さまへの供え物を献げに来た。それなのに、イエスさまの命令はあまりにも厳しい!」そのように感じたかもしれません。

Ⅲ.それでも、イエスさまは弟子たちに迫ります。25節。「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。」わかるようで、わからない不思議な言葉です。いったいイエスさまは何を求めているのでしょう?一緒に道を歩く。夫婦一緒に同じ道を歩く。これはわかります。親しい友人と一緒に同じ道を歩く。これもわかる。しかし、自分を裁判で訴える人と一緒に同じ道を歩く?頼まれても嫌です。顔を見るのも嫌な人と一緒に歩く。あり得ません。それなのにイエスさまは、「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合」と語っておられる。どういうことでしょう?訴える人と一緒に歩くことなどあるのか?顔も見たくない大嫌いな人と同じ方向に向かって、歩調を合わせて、いったいどこへ行くのでしょうか? 
 確かに私たちは、一人の例外もなく、人生という道を歩いております。人生を歩き続ける私たちは、殺人の罪を犯すことがなくても、言葉や態度で兄弟を攻撃し、兄弟の心をズタズタにし、「自分など生きていても意味がない」と絶望させてしまうことがある。そのとき、厳しいですが、殺人の罪を犯したことになる。イエスさまが言われたよう、裁きを受け、死刑判決を受け、火の地獄に投げ込まれるのです。
私たちは、問いかけるイエスさまの前に立つとき、一人の例外もなく終わりの日、神さまによる裁きの日に向かって歩いている罪人です。その姿は、一本の鎖に繋がれて歩かされている囚人のよう。私たちは皆、愛する人だろうが、気にくわない人だろうが、一緒に裁判所への道を歩いている。お互いに憎しみ合い、いつまでも喧嘩を続けるなら、同じ鎖に繋がれている前と後ろで互いに罵(ののし)り合っているようなもの。愚かな争いに明け暮れている私たちを繋いでいる鎖は、私たち自身の罪。兄弟を馬鹿にし、見下し、自分が正しいと思い込んでいる罪なのです。

Ⅳ.神さまはそのような愚かな私たちを深く憐れみ、悲しまれ、ついに大切な独り子であるイエスさまを世に送ってくださった。イエスさまは私たちの罪の鎖を断ち切るため、「私は正しい、間違っていない」と思い込んでいる罪の鎖を断ち切るため、十字架の上に磔にされた。私たちの罪がイエスさまの肉を裂き、血潮を流させた。それほど私たちの罪は重い。やはり私たちは火の地獄に投げ込まれる存在です。
 しかし、神さまはそのことを望まないのです。今朝の旧約聖書エゼキエル書に書かれているよう、神さまは心の底から私たちを愛しておられる。第18章31節。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」が神さまの思い。
そのような神さまの思い、神さまの愛がイエスさまの十字架によって成就した。
イエスさまの死という代償によって、私たちは自由の身となり、罪の鎖はバラバラに断ち切られたのです。
それなのに、もしもまだ兄弟を「ばか!」と呼び、見下しているとしたら、せっかくバラバラに断ち切られた鎖を拾い集め、ご丁寧に繋げ、またぞろ自分を縛るのと同じことです。
私たちはイエスさまの十字架によって、自由な身となりました。十字架の死の三日目の朝、甦らされたイエスさまは、「あなたは、驚くべき恵みを信じるか」と聞いておられる。「私を信じ、真実に悔いる心を、砕けた鎖のかけらを、私の元に持っておいで、私についておいで」と招いておられるのです。
 イエスさまの十字架によって、イエスさまの復活によって、「終わりの日」は、「天の国の完成の日」となった。「裁きの日」は、弁護者イエスさまが再び世にいらしてくださる日、私たちキリスト者の甦りの日となった。なんという恵み!なんという喜び!まさにアメイジング・グレイス!
 罪の私たちは、共に鎖に繋がれている状態から、イエスさまの十字架により、鎖を断ち切られ、お互いの罪を赦され、自分の足で自由に、天の国の完成の日に向かって歩けるようされました。やはり、驚くべき恵みです。
天の国は、共に赦されている者同士が互いに赦し合うところに生まれます。どこにでも生まれる。小さな天の国がここにも、あそこにも生まれ、成長し、拡がり、繋がり、完成する。私たちは鎖に繋がれ、裁判所に向かって歩く囚人でした。けれども、イエスさまの十字架と復活によって、天の国に向かって、肩を並べて、共に前進する者とされたのです。
只今から聖餐の祝いに与ります。その後、「アメイジング・グレイス」を賛美します。
5節「この身はおとろえ、世を去るとき、よろこびあふるる/み国に生きん」

罪の鎖は、イエスさまによって断ち切られました。私たちは、喜び溢れる天の国に生きることができるのです。兄弟を愛せない、兄弟を許せない罪を悔い改めつつ、「天の国の完成の日」に向かって共に前進してまいりましょう。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・10月20日に行われる秋の特別伝道礼拝を存分に用いてください。今日の午後、伝道委員会の皆さんが恩多町の方々にチラシを配りにまいります。一人でも多くの皆さんが礼拝に招かれますようお導きください。全身全霊を注ぎ、説教を担ってくださる加藤常昭先生のご準備の上にあなたさまのお導きを祈ります。どうか、加藤先生の痛みを癒してください。
・病を患っている方々、手術を終え、リハビリに励んでいる方々、激しい痛みに耐えている方々がおられます。主よ、それぞれの場で祈っている兄弟姉妹を守り、聖霊を注いでください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年9月29日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第65章21節~25節、新約 マタイによる福音書 第5章17節~20節
説教題「神の言を生きる」
讃美歌:546、19、190、451、542             

Ⅰ.主の年2019年のイースターは4月21日でした。その翌週からマタイによる福音書の御言葉を皆さんとご一緒に読んでおります。そして7月28日から「山上の説教」に入りました。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四福音書がありますが、マタイ福音書は「山上の説教」を第5章から第7章にまたがるほどに重んじます。
イエスさまの近くに寄って来た弟子たちに向かって、イエスさまは口を開き、弟子の生き方を真剣に教えます。イエスさまが真剣なら、弟子である私たちも真剣に耳を傾けたい。そして、「山上の説教」に触れるたびに、イエスさまに従い、「神の言を生きよう!」と決心するのです。
「決心する」と言われると、皆さんの中には窮屈に感じる方がおられるかもしれません。しかし、「山上の説教」を貫く、キリストの十字架の愛と叫びが聞こえると、キリストに従うことは、決して窮屈ではなく、キリスト者として当然の生き方、恵みに満ちた生き方に思える。特に、今朝の第5章17節から20節の御言葉は、「山上の説教」の中でも重要な御言葉、キリストの弟子である私たちの生き方を説く決定的な御言葉なのです。

Ⅱ.イエスさまは、弟子たちに心を込めて教えます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」「律法や預言者」は、旧約聖書を意味します。イエスさまは教えるのです。「私は、神の言を完成するために来た。だから、あなたがたは日々、神の言を心に刻み続けなさい。一つも疎かにしてはならない。最も小さな掟を一つでも破るなら、天の国で最も小さい者と呼ばれる。」
イエスさまの時代、弟子たちや群衆はイエスさまのお言葉を自分たちに都合よく理解したのかもしれません。私たちもそのような罪を犯すことがあります。預言者たちが語ってきた「裁かれる神さま」に対し、イエスさまが語るのは「愛の神さま、憐れみ深い神さま」であると。結果、イエスさまのお言葉を単純に考え、「私たちを縛り続けた旧約聖書の掟は廃止される!」と勘違いしたのかもしれません。確かにイエスさまは、長い歴史の中で律法学者やファリサイ派の人々によって歪められてきた「律法主義」からは自由でした。
しかし、「無律法主義」ではありません。イエスさまは、神さまの前における正しさ、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義を十字架で示されたのです。そのことを私たちは忘れてはなりません。それでも、キリストの弟子である私たちも「無律法主義」に陥る危険を孕んでおります。「主の十字架によって、何をやっても赦される。主の十字架によって、律法を遵守する必要がなくなった。」確かに、十字架の赦しは完全な赦しです。だからと言って、どっぷりとぬるま湯に浸かり、御言葉に耳を塞ぎ、御言葉に生きることを怠るなら、「決して天の国に入ることができない。」とイエスさまは警告しておられるのです。

Ⅲ.イエスさまは、今を生きるキリストの弟子である私たちにも決心を迫っております。私たちも愛する人に決心を迫るときがあります。それは、その人を本気で愛するからです。「まあ、この程度でいいか。あなたの人生。これ以上、決心を迫って嫌われるより、そこそこの関係も悪くない。」皆さんもこのような感情を抱いたことがあるはずです。反対に、「今、決心を迫らないと、この人は救われない。」と本気でその人の将来を憂い、「何としても救いたい!」と願うなら、愛するが故に、決心を迫ることがあると思うのです。ましてイエスさま。真の神さまであるにもかかわらず真の人となり、日々、十字架の上から溢れる愛を私たちに注いでおられる。
イエスさまは、どう逆立ちしても天の国に入ること、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義に生きることのできない私たちに代わって、十字架の上で父なる神さまの呪いを受け、私たちの罪を引き受けてくださった。そして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫び、息を引き取られた。そこまでして罪の私たちに天の国へのパスポートを無条件で与えてくださった。その結果、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさるキリストの義に生きる者としてくださったのです。
私たちはそれほどまで神さまから愛され、特別な存在として、地の塩、世の光とされた。であるなら、私たちはキリストの光を人々の前に輝かせたい!と願い、心の底からキリストのように生きたい!となるのです。
イエスさまは私たちに問うておられます。「あなたは私の十字架を不安な心を紛らわせるためだけに利用していないか?私の義(ただし)さに生きることを諦めていないか?私の溢れる恵み(罪の赦し、永遠の命)を日々、心に刻んでいるか?神の言を生きているか?」
イエスさまの問いに「私は、不安を紛らわすためだけに十字架を利用してはおりません。私は、イエスさまの十字架、イエスさまの叫びを常に心に刻み、キリスト者として恥ずかしくない歩みを続けております」と胸を張って言える人はおそらく誰もいないと思います。
 しかし、キリストの弟子である私たちは、キリストのように考え、キリストのように語り、キリストのように生きることを神さまから、真剣に求められている。イエスさまに妥協はありません。イエスさまは、私たちを愛するが故に、私たちが神さまの言を生き、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義に生きることを日々、求めておられるのです。

Ⅳ.イエスさまの弟子である私たち、神さまの言、神さまの義に生きたい!と願う。そのとき、キリスト者としての戦いが生まれます。イエスさまの期待に応えられない自分との戦い。この世を闇が支配しているとしか思えない心との戦い。そのとき、私たちは戦いに疲れ、戦いを諦めてしまう。「どうせ私は罪人。努力しても無駄。しかも、この世は闇に支配されてしまっている。」
しかし、そのようなときこそ、耳を澄ませ、十字架を見つめたい。すると、聞こえてくる。イエスさまの祈りが。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(「杯」は、イエスさまの十字架の死を意味します)しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」耳を澄ませ、十字架を見つめたい。すると、聞こえてくる。イエスさまの大声の叫びが。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
イエスさまは、そこまでして私たちにキリストの義に生きる道を備えられた。イエスさまは、そこまでして私たちを天の国へ招き入れてくださったのです。
キリストの弟子である私たちは、すでに天の国に生かされております。それなのに、悪魔の支配に引き戻されてしまうときがある。イエスさまの苦しみ、大声の叫びを忘れ、「どうせ私は」と諦める。そのような私たちが、イエスさまの愛と赦しを信じ、イエスさまの義に生き、天の国に戻るために、何をすればよいのか?神さまを礼拝し、悔い改めの祈りをささげ、十字架と復活、そして再臨のイエスさまを賛美するのです。そのとき私たちは、「イエスさまの義に生きたい!」と願うようになる。「御言葉に耳を傾け、神の言を生きることが私の恵みであり、喜びです!」と神さまに感謝するようになるのです。
たとえ、イエスさまのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられても、私たちは幸いであり、大いに喜べる。イエスさまの義に生きられる。なぜか?すでにイエスさまから天の国へのパスポートを与えられ、イエスさまと共に天の国に生きているから。
キリストの弟子である私たちも、イエスさまのように父なる神さまを愛し、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れる。そのとき、私たちも律法学者やファリサイ派の義にまさるキリストの義、神の言を生きることができるのです。


<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・礼拝後、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)の活動報告を伺います。大切な愛の業を担っておられるJOCSの働きをこれからも支え、導いてください。主よ、全世界の人々の健康といのちが守られるよう、聖霊を注いでください。
・台風や大雨で甚大な被害を受け、今も困難な生活を強いられている方々の上に主の慰めをこれからも注いでください。
・10月20日の秋の特別伝道礼拝を存分に用いてください。全身全霊を注ぎ、説教を担ってくださる加藤常昭先生のご準備の上にあなたさまのお導きを祈ります。どうか、加藤先生の痛みを完全に癒し、再び立ち上がることができますよう聖霊を注いでください。
・病を患っている方々、手術を終え、リハビリに励んでいる方々、激しい痛みに耐えている方々がおられます。主よ、それぞれの場で祈っている兄弟姉妹を守り、聖霊を注いでください。
・本日の午後、第1回バザー委員会が行われます。11月10日の家族礼拝、午後のバザーをお導きください。
・来週の礼拝後、T兄弟、T姉妹の転入試問会を予定しております。祈りつつ転出を御心と信じ承認された荻窪清水教会の歩みをこれからもお導きください。主よ、T兄弟、T姉妹の転入があなたさまによって承認となりますよう、お導きください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 


2019年9月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 箴言 第2章1節~22節、新約 マタイによる福音書 第5章13節~16節
説教題「あなたは地の塩、世の光」
讃美歌:546、71、391、447、541        

Ⅰ.今朝、私たちに示されたマタイ福音書の御言葉は良く知られている御言葉の一つです。9月14日に執り行われたMさんのご葬儀でも、Mさんの愛唱聖句の一つでしたので、「地の塩、世の光」を語りました。皆さんの中にも「地の塩、世の光」を大切にしている方がおられるはずです。だからこそ確認したいのですが、イエスさまは「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい」ではなく「あなたがたは地の塩、世の光である」と語っておられます。イエスさまを救い主と信じ、洗礼を受けたキリスト者は皆、「地の塩、世の光である」とイエスさまは語っておられるのです。
では、地の塩とは何を意味する言葉でしょうか?「地の塩」。何気なく使っています。でも、よく考えると不思議な言葉です。まったく聖書の知識のない方から「すみません、ぜひ教えて欲しいのですが、『地の塩』って、何ですか?」と質問されたら、皆さんはどう答えるでしょうか?「いや~、私もわからないのです」と答えるかもしれません。あるいは、「イエスさまが『山上の説教』で語っていることは知っていますが、『地の塩』って何ですか?と質問されると、難しいな~。地は地上。塩は、舐めるとしょっぱい塩。う~ん、どういう意味だろう?」。もしかすると皆さんの中にも「地の塩」があやふやな方がおられるかもしれません。
 聖書の舞台であるパレスチナ地方では、「地の塩」という表現は具体的な表現になります。パレスチナ地方では、土の質を良好にするために土に塩を混ぜることがあるようです。塩が土に混ざることで良質な土となり、農作物が豊かに育つというのです。
ある神学者は、「地の塩」を理解するため、日本人なら漬け物の塩を考えるとわかりやすいと語っております。白菜を漬け物にするときに塩を入れる。私も白菜の漬物は大好きです。白菜を漬けるときの塩には大切な役目がある。一つは味を豊かにする。もう一つは腐敗を防ぐ。塩には、腐敗を防ぐ役割がある。大きな桶に漬け物をつけるとき、白菜はたくさんです。それに対し、塩は少しだけ入る。でも、その塩が大切であり、塩が入ることで大量の白菜は腐ることなく、美味しくなる。そう考えると、キリスト者は地の塩であるという意味がわかります。

Ⅱ.実際、私たちがこの世で出会う人々はほとんどがノンクリスチャンです。ちなみに、『キリスト教年鑑2018年度版』を確認すると、日本では人口の0.78%しかキリスト者がおりません。99.22%の白菜である日本人に、0.78%の塩であるキリスト者が存在している。でも、そこに深い意味があり、キリスト者がこの国の方々とかかわること、塩としてキリスト愛、キリストの赦しを味わって頂くことはとても大切であることは申すまでもありません。
 但し、上から目線はいけません。「皆さんの中に、塩である私がいないと、皆さんは腐ってしまう」と語るなら、地の塩ではありません。溶けにくい岩塩のように、この国の方々から「キリスト者は異質」と避けられてしまうでしょう。
確かに今、キリスト者だからと言って迫害されることはありません。しかし、マタイ福音書が執筆された時代(紀元80年以後)、原始キリスト教会は激しい迫害に苦しんでおりました。「十字架と復活のイエスさまを救い主と信じます!」と信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者。その結果、迫害を受け、命の危険を感じるようになった。だからこそ、福音書記者マタイはイエスさまの御言葉「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」を通して迫害で苦しんでいるキリスト者を励ましているのです。

Ⅲ.ここで、私が経験した二つの出来事について語りたいと思います。一つはサラリーマン時代のこと、一つは神学生時代のことです。初めにサラリーマン時代のこと。高3年の秋に受洗し、地の塩、世の光となった私。大学を卒業し、銀行に就職しました。日曜日は休みですから、教会に通うことは出来ました。けれども、配属されたすべての支店にキリスト者は一人もおりませんでした。そのような職場の方々に日曜日に教会に通うことを伝え、理解して頂くことはなかなか難しいことでした。そのような銀行員時代、夏の休暇に群馬県草津にある元ハンセン病患者の療養所に家族でまいりました。そのとき、元ハンセン病患者の桜井哲夫さんから、このように言われたことを今朝の御言葉を通して思い出したのです。「旦那さん、あなたのような人が銀行という組織にいることに意味があるのです。」その方がしみじみと語ってくださった情景、今でもはっきり記憶しております。なぜか?嬉しかったのです。「そうか、そうなのか」と心に深く響いたのです。その方は私に能力があるから意味があるとは語っておりません。地の塩であるキリスト者が金融という利益最優先の組織で働いている。そこに神さまの深い思いがあると語ってくださった。そのとき、「なかなか出世できない私が銀行にいていいのだろうか?」と悩んでいた私を「あなたは地の塩、世の光なのだから、あなたらしくイエスさまの愛と赦しを日々の生活を通して証しすればよい」と励まして頂いたと今朝、強く感じたのです。
桜井さんはハンセン病を患い、言葉に出来ないほどの痛みを経験されました。しかし、痛みを通して神さま、イエスさまへの信仰が与えられ、カソリックのキリスト者となったのです。桜井さんも、地の塩、世の光として神さまの愛と赦しを最後まで明るく輝かしたと信じます。少なくとも私たち家族は毎年夏に桜井さんと再会すると、本当に元気になり、大きな力を頂き、また一年、地の塩、世の光として歩むことができたのです。
 もう一つは神学生時代の出来事です。東京神学大学では学部4年になると、夏の教会実習が行われます。近隣の教会で実習する神学生もおりますが、私は最初の実習を四国西南地区にある六教会で経験することになりました。一週間に一つの教会、それが六週間。合計六つの教会で説教するのですから、四国に遣わされる直前、不安はピークとなりました。遣わされる直前、母教会である鎌倉雪ノ下教会の主日礼拝後に当時の東野尚志牧師が紹介してくださり、瀬谷寛 副牧師が心を込めて祈ってくださいました。瀬谷牧師のお祈りから励ましを頂きましたが、忘れられないのは、東野牧師の一言です。私が挨拶で、「毎週の説教が不安です。神学生である私が説教することは教会員の皆さんに申し訳ない気持ちです」と挨拶したところ、東野牧師から怒られたのです。「そのような心は傲慢です。神さまが四国の教会にあなたを遣わすのです。それなのに『私のようなものが』と発言することは神さまを否定することになる。大丈夫です。神さまが遣わすのですから、神さまが責任を担ってくださいます。安心して、御言葉を語ってきてください」。私は大勢の教会員の前でビシッと指導を受けたのです。
 私は今朝の「地の塩、世の光」を読み、思い起こしました。「確かに、神学生であっても、神さまから愛の光を注がれている。そのような神さまの光を感謝して語ればよいのだ。私は立派ではない。けれども、そのような私を地の塩、世の光として神さまは用いてくださる。それなのに、『私のような神学生が』と謙遜ぶるなら神さまは深く悲しまれる」と教えられたのです。
イエスさまは今朝も語ります。「『あなたは地の塩、世の光になれ』ではない。『あなたは地の塩、世の光』である。塩であるあなたは、私を知らない隣人の中で生きよ。光であるあなたは、光らしく、神さまの光を照らし、輝かせよ。すでにあなたは地の塩、世の光。私に従って生きるあなたは、立派な地の塩、世の光なのだ。」

Ⅳ.今朝は、旧約聖書 箴言第2章を朗読して頂きました。第2章を一言で纏めるなら、神さまの御言葉に耳を傾け、神さまの救いを祈り続ければ、神さまは、信じる者の道を備え、その道を守り続けてくださるとの教えです。
イエスさまも今朝の御言葉を通し、私たちを励ましておられます。「あなたは、洗礼によって地の塩、世の光となった。だから、『私は地の塩、世の光になれるだろうか』と不安にならなくてよい。不安になり、輝く炎の上に枡をかぶせて炎を消すな。輝く炎を燭台の下に隠すな。堂々と燭台に置きなさい。それでも不安なら、祈りなさい。『主よ、あなたは私を地の塩、世の光としてくださいました。感謝致します。主よ、これからもあなたの愛で私を照らしてください。聖霊を注いでください。私も、照らされる神さまの光を隠さず、この地、この世に輝かせます。主よ、どうか私を通し、一人でも神さまを礼拝する方が与えられますように』。」
私たちは日々、「主よ、地の塩、世の光としてこれからも導いてください」と祈る。それでよいのです。自分で頑張って、歯を食いしばって塩であろう、光であろうとする生き方は、かえって、私たちを輝かせてくださる神さまの光を消すことになる。「私が立派な行いですか?それは無理です・・・」も、謙遜なようで、私たちを照らす神さまの光に枡をかぶせ消すことになるのです。箴言の御言葉にもあるように、まことに神さまに全てを任せ、全てを委ねるとき、神さまが様々な試練と戦ってくださる。語るべき言葉を与えてくださるのです。「あなたは地の塩、世の光」と宣言してくださったイエスさまが、私たちの道を永遠に保証してくださるのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・10月20日の秋の特別伝道礼拝を用いてください。説教を担ってくださる加藤常昭先生の心身のご健康をどうぞおまもりください。
・病を患っている方、手術を終え、術後の快復を祈っている方、自宅で療養を続けている方、様々な痛みに耐えている方が大勢おられます。主よ、それぞれの場で祈りを合わせている兄弟姉妹を守り、聖霊を注ぎ続けてください。
・来週は、バザー委員会が行われます。11月10日に予定している家族礼拝、そしてバザーをどうぞお導きください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年9月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第35章1節~10節、新約 マタイによる福音書 第5章10節~12節
説教題「わたしたちはキリストのもの」
讃美歌:546、16、161、321、540           

Ⅰ.先ほど、O姉妹の転入会式が執り行われました。心より嬉しく思います。転入会式では、O姉妹と教会員の皆さんに、主の栄光をあらわすことを誓約して頂きました。
 信仰を告白し、洗礼を受けた者は、キリストのものとなります。キリスト者が神さまに期待されることはただ一つ。与えられた賜物を用いて、主の栄光をあらわし続けることです。もしかすると、皆さんの中に不安を感じている方がおられるかもしれません。「主の栄光をあらわし続けることができるだろうか?特別な賜物があるわけではないし。」でも安心してください。主の栄光を一人であらわし続けるのではないからです。そうです。私たちはキリストのものですから、キリストと共に神さまの栄光をあらわし続けるのです。
 キリスト者は、神さまの義(ただし)さ、神さまのご支配の中をキリストと共に歩む者です。イエスさまに「私」を明け渡し、神さまの義を行う、神さまの国を建設する、平和を造る、神さまの支配を世に拡げる、神さまの愛をこの世に実現する、神さまの道具となり、神さまに用いて頂く。それがキリスト者の生き方です。つまりキリスト者である私たちの心も身体もキリストと一つになる。私たちの手がキリストの手となり、私たちの足がキリストの足となり、私たちの目がキリストの目となり、私たちの耳がキリストの耳となり、私たちの口がキリストの口となる。それがキリスト者の生き方です。
 ところで、キリスト者として神さまの栄光をキリストと共にあらわすことは幸いなことでしょうか?それとも苦しいことでしょうか?私は、どちらもだと思います。「えっ、どちらもですか?イエスさまは『義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。』と語っておられます!つまり、キリスト者として神さまの栄光をあらわすことは幸いであり、喜びではありませんか?苦しいことなど何一つないのではありませんか?」確かにイエスさまは、「義のために迫害される人々は、幸いである」「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。」と語っておられます。
しかし、どうでしょう?もしも皆さんが神さまの義のために迫害されたら?神さまの栄光をあらわすべく、イエスさまの愛、赦し、復活、再臨を伝道したために、ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられたら?皆さんは耐えられるでしょうか?迫害され、ののしられ、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられることは厳しい試練であり、身も心もボロボロ、ズタズタになります。
確かに今の時代、キリスト者だからと言って、火あぶりの刑、水責めの刑で処刑されることはありません。しかし、教会の働きに熱心になればなるほど、家庭や職場、さらに近隣の方々から冷たい目で見られることがあります。
 現代を生かされているキリスト者も、目に見える敵、あるいは目に見えない敵と戦っているのかもしれません。キリスト者として誠実に歩んでも、教会に属しているだけでののしられ、礼拝を厳守することで悪口を浴びせられるときがある。そのような私たちにとって、今朝のマタイ福音書の御言葉は驚くべき福音です。なぜなら、どんなときも私たちと共に生きてくださるイエスさまが語った御言葉だからです。私たちが歯を食い縛り、イエスさま抜きで「苦難があっても喜べる」と語るのではなく、幸いの源、喜びの源であるイエスさまが「幸いである」、「喜べる」と宣言なさった。だからこそ、私たちは幸いであり、喜べるのです。
 イエスさまは真の神さまであり、真の人です。イエスさまは山上の説教を語りつつ、すでに覚悟を決めておられた。「神の義を成し遂げるため、私は迫害を受ける。あなたが耐えることのできない迫害、ののしりの言葉、身に覚えのないことでのあらゆる悪口、そのすべてを引き受け、私は十字架で死ぬ。その瞬間、あなたの罪は赦される。だから、あなたは幸いであり、喜べる。確かに、私と一つとなったあなたがキリスト者としてこの世で生き、主の栄光をあらわすなら、迫害されることもあるだろう、ののしられることもあるだろう、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられることもあるだろう。そのことは辛いし、悲しいし、悔しいだろう。それでも、あなたは喜べる。なぜか?私と同じ痛み、同じ悲しみを経験したから、それは幸せなことであり、喜びである。なぜか?私は復活によって死に勝利した。迫害、のののしり、すべての悪口に勝利したのだ。だからあなたも喜べる。喜びおどれるのだ。」

Ⅱ.今朝は、旧約聖書イザヤ書を朗読して頂きました。預言者イザヤもイエスさまが語るように迫害された。しかし、迫害の中だからこそ、神さまを喜ぶのです。第35章1節「喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ」2節「大いに喜んで、声をあげよ。」6節「口の利けなかった人が喜び歌う。」10節「とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。」
イザヤの喜びは、イエスさまが語っておられる喜びに繋がります。イザヤは、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるときであっても喜ぶ。つまり、何の憂いもないから神さまを喜ぶのではないのです。
イザヤが見つめる現実は、悲しみも憂いもない穏やかな草原ではありません。見つめるのは「荒れ野」であり、「荒れ地」であり、「砂漠」です。「熱した砂地(すなじ)」であり、「乾いた地」であり、「山犬がうずくまるところ」。つまり、人々が安心して生きることの難しい、憂いに満ちた地。さらに、そのような地で生活している人々の手は弱り、膝(ひざ)はよろめき、心はおののき、目は見えない、耳は聞こえない、そして歩けない。だからこそイザヤは、救い主を待ち望み、民を励ますのです。4節。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
 私たちは救い主キリストを信じるものです。そうです。迫害の中にあっても喜べる!と語ったイザヤの預言がキリストにおいて成就したと信じる者です。そうであるなら、私たちは幸いであり、大いに喜ぶことができるのです。

Ⅲ.主の年2019年も9月中旬となりました。本当に一年の流れは早いです。先週は月曜日に東京神学大学学長の大住雄一先生のご葬儀がありました。芳賀力先生が心を込めて式辞を語ってくださり、忘れることのできない2019年9月9日となりました。そして昨日、M兄弟のご葬儀が執り行われました。
お二人のキリスト者。生まれた日、召された日、歩まれた道は全く違います。それでも先週、お二人の歩みを心に刻みつつ、強く感じたのです。「お二人も、主のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられた日があったかもしれない。しかし、だからと言ってお二人のご生涯が嘆きと悲しみのご生涯であったとは思えない。その反対。キリストにあって、喜びと祝福に満ちたご生涯であった。」
 喜びの源はキリストです。たとえ苦しい試練に襲われても、たとえ重い病に冒されても、すべてキリスト者として経験する。キリスト者として経験するのですから、キリストも経験しておられる。この事実こそ私たちの希望であり、喜びであり、誇りです。転入されたO姉妹を含め、すべてのキリスト者が経験する義のための迫害、苦しみ、身に覚えのないことでのあらゆる悪口をイエスさまはすべて私たちと共に経験しておられる。いや、私たちに先立って経験しておられるのです。
キリスト者として誠実に歩み続けることは、この世との戦いです。ときに、この世の論理に敗れ、神さま、イエスさま、教会、聖書から離れてしまう日があるかもしれない。でも、私たちが離れてしまったと思っても、イエスさまは私たちを離れることはありません。離れるどころか、見捨てることも、見放すこともない。どんなときも私たちと共におられ、私たちと共に苦しみ、嘆き、涙を流してくださる。信仰を告白し、洗礼を受けた者は、イエスさまのゆえに神さまの愛から引き離されることはないのです。
イエスさまは、常に私たちの先頭に立って進んでおられます。イエスさまは、誰よりも激しくののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられ、十字架で殺されたのです。しかし、イエスさまは誰をも呪うことなく、迫害する者のために執り成しを祈った。さらに私たちの罪を赦すべく、十字架の死を成し遂げられたのです。これほどまでのイエスさまの義(ただし)さに、神さまは復活をもって応えてくださった。イエスさまは甦られた。結果、神さまの愛がすべての死に勝利したのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・昨日、M兄弟のご葬儀が執り行われました。悲しみの中にあるK姉妹、ご遺族さまにあなたさまが寄り添い、慰め続けてください。お願いいたします。
・本日、O姉妹の転入会式が執り行われました。深く感謝いたします。これからもO姉妹の歩みをしっかりとお支えください。O姉妹を洗礼へと導き、祈り続けてくださった五日市伝道所 細田隆牧師と兄弟姉妹の上に聖霊を溢れるほどに注ぎ続けてください。
・病を患っている方、手術を終え、術後の快復を祈っている方、自宅で療養を続けている方、様々な痛みに耐えている方が大勢おられます。主よ、それぞれの場で祈りを合わせている兄弟姉妹を守り、聖霊を注ぎ続けてください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年9月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第63章15節~19節、新約 マタイによる福音書 第5章9節
説教題「平和を造る」
讃美歌:546、75、236、421、539、427            

Ⅰ.今朝の御言葉のテーマは、ずばり平和です。イエスさまは、山上の説教で「幸いである」と繰り返し語っておられます。今朝は9節。「幸いである、平和を実現する人々は、その人たちは神の子と呼ばれる。」
皆さんは、どのように感じたでしょうか?「幸いだ、平和を実現する人々は」そうだ。平和を実現する人は幸いな人。その人は、神さまの子どもと呼ばれる。
 あるいは、このように感じたかもしれない。「幸いだ、平和を実現する人々は」そうだ。平和を実現する人は幸いな人。ところで、平和を実現する人はどんな人?ノーベル平和賞を受賞した人?無抵抗を貫いた人?そのような人は幸いであり、神さまの子どもと呼ばれるのか?
 新共同訳聖書は、「平和を実現する人々」となっておりますが、以前の口語訳聖書は「平和をつくり出す人たち」。昨年の秋に出版された聖書協会共同訳では「平和を造る人々は」と訳されております。つまり、「幸い」なのは、「平和をつくり出す人たち」であり、「平和を造る人々」です。
「平和を造る人々」。絵に描いた餅、机上の空論ではなく、自分の手で平和を造り出す人をイメージします。ご一緒に考えたい。イエスさま抜きで、自分の手だけで平和を造り出すことができるでしょうか?自分の手だけで平和を造ることが無理難題なのは、人類の歴史が物語っております。いや、人類の歴史を紐解くまでもなく、日常生活を振り返って見ればすぐにわかります。
昨日の行動を思い起こしたい。朝 起床し、夜 床に就くまで、私たちの口は挨拶を交わすことすらもったいぶらなかったか?微笑みをケチらなかったか?困っている人を見ても、見ぬふりをしていたのではないか?そのような自分を棚に上げ、誰かの態度に腹を立て、誰かの一言に反発し、誰かの陰口を仲間と囁き合いはしなかったか?
昨日の行動を振り返るだけでも、自分の手だけで平和を造ることの難しさを思い知らされます。イエスさまから「あなたは幸い。おめでとう」と祝福して頂ける私ではない。「神の子」と呼ばれる資格などあるはずがない。どうしてもネガティブに考えてしまいます。

Ⅱ.ところがです。イエスさまは言われるのです。「私を受け入れ、私を信じ、私に従って生きる者たちは皆、神さまの子どもであり、平和を造り出せる。」
確かに、私たちは日々の祈りにおいて、「天の父なる神さま」と神さまを「父」と呼んでいます。神さまを「父」と呼べるのは、神さまの子どもだけ。つまり私たちは、日々の祈りを通し、神さまの子とされた喜びを心に刻み続けている。たとえ、「私は平和を造り出すことは不可能」と判断しても、日々の祈りを通し、「天の父なる神さま」と祈っているなら、私たちは神さまの子どもであり、神さまの子どもであるなら、幸いな人であり、平和を造り出す人となるのです。これは驚くべき恵みです。
つまり、平和を造り出す人は、イエスさまを信じ、イエスさまと結ばれた人。イエスさまは神さまの子ども。イエスさまは真の神さまでありながら、真の人になってくださった。イエスさまを救い主と信じ、信仰告白し、受洗した人はキリストの者となる。キリスト者は、キリストと同じように神さまの子どもとなる。だから、「父なる神さま」と安心して祈ることができるのです。
私たちは、イエスさま抜きで平和を造り出すことは出来ません。たとえ一日であっても、平和に生きることは難しい。だから、イエスさまにすがりつく。信仰告白、洗礼によってイエスさまと一つにされる。そのとき、自力で平和を造り出すことが難しくとも、永遠に私たちと歩んでくださるイエスさまが平和を造り出してくださる。結果、私たちもイエスさまと一緒に平和を造ることができるのです。

Ⅲ.イエスさまは平和を愛し、平和を造り、平和の君、和解の君として十字架の死を成し遂げられました。
イエスさまは、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆を憐れんだ。また、唾を吐き、鞭で叩き、「神の子なら、今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやる」と嘲笑った兵士を赦された。さらにイエスさまは、十字架の死を通して、父なる神さまと私たちを和解させ、真の平和を獲得してくださった。まさに、イエスさまは平和の君です。
神さまが平和を喜び、イエスさまを復活させられた。そうであるなら、洗礼によってイエスさまと結ばれた私たちも平和を造り出せる。神の子と呼ばれるのです。

Ⅳ.今朝は旧約聖書イザヤ第63章15節以下を朗読して頂きました。イザヤ書第63章の特徴は、預言者イザヤの嘆きと訴えが、段々と深められ、救いの神さまに肉薄する祈りへと変わっていくことです。
 「どこにあるのですか/あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしに示されません。(15節)」
 イザヤは、神さまに遠慮することなく「どこにあるのですか」と嘆く。その嘆きが祈りになる。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの嗣業である部族のために。(16〜17節)」
イザヤの嘆きが、神さまへの信頼の祈りへと深められております。私たちも父なる神さまに、「平和を造り出すのは困難」と開き直るのではなく、「父なる神さま、洗礼によって御子イエスさまと私は結ばれました。主よ、平和の道具として私を用いてください。主よ、神さまの力、イエスさまの力、聖霊の力を日々、注ぎ続けてください!」と祈り続けたい。
大切なのは、神さまを100%信じ、自分を明け渡すこと。すべてを御手に委ね、「主よ、あなたさまの平和の道具として用い続けてください」と祈ること。その結果、私たちも幸いな者とされ、平和を造り出し、神さまの子と呼ばれるのです。

Ⅴ.最後に、クリスマスやイースターの愛餐会で賛美する聖フランチェスコの「平和の祈り」を紹介させて頂きます。イタリア アッシジのフランチェスコは、裕福な商人の長男として生まれました。贅沢な生活を謳歌していた。しかし、戦争とハンセン病患者との出会いをきっかけに、イエスさまと貧しい人々への愛に目覚めた。まさにイエスさまと出会い、イエスさまと結ばれ、平和の道具として生きる決心を神さまに約束した。悲壮感漂う人生ではありません。その反対。何ものにも束縛されることなく、幸いな人生を全うしたのです。
 ちなみに、今朝の讃美歌はすべて平和がテーマです。最初の讃美歌75番は、フランスチェスコの作詞による讃美歌。4節に「たがいに助くる 心を賜いし」とある。説教前の讃美歌236番は教会建築で有名なウィリアム・ヴォーリズの作詞による讃美歌。4節に「いくさをなげうち、みわざにいそしみ、みかみのみやこを きずかしめたまえ」とあります。そして、説教後の讃美歌421番で神さまの平和を賛美します。
 混迷の時代を生かされている私たちも、フランチェスコの「平和の祈り」を祈り続けたい。心を込めて、「平和の祈り」を祈るとき、私たちもイエスさまによって平和を造り出せるのです。平和の祈り。「ああ主よ、私をあなたの平和の道具としてください/憎しみのあるところには愛を/罪のあるところには赦しを/争いのあるところには一致を/誤りのあるところには真理を/疑いのあるところには信仰を/絶望のあるところには希望を/闇のあるところには光を/悲しみのあるところには喜びを/私に もたらせてください/ああ、主よ、私に求めさせてください/慰められるよりも慰めることを/理解されるよりも理解することを/愛されるよりも愛することを/人は自分を与えてこそ受け/自分を忘れてこそ自分を見出し/赦してこそ赦され/死んでこそ永遠の命に復活するからです(小平正寿訳)」アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・教会員のM兄弟が昨日、天に凱旋されました。今週の土曜日の午後1時から教会で葬儀が執り行われます。奥さまをはじめ、ご遺族の皆さまの上に復活のイエスさまの慰めを注いでください。
・東京神学大学の大住雄一学長が先週の木曜日、天に凱旋されました。明日の正午から、東京神学大学チャペルで葬儀が執り行われます。大住学長のご遺族の皆さまの上に復活のイエスさまの慰めを注いでください。明日の葬儀では、芳賀力先生が学長代行として重責を担われます。芳賀先生のご準備の上に、神さまのお導きと聖霊の注ぎを心よりお祈り申し上げます。
・病を患っている方、手術を控えている方、手術を終え、術後の快復を祈っている方、自宅で療養を続けている方、激しい痛みに耐えている方が大勢おられます。主よ、それぞれの場で祈りを合わせている兄弟姉妹を守り、聖霊を注ぎ続けてください。
・本日礼拝後にO姉妹の転入試問会を行います。O姉妹に聖霊を注ぎ、明確に転入の意志をあなたさまに告白することができますようお導きください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年9月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第51篇15節~19節、新約 マタイによる福音書 第5章8節
説教題「心の清さの源」
讃美歌:546、14、217、21-81、514、545B            

Ⅰ.先週は夏の休暇を頂きました。それでも、長男は社会人となり横浜で仕事。次男も学校が始まり、家族5人で旅行に行くのは難しくなりました。
 釧路で伝道していた頃、夏の休暇は家族で道東の名所をドライブしました。その一つが「神の子池」。コバルトブルーの輝きは、今も心に刻まれております。「神の子池」は、摩周湖の近くにある小さな池です。アイヌの方々は摩周湖を「キンタン・カムイ・トー(山の神の湖)」と呼びます。神の湖 摩周湖と地面の下で繋がっているのが「神の子池」。大きな摩周湖を神とするなら、摩周湖と繋がっている小さな池は、神の子となる。池の周囲は220mですから小さな池です。水深も5m。池の底までよく見える。その「神の子池」に摩周湖からの伏流水が1日12,000tも湧き出ているのですから、澱(よど)むことなく、コバルトブルーに清く輝き続ける。
今朝のマタイ福音書の御言葉「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」の黙想を通し、青く澄んだ水が滾々(こんこん)と湧き出る「神の子池」を思い起こしたのです。

Ⅱ.イエスさまはおっしゃいます。「心の清い人々は、幸いである」。確かに、心の清い人々は、幸いです。しかし、心の清い人って本当にいるのでしょうか?少なくとも私の心は清いとは言えません。すぐに濁ってしまう。では、子どもならば清いのか?違います。子どもの心も濁ってしまう。子どもから大人まで、神さまの前に立ち、「私の心は清い」と言える人はいないのです。試練の突風が吹けば心が乱れる。また、怒りの日照りが続けば心が渇いてしまう。それでも、イエスさまは宣言するのです。「あなたの心は清い。青く澄んだ『神の子池』のように、神の愛が私を通ってあなたに流れているから。私と繋がっていれば、心が澱むことも、干上がることもない。」
 イエスさまの十字架と復活により、神さまと私たちは繋がった。結果、「心の清さの源」である神さまの愛が、イエスさまを通り、私たちに注がれている。驚くばかりの恵みです。
 イエスさまは続けます。「あなたがたは神さまと繋がった。私の十字架と復活によって。一人の例外もなく、あなたがたは神さまの清さに生かされている。私という水脈を通って、天の水源からの清く澄んだ水がすべての人の心から滾々と湧き出るのだ。」
 イエスさまの十字架と復活を信じる。そのとき、澱んで、濁ってしまう心も清くされる。罪を悔い改め、「すべてを御手に委ねます」と祈るとき、私たちの心も神さまを水源とする「清い心」へ変えられるのです。
 イエスさまを信じ、「イエスさまと共に歩みたい!」と真剣に祈る。そのとき、奇跡が起こる。天の水源から流れる清い水が、イエスさまを通り、私たちの心から湧き出るのです。

Ⅲ.確かに、天の水源から流れる清い水を私たちの罪で濁らせる日があります。それでも、罪を覆い尽くす清い水がイエスさまを通ってドンドン流れて来る。神さまが「あなたには清い水を流すことはしない!」とおっしゃることはないからです。なぜか?神さまからイエスさまへの愛の水は絶対に詰まらないから。たとえ、イエスさまから私たちへの愛の水を詰まらせることがあっても、聖霊が働く。結果、水の詰まりに気がつく。そのとき私たちは祈る。神さまを仰ぎ、イエスさまの十字架と復活を信じ、ひたすら祈り続けるのです。
「神さま、私は清い水を詰まらせました。濁らせました。お赦しください。」犯した罪にガツンと打ち砕かれ、「私は何て惨めなのか。なぜ、己の欲望に負け、惨めな過ちを犯してしまったのか」と祈る。神さまは、私たちの一途な祈りを侮(あなど)られることは絶対にないのです。
私たちなら、このように怒鳴ってしまうかもしれません。「今さら後悔しても無駄。あなたの罪を忘れることはない。あなたの『もう二度と罪を犯しません』に騙されることはない。あなたが犯した罪で、あなたが苦しむのは当然の報い。生涯、苦しみ続けるがよい」と徹底的に裁くかもしれない。しかし、神さまはそのような突き落とすことはなさらない。繰り返し過ちを犯しても、そのとき、そのとき、過ちを悔いるなら、その祈りを侮られることは絶対にないのです。

Ⅳ.今朝は、詩編第51篇を朗読して頂きました。姦淫を犯したダビデも、主の憐れみと罪の赦しを祈りました。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。(51:3~4)」
 ダビデは、欲望のままに犯した罪を悔い改め、祈り続けました。「(12節)神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。(19節)神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮(あなど)られません。」ダビデは信じた。「神さまは愛の神であり、赦しの神である。確かに、犯した罪を取り消すことはできない。けれども、神さまは打ち砕かれる心を侮られない。たとえ罪を繰り返し犯しても、神さまに悔いる心を届け続けるなら、神さまはその心を必ず清くしてくださる。」
ダビデは神さまの赦しをまっすぐに信じました。であるなら、イエスさまの愛と赦しと復活を与えられた私たちも「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」と安心して祈り続けてよいのです。

Ⅴ.今朝も私たちの前に聖餐の食卓が備えられました。イエスさまの裂かれた肉であるパンと、流された血潮である杯がある。まさに、天の水源から流れる神さまの愛と赦しがイエスさまを通って、私たちに注がれている。私たちは今、五感で感じるのです。聖餐のパンと杯を視る。手で触れる。耳で招詞を聴く。キリストの香りを鼻で嗅ぎ、舌で味わう。キリストと共に生かされている恵みを喜ぶ。「心の清い人々は、幸いである」を心に刻むとき、この幸いを知らない方々にいつの日か知って欲しい!味わって欲しい!と願うようになるのです。
 私たちは、努力しても清くなることは出来ません。清くなるには、神さまの愛と赦しと憐れみが不可欠。だからこそ神さまは、真の道を備えてくださった。悔い改めの道、命の道、赦しの道であるイエスさまを。
真の道であるイエスさまが語っておられる。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」
イエスさまは、私たちの目を見て語っておられます。「あなたの罪は赦された。確かに、あなたは犯した罪を後悔し、生涯、悔いるだろう。でも、恐れるな!ビクビクするな!心の濁りを見て絶望するな!私は、あなたのために十字架で肉を裂かれ、血を流した。聖餐に与るとき、私の肉と血潮があなたの中に入る。そのとき、あなたは清くされ、神の子の喜びに浸るのだ。日々、十字架の下へ帰りなさい。繰り返し祈りなさい。『主よ、憐れんでください。主よ、濁った心を清くしてください』と。あなたの祈りは神さまに届いている。あなたは清くされたのだ。」
聖餐の祝いに与るとき、打ち砕かれ、悔いる心を御前に献げます。神さまはその心を侮ることなく、大いに喜び、丸ごと受け入れてくださる。そして聖霊を注ぎ、私たちがイエスさまの十字架と復活、さらに再臨の恵みによって幸いであることを頭だけでなく、五感を通して教えてくださるのです。共に、感謝の祈りをささげましょう。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・病を患っている方、手術を控えている方、手術を終え、術後の快復を祈っている方、自宅で療養を続けている方、厳しい痛みに耐えている方が大勢おられます。主よ、それぞれの場で祈りを合わせている兄弟姉妹を守り、聖霊を注ぎ続けてください。
・九州北部での記録的大雨で甚大な被害を受けられた方々を守り、導いてください。今日も守られる礼拝を通し、主の慰めと励ましが被災地の皆さまに届きますよう祈ります。
・夏休みが終わり、新学期が本格的に始まります。不安と孤独を抱えている者をあなたの愛で包んでください。
・伝道の秋に入ります。求道生活を続けている方々に信仰を告白する勇気をお与えください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年8月25日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第51篇1節~14節、新約 マタイによる福音書 第5章7節
説教題「憐れみの中に生きる」
讃美歌:546、26、252、524、545A              

Ⅰ.私たちは皆、神さまの憐れみの中に生きるよう招かれています。なぜなら、神さまが私たちに求めているからです。「憐れみの中に生きて欲しい!辛いとき、苦しいとき、犯した罪に苦悩するとき、『主よ、憐れみたまえ』と祈って欲しい。私はあなたのすべてを知っている。だから憐れむ。だから御子を世に遣わした。御子イエスこそ、私の憐れみなのだ。」
私たちは、旧約聖書の時代ではなく、新約聖書の時代、イエスさまの時代に生きております。イエスさまは、神さまの憐れみです。イエスさまが生まれてくださった。イエスさまが十字架で死んでくださった。イエスさまが復活してくださった。イエスさまがいつの日か再び世に来てくださる。そのすべてが神さまの憐れみであり、驚くべき恵みなのです。
私たちは皆、神さまの憐れみの中に生きることができます。なぜか?イエスさまは、皆の救い主だから。イエスさまによって示された神さまの憐れみは、皆に注がれた恵みだからです。それなのに、神さまの憐れみを諦める日がある。「どうせ、神さまに『主よ、憐れみたまえ』と祈っても、何も変わらない」と思ってしまう。「あれだけ毎日、神さまに必死に祈ったのに、私の願いは叶わなかった。だから今も、悲しみの中にある。これ以上、『主よ、憐れみたまえ』と祈っても虚しい。神さまの憐れみを求めるより、『悲しみが癒されることはない』と諦め、生きていこう」と考えてしまうかもしれません。
しかし、イエスさまは語るのです。「幸いだ。憐れみ深いあなたは。あなたは憐れみを受ける。」そうです。イエスさまは、「幸いだ」と祝福を宣言された。さらに、「憐れみ深いあなたは、憐れみを受ける」と大いなる恵みを語るのです。
 
Ⅱ.改めて、イエスさまが私たちの目の前で語っておられると信じ、御言葉に耳を傾けたい。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」今、一つの「ことわざ」を思い浮かべた方がおられるかもしれません。「情けは人の為ならず」。岩波国語辞典にこうあります。「他人に親切にしておけば必ず自分にもよい報いがある。」もしイエスさまが、そのような意味で語ったならば、聖書を読まなくても、常識として知っていることです。
イエスさまは「他人に親切にすれば自分にもよい報いがある。」という意味で、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」と言われたのでしょうか?
また、「憐れみ」という言葉から受けるイメージは、どうしても「憐れみ」を受ける側の卑屈な表情と、「憐れみ」を与える側の上から目線が気になります。つまり「憐れみ」に対し、私たちの長い歴史によって歪められてしまった負のイメージを抱いてしまう。「施し、施される関係」、「支配し、支配される関係」が「憐れみ」という言葉からちらつきます。

Ⅲ.ご一緒に考えたい。イエスさまが「幸いだ」と言われる「憐れみ」の心は、自分よりも弱い立場の人に、「まあ、これくらいなら恵んであげてもいいかな?憐れみを与えれば、いずれ私にも憐れみが戻ってくる。」そのような「憐れみ」をイエスさまは「幸い」と祝福されるのでしょうか?
それは違います。イエスさまが「幸いである」と祝福した「憐れみ」の心は、ずばり、「愛」の心です。
私たちは何をするにせよ、語るにせよ、神さまから「そこに愛があるか?」と問われています。「余裕があるから、何か恵んであげよう」でなく、「見返りを求める」心でもなく、「愛」の心を期待されています。
何かをするとき、意見を言うとき、「そこに愛があるか?」と問われている。さらに神さまは問う。「あなたの愛は、相手を生かす愛か?」、「誤解され、反撃され、裏切られ、傷つくときも愛を貫けるか?苦しむ人と共に苦しみ、悲しむ人と共に悲しみ、相手の心に寄り添えるか?」神さまから問われています。

Ⅳ.実は、7節で「憐れみ」と訳された原語には、日本語の「憐れみ」が持つ「同情のような心」より、神さまと私たちとの契約を土台にした「憐れみ」の意味が強い。神さまと私たちとの契約を土台にした「憐れみ」は、次のような「憐れみ」です。
神さまは、救いの契約である「憐れみ」によって、敵からイスラエルを救い出す。捕囚から連れ戻し、国を回復させた。そこで神さまはイスラエルに対し、隣人への憐れみを求める。しかしイスラエルは、しばしば神さまの愛に背き、隣人への憐れみを忘れる。その結果、神さまはイスラエルを裁く。それでも神さまは、常にイスラエルに憐れみを注ぎ続ける。そのような「憐れみ」です。
先週の主日に、ご一緒に読みました第5章6節「義に飢え渇く人々は、幸いである」の「義」と7節の「憐れみ」は意味が重なります。神さまと人との義なる関係、人と人との義なる関係、正しい関係と「憐れみ」は切り離せない。「義」と「憐れみ」は一つなのです。私たち日本人の感覚では「憐れみにより、義を曲げる」、「目こぼしをする」との考えもありますが、イエスさまが語る「義」には、神さまの「憐れみ」があり、神さまの「憐れみ」が「義」を貫くのです。
私たちがどんなに義に飢え渇き、神さまの憐れみに値しない者であっても、神さまが真実で、義なる御方なので、神さまは救いの契約に基づき愛される。この愛が、イエスさまの考える「憐れみ」です。神さまの義、真実は、私たちの不義に左右されません。そうしたことから全く自由に神さまは、私たちの神さまであることを永遠に示してくださるのです。
私たちの行いによって、神さまの憐れみを受けるに価するか、しないかなど問題にならない。私たちが「主の憐れみは不要」と拒んでも問題にされない。神さまは、ひたすら私たちを追い続け、捕らえ、守ろうとする。それが神さまの憐れみ、神さまの愛、神さまの義、神さまが神さまである証なのです。

Ⅴ.イエスさまが「憐れみ深い人々は、幸いである」と語られた。そのとき、すべての者が神さまの憐れみに招かれました。憐れみに生きることができず、「そこに愛があるか?」との問いに途方に暮れるしかない私たちに、「あなたは、すでに神さまの憐れみ、神さまの義の中にいる。その恵みに気づいて欲しい!」とイエスさまはおっしゃる。つまり、「憐れみ深い人々」とは、私たちを生かす神さまのどこまでも深い憐れみを知っている人々。神さまから頂いた憐れみを感謝し、少しでも神さまにお返ししたい!と願う人々を「憐れみ深い人々」とイエスさまはおっしゃるのです。

Ⅵ.ところで、マタイによる福音書 第18章21節以下に、「仲間を赦さない家来のたとえ」があります。丁寧に語る時間はありませんが、「仲間を赦さない家来」は、王の憐れみにより、負債を帳消しにされたにもかかわらず、免じて頂いた借金の大きさを忘れた。だから、一万タラントンもの借金を免除されたにもかかわらず、僅か百デナリオンの借金をした仲間の首を絞め、「借金を返せ」と叫んだ。その結果、王に叱責されたのです。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。(18:33)」
私たちは家来を笑えない。憐れみの貧しさを身に沁みて知っている私たち。神さまに対し、また共に生きる隣人に対し、憐れみの貧しさを深く思いつつ、それでもなお、神さまの「憐れみの中に生きる」恵みを知っている私たちは、やはり幸いなのです。
 イエスさまは私たちに教えてくださいました。イエスさまは語ります。「私が真の愛を示した。真の愛、それは十字架の死であり、復活であり、再臨である。私のすべてが神さまの愛であり、憐れみなのだ。」
 イエスさまは、神さまの愛、憐れみを、十字架と復活、そして再臨の約束によって世に実現されました。結果、神さまの愛、神さまの憐れみが成就したのです。だから、私たちは「憐れみの中に生きる」ことができる。どんなときも、「主よ、憐れみたまえ」と祈ることができるのです。


2019年8月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第23章1節~8節、新約 マタイによる福音書 第5章6節
説教題「神様、あなたの義をください」
讃美歌:546、8、262、452、544                 

Ⅰ.8月は平和を祈る月です。先週の木曜、私たちは8月15日を迎えました。終戦から74年。確かに戦争は終わりました。しかし今も、自国の利益優先の争いが続いている。どうも、こちらから情報を求めていかないと、都合の悪い情報が規制されているように思える。2011年3月11日に発生した東日本大震災による福島第一原発事故も同じ。事故発生から8年が経過。もう放射線の影響が無くなったかのように、明らかに報道が規制されています。
 私たちは、神さまを畏れる心を失ってはなりません。神さまが創られた世を不義に支配させてはならない。
今、イエスさまから問われています。「あなたがたは上辺だけの平和に満足し、他者の痛みに鈍感になっていないか?」「父なる神さまが義なる存在として創造したあなたがたは今、何を求め、何をしようとしているのか?」「あなたがたは今、神さまの義に飢え渇いているか?」「神さまは、あなたがたに求めている。不義の世に抗(あらが)い、心の底から義に飢え渇く心を。」

Ⅱ.但し、勘違いしてはなりません。義を求める心は、「正義の味方」のように、自分の義しさを振りかざすことではありません。そのような心は、誰かを裁くことで満足する自分勝手な「義憤」に陥るからです。「あの人の罪を糾弾せねばならない!」と怒り、徹底的に潰しにかかる。
イエスさまが「幸い」と言ってくださるのは、そのような「義憤」ではありません。不義の世を誰かのせいにし、誰かを糾弾し、声高に誰かを裁く。その結果、「私は義しい!」と自己満足に浸っているようでは、幸いではないのです。
だからこそ私たちは、義に飢え渇きたい。神さまからの溢れる恵みを頂き、満たされるためには、心の底から神さまの義に飢え渇くことが大切なのです。
私たちは今、情報の洪水の中で生活しております。かつては新聞、ラジオ、テレビ等から情報を得ていた。しかし今は、スマホ、パソコンを通し、瞬時に情報を得ることができるようになった。しかも、情報を得るだけでなく、自分の意見を簡単に不特定多数の人に発信することが可能になった。発信した意見に共感を得られることもあれば、反発されることもある。その結果、それぞれのグループが対立。時に激しい言葉が飛び交う。そのとき、論争する人たちは、自己を冷静に見つめることを忘れ、「あの人は正しい!」と無条件に支持するか、「あの人は間違っている!」と徹底的に糾弾してしまう。
頭に血が上ると私たちは、イエスさま抜きには、神さまの義に生きることが不可能であることを忘れるのかもしれません。皆で罪を犯した人を糾弾する。その結果、罪を犯した人が何らかの処分を受ける。すると、次のターゲットを探し始める。そのとき、「私も日々、罪を犯している」との思いが消えている。とても恐ろしいことだと思います。
今朝、冷静になって、己の罪、弱さを見つめたい。「私は神さまの義に生きているか?」「『あの人は間違っている』と糾弾する前に、『私は神さまに喜ばれる義しさに生きている』と言えるだろうか?」
イエスさまの御言葉が思い出されます。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:3)」
イエスさまの指摘の通り。私たちは自分の目の中の丸太を忘れる。人の目にあるおが屑はよく見える。おが屑ですから、フッと息を吹きかければ飛んでしまうほどの過ちを追及し続ける。反対に、自分の丸太は忘れてしまう。だからこそ私たちは、聖書を読み、悔い改めを祈りつつ、目の中の丸太を思い起こすことが大切なのです。
私たちの丸太は何でしょうか?長いものに巻かれる心。自分の生活を最優先にする心。困っている人がいても見ようとしない心。自分にとって都合の悪い情報には耳を塞ぐ心かもしれません。
イエスさまは、私たちに「自らの弱さ、愚かな心をとことん知り、罪を認め、義に飢え渇いて欲しい!」と求めておられます。そうであるなら、キリスト者である私たちは遠慮なく祈りたい。「主よ、私は今、あなたの義を求める思いを失っております。主よ、御前に懺悔いたします。主よ、あなたの義をください。上辺だけの平和で満足してしまう私に、あなたの義に飢え渇く心を与え続けてください。」

Ⅲ.イエスさまは、義に飢え渇く私たちを憐れんでくださいます。だからこそ、「義に飢え渇く人々は、幸いである」と宣言するのです。イエスさまが責任を持って「幸い」を保証してくださった。その根拠が、イエスさまの十字架です。イエスさまは十字架の上で叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?神よ、あなたの義、あなたの救いを成し遂げてください!」
父なる神さまは、罪の私たちと義なる関係を結ぶため、御子の叫びに沈黙を貫いた。結果、御子は十字架の上で息を引き取られた。そして、沈黙を貫いた神さまは、御子を甦らせた。その結果、洗礼によって御子に結ばれた私たちは、神さまと義なる関係、真の救い、真の平和を得たのです。私たちは今、御子によって保証された「幸い」に満たされているのです。

Ⅳ.ところで、今朝は旧約聖書エレミヤ書を朗読して頂きました。エレミヤの時代も不義に覆われていました。エレミヤは、過去の伝統や将来の幻想にとりつかれている人々に、国家の滅亡を乗り越え、主なる神さまを信じ、生き抜く道を指し示した預言者です。エレミヤは、時代に迎合することなく、だからといって時代に絶望することなく、主が南王国ユダに「正義と恵みの業を行う。」と、神さまからの預言を誠実に語り続けたのです。
今朝の第23章5節、6節には、来るべきメシヤ、御子イエス・キリストの預言が書かれております。エレミヤは5節で、メシヤを「正しい若枝」と呼び、「正義と恵みの業を行う」王として描いております。そして6節。「彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる。」ですが、原文通りに翻訳すると、「ヤハウェは我らの義」となる。ちなみに、昨年の秋に出版された聖書協会共同訳は、「主は我々の義」となっておりました。エレミヤは、「不義が蔓延し、正義のない世において、主ご自身が私たちの義となる」と預言した。私たちキリスト者は、このエレミヤの預言が、主イエス・キリストによって成就したと信じるのです。

Ⅴ.神さまは、義に飢え渇く私たちのために、不義の世を深く憂い、真の神であるイエスさまを私たちにくださいました。それまでは、神さまと私たちの間には、とてつもなく深く、大きな崖(がけ)のような岩の裂け目のような溝があった。その溝がある限り、私たちはどんなにもがいても、どんなに自らの力で義を全うしようとしても、どうしても神さまと繋がることができなかった。しかし、神さまが私たちの不義を深く憐れみ、大切な御子を私たちに与え、溝を繋いでくださった。イエスさまは十字架の死をもって私たちを神さまの前に連れて行ってくださった。その結果、義に飢え渇く私たちは、神さまの前に義なる者として、立つことができるようになった。飢え渇いた心が御子によって満たされたのです。イエスさまが神さまと私たちの間に義を築いてくださった。神さまと私たちの深い溝を繋ぐように、御子は自ら倒れるように十字架という架け橋で神さまと私たちとを結んでくださった。これほどの幸いはありません。

Ⅵ.私たちが神さまの義を頂くためには、イエスさまの義が不可欠。神さまと私たちが義なる関係、正しい関係、平和なる関係を結ぶため、真の神であり、真の人であるイエスさまが、一粒の種となって死んでくださった。その結果、私たちが神さまの義に飢え渇くなら、神さまは私たちの飢え渇きに御子という種を蒔き、聖霊という水を注ぎ、御子と共に私たちの信仰を育んでくださる。その結果、御子の十字架、罪の赦し、復活の命、再臨の希望によって、私たちの飢え渇きは、必ず満たされるのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・病を患っている方、手術を控えている方、手術を終え、病院で術後の快復を祈っている方、自宅で療養を続けている方、厳しい痛みに耐えている方が大勢おられます。主よ、それぞれの場で祈りを合わせている兄弟姉妹を守り、聖霊を注ぎ続けてください。
・主よ、あなたさまの平和をもたらしてください。様々な地域で争いがあり、テロもあります。悲しみの涙が流されています。主よ、義に飢え渇く私たちを深く憐れみ、あなたさまの愛と聖霊で満たしてください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注いでください。特に、連日の猛暑で体調を崩している方々を憐れみ、聖霊を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年8月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第1章27節~31節、新約 マタイによる福音書 第5章5節
説教題「柔和に生きる」
讃美歌:546、90、125、342、543、Ⅱ-167                

Ⅰ.イエスさまは言われました。「柔和な人々は、幸いである」。「柔和」を辞典で調べると、「やさしく、おだやかなさま。とげとげしい所のない、ものやわらかな態度・様子」とあります。新共同訳聖書で「柔和」と訳された原語にも、「心穏やかな」という意味があります。よって、「柔和に生きる」とは、心穏やかに、やさしく生きることを意味します。皆さんの中で、敢えて家族ととげとげしく生きたい!という人はおられないと思います。できることなら、家族とはやさしい言葉でおしゃべりし、穏やかに、和やかに歩みたい!と願うはずです。
釧路で園長を担っていたとき、保護者さんとおしゃべりしたことがあります。幼稚園の玄関で、園児さんを送りに来られる保護者さんとのおしゃべりです。「園長先生、聞いてくださいよ。昨日も息子を怒鳴っちゃった!」「あらあら。」「だって、ぜんぜん言うことを聞かないの。」「確かにイライラしますね。私もついカッとなって子どもを怒鳴ってしまうことは今でもありますよ。」「えっ、園長先生もそうですか?」「そうですよ。自分の思い通りにならないと、妻にも、子どもたちにも、怒鳴ってしまうのです。」「そうですか、何だか安心しました。園長先生もそうなのですね。」
確かに、柔和に生きることは、簡単なようで難しい。けれども、イエスさまはおっしゃるのです。「柔和な人々は、幸いである」と。これまで、「心の貧しい人々は、幸いである」と「悲しむ人々は、幸いである」を心に刻みました。説教は終わりました。それでも、「心の貧しい人々は、幸いである」と「悲しむ人々は、幸いである」を伝えることは難しいと感じました。愛する人を失い、深い悲しみの中にある方に、「あなたは幸いです。慰められるから」と伝えても、「本当にこの人に福音が届いただろうか?」と不安になることもある。
それに対し、「柔和な人々は、幸いである」は、素直に語れます。なぜなら、「やさしく、柔らかな笑顔で皆に接するなら、それは幸せなことだ」と伝えることは、それこそ幼稚園の園児にも伝わるからです。「みんな、聞いてくれる?イエスさまは、こんなことを言われた。お友達と喧嘩することなく、みんなとなかよくニコニコしている人は幸せだ。」3歳児、4歳児、まして5歳児なら、「そうだね。いつもニコニコは素敵だね」と応答してくれるかもしれません。
しかしです。イエスさまは、不思議な言葉を続けました。「その人たちは地を受け継ぐ。」どうでしょう?イエスさまが語るのですから、100%信じてよい。それでも、正直に告白すると、「柔和な人々は、幸いである」はスッと心に入る。しかし、「その人たちは地を受け継ぐ。」は、どうしても引っかかるのです。

Ⅱ.実際、柔和な人は、馬鹿を見るように思います。反対に、乱暴な人、強欲な人、声が大きく力ずくで自己を通そうとする人がはびこっているように思える。よって、「その人たちは地を受け継ぐ。」は、本当だろうか?と疑い、心の中で御言葉を諦めているように思うのです。
確かに、柔和に生きたい!皆となかよく、誰にでもやさしくなりたい!でも、柔和に生きていると、オレオレ詐欺に騙される。柔和に生きても、馬鹿を見る。だから、柔和に生きることをとっくに諦めているのかもしれません。
私たちはイエスさまを救い主と信じる者です。もちろんイエスさまの言葉も信じる。ですから、「今朝の御言葉の前半は信じるけど、後半は信じられない」と思うことは、イエスさまを悲しませることになる。それでも、呟いてしまう。「確かに、イエスさまは柔和。でも、洗礼を受け、キリスト者にはなったけど、とてもとても『イエスさまのように柔和』と言えない。」最初から、キリスト者であっても、柔和に生きることを諦めているように思えます。
改めて、柔和に思いを巡らしたいのですが、ある神学者は、柔和を「敵をも包むという精神」と表現しております。そうです。敵をも包む心です。自分によくしてくれる人を包む心は頼まれなくても生まれます。しかし、自分を馬鹿にし、踏みつける敵を包む心はとても難しい。だからと言って、イエスさまは「どうせ、柔和な心は無理。でも『地を受け継ぐ』と伝えておく」と語ったのではありません。イエスさまはいつも本気。「柔和な人々は、幸いだ。なぜなら、柔和な人々こそ、地を受け継ぐのだから」と心から語っておられるのです。

Ⅲ.今朝は旧約聖書 創世記の御言葉を朗読して頂きました。神さまは、ご自分に似せて人間を創造され、地上の支配を委ねられました。神さまは、地を受け継がせるために人間に命を与えられた。それなのに、私たちは大いなる使命を忘れてしまった。たとえ忘れてなくても、「自分のことで精一杯。それなのに、地上の支配など無理」と諦めたのかもしれません。しかし、神さまは諦めない。神さまは私たちを創造の原点、与えられた使命に立ち帰らせるために、イエスさまをお遣わしになられたのです。
イエスさまは、真実に柔和な御方。それに対し、私たちは攻撃されると怒る。力ずくで反撃にでる。ユダヤの民もローマに対し、「いつかローマをギャフンと言わせる王、救い主が現れる!」と信じ、ユダヤの国をローマから奪還する王を祈り求めていたのです。しかし、イエスさまは違った。真の王だからこそ、力を捨てた。力ずくで救い主になることを選ばなかった。柔和を貫いた。その結果、イエスさまは殺された。まさに馬鹿を見たのです。
柔和を貫いたイエスさま。敵を愛し、敵を包む心を大切にされたイエスさま。圧倒的な力を持っておられるにもかかわらず、力を封印し、柔和を貫かれた。ユダヤの民は期待を裏切られたと思った。圧倒的な力でローマを壊滅させる王を期待していた。エルサレム入城の場面では、イザヤの預言通り、「柔和な方」としてロバに乗り、入城された。そのとき、群衆はまだ力のメシアを期待していた。だから、「万歳!万歳!ホサナ!ホサナ!」と褒めたたえた。けれども、イエスさまはいつまでたってもローマを倒さない。抵抗することなく、ローマの言いなり。弟子たちにも裏切られ、やせ細り、無力、無抵抗を貫く。柔和というより、ローマの言いなりに思えてきた。「こんな人は俺たちの王ではない!こんな人がローマを壊滅させることはできない!バラバの方がまだ骨がある!そうだ!バラバを釈放しろ!イエスを十字架につけろ!」と僅か数日の間に、人類史上最大の手のひら返しを群衆は行ったのです。その結果、柔和を貫いたイエスさまは、十字架で殺されたのです。 
悲惨な死です。父なる神さまに見捨てられ、弟子も逃げた。ローマの兵隊に鞭打たれ、唾を吐きかけられ、葦の棒で頭をたたき続けられる。まさに、力の世界がイエスさまを処刑したのです。「神もメシアも必要ない!俺たちは武力で勝つ!」と本気で考えた。そして今も、私たちは同じ過ちを繰り返す。国家で、会社で、学校で、家庭で。だから、柔和を諦めてしまう。どんなに努力しても、柔和を貫くことは不可能と考える。すぐ言い訳をする。「だって、イエスさまも無力に殺されたではありませんか!まして、無力な私が柔和を貫くなら、幸いどころではない。地を受け継ぐ何て呑気なことを信じることはできない。敵にやられてしまう。殺されてしまう。そんな呑気なことだから、いつまでも力のある人たちに世は支配されてしまうのだ!」
ところがです。私たちが柔和は無理!と呟いても、神さまは諦めない。いや諦めるも、諦めないもない。本気で「柔和に生きることは幸い!決して、馬鹿にされる生き方ではない。柔和に生きる人々は地を受け継ぐ」とイエスさまは私たちに宣言されるのです。
真の力に満ちた神さまが、力ずくの罪に柔和な心で勝利できる!と私たちに期待しておられる。武力で敵を倒すのではない。柔和で敵を包み込むのです。主なる神さまは、イエスさまを殺した人間を滅ぼすために、力を用いることはしません。最期まで柔和を貫いたイエスさまを甦らせることによって、圧倒的な力を私たちに示されたのです。

Ⅳ.先週は、広島と長崎に原爆が投下された悲しみの日をすごしました。長崎で被爆された山脇佳朗さんの叫びと祈りが昨日の新聞に掲載されております。「『父の遺体を見捨てた』との後悔の念は今も消えない」との言葉が刺さります。
今もなお核兵器が製造され続けている。まさに柔和を諦め、武力で敵を倒し、「我が国こそ、地を受け継ぐ」と威張っているように思われます。そのような複雑な一週間を過ごし、今朝、神さまの真実な思い、イエスさまの真実な心を与えられたことは、本当に大きな恵みであり、キリスト者の使命を神さまから託された思いが致します。
 私たちは柔和を諦めてはならない。いや、諦めなくてよいのです。なぜなら、イエスさまが柔和を貫かれたから。冒頭で語ったように、私たちはどうしてもすぐにカッとなってしまう。本当に柔和を貫くことは難しい、いや、不可能。しかし、そのような私たちだからこそ、イエスさまの柔和にすべてを委ねる。そのとき、私たちもキリストによって柔和な人へと変えられるのです。自分の力だけで柔和になることは不可能です。ほんの一瞬なら柔和を演じられるかもしれません。けれども、常に柔和に生きることは本当に難しい。だからこそ、神さまは真の柔和な方としてイエスさまを世に遣わし、イエスさまも最期まで柔和を貫かれた。そのようなイエスさまを信じ、洗礼を授けられた私たちも、神さまから「あなたも柔和に生きられる!」と日々、聖霊を注がれるのです。
 確かに、柔和に生きることは苦しみが伴う。損をし、裏切られ、傷つき、涙を流す。そのときイエスさまは語るのです。「あなたが愛する人から裏切られたように、私も弟子から裏切られた。それも12人全員。さらに父なる神からも見捨てられ、十字架で息を引き取った。でも、私は甦らされた。死に勝利し、罪に勝利し、すべての敵に勝利した。あなたは、そのような私と洗礼によって結ばれ、私の者となった。だから、恐れることはない。あなたも柔和に生きられる。だから私は宣言したのだ。『柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。』信じて良い。私の言葉を。奇跡はおこる。必ずおこる。攻撃され、カッとなり、仕返しを企み、意地悪くなるあなたも、柔和に生きられる。ひどい目に遭い、どん底を味わっても、私の十字架と復活が、あなたを立ち上がらせる。最初は一瞬かもしれない。すぐに柔和な心を失うかもしれない。しかし、どうか私の声を聞き続けて欲しい。そうすれば私の柔和があなたの柔和になり、あなたの柔和が隣人の柔和となる。そのとき、地上に柔和な神の国が造られる。柔和な人々で満ち溢れる。どうか、希望を失わないで欲しい。」
イエスさまが語られたように、私たちも柔和に生きる。そのとき、私たちも地を受け継ぎ、キリスト者の恵み、喜びを永遠に味わえるのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・病を患っている方、入院・手術を控えている方、病院のベッドで祈っておられる方、自宅で療養を続けている方、厳しい痛みに耐えている方が大勢おられます。主よ、それぞれの場で祈りを合わせている兄弟姉妹を守り、聖霊を注ぎ続けてください。
・平和を祈る8月です。それぞれの地では今も悲しみ、嘆き、痛みがあります。主よ、憐れんでください。どうか、すべての国、すべての人が争うことなく、柔和に生きることを得させてください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2019年8月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第56篇1節~14節、新約 マタイによる福音書 第5章4節
説教題「幸いな悲しみ」           
讃美歌:546、86、304、Ⅱ-1、512、542 

Ⅰ.先週から「山上の説教」を読んでおります。今朝は4節です。新共同訳で「悲しむ」と訳された原語には、「嘆き悲しむ、悲嘆する」という意味があります。今回も、いくつかの聖書を確認。二つだけ紹介させて頂きます。初めに岩波訳。「幸いだ、悲嘆にくれている者たち、その彼らこそ、慰められるであろうから。」次に柳生直行訳「ほんとうに幸福な人、それはいま悲しみにとざされている人たちである。彼らは慰めと力とを与えられるであろう。」新共同訳と比べると、悲しみと慰めが迫ってまいります。
参考に、悲しみの「悲」という漢字を調べました。「悲」は、「心」の上に「非常に」の「非」がのっかっております。「非」という漢字には「左右に分かれる」という意味があります。よって、悲しみの「悲」には、心が左右に分かれる。つまり、心が左右に裂けるほどの悲しみ、嘆きが込められているのです。
 私たちが経験する心が左右に裂けるほどの悲しみは、愛する人の死ではないでしょうか?8月は平和を祈る月です。一枚の召集令状によって戦地に連れて行かれ、戦死する。戦地に連れて行かれなくても、焼夷弾、原爆等によって愛する人の命が奪われる。戦争だけではありません。自然災害や交通事故等で、愛する人の命が奪われる。たとえ、そのような特別なことがなくても、一人の例外もなく私たちはいつの日か召されるのですから、愛する人の死は必ず経験します。そのとき、私たちの心は左右に裂け、悲しみにグルグル巻きにされる。結果、「悲しみ」という名の牢に閉じ込められる。その後、鉄の扉で閉じられた牢の中から鍵をかけ、誰にも入られないよう、じっとうずくまる。「この悲しみは、私にしかわからない」と思い込み、一人で流す涙、左右に裂けた心が凍りつくのです。
鍵をかけた悲しみの心に、慰めは届きません。神さまを疑う心に、神さまの愛は届かない。イエスさまは、そのような凍りついた悲しみを「幸いである」と言うのでしょうか?違います。イエスさまは、凍りついた悲しみを「幸い」とは言わない。つまり、「幸いな悲しみ」は、心を閉ざし、悲しみにうずくまり、「悲しい」と口に出さず、悲嘆にくれているような、誰にも見えないところで秘かに苦しんでいるような悲しみではない。たとえイエスさまであっても、心に鍵をかけた悲しみを慰めることは難しいのです。
「私の悲しみは、誰にもわからない!」と殻に閉じこもる。たとえ子どもであっても、そのような感情を抱くことがあるはず。学校でいじめを受けている。報復が怖いから誰にも言えない。深い悲しみです。また、親から虐待を受けている子どもがいる。辛く、悲しいのは、母親から「お前を産んで失敗した」と虐待されること。深い悲しみを経験した子どもは、殻に閉じこもってしまう。当然だと思います。しかしイエスさまは、一人一人の心の扉を叩かれる。「トントン、トントン」と。冷たい鉄の扉。叩いても、鈍い音が響くだけ。それでもイエスさまは諦めることなく叩き続けてくださる。「トントン、トントン」。
 イエスさまは、悲しむ者の心の扉を叩きながら語る。「鍵を開け、扉を開き、悲しみを打ち明けて欲しい!訴えて欲しい!目を上げ、私を見て、涙を流して欲しい!閉じこもって我慢するな!平気なふりをして耐えるな!誰はばからず涙を流し、悲しみを抑えずに私に訴えるなら、あなたは幸いだ!」
 ご一緒に考えたい。悲しみの涙も凍り、心を閉ざした人に対して、いったい誰がこのような言葉を語りかけることができるだろうか?私たちには難しい。もしも、自分が深い悲しみの牢に閉じこもっているときに、人から「心の扉を開き、悲しみを打ち明けて欲しい!」と言われても、扉を開くことは難しい。
 しかし、イエスさまが扉を叩きながら「心の扉を開き、悲しみを打ち明けて欲しい!」と語るなら、励ましになり、慰めとなる。真の神であり、真の人であるイエスさまは、全存在をかけてご自分で発する言葉を真実の言葉にされるのです。

Ⅱ.ところで、なぜイエスさまが語ると、「心の扉を開き、悲しみを打ち明けて欲しい!」が励ましになり、慰めになるのでしょうか?それは、イエスさまも悲しみ、嘆き、もだえるからです。
十字架の死を控え、ゲツセマネの園で、悲しみもだえ始められたイエスさま。二人の弟子たちに言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。(マタイ26:38)」そして、うつ伏せになり、祈った。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。(26:39)」
「死ぬばかりに悲しい」と言われ、弟子たちに「わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われた。その翌日、イエスさまは十字架の死を成し遂げられたのです。十字架で死ぬことは、父なる神さまに見捨てられたことになる。あのクリスマスの日から、十字架上の死を定められたイエスさまの悲しみと嘆き。イエスさまこそ、深い悲しみの中で死なれた。だからこそ、イエスさまが語る「悲しむ人々は、幸いである」は、閉ざされた心の扉をも開く。「イエスさまは、私の悲しみをご存知であられる」と信じ、鍵を開け、イエスさまに入って頂くように変えられるのです。

イエスさまは、十字架の死に至るまで、悲しみ、嘆きを貫かれた。父なる神さまに隠すことなく、悲しみを訴え、「アッバ、父よ」と祈り続けた。私たちが経験する悲しみ、嘆きをイエスさまはすべて経験しているのです。
 イエスさまは、会社に行こうとするとき、「あなた一人で行ってきなさい!」
と突き放す御方ではありません。通勤電車、職場にもイエスさまはおられる。愛する人が召されたときにも、イエスさまはおられる。愛する人に裏切られたときにもイエスさまはおられる。神さまに助けを求めて祈っても、答えを頂けないときにもイエスさまはおられる。そう信じることができる。ここに幸いがあり、慰めがあるのです。
 
Ⅲ.ところで、新共同訳で「慰められる」(パラクレートス)と訳された原語は、「傍らに(パラ)」「呼び(カレオー)」寄せ、相手と同じ立場になり、悲しみを共有することを意味する言葉です。つまりイエスさまこそ、深い悲しみの中にいる私たちの扉を叩き、傍らに呼び、私たちと同じ悲しみに立ってくださり、私たちの悲しみを一緒に嘆いてくださる。だからこそイエスさまは、私たちの慰め主となるのです。
 今朝は、旧約聖書 詩編第56篇を朗読して頂きました。ダビデは5節、12節で歌います。「神に依り頼めば恐れはありません。」
 詩編第56篇は、ダビデがサウル王に命を追われ、捕らえられた時の歌です。サウル王の圧迫が、ダビデに恐れと悲しみを抱かせた。だからこそダビデは、神さまに依り頼む。神さまを「あなた」と呼び、祈る。「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」そうです。ダビデは恐れと悲しみの中、主の憐れみを信じるのです。「神さまは、私の涙を一滴も漏らすことなく、革袋に蓄えてくださる。神さまは、私と一緒に悲しみ、私と一緒に涙を流してくださる。」
 この祈りはダビデだけのものではありません。イエスさまを救い主と信じる私たちも、「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」と祈れるのです。
 「神さま、今わたしは悲しいです。苦しいです。助けてください。神さま、どうか、あなたの御心を行ってください」と祈ることができる。ここに幸いがある。イエスさまが私の悲しみを私と共に悲しみ、私には耐えられない悲しみなら、私に代わって極みまで悲しんでくださると信じる。ここに幸いがあり、慰めがあるのです。
革袋は砂漠を旅する人の水筒。イエスさまは、悲しみの涙を革袋に溜めてくださる。イエスさまは、私たちの涙を革袋に溜め、飲み続けてくださるのです。「さあ泣きなさい、さあ涙を流しなさい」で終わりではない。涙の一粒一粒を数え、革袋に溜め、一粒残さず全部飲んでくださる。そのようなイエスさまに信頼して悲しむとき、私たちの悲しみは幸いとなり、慰められるのです

Ⅳ.ところで、芳賀力先生の著書『神学の小径(こみち)Ⅳ 救済への問い』が6月に出版されました。その中に「悲しみの人となられた神」が論じられております。その一部を紹介させて頂きます。「(神の)憐れみは臓腑(ぞうふ)を貫く。それは、自分は傷つかないまま、ただ上から目線で憐れみを感じるだけの『同情』ではない。悲しみを共にすることの中で、自分も臓腑を貫かれる。主イエスを通して表された神の憐れみの本質には、神の悲しむ愛がある。慈愛は聖書の神において慈悲(じひ)になる。そこには『悲しみ』の一字がくっきりと刻まれている。神の悲しむ愛は、すべての世の悲しみを覆っている。しかしそれだけでなく、もっと深い悲しみの底に触れ合っている。」
なるほど!と思いました。神さまの憐れみの本質には、神さまの悲しむ愛があるのだと。父なる神さまの悲しむ愛、さらに子なる神さまキリストの悲しむ愛が私たちに日々、注がれている。そのような神さまの慈悲に覆われるとき、私たちは真の意味で慰められるのです。
ドイツの改革者ルターも、1525年に出版した『奴隷的意志について』の中で、神の憐れみこそ私たちの慰めと記しております。「神は誠実であって、私に偽りを語られることはない。(中略)神は強力で、偉大であられる。私たちは、(中略)神の憐れみの みこころにより、確実で安泰なのである。」
 そうです。神さまは誠実であって、ご自分を偽ることがない。だからこそ、深い悲しみに襲われても、私たちは、確実で安泰でいられるのです。
只今から聖餐に与ります。今朝も聖餐に与ることができるのは、イエスさまが悲しみもだえ、死ぬばかりに悲しまれたから。イエスさまが十字架で裂かれた体であるパンと流された血潮である杯に与る。私たちはもう、深い悲しみに襲われても恐れない。すべてをイエスさまに委ね、永遠にイエスさまと歩める。私たちの喜びであり、慰めです。これからも、心を閉ざすことなく、「キュリエ・エレイゾン。主よ、我らを憐れみたまえ」と祈り続けたい。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・病を患っている方、入院・手術を控えている方、病院のベッドで祈っておられる方、自宅で療養を続けている方、激しい痛みに耐えている方が大勢おられます。主よ、それぞれの場で祈りを合わせている兄弟姉妹を守り、聖霊を注ぎ続けてください。
・神さま、8月になりました。平和を祈る月です。6日は広島、9日は長崎に原爆が投下された悲しみの日です。戦争は終わりました。しかし、それぞれの地では今も悲しみ、嘆き、痛みがあります。主よ、憐れんでください。
・全国の被災地で今もなお困難な生活を強いられている方々を強め、励ましてください。主よ、悲しみ、嘆きの中にある方々を憐れんでください。
・今月の聖餐献金は、出身教職の竹内克哉牧師が牧会しておられる四国の芸西伝道所の会堂兼牧師館建築献金に用いられます。主よ、竹内牧師、そして芸西伝道所の上にこれからも力強いお導きと祝福を注ぎ続けてください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2019年7月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第41章17節~20節、新約 マタイによる福音書 第5章1節~3節
説教題「心の渇き」
讃美歌:546、53、244、361、541    
             
Ⅰ.今朝から、イエスさまが弟子たち、また大勢の群衆に語った「山上の説教」に耳を傾けます。山上と言っても、なだらかな丘のようです。ひろびろとした丘の真ん中にイエスさまが腰を下ろされた。そのイエスさまを囲むように弟子たちが座る。さらに、大勢の群衆が二重、三重と重なり、イエスさまの説教を今か今かと待っています。
 弟子たちは緊張しているかもしれません。いろいろな病気や苦しみを癒して頂いた人々は興奮しているでしょう。大勢の群衆の中に、イエスさまの癒しを求めてやって来た人々もいるはずです。イエスさまに癒して頂きたい!と願う人たちは複雑な心境ではないでしょうか?「目の前にイエスさまがおられる。それなのに、イエスさまは腰を下ろされた。確かに説教は大切。でも、すぐに私の病、苦しみ、悪霊を癒して欲しい!」苦しむ人々の切実な願いです。
 しかし、イエスさまは説教を始める。決して、病に苦しむ人たちを無視するのではありません。むしろ、病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、病に苦しみ、悩み続けている人たちに、祝福を届けたい!と願い、口を開き、教えられるのです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「心の貧しい人々は、幸いである」と訳された原文は、「幸いである」という言葉から始まります。つまり、原文通り訳すと、「幸いである、心の貧しい人は」となります。イエスさまは、説教の冒頭で、いきなり「幸いだ!」と祝福から語り始めるのです。
昨年秋に日本聖書協会から聖書協会共同訳が出版されました。「心の貧しい人々は、幸いである」。新共同訳と同じ。新共同訳の前は口語訳。「こころの貧しい人たちは、さいわいである」。ほとんど同じ。口語訳の前は文語訳。「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧(まづ)しき者」。文語訳は原文通り。「おめでとう!あなたは幸いだ。心が貧しいから」。「幸せだ!心が貧しいから。悲しいことだらけで良かったね!」
不思議な言葉です。嫌味に聞こえなくもない。いったいなぜ、イエスさまは説教の冒頭でこのような言葉を言われたのか?たとえば、「今のあなたは不幸。でも、死んだ後は幸せになる」。だから、幸せなのか?イエスさまが誰に向け、どのような思いで「幸いである」と宣言されたのか?ご一緒に御言葉を読んでまいりましょう。

Ⅱ.1節冒頭に「イエスはこの群衆を見て」とあります。苦しみ、悩みを抱え、それゆえにイエスさまにすがるような思いで、とるものもとらずに従って来た人たち。イエスさまは、人々の苦しみを、苦しむ者よりも深く知り、憐れみ、眼差しを注ぐ。病に苦しむ人たちと共に苦しみ、軽く見ない。苦しみに悩む者を馬鹿にしません。
弟子たちは、病気や苦しみから逃れたい一心で従って来た人々を自分よりも劣った者として馬鹿にし、鼻で笑ったかもしれません。しかし、イエスさまは弟子と群衆を分け隔てることなく、「私に従うあなたたちは幸いだ」と言われる。しかも幸いは、遠い将来でなく、死んだ後でもなく、今、現実の世界で必死にはいずり回る人々に向けて、「幸いな者たちよ」と語りかけてくださるのです。
 そして3節。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」ここで「心」と訳された言葉は、「神の霊」と訳されることの多い言葉。つまり、「神の霊との関わりにおいて貧しい人々」です。さらに「貧しい」と訳された言葉は、貧しさの極みを指す言葉。つまり、物乞いをしなければ死んでしまうほどの貧しさです。
 心が叫ぶ。「神さま!あなたに会いたい!あなたの助け、霊の注ぎがなければ、生きられません!喉から手が出るほど霊が欲しい!私の心は渇き、霊を求め、悲鳴をあげています。遠慮している余裕はありません。体の水分がすべて蒸発したようにカラカラなのです!」
 私たちは、心がカラカラに渇いたときこそ、神さまに全てを委ね、神さまと出会う。そのとき、聖霊が注がれ、溢れるほどの祝福と平安を得るのです。

Ⅲ.ところで、今朝の御言葉の黙想中に、『教団新報』の最新号が届きました。4面に全国の教会の兄弟姉妹を紹介する『人ひととき』欄があります。最新号には石巻山城町教会員の姉妹が登場。懐かしいお顔です。
一昨年の秋、東日本連合長老会 講壇交換で石巻山城町教会に遣わされました。母が洗礼を受け、両親が結婚式を挙げた教会なので、講壇交換には両親と三人でまいりました。そこで姉妹との出会いが備えられたのです。
新報の記事を全文紹介することは控えますが、ポイントを絞って紹介させて頂きます。姉妹のご自宅は、教会の真向かいにあります。それなのに、震災までは小さい頃を除き、教会に通うことはありませんでした。そのような姉妹の心がカラカラに渇く出来事が発生しました。東日本大震災です。その数年前に夫と共に海の近くでコンビニ店を始めたばかり。あの日、大津波警報が発令、姉妹は母親の様子を見に自宅へ戻った。しかし、その間に津波が襲い、働いていた夫は召された。姉妹も自宅から店に戻る途中、津波に巻き込まれるも、ギリギリのところで車から脱出。結果、姉妹と母親は生かされ、夫は召されたのです。
さらに、震災から2年後、母親も召された。震災で夫を喪い、その2年後に母親も召され、姉妹の心はカラカラに渇いた。けれども、震災により、全国から届けられた支援物資を配布した目の前の教会に数十年ぶりに足を踏み入れた。そして、「心の渇き」を神さまに潤して頂きたい一心で礼拝に出席するようになった。さらに母親の葬儀を通し、これまで味わったことのない確かな慰め、確かな幸いを感じた。その結果、受洗へと導かれたのです。
新報の結びはこうです。「受洗後は音楽の賜物を用い、礼拝の奏楽者として神さまに仕えている。姉妹はキリスト者となった喜びをこう語ってくれた。『夫も母親も失って一人になってしまった。しかし今、自分は一人ではないという心強さがある。主イエスが共にいてくださる。そして、神の家族が与えられている』。今はこの喜びに生きている。」
 愛餐会のとき、「もちろん、今も悲しみはある。でも、震災がなければ、真の幸い、真の喜びを知ることはなかった。」と噛みしめるように語ってくださった姉妹のまっすぐな瞳が思い浮かびます。さらに石巻山城町教会の長老も語ってくださいました。「田村先生、神さまは生きて働いておられます。ずっと奏楽者がいなかったのです。15年間、奏楽者が与えられるよう祈りました。私たちも津波で大変な悲しみを味わいました。しかし、津波に襲われたことで、何と二人の奏楽者が与えられたのです。本当に感謝です。本当に幸いです。」

Ⅳ.私たちも苦しみに悩むとき、心が激しく渇き、神さまの愛と恵みを見失う。ひとりぼっちでいる気になる。しかし、イエスさまは言われるのです。「幸いだ。カラカラに渇いたあなたの心に、神さまの霊が注がれるから。」
 「もうだめだ」と思う心にこそ、イエスさまはおられる。カラカラに渇いた心だからこそ、イエスさまと出会えるのです。 
順風満帆では、イエスさまに出会うことは難しい。けれども、逆風のために波に悩まされ、湖の真ん中でグラグラと揺れる小舟のように転覆しそうなとき、「主よ、助け給え」と叫ぶ。すぐにイエスさまは、小舟に乗り込んでくださる。ひとりぼっちではない。愛する家族が召されても、イエスさまが共におられる。だから無理にではなく、イエスさまと共に舟を漕ぎ続けることができるのです。
イエスさまは、「心の貧しい人々は、幸いである」と祝福されました。改めて思います。「イエスさまだから祝福できる。なぜなら、イエスさまこそ、十字架の上で激しい渇きに襲われ、頭を垂れて息を引き取られたから。さらに三日目の朝、父なる神さまによって、復活されたから。」
イエスさまは、私たちの罪、渇き、死に勝利されました。それだけでなく、山に登られる前に加え、山を下りられた後も、群衆の苦しみ、悩み、渇きに耳を傾け、病を癒し続けた。それなのに、イエスさまは弟子たちに見捨てられた。「十字架につけろ」と群衆に叫ばれた。こんなにも理不尽なことはありません。だからこそ、イエスさまは説教の冒頭で、裏切りの罪を犯す弟子たち、その場の雰囲気で「十字架につけろ」と叫ぶ群衆に、九つの幸いを語るのです。
イエスさまと皆さんとの出会い、心が渇いていたときだったかもしれません。新報で紹介された姉妹も震災がなければ、信仰を告白し、洗礼を受けることはなかったかもしれません。しかしイエスさまは、心がカラカラに渇いている私たちを放っておくことはなさらない。だから、今朝も語り続けるのです。
「心がカラカラに渇いているあなた。『主よ、助けてください』と叫びなさい。『主よ、憐れんでください』と叫びなさい。私はあなたのために最期、十字架の上でカラカラに喉も心も渇いた。なぜなら、父なる神に見捨てられたから。だから大丈夫!私はあなたの悲しみをあなた以上に味わった。心配することはない。恐れることもない。心の渇きを丸ごと私に委ねよ。そのときあなたは、私と共にある平安に満たされる。私とあなたが結ばれ、あなたも隣人と繋がる。その結果、隣人も私と出会い、心が満たされる。そして、いつの日かすべての人が私と繋がる。その結果、天の国、神の国、神の支配が成就するのだ。」
天の国は、特別な業績を上げた人、誰もが納得する成果を収めた人、教会に貢献した人だけが入ることのできる狭い世界ではありません。むしろ、本当にボロボロになり、病に悩み、悪霊に取りつかれ、自分を見失い、物乞いをするしか生きる術を失った人が、一人では生きていけない!と嘆き、確かな存在を求めるように変えられる。結果、「イエスさまこそ、私の救い!」と涙を流し、信仰を告白した人たちのものなのです。つまり、私たちは皆、天の国に入れる。胸を張って、「私ほど心の渇いている者はおりません!」と泣きながら、天の国に入ることが必ずできるのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・重い病を患っている方、病院のベッドで祈っている方、自宅で療養を続けている方、激しい痛みに耐えている方が大勢おられます。主よ、それぞれの場で祈りを合わせている兄弟姉妹を守り、聖霊を注ぎ続けてください。
・主よ、心がカラカラに渇いている方が大勢おられます。愛する人が召され、今も深い悲しみを抱えている方、将来への不安を抱えている方、家庭や職場の人間関係に悩んでいる方、学校でのいじめに悩んでいる方、絶対に人には言えない悩みを抱えている方がおられます。どうか、すべてをご存知のあなた様が、それぞれの心の渇きに聖霊を注ぎ、天の国に入れる希望を思い起こさせてください。お願いいたします。
・全国の被災地で今もなお困難な生活を強いられている方々を強め、励ましてください。新しい事件、事故が報道されると、被災地の悲しみをすぐに忘れてしまう私たちです。主よ、深い嘆きの中にある方々を憐れんでください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年7月21日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第16章14節~21節、新約 マタイによる福音書 第4章18節~25節
説教題「わたしについて来なさい」
讃美歌:546、6、121、517、540    
           
Ⅰ.皆さんが教会に通うようになったきっかけは、人それぞれだと思います。入学した学校がミッションスクールだったから。両親がクリスチャンだから。友達に「クリスマスだから教会に行こうよ!」と誘われたから。悩みを抱え、教会に救いを求めたから。今朝の福音書に登場する弟子のように、ある日突然、イエスさまの「わたしについて来なさい」が聞こえたから。
 東村山教会で働くようになり4年が経過しました。その間、皆さんと出会い、面談等を通し、皆さんが教会に招かれた経緯は人それぞれだと感じております。同時に、共通していることがある。それは、イエスさまから「わたしについて来なさい」と招かれたことです。今朝もイエスさまは、皆さんを御覧になり、心を込め、「わたしについて来なさい」と招いておられる。イエスさまの招きは、キリスト者だけではありません。聖書も教会もイエスさまも意識していない方々にも、主は眼差しを注いでおられる。その真理を忘れないよう、今朝も神さまは御言葉を備えてくださったのです。

Ⅱ.シモンとアンデレの兄弟はガリラヤ湖の漁師でした。毎日、湖に舟を漕ぎ出し、魚をとる生活。同じことの繰り返しですが、神さまから与えられる今日という日を感謝して生活していたはずです。そのような一日が、生涯、忘れることのできない一日になった。イエスさまとの出会い、招きは、大袈裟でなく、それまでのすべてがひっくり返るような圧倒的な恵み、喜びの日となるのです。
 主イエスは、湖の浜辺を歩いておりました。そのとき、二人が魚を獲るため、網を打っているのをご覧になった。そして、声をかけられたのです。「わたしについて来なさい。」二人が、主を求めたから声をかけられたのではありません。二人はいつものように漁をしていた。その二人より先に、イエスさまは二人をご覧になり、声をかけられた。「わたしについて来なさい。」二人は、このとき、主(あるじ)と出会った。二人にとって、イエスさまが主(あるじ)となった瞬間です。
 二人は、イエスさまに声をかけて頂く日を待っていたかのように、躊躇することなく、すぐに網を捨てて従いました。網は漁師にとって大切な商売道具。生きるためになくてはならないもの。その網を捨て、従った。やはり驚くべき出来事です。

Ⅲ. 私たちは、どうしても心に疑いを抱きます。「この人は、こう言っているが、私を騙そうとしているかもしれない。」騙された経験があると、どうしても疑心暗鬼になってしまう。相手の言葉を素直に信じることは、簡単なようで難しいことかもしれません。まして、これまでの生活を捨て、すべてをイエスさまに献げることは、人生最大の決断であり、念には念を入れて検討し、慎重に判断することのように思えます。
 私自身、14年半でしたが、銀行で働いていたとき、神さまのお召しと信じ、キリスト教ラジオ放送局への転職を決断。支店長に告げたとき、「田村、ラジオ局で食べていけるのか?辛くても銀行で働けば、退職金をもらえるぞ」と言われたことを忘れません。確かに、これまでの生活を捨てることはリスクを伴います。だから不安になる。それでも、現代であれば色々と調べることができる。転職を経験した人からお話を伺うことも可能です。
しかしです。イエスさまの招きを信じ、ついて行くことは、転職とは違うのです。主に従うとは、「メリットがあるから従い」、「リスクがあるから従わない」というものではありません。つまり、私たちの側には従う根拠、従わない根拠もない。イエスさまの「わたしについて来なさい」を信じ、ただついて行く。その心が大切なのです。なぜか?イエスさまは真の神さまだからです。私たちを創造し、導いておられるイエスさまが「わたしについて来なさい」と招いてくださるのですから、ついて行けば良いのです。「イエスさま、招いてくださり、感謝いたします。こんな私ですが、宜しくお願いいたします」と喜んでついて行くのです。
イエスさまは言われるでしょう。「『こんな私ですが』はいらない。こんな私も、あんな私もない。私はあなたのすべてを知っている。だからあなたに声をかけたのだ。ただ私について来なさい。大丈夫。すべてを私に委ねなさい。」
シモンとアンデレにおこった出来事は「信じる」とは、どういうことかを私たちに教えてくれます。イエスさまと出会う前は生活の糧と思っていたもの、これがなくては生きていけないと思い込んでいたもの。それらが主(あるじ)であった生き方から、イエスさまを主(あるじ)と信じ、すべてを委ねる歩みを始める。
 心が日常生活の色々に支配されていた。そこにイエスさまが入って来られ、主(あるじ)となってくださった。「すべてを委ね、わたしについておいで」と招いておられる。イエスさまについて行くとは、「過去を捨て、悲壮感を漂わせ、ついて行く」ではなく、「本当について行って大丈夫だろうか?」という不安な心も含めてイエスさまに委ね、心を空っぽにして、イエスさまについて行く。そのとき心は軽くなり、喜びに満たされるのです。
 
Ⅳ.ところで、イエスさまはシモンとアンデレを弟子になさった後、舟の中で網の手入れをしていたゼベダイの子ヤコブとヨハネにも声をかけられました。すると、二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスを主(あるじ)とする歩みを始めたのです。ゼベダイにとって二人は自慢の息子だったはず。ゼベダイと名が記されているのですから、カファルナウムでは有名だったかもしれません。そのゼベダイの子ヤコブとヨハネも、イエスさまの「わたしについて来なさい」を信じ、商売道具の舟と、父親とを残して主に従ったのです。
私はどうしても父親の心境を考えます。確かに、イエスさまの評判はすでにガリラヤ中に広まっていたかもしれません。諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病や患いを癒された。しかし、息子たちがイエスさまの弟子になるとは夢にも思わなかったはずです。しかも漁を終え、舟の中で網の手入れをしていたところ、イエスさまが息子たちに「おいで、私について来なさい」とお呼びになられた。結果、息子たちは父親と舟を残し、すぐにイエスさまについて行ったのですから、呆然としたはずです。
 しかし、福音書記者マタイは父親や息子たちの心境、またペトロとアンデレの心境、さらに家族の心境には、全く触れていない。つまり、繰り返しになりますが、私たちの心境は関係ないと伝えているように思える。招いてくださるイエスさまの「わたしについて来なさい」に根拠があり、救いがあり、喜びがあると教えているように思うのです。
 信じること、つまり信仰は単純かもしれません。私たちはどうしても「信仰が足りない」と呟きます。そして、不安になり、神さまの愛を疑ってしまう。でも、不安な心、疑いの心を抱えたまま、主の「わたしについて来なさい」を100%信じ、委ねる。それが、信じることであり、信仰だと思うのです。

Ⅴ.忘れられない言葉があります。伝道者として歩み出し、数年を経たとき、母教会から信仰の先輩が釧路までサプライズでいらしてくださいました。私は幼稚園のことで悩んでおりました。でも、その方が語ってくれたのです。「私は田村さんが伝道者を志すと聞いたとき、自分のことのように嬉しかったのです。そして今、釧路で一所懸命に教会と幼稚園で働いておられる姿を通し、本当に田村さんの信仰に勇気を頂きました。」私は素直に嬉しい思いと、心のどこかに「いや、私の信仰は弱く、小さい。この方は勘違いしているのではないか」と疑ってしまったのです。しかし、この方が私を励ましてくださったとき、目にうっすらと涙を浮かべていたことを忘れることができません。深い痛みを経験された方です。その方が釧路までいらしてくださり、率直な思いを告げられた。そのとき、「信仰とは、様々な業を積み上げたから深いとか、強いというのではなく、欠けも、破れも、弱さも、丸ごとイエスさまに委ね、イエスさまの招き『わたしについて来なさい』を信じ、『イエスさま、今日も私の主(あるじ)でいてください』と、祈り続けることだ」と教えられたのです。
信じるとはそういうこと。イエスさまが生活に入って来られたとき、「主よ、生活のあれこれで片づいておりませんが、お入りください。私の中に住んで、主(あるじ)になってください。私の気になっているあれこれ、舟も父親も私もお任せしますから、従わせてください」と祈り続ける。主の御言葉に従い、イエスさまについて行く。それが「信じる」ということなのです。

Ⅵ.イエスさまに従う弟子たちは、御国の福音を宣べ伝え、人々が悔い改め、十字架と復活の救い、罪の赦しと永遠の命に与るよう促すことで、人間をとる漁師として働き続けます。
 大勢の群衆もイエスさまに従いました。貧しい多くの人々が主に従ったのは、悩みがあったからです。自分自身の悩みであり、愛する者の悩み。その悩みを、イエスさまへ持って行った。悩みから解放されたい!その一心でイエスさまのところへ出かけた。結果、主に癒して頂き、悩みから解放され、イエスさまに従ったのです。
 冒頭で申し上げたように、教会との出会いは人それぞれ。だから、「こうあらねばならない」ということはない。それぞれの賜物を用い、一つの群れとしてイエスさまに従い続ける。そこにこそ、平安と喜びが溢れます。イエスさまと共に歩む。決して、世捨て人のような人生ではありません。無責任な歩みでもありません。もっとも確かな、もっとも祝福に満ちた人生となるのです。
イエスさまは良い羊飼い。間違っても、羊を残し、逃げてしまうことはありません。十字架の死に至るまで、従順に神さまの救いを成し遂げてくださった。その結果、私たち、家族、すべての人々の罪の赦しが約束された。それだけで終わりではありません。イエスさまはすべての人々が恐れる死に復活によって勝利してくださった。そのようなイエスさまから私たちは皆、「わたしについて来なさい」と今朝も招かれているのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・病を患っている方、自宅で療養を続けている方、痛みに耐えている方が大勢おられます。主よ、それぞれの場所で共に祈りを合わせている兄弟姉妹を守り、聖霊を注ぎ続けてください。
・今日の午後、教会学校のサマーフェスティバルが行われます。どうか事故や怪我のないようにお守りください。
・九州を中心に大雨による被害が発生しております。梅雨の末期、さらに台風の被害がこれ以上拡大しないようお守りください。
・求道生活を続けているお一人お一人に聖霊を注ぎ、主の招きにすべてを委ね、応えることができますようお導きください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年7月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第8章23節b~第9章6節、新約 マタイによる福音書 第4章12節~17節
説教題「光に歩めよ」
讃美歌:546、70、235、326、539、427               

Ⅰ.主イエスは、悪魔の誘惑に勝利されました。そして主は、ガリラヤで伝道を始めたのです。「ガリラヤ」について、今朝の御言葉は、それぞれ「異邦人のガリラヤ」と記します。マタイ福音書第4章15節に「異邦人のガリラヤ」とあり、イザヤ書第8章23節にも「異邦人のガリラヤ」とあります。
異邦人は、ユダヤ人にとって異国の人。つまり、ユダヤ人が考えるガリラヤは、異教に汚された不浄の土地であり、ユダヤ教徒はしばしばガリラヤをさげすんだのです。
 ところがです。主イエスの慈しみは、さげすまれ、忘れ去られたガリラヤに向けられました。主は、伝道の拠点をエルサレムでなく、ガリラヤに置かれたのです。この事実は、異邦人キリスト者である私たちにとって深い慰めです。
 実際、今朝の旧約聖書、イザヤ書第8章23節でガリラヤは、「ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、また第9章1節では、「死の陰の地」と呼ばれています。エルサレムから見ればガリラヤは、遥か彼方の奥まった土地です。外国との国境であり、頻繁に異国の脅威にさらされた。その結果、混血が進み、ユダヤの血、ユダヤの信仰を守ることが非常に難しくなった。まさにガリラヤは、信仰的な意味で暗闇。だからこそ、ユダヤ人はガリラヤを「死の陰の地」と本気で思っていた。そのような「死の陰の地」、「異邦人のガリラヤ」に大きな光が射し込んだのです。

Ⅱ.福音書記者マタイは記します。真の光なるイエスは、「(洗礼者)ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。(4:12)」と。しかし、これは単に自分にも追手が迫ることを恐れて逃れたというより、ヨハネの逮捕を聞き、ヨハネの預言していたメシアの到来、すなわち、ご自分の「時」が来たことを悟り、積極的な意味で「死の陰の地」、「異邦人のガリラヤ」へ赴かれたのです。マタイも「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。(4:14)」と記しております。
旧約聖書の時代、神さまの御言葉を授けられたイザヤ。主は、「ナザレを離れ(4:13)」、イザヤの預言の中へ身を投じられたのです。つまり主は、故郷を捨てた。御子に愛を注ぎ、育まれた父ヨセフ、母マリアを捨てた。さらに、これまでコツコツと積み上げてきた全てを捨てた。神さまの御言葉、イザヤの預言を実現するために。主は十字架への一歩を踏み出されたのです。
 離れる、捨てるは決して良いイメージを与えません。けれども、主の離れる、捨てるは、まさに先週の御言葉「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ(4:10)」に従う行為。決して、嫌になったから離れ、捨てるのではありません。神さまに身を献げる献身者は、親しい者の期待に応えるよりも、常に神さまの求め、御心に応じる備えを求められる。当然、御子は、献身をご存知であり、献身のタイミングを祈り続けていた。そのとき、ヨハネが捕らえられたことが主の耳に届いた。主は、「時が来た」と判断。神さまに全てを献げる決意を示された。主は神さまの御心、イザヤの預言を実現するため、ナザレを離れ、湖畔の町カファルナウムでの生活をスタートさせたのです。 

Ⅲ.「カファルナウム」。聖書巻末にある聖書地図「6新約時代のパレスチナ」をお開きくださると、地図の真ん中より少し上にひょうたん型のガリラヤ湖がある。その北岸にカファルナウムがあります。そのガリラヤ湖から流れるヨルダン川が死海に到達しますが、死海の西にエルサレムがある。そのエルサレムから120㎞余り北東にカファルナウムがあるのです。
 そのカファルナウムにおいて、権力の道でなく、自分のための道でもなく、十字架への道を一歩一歩 進むために主は、伝道の業を始められた。自分自身の命を捨て、神さまの御言葉を実現していくために主は伝道の業を始められたのです。そのような一歩をスタートさせた主の第一声は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」。つまり、捕まってしまった洗礼者ヨハネの言葉を受け継ぐように、主はヨハネと同じ言葉を語られました。
 しかしです。ヨハネの語る天の国の到来と、主イエスが語る天の国の支配は全く違います。ヨハネの語る天の国の到来は、神さまの激しい怒りが降る日。神さまの裁きの日。それに対し、主イエスが語る天の国の支配は、どのようなものだったか?
主イエスご自身が飛び込まれたのは、神さまのご支配の中。神さまの御言葉の中。神さまの愛の中。神さまの光の中。神さまの御心の中。神さまの正しさの中。「故郷も、愛する者も、これまでの自分も全て捨て」というより、むしろ、その全てをひっくるめて神さまのご支配に委ね、神さまの御腕の中に飛び込まれた。神さまの御腕の中にある平和こそ、天の国と宣言されたのです。
では、なぜ主はそのように語れるのか?それは、御子ご自身が全ての人の罪、神さまの裁きを、その身に受ける決意をなさられたから。十字架で死ぬことを選ばれたから。つまり、「天の国は近づいた」は、十字架によって示された罪の赦しの約束。だからこそ私たちは、主の「悔い改めよ」との招きの言葉を心にしっかりと刻み続けるのです。

Ⅳ.「悔い改めよ」と訳された言葉。文字通り直訳すると「自分の思いの向きを変える」という言葉になります。自分が心惹かれているもの、正しいと思っていること、自分の心が向かっているところ、そういう生き方の歩みを止めて、心の向いている向きをひっくり返す。
いったい、どの向きにひっくり返すのか?どこに向かって歩むのか?それは、神さまの御心、神さまの御言葉、神さまの愛、神さまの義、神さまの支配、神さまの光に向かって向きを変える。天の国に向かって心の向きを変えるのです。
預言者イザヤは真の救いを語りました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(9:1)」クリスマスに私たちが読む御言葉です。クリスマス。大いなる光として御子が暗闇の世に遣わされた喜びの日。その光は、クリスマスだけの輝きで終わるのではない。御子が故郷ナザレを離れ、カファルナウムから伝道の業をスタートし、最後、十字架の死と甦りを成し遂げてくださったことで、2019年7月14日、東村山教会に連なる私たちの上にも眩しいほどに輝き続けているのです。
イザヤは続けます。「ひとりのみどりごが わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(9:5~6)」
 御子イエス。イザヤの預言を実現するために、この世に真の平和と神さまのご支配を実現するために、ナザレを離れ、カファルナウムから伝道の業を始められた。その結果、異邦人である私たちにも福音が届けられた。私たちにも、神さまにすべてを委ね、光なる主イエスの道を歩む平和が与えられたのです。
それでも、私たちの心は時に、闇に向いてしまう。闇に支配されてしまう。神さま以外のもの、たとえば自分であったり、財産であったり、日々の生活に追われ、神さまに祈ることすら忘れてしまう。それくらい私たちの心は暗闇にさまよい、乱れ、「私は今、いったいどこに向かって歩いているのか?」と不安になってしまうことがある。
しかし、私たちは知っている。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(9:1)」ことを。イザヤの預言「あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。(9:2)」が、御子イエスによって実現したことを。
 御子イエスは、今朝も私たちに語りかけます。「あなたの迷い込んだ心を、真の光である私に向けなさい。イザヤの預言『死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。』は、私において実現した。だから、暗闇を恐れるな。死を恐れるな。光に向かって歩め。そうすれば、あなたにも深い喜びと大きな楽しみが与えられる。なぜなら、熱情の神さまはあなたを愛し、慈しんでおられるから。」
主イエスは今朝も、真の光として輝いておられます。闇がこの世を支配していると嘆く私たちの上に。であるなら、私たちは光なるキリストの道を「御国が来ますように」と祈りつつ歩むことができるのです。万軍の主の熱意が世の平和を成し遂げてくださると信じて。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・病を患っている方、自宅で療養を続けている方、痛みに耐えている方が大勢おられます。主よ、それぞれの場所で共に祈りを合わせている兄弟姉妹を守り、聖霊を注ぎ続けてください。
・礼拝後にコイノニア・ミーティングが予定されております。一人でも多くの方が出席し、共に語り、共に祈ることができますようお導きください。その後、各委員会等が行われます。様々な働きを担っておられるお一人お一人を支え、導いてください。先週も財務委員会の皆さんが遅くまでご奉仕を担っておられました。財務委員の働きもお支えください。
・教会には長老に加え、執事もおられます。問安執事、財務執事の働きを祝福し、これからも存分に用いてください。
・今朝も様々な理由により、礼拝に出席することのできなかった方々の上に、私たちと等しい祝福を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年7月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第6章13節、新約 マタイによる福音書 第4章1節~11節(Ⅲ)
説教題「勝利者キリスト」
讃美歌:546、13、195、21-81、224、545B               

Ⅰ. 「勝利者キリスト」。今朝の説教題です。勝利者のイメージ、人それぞれだと思います。勝者がいれば、敗者もいる。勝者は喜び、敗者はうなだれる。かつてほど言われなくなったかもしれませんが、勝ち組、負け組という言葉もあります。名門大学に入学し、優れた組織に就職する。家族、地位、財産にも恵まれ、誰もが羨む人生を謳歌する。「出来るなら、勝ち組に!」と親の期待を一身に受け、小さい頃から塾に通い、頑張る。そのような友人は私が小学生の頃からおりました。
 では、キリストの勝利も、そのような勝利なのでしょうか?この世の地位、名誉、富を手に入れ、勝ち組の頂点にキリストが立つ。もしかすると、メシアを待ち続けた人々は、そのような勝利を想像していたかもしれません。悪魔を倒し、地位も名誉も財産も手に入れる。それでいて、貧しい人には惜しみなく施す。そのような「勝利者キリスト」を。
しかしです。悪魔から誘惑を受けたキリストは、地位、名誉、財産を求めることなく、「退け、サタン」と叫び、申命記第6章の引用、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と悪魔に告げた。そこで、悪魔は離れ去り、主は勝利されたのです。
どうでしょう?こんなにも控え目な勝利は、これまでも、そしてこれからもないと思うほど、目立たない勝利。特に、マタイ福音書第4章11節に「悪魔は離れ去った」とある。「悪魔は滅んだ」ではない。確かに、悪魔は離れ去った。しかし、「悪魔は次のタイミングを狙っている」と私たちに教えているようです。だからこそ、「悪魔の息の根を止め、とどめを刺して欲しかった。せめて悪魔に『二度と誘惑しません』と言わせて欲しかった」と思うほど、キリストの勝利は、眩しくキラキラと輝くより、控え目で、目立たない勝利に思えるのです。
 
Ⅱ. 改めて、キリストが勝利された悪魔の誘惑を振り返りたい。悪魔の誘惑は三度ありました。最初は、「神の子なら、こんなことくらいできるはず。お前が本当に神の子なら、石をパンに変えるぐらいわけもないだろう。」
次の誘惑は、「神の子なら、ここから飛び降りろ!神の子なら、神の子らしいところを見せてみろ!」しかしキリストは、神の子であることを、そのような形で示されることはありませんでした。
痺れを切らした悪魔は、ついに本性を表します。世界の王、世界の指導者、世界の富という地位、名誉、財産を与える!と約束し、代わりに「ひれ伏してわたしを拝め」と誘惑したのです。
実は先週、私も悪魔の誘惑を受けました。どんな誘惑?「成果」という誘惑です。悪魔は囁きました。「あなたは何年、この教会で働いた」。「4年と3ヶ月です」。「そうか。それで何人、教会員は増えた」。「そこそこ」。「そこそこ?」。「はい。受洗者も、転入会者も与えられました」。「そうか。でも、6月30日の礼拝出席者は何人だった?」。「55人です」。「何とも思わないか?」。「いえ、思います。やはり少ないです」。「そうだろう。だって、あなたが着任した年はもっと礼拝出席者がいた。あなたは4年間、何をしたのか?でも、いいことを教えよう。教会員をグンと増やす秘策がある。知りたければ、わたしを拝め。難しいことではない。いつものように働けばいい。いつものように説教すればいい。でも、心は悪魔に向けろ。神ではない。神に祈ったって、礼拝出席者は増えない。もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、たくさんの信徒を与えよう。教勢は伸びる。あなたは世界のキリスト者から賞賛され、取材を受け、謝儀も驚くほどアップするぞ!」
大袈裟に聞こえたかもしれません。しかし、先週の主日にここに立ち、説教を始めたとき、「エッ?」と思ったのは事実です。この気持ちを偽ることはできません。だからこそ、先週の「御言葉と祈りの会」で5年後、10年後の教会の歩みを皆で祈ったのです。どうすれば礼拝出席者が増えるのか?どうすれば受洗者、特に若い世代のキリスト者が与えられるのか?
しかし、木曜、金曜、そして昨日と説教準備を進めていると、「ああ、まさにこのように考える私こそ、『成果』という名の悪魔に負け、右往左往している。「教会の将来を祈りましょう!」と促しつつ、私の心は、「このままでは、私の立場が危うくなる。このままでは、東村山教会を去ることになる。なぜなら、4年で礼拝出席者が20名も減ってしまった。これでは、東村山教会で牧師を続けるのは困難」と一瞬でも考えてしまったのです。まさに、成果主義に支配され、悪魔の囁きに負けてしまった。「たとえ、礼拝出席者が数名になっても、神さまは東村山教会を愛し、導き続けてくださる」との神さまへの信頼を失いかけていたことに、気がついたのです。
悪魔はいかにも「私は悪魔」といった醜い姿で誘惑しません。私たちの不安、恐れにスッと入り、巧みに誘惑する。「あなたも教会の将来が心配だろう」と、もっともらしい理由をつけて、心をあっと言う間に支配する。雨の季節、また体調を崩している方がたくさんおられる。そうした教会員のご事情を私なりに把握しているにもかかわらず、「礼拝出席者55名」という数字を突きつける。
子どもの頃から偏差値に支配され、サラリーマンになってからは成果主義に翻弄された私だからこそ、悪魔は私を誘惑したに違いありません。もちろん、皆さんも常に悪魔から狙われている。中高生から年配の方まで、常に他者から評価されていることは同じ。高く評価されれば喜び、誰からも評価されないと不安になり、何かにすがりつきたくなる。

Ⅲ. 実は、神さまが私たちに求めるもの、悪魔が私たちに求めるものは同じ。「魂」です。神さまは、私たちが神さまに創造された時のまま、その人らしく愛し合い、生き生きと生きる魂。造り主の元で造り主と共に生きる魂を心から望んでおられる。悪魔も、私たちが神さまから離れ、地位、名誉、財産に魂を奪われ、悪魔にひれ伏し、拝む魂を求める。
悪魔は、キリストへの三度目の誘惑では、もう回りくどい言い方をしない。御言葉を用い、「聖書に書いてある」と言って誘惑する方法を捨て、本音で闘いを挑んだ。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」。
これほど魅力的な誘惑があるでしょうか?ひれ伏して悪魔を拝むなら、世のすべての国々とその繁栄を見せ、「これをみんな与えよう」ですから、とにかく悪魔にひれ伏し、「あなたこそ、私の魂」と拝めば、すべてを得ることができる。これほど美味しい話はない。人類史上、最初で最後の驚くべき悪魔との契約。言い訳をしてでも契約したくなる。私の魂はいつも神さまにあります。でも、一瞬だけ魂を封印し、サタンに向ければ、すべてを手に入れることができる。そうすれば、富を再分配し、この世から飢えをなくせる。戦争もなくせる。神さま、一瞬だけ罪を見逃してください!と真剣に祈るかもしれません。しかし、このような心こそ、悪魔に支配されている。もっともらしい理由をつけ、悪魔にひれ伏して拝むことは、まぎれもない偶像礼拝だからです。

Ⅳ. では、私たちの罪は赦されないのでしょうか?簡単に悪魔の誘惑に負けてしまう罪。不安から逃れるため、成果を求めるため、悪魔にひれ伏して拝む。それほどまで、様々な不安に押しつぶされる私たち。そのとき、御子が悪魔の誘惑に完全に勝利されたことを忘れています。
来週からも、マタイ福音書を読み続けることで、弟子たちや群衆の罪を通し、私たちの罪を繰り返し味わうことになります。御子を裏切り、体制に迎合し、その場の空気で意見を変える。もっともらしい言い訳で、悪魔の誘惑に負ける。しかも、悔い改めることなく、「だって、こんなに辛い状況に私を放置している神さまが悪い。私だって神さまを裏切りたくない。でも、我慢も限界」と悪魔の誘いに乗ってしまう。
そのような私たちの罪のために、御子は悪魔に、また私たちにも言い続ける。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そうです。御子は今朝も、私たちの不安、恐れ、驕り、高ぶりに対し、「退け、サタン。」と諦めることなく、励ましてくださる。さらに、私たちが生きる上でもっとも大切な、もっとも確かな、もっとも信頼できる指針を教えてくださる。それが、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」なのです。
私たちは知っています。命令ばかりで自分は痛むことなく、苦しむことなく、のほほんとしている人を。そのような人の語る指針は、信じられません。いや、信じるどころか、聞きたくもありません。「あなたなんかに、そんなこと言われたくない」。しかし、自らが痛み、苦しみ、誰よりも底辺に立ち、血の汗を流すほどに、父なる神さまを拝み、祈り、神さまの御心に最後まで、それも十字架の死に至るまで従順に従い続けた主イエスから「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言われたら、どんなに不安に襲われても、どんなに孤独を感じても、どんなに自分の弱さ、罪に嫌気がさしても、「十字架と復活によって私たちの罪、また死の闇に勝利してくださった御子にすべてを委ね、主を拝み、主に仕えることを大切にしたい!」と思うはずなのです。
御子は、私たちの罪と死に、十字架と復活によって勝利されました。結果、信仰告白し、洗礼によってキリストに結び合わされた私たちも、滅びから免れ、永遠の生命が約束された。主の愛に生かされ、主のものとされたのです。
改めて思います。もしも御子が悪魔の誘惑に負け、キラキラ輝く、繁栄した国々の王となられたら。神さまの御心(十字架への道)を拒否されたなら、私たちの魂は悪魔に支配され、悪魔に魂を売った罪人として生涯を終えていたと。
主イエス・キリストが悪魔との闘いにどこまでも低く、謙遜に勝利された。ご自分の思いでなく、神さまの思いに従い、私たちの身代わりとなって十字架で肉を裂かれ、血潮を流し、死んでくださった。だからこそ、今朝も私たちは聖餐の祝いに与り、永遠の命を味わえる。そのとき、私たちは絶望ではなく、御子と結ばれた喜びと感謝を心の底から味わうのです。
永遠の命に至る道であるキリストを信じ、歩み続ける。「勝利者キリスト」の背を見つめて。キリストのように歩み、キリストのように生きる私たちには、希望がある。たとえ、誘惑に負けそうになっても、いや、負けてしまっても、神さまの元に立ち帰ることが許されている。なぜなら、キリストは悪魔に勝利されたから。東村山教会にも「勝利者キリスト」の十字架があります。さらに、聖餐の祝いに与る。だから、私たちは失望せず、希望を抱いて歩めるのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・先週も九州地方で雨が降り続き、様々な被害が発生しております。また全国の被災地では今も困難な生活を強いられている方々が大勢おられます。主よ、それらの方々の上に、励ましと慰めをこれからも注ぎ続けてください。
・今日も入院生活を強いられている方々、自宅で療養を続けている方々が大勢おられます。主よ、それぞれの場所で共に祈りを合わせている兄弟姉妹を守り、聖霊を注ぎ続けてください。
・今日も長老会が行われます。あなたさまによって選ばれた8名の長老をこれからも存分に用い、聖霊を注ぎ続けてください。
・奏楽者、教会学校教師を祝福し、今月も存分に用いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年6月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第6章16節、新約 マタイによる福音書 第4章1節~11節(Ⅱ)
説教題「神の愛の証」
讃美歌:546、82、167、294、545A             

Ⅰ. 私たちは色々な場面で悪魔の誘惑を受けます。たとえば、このように悪魔はささやく。「神さまが愛の神さまなら、なぜ飢えに苦しむ人がいるのか?神さまが子どもを愛するなら、なぜ虐待される子どもがいるのか?神さまは平等にすべての人を愛していると言えるのか?どう考えても不公平ではないか!」
 悪魔がささやく。毎日の事件、事故を通して。もっともらしい顔で私たちに近づき、私たちを神さまの愛から引き離そうとする。「あなたが信じる神さまが本当の神さまなら、こんな理不尽なことを許すはずがない!」、「神さまが愛の神さまなら、誰もが納得する証拠を示して欲しい。証拠があれば、私も神さまを信じよう。どうだ、『神の愛の証』はあるか?」
 実は、私たちも悪魔のようにささやくことがあります。私も中高時代、教会学校の夏のキャンプで牧師に質問しました。「先生、神さまが愛の神さまなら、なぜ戦争を許しているのですか?なぜ、世界が平和になるよう動いてくださらないのですか?」
 確かに悪魔は、色々な場面で「もし、神さまが愛の神さまなら、なぜこんなことがあるのか?」と私たちを惑わす。さらに悪魔は、「神の愛の証はあるのか?」と私たちに迫ってくるのです。

Ⅱ. 悪魔は、主イエスを誘惑しました。40日間、昼も夜も断食され、空腹を覚えられた主に「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」とささやいた。それに対し主は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と最初の誘惑に勝利してくださいました。
主イエスは、私たちの罪を赦し、永遠の命を与えるために、命のパンとして、十字架で肉を裂かれ、血潮を流されました。悪魔を威圧して勝利されたのではありません。命のパンとして自らを差し出すことで最初の誘惑に勝利されたのです。
 しかし、悪魔は悪魔。一度、負けたからといってすごすごと引き下がるほどやわではありません。主が聖書の御言葉で切り返すなら、悪魔も御言葉で誘惑しようと、主を聖なる都に連れて行った。そして、神殿の屋根の端に立たせて、言ったのです。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
 悪魔は聖書の知識も抜群。誘惑のツボを心得ています。悪魔が引用したのは、詩編第91篇11、12節の御言葉です。こう書いてあります。「主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。」
 悪魔は詩編の御言葉を根拠に、「あなたが本当に神の子なら飛び降りてみろ。天使が助けに来るはず。そうすれば皆びっくりして信じるぞ!」とささやいた。悪魔のささやきは巧妙。いかにも聖書を信じているように振舞う。けれども、主イエスには悪魔の心が透けて見える。明らかに、主を試している。主が嫌い、お怒りになる罪です。 
 私たちにも、悪魔の誘惑に共感してしまう弱さがあります。「確かにそうだ。もしも、御子が神殿の屋根の端から飛び降り、地面に叩きつけられるギリギリのところで天使が飛んで来て、御子を手で支え、天に引き上げてくだされば、誰もが『主イエスこそ、神さまの子』と崇められるに違いない。さらに御子も十字架の死を回避できる。」
 伝道不振の時代。「どうしたら、大勢の人が教会に集い、洗礼へ導かれるか?」と真剣に考えれば、考えるほど、聖書の御言葉に加え、目に見える証拠、手で簡単に触れることのできる証拠を求めたくなる。
反対に、素晴らしい御言葉であっても、突然の試練に襲われている方々、「神さまが愛の御方なら、なぜこれほどの痛みを経験しなければならないのか!」と嘆いている方々に、「御言葉によって、神の愛を信じよう!」と、信仰告白、洗礼へ導くことは本当に難しい。
確かに、目に見える証に頼るのが私たち。たとえば、「あなたを愛しています」と告白される。すると、すぐ愛を確かめたくなる。これは古今東西、物語でも、芝居でも、繰り返し描かれる私たちの悲しい性根(しょうね)。愛を疑い、試すことは、信じること、愛することの対極にあります。
「疑い、試すこと」と、「信じ、愛すること」は両立しません。常に疑いの心、試みの心では、他者の信頼を得ることは困難。言動を常にチェックし、証拠を一つ一つ示すよう求め続けたら、「もう、あなたとはかかわらない!」と関係を断たれるでしょう。どんなに「あなたを心から愛し、大切に思っています」と告白しても、「愛の証を見せて欲しい!」と迫り、愛を疑い続けるなら、両者の関係は必ず破綻するのです。
このことは、神さまと私たちとの間にも言えます。どんなに「私は神さまの愛を信じます」と信仰を告白、洗礼を受けても、心のどこかで、「あなたが私を愛するなら、愛の証を見せて欲しい!」、「私の心はボロボロで、深く傷つき、誰からも相手にされない。それでも、あなたは私を愛するか?」と疑うなら、厳しい言い方になりますが、神さまの愛を100%信じていることにならない。
口では「神さまの愛を信じます」と言いながら、心は悪魔と何ら変わらない。神さまの愛を疑い、試していることになるのです。疑いの心こそ、私たちの罪です。そのとき、私たちは神さま以外のものに頼る。目に見える何かにすがる。いつの日か、捨てられるかもしれないのに、目に見えるものにお金を費やし、私に関心を向けさせようと努力する。その心は、完全に悪魔に支配されている。神さまの愛に背くよう悪魔はそそのかす。「神さまが本当にあなたを愛するなら、辛く、厳しい生活を強いることはないはず。だからあなたは、目に見えるもの、手で触れられるものを頼りなさい。神の愛など幻だ!」と。
 
Ⅲ. ところがです。神さまは、悪魔の誘惑に負け、愛を疑い、目に見えるもの、手で触れられるものに頼ってしまう私たちに、驚くべき仕方で「神の愛の証」を与えられた。私たち人間、また悪魔も、想像出来ない仕方で。主イエスこそ、神さまの御子。主イエスこそ、救い主キリスト。主イエスこそ、「神の愛の証」であると。
御子によって示された「神の愛の証」は、天使に支えられ華々しくキラキラと輝きながら屋根から飛び降りてみせるような愛ではありません。その反対。誰もが目を背けたくなる御子の惨めなお姿。群衆から「十字架につけろ!」と叫ばれ、弟子たちに加え、父なる神さまからも見捨てられ、十字架で息を引き取られた主。その瞬間、主は陰府(よみ)に降り、地獄のような不安と痛みを私たちに先立って味わわれた。その結果、主は私たちをすべての不安、痛み、恐れから解放してくださったのです。
悪魔から二度目の誘惑を受けたとき、主イエスは考えた。「悪魔の誘惑に負け、天使たちの手に支えられ、上げられるなら、十字架の死はなくなる。しかし、それでは人々の疑いの罪、迷いの罪は永遠に赦されることがなくなる。誰もが神の愛を信じ、十字架の赦しを信じるために、悪魔の誘惑に勝たねばならない。神の愛を証するには、どうしても陰府に降らなければならない。陰府降りこそ、『神の愛の証』なのだ。」
父なる神さまは、心の底から私たちを愛し、赦したいと願っておられます。私たちがどんなに神さまの愛を疑い、愛から離れ、愛を忘れても、神さまは私たちを愛し、私たちを忘れず、どこまでも赦したいと願っておられる。だから、絶対に手放したくない大切な独り子を世にお遣わしになられた。私たちの罪を赦し、愛を証するために。
 主イエスは、神さまに従うことで、神さまの愛を証されました。そして、神さまの独り子であることを証してくださった。その上で神さまは、御子を隠府から引き上げ、甦らされた。だから、私たちは絶望しない。何処にいても一人ではない。たとえ死の影に怯えても、愛する者を失っても、そこにもここにも、御子の姿を見出すことが出来る。私たちは一人で苦しむのではない。主が共に苦しんでくださり、陰府にまで、一緒に降ってくださる。このような驚くべき御子の御業こそ、「神の愛の証」なのです。
 悪魔の試みに対し、主が「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われたとき、また悪魔の望む形で「神の愛の証」を立てるのを拒まれたとき、主は十字架と復活によって驚くべき「神の愛の証」を成し遂げられたのです。
深い、深い神さまの愛が、今朝も私たちに注がれています。私たちはひとりぼっちではありません。主イエスがどこまでも、共に歩んでくださる。生きているとき、さらに地上の命を終えた後も永遠に。そのような驚くべき恵みこそ、私たちの生きる力であり、大きな慰めとなるのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・梅雨の季節、体調を崩しているお一人、お一人をお守りください。
・今、入院生活を強いられている方々、自宅で療養を続けている方々が大勢おられます。主よ、それぞれの場所で共に祈りを合わせている兄弟姉妹を守り、聖霊を注ぎ続けてください。
・先週の水曜日にご葬儀を終え、深い悲しみに襲われているY姉のご遺族さまの上に復活と再臨の主の慰めを溢れるほどに注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年6月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第8章1節~10節、新約 マタイによる福音書 第4章1節~11節(Ⅰ)
説教題「神の言葉によって生きる」
讃美歌:546、9、187、262、544              

Ⅰ. ヨハネから洗礼を受けた主イエスは、神さまの霊が降って来るのを御覧になられました。主イエス、また私たちキリスト者は、どのようなときも神さまの霊に導かれています。喜びのとき、悲しみのとき、「神さまに見捨てられた」と思うときも。神さまは私たちを見捨てることなく、時に、鍛錬を通して、私たちを子として鍛え、キリストの僕として成長させてくださるのです。
洗礼を受けた主は、悪魔の誘惑を受けるため、霊に導かれ、荒れ野に行かれました。主は40日間、昼も夜も断食された。4食ではない。4日でもない。40日間の断食。今はネットで何でも検索できます。「断食限界」と入力すると、こんな記事がありました。「1981年にアイルランドで起きたハンガーストライキの記録から、人間は絶食すると3週間から70日の間に死ぬことが分かっている。」反対に言えば、絶食しても3週間なら生きられるのは驚きです。いずれにせよ、主イエスは40日間、断食されたのです。
想像を絶する飢え。そのタイミングで、誘惑する者が来て、主に囁きました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」悪魔は囁いた。「神の子なら」。この「神の子なら」は、私たちも呟く言葉です。「神の子なら」には、私たちが陥る罪をはらんでいます。「神さまがいるなら、なぜこんなにも悲惨な現実があるのか!」。「神さまが真の神さまなら、人々の飢え渇きを黙認されるはずがない!」と神さまに文句を言う。
反対に、良いことが起きたときは、「ああ、神さまが私を守ってくださった!」。「神さまを信じていて良かった!」と言う。このような思いにも、私たちの罪が隠れているのです。「えっ!神さまに感謝して何が悪いのですか?」と疑問に思われるかもしれません。しかし、「神さまなら、こんなことがあるわけない」と「神さまは私のために良くしてくださった」には、どちらも同じ罪が隠れているのです。それは、「自分にとって都合の良い利益をもたらしてくださるのが神さま」という自分勝手な思いです。自分にとってプラスのときは、「神さま!」と喜ぶ。反対に、自分にとってマイナスのときは、「神さまを信じ、礼拝に通い、コツコツと献金を献げてきた。それなのに、なんで試練に襲われるのか?」と神さまに文句を言う。そのとき私たちは、神さまを手のひらで転がしています。私好みの神さまにしている。自分の都合で神さまを利用している。良いことがあれば、「神さまの恵み!」と喜び、悪いことがあれば、「神さまらしくない!」と文句を言う。
良いこと、悪いこと。喜び、悲しみ。恵み、試練。自分の物差しで神さまを裁いてしまう。それが私たちの罪。「私にとって良いことをしてくださるのが神さま」という考えに陥っていないか?神さまの驚くべき深い御心を、私の理解できる範囲に狭めていないか?そう問われると、私たちは何も言えないのです。
 
Ⅱ. 主イエスは真の人として、私たちの弱さを知っておられる。同時に、真の神であられる。40日間断食し、激しい空腹を覚えても、イライラせず、聖書を用いて悪魔に答えられました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。今朝の旧約聖書、申命記第8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」からの引用です。主は悪魔の囁きを御言葉で退けた。この事実は重要です。確かに、主イエスのお答えは文句のつけようがありません。
しかし私たちは、主イエスの言葉を読むと、安直に「そんなこと言われても腹が減っては何もできない!どんなに神さまの御言葉があっても、パンがなければ死んでしまう!」と考える。もちろん、主が伝えることは、「神さまとの繋がり、神さまの言葉が大切。食べ物などなくてもよい」というレベルの話ではありません。もちろん、パンも大切。大工の子としてギリギリの生活を営んでいた主イエス。当然、貧しい暮らしの悲哀は、主イエスも幼少から身に沁みてご存知であったに違いありません。さらに、ガリラヤ伝道を始められた主は、弟子たちに禁欲的な生活や断食を強制せず、福音書にはよく食事を楽しむ場面が描かれている。ではなぜ、主は悪魔の誘惑に対して、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われたのか?
 実は当時、ユダヤ教の主流派であったファリサイ派やサドカイ派と対立する分派は、荒れ野に潜み禁欲的な生活をしておりました。洗礼者ヨハネを中心とする一派も、荒れ野で同様の生活をしていた。ヨハネから受洗した主イエスも、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして40日間、ヨハネに倣い修行のような、禁欲的な生活を続けたのです。
カトリックの信者である作家の遠藤周作は、著作『イエスの生涯』の中で、今朝の誘惑の場面について、「イエスは、この時期に、荒野に隠れ住み、革命を目指していたユダヤ教の一派から、『仲間に入らないか』と誘われたのではないだろうか?」と推測しております。「あなたが神の子なら、革命は成功!革命が成功なら、食べ物はもちろん、この世の富も名誉も手に入る」と。
 これが史実であるか否かは別として、そう考えると、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われた主イエスの言葉が、主の決断表明として心に響きます。
主イエスの決断とは、「人間の知恵と力で革命を起こし、神の裁きをこの世に実現しよう!」ではなく、「あなたがたに神の愛の深さを示し、神の言葉を実現させるため、私は十字架で死ぬ!」という決断です。
 確かに主は、ご自身を私たちが生きるためのパンとして分け与えられました。主イエスは最後の晩餐の夜、「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と言われ、パンを裂き、弟子たちに与え、十字架へと赴かれたのです。

Ⅲ. 主イエスは40日間、昼も夜も断食し、空腹を覚えたとき、さらに「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と誘惑されたとき、神さまに従い続ける決断を忘れることはありません。「私はいったい何のために父なる神さまから離れ、罪の世に遣わされたのか!」その目的を忘れることはなかった。どんなに空腹を覚えられても。
実際、主イエスが石をパンに変えることは簡単です。しかし、主が世に遣わされたのは、肉の糧で人々の飢えを満たすためではありません。そうではなく、霊の糧である、神の言葉によって人々の飢えを満たす。そのために、主は世に遣わされた。主イエスは、その使命をどんなときも忘れないのです。
 父なる神さまは、御子を世に遣わされた。私たちが思いもよらぬ神さまの愛。主の十字架に、神さまが神さまであること、御子が御子であることが示された。私たちにとって都合が良いか、悪いかは問題ではない。思いもつかぬ方法で、神さまは御心を行われる。御子は神さまの思いに忠実に従い続けた。その結果、御子の十字架によって、私たちの救いが成就したのです。
 
Ⅳ. 今朝は、悪魔から主イエスへの三つの誘惑の最初の誘惑を共に味わっております。来週は二つ目の誘惑。再来週は三つ目の誘惑を味わいます。すべての誘惑を導いているのは神さまの霊です。やはり、不思議に思います。けれども、よくよく考えると、不思議ではないのです。
私たちが信じるのは、父なる神さま、子なる神さま(キリスト)、聖霊なる神さまからなる三位一体の神さまです。私たちの父であり、主の十字架によって私たちの罪を赦し、どんなときも聖霊を注ぎ続けてくださる神さまを信じる。その神さまが、時に、聖霊によって私たちを試し、誘惑するのです。
皆さんもそれぞれに経験があるはずです。「こんなに毎日、真剣に心を込めて祈っているのに、神さまは私の祈りを聞いてくださらない!」と嘆いてしまう。
反対に、何もかも上手くいっているとき、真の意味で神さまに救いを求めるのを忘れることがある。そんなとき、聖霊なる神さまは、絶妙なタイミングで私たちを試される。そして、心の奥に届く御言葉を与えてくださるのです。 
なぜ、この御言葉なのか!と思う御言葉が与えられる。主日礼拝の御言葉。御言葉と祈りの会での御言葉。「ローズンゲン(日々の聖句)」の御言葉。時に、ドンピシャリの御言葉が示され、驚きつつ、悔い改めの涙を流す。そして思う。「ああ、やはり私たちを生かすのは神さま、主イエスの御言葉だ。確かにパンは大事。肉の糧は私たちを笑顔にする。しかし、どんなにパンを食べ続けても、魂の飢え渇きは満たされない。真の意味で私たちを生かし、赦し、育み続けるのは神さまの愛、主イエスの愛、聖霊の導き、神さまの口から出る一つ一つの御言葉なのだ」と実感するのです。
私たちは、驚くべき神さまの愛、主イエスの愛により、心も体も、まるごと生かされております。神さまの愛と赦しと憐れみによって歩む。肉の糧であるパンか、霊の糧である御言葉か、という問題ではありません。私たちの思いを遥かに超えて高く、深く、広く、大きい神さまの愛に、聖霊によって導かれ、十字架と復活、そして再臨の喜びへと私たちは日々、招かれているのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・全国の被災地、余震の不安を抱いている山形、新潟、秋田等の方々を強め、励ましてください。被災された全国の方々が希望を失うことのないようお導きください。
・梅雨の季節、今朝も、体調を崩しているお一人、お一人をお守りください。
・今、入院生活を強いられている方々、自宅で療養を続けている方々がおられます。主よ、それぞれの場で今朝も共に祈りを合わせている兄弟姉妹を守り、聖霊を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年6月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章6節~12節、新約 マタイによる福音書 第3章13節~17節
説教題「主イエスの覚悟」
讃美歌:546、61、180、495、543   

Ⅰ. 洗礼者ヨハネは、救い主(メシア)に対し、大変に厳しい裁き主であると信じておりました。だからこそ、群衆に対し、悔い改めを促し、ヨルダン川の水で洗礼を授けていたのです。そのとき、主イエスがガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られたのです。ヨハネは大いに慌てました。そして、主に洗礼を思いとどまらせようとして言ったのです。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
ところが、主イエスはお答えになられました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
15節で「正しいこと」と訳された言葉は、他の箇所では「義」と訳される言葉です。義は、神さまが求める正しさ。つまり、「正しいことをすべて行う」は、神さまが求める正しいこと、義をすべて行うという意味になる。以上より、主イエスが洗礼を受ける理由は、「神さまが正しいこと、義を求めるので、私は洗礼を受ける」と理解するのです。
さらに主イエスのお言葉で、私たちが無視できない重要な言葉があります。それは、「我々」です。主は、洗礼者ヨハネと対話しております。ヨハネが主の洗礼を思いとどまらせようとして「あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と訴える。それに対し、主はすぐにお答えになる。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」つまり、主イエスが語る「我々」は、素直に読むと、主イエスとヨハネを意味します。けれども、主イエスが考える「我々」は、主イエスとヨハネだけではないようです。主がヨハネのもとに来られたのは、群衆の一人としてヨハネから洗礼を受けるためでした。主イエスの洗礼は、エルサレムとユダヤ全土、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから受けた洗礼と同じ。つまり主は、群衆の一人として、ヨハネの前にやって来られた。そして、罪を犯すことがないのに、罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたのです。つまり、主イエスが群衆の一人になってくださったことで、15節の「我々」は、主イエスとヨハネに群衆が加えられ、さらに今を生かされている私たちも加えられるのです。主イエスは、単独で行動しておられるときも、常に私たちを意識しておられます。もちろん、今朝の御言葉ではヨハネを強く意識しておられる。同時に、どのようなときも群衆、そして私たちを意識しておられるのです。
 主イエスが洗礼を受けてくださった。この事実は本当に大きな恵みであり、喜びです。主イエスが洗礼を受けてくださることで、洗礼を受けた私たちも主イエスが語る「我々」に加えられた。結果、洗礼を受けた私たちは永遠に主と共に生きることが許される。私たちがたった一人で神さまの御前に立たされることがなくなる。どのようなときも、主が私たちと共におられる。告白すべき罪、洗い流すべきしみの一点も持たれない主が、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と訴えるヨハネ、また私たちと同じ罪人として水の中で洗礼を受けることを決断してくださった。だから、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」とおっしゃる。主が「私にふさわしい」でなく、「我々にふさわしい」と罪の私たちを加えてくださる。これほどの恵みを心に刻むとき、私たちは真の意味で安心するのです。
 けれども私たちは、主イエスによって成就したインマヌエル(神は我々と共におられる)の恵みを疑ってしまう日があります。たとえば、試練に襲われたとき、将来への不安を抱えているとき等、そのようなとき、私たちは主を疑う。 
 確かに洗礼を受けた。罪も赦された。永遠の命も約束された。しかし、同じ過ちを繰り返す。隣人を傷つけ、自分も傷つく。そのとき、「神さまに赦されたのは幻だったのではないか」と不安になる。けれども、そのようなときこそ、今朝の御言葉を思い起こしたい。主イエスの頭には、常に「我々」がある。神さまが求めているのは、立派な優等生ではありません。その反対。どうしようもない、救いようのない私たちです。口では偉そうなことを語り、立派な人間のようにふるまう。しかし、心の底には誰にも見せたくないドロドロした部分がある。すぐに怒り、すぐに落ち込む。時に主の愛を忘れ、洗礼を受けたことすら忘れてしまったかのように不平不満を呟く。主は、そのような私たちを「我々」として常に意識しておられる。「罪のあなたがただからこそ、私は覚悟を決め、罪人の中の罪人として、あなたがたと同じ洗礼を受ける。」主イエスの洗礼は、神さまが与えてくれた驚くべき恵み。御子の洗礼は、私たちが神さまから正しい、義なる関係を頂くために避けられない出来事なのです。
「今は、止めないでほしい。」とヨハネに訴えた主イエスの迫力は、相当な
ものであったはずです。もちろん、その迫力はヨハネを威圧するものではありません。そうではなく、主イエスが覚悟を決め、群衆の一人としてヨハネから洗礼を受けた結果、これからどのような道を歩むことになるのか、主イエスは真の神さまですから、わかっておられる。その道こそ、十字架への道。本来、私たちが歩むべき道を主が私たちと共に歩んでくださる。それも、私たちと共に神さまの御前に立ってくださるというより、神さまと私たちの間に立ちふさがるように歩み、後ろにいる私たちをかばうように御手を広げ、神さまの御前に立ち、私たちに代わり神さまの怒りを受け、十字架の死を成し遂げられる。そのような道。このような主イエスの覚悟がなければ、私たちが神さまの子として歩むことは不可能であった。さらに、御子が覚悟を決めただけでなく、父なる神さまも御子に十字架への道を歩ませる覚悟を決め、御子を世に遣わした。その意味で、私たちの罪の赦しと永遠の命は父なる神さま、子なる神さま(主イエス)の覚悟によって与えられるのです。主イエスの十字架への道の第一歩が洗礼。だからこそ主は、ヨハネに告げるのです。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふわさしいことです。」
主イエスの覚悟に、私たちの救いがあり、喜びがあり、慰めがあり、永遠の命がある。そして主が「我々にふさわしいことです。」と断言してくださった。さらに主は、ヨハネに語ります。「あなたが私の洗礼を止めてしまったら、群衆は誰一人として救われない。もちろん、あなたも救われない。つまり、あなたがたは永遠に父なる神さまと義なる関係、正しい関係を築くことができない。どんなに悔い改め、どんなに良い業を重ねても、限界がある。あなたがたの罪が赦され、永遠の命を得るために、私は罪人となり、洗礼を受け、あなたがたを導く。結果、神とあなたがたは義なる、正しい関係を結ぶ。あなたがたが神を父と呼び、神から子と呼んで頂くために、私は洗礼を受けなければならない。」
ヨハネは、主の言われるとおりにしました。緊張したはずですが、ヨハネは御子に群衆の一人として洗礼を授けたのです。と、そのとき。パーッと天の扉が御子に向かって開いた。さらに、御子ご自身が神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になったのです。

Ⅱ. ところで先週は、ペンテコステ礼拝でした。弟子たちの上に炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。そして今朝は、神さまの霊が鳩のように主の上に降ることをご一緒に味わいました。さらに、それだけではありません。主イエスに神さまの霊が降ったとき、天から声が聞こえた。どのような声であったか?大きな声、優しい声、野太い声、たとえどのような声であっても、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのです。
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。原文通りに翻訳すると、こうなる。「この者は私の子、愛される者である。彼を私は喜んだ。」新共同訳とは少し違います。ちなみに、新改訳聖書2017の翻訳は、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と訳しております。そうです。神さまは御子が洗礼を受け、十字架への道を歩み始めたことを喜ばれる。同時に、神さまが御子の洗礼を喜ばれたように、私たちが信仰告白し、洗礼を受け、罪の赦しと永遠の命を与えられることを誰よりも喜ばれる。神さまは語ります。「あなたがたの罪の深さは誰よりも私が知っている。だからこそ、御子を世に遣わし群衆の一人として洗礼を受けさせた。その結果、御子の上に聖霊が鳩のように降り、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と伝えた。つまり、私から御子への愛は、洗礼を受けたあなたがた、これから信仰告白し、洗礼を受けるあなたがたにも注がれる。信仰告白し、洗礼を受けることで、圧倒的な恵みと祝福と平安があなたがたにも注がれる。」

 Ⅲ. 今朝、礼拝に招かれた私たち、ほとんどの方がすでに信仰告白し、洗礼を受けております。洗礼を受けた日の喜びは今も、鮮明に憶えているはずです。あの日、あの教会で、あの先生を通して、「父と 子と 聖霊との み名によって、バプテスマを授ける。アーメン。」と洗礼を授けられた。そのとき、私たちにも神さまの声が聞こえた。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と。この喜びの背後に主イエスの秘かな決意、「罪人のために十字架にかかるのだ」という覚悟があったことを忘れたくない。であるなら、私たちも父なる神さま、子なる神さまから求められることがあれば素直に受け入れ、聖霊の働きを信じ、誠実に与えられた働きを担いたい。神さまに喜んで頂ける働きは人それぞれ。皆、それぞれに素晴らしい賜物を神さまから与えられているのです。
 神さまの愛は私たちの愛と違います。なぜか?私たちはどうしても見返りを求めてしまう。けれども、父なる神さまは御子を十字架の死に至らせても、私たちの罪を赦し、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼んでくださる。また洗礼によって、私たちをどのようなときも導いてくださる。そのような驚くべき恵みを心に刻むとき、私たちは洗礼を感謝し、この恵み、この喜びを、いつの日かあの人、この人にも味わって頂きたいと祈り続けるのです。
洗礼の恵み、喜びは、永遠の恵みであり、喜びです。その恵み、喜びを、主イエスは「我々にふさわしいことであり、洗礼によらなければ、真の意味で神さまとの正しい関係、義なる関係を結ぶことはできない」と、今朝、私たちに教えています。神さまと私たちの間に正しい道、義の道を切り拓き、常に先頭を歩き、導いてくださる主イエス。御子ご自身が道であり、盾となり、共に神さまの御前に立ってくださる。このような主イエスこそ、私たちの喜びであり、誇りなのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・梅雨の季節に入っております。天候が不安定で、暑い日もあれば、寒い日もあり体調管理が難しくなっております。体調を崩しているお一人、お一人をお守りください。
・今、香港でデモが行われています。世界中に様々な難しい問題があります。日本も様々な問題を抱えております。どうか、それらの難しい問題を良い方向へとお導きください。
・今、入院生活を強いられている方、自宅で療養を続けている方がおられます。主よ、それぞれの場で今朝も共に祈りを合わせている兄弟姉妹をまもり、聖霊を注ぎ続けてください。
・今朝も、礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなたさまの恵みと祝福と聖霊を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年6月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第40章3節、新約 マタイによる福音書 第3章1節~12節
説教題「神のふところへの帰還」、
讃美歌:546、10、183、Ⅱ-1、333、542、Ⅱ-167        

 今日は、聖霊降臨日(ペンテコステ)です。父なる神さま、子なる神さま(主イエス・キリスト)、聖霊なる神さまを信じる私たちにとって、ペンテコステは、クリスマス、イースターと同じように大切な日です。十字架で息を引き取られ、復活された主が言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終えると、主は使徒たちが見ているうちに天に上げられ、雲に覆われ、見えなくなりました。その後、残された使徒たちが一つになり集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、「霊」が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。そして今朝、聖霊降臨の喜びに日本の言葉で耳を傾けている。やはり、聖霊降臨日は私たちにとって大きな恵みです。

 さて、私たちはマタイによる福音書を第1章1節からコツコツと読み始め、先週でクリスマスの出来事を読み終えました。そして、大人になった主イエスによる伝道の業に入るかと思うと、マタイは主イエスでなく、洗礼者ヨハネを登場させるのです。

ヨハネはユダヤの荒野で、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物として」おりました。つまり、極めて質素な禁欲的な生活を自分に強いて、自らを一つのモデルとして、「いよいよ神の国が近づいているから、悔い改めよ」と人々に説いた。そして、悔い改めの印としてヨルダン川の水で洗礼を授けていたのです。ヨハネによる自らの身をもって示す力強い教えは、支配者ローマ帝国に迎合する当時の社会への批判を伴い、ユダヤ人社会を清めようとする民族浄化運動として、多く人々の心を引き、波及します。その結果、続々と人々がつめかけ、罪を告白し、洗礼を受けたのです。その中には、「ファリサイ派やサドカイ派の人々も大勢いた」とマタイは記します。ファリサイ派とは、ユダヤの律法学者によって解説された律法を厳格に実践することを身上とし、自分たちこそ、神さまの前に正しい者であると自負するほど熱心に実行した人々です。そこにこだわる余り、一般庶民階級を軽蔑するような「本末転倒」に陥っておりました。サドカイ派とは、ユダヤ人の指導的階級の一つで、宗教的には保守的でありながらギリシア文化には解放的で、ローマ帝国に迎合し、民衆から離れた特権階級でありました。二つの派は互いに対立していたようですが、貧しい暮らしの民衆から離れた階級の人々であったようです。そのような人々からも、ヨハネの洗礼を求めて大勢集まったとマタイは記すのです。ヨハネの活動は大きな波となり、神の国の到来への期待が高まった。ヨハネが普通の人なら、宗教的に権威ある人々まで集まって来るのですから、得意になってもおかしくありません。

 ところがヨハネは言うのです。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」蝮、つまり毒ヘビの子、と言う。ヘビは、創世記のアダムとエバの物語にも登場するように、罪の象徴です。ヨハネは問うのです。自分は正しい、罪を犯したことなどないと信じこんでいる人々に「罪の血が流れている蝮の子よ、洗礼で、神の怒りを免れるとでも思っているのか?誰がそんなことを言った?」と。皆が「はあ?」と思ったに違いありません。なぜなら、「悔い改めろ!洗礼を受けろ!と言っているのはヨハネさん、あなたでしょ?自分のしていることを否定するのですか?矛盾していませんか!」しかし、ヨハネの言葉には続きがある。「悔い改めにふさわしい実を結べ」。「もう、お前たちは洗礼を受けたって無駄だから帰りなさい」ではないのです。

では、「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とはどういうことか?倫理的な行動を厳守することか?ファリサイ派の人々は、神さまの掟を守ることにかけては誇りを持って実践している人たちです。では、どういうことか?ヨハネは続けます。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」「神の民、イスラエル民族の祖先、信仰の父アブラハム。その子孫だから私も神の民と思うな。神はこんな石からでも、神の民を造り出せる。アブラハムも石ころだった。神はアブラハムが立派だから、偉いからお選びになったのではない。あなたも石ころであることを知れ。神はあなたに値打ちがあるから愛してくださるのでは決してない。」そう言うのです。「悔い改めて洗礼を受ける」とは、自分勝手に正しいと思い込み、見当違いの方向に歩いていたのを、きびすを返して、大いなる愛のもとに立ち帰ること。すべてを造られた神さま、石ころにすぎない私に命と信仰を与えてくださった神さまのふところへ立ち帰り、自分が石ころだったことに気づくなら、口から感謝が溢れる。間違っても、私は正しい、あの人より偉い、などと言って人を蔑(さげす)むはずがありません。共に、主の恵みに生かされている隣人同士、尊重しあい、主を賛美することこそ、悔い改めにふさわしい実といえましょう。石ころ。色々なイメージが与えられます。せいぜい子どもに蹴られるくらい。宝石なら身につけてもらえる。しかし、石ころは誰からも評価されず、土埃にさらされ、強い日差しに照らされ、冷たい雨に打たれる。そんな石からでも神さまは「アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」とヨハネは断言するのです。本来、石ころの私たちは神さまに選ばれ、洗礼を授けられ、聖霊を注がれ、聖餐の祝いに与り得ない愚かな者です。本当にそう思います。もうしません!と始末書を書く。それなのに同じ過ちを繰り返す。強い者におもねる。反対に弱い者を威圧する。まさに石のような頑なな心の持ち主。そのような私たちの心を打ち砕き、柔らかな心にしてくださるのが神さまの愛であり、主イエスの十字架による赦しなのです。

 さらにヨハネは続けます。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」御子の出現、御国の到来を告げるヨハネの言葉を前に、私たちは立ちすくみ、途方に暮れる。御子がそのような火であるなら、誰が耐えられるでしょうか?ところが、実際に来られた主イエスのなさったことは何だったか?良い実を結ばない私たちではなく、ご自身をばっさりと切り倒し、神さまの怒りの炎の中に投げ込まれたのです。御子は、ヨハネの思いを遥かに超える仕方で救いを成し遂げられました。私たちが神さまの御前にふさわしい者として立てるよう、御子が神さまの怒りの炎の中に身を投げてくださった。そのようにしてまで、神さまは石ころだった私たちを選び、神さまの子としてくださった。御子の十字架の死があるから、私たちは「悔い改めにふさわしい実」を結ぶ望みを失わずに歩み続けることができるのです。

 説教の冒頭で語ったように、今日は聖霊降臨日。洗礼者ヨハネも、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と語る。決定的なのは「聖霊」です。聖霊と火で洗礼を授けることが主イエスの役目とされています。実は「聖霊」は旧約聖書にも登場します。イザヤ書第11章。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」このように、救い主(メシア)が霊を担うものとして詳しく描かれています。その方が主イエスであるとはっきり指し示したのはヨハネの最大の業績です。「主イエスこそ、真の審き主であり、真の救い主である」と宣言したのです。

 私たちはすでに聖霊を注がれています。そして、この後、聖餐の祝いに与る。本来なら聖餐の祝いに与ることなど許されない罪人。神さまの怒りの炎で焼き払われて当然の私たち。にもかかわらず、御子が神さまの怒り、呪いをすべて引き受けてくださった。主イエスが「生きよ」と私たちを赦し、今朝も教会へ招き、聖霊を注ぎ、聖餐の祝いまで用意してくださった。そのような驚くべき恵みを心に刻むとき、「どうせ私は石ころ、どうせ私は罪人」と開き直るのではなく、「こんなにも私を愛し、赦し、聖霊を注いでくださる神さま、本当にありがとうございます!」と感謝し、「たった一度の地上での歩みを誠実に歩み続けたい!」と心の底から願うのです。「悔い改めにふさわしい実」と言われると、どうしても立派な、皆に誇れる実を考えます。しかし、誰が認めるとか、認めないとかでなく、石ころにすぎない私たちを「子よ!」と呼び、「私のふところに帰りなさい」と日々、招いてくださる神さまがおられる。それこそが私たちの救いであり、喜びなのです。 

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・今、深い悲しみに襲われている方々、将来への不安を抱えている方々を慰め、励まし、これからも聖霊を注ぎ続けてください。
・今、入院生活を強いられている方、自宅で療養を続けている方がおられます。主よ、それぞれの場で今朝も共に祈りを合わせている兄弟姉妹をまもり、聖霊を注ぎ続けてください。
・今朝も、礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなたさまの恵みと祝福と聖霊を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年6月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第31章15節~17節、新約 マタイによる福音書 第2章13節~23節
説教題「神の御心の実現」、
讃美歌:546、54、191、Ⅱ-1、238、541            

<夢より主イエス>
 皆さんは、昨晩から今朝にかけて何らかの「夢」を見たでしょうか。良い夢なら、目覚めたとき「夢の続きを見たかった」とがっかりする。反対に、悪い夢なら、「夢でよかった」と思うはず。いずれにせよ、私たちにとって「夢」は身近なものです。
新約聖書で「夢」と訳されるギリシア語は「οναρオナル」という言葉です。私は、新約聖書に「夢」という言葉がたくさん登場すると思っていましたが、調べてみると、新約聖書で「夢」が登場するのは、マタイ福音書のみ。しかもたった6回しか登場しないのです。なぜ少ないのか?「夢」に対する批判的な姿勢が背景にあるようです。実際、新約聖書では「夢占い」への言及は一つもありません。
しかしマタイは、第2章13節で「主の天使が夢でヨセフに」、19節で「主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて」、さらに22節で「ところが、夢でお告げがあったので」と「夢」を3回も用いております。つまりマタイは、「夢」に対して特別な思いを抱いていることがわかります。
実は、マタイが使う「夢」には続く言葉があります。主の天使が夢でヨセフに伝える出来事が「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と続く。つまり、遠い将来ではなく、これからすぐに起こる出来事が、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と記すのです。
預言者が登場する前、神さまは夢を通して、これから起こる出来事を伝え、警告しました。しかし、預言者が登場したことで、夢で語る必要がなくなった。しかも、真の預言者であられる御子がお生まれになったことで、夢には特別な意味がなくなった。よってマタイは、「夢」を用いつつ、「もう私たちは、夢で一喜一憂する必要がなくなった。主イエスの言葉、さらに十字架と復活、また再臨の約束を信じることで、滅びから救いへと必ず導かれる!」と伝えているのかもしれません。

<帰って行った学者たち>
主イエスは、真の神さま、真の人としてベツレヘムでお生まれになりました。主がお生まれになったとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来たのです。
 不思議な、明るく輝く星を見つけ「この星は何だ?」とあっちこっち調べた結果、「どうやらこの星は、ユダヤ人の王が生まれたしるしらしい」との結論を得て、お生まれになった幼子を拝むために、はるばる旅をしたのです。
 旅の途中で、どうしたことか星を見失い、「ユダヤ人の王ならば」とヘロデ王の元を訪ねた。ヘロデ王は家来に色々と調べさせ、学者たちに教え、「生まれた子を見つけたら、帰りにもう一度立ち寄って場所を教えて欲しい。私も拝みに行きたいから」と言って送り出したのです。学者たちは再び星を見つけ、星に導かれ、主イエスの元を訪ね、御子を拝んだ。ところが、その夜。学者たちに「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行ったのです。

<ヨセフの決断>
 その直後、主の天使が夢でヨセフに現れて言いました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
 ヨセフはすぐに決断、行動しました。夜のうちに起き、明日の予定も仕事も何もかも放り出し、幼子イエスとその母マリアを連れてエジプトに旅立った。そして、ヘロデが死ぬまで、エジプトに留まったのです。知り合いなど一人もいない。言葉も通じない。全く未知の土地。どれほどの困難があったことか。そして、ようやく新しい土地での生活にも慣れた頃、ヘロデが死ぬのです。
すると、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言いました。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」このときも、ヨセフはすぐに起き、行動した。幼子イエスとその母マリアを連れて、イスラエルの地へ帰って来たのです。
しかし、ヘロデの跡を継いで息子アルケラオがユダヤを支配していると聞き、いったんは恐れ、躊躇するも、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだのです。
 私たちは今朝、ヨセフの決断を心に刻みたい。確かに不安がある。しかし、決断し、神さまが示された地にすぐに移動した。神さまは、ヨセフを通して、私たちに問う。「あなたは、24時間いつでも、主に従って行動していますか?あなたは、24時間いつでも、主と共に歩み、主の栄光のために行動していますか?そのための心の備えができていますか?」と。
 私たちも、主の御心を真剣に問い、決断し、主の栄光のために行動したい!と願いますが、ヨセフのように、神さまが命じられた後、たとえ夜であっても、たとえ新しい土地に慣れたとしても、すぐに行動することはなかなか難しいと思います。 
しかしヨセフは、すぐに決断し、行動した。その結果、幼子イエス、その母マリア、そしてヨセフの命が神さまによって守られた。この事実をしっかりと心に刻みたいと思います。

<恐れと怒り>
 さて、ヨセフ一家に起こった出来事に挟まれて書かれているのが、ヘロデ王による幼児虐殺の出来事です。ヘロデは、待てど暮らせど占星術の学者たちが戻って来ないので、命令を無視されたことに気づきます。結果、烈火のごとく怒(いか)りました。
王とは、自分の王国を思いのままに治めることのできる者です。命令を無視する者がいるようでは、王のメンツが立たない。面目丸つぶれ。これでは王国の秩序、王の権威は保たれないから怒るのは当然です。王が「ま、いいか」と言っていては、王国は崩壊します。
王は、自分の権威を守るため、王国の秩序を守るため、自分の王国を自分の思うままに保つため、自分が王であることを示すために行動する。だからこそ、「人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」のです。言葉もありません。本当に恐ろしいことです。
けれども、このようなヘロデの恐れと怒りは、私たちの心にもあるかもしれません。ヘロデは、ユダヤ人への人気取りのために失われた神殿を再建した王です。その一部は、有名な「嘆きの壁」として見ることができます。人気取りとはいえ、ユダヤ人の信仰の拠り所であった神殿、神の家を再建したヘロデが、幼い御子を殺そうとした。
同様に、私たちの信仰も自分勝手になっているかもしれません。望みを与え、恵みを満たしてくれる神さまは信じるが、試練を与える神さま、「敵を愛せよ」と強いる神さま、24時間365日、「私に従いなさい」と命じる神さまは都合が悪く、思い通りにならないから信じない。あるいは、信仰生活を貫くため、隣人の苦しみから目を逸らし、大切な家族の声すら無視することが起こり得る。そのような自分勝手な思いが、御子を殺そうとしたのです。
 ヘロデ王は、躍起になって国の宝である二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。そこまでして殺そうとした御子を、結果として、殺せなかった。そのヘロデの遺志を継いで御子を殺したのは、他でもない神の民ユダヤ人でした。
ヘロデが自分の王国、意のままになる王国を守ろうとしたように、ユダヤの民も、自分たちが信仰と思いこんでいるもの、「これこそ信仰」と信じる生き方を守るため、御子が語る愛に満ちた教えは邪魔であった。だから殺した。自分たちがメシア、救い主と信じたはずの神さまの独り子を十字架で殺したのです。
神さまに最も近いと自負していた神さまの民が、実は、神さまから最も遠いところを歩いていた。何という悲しみ、何という暗闇。けれども、救いようのない悲しみ、暗闇の中にこそ、主イエスは生まれてくださったのです。
 今朝の旧約聖書の御言葉 エレミヤ書第31章15節が語る子を失った母の嘆きは、神さまに背き続ける私たちへの神さまの深い嘆きに通じます。
造り主なる神さま、父である神さまからいつの間にか遠く離れて歩むことになってしまった私たちの罪を赦し、神さまの子としてくださるため、神さまの御心の実現のために、神さまは、御子を私たちの元へ送ってくださったのです。
 マタイは繰り返し「こうして預言が実現した」、「預言が実現するためにこうなった」と記す。神さまの御心が、主イエス・キリストにおいて現実となったことを私たちに伝える。「夢を見た後、ヨセフのように大慌てで行動する必要はない。聖書の御言葉を信じ、神さま、御子イエス、聖霊に委ね、主と共に安心して歩み続けて欲しい」と。

<神の御心の実現>
今朝の御言葉を通し、私たちは神さまから問われています。「あなたがたは、試練に襲われたとき、主に頼らず、御言葉にも頼らず、御心を問うことを放棄するか?それとも24時間365日、いつでも主に信頼し、御言葉に耳を傾け、主の命令に従い続けるか?」
今朝の御言葉を読み、私たちは罪の闇の深さに言葉を失います。けれども、神さまは御子をヘロデから守り、すべての民を罪から救うため、ヘロデの思いでなく、御心として、何の罪も犯していない御子を十字架につけ、肉を裂き、血潮を流させた。そのような御子の体と血潮に私たちは聖餐の祝いを通して、与ります。
そのとき、私たちは主の十字架と復活、そして再臨の約束を改めて心に刻む。
そして、どんなに悲惨な事件に嘆き、悲しむことがあっても、神さまは御子の十字架によって、御心を実現してくださった。復活によって、永遠の命を約束してくださった。そのような驚くべき恵みを神さまに心から感謝し続けたい。
 同時に、そのような恵みが全ての人に約束されていることを、深い悲しみの中にある方々、激しい嘆きの中にある方々に何としても届けたいと願います。
 春の特別伝道礼拝は終わりました。しかし、伝道への祈りは終わりません。皆が将来への不安を抱えている時代だからこそ、幼い子ども、その親、さらにその親の世代に至るまで、神さまの愛、罪の赦し、永遠の命の約束が届くよう共に祈り続けたい。心から願うものであります。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・今、重い病を患い、入院生活を強いられている方々、自宅療養を続けている方々、検査入院を控えている方々がおられます。主よ、それぞれの場で今朝も共に祈りを合わせている兄弟姉妹をまもり、聖霊を注ぎ続けてください。
・主よ、大変な事件が起きてしまいました。愛する家族を奪われ、激しく嘆き悲しむお一人、お一人を深く慰め、寄り添い続けてください。
・礼拝後に問安の奉仕を担っている方々と共に祈りを合わせます。主よ、問安の奉仕者、寄り添う方々の働きを存分に用いてください。
・今朝も、礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなたさまの恵みと平和と祝福を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年5月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ミカ書 第5章1節、新約 マタイによる福音書 第2章1節~12節
説教題「不安から喜びへ」、
讃美歌:546、2、101、358、540           

<マタイのクリスマス>
マタイが記すクリスマスの出来事は、私たちがイメージするクリスマス物語とは少し趣が異なります。天使がマリアに聖霊によって身ごもることを告げる受胎告知も、馬小屋で出産することになったいきさつも、羊飼いたちの体験も、華やかな天使たちの歌声も描かれていません。描かれるのはヘロデ王の不安と殺戮、ヨセフ一家の苦難です。
今朝、私たちに与えられた第2章の御言葉は、その伏線と言っても良い場面です。第2章に描かれているヘロデ王の不安と殺戮が、暗く、キナ臭い出来事であるからこそ、罪の世に生まれてくださった御子の御降誕の恵みが、暗闇の中で学者たちを御子の元へと導いたベツレヘムの星のように輝きます。不安により見落としてしまいそうな光も、求める者には真の光、喜びの光として輝き続けるのです。
御子イエスが、ヨセフとマリアの子として お生まれになった頃、その一帯を治めていたのはヘロデ王でした。この地に、占星術の学者たちがやって来ます。クリスマスの絵本やページェントで、「三人の博士」としてお馴染みです。
遠く東の方から星に導かれ、ユダヤのエルサレムまで旅をしてきたのです。よくよく読むと、最終的に星の動きをたどって御子イエスを探し当てることができたのですから、なぜ、わざわざエルサレムに立ち寄る必要があったのか?不思議に思います。
もしかすると、学者たちも不安を抱いたのかもしれません。私たちも不安を抱くとき、神さまの導き、神さまの光を見失うことがあります。学者たちも、神さまが備えてくださった光に導かれ、東の方から旅をしてきた。それなのに、ふと不安になった。「あの星の光は間違いかもしれない。」結果、光を見失ってしまった。そこで、ヘロデに確認したのかもしれません。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

<不安が不安を>
 しかし、この質問が完全に裏目に出ました。私たちも不安が不安を生むことを知っています。ヘロデも学者たちの質問で不安になりました。「ユダヤ人の王?ユダヤの王は私。それなのに、ユダヤ人の王が生まれた?どういうことだ?王子が生まれたわけでもないのに。私の知らないところで何かが起きている。」そう思った途端、ヘロデも猛烈な不安に襲われたのです。
 さらに不安が不安を生む。3節に「エルサレムの人々も皆、同様であった。」とあるように、占星術の学者たちの不安がヘロデを不安にし、ヘロデの不安がエルサレムの人々を不安にしたのです。実際、ヘロデの元、王と繋がることで安定を得ていた人々にとって、新しい王の誕生で現体制が崩れることは不安をもたらします。安定は変化を恐れるからです。

<預言の成就>
 さて、不安を抱いたヘロデは確認します。民の祭司長たちや律法学者たちを集めて、問いただしたのです。「メシアはどこに生まれることになっているのか」。ヘロデは、「メシアはどこに生まれるのか」と確認します。本来、学者たちが、「ユダヤ人の王」と表現していますから、ヘロデも「ユダヤ人の王はどこに生まれるのか」と確認するのが自然です。しかし、ヘロデは「メシアはどこに」と確認する。つまりヘロデは、学者たちが探し、拝もうとしているのは地上の王ではなく、「メシア」即ち「救い主=キリスト」であることを認識していたのかもしれません。
 当時、ユダヤの人々は、ある程度の自治を許されていたとはいえローマ帝国の支配下にありました。ヘロデ王も、王とはいえローマ帝国に迎合、追従することで地位を保っていたのです。
 旧約聖書の預言者たちは、いつか必ず、ユダヤの民を解放する救世主メシアが現れると預言していました。その預言の一つが今朝の旧約聖書ミカ書第5章1節に記されています。「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」この預言書を、民の祭司長や律法学者はヘロデ王に紹介したのです。ユダヤの人々も預言書を信じ、メシアが現れるのを今か今かと待ち焦がれていた、はずでした。
 ところが、その救世主メシアが生まれたらしい、と最初に気づいて行動したのは外国の学者たち。反対に、ついに生まれた救い主メシアに対し、ユダヤの王ヘロデとエルサレムの人々は不安を抱いた。ローマ帝国によって保証されている自分たちの権力と安定が崩れることを恐れたからです。

<学者たちの喜び>
 確かに、外国の学者たちも不安になり、神さまが備えてくださった星の光を一度は見失い、道に迷いました。しかし、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」とのヘロデの言葉に押し出されるように、出発した。すると、見失っていた星を再び見出し、その星が幼子イエスのいる場所の上に止まった。結果、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた(10節)」のです。
 考えてみれば、おかしなことです。神さまに選ばれ、神さまの最も近くで、メシアの到来を今日か明日かと心待ちにしていたはずのユダヤの民が、メシアが生まれたと聞いても立ち上がらず、ベツレヘムで生まれたとわかっても一歩も動かずに不安と恐れを抱いたのに対し、東の方から来た占星術の学者たちは幼子イエスと出会い、喜びに満たされたのです。
 ユダヤの東と言えば、ペルシア、アッシリア、バビロンが思い浮かびますが、いずれもユダヤの民を脅かし続けてきた国々です。唯一の神さまを知らない、ユダヤと敵対する東から来た人々、神さまから最も遠いと思われていた人々が御子イエスとの出会いをひたすら求め、喜びにあふれた、と聖書は語るのです。

<不安から喜びへ>
占星術の学者たちは ひれ伏して幼子イエスを拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのですが、その晩、夢を見たのです。12節、「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」学者たちは、夢のお告げを信じ、ヘロデのところへ戻りませんでした。このことが、ヘロデ王をさらなる不安と恐れに陥れたのです。
 ヘロデ王の、はじめは漠然としていた不安は、王の命令を無視した学者たちへの苛立ちと焦りにより、自分でも治めることができないほどの大きな恐れと怒りとなって、この後、とんでもない大虐殺へと発展していくのです。
 はじめは小さな不安。ふと魔が差すような不安。このような不安はヘロデ王のみならず、占星術の学者たち、そして私たちも知っています。しかし、学者たちは再び星の光を見出し、「不安から喜びへ」神さまによって導かれました。
反対にヘロデ王は、神さまを忘れ、不安と恐れのとりことなってしまった。結果、来週の御言葉となりますが、第2章16節にあるように「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」のです。この恐ろしい幼児への大虐殺は、私たちが忘れてはならない罪の現実です。
 私たちは、占星術の学者たちのようにいつでも神さまの光に立ち帰ることが許されています。長い人生、不安に襲われる日もあります。心から信じていた神さまの愛、赦し、憐れみがわからなくなる日もある。突然の試練、大きな病、家族の死、そのとき、救いの光を見失うこともあるのです。
しかし主は、どのようなときも、私たちが再び神さまを仰ぐ日まで忍耐強く待ち続けてくださる。たとえ私たちが光を見失っても、神さまは常に私たちを照らし、私たちを永遠の命へと導き続けてくださるのです。よって、私たちはいつでも主に立ち帰ればよい。不安の中にあっても、まず一歩を踏み出せば、主が先立って進んでくださる。私たちは、主の導きを信じ、主に従い続ければよいのです。
喜びに満たされた占星術の学者たちと、不安、恐れのとりことなり、最後は大いに怒って、二歳以下の男の子を、一人残らず殺させたヘロデ。その違いは、「何を祈り求めているのか」だと思います。
救い主キリストを求めた学者たち。自らの権力と安定を求めたヘロデ。その違いにより、ヘロデのように不安と怒りの生涯を終えるか、学者たちのように喜びにあふれる生涯を終えるか、大きく変化するのです。これは、学者たちとヘロデだけのことではありません。私たちも同じです。
今、私たちは神さまに何を求めているでしょうか?もしかすると、皆さんの中にこのように考えている人がおられるかもしれません。「私は大丈夫。だって、神さまを信じているから。」確かに私たちは、神さまを信じている。神さまの愛、赦し、憐れみを信じています。しかし、そのような私たちも自分の願い通りにいかないときがある。「なぜ、神さまがおられるのに、このような試練に襲われなければならないのか」と嘆くこともある。けれども、そのようなときこそ、ヘロデのように不安と恐れと怒りにとどまるのか、それとも、試練の中だからこそ、必ず主が私をこれからも導き続けてくださると信じ、一歩を歩み出すか。そこがとても大切なことだと思うのです。
毎朝、「天の父なる神さま」と祈るとき、私たちは何を求めて祈るでしょうか?
神さまの御心が成ることでしょうか?霊の導きでしょうか?キリストの再臨でしょうか?それとも、暮らしの安定でしょうか?私たちは日々、主なる神さまから問われています。「神の民、キリストの者であるあなたが求めているものは何ですか?」
私たちの目の前に救いへと導く光、永遠の命へと導く光が照り輝いています。私たちすべての者を「不安から喜びへ」と導く光は主の十字架と復活、そして再臨です。救いの光は、私たちが求めれば必ず与えられます。探せば必ず見つかります。私たちはいつでも喜びの光へと招かれているのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・先週は「春の特別伝道礼拝」を4人の新来者と共にまもることが許され、心より感謝いたします。また、久し振りに礼拝にいらした兄弟姉妹も与えられました。主よ、どうか初めて礼拝に招かれた方々、求道生活を続けている方々に聖霊を注ぎ、これからも礼拝に通い続けることができますようお導きください。
・5月にもかかわらず、気温が上昇し、体調を崩している方々がおられます。特に、重い病を患い、入院生活を強いられている方々、自宅療養を続けている方々、検査入院を控えている方々がおられます。主よ、それぞれの場で今朝も共に祈りを合わせている兄弟姉妹をまもり、聖霊を注ぎ続けてください。
・昨日はM兄弟、M姉妹の納骨式が主のおまもりの中、行われました。主よ、深い嘆きの中にあるご遺族の皆さまの上に復活と再臨の主の慰めを注ぎ続けてください。
・アメリカでの働きを終えて、日本へと戻って来られたS兄弟、S姉妹が共に礼拝をまもっております。アメリカでの歩みを導いてくださり、心より感謝いたします。主よ、これからのお二人の歩みの上にもこれまでと同じ祝福を注ぎ続けてください。
・今日は午後から国分寺教会で西東京教区総会が行われます。主よ、私たちも西東京教区の働きをおぼえて祈り続けることができますようお導きください。
・今朝も、礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなたさまの恵みと平和と祝福を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年5月19日春の特別伝道礼拝 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教
説教者 :芳賀 力先生(東京神学大学 学長代行、東村山教会元牧師)
説教題 :愛の大きさ
旧約聖書:ホセア書6:4
新約聖書:ルカによる福音書7:36-50
讃美歌 :546・7・124・248・539

 Ⅰ 主イエスが、まったく新しい神の愛の到来について語り始めたのは、異邦人の地と呼ばれたガリラヤの貧しい町々村々からでした。ルカ7章にはまずガリラヤ湖のほとりの港町カファルナウムが出てまいります。そして次にナインというガリラヤの南に位置する町に移動した様子が伝えられています。おそらく今朝与えられた聖書の伝える出来事も、そのままナインであったか、あるいはそこに近い町であっただろうと思われます。出来事は、ファリサイ派の一人が主イエスを食事に招いたことから始まりました。ファリサイ派の人というのは、当時律法を忠実に守り、それで自分たちはまっとうな人間の道を歩んでいるのだと自負していた人たちです。やがては主イエスと対立していく人たちですから、そのファリサイ派の人が主イエスを食事に招いたということは、彼らの中にも主イエスに興味と関心を持つ人がいたということでしょう。噂には聞いていたが、自分でもひとつ、実際に会ってみて、直接話を聞いてみたいものだと思ったのかもしれません。
 事件、そう呼んでもよいほどのセンセーショナルな出来事が起こったのは、この食事の席でのことでした。主イエスがファリサイ派の人の家に入ったという知らせを伝え聞いて、一人の女性がその家に向かいました。単なる興味や関心からではありません。もう止むにやまれない、切羽詰まった思いから、その家に向かったのです。聖書記者ルカは彼女について、この町に住む罪深い女だったとだけ伝えています。具体的にどんな罪を犯していたのか分かりません。遊女と呼ばれる人であったかもしれません。生まれ育った家が貧しく、あるいは両親が早くに死んで、弟・妹たちを自分が養っていかなければならないので、やむなくそのような仕事をするはめになってしまったのか、それは分かりませんが、少なくとも律法の規定からすると神によって断罪されるべき汚(ケガ)れた人間と見なされ、みんなから「のけ者」にされていた人だったことは間違いないでしょう。
 ファリサイ人の家に最も似つかわしくない、食卓に招かれていない人間が、食事の部屋につかつかと入ってきたのです。そして、驚いている人々を尻目に、彼女が何をしたかというと、香油の入った石膏の壺を持って、主イエスの足もとにひれ伏したのです。そしてもっと驚くべきことに、彼女は大粒の涙で主の足をぬらし、何とそれを自分の髪の毛でぬぐい、主イエスの足に接吻してから、高価な香油を塗り始めたというのです。
 このただごとではない彼女の振る舞いを見て一番驚いたのは、ファリサイ派の人でした。しかし彼の非難は、彼女に対してではなく、ひそかにイエスに向けられました。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。そんなことも見抜けないのなら、この人は預言者ではないし、ましてや神から遣わされたメシア、すなわちキリストであるはずはない。そう彼は心の中でつぶやいたのです。
 Ⅱ しかし、主イエスはすかさず彼の考えを見破ります。ここで彼の名前がシモンというのだということが初めて分かります。もちろんシモン・ペトロのシモンとは違い、まったくの別人です。すぐに主は「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われ、そして一つのたとえを話しました。とても分かりやすいたとえ話です。
 二人の人が金貸しから金を借りていました。一人は五百デナリオンで、もう一人はその十分の一の五十デナリオンです。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金に相当します。ところが二人とも返す金がなく、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやったというのです。何と気前のよい金貸しかと思いますが、これはたとえ話ですから、そういう気前のよい金貸しもいるものだぐらいでひとまず話を聞くことにしましょう。しかし大事なことは次の主イエスの問いかけです。では、「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。
 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えます。当然と言えば当然の答えでしょう。主イエスも、「そのとおりだ」と言われます。しかし問題は、そのとおりのことが今目の前で起こっているのに、そのことに気づかないファリサイ人シモンの鈍感さです。帳消しにしてもらった額の多い方こそ、より多くその金貸しを愛する。もうお分かりでしょう。たとえ話の金貸しとは、神のことであり、金を借りていた者とは、神に大きな負債を負っている私たち罪人のことなのです。気前のよい金貸しとは、もはやたとえ話の中の架空の人物であることをやめて、実際に私たちの負債を赦してくださるイエス・キリストの父なる神のことを指しており、その赦しを十字架を通して私たちのために勝ち取ってくださったキリストのことです。
 主イエスの足を涙で洗い、香油を塗った女は、やがて彼女のためにも十字架につけられることになる救い主、御子キリストに対して、彼女があらん限りの、最大級の、ただごとではない愛を示したということになります。文字通り「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」主なる神を愛したのです。そして実は、神の方こそがまず彼女に対して、罪を赦すという、あらん限りの、最大級の愛を示してくださったからこそ、それが応答として起こっているのです。私たちよりもまず神の方が「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」私たちを愛してくださっているのです。問題はただ、私たちがそのことに全然気づいていないだけなのです。
 主は言われました。「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。
 たぶん彼女はこれ以前に、主イエスと出会っていたに違いありません。それまで誰にも受け入れられなかった彼女を、キリストは受け入れてくださった。そして大きな神の愛の交わりの中に招き入れてくださった。生きていてもしょうようがない自分のような者がキリストによって受け入れられ、神に愛されていることを初めて知ったのです。そう考える以外に、彼女の喜びの行動を理解することはできないでしょう。
 Ⅲ 彼女の示したこの愛の大きさは、彼女に差し出された神の愛の大きさに比例しているのです。しかし、私は、説教を準備する過程で、私たちもそれほどに大きな神の愛に包まれているというのに、彼女のようにそれに比例する愛の大きさで神を愛し返すことができないでいる自分を思わざるをえませんでした。私たちは、愛を受ける時は彼女のようであるのに、愛を返す時はファリサイ人シモンのようです。私はこの落差を何とか分かりやすくするために、何か適切な説明の仕方はないものかとずっと考えておりました。歩きながら、また電車に乗りながら。すると、思い当たったのが、ヴィクトル・ユゴー原作の『レ・ミゼラブル』です。数年前にミュージカルになって若い人たちにも大きな感動を与えました。
 皆さんがよく知っているのは、刑務所を出た主人公ジャン・ヴァルジャンを憐れに思った司教が、一晩泊めてくれた時のことでしょう。真夜中に彼は起き出して、夕食の折に見た銀の食器を盗んでしまいます。
 実はこの時までジャン・ヴァルジャンの心は、憎しみのかたまりでした。幼くして両親を失い、年上の姉に育てられ、姉の夫も亡くなったため、彼が姉一家を支えることになりました。姉には7人の子どもがいます。働いても働いても貧しさは募るばかり。ついに家に一片のパンもなくなった夜、お腹をすかせた子どもたちのために、たまらず彼はパン屋のガラス窓を割って、一片のパンを盗んでしまいます。その窃盗の罪で獄屋につながれ、子どもたちのために脱獄を繰り返しては失敗し、そのたびに刑期が延長されて、ついに19年鎖につながれていたのです。何と理不尽なことでしょう。たった一切れのパンを盗んだという、ただそれだけのことで。彼は貧しさを憎み、社会を憎み、運命を呪い、神まで否定します。だからあの夜、高価な銀の食器に手を出すのは、もはや当然の成り行きです。
 しかし彼は翌朝捕まってしまいます。官憲に連れて来られたジャン・ヴァルジャンは、自分の耳を疑います。司教は自分を責めるどころか、「それは私がこの人に上げたもので、私は銀の燭台も一緒に持っていくように言ったのに、あなたはなぜ持って行かなかったのか。さあこれも持って行きなさい」と言うのです。
 ここまではよく知られた話でしょう。しかしこの話には続きがあります。今日お話ししたいのはその続きの方です。これは原作だけに出てくる話です。
 司教の優しさはジャン・ヴァルジャンの心を揺らし始めます。19年の間に頑なになってしまった野獣の心を溶かし始めます。野原の石の上で休んでいた時のこと、軽業士の少年が通り過ぎます。今日の稼ぎが嬉しくてもらった銀貨でお手玉をしている時、その彼の全財産である銀貨一枚を落としてしまいます。銀貨がジャン・ヴァルジャンの足下に転がってきた時、彼は靴でそれを踏み、少年を追い払います。少年は必死に、「おじさん、お願いだから返してよ」と叫びますが、彼は仁王立ちになり、邪険に追い払ってしまいました。
 日没がやって来た時、突然彼は我に返ります。いったい自分は何という人間なのだろう。何という無慈悲な、そして憐れな人間なのだろう。涙があふれました。19年この方、涙を流したのはそれが初めてでした。その後彼の姿は舞台から消えます。彼がどこに行ったか、誰も知りません。やがてある町の市長として生まれ変わった別人の彼が登場するまでは。誰も知りません。ただそのことのあった翌日の夜明け前、司教館の前でひざまずいて祈る彼の姿を見かけた人がいるだけでした。
 ユゴーがこの挿話を作る上で直接基になったものは、おそらくマタイ伝18:23ー35のたとえ話の方ではなかったかと思います。そこには、主君から膨大な借金を帳消しにしてもらった家来が、その直後の帰り道、自分にほんのわずかな借金をしている仲間に出会い、彼を許さず、無慈悲にも牢屋に入れたという話が載っています。それはもうそのまんまの内容ですが、ユゴーはジャン・ヴァルジャンが号泣する姿を描きました。そこにはひょっとして、この小説家自身の思いが重ねられていたのかもしれません。
 Ⅳ ここに示されているのは、大きな大きな愛、信じられないほどの大きな愛に出会う時、人は自分の醜さに本当に気がつかされるということです。そしてその愛は、19年間も涙したことのない、ただ恨みと憎悪に凝り固まった野獣のような心でさえ、変えるということです。そしてそのような愛は、もはやただの人間の愛情ではありえません。司教がそのようにしたのも、彼自身が聖書によって示された神の愛、すなわち、十字架において罪深い人間を赦す神の愛に自ら動かされていたからにほかなりません。
 預言者ホセアの時代、イスラエルの人々は偽りの悔い改めを口にしました。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」と。しかし、それは勝手な願望にすぎません。預言者は言い放ちます。「エフライムよ、わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」(ホセア6:1,4)。私たちの愛は所詮「朝の霧、すぐに消えうせる露」でしかありません。人を変えることなどできません。しかし、自らを十字架につけてまで私たちを愛してくださる方の愛、この主の愛は間違いなく本物の愛です。客観的に私たちが負うべき罪の負い目を代わりに担い、命の代価をもって私たちの借金を清算してくださった愛だからです。
 今朝の説教を私は、自分で自分に言い聞かせるような思いで語っています。私たちは情けない人間です。こんなに大きな愛で赦され、愛されているというのに、私たちはどこまでさもしい人間なのでしょう。少年の銀貨一枚の上に足を置いて動かそうとはしない、何と無慈悲な人間なのでしょう。そうやって私たちは、どれほど私たちに向けられた神の愛を毎日踏みにじっていることでしょう。
 しかしそれでも主は今朝、私たちを御前に呼び出してくださいました。そうであれば、私たちもひそかに心の中で大声で泣き、こんな私たちにも向けられている主の愛をもう一度受け止め直して、今日からまた新たに、主に従う人生を歩む者でありたいと願うのです。祈りましょう。

 【祈り】
主よ、私たちをお赦しください。私たちの心はあなたに対して鈍感になり、長年にわたって頑なになり、冷たい石のようになっていました。あなたによって赦される大きな大きな愛を頂いたといのに、どうしてこうも簡単に私たちはその愛を踏みにじってしまうのでしょう。それなのに、今朝もあなたは私たちを、あなたの大いなる愛の中に包み込んでくださいました。どうかそのあなたの無限の愛の中から、私たちを、あなたによって変えられた新しい人としてこの世に送り出してください。主の御名によって祈ります。アーメン。

2019年5月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ゼカリヤ書 第9章9節、新約 マタイによる福音書 第21章1節~11節
説教題「主がお入り用なのです」、
讃美歌:546、1、259、288、545B、427        

<ろばと子ろば>
 皆さんは、ロバに乗った経験があるでしょうか。おそらく、ほとんどの方がないと思います。それでも、「ロバに乗る」と検索すると、パソコンやスマホの画面にギリシア、パキスタン、アフガニスタン等の国でロバに乗る男性が登場します。つまり、ロバに乗ることは外国では普通のこと。しかし、主イエスがロバにお乗りになると、特別な意味が生じるのです。
 私たちは、イースター礼拝の翌週から、マタイ福音書を第1章1節から読み始めております。すでに主イエス・キリストの系図と、誕生が記されている第1章を読み終えました。また、先週の礼拝後、2019年度の定期教会総会が開かれ、年間主題「主がお入り用なのです」が承認されました。そこで今朝は、年間主題を含む、マタイ福音書 第21章1節以下の御言葉を皆さんとご一緒に味わいたいと思います。
 主イエスがロバに乗り、エルサレムに入城(入城の城は、場所の場ではなく、城です)した出来事は、マタイ福音書に加え、マルコ、ルカ、ヨハネからなる四福音書のすべてに書かれている重要な出来事です。しかし、明らかにマタイだけ、マルコ、ルカ、ヨハネと違う箇所がいくつかあるのです。その一つが、ロバの描写です。時間があれば、皆さんにも聖書を開いて頂きたいのですが、その暇はありませんので、私が朗読するので、耳を傾けて頂ければと思います。
四福音書の中で、最初に書かれたのがマルコ福音書ですが、そのマルコでは、主は弟子たちに「村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。」と伝え、主は子ロバに乗っています。ルカ福音書も、主は弟子たちに「そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。」と伝え、主は子ロバに乗っています。またヨハネ福音書も、「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。」と伝え、主はろばの子に乗っています。
つまり、マルコ、ルカ、ヨハネでは、主は子ロバに乗ってエルサレムに入城しています。では、マタイはどうか?第21章2節にこうあります。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。」
そうです。マタイだけ、「ろばと子ろばを引いて来なさい」と主が命じられた。さらに決定的なのは7節。「ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。」とある。新共同訳では、「その上に服を」であり「それにお乗り」ですが、原文ではこうなります。「ろばとろばの子を連れて来た。また、それらの上に衣(複数)をかけた。そして、それらの上に彼(主イエス)は乗った。」となるのです。
 以上より、マタイ福音書では、主イエスがエルサレムに入城なさるために、弟子たちに引いて来るように命じたのは、子ロバだけではなかった。母ロバがつないであり、一緒に子ロバもいるから、「親子のロバを引いて来るよう」命じられた。さらに主は、「母ロバと子ロバの両方に服をかけ、それらに乗られた」。つまり、福音書記者マタイは、複数にこだわった。「母ロバだけでない。子ロバだけでもない。主は、母ロバと子ロバを必要としている。服も一枚だけでなく、複数を必要としている。」と記すのです。
 
<預言の成就>
今回、御子のエルサレム入城を描いた絵画を確認しました。皆さんの中にもお持ちの方がおられると思いますが、日本聖書協会発行の『アートバイブル』を開くと、「エルサレム入城」というタイトルで3枚の絵画がありました。絵と一緒に書かれている御言葉はマタイ福音書。よって、絵画にも母ロバと子ロバが描かれています。3枚を短く紹介すると、1枚目はドゥッチオの「キリストのエルサレム入城(1311年)。」主が母ロバに乗り、隣りに子ロバが歩いている。2枚目はティトーの「キリストのエルサレム入城(1598年)。」こちらも主が母ロバに乗り、子ロバは、絵の中心に顔だけ描かれている。3枚目はロレンツェッティの「キリストのエルサレム入城(14世紀)。」この絵も主は母ロバに乗り、子ロバは母ロバの隣りを歩いています。
以上より、有名な画家も、マタイ福音書をモチーフに主のエルサレム入城を描くとき、主が母ロバに乗り、エルサレムに入られる。同時に、母ロバだけでなく、子ロバもきちんと描いていることがわかりました。
そこで、皆さんと確認したいのは、「マタイはなぜ、母ロバと子ロバに拘ったのか」です。大きな理由がある。それは、「主イエスにおいて、旧約聖書の預言(神の言葉を預かる)が成就した」と伝えたかったからです。
 今朝は、旧約聖書ゼカリヤ書 第9章9節を朗読して頂きました。改めて朗読します。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌(め)ろばの子であるろばに乗って。」
マタイは、「ゼカリヤの預言が、主のエルサレム入城により成就した」ことを大切にした。ゼカリヤは預言します。「あなたの王が来る。ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」だからこそ、マタイも福音書に記すのです。第21章5節、「柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」。
ここで疑問が生じる。主は、母ロバに乗って入城したか、それとも子ロバに乗って入城したのか?色々な解釈が可能ですが、私はこう考えます。主は、母ロバに乗ったはず。どう考えても子ロバに乗るのは不自然。それならなぜ、主は弟子たちに母ロバと子ロバを求めたのか?それは、ゼカリヤの預言の成就のため。主が乗られたのは母ロバのはずですが、ゼカリヤの預言が成就するには、子ロバが必要。だから主は、弟子たちに、「母ロバと子ロバを引いて来なさい」と命じたと思うのです。
預言を成就する子ロバと、主をお乗せした母ロバ。子ロバと母ロバは2頭で主に用いられる。一緒に繋がれていた母ロバと、母ロバから乳を飲む子ロバ。母ロバだけ、子ロバだけでは主の必要を満たせない。さらに母ロバにとって子ロバはかけがえのない存在。反対に、子ロバにとっても母ロバはなくてはならない存在。母と子は互いに愛をもって愛に応える。
教会も、一人一人が互いになくてはならない存在として、主から与えられています。母ロバ、子ロバのように愛をもって愛に応える。それぞれに託された重荷を誠実に背負い、立派でない、欠けの多い者を主は「そのあなたが入り用」と求めてくださる。私たちは主にお乗り頂き、主と共に歩む。主が必要としてくださるから、感謝して、主と共に歩み続けるのです。

<主がお入り用なのです>
主イエスは、ロバである私たちに乗ってくださいます。乗ってくださる主は、柔和である。そして最後、主は十字架で死んでくださった。そのような主が、三日目の朝に新しい命を与えられ、復活なさったのです。
洗礼によって、主の者とされ、主をお乗せしている私たちも、主と共に復活の命が約束されています。主は弟子たちに、母ロバと子ロバを求めた。さらに、ロバの飼い主から「ロバを持っていかないでくれ」と言われたら、「主がお入り用なのです」と言いなさいと具体的に教えてくださったのです。
弟子たちは不安を抱えていたはずです。本当にロバの親子がいるのか?ようやくエルサレムに近づき、オリーブ山沿いのベトファゲに到着したのに、休む間もなく、「向こうの村へ行きなさい」と命じられた。本当は休みたい。でも、イエスさまのご命令。しかも、もし、何か言われたら、「主がお入り用なのです」と言えばよいと教えてくださった。そこで、二人の弟子は「とにかく行こう!」と若干の不安を抱えつつ、行動したのです。
すると、主が言われた通り母ロバと子ロバが繋がれていた。突然、母ロバと子ロバをくくりつけている縄をほどくのですから、犯罪です。けれども、主の命じられたとおりに行動した。もしかすると、何か言われたかもしれません。しかし、「主がお入り用なのです」と言うと、すぐ渡してくれた。もしかすると、「ありがとうございます。主が私のロバを用いてくださるのですね。これほど嬉しいことはありません。」と弟子たちに感謝したかもしれません。主は、弟子たちが引いて来た母ロバと子ロバに服をかけ、それらにお乗りになる。そして、ロバたちと一緒に十字架と復活の地エルサレムに柔和な表情で入られたのです。
ところで、年間主題として「主がお入り用なのです」を選んだとき、与えられた思いがあります。それは、東村山教会に連なる私たちが母ロバであり、子ロバであるという思い、また「東村山教会がエルサレム」という思いです。
大勢の群衆は、「ダビデの子にホサナ」と主のエルサレム入城を喜んでいる。けれども、段々と自分たちが求めている救い主とは違うことがわかってきた。「主は、私の願いを全部叶えてくださると思っていたが、どうもそうではない。」 
さらに主は、祭司長たちや民の長老たちから敵視されていることもわかった。その瞬間、手の平を返す。あれだけ「ホサナ、ホサナ」と叫んだのに、わずか数日後に、「殺せ、殺せ」となる。これがエルサレムの群衆の罪です。
では、東村山教会に連なる私たちはどうでしょう?もしかすると、私たちの願いを優先しているかもしれません。主を、私たちの願いのために利用する。だから、自分の願いが叶わないと、主に文句を言うことがある。私たちも教会生活を続けているとき、このように呟くことがある。「洗礼を受けたのに、何も変わらない。変わらないどころか試練に襲われてばかり。神さま、主イエスは私のためにいったい何をしてくれたのか。」
このような感情を抱いたことがなければ、素晴らしいと思います。しかし、どうしても自分の都合で主を裁いてしまうことがある。そのとき、柔和な心を失っている。だからこそ主は、そのような罪の私たちにお乗りになる。そして、私たちと共にエルサレム、また東村山教会に入ってくださるのです。
主は、罪の私たちだからこそ、必要とし、私たち一人一人に乗ってくださる。そのとき私たちは、「いや、私はイエスさまをお乗せするようなロバではありません。私のような子ロバでなく、立派な母ロバに乗ってください。私はあなたを乗せる資格などありません。」と主を拒んだら、本当に悲しいことですが、主イエスと何の関係もないロバのまま地上の命を終えてしまいます。
主は、母ロバと子ロバを求めています。母ロバだけでない、子ロバだけでもない。母ロバのような何十年も教会に通っている教会員だけでない、子ロバのような洗礼を受けたばかりの教会員だけでもない、全てのロバに欠けがある。欠けがあるからこそ、主は母ロバも子ロバも入り用とされる。そして、すべてのロバに乗り、十字架と復活の地であるエルサレム、さらに東村山教会に入城されるのです。
今朝も主は、入城してくださいました。欠けだらけのロバに乗って。主は日々、私たちに語りかけてくださる。「私にはあなたが入り用だ。あなたが立派な軍馬だからではない。あなたが欠けだらけのロバだから。あなたの罪も弱さも全部知っている。だから、私はあなたに乗り続ける。あなたは遠慮せず、私を乗せ、歩き続ければよい。私はあなたのために十字架で死に、あなたのために甦り、あなたのためにいつの日か再臨する。」
 2019年度、私たちは主をお乗せするロバになりたい。欠けがあるから主に乗って頂く。しかも、主が私たちを入り用としてくださる。そうであるなら、喜んで主に乗って頂き、東村山教会、また全国、全世界の神さまの家族と共に主の栄光を現し続けたい。心から願うものであります。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けてください。
・2019年度の定期教会総会があなた様のお導きによりすべての議事が承認されました。主よ、東村山教会の歩みを導き、聖霊を注ぎ続けてください。
・今日の礼拝後、春のコイノニアミーティングを行います。共に語り合う時間です。どうか一人でも多くの方が参加することができますようお導きください。
・来週の主日に行われる春の特別伝道礼拝を存分に用いてください。準備しておられる芳賀 力先生のご準備を力強くお導きください。
・病を患い、入院生活を強いられている兄弟姉妹、特に、重い病と闘っている兄弟姉妹、自宅での療養を続けている兄弟姉妹、体調を崩している兄弟姉妹、お一人お一人を守り、導いてください。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年5月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第7章14節、新約 マタイによる福音書 第1章18節~25節
説教題「主が、共にいてくださる」、
讃美歌:546、12、298、21-81、354、545A        

<ヨセフの決心>
先週から、マタイによる福音書を読み始めております。今回、マタイ福音書の連続講解説教を始めるにあたり、ある映画を観ました。タイトルは『奇跡の丘』。皆さんの中で御覧になった方があるかもしれません。イタリア人ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の作品。1964年に製作、公開された映画ですから、50年以上も前の作品です。日本のタイトルは『奇跡の丘』ですが、イタリアでのタイトルは、『マタイによる福音書』。つまり、この映画はマタイ福音書に基づいて主イエスの様々な出来事が描かれているのです。上映時間は137分。映画館ではなく、NHK・BSで放送されたものを観たのですが、色々と感じました。その中でも最初のカットは忘れることができません。
最初のカットは、マリアの表情が大写しされる。その次に、ヨセフの表情が大写しされる。その後、マリアの全身が写される。当然、お腹が膨らんでいる。マリアの大きな瞳はどこか遠くを見ているよう。心は妊娠した事実に戸惑っているような、でも嬉しいような、何とも微妙な表情です。
ヨセフは困惑の表情。ずんぐりむっくりの体形で、おでこが広く、髪の毛が少ない。二人は無言。セリフがない。まさに言葉もない驚きだったと思います。映画情報を確認すると、出演者の多くは演技経験のない一般の人たちによって構成されているようです。よって、大工を生業にしているヨセフが言葉を失い、呆然としている姿がスッと心に入りました。
年下のマリアが、妊娠したお腹で立っている。驚くべき事実を理解しようとしても、頭が混乱している。「青天のへきれき」という言葉があるよう、ヨセフにとって、マリアの妊娠は、昨日のように、青く晴れ渡った空に、突然 真っ黒な雲が多い、突風が吹き、大雨が降り、雷鳴が轟き、雹までバラバラと降ってくるような衝撃でありました。
私たちは毎年、クリスマスの時期にマタイ福音書 第1章18節以下を読んでいます。よって、おとめマリアの聖霊による妊娠にそれほど驚かない。しかし、『奇跡の丘』を観て、最初のカットにマリアの顔とヨセフの顔が大写しされ、その次にお腹が大きく膨らんだマリアの全身が写される。さらに、そのようなマリアを目の当たりにしたヨセフの驚いたというよりも、引きつった顔が写る。二人とも無言。それからヨセフは、一言も言葉を発することなく、マリアの前から立ち去る。
激しく動揺しているヨセフを通し、神さまのなさることは、時に、私たちの常識を覆す業、その瞬間だけを捉えると、言葉を失うほどのショック、大きな傷を受けるような激しい出来事もあることを強く感じました。婚約しているのですから、ヨセフの心は、マリアが妊娠するまでは、晴れた青い空のように、マリアとの結婚を控え、大きな喜びに浸っていたはずです。そのヨセフに何の前触れもなく、お腹の膨らんだマリアが現れるのですから、最初は驚き、次に悲しくなり、そして段々とマリアへの怒りの感情が湧いたに違いありません。
 確かに、「夫ヨセフは正しい人であった」とあります。しかし、我が身にふりかかった災難に冷静でいられたとは思えません。誰にも相談できない中、ふつふつとわき上がる怒りや憎しみとの戦いがあったはず。怒りにまかせマリアをなじり、ことを公にして訴えることも可能。そうすれば、少なくとも自分の身の潔白を証明できる。けれども訴えられれば、マリアは当時の掟では石打ちの刑、石を投げつけられ殺されてもおかしくない状況でした。
 ヨセフにとって、何日も眠れない夜が続いたことでしょう。そして、ついに一つの答えを出したのです。「マリアを訴えることなく、誰にも何も言わず縁を切ろう。『妊娠させて捨てる、何と非情な男!』と世間から非難されるかもしれない。でも、マリアとお腹の子の命を死なせることは、どうしてもできない。」悩み抜き、決心したところで、疲れ果て、眠った。そのとき、主の天使が夢に現れました。神さまは、親や親友にさえ打ち明けられないような、自分の心の奥底の叫び、痛み、苦しみ、罪の思いに降りて来てくださり、私たちと出会い、誠実に語りかけてくださるのです。

<イザヤの預言>
 縁を切ろうと決心したヨセフに、主の天使は言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
 福音書記者マタイは、天使の言葉に続き、すぐに言葉を加えます。マタイは、「おとめマリアが妊娠したのは、旧約聖書イザヤ書の預言(預言とは、神さまから預かった言葉)が実現するためであった」と書くのです。先ほど、マタイ福音書と共に朗読して頂いたのが、イザヤ書第7章14節「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」です。
 マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのであり、ヨセフにとっては「主よ、なぜですか!」としか思えないおとめマリアの妊娠は、イザヤの預言の実現であり、「インマヌエル、神が共にいてくださる」証明と主の天使は告げたのです。
 ヨセフは眠りから覚めると、天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。ヨセフの決断があったから、罪にまみれた系図の中に、真の人として、御子イエス・キリストが生まれることになったのです。

<インマヌエル>
 先週の御言葉 第1章16節にこうあります。「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」また今朝の御言葉 第1章25節にも念を押すように、「そして、その子をイエスと名付けた。」とある。当然ですが、福音書記者マタイが「イエス」という名前を重んじていることが伝わります。
「イエス」という名はギリシア語「ιησους(イエスース)」の日本語訳、日本での表記です。旧約聖書に出てくる言葉で言うと、「ヨシュア」となります。「ヨシュア」は、「主なる神さまは、私たちの救いだ」という意味の名前です。よくある名前だったようですが、神さまの霊によって宿った御子が、罪の系図である人の世に生まれ、十字架で血潮を流すことになる。その結果、ヨセフの子として生まれたイエスが、私たちの救い(キリスト)となられたのです。
 これ以降、ヨセフの名は福音書にほとんど登場しません。よって、想像するしかありませんが、ヨセフの人生に起こったであろう数々の苦難、周囲からの中傷、生まれた子が自分の子ではないという現実も、すべて、「インマヌエル、我々と共にいてくださる神さまの御心」と信じ、いかなる苦難にも、神さまが共に働いてくださると信じ、まっすぐに、そのまま受け入れたと思うのです。
 インマヌエル。神さまはどんなときも、私たちといっしょにいてくださる。この恵みを信じる心は、決して、疑い、迷いに無理矢理ふたをし、闇雲に何が何でも信じなければ、と自分に言い聞かせる心ではありません。そのような心であるなら、ヨセフはどこかで必ず音を上げて逃げ出したに違いありません。
 神さま、イエスさまを信じる心も、インマヌエルの主、共にいてくださる神さまが与えてくださる賜物であり、神さま、イエスさまを信じる心を失わないように、神さまはいつも私たちと共にいて、聖霊を注ぎ続けてくださるのです。
私たちにもヨセフと同じ信仰が与えられています。それは、立派な信仰ではありません。どこまでも主の言葉を信頼する。どこまでもインマヌエルの主を信頼する。「神さまは、どんなときも我々と共におられる。孤独を感じ、嘆いているときも、何をやってもうまくいかず、将来に不安を感じ、イライラしたり、落ち込んだり、恐れに憑りつかれてしまうときも、神さまが必ず苦難をも良い方向に導いてくださる」と信じ続けるのです。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはありませんでした。私たちも聖書を信じ、インマヌエルの神さまはどんなときも、苦難のときも、試練のときも、嘆きのときも、私たちと共におられると信じ、誠実に歩み続ける。そうすると、本当に不思議なことですが、「ああ、あの日の苦難、試練、嘆き、涙にもすべて意味があった。本当にあのとき、インマヌエルの神さまが私と共におられた。しかも、過去のことではなく、今も、将来も続く恵みであり、喜びである」と心の底から実感するようになるのです。
ヨセフは、普通に考えれば到底受け入れることのできない苦難を受け入れ、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れました。これが信仰です。どうしても色々なことを考えるのが私たち。ああなったらどうしよう?こうなったらどうしよう?と恐れに縛られ、動けなくなる。ヨセフも、お腹の膨らんだマリアを見た瞬間、固まってしまった。そして、考え続けた。祈り続けた。主の御心はどこにあるのか?そして、与えられた決心は、マリアと子どもの命を最優先にすること。自分がどう評価されるかより、マリアと誰の子かわからないけど、マリアの子なのだから、その子の命も守らなければ!と決心した。その決心を見届けた神さまが、ヨセフに天使を送り、命じたのです。ヨセフは、神さまが祈りに応えてくださったと信じ、眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり行動しました。

<聖餐の祝い>
私たちも神さまから期待されているのは、そのような信仰です。だからこそ、今朝も神さまは私たちに語りかけてくださいます。「今、あなたは悩んでいるね。恐れているね。不安を抱いているね。愛する人が召された。愛する人の納骨が終わった。深い喪失感を抱いているね。愛する人が病を抱えているね。家庭、職場に悩みがあるね。人間関係に悩んでいるね。心身の衰えを感じているね。死を恐れているね。すべて知っている。なぜか?私はいつもあなたと共にいるから。その私があなたの救いのため、永遠の命のために、御子を世に遣わした。インマヌエルの御子イエス・キリストを。だから、あなたは何も恐れることはない。何も悲しむことはない。御子はあなたの心の奥深く、誰にも知られたくないと思っている心の暗闇の中でこそあなたに出会い、主を信じる心を与えるから。しかも、インマヌエルの主を目で見て、舌で味わえるよう、聖餐の祝いを備えた。今からあなたは聖餐の祝いに与る。聖餐を祝うとき、『ああ、本当に神さまは私と共におられる』と実感するはずだ。なぜなら、主が裂かれた肉、流した血潮が、あなたの口に入り、舌で味わい、喉を通り、あなたに入るから。かつて、あなたがと共に礼拝をまもっていた姉妹が今、重い病を患っている。でも、この前、病床で聖餐の祝いに与った。そのとき、私の愛する子は大きな声で『ああ、美味しい!』と喜んでいた。いつも共にいる私にもよく聴こえた。そう。聖餐のパンと杯は美味しい。美しい味なのだ。わたしはいつもあなたと共にいる。だから、どのような試練の中にあっても、死が間近に迫っていても、何も恐れることなく、安心して歩めるのだ。アーメン。」
 今、私たち一人一人にインマヌエルの神さまが語りかけてくださいました。長く東村山教会に属し、今は別な教会の教会員である姉妹が、療養のため狭山の病院に入院しておられます。先日、問安長老と訪問し、聖餐を祝いました。わたしたちのために裂かれた主の体であるパンを召し上がった直後、姉妹は言われました。「ああ、美味しい!」と。厳しい病を患っている姉妹が、喜びに満たされ、「ああ、美味しい!」と言われた。そのとき、「インマヌエルの主が、共にいてくださる」と信じることができました。そして今、私たちも聖餐を祝う。そのとき、インマヌエルの主が、共にいてくださることを信じ、美味しく、喜んで、聖餐の恵みに満たされるのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・礼拝後に2019年度の定期教会総会を行います。昨年度の歩みを振り返り、新年度の歩みを協議する総会です。どうか一人でも多くの方々が出席することができますようお導きください。また、様々な理由によって総会を欠席する方々の上にも祝福を注ぎ続けてください。
・来週は春のコイノニアミーティングを予定しております。共に語り合う大切な時間です。どうか一人でも多くの方々が参加することができますようお導きください。
・5月19日に行われる春の特別伝道礼拝を用いてください。そのために準備しておられる芳賀 力先生のご準備を力強くお導きください。
・病を患い、入院生活を強いられている兄弟姉妹、自宅での療養を続けている兄弟姉妹、体調を崩している兄弟姉妹、お一人お一人を守り、導いてください。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年4月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第12章1節~3節、新約 マタイによる福音書 第1章1節~17節
説教題「わたしたちは、神の子」、
讃美歌:546、20、309、522、544           

<マタイ福音書とは>
 本日からマタイによる福音書をご一緒に読んでまいります。マタイ福音書は、ユダヤ人を相手にして書かれた福音書と言われております。それに対し、ルカ福音書やヨハネ福音書は、基本的には異邦人を相手にして書かれた福音書です。つまりルカ福音書やヨハネ福音書は、ギリシア人のようなユダヤ人以外を相手に書かれているのに対し、マタイ福音書はユダヤ人を相手にして書かれているのです。よって、福音書記者マタイが力を入れて書いていることは、主イエスと旧約聖書の関係です。具体的に申しますと、主イエスの誕生、様々な行い、十字架の死などが、旧約聖書に預言されていた救いの成就であると強調するのです。そのことを意識して、ご一緒にマタイ福音書を読んでまいりましょう。

<系図のカギ>
ところで、初めて新約聖書を開き、読もうとしたとき、冒頭にある主イエス・の系図で出鼻をくじかれた方が、少なからずいるのではないでしょうか。また、小さい頃から教会学校に通っていると、マタイ福音書の冒頭にズラズラとカタカナの名前で系図が記されていることを知っているので、系図を読み飛ばしてしまうかもしれません。特に、大人になって聖書に興味を持ち、「さあ読むぞ!」と聖書を開く。すると、聞き慣れないカタカナの名前が延々と続く。それでもアブラハム、イサク、ヤコブなら何となく聞いたことがある。しかし、聞いたことのない名前が続くと飽きてくる。だから、我慢して早く系図を読み終え、馴染み深い主イエスの誕生の箇所に入ろうとするのです。それでも、「私は系図が大好き」という方もおられるかもしれませんが、大抵は、「聖書を読むぞ!」と聖書を開いた多くの方は、「名前の羅列に何の意味があるのか?」と思うはずです。
けれども、たくさんの名前の中に隠されている「カギ」を知ると、退屈な、何の興味も引かない名前の羅列に見えた系図が、救いの輝きを放つようになる。大袈裟でなく、「なるほど!福音書の冒頭に、主イエスの系図があることは深い意味があり、系図にこそキリスト者の慰めがあり、励ましがあり、救いがある」と心から神さま、主イエス、そして福音書記者マタイにも感謝するようになるのです。
では、系図に隠されている「カギ」はいったい何でしょう?それは、圧倒的に男性ばかりの系図に含まれた4人の女性の名前です。
 まず3節、「ユダはタマルによってペレツとゼラを」とあります。「タマルによって」という書き方が、女性が出てくるときの表現です。タマルという母親です。この女性のことは旧約聖書 創世記第38章に詳しく書かれております。要点だけ申しますと、いわゆる近親相姦の罪が書かれています。タマルという女性が、自分の夫の父親と性的関係を結び、子どもを出産。そのような女性が登場します。
次に5節、「サルモンはラハブによってボアズを」とある。「ラハブによって」ですから、ラハブという母親です。ラハブは旧約聖書 ヨシュア記第6章に登場します。そこに書かれていることは、ラハブという女性は遊女、売春婦だったということです。
同じ5節に、もうひとり女性が登場します。「ボアズはルツによってオベドを」とあります。「ルツによって」ですから、ルツという母親です。ルツは旧約聖書 ルツ記に詳しく書いてあります。ルツは、タマルやラハブと違い、貞淑な女性と言われております。しかし、ルツの名前が記されていることに大きな意味がある。それは、ルツが異邦人だからです。実は、二人目のラハブも異邦人です。ラハブは遊女であり異邦人。ルツは貞淑ですが異邦人。異邦人は差別されます。つまり、ユダヤ人社会から差別される女性の名前が続くのです。
そして6節に、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。ここに有名な名前、ダビデとソロモンが登場します。ダビデはソロモンの父親であることがわかります。系図を記すことが目的ならば、マタイはソロモンの母親の名前を記す必要はありません。それなのに、あえてどのような母親からソロモンが生まれたのかをはっきりとマタイは記す。しかも、ダビデの妻ではなく、「ウリヤの妻」からソロモンが生まれたと記す。マタイのこだわりがあることは間違いありません。
主イエスの系図の「カギ」である4人の女性がすべて登場しました。3節でタマル。5節でラハブとルツ、そして6節でウリヤの妻。以上4人の女性たち。しかも6節に登場するのは、父親であるダビデの妻ではなく、ウリヤという男の妻、具体的にはウリヤの妻バト・シェバです。
ダビデがソロモンをもうけたとき、ダビデの妻ではなく、ウリヤの妻バト・シェバによってもうけたと系図に書かれている。これは、栄光と権力に満ちたダビデ王のとんでもない過ち。絶対に隠蔽したい過去。「ウリヤの名前を御子の系図に記すことは避けるべき」と考えるのが普通です。
ウリヤが戦争に出て留守の間に、ダビデはバト・シェバと姦淫の罪を犯し、バト・シェバが妊娠した。そのときダビデは、罪に罪を重ねた。
ウリヤを戦争の最前線に送り、戦死させてしまう。罪を隠蔽するためです。そしてバト・シェバを王宮に迎えて生まれたのがソロモンなのです。
ここまで4人の女性の背景を確認しました。確かに、女性に課題があります。しかし、女性以上に男性の罪を感じます。己の欲望を制御することができず、私は王だから何をやっても許される!と考える。つまり、主イエスの系図には、赤裸々な罪の歴史が記されている。つまり、主イエスの系図は立派な系図ではなく、罪の系図、弱さの系図、また異邦人も含まれる差別の系図なのです。
主の年2019年の日本で、異邦人として歩む私たちにとっても重要な系図であることがわかります。なぜなら、私たちもそれぞれに隠したい過去があり、うなだれるしかない罪人だからです。しかし、だからこそ、そのような罪人の系図の最後に、メシア、救い主と呼ばれる主イエス・キリストの名が刻まれた。反対に言えば、もしも罪の系図に主イエスの名前が刻まれることがなければ、私たちは当然のように神さまの怒りによって滅ぼされていた。今朝の旧約聖書 創世記第12章にあるようにアブラハムへの神さまの祝福を忘れ、アブラハムを呪うような罪を犯す私たちは父なる神さまから呪われ、滅ぼされるべき存在なのです。

<粉飾されない系図>
先週の様々な報道を通し、私たちの世が混乱していることに言葉を失います。なぜ、イースターの喜びが悲劇になるのか?なぜ、朝食を楽しんでいた場所に爆発が起こり、殺されてしまうのか?なぜ親子で自転車に乗り、青信号で横断報道を渡っただけなのに車にはねられ、殺されてしまうのか?
人類の歴史は、なぜ、こんな理不尽なことが許されるのか?本当に悲しい!本当にくやしい!ということの繰り返しに思えます。同時に、私たちも欲望に負ける。自分が望んでいないのにそのときの雰囲気で罪を犯してしまう。そのとき、私たちは己の弱さにうなだれ、嘆き、過去を消したくなる。当然ですが、誰も過去を消すことはできない。人の目を誤魔化すことができても、神さまの目を誤魔化すことはできません。
そう思って、改めて系図を読む。1節、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」そうです。ウリヤの妻によってソロモンをもうけたダビデの子として御子が生まれてくださった。その事実が私たちに飛び込む。恥ずべき罪を犯してしまったダビデの子として主イエスが生まれてくださった。そこにこそ、私たちの救いがあり、慰めがあり、喜びがあるのです。
御子の系図に登場する人々は、ダビデと4人の女性だけではありません。神さまを忘れ、偶像を礼拝した王たちの名がある。12節にあるよう南ユダ王国が滅び、「バビロンへ移住させられた」つまり、バビロン捕囚の後は、旧約聖書にその名を見つけることが難しい人びとの名がある。かつて王であった血筋が、歴史の書物に記されることのない無名の人びとの中に落ちこみ、消えていく。そのように「消えてなくなってしまった」かと思われるところに、主イエスの名前が刻まれるのです。
 系図が粉飾されることは、よくあることです。何とか、偉人である先祖との関係を自慢したいと家系図を記すときはやっきになる。
しかしマタイは、粉飾どころか人間の愚かな姿を隠さない。民族の祖、王と呼ばれた血筋が、神さまから離れ、あるかないか見分けもつかぬほどに小さく、低く、落ちぶれ果てたところに、神さまは、御子を生まれさせてくださった、と書くのです。
 そして、主イエスの系図から始まる御子の十字架と復活への歩みによって、神さまの救いの約束、旧約聖書のあちらこちらにちりばめられている「彼らは私の民となり、私は彼らの神となる」という約束が成就するのです。

<わたしたちは、神の子>
 弱く、罪深い私たちも主イエスによって、神さまの子とされた。その意味で、カタカナばかりですが、主イエスの系図は私たちの系図。異邦人の国で御子の赦しを信じ、御子と共に歩む私たちの系図になった。そのような私たちの中に、呪われるべき者として御子はお生まれくださったのです。
 罪の血筋の私たちの中へ、その中でも最も低いところへ立つために、一つのしみもない、全く罪のない御子が降りてくださった。そのような主イエスの愛と赦しと憐れみの福音を、マタイは、系図を示すところから書き始めるのです。
 系図は、そこに記される者が何者であるかを教えます。私たちに繋がる血筋がどんなに汚れていようとも、主イエスが十字架で流してくださった血潮が私たちに流れ込み、きよめられ、私たちは主イエスのものとされた。主の妹、弟とされ、その結果、神さまの子どもとされたのです。
私たちは過去を消そうと考えなくてよい。犯した過ちを悔い改め、私たちの罪を十字架によって赦し、復活によって永遠の命を約束してくださった御子の恵みを心に刻みつつ、与えられた命を主と共に生きることができるのです。
 主イエスは罪の世、嘆きの世に真の救い主としてお生まれくださいました。アブラハムの子、ダビデの子として。その結果、私たちは罪赦された者として神さまを「アッバ、父よ」と永遠に呼べるのです。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・悲惨なテロ、交通事故等により突然、愛する家族を奪われ、嘆きの中にある方々に慰めを注ぎ続けてください。
・体調を崩し、入院生活を強いられている兄弟姉妹、ご自宅での療養を続けている兄弟姉妹、心と体のバランスを崩している兄弟姉妹、お一人お一人を守り、導いてください。どの場所にあっても、復活の喜びを一人一人が常に心に刻みながら、希望をもって与えられた命を歩むことができますようお導きください。
・熱心に求道生活を続けている兄弟姉妹に聖霊を注ぎ続けてください。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年4月21日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第22篇23節~32節、新約 マタイによる福音書 第28章1節~10節
説教題「喜びの朝」    
讃美歌:546、147、Ⅱ-101、Ⅱ-1、533、543
           
<祝福の祈り>
 主イエスの甦りの朝を迎えました。喜びの朝です。私にとって東村山教会で迎える5回目のイースター礼拝を、愛する皆さまと共にささげることが許され、主に感謝しております。喜びの説教を始めるにあたり、皆さまお一人お一人に神さまの祝福が豊かに注がれますようお祈りいたします。

<死の境界線>
 先ほど、朗読して頂いたのは、マタイによる福音書に記されている復活物語です。主イエスが十字架に磔にされ、息を引き取られて三日目の朝。あたりがほのかに明るくなりはじめた明け方。立ちこめた朝もやの中を急ぎ足で墓へと向かう二人の女性の姿から物語が始まります。
 主イエスが十字架で磔にされ、息を引き取られたのが金曜日の午後3時ごろ。ユダヤの暦では、日が暮れると次の日になります。翌日の土曜日は、ユダヤ人にとって、全ての用事や仕事を休まねばならない安息日。よって、主の遺体は丁寧な葬りをする いとまもなく、慌ただしく墓に入れられてしまったのです。
 マグダラのマリアと、もう一人のマリアは、主イエスがあちらの村、こちらの村と旅をして神さまの愛を伝えておられたとき、身の回りの世話をしていました。だからこそ、主が息を引き取られた喪失感は非常に大きなものであったはずです。その二人が、金曜日の夜から土曜日の一日を、どんな思いで過ごしていたことか。きっと、ほとんど眠れずに過ごし、「主の遺体を綺麗に拭きたい」。「腐敗が進まぬよう薬を塗りたい」その一心であったはず。間違っても、「ワクワクする。日曜日の朝になれば、復活なさったイエスさまに会える。日曜日が待ち遠しい」ではなかったはずです。
確かに二人は、主が生きておられた間、主の世話をし、主から直接「三日目に復活する」と伺っていたはず。しかし、二人、また弟子たちにとって、死の闇は決定的であり、死の境界線は決して越えられないと思い込んでいたのかもしれません。
復活を信じる私たちも、愛する人が召され、葬儀の最後に棺にお花を入れるとき、耐え難い悲しみに襲われます。ぴくりとも動かずに横たわる遺体。顔もお化粧を施しておりますが、何となく白いような黄色いように感じる。たとえ、どんなに祈り求めても、二度と開かない目。声を発さない口。せめてもう一回、互いに微笑みを交わしたかった。せめてもう一回、優しい声を聞きたかった。それでも、今はまだ遺体に触れられる。けれども、火葬場に移動し、火葬前の祈りも終わり、火葬が始まると、遺体に触れることも不可能になる。そして、1時間ほどで火葬が終わると骨になる。その瞬間、境界線を突きつけられる。境界線の向こうに死の闇があり、死の闇からこちらに戻ることはできないし、生きている限りはこちらからは向こうへ行くこともできない。境界線を挟んで、底知れない恐怖を死の闇から感じるのです。
 マグダラのマリアともう一人のマリアも底知れない恐怖を死の闇から感じていたはず。だからこそ、死への恐れを和らげるべく、たとえ遺体であっても、主イエスとの対面を望んだ。主の復活を信じ、喜んで墓に行ったのではなく、あくまでも遺体と対面。死の闇を感じ、主の前で涙を流しつつ、「主は死なれた。もう諦めよう。主のお世話ができただけで幸せ。これからは、主との思い出を支えに生きていこう」と、主の遺体に触れることで、自分の気持ちを多少なりとも慰めるしかなかったのです。

<神さまの御業>
 ところが、神さまの御業は、私たちの思いをはるかに、はるかに、はるかに越えて、驚くべき恵みを成し遂げてくださいました。絶対的だったはずの死の闇の中から、境界線を越え、陰府(よみ)を経験された主イエスを全く新しいお姿で私たちに与えてくださったのです。
稲妻のように真っ白に輝く天使が大地震と共に天から降り、主の復活を宣言されました。あまりの出来事に墓の番をしていた兵隊たちは震え上がり、死人のようになったと書かれています。生きているはずの者が死人のようになり、死なれた主イエスが復活なさられたのです。
 神さまの御業(みわざ)は、信じない者にとっては、死人のようになるほど恐ろしいことなのかもしれません。けれども、神さまを信じる者にとっては、まさに稲妻のように輝き、雪のように眩しい輝きに満ちた出来事になるのです。

<走って行った婦人たち>
 それでも、キリスト者の中には、「主の十字架による罪の赦しは信じられる。でも、復活は信じられない」という方がおられるかもしれません。もちろん、「主の復活は信じられない」と公言なさる方はほとんどいないと思います。しかし、心では「御子の復活は、まゆつば」と思っている方がおられるかもしれません。
イエスさまの復活を信じ切ることができない。これまでの常識、これまでの知識、火葬の後の言葉にならない激しい痛みが復活を信じる心の邪魔をする。 
神さまが神さまであることを御子の復活を通してお示しくださっているのに、恵みが余りに大きすぎて、余りに高すぎて、余りに深すぎて、私たちの持っているどんな物差しでも、量りでも、量りきれないために「復活は信じられない」なら、何とももったいない。目の前に驚くべき恵みが待っているのに、「復活を証明することは不可能だから信じない。私は永遠の命を諦め、闇の中で悲しむ。」それは、あまりにも悲しいことです。
 今朝のマタイ福音書の復活物語に登場するマグダラのマリアと、もう一人のマリアは、そのような生き方をしません。闇の中に座り込んでいないのです。二人は恐れつつ、天使の言葉を素直に信じ、立ち上がった。それこそ、心臓をドキドキさせながら、大喜びで、天使に言われた通り、弟子たちに一刻も早く復活の喜びを伝えるべく、死の闇に背を向けるべく墓を立ち去り、弟子たちのもとへと駆け出した。神さまの御業を信じた二人にとって、死の闇は恐ろしいものでも、何でもなくなったのです。
死の闇を背にして走る二人の前に、復活された主イエスが立たれ、言われました。「おはよう」。「おはよう」と訳された原語は、「喜びなさい」とも訳せる言葉です。復活の主は二人に言われました。「おはよう。マリアたち。朝だよ。喜びの朝だよ。死の闇夜は過ぎ去った。神さまが成し遂げてくださった御業を大いに喜びなさい!」二人のマリアは心が躍りました。そして、主の足を抱き、主の前にひれ伏したのです。
主は続けます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

<兄弟たちに>
 復活された主は、二人に「恐れることなく、行きなさい」と命じられました。ここまでは心にスッ入るのですが、次の言葉は、皆さんも少しオヤッ?と思われたかもしれません。次に主は、「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように」と言われました。どこがオヤッ?なのでしょう。
少し前の7節で主の天使は、「弟子たちにこう告げなさい」と命じております。そうです。なぜ、主イエスは天使のように「弟子たち」でなく、「兄弟たち」と言われたのでしょうか?
実は、復活の主が語られた「兄弟たち」は、今朝の旧約聖書の御言葉である詩編第22篇23節「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。」と深い関連があるのです。この詩編第22篇の御言葉は、復活の主イエスが弟子たちをご自分の弟、妹として集めて教会を作り、その礼拝を導いてくださることを預言したものと言えます。
実際、詩編第22篇26節以下に、こう書かれています。「わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。」
ここで語られていることは、こういうことだと思います。「死の危険から救い出されると信じた『わたし』が、神の家である教会で感謝の献げ物をささげ、パンを同胞にふるまい、それを食べて満ち足りた兄弟姉妹が地の果てまで主の御名を宣べ伝えるようになる。」
 死から解放され、死に勝利した主イエスは、主の救いの圧倒的な力を、復活を信じる兄弟姉妹に示された。これから与る聖餐の祝いは、主の救いの記念であり、永遠の生命を喜ぶ祝いの食卓なのです。

<聖餐への招き>
 復活された主は、命じられました。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
 ガリラヤは、主が最初に伝道を始められた場所。漁師であったペトロ、その兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブ、その兄弟ヨハネに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた伝道の拠点。そのガリラヤへ復活された主は、兄弟たちを招き、自分も先回りし、迎えてくださるのです。
主イエスの弟、妹である私たちにとってのガリラヤ、伝道の拠点は教会です。教会にはいつも復活の主イエスが待っておられる。どんなときも主は、聖餐の恵みを与えたい!と本気で願い、本気でその日を祈っておられるのです。 
今朝、勇気を出して、初めて教会にいらした皆さん、また久し振りに教会に来られた皆さんも含め、熱心に教会に通い続けている求道者の皆さんは聖餐の祝いに与ることができません。聖餐の祝いに与れるのは、主の十字架と復活を信じ、主にすべてを委ね、洗礼を授けられた方です。しかし、がっくりなさる必要はありません。恐れることもありません。
たとえ、今朝は聖餐に与ることが出来なくとも、マリアたちのように、主の復活を告げる天使の言葉を信じ、教会に向かって毎週のようにコツコツと走り続ける。主の復活を科学的に証明する必要もありません。ただ信じれば良いのです。主が三度も予告してくださった「人の子は三日目に復活する。」が本当に実現した!と信じる。そして教会に向かって走り続ける。すると、復活の主が「おはよう」と声をかけ、「わたしは、あなたのためにも、十字架で死に、復活したのだ。だから、恐れることなく、安心して、信仰を告白し、洗礼を受け、聖餐の恵みに与りなさい」と招いてくださるのです。
いつの日か今朝のイースター礼拝に招かれたすべての皆さんと一緒に聖餐の祝いに与れるよう、祈りたいと思います。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、私たちに、御子の復活の喜びをお与えくださり心より感謝いたします。どうか、与えられた大いなる喜びが、日毎に確実なものとなり、私たちも確信をもって、宣べ伝えることができますようお導きください。どうか、目に見えるものでなく、主がお与えくださった信仰によって、死に勝利した者としての生活を喜び、主の復活を語り続ける者とならせてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・体調を崩し、入院生活を強いられている兄弟姉妹、ご自宅での療養を続けている兄弟姉妹、心と体のバランスを崩している兄弟姉妹、お一人お一人を守り、導いてください。どの場所にあっても、復活の喜びを一人一人が常に心に刻みながら、希望をもって与えられた命を歩むことができますようお導きください。
・熱心に求道生活を続けている兄弟姉妹に聖霊を注ぎ続けてください。今朝のイースター礼拝に勇気を出して初めていらした方々に、これからもあなたさまの愛と憐れみを注ぎ続けてくださいますよう、お願いいたします。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年4月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第9章22節~23節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第6章11節~18節
説教題「誇るは十字架のみ」、
讃美歌:546、85、139、331、542、Ⅱ-167   
       
<誇るものは>
 今日から受難週に入りました。今週は、金曜日の午後6時から受難日晩祷を行います。十字架で息を引き取られた主イエスを憶え、主の体と血潮からなる聖餐に与ります。そのような受難日晩祷を控えている今朝の礼拝で、私たちは「ガラテヤの信徒への手紙」を読み終えることになりました。今朝の説教題も悩みましたが、ガラテヤ書の講解説教の最後、さらに受難週礼拝でもあるので説教題を「誇るは十字架のみ」と致しました。
そこで、皆さんに伺いたいことがあります。「皆さんには今、誇るものがあるでしょうか?それともないでしょうか?」ご一緒に考えて頂けたらと思います。
「はい。誇るものがあります」という方は、何を誇るものと考えたでしょう?ある人は名門大学を卒業した学歴かもしれません。ある人は有名企業での職歴かもしれません。ある人は健康かもしれません。ある人は結婚し、子ども、孫、曾孫を含む大家族が誇りかもしれません。ある人は知恵が誇りかもしれません。
反対に、「私には誇るものはありません」という方もおられるかもしれません。その中には、このような方がいらっしゃるかもしれません。「先生、それでも、かつては誇るものがありました。夫が誇りでした。両親が誇りでした。でも、今は体力に加え、気力も衰えました。両親に加え、夫も召され、今は孤独です。朝起き、食事をし、夜眠る。この繰り返し。しかも、春は何だか体調が悪い。生きていても辛い。そんな私に誇るものなどありませんよ」と考えている方もおられるかもしれません。
新共同訳聖書で「誇る」と訳された元の原語には「喜ぶ」という意味もあります。たとえ辛いこと、悲しいことがあっても、私たちを支え、喜ばせるのが誇りです。反対に、誇るものを失ったとき、私たちは失望し、生きるのが辛くなる。つまり、誇るものは、私たちにとって大切であり、何を誇り、何を喜ぶのかで、私たちが希望を抱いて歩めるか、あれもない、これもないと嘆きつつ地上の命を終えるか、それほど決定的なことなのです。
  
<パウロの誇り>
ガラテヤ書を書いたパウロは、復活された主イエスの霊を注がれたことで、ガラッと誇るものが変化しました。同じくパウロが書いたフィリピの信徒への手紙に書いています。
 「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。(フィリピ3:5~6)」
ここには回心する前のパウロの誇りが凝縮して書かれています。最初に誇るものは「割礼」です。パウロもそうですが、ユダヤ人の男性は、「神の民である」印として、男性器に小さな傷をつけました。これが割礼です。割礼を施された男性器を確認するたびに、「神さまの民」である誇りを思い起こし、ユダヤ人の仲間と共にお互いに胸を張って歩める大いなる印でした。ユダヤ人の男性は、生まれて間もなく割礼を施されるのが当然でしたから、割礼が施されていないということは考えられないことです。まさに、「神の民である」という誇りは、割礼によって与えられ、割礼こそ「神さまに選ばれた民」のもっとも大いなる誇りであったのです。ですから、主イエスを信じたユダヤ人の男性が、新しく神の民に加えられたガラテヤの人たちに、自分たちと同じ印を求めたのは自然の流れであり、無理もないことだったと思います。
さらにパウロは、「イスラエルの民」、「ベニヤミン族の出身」と記しています。「イスラエル」は神さまから特別に選ばれた種族の契約の名前。「ベニヤミン族」は小さい部族であるにもかかわらず、特別な尊敬を受け、さまざまな理由から名誉を受けていた。つまりパウロには、誇るものが溢れていたのです。 
そのようなパウロが、ガラテヤの信徒への手紙の結びに入る。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。(6:11)」震える手、ぼやける視力だったかもしれません、万全ではなかった体を用い、「私の大きな字を瞼(まぶた)に刻んで欲しい」との切なる祈りを込めて記した手紙に、まるで赤ペンや蛍光ペンでグルグルと二重にも三重にも記しをつけるように、「よく読み、心に刻んで欲しい」と記したのが、「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません(6:14)。」なのです。
 
<十字架のほかに>
 おやっ?と思われたかもしれません。そうです。「しかし、あなたがたには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と教会の人たちに「十字架のみを誇りなさい!」と促すのではなく、「しかし、このわたしには」と記しています。
手紙の結びです。「もしかすると、ガラテヤ教会の人たちに、手紙を記すのは体力的にも物理的にも最後かもしれない」と思いながら、人生を振り返りつつ、伝道者へと召してくださった神さま、イエスさま、聖霊の導きを心から感謝し、その感謝をガラテヤの人たちに伝えながら、「あなたがたも、私のように生きて欲しい。割礼でなく、主イエス・キリストの十字架のみを誇り、喜んで生きて欲しい」と祈りつつ、大きな字で記しているのです。
主イエスが同じユダヤ人から異端者と見られ、迫害され、殺されたように、主の十字架による罪の赦し、復活による永遠の生命を信じる人たちも、ユダヤ人から迫害を受けておりました。パウロも書いたように、ガラテヤの人たちに割礼を受けさせることで、迫害から逃れたい!という思いもあったようです。
しかし、パウロは妥協しません。「どのような理由であっても、割礼を受けることは、イコール肉の印を誇ることになる。その結果、主イエス・キリストの十字架が何の意味も持たないことになる」と、語調や表現を変え、また文字の大きさにまでこだわり、粘り強く、繰り返し手紙の中で説いたのです。語ったものを聞いた人が書く、いわゆる聞き書き、口述筆記ではなく、病で痛む手、震える手であったかもしれませんが、決して人まかせにせず、自分の手でひと筆、ひと筆、祈りを込めて書いたのです。
「主イエスの十字架こそ、キリスト者の誇りであり、救いの印。主の十字架だけが、私たちを神さまの民とする力を持っている。主イエスの十字架。これ以上の誇り、喜びはない。かつて私が誇っていたものはすべて、主の十字架にはりつけにされ、全く無意味なものとなった。そればかりか、私たち自身も、主の十字架にはりつけにされたことで、この世の価値観や掟から本当に自由になった。だから、肉体の印である割礼は何の意味も持たないものとなったのだ。」
 パウロが手紙の結びに書いたことは、すべて私たちにも言えます。パウロが書いたように、割礼の有無は問題にならない。なぜなら、私たちも洗礼により神さまの子とされ、新しい命を与えられたから。神さまから新しく創造され、まっさらな命を与えられた私たちは、主に結ばれた神さまの子どもとして歩むことができるのです。

<イエスの焼き印>
私たちにも、洗礼によって新しい命が与えられました。だからこそ、平和と主の憐れみを祈りつつ、パウロは最後に念を押すのです。「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。(6:17)」
パウロの肉体は、こう書かずにはいられないほどに、病にむしばまれ、ボロボロであったかもしれません。肉体の痛みこそ「主イエスの焼き印である」と大きな字で書きながら、「私の痛みは、イエスさまが十字架で味わわれた痛みと同じ!」と肉体の痛みをも喜び、誇っているかのようです。
パウロは語ります。「私に苦しみ、痛みがあるよう、あなたがたにも苦しみ、痛みがある。深い傷があり、迫害に襲われることもある。イエスさまの十字架の苦しみには及ばなくとも、キリスト者の苦しみは、イエスさまと同じ苦しみ。さらに今、私たちの中で生きておられるイエスさまが、私たちと共に苦しんでおられる。だからこそ、私たちはイエスさまの焼き印を身に受けているのだ。」
パウロの最後の願いであり、励ましです。そして、筆を置くときが来ました。パウロは万感の思いを込め、「兄弟たち」と呼びかける。「キリスト・イエスの十字架により、あらゆる苦しみも『イエスの焼き印』と喜び、誇る兄弟たち。新しいいのちを生きる兄弟たち。『ねばならない』からでなく、自由に愛したいから愛する。喜びたいから喜ぶ。平和に歩みたいから平和に歩む。そのような自由な霊、主イエスの霊に生かされている兄弟たち。肉を十字架につけて、『今 生きているのは わたしの内に生きておられるキリストだ』と宣言し、共に歩む兄弟たち。神さまを『アッバ、父よ』と呼び、持ち物を分かち合う兄弟たち。」
そのような兄弟たちにパウロは「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。(6:18)」と祝福を祈り、筆を置いたのです。

<キリスト者の誇り>
今朝の受難週礼拝で、ガラテヤ書を読み終えました。神さまの深い憐れみを感じます。洗礼を受けた者の中で、主が永遠に生きてくださいます。「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を心に送って頂いた者には、主の恵みが永遠に溢れます。何ものも神さまの愛、御子の霊から私たちを引き離すことはできないからです。
皆さんの中で今、激しい痛みを心身に感じている方、さらに「私には何一つ誇るものがない」と嘆いている方がおられるかもしれません。しかし、私たちには誇るものがある。それも、この世でもっとも大きな誇るものも吹っ飛んでしまう驚くべき誇り、驚くべき喜びがすべてのキリスト者に与えられている。それが、主イエス・キリストの十字架なのです。
たとえ、厳しい試練、苦しみ、痛み、悲しみに襲われても、私たちの前には主イエス・キリストの十字架がある。十字架の上で激しい痛み、苦しみ、試練、呪い、悲しみを経験された御子が、今朝も私たちと共に痛み、苦しみ、試練、呪い、悲しみを経験しておられる。しかも、そのすべてに復活によって完全に勝利してくださった。これほどの慰めはありません。そのような恵みが今も、そして永遠に与えられるのです。
ただ一筋に主イエスの十字架を仰ぎつつ、主が与えてくださる信仰、希望、愛を感謝し、神の国を受け継ぐ者として歩める。この恵みこそ、キリスト者の誇りであり喜びなのです。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、生きている時も、死ぬ時も、愛のわざを果たすことができている時も、自分の弱さを嘆くばかりの時も、主イエス・キリストの焼き印を身に帯びた者として、すべての戦いに勝つことができますように。おごりたかぶりを捨て、卑屈な思いに打ち克ち、十字架のみを誇りとして、主にふさわしい、しなやかな強さに生きることができますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・体調を崩し、入院生活を強いられている兄弟姉妹、ご自宅での療養を続けている兄弟姉妹、心と体のバランスを崩している兄弟姉妹、お一人お一人を守り、導いてください。
・熱心に求道生活を続けている兄弟姉妹に聖霊を注ぎ続けてください。
・4月より新しい土地、新しい施設での生活を始められた兄弟姉妹の歩みをお守りください。
・毎週の礼拝を共に守っておられる加藤常昭先生は、今日は鎌倉雪ノ下教会で説教を担っておられます。そのため、礼拝後の誕生感謝を共にすることができませんが、明日90歳となられる加藤先生のこれからの歩みの上に聖霊を注ぎ続けてください。
・学長代行という重責を担っておられる芳賀 力先生の歩みと、新学期を迎えた東京神学大学の歩みをどうぞお導きください。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2019年4月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ダニエル書 第12章1節~4節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第6章1節~10節
説教題「霊に蒔き、永遠の命を刈り取る」    
讃美歌:546、11、250、Ⅱ-1、503、541           

<祝福の祈り>
 2019年度の東村山教会の歩みがスタートしました。週報に書かれているように第64年度、1回目の主日礼拝を愛する皆さまと共に始めることができ、嬉しく思います。1956年2月26日に最初の礼拝をささげて63年が経過。今日から64年目の歩みが始まる。その節目の説教を始めるにあたり、皆さまお一人お一人に神さまの祝福が豊かに注がれますようお祈りいたします。

<柔和な心で>
 さて、昨年8月から読み続けているガラテヤの信徒への手紙も本日と来週で読み終えます。伝道者パウロが愛するガラテヤの人たちに心を込めて、時には激しい言葉を用いてでも、「キリストの福音から離れないで欲しい!」との祈りを込めて書き続けた手紙。その手紙の結びを今日と来週で味わう。
皆さんも大切な手紙を書くとき、しかも、その手紙が最後の手紙、いわゆる遺言になるかもしれないと思えば、その最後に、すでに記した内容であっても、どうしても心に刻んで欲しい!と願うからこそ、改めて記すメッセージがあるはずです。
パウロも手紙の結びに入るタイミングで、「兄弟たち」と呼びかけ、心を込め、「このことを大切に歩み続けて欲しい!」と祈りつつ手紙を書く。そのようなパウロの心からの願いは、「罪に陥った人がいれば、その人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」です。
 「兄弟たち」ですから、パウロが意識するのは当然、ガラテヤ教会の人たち。つまり、不注意にも何かの罪に陥ったのもガラテヤ教会の人たちです。
ご一緒に考えたい。東村山教会に連なる兄弟姉妹のだれかが、何らかの罪に陥ったなら、皆さんならば、どうするでしょうか。もしも、血の繋がっている家族ならば、「あなた、何でそんなことしたの!」と叱責するはずです。しかし、教会に連なる家族の場合はどうでしょう。心で、「この人は罪を犯した」と裁いても、「私以外の誰かがこの人の罪を指摘するはず」と見て見ぬふりをするかもしれません。
しかし、パウロは命じるのです。「無関心でいて欲しくない。あなたがたなら出来るはず。なぜなら、あなたがたは霊に導かれて生きているのだから。柔らかな、そして和やかな心で、罪に陥った隣人を正しい道に立ち帰らせなさい。また、あなた自身も誘惑されないように、悪の道に逸れてしまわないように、自分に気をつけなさい。」
 パウロの勧めは難しく感じるはずです。なぜか?誰でも、せめて教会では、心 穏やかに過ごしたいからです。「教会は職場と違う。ごじゃごじゃした血縁関係のわずらわしさもない。せっかく、心 穏やかに過ごしたいと願い、教会に通い、洗礼を受けた。それなのに、なぜ私が隣人の罪を指摘し、隣人を正しい道へ立ち帰らせなければならないのか?教会では、ことなかれ主義で穏やかに、適当な距離感で隣人と付き合うのが楽だ。」
しかしパウロは、「それは違う」と言う。「もしも、隣人の罪をそのまま放置するなら、あなた自身も誘惑される。ことなかれ主義に徹するなら、あなたもすでに誤った道を歩み始めている。だから、自分に気をつけなさい。」
 では、何の配慮もなく、「あなたは罪を犯した!あなたは間違っている!」と罪を指摘すればよいのでしょうか。罪を指摘するだけならば、罪を責める者と責められる者の顔はこわばってしまう。さらに心もこわばり、最後には、「もうあなたの顔は二度と見たくない!」となり、二人の関係を修復するのは難しくなるはずです。
つまり、「私は間違っていない」、「私は、あの人に比べればキリスト者らしく歩んでいる」と口に出さなくとも心で思うなら、自分の弱さや愛の足りなさを見て見ぬふりをし、自分に嘘をつくことになる。反対に、自らの弱さを素直に認め、愛の足りなさを悔いるならば、そこで初めて、霊の思いが自らの思いと重なるのです。

<互いに重荷を担いなさい>
 パウロは、ガラテヤ教会の人たちを、「霊に導かれて生きているあなたがた」と表現します。「霊に導かれて生きる」とは、肉の思いで行動することではありません。「霊に導かれて生きる」とは、霊の導きによって聴こえる御声を頼りに行動することです。
たとえば、一人では背負えない重荷を前に、途方に暮れている隣人に「大変ですね。本当に。何て言葉をかけてよいかわかりません。でも、少しだけしか背負えないけれど、私でよければあなたの重荷を背負わせてください」と声をかけ、心を寄せ、すべてを導いてくださる霊の働きを信じ、途方に暮れている隣人と一緒に歩み続ける。
 けれども、勇気を出して行動しても、愛の言葉、愛の行為をはねつけられるかもしれません。その結果、「せっかく愛を注いだのに、恩を仇で返された」と泣きたくなる日もあるかもしれません。そうです。互いに重荷を担うことは、根気のいる働きです。
「なんで、この人のために苦労しなければならないのか!」と思う日があれば、「こんなに頑張っているのに、誰も私を評価してくれない。本当に辛い!」と互いに重荷を担うどころか、自分の重荷を担うことも嫌になってしまう。
それでも、洗礼によってキリストに結ばれた私たちは霊に導かれて生きる者とされた。霊に導かれているのですから、互いに重荷を担うことも霊によってできるはず。
 「互いに重荷を担い、愛し合う」。これこそ、主キリストの律法であり、めいめいが担うべき重荷です。互いに重荷を担い、愛し合う心で、犯した罪を指摘され、正しい道に戻されたなら、正しい道に戻された人は、戻してくれた人に感謝し、愛を分かち合う。そこにこそ霊の注ぎと、キリストの平和が生まれるのです。

<霊に蒔き続ける>
 神さまは、全てをご存知です。人から侮(あなど)られることはありません。たとえ今、神さまの御心がわからなくても、いつの日か必ず、「あの日の試練、あの日の痛み、あの日の苦しみは、この恵みのためだったのか」とわかる日が来る。つまり、私たちの言葉も、行いも、必ず私たちの元に返って来るのです。
 それなのに、思い違いをし、「私は常に正しい」と、神さまを神さまとせず、まるで自分が神さまのように隣人を裁く、そのとき、隣人の顔は苦痛にゆがむ。また、隣人を縛るだけでなく、自分をも縛ることになる。そのとき、自分の肉に蒔く者となっている。刈り取るのは滅びです。隣人の心は病み、裁く者の心も疲弊するのです。
 それでもまだ、自分の肉に蒔く歩みを続けるか。それとも、霊を信じ、霊の導きに委ね、飽きずに霊に蒔く歩みを続けるか。確かに、霊に蒔く歩みを続けても、すぐに実を刈り取ることは難しい。途中で嫌になることもある。だからこそ、パウロは宣言するのです。「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実(み)を刈り取ることになります。(6:9)」
この一言は、新年度をスタートした私たちすべての者への神さまからの応援メッセージです。どうしても私たちは疲れてしまう。「どうせ無理!」と諦めてしまう。しかし、神さまは諦めない。「飽きずに励んで欲しい。肉でなく、霊に蒔き続けて欲しい。大丈夫。霊があなたがたを導く。霊に委ね、互いに重荷を担い続けていれば、あなたがたは互いに喜び、平和の実を刈り取ることになる。この実りに至る道こそ、永遠の命を刈り取る道、キリストの律法を全うする道なのだ。」
 どんなに困難な歩みでも、嫌にならず、諦めず、こつこつ、こつこつ、霊の種、愛の種を蒔き続けたい。
 それでも、悲しみの涙、怒りの涙、虚しい涙が止まらない日がある。「こんなことして、いったい何の意味があるのか!すべて無駄ではないか!」と嘆く日もある。けれども、主イエスこそ受難の道、十字架への道を黙々と歩まれた。主の御業を感謝し、信じるとき、主は今朝も私たちの先頭に立って、受難の道、十字架への道を黙々と歩んでおられるのです。
主イエスは、愛を語っても奇跡しか求めない人々にそれでも愛を語り、感謝を伝えに戻って来ない人々にも奇跡を与え、裏切ろうとする弟子たちを励まし、十字架につけろ!と叫ぶ人たちを赦し、神さまであるにもかかわらず、罪なる人として死んでくださった。御子は、そこまでして、私たちの罪を赦された。そのような御子の愛、赦し、霊が、私たちの心に日々、注がれているのです。
 
<永遠の命を刈り取る>
 ただ今から、聖餐の恵みに与ります。主イエスがご自分の肉を裂き、血潮を流してまで霊に生き続けてくださったしるしのパンと杯に与る。聖餐の恵みに与る私たちは、罪の赦しに加え、永遠の命をも約束されているのです。
新しい年度も、霊の導きを信じ、ご一緒に愛の種を蒔き続けましょう。罪を赦され、地上の命に加え、永遠の命をも刈り取ることが約束されたのですから。主イエスが再び来てくださる再臨のとき、蒔いてきた愛の種、霊の種が大きく育ち、たわわに実ることを信じて。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、私たちに日々、「霊」の力を注ぎ続けてください。キリストの恵みを自分たちの生活の中で正しく味わい知りながら、それを証しする生活を新年度もさせてください。主の恵みに真実に生きる教会として、私たちを立たしめてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・2019年度の歩みがスタートしました。主よ、今年度も互いに重荷を担い合い、肉に蒔く教会でなく、霊に蒔く教会としてお導きください。
・4月21日はイースター礼拝、5月19日には春の特別伝道礼拝を計画しております。今日の午後は、伝道委員会の兄弟姉妹がイースター礼拝のチラシを近隣の方々に配布します。喜んで福音の種を蒔き続けることができますよう、お導きください。
・新年度も多くの奉仕者が与えられております。長老、執事、オルガニスト、教会学校教師、礼拝委員、伝道委員、財務委員、奉仕委員、婦人会、壮年会の役員、「ぶどうの木」編集委員、図書係、説教題等の奉仕、聖餐の奉仕、お花の奉仕、音響の奉仕、清掃奉仕、礼拝当番等、見えるところ、見えないところで黙々と奉仕を担っておられる兄弟姉妹を新年度も存分に用い続けてください。また具体的な奉仕を担うことができなくとも、祈りによって教会に仕えている兄弟姉妹を守り、導いてください。
・体調を崩し、入院生活を強いられている兄弟姉妹、ご自宅での療養を続けている兄弟姉妹、心と体のバランスを崩している兄弟姉妹、お一人お一人を守り、導いてください。
・今朝も礼拝に集うことが出来なかった兄弟姉妹の上にあなた様の恵みと平和と祝福を注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。